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第2597日目 〈横溝正史「死神の矢」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 長編「死神の矢」は、娘の結婚相手を候補者3人から選ぶにあたって奇異な方法をその父親(職業:大学教授)が、知己の仲である金田一耕助に開陳する場面から始まる。舞台は神奈川県の片瀬海岸、そのすぐ近くに建つ館。奇異なる方法とは、海上に浮かべた的を浜辺から矢で射て見事命中させた者に娘を与える、というもの。婿候補は3人が3人ともイヤァな感じの連衆で、でもそのなかの1人が矢を的に中てて晴れて婚約者となったのだ。この出来事が発端となって候補者たちは次々に、自分たちが用いた矢で心臓を射貫かれて殺されてゆく。やがて捜査線上にボクサー崩れの男が容疑者として浮上するが、さて果たして真犯人は──? すべての殺人計画が遂行された後、ゆくりなくも明らかにされる連続殺人事件の真相とは……。
 読んでいてどうしても気になってしまうのは登場人物たち、就中大学教授の父親と3人の婿候補、2人のバレエ研修生の女性の口調である。ぞろっぺえというか演技が過ぎるというか、育ちの悪さが滲み出ているというか、どうしても馴染めぬものを感じてしまうのだけれど、横溝正史が本作を執筆した昭和30年代とは現実に斯様な話し言葉が一般的であったのだろうか。
 かれらとは「育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ」(SMAP「セロリ」)が、記録に残らぬ近過去の風俗を知る一助と捉えれば重宝するか。どうしても登場人物の口調が気になるけれど最後まで読み通すのを諦められぬ向きは、「小説は風俗描写から廃れてゆく」てふ三島由紀夫の言など無視して、たとえば現代日本人の喋り方に脳内変換すればよい。
 そういえば辻真先がかつて赤川次郎を論じたエッセイのなかで、ユーモアとは余裕である旨述べていたのを覚えている。「死神の矢」を読んでいて図らずもそれを思い出した箇所のあったことを、この際だから書き留めておきたい。最初の殺人の第一発見者がそれを金田一耕助以下その場に居合わせた人々に伝える場面だ。申しあげます、○○さんはお食事に参ることができないと思います。どうして? 紛失していた矢が見附かったのです。どこで? ○○さんの胸に刺さっていました。ああ、なんてこったい! ……このやり取りがわたくしをしてジーヴスとバーティのすっとぼけたやり取りを想起させ、それに触発されて辻の持論を思い出したのである。
 勿論第一発見者は気が動転していたからあんなピントのずれた会話になってしまったのだ、といえばその通りなのだが、英国ユーモア・ミステリの雄、コージー・ミステリのお手本というてもよいA.A.ミルンの傑作『赤い館の謎』を横溝正史が愛してやまなかったことを念頭に置けば(ついでにいえば金田一耕助のイメージは『赤い館の謎』の主人公、アンソニー・ギリンガムであった)、最初の殺人事件の第一報を伝えるこの場面を執筆するにあたって著者は、或る種のオマージュをそこに託したと想像を逞しうすることだって可能だ。更に想像を膨らませてあり得る可能性を探索すれば、……いや、これは後日の話題に譲ろう。
 金田一耕助は開巻1ページ目から読者の前に姿を現して、知己の大学教授と婿選びの方法を聞かされて新ユリシーズの挿話を思い出したりしている。つまりかれは最初から事件に巻きこまれるべくしてそこへ招かれていたのだ。
 が、例によって例の如く自分の周囲で進められてゆく殺人劇を未然に防いだり、犯行前の犯人を挙げることはしない。最早読者にはお馴染みのパターンで、或る意味に於いて安全運転を遵守する名探偵である。そのくせ人目に立つぐらいうろうろして証拠を掻き集めているのだから、クライマックスにて婿となる男が金田一の能力を疑う台詞を吐いても読者は苦笑いせざるを得ないのだ。
 然様、まるで金田一耕助という男は名探偵というより連続殺人の見届け役である。真犯人のやむにやまれぬ想いを忖度し、その計画が完遂されるまで犯人検挙に手を貸さない、とでも決めているかの如く──。むろん。真犯人の犯行動機にじゅうぶん情状酌量の余地があると判断された場合のお話だ。1つ1つの事件を点検してゆけばそんなことはないのだろうが、一読者としてはそんな印象を拭えないのである。◆
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第2596日目 〈横溝正史『迷宮の扉』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 横溝正史が執筆したジュブナイル小説はいわゆる<ヨコミゾ・ブーム>を承けて角川文庫に編入された。その際同じ作家の山村正夫によってリライトされたが、①文体を「ですます」調から「である」調に変更、②差別用語/表現等を書き換え、③章見出しの追加、④一部作品に於いて探偵役を由利先生から金田一耕助に変更、以上を大きな柱としている由。
 その後ジュブナイル小説群は角川スニーカー文庫に移籍して現在は全点絶版。うち幾つかの作品は21世紀になってポプラ・ポケット文庫で文体を「ですます」調に戻して復活したが、こちらもいまは版元品切れ状態となっている。しかしながら角川文庫のリライト版は今日でもKindleにて電子書籍版が購入可能だ。
 『悪魔の降誕祭』に続けて読んだ本書『迷宮の扉』は、そんなジュブナイル小説の角川文庫リライト版の1冊である。
 一巻の殆どを占める表題作は、遺産相続を巡る骨肉の争いに巻きこまれた金田一耕助の活躍を描く。
 粗筋を架蔵文庫の裏表紙から転記すると、──金田一耕助の行く所、必ず事件あり。三浦半島巡りを楽しんでいた金田一は、突然、嵐に遭い、竜神館という屋敷へ逃げこんだ。だがその直後、一発の銃声と共に誰かが土間に倒れこんできた。うつぶせになった男の背中の左肺部のあたりから血が噴き出していた。殺された男は、毎年この屋敷の主、東海林日奈児少年の誕生日に、カードを届け、ケーキを切りに来る黒づくめの男だった。不審に思った金田一が尚も聞き込もうとしたが、日奈児の後見人降矢木は、なぜか言葉を濁した……。/莫大な遺産をめぐる人々の葛藤をテーマに、完璧なトリックと緻密な構成で描く傑作本格推理──以上。
 んんん、なにやらわたくしのまとめた粗筋の方が良さそうな気がするが、長いから今回は割愛しておこう(←負け惜しみ)。
 その遺言状の内容や相続(予定)人を擁する家族間の相克など、かの『犬神家の一族』をわたくしは思い出してしまうのだが、こちらはそれよりもずっと軽量級。良くも悪くもこぢんまりとまとまっているのだけれど、それが却って幸いしたか、横溝正史の小説技法がぎゅっと詰まった一級品のエンタメ小説に仕上がっているのだ。かれのストーリーテラーぶり、ページターナーぶりは大人向けのミステリよりもこちら、ジュブナイル小説の方でより堪能できるというてよいだろう。
 本書は他に「片耳の男」と「動かぬ時計」という短編2作を併収する。どちらも毎年の贈り物が物語の中心となる点で共通するが、むろん内容にまったくつながりはない。前者は犯罪物、後者はファンタジーである。いい添えれば両作いずれもシリーズ・キャラクターの登場しない、ノン・シリーズ短編。読み切り短編であるのも手伝って2作には一切の夾雑物なし、寄り道なし、幕が開いたらあとはもうただひたすら結末へ向けて突っ走ってゆくのみ。言葉を選べば、勢いに満ちた作品である。
 某新古書店でなにを思うことなく購入した1冊だけれど、斯様な小説をこの度読めたことがとてもうれしい。横溝正史にこうしたジュブナイル小説があるってことを、不勉強な身ゆえについこの間まで知らなかったもの……。
 ──未読どころか本さえ手にしていないけれど、横溝のジュブナイル小説には<怪獣男爵>なる悪漢が登場するシリーズがある、と仄聞する。『迷宮の扉』でこのジャンルの愉しさを知ってしまった以上、遅かれ早かれそちらへも食指を伸ばすことだろうね。と思うてオークション・サイトを覗いてみると、やれやれ、バラで殆どの作品が出品されているではないか……! 大人向け作品と並行して、ゆっくり愉しみながら読んでゆこう。◆

 ◌初出
 「迷宮の扉」:『高校進学』昭和33/1958年01~12月号
 「片耳の男」:『少女の友』昭和14/1939年09月号(初出時題名「七人の天女」)
 「動かぬ時計」:『少年画報』昭和02/1927年07月号
 初出誌については「TomePage」内「横溝正史小説リスト」並びに横溝正史研究サイト「横溝正史エンサイクロペディア:横溝正史ジュヴナイル作品 -リスト補遺暫定版-」を参考とさせていただいた。記して感謝申しあげます。
 殊後者はわたくし自身横溝作品を読み進めてゆくにあたり他サイトと併せて常に恩恵を被っているサイトである。□
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第2595日目 〈横溝正史「霧の山荘」を読みました。或いは、「Pホテル」とは本当に「軽井沢プリンスホテル」のことなのか?〉 [日々の思い・独り言]

 小説家は自分のよく知る土地を舞台にする。横溝正史とて例外ではない。むしろ横溝はよく知った土地を事件発生の舞台に、積極的に採用し続けた作家として最右翼に連なる人物ではないか。岡山県然り、世田谷周辺然り。そうして此度は信州を……。
 中編「霧の山荘」の舞台は戦後別荘を構えた軽井沢である。横溝正史と信州地方のつながりは古く、昭和8年の大喀血により転地療養を余儀なくされた頃に遡れる。富士見高原や上諏訪などを転々としていたことが、かれとこの地方の馴れ初めとなり、創作の上では短編「鬼火」や長編『犬神家の一族』といった憎悪劇に結実し、実生活に於いては戦後、軽井沢へ別荘を構えるに至ったが、「霧の山荘」はまさしくその軽井沢、就中別荘のある中山道(や北陸新幹線、しなの鉄道線)を跨いで広がる南原という地を舞台に据えた。
 もっと絞りこめば本作の舞台となる別荘地は中山道の南側一帯で、晴山ゴルフ場や軽井沢ゴルフ倶楽部を擁す地域。作中の記述に従えば、6万坪の敷地に40軒ばかしの別荘が建つのみの、「K高原でもちょっと別天地になって」(P222)いる場所だ。ちなみにこの界隈、現在では企業や大学の寮や保養所といった施設が集まるが、なお周囲に古くから所有されている別荘も散見される。
 さて、わたくしことみくらさんさんかはワクワクしながらこの中編を読んでいる最中、ふと疑問に思うたのだ。金田一耕助が事件の依頼を受ける前から滞在するホテルについて、である。
 金田一が泊まる「Pホテル」は軽井沢プリンスホテルであろう、というのが横溝ファン、金田一ファンの間では通説らしい。それに疑いを持つ向きはないようだ。
 プリンスホテルとは西武資本のホテル・チェーンだが、「霧の山荘」が『講談倶楽部』に発表された昭和33/1958年当時、西武資本のホテルがその名称に「プリンスホテル」と冠していたのは高輪と赤坂のみであった。
 軽井沢プリンスホテルの前身は昭和25/1950年開業の晴山ホテルといい、軽井沢プリンスホテルが開業するのは昭和48/1973年。両者が経営統合を果たすのは更に下って昭和52/1977年のことだ。その際晴山ホテルは軽井沢プリンスホテル晴山館へ改称された(現在は「軽井沢プリンスホテル ウェスト」として営業中)。
 従って本作の発表当時は「軽井沢プリンスホテル」なる名称のホテル、この地に存在しないはずなのだが、──
 されど「Pホテル」は執筆当初からの称であった。初出誌を披見する機会こそなかったものの、改稿前の原型作品を集めた『金田一耕助の新冒険』(光文社文庫)には「霧の別荘」という、「霧の山荘」のオリジナル・ヴァージョンが入っている。『講談倶楽部』昭和33年11月号初出のそれには既に金田一の滞在先として、「Pホテル」の名称がたしかに明記されており。
 となると、「Pホテル」とはやはり現在の軽井沢プリンスホテルを指すのか、それとも他に斯く記されるホテルが軽井沢には他に存在したのか。わたくしにはその点こそが本作に於ける最大級の<ミステリ>である。よって不肖わたくしも探偵に身をやつして調査し、近日中にその結果報告を別途一稿を草して読者諸兄にご報告する予定だ。それがたとい無残な結果になろうとも、……。
 ……ああ、「霧の山荘」でしたね。忘れていました(おい)。では以下、簡単に(おい!)。

 深い霧の底にへばりついたような別荘地の一角で、金田一耕助は途方に暮れていた。30年前の未解決事件について相談したいから、と招待されたサイレント時代のスター女優、紅葉照子の山荘に赴こうとしていた途中の迷子である。やがて到着した依頼人の別荘でかれは、案内役のアロハ・シャツと共に紅葉照子の刺殺体を発見する。すわ、とばかりに別荘の管理人の許へ走って戻った金田一は目を疑った。別荘のなかにあった依頼人の死体も怪我で動けなくなっていたアロハ・シャツの男の姿もそこにはなく、殺害現場となった別荘は小綺麗にされているばかりか依頼人の妹と名乗る老婦人が住んでおり。そうして翌日、別々の場所で紅葉照子とアロハ・シャツの男の死体が発見される。
 ……金田一耕助は考える、どうして紅葉照子の死体は別荘内から屋外へと移動されただけでなく着物を脱がされていたのか、紅葉照子の本当の殺害現場はどこなのか、どうしてアロハ・シャツの男まで殺されなくてはならなかったのか、30年前に紅葉照子の身辺であったという未解決事件とはなんなのか、そうして勿論、真犯人は誰か、殺害の動機と手段は、単独犯なのか共謀者があるのか……金田一耕助は例によって例の如く、スズメの巣のようなもじゃもじゃ頭を引っ掻き回しながら、等々力警部や地元警察と共に事件の真相にゆっくりと迫ってゆく。徐々に判明してゆく事件の顛末や如何に──。
 ネタバレという程のことではあるまいから書いてしまうと、金田一が目撃した紅葉照子の死体があった別荘と彼女の実妹が住んでいた別荘は別々の建物である。そのあたりは正直なところ、読んでいれば薄々察しのつく話だ。事実が判明しても、ああやっぱりね、と頷くのが関の山。むしろ問題となるのは、どうして他人の別荘で紅葉照子は殺されていなくてはならなかったのか、という点だ。
 じつはこれこそが犯人の動機や殺害方法につながる<謎>であり、同時に金田一を巻きこむきっかけとなった30年前の未解決事件の真実を探る<突破口>でもあるのだ。TBS系列で放送された本作の長編ドラマ(いわゆる2時間ドラマですな)ではこの未解決事件をクローズアップしているが、原作ではほんの添え物程度でしかないことに「霧の山荘」を読み終えた方は或る種の拍子抜けを覚えるかもしれない。
 要するにこの事件、紅葉照子の芝居っ気と茶目っ気、加えて悪戯心が引き金となって起こったのだが、子供のような彼女の虚栄心へ巧みに働きかけた犯人の才智が警察は勿論、金田一耕助の推理も狂わせてしまったのだ。
 されど悪事はかならず露見する。捜査の過程で金田一は小さな綻びを幾つか見出す。そうして或る推論の下に罠を仕掛ける。というよりも、敢えて置きっ放しにして置いた<餌>に犯人が喰らいつくのを待つ。
 当然犯人はその<餌>に引っ掛かり、見事御用となるのだが、思わずぞくりとする場面がそのあとに待っている。自白のあと共謀者のヘマを詰って詰ってまるで反省の色もなく、あたかも自分が法に触れる事件を引き起こしたとはつゆ思うていない素振りだ。21世紀の今日でもお馴染みな場面だろうが、なんだかやるせない思いに暗くなることである。と同時に本作に於いていちばん気に入っている場面であることも、備忘のように書き留めておこう。
 もし可能であるならば本作を読み終えた方は、前述した短編集に収録される原型短編や古谷一行主演の同題ドラマを鑑賞されては如何でしょう。有意義かは別にして、なにか思うところある時間は過ごせると思います。◆
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第2594日目 〈横溝正史「女怪」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 いやぁ、このタイミングで読むべきではなかったかもしれない、と猛烈な反省を自らに強いたのが、一昨日昨日と読んでいた横溝正史「女怪」であります。
 例によって金田一耕助シリーズの一編ですが、こいつが他と較べてちょっと異色なのはこの名探偵が想いを寄せた女性が渦中の人となる、その点に於いてであります。金田一が懸想した女性はシリーズ全作を通じて僅かに2人、1人は『獄門島』の鬼頭早苗、もう1人が本作の持田虹子であります。
 どちらについても(当然)想いが報われることはありませんでしたが、それでも敢えて類推を試みれば金田一の心により深く、かつ癒やし難い思い出を残したのは、この持田虹子の方であったでしょう。
 虹子からの依頼によって彼女の身の回りに起こっている事件を捜査する金田一。その過程でかれは、これまで知ることなしに過ごしてきた現実──即ち虹子の来し方と否応なく向き合い、そこへ塗りこめられた彼女の「かなしみ」と「るさんちまん」に気附かされ、閉ざされた闇のなかから浮かびあがった真相を他ならぬ虹子本人へ報告せねばならぬ立場に置かれる。
 おそらく金田一としても、できるならば伝えずにおきたい、かりに伝えるとしても虚偽の報告を提出したい、と願うたことでしょうが、しかし金田一耕助の職業は「探偵」、白日の下に明らかとなった事実を報告する義務が課されているのでした。断腸の思いで真相を報告した金田一は折り返し届いた虹子からの手紙によって、すべてに終止符が打たれたのを知るわけですが、その際かれを襲ったであろう喪失感と後悔の思いは如何ばかりであったろう! 泉鏡花の「夜行巡査」の如く、私情に従うことままならぬ立場の者は職務と割り切る他ないとすれば、余りに惨めであります……。
 さて。冒頭にて「このタイミングで……」と呻いたのは、恋する相手の将来/幸せを願うと一歩引いて見守ることを選んでしまう金田一耕助に、事件が解決したあと人前から姿を消して放浪の旅に流離う金田一耕助に、嗚呼と嘆息してわが身になぞらえてしまうたがゆえのことでした。まぁ一言でまとめれば、生傷に塩を塗られたのみならず刃物で容赦なく抉られたような気分なのであります。ぶるぶる。
 読後にちょっと調べて知ったのですが、──いまはどうだかわからないけれど──以前はこの「女怪」という短編、どうにも評価の芳しくない作品だったようであります。というのも金田一耕助があろう事か恋をして、挙げ句に傷心旅行に出てしまう点を、どうにもお気に召さぬ愛読者たちが存在していたらしい。
 金田一耕助を女性の手から守る会、なんて組織があったとも仄聞しますので「女怪」の評価がよろしくないことも納得ですが、なんだかこうした点に、金田一耕助がシーンの最前線で活躍する現役の名探偵であった時代、どれだけの人々がかれの探偵譚に熱を上げ、それを求め、また人気を博していた、その一端を知るようでわたくしは興味深くかつ面白く思うのです。『ストランド』誌で連載されていた時分のシャーロック・ホームズ譚とそうした点ではじゅうぶん比較対象の研究材料になると思うのですが、もうこのような研究はされているのでしょうか。
 とまれ、『獄門島』と「女怪」というシリーズ初期の2作に於いて金田一耕助からは以後<恋愛>の要素は省かれましたが、その他の点で人間味をどんどん増してゆきながら、舞いこんだ数々の事件にかかわってゆき、名探偵として江湖にあまねく知られる存在となってゆくのでした。結果的に生涯独身を貫いた様子の名探偵・金田一耕助ですが、シリーズ終盤にあたる、たとえば『悪霊島』や最後の事件『病院坂の首縊りの家』の時期にもう1人ぐらい、かれに烈しい恋心を抱かせるような女性があっても良かったのではないかな、或いは鬼頭早苗とひょんなことから再会するなんてエピソードがあっても良かったのではないかな、なんて勝手な物思いから妄想が膨らみもするのですが……二次創作の領域に踏みこむことになるこの話題、袋小路に迷いこむ前に切りあげるとしましょう。
 金田一耕助の思いがけぬ姿が露わとなった「女怪」、短編のなかでは「百日紅の下にて」と同じぐらい重要な位置を占める作品ではないでしょうか。◆
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第2593日目 〈横溝正史「悪魔の降誕祭」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 どうしても出勤前に済まさねばならぬ用事のために1時間半近く家を出て途中下車、どうにかそれを片附けて再び通勤電車の乗客となった或る平日のこと。結果として40分以上も早く会社最寄り駅へ到着したのをこれ幸いとばかりに、近隣のオフィスビルに入るスターバックスに駆けこんでコーヒー飲みつつ、鞄から取り出して開いたのは読みさしの横溝正史である。短編集『悪魔の降誕祭』(角川文庫)。同題短編がちょうどクライマックスに差し掛かるところで電車から降りたので、続きが気になって気になって仕方なかったのだ。
 「悪魔の降誕祭」はもしかすると中編というた方がいいのかもしれない。が、海外の現代小説の分量に馴染んでしまった身にこの作品を中編といわれても違和感があるばかりなので、多々異見はあると承知しがらも短編とわたくしは称して譲るつもりはない。
 おっと、話が脱線したようだ。軌道に戻そう。
 読みさした箇所はまさしく真犯人が金田一耕助の策に嵌まって服毒自殺を果たした箇所であった……即ちこの名探偵による全貌と真相のお披露目はまだされていないという、そんな場面。宙ぶらりんな、もやもやした気分を抱きながら続きを読みたいがためだけに立ち寄ったスタバにて、改めて真犯人が金田一の策に陥れられたあたりから読み始め、そのまま最後の一行最後の一文字まで一気呵成に、一心不乱に読み進んだ。
 歪な情念が生んだ世にも醜悪な連続殺人の物語に翻弄されながら、興奮のまま巻を閉じたわたくしの耳に谺するのは、真犯人が口走った断末魔の捨て台詞。お前如きに捕まるものか! 怖気だつその台詞はしかしながら、極めて計算高く残忍狡猾な真犯人には打ってつけの、これ以上相応しいものはない去り際の一言といえよう。お前なんかに捕まってたまるか!
 金田一耕助シリーズに毒を呷って自殺する真犯人は幾人も登場する(クリスティ作品同様、横溝作品に於いても服毒自殺或いは毒薬を用いた殺人は相当数を占めるらしい)。『犬神家の一族』、『悪魔の手鞠唄』がすぐ思い浮かぶ例だけれど、いずれにしても真犯人が自らの進退の幕引きをするとき、毒を呷りはしても取り乱したり醜態を曝したりするのが専らであった。皆一様に、静かに、厳かに、或る種の誇りさえ抱きつつ退場していったのだ。
 翻って本作の場合は如何か。「悪魔の降誕祭」の真犯人はその系譜に列なることを作者自ら禁じたかのような、救いようのない悪党ぶりを最後に発揮して死んでいった。およそ小説を読んでいて犯罪者の自殺に快哉を叫んだりはこれまで一度もなかったわたくしだが、殊本作に於いては記憶する限り唯一の例外となったことを事の序にご報告しておこう。内なる醜悪に顔を歪めた邪念の権化──「悪魔の降誕祭」の真犯人を一言でいい表すなら、およそそんな感じか。
 そうして事件は幕を降ろし、あとは金田一耕助による真相のお披露目を残すのみとなるが、かの捨て台詞によってのみこの作品は記憶されるのでない。むしろ警察を前にした金田一が真相説明する場面の言葉の端々に塗りこめられた、真犯人への情け容赦なき批判の口吻にこそわたくしはこの一編の真骨頂を見出す。金田一にとってこの「悪魔の降誕祭」事件がどれだけ忌まわしく汚らわしく同情の余地を残さぬ事件であったか、容易に想像できようというものだ。
 真犯人があの場で毒を呷って自殺するってことをあンた本当に考えなかったのかね、と呆れ顔に問う警察に金田一がなにも答えず、おそらくにこにこしながら、或いは昏い眼を彷徨わせながら、ただ沈黙を守っている点は、誠に心胆寒からしむる。或る意味でこの件りこそが本作にていちばん背筋を寒くさせられるところだ。多言は費やさぬ。どうか読者諸兄よ、これを契機に本屋へ走り、「悪魔の降誕祭」をじっくり読み耽って同じように驚嘆かつ厳かな戦慄を味わっていただけぬだろうか……。
 未来のことを確約することはできないが、たとえば1年後にでもマイ・ベスト横溝作品を選ぶようなことがあったなら、きっと「悪魔の降誕祭」はその候補に名乗りをあげ、リストの一角を占めるに相違ない。すくなくとも本稿の第二稿を書いている現時点では好きな短編ベスト5に入っているのである。まぁしばらくはここから追い出されることはないでしょうな。◆
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第2592日目 〈改訂版と差し替えました。〉 [日々の思い・独り言]

 皆様、1ヶ月ぶりのご無沙汰です。
 前回第2591日目の原稿を、すこしばかり改訂を加えたヴァージョンに差し替えております。
 宜しければ読者諸兄にはご閲読願いたく、改めてお知らせさせていただきました。
 なお、本日から「マカバイ記 一」を再び読み始めました。◆
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第2591日目 〈おお、みくらさんさんか、おまえは狂っている、愛がおまえを狂わせている。〉暫定決定稿 [日々の思い・独り言]

 風邪を引いて会社を休まなくてならなくなった5日間(註:インフルエンザでなければインチキエンザでもない)、熱に浮かされること度々で体温計で測ってみれば38.2度を平均値としていっこう下がる気配もなく、どうにか辛い体に鞭打ち病院へ行けば「悪質な風邪」と診断されて取り敢えずは流行性感冒でも花粉症発症でもなく胸を撫でおろしたはいいけれど、そうしたら自身の勤怠が不安になって(=給料が下がる)不調を訴える体を動かして出勤を夢想するも実は単なるバイオ・テロ行為に過ぎないと気附かされては諦めざるを得ず、己の管理怠慢から実現した休暇を満喫するより他になく、床に伏しつつ調子の良い一刻を狙って読み止しの探偵小説を繙き、名探偵氏の目にもあざやかな推理と肝を潰すような真相に仰天したのが悪かったのか、再び熱は急上昇を始めて、「病人に探偵小説は禁物じゃ」とぼやいて嗟嘆して後、おとなしく病人に戻ることにした、皆様たいへんお久しぶりな本ブログの管理人(?)、みくらさんさんかであります。
 リハビリも兼ねてワン・センテンスの文章で始めてみたが、さてさて、上手くいったかどうか。<情>と<技>が幸福な一致を見せればこの種の文章、或る意味物書きにとって最強の武器になろうけれど、しくじったら目も当てられない惨劇をもたらすという点で両刃の剣であることは否めない。誠、文章道は険しく厳しくされど愉悦に満ち満ちていることよ。
 ああ、熱にうなされて1週間会社を休んだ、という話だったね。ほう、いまはどうか、と訊ねてくれるのか、わが友、モナミよ。
 そうじゃな、いまは……すっかり平熱となり、まだ怠い体を引きずりながらもどうにかぶじに自宅と会社を往復するだけの、無味乾燥と雖も凪いだ海のように静穏な毎日に戻っている。まぁ本調子でないのが祟ったせいか、いろいろあったけれど、ぼくはだいじょうぶさ、と嘯いて、まだまだ放談は続きいつ本題に入れるか、正直なところわたくしの知ったことではない──なんてね(おい)。
 さて。
 本ブログの更新がしばし滞っていた間もわたくしは文章を書くことをサボっていたわけでは、ない。本格的な再開を視野に入れて原稿を書き溜める努力はしてきた。たとえば日常の記憶を留める上記第一部の如き文章や、或いはレビューの類の筆を執っていた。それらのうち或るものは投稿されてお披露目されるのを待つだけとなり、或るものはお披露目に値せずと判断して仕舞いこみ、或るものは幾度となく筆を執ったが結局まとめられずに放り投げてしまっている。
 じつは最後のパターンがいちばん厄介なのである。未練がましく筆を執っては投げ出すを繰り返し、完成に向けて取り組むことも諦めて仕舞いこむこともできないままいたずらに日ばかりが過ぎてゆき……。しかもそれらの過半がミステリ小説の書評というか感想文なのだから、始末の悪さについてはちょっとどころの騒ぎではない。
 読み終えてから時間が経つと、断片的な感想や原稿の下書きめいたものがあっても、それを基にして第一稿を仕上げることに難儀を感じてしまうのだね。まぁね、読了から何ヶ月も経っていたらそうなるのも無理ない話なのだが……それでもわたくしは、瑕疵だらけであっても第一稿を仕上げるために足掻きたいのである。然様、内浦に住まうみかん色の髪の毛を生やした女の子のごとく、やれるところまで足掻いてみたいのだ。
 もう好い加減、固有名詞を出してしまうと上記に該当する筆頭は綾辻行人『霧越邸殺人事件』完全改訂版(角川文庫)である。出版された全判型を買い求めてしまう程に大好きな作品なのだが、もしかするとこの「大好き」って想いが筆を鈍らせているのかもしれない。大好きな作品なのだからこそ、ちゃんとしたものを書かなくてはならない、てふ気負いが、却って手枷足枷となってしまっているのだろう。咨、みくらさんさんか、おまえは狂っている、愛の大きさがおまえを狂わせているのだ。
 やはり時間の経過が仇なしているのは最早否定のしようがない。「鉄は熱いうちに打て」──この諺、けっして伊達や酔狂から出た言葉ではないことを、いまこそ実感するね。sigh.
 とはいえ、それは事実のほんの一部を指摘したに過ぎぬ。本ブログにてお披露目してきた幾つもの書評(っぽいもの)は読了してそれ程時間が経っていないうちに第一稿を書きあげてしまったものばかりだ。でも、世にあふれるすべての書評や読書感想文の類がすべて、読後間を置かず一気呵成に、すくなくとも第一稿となる文章が書かれたわけではあるまい。そんなこと、あり得ようはずがない。
 いまは本ブログが本格的な再稼働を始めたときに備えて、往時のように本ブログでお披露目するに値する感想文を書きあげようと、幾つかの小説を棚から引っ張り出してきて悪戦苦闘しているところだ。かつてはすらすらなんの苦労も作為もなく書けていたのが、しばらく満足なものを書いていないといつしか腕は鈍り、筆もなまくらになるのだ──いまのわたくし程それを痛烈に感じ、技能の再習得に脂汗垂らして身をやつしている者もあるまい。
 時間の流れのなかで想いは確実に薄れてゆく。が、それは言い訳であり、詭弁である。技術を習得しなくてはならない。いまはそう真摯に思うている。
 最後に本ブログでお披露目した書評らしきものは、綾辻行人『奇面館の殺人』と中沢健『初恋芸人』であった。以後、どれだけの本を読んで、その半分強について感想を認めたく願い、そうして儚くも夢は散り玉砕の憂き目に遭っただろう。
 横溝正史の金田一耕助シリーズ、連城三紀彦の<花葬>シリーズ、泡坂妻夫や米澤穂信、仁木悦子や小泉喜美子、再びの江戸川乱歩と綾辻行人、ドストエフスキーや太宰治……読書の歓びをわたくしは可能な限り許される限り書き残しておきたいのだ。ライトノベルも含めれば、感想を書き残しておきたい、と切望して止まぬ作品はこれから先も有象無象に増えてゆく筈。どうかそれまで閑職でも構わぬ、定職と定収入に恵まれ、かつ生き存えていられますように……。
 ああ、たくさん本を読みたい!!!◆
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第2590日目 〈『ラブライブ!』舞台となった街への想い。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ脇目も振らずに読書し、小説を書き、専ら特定のアニメを観るのに耽っているのは、現在の自分を取り巻く人間関係の何割かに或る種の不満を抱いているからだ。かてて加えてようやく忘却し果せた一年前の亡霊の残滓とこれから付き合ってゆかねばならぬことに嗟嘆する日々が始まるのを知ったからだ。
 古巣へ再び還るまでぜったい会社を辞めない、と誓っているので夜逃げのように姿をくらますつもりはまるでないのだが、前途へ暗雲が立ちこめ、常に黄色信号が点る事態となったのは間違いなさそうである。警戒せよ、敵は身内にあり。言動に留意して、殺られる前に殺れ。
 要するに毎日毎日鬱勃としたものを感じ、9時から5時までタイムカードで切り取られる以外の時間はひたすら逃避に費やしているのだ。こうなる前から営々と行ってきた読書と創作に一層身を入れ、或る作品を契機に再燃したアニメ鑑賞に拍車が掛かっているのは、そうした所以であった。
 「或る作品」が『ラブライブ!』だということは、これまでにも本ブログにて何度か告白しているので改めてここで表明するまでもないか。その『ラブライブ!』の続編として昨夏放送された『ラブライブ!サンシャイン!!』の第二期が、来月10月から始まるのをわたくしは首を長くして待ちくたびれている次第。それに先立って『ラブライブ!』絡みの文章をもしかすると今回を含めて3週程お披露目することになるかもしれない──むろん、結果を知るのが神のみであることは読者諸兄であればとっくにご承知であろう。
 質の高い楽曲とPVを入口に『ラブライブ!』へのめりこんだのだが、と同時に作品が舞台に選んだ土地がわたくしに馴染みある場所であったことも、実は大きな要因だった。たとえば、──
 『ラブライブ!』(『ラブライブ!サンシャイン!!』に対して「無印」とも)の舞台は、神田 - 御茶ノ水 - 秋葉原のトライアングル地帯であった。かつては世界に名だたる電気街、世紀が変わって後は世界に名を馳せるオタクの聖地、その昔は青果市場が鎮座坐す秋葉原は作中でもよく描かれてお馴染みであるが、かつてそこに駿河台・神保町を加えたペンタゴン地帯はわたくしが学生時代──10代後半から20代前半を過ごして<庭>とさえ公言したことのある、魔都東京で殆ど唯一「ここに住みたいな」と望んでやまなかった一帯なのだった。
 21世紀になって秋葉原近郊──神田須田町あたりは大規模な区画整理と再開発のてこ入れが為された場所だけれど、変貌前後を知る者の目にはそのリアリティとデフォルメの絶妙な融合が感動的に映り、自分が足繁く通った場所、どこかへ行く際に前を通ったことがあるその場所、まだ自分が幼かったころ祖母に連れられて暖簾をくぐった記憶がたしかにある(池波正太郎のご贔屓だった)老舗の甘味処「竹むら」など、アニメ絵になって眼前に提示されたら、それをきっかけに『ラブライブ!』へすっかりのめりこんで抜け出せなくなるのは、もはや必然といえよう。聖地巡礼というわけではないが、神保町で古本を漁るついでにちょっとあちこち懐かしさ半分で散歩してみようかな、と思うてみたり。そうか、もう万世橋のところに交通博物館はないんだよなぁ……。
 そうしてもう一つの『ラブライブ!』、即ち『ラブライブ!サンシャイン!!』だが、こちらも舞台となった土地がきっかけで関心を持ったが、今度の場合は前作の比では正直、ない。向こうが或る意味で<青春が詰まった街>と恥ずかしげもなく述べるなら、こちらは<子供の頃に暮らしていた街>、<第二の故郷>である。序にいえば、定年退職後の人生を過ごすと定めた街でもある。
 『ラブライブ!サンシャイン!!』の舞台は西伊豆の要諦、静岡県沼津市内浦町である。御用邸よりもまだ南、半島の海岸線が南下を一旦やめて西方向へ向きを変えるその場所に静かに広がる漁港の街。綺麗な海岸線に経って北西へ目を向ければ淡島とその向こうに千本松原、愛鷹連峰と富士山を眺められる明媚な街だ。「昔住んだ街」とは語弊があるか、実際にわたくしが住んでいたのは沼津市中で、この内浦には何度か連れて来てもらったことがあるだけなのだから。が、それでもここが沼津市の一角を占める場所であることに変わりはなく、生活面では車がないと不便を感じる場面がしばしばあると雖も市中よりずっと暮らしやすいことは実際訪れてみれば実感できることだ。
 わたくしが住んでいたのは内浦から見れば駿河湾を挟んだ反対側──富士山を見晴るかす方向の海縁の住宅地だったが、夜浜辺に出ると対岸の内浦の光が霞んで見えたものだった。寄せては返す波の音を聞きながら眺める対岸の灯は──海の上に漂う薄い霧の向こうで瞬いている灯はなにやら、そう、ひどく想像と感傷をかき立てられるそれであったよ。もうちょっと成長していればそこにギャツビーのような想いを滲ませることもできたかもね。えへ。
 ちかごろ『ラブライブ!サンシャイン!!』を某動画サイトで毎日一話ずつ観進めて、はやくもそれが三周目となってようやく個々のキャラクター絡みの見方になったり、μ’sの精神をAqoursが継承するまでの流れとかメンバー間の葛藤とか、そんなところに(先達の導きもあって)着目して観るようになっているけれど、最初は専ら自分のなかに未だ生々しく息づいている沼津の、内浦の、伊豆半島の光景に惹かれて、と同時にそこで過ごした子供時代の思い出をなぞるようにして、Aqoursの物語を追いかけていった。
 もちろんそれの主舞台は内浦で、自分はそこに根を下ろして生活していたわけでないから、いちばん感傷をかき立てられるのはたとえば、AqoursのPVを作るのに渡辺“ヨーソロー”曜ちゃんが案内してまわる沼津駅南口の外観やリコー通りの入口であったり、学校での初ライブのチラシを配る北口の光景であったり、或いは津島“ヨハネ”善子が国木田“ずらまる”花丸を避けて画面を横切るだけの怪しい人となり果てていたマルサン書店の内観であったり(もっともわたくしが沼津市民であった頃は仲見世通りのなかではなく、スルガ銀行の横、現在は広大な駐車場になっている場所にあった2階建ての頼れる書店であった)、或いはAqours加入に誘われたヨハネが逃げ回る一連の場面はさりげなく沼津の観光名所巡りになっていたり、と様々なのだが、それでもこの作品が沼津市の中心と対岸の漁港を舞台としていなかったら、幾ら『ラブライブ!』と雖もこうした文章を綴ることはなかったろう。鑑賞するわたくしの胸中に懐かしさと驚きと感激が綯い交ぜになっていたことを、ああ、読者諸兄よ、ご理解いただけようか?
 いまはすっかり聖地化して行政や漁協がこの作品をバックアップしているそうである。駅前にはカフェができ、漁協の案内所はAqoursの紹介所と化し、主人公である高海“普通怪獣ちかちー”千歌が住まう旅館はおろか曜ちゃんの自宅位置にある喫茶店までもが繁盛してやまぬという。昨年はどうだったのだろう、7月末の恒例狩野川の花火祭り(住んでいたマンションのベランダからよく見えたなぁ)にはバスツアーが開催されると共に、Aqoursメンバー(勿論“中の人”たちである)も沼津市役所の道路向こうにある香陵広場でのステージ・イヴェントに登場、アニメエンディングテーマ「ユメ語るよりユメ歌おう」のカップリング曲「サンシャインぴっかぴか音頭」が計4回披露されたそうだ。
 一方で高海千歌の実家が営む旅館のモデルとなった宿の、某旅行サイトに寄せられた常連と思しき方からの苦情も散見されたりする。これはいけないよ。聖地巡礼は遊びではない。消化されるべきイヴェントでもない。あくまで地域振興の手段である。訪れるファンは皆礼儀を忘れないようにしよう。騒ぐ輩に天罰あれ。
 嗚呼、友よ。生涯の友、ワトスン。そろそろわたくしは旅に出ようと思うのだ。いまならわたくしはかの地を訪れることができる。昨年は十把一絡げに同類の輪で括られるのがなんとなく厭で足を向けられなかったのだけれど、いまはもはや<恥は掻き捨て>である。<同じ阿呆なら何とやら>である。即ち、3年ぶりに沼津の地を踏もうと思うのだ。もはやラブライバーと思われても、すくなくとも表面上は平然と取り繕っていられる鉄面皮ゆえに、斯く思われてもなんとも感じぬ。それは同時にここ数年で頻繁になって来ている<隠遁の地>を探し歩く旅でもある。
 それがたまたま内浦とかあの辺りなだけなんだからね! ──か、勘違いしないでよね。わたくしはけっして動揺していない。ほら、君、見たまえ、キーボードを打つ手だって、震えたりしていないではないか。わたくしはラヴクラフトの小説の語り手ではないのだ。
 『ラブライブ・サンシャイン!』に関していえばわたくしの場合、聖地巡礼は子供時代を過ごした懐かしい土地を再訪することである。◆

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第2589日目 〈中沢健『初恋芸人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 BS未加入だと観たい番組を観られず、地上波で流れる予告CMや番組紹介の記事に接する度刹那の憤慨を催すことがある。まあ、その憤慨も一時期よりは鎮まるようになったけれどね。これについてはNHK-BSがクラシック番組を殆どまったく流さなくなったことが大きい。ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートだって、ここ数年は生中継していないんじゃない?
 たいていの番組ならさっさと忘却できるようになったけれど、昨春にBSプレミアムで放送されたこのドラマだけは観たかった──それが松井玲奈主演の『初恋芸人』。……にもかかわらず、特にこちらからアクションを起こして万難尽くして観る手段を講じたわけではない。CSで放送されたら観ればいいや。そうさっさと諦めたことのだ。斯くして時は流れて昨秋へ至り、──
 昨秋? 然様。神保町の一角に店舗を構える老舗新刊書店の文庫売り場の平台に、かのドラマの原作本が平台に積まれていた。半年前の刊行物ゆえ特に新刊として扱われていたわけでも、企画コーナーの一冊だったわけでもない。どうしてあの時期に平積みされていたのか皆目不明だけれど、ドラマ放送時の帯が巻かれたその文庫を見掛けた途端迷わず摑んでレジへ運んだね。
 ……というわけで、中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)を読みました。
 怪獣・特撮ネタがウリの芸人、佐藤賢治(勿論無名)はライヴ後の打ち上げの席で自分のコントを「面白い」といってくれた市川理沙に一目惚れした。そのあと市川嬢からのメールをきっかけとして友達付き合いが始まる。想う気持ちはどんどん大きくなり、交際を熱望するまでになったが、やがて初恋は思いもよらぬ形でピリオドが打たれる──。
 市川嬢の無自覚な台詞とスキンシップが主人公を惑わせたのだ。現実でも男女問わず存在するよね、他人との距離の取り方が下手で誤解を与えてしまう人。佐藤も悩んだが、市川嬢も悩んだのだ。それもあって彼女は、より大きな安心を与えてくれる年上の男性、主人公の先輩芸人と将来を共にするのを選んだのだった。
 読み始めた当初は、単に女性との交際経験がまるでない芸人の報われない初恋を描いただけのお話、と思うていた。事実、第一章を読んでいる最中はそのあまりの初々しさ、あまりの微笑ましさに口許が終始緩みっぱなしで、これを読んでいた頃の通勤電車の車中では緩む口許を隠すアイテムとしてマスクが必需品であった程である。
 その裏返しかしら。詭弁を弄して気持ちを伝えることを先延ばしにし続ける主人公の、その意気地なさと決断力の欠如にひたすら腹が立ち、これでは市川嬢と両想いになったとしてもすぐに別れるわ、と妙に納得させられたのは。一方で市川嬢は欺瞞だ計算だと罵られても仕方ない言動で主人公を翻弄して、挙げ句に最終章の語り手役をかっさらい、美辞麗句で自分の気持ちと選択を正当化する。最終的に二人は、それもエゴと欺瞞ゆえにもはや修正の効かない未来を自らの手で作り出したのだ。この二人、恋人になったり夫婦になったりしないで正解かもしれぬ。
 とはいえ、物語が進むにつれてページを繰る指が重くなってきたのも事実。読了後はずっしりと沈みこんでしまうた。咨、老いらくの恋の只中へある者にこの小説は重くて、苦い。傷口に塗りこまれる塩分濃度ときたら、婚約者の死後四半世紀の間に唯一度、初めて自分から告白して待たされ振られた時分に読んでいた有川浩『図書館戦争』シリーズよりもはるかに濃く……。
 初恋を描いたお話としてはよくある顛末で、筋運びもテンプレート通りなのにもかかわらず、読み終わってみればこちらの心を容赦なく抉ってくるビター・スウィートな小説だった。いやぁ、恋は苦いね!◆
2017年04月29日 23時40分



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第2588日目 〈夏過ぎて、秋は来にけり、よかったな。──無沙汰の挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 ただいま! 夏の間は不定期な更新になって相済まなかった。可能な限り暑い夏は働きたくない、という程にこの季節を疎んじ厭うがゆえ、たとい例年に較べて涼しく過ごすことが出来たと雖も季節が忌まわしき<夏>であることに変わりはなく、為に暑かろうが涼しかろう(寒かろう)が夏であることに変わりはないじゃん、と開き直って過ごしていたら、肝心のブログ更新も週一から二週に一度となり、挙げ句にもはや三週間も停滞しているとなっては弁解の仕様もない。詭弁を弄する準備はあるが、それをやると向こう三ヶ月毎日更新する羽目になるのでそれはやらない(本気にしないよう、読者諸兄にはお願い申しあげる次第)。
 さて。そう小林完吾風に曰おう。ただ、元日本テレビ・アナウンサー小林完吾を知る人がどれだけ本ブログをお読みくださっているか見当が付かないけれど、それはまぁそれとして、話を先に進めよう。GoAhead.
 お休みというかサボっているというか、表現はともかくみくらさんさんかが皆様の前から姿を消していた間、肝心要のわたくし──みくらさんさんかを演じるわたくしの身の上には、まぁいろいろありましたね。たとえば? お話しできる範囲でいえば勤務先が変わり、就業時間が変わった。トータルで見ればお給料はわずかに上がったもののその代償か、通勤場所がこれまでより微妙に遠くなり、従って満員電車に揺られる時間も延びてしまい、もう毎日がわちゃわちゃしております。メリットがあるとすれば昨年のこの時期にも同じことをいうた覚えがあるのだけれど、一日平均の読書ペースが上がり、一冊を読了する日数が短縮されたことでしょうかね。勿論本のジャンルや分量、活字のフォント、ページのレイアウト、諸々加味することになるので一概に「短くなった」とは申せないのですが、均せばそんな具合であります。
 もっとも、そんな状況であったも原稿は書き、ブログ更新にこれまで勤めてきたわけですから上記がまさに言い訳の範疇を出ないことはじゅうぶん承知している。とはいえその間仕事を離れたところで、常なら本ブログのための原稿をしこしこ書き綴っているべき会社外の時間はなにをしていたのかと訊ねられても、わたくしは正解をお伝えすることができない。疚しいことでも後ろめたいことでも公言を憚られる類のものでもないことはご理解いただきたいのだけれど、単にわたくしはその間自分が行っていた作業について口を開いてご説明申しあげる勇気を持たないのだ。持たない、というよりも、敢えてご説明する必要性をまるで感じないだけの話。もっとも、この間に行っていた内緒事はもしかすると、遠からず本ブログにてお披露目できるかもしれない。──が、そのような事態にならないことをわたくしは切に祈っている。お披露目できるということはある意味で箸にも棒にも引っ掛からなかった、という意味なのだから。嗚呼!!
 ところで久しぶりの休日に海ある故郷の或る喫茶店にてコーヒーを飲みながらこの文章を、Mac Book Air相手に弾丸の如くキーボードに指を走らせて綴っているのだが(1179語。ここまで約十五分)、本ブログの今後の、あまり信頼できない展望についてお知らせしておきたい。
 更新頻度が週に一度となるか、あるいは二週に一度か、状況によって流動的になるのは否めないとしても、取り敢えず一ヶ月に最低二回は更新することを約束しよう。胸を張ってわたくしは諸兄に公約する。それが何ヶ月続くかわたくしにもその実さっぱりなのだが(おい)、お披露目するエッセイがどのようなものか、それは概ね決定している。というても3ヶ月近く前に決定稿が仕上がっている小説2冊の感想と、第一稿のまま筐底に秘した『ラブライブ!サンシャイン!!』に関する文章(休日の朝、まだ覚めやらぬまま綴ったものでね)が、その待機リストにあがっている。その他にも執筆予定として以前に予告していた綾辻行人『霧越邸殺人事件』と『深泥丘奇談』全3巻(いずれも角川文庫)、歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)の感想、マレイ・ペライア奏でるバッハ作品への種々の想い、YouTubeで観たサイモン・ラトル=ロンドン響及び超豪華ゲストによるヴァンゲリス作曲/映画『炎のランナー』メインテーマと、チェリビダッケ=ミュンヘン・フィルによるラヴェル《ボレロ》の感想、お馴染みな日常雑記・心象吐露エトセトラエトセトラ、盛りだくさんというもおこがましい平常運転の内容をお届けする予定だ。
 そういうたかて、現時点でどれだけ仕込みが済んでいても結局は<絵に描いた餅>に過ぎないので、これ以上の贅言は慎むことにするが、こんな具合にこれからも更新・お披露目してゆきますよ、というわが身への諫めも兼ねた予告編であることをどうぞ、読者諸兄にはご了承願いたいのだ。
 年度が替わる頃には毎日更新に戻ることができればいいな。久しぶりに読者諸兄の前に姿を現したみくらさんさんかはそんな春風駘蕩なことをお気楽に述べた後、即ちいまこの瞬間、筆を擱いてふらふら駅前の大衆酒場へ遊びに行ってまいります。ビバ!◆

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第2587日目 〈子守唄はワーグナー。その夜見た夢は、……〉 [日々の思い・独り言]

 昨日までは《トリスタンとイゾルデ》を就眠の音楽にしていた。今日は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第一幕、明日はその第二幕……。
 都合三夜、《トリスタン》が子守唄だったわけだが、おお友よ教えてほしい、この間に見た夢のいずれもがもの哀しいそれであったのは偶然と済ませてよいのか否か、を。
 こんな夢だった、──
 一夜めは濡れ縁に坐って背中を丸め、しとどに泣く母を見た。その原因はわたくしだ。母を欺き、放蕩に耽り、遂に彼女の知るところとなっては気も狂わんばかりに喚いてわたくしを詰り、刹那の後には頭を振って泣き明かし。顧みればわたくしは母を悲しませてばかりの人生を過ごしてきた。本来なら孫の顔を見せ、抱かせ、悠々自適とまではいわぬまでも気苦労のない暮らしをさせてあげていられる年齢なのに。家族を作るでもなく、そのために行動するわけでもないわたくしは罪人だ。──そのあと、母の姿は見えなくなって、わたくしは夢から覚めて泣いていた。
 二夜めはYさんを見た。通路を挟んだ両側に小上がりのある居酒屋。顔と名前が一致しない勤め先の人がたくさんいるなか、テーブルを同じうしたYさんが既に退職しているのをゆくりなくも本人から知らされた。もうとっくだよぉ。まわりが賑やかななか、ふと、そのあとで気まずさと焦燥と、心のなかで膨らんでくる或る種の禁忌を覚えた。物理的にはとても近くにいるのに実際はいちばん遠くに……。それからYさんは消えて、わたくしは夢から覚めて空しくなった。
 三夜めは雨のなかをAさんと歩いていた。学校みたいに平べったい建物を出て、門からすこし歩いたところの二股路で他の同僚と別れ、駅に向かう。田舎だ、そこは。樹木から枝が大きく張りだして覆う下の道を、無言で歩いた。小高い山の斜面に作られた道らしかった。右手には麓の街が広がっている。唐突にAさんが口を開いた、戻ってこないでね? 当たり前だ、と即答した。今更、あの不正と策謀と縁故で腐敗した<お友達部署>へ、はたして誰が戻ろうとするのか。罪人の仲間入りはごめんだ。雨はしとしと降り続ける。そのあと夢から覚めて、縁切りして思い出から葬った過去を想うて、万歳三唱したわたくし。
 ──作曲家と愛人の不義の結晶はわたくしの深層意識に働きかけて、顔を背けていた出来事を垣間見せ、もの哀しい思いと悔恨の思いを寝覚めの心に残していった。
 音楽はそのときの心にどのような影響を及ぼすか。いっときそんなことを考えてみもしたが、日々の諸事にかまけているうち忘れてしまった。もしこれらの夢を《トリスタンとイゾルデ》が見させたのなら、ならば《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は失脚と獲得、諦念と礼讃の夢をわたくしに見させるのだろうか──否、そんな単純な話ではよもやあるまい。
 子守唄はワーグナー作曲。いまは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、つぎは《ローエングリン》、《パルジファル》……。さて、わたくしはその夜、どんな夢を見る?◆

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第2586日目 〈かれらが遺してくれたもの──小諸の町を想う。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしは初めて訪れるずっと以前から、小諸の街並みや小諸を取り巻く自然を、見て知っていた。

 二十歳の夏のこと。家族四人で軽井沢にある祖父の別荘にて数日を過ごした後、車で西へ下った。どうして小諸へ行くことになったか、まったく覚えていない。想像するに、なにかの拍子に島崎藤村の話題になり、ゆかりの街が近くにあるから行ってみようか、という流れでなかったか。きっかけはともかく、われらは一夏の家族旅行の〆括りに、信州小諸へ立ち寄ったのだった。
 そう、島崎藤村はこの街に教師として赴任していたことがあった。小諸時代の作物に随筆『千曲川のスケッチ』と詩集『落梅集』がある。『落梅集』は名作「千曲川旅情の歌」、就中「小諸なる古城のほとり」を収めることで知られよう。
 『千曲川のスケッチ』には小諸城址からの景観が、こんな風に綴られている──
 「私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える」
 くたびれた文庫本を久しぶりに書架から出して開き、この一文に出くわしたとき、或る光景を思い出した。初めて訪れたその夏の日よりもずっと以前に見た覚えのある、小諸の街の光景だった。ここで話は冒頭にリンクする。

 小諸に縁ある著名人は、なにも島崎藤村に限らぬ。人によって選ぶ人物は変わるだろう。失礼ながら異郷者たるわたくしには、小諸といえばこの人物しか思い当たらない。マンガ家、小山田いく(1956.6-2016.3)である。
 小諸に生まれ、小諸に育ち、小諸の土に帰った人、小山田いく。氏のマンガの、すくなくとも初期の短編、長編は故郷小諸を舞台にすることが多かった。描きやすく、馴染み深く、愛着ある土地だったからだろう。早過ぎる晩年には小諸市のオリジナル壁紙や「こもろすみれ姫」のデザインを手掛けるなどして、生まれ故郷に貢献されていた様子である。
 長きにわたってシーンの最前線で活動するに氏の作風はちょっと地味だった。しかし、優しさとぬくもりと慈しみにあふれた画風とストーリーには、数はすくなくとも熱心なファンがずっと付いていた。
 氏の亡きあと有志のファンによって「民宿 懐古苑」と「小諸宿 本陣主屋」の二ヶ所をメイン会場にした追悼展が開かれて、連日盛況であったと風の噂に聞く。仕事の関係で足を運ぶことは出来なかったが、無理してでも出掛けるべきだった、と今更ながら後悔している。

 『すくらっぷブック』を読み始めたのは小学校高学年だが、そのあと灰色の十代後半を過ごすことになり、小山田作品すべてを押し入れの奥に突っこんで読まないようにしてしまった。現実に打ちのめされたからだ。その封印期間は高校を卒業して進学するまで続く。押し入れから引っ張り出して再び読み耽るようになるのは、進学先で折口信夫の民俗学に遭遇したためである。
 折口信夫の学問に触れて民俗学へ興味を抱き、自分の住まう土地の伝承や祭事、地方の伝統芸能を調べたり、取材と称して小旅行に出たことが、しばしばあった。そのルーツはどこにあるか、つらつら考えて──みるまでもなかった。兄から借りた『週刊少年チャンピオン』に連載されていた『すくらっぷブック』へ辿り着くより他にないではないか。
 封印を解除したあとで読む小山田作品、殊『すくらっぷブック』は単なる青春グラフィティの枠を大きく越えて、民俗学への関心をかき立てるテキストのようになっていた。信州或いは雪国という馴染みなき地の習俗や地勢などについて知るきっかけを作った作品へと、変貌していたのである。
 たとえば、南国の宮崎生まれで北国に憧れていた他校の転校生を誘って雪の高峰高原へ遊びに来た、第92話「雪ぼっこ」。
 その転校生はかまくらを作って内部の温かさに驚き、かつ喜び、ラスト小諸の街へ帰るときは農家の伜が編んだ藁頭巾をかぶって高峰高原を降りてゆく。
 雪が日常的に降る地方では傘を差すことがあまりないこと、転校生のかぶる藁編みの笠を藁頭巾とか藁帽子などと呼ぶこと、雪のたくさん降った年は豊作と言い伝えられていること、それらを知ったのはこの第92話に於いてである。
 或いは第30話「虎落笛」。浅間山から風の吹き下ろす所には葦簀を作らないと雪が吹き溜まって、出入り口の開閉を妨げてしまう。太平洋岸でしか暮らしたことのない者には、頭では理解できてもまるで実感のない生活の知恵だ。
 同じエピソードでは、葦簀の隙間を通った風が立てる笛の音の如きを虎落笛と呼ぶことも紹介される。この虎落笛が冬の季語であることは、亡き婚約者が遺した歳時記で知った。

 二十歳の夏の日、家族で小諸懐古園へ行った。懐古園には藤村の詩碑がある。刻まれるのは、むろん「小諸なる古城のほとり」である。「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/……」
 が、正直なところ、この詩碑が園内のどこにあったか、記憶は定かでない。インターネットで懐古園の園内図を見てみたり、グーグル・マップやグーグル・ストリートビューを使って仮想散策してみたけれど、なにかが違うように思えて仕方ない。殆どすべての位置関係が、記憶のなかの園内とは微妙に異なっている気がしてしまうのだ。四半世紀も経てば誰の身にも自ずと生じる、記憶の書き換え現象ゆえの違和感だろう。
 そんなわけで詩碑については十中八九、わたくしの記憶違いなのだが、仮想散策をした結果、記憶と現実の間に違うところのない場所が、一つだけあった。懐古園西端の展望台である。
 あの夏、わたくしはここに立って、眼下に千曲川が流れる光景を目にした。グーグル・マップの千曲川は両岸がずいぶんと開けて樹木も少なく、痩せた川に見える。以前は川の色も濃く、両岸は深い緑で覆われていたように思うのだが……。そんな風にパソコンのモニタ画面とにらめっこしながら展望台からの記憶を整理、点検していると、再び『すくらっぷブック』の一コマが脳裏に甦ってくる。
 時は三月、或る日の宵刻。中学を卒業したばかりの主人公、柏木晴(晴ボン)以下クラスの生徒を前に、担任であった正木先生がこの展望台にて最後のホームルームを行う。千曲川の流れを指差して、正木先生はいう──
 「よくここでスケッチしたもんだが…おもしろい川だよ/スケッチする時の気分で絵がガラッと変わっちまう/鏡だな あの水面は……心を映す鏡ってやつだ!」
 残念ながらわたくしは、千曲川を前にしたときの気分、感情、抱えているもの次第で幾らにでも姿面容を変えてゆく水面の表情を観察することのないまま、あの夏、そこから去った。一ヶ所に何時間も腰を据えるのは、家族が一緒の旅行者には出来ない芸当なのだ。
 さりながら、あの悠然とも泰然とも形容できる千曲川の流れを思い出すたび、正木先生の台詞に共鳴する自分がいる。人生は移ろいやすく、消えやすい。『方丈記』を持ち出すまでもなく、行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、なのだ。
 千曲川は人生を映し出す鏡に似ている。異郷者なのに、こんな知ったような発言はおかしいだろうか。でも、小諸を訪れる前からそんな刷り込みがされていたのだ。それが『すくらっぷブック』というマンガの一コマ、台詞に基づくものであることは、もはや改めて申しあげるまでもない。

 『すくらっぷブック』を読み返すたび、描かれる街並みは当時の様子に比較的忠実であった、という、どこかで聞いた文言を思い出す。あれから四半世紀。小山田いくが愛した小諸の街は、いまどれだけ往時の面影を留めているのか。
 主人公の親友、イチノと理美がしばしの別れを前にファーストキスを交わした、小諸駅の「貨物置き場の横をとおるとき 一瞬死角に」なる「だれにも見えない」場所はいまでもあるのだろうか。カメラ屋の娘みっちゃんの自宅兼店舗は改装されることなく、作品のなかで描かれたままに残っているのだろうか。
 或いは──四コマ漫画誌に発表された短編、「約束」で印象的に描かれた千曲川対岸の久保や山浦から眺めた小諸の街並みは、いまも同じように見えるのだろうか。
 この短編では、バーのマスターが客に対岸の久保や山浦に行ってみてはどうか、と勧める場面がある。「小諸は浅間山の麓の街ですから 対岸から眺めると平衡感をなくすようで ちょっと気持ちいいですよ」と。
 このあとに前述の見開き絵が登場するのだが、その折に女性が呟く台詞、「ふ…と からだが揺らいで 心が別世界に転がり込む」、傾くような感覚を味わうためにだけでも、いつの日かわたくしは小諸を再訪しよう、と固く誓った。勿論、あれから何年も経ついまでもその誓いは果たされていない。呵々。
 浅間山麓の街、小諸は傾斜の街である。東北旅行からの帰り、電車の窓外に広がる明かりを見た晴ボンの台詞──「浅間山へ向かってせりあがる光のつらなりは ボクたちの街の光だ/ただいま ボクの街」(第66話「暁着3時31分」)と、藤村が『千曲川のスケッチ』で記した「一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ」、そうして「約束」に於ける台詞と見開き絵。この三つは見事なまでの調和を見せてわたくしのなかにあり続けている。

 あの二十歳の夏の日以来、わたくしは小諸を訪れていない。
 ここへ一緒に来た父も祖父も、もうこの世の人ではない。
 学生だったわたくしは社会人になり、不惑の年齢を超えて未だ迷い続けている。◆
                    
 追記:『千曲川のスケッチ』と「小諸なる古城のほとり」は新潮文庫から、『すくらっぷブック』と「約束」(『きまぐれ乗車券』所収)は『小山田いく選集』から、引用した。□

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第2585日目 〈気にするな、キミたちはなにも悪くない。〉 [日々の思い・独り言]

 相も変わらず朝の首都圏の通勤電車は遅延しまくりだ。曰く、人身事故のため。曰く、急病人の発生/救護を行い。曰く、車内トラブルがあり。曰く、◌◌駅のホームにて異常を知らせる非常ボタンが押されたため。曰く、◌◌駅のホームから人が転落したとの情報があり。曰く、踏切内に車両が閉じこめられたとのことで。エトセトラ、エトセトラ。
 そうして今朝は、線路内に人が立ち入ったとのことで……。当初は全線で運転見合わせ、じきに運転再開したものの大幅にダイヤ乱れが生じており、解消までに数時間を費やす模様。京浜東北線の話である。
 京浜東北線といえば埼京線や小田急線と並ぶ、首都圏の通勤電車に於ける人為的遅延率の上位ベスト・スリー(ん、これはワーストというべきか?)に挙がる路線なのだが──個人的な感想です──、それでも利用客が減らないのは企業密集地帯を通っているから。勿論渋谷、新宿、池袋は外れるけれど、品川や東京、田端で乗り換えれば済む話。
 ところで今日の運転見合わせ→遅延の原因が、線路内へ人が立ち入ったことによるのは既に述べた。最寄り駅のホームでアナウンスを聞いたときは「またか」ぐらいにしか思うていなかったのだけれど、よくよく聞けば場所は浜松町と新橋の間とのこと。え、あすこって高架になっていなかったっけ? どうやれば立ち入れるんだ?
 続報によれば痴漢扱いされた会社員が、華麗なフォームを決めてみせたかはともかく線路内に飛びおりて、命の危険を察した被捕食動物の如くの勢いで逃亡中の由。更なる情報によれば、駅員が本気走りして追いかけたが見失った、仕方ないので運転再開しますが但し徐行運転となります、お急ぎのところ電車遅れまして大変申し訳ございません云々。──車掌氏がなかばキレ気味にそうアナウンスしていたのが印象的じゃった。
 しかしねえ。痴漢扱いされたからって線路に飛びおりて逃げるのはやめてほしいな。数ヶ月ばかり前だったか、板橋の方で同様の報道がされてから今日までに何度となく模倣犯が出没した。真似するな、といいたい。危ないよ。他の電車に接触して怪我したり、それが原因で轢死したらどうすんだ。貴方や貴方のご遺族には何億てふべらぼうな賠償金を払ってゆく能力があるのか。そうしてご家族/ご遺族の被る諸々の迷惑について想像してみるがよい。貴方は卑劣だ。
 もし貴方が潔白で冤罪だというならば、その場で一歩も退かずに異議申し立てをしよう。相手の間違いを正そう。それでも相手が納得せず、あくまで潔白である貴方を痴漢と断定・糾弾するならば、もはや長期戦は避けられまい。相手の言い分が事実ならば、貴方のDNAや上皮組織、(部分であれ全部であれ)指紋が相手の衣服に付着しているはずだ。かならず痕跡は残る。鑑定してもらえ。否、相手がどれだけ喚こうが鑑定させなくてはならない。そうして結果を突き付けて謝罪させるべきだ。
 が、もしも貴方が相手の告発通りの行為を行っていたのなら……素直に白旗を揚げる他ない。変にごねたり、言い訳をしないのが賢明である。貴方や貴方のご家族には冷たい物言いかもしれないが、自分の犯した罪は償うべきだ。それが法治国家の民の義務。むろん、それは法の下した範囲内、モラルを弁えた市民の良識の範囲内での贖罪である。フィクションでお馴染みの、相手の増長や脅迫、強請、たかりに付き合う必要はない、ということだ。
 利用客、鉄道会社の職員、電車の乗務員は毎日毎日、電車の遅延や運転見合わせの連絡に敏感になっている。それらが発生するたび、利用客は憤慨し要らぬ客同士の諍いが発生し、職員は状況把握と振替輸送の手配に東奔西走、乗務員は二転三転するリアル・タイム(ほぼ)の情報と利用客からの突き上げに胃を痛くする。朝の通勤電車は人の心をすり減らす。現代人のストレスの原因の一つ、って絶対これだよなぁ。
 でも利用客の(おそらく、たぶん、きっと)すべては心の片隅でわかっている。今日のような人為的運転見合わせ/遅延の場合、鉄道会社の職員や電車の乗務員にはなんの咎もないことを(自然災害の場合は尚更だ)。当事者以外は誰も彼も被害者だ、と『CSI』シリーズで誰かがいってた。だいじょうぶ、気にするな、キミたちはなにも悪くない。Don’t worry be my happy.◆

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第2584日目 〈ひとまず水はいらない、喉の渇きは収まった;綾辻行人読書マラソンは一旦終わります。〉 [日々の思い・独り言]

 性格ゆえか、そのジャンル、その作家へコミットしてしまうと他を顧みること甚だ珍で、豊穣の実りを享受する一方で幾分かの飽きも生じる。目下のところ、そのような作家がいるかといえば本ブログでもはやお馴染みとなった綾辻行人が該当するが、流石に惰性で読書している部分があるのは否めぬ状況に相成ってきた。
 特定の作家へコミットするとはいっても、一度に全作品を読み倒すことは稀である。必ずというてよい程中断を挟むのがわたくしの場合は、常。その中断がどれだけの期間となるかはともかく、干からびて飢えたる喉も臨界を越えれば水の摂取を拒むのだ。
 夢中になって読み耽り、瞬く間(まぁ、そういうことにしておこうぜ)に消化した<館>シリーズ以後は機械的に本を手に取りページを繰り……殊更感慨など表明するまでもない漠とした気持ちのまま消化してゆき、現在に至っている(※1)。
 為、綾辻行人も次に読む『深泥丘奇談・続々』(角川書店)と『霧越邸殺人事件』完全改訂版(角川文庫)でこの読書マラソンは一旦打ち止め、作家コミット型読書の慣習となりつつある中断期を挟んだ後にその読書を再開したい。即ちこれは、第一期完了と第二期開始の予告なのだ。
 実は第二期で読む作品は秘かに買い集めて準備だけは万端である──然る後に提起される問題点は、その一;再開はいつか? その二;本当に再開されるのか? に尽きるわけで……まぁ、善処する気持ちでいる。購うた本を読まずして古本屋へ処分したくないものね(※2)。
 ──なに、質問がある、とな。承ろう。ほう、お前がこの文章を書いた理由を知りたい、と。成る程。この世には知らぬ方が幸せだ、ということもあるのだが、まぁ今回は特別にお答えしよう(偉そうだよねぇ、何様かしら)。
 『奇面館の殺人』のあとで読んだ作品には個々の感想文を書くだけの、思い入れも情熱も持てなかった──これが答えだ。従って次に本ブログでお披露目されるのは『どんどん橋、落ちた』ではない。具体的にどの作品の感想文を書くか決まっているわけでも、ない。ただ、『深泥丘奇談』全三冊の感想文は書く。もっとも各冊ではなく全体のそれになるけれど、当該作について書きたいことが幾つかあるので、ね。
 綾辻行人読書感想文の本ブログへの掲載は、『深泥丘奇談』或いは『霧越邸殺人事件』を以て第一期の完了宣言を行う。但し、来週の今日それがお披露目されることはない。なぜならば、まだ『深泥丘奇談・続』を半分ぐらいしか読んでいないからだ。八月中にお披露目できれば万々歳である。声高に、胸を張って曰う程でもないけれど、まずはそのようにご報告しておきます。◆

※1
<館>シリーズ後に読んだのは、『どんどん橋、落ちた』新装改訂版(講談社文庫)と『フリークス』(光文社文庫)、『眼球綺譚』、『深泥丘奇談』(いずれも角川文庫)。そうして現在は『深泥丘奇談・続』(同)、並行して『人間じゃない 綾辻行人未収録作品集』(講談社)である。

※2
来たる第二期の準備に購うたのは、<囁き>シリーズ(講談社文庫)と『Another』シリーズ、『最後の記憶』(いずれも角川文庫)である。……あれ、これだけだっけ?□

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