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第2578日目 〈綾辻行人『黒猫館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 “黒猫館”といえばわたくしの世代には悶々とした感情を抱かれる方もおられよう。人里離れた場所に建つ妖しの洋館。そこで営まれる背徳と淫靡の生活。いまにして思えば、人生初のメイドさん萌え……。わたくしが書きたい物語の或る方向に於ける目標は、この、戦前の雪深い山中に建つ洋館を舞台とする物語にあったのだ。それはいまも変わることなくあり続けており──
 ──さて、マクラはここまでにして、綾辻行人『黒猫館の殺人』である。
 宿泊していたホテル火災によって記憶をなくした老人、鮎田冬馬から一冊の手記をあずかった江南孝明と鹿谷門美。それを読んで自分の正体と書かれた内容が事実なのか、回答を導き出して自分に教えてほしい──鮎田は2人にそう依頼した。手記には、鮎田老人が雪深く人里離れた地に建つ洋館<黒猫館>の管理人として独り住まわっていること、館のオーナーの息子とそのバンド仲間が滞在することになったいきさつとかれらの無軌道な言動、かれらが現地で若い独り旅の女性をナンパしたこと、その夜館の大広間でかれらがドラッグに耽り誰かが女性を殺害してしまったこと、その後館の地下で白骨死体が発見されかつ1人が後に命を落としたこと、が記されていた。
 『黒猫館の殺人』を読むにあたって自身も推理合戦に参加したい、という向きは、新装改訂版の帯に特筆された「全編に張り巡らされた伏線の妙」を常に念頭に置きながら、けっして読み急ぐことなく都度都度立ち止まりながらページを繰ってゆくことをお奨めする。
 作者が仕掛けたトリックはまさに空前絶後、なんとスケールのでかい大技であることか……と嗟嘆せざるを得ない類のものだ。『人形館の殺人』程ではないものの、読者の賛否がこれまたはっきり分かれる作品であろう。本作がオマージュをささげるのがエラリー・クイーンの中編「神の灯」だけれど、スケールでは『黒猫館の殺人』の方がはるかに凌駕する。凌駕したからなんなのだ、といわれても困るけれど、判明した途端に椅子からずり落ち、或いはのけ反って天を仰ぐこと必至。そうして、設計士・中村青司と依頼主・天羽辰也の常識外れな企てにツッコミの一つも入れたくなってしまうのだ。
 鮎田老人が鹿谷たちへ託した手記(奇数章で語られる)は犯人当てミステリの<問題編>で、偶数章での鹿谷門美&江南孝明の行動は真相解明の調査と推理である。読者よ、奇数章で語られる事柄に疑問を抱け。読者よ、偶数章で判明してゆく事実と手記の齟齬に気附いて真相を看破せよ。そうして読者よ、<回答編>に相当する「エピローグ」を充足の溜め息と共に読み終えたまへ。
 真相解明の手掛かりはなにか、ですと? それは言わぬが花だ。ミステリ小説の書評や感想を書くのは難しい。ストーリーとトリックについてどこまで語っても構わないか。ネタバレにつながることは一切書かない方がいいのか、それとも細心の注意を払いさえすればぎりぎりのところまで筆を進めてよいのか。これらの点に自分なりの折り合いをつけられない限り、真相解明の手掛かりは? と訊かれても返す言葉はなにもない。
 あるとすれば……そうね、中村青司が恩師神代教授に依頼主を評して曰うた「あれはどじすんですね」(P152)と、むかし依頼主が神代教授に己のことを述懐した際の台詞、「私は鏡の世界の住人だ」(P238)、かなぁ。嗚呼、わたくしはもう口を閉ざすべきだ。作者のこの言葉──「ある程度の読者が八十パーセントまでは見抜けるかもしれないが、問題は残りの二十パーセントにこそありますぞ」(P417)を紹介した上で。
 感想の筆を擱く前に、「ミステリ小説の読者あるある」に第8章で遭遇して、思わず、これって自分のことだ、と深く深く首肯させられた一節のあったことをお伝えしておきたい。黒猫館で発生した密室殺人の現場調査での江南による、あまりに正直過ぎる述懐。曰く、「時刻表を使ったアリバイトリックと同じで、まあどうにかしたんだろうな、という気分になってしまって、種明かしをされても『ふーん』としか思えないのである」(P321)と。身に覚えのある読者も多くおられることだろう。もしかするとこの一節、骨の髄からのミステリ小説作家、綾辻行人からの苦言なのかもしれないね。
 ──ところで、千街昌之の解説を読んで、いったいどれだけの人が前作『時計館の殺人』を読み返しただろう。たしかに『黒猫館の殺人』の真相そうしてトリックの背景と成立のための前提条件は既に『時計館の殺人』に埋めこまれていた。それは<回答編>「エピローグ」につながってゆく事柄でもあった……。
 もう一つ、ついでに。第4章;神代教授が「自分の影響か知らないが」と前置きした上で、若き中村青司はイタリアの建築家、ジュリアン・ニコロディに関心を持っていたと話す(P139)。むろん、『暗黒館の殺人』でかの館の建築に影響を与えた異郷の建築家として名が出る人物である。こちらの感想はまだお披露目していないから、これ以上は書くのを控えよう。まぁ、<館>シリーズを順番に読んでこそ得られる愉しみの一つを『黒猫館の殺人』も備えているのだ、と申しておきましょう。◆
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第2577日目 〈綾辻行人『時計館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 シリーズ第5の館のお目見えである。
 『時計館の殺人』の舞台は鎌倉今泉、時計屋敷(時計館)。館は大きく3棟に分かれ、玄関と時計塔があるのが1979年以後に増築された<新館>、初代館主の古時計コレクションがずらりと飾られて今回の惨劇の主会場となる1974年に立てられた<旧館>、そこと廊下で結ばれた先にある開かずの間<振り子の部屋>。
 時計塔に設けられた時計盤は、しかし中庭を向いており、しかもいま針は長短いずれも外されてしまっている。まだ針が備わっていた時分の時計盤を見る機会のあった者はいつでも好き勝手な時間を射しているように見えたものだから、「きまぐれ時計」と呼んでいた(ここ、解決編に至って重要となる指摘)。そうしてシリーズのお約束として、初代館主の依頼を受けて旧館・新館いずれも中村青司の設計になる。
 ──“いま巷で評判の美人霊能者と、曰く付きの洋館で交霊会をやろう!” 物語の発端を有り体にいうてしまえば、こうなる。舞台は鎌倉今泉、時計屋敷(時計館)……とはしつこいか。向かうは交霊会を企画したオカルト雑誌の取材チームと、大学のミステリー研究会(実態は超常現象愛好会)の面々。先に現地入りしていた霊能者と合流した一行は以後3日間、密室状態となった<旧館>にて外部との接触を一切断って、館に棲みつくという少女の亡霊とのコンタクトに臨む──のだが、程なくして第一の、続けて第二、第三の殺人事件が発生。おまけに唯一、いずれの犯行が可能であった人物は早々に失踪してしまい。
 斯くして……交霊会ご一行様、赴きし中村青司の館にて謂われなき──と当初は思われた──連続殺人の犠牲者となりにけり(免れし者もありとは雖も)。
 ……改めて感想を書くために読み返してみると、もうプロローグから露骨なまでに伏線が張られていることにびっくり。その堂々ぶりに却ってこちらはあたふたしてしまうのである……そんな書き方じゃすぐにトリックも真相も見破られちゃうよ! とあらぬ心配を抱きつつ。ミステリ小説を読むに年季の入った御仁ならば、それこそ上巻2/3あたりで幾つかの小さな真相を看破し、かつメイントリックにかかわる仕掛けに気附いて限りなく正解へ近附けてしまうのではないか、というぐらいの堂々ぶりだ。なのに、どうあってもはぐらかされてしまうのに嫌気がさして、挙げ句の果てにはこれがミステリ小説の読者のあるべき姿かもしれないな、と取り繕ってみたりして。
 正直なところを申しあげればですね、遅まきながらわたくしも下巻を半分ぐらいまで読んだところでメイントリックについては察しがついたのですよ。賊に狙われた参加者の一人がお馴染み、秘密の抜け道を通って納骨堂の外に広がる光景を見て驚いた場面じゃった。以下、一部ネタバレな文章になるけれど(『時計館の殺人』未読の方はここから数行を読み飛ばしていただいて構わぬが、読んでしまっても気にすんな。神林しおり嬢もいうておる、読んでいない小説のネタバレなんて記憶に残らない、と[施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第3巻P20 一迅社REXコミックス 2016.11]。だから読んでしまわれてもまるで問題はない。安心して)、昼夜が逆転しているという事態に、108個の古時計が刻んで知らせる<旧館>での時間の流れとグリニッジ標準時が示す外の世界の時間の流れが異なっていること以外、どんな理由を与えられるのか。
 が、さすがにこのメイントリックの全貌──ねじ曲げられた時間が統べる虚構の世界はなぜ作られたのか、それが真実だと思いこませるため敷地内の隅々にまで施された造作の数々はどうして必要だったのか──までは見破ることができなかった。残念、残念。
 本作に於けるメイントリックとは前述の通り、時間の流れ方が<旧館>の内と外とでは異なる、というものだが、実はこれ、犯人が意図して拵えたわけではない。先代(初代)館主、古峨倫典がやがて死ぬべき運命を負わされた一人娘、永遠の夢をかなえてやるためにあつらえた、狂おしいまでの愛情の産物だったのだ。別の単語で表現すれば、即ち「妄執」という。
 永遠の夢──それは16歳の誕生日に母のウェディングドレスを着て婚約者と結婚すること。が、昔から信頼していた占い師の口から永遠が16歳の誕生日を迎えることなく死亡することを聞かされた父の胸は、信じたくない気持ちと信じざるを得ない気持ちに苛まされ、引き裂かれんばかりとなった。というのも、かつて占い師が永遠の母の死期を占い、その通りになったのを古峨倫典は忘れていないからだ。そうして永遠にまつわる占いを裏付けるかのように翌年、少女は完治不可の難病「再生不良性貧血」と診断されてしまった……。そこで父は考えた、要するに娘が16歳の誕生日を迎えて結婚式を挙げられれば良いのだ、と。斯くして古峨倫典は資産を投じて時計館<旧館>の設計を中村青司に依頼。完成してからは館内の古時計すべてを、実際よりも早く時間を刻むよう調整、永遠をそこへ幽閉した。
 斯様にして古峨永遠はそこで正確な時間を知ることなく、季節の花々、移ろう季節を楽しむことなく、「本当の時間」というものから徹底的に切り離された環境で成長するのだが、死の直前、10年前の夏の日に敷地内に迷いこんでいた子供たちから実際の年月日を知ってしまう。すべてのからくりに気附いて絶望した永遠は、なかば錯乱して挙げ句に自死を遂げたのだった──。件の子供たちが長じて時計館を訪れたミステリー研究会の中心人物たちであることは、既に述べた。
 自分が永遠のために構築した世界を壊された古峨倫典は、娘に死のきっかけを与えたかの子供たちの名前を調べあげて日記にかれらの名前を、フルネームで書き綴った。愛娘を亡くした哀しみと死に追いやった連衆への憎悪のなかで。為に古俄倫典は「私はやはり、彼らを憎まないわけにはいかない」と無念の思いを滲ませる文章を残さなくてはならなかった……。
 当初は今回の連続殺人、父から聞いたか或いは偶然からか、永遠の自死がミステリー研究会の面々に原因があると信じて疑わなかった永遠の弟、由季弥が非道なる下手人と思われたが……然に非ず。真犯人は別にいた。犯行の動機も、また別にあった。学生たちは10年前の夏の日、我知らずして古峨家の関係者をもう一人、死に至らしめていたのだった。
 ──と、ここまで書いたところで恐縮だが、真犯人は誰か? 動機は? 殺害方法は? エトセトラエトセトラ、本稿では語らず触れず済ますとしよう。時計館<旧館>に閉じこめられた江南孝明と行動を共にして事件の経過をつぶさに観察して、鹿谷と一緒に時計館の外或いは時計館<新館>で提示された手掛かりと記述の齟齬を見落とすことなく検めて、謎解きを愉しまれるがよい。
 なお、講談社ノベルス版「あとがき」にてシリーズ第一期〆括りと位置附けられた本作は、1992年3月、第45回日本推理作家協会賞長編賞を受賞した。◆
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第2576日目 〈鎌倉の古我邸のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 あなたはJR横須賀線を使ってここへ来たのだろうか。それとも江ノ電? まぁどちらでも構わない、電車を降りたら西口に出て、目の前のバス道路を市役所前の交差点まで歩こう。信号を右方向へ折れ、道なりに150メートル程北へ。そうすると、鎌工会館ビルを右斜め前に臨む十字路へ出る。そこを左に曲がって日本キリスト教会鎌倉栄光教会の前を通り過ぎて歩くこと、約60メートル。厳めしい鉄製の両開き扉の前に出る。
 そうして扉の柵の間から奥を窺うと、<ザ・洋館>としか言い様のない建物を目にするはずだ。ここが「鎌倉三大洋館」で近頃まで唯一非公開を守り続けた古我邸である。数年前に当主が逝去されたあとは取り壊しの話もあったようだが、現在は装い新たにフレンチ・レストランとして新しい一歩を踏み出している由。
 もとより鎌倉散策の名所、隠れた観光スポットとして知られていた古我邸の前を一時期、明らかに異質な面子が邸の写真を撮ったり、同行者と顔を寄せ合い恍惚の表情(?)を浮かべて何事かを囁き交わしている光景を、扇ガ谷のあたりを散策路としていたわたくしは、確かに見たことがある。当時は「聖地巡礼」なんて言葉、一般化していなかったから、なにかのドラマ映画にでも使われたのかなぁ、ぐらいにしか思うていなかったのだけれど、20世紀から21世紀になり、今年2017年になってようやっとわたくしは、あのときかれらを古我邸前まで来させたその原動力がなんだったのかを知った。
 あれはやはり「聖地巡礼」だったのだ。そうしてわたくしもつい最近、改めて同じことをしてきた。散策に使わなくなってずいぶんとなるけれど、あたりの景観はまるで変わることなく、そこに在り続けていたものだから、駅を出てからこちらへ来るまでのふとした瞬間にタイムスリップしてしまうたかと錯覚した程だ。そうしてかの古我邸も前述の通りフレンチレストランとして生まれ変わり、相変わらず深い新緑の森を背中にして、そこへ静かに建っていた……。
 そうか、この見馴れた古我邸が時計館のモデルになったのか。自分が立つのとあまり変わらぬ位置に、鮎川哲也と綾辻行人が立っていたのか。そんな風な感慨に浸りながら、その一方でかつて目撃した、ここに足を運んで写真撮影したり、何事かを囁き交わす人々の光景を思い出す。成程、所がわかっていれば熱心なファンなら一目見たい気分にはなるよなぁ……。
 古我邸は現在フレンチ・レストランとしてランチもディナーも行っているが、前庭(オープンエアテラス)でカフェも楽しめる。残念なことに本稿執筆の時点ではカフェでのランチは行っていない様子だが、いまの季節、源氏山から新緑の森を吹き抜けてくる風を感じながら、スパークリング・ワインや鎌倉ビール、或いはコーヒーなど味わいながら、いっときの至福を堪能してみては如何だろう。
 次は『時計館の殺人』にて鹿谷門美が立ち寄った極楽寺にある<純喫茶A>訪問の記録(?)でも綴ろうか、と企んでいる(けっして『時計館の殺人』感想の筆が遅れているがための苦肉の策ではない)。ネット情報は見ていないが、土地勘頼りにたぶんあすこだろう、という見当はついている。江ノ電沿いの坂道の……。◆
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第2575日目 〈綾辻行人『人形館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『人形館の殺人』(講談社文庫)は〈館〉シリーズの異色作である。どこが? まず舞台となる地。これまでは、そうしてこのあとも中村青司の館は人外魔境ならぬ人里離れた地に建てられていたが、本作の人形館はなんと京都市中、しかも左京区北白川てふ場所なのだ。しかもこの館と中村青司のつながりは、シリーズに登場する館群のうちでもまた異色で……この点を縷々綴ると仕掛けられたトリック(大技、というた方がよいか)を割ることになるので、以下自粛。
 因みに北白川は著者の母校のある百万遍の東にあって、著者にも馴染み深いエリアであるからか読んでいて、シリーズの他の作品よりも土地の描写に力が入っているように見受けられる。気のせいだろうけれどね。
 粗筋を文庫裏表紙から引く、──「父が飛龍想一に遺した京都の屋敷──顔のないマネキン人形が邸内各所に佇む「人形館」。街では残忍な通り魔殺人が続発し、想一自身にも姿なき脅迫者の影が迫る。彼は旧友・島田潔に助けを求めるが、破局への秒読みは既に始まっていた!?」
 本作は館の立地以外の点でも異色である。但しそれを述べようとするとミステリ小説の書評/感想の独自コードに抵触してしまう。ゆえに、どこまで書くか、悩んでしまうわけだが、ぎりぎりのラインでその異色なる点に触れるなら……「一人称はすべてを語らない」、「一人称は目の前の事象を現実として語るが、その現実は必ずしも事実とは限らない」だろうか。加えてもう一つ触れれば──島田潔はどこにいる?
 この奥歯に物が挟まったような説明にもどかしさを感じて(正しい反応だ)もっと直截簡明な物言いを求める人は、こんな風に訊ねてくるかもしれない。で、全体的にどんな雰囲気の小説なのさ、と。わたくしはそのお訊ねに対して、そうねえ、と一頻り顎を撫でさすった上で、ヒッチコックの『サイコ』を彷彿とさせるかなぁ、とお答え申しあげようと思う。
 顧みて自分はミステリ小説の模範的読者かもしれない。読書中はあれこれと推理を働かせてみても大抵最後のドンデン返しにしてやられ、きいっ! と叫んで地団駄を踏み、そうしておもむろに前の方を読み返して成程と首肯し、作者の仕掛けにまんまと引っ掛かった自分に舌打ち、溜め息するのだから。
 その騙され易さは本作の読書中も健在で、就中クライマックスとなる第九章、416ページにて思わず「えっ!?」と叫び、そのあとは困惑して頭の整理にこれ努めなくてはならなかった。読み進めてきて自分なりに推理を組み立ててきて、一部については極めて正解へ近附いたようだったのに、かのページ以後になって根本からあざやかに引っ繰り返されてしまうた。執筆・出版された時期を念頭に置けば真相と仕掛けを然るべく看破できたはずなのに、まさか〈館〉シリーズでこのテを喰らうとは……!! 新装改訂版の帯に躍る「シリーズ最驚の異色編!」てふ文言の真意を、(未読の)読者よどうぞご確認なされよ。
 刊行当初から賛否両論、はっきりと二極化するという『人形館の殺人』だが、わたくしはこの長編を専らそのシチュエーションゆえに好む者である。著者もまたお気に入りの一作である由。◆
2017年04月26日
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第2574日目 〈綾辻行人『迷路館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 <館>シリーズ第3作、『迷路館の殺人』(講談社文庫)を春雨そぼ降る今日、4月1日夕刻に読了。この月日に因んだ作為ではなく、あくまで偶然の一致に過ぎぬ。もっとも読み始めた当座はなんとなく、4月1日に読み終えられたらいいな、ぐらいには考えた覚えもあるけれど。どうせなら4月1日に読み始めて4月3日午前に読み終わる方が、この作品の場合は最上だったのかもしれないけれど、現実的には到底不可能事なので却下しよう。
 舞台は地下に建造されたギリシア神話さながらの迷宮を擁す<迷路館>である。建築主が中村青司、館の主人が推理小説界の大御所、宮垣杳太郎、その還暦祝いに招かれた4人の作家と1人の評論家、編集者とその妻(妊娠中)。そうして訪問客のひとりとしてひょっこり登場した名探偵、島田潔。この四者が集うたおよそ建築基準法を無視した迷路館。役者は揃い、舞台は整った。これで何事かが起こらなくては嘘だ。斯くして(すべての読者が望むように)館の薄闇のなかで血まみれの見立て殺人の幕が切って落とされる……。
 前作『水車館の殺人』が全体的にはオーソドックスな作劇であったのから一転、本作は最後の最後まで「謎」、「謎、「謎」のオンパレードで、終始著者の魔法に翻弄されっぱなしであった。一旦は真相解明となったものの、最後の章でもう一つ、作品を最初から読み直すことが推奨されるようなドンデン返しが待ち構えていようとは、思いもよらなんだ。もうわたくしのような未熟な読者は、「マジっすか!?」「やられた!」と天を仰いで叫ぶより他ないのである。地団駄を踏む? うん、まぁそういうてもよいかもな。巻の中葉で館のからくりがわかり、真犯人にもおよそ見当が付き、ワープロに残された文書の真相にも気附けた──それはだいたいに於いて当たっていたのだが、まさかそれを簡単に飛び越えた事実が用意されているとはなぁ。文庫の裏表紙に「徹底的な遊び心」とあるが、それを極限まで突きつめれば斯くも周到かつ大胆な伏線の張り巡らされた、読んで仰天、読み返して仰天な推理小説ができあがるのだ。綾辻行人、凄まじき。
 ──告白すれば『迷路館の殺人』を読むつもりはまったくなかったのである。当初は『十角館の殺人』だけで<館>シリーズは済ませるはずだったのに、その面白さと謎解きの妙、中村青司が建てた館の魅力に取り憑かれて『水車館の殺人』に手を伸ばし、その最中にこれも面白そうだな、と『時計館の殺人』と『暗黒館の殺人』を購い、第2作の読書も途中まで来るとさすがにそこから一気に第5作へ飛ぶのも気が引けて、間を埋めるようにして第3作の本作と第4作の『人形館の殺人』を買ってきたのである。そうして本作を読んでいる途中には、もうこうなったら<館>シリーズを全部読んでしまえ、と思い立ってしまったのであった……即ちそれは、<未読小説(文庫に限る)読破マラソン>のコースが大きく変更されたことを意味する。どんなに早くても、6月中旬あたりまでは綾辻行人の華麗なるマジックとロジックにどっぷりと浸かっていることは必至だ。
 かつて著者は島田荘司『【改訂完全版】斜め屋敷の犯罪』の初刊(講談社ノベルス)の巻末余白に「島田荘司のファンになります」なる文言を記した由。それに倣えばわたくしは本稿にて、『迷路館の殺人』がダメ押しになって綾辻行人のファンになります、と公言しておこう。◆

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第2573日目 〈綾辻行人『水車館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「横溝正史風の本格探偵小説をイメージ」して執筆したというだけに、本作『水車館の殺人』はアクロバティックな前作『十角館の殺人』とは打って変わり、端正にして古典的そうしてオーソドックスな作風を漂わせる本格ミステリである。
 岡山県の、人里離れた場所にシリーズ第2の館、水車館は建つ。中村青司の設計で11年前──というから1975年のことだ──に建てられた。館の造営に併せて水路をそのすぐ脇を通るよう引きこみ、三連の水車で以て館内の電力をまかなう。主は実業家の藤沼紀一、いまは妻の由里絵と執事の倉本庄司が暮らし、通いの家政婦が別にいる。一方でこの館は紀一の父にして不世出の幻想画家、藤沼一成の作品のほぼ全点を収蔵してもいた(未公開の大作一点を含む)。水車館以外の場所で一成の絵画を鑑賞することはできず、為に年に一日だけ、世間の喧しい連衆を鎮める目的で特定の数人を招待して開放している。1984年には美術商と大学教授、外科院長、菩提寺の住職の4人を。作中に於いて<現在>となる1985年には住職を除いた3人を。
 が、現在パートの1985年は思わぬ闖入者が現れて水車館の客となった。然り、『十角館の殺人』で探偵的役回りを務めた島田潔である。斯くして物語は動き始め、1年前に起きた殺人事件と失踪事件の真相へ徐々に迫ってゆくこととなる。島田による関係者への事情聴取と並行するようにして──嗚呼、今年もまた新たな殺人事件がここを舞台に発生するのであった! 同時進行するは或る人物がひた隠す秘密が暴かれる瞬間へのカウント・ダウン。なお、1985年のパートには数ヶ月前によんどころない事情を抱えて水車館を訪れた一成の弟子、正木慎吾が館の住人(居候、か)としており、由里絵にピアノの手ほどきをしている。
 三人称で語られる過去パートと紀一の一人称で語られる現在パートが一章毎に、交互に綴られてゆくことで、両年の事件が立体的に立ちあがり、全貌と関係が白日の下に曝される。1985年と1986年の出来事が一つの動機、一つの真相へと収束してゆくあたりの描写は「圧巻」の一言だ。読者はおよそ一人の例外もなくページを繰る手をその間止めることができず、きっと最後の一行、最後の一字へ辿り着くまでの時間をもどかしくも幸福に感じることだろう。そうして、物語の魔法に搦め捕られて心をたゆたわせる法悦をたっぷりと味わわせてくれることだろう。むかし観た映画パンフレットに「愛ゆえの凶行か?」なんてコピーが躍っていたけれど、『水車館の殺人』の動機と真相はまさしくその文言こそが相応しい。
 敢えていうなら冒頭での一成のモノローグ──「何も変わっていない。──第三者の目にはそう映るであろうものが、しかしいかに大きな変化を内在しているのかを、私は知っている」(P25)──この何気ない述懐が鍵となる言葉であるのを指摘しておきたい。作品全体、その仕掛けの要となる一文だ。読み返した際にこの一文にぶつかって嗟嘆、天を仰いだわたくしである。
 筆を擱く前に、どうしてもこれだけは。まさか綾辻行人の小説を読んでキャラ萌えすることになろうとは、思いもせなんだ。お相手は幽閉の美少女、水車館の奥方、藤沼由里絵その人である。単に館の住人の一人として事件に遭遇するのではなく、実はこの女性こそがキー・マンなのだが、わたくしにはそんなのどうでもいいお話で(失礼!)、ではどこに萌えたかといえば、なんというてもその幸薄く、触れれば砕け散るガラス細工のようなか細さ、その居ずまいの儚さがたまらないのだ。具体的な描写はないと雖も──おお、彼女が毛布にくるまって雷鳴におののく姿のか弱さと艶やかさよ……!◆

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第2572日目2/2 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 本稿は読書中の小説に関する備忘というか、メモのようなものである。ジャンルがミステリゆえに「もしかしたら……」と思うた事柄はかりにそれが誤りであったとしても、書き留めておくのが最善であろう。
 読書が終わったあとにこれを読み返したら、わたくしは赤面して、それこそ穴があったら入りたい心境に陥り、同時に本稿を破棄したい衝動に駆られるかもしれない。或いは読了済みの方が本ブログをお読みになったら、なんだこの的外れな推測は、と腹を抱えて大笑いもしくは嘲笑の的にされるやもしれぬ。
 が、それはそれでいっこうに構わぬではないか。正解を導き出すだけがミステリ小説を読む愉しみではあるまい。
 ──と、あらかじめ詭弁を弄しておいたところで、では、本題。

 『暗黒館の殺人』は綾辻行人によるゴシック小説でもある。そも人里離れた場所に一軒だけぽつねんと建つ、まわりの人々の訪問を拒むかのような趣の館が舞台で、そこに住むなにやら曰くありげな人々と外部から(必然か偶然かは置いておくとして)やって来た者が登場し、後者が(意図的にか否応なくかは別として)館とそこの住人の秘密の最奥=核心、心臓へ迫ってゆく──。それがかつてヨーロッパの読書界を席巻し、現在に至るまで細々と命脈を保つゴシック小説の定石である。
 海外の幻想文学に魅せられた当初から、退屈極まりない、とまで腐される(揶揄される)ゴシック小説を好んできた。<館>シリーズ、就中『暗黒館の殺人』に触れて郷愁というか懐かしさを覚えたのは、そんなところに由来するのだろう、と自分では分析している。
 19世紀末、正統ゴシック小説の到達点と呼んでよい長編小説がイギリスで生まれ、瞬く間にヨーロッパのみならず新大陸アメリカにまで波及した。ブラム・ストーカー著『吸血鬼ドラキュラ』がそれだ。
 なお、これの読書には、小説としての面白さや雰囲気を第一とするなら平井呈一訳の創元推理文庫版、小説を読む醍醐味の一切を犠牲としてでも正確さのみを追求した、ただの英文和訳で構わぬならば新妻昭彦と丹治愛共訳の水声社版をお奨めする。この水声社版がお奨めできるのはひとえに完訳である点と精細な註釈のある点。それ以外にお奨めできるポイントは、ない。
 話が横道に逸れたけれど、ここで『吸血鬼ドラキュラ』を唐突に持ち出したのはゆめ奇を衒っての話ではない。
 浦登玄児、その文庫版を読み進めるにつれて、本作がますますゴシック小説に相応しい闇を纏ってゆくのと同時に、『吸血鬼ドラキュラ』或いは吸血鬼小説全般を意識したモティーフが次第次第に目に付くようになってきたからだ。暗黒館の当主一族の姓が、ドラキュラ伯爵のモデルとなった実在のルーマニア王ヴラド・ツェペシュを思わせる「浦登」。初代当主の妻ダリアの出身国が、吸血鬼小説と浅からぬ縁を持つイタリア。これだけでもじゅうぶんに、ねぇ……連想するな、という方が無理な話である。
 わたくしがかの一族を吸血鬼もしくはそれの変形種と思うに至ったのは、むろん読書中の現時点では憶測でしかないし、読み終わってみれば失笑するより他ないかもしれないけれど、第2巻P179を読んでいたときだった。語り手「中也」に向かって館の住人のひとり、語り手を暗黒館に招いた浦登玄児がいった一言、──君ももうわれわれの仲間なんだよ。仲間とは? 第1巻のクライマックス、年に一度の浦登家の秘儀、<ダリアの宴>。一族の者のみがその日に執り行われるこの宴に、語り手は特別に参加を求められ、<肉>と呼ばれるものを食す羽目になった。その翌る日からだ、かれが一族の関係者と見做され、前述の如く仲間と称されるようになったのは。
 こう思うのだ、宴に列席して肉を食したことで語り手は、吸血鬼とそれに血を吸われた者、言い換えれば支配者と被支配者に等しい関係性を持ったのではあるまいか、と。うぅん、なんていえばいいかな。宴に列席して肉を食したことで語り手「中也」は浦登一族の秘密を共有し、一族に縁故ある者として認識された──言葉を変えれば、一族の秘密という底無しの闇に囚われ、取りこまれた。そんな風にわたくしは思うのだ。
 かてて加えて、館は常に闇の色と血の色に包みこまれ、外光は色附きの磨りガラス窓や閉ざされた鎧戸の隙間から洩れてくるぐらいが精々なのだ(おまけに外は嵐/台風で昼でも太陽の日差しが届かぬ状況である)。
 「百目木峠の向こうの浦登様のお屋敷」には近附くな、あすこには良くないものが棲みついているから。館にいちばん近い集落I**村では昔からそう囁かれて、守られてきた(村の少年、市朗はその禁を破ったがために恐ろしい目に遭うわけだが)。
 浦登家と縁戚にあって館に泊まりこんでいた自称芸術家の首藤伊佐夫は自分の芸術の目的は「神と悪魔の不在の証明」にある、と語り手に話して聞かせた。そうして語り手「中也」はキリスト者である。
 これらを以て件の一族をアンチ・キリストたる吸血鬼もしくはその変形種と憶測するのは、けっして無理な話ではあるまい? そういえばキリスト者に己の血(本作では肉)を呑ませて汚れた者(魂)に堕として自分の陣営に引きずりこむ、という図式はスティーヴン・キング『呪われた町』にも見られた。
 シャム双生児姉妹が語り手に話す、初代玄遙と玄児は「特別」で、彼女たちの父浦登柳士郎は「失敗」(なのかもしれない)、そうして成功した者はまだいない。この文脈でゆけば、吸血鬼と人間が交配した結果、館を離れて人間と同じく陽光の下でも生活できる者を「成功」と呼び、そうでない者(生者でも死者でもない、そんな曖昧な状態にあって惑っている者、と捉えられる)を「失敗」と呼んでいるのか。「特別」とは特定条件下でありさえすれば暗黒館を離れて活動することも可能な存在、か。
 また、このシャム双生児姉妹──美鳥と美魚が「中也」に求婚して、困惑するかれを救うように玄児が登場する一連の場面は、『吸血鬼ドラキュラ』にてドラキュラ城に泊まるジョナサン・ハーカーを誘惑する3人の女吸血鬼と伯爵が現れてそれを追い払う場面に重なってくる。
 言い足せば、暗黒館の中庭の、一位の植えこみに四方を囲まれた<惑いの檻>と呼ばれる墓所は、いってみれば初期キリスト教会/帝政ローマの時代、その帝都の地下に建設された共同墓所(方コンペ)と同じなのだろう(中庭ではないけれどドラキュラ城にも同種の墓所が存在しており、そこにドラキュラ伯爵やハーカーを誘惑した女吸血鬼たちが眠っている)。そのローマはイタリアの首都、イタリアは玄遙の妻ダリアの故国だ。地下墓所に安置される棺には吸血鬼が眠っている。「檻」とは不死なる吸血鬼たちを閉じこめておく、その魂が彷徨い出ぬよう封印している場所の形容なのだろう。──嗚呼、まさしく定番の図式ではないか。もっとも、この連想、この図式さえも著者があらかじめ想定していたミス・ディレクションの類であったなら、喝采せよ、わたくしはミステリ小説の好き読者であることが証明されたに過ぎぬ。深読みしすぎ、穿ちすぎ、騙されやすい、エトセトラエトセトラ。
 序でに邪推すれば、昔玄児が十角塔に幽閉されていたとき、食事の差し入れなど面倒の一切を見てくれていた諸居静は「中也」の実母なのではあるまいか。彼女がその後館を出てゆく際連れていったわが子とは他ならぬ「中也」ではなかったか。為に東京でかれを見附けた玄児は白山の自宅に、訳あってのことだが住まわせ、暗黒館に誘ったのではないのか。
 ああ、さて。
 以上は『暗黒館の殺人』第2巻P288まで読み進めた、2017(平成29)年5月10日午前時点での所感(推理? 否、憶測だね、やっぱり)である。思うたこと、考えたことを綴ってみたのだ。全巻を読了してみれば、吸血鬼云々の話は完全なる的外れかもしれない。そのときはそのとき。この時点でわたくしはこう考えました、でも実際のところはどうなんでしょうね、というに過ぎぬのだから。が、この『暗黒館の殺人』が著者が現代風にアレンジしたゴシック小説である、という意見を引っ込めるつもりの微塵もないことはお伝えしておきたい。

 これは中間報告もとい備忘である。『暗黒館の殺人』の感想は全4巻を読み終えたら改めて、ゆっくりと筆を執るつもりだ。◆

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第2572日目1/2 〈綾辻行人『十角館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』(講談社文庫)はアガサ・クリスティの名作『そして誰もいなくなった』へのオマージュである。ゆえにクリスティを読んでおれば自ずとこちらの犯人もトリックも見破れるようになっている──わけがない。そんな底の浅い推理小説が果たして発表から30年を経たいまでも読み継がれているだろうか。否。そんな安易な小説が推理小説界に<新本格>を芽吹かせ、新たな一大ムーブメントを築く端緒となり得たであろうか。否。
 『十角館の殺人』、それは記念碑的作品である。大分県の沖合に浮かぶ孤島、青島。そこは1年前に忌まわしい事件の舞台となった島である。そこに残る館を訪れた推理小説研究会の男女を見舞う連続殺人。島の外にあって1年前の事件を探る名探偵、島田潔と、その助手を務める江南孝明(かれも1年前まで推理小説研究会に籍を置いていた)。やがて白日の下に明らかとなった事件の全容は実に意外なものであった……。と書けば、よくある「お話」で『十角館の殺人』もそこから大きく踏み外すこともないのだが、本作が大いに異色なのはトリックの意外性、叙述の妙、計算され尽くした構成に起因する。
 本稿でのネタバレは避けたいので詳述は控えるが、発表当時の衝撃たるや賛否両論、毀誉褒貶相半ばしたというのも成程、そうであろうな、と深く首肯させられる。もっとも、犯人の動機附けに唐突の感を否めないのは、何度読み返しても払拭できぬ唯一目立つ瑕疵だけれど。
 新装改訂版でその衝撃を最大級に演出するページ組みがされた、終盤の“あの一言”。これこそ後に続く<館>シリーズで手を変え品を変えて読者を幻惑せしめる<大どんでん返し>の出発点にもなり、また30年後まで影響を保ち続けるものなのは、わたくし如きが指摘するまでもあるまい。
 すべては思いこみを逆手に取った手腕なのだ。探偵役とワトスン役、かれらが直接訊ねて聞きこみを行う人々以外は全員その島にいるはずだ、という思いこみ。そうしてあだ名についての、それ。考えてみれば本名に起因するあだ名をサークル内で与えられているのは、島の外にあってワトスン役を演じている江南孝明だけなのだ……。
 が、わたくしは推理小説の実に素直かつ模範的な読者だから、ページを繰ったところにたった一行印刷された“あの一言”に、「えっ!?」と声にならぬ叫び声をあげて前のページを逐一読み返してしまった。そうして唸った。こちらの思いこみを裏附ける既述は、目を皿のようにしたってどこにも書いていない。心地よい騙しのテクニックに唸り、脱帽した次第である。
 ──その酩酊に千鳥足気分でいたら先へ進むことをすっかり忘れ、気附けば降りる駅まであとわずか。このまま帰宅しても今日読み終えることは、まず以てあるまい。脳天にハンマーを喰らったような衝撃、即ち終盤の“あの一言”にこの印象も薄れてしまうことだろう。斯様な懸念から、自宅から最寄り駅までの間にあるファミレスに寄り道して残りのページに耽溺し、興奮と満足のうち巻を閉じるに至ったのだった。読了のみを目的としてファミレスに入る──こんな経験は顧みても昨秋、乱歩の『孤島の鬼』以来である。
 綾辻行人、凄まじき。文庫の扉へ読了日と一緒に記したその言葉に、偽りはない。
 咨、だけどこんなに夢中になって読み耽った小説は久しぶりだ。お陰で長い通勤時間を退屈することなく過ごし、頗る密度の高い読書生活を満喫できたよ。それは──幸運なことに──『十角館の殺人』読了から1ヶ月以上が経ったいまでも続く<綾辻行人祭り>が証明している。更に幸運なことに、その<祭り>はまだしばらく終わる気配を見せないのである。◆

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第2571日目 〈2017年1-3月に読んだ小説(殆どが推理小説なのだ!)。〉2/2 [日々の思い・独り言]

 寄り道を切りあげて本道へ戻ったわたくしの前にあったのは、湊かなえ『告白』(双葉文庫)である。新人賞を受賞した第1章は雑誌で読んでいたけれど、書籍化された全編を読むのはこれが初めてなのであった。機会はありながら読まないで過ごしてきたのが不思議といえば不思議だが、詭弁を弄することをお許しいただけば、これまで現代日本のミステリ小説に殆ど関心が向かなかったのだから、まぁ、仕方ないといえば仕方ないよね。先日もお話ししたように、20世紀最後の10年の中葉あたりで国産ミステリを読むことを殆どやめてしまったのだが、その当時まだ湊かなえはデビューしていなかったものね。読んでいなくなって当然だったのだ。以上、詭弁終わり。
 閑話休題。『告白』のこと──読んでいる間中、ずっとゾクゾクしていた。体の芯から湧き起こってくる震えが止まらなかった。読書しているわたくしのなかにあった、この小説に対するなにかしらの気持ちに言葉を与えるなら、「スッゲー!」の一言。冷静に分析することもできない程の興奮の渦中に、読書中も読了後もずっとあったわたくしはこの一言以外に発する言葉をいま以て持てないでいる。情けない話だが、本当のことなのである。それは読書中に自分のなかで生まれる様々な感情、一瞬乃至は刹那の思い、そんなあれやこれやをすべて一切合財内包した先に存在するのが、「スッゲー!」という頭の悪そうな言葉なのだ。陳腐な台詞にもそれなりの魂があることをお知りいただければ幸甚、幸甚。
 日本とか外国とかの別なくミステリ小説を斯くも息を詰めて、まなじりを決して読むなんて久しぶりのことだったから、なおのこと興奮の度合いは大きかったんだろうね。読後の余韻もじゅうぶんに満足のゆくもので。いやぁ、それにしても(と、遠い目をする)『告白』のラストは衝撃的だったなぁ。ここまでダメ押しをされたら脱帽するより他にないではないか。
 『告白』のような興奮を求めて第2作の『少女』(双葉文庫)と短編集『望郷』(文春文庫)を読んだが、顧みて「ゆるい」小説だったてふ印象が拭えない。『少女』は、こちらを『告白』よりも先に読んでいたら必ずやそちら以上にびっくり仰天したことだろう。『少女』も救いがなく、八方塞がりで、<イヤミス>としか言い様のない小説であったから。
 登場人物たちは、誰彼の台詞のなかでしか登場しない者も含めて、皆が皆、なにかしらの形でつながりを持っている。縦横無尽に散りばめられた手掛かりを組み合わせることで初めて読者の前に提示される、裏の、というか真の人物相関図を目の当たりにするとき、読者は目を丸くしたり、唖然としたり、短い悲鳴をあげるのではないか。
 『少女』を「ゆるい」と思うた原因は作品それ自体に瑕疵があって目立つゆえのことでは断じてなく、単に『告白』の後に続けて読んだがための不幸に起因するのだろう。わたくしはそう分析している。
 もう一方の『望郷』だが、理由はどうあれ、収められた6つの短編にわたくしの琴線が触れることはなかった。精々が「海の星」という作品に漂う<男の哀感>にしみじみさせられたことぐらいか。そういえば、これと表裏一体を為すような「夢の国」も忘れがたい作品だった。地方の小さな街の閉塞感とそこで生活する人々の姿が巧みに描かれていたからだ。
 昨秋からの流れで、年が明けてからもミステリ小説ばかりを専ら読んできた。その反動ではないが、気分転換のように文庫化された又吉直樹『火花』(文春文庫)を読んだ。読んでいる最中に例のプレミアム・フライデーがあり、村上春樹の最新小説『騎士団長殺し』が発売された。行きつけのクラブのお気に入りのお嬢さんを同伴した。そうして、読み終えた直後にNHKでドラマの放送が始まった。『火花』については『暗黒女子』同様、かつて本ブログにて拙い感想文をお披露目している。
 このあとに乾くるみ『蒼林堂古書店へようこそ』(徳間文庫)と『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)を読んでいるが、これらの作品について本稿で述べることは控えさせていただきたい。箸にも棒にも引っ掛からないから、という不遜な理由ではなく、どうにかして感想文を認めよう、と機会ある毎に四苦八苦して取り組んでいるからである。あがいてもあがいても結局一本の原稿として披露するに及ばないと判断したときは……その際はその際である、2作まとめて一度にお披露目してしまおう。要するにこの段落は時間稼ぎの言い逃れに他ならない。
 乾くるみを2作で切りあげた後は、手塚治虫・著/三上延・編『ビブリア古書堂セレクトブック ブラック・ジャック編』(角川文庫)と中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)を読んだ。後者については既に感想文を仕上げてあるので、やがて読者諸兄の目に触れることだろう。
 さて、その『初恋芸人』から一週間。元同僚に奨められて購入したものの数ヶ月放置し、ようやっと手にすることのできたのが、綾辻行人『十角館の殺人』(新装改訂版/講談社文庫)である。本稿を認めている現時点で第12章「八日目」を読んでいる最中なのだが、帰りの電車のなかでまず間違いなく読み終わると思う。
 これは実に面白い小説だ。こんなにドキドキさせられるミステリ小説が書かれていたのか、と己の不明を恥じ、また喜びに湧いている。当初は『深泥丘奇談』正・続(角川文庫)のみのつもりだったのが、『十角館の殺人』を奨められたことですっかりハマり、恒例の寄り道<この作家の他の作品も読んでみよう>シリーズが始まった。今回が他と違うのは、1作、2作でその寄り道に満足することはなく、今後数ヶ月は継続されるだろう、ということ。それが証拠に今日、『水車館の殺人』と『時計館の殺人』(いずれも新装改訂版/講談社文庫)、『霧越邸殺人事件』と『眼球奇談』(共に角川文庫)を、それぞれ新刊書店と古本屋で買ってきたところである。おそらく今後しばらくの間はこのシリーズが適用される作家は現れないだろう。
 ここまで書いてきて思い出したのだが、綾辻行人の作品に接するのは今回が初めてではない。佐々木倫子と組んだ『月館の殺人』(小学館)もしくは『Another』(角川スニーカー文庫)、いずれかが初めて接した綾辻作品であった──。
 以上、これまでの3ヶ月で読んだ、何冊かの小説について倩思うところをだらしなく綴ってきた。残りの9ヶ月でどれだけ読めるか、どんな物語がわたくしを待ってくれているのか、それを考えるとワクワクしてくる。第3代アメリカ合衆国大統領トマス・ジェファーソンは「本がなければ生きられない」“I cannot live without books.”というたそうである。マイケル・ジャクソンは「僕は読書が大好きだ。もっと多くの人に本を読むようアドバイスしたい。本の中には、まったく新しい世界が広がっているんだよ。旅行に行く余裕がなくても、本を読めば心の中で旅することができる。本の世界では、何でも見たいものをみて、どこでも行きたいところに行ける」“I love to read. I wish I could advise more people to read. There’s a whole new world in books. If you can’t afford to travel, you travel mentally through reading. You can see anything and go any place you want to in reading.”というた由。まさしく。
 小説を読むこと。それは逃げこむことであり、守ることであり、再生であり、治癒であり、回復である。他になにが? いまのわたくしの場合、それはミステリ小説である。これ以上に最適な逃避と守備、治癒と回復のためのフィクションが果たしてあるのか、寡聞にして自分はそれを知らない。◆

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第2570日目 〈2017年1-3月に読んだ小説(殆どが推理小説なのだ!)。〉1/2 [日々の思い・独り言]

 これからお読みいただく小文は、今年2017年の3月18日に第一稿が書かれた。いま頃になってお披露目する理由については、最後(2/2)までお読みいただいた上で、そうして来週の更新を併せてご覧いただけば自ずと明らかになろう。
 申し添えれば、書かれた場所は神田淡路町のスターバックスである。そこは『ラブライブ!』の主人公、高坂穂乃果の実家のモデルとなった老舗甘味処に程近い店舗でもあるのだが、けっして聖地巡礼の途中で、或いは終えたあとに立ち寄って書かれたものでないことをご承知おきいただきたい。なお件の甘味処は池波正太郎のエッセイにも何度となく登場する店でもある。
 さて、本稿はちょっと長いので分割することにした。今日と明日、2日続けてのお披露目となるが、ゴールデンウィーク特別企画というわけではない。そんな考えはまったく持っていない。
 ならば、どうして? んんん──「なんとなく」、「そんな気分だから」、というのがいちばん正解に近いかな。呵々。
 では、始めよう。アゴーンを。

 今年読んだ本について、書く。「について」というても当たり障りのないコメントの域を出るものではないこと、賢明なる読者諸兄ならば先刻ご承知のことであろう。
 いや、それにしても時間の過ぎるのは早い。なんだか正月気分の抜けないまま気附いたら年度末を迎えていた、そんな感慨である。
 私事で恥ずかしいけれど、年が改まってからの1.5ヶ月、異動先がまったく見附からず退職を視野に入れざるを得ない、のっぴきならぬ状況に追いこまれていた頃にようやく新天地を得られて安堵し、片道約1.5時間弱の通勤と雖もそれなりに忙しく、やり甲斐と達成感と充実感で満たされる仕事ができている。感謝の一言。そうしていまは、転属から1.5ヶ月を経て繁忙期に突入、いまはひたすら一所懸命仕事を覚え、朝から晩までひたすらパソコンに向かって作業して、がっつり残業代を稼いでいるのである。
 正直なところ、通勤時間の長さも相俟ってなかなか文章を書くための時間を割けず、またそのための場所を見附けることもできないのが悩みの種だけれど、これに関しては繁忙期が終わって心身共に余裕が生じるまで解決策を見出すことはできなさそう。へとへとになって帰宅したらあと少しで日付が変わる、という時間だもの。
 小説『ザ・ライジング』を書いていた頃も現在とほぼ同じエリアで働いていたが、時間の制約は当時の方が厳しかったにもかかわらず(開店前から閉店後まで、約14時間ぐらいは労働していたなぁ。当然サービス残業である)、ずっと上手に時間をやり繰りして執筆に耽っていた覚えがある。やはり仕事が終わったらさっさと、寄り道しないで帰宅して、早くに就寝して朝型に切り替えるのが<たった一つの冴えたやり方>なのかしらん。
 さて、マクラはここまで。今年になって読んだ本(専ら小説)のお話である。だいじょうぶ、忘れていない。
 読書好きなお嬢さんとのLINEのログを遡ることで、いつ、誰の、なんという本を読んでいたかは判明する。またそこに記録された本を発掘して扉ページを開けば読了日も書いてあるので、おおよそについては読んだ順番も特定できる。そも2017年が始まってまだ3ヶ月である。順番はともかくなにを読んだかは概ね記憶しておるし、書架を検めればLINEに頼らずともその点は明らかとなる。幸いなことにそこまでわが記憶力は減退していないのだ。サンキー・サイ。
 では、始めよう。アゴーンを。
 2017年になって最初に読んだのは、斎木香津『凍花』(双葉文庫)であった。これは中居正広がラジオで紹介していたのを聞いて意識の片隅に引っ掛かっていたのを数日後、本屋で見掛けて立ち読みしてみたところ、最後まで読んでみたくなったのでレジへ運んだもの。
 読み進むにつれて気持ちのすれ違う姉妹の哀しさに心がざわついて、いたたまれない気持ちに陥ったことである。なんだかね、兄弟間にある理解不足、意思疎通の不全など、いろいろ考えさせられてさ……。本人以外の誰も相手の真情或いは心情を汲むことのできないやりきれなさに、打ちのめされるしかなかったのである。加害者として逮捕されて黙秘を貫く長女の傍に、凶行以前からいられてあげたなら……という中居の発言が読了後の自分の心に染みこんできて、深く首肯してしまうたね。
 事の序に申せば、本書同様に中居がメディアで紹介して気になり、後日購入したものに歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)があるが、まだ1ページも読めていない。後述する<綾辻祭り>が一段落したあとでないと、通勤の読書のお伴にすることはできないのだ。
 『凍花』に続いて手にしたのは、映画が来月4月1日公開予定な、一方で作品それ自体よりも別の一件で話題になっている気がしないでもない、秋吉理香子『暗黒女子』(双葉文庫)だった。独立した感想文を書いて既に本ブログにてお披露目済みなので、検めての発言は控える。繰り返しを恐れず敢えて述べることがあるとすれば、最後の章に於ける戦慄とおぞましさと気持ち悪さは他に類を求められること極めて稀にして、読後2ヶ月を経過しようとしている今日なおその思いにまるで変化のないことの一点だけだ。記憶に残る、イヤミスの極北というてよいだろう。
 この人の他の小説も読んでみたい。読後感が良ければそんな気持ちが起きるのは至極当たり前な流れだろう。斯くしてデビュー作を含む短編集『雪の花』(小学館文庫)を手にしたのだが……映像化もされたという表題作(これがデビュー作である)は廃村となった雪に閉ざされる故郷で自殺しようと決めた夫婦の物語で、いつわが身に降りかかるか知れぬシチュエーションなだけに、必要以上に感情移入して読み耽った。夫婦を取り巻く環境への憤りと決断を余儀なくされたかれらへの共感が、わたくしをしてこの短編への思い入れをより深くしたのだ。最後の最後に希望の兆しが見えたところで幕となるのが、殊に印象的であった。が、「雪の花」を除く他の3編は……読むのをやめよう、と思うたのは二度や三度のことではない。この段落の〆に但し書きを付けるなら、『雪の花』はミステリ小説集ではない、ということか。□(第2571日目に続く)

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第2569日目 〈推理小説読書の第一期を振り返る。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年の秋から、江戸川乱歩や横溝正史を皮切りにして、遅ればせながら推理小説に淫した日々を重ねて今日へ至っていることを、これまでにも何度か本ブログにて述べてきた。今年になってからは専ら現代の作物ばかり読み耽ってそれらの概ねについて感想めいたコメントをモレスキンのノートに書き留めているが、遅かれ早かれそれらの幾つか(全部ではあるまい)はやがて相応しい分量を伴って清書された後、ここにお披露目されることであろう。が、皆様にご承知置きいただきたいのは、日本人作家の手に成る推理小説に夢中になって読み耽っている現在はいわばその第二期に相当する、ということだ。
 では、第一期とは? 第一期はいまから四半世紀程前に存在した。手紙のやり取りを収めた数十冊のファイルを繙けば容易に当時の読書履歴を確認できるが、いまは外出先(会社からの帰り道、乗換駅にあるスターバックスである)でそれを参照することなどできようはずもなく、ゆえに自分の記憶力を試してみるのも兼ねて本稿の筆を執ってみる。
 ──下地があったとすれば、それは中高生時代に耽読した赤川次郎と久美沙織にあろう。殊、久美沙織の<半熟せりか>シリーズ、いやぁ大好きだったなぁ……。
 歳月は経て元号が変わり、バブル崩壊の余波がわたくしの身の上に降りかかった。入社日直前に内定は取り消され、アルバイト求人も日雇いばかりでレギュラーの口はなく、辛うじて学生時代のバイト代を基にした蓄えと、加えて実家住まいだったことが幸いしてどうにか日々を生き延びることができていたあの頃の或る日、──
 黄麦堂という古本屋の棚でその1冊を見附けた。偶然の引き合わせである。そうしてその偶然の1冊がわたくしを、面映ゆい表現をすれば大人の推理小説に開眼させたのだ。折原一の『天井裏の散歩者──幸福荘の殺人』、角川文庫版。帰宅して一読、思わず仰け反り、嘆息し、ぶっ飛んだ。こんな推理小説がこの世にあったのか、と。大袈裟だが、本当にそんな風に思うたのだ。
 以来、黄麦堂と中三の冬から週末毎に通っている先生堂、一ト月に一度の頻度で足を向ける学生時代を過ごした神保町の諸々の古書店に通って、同じような興奮を味わわせてくれそうな推理小説を物色する日が始まった。そんな風にして見切り棚から「適正価格」の棚までじっくりと眺めて懐具合とも相談しつつ買い溜めていった推理小説を、次の買い物までの間に片っ端から読破していった。使えるお金はいまよりもずっと少なく、限られていたから、それ程の量にはならなかったけれど。
 そうした時期に読んだものを挙げてみる、記憶のままに、順不同で。折原一では『幸福荘の秘密──続・天井裏の散歩者』と『覆面作家』、『ファンレター』他を読んだ。北村薫の<円紫さんと私>シリーズ他を、宇神幸男の音楽ミステリー4部作──『神宿る手』と『消えたオーケストラ』、『ニーベルンクの城』と『美神の黄昏』──と『ヴァルハラ城の悪魔』を読んだ。森雅裕の鮎村尋深をヒロインにした一連の作品と『ベートーベンな憂鬱症』、『モーツァルトは子守歌を唄わない』他を読んだ。小森健太郎の『ローウェル城の殺人』と『コミケ殺人事件』、『ネヌウェンラーの密室』、『ネメシスの哄笑』、『バビロン空中庭園の殺人』を読んだ。小泉喜美子はエッセイ集『ミステリーは私の香水』をきっかけにして『弁護側の証人』と『血の季節』を読んだ。他に読んだもので覚えているのは、東野圭吾の『むかし僕が死んだ家』と『ある閉ざされた雪の山荘で』並びに『眠りの森』、高田崇のシリーズ(但し最初の3作)と井沢元彦の『猿丸幻視行』ぐらいかな。倉知淳とか日明恩(たちもり・めぐみ)もこの時期に読んだと思うていたが、日明については調べてみたら世紀が変わったあとのデビューだから、どうやら記憶は拘泥している様子だ。確かなのは、この時期を〆括ったのは戸板康二の『家元の女弟子』だったことである。  ……え、乱歩も横溝も、鮎川哲也も泡坂妻夫も、島田荘司も綾辻行人も、有栖川有栖も京極夏彦も読んでいなかったの!? と呆れる向きもあるだろう。そんな方々にわたくしは胸を張って答えよう、イエス! と。だいいちね、当時からかれらの小説を読んでいたら、「第一期」も「第二期」もないですよ。そのまま持続されて今日に至ってます、って。斯くして戸板康二のあと推理小説読書の熱はゆっくりと冷めてゆき、読書生活は従前のそれに戻り、わが推理小説熱は15年以上になんなんとする潜伏期間に突入する。  わたくしは敢えて上で挙げた作品の一々に私見を述べ立てることはしなかった。本稿はあくまで<歴史>に過ぎず、個々についての感想文を目論んだものではないからだ。もっともな理由を一つ挙げるなら、その後の自宅の火事によって殆どが失われたり、手放さざるを得なかったことだろうか。災を免れたのは戸板康二の文庫だけだ。本項に於いて感想を一言だに口にしないのは、手許に本がないからだ、というに過ぎぬ。  ──が、なんということだろう。本稿を書いていたら、またぞろこれらの作品を読みたくなってきてしまった。新装版でも出版社が変わっていても、新品でも古本でも、どうであっても構わぬから、この際一息に上で並べた作品たちを買い直してしまおうか。さて?◆

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第2568日目 〈初めての店で買い物(ネット通販)したら、大満足な結果で終わりました。〉 [日々の思い・独り言]

 旧国名を屋号に冠した店で本を買った。インターネット通販のそのサイトを覗いていたら、現物を見ること年に一度ありやなしやでオークションサイトや古書店のサイトに出品されれば絶版ゆえに高値が付く、大好きな漫画家のコミックスが安価で売られているのを発見したのだ。しばし検討の後、その漫画家が連載していた少年誌の創刊40年を記念した特別号と江戸川乱歩の『探偵小説四十年』上下を一緒に購入した。
 その直前にブックオフ・オンライン(以下BOL)で購入した文庫が、外からもはっきり判別できる程の<イタミ>──ヌレとシワ、ヤブレてふ三拍子揃った状態で送られてきたことに呆れ果て、交換か返品・返金いずれかを求めるメールを出したら対応するカスタマーサービスの凄まじき恫喝、上から目線かつ投げやり対応に落胆してここに代わる通販サイトを探していた矢先に出会ったのが、冒頭に述べた旧国名を屋号に冠した店のサイトだったのである。勇を鼓してここで買い物してみようと思うたのは、勿論好きな漫画家のコミックスが売られていたこともあるが、と同時にこの店のレヴェルを見極めるといういやらしい理由もあった。が、それを見極めずして買い物なぞできるものであろうか。否。
 さて、BOLのシステムに馴れた者にはそこからが長かった。注文確認のメールが来たはいいが、発送や支払いに関するメールは待てど暮らせど送られてこない。もしかすると多量の迷惑メールや不要メールに混じって削除してしまったのか。確かめようにも<ゴミ箱>にはもはやそれらのメールは一通たりとも残っていない。不安に駆られてそこのカスタマー・センターに電話したら、BOLのように一拠点でなく各店舗にて在庫管理が行われているので、商品がすべて揃った時点で支払いやその後の発送にまつわるメール連絡がされる由。それを聞いて安堵した。けれどもその一方でこうも思うた、最初のメールにそれを書いておいてよ、と。
 さりながら当面の懸念は去った。あとは待てばよい。そうやって日が過ぎ、一週間ばかりが経った或る日、待ち望んでいたメールが来た。曰く、商品は全点揃った、状態に支障なし、ついてはいついつまでにどこそこの口座へこれだけの金額を振り込まれたし、入金確認後は早急に発送手続きを行い貴兄の許へお届けしよう、と。そうして指定された口座へお金を降り込んだのだが、今度はそこからがまた長く感じられ……1月末日。ようやっとそれは到着した。購入のクリックから約10日。もうちょっと経っていたかな。
 なお、これは2回目の買い物で経験したことだが、発送準備完了のメールから一定期間入金するのを忘れていたりすると、所謂督促のメールが送られてくる。いついつまでに入金が確認できなかったら今回の注文はキャンセルさせてもらうぜベイビー! って趣旨の。ここまで軽い文章ではないけれどね、誤解する人がいるかもしれないから念のため。
 到着した段ボールを、なんとなく左右に振ってみる。カサともゴソとも音がしない。過剰なまでの隙間埋めがされているのか。どんだけの緩衝材を詰めたんだ。そんな風に思うても仕方ない程に、微塵も中身が動く形跡はなかったのである。開梱前から溜め息を内心で吐いてしまったが、気を取り直してカッター片手に開梱作業。そうして箱を開けた目に飛びこんできたのは──あのお馴染みの緩衝材たち……丸められた新聞紙や油紙、円柱形のビニール・クッションや色を塗ったら遠目にはスナック菓子と偽ることもできそうな小指程の大きさの発泡スチロールなどではなく、段ボール箱の底と同じサイズのボール紙の上に一段が均一な厚みになるようにして重ねられた本があり、それら全体をわずかのズレもないラップ包装が施されており。倉庫で梱包に携わった経験のある方なら実感されることだろうが、複数の商品をズレたり傷附けたりすることなく(たとえば本なら縁が曲がったりしないように)ラップ包装するのは技術が必要なのである。まぁ、1日で習得できてしまうような技術だけれどね。加えて乱歩については、これが店舗在庫だったのだろうか、2冊共に丁寧にビニール封されており、管理カードが入ったままである。管理カードを抜かずに送られてきたのがルールなのか人為的ミスなのか定かでないが、この梱包の丁寧さにはびっくりし、感動し、ひとえに嬉しかった。一回一回の作業に手抜きがなく、心配りがされていて、ブックオフ・オンラインのように機械的なスピード重視品質低下の流れ作業に堕していない証しといえよう。
 わたくしがBOLについて斯くまでいうのは、エンド・ユーザーとしてのみならずそこで働いて出荷に携わっていての実感と反省に基づくものである。とまれ、今回の、ここでの初めての買い物はじゅうぶん満足できる結果に終わった。
 ここがBOLと大きく異なるのは、取り扱いジャンルの傾向がサブカルに重きを置いており、従って商品も書籍や音楽・映像ソフトのみならずフィギュアやトレーディング・カード、AV機器、同人誌や同人ソフトなどなど多岐にわたる。このあたりはまんだらけと同じと思うてよいか。もっとも、まんだらけでは乱歩はともかく、内田百閒の随筆や田中阿里子の歴史小説が取り扱われることはないと思うけれど。
 前述の文庫の一件があるまで、わたくしはBOLに相応の信用を置いていた。が、それは本来ならば出荷する以前に入庫させるべきですらなかった商品を、検品を疎かにして発送したことで(ちなみにそれはサイトのガイドラインにも同様の趣旨が明記されていて、またスタッフの研修に於いても徹底されているはずなのだが)地に堕ちた。カスタマー・センターの担当者の対応がそれに拍車をかけた。一事が万事である。
 信用失墜しようが先方にはわたくし以外の顧客が何十万といることだから屁とも思わぬだろうが、BOL以外の買い物先を探す必要が今回生じたことで、もとより屋号のみは知っていたその店で今回不安混じりの初めての買い物をしてみた。これは大当たりであった、と報告しておく。取り扱いジャンルの傾向とわたくしの嗜好が大なり小なり齟齬を来していることから、一ヶ月に一度程度利用すれば上等といえるが、今後も折に触れてここで買い物するであろうことは確かである。初回の満足はその後も継続されており、一度限りの奇跡ではない、とわかったからだ。
 その店の屋号は、駿河屋である。◆

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第2567日目 〈仕事帰りの<巣>を探すことの困難について。〉 [日々の思い・独り言]

 つくづくと過去の勤務地が恵まれた場所にあったことを痛感している今日この頃。
 いや、いまのところも新宿なんていう幾らでも候補地が見つかるはずの場所なんだけれど、然に非ず。人が多くて店内が狭くて、しかも閑散とする時間帯がないという、却って悪しき傾向に囚われた場所なのだ。
 乗換駅にも何カ所かあるけれど、北と南に日本有数のオフィス街を抱えるゆえにどこもかしこも混雑、混雑、混雑。店内は狭く、自分が立ち寄れる時刻に閑散とすることはまずあるまいという具合。しかも新幹線や長距離バスの利用客もいて混雑に輪を掛けるっていうね。大型書店の裏手にひっそりとたたずむ喫茶店/カフェもあるのだが、こちらは閉店時間が他より1時間も早いとなれば、ここも使い勝手が良いとは到底いえない。嗚呼!
 いまは通勤ルートにあって帰宅に支障ないエリアの探索と、そこにあるカフェをネットで探して訪ね、判決を下す日々を送っている。明日は地下鉄の途中駅にある店を偵察してみよう。そこも使えないとなれば、……平日は原稿を書いたりするのに相当な支障が出ることは疑うべくもない。金曜日ならば穗乃果ちゃんの実家近くにある喫茶店/カフェに(乗換駅を通り越して)こもることも可能なのだが……。
 それにつけても、おお、神保町と横浜は恵まれた場所であった。かというてまさかサード・プレイス/アトリエ/《巣》欲しさの一心から異動希望を出すわけにもゆかぬ。それは社会人として褒められたことではない。困った、困った。
 考えあぐねてみくらさんさんかは一つの結論に至る──いっそ、新宿御苑近辺や神保町/淡路町あたりにマンション買っちゃおうか、と。やれやれ、愚昧なる妄想よ。◆

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第2566日目 〈小説完結のお知らせと、これからの本ブログのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 2017(平成29)年04月06日を以て、昨年10月02日からこっそり更新を続けてきた小説『ザ・ライジング』完結と相成りました。ここに謹んで昨日まで忍耐強くお読みいただいた読者諸兄に感謝の意を表したく存じます。
 顧みれば2003年1月10日に筆を起こし、途中人生を揺るがすようなアクシデントがあったけれどなんとか気持ちを奮い立たせ、同年12月末日に第一稿の筆を擱いたのでした。その数日後、舞台となった静岡県沼津市を訪れ、ぼんやりと日暮れの駿河湾を眺めて過ごしたものでした──そこには子供の頃の思い出がいっぱい詰まっている……。
 こうして電脳空間にて不特定多数の目に触れる形で公にしたことは、本作が孕む大小様々の瑕疵を、作者のわたくしへ突き付けることにもなりました。でもこれはとっても貴重な経験で、読者の顔が見えるSNSではどうしても馴れ合いになってしまい、こちらとしてもどこかに甘えた気持ちを抱いてしまっていたことでしょう。目に付いた部分は手入れして風通しを良くしたり、加除訂正を加えたりしていましたが、それらはあくまで小さな箇所に対しての手入れでしかなかったので、今後折を見附けては全体を見渡した更なる改訂作業に入りたく思います。
 半年にわたるご支持ご愛顧ご愛読に、改めて御礼申しあげます。どうもありがとうございました。
 実は本作には既に形になった番外編ともいうべき短編が存在します。こちらも少し時間が経ったら同じようにお披露目できたらいいな、と考えております。



 ──さて。聖書という本ブログ最大の<レーゾン・デートル>を失ったあとの喪失を埋める意味もあって、昨秋から『ザ・ライジング』をお披露目してきたわけですが、お察しのようにさっそくわたくしは今後のことに頭を悩ませております。
 <死海写本>や<グノーシス主義>、或いは聖書やキリスト教に関するエッセイも書きたいという希望はあってもなかなかそちらへ意欲が駆り立てられることが(残念ながら)なく、同様に「マカバイ記・一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読書とそれに伴うノートの執筆・お披露目も叶うことがなく……。
 現在は書評というのもおこがましい読書感想文を清書して、ここで発表してゆくことで延命することをかなり真剣に検討しております。モレスキンのノートを開けば、推理小説に偏るけれどそれぞれの作品について書いた文章が、定稿未定稿の別なく眠っている。これらを一つ一つ取り挙げて手を施してあげれば、それなりに読めたものとなるように思うておる次第であります。
 更新頻度については、たぶん落ちるでしょう。わたくしを取り巻く現状/環境が毎日定時更新を難しくしております。ゆえ、『ザ・ライジング』完結後はしばらくの間、週に1回の更新となってしまうことをあらかじめここで申しあげておきたく思います。
 愛ある読者諸兄よ、今後ともどうぞ宜しくご支援ご愛顧ご愛読の程、お願いいたします。

 「互いに相手を受け入れなさい。」(ロマ15:7)◆

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