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第2521日目 〈『ザ・ライジング』第4章 41/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 なかなか言葉の訪れる様子はなかった。が、しばらくしてためらいがちに、シャープペンを持つ手が動き始めた。

天皇誕生日なのに昼から部活。いやんなっちゃう。だけど駅でバスを待っていると、ふーちゃんとばったり! ふーちゃんも水泳部の練習があるらしい。部長になるといろいろあってねえ、なんてため息をついてたけど、とても充実した顔をしていた。ちょっとうらやましい。私もなにかやればよかったかな。教室でちょっとおしゃべりして別れる。部活。

 ここまで一息に書いて手を休めた。文章を書き馴れない者にはこれだけ書くのも重労働かもしれないが、何年も日記を書いていると〈文章を書く〉という行為に抵抗はなくなり、苦痛が愉悦へ変わる瞬間もまま経験するが、こなれた調子で筆先から言葉があふれてくるまでには至っていない。小説家を夢見た正樹さんや、どうやら隠れて物語を書いている節のある美緒ちゃんなら、そんなこともないんだろうけど。そう希美は口の中で呟いた。

パート練習。Tp,Euph,Hrと合わせる。Aさんだけどうしてもずれる。音も濁っている。仕方ない? 上野先生の指揮でヒンデミットのSym,3rd,4th movの合奏。先生体調優れないからか指揮棒鈍り、4th mov途中で練習終わり。そのまま解散。Hrの中井さん(1-1)とおしゃべりして教室に戻り、ふーちゃんを待つ。

 天井を見あげて目蓋を閉じた。上野が練習に集中できず、何度も指揮棒を振り間違えた理由も、いまなら納得できる。その後で私を……レイプするという〈仕事〉があったからだ。そういえば先生、赤塚さんと一緒に部室を出て行ったな。ふうん、なるほど。あれは相談だったわけか。
 さて、次は本日のハイライトね。詳細に書くつもりはないが省くつもりはない。これを書かずして〈今日の日記〉を書くことに、いったいなんの意味があるだろうか。希美は頁の上に視線を落とした。

赤塚理恵(2-2)から「上野先生が部室で待ってる」と伝言あり、部室へ。これは嘘だった。これは罠だった。部室で先生に襲われて……処女を失う。

 つっ、と涙が筋を残して頬を伝い、頁の上に落ちると、そこだけ少し盛りあがってまわりに皺が走った。下唇を強く噛んでいると、上の歯が滑って傷をつけた。じわじわと血の味が口の中へ広がっていった。左手の甲で涙を拭い、怒りの宿った瞳で帳面を見、書き付けた。

ばかやろう!!!!!
私の処女は正樹さんだけのものだったのに。

 途端、涙がどっとあふれてきた。まるで堰を切ったようにほとばしり出て、拭う暇もない勢いで。

――ふーちゃんが来てくれて、ブラウスのボタンを直してくれたりした。駅、港行きのバス停で別れる。

 その一行を書き付けるとシャープペンから手を離し、立ちあがってベッドに倒れこんだ。指の先がMDラジカセのリモコンに触れた。何気なく再生ボタンを押すと、タンポポの《乙女パスタに感動》が流れてきた。
 ……時間が流れて居間の時計が十二時の鐘を打ち、ややあってCDが終わった。数分の虚無に似た時間が過ぎてゆく。再び机の前に坐り、シャープペンを持って日記帳に向かった。

公園に突き当たる路地で三人組の男に車に押しこまれ、また暴行される。赤塚さんの指金だったらしい。何度もなぶられて解放されて車はその場を去った。通りかかった真里ちゃんにカイホウされて入浴。食事。
何度も無言電話あり。私が出ると、上野先生だった。「すまなかった」とだけいって切れる。電話線抜く。
雷。電気ダメ。TVのニュースで正樹さん殺されたのを知る。犯人は池本先生(保健室)。小田原、彼のアパート近くの天神社にて。

 そこでもう一度シャープペンを置き、冒頭から何度も読み返してみた。誤字に気がつき、あ、と小声で呟いてその部分を消しゴムで訂正した。
 もう書くべきことは尽きたようだ。これでいい、と希美は頷いた。
 でも、これが生涯最後の日記になるのなら、せめてあと二、三行、メッセージめいた文章を書き残しておきたい。うーん、なにがいいだろう……。

死者が私を手招いている。

 え、なに、これ? 希美はその一文を、目を剥いて見つめた。私、こんなの書いてない。消しゴムで、どれだけ力をこめてこすってみても、マジックで書いたようにそれは消えなかった。薄まりもしない。黒く塗りつぶそうとしても弾かれるばかりだ。結局、希美はその一文を放置することに決めた。
 その後に本来書こうとしていた文章を書き加えた。
彩織、美緒ちゃん、ふーちゃん、いままでありがとう。みんなのことは忘れない。大好きだよ!
 気取って英語で一言、同じことを加えようとしたが、英語の得意な彩織に文法や単語の綴りを、あの世で再会したときに指摘されるのは癪だったので、考えた末にそれは省くことにした。書きたいことはあるかもしれないが、これ以上時間が経つと、決意が変わってしまうかもしれない。もうなにも考えたくないし、なにも考える必要はない。それにさっきから気のせいかもしれないが、自分の背後のずっと遠くの方から、黒い衣の男が誘う声が聞こえる。
 希美は日記帳を閉じると、B5の封筒を引き出しから一枚取り、住所録を繰って、これの送り先を考えた。
 誰にしよう。誰がいいかな。〈旅の仲間〉の三人だろうな、やっぱり。
 ふと、一人の名前と住所に目が止まった。

森沢美緒 駿東郡長泉町下土狩……□
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第2520日目 〈『ザ・ライジング』第4章 40/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 この時初めて、希美は自分自身に訪れる死について考えをめぐらせた。もっともそれは十七歳の少女のこと、ひどく漠然としたものではあったが。父も母も将来の夫も、突然の死によってこの世を去った。この予期せぬ事態について、彼等はいったいなにを思っただろう。希美は夏休みの読書感想文の宿題で読まされたドイツ人作家、ハンス・カロッサの小説を思い出した。若き日の死への憧憬。ずたずたにされた心へ挨拶もなしに訪れ、土足であがりこんできた死の影を前にして、ようやく、小説の主人公達がふとした拍子に抱えこみ、掌で転がすようにしてもてあそんだ、まだ見ぬ世界への憧れが理解できた。現実を肯定して、困難があればそれを乗り越えてゆく強さを自分は持っている。希美は今日のこの瞬間まで信じていたが、どうやらそれは間違っていたらしい。きっと克服すべき困難に出会ったことがなかったから、そうした過信ともいえる考えを持っていたのではないだろうか。自殺という行為が弱い魂の表現であるのは疑いない。でもさ、人間ってみんな弱い存在じゃないのかな。
 〈死〉が私を手招いている。おいでおいで、と。パパとママと正樹さんが呼んでいる。そっちには友だちがいるから未練もあるだろうけれど、こっちの世界にはお前を愛している者がお前の来るのを待っている。そう、死者も愛するんだよ、希美。――そんな風にいって、私を呼んでいる?
 さあ、こっちへおいで。その決意ができたのなら。さっき廊下にいた黒い衣の男が、希美をじっと見つめて手招きしている。
 希美はおもむろに上体を起こした。相変わらず家の中は暗く、立って電気のスイッチを押しても明かりがつく様子はない。試しに洗面所へ行って配電盤のレバーを、背伸びして押しあげてみたが、結果は変わらなかった。何度か足をもつれさせ、壁に肩や肘をしたたかにぶつけながら台所へ歩を進めた。食器棚の下の引き出しに、蝋燭があったはずだ。そう、それはそこにあった。三本まとめて摑むと横長の平皿を一枚手にして、居間に戻った。仏壇にマッチがある。一本の蝋燭に火を灯し、蝋を数滴皿へ垂らして他の二本を立て、それらに火を移してから、最後に最初の一本を立てた。簡単な燭台が完成した。小さな空気の揺れが炎を静かにゆらめかせ、わずかな煙をくゆらせた。あたたかな雰囲気の明かりが、室内をぼんやりと照らした。だが、それとて希美の心から死の影を追い払うことはできなかった。
 あ、そうだ、日記書かなきゃ。そう希美は独りごちた。如何なる非常事態に直面しようとも、人間は本能的に日常生活を営もうとするらしい。明日、警察に行くことはもうないだろうけれど、今日、自分の身になにがあったのか、警察の人々、〈旅の仲間〉へ伝えることはできる。おそらく部室で陵辱場面を撮影していた赤塚理恵も、おそらくはこの世にいないのだろう。さっきの上野のいい方を思い返してみると、何度考えてみても、結論はそうとしか出ない。でも、間違っていたって関係ない。書いた日記をこの家に置いておくのはためらいがある。誰かに送っておくのが懸命というものだ。
 部屋に入ると、机の前に坐って一番上の引き出しから、緑色の表紙の日記帳を取り出した。置いた蝋燭の炎がゆらめき、帳面に影が踊った。彼女はゆっくりと頁を開き、掌で綴じ目を下から上に滑らせると、いつも使っている軸の太いシャープペンを握った。
十二月二十三日(月)天気;晴れ→風雨/雷
 そして最初の言葉が浮かんでくるのを待った。□
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第2519日目 〈『ザ・ライジング』第4章 39/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 涙が涸れるぐらい泣くとはよくいわれる言葉だが、いったいだどれだけ涙を流せば涸れるのだろう。涙腺が刺激を受けて自動的に涙は目からあふれてゆくわけだが、ショックを与えずともある程度の時間が経てば自ずと涙は止まる。が、実際にはその後しばらくはしゃくりあげるなどして〈泣いている〉時間は続く。
 居間の床に横たわったままの希美にしても、さっきのニュースを聞いて三〇分ぐらい声をあげて泣き伏し、涙の海を床に作っていた。時間の経過と共にそれは次第にやんでゆき、居間は隈無く家中を覆う闇をぼんやりと見つめながら、ふわりと現れてはすうっ、と消えてゆくような思いが、乱れる心を訪れて交錯した。
 正樹さんは死んじゃった。殺されちゃった。私の愛した男性はもうこの世にいない。逢うこともできないまま、私はこれから生きてゆかなきゃならない。……ねえ、彩織、私ね、正樹さんと婚約したんだよ。これもあのとき、彩織がそばにいて告白する勇気を与えてくれたから。……あ、そうだ、美緒ちゃん。パーティーで出す料理で足りない材料があるの(欲しい材料、っていった方がいいかな)。美緒ちゃんのお母さんが作ったバラのジャムなんだけれど、余ってたら分けてもらえないかな。あれ、上野先生ってどんな顔してたかな。よく思い出せないや。でも先生、私をレイプしているとき、泣いていた。結婚相手のことでも考えていたのかな。〈あいつら〉って池本先生と赤塚さんのことなんでしょ。可哀想に、先生も私と同じで被害者なんだね。……ふーちゃん、あのとき一緒にいてくれてありがとう。高校に入って初めての友だちがふーちゃんだったね。その後で美緒ちゃんが加わって〈旅の仲間〉が結成されたんだよね。……パパ、パパが生きている間に正樹さんを紹介したかったな。ママは写真だけ見せてたから知っていたけれど。……ああ、正樹さん、あなたがいたからこれまで生きてこられたのに……。
 うつろな眼差しで闇を見あげる希美の心に小さな傷が生じた。白井正樹は死んだ。その事実が体中に、まるで水を張ったコップに一滴の墨汁を垂らしたように、マーブル模様を描いて滲み、じわじわと浸透していった。まだ冷静とは言い難い心理状態が事実を徐々に受け容れてゆくにつれ、ほんの少しずつだが確実に傷口は広げられていった。そうっと慎重に、息を殺して入念に。針の先ほどの、ほとんどそれと見分けられないぐらいに小さな穴が、やがてぱっくりと口を開けた。心という部屋の天井に開けられた穴を見あげると、その向こう側には深い闇が広がっていた。星の瞬きもなんの光もなく、幾重にも塗り重ねられた黒い空間が覗いているだけだ。希美は感情のない人形になった気分でその闇を見あげていた。あたかも白井の死が、彼女からすべての感情を奪ったかのようだった。
 そのとき、闇のはるか彼方から、表面がほのかに艶がかった楕円形の物体が、音もなく落下してきた。それは空っぽになってしまっていた希美の心のやわらかな土壌に着地し、そのままめりこんだ。やがて、彼女の心の中で一つの言葉が様々な情調を伴って生まれた。〈死〉という言葉だった。蒔かれた種子は芽吹いて頭をもたげると、天をめざしてゆっくり成長していった。意識の遠くからさざ波に似た音を立てて、忘れかけていた思考能力が戻ってきた。□
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第2518日目 〈『ザ・ライジング』第4章 38/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 サンダルを脱ごうとしたとき、ふとなにかの気配――誰かがいるという気配を感じた。私の知っている誰かじゃない。そう考えた途端、全身を冷たいものが走り抜けた。今日の悪夢めいた光景が目の前に浮かんでくる。もうやめてよ、これ以上私をどうしようというの。そんなに私が欲しかったら、正樹さんを殺してからアタックしてきなさいよ。でも、代償は大きいからね。それだけ覚悟しておきなさい。憎悪のこもった眼差しで顔をあげた。
 廊下の先に、丈の長い黒いローブを頭からかぶった者が、こちらをじっと見つめている。周囲には七色に輝いてそれぞれにグラデーションを描く光の玉が浮かんで、それらは円を描いてその者の周りを回っていた。ローブを鼻のあたりまで引きさげているので表情までは読み取れない。が、辛うじて見られる口許の皺の数や深さ、瑞々しさを遠の昔に失って干涸らびた唇から推理するに、ずいぶんな年寄りと思われた。あれ、と希美は記憶をたぐり寄せた。昨日、横浜で会った人だよね。八景島のアクアチューブで私をじっと見ていた、黒い衣の男。
 その者は廊下を滑るように移動してきた。視線は感じられるが、その瞳までは見えない。首許には緑色に輝く石をはめこんだ銀縁のブローチが飾られている。やがて、黒い衣の男は希美から視線をはずして、居間の方を指さした。指は透き通るぐらいに白くて鉤状に屈曲し、鋭く尖って長く伸びた爪があった。指の肉にも深い皺が縦横に刻みこまれ、それはなんとか骨に付着しているという程度だった。ローブは袖のところからやわらかな曲線を描いて切れ目がなく、そのまま足許まで続いている。希美も黒い衣の男の動きにつられたように、居間へ顔を向けた。
 ブレーカーが落ちたままの居間に、一点の明かりが戻っていた。続いて、テレヴィの音声が聞こえる。驚きのあまり息を呑み、サンダルを脱ぎ捨てて居間に駆けこんだ。真っ暗であるはずのブラウン管が明るくなって、アナウンサーが淡々とした口調でローカル・ニュースを伝えている。
 「な、なんで……」
 テーブルに掌をつき、画面から黒い衣の男に目を戻した。だが、そこにはもう誰もいなかった。慌てて廊下へ戻り、あちらこちらを見て回ったが、いまこの家にいるのは自分一人だけという事実を、再確認したに過ぎなかった。
 変なの……。そう思いながらテレヴィを消そうと電源ボタンに手を伸ばしたときだった。画面の中のアナウンサーは季節外れの暴風雨と落雷に注意を促した後、これまでなんとか自制を保ってきた希美の心を完全に打ち砕くニュースを伝え始めた。
 「本日午後六時半頃、神奈川県小田原市に住む大学四年生が殺害されました。被害者は小田原市在住の白井正樹さん、二十九歳、横浜市にある聖テンプル大学の学生です。犯人は静岡県沼津市にある聖テンプル大学付属沼津女子学園の保険医、池本玲子、二十六歳。白井さんは塾でのアルバイトの帰り、下宿近くの神社の境内で池本容疑者に頭部を何カ所かひどく殴られ、ほぼ即死だったということです。所轄の小田原警察署では――」
 「いやああああああっ!!」
 希美は鋭く叫びながら両耳をふさぎ、その場に崩れ落ちた。目蓋を固く閉じ、幾度も幾度も頭を振った。「そんなの、そんなの信じないっ! 正樹さん……あなた……正樹さん……嘘でしょ……正樹さん……」
 震える指でテレヴィの電源を切った。再び闇が帰ってきた。その闇の中で希美はしとどに涙を流しながら、婚約者の名前を繰り返し、繰り返し呟いた。□
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第2517日目 〈『ザ・ライジング』第4章 37/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 最後の食器を拭き終わり、棚にしまったその瞬間、なんの前触れもなく雷があたり一帯に鳴り響いた。鼓膜を破らんばかりに轟いた雷は、どこかとても近くに落ちたらしい。地響きが足許から伝わってき、家具が揺れ、電気の傘が振り子のようにあちらこちらへ揺れている。すべての電化製品の電源が一斉に飛び、視界のまったく効かない世界が、予告なしに訪れた。
 その静寂のほんのわずかの間隙を縫って、かすかながら幾人ものざわめき声が聞こえてくる。耳をすましてようやくそれとわかるぐらいの距離だったが、そのざわめきは二軒右隣の沢森宅からだった。なおもじっとしていると、だんだんはっきりと声が耳にできた。どうやら、庭に植わるご自慢の松の大樹に雷が落ちたようだった。
 あれ、と希美は小首を傾げた。真里の声が混じって聞こえる。あの騒々しいわめき声は間違いない、と希美は確信した。真里が沢森宅に行っている。想像するに、消火作業に、無精無精駆り出されたのだろう。これはちょっと事件だった。あのわめき声も、おそらくは沢森夫人と口論でも始めたのかもしれない。沢森のお姉ちゃんと真里ちゃん、小学生の頃から仲が悪かったもんなあ。あの二人の喧嘩に巻きこまれるたび、いちばん年下の希美は困った立場に立たされた。二人の間に挟まっておろおろしていると、決まって最後は、あんたどっちの味方なの、と詰め寄られた。そのたびに希美は、知らない、と叫んで家に逃げ帰ってきたものだった。
 いろいろあったよねえ、と希美は小さい頃のことをふと思い出して、苦笑した。子供の頃はよく遊んでもらってたけど、やっぱり沢森のお姉ちゃんがいちばん年上だったせいかな、だんだんと顔を合わせる機会も少なくなって、話すこともなくなっていった。そこら辺が私と真里ちゃんの結びつきの違いだろうけれど、真里ちゃんは知ってるかな、パパとママが死んじゃったとき、いちばん最初に駆けつけて慰めてくれたのは、沢森のお姉ちゃんだったんだよ。
 それにしても、男の声が全然聞こえてこなかった。いや、聞こえてくることは聞こえてくるのだが、それはいずれも真里の父であったり、お向かいのおじさんであったり。沢森夫人の夫の声は、どれだけ耳に神経を集中させてみても、まったく聞こえなかった。やっぱり噂は本当なのかしら、と希美は思った。気の強い奥さんに閉口して(おまけに婿養子だし)同じ会社のOLさんと不倫してる、って噂。あの広い家にお婿さんと二人で住んでるんじゃ、特にこんな晩は――いくら沢森のお姉ちゃんであっても――不安で仕方ないだろうな。旦那さん、早く帰ってきてあげればいいのに。私は、と希美は力強く頷いた。私はああいう風にはならないようにしよう。正樹さんに浮気なんかさせるものか。
 さて、それはともかく。
 家は大丈夫だろうか。希美の心へ俄に不安が生まれ、あっという間に広がっていった。ふと見ると、セキュリティ・システムは作動していない。当たり前だ。雷が落ちて、すべてのブレーカーが飛んでしまったのだから。それにこれは対人用に作られたものであって、その敷地内で火事が起こったりしてもよほどの大事にならない限り、生真面目に動いてくれる代物ではない。希美はストーブを消すと、仏壇から鍵を掴み、懐中電灯を下駄箱から出して玄関ドアを開けた。
 空を見あげると、真っ黒くて層の厚い雨雲が低く垂れこめている。ときどき、雲が薄くなっているところから、青白い輝きがゼラチン状の皮膜を透かしたように光っているのが見えた。低音で唸るモーターに似たごろごろという音も聞こえる。希美はドアを閉めて鍵をかけ、ポーチに立って左右へ懐中電灯の光を走らせた。いつもと変わらぬ光景が、光のプールに浮かびあがって消えてゆく。小さく頷いて、小走りに門扉の所へ行き、階段から自転車置き場になっている小屋を照らしてみた。うん、異常なし。続いてポーチへ戻って通り越し、いまはプランターを並べて家庭菜園になっている嘗ての駐車場から庭の方を覗き、懐中電灯を向けた。こちらも異常なし。業務報告。希美ちゃん家はなんの異常も見受けられませんでした。以上、報告終わります。
 沢森宅からは相変わらずざわめき声がやまない。でも鎮火したらしく、一瞬感じた焦げ臭い匂いはしなかった。それに、男の人の声がする。あ、お婿さん、帰ってきたんだな。真里は早々に退散したらしく、ともかく声はしなかった。
 パジャマを着た風呂あがりの体が雨に濡れている。またお風呂に入り直すのも面倒だな。二度風呂なんて、そんなもったいないことできないよ。早足で五段あるポーチの階段を一気に昇った。ポケットから鍵を取り出してノブの鍵穴に差しこむ。かちゃっ、という耳馴れた音がしたのとほぼ同時に玄関ドアを開けて中に入り、鍵とチェーンをかけた。□
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第2516日目 〈『ザ・ライジング』第4章 36/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 しばしあって希美は泣きやんだ。真里が言葉少なに慰めて、テーブルに着かせた。居間に沈黙の帳が垂れこめた。テレヴィをつける気にもなれない。台所に引っこんだ真里が戻ってきて、希美の目の前に夕食を置いた。
 「はい。どうぞ」
 「わあ、美味しそう!」置かれた料理を見て、希美は歓声をあげた。「食べていいの?」
 にこやかな笑みを浮かべて、真里が頷いた。「東京に行ってからさ、ずいぶんと料理のレパートリーは増えたんだぜ。まあ、オムライスだけどさ。一人暮らし始めてようやく満足に作れたよ」
 それを聞きながら希美は、
 「思いっきり卵焦がしたり、破ったりしてたもんねえ」
 「そんな昔のこと、蒸し返すなよ。これでも一生懸命練習したのに……」真里が腕で目を隠し、声を震わせ、泣き真似して見せた。
 希美はそれを無視して「いっただきまあす!」と、用意されたスプーンで、マッシュルーム入りのデミグラスソースをかけたオムライスを食べ始めた。横にはベーコンとキャベツのスープが湯気を立てている。
 無視されたことに頬をふくらませながら、真里が自分を見ているのを希美は気づかなかった。食べている間、今日の出来事が頭から去ってゆくことはなかったが、幼馴染みの作ってくれた料理を食べることは、殊に大好物といっていいオムライスを食べることは、一時の気晴らしになるし、今後のことをじっくり考える余裕を与えてくれる。
 ――食事を終えて、しばらくお喋りを楽しんでから(真里の東京生活はなかなか楽しそうなものだった。だが、希美はふと、真里ちゃん、卒業したあとも東京で暮らすのかな、と淋しさを覚えた)、帰るのを渋る真里を、もう一人でも大丈夫だから、と説得した。それを承けてようやく真里が帰り支度を始める。
 上がり框へ腰をおろしてブーツを履きながら、真里が傍らに立っている希美に、「警察に話す気はあるの?」と訊いた。
 壁を背にして廊下に坐りこむと、希美は頷いた。
 「そう。じゃあ、明日の昼間、一緒に行こうか。知ってる人、いるの?」
 「うん。パパが刑事やってたときに部下だった人が、いま沼津署にいるの。たぶん明日もいると思う。いなくても、あすこには知ってる人がたくさんいるから」
 「そうか、刑事だったんだよね。……もうあんまり覚えてないな。拳銃見せて、ってごねたのは記憶にあるけど」
 「私だってもう覚えてないよ。広報に移ってからの方が、ずっと長いからね」
 「その頃だったっけ、彩織が転校してきたの?」真里の問いに希美は、うん、と短く答えた。「そっか。早いね……。でも、彩織の第一印象は強烈だったよ。生まれて初めて生で聞いた関西弁からなぁ。可愛い名前とコテコテの関西弁が妙にミスマッチだったっけ」
 「いまでもそうだよ」くすくす笑いながら希美はいった。
 「マジ? でも、彩織が関西弁喋らなくなったら彩織じゃなくなっちゃうよなあ。そうなったら、かなり淋しいな」と真里がいった。
 「うち、宮木彩織いうねん。よろしうな」希美は彩織の口調を真似ながら、初めて真里と彩織が対面したときの、彩織の第一声を口にした。「彩織、声が高いから、真里ちゃんのお母さん、びっくりして台所から出てきたよね」
 「そうそう」笑いながら真里は頷いた。
 それからしばらく、彩織にまつわる思い出話が続いたが、玄関がだいぶ冷えこんでき、希美のくしゃみでようやく真里は腰をあげた。
 「じゃあ、もう帰るよ」
 そういって振り返った真里が、希美を強く抱きしめた。
 「真里ちゃん……」
 「のの、辛いだろうけれど、耐えるんだよ。お前は一人じゃない。みんな、味方なんだからね。彩織もいるし、私もいる。未来の旦那様だっている。みんなでお前を守ってゆくから。いつだって甘えておいで。そうされるの、うれしいんだからね」
 希美は目尻に浮かんだ涙を指で払った。「うん、ありがとう……」
 真里が希美の体を離して、肩をぽんぽん、と叩いた。玄関ドアを開けると、真里が一声、うひゃあ、と呻いた。
 「雨だ……降るなんていってなかったのに」
 「こっちは朝から降水確率七〇パーセントだったよ」
 「箱根越えたら天気は変わるんだよ」
 「あっ、そう。……傘、持ってく?」
 「いらないよ、隣なんだから。二、三〇秒あれば着くから平気。ありがとね」
 希美から荷物を受け取ると、
 「ちゃんと家中の鍵かけて、セキュリティチェックしてから寝るんだぞ。いいね?」
 「わかったよ、お姉ちゃん」
 「よし、それじゃ、お休み」
 「お休み」
 真里が足早に門扉へと駆け寄り、開け閉めして路地に出た。手を振ってきた。希美も手を振り返す。真里は小走りに自分の家へ向かい、門扉を開け閉めした。ややあって、「ただいまあ!」という声が聞こえた。
 それを聞くと、希美は安堵の溜め息をつき、門扉がちゃんと閉まっているのを確認すると、玄関を閉めてチェーンをかけた。そのまま居間へ戻り、セキュリティ・システムがちゃんと動いているのを確認すると、台所へ行って流しに置かれた食器を洗い始めた。
 雨粒が窓や自転車置き場の屋根を叩く小気味よい音を聞きながら、明日警察へ行ったらその帰りにお茶っ葉と生春巻きの皮を買ってこなきゃ、と思った。
 明日は〈旅の仲間〉とクリスマス・イヴ・パーティーだ。そうだ、真里ちゃんも呼ぼう、っと。美緒ちゃんもふーちゃんも、真里ちゃんとは面識があるから構わないだろう。彩織には真里ちゃんが帰ってきてるのは内緒。驚かせてやろう。
 ――ああ、どうか明日のパーティーが、心の傷を癒してくれますように。□
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第2515日目 〈『ザ・ライジング』第4章 35/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 もしかすると、と希美は不安に駆られた。
 上野先生だろうか、と。あるいは、さっきの三人組だろうか、とも。上野だとしたら、吹奏楽部の名簿を持っているから、家に電話するのはわけないことだった。
 じゃあ、三人組は? そういえば、誰かに頼まれたようなことをいってたな、と希美は思った。俺達は頼まれたのだよ……君の親愛なる友人から。そうあのブルージーンズの男がいっていた。誰かに頼まれたのなら、家の電話番号を知っていてもおかしくはない。
 でも、その理由はなんだろう。刹那、うつむいて考えたが、まさか、と思って顔をあげた。真里が、どうかしたの、という表情で自分を見ているのにも、希美は気がつかなかった。――まさか、また? 冗談じゃない、と希美は憤った。もう二度と犯られるものか。ああ、だけど脅迫されたらどうしよう……知られたくなかったら、もう一度俺(達)の相手をするんだな、とか? 口でいってるだけならいくらでも否定できる。だけど、写真を撮られていたら……
 写真! 希美ははっ、吐息を呑んで、愕然とした。部室で上野に犯されているとき、誰かが入ってこなかったか。口許へにたにたと評判の悪い笑みを浮かべて、誰かが自分のそばに立たなかっただろうか。藤葉ではない。藤葉なら目の前で起きている暴行を力ずくで止めたはずだ。それに、DVCで撮影なんて趣味の悪いこともしないだろう。うっすらと、やがてはっきりと、希美はそのとき部室にいた人物の顔を思い出した。そして、無言電話を繰り返す主が誰であるのかも、なんとなく直感で見抜いた。
 また電話が鳴った。二人はほぼ同時に目を向け、互いを見やった。真里が手を伸ばしかけたのを制して、希美は「私が出る」とだけいって、受話器を取った。そうして、数字ボタンの下の録音ボタンを押した。録音中の赤いランプが点灯した。
 「もしもし?」
 返事はない。もとよりあるとも思えなかった。相手は沈黙を守っている。相手は向こう側で息を潜めていた。気配がゆっくりと伝わってきた。
 「――赤塚さんね? わかってるわよ」
 真里が驚いた表情で希美を見た。視界の端でそれを捉えはしたものの、希美はそちらに視線を向けようとしなかった。
 「――俺だ、深町。赤塚じゃない。あいつは……もういないよ」
 「先生……」希美はそういうのでやっとだった。感情が混乱して、なにをいっていいものか、見当がつかない。
 「お前に一言だけ、謝りたかったんだ。すまなかった。……それじゃ」
 電話はそれで切れた。希美は肩から力が抜けてゆくのを感じた。たどたどしい手つきで受話器を置いたが、いまの電話が現実だったとはすぐに信じることが出来ない。横から覗きこんだ真里の声で、ようやく我に返った。
 「いまの、誰?」
 「――部活の顧問代理。私の……私を……」
 電話に両の掌を置きながら、希美の体がずるずると崩れ落ちた。真里が支えるのも間に合わず、希美は床にぺたりと坐りこんだ。うつろな目で壁を見、電話のケーブルをプラグから抜くと、顔を覆ってしくしくと泣き始めた。
 隣にしゃがみこんでそっと肩に手をやったはいいものの、どう声をかけていいのか、真里にはわからなかった。自分が同じことをされたときを思い出してみても、頭はそう便利に働いてくれそうもない。仕方なく、希美の肩を抱いたままで、彼女が泣きやむのを真里はじっと待った。□
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第2514日目 〈『ザ・ライジング』第4章 34/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 年末年始の休みを利用して東京から帰省した真里が、希美を心配してずっと付き添ってくれていた。実家はすぐ隣だというのに、まだ一歩もそこへ立ち寄らず。ありがとう、と口の中で呟き、通りかかったのが真里ちゃんでよかった、と思った。他のご近所さんだったら、あっという間に町内の噂種になっていたかもしれない。真里も口にはしないが、同じことを考えているのだろう、と希美は考えていた。
 「うん、ちょうどいいよ」と彼女は答えた。「もう少ししたら出るねえ」
 「ああ、わかった、わかった。子供の時みたいにゆでダコにはなるなよ」
 笑いながらそういうと、真里は脱衣所から台所へ戻っていった。ガラス扉からシルエットが消える。それを見届けると、希美は「わかってるよぉだ」と呟きながら、アカンベエをした。
 真里にコートを脱がされ、手を洗わされた後、着替えをするよう促された。その間に真里は居間のガス・ストーブを点けたり、浴槽に水を張って湧かしたりしていた。着替え終わると希美は、白井の携帯電話に何度かかけてみた。が、呼び出し音が鳴るだけで一向に本人が出る気配はない。留守電にもつながらないなんて……変なの。そしてそのまま彼女は電源を切り、充電器にセットした。
 居間の電話が鳴っている。夕食の支度をしていた真里が出たのか、呼び出し音がやんだ。
 「ありがとう、真里ちゃん、ふーちゃん……」
 希美はそういって、お湯をかき寄せた。さざ波が胸元や肩にぶつかって、小さな音を立てて砕けた。
 パパ。ママ。あれから全然逢いに来てくれないんだね。さっきは「嘘つき」なんて罵ったりして、ごめんなさい。だから、お願い。逢いに来て……。
 もしかしたら、と淡い希望を抱いて、浴室をぐるりと見回してみた。しかし、どこにも両親が姿を現しそうな気配はなかった。
 あまり浸かっていると、本当にのぼせてゆでダコになりかねない。
 若干の未練を残しながら希美は湯船からあがり、蓋をした。ガラス扉を開ける。すぐさま冷気が襲いかかってきた。

 「あんた誰なんだよ!? さっきから何度も何度もさ!」
 用意されたパジャマを着て居間に入ると、受話器に向かってそう真里が叫んだ。自分がいわれたわけではないのがわかっていても、思わずその場に棒立ちになり、身をすくめてしまう。
 それを視界の隅で認めた真里が、送話口をふさいで希美の方へ向き直り、「無言電話。もう何度もかかってきてるんだ」と教えた。
 「黙ってちゃわからないじゃんか。用がないなら切るよ!」
 そういって真里が受話器を置いた。そのときの、ちん、という音が悲鳴のように聞こえた。
 「ずっと無言なの?」
 「そう。最初はこっちが出るとすぐ切ってたんだけどね。三、四回目ぐらいから、ずっと無言なんだ」
 「ふうん……あ、全部非通知でかかってきてるんだ」と着信履歴を確かめていた希美はいった。「誰だろう。いやだな……」
 「非通知拒否したら?」と真里が提案した。「怖いよ」
 「でもさ」と希美は真里を見ながら渋った。真里が怪訝な顔で見返してくる。「真里ちゃんからの電話って、いつも非通知なんだけど? 出なくていい、っていうんだったら、そう設定してもいいけどね」
 真里の顔がみるみる赤く染まっていった。その様を見物するのはなかなか楽しいものだった。
 「嘘!? ひゃあ、知らなかった。ごめん、すぐに非通知解除する!」
 そういって鞄から携帯電話を出してくると、真里は希美の前で設定の変更を始めた。ボタン操作しながら顔をあげずに、「いままでもかかってきてたの、無言電話?」と訊いた。
 希美は頭を振って答えようとしたが、それだと真里に返事はわからないだろうと思い直し、「ううん」といってやった。
 思い当たる相手はいない。彩織達〈旅の仲間〉なら自宅も携帯電話の番号も登録してある。――というよりも、家に電話をかけてくるような人なら、いずれも電話番号を登録してあったし、かかってきた際もディスプレイ表示されるようにしてあった。父や母が登録した名前も番号も、一つも消さずにいまでも残っている。それに何度も無言電話をかけてくるほど、人生に於いて暇を持て余している面々とも思えない。□
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第2513日目 〈『ザ・ライジング』第4章 33/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 おそるおそる希美は顔をあげた。「真里ちゃん?」
 東京大学へ進んでいまはそこの大学院に籍を置いている、幼な馴染みの若菜真里が立っていた。心配と不安と疑問が入り混じった眼差しで、こちらを見ている。
 「そうだよ。どうしたのさ、こんなところでうずくまって?」真里が希美のすぐ脇にしゃがんだ。妹同然に育ってきた希美の顔を見やっている。「なにか、あった?」
 そう訊いてはみたが、真里には希美の身になにがあったのか、察しはついていた。自分にも同じ経験があったから。学部時代の唯一、思い出すことを拒否したい記憶だった。まったく面識のない他学部の、四年生が相手だった。校舎の地下室に丸二日監禁されて暴行の限りを尽くされて解放された翌々日、真里はその四年生を殺害した。ただの一度も警察に疑われず、これから先、一生捜査の目を向けられることがなかった真里のこの挿話は、いつかどこかで語る機会もあるだろう。閑話休題。
 希美はうつむいたまま、唇を噛みしめた。あまりに強く噛んだせいで、所々で唇が切れて血が滲んでいる。そうしてそのまま、真里の胸に顔を埋めた。真里の掌が希美の肩に置かれた。
 「のの、立てる?」
 真里が訊いた。相手が頷くのを見て、真里は希美の脇から背中に片手を廻し、もう片方で腕を掴むと、そっと彼女を立たせた。ちょっと膝ががくがく震えよろめいたが、真里が手を出して助けようとするより一瞬早く、希美は電柱に手を伸ばして自分の体を支えた。その様子を見て、真里は安心したような溜め息をもらした。
 真里は自分の荷物を肩から提げ、希美の鞄を片手に持つと、幼馴染みの腰に手をやって、ゆっくりと歩きながらその場を離れた。希美の家までの約十メートルが、真里にはひどく遠く感じられた。何気なく時計に目をやると、針は十時三十九分を指していた。

 低い唸り声をあげる浴室乾燥機。宙に漂う湯気。あたたかなお湯。それらにくるまれ、幸せを感じてぼんやり過ごす時間。大好きなお風呂。落ち着く、というよりも、至福なる言葉が似合ういま。なにものにも代え難い、安息の時間……いつもなら。
 蛇口から水滴が一粒、音を立てて落ちた。ぽっちゃん、という音に顔をあげた。水面にごく小さなさざ波が円を描いて広がってゆく。それはしかし、希美の体にたどり着くことなく消えてしまった。その代わりなのか、希美はふうっ、と息を吹きかけた。同心円が四方へ伸びてゆく。その様をみて、少女は笑んだ。それは諦念と悲哀とが、複雑に混ざった笑みだった。
 希美は溜め息をついた。すべてが今日一日の出来事とは、どう頭をひねってみても信じられなかった。単に処女でなくなっただけなら、理性はそれを現実として受け容れるだろう。殊に婚約者が相手ならば。だが、目の前に突きつけられた現実は、希美の期待と想像を裏切ってあまりあるものだ。信頼していた――わけではないが、その技術や熱意、知識に尊敬の念ぐらいは抱いていた顧問代理の上野に(事情はどうあれ)レイプされ、まるでダメ押しのように見知らぬ三人の男達に嬲り者にされた。たった一日で四人に強姦された女が、いったいこの世に何人いるというのか。
 ゆらめく恥毛をそっと撫で、お腹の方へ手を滑らせた。子宮の奥深くに精液のこびりついている感覚は、まだ残っている。膣には怒張が挟まったままのような違和感が、残って消えなかった。歩くたび、股間に鈍い痛みが走る。処女でなくなるとは、こういうことか。……いったんは止まった涙が、またとめどなくあふれてきた。
 「のの? お湯加減はどう?」
 真里の声で我に返り、手の甲で涙を払った。振り向いたガラス扉に真里のシルエットが浮かんでいる。ぼおっ、と影法師みたいだ。□
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第2512日目 〈『ザ・ライジング』第4章 32/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 「それじゃあな。気をつけて帰るんだよ」
 ブルージーンズの男が希美の背中を押し、ライトバンの開け放たれた後部ドアから降ろした。そちらを振り向く間もなく、ドアは閉められ、車は走り去った。
 電柱に背中が触れた。途端、急に足から力が抜け、そのままへたりこんだ。目はうつろで、視線は千本公園の入り口あたりをさまよっている。口も半開きになってそこから白い息がか細く吐き出された。師走の風が路地を吹き抜け、希美の頬をさっと撫で、艶をまったく失った髪を嬲った。そのうち、希美は自分の体から感覚というものが――一時的にそうなっているに過ぎないのは承知していた――なくなってしまっているのに気がついた。
 そういえば五感だけでなく、時間の感覚もどこかで流れてしまったようだ。あの男達と車の中で、どれだけの時間を過ごしたのか、さっぱりわからない。覚えているのはただ、男達が代わる代わる希美の体に侵入して来、何度となく盛大にその精を吐き散らしたことだけ。一つだけ確かだろうと思えるのは、何時間も辱められて過ごした、ということだけだった。
 っくちゅん! ぼんやりとしていたら、くしゃみが出た。と同時に感覚が戻り、思考も復活した。
 一日に四人の男からレイプされたのか、私は……なんて一日だったんだろう。突然、頭を思い切り殴られたような衝撃を感じた。男達に輪姦された、という事実よりはるかに現実的で、想像もしたくない恐怖が彼女の心に芽生え、ほんの数瞬の間にあらゆる感情を吸い尽くして大きく、際限なく大きく成長していった。
 妊娠したらどうするのよ!? 
 誰の子供かわからない。四人が四人とも――いや、三人だった。細面の男は完全な早漏で、二回挑戦して二度とも(希美のお腹と太腿に)たっぷりと白濁した精液をぶちまけてくれたから。それはともかく、希美に侵入した三人の男達はいずれもきちんと膣内射精をしてくれた。コンドームはなし。
 いったいなんてことしてくれたのよ……これじゃ正樹さんに今夜抱かれて、その結果として新しい命を宿したとしても、彼の、未来の夫の子供です、なんていえないかもしれないじゃない……。
 小さくうずくまった体を震わせながら、希美は体育館坐りした足の間に顔を埋め、濃淡のついた青の格子柄のコートに頬をなすりつけ、さめざめと泣いた。どうしてこんなことになっちゃったの? なんで私だったの? なんで誰も助けてくれなかったの? パパもママも来てくれなかった……嘘つき!
 低く唸る風の音に混じって、靴の音が路面に打ちつけられる音が聞こえた。その足音は徐々に近づいてくる。なんだか疲れを窺わせる足音だった。希美は身を強張らせた。遂に足音がやんだ。相手の視線がこちらへ向けられる。
 「あれ?」と相手のあげた声、やや尻あがりのイントネーションと珠を転がすような高い声は、希美に懐かしい感情を抱かせた。女の声だった。物心つく前から一緒に遊んでいた、一人っ子の希美にとっては実の姉のように慕った女性の声だった。「のの? ――のの、だよね?」□
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第2511日目 〈『ザ・ライジング』第4章 31/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ブルージーンズの男が優しげな声で訊いてきた。人を従わせる威力のある、深い響きの声だった。だが、希美にはそれがまるで別世界から聞こえてくる声のように感じられた。口の中がからからに乾いてしまっていた希美は、こわごわと上目遣いで男を見やり、こくんと頷いた。男は
 「そうか、よかった。人違いだったらどうしようか、と心配だったんだ」と唇の端をあげた。他の二人の口から笑い声がもれた。ヘドロに似た臭気が刹那、鼻をかすめたのは気のせいだったろうか。「俺達はね、頼まれたのだよ。君の知り合い――いや、親愛なる友人から」
 親愛なる友人? いったい誰が、なんのために、この三人を? 逃げるのよっ! 再び《声》が、今度は耳のすぐそばで聞こえた。希美が半歩、右足を後ろに滑らせたとき、細面の男が彼女の腕を取って背中へねじあげた。鞄が手から離れ、路地に倒れた。希美は声ならぬ悲鳴をあげたが、ミラーグラスの男の掌で無造作にふさがれた。ついでミラーグラスの男が、希美の膝の後ろを軽く蹴った。彼女の体は崩れ落ち、テューバケースが鈍い音を立てて路地に落ちた。
 喉の奥に重くて苦いものがこみあげてくるのを感じながら、希美はテューバケースへ手を伸ばした。ブルージーンズの男が膝を曲げてケースを、片手で軽々と持ちあげた。それを追う希美の視線が、男のそれと正面からぶつかった。ケースの表面に付いた細かな砂粒を払い落としながら、
 「これは俺が持って行ってあげよう。大丈夫、壊したり傷つけたりはしないよ。亡くなったご両親に買っていただいた大切な、思い出深い楽器なんだよね? 安心したまえ。俺は契約を守る男だ。それに俺はサックスを吹くんだよ、アルトだがね。君にとって楽器がどれだけ大切か、それぐらいはわかっている」
 ブルージーンズの男は希美の鞄も拾いあげて、同じように表面を払った。そうしてから彼女の体の自由を奪っている二人に、愉快でたまらない、という調子でいった。「さあ、そのお嬢さんを車に乗せるんだ。我々もメインディッシュを味わうとしよう。初物でないのが残念だがな」
 希美は腹の底から大声で悲鳴をあげようと口を開けたが、ブルージーンズの男の腕が力一杯に押しあてられ、思わずむせかえった。何度も口を動かして空気を吸おうとしたが、わずかな隙間が出来るたびにブルージーンズの男が腕を押しつけてくる。そのときの唇の動きは、却って卑猥な想像を男達にさせたようだ。彼等がいやらしい忍び笑いをもらした。
 希美の歯がブルージーンズの男の腕に触れた。希美は男を見据え、思い切りその肌に歯を立てた。自分のどこにこんな力があったのか、と不思議に思えるほどの勢いだった。鋭く尖った八重歯(「希美ちゃんのトレードマークだよね、その八重歯って」と森沢美緒がいつぞや言っていた台詞が脳裏をすうっ、と横切った)が男の肌にめりこんでゆく。ややあって、口の中にどろりとした液体が流れこんできた。――血だった。しかし男はにやにや笑っているばかりで、痛みは感じていない様子だった。男は希美の額を軽く押しやって腕を放した。歯の突き刺さっていた箇所が赤黒くにじんでいる。希美の口から離す際に出来た歯の後が、引き裂いたような筋を残しているのが、薄暗い中でもはっきりと見られた。
 「やれやれ、たくましいお嬢さんだな。気に入ったよ」
 そういって希美の頬を掌でそっと包み、撫でさすった。かさかさした鮫肌で、ささくれがすべらかな頬に白い引っ掻き傷を幾つも残した。これまでに感じたことのない寒気が全身を貫いていった。希美はいま自分が抱いている恐怖に屈するより他、この状況から逃れる術はない、そう悟った。然り、抵抗は無意味だ。
 「あの小娘、この子にずいぶんと恨みを持ているらしいな」とミラーグラスの男がいった。ブルージーンズの男はなんの表情も見せずに頷いた。話の内容よりもその顔の方が、よほどおぞましく感じられた。
 「だけど、写真以上の上玉だな。こりゃあ美味そうだ」細面の男がいった。
 ミラーグラスの男は「そうがっつくな」とそれを諫めた。
 「さあ、乗せろ。誰かに見られないうちにな」
 ブルージーンズの男がそういうと、希美は、男達にされるがままとなって、ライトバンに押しこまれた。最後に希美の鞄とテューバケースを持ったブルージーンズの男が乗りこんできた。後ろのドアが、静かに閉まった。男達は獣となって、獲物に襲いかかった。□
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第2510日目 〈『ザ・ライジング』第4章 30/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 バスを降りて千本公園に突き当たる路地へ折れた途端、それまで低い唸り声をあげながら嬲るように吹いていた風が、ぱったりとやんだ。あまりに唐突だったので思わずその場に立ちすくんでしまった。いい知れぬ恐怖が足許から湧き起こり、脳天めがけて駆けあがってゆく。身震いがした。なにか嫌な予感がする。そんな思いを希美に抱かせる一因は、路地の街灯が一つも点いていないことにあった。三本ある街灯のガラスがすべて割られ、その破片が路面に散乱している。電球も砕けていた。路地に面した家の明かりのお陰で、辛うじて暗闇の状態ではなかったものの、一抹の不安を抱かせるにはその薄暗がりだけでもう十分だった。路地の脇に青いライトバンが一台、停まっている。中には誰もいないらしく、車内灯もテールランプも点いていない。エンジンの音も聞こえなかった。しかし、と希美は考えた。誰が街灯を壊したのだろう。こんな住宅街の、しかもバス通りに接して人目につきやすい路地の街灯を?
 ――逃げるのよ。自分の内なる《声》が警告した。逃げる? 家はここから目と鼻の先なのに? それなのにぐるりと遠回りをしろというのか。普段ならともかく、今日はとてもかったるくて仕方がない。足は鉛のように重くて、全身は疲れに満たされている。早く帰って休みたい。一刻も早くあの人に連絡を取り、優しく抱かれて眠りたい。彼に抱かれてその愛にくるまれることは、きっと浄化の儀式を意味するだろう。
 でも、さっきだって――逃げ遅れこそしたものの、《声》は正しかった。他の誰でもない自分自身の声だったけれど、あの《声》はやがて来る悲惨な出来事を事前に察知して、警告してくれた。そう、《声》は正しかった。なら、いまだってそうじゃない? 危険を回避できるなら、例え遠回りになろうとも――例え足を引きずってでも、身の安全を計った方がいいんじゃない? 
 ……とはいえ、知らぬ間に足は動いていた。いま来た道を逆戻りするのではなく、普段と同じように、家に向かって。一歩、一歩、緩慢に、だけど、確かに。いつもの家路をたどっている。
 駄目だってば。いますぐ引き返しなさい!!《声》を意識のずうっと遠くに聞きながら、希美はまるで操られでもするように、路地を歩いていった。
 目の前に立つ男に気づいたのは、二本目を過ぎて砕けたガラスの破片を避け、三本目の街灯まであと一メートル足らず、というときだった。その男はデニムジャンバーにブルージーンズ、髪を短く刈っていた。眼差しはとてもおだやかだが、実際になにを腹の底で企んでいるのかはわかりかねる。希美がその男に気を取られている間、ライトバンの陰からもう二人が現れた。髪をオールバックにした細面の男と、金色に染めた髪を肩まで垂らしてミラーグラスをかけた男だった。三人は立ちすくんだままの希美を取り囲んだ。ずっとそこに潜んで待ち伏せていたのだ、と希美は思った。そう、まるでスティーヴン・キングの小説に出て来る、狂犬病にかかったセント・バーナードのように。
 「深町希美さんだね?」□
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第2509日目 〈『ザ・ライジング』第4章 29/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ……日も暮れて空に夜の帳が降りつつあった頃、二人は駅前のバス停にいた。それはつまり、池本が白井の額に最初の一撃を加えた頃でもあった。
 「大丈夫だよ、心配しないで」と希美は答えた。友人を心配させまいと無理に作った笑みは、却って藤葉を不安にさせるだけだった。「平気よ、一人で帰れるから」
 「うん。……わかった」もう一度訊けば希美は考えを変えるかもしれない。が、それもなんだかためらわれてしまった。
 沼津港行きの停留所にバスが停まった。鈍い音に一瞬遅れてドアが開き、女声のアナウンスが洩れ聞こえてくる。待っていた十人ばかりの人々の列が、のろのろと動き始めた。
 「じゃ、帰ったら私の携帯に電話して。ね?」
 「うん、わかった。必ず連絡するよ」
 ステップに足をかけながら、希美は藤葉の方へ向いてそういった。口許に浮かべた笑みと瞳に浮かんだ哀しげな色が妙にアンバランスで、藤葉は理由知らず息を呑んだ。
 しばらくして希美が、一段高くなっているいちばん後ろの座席に坐るのが見えた。ややあってバスが動き始める。窓ガラス越しに「じゃあね」と手を振った希美の姿が、だんだんと遠くなってゆく。ふと藤葉は、もう希美とは一生会えないのではないか、という不安な気持ちに襲われた。

 藤葉の姿がビルの陰に隠れて見えなくなると、希美は坐り直してうつむきながら、目蓋を閉ざした。さっき上野に犯されたのが未だに信じられずにいる。他のことを考えようとしても、頭の中のもやもやは晴れず、なにも考えられそうにない。胸の奥がちくり、と痛み、腹の底から不快感がこみあげてきた。少しの間、掌で口を押さえてみたが、どうやら吐くところまではいかなかったらしい。が、それでも全身にのしかかってくるような気持ち悪さと気怠さは相変わらずで……。
 希美はより固く目蓋を閉じ、窓に頭をもたれさせた。泣くもんか、と口の中で呟いた。こんな公衆の面前で涙を流してたまるものか。泣くならあの人の前、正樹さんの腕の中でしよう。それまではこらえなきゃ。 
 ――帰ったら電話しなくちゃ。ふーちゃんよりも先に、あの人に。未来の夫に。
 今夜はずっと一緒にいてほしい。あの光景を、陵辱者の顔を、あの感覚を思い出すと、一人で寝ることなんて出来そうもない。そう、今夜、あの人に自分を捧げたっていい。正樹さんに抱かれよう。それでこの汚れてしまった体が清められるなら、二人で交わした約束にいったいなんの意味があるだろうか。
 そう決めてなお、汚辱にまみれた喪失感は心の底に巣喰って残った。――希美は鞄からMDプレーヤーを出してディスクを入れ替えると、イヤフォンを耳にかけて再生ボタンを押した。SMAPの《世界に一つだけの花》が流れてきた。
 希美を乗せたバスは、アーケード商店街を抜け、下本町の交差点を通り過ぎていった。□
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第2508日目 〈『ザ・ライジング』第4章 28/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 「ののちゃん、本当に一緒に帰らなくて平気なの?」木之下藤葉が表情を硬くしたままで訊いた。これが何度目の確認だったか、藤葉にもわかっていない。誰にもいわないでね、と希美は駅に向かうバスの中でいった。彩織や美緒にも? 間を置かずに頷いた希美の姿に藤葉は気圧され、そのまま黙りこくってしまった。当面は二人だけの秘密。
 ……教室でいくら待っても戻ってこない希美を心配して、吹奏楽部の部室を覗きに行った。扉を開けた瞬間、目に飛びこんできたもの――床へ転がった希美の、剥き出しになった太腿を見たときは、さすがに心臓が停まりそうになった。最近になって、父親の影響で読み耽っている数多の推理小説だと、床に転がっている人間とは、即ち殺されてしまった人間だから。
 ののちゃん! そう叫びながら藤葉は希美の傍に駆け寄った。一見して死んでいないことはわかる。小刻みに肩が震え、嗚咽をあげていた。髪はぐしゃぐしゃに乱れて艶を失っていた。あたりの床には、引きちぎられたかなにかして飛び散ったブラウスのボタンが、あちらこちらに散見された。ショーツも丸まったままで放られている。早くも固まり始めたどす黒い血のかたまりが、絨毯に幾何学模様を作っていた。
 誰よ、こんなことしたの!? 藤葉は友の名を呼び、肩を揺さぶった。ここで行われた陵辱劇を想像すると、寒気と吐き気を覚え、思わず涙があふれてきた。――助けてあげられなかった。もっと早くここに来ていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。ののちゃん、痛かったよね、辛かったよね、苦しかったよね……ごめん、私が待たせちゃったせいだ。
 涙の粒が筋となって藤葉の両眼からこぼれ、希美の頬へ落ちた。しゃくりあげる泣き声はやみ、瞳がゆっくりと動いた。初めのうちはうつろで定まらなかった視線も、ようやく焦点を結んだらしい。藤葉の姿を認めると目が大きく見開かれた。ふーちゃん……? 希美は顔を皺くちゃにして、大きな泣き声をあげながら、藤葉の胸に飛びこんだ。
 誰がやったの、と訊いてみても、希美は首を横に振るばかりだった。なにも答えようとはしない。――上野先生? わずかの間の後で再び、希美の首が横に振られた。だが、もう答えたようなものだった。
 藤葉は立ちあがって部室を横切って音楽準備室の中をくまなく探したけれど、どこにも上野の姿はなかった。念のため、鍵が開きっぱなしになっている音楽室を見てみたが、やはりここにも姿はない。隠れている様子もなく、人のいる気配もなかった。とはいえ、準備室には確かに淫靡な匂いが漂っている。まだ経験のない藤葉ではあったが、それがいったいなにを暗示しているのかぐらいは、さすがに見当がつく。もう学校にはいないのかもしれない。でもね、上野先生。私は絶対に先生を許さない。ううん、私だけじゃない。美緒や彩織、それに、白井さんだって。だけど、まずはののちゃんだ。
 希美のところへ戻って声をかけながら立たせると、ショーツをはかせて制服の乱れを直してやった。幸い、ブラウスはボタンが飛び散っているだけで、破られたりはしていなかった。藤葉は散らばったボタンを集めてから、ぼんやりと立ったままでいる希美を促して、部室を出て教室へ戻った。途中、誰かに見られたりしたらどうしよう、とあたりを見渡しながら(反対側の階段も注視しながら)ではあったが、それも杞憂に終わり、教室へ着いたときに藤葉は安堵の溜め息をついた。教室へ着くと藤葉は希美にブラウスを脱がせてコートを着させ、いつも持ち歩いている裁縫セットを鞄から出すと、馴れた手つきでボタンをかがっていった。……□
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