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第1123日目 〈ブログ読者のみな様へのお知らせ。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]
ブログ読者のみな様へ
しばらくお休みさせてください。といっても1週間程度ですが、今後の整理もいろいろあるので。
<いま>の時間を使って今後の憂いをなくし、新たな気持ちでふたたびブログに戻ってきます。わがままなことをいうて申し訳ありませんが、どうかみな様にお許し願いたく思います。
再開時に、以前ちょっとだけ触れた<大事なお話>をする予定です。
それでは再会のときまで、健やかにお過ごしください。
さんさんか識◆
第1122日目 〈本を処分する - 逢いたかった - B.ワルター《田園》〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]
予定を変更して安息日をもう一日、設けることに御寛恕願います。
休みであった今日は新しい冷蔵庫が届き、午後から書架の整理を始めてしまった。後者については、取り敢えず段ボール5箱を出して一旦終了させたが、部屋は散らかり、処分する本が新たに発見されたことから明日の第2ラウンドが早くも決定した次第です。
いや、しかし本って重いね。同じ箱の数でもCDのなんと軽いことか、と嘆息してしまいますよ。やれやれ。この重さに見合う買取り額が提示されれば報われもしようが、おそらくは単行本一冊程度の額になるのだろうな。まぁ、資源ゴミになるよりはマシか……。
これだけ処分しても、数日後にはまたぞろ読みたい本が出て来て買いこむことになるのだろうが、たぶん生きている限りはこの無限連鎖に陥って生きてゆくことになるのだろう。仕方ない。生きている間は、目がちゃんと機能している間は、読めるだけ読んでおくのが賢明というものだろう。
が、数年前まで本を処分するなんて想像できなかったのに較べれば、現在の自分のなんと潔く、執着しない性格になったことだろう、と自画自賛したくなる。このままであってくれればもっと良い。好きな作家の本は手放せないが、それ以外についてはガンガン捨てろっ! これがわたくしの心の声であります。えへ。
♪逢いたかった×3、yes,逢いたかった×3、キミに♪
休み明けの出勤した朝、かの人を見たらきっとAKB48のこのフレーズが胸のなかでリフレインされて、おまけに無限リピートされるんだろうな。ああ、表情が崩れるのだけはなんとしてでも阻止しなくてはならない!
しかし、アルバム『SL』の全トラックの半分強を占めるメンバー個々の「逢いたかった!」は、正直きついですね。いや、大島や小野や峯岸あたりなら、何度聴いていてもなんとか耐えられもしようけれど……この件の反論、中傷はいっさい受け付けません。
20世紀を代表する指揮者の一人、ブルーノ・ワルター(1876~1962)が最晩年にコロンビア交響楽団と残したベートーヴェン全集の白眉とも言うべき一曲、それが交響曲第6 番《田園》です。
馥郁たる香気立ちこめる至上の演奏、他にこの演奏を指してどういえばいいというのか。これは、昨今のやりたい放題な《田園》とは明らかに一線を画した偉大なる過去の遺産といえるのが本盤です。われらがここで耳を傾けるワルターの《田園》は単なる描写音楽ではなく、それをはるかに突き抜けた境地で成立した、いうなれば、指揮者が青春を過ごしたヨーロッパでの思い出や戦乱に失われた自然を懐かしみ、来し方に耽った<泡沫の夢>を描いた《田園》といえるでしょう。
若い人へよりもむしろ、それなりに人生を積み重ねてきた良識ある大人たちにこそ手にしていただきたいディスク。過ぎ去った青春を慈しみつつ……。◆
休みであった今日は新しい冷蔵庫が届き、午後から書架の整理を始めてしまった。後者については、取り敢えず段ボール5箱を出して一旦終了させたが、部屋は散らかり、処分する本が新たに発見されたことから明日の第2ラウンドが早くも決定した次第です。
いや、しかし本って重いね。同じ箱の数でもCDのなんと軽いことか、と嘆息してしまいますよ。やれやれ。この重さに見合う買取り額が提示されれば報われもしようが、おそらくは単行本一冊程度の額になるのだろうな。まぁ、資源ゴミになるよりはマシか……。
これだけ処分しても、数日後にはまたぞろ読みたい本が出て来て買いこむことになるのだろうが、たぶん生きている限りはこの無限連鎖に陥って生きてゆくことになるのだろう。仕方ない。生きている間は、目がちゃんと機能している間は、読めるだけ読んでおくのが賢明というものだろう。
が、数年前まで本を処分するなんて想像できなかったのに較べれば、現在の自分のなんと潔く、執着しない性格になったことだろう、と自画自賛したくなる。このままであってくれればもっと良い。好きな作家の本は手放せないが、それ以外についてはガンガン捨てろっ! これがわたくしの心の声であります。えへ。
○
♪逢いたかった×3、yes,逢いたかった×3、キミに♪
休み明けの出勤した朝、かの人を見たらきっとAKB48のこのフレーズが胸のなかでリフレインされて、おまけに無限リピートされるんだろうな。ああ、表情が崩れるのだけはなんとしてでも阻止しなくてはならない!
しかし、アルバム『SL』の全トラックの半分強を占めるメンバー個々の「逢いたかった!」は、正直きついですね。いや、大島や小野や峯岸あたりなら、何度聴いていてもなんとか耐えられもしようけれど……この件の反論、中傷はいっさい受け付けません。
○
20世紀を代表する指揮者の一人、ブルーノ・ワルター(1876~1962)が最晩年にコロンビア交響楽団と残したベートーヴェン全集の白眉とも言うべき一曲、それが交響曲第6 番《田園》です。
馥郁たる香気立ちこめる至上の演奏、他にこの演奏を指してどういえばいいというのか。これは、昨今のやりたい放題な《田園》とは明らかに一線を画した偉大なる過去の遺産といえるのが本盤です。われらがここで耳を傾けるワルターの《田園》は単なる描写音楽ではなく、それをはるかに突き抜けた境地で成立した、いうなれば、指揮者が青春を過ごしたヨーロッパでの思い出や戦乱に失われた自然を懐かしみ、来し方に耽った<泡沫の夢>を描いた《田園》といえるでしょう。
若い人へよりもむしろ、それなりに人生を積み重ねてきた良識ある大人たちにこそ手にしていただきたいディスク。過ぎ去った青春を慈しみつつ……。◆
第1121日目 〈さすがに毎日、原稿用紙4枚分の原稿を書いていれば、……&あの人の姿、声、話したこと。そうして、無性に愛おしくてネ。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]
唐突ですけれど、今日は本ブログの安息日とします。
以前にも書いたことの確認になるけれど、本ブログのための原稿は毎日書き継がれている。文字数の目安は400字詰め原稿用紙4枚、即ち1,600字。一ヶ月30日で計算してみれば、ざっと120枚の原稿が書かれている計算となり、これは風呂場で試算してみてわれながら驚き、かつ、幾分控えめな分量だな、と溜め息をついています。
なにがいいたいのかといえば、お察しのように、さすがにこれだけの分量を書いていると、たまには一服したいときもあるんですよ、ということ。「エレミヤ書」が始まる前から考えていたことであって、けっして本日用の原稿が書けなかったから、「休み」と称して調整を図るのではない。それだけはよくご理解いただきたい、と願うところであります。
なお、原稿についてですが、明日と明後日の分は仕事帰りに寄った某ターミナル駅のスターバックスのざわめく店内で書きあげており、明日のいつもの時間に第30章をお披露目する頃にはさらにそこに一章が付け加わっているでしょう。もっとも、結果的に2日分のストックであることに変わりはない。なにやら言い訳めいた文章だが、それが事実である。
では、また明日お会いしましょう。
いつもの飲み場で缶ビール3本をあおりながら、ぼんやり一日を回顧する。あの人の姿、声、話したこと、……。一喜一憂し、翻弄され、無性に愛おしくなり、やはり高嶺の花なのかも、と慨嘆する。が、終業時間の前後は、挙動不審の行動が目立っていたよ、あの人。うん。
明日明後日はおいら休みだから、逢えないけれど、孤独を嘆くことなく一人の時間を慈しもう。立ち止まったり、下を向くことなく、前に進もう。そうして求める唯一の未来を垣間見て、SMAPの「はじまりのうた」と「STAY」を歌おう。
と、いいつつ、━━
♪そうさ、ぼくらはくじけない、泣くのはいやだ、笑っちゃおう、ススメ~。♪(『ひょっこりひょうたん島』より)
そうだ、これだけはいうておかねばならない。休みの間は休肝日にします。◆
以前にも書いたことの確認になるけれど、本ブログのための原稿は毎日書き継がれている。文字数の目安は400字詰め原稿用紙4枚、即ち1,600字。一ヶ月30日で計算してみれば、ざっと120枚の原稿が書かれている計算となり、これは風呂場で試算してみてわれながら驚き、かつ、幾分控えめな分量だな、と溜め息をついています。
なにがいいたいのかといえば、お察しのように、さすがにこれだけの分量を書いていると、たまには一服したいときもあるんですよ、ということ。「エレミヤ書」が始まる前から考えていたことであって、けっして本日用の原稿が書けなかったから、「休み」と称して調整を図るのではない。それだけはよくご理解いただきたい、と願うところであります。
なお、原稿についてですが、明日と明後日の分は仕事帰りに寄った某ターミナル駅のスターバックスのざわめく店内で書きあげており、明日のいつもの時間に第30章をお披露目する頃にはさらにそこに一章が付け加わっているでしょう。もっとも、結果的に2日分のストックであることに変わりはない。なにやら言い訳めいた文章だが、それが事実である。
では、また明日お会いしましょう。
いつもの飲み場で缶ビール3本をあおりながら、ぼんやり一日を回顧する。あの人の姿、声、話したこと、……。一喜一憂し、翻弄され、無性に愛おしくなり、やはり高嶺の花なのかも、と慨嘆する。が、終業時間の前後は、挙動不審の行動が目立っていたよ、あの人。うん。
明日明後日はおいら休みだから、逢えないけれど、孤独を嘆くことなく一人の時間を慈しもう。
第1120日目 〈エレミヤ書第29章:〈エレミヤの手紙〉withあらかじめ想定された未来;休みの日はなにを読もうかな、……〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第29章です。
エレ29:1-23〈エレミヤの手紙〉
バビロンにいるヨヤキン王以下、ユダの捕囚のすべてに宛ててエレミヤが書いた手紙。それはユダからの使節に託された。そのエレミヤの手紙に曰く、主はこういった、と。続けて、━━
あなたたちは捕囚の地バビロンに家を建てて新たな生活を営み、そこで配偶者を得て子供をもうけ、家庭を築きなさい。その町の平安を求め、祈りなさい。町の平安は即ちあなたたちの平安である。
あなたたちはバビロンにいてわたしの名を騙る預言者にだまされてはならない。わたしがバビロンの地にも預言者を立てた、とあなたたちはいうが、わたしはかれらを召して遣わしたことはない。偽りの預言者たちを、わたしはネブカドネツァルに渡す。かれらは王の剣によって、人々の前で撃たれる。かれらの名は以後、呪いの的となる。
やがてバビロンの地に70年の歳月が流れる。そうしてわたしはあなたたちを顧みる。わたしはあなたたちに対して或る一つの計画━━災いの計画ではなく、恵みの計画を持っている。それは未来と希望を与える計画である。あなたたちがわたしを尋ねて求めるならば、わたしは聞く。あなたたちが心を尽くしてわたしを求めるならば、あなたたちはわたしに出会うだろう。
「わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す」(エレ29:14)、と、主はいった。
エレ29:24-32〈シェマヤに対する審判〉
ネヘラミ人の預言者シェマヤ。かれは偽りの預言者であった。かれは、捕囚を是とする手紙をバビロンへ書き送ったエレミヤを取り締まるべし、という手紙をエルサレムに住むすべての民と時の祭司ツェフェンヤに送った。ツェフェンヤはエレミヤを呼び、シェマヤの手紙を見せた。
そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、わたしの名を騙って偽りの預言をしたシェマヤとその子孫たちをわたしは罰する。かれの子孫は誰一人として、この民のなかに住むことも、主の恵みの業に与ることもない。シェマヤがわたしの名を騙って偽りの預言をし、わたしに逆らったからである。
昨日のブログと構造の似た章と感じました。エレミヤを糾弾する偽りの預言者が登場し、エレミヤ或いは主によってかれに裁きが降される、という構造は、エレミヤの預言を正当化する一方で、主により選ばれた預言者のステータスが如何ばかりであったかを証明するものでもあるように思います。
明日(今日ですか)行けば2連休。特にすることもないので(……)現在放送中の和久井映見さん主演(※)ドラマ『ビターシュガー』の原作(大島真寿美 小学館文庫)でも読もうかな、と考えている。
が、けっきょくいつも通りキングの短編「十時の人々」を読んで過ごすんだろうな。これを読み終えるのは週末になるかも。読み甲斐のある短編なのだ。まあ、ふだんから読んでいるものを消化する、というのは、安全な策でもある。わかっているさ、そんなこと。あらかじめ想定された未来だ。
あらかじめ想定された未来といえば、あのすばらくて誰よりも大切に想う女性(ひと)が、今月なかばにあるお食事会への参加が実現してくれますように。まずはそこから。そうして新たなステージへ━━そう希望する。◆
※「主演」というわけでもないのだが、さんさんか的には主演者はこの女性以外のどこにいるのか、とふしぎでならぬのだ。そういえば、正真正銘主演作であったドラマ『四十九日のレシピ』の原作も先日、文庫化されましたね。□
エレ29:1-23〈エレミヤの手紙〉
バビロンにいるヨヤキン王以下、ユダの捕囚のすべてに宛ててエレミヤが書いた手紙。それはユダからの使節に託された。そのエレミヤの手紙に曰く、主はこういった、と。続けて、━━
あなたたちは捕囚の地バビロンに家を建てて新たな生活を営み、そこで配偶者を得て子供をもうけ、家庭を築きなさい。その町の平安を求め、祈りなさい。町の平安は即ちあなたたちの平安である。
あなたたちはバビロンにいてわたしの名を騙る預言者にだまされてはならない。わたしがバビロンの地にも預言者を立てた、とあなたたちはいうが、わたしはかれらを召して遣わしたことはない。偽りの預言者たちを、わたしはネブカドネツァルに渡す。かれらは王の剣によって、人々の前で撃たれる。かれらの名は以後、呪いの的となる。
やがてバビロンの地に70年の歳月が流れる。そうしてわたしはあなたたちを顧みる。わたしはあなたたちに対して或る一つの計画━━災いの計画ではなく、恵みの計画を持っている。それは未来と希望を与える計画である。あなたたちがわたしを尋ねて求めるならば、わたしは聞く。あなたたちが心を尽くしてわたしを求めるならば、あなたたちはわたしに出会うだろう。
「わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す」(エレ29:14)、と、主はいった。
エレ29:24-32〈シェマヤに対する審判〉
ネヘラミ人の預言者シェマヤ。かれは偽りの預言者であった。かれは、捕囚を是とする手紙をバビロンへ書き送ったエレミヤを取り締まるべし、という手紙をエルサレムに住むすべての民と時の祭司ツェフェンヤに送った。ツェフェンヤはエレミヤを呼び、シェマヤの手紙を見せた。
そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、わたしの名を騙って偽りの預言をしたシェマヤとその子孫たちをわたしは罰する。かれの子孫は誰一人として、この民のなかに住むことも、主の恵みの業に与ることもない。シェマヤがわたしの名を騙って偽りの預言をし、わたしに逆らったからである。
昨日のブログと構造の似た章と感じました。エレミヤを糾弾する偽りの預言者が登場し、エレミヤ或いは主によってかれに裁きが降される、という構造は、エレミヤの預言を正当化する一方で、主により選ばれた預言者のステータスが如何ばかりであったかを証明するものでもあるように思います。
明日(今日ですか)行けば2連休。特にすることもないので(……)現在放送中の和久井映見さん主演(※)ドラマ『ビターシュガー』の原作(大島真寿美 小学館文庫)でも読もうかな、と考えている。
が、けっきょくいつも通りキングの短編「十時の人々」を読んで過ごすんだろうな。これを読み終えるのは週末になるかも。読み甲斐のある短編なのだ。まあ、ふだんから読んでいるものを消化する、というのは、安全な策でもある。わかっているさ、そんなこと。あらかじめ想定された未来だ。
あらかじめ想定された未来といえば、あのすばらくて誰よりも大切に想う女性(ひと)が、今月なかばにあるお食事会への参加が実現してくれますように。まずはそこから。そうして新たなステージへ━━そう希望する。◆
※「主演」というわけでもないのだが、さんさんか的には主演者はこの女性以外のどこにいるのか、とふしぎでならぬのだ。そういえば、正真正銘主演作であったドラマ『四十九日のレシピ』の原作も先日、文庫化されましたね。□
タグ:旧約聖書 エレミヤ書
第1119日目 〈エレミヤ書第28章:〈ハナンヤとの対決〉with好きな相手が考えていることがわかれば、……&わたくしは、ボスの「ワーキング・オン・ア・ドリーム」を歌う。〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第28章です。
エレ28:1-17〈ハナンヤとの対決〉
前章の〈軛の預言〉がされた同じ年、つまり、ゼデキヤ王第4年の5月のことである。ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、主の神殿にてユダの民すべてとエレミヤに向かって、こういった。曰く、━━
わたしハナンヤはバビロン王の軛を打ち砕く。わたしハナンヤは、バビロンに奪われた神殿の祭具すべてを、今後2年のうちにこの場所へ持ち帰らせる。わたしハナンヤはヨヤキン王と、王といっしょに連れてゆかれたすべてのユダの民を、捕囚の地からこの場所へ帰らせる。わたしがバビロンの軛を打ち砕くからだ。
エレミヤは、やれやれ、と首を横に振って(かどうかは知らないが)、ハナンヤにいった。どうか主が君の言葉を実現してくれるよう祈るんだな、と。そうして、ハナンヤとユダのすべての民にいった。曰く、「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」(エレ28:9)と。
それを聞いてハナンヤは、エレミヤの首にあった軛をはずして砕いた。そうして民に、わたしはこのようにしてバビロンの軛を打ち砕く、と叫んだ。エレミヤはその場を立ち去った。
主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、
行ってハナンヤにいえ。お前は木の軛を砕いたが、代わりに鉄の軛を作って諸国の首にはめた。これにより、諸国はバビロンの王ネブカドネツァルに仕え、その奴隷となる。
エレミヤはハナンヤに主の言葉を伝え、さらに言い足した。曰く、お前は主により遣わされた預言者ではない、と。主はお前を地の面から追い払う、といった。主に逆らい、主を騙ったお前は今年中に死ぬ。エレミヤはそういった。果たしてその年の7月に、アズルの子ハナンヤは死んだ。
ハナンヤは新改訳ではハナヌヤ。偽りの預言者がバビロンの支配を短命なものと考え、周囲のユダの民に吹聴していたことは、おそらく多々あったと思います。エレミヤの預言が周囲から拒まれて、あまつさえ本人までが疎んじられて忌み嫌われる者となっていた状況を考えれば、ハナンヤのような人物が現れたとしてもふしぎではないでしょう。
が、斯くも堂々と登場し、エレミヤと対決(対立)するハナンヤはそうした意味で、エレミヤの預言━━ユダはバビロンに屈して70年を捕囚として過ごし、バビロンの崩壊に併せてふたたびユダの地に帰還する━━が正しかったことを立証する役割を与えられた存在として、稀有というべき人物であります。
とはいえ、わたくしはこの章を読んでいてハナンヤの野暮ったさ、地団駄を踏む様、軽率な行動ゆえに事態を悪化させる薄ら馬鹿ぶりに、なんともいえぬ愛着を感じていることを、失言を承知で申しあげておきたく思うのであります。
好きな相手が考えていることがわかれば、苦しむこともないのにね、という極めてプライヴェートでかつ普遍的な悩みから発展する今日のお話です。
「終わりよければすべて良し」、とは日常的に使う言葉であり、シェイクスピアの戯曲のタイトルでもある諺だが、うーん、それって本当なのかなぁ、と考えさせられることがしばしばある。
たとえば仕事が終わって退社する直前に「終わりよければすべて良し」といえる状況が生まれれば万事オール・ライトなのだろうけれど、その殻を突き破ってそれ以前に巣喰っていた負の感情が噴出したりすることってないのかな。
送迎バスのいちばん後ろの席に坐って、すっかり闇に閉ざされた外の世界を見せる窓に映りこんだ己の顔を見ながら、ふと、そんなことを考えた。今日一日のあれこれを思い出しながら、心のなかで七転八倒し。うれしかったけれど、辛かったなあ。最後にちょっとだけ話せたことが気持ちを上向きにさせたものの、相手がわからないだけにどんな小さな事柄さえ、ふだんなら気にも留めないような事柄もすべて彼女に結び付けて、疑心暗鬼に陥ってしまう自分がいる。大嫌いだ、こんなわたくしは。
でも、希望を捨て切れていないのがせめてもの救い。あの人が寄せてくれる愛情がどんなに小さくても、それだけがあればきっとなんとか生きていけるだろう。
いまは過去の人物となり果せた感のあるチャーミー・I氏の如く、ポジティヴであり続けることができれば救いといえようけれど、残念ながらそんな離れ業のできる人間など錚々いるわけではない。だからこそ、いつ如何なるときでもポジティヴであり続けられるよう、われらは自らを律して下を向いたりしないようにするのだが、ふとした拍子にすべてを疑い、表情や言葉の裏を探ろうと足掻いてしまう。まったく人間とは小さな生き物だ━━それとも、わたくしだけがマイノリティというべき存在なのだろうか?
好きな相手が考えていることがわかれば、苦しむこともないのにね、という極めてプライヴェートでかつ普遍的な悩みから発展した今日のお話でした。
わたくしは、ボスの「ワーキング・オン・ア・ドリーム」を歌う。なぜ? いまは遠いと思える<夢>のために力を尽くし、それを実現させようと諦めていないからだ。◆
エレ28:1-17〈ハナンヤとの対決〉
前章の〈軛の預言〉がされた同じ年、つまり、ゼデキヤ王第4年の5月のことである。ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、主の神殿にてユダの民すべてとエレミヤに向かって、こういった。曰く、━━
わたしハナンヤはバビロン王の軛を打ち砕く。わたしハナンヤは、バビロンに奪われた神殿の祭具すべてを、今後2年のうちにこの場所へ持ち帰らせる。わたしハナンヤはヨヤキン王と、王といっしょに連れてゆかれたすべてのユダの民を、捕囚の地からこの場所へ帰らせる。わたしがバビロンの軛を打ち砕くからだ。
エレミヤは、やれやれ、と首を横に振って(かどうかは知らないが)、ハナンヤにいった。どうか主が君の言葉を実現してくれるよう祈るんだな、と。そうして、ハナンヤとユダのすべての民にいった。曰く、「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」(エレ28:9)と。
それを聞いてハナンヤは、エレミヤの首にあった軛をはずして砕いた。そうして民に、わたしはこのようにしてバビロンの軛を打ち砕く、と叫んだ。エレミヤはその場を立ち去った。
主の言葉がエレミヤに臨んだ。曰く、
行ってハナンヤにいえ。お前は木の軛を砕いたが、代わりに鉄の軛を作って諸国の首にはめた。これにより、諸国はバビロンの王ネブカドネツァルに仕え、その奴隷となる。
エレミヤはハナンヤに主の言葉を伝え、さらに言い足した。曰く、お前は主により遣わされた預言者ではない、と。主はお前を地の面から追い払う、といった。主に逆らい、主を騙ったお前は今年中に死ぬ。エレミヤはそういった。果たしてその年の7月に、アズルの子ハナンヤは死んだ。
ハナンヤは新改訳ではハナヌヤ。偽りの預言者がバビロンの支配を短命なものと考え、周囲のユダの民に吹聴していたことは、おそらく多々あったと思います。エレミヤの預言が周囲から拒まれて、あまつさえ本人までが疎んじられて忌み嫌われる者となっていた状況を考えれば、ハナンヤのような人物が現れたとしてもふしぎではないでしょう。
が、斯くも堂々と登場し、エレミヤと対決(対立)するハナンヤはそうした意味で、エレミヤの預言━━ユダはバビロンに屈して70年を捕囚として過ごし、バビロンの崩壊に併せてふたたびユダの地に帰還する━━が正しかったことを立証する役割を与えられた存在として、稀有というべき人物であります。
とはいえ、わたくしはこの章を読んでいてハナンヤの野暮ったさ、地団駄を踏む様、軽率な行動ゆえに事態を悪化させる薄ら馬鹿ぶりに、なんともいえぬ愛着を感じていることを、失言を承知で申しあげておきたく思うのであります。
好きな相手が考えていることがわかれば、苦しむこともないのにね、という極めてプライヴェートでかつ普遍的な悩みから発展する今日のお話です。
「終わりよければすべて良し」、とは日常的に使う言葉であり、シェイクスピアの戯曲のタイトルでもある諺だが、うーん、それって本当なのかなぁ、と考えさせられることがしばしばある。
たとえば仕事が終わって退社する直前に「終わりよければすべて良し」といえる状況が生まれれば万事オール・ライトなのだろうけれど、その殻を突き破ってそれ以前に巣喰っていた負の感情が噴出したりすることってないのかな。
送迎バスのいちばん後ろの席に坐って、すっかり闇に閉ざされた外の世界を見せる窓に映りこんだ己の顔を見ながら、ふと、そんなことを考えた。今日一日のあれこれを思い出しながら、心のなかで七転八倒し。うれしかったけれど、辛かったなあ。最後にちょっとだけ話せたことが気持ちを上向きにさせたものの、相手がわからないだけにどんな小さな事柄さえ、ふだんなら気にも留めないような事柄もすべて彼女に結び付けて、疑心暗鬼に陥ってしまう自分がいる。大嫌いだ、こんなわたくしは。
でも、希望を捨て切れていないのがせめてもの救い。あの人が寄せてくれる愛情がどんなに小さくても、それだけがあればきっとなんとか生きていけるだろう。
いまは過去の人物となり果せた感のあるチャーミー・I氏の如く、ポジティヴであり続けることができれば救いといえようけれど、残念ながらそんな離れ業のできる人間など錚々いるわけではない。だからこそ、いつ如何なるときでもポジティヴであり続けられるよう、われらは自らを律して下を向いたりしないようにするのだが、ふとした拍子にすべてを疑い、表情や言葉の裏を探ろうと足掻いてしまう。まったく人間とは小さな生き物だ━━それとも、わたくしだけがマイノリティというべき存在なのだろうか?
好きな相手が考えていることがわかれば、苦しむこともないのにね、という極めてプライヴェートでかつ普遍的な悩みから発展した今日のお話でした。
わたくしは、ボスの「ワーキング・オン・ア・ドリーム」を歌う。なぜ? いまは遠いと思える<夢>のために力を尽くし、それを実現させようと諦めていないからだ。◆
タグ:旧約聖書 エレミヤ書
第1118日目 〈エレミヤ書第27章:〈軛の預言〉with雨のなか、缶ビールを飲みながら、……〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第27章です。
エレ27:1-22〈軛の預言〉
ゼデキヤ王の御代に立ってそれ程経っていない時分である。主の言葉が、エレミヤに臨んだ。かれはそれを、主の指定した相手にそれぞれ告げた。
主の言葉。エルサレムに派遣されてきたエドム、モアブ、ティルス、アンモン人の王の使者たちに。曰く、━━
帰って告げよ、汝らの主君に。わたしが創造した大地とそこに住む人間、動物を、わたしはわたしの目に正しいと映る者の手にゆだねる。それはバビロンの王ネブカドネツァルである。諸国民はかれと彼の子孫に仕えるが、バビロンに終焉のときが来れば、諸国はかれらを自分の奴隷とするだろう。バビロンに従わぬ国は剣、飢饉、疫病によって罰せられ、その後バビロンの手で滅ぼされる。あなた方は、バビロンに従うな、と奨める預言者、占い師、夢占い、卜者(ぼくしや)、魔法使いの言葉を信じてはならない。かれらの言葉を鵜呑みにすれば、あなた方はわたしに追い散らされて遠くの地に住むことになる。しかしバビロンの軛を負い、バビロンに従うならば、あなた方はいまの土地に残り、耕作をして住むことができるようになる。
主の言葉。ユダの王ゼデキヤに。曰く、━━
さあ、首を差し出してバビロンの軛を負い、バビロン王とその民に仕えよ。そうすれば命を失うことはない。どうしてあなたとあなたの民が、剣や飢饉、疫病によって滅びてよいわけがあろうか。エドムやモアブの王に、その使者たちを通して警告したように、バビロンに従うな、と奨める預言者たちの言葉を信じてはならない。わたしはかれらを預言者として召してはいない。かれらはわたしの名の下に預言するが、それらはすべて偽りだ。もしユダとあなたがこれらの預言者に従うならば、あなたたちを追い散らし、件の預言者たちを滅ぼす。
主の言葉。祭司と、すべての民に。曰く、━━
バビロン軍がエルサレムから撤収する際に運び去った、神殿の祭具の数々。これらがもうじきここに戻されてくる、という預言者を信じてはならない。かれらの預言は偽りの預言である。かれらの言葉に聞き従うことなく、バビロンの軛を負ってそれに従え。そうすれば生き永らえることができる。どうしてこの都が廃墟となってよいわけがあろうか。もしかれらが本物の預言者であるならば、いま都に残るすべての祭具がバビロンへ持ち去られぬよう、精々祈るがよい。
主の言葉。エルサレムに残されたすべての祭具について。曰く、━━
青銅の台、「海」、台、その他、この都に残されている祭具。これらはネブカドネツァル率いる帝国軍による(第一次)エルサレム占領と(同)バビロン捕囚がされた際、運び出されていかなかった物である。が、これらの祭具もやがてバビロンに運ばれて、然るべき時代になるまでそこに留め置かれる。が、わたしはこれらの祭具をふたたびこの場所━━エルサレムにあってわたしの名が置かれた神殿に持ち帰らせる。
偽りの預言に従うな、バビロン(新バビロニア帝国)の捕囚となり、かの地で70年を過ごせ、そうして生き延びよ、という主のメッセージであります。<捕囚のすすめ>、とでも呼べばよいでしょうか。これまでも同じような表現で捕囚を是とするエレミヤの預言はありましたが、ここでは、もう少し掘り下げた形で述べられている点に目を引かれます。
祭具について語られますが、エズ1:7-14にペルシアを出発する帰還団へ返還された、神殿から持ち出された祭具の記事があります。また、エズラ帰還時も、祭具の数々が携えられてエルサレムにもたらされた。エズ8:25,28-30,33-34に参考となる記事があります。特に記述はないのですが、第二神殿完成時にこれら祭具は然るべき所に安置されたことでありましょう。ところで……この時代、<契約の箱>即ち聖櫃はどこに……?
「海」については王上7:23を、他の青銅で作られた祭具については王上7:41-46或いは代下4:1-7を繙いてみてください。
散髪したら脳みそまで溶けて出ていったような気がしているさんさんかです。特にこれといった話題もないのですが、さすがに今日/今夜は缶ビールを1本で止めておきました。休肝日? 否、雨降りだったからだ。……ちぇっ!!
ちなみに飲んだ缶ビールは雨のなか、傘を差して、未来をあれこれ妄想しながら、グビグビやっておりました。口ずさんでいたのはSMAPの「STAY」と土井美加の「傘の中」(♪寂しさまぎらせバラ色の夢を見ている、脇目もふらずにすれ違う独りぼっちの傘の中♪)。
それにしても、あれが好き避けなのか嫌い避けなのかよくわからない。ビールを飲みながらつらつらあの人の言動を回顧する。思い返せば思い返す程、行動に一貫性がなさ過ぎるような気がしてならない……。嗚呼、翻弄されている自分がなんとも(以下、自粛)。◆
エレ27:1-22〈軛の預言〉
ゼデキヤ王の御代に立ってそれ程経っていない時分である。主の言葉が、エレミヤに臨んだ。かれはそれを、主の指定した相手にそれぞれ告げた。
主の言葉。エルサレムに派遣されてきたエドム、モアブ、ティルス、アンモン人の王の使者たちに。曰く、━━
帰って告げよ、汝らの主君に。わたしが創造した大地とそこに住む人間、動物を、わたしはわたしの目に正しいと映る者の手にゆだねる。それはバビロンの王ネブカドネツァルである。諸国民はかれと彼の子孫に仕えるが、バビロンに終焉のときが来れば、諸国はかれらを自分の奴隷とするだろう。バビロンに従わぬ国は剣、飢饉、疫病によって罰せられ、その後バビロンの手で滅ぼされる。あなた方は、バビロンに従うな、と奨める預言者、占い師、夢占い、卜者(ぼくしや)、魔法使いの言葉を信じてはならない。かれらの言葉を鵜呑みにすれば、あなた方はわたしに追い散らされて遠くの地に住むことになる。しかしバビロンの軛を負い、バビロンに従うならば、あなた方はいまの土地に残り、耕作をして住むことができるようになる。
主の言葉。ユダの王ゼデキヤに。曰く、━━
さあ、首を差し出してバビロンの軛を負い、バビロン王とその民に仕えよ。そうすれば命を失うことはない。どうしてあなたとあなたの民が、剣や飢饉、疫病によって滅びてよいわけがあろうか。エドムやモアブの王に、その使者たちを通して警告したように、バビロンに従うな、と奨める預言者たちの言葉を信じてはならない。わたしはかれらを預言者として召してはいない。かれらはわたしの名の下に預言するが、それらはすべて偽りだ。もしユダとあなたがこれらの預言者に従うならば、あなたたちを追い散らし、件の預言者たちを滅ぼす。
主の言葉。祭司と、すべての民に。曰く、━━
バビロン軍がエルサレムから撤収する際に運び去った、神殿の祭具の数々。これらがもうじきここに戻されてくる、という預言者を信じてはならない。かれらの預言は偽りの預言である。かれらの言葉に聞き従うことなく、バビロンの軛を負ってそれに従え。そうすれば生き永らえることができる。どうしてこの都が廃墟となってよいわけがあろうか。もしかれらが本物の預言者であるならば、いま都に残るすべての祭具がバビロンへ持ち去られぬよう、精々祈るがよい。
主の言葉。エルサレムに残されたすべての祭具について。曰く、━━
青銅の台、「海」、台、その他、この都に残されている祭具。これらはネブカドネツァル率いる帝国軍による(第一次)エルサレム占領と(同)バビロン捕囚がされた際、運び出されていかなかった物である。が、これらの祭具もやがてバビロンに運ばれて、然るべき時代になるまでそこに留め置かれる。が、わたしはこれらの祭具をふたたびこの場所━━エルサレムにあってわたしの名が置かれた神殿に持ち帰らせる。
偽りの預言に従うな、バビロン(新バビロニア帝国)の捕囚となり、かの地で70年を過ごせ、そうして生き延びよ、という主のメッセージであります。<捕囚のすすめ>、とでも呼べばよいでしょうか。これまでも同じような表現で捕囚を是とするエレミヤの預言はありましたが、ここでは、もう少し掘り下げた形で述べられている点に目を引かれます。
祭具について語られますが、エズ1:7-14にペルシアを出発する帰還団へ返還された、神殿から持ち出された祭具の記事があります。また、エズラ帰還時も、祭具の数々が携えられてエルサレムにもたらされた。エズ8:25,28-30,33-34に参考となる記事があります。特に記述はないのですが、第二神殿完成時にこれら祭具は然るべき所に安置されたことでありましょう。ところで……この時代、<契約の箱>即ち聖櫃はどこに……?
「海」については王上7:23を、他の青銅で作られた祭具については王上7:41-46或いは代下4:1-7を繙いてみてください。
散髪したら脳みそまで溶けて出ていったような気がしているさんさんかです。特にこれといった話題もないのですが、さすがに今日/今夜は缶ビールを1本で止めておきました。休肝日? 否、雨降りだったからだ。……ちぇっ!!
ちなみに飲んだ缶ビールは雨のなか、傘を差して、未来をあれこれ妄想しながら、グビグビやっておりました。口ずさんでいたのはSMAPの「STAY」と土井美加の「傘の中」(♪寂しさまぎらせバラ色の夢を見ている、脇目もふらずにすれ違う独りぼっちの傘の中♪)。
それにしても、あれが好き避けなのか嫌い避けなのかよくわからない。ビールを飲みながらつらつらあの人の言動を回顧する。思い返せば思い返す程、行動に一貫性がなさ過ぎるような気がしてならない……。嗚呼、翻弄されている自分がなんとも(以下、自粛)。◆
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第1117日目 〈エレミヤ書第26章:〈神殿におけるエレミヤの説教〉&〈預言者ウリヤの死〉with年賀状用小説のラフ・スケッチを描く。〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第26章です。
エレ26:1-19〈神殿におけるエレミヤの説教〉
ヨヤキム王の御代になってそれ程経っていない時分である。主がエレミヤに、神殿の庭に立って王や高官、すべての民にわたしの言葉を、端折ることなく語れ、といった。かれらがそれを聞いて悔い改めれば、わたしは降そうと考えていた災いについて思い直そう。が、もし悔い改めることなく、正しい道に立ち帰ることがないならば、私はこの都をシロのようにして、すべての国々の呪いの的にする。
神殿の庭に集まって聞いていた人々━━祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤが語り終えるや一斉につめ寄り、激しくなじった。お前はなぜ主の名によって預言し、王都の未来を偽るのか、と。そこへ高官たちが来て、裁きの座に着いた。祭司と預言者たちは、エレミヤが万死に値する、と陳述した。エルサレムに敵対する預言を行ったのだから、と。
それでもなおエレミヤは、こういうて憚らなかった。曰く、━━
「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の言葉に聞き従わなければならない。主はこのように告げられた災いを思い知らされるかもしれない。わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」(エレ26:12-15)
高官たちはそれを聞いて、エレミヤに罪なし、与えるべき罰もなし、と判断、かれをなじるすべての人々に宣言した。なんとなればかれは真実、主の名によって預言したのだから。かれらはかつてヒゼキヤ王の御代に生きた預言者ミカの訴えと、それに王と民がことごとく従ったので、主が災いを降すのを思い直したことを引き合いに出した。そうしてこういった、「我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている」(エレ26:19)と。
斯くしてエレミヤは死をまぬがれた。シャファンの子アヒカムによって保護され、民の手に落ちて謀殺されぬよう目配りされたからだ。
エレ26:20-24〈預言者ウリヤの死〉
エレミヤと同じ時代、キルヤト・エアリムにウリヤという預言者がいた。かれはエレミヤとまったく同様な預言を、ユダとエルサレムに対して行った。ヨヤキム王はウリヤ捕縛に人を派遣した。ウリヤはいち早く危険を察してエジプトへ逃れた。が、そこにも追っ手が迫り、遂にかれは捕らえられた。ウリヤはヨヤキム王の前に引き出され、剣で撃たれた。遺体は共同墓地に捨てられた。
同じ時代を生きた二人の預言者。ウリヤは命を落とし、エレミヤは生き延びた。これを天道というなら、果たして是か非か。
ウリヤという預言者について聖書はここでのみ語り、如何なる人物であったのか、如何なる事績を残したのか、定かに記さない。が、エレミヤと同じ時代に生きて同じ内容の預言をし、しかしその運命はまさに対照的であった。自分はここを読んだとき、無常だな、と感じました。が、ウリヤがエレミヤ程の強い信念を持って預言したのでないならば、かれの神を信じる心の強さに問題があったのかもしれない。それらを踏まえて、斯く本文を作成しました。
神殿の説教は既にエレ7で語られましたが、本章はそれを補完する章といえます。両方を読めば、もうちょっと立体的に、当時の状況がわかるでしょう。なお、エレミヤを庇護した高官たちがいうミカの名が冠せられる預言書が「ミカ書」であります。かれについては「ミカ書」で改めて触れる予定です。
オープン時から行っているスターバックスでコーヒーを飲みながら、年賀状用小説のラフ・スケッチを描く。だんだん見えてきた。それと同時に、これを1,300字前後の文字数に落とさなくてはならない作業を思うて暗澹となる。なにを信じて生きてゆくべきか? とどのつまり、伝えたいことはここにある、か……。◆
エレ26:1-19〈神殿におけるエレミヤの説教〉
ヨヤキム王の御代になってそれ程経っていない時分である。主がエレミヤに、神殿の庭に立って王や高官、すべての民にわたしの言葉を、端折ることなく語れ、といった。かれらがそれを聞いて悔い改めれば、わたしは降そうと考えていた災いについて思い直そう。が、もし悔い改めることなく、正しい道に立ち帰ることがないならば、私はこの都をシロのようにして、すべての国々の呪いの的にする。
神殿の庭に集まって聞いていた人々━━祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤが語り終えるや一斉につめ寄り、激しくなじった。お前はなぜ主の名によって預言し、王都の未来を偽るのか、と。そこへ高官たちが来て、裁きの座に着いた。祭司と預言者たちは、エレミヤが万死に値する、と陳述した。エルサレムに敵対する預言を行ったのだから、と。
それでもなおエレミヤは、こういうて憚らなかった。曰く、━━
「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の言葉に聞き従わなければならない。主はこのように告げられた災いを思い知らされるかもしれない。わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」(エレ26:12-15)
高官たちはそれを聞いて、エレミヤに罪なし、与えるべき罰もなし、と判断、かれをなじるすべての人々に宣言した。なんとなればかれは真実、主の名によって預言したのだから。かれらはかつてヒゼキヤ王の御代に生きた預言者ミカの訴えと、それに王と民がことごとく従ったので、主が災いを降すのを思い直したことを引き合いに出した。そうしてこういった、「我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている」(エレ26:19)と。
斯くしてエレミヤは死をまぬがれた。シャファンの子アヒカムによって保護され、民の手に落ちて謀殺されぬよう目配りされたからだ。
エレ26:20-24〈預言者ウリヤの死〉
エレミヤと同じ時代、キルヤト・エアリムにウリヤという預言者がいた。かれはエレミヤとまったく同様な預言を、ユダとエルサレムに対して行った。ヨヤキム王はウリヤ捕縛に人を派遣した。ウリヤはいち早く危険を察してエジプトへ逃れた。が、そこにも追っ手が迫り、遂にかれは捕らえられた。ウリヤはヨヤキム王の前に引き出され、剣で撃たれた。遺体は共同墓地に捨てられた。
同じ時代を生きた二人の預言者。ウリヤは命を落とし、エレミヤは生き延びた。これを天道というなら、果たして是か非か。
ウリヤという預言者について聖書はここでのみ語り、如何なる人物であったのか、如何なる事績を残したのか、定かに記さない。が、エレミヤと同じ時代に生きて同じ内容の預言をし、しかしその運命はまさに対照的であった。自分はここを読んだとき、無常だな、と感じました。が、ウリヤがエレミヤ程の強い信念を持って預言したのでないならば、かれの神を信じる心の強さに問題があったのかもしれない。それらを踏まえて、斯く本文を作成しました。
神殿の説教は既にエレ7で語られましたが、本章はそれを補完する章といえます。両方を読めば、もうちょっと立体的に、当時の状況がわかるでしょう。なお、エレミヤを庇護した高官たちがいうミカの名が冠せられる預言書が「ミカ書」であります。かれについては「ミカ書」で改めて触れる予定です。
オープン時から行っているスターバックスでコーヒーを飲みながら、年賀状用小説のラフ・スケッチを描く。だんだん見えてきた。それと同時に、これを1,300字前後の文字数に落とさなくてはならない作業を思うて暗澹となる。なにを信じて生きてゆくべきか? とどのつまり、伝えたいことはここにある、か……。◆
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第1116日目 〈エレミヤ書第25章:〈神の僕ネブカドレツァル〉with年賀状用の小説&あの人のいない職場で考えた。〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第25章です。
エレ25:1-38〈神の僕ネブカドレツァル〉
前606年、即ちヨヤキム王第4年、バビロニアではネブカドレツァル第1年のこと。ユダの民すべてに対する主の言葉がエレミヤに臨んだ。かれはそれを、ユダのすべての国民、エルサレムのすべての住民に語った。曰く、━━
私はヨシヤ王第13年から今日に至るまでの23年間、自分に臨んだ主の言葉をあなた方へ語り聞かせてきた。私エレミヤだけではない、他の預言者たちもそうだった。われわれは、主の道に立ち帰って悪を捨てよ、主以外の神に依り頼みそれに従うな、といってきた。しかしあなた方は、主の言葉にも、われわれの言葉にも、耳を傾けず、従わなかった。あなた方は偶像を作ってこれをあがめ、それゆえにこそ主を怒らせた。主の災いがあなた方に降る。
主はこう仰る。わたしはバビロニアの王ネブカドレツァルをわが僕として召し、北の諸民族を動員させて南進させ、ユダとこの王都を滅亡させる。そこはまったき廃墟となり、そこを通りかかった者たちを呆然とさせる。生き残ったユダの民はバビロニアの捕虜となり、かの地に連れてゆかれる。捕囚民となったユダはそこで70年を過ごす。そうしてその70年目にこそ、バニロニアの王とその民、カルデア人の地をその罪ゆえに罰する。そこは永久(とこしえ)の荒れ野となる。
「わたしはこの地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。彼らもまた、多くの国々と強大な王たちに仕えるようになる。わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。」(エレ25:13-14)
主は怒りの酒の杯を用意し、私に渡した。主が私を遣わすすべての国々にそれを飲ませるように、と。私はその杯を取り、遣わされるすべての国々に飲ませた。即ち、エジプト、ウツの地、ペリシテ人の地━━アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドドの王とその民のすべてに。また、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王とその地のすべての人々に。また、海の向こうの島々の王たちに。また、デダン、ブズ、テマ、もみあげの毛を切っているすべての人々に。また、荒れ野に住むアラビアのすべての王と混血の民の王、ジムリ、エラム、メディア、北方諸国のすべての王に。そうして最後にバビロンの王に。私は主の怒りの酒を飲ませる。
主はこう仰る、「飲んで酔い、おう吐し、倒れて起きあがるな、わたしがお前たちの中に送る剣のゆえに。彼らがあなたの手から杯を受けず、飲むことを拒むなら、あなたは彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。お前たちは必ず飲むことになる。」(エレ25:27-28)
主はこう仰った。主の激しい怒りの言葉を、ユダのすべての国民、エルサレムのすべての住民に告げよ、と(エレ25:30-38)。
バビロン捕囚と70年後の捕囚解放を予告した章。「列王記」と「歴代誌」の当該箇所、「エズラ記」冒頭を併せて読んでいただきたいと願うこと、いつもと変わりはありません。
引用したなかにある「この巻物」とはエレ36:2にある、エレミヤがバルクに後述した巻物をいうのでしょうか。となれば、この巻物が<原エレミヤ書>となりますよね。
なお、一人称が混在するので、これまでと同様ですが、主については「わたし」、エレミヤについては「私」と区別しています。
想う/思うこと、願うことがいっぱいあって、ドキドキしている。これまでたくさん踏みつけられてきたのだもの、せめて生涯あの人と添い遂げさせてください。
そのために自分がしなくてはならないことは幾らでもある。まずはキャリア・パスをしてあの人に安心してもらえるようにすること。
そのためにも━━がんばるためにも、へこたれず前に進んでゆくためにも、あの人が寄せてくれる情愛が欲しい。
いつもの飲み場でだけでなく、あの人のいない職場でそんなことを考えた。
年賀状用の小説をそろそろ書かないと。いろいろ考えて、……“あの日”の出来事を素描する掌編にした。モティーフとなるのは「上を向いて歩こう」。でも、1,300字メドでまとまってくれるのかな?◆
エレ25:1-38〈神の僕ネブカドレツァル〉
前606年、即ちヨヤキム王第4年、バビロニアではネブカドレツァル第1年のこと。ユダの民すべてに対する主の言葉がエレミヤに臨んだ。かれはそれを、ユダのすべての国民、エルサレムのすべての住民に語った。曰く、━━
私はヨシヤ王第13年から今日に至るまでの23年間、自分に臨んだ主の言葉をあなた方へ語り聞かせてきた。私エレミヤだけではない、他の預言者たちもそうだった。われわれは、主の道に立ち帰って悪を捨てよ、主以外の神に依り頼みそれに従うな、といってきた。しかしあなた方は、主の言葉にも、われわれの言葉にも、耳を傾けず、従わなかった。あなた方は偶像を作ってこれをあがめ、それゆえにこそ主を怒らせた。主の災いがあなた方に降る。
主はこう仰る。わたしはバビロニアの王ネブカドレツァルをわが僕として召し、北の諸民族を動員させて南進させ、ユダとこの王都を滅亡させる。そこはまったき廃墟となり、そこを通りかかった者たちを呆然とさせる。生き残ったユダの民はバビロニアの捕虜となり、かの地に連れてゆかれる。捕囚民となったユダはそこで70年を過ごす。そうしてその70年目にこそ、バニロニアの王とその民、カルデア人の地をその罪ゆえに罰する。そこは永久(とこしえ)の荒れ野となる。
「わたしはこの地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。彼らもまた、多くの国々と強大な王たちに仕えるようになる。わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。」(エレ25:13-14)
主は怒りの酒の杯を用意し、私に渡した。主が私を遣わすすべての国々にそれを飲ませるように、と。私はその杯を取り、遣わされるすべての国々に飲ませた。即ち、エジプト、ウツの地、ペリシテ人の地━━アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドドの王とその民のすべてに。また、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王とその地のすべての人々に。また、海の向こうの島々の王たちに。また、デダン、ブズ、テマ、もみあげの毛を切っているすべての人々に。また、荒れ野に住むアラビアのすべての王と混血の民の王、ジムリ、エラム、メディア、北方諸国のすべての王に。そうして最後にバビロンの王に。私は主の怒りの酒を飲ませる。
主はこう仰る、「飲んで酔い、おう吐し、倒れて起きあがるな、わたしがお前たちの中に送る剣のゆえに。彼らがあなたの手から杯を受けず、飲むことを拒むなら、あなたは彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。お前たちは必ず飲むことになる。」(エレ25:27-28)
主はこう仰った。主の激しい怒りの言葉を、ユダのすべての国民、エルサレムのすべての住民に告げよ、と(エレ25:30-38)。
バビロン捕囚と70年後の捕囚解放を予告した章。「列王記」と「歴代誌」の当該箇所、「エズラ記」冒頭を併せて読んでいただきたいと願うこと、いつもと変わりはありません。
引用したなかにある「この巻物」とはエレ36:2にある、エレミヤがバルクに後述した巻物をいうのでしょうか。となれば、この巻物が<原エレミヤ書>となりますよね。
なお、一人称が混在するので、これまでと同様ですが、主については「わたし」、エレミヤについては「私」と区別しています。
想う/思うこと、願うことがいっぱいあって、ドキドキしている。これまでたくさん踏みつけられてきたのだもの、せめて生涯あの人と添い遂げさせてください。
そのために自分がしなくてはならないことは幾らでもある。まずはキャリア・パスをしてあの人に安心してもらえるようにすること。
そのためにも━━がんばるためにも、へこたれず前に進んでゆくためにも、あの人が寄せてくれる情愛が欲しい。
いつもの飲み場でだけでなく、あの人のいない職場でそんなことを考えた。
年賀状用の小説をそろそろ書かないと。いろいろ考えて、……“あの日”の出来事を素描する掌編にした。モティーフとなるのは「上を向いて歩こう」。でも、1,300字メドでまとまってくれるのかな?◆
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第1115日目 〈エレミヤ書第24章:〈良いいちじくと悪いいちじく〉withいっしょにいてうれしい人と、……〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第24章です。
エレ24:1-10〈良いいちじくと悪いいちじく〉
新バビロニア帝国による第一次エルサレム占領と、それに伴う第一次バビロン捕囚がされた後のこと、即ちユダ王国がその王位に最後の王ゼデキヤを戴いていた時分である。
主の神殿の前に、いちじくの実が盛られた籠が二つ、置いてあった。一つの籠には初生りのようによく熟れた、非常に良いいちじくが。一つの籠には食べることもできないような、非常に良くないいちじくが。エレミヤはその前に立った。主の言葉が聞こえた。
主の曰く、━━
既に捕囚として連れて行かれた前王ヨヤキンを始め、ユダの高官たち、工匠や鍛冶職人、兵士たちを、わたしは一つの籠に盛られた良いいちじくのように見做して、恵みを与える。わたしはかれらに目を留め、恵みを与え、この地へ連れ戻そう。そうしてかれらに、わたしが主、神であることを知る心を与える。かれらはわたしの民になり、わたしはかれらの神になる。「彼らは真心をもってわたしのもとへ帰ってくる。」(エレ24:7)
一方で、未だこのエルサレムへ残る者、即ちゼデキヤ王とその近臣、或いはエジプトに移り住んだ者らを、わたしは一つの籠に盛られた悪いいちじくのように見做して、かれらを、あらゆる国にとって恐怖と嫌悪の対象となるようにする。かれらはわたしが追いやったあらゆる国で、辱めと物笑いの種になり、嘲りと呪いの的となる。「わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」(エレ24:10)
本章に目を通した後で、並行箇所となる王下24:8-17〈ユダの王ヨヤキン〉(第0432日目)をもお読みいただけると幸いです。ここに捕囚として連れられていった人々の詳細が書かれています(第14-16節)。この第一次エルサレム占領/第一次バビロン捕囚は、ヨヤキン王第8年の出来事であり、われらにもう少しわかりやすくいうと、前598年のことでありました。
イチジクは聖書の舞台に程近いアラビア南部が原産とされ、不老長寿の果物とされていたこともある果実。クワ科イチジク属の落葉高木或いは果実であり、わが国では「無花果」とも「映日果」とも書く。そういえば以前、知る人からなにかのお祝いで、東京は井の頭公園の近くにあるイチジク料理専門店(だったかな)でご馳走になったことがありました。味や雰囲気など、とうに記憶から抜け落ちていて、きょう本ブログの原稿を書いていて突然この店の存在を思い出したのですが、このお店はいまでも営業しているのでしょうか。それ以前に、この店がわたくしの妄想の産物ではないことを祈りたいです。
きょう、なけなしの勇気を振り絞った。どうか来てくれますように。フリーランスでありますように。これをきっかけに交際が始まりますように。……いっしょにいてうれしい人と、鼓動がやむその瞬間(とき)までいっしょにいられますように。
キング「かわいい子馬」は最初から読み直しです。◆
エレ24:1-10〈良いいちじくと悪いいちじく〉
新バビロニア帝国による第一次エルサレム占領と、それに伴う第一次バビロン捕囚がされた後のこと、即ちユダ王国がその王位に最後の王ゼデキヤを戴いていた時分である。
主の神殿の前に、いちじくの実が盛られた籠が二つ、置いてあった。一つの籠には初生りのようによく熟れた、非常に良いいちじくが。一つの籠には食べることもできないような、非常に良くないいちじくが。エレミヤはその前に立った。主の言葉が聞こえた。
主の曰く、━━
既に捕囚として連れて行かれた前王ヨヤキンを始め、ユダの高官たち、工匠や鍛冶職人、兵士たちを、わたしは一つの籠に盛られた良いいちじくのように見做して、恵みを与える。わたしはかれらに目を留め、恵みを与え、この地へ連れ戻そう。そうしてかれらに、わたしが主、神であることを知る心を与える。かれらはわたしの民になり、わたしはかれらの神になる。「彼らは真心をもってわたしのもとへ帰ってくる。」(エレ24:7)
一方で、未だこのエルサレムへ残る者、即ちゼデキヤ王とその近臣、或いはエジプトに移り住んだ者らを、わたしは一つの籠に盛られた悪いいちじくのように見做して、かれらを、あらゆる国にとって恐怖と嫌悪の対象となるようにする。かれらはわたしが追いやったあらゆる国で、辱めと物笑いの種になり、嘲りと呪いの的となる。「わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」(エレ24:10)
本章に目を通した後で、並行箇所となる王下24:8-17〈ユダの王ヨヤキン〉(第0432日目)をもお読みいただけると幸いです。ここに捕囚として連れられていった人々の詳細が書かれています(第14-16節)。この第一次エルサレム占領/第一次バビロン捕囚は、ヨヤキン王第8年の出来事であり、われらにもう少しわかりやすくいうと、前598年のことでありました。
イチジクは聖書の舞台に程近いアラビア南部が原産とされ、不老長寿の果物とされていたこともある果実。クワ科イチジク属の落葉高木或いは果実であり、わが国では「無花果」とも「映日果」とも書く。そういえば以前、知る人からなにかのお祝いで、東京は井の頭公園の近くにあるイチジク料理専門店(だったかな)でご馳走になったことがありました。味や雰囲気など、とうに記憶から抜け落ちていて、きょう本ブログの原稿を書いていて突然この店の存在を思い出したのですが、このお店はいまでも営業しているのでしょうか。それ以前に、この店がわたくしの妄想の産物ではないことを祈りたいです。
きょう、なけなしの勇気を振り絞った。どうか来てくれますように。フリーランスでありますように。これをきっかけに交際が始まりますように。……いっしょにいてうれしい人と、鼓動がやむその瞬間(とき)までいっしょにいられますように。
キング「かわいい子馬」は最初から読み直しです。◆
タグ:旧約聖書 エレミヤ書
第1114日目 〈エレミヤ書第23章:〈ユダの回復〉&〈預言者に対する言葉〉withS.キング短編集『いかしたバンドのいる街で』を読了しました。〉 [エレミヤ書]
エレミヤ書第23章です。
エレ23:1-8〈ユダの回復〉
主は、自分の民を牧する牧者について、こういった。曰く、━━
わたしの羊の群れを散らして追い払い、顧みなかった、滅ぼすだけしか能のない牧者たちを、わたしは罰する。かれらに代わって、わたしの思いに添う牧者を新たに立てる。
かつて散らされた諸国から、羊の群れが帰ってくる。かれらは子供を作り、育て、増やす。やがてかれらを牧する牧者をわたしは立てる。その牧者によって羊の群れは恐れることも怯えることも、迷い出ることもなく暮らす。
「見よ、このような日が来る、と主は言われる。/わたしはダビデのために正しい牧者を起こす。/王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。/彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。/彼の名は、『主はわれらの救い』と呼ばれる。」(エレ23:5-6)
むかし人々はいった、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と。が、いまは違う。人々はこういって誓うようになる。即ち、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」(エレ23:7-8)と。
エレ23:9-40〈預言者に対する言葉〉
わたしの言葉を伝えるべき預言者たちは堕落した。サマリアの預言者たちは他の神々によって預言し、エルサレムの預言者たちは姦淫と偽りを旨とする。かれらは主の口の言葉を語るのではなく、自分たちの心のなかの幻を、<託宣>と称して語る。かれらは主の会議に立って主の言葉を聞いたこともない。もしかれらが主の会議に立って主の口の言葉を聞いていたら、国をも民をも正しい方向へ導くことができていただろう。
主の言葉を偽って人々を惑わせた預言者たちよ、わたしはこういう。曰く、━━
「わたしはお前たちを全く退け、お前たちの父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちをわたしの前から捨て去る。そしてお前たちに、けっして忘れえない永久の恥と永久の辱めを与える。」(エレ23:39-40)
〈ユダの回復〉で語られるのは、メシア預言であります。字面だけ追って読み流せば、捕囚からの解放とエルサレムへの帰還となりましょうが、もうちょっとだけ慎重に読むと、明瞭なるメシア預言であることに気附く。
ここで思い出すのは、イザ7:14で触れたインマヌエルの誕生を預言するイザヤの言葉。これを踏まえたものが、マタ1:23にありました。インマヌエルは「神はわれらと共にいる」という意味ですが、引用したなかで触れられる「主はわれらの救い」まではほんの一歩の距離です。ちなみに、マタ1:21ではイエスの命名後、「この子は自分の民を罪から救う」と、主の天使がマリアに告げています。
とは申しても、単純に捕囚解放後、エルサレム帰還団のリーダーシップを担った、と解釈するなら、捕囚としてバビロニアに連れ去られたヨヤキム王の孫ゼルベバブ(エズ2:2)となりましょうけれどね。
〈預言者に対する言葉〉は〈ユダの回復〉が予想していたよりも長くなってしまった関係もあって、なるべく簡潔に、明快に、と心掛けました。本文も全31節と、「エレミヤ書」ではやや長めのものになりますが、主の怒りの言葉をなんとか要約して上記のようになったことをお知らせしておきます。
それにしても、スタバのテラス席って快適ですね。
キングの短編集『いかしたバンドのいる街で』は「自宅出産」と「雨期来たる」の2編を以て読了した。
「雨期来たる」はたしか『マリ・クレール』誌に「レイニー・シーズン」として掲載され、その後に知ったところではキングが深刻なライターズ・ブロックから脱出するきっかけとなった短編であった。このゲテモノ怪作ぶりがキングの短編の真骨頂といえようが、どこからどう見てもキング印が刻印されていて、かつこの直前まで断筆まで考えられる程に深刻だったライターズ・ブロックの痕跡が残っていない点で、まさに奇跡的な一作と呼べる短編でもある。でも、こんな作品が復活のきっかけとなった、というのも、キングらしくていいですよね。
「自宅出産」はかつて「ホーム・デリヴァリー」という、原題そのまんまのタイトルで読むことができた。訳文に手が加えられているように思うのだが、どうなのだろうか。いまちょっと『死霊の宴』上巻が手許にないので比較検討できないが、誰かつぶさに照らし合わせてみては如何か。
今日から『メイプル・ストリートの家』を携えて出掛けているが、通勤の行き帰りや休日の喫茶店などでたっぷり楽しませてもらうつもりです。◆
エレ23:1-8〈ユダの回復〉
主は、自分の民を牧する牧者について、こういった。曰く、━━
わたしの羊の群れを散らして追い払い、顧みなかった、滅ぼすだけしか能のない牧者たちを、わたしは罰する。かれらに代わって、わたしの思いに添う牧者を新たに立てる。
かつて散らされた諸国から、羊の群れが帰ってくる。かれらは子供を作り、育て、増やす。やがてかれらを牧する牧者をわたしは立てる。その牧者によって羊の群れは恐れることも怯えることも、迷い出ることもなく暮らす。
「見よ、このような日が来る、と主は言われる。/わたしはダビデのために正しい牧者を起こす。/王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。/彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。/彼の名は、『主はわれらの救い』と呼ばれる。」(エレ23:5-6)
むかし人々はいった、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と。が、いまは違う。人々はこういって誓うようになる。即ち、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」(エレ23:7-8)と。
エレ23:9-40〈預言者に対する言葉〉
わたしの言葉を伝えるべき預言者たちは堕落した。サマリアの預言者たちは他の神々によって預言し、エルサレムの預言者たちは姦淫と偽りを旨とする。かれらは主の口の言葉を語るのではなく、自分たちの心のなかの幻を、<託宣>と称して語る。かれらは主の会議に立って主の言葉を聞いたこともない。もしかれらが主の会議に立って主の口の言葉を聞いていたら、国をも民をも正しい方向へ導くことができていただろう。
主の言葉を偽って人々を惑わせた預言者たちよ、わたしはこういう。曰く、━━
「わたしはお前たちを全く退け、お前たちの父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちをわたしの前から捨て去る。そしてお前たちに、けっして忘れえない永久の恥と永久の辱めを与える。」(エレ23:39-40)
〈ユダの回復〉で語られるのは、メシア預言であります。字面だけ追って読み流せば、捕囚からの解放とエルサレムへの帰還となりましょうが、もうちょっとだけ慎重に読むと、明瞭なるメシア預言であることに気附く。
ここで思い出すのは、イザ7:14で触れたインマヌエルの誕生を預言するイザヤの言葉。これを踏まえたものが、マタ1:23にありました。インマヌエルは「神はわれらと共にいる」という意味ですが、引用したなかで触れられる「主はわれらの救い」まではほんの一歩の距離です。ちなみに、マタ1:21ではイエスの命名後、「この子は自分の民を罪から救う」と、主の天使がマリアに告げています。
とは申しても、単純に捕囚解放後、エルサレム帰還団のリーダーシップを担った、と解釈するなら、捕囚としてバビロニアに連れ去られたヨヤキム王の孫ゼルベバブ(エズ2:2)となりましょうけれどね。
〈預言者に対する言葉〉は〈ユダの回復〉が予想していたよりも長くなってしまった関係もあって、なるべく簡潔に、明快に、と心掛けました。本文も全31節と、「エレミヤ書」ではやや長めのものになりますが、主の怒りの言葉をなんとか要約して上記のようになったことをお知らせしておきます。
それにしても、スタバのテラス席って快適ですね。
キングの短編集『いかしたバンドのいる街で』は「自宅出産」と「雨期来たる」の2編を以て読了した。
「雨期来たる」はたしか『マリ・クレール』誌に「レイニー・シーズン」として掲載され、その後に知ったところではキングが深刻なライターズ・ブロックから脱出するきっかけとなった短編であった。このゲテモノ怪作ぶりがキングの短編の真骨頂といえようが、どこからどう見てもキング印が刻印されていて、かつこの直前まで断筆まで考えられる程に深刻だったライターズ・ブロックの痕跡が残っていない点で、まさに奇跡的な一作と呼べる短編でもある。でも、こんな作品が復活のきっかけとなった、というのも、キングらしくていいですよね。
「自宅出産」はかつて「ホーム・デリヴァリー」という、原題そのまんまのタイトルで読むことができた。訳文に手が加えられているように思うのだが、どうなのだろうか。いまちょっと『死霊の宴』上巻が手許にないので比較検討できないが、誰かつぶさに照らし合わせてみては如何か。
今日から『メイプル・ストリートの家』を携えて出掛けているが、通勤の行き帰りや休日の喫茶店などでたっぷり楽しませてもらうつもりです。◆
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