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第2586日目 〈かれらが遺してくれたもの──小諸の町を想う。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしは初めて訪れるずっと以前から、小諸の街並みや小諸を取り巻く自然を、見て知っていた。

 二十歳の夏のこと。家族四人で軽井沢にある祖父の別荘にて数日を過ごした後、車で西へ下った。どうして小諸へ行くことになったか、まったく覚えていない。想像するに、なにかの拍子に島崎藤村の話題になり、ゆかりの街が近くにあるから行ってみようか、という流れでなかったか。きっかけはともかく、われらは一夏の家族旅行の〆括りに、信州小諸へ立ち寄ったのだった。
 そう、島崎藤村はこの街に教師として赴任していたことがあった。小諸時代の作物に随筆『千曲川のスケッチ』と詩集『落梅集』がある。『落梅集』は名作「千曲川旅情の歌」、就中「小諸なる古城のほとり」を収めることで知られよう。
 『千曲川のスケッチ』には小諸城址からの景観が、こんな風に綴られている──
 「私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える」
 くたびれた文庫本を久しぶりに書架から出して開き、この一文に出くわしたとき、或る光景を思い出した。初めて訪れたその夏の日よりもずっと以前に見た覚えのある、小諸の街の光景だった。ここで話は冒頭にリンクする。

 小諸に縁ある著名人は、なにも島崎藤村に限らぬ。人によって選ぶ人物は変わるだろう。失礼ながら異郷者たるわたくしには、小諸といえばこの人物しか思い当たらない。マンガ家、小山田いく(1956.6-2016.3)である。
 小諸に生まれ、小諸に育ち、小諸の土に帰った人、小山田いく。氏のマンガの、すくなくとも初期の短編、長編は故郷小諸を舞台にすることが多かった。描きやすく、馴染み深く、愛着ある土地だったからだろう。早過ぎる晩年には小諸市のオリジナル壁紙や「こもろすみれ姫」のデザインを手掛けるなどして、生まれ故郷に貢献されていた様子である。
 長きにわたってシーンの最前線で活動するに氏の作風はちょっと地味だった。しかし、優しさとぬくもりと慈しみにあふれた画風とストーリーには、数はすくなくとも熱心なファンがずっと付いていた。
 氏の亡きあと有志のファンによって「民宿 懐古苑」と「小諸宿 本陣主屋」の二ヶ所をメイン会場にした追悼展が開かれて、連日盛況であったと風の噂に聞く。仕事の関係で足を運ぶことは出来なかったが、無理してでも出掛けるべきだった、と今更ながら後悔している。

 『すくらっぷブック』を読み始めたのは小学校高学年だが、そのあと灰色の十代後半を過ごすことになり、小山田作品すべてを押し入れの奥に突っこんで読まないようにしてしまった。現実に打ちのめされたからだ。その封印期間は高校を卒業して進学するまで続く。押し入れから引っ張り出して再び読み耽るようになるのは、進学先で折口信夫の民俗学に遭遇したためである。
 折口信夫の学問に触れて民俗学へ興味を抱き、自分の住まう土地の伝承や祭事、地方の伝統芸能を調べたり、取材と称して小旅行に出たことが、しばしばあった。そのルーツはどこにあるか、つらつら考えて──みるまでもなかった。兄から借りた『週刊少年チャンピオン』に連載されていた『すくらっぷブック』へ辿り着くより他にないではないか。
 封印を解除したあとで読む小山田作品、殊『すくらっぷブック』は単なる青春グラフィティの枠を大きく越えて、民俗学への関心をかき立てるテキストのようになっていた。信州或いは雪国という馴染みなき地の習俗や地勢などについて知るきっかけを作った作品へと、変貌していたのである。
 たとえば、南国の宮崎生まれで北国に憧れていた他校の転校生を誘って雪の高峰高原へ遊びに来た、第92話「雪ぼっこ」。
 その転校生はかまくらを作って内部の温かさに驚き、かつ喜び、ラスト小諸の街へ帰るときは農家の伜が編んだ藁頭巾をかぶって高峰高原を降りてゆく。
 雪が日常的に降る地方では傘を差すことがあまりないこと、転校生のかぶる藁編みの笠を藁頭巾とか藁帽子などと呼ぶこと、雪のたくさん降った年は豊作と言い伝えられていること、それらを知ったのはこの第92話に於いてである。
 或いは第30話「虎落笛」。浅間山から風の吹き下ろす所には葦簀を作らないと雪が吹き溜まって、出入り口の開閉を妨げてしまう。太平洋岸でしか暮らしたことのない者には、頭では理解できてもまるで実感のない生活の知恵だ。
 同じエピソードでは、葦簀の隙間を通った風が立てる笛の音の如きを虎落笛と呼ぶことも紹介される。この虎落笛が冬の季語であることは、亡き婚約者が遺した歳時記で知った。

 二十歳の夏の日、家族で小諸懐古園へ行った。懐古園には藤村の詩碑がある。刻まれるのは、むろん「小諸なる古城のほとり」である。「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/……」
 が、正直なところ、この詩碑が園内のどこにあったか、記憶は定かでない。インターネットで懐古園の園内図を見てみたり、グーグル・マップやグーグル・ストリートビューを使って仮想散策してみたけれど、なにかが違うように思えて仕方ない。殆どすべての位置関係が、記憶のなかの園内とは微妙に異なっている気がしてしまうのだ。四半世紀も経てば誰の身にも自ずと生じる、記憶の書き換え現象ゆえの違和感だろう。
 そんなわけで詩碑については十中八九、わたくしの記憶違いなのだが、仮想散策をした結果、記憶と現実の間に違うところのない場所が、一つだけあった。懐古園西端の展望台である。
 あの夏、わたくしはここに立って、眼下に千曲川が流れる光景を目にした。グーグル・マップの千曲川は両岸がずいぶんと開けて樹木も少なく、痩せた川に見える。以前は川の色も濃く、両岸は深い緑で覆われていたように思うのだが……。そんな風にパソコンのモニタ画面とにらめっこしながら展望台からの記憶を整理、点検していると、再び『すくらっぷブック』の一コマが脳裏に甦ってくる。
 時は三月、或る日の宵刻。中学を卒業したばかりの主人公、柏木晴(晴ボン)以下クラスの生徒を前に、担任であった正木先生がこの展望台にて最後のホームルームを行う。千曲川の流れを指差して、正木先生はいう──
 「よくここでスケッチしたもんだが…おもしろい川だよ/スケッチする時の気分で絵がガラッと変わっちまう/鏡だな あの水面は……心を映す鏡ってやつだ!」
 残念ながらわたくしは、千曲川を前にしたときの気分、感情、抱えているもの次第で幾らにでも姿面容を変えてゆく水面の表情を観察することのないまま、あの夏、そこから去った。一ヶ所に何時間も腰を据えるのは、家族が一緒の旅行者には出来ない芸当なのだ。
 さりながら、あの悠然とも泰然とも形容できる千曲川の流れを思い出すたび、正木先生の台詞に共鳴する自分がいる。人生は移ろいやすく、消えやすい。『方丈記』を持ち出すまでもなく、行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、なのだ。
 千曲川は人生を映し出す鏡に似ている。異郷者なのに、こんな知ったような発言はおかしいだろうか。でも、小諸を訪れる前からそんな刷り込みがされていたのだ。それが『すくらっぷブック』というマンガの一コマ、台詞に基づくものであることは、もはや改めて申しあげるまでもない。

 『すくらっぷブック』を読み返すたび、描かれる街並みは当時の様子に比較的忠実であった、という、どこかで聞いた文言を思い出す。あれから四半世紀。小山田いくが愛した小諸の街は、いまどれだけ往時の面影を留めているのか。
 主人公の親友、イチノと理美がしばしの別れを前にファーストキスを交わした、小諸駅の「貨物置き場の横をとおるとき 一瞬死角に」なる「だれにも見えない」場所はいまでもあるのだろうか。カメラ屋の娘みっちゃんの自宅兼店舗は改装されることなく、作品のなかで描かれたままに残っているのだろうか。
 或いは──四コマ漫画誌に発表された短編、「約束」で印象的に描かれた千曲川対岸の久保や山浦から眺めた小諸の街並みは、いまも同じように見えるのだろうか。
 この短編では、バーのマスターが客に対岸の久保や山浦に行ってみてはどうか、と勧める場面がある。「小諸は浅間山の麓の街ですから 対岸から眺めると平衡感をなくすようで ちょっと気持ちいいですよ」と。
 このあとに前述の見開き絵が登場するのだが、その折に女性が呟く台詞、「ふ…と からだが揺らいで 心が別世界に転がり込む」、傾くような感覚を味わうためにだけでも、いつの日かわたくしは小諸を再訪しよう、と固く誓った。勿論、あれから何年も経ついまでもその誓いは果たされていない。呵々。
 浅間山麓の街、小諸は傾斜の街である。東北旅行からの帰り、電車の窓外に広がる明かりを見た晴ボンの台詞──「浅間山へ向かってせりあがる光のつらなりは ボクたちの街の光だ/ただいま ボクの街」(第66話「暁着3時31分」)と、藤村が『千曲川のスケッチ』で記した「一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ」、そうして「約束」に於ける台詞と見開き絵。この三つは見事なまでの調和を見せてわたくしのなかにあり続けている。

 あの二十歳の夏の日以来、わたくしは小諸を訪れていない。
 ここへ一緒に来た父も祖父も、もうこの世の人ではない。
 学生だったわたくしは社会人になり、不惑の年齢を超えて未だ迷い続けている。◆
                    
 追記:『千曲川のスケッチ』と「小諸なる古城のほとり」は新潮文庫から、『すくらっぷブック』と「約束」(『きまぐれ乗車券』所収)は『小山田いく選集』から、引用した。□

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