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第2207日目 〈「エフェソの信徒への手紙」前夜&〈獄中書簡〉について。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 「エフェソの信徒への手紙」は〈獄中書簡〉と呼ばれる書簡群の最初であります。この名称は「エフェソの信徒への手紙」とこれに続く「フィリピの信徒への手紙」、「コロサイの信徒への手紙」、<パウロ書簡>の最後を飾る「フィレモンへの手紙」に冠せられたもので、いずれもパウロが獄中の身にあった時分に書かれた手紙をいうのです。
 では、この「獄」とはどこなのか。ローマだという者もあれば、シリアのカイサリアであるという者もいる。いずれも2年の間パウロが監禁もしくは軟禁されていた場所であります(カイサリア/使24:27、ローマ/使28:30)。
 わたくし自身は人の出入りが激しかったと想像されるローマよりは、たびたび総督フェリクスから呼び出されたと雖もじっくりと自分の考えを整理して言葉で表現する術を練ることの出来たカイサリアこそその場所に相応しい、と思うております。人類史を根本から揺るがすような、或いは価値観の変動を求めるような思想は育って行くには、なんというても持続される静寂と機械的な生活サイクルが必須でありましょう。「獄」の場所を求めるにあたり、ざわめくローマの借家よりは沈黙のカイサリアの監獄を選択肢として出されれば、わたくしはどうしてもカイサリアに可能性を見出すのであります。
 但し、「使徒言行録」とてパウロの動向を逐一書き留めたわけではないでしょうから、われらの知らない長期の獄中生活を(継続してか断続してかは別として)過ごしたことがあったかもしれない。史実は常に歴史の闇へ隠されてしまうこと多々であります。これを一概に誇大妄想と切って捨てることは誰にもできないのではないでしょうか。
 そうなると、4つの書簡の執筆場所はシリアのカイサリアに限定され、また執筆年代も自ずと範囲が狭まってくる。どれが最初か、となると熟考を要しましょうし、もはやわたくしの手には負えないことを自覚するよりないが、およそ58-60年の間に書かれて、かつ順番は不明である、と申しあげるが精々であります。

 では、「エフェソの信徒への手紙」。
 「使徒言行録」の後半でパウロは3次にわたる宣教旅行中、幾つもの町乃至は村を訪れました。今回の手紙の宛先であるエフェソはそんなパウロが訪れた町のなかでも特に記憶に残る所であります。というのも、(観光土産になっている)アルテミス神殿の模型製作に携わることで生計を立てていた職人らがパウロの宣教に反対して暴動を起こした挿話は、第3回宣教旅行のハイライトというてよいものだったからであります(使19:21-40)。
 旅行が終わってカイサリア監禁中の2年間のうちに、パウロは本書簡の筆を執りました。では「エフェソの信徒への手紙」はどのような内容を持つのでありましょうか。
 要約すると、キリストの愛によってユダヤ人も異邦人もすべて結び合わされ、キリスト者としての新しい生活を各人で営みなさい、ということ。その新しい生活をパウロは夫婦、親子の間に適用し、主人と奴隷の間に援用し、そうしてキリストに反する<悪>と戦うよう説くのでした。最後のものについて先走って引用すれば、──
 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェ6:10-12)
 わたくしの感想でしかありませんが、本書簡はこれまで読んできたなかは勿論、13あるパウロ書簡のなかでも特にわかりやすく、読みやすいものであるように思うのであります。おそらく、ここで語られている内容が神学というよりも人生論、人間関係の助言のように読めるからでありましょう。キリスト教が夫婦や親子の有り様について述べる事柄は、本書簡に源流といいますか基盤があるように思えます。
 「エフェソの信徒への手紙」の執筆年代について書き忘れるところでした。パウロがカイサリアに監禁されていた頃、ローマ帝国から任命されてユダヤ総督の地位に在ったのは、アントニウス・フェリクスとその後任ポルキウス・フェストゥス。パウロはフェリクス在任中に投獄/監禁され、フェストゥス着任の年──つまり総督職が引き継がれた60年──に解放された。本書簡が58-60年の間に書かれた、と先に述べた背景はこれであります。
 なお、「エフェソの信徒への手紙」は同じ〈獄中書簡〉の一、「コロサイの信徒への手紙」と内容的にも表現的にも酷似した箇所がある、といいます。ゆえに2つの書簡が期を同じうして別々の宛先へ書かれた、と考えるのが自然であります。が、一部には「コロサイの信徒への手紙」をパウロ真筆とし、それを基にして他人が「エフェソの信徒への手紙」を書いた、と主張する一派もあるそう。さりながら本ブログではそうした説があることを紹介・容認しつつも、特にそれに拠ることなく進めてまいります。
 それでは明日から1日1章の原則で「エフェソの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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第2206日目 〈新潮文庫はひのまどか著〈作曲家の物語〉シリーズ全巻の復刊を急げ。〉 [日々の思い・独り言]

 学生時代、とても関心のある分野の本なのに他に買うべき本があったりしてわが所蔵とすること能わず、立ち読みや図書館から借りてくるばかりであった本がある。細かく回顧すれば何十、何百とそうした本があるけれど、そのうちの1つが、ひのまどか著リブリオ出版から出されていた〈作曲家の物語〉シリーズであった。たしか20冊近く刊行されていたはずだが、わたくしはどの1冊も持っていない。シベリウスとバルトークは図書館で何度も借りたことがあったけれど──。
 ひのまどかの著作は久しく目にしていなかった。なのにまさか昨年12月、新潮文庫から当の〈作曲家の物語〉シリーズの1冊、『美しき光と影 モーツァルト物語』が改題・復刊されようとは! 懐かしさもあって即日購入したのだが、その「あとがき」で著者はいう、本書と復刊が決まっているベートーヴェンを契機に他の書目も文庫化されればいいな、と。わたくしもそれを希望する。元版のシリーズを読んだことがある人ならば、誰しも同じ思いを抱くのではないか。が、おそらくその希望は叶えられまい。ドラマ『のだめカンタービレ』放送中の時期ならどうにかなったかもしれない。が、いまの状況では全巻の復刊はチト難しかろう。むろん、実現に向けて一読者としてできる限りのことはしたいと思う。
 今日、ブックオフで不良CDセットの返品・返金を済ませたあと、県内に本拠地を持つ新刊書店の前で催されている古本ワゴン市を覗いてみた。すると、セットの文庫本が積まれて背表紙の見えにくくなっていた単行本の、辛うじて読み取れるタイトルと、その背表紙の上部のデザインに記憶が刺激された。たしかこの本は……、と文庫本の山を崩してサルベージしてみれば、それはまさしくひのまどか著〈作曲家の物語〉シリーズの1冊、『バイロイトへの長い道 ワーグナー物語』だったのである。神保町にある新刊書店の地下1階の片隅、エレベーター扉前の音楽書だか児童書だかのコーナー前に陣取って、数日にわたって日参、1巻を読み通したその本──。売価、500円。
 いま、いつものスタバで本日の原稿を書き終えたあと、購入した本にゆっくり目を通している。クラシック音楽にどっぷりと浸かりあまつさえCDショップに身を置き世過ぎしていた頃、完治不能のワグネリアンとして胸を張って生きていた頃(自称ゆえ斯く付言す、呵々、と)、そうしてなによりもドラマティックすぎる“バイロイトの楽匠”の生涯を冷静と情熱の狭間で熱狂していた頃を回想しつつ、そのぬくもりに満ちた筆致でその破天荒な人生を描き尽くした著者の力量に惚れ惚れしながら。
 詳細かつ決定版的ワーグナー伝をお望みなら渡辺護著『リヒャルト・ワーグナー 激動の生涯』(音楽之友社)を、事実と正確さを求めながらも読み物として優れたワーグナー伝を望むならひのまどかの本書を、それぞれ推奨の1冊としよう。眺め渡さずともわかるが、実は読み物としてのワーグナー伝というのは少ない。まぁ、決して範とできるような人生を送った人ではないからなぁ……。人妻との不倫、そのうちの1人は略奪婚でその後のワーグナー王国の礎を築いた女性。借金しまくって逃亡生活の繰り返し。ドレスデン革命を煽動した廉で指名手配されて捕縛されてからは国外追放、やがて崇拝者であるバイエルン王の知己を得てからは国庫から自身の芸術の実現のため(という名目で)湯水の如く金銭を引き出して。エトセトラ、エトセトラ。つまり枚挙に暇がないということ。こうしたワーグナーの生涯をすばらしい読み物に仕立てたのだから、ひのまどかの筆力は尋常ではない。
 モーツァルトやワーグナー、バルトーク、シベリウスに限らず、作曲家の生涯をこうも瑞々しく描ける人はそう多くあるまい。やはり新潮文庫は覚悟を固めて、著者がほぼライフワークと思うたであろうこの、現地取材に基づく点をウリの1つとする生命力にあふれた〈作曲家の物語〉シリーズ全点の復刊に着手していただきたい。そう希望する。◆

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第2205日目 〈映画『残穢』、語り残したこと。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の『残穢』の感想で「怪談とは」の定義を個人的ながら付けた。その際、劇中で登場人物がそこで展開される恐怖──穢れの連鎖を、「話しても聞いても憑かれる」という端的な言葉で述ていることにも触れた。予定していた内容を変更して再び『残穢』を取り挙げるのは、昨日かから身の回りにあった<残穢>的な現象のご報告をしておきたいからだ。そんなに怖い話でないから大丈夫、ご安心あれ。
 ──さて、<残穢>的な現象だが3つある。この24時間で3つなら結構な確率ではないのかな。
 1つ目は、昨夜午前1時半を少し回った頃であったか、階下でなにやら物音がした。わたくしの部屋はリビングに面した壁に観音開きの窓があり、そこからつながる廊下や玄関、個室の扉の開閉などどれだけ些細な物音であっても、かりに音の発生に相手が余程細心の注意を払ったとしても、起きている限りは確実にわたくしの耳に入ってくる。そのとき、個室の扉が開く音はしなかった、と断言できる。
 だのに、廊下を歩く摺り足のような音がし、時折小さな声が聞こえてくる。思わず映画の場面を連想したことに、読者諸兄はまさか失笑したりしないであろう。わたくしは布団のなかで読んでいた本を閉じ、どんぐり眼になって、聴覚へ全神経を向け、音について様々推理した。……やがて音は止み、同時に声も聞こえなくなった。そうしてわたくしは眠りに就いた。
 2つ目は昨夕刻のことである。県立図書館から借りてきたクラシックのCDをiTunesに取り込みながら、既に取り込み済みのカラヤン=BPO=ヤノヴィッツによるR.シュトラウス《4つの最後の歌》を聴いていた。表題通り全4曲で構成される本作は作曲家晩年の名品というべきもので、このとき聴いていたカラヤン盤は特にお気に入りの演奏。そんなお気に入りをiTunesで聴いていたら、第3曲〈Beim Schlafengehen (眠りに就こうとして)〉で突然、ノイズが発生した。過去に聴いたときは一度も発生したことのないノイズである。プチッ、プチッ、ブツッ、ブツッ、というノイズ。この第3曲だけで、それは発生した。
 おかしいな、とすぐに再生を中止して、棚からCDを引っ張り出して同じ曲を再生してみた。が、何度聴いてもノイズらしきものさえ聞かれず、やれやれ、と天井を仰ぎ見た。むろん、そこにはなにもない。仕方ないのでiTunesから一旦削除して再度取り込んでみた。取り込み状況になにも異常はなかったのだが、iTunesに取り込みの終わったものを聴いてみたら、やはり依然としてノイズは発生していた。仕方ないのでiTunesから削除して、いまはそのまま放置してある。
 そうして3つ目は、実は映画鑑賞中のこと。たしか竹内結子と橋本愛が喫茶店で会って、もう調査をやめようか、と話している場面である。左斜め後ろで、誰かが咳をした。遠慮の感じられる咳だった。すぐそばではなく、少し離れた席に座っている人のようだった。
 特に気に留めることもなくそのまま映画を鑑賞していたのだが、あれ、としばらく経ってから気が付いた。わたくしは座っていたのは後ろから2列目である。自分の斜め左の方には誰も坐っていなかったはずだ。すぐ後ろの列には端から端まで誰も坐っておらず、いちばん後ろの列にしても大学生か高校生か判別のできぬ10代ぐらいの男女が3人、真ん中より少し右の方に坐っていただけだ。後ろ2列の誰彼が上映中に通路を通って出入りしたことはない。そもわたくしの聞いた咳は後列2列よりももっと離れたところでしたようだった。
 心霊スポットに足を踏み入れてしまったあとはそのまま帰宅せず、一旦繁華な場所で時間を過ごすと良い、と聞いたことがある。連れて来ないように、ということだろうか。わたくしもその顰みに倣ったわけではないが、映画の鑑賞後はパブによって黒ビールを数杯胃に流しこんだ。◆

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第2204日目 〈映画『残穢 ──住んではいけない部屋──』を観てきました。〉 [日々の思い・独り言]

 抑制の利いた演出がよけいに怖さを増している。過剰という表現とこれ程無縁なホラー映画も珍しいだろう。『残穢 ──住んではいけない部屋──』を観終えて斯く思うた。
 行き過ぎて滑稽としかいいようのない作劇や、これ見よがしな演出で観客の恐怖心は煽れない。もしかりに、スクリーンへ映し出される映像に工夫を凝らして、観客の恐怖を一時的に煽ることができたとしても、である。作品全体に、或いは一コマ一コマへ漂う空気に恐怖の因子がまるで漂っていないならば、おそらくその作品を観たあとにはなにも残らず、遊園地のアトラクション程度の印象しか与えられないであろう。「怖かった」、精々がそれだけで後日、不意に自分のなかへよみがえって思わずぶるっ、と震えてしまう、なんていう経験をさせることはないだろう。
 怪談実話を書いている小説家の許に読者からの手紙が舞いこんできて、手紙の主が経験している怪異の原因を探ってゆく、というのが本作のプロットである。これだけでご想像もつくだろうが、この映画はフェイク・ドキュメンタリーの手法を採用した、あくまで実話の体裁を持つ。それだからこそ、劇中の空気感が大切なのだ。しかもいたずらに現実の出来事である、と強調することもなく、淡々と、しかものっぴきならない震源へ、作中人物たちと一緒にわれら観客も近附いてゆくことに。
 特に注目いただきたいのはラスト・シーン。主演の竹内結子演じる「私」がマンションの住人の<その後>を説明するのだけれど、おそらく殆どの観客が気附いていたことと思う、どの場面でも厭な気分にさせるような演出がされているのだ。そうして「私」が受け取る電話や新居の廊下の電気など、まさに劇中で語られる「話しても聞いても憑かれる」が具体的に迫ってくる場面。これらは是非、劇場でもDVDでも構わぬから、耳と目を作品に集中させてご確認いただきたい。
 『残穢』はホラーというよりも怪談である。双方の厳密な定義はややこしい話になるのでさておくが、わたくしは後者を皮膚の下に入りこんできて、好むと好まざるとにかかわらず記憶にはっきり残り、心のなかへ長い年月巣喰う性質を持つものだ、と思うている。小野不由美の原作を上手くアレンジして仕上げたこの映画は、近年まるでお目に掛かることのなかった怪談映画の孤高の傑作というて良い。
 抑制が利いた演出のされた映画は、抑制の利いた演技ができる実力者を必要とする。となれば、竹内結子、橋本愛という女優が銀幕を飾るのは道理だ。表現力に優れた女優は多くいるが、現実の延長線上で体験する恐怖の探索者、目撃者として、彼女たちの持つプラスαが映画には求められていたのである。
 観客の水先案内人にもなって不可解な出来事の震源へ辿ってゆく過程で、2人の立ち位置が明瞭になってくる。竹内結子演じる「私」は傍観者、橋本愛演じる「久保さん」は牽引役、という立ち位置。「久保さん」から投げて「私」が返す図式のキャッチボールは、いつしかまだ明るさのはっきり残る黄昏の世界から眼前にかざした手がはっきり見えない程の漆黒の闇のなかへと、<場>を移してゆく──。
 それは「話しても聞いても憑かれる」という言葉がわが身に降り掛かるであろうことを承知してなお、知らずにはいられない、未知のものを解明したい、と思う。それは或る意味で人間として当たり前の行動なのだが、竹内結子も橋本愛もじゅうぶん自覚しているのに自分を突き動かす衝動から逃れられない、一種の<業>を抱えての行いであると認識した演技をしているのだろう。もしわたくしの推測が当たっていたら、この2人を主演に迎えた『残穢』はとても幸せな映画である。
 共演者については申し訳ないが、名を列記させていただくに留める。怪談作家平山夢明がモデルの平岡芳明には佐々木蔵之介、ミステリ作家で原作者小野不由美の夫綾辻行人がモデルの「私」の夫には遠藤賢一、平岡同様後半から登場して穢れの連鎖を「私」たちと一緒に辿ってゆく心霊マニア三澤徹夫には坂口健太郎、他。
 監督:中村義洋、脚本:鈴木謙一、音楽:安川午朗、美術:丸尾知行、撮影:沖村志宏、原作:小野不由美(新潮文庫)、他。
 原作小説が最凶にイッテしまっている『残穢』を見事に映像化したこのスタッフとキャストで是非、小野不由美もう一つの傑作──こちらは紛うことなきホラーである『屍鬼』の完全映画化を希望する。◆

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第2203日目 〈明日は映画のハシゴをするよ!〉 [日々の思い・独り言]

 1日働いた明日もお休みなのだ。そこでかねてより観たかった新作映画をまとめて観てしまえ、という暴挙、否、巡礼を決行することにした。
 もう既に予約済みだが、鑑賞する作品の明記は敢えて控える。まぁ、これは当然のことだね。たといお喋りなわたくしでも、そこまでの軽挙妄動は控えるだけの自制心を持ち合わせているのだ。それにうっかり喋っちゃうと、映画館にファンが押しかけちゃうからね。映画館の人々に迷惑を掛けてはいけない。
 そろそろ布団のなかへ入るとしよう。明日はちゃんと起きてご飯を食べて、チケット受取時間までに映画館へ到着できますように。電車がなんらかの事情で遅延したり運休したりしませんように(これが特に心配!)。楽しく、幸せな1日を過ごすことができますように。◆

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第2202日目 〈有川浩『ストーリーセラー』文庫化について思うこと。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日はジョン・レノンを話題にした。翌る今日は同じビートルズ・メンバーからポールを取り挙げようね。──なんてことがあるわけない。一瞬でも期待してしまった方々、相済みません。
 では気を取り直して。この20数年というもの、県立図書館のCD借り出し枚数が5枚だと信じこんでいたら、一度の借り出しは6枚までですがよろしいですか、と訊かれて動転、あと1枚を棚へ取りに行く往復12歩が面倒になってそのまま5枚のCDを借りて(内訳を知りたいの?)、荷物を仕舞ったロッカーに指を挟んで小さな悲鳴をあげたら出入り口近くの守衛さんに下向いてくすくす笑われてきた、わたくしことみくらさんさんかです。今年になって初めての2連休を満喫中ながら、ちょっとふしぎな気持ち……。
 過日、有川浩の初エッセイ集『倒れるときは前のめり』を購入した旨、本ブログにてお伝えした。本を手にして開くたび、残りのページが減ってゆくのが惜しくて、ゆっくり、ちょっとずつ読み進めている。
 ところでわたくしは以前から、この人に限ったことではないが、単行本から文庫化される際の出版社の変更について、常々疑問を抱いている者だ。偶々有川浩の話題でこの疑問が浮上したので、本稿ではこの作家の作物を俎上に上そう。われながら説得力に満ちた論は展開できぬし、皆が膝を打つような結論へ至ることはできないけれど、自分の考えの整理も兼ねて記しておきたい。
 有川浩の小説でベスト作品を選べ、といわれたら、5本指の1つに『ストーリーセラー』はかならず入る。いったい何度、これの単行本を読み返したことだろう。<難病もの>と一言で括るのはあまりに乱暴だけれど、そうして、『レインツリーの国』ぐらいにわが身へ重なるだけのものは正直ないけれど、読み返す毎にそこで描かれる愛と無理解に共鳴するのだ。──本稿は感想を認める場ではないので、いまはこれ以上書かない。
 その『ストーリーセラー』が単行本刊行から5年を経た昨年2015年12月にようやく文庫化。が、版元は新潮社ではなく、幻冬舎であったのはどうしてだろう。文庫になって手軽に読めるようになったのは嬉しいし、それを拒む理由もないはずなのに、どういうわけか、今回はそれが気になって仕方ない。
 おそらくは単行本でそうしていたように、『ストーリーセラー』が『レインツリーの国』と同じ新潮文庫から出て、内容的に二卵性双生児の如き両作を隣り合わせに並べる日の訪れを期待しすぎてしまったのだろう。
 この2つの作品については、単行本であれ文庫であれ隣同士でないと落ち着かない。発売日翌日に購った『ストーリーセラー』を、帰宅してから『レインツリーの国』と並べてみたところ……どうにもしっくりしない光景が眼前に現れた。背色が揃わぬのは致し方ないが、やはり背表紙のデザインと本そのもののサイズが揃っていないことは、違和感しかわたくしに抱かせない。
 どうして新潮社は文庫化の権利を幻冬舎に譲ってしまったのだろう。有川浩の作品に限っていえばもっと摩訶不思議なのは文藝春秋から刊行された『三匹のおっさん』シリーズで、いずれも文春文庫から出た後、新潮文庫と講談社文庫にて「新刊」として発売、いまでは新刊書店のみならず古書店(不本意ながら新古書店もここに入れておく)の棚を騒がせている。様々事情は取り沙汰されたようだが、それはさておき。そちらに較べれば『ストーリーセラー』の版元移動なぞ可愛いものだが、でもわたくしの好みには『三匹のおっさん』シリーズは合わないのでそちらを問題にする気はない。はなはだ身勝手な読者で恐縮だが、ご寛恕願いたい。
 所謂“大人の事情”がそこには介在しているのだろう。作者の判断も反映しているであろう。幻冬舎の代表を務めるのは角川書店で辣腕編集者として鳴らしたという某氏である。『図書館戦争』シリーズを擁す角川書店とのパワーバランスも考慮されたのか、或いは、特定の条件を満たした作品は角川書店と幻冬舎でも文庫化するという取り決めがされていたのか、いずれにせよ『ストーリーセラー』は新潮社の手を離れて、違う出版社から文庫化された。もしかすると幻冬舎は『阪急電車』や『植物図鑑』以上の傑作である『ストーリーセラー』を自社目録の充実のためにも、喉から手が出る程に欲しかったのかもしれないね。
 もっとも、この移動が他ならぬ新潮社から提示されたものであったならば、以上の妄想はすべて粉砕される。まぁ、或る意味どうでもいい話題ではある。が、『倒れるときは前のめり』に接したことで、昨年から弄んでいた<モヤモヤ感>が言葉を得て形になろうとしているのを見過ごすわけにはいかない。これもエッセイのネタである。好きな作家を対象にするのは気が引けたけれど、申し訳ない、書かずにはいられぬ性分なのだ。本稿にもし結論があるとすれば、『ストーリーセラー』もやっぱり新潮文庫から出てほしかったなぁ、という諦めの悪い一言。
 同じ新潮文庫から発売されており、こちらも現役として目録に残っている『レインツリーの国』が映画化に併せて角川文庫から、出版社が変わったぐらいしか変更点の見受けられぬ体裁で刊行されたことについては、「エフェソの信徒への手紙」が始まったあとにまた書こう。文字数的に独立したエッセイにはならない、という判断からである。◆

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第2201日目 〈ジョン・レノンと『クリープショー』〉 [日々の思い・独り言]

 TSUTAYA錯乱事件は未だ審議続行中なれど、幸い事は当日を以てビートルズ全オリジナル・アルバムのレンタルが完了していたこと。当方は追及の手を緩めるつもりは毛頭ないが、件の店舗に於ける返却品の管理体制のずさんさには正直呆れてしまう。誰でも他人の返却品を持って行けるビニール・バスケットで対応しているところなんて、これまで利用した店舗のなかではここだけだ。犯罪を呼ぶ環境は整っているではないか。今後、TSUTAYAは返却ポストの有無などちゃんと確認してから利用店舗を選んだ方がいいね。
 ──ということを書こうとしていたのではありません。それ以後の音楽生活の話です。
 ビートルズが終わったらば、メンバーのソロ・アルバムへ目が向くのは自然な流れでしょう。誰のアルバムを聴こうかな、学生時代にジェームズ・ボンドとマイケル・ジャクソン経由で聴いたことのあるポールかな、それともアルバム・ジャケットが印象的なジョージ・ハリスンかしら、と考えていたら、やっぱり次はジョンだろう、ジョン・レノンだろう、と会社でお昼ご飯を食べながら羽田空港に着陸する飛行機を眺めていたら、斯く唐突に思い着いたのでした。
 それから数日後、わたくしは行動範囲内にあるTSUTAYAを周回してジョン・レノンのオリジナル・アルバムがすべて置いてある店舗を探した。どこもかしこも『イマジン』以外はあったりなかったりで隔靴掻痒の感があったのだが、結局会社からいちばん近くの、スタバ併設のTSUTAYAがジョンは勿論、ポールのアルバムもほぼすべて揃えてあるのがわかり、灯台もと暗しという諺の誠なることをしみじみ実感した次第であります。或る意味、とほほ、な結果であります。
 この店舗の利用に問題点があるとすれば、退勤後の定宿に等しいスタバとは正反対の方向にあること、閉店が日付の変わったあとゆえうっかりするといつまでも(気の済むまで)原稿を書いていること、でしょうか。もう1つ挙げれば、そこのスタバで席が取れなければ代わりとなる場所は近隣に2つしかないことで、そこで仕事することはややギャンブル性を帯びることになることですね。
 使える店舗が見附ったので、さっそく何枚か借りてきた。という惹句が刷りこまれているせいか、ややイメージから外れる曲もあり、反対にイメージ通りの(言い換えればステレオ・タイプの)曲もあり、良くも悪くも振り幅の大きさに戸惑いました。が、その音楽には、確かに人の心へ直接訴えかけてくる「鋼の如き、ガラスの如き」強さが脈打っていますよね。  おまけに、歌詞カードへ目を通していたら、この人の詩才は本物だ! と叫びたくなりました。ファンになったばかりなので、このような発見をせせら笑わないでほしい(ローズウォーターさん、あなたに神の微笑みあれ。呵々)。レンタルなので残念ながら期限が来たら手許を離れてゆくことになるけれど、遅かれ早かれこの人のアルバムも全8枚購入して、およそブルース・スプリングスティーン同様歌詞カードを、穴が開くぐらい読み耽るとこになるのだろうな、と想像しています。アーティストとしてどれだけ優れていても自作の歌詞が二流なら、もうそれだけでわたくしにはその人の音楽は聴く価値がない。誰とはいわないが、ジョン・レノンはその連衆に名を連ねていません。嬉しき例外であります。  ……本稿の筆を擱こうとしているいま、聴いているのは『心の壁、愛の橋』より「#9 Dream (夢の夢)」。何度でもリピートして耳を傾けたい、それぐらいに良い曲だ……。
 紙幅が余ったので、今後発展させる予定でいたが断念した話題を一つ。  わたくしのホラー好きの始まりに位置する映画は『クリープショー』である。ジョージ・A・ロメロ、トム・サビーニ、スティーヴン・キングというホラー好きにはお馴染みのビッグ・ネームがタッグを組んだ、恐怖とユーモアが満載な1950年代のホラー・コミックにオマージュをささげた傑作映画である。  が、これは2016年現在どころかDVDソフトとして長く流通していない(Blu-rayに至っては日の目を見たことすらない)、個人的CS放送希望リクエストの首位を10数年独占してその地位から一度たりとも陥落していない作品なのだ。ヤフオクに出品されれば2万円超の値段が付き、こちらとしてもおいそれとは手が出せない金額が設定されていて、毎度指をくわえて眺める他なく……。  にもかかわらず、凡作としかいいようのない2作目はBlu-ray化されて堂々と販売されており、ロメロもサビーニもキングもいない、名ばかりの3作目すら定価で手が入る状況。駄作はいらない、傑作のみをわたくしは求める。  メーカーよ、せめて1度でいいから──期間限定で構わないから、このオムニバス・ホラー映画の名品『クリープショー』のソフト化を実行してくれ。いったいどれだけのファンが飛びつくことだろう。告知さえきちんと為されて流通すれば、手に入れたくても叶わなかった人たちが群がるはずだ。質の高いホラー映画にはいつだって熱狂的なファンがいるんだぜ。だからお願い、お星さま、愛も指輪もいらないから『クリープショー』をわが手に。◆


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第2200日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第6章:〈信仰に基づいた助け合い〉&〈結びの言葉〉with読了の挨拶〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第6章です。

 ガラ6:1-10〈信仰に基づいた助け合い〉
 万一、あなた方の誰かが不注意にも罪に陥ることがあったならば、“霊”に導かれて生きているあなた方はかれらを、柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。その際はあなた方までが誘惑に囚われないよう気をつけなさい。
 実際は何者でもないのに、自分をひとかどの人物と思う人がいます。その人は自分を欺いている。各々、己の行為を顧みて吟味すれば、誰もが、自分自身には誇れても他人には誇れるところがないことに気が付くでしょう。
 「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう。」(ガラ6:9-10)

 ガラ6:11-18〈結びの言葉〉
 わたしはこんなに大きな字で手紙を書いています。肉に於いて人から好く思われたがっている連衆がキリストの十字架ゆえの迫害を避けたいがために、あなた方を巻きこんでなかば強制的に割礼を受けさせようとしています。実際のところ、かれらは律法を守っていませんが、あなた方の肉について誇りたいがためにあなた方へ割礼を受けさせようと躍起になっているのです。
 このように、かれらはあなた方に対して誇るものがある。が、わたしにはなに一つ誇るものがあってはいけない。世はわたしに対して、わたしは世に対して、十字架にはり付けられているのです。大切なのは割礼の有無ではなく、新しく創造されることです。
 今後は誰もわたしを煩わせないでほしい。正しい信仰によって義となり、正しい福音によってキリスト者となり、全うに歩みなさい。わたしはイエスの焼き印を持たされた者なのです。
 ガラテヤの兄弟たちよ、われらが主イエス・キリストの恵みがあなた方の誰かの霊と共にあらんことを。

 道を踏み誤った人を、パウロは「不注意にも何かの罪に陥ったなら」(ガラ6:1)という。そうした人々に対して“霊”の人は柔和な心を持って正しい道を示してそこへ立ち帰らせよ、と呼びかける。
 柔和な心とは如何なるものか。それはけっして優しく、なに一つ咎め立てることなく、という意味ではない。そんな甘っちょろい話であってたまるか。むしろそれは厳格さを併せ持った献身的なものであります。混同する向きが多いやもしれぬが、「優しい」と「献身的」とな別物であります。
 かれが犯した/陥った罪を悔い、自らを責めるならば、柔和な心の持ち主の出番であります。その告白を聞き、慰撫して正しい道を示し、そこへ立ち帰ることができるよう尽力する。それが、柔和な心を持つ“霊”の授かり手の役目である──斯様にパウロはいうているように思うのであります。
 己をひとかどの人物なりと自負するものは云々という箇所を、わたくしは頭を垂れて読みたい。誰しも自分を欠くべからざる者でありたい、と願う。斯く強烈に自負する者も、一方でいる。が、果たして後者は真実それだけの人物であるのか。よくよく点検してゆけば、世間に、他人に、誇るところのある者がどれだけいることだろうか。勿論、客観的に見ても主観的に見ても、じゅうぶん誇るところのある人はたくさんいる。
 ただパウロがここでいわんとしているのは、汝驕るなかれ、という一点に尽きる。そこは勘違いしてはいけないでしょう。
 ガラ6:11「わたしは今こんなに大きい字で、自分の手であなたがたに書いています」だが、冷静に読んで立ち止まってしまうと悩んでしまう箇所であります。──どうしてわざわざ、自分で書いている、と述べるのか。この点を指して、ガラ6:10まではパウロの口述筆記なのであろう、と推測が可能だし、事実、その方向で註釈を付す乃至は解説する本もある。
 また、前半を指して、比喩表現としての「大きい字」であり、意味するところは「特筆大書」とほぼ同義だろう、と考える向きもある。
 が、パウロは眼病を患っていた、という話が本当なら、「こんなに大きい字で」云々は違う意味を持ってくるでしょう。病がどの程度だったかは不明だが、こうした書き方をする以上はあたかも白内障の如きで視界は霞み、誰に頼らないで手紙の筆を執るなら自ずと字は大きくなり、そうして、自分の手で書いている旨言い足すのも宜なるかな、と考えます。換言すれば、パウロは文字の不揃いや乱れを承知しつつ手紙の〆の部分だけでも、そうして全体の結論を成す部分だけでも、自分の手で書いておきたかったのだろうなぁ。
 ──ここを読んだ拍子に、わたくしは晩年の藤原定家を思い出した。かれも患った眼病ゆえに『明月記』や古典の写本の文字が往年に較べて乱れて大きめになっていたのではなかったかな。今度、倉庫に眠る『冷泉家時雨亭叢書』の定家自筆の影印本を引っ張り出して、眺めてみよう。もしかすると、パウロの手紙について思うところも生まれるかもしれない。



 本日を以て「ガラテヤの信徒への手紙」を終わる。1週間以内に読了する書物は新約聖書に入ってからは初めて、実際は旧約聖書続編の「ダニエル書・補遺」以来、約1年2ヶ月ぶり。これまでは1ヶ月近くを費やすことが多かったので、却って落ち着かない気分を味わっている、といえば、可笑しな告白と思われるでしょうか。
 しかしながら特筆すべき程の障りがないまま、パウロ書簡に於ける<4大書簡>の読了を迎えられたことに心底安堵しています。先月末から──本格的には今月に入ってから所謂残業が日常的に発生し、それでも1時間程度なのだから世人にいわせればなに程のものでもないし、不動産会社にいたときに較べれば物の数ではないが、退勤時間が遅うなったことで原稿を書く時間は相対的に減り、毎日毎日青息吐息の繰り返しとなれば、たとえ章数は少なくとも無事読了の日を迎えられたことを喜ばしく思うのであります。
 ──そう、なにはともあれ、「ガラテヤの信徒への手紙」は終わりました。読者諸兄あってこそのこの報告、この喜び。皆様へ感謝を。サンキー・サイ。
 次は<獄中書簡>の最初を飾る「エフェソの信徒への手紙」であります。読書開始は……そうですね、せっかく今年は4年に1度の閏年なのですから、今月末2月29日午前2時からとしたいですね。予定でしかないけれど、再開のときはどうぞまた宜しく。◆

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第2199日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第5章2/2:〈キリスト者の自由〉&〈霊の実と肉の実〉with感想が書けない、とはどういうことだ?〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第5章2/2です。

 ガラ5:2-15〈キリスト者の自由〉
 もし割礼を受けるならばキリストはなんの役にも立たないでしょう。律法によって義とされたいならば、あなた方は誰であれキリストとは縁も所縁もない輩です。
 「あたしたちは、義とされたものの希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラ5:5-6)
 果たしていったい誰があなた方の邪魔をして、真理の実践を妨げているのでしょう。こうした誘惑はあなた方を召し出す方からのものではありません。あなた方を惑わす者は、誰であれ裁かれます。
 ガラテヤの兄弟たちよ、よく考えてみてください。わたしが割礼を宣べ伝えていたならば、どうしてこれ程の迫害を受ける必要があるでしょう。もし割礼を宣べ伝えていたらば、十字架の躓きもなくなっていたはず。あなた方を惑わし、かき乱す者らはいっそ全員で去勢してしまえばいいのですよ。
 ──あなた方は自由を得るために召し出された。が、この自由を肉に与えて罪を犯させるようなことがあってはなりません。愛により互いに仕えよ。というのも、「隣人を自分の如く愛せ」という掟が律法全体を要約しているからです。もし相争うているならば、互いに滅ぼされないようにしなさい。

 ガラ5:16-26〈霊の実と肉の実〉
 霊の導きによって歩め。そうするならば、けっして肉の欲望が満足することはない。霊の望むところは肉の望みに反し、肉の望むところは霊の望みに反す。あなた方が自分のしたいことができないでいるのは、零と肉、両方に支配されているからです。が、霊に導かれているならば、あなた方は律法の下にはいない。
 肉の業を行い、耽る者は神の国を受け継がない。受け継げない、というた方が正確でしょう。肉の業とはつまり、姦淫や好色、偶像礼拝や魔術、敵意や争い事、怒り、不和、利己心、妬みそねみ、その他諸々。
 反対に、霊が結ぶ実は愛であります。そうして、喜びや平和、善意や誠実、親切、柔和、節制などであります。これらを禁じる掟など、どこにもありはしません。というのも、キリストに結ばれた人々は肉の業を欲望などと一緒に十字架に掛けてきてしまっているからです。
 「わたしたちは、霊の導きによって生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラ5:25-26)

 本日の旧約聖書はガラ5:14とレビ19:18。



 どうしたわけか、昨日、今日の原稿に於いて感想が書けずにいて困っている。思うところがなにもない、というのではなく、泡沫の如くに消えていってしまうのだ。由々しき事態とはこのことを指す。結局、この2日については迷い、悩んだ挙げ句、感想なしという悲惨な為体を曝すことになった……。これまでエッセイを書けなくても感想を書けない、という事態をこうも深刻に思うことはなかったように思う。
 スティーヴン・キングは1980年代後半に陥ったライターズ・ブロックを振り返って、なにかを書こうとしてまるでなにも書けないのは、指の隙間から濡れたティッシュが崩れ落ちて行くようだった、と述懐する。いまのわたくしも似たようなもの……というたらば、きっと中身の入った缶詰でも投げられてしまうだろう。ご存知か知らぬが、これが頭に当たるとその瞬間のみならず数時間経っても頭蓋骨レヴェルで痛みが持続して、まるでこの世の終わりかと嘆きたくなる程の錯乱に悩まされるのだ。これは本当の話である。読者諸兄よ、心して聞いておいてもらいたい。
 無理にでも感想を書こうとして、もがけばもがくだけ、読むに足るレヴェルとは程遠い壁の落書きにも等しい代物ができあがる。時間は無為に経過して、費やした時間と労力に見合う収穫は得られない。どうしてだろう。きっとわたくしは……。
 薄まった執念と献身を取り戻せば、長短の別はあっても再び以前のように感想の筆を執れるだろうか。これを小休止と、わたくしは考えてはならない。◆

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第2198日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第4章2/2&第5章1/2:〈キリストがあなたのうちに形づくられるまで〉&〈二人の女のたとえ〉with有川浩エッセイ集購入。〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第4章2/2と第5章1/2です。

 ガラ4:8-20〈キリストがあなたのうちに形づくられるまで〉
 以前は神でもない神々に奴隷として仕えていたあなた方も、いまは神を知っている。だのに、いま再びあなた方は無力で頼りにならない、支配するだけの諸霊の下へ戻り、自ら奴隷の身分に落ちようとしている。どうしてだ、わたしがあなた方のためにと力を尽くした事柄はことごとく無駄になってしまったのか。
 あなた方はかつてそちらで病気になって体を動かせないわたしをよく介抱してくれました。それがきっかけとなってわたしは福音を、あなた方へ告げ知らせたのです。あなた方はこのわたしを──受け入れることで様々な試練をあなた方へ強いたにもかかわらず──まるで神の遣いのように、あたかもキリスト・イエスその人であるかのように、扱って迎えてくれました。そのときに味わっていた幸福はどこへ消えてしまったのだろう。
 覚えておいてください。間違った教えを吹きこむあの連衆があなた方に熱心なのは、けっして善意ゆえのことではなく、自分たちへ熱心になることで却ってあなた方をわたしから引き離したいからなのです。また、そちらへわたしがいない間もあなた方がわたしを慕ってくれるなら、こんなにうれしいことはありません。
 「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」(ガラ4:19-20)

 ガラ4:21-5:1〈二人の女のたとえ〉
 律法の下にいることを望みながら、律法の言葉、律法の語りかけに耳を貸そうとしないのはなぜですか。
 アブラハムには2人の息子がいました。が、出自は異なります。1人は奴隷の女から産まれ、1人は自由な身の女から産まれました。女奴隷を母に持つ息子は肉によって生まれたのであり、自由な身の女を母に持つ息子は約束によって生まれたのです。
 実はこのことにはもう1つ、別の意味が隠されています。2人の女とは2つの契約を現している。奴隷の身分で子を設けたハガルは、シナイ山に由来する契約を意味します。そうしてそれはいまやエルサレムを指している。というのも今日のエルサレムはその子供たちと一緒に、奴隷の身分に身をやつしているからだ。一方の天のエルサレムは自由な身分の女であり、われらの母です。このことは預言者イザヤの言葉にもある通りです。
 あなた方はイサクのような約束の子です。今も昔も肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた人々を迫害しています。聖書にはこのように書かれています、奴隷とその子供を追放せよ、と。なぜならば奴隷の子は相続人たり得ないからだ、と。……要するにわれらは奴隷の子ではなく、自由な身の女の胎から出た子なのです。
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛にもう二度とつながれてはなりません。」(ガラ5:1)

 本日の旧約聖書はガラ4:22aと創16:1-2及び15、ガラ4:22b並びにガラ4:28と創18:10-14及び同21:1-2、ガラ4:27とイザ54:1、ガラ4:30と創21:10。



 本屋に行ったとき、好きな作家の新刊が偶然発売されている場面に出喰わすと、うれしい。思わず財布の紐が緩んでレジへ運び、カフェなりバーなりへといそいそと足を運んで、買ったばかりのその本を、頬をゆるめてうっとりしながら読み耽る、それはまさしく至上の喜び……。
 つい先日、有川浩の初エッセイ集『倒れるときは前のめり』(角川書店)を購入したときの自分が、まさしく上記のような状態であった。読みながらパブで2時間近くを過ごした。黒ビールと美食のお陰もあって、ただ読んでいるだけとはチト質の異なる、頗る付きで楽しい読書時間を過ごさせてもらった。
 実は有川浩のエッセイを読むのはほぼ初めてなのだけれど、小説作品と変わることなき面白さと深さを堪能した。小説とエッセイ、両方を読んで心の底から楽しめる作家って、本音をいえばあまりいない。有川浩はその数少ない存在だ。
 感想は別の機会に認めることになるが、本稿は有川浩好きのと或る女の子にささげる、いわば「読んだけど面白かったよ、読んでよかった! だからあなたもこれを読むべし!!」という報告というか押し売りというか、そうした類の文章である。
 美酒美食の傍らに良き本あれば、人生はそれだけでじゅうぶん価値がある。◆

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第2197日目 〈今日のお知らせ〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 由々しき事態の発生により原稿が書けなかった。どういうわけだが感想が書けなかったのだね。該当章を読んで本文を書いたら、もうそこで頭が停まっちゃった。もう考えるのはイヤだ、って感じに。ストックがない以上、はなはだ遺憾だが本日はお休みをいただくとしよう。でも、予定の期日には終わらせます。
 ……それって1日2記事の更新がある、ということ? YES! わたくしもやるときにはやるのだ。ただ、やらねばならぬときにエンジンが掛からなくて、あとで困った困った、と頭をかく羽目になるだけなのだ。どんなもんだい。──まぁ、こういうもの書いている間にさっさと清書しろ、という話なのですけれどね。いやはやなんとも。
 さて、池田昌子吹き替えで『ローマの休日』を観ようかな。◆

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第2196日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第3章&第4章1/2:〈律法によるか、信仰によるか〉、〈律法と約束〉他withカラヤンのバロック音楽が好きだ!〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第3章と第4章1/2です。

 ガラ3:1-14〈律法によるか、信仰によるか〉
 物分かりの悪いガラテヤの信徒への手紙の人々、あなた方を惑わせたのは誰だ。考えてみるがよい、自分たちが“霊”を受けたのは、律法によるのか、信仰によるのか、を。あなた方は“霊”によって始めたことを肉によって仕上げようとするのか。嗚呼、なんたる愚! あなた方へ“霊”を授け、あなた方の間で奇跡を行う方は、あなた方が律法を行ったためにそうするであろうか。それとも、福音を聞いて信じたからか。どちらであるか、よく考えよ。
 「創世記」にあります、アブラハムは神を信じたことで義とされた、と。ゆえ、信仰に従って生きる人々こそアブラハムの子であると弁えよ。聖書は既に異邦人が信仰によって義とされることを見越していました。疾うにアブラハムへ告げられていたのです、あなたのゆえに異邦人は皆祝福される、と。
 律法に頼る者は皆呪われている。律法によっては何人と雖も神の御前で義とされることはありません。。律法は信仰を拠り所としていないからです。──キリストはわれらのために呪いとなり、われらを律法の呪いから贖い出してくれました。木に掛けられた者は皆呪われている、と「申命記」にありますが、それは、アブラハムへ与えられた福音がキリストによって異邦人へと及ぶためでした。一方で、われらが、われらに約束された“霊”を信仰によって授かるためだったのです。

 ガラ3:15-20〈律法と約束〉
 もうちょっとわかりやすく説明しましょうか。法的に有効とされた遺言は、無効にすることも変更することも追加することもできません。
 アブラハムとその子孫に対して、神は約束として告げました。その際、かれに続く多くの人を指して、「その子孫たち」というたりしないで、そのうちのただ1人を指して「あなたの子孫とに」と表現した。神はアブラハムの時代、既にキリスト、即ちナザレのイエスのみを指名していたのです。
 神によってあらかじめ有効とされていた契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、反故にすることはできません。相続が律法に由来するならば、もはやそれは約束に由来するものではない。が、神は約束によってアブラハムへ恵みを与えたのです。
 では、律法とはいったいなんでしょう。それは約束された件の子孫が現れるまで、天使を通して仲介者の手により制定されたもの。1人で行うならば仲介者は不要です。約束についていえば、神は仲介者なしで事を運んだのです。

 ガラ3:21-4:7〈奴隷ではなく神の子である〉
 ──では、律法は神の約束に反するものなのか。先祖に与えられたのが、人を生かす律法であるならば、人は律法によって義とされたでしょう。が、聖書はすべての者を罪の支配下に留めた。神の約束がキリストへの信仰によってそれを信じる人々へ与えられるようにするためです。
 信仰がわれらの上に現れるまでは、律法の監視下にあった。信仰が現れるまでの間、それはわれらを閉じこめる檻だったのです。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラ3:24-25)
 ガラテヤの人々よ、あなた方はいずれもキリストによって結ばれて神の子となったのです。もはや人種も身分も関係なく、あなた方はキリストによって結ばれて一つになったのです。あなた方は、もしキリストのものであるならば、なにはさておきアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
 相続人と雖も未成年であるうちは全財産の所有者でありながらそれを自由にすることはできず、父親が定めた期日になるまで管理人や後見人の監視下に置かれます。実はわれらも同じで、未成年であるうちは世を支配する諸霊に奴隷の如く仕えていました。
 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ4:4-5)
 ──あなたはもはや奴隷ではない。子です。子であることは神によって立てられた相続人でもあるのです。

 パウロは全編にわたって律法と信仰の関係について検討します。そうして、キリスト者は信仰に入るまでは律法に搦め捕られているけれど、ひとたびキリストへの信仰により神と結ばれ信じるようになった後はもはや律法からは自由であり、かつて神とアブラハムの間に結ばれた約束の相続人となったのだ、という、思わず膝を打ってしまいたくなる結論に至る。
 パウロが熟考と苦心を重ねた末に導き出した律法と信仰の関係についての見解を、何度も読み返してわれらは自分の糧とすべきかもしれません。ルターの<信仰義認論>を強化する根拠にもなった章であります。

 本日の旧約聖書はガラ3:6と創15:6、ガラ3:8と創12:3及び同18:18、ガラ3:10と申27:26、ガラ3:11とハバ2:4、ガラ3:12とレビ18:5、ガラ3:13と申21:23、ガラ3:16と創12:9、ガラ3:17と出12:40-41。



 行き付けの中古CD店でカラヤン指揮ベルリン・フィル(の選抜メンバー)によるヘンデル《合奏協奏曲》作品6の全曲盤が転がっている。
 仕事が終わったらばさっさと飛んで行き、お札数枚をレジに残してその場を飄然と去り、誰も見ていないところで、ぎゅっ、と、わが胸に抱きしめたいのだが、その時間が取れなくて困っている。性格上、業後の作業を他人に押し付けることもできず、この原稿が極めて短い時間で完成稿に至ることもない。よしんばそれができたとしても、店の閉店時間に間に合うかどうか……。これなむ、ディレムマ、といふ。
 モーツァルトと並んでカラヤンのバロック音楽は全体的に評判が芳しくないらしい。が、わたくしはカラヤンの振るバロック音楽は意外と好きなのだ。特に、1980年代に録音されたバロック音楽集は長年にわたる愛聴盤である。たとえばここに収められるヨハン・パッヘルベルの《カノンとジーグ》やトマス・アルビノーニの《アダージョ》は、わたくしにとってスタンダード的演奏となり、新しくこれらの曲を聴くにしても好みかどうかは、カラヤンの演奏の上を行くか否か、という一点にかかっている。
 まぁ、録音の本拠地がフィルハーモニーへ移ったあとのバッハ《ブランデンブルグ協奏曲》だけは、やたらとこってりした演奏に胃もたれに似た具合の悪さを覚えて当初は御免被る、殆ど唯一の例外であったけれど、これとてあれから四半世紀が経過した現在はこの曲のベスト3に入る程のお気に入りである。
 オラトリオ《メサイア》をきっかけにして好きになったヘンデル。《王宮の花火の音楽》や《水上の音楽》は勿論、一時は輸入盤でしか聴けないオペラや宗教曲にまで手を伸ばした程だが、今ではすっかり関心は下火である。迎えに行く時間を捻出できたとき、まだそれがそこにいてくれるならば、《合奏協奏曲》作品6が呼び水となって再びヘンデル熱が──望むべくはバロック音楽熱が──再燃してくれることを望む。◆

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第2195日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第2章:〈使徒たち、パウロを受け入れる〉、〈ペトロ、ケファを非難する〉&〈すべての人は信仰によって義とされる〉〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第2章です。

 ガラ2:1-10〈使徒たち、パウロを受け入れる〉
 それから14年後、最初の宣教旅行を終えたわたしはバルナバとテトスと一緒に、再びエルサレムへ上りました。多くの人々と会って、話をしました。就中エルサレム教会の主立った人たちと。なにを話したか、といえば、わたしが行っている異邦人への宣教が無駄な行為でないかどうか、の確認です。しかしエルサレム教会の主立った人たちは異邦人への宣教は是である、と認め、わたしを励ましてくれました。キリストの福音を受けるに際してギリシア人のテトスに割礼を強いるでもなく。偽りの兄弟たちが人々との話し合いの場に潜り込んできていたというのに、です。
 エルサレム教会の主立った人たちはわたしに如何なる義務を負わせたりしませんでした。それどころか、──
 「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」(ガラ2:7-8)
 その主立った人たちは異邦人への宣教についてそれぞれの右手を差し出し、わたしとバルナバも自分の右手を差し出しました。こうしてわたしの役目に関しては合意を見たのです。この出来事の証しとして、わたしは異邦の地のユダヤ人、そうして異邦人たちへキリストの福音を伝えるようになった。──貧しい人たち、即ちエルサレム教会の人々のことを気に掛けて忘れるな、と忠言されましたが、むろん忘れたことはありません。

 ガラ2:11-14〈ペトロ、ケファを非難する〉
 或るとき、わたしはシリアのアンティオキアへ下ってきたペトロに、面と向かって抗議したことがあります。
 原因は、エルサレム教会のヤコブから派遣されてきた一団がアンティオキアへ到着した途端、ペトロの態度が変わり、まわりの人々も──バルナバさえもが──つられて右に倣えした点にあります。エルサレムからの派遣団が着く前はペトロも異邦人と一緒になって食事していたのです。
 わたしはそれについて抗議といいますか、ペトロを非難したのでありました。曰く、あなたはユダヤ人なのにそれらしい生き方をしないで異邦人のように暮らしている、ならばどうしてあなたは異邦人にユダヤ人らしい生き方を強要するのでしょうか、と。

 ガラ2:15-21〈すべての人は信仰によって義とされる〉
 かれらは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人の如き罪人に非ず。
 が、人はイエス・キリストへの信仰によって義とされ、ると知ったことでわれらはその信仰に入りました。律法の実行によってではなく、キリストへの信仰によって人は義とされるのです。
 かりにわれらが信仰によって義とされるよう努める罪人であるとすれば、果たしてキリストは罪に仕える者なのだろうか。否。自分が壊したものを自分で直すならば、自ら罪を犯した者、と証明することになります。わたしはこう考えます、──
 「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラ2:19-21)

 まずガラ2:1にある、その14年後にエルサレムへ上った云々という件り。これは第1回宣教旅行を終えた後異邦人への伝道についての沙汰があったため、エルサレムへ上って事の次第を説明したことを指し、該当箇所は使15:2。続くエルサレム教会の主立った人たちと会談したことも、使15:5-22が伝えます。本章ではエルサレム教会が発行したアンティオキア教会宛の手紙については触れませんが、たしかに言及する必要性は感じません。
 ペトロの腰の坐らなさ、或いは日和見主義的な振る舞いは、既にわれらも福音書の読書を通じて見聞しております。あれから10数年以上を経たガラ2:11の頃でも変わらないかれの行動には驚かされます。が、わたくしはペトロはその立場上、本音と建て前を使い分ける必要があったのだろう、と考えるのです。ペトロがイエスの選んだ12使徒のリーダー的存在であったのは周知の事実。協会という組織のなかでかれが占める立場は、パウロとは著しく異なったそれである、と想像できます。エルサレム教会の目の届く範囲に身を置いているとき、もしくは教会要人として公の場にあるときは然るべく行動するが、エルサレム教会から離れて半公人として乃至は私人として過ごすときは異邦人とも存分に触れるよう務めることもある、という風に。
 すくなくともパウロ書簡に於いてペトロの性格や態度を、われらはパウロというフィルターを通してしか知ることがない。つまり、どこにも第三者の視点や意見、述懐といった客観的報告はないのであります。殊自分自身やその身近に侍って己の意を汲む者以外に対するパウロの発言は、その裏を丹念に読み解くだけの想像力や作業が必須である、とわたくしは断定してなんら憚るところのない者であります。◆

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第2194日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第1章:〈ほかの福音はない〉、〈パウロが使徒として選ばれた次第〉with閉店間際のスタバでこれを書く。〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第1章です。

 ガラ1:1-5〈挨拶〉
 キリストと神により使徒とされたわたしパウロと、一緒にいる兄弟たちからガラテヤの諸教会へ。神と主による恵みと平和があなた方のうちにありますように。

 ガラ1:6-10〈ほかの福音はない〉
 あなた方がこうも早くキリストキリストの恵みから離れて、他の福音へ乗り換えようとは思いませんでした。わたしは呆れています。
 或る人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしている。しかし、われらであれ天使であれ、われらが伝えたのとは異なる福音を告げ知らせる者あらば、誰であろうと、ことごとく呪われよ。あなた方が受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいるならば、呪われてしまうがよい。
 わたしは人に取り入ろうとしているのではない。誰彼に気に入られようとしているのでもない。そうだとすれば、わたしは最早キリストの僕ではありません。

 ガラ1:11-24〈パウロが使徒として選ばれた次第〉
 わたしが告げ知らせた福音はイエス・キリストの啓示によって示されました。
 あなた方はわたしがユダヤ教徒であった頃を知っています。わたしは誰よりも熱心なユダヤ教徒でした。いまにして思えば恐ろしいことですが、神の教会を徹底的に迫害し、滅ぼそうとしていました。が、神は主キリストを介して福音をわたしへ授けた。神は御子を示して異邦人へ福音を届ける役目をわたしに与えたのです。
 わたしはこのことについて血縁者、親族に相談することも、すぐエルサレムに上ることもしませんでした。ただ一旦アラビアに退き、再びダマスコへ戻ったのです。
 それから3年後、ケファことペトロと知り合いたいと思うてエルサレムへ上り、滞在中の15日間は使徒にして主の兄弟ヤコブを除けば、ケファ以外の人とは会いませんでした。嘘偽りを申しているのではありません。
 こうしたことがあって後、わたしはシリア及びキリキア地方へ足を運びました。そこにあるユダヤの諸会堂の人々はわたしのことを知っていますから、かつて自分たちを迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今度は福音として唱えている、と口々にいうては神を誉め讃えておりました。

 キリストの福音とは別の福音を世人へ告げ知らせる者あらば、それが自分たちであれ天使であれ呪われてしまえ。──パウロがなにを信じ、支えとして活動していたか、その信念を窺い知ることのできる台詞であります。そこには正しい福音しかこの世には存在しないのだ、という唯一無二のメッセージが込められています。
 斯様な発言がされるのは、異邦人キリスト者の信仰が簡単にぐらついてしまうことの苛立ちと自分たちの教育(と敢えて表現させていただく)の不十分なことへの悔しさがあってのことでしょう。会社で新人のOJTを担当している現在のわたくしは、その綯い交ぜとなったやるせなさに共感を抱くのでありますが、この直情ぶりについては見方を変えればパウロも若かった、ということになるのでしょうね。
 異邦のユダヤ人たちは福音を説いて回るパウロの姿に、神の偉大さ、寛容さを認めて讃えたのであり、決してパウロの回心を誉め、かれを応援したのではありません。混同してはならない。でなれけばパウロの行く先々に反パウロのユダヤ人が現れて危害を加え、暴行を加え、あまつさえ殺人を計画することはないでしょう。
 ガラ1:18「それから3年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り」云々の「3年後」とはいつを起点にしてのことであるか。使9:23に「かなりの日数がたって」とある。パウロ回心して後、エルサレムへ赴いて使徒たちと会うまでの間の出来事に触れた箇所であるが、ガラ1:18「3年」という表現は使9:23「かなりの日数がたって」に連動するもののように思われる。使9:23の時間経過を含めて「3年後」にエルサレムへ上ったのであろうから、起点とするタイミングは明瞭でないが、ダマスコへ引っこんで福音を同地の人々へ宣べ伝えている時分=ダマスコのユダヤ人たちがパウロ殺害を計画してその手から逃れた頃を起点としてよいのではないか、と思う。



 ちょっと残業したあと、ふらふらと原稿書きのためスターバックスへ。雨が降っていて折り畳み傘を出すのが面倒臭かったせいかな、いつもの店舗ではなく、以前の職場にいたとき使っていた店舗へ行ったのだ。
 階段を昇ったいちばん奥の席に荷物を置いてレジへ行ったはいいが、普段なら季節のメニューがイラスト付きで書かれた黒板に衝撃の一言が。「みくらさんさんかさん、ご入店お断り」ではなく、「明日はビルの一斉休業のため、本日20時で閉店します」という言葉。もうちょっと目立つところに置いてほしかった……入る前に気附けば他へ行ったのに……。
 が、もはや後戻りすることはできない。不可能だったのだ。いつの間にやらわたくしの順番が来て、店員がこちらの注文を待ち構えていたゆえに。たぶん動揺していたのだろうね、いつものコーヒー・トール・ホットではなく、季節メニューの新作「さくらブロッサム&ストロベリー」なんてかわいいものを頼んでしまったのだから。そう、コーヒーより高い商品さ。嗚呼……。
 ちゅるちゅるとストローで飲みながら、内心溜め息。閉店まであと1時間10数分。そうしてわたくしは意識を切り替えた。これこそ燃えるシチュエーションではないか。顧みれば以前の職場にいたときは21時退勤で閉店である22時30分までの約1時間10数分をここで過ごして、やはりいまと同じように聖書読書ノートを綴っていたではないか。──現在と異なる作業があるとすれば、Macで原稿作成の最後の過程が存在しなかったことぐらい。「歴代誌」や「ヨブ記」、「詩編」など、このスターバックスで執筆した覚えがあるな。
 斯くしてわたくしは勇躍筆を執り、一心不乱に(ときどきFacebookを眺めながらも)意識をノートへ傾け──どうにか第一稿の筆を擱くことはできた。感想の方で一部、自宅に置いてきた資料にあたる必要のあるものがあったので、それについてはアウトラインだけ認め、エッセイも書くことだけメモしてスタバ在留中は執筆を諦めたけれど、叩き台を用意することはできた。それでじゅうぶん。そうしてわたくしは帰宅して、……本稿入力中の現在に至る。なにか問題でもあっただろうか?
 さて。ところで本日はお休みである。窓から外を眺めれば雲が一切れ、二切れ浮かんでいるが、よう晴れておる。「ガラテヤの信徒への手紙」第2章の原稿を書かねばならぬが、気もそぞろないま、書かずにふらふらお出掛けしてしまいたい気分だ。もし明日午前2時に更新されなかったら、ああやっぱり、とご納得いただければ幸甚、幸甚。◆

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第2193日目 〈「ガラテヤの信徒への手紙」前夜〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 人は信仰によって義とされる。マルティン・ルターは<信仰義認論>のヒントを「ガラテヤの信徒への手紙」第2章で得て、それを基に聖書理解の一点突破を果たしました。この延長線上にドイツ語訳聖書の実現や数々の著作の執筆、そうして宗教改革があるわけです。
 本書簡の宛先となったガラテヤはどのような地なのか。そこは小アジア中部の高地であります。地図を広げていただくと、トルコ共和国の首都アンカラが目に付くでしょう。そこはアナトリア高原にありますが、その周辺地域はかつてガラテヤと呼ばれました。
 パウロの時代、ガラテヤはローマ帝国の属州の一つでしたが、遡ればガリア人、一説ではケルト人の一団が中部ヨーロッパより遠征してきて、ギリシアやマケドニア、トラキア(現:ギリシア、トルコ、ブルガリア)に侵入、その過程でアナトリア高原一帯に定住したかれらの子孫をガラテヤ人と呼び、その地方を指す名称となりました。その後、ガラテヤ人は自分たちの王国を立てましたが、前189年のシリア戦争にてローマに敗れ、その後は有為転変の末、前25年、ローマ帝国の属州になったのでありました。
 そも本書簡が書かれたのは、パウロと入れ違いでガラテヤに現れたユダヤ人キリスト者が、パウロが宣べ伝えたのとは異なる教えを説いて人々の間に広めたことに端を発します。その結果、ガラテヤの異邦人キリスト者はキリストの福音を離れて、別の福音へ向かったのです。
 別の福音、それは、律法を守らずしてキリスト者となることなし、というものでした。人々はそれを聞いて律法を受け入れ、割礼を自らへ施したのであります。──イエスは割礼なくして信仰には至らず、などと申したでありましょうか。否、でありますね。イエスはユダヤ教が信奉する律法を、或る意味で否定していたのですから。
 ガラテヤの信徒たちが別の福音を信じるようになった、ということを聞かされたパウロは、かれら宛てに手紙を書きました。おそらくそれは一気呵成に書かれたのだろう、とは最初から読んでゆくと容易に推測できることであります。
 手紙のなかでパウロは、件のユダヤ人キリスト者の説いたことが誤りであるのを伝えました。正しい信仰へ立ち帰り、自分が宣べ伝えたキリストの福音を受け容れなさい。割礼はユダヤ教の儀式であり、ユダヤ教徒として生活するには必要とされるが、それはけっしてキリストの福音ではない。況してや律法とキリストの救いとまったく無関係である。──パウロは「ガラテヤの信徒への手紙」でそう訴えました。
 「使徒言行録」に拠ればパウロは3度、つまり宣教旅行の都度ガラテヤ地方を訪れています。旅程を組むにあたり陸路を選べば自ずと通過することになる、というてしまえばそれまでですが。とまれ、「使徒言行録」を基に訪問の一覧を作れば以下の通り、──
 1;使14:1-24 45-48年頃 南ガラテヤ地方(同行者:バルナバ)(※)
 2;使16:6  50年頃   フリギヤ・ガラテヤ地方
 3;使18:23  54年頃   ガラテヤとフリギヤの地方
 ※イコニオン、リカオニア州(リストラ、デルベ)、ピンディア州
 件のユダヤ人キリスト者がいつ、そこに現れ、パウロがいつ、どこで本書簡の筆を執ったか、定かではありません。いつもながらタイムマシンが欲しいですな。
 宛先が第1回宣教旅行時に福音を説いた南ガラテヤ地方の信徒たちなのか、第2回或いは第3回宣教旅行時に訪ねた北ガラテヤ地方の信徒たちなのか、どちらなのかによって執筆年代や場所は変わります。北ガラテヤ地方の信徒たち宛てに書かれたのであれば、それは第2回目のときなのか、第3回目のときなのか、そこでまた話は変わってまいります。
 調べて知り得た範囲で申しあげますと、宛先が南ガラテヤ地方であれば48年頃、アンティオキア説があります。また、50-51年頃にコリントで書かれたという説もある。宛先を北ガラテヤ地方とすれば52-54年頃エフェソにて執筆された、という説が有力。今日では北ガラテヤの信徒に宛てられたとするのが専らである由。
 ただ──私見を慎ましく申しあげれば、第1回宣教旅行中に書かれた、という説に与したく存じます。
 パウロは南ガラテヤ地方を回り、各地にキリストの教会を建立しました。異邦人はパウロの福音に打たれて改宗したでありましょう。キリストのため、異邦人キリスト者のために教会は立てられたのであります。パウロはそこでの宣教が終わると、新たな信徒たちに見送られて次の地へ出発してゆきました。
 はっきりとはしませんが、ユダヤ人キリスト者がその地へ姿を現したのは、パウロが去って程良い時間が経った頃合いだったろう。キリストの福音が異邦人キリスト者のなかへ根附こうとしていた頃──。
 まだかれらの信仰が完全でないところへ入りこんで来て、パウロたちが説いてかれらのなかに染みこませた福音が誤りであると喧伝して、終いにはパウロの使徒としての資格さえ怪しいものだと槍玉にあげる始末、──
 あなた方の聞いた福音は偽りだ、われらの語る福音こそが正しい。なんとなれば律法を守らずしてキリスト者となることなし、だからである。パウロはその律法を守らず、自分に割礼を施してもいない。ゆえにパウロの語る福音は偽りであり、キリスト者としての資格はおろか、福音を語る使徒としての資格もない、と。
 それを聞いたガラテヤのキリスト者たちは信仰をぐらつかされ、多くが宗旨替えを実行しました。パウロの説いたキリストの福音から離れて、ユダヤ人キリスト者が喧伝する福音へ……。
 この報告を承けたパウロは失望と憤慨のうちに本書簡の筆を執り、キリストの福音を説いてそこへ立ち帰るよう促しました。時に48年頃、シリアのアンティオキアにて。
 もっとも、第2回、第3回宣教旅行後の執筆という説にも一部首肯してしまう箇所なきにしもあらずなのですが、それでもわたくしは、不安定な信仰へ一石を投じること可能な時期として、第1回宣教旅行中乃至は後の執筆に高い信憑性を感じ、現実的ではあるまいか、と思うのです。
 「ガラテヤの信徒への手紙」は「ロマ書」や「第一コリント書」、「第二コリント書」に較べて規模は小さく、章数も少ないことから短時日での読了が可能であります。とはいえ、それは価値をいちばん下へ置くことを意味するのではありません。むしろパウロの思いと信仰がストレートに書かれた、極めて肉声に近い手紙である、とわたくしはいいたいのであります。
 パウロはここで言葉を飾ることも表現に技巧を凝らすこともなく(この点、どこぞのブログとは正反対でありますな)、自分の信じる福音と信仰を、簡素に、されど豊かな文章で綴ります。等身大の言葉で語られるキリストの福音は、ガラテヤの信徒のみならず時を経るに従って多くのキリスト者の心を支えたことでありましょう。──この小さな手紙を読みながら、わたくしは斯く思うであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「ガラテヤの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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第2192日目 〈むかし愛読した作家、源氏鶏太『青空娘』が復刊されたのでさっそく購入しました。〉 [日々の思い・独り言]

 明日からの読書再開に備えて、今日はTwitter並みに短く。
 『ダ・ヴィンチ』誌は毎号読んでいます。それなりに熱心に隅から隅まで目を通していると思います。本屋さんの棚の前で立ち読みして、新刊情報だけじっくりとね。たいていはその段階で絶対購入しよう、という文庫は記憶に刷りこんでいるのだが、時に疲れた目に留まらず華麗にスルーして、発売日に出ていることを知って腰を抜かすことも、まぁ、よくあるといえばそう言えなくもない頻度で、ある。
 今日(昨日ですか)もそんなことがありまして。
 わたくしが20代の頃かしらね、母が若いときに読んだ作家で源氏鶏太という当時の流行作家がいたのだが、買い物帰りに一緒に寄った図書館の文庫コーナーでそれを教えられて以後、古本屋で源氏鶏太の文庫を買っては母に渡して、楽しく読んでいる姿をうれしく思いながら見たものだ。買い集めた文庫は一冊も欠けることなく、火事をくぐり抜けたいまも、赤川次郎の文庫と一緒に廊下の文庫棚へ保存している。
 母の影響を抜きにしては考えられないが、かりに戦後日本の好きな作家を5人挙げよ、といわれれば、わたくしにとって源氏鶏太はけっして名前を欠くことのできない存在である。
 21世紀の現在、源氏鶏太はまず顧みられない作家である。かつて中公文庫で、河出文庫で復刊されたが、前者はエッセイ集、後者は源氏鶏太らしい一作だがゆめ代表作とは言い難い長編。それとて今日、都心の巨大新刊書店の棚に残っていれば万々歳だ。
 仕事が昼で終わった土曜日、例の如くスタバに立てこもって別の原稿を書いていたのだが、どうにも煮詰まって灰色の脳細胞も停止を要求し始めた。チョコレートを飲んで糖分補給すればどうなる、というレヴェルではなくなっていたのだ。
 そこで原稿は途中ながら切りあげて飄然とそこを立ち去り、線路の反対側にある新刊書店へ。店の前で時折行われているワゴンの古本市を流し、店内で雑誌や海外文学の棚を見、上階の文庫売り場に足を向け、いつも通り警戒の眼差しを向けられながらちくま文庫の棚の前に来たとき、其奴は唐突にわたくしの眼前に出現したのである。振り向いたらそこにはゴジラがいて、こちらを睨みつけていました、というぐらいに唖然としたね(昨夜、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』を観ていたんだ)。
 ──源氏鶏太『青空娘』が平積みされているのを目にした途端、もう20年近く前の母と自分を思い出しましたよ。講談社文庫だったと思うけれど、通い詰めた古本屋で購入して母が読み終えたあと、こちらも和室で腹這いになって読み耽ったものだったな。源氏鶏太についてはそんなのんびりした読書の記憶に満ち満ちている。バブルが崩壊して就職浪人を余儀なくされた時分だったにもかかわらずね。
 今回の復刊について注文を付けるとすれば、作品のセレクションは別にして、1つだけ。特に獅子文六で成功したからとて帯の惹句は少々煽りすぎだ。も少し冷静になろうよ。知らないのはあまりに勿体ない、といいたくなるのはわかるけれど……。
 最近のちくま文庫ってかつての流行作家の作物を復刊させるとき、やたらと空々しい美辞麗句を並べ立てる傾向があるよね。なんだかそれが鼻について、獅子文六なんて特に遠避けたのだけれど、源氏鶏太となれば話は別だ。伊勢神宮について書かれた文庫と一緒にレジへ運びましたよ。それがかつての愛読者の務めだぜ。
 いまもこの原稿をiMacで書きながら(新沼謙治の「ふるさとは今もかわらず」を聴きながら)傍らの『青空娘』を横目に見ているが、しかし残念ながら書店で邂逅するのはチト遅かった。ド氏を手にしてしまったからなぁ。仕方ないからド氏は通勤時の友として、源氏鶏太は就寝前の一刻の楽しみに取り置こうか……。
 然るべき時に然るべき相手と出会えないのは、不幸だね。
 謝っておく。Twitter並みに短くしようと心掛けたのだが、やはりいつもとあまり変わらない分量になってしまった。
 それでは読者諸兄よ、また明日。この時間、「ガラテヤの信徒への手紙・前夜」にて再び会おう。ちゃお!◆

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第2191日目 〈ビートルズは人生をより豊かなものにしてくれました。〉 [日々の思い・独り言]

 あさって午前2時より聖書読書ノートを再開、「ガラテヤの信徒への手紙」を読み始める。その日の設定文字数内でエッセイを書く期間が終わってしまう前に今期の特徴であったビートルズにまつわる話を、今日はしておきたい。短いものを目指している。本稿を以てビートルズの話題は一旦控えることも決めている。
 TSUTAYA錯乱事件が勃発したのは今週火曜日のこと。それまでにビートルズの全オリジナル・アルバムをレンタル、iPhoneへiTunes経由で取り込みが終わっていたのは、辛うじて慶賀と称すべきか。総じていまは消化・吸収して滋養とする時期である。
 きっかけはともかく敢然と順番を追って聴いてゆき、都度抱いた驚きや感銘など綴った文章を、多少はびくびくしながら、おっかなびっくりお披露目した。結果はアクセス数という形で正直に反映された。普段の5倍近くのアクセス数を、新着記事であるビートルズの原稿は叩き出したのである。1日のトータルとしてそれだけのアクセス数を記録したことはあっても、1本の記事がその日のうちに目を疑うような数字を稼いだのは、お恥ずかしながらこの度のビートルズについてのエッセイが初めてだったのだ。
 本ブログの更新告知に専ら利用しているTwitterでも、わたくしをフォローしてくだすっている方が「いいね」してくれたり、或いは感想を寄せてくださる。Facebookにビートルズを聴いている旨投稿すれば反応は頗る上々の様子。また、職場の同僚ともその話題で、忙中閑に一頻り花を咲かせることもできた。ビートルズ受容に世代の壁なし、を実感させられる日々……。
 様々な媒体に於いて、ビートルズが元ネタ、或いは下敷きとする表現やタイトルがあることにも気附けるようになった。出典率の高さは聖書やシェイクスピアに次ぐのではないか。日本にどれだけ聖書とシェイクスピアを典拠とする作物があるか不明だが、出典率の高さとしてはビートルズはそれらのずっと上を行くかも。これが事実なら、ポップ・カルチャー強し、である。
 ──ビートルズは人生をより実り豊かなものとしてくれた。毎度お馴染み、誇大表現かもしれないが、ビートルズをきっかけに既知の人との話題が増え、それまでは知ることのなかったヒストリーや嗜好を窺い知ったことは、またとない喜びをわたくしにもたらしてくれた。一方で新たに縁が取り持たれた人々もいる。そうした人々との会話がどれだけ財産となり、刺激となったか、どうかお考えいただきたい。ただ、ビートルズを聴くようになって人生の幅がちょっとだけではあるが広がったような気がしているのは事実だ。
 最後に、ボーナストラックと称して余談を1つ。先日お披露目した、たしか『リボルバー』と『パストマスターズ』を取り挙げたときだと思うが、オリジナル・アルバムをリリース順に購入してゆく、と記した。別の原稿では『赤盤』と『青盤』は既に買って所有している、と書いた。
 が、そのあと気になって夜中に棚を引っ掻き回してみたところ、なんと架蔵しているはずの『赤盤』も『青盤』も姿はなく、なにかの拍子に処分してしまったらしい。嗚呼! しかしご安心あれ。他のジャンルのCD数枚(内訳を知りたいの?)と一緒に買い直した。旧蔵の2枚組プラケースではなく、2009年リマスターのリイシュー盤だ。タワーレコードでの購入だからね。
 まずは『赤盤』と『青盤』を飽きる程に聴き、新年度から『プリーズ・プリーズ・ミー』を皮切りに『レット・イット・ビー』まで、じゃんじゃんがんがん、どっかんどっかん聴いてゆこう。余談終わり。並びに本稿擱筆。◆

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第2190日目 〈<スタバでMacな人々>戦線、異常あり──Windows帝国の逆襲、始まる?〉 [日々の思い・独り言]

 みなさま、お久しぶり。<スタバでMacな人々>観察隊の隊長、みくらさんさんかです。しばらく関連記事を書くことも更新することもできず、相済まなかった。その後も<スタバでMacな人々>をたまに観察中だが、今日に至ってその状況に変化が生じたことを確信したので、今回はそれをリポートしておきたい。
 足繁く通うここも以前は他のスターバックス同様、店内でもノートPCを使う人の過半はMacユーザーで、1日につき2,3人ぐらいしかWindowsユーザーはおらんかった。それを皮肉って過去の或るときなぞ、Windowsユーザーの蜂起を促して、囓りかけのリンゴをあしらった“すたいりっしゅ”系ノートPCに向かって作業する人々を包囲、カタカタパコパコ、ッターン! 攻撃を繰り出して敢然と戦え、などと煽動したこともあった。ドレスデン革命を煽動したリヒャルト・ワーグナーみたいにね。もっともかれはその後、革命煽動の廉で国外追放されましたが。
 しかしわたくしのエッセイを読んだ人がそれを本気にして実行したのだろうか、ここ数ヶ月というもの、わたくしの利用するスタバではMacユーザーが減少傾向にある。勿論、限られた時間内での観察ゆえ、そこに公正な調査に基づく結論はない。
 では、リポート。
 減少傾向を意識したのは昨年の10月頃、だったかしら。夏が終わる頃までは店内にMac Book ProとMac Book Airが合わせて両指と同じか少し上回るぐらいのかず、ずらりと並び、スタバ公認ノートPCよろしく幅を利かせていた。が、秋の頃から徐々に店内で稼働するMacは1台、また忘れた頃に1台と消えていった。マザー・グースに因んでの消失ではあるまいし、まったくもう、イヤな感じ。ぷん。
 そうして、いま。2月11日。店内でノートPCを使う人は5人(除わたくし)、内訳はMacBook×1(AirでもProでもない!)、acer×1、HP×1、パナソニック×2、といった具合である。祝日の夜というのがこの調査に影響しているのかもしれないが、以前は祝日であろうともう少し、Macユーザーは多かったような気がする。
 実はこれ、他店舗に於いても同じような傾向らしく、行き付け2位と3位にランクインするスタバでもMacを使っている人は、わたくしが<スタバでMacな人々>ユニオンへ加入したときよりも減っているようだ。いちどなぞ、以前は確かにMacユーザーだったのに過日久々に姿を見たと思うたらacerに乗り換えていて、知らず睨みつけてしまったこともあった。えへ。良い子は真似しちゃいけません。
 しかしこの減少傾向はなにゆえだろう。まさかWindowsユーザーが互いに同盟を結び、強力な資本を陣営に加えて<スタバでMacな人々>を買収、切り崩しを謀っているのだろうか。Windowsユーザーが結集して誕生した帝国は、その圧倒的軍事力(市場のシェア)を投入して<スタバでMacな人々>ユニオンを目撃者なき世界の片隅に追いつめ、その地で一気にわれらを壊滅させる目論見なのか──。
 うむ、そうはさせまい。正義とか大義とかなんとかいうものはともかく、われらは囓りかけのリンゴがあしらわれた“すたいりっしゅ”系ノートPCを片手に携え、精根尽き果てるまで抗うのみだ。おまけにわれらにはiPhoneやiPad、iPod、iTunesという(いまのところは)心強い、頼りとなる味方がいる。Apple Watchとかいう小首を傾げてしまう仲間も、いるにはいる。「Macですか」と下心ありげに訊かれたら、「スマホはiPhoneですか」とニンマリ笑って切り返せばよい。そう、われらの合い言葉は“May the Force be with you”だ。初代デス・スターだってプロトン魚雷1発で爆発、宇宙の塵になったのだ。負けないぜっ! ……雨ニモ、風ニモ? ああ、それはちょっと違う方だな。
 おちゃらけはともかく、スターバックス公認ノートPCとまで揶揄、冷笑されつつも確実に一時代を築いたMac Bookファミリーが、そのスタバにて絶滅危惧種化しているのは悲しくもあり、淋しくもあり、憂いもある。<スタバでMacな人々>観察隊の隊長としては今回の理由の究明と真相解明(同じか)に生活の余力を(あれば)注ぎ、今後の動向を頬杖ついて見守りたい。◆

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第2189日目 〈人生は悲しみに閉ざされています。しかし、〉 [日々の思い・独り言]

 楽聖ベートーヴェンは聴覚に悩まされていた頃に「ハイリンゲンシュタットの遺書」を書いた。難聴の絶望を綴り、音楽に希望を見出す内容で、初めて読んだのはベートーヴェン熱に浮かされていた20代前半のことか。
 当時のわたくしはまだ難聴を意識せず、失聴を自分にはかかわりなきことのように思いながら、読んでいた。が、不惑を過ぎて難聴をじゅうぶんに自覚し、失聴が現実性を帯びてきたいま、<傑作の森>を眼前にした時代に書かれたその手紙を読み直してみると、自分の小ささと弱さを痛感してしまう。翻って自分は……、と。努力する天才と努力せぬ凡才を較べるのがちゃんちゃらおかしいことは、重々承知。でも、しっかりと理解できるのだ。
 わたくしには文章を書くしか能がない。只此一筋につながる。その信念も実力も信仰も、未だぐらつくときがある。為にわが物書きとしての履歴は時により、人により、道楽の域を出ない、と後ろ指さされて罵倒されたりすることもあるわけで。
 昨夜ほぼ2ヶ月ぶりとなる知己の人らと会い、終電間際まで歓談した。耳の件が今回具体的になって以来、会うこともメールすることも避けていたが、昨晩は意趣を変えて顔を合わせることにしたのだ。聴力をなくしてしまってからはもう二度とその人たちの声を聞いたり、様々な話をすることができなくなってしまう。せめてその前に──今生の別れともするつもりで──会うておきたかったのだ。
 Aよ、Nよ、これまで楽しい時間をありがとう。あなた方に会えてよかった。心から、感謝。
 できるなら高校時代の友どちにも会いたいが、それは叶えられない望みであろう。
 いまは1人でも多くの人と少しでもたくさん話して思い出にしたいと共に、1曲でも多くの音楽を聴いておきたい。過去に聴いたもの、未知ながら気に掛けていたもの、エトセトラ。ちかごろ音楽関連の原稿が目立ち、タワーレコードやディスクユニオン、ブックオフでCDを物色・購入しているのは、そんな背景があってのことかな。何歳になっても自分のことがわからないで困るよ。
 でも、まだわたくしは聞こえている。そうして、生きている。卑屈にならず貶めず、前と上だけを見よう。満身創痍になろうとも誇りに満ちた生涯を営もう。まだ失聴すると決まったわけではない。「ハイリンゲンシュタットの遺書」が書かれたあともベートーヴェンは生きた。わたくしの人生もまだ終わっていない。◆

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第2188日目 〈中途半端に読書が終わってしまった作家たちへの帰還。〉 [日々の思い・独り言]

 われながら卑怯だと思うのは、あれほど志賀直哉のあとは佐藤春夫だ、なんて心に固く決めていたにもかかわらず、今日病院へ行く前に本棚から取り出して鞄へ入れたのはドストエフスキーだったことだ。まったく未読の佐藤春夫に着手するよりは途中で放りっぱなしにしていた作家を片附けてしまう方が、精神衛生上余程良い結果を招くに相違ない……。
 換言すれば、ドストエフスキーを、『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』を恙なく読了した後は太宰治へ進んで新潮文庫の残り半分を読み、そのあとスペースの都合で一旦封印したアガサ・クリスティを消化、既刊分はその時点ですべて読了していたもののそのあと続刊が出て未読が溜まったウッドハウスを堪能して憂いを解消した暁には、いよいよここ数年は買いこむばかりでまったくページを繙いていないスティーヴン・キングを。あれ、佐藤春夫はいつ読むのだろう。ふしぎなこともあるものだ。呵々。
 それはともかくとして、わたくしは三度(だっけ?)ドストエフスキーへ舞い戻ってきた。今度こそは震災前のように腰を据えて、舐めるようにして読み、すくなくとも新潮文庫で読める作品は読み終えてしまおう。気掛かりを残しては成仏できぬ。
 遺憾なのは岩波文庫で読める『二重人格』を零れ落とした状態で<ドストエフスキー計画>の幕を閉じることだが、この作品、わたくしには本当に読みづらく、苦痛しかもたらさないのだ。およそ考え得る唯一無二の理由は、好みの問題、相性の問題に結論できよう。ならば現時点ではどうとも解決できない話なので、今後は架蔵したまま機会の訪れを待つより他ない。
 聖地巡礼という行為がある。期限はむろん、信徒によるエルサレムやメッカ詣でであろうが、今日ではアニメやコミック、小説や映画/ドラマの舞台或いはモデルとなった土地を訪う行為を指す。またこの言葉が一般で使われ、浸透するよりも数多の人がそれを行ってきた。わたくしとて例外ではない。が、小説を読んで舞台となった土地、舞台とされる土地へ行ってみたい、と思わしめる作品がちかごろの作物のなかにはとんと見当たらないのが現実、かりにあったとしても遠い外国だったりしてさ、おいそれとは腰をあげられないのが現実だ。聖書の舞台となった中近東もそうだがドストエフスキー作品の主舞台となったペテルブルク(現:サンクト・ペテルブルク、旧名:レニングラード……ショスタコーヴィチ!)を訪うてネヴァ川の畔に立ち、あれこれ思うのは、いまや夢のまた夢ではないか、と思う。
 でも太宰治ならできるんじゃない、と軽々しく訊いてくれるな、君よ。おそらくその頭には三鷹があるのだろうけれど、この何年かわたくしはそこへ足を踏み入れるのを意図的に避けている。所詮は狭い町だ、どこであの淫魔、サキュバスと遭遇するかわからぬではないか。今度ローレライの魔女の歌声を聞いたらわたくしは破滅である。そうしてわたくしはかの淫魔のために人生を台無しにする気は、わずか数ミクロンと雖もないのだ。勿論、そうされる謂もない、断じて、ない。どうしても三鷹・吉祥寺・武蔵野エリアへ行くことがあるならば、不運な再会を果たさぬよう先祖の霊や神仏に祈ってから実行に移す。目的を果たしたら周辺を散策したり、序でに食事でもしてゆこう、などという変な気は起こさず、さっさと多摩川を渡って故郷へ帰ってこよう。われらは再会しない方がいいのだ。不幸な化学反応が起きることは必至である。
 ドストエフスキーと太宰のあとはクリスティ、というた。長編に関しては発表順に読んで『愛国殺人』あたりまで進んだのだけれど、半分ぐらい読んだことになるのかしら。とまれ、以後の長編すべてと短編集、戯曲、旅行記(か?)、自伝、これらすべての読了までは1年以上かかるだろう、わたくしのペースでは。
 わたくしにとってクリスティを読むことは人生の愉しみだ。高校生のとき『そして誰もいなくなった』を読んで以来、彼女に憧憬と尊敬の念を抱いて絶えたことは今日に至るまで、一度もない。ドストエフスキーと太宰の読書を立て続けに済ませて肩の荷をおろし、達成感と安堵の溜め息を大きく吐きたいのは、偏になんの憂いもなくクリスティを、そうしてウッドハウスとキングを読み耽ってその世界へどっぷり浸かりたい、という一心からである。勿論、それがドストエフスキーと太宰を相対的に貶めることを意味するのではないことは信じていただきたい。待っていろ、そう呼びかけるためには眼前の壁を崩さねばならぬ、ということだ。
 自分は飽き性なのか、中途で止してしまった作家が斯様にいるけれど、他の人はどうなのだろう、1人の作家にハマったらすくなくとも単行本もしくは文庫本で読めるすべてを途中で浮気することなく読んでゆけるものなのかな──これは既に故人であるか、存命・現役であっても海外の作家か村上春樹ぐらいにしか適用されない読書法かもしれないけれど。是非とも知りたいものだ。できればそのコツというか、秘訣も。◆

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第2187日目 〈これがモーツァルトである──ベーム=BPO、後期6大交響曲集顛末記〉 [日々の思い・独り言]

 なんだか忘れていたことがあったような……と考えこんで数日、今日会社からの帰り道にようやく思い出した。わたくしはまだカール・ベーム=ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト後期6大交響曲集(DG)を巡る一連の騒動の顛末について、なにもお伝えしていなかった。いま、それを書こう。
 そもそもの発端はTSUTAYAでレンタルしようとしていた1月16日夜に遡る。ちょうどビートルズのCDを借り始めた日だ。CDレンタル5枚1000円のサービスを普段から存分に活用しているのだが、大概、最後の1枚をどうするかで悩むことになる。その日も同じだった。
 クラシック音楽のコーナーの前にしばし佇み、なにかあるかな、とさして期待することないまま棚へ目を走らせていたら、いちばん下の段にあったのだ──ベーム=BPOによるモーツァルト後期6大交響曲集が! これで枚数調整はできた。T-カードを添えてレジへ運び、店員がCDをチェック。
 が、この2枚組には問題があって、第35番《ハフナー》、第36番《リンツ》、第38番《プラハ》を収めた1枚目がなかったのである。店員曰く、視聴機で聴いたりしていませんか、していないなら、万引きされたか他の商品に混入しているかであろう、と。なんだ、それは。
 むろん、わたくしは視聴機でこれを聴いたりしていない。LPで架蔵して耳にタコができる程耳を傾けて記憶に焼き付いている演奏を、この場で改めて視聴する理由がどこにあろうや。紛失の原因はともあれ、1枚目を欠いたその2枚組を借りる気はまったく失せたので、そのまま棚に戻してもらい、代わりにカルロス・クライバー=ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームスの交響曲第4番を、他の4枚と一緒に借りることとし。因みにそのベームのモーツァルトだがしばらく経って何気なく見たら、やはり1枚目がなくなったままレンタルされていた。しかもケースのどこにもその旨明示はなく。やれやれ。
 この夜の出来事がわたくしに火を付けた。なんとしてでもそれを、レンタルでも購入でもそのあたりは問わぬ、手に入れてiTunesに取り込んでやるぜ、とばかりに。いやぁ、いろいろな場所を廻ったね。普段は然程利用しないTSUTAYAを数軒渡り歩いた。この過程でわたくしはTSUTAYAの品揃え、殊クラシック音楽に関して疑問を抱くことになるのだが、これは貴重なエッセイのタネなのでお披露目がいつになるかはともかく、別稿とする。
 TSUTAYAを諦めると、次のターゲットはブックオフと、ディスク・ユニオンを筆頭とする中古レコード店だ。しかし意外なことにここでも件の2枚組CDは見附けられなかった。否、この表現は適切ではない。第40番と第41番《ジュピター》、或いは他交響曲同士の、もしくはモーツァルトの別の曲とのカップリングは売られているのだ。が、わたくしが探し求めて、いまや架蔵=購入を目的としているのは、あくまで2枚組のモーツァルト後期6大交響曲集なのだ。欲は広がり、帯付き国内盤(美品)、ジ・オリジナルスのシリーズでなくてはならぬ、という思いこみにまで発展して悠希。選択の幅を自分で狭めていったのだ。そうでなくては面白くない。時間の経過は人間の欲望を強迫観念へと変質させるのだ。
 その後も何度か中古レコード店には、探し求める音盤は異なれども足を運んだ。都度棚を注意してみるが、やはりベームのモーツァルトはない。誰もが手放したがらない名盤であるのは事実だから仕方ないか、とその頃には若干の達観ムードも自分のなかでは漂ってきていた。その代わり、どこへ行っても必ずというていい程見掛けるのは、ラファエル・クーベリック=バイエルン放送響によるモーツァルト後期6大交響曲集である。でも、こちらにはあまり食指を動かされなかった。なぜならば自分にとっていまいちな演奏という記憶がこびり付いており、もう一度聴こうと思えば県立図書館のお世話になればよいことがわかっていたからだ。本当、それにしてもベーム=BPOのモーツァルト後期6大交響曲集はどこでも見なかったなぁ。どこぞのシンジケートが動いてわたくしを妨害しているのではあるまいか、とさえ思うたね。
 さて。日々は過ぎてゆき、仕事も忙しくなり、聖書読書ノートに仕事以外の時間を割くようになると、一時のハンターの如き熱意と執念は時々刻々と冷めてゆき、件のCDについても入手は偶然に委ねる心づもりになりつつあった時分である。どうしてだか、これまで選択肢になかった第3の入手方法があることを思いだしたのだ。さよう、新譜を扱うCDショップに行けばいいじゃん、という選択肢である。これを思い着かなかったなんて、まったくどうかしているな。自分もかつてはそこで働いていたのにね。
 仕事帰りに立ち寄ることは時間的にも地理的にも無理なので、休みの日、病院の帰りに山野楽器へ行ってみた。あるかもしれない、という希望はエスカレーターで目的階へ近附くにつれて、あるに違いない、という根拠なき確信へ変わり、モーツァルトの棚の前でそれは現実になった。帯付き国内盤なのは勿論だが、ジ・オリジナルスのシリーズの1枚として、ベーム=BPOによるモーツァルト後期6大交響曲集(DG)2枚組はそこにあったのである。うれしきかな、ほむべきかな、ホザナ。
 が、ここでわたくしの天邪鬼が頭をもたげてしまう。輸入盤なら少しは安く買えるかもしれない。レートをすっかり忘れて、わたくしは駅を挟んだ反対側にあるタワーレコードへ急行した。そうして自分の軽率を恨み、せっかくの入手の機会を(その時は)なくしたのだった。だって輸入盤は国内盤よりも600円近く高いんだもん。
 ──再び日々は過ぎ行く。休みの日、母と一緒にバスに乗って数キロ離れた所にあるショッピングモールへ出掛け、ちょっと時間が空いたのでそこに入るブックオフへ寄ってみた。1年ぶりかな、そこへ来たのは。店内へ入り、足を最初に向けたのはやはりCDコーナーだった。AKB48のアルバムが欲しかったんだよね、「恋するフォーチュンクッキー」と「UZA」、「So long」が収録されたアルバムを。それは200円コーナーで見附けたのだが、さして期待するところなくそのまま反対側のクラシック音楽の棚を振り返ってみると、それは唐突に、視界のど真ん中に飛びこんできたのだ。そう、探し求めていたものはそこで静かにわたくしの訪れを(きっと)待っていたのだ。たしか値段は2,100円で国内盤新品とワンコイン分の差しかないけれど、わたくしの望む状態で売られていたのだから、なにを迷う必要があるのか。むろん、購入した。その日は雪が午後から降るらし、といわれていた日だったが、思わぬ場所で思わぬ出会いを果たし、己の所蔵品とし得た幸いに、その日の帰り道、わが心はじゅうぶんに暖かかったのである。日付はたしか1月23日か26日であったと思う。前者の方が濃厚だ。斯くしてその日、わたくしは、カール・ベーム=ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト後期6大交響曲集(DG)を帯付き国内盤、ジ・オリジナルスのシリーズで遂に、ようやく手に入れたのだった。短くも長い探求と渇望の日々であった……。
 買った、聴いた、感動した。これがモーツァルトだ。余計な讃辞は不要。
 が、本稿はどこまでいっても「顛末記」である。感想/レビューはまた後日。◆

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第2186日目 〈TwitterのフォローとFacebookのリクエストについて。〉 [日々の思い・独り言]

 本ブログではTwitterにて日々の更新をお伝えしている。稀に更新とは関係のないことも呟く。これを踏まえてのお話。
 リツイートされたり、「いいね」されたりするのはわかる。自分のツイートやブログの内容が、なんらかの形でその人に評価されたことの証しだから。わたくしはそれを誇らしく思うし、とてもうれしく思いもする。その感謝はけっして忘れない。次の原稿を書く意欲も起きようというものだ。
 一方で時々、自分自身がフォローされることがある。たいして人様の役に立つような情報をツイートしているわけではないので、「〜さんがあなたをフォローしました」という通知を受け取ると、心臓が口から飛び出そうになるぐらいびっくりする。大袈裟な話ではない、盛ってもいない、ほぼ事実だ。
 が、その驚きが収まると、今度は頭を抱えてしまう程の悩みの時間がやって来る。どうしてこの人はわたくしをフォローしてくだすったのだろう。エッセイ期間中の出来事ならいざ知らず、聖書の話題のみで終わったときにフォローされると、これはいったいどうしたことなのだろう、と考えこむ。わたくしをキリスト者と思うてフォローくだすったのか、或いは別件での?
 とてもありがいたいことなのだけれど、その人のツイートを眺めてみてフォローの理由を推測できない場合もあると、些細なことでも気懸かりになって抱えこんでしまう小心者のわたくしはそのことについて以後数日ばかり悶々と悩んでしまったりする。精神衛生上あまり良くないので、是非Twitterは「フォローする」ボタンを押すのと一緒に「メッセージ」から相手に、これこれこういうところが気に入ったのでフォローさせてもらいます旨、送るように推奨してもらえるとありがたいのですが。
 ところでTwitterのタイムライン表示がアルゴリズム表示になるというのは本当なのだろうか。それとも単なる噂なのか。もし本当なら、それは実施が確定しているのか、検討段階のことなのか。事実を知りたい。アルゴリズム表示になったらTwitterの利用も考え直すから。でもその話が本当だとして、いったい表示方法を変更することでユーザー側に如何なるメリットがあるのだろう。まったく以て摩訶不思議な話である。

 Twitterの話から派生してFacebookの話も。自分の投稿は極々一部の記事を除いて友達にしか公開してないにもかかわらず、数ヶ月に一度、見知らぬ人からのリクエストを頂戴する。リアルな人間関係もなく、グループでのつながりもなく、共通の友人がいるわけでもない、完全無欠の未知の人からのリクエスト申請。
 やはりこれもうれしいことなのだけれど、同じぐらいに怖いのです。それまでFacebookに投稿実績があったり、同じグループに所属しているのであれば、リクエスト承認も検討できる。わたくしが怖い、というのは、リクエストを送ってきた者のプロフィールが氏名性別以外の基本データなし、写真なし、友達なし、投稿履歴なし、の場合である。
 その者が実在するならば、わたくしへのリクエスト申請には相応の理由があるかもしれない。が、残念ながらこちら側に事情を推理するための手掛かりは一切、何一つとして与えられていない。むろん、その名前に心当たりもない。わたくしにとって未知の人物ということは相手にとってもわたくしは未知の人物である、ということだ。まずそう考えて相違あるまい?
 ならばそれなりに礼儀は尽くそうぜ。ここで申しておる礼儀というのは、リクエストを送る前に、或いは送る際に、その旨メッセージを添えて相手に警戒心を抱かせぬようにする、ということだ。SNSだからこそ、礼儀やエチケットが大切なのではないか。それを欠く人のリクエスト申請が相手に拒まれたとしても、それは仕方のないことだろう。──事の序でにいうておくと、わたくしは誰彼に限らずリクエストの際は必ずメッセージを送っている。それがマナーだ、と思うているから。
 わたくしがスパム的リクエスト申請者をほいほいと承認していたらどうなるか。最悪のことを考えれば、わたくし経由でわたくしの友達になんらかの被害がその者によってもたらされることだってあり得よう。個人情報の抜き取りやストーキング、社会的犯罪のターゲットにされたら? 笑う者は幸せだ。考える者は健全だ。
 それを目的としたリクエスト申請か否か、見破ることは難しい。前記のようなプロフィールに当該人物の情報が何一つ記載されていないなら、わたくしはその者を徹底的に疑う。申し訳ないが、それが正しい対処であるまいか。犯罪目的のリクエスト申請ならばコンピュータ・ウィルス以上に性質が悪い。被害を出さぬためにも、わが友達を守るためにも、正体不明のリクエスト申請は断固として拒絶せざるを得ない。いうなれば、水際作戦ですね。
 嫌な話をしたつもりは毛頭ない。HPやブログのコメント欄でも、SNSでも、否、それだからこそ利用する限りは礼節を守ろうよ、という至極当然のことをいうている。本ブログの読者諸兄、或いはわが友達ならば、敢えて語るまでもなくご理解いただけていよう。◆

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第2185日目 〈『リボルバー』と『パストマスターズ』を聴いたのです、が……。〉 [日々の思い・独り言]

 最近お馴染みとなったビートルズの話題を、今日も再た。
 これまでUK盤に基づくオリジナル・アルバムをリリース順に借りては聴いて、iTunesに取り込みiPhone6sPlusで聴き、そうして返却し、を繰り返してきた。『リボルバー』だけ他の人が借りていたので後回しになったけれど、今回のレンタルを以てつつがなく全アルバムの取り込みを完了。残るは『アンソロジー』全3枚と『レット・イット・ビー …ネイキッド』、『イエロー・サブマリン・ソング・トラック』の計5枚となる。
 休みの日に在宅する折はスピーカーを接続したiMacで鑑賞するが、今日聴いた『リボルバー』と『パストマスターズ Vol,1』はややテンション低めの状態で聴くこととなった。どうしてだろう。
 『リボルバー』はこれまで聴いてきたアルバムとあまりに色合いの異なるサウンドで、感動とか驚愕とかそれらよりも先に戸惑いが襲ってきてそれに囚われ、第一印象を払拭できなかったせいであろう。夕食を作りながらぼんやりとそんな風に分析した。おそらくこのアルバムが好きになれば、新たな扉を一つ、開くことになるのかな、と考えている。
 翻って後者、『パストマスターズ Vol,1』はシングル盤で発表されただけで、アルバムには未収録の曲が原則として収める。本盤に聴き馴染みのある曲があるか、といえば、あるにはあるがアルバムに収録されたのとは別のヴァージョンのため、それ以外はどれも知らぬものばかり、と返事しよう。それゆえに今一つのめりこめなかった、と正直に告白する。
 この『パストマスターズ』、或いはこれから聴く『アンソロジー』全3枚などビートル・マニア垂涎・必携のアルバムと称される音盤は裏を返せば、わたくしのようなビートルズ入門者は時が経つにつれ価値がわかってくるからいまは耳を傾けていさえすればいい、という意味に受け取れる。われながら前向きで、自己中心的な捉え方と思うが、そうでなくては全アルバムを聴き通すなどまるで意味のない行為ではないか。
 それでも1曲目を飾る「ラヴ・ミー・ドゥ(シングル・ヴァージョン)」は、『プリーズ・プリーズ・ミー』に収められるものよりもこちらの方が好ましく思えるし、それは『パストマスターズ Vol,2』で聴ける「ゲット・バック」についても然りだ。いつかこのCDを好きと表明できる日が来ればいいな、と思う。
 ──ここまでレンタルで済ませてきたビートルズのアルバムだが、改めてすべてを借り果せたいま、やっぱり全部自分のものとして手許に置いておきたい、だったら何ヶ月かに分けてリリース順に(ここは譲れない)アルバムを購入してゆこう、と決めた。じゃぁ最初から買えよ、という声も聞こえてきそうだが、ううん、それは違う、こうして借りて来たから自分にとってこのアーティストが価値あるものと変貌し、音盤を所有する意義を見出せたのだ。サンクス、TSUTAYA。
 今後もしばらくは思い出したように、ビートルズを話題にした文章がお披露目されるだろう。そのときはどうぞ宜しく。◆

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第2184日目 〈本は自分で読むもの、と思うのは時代錯誤な考えなのかな。〉 [日々の思い・独り言]

 iTunesにてオーディオブックをせっせと買いこんだり、Podcastを喜々としてDLしていると、いつの間にこんなに購入/DLしたんだろう、って青くなってしまう。それらは原則、外付けHDDへ格納しているのだが、つい先日、その中身を恐る恐る窺い見て、しばし後には顎に拳をあてて「うむむ」と唸って考えこんでしまった。
 わたくしがiTunesから取得するのは小説が多い。国内に限ったものではなく、原語朗読だが海外の作物だってある。外国語(ほぼ英語と同義)へ耳と脳みそを馴染ませる(ほぼ語学の勉強と同義)のが当初の目的の一、加えていえば好きな文学を書かれた言語で聴いてみたい、という願望もそこにはあり。
 しかし、わたくしは斯様にして入手した作品群のなかで最後まで聴き通したものが殆どない。聴き通していない、のではなく、聴き通すことができていない、という方がより正確だ。なぜか、要因はなにか。理由は結構シンプルで、聴き通すには作品が長すぎるのである。日本の場合以上に海外作品は厄介だ。短編ならいざ知らず、海外小説の長編ともなればただでさえページ数が辞典並みに分厚く、物語も長大となる。それに比例して朗読時間も長時間化の傾向を見せてゆく。厄介というのはそれだけの時間、朗読に耳を奪われてしまうことになるからだ。正直なところ、それって案外苦痛なんだよね。
 購入したりDLしたりする当座は、聴く意欲も聴きたいという欲望も、然るべき理由や目的もあって購入ボタンや購読ボタンをクリックするのだが、決して気紛れにそれを行っているわけではないのだ。が、いざ聴こうとするとそのトータル朗読時間に怯み、それでも青息吐息で折り返し点まで来るとそこから先はもうスイッチが切れたようになり、そのまま放置を決めこんだりする。オーディオ・カセットやCDの時代を含めても、最後まで聴き通して、なおかつそのあと何度も聴いた作品がどれだけあるかといえば、STEPHEN KING原作・朗読の『Gunslinger:The Dark Tower 1』を除けば五指に余る。それも日本人作家の手になる作品も込みでの話だ。
 ここで導き出される私的結論は、やはり本は他人に読んでもらうものではなく自分で読むもの、という昔ながらの固定観念だ。むろん、ここでは子供への読み聞かせや朗読会、障害者相手の朗読といった事例は考えに入れていない。あくまで五体満足な成人の、個人的営みとしての読書を念頭に置いている。残念ながら反対尋問には応じない。
 他人の朗読のペースと自分の読書のペースが合致すれば良いが、それを期待するのはちょっと虫が良すぎはしないか。換言すれば自分で読んだ方が早いし、心にも残るんじゃないのかな、と思うの。21世紀のIT時代、DL購入とモバイル端末での読書が市民権を得る時代になんと時代錯誤なことをいうのか、と失笑されようけれど、それはわたくしもじゅうぶん承知だ。
 とはいえ、紙の本の方がね、まあ重量はあるし、かさばりもしようけれど、読もうと思ったときすぐさま荷物から取り出して、そのまま読書を始めることができる。モバイル端末を操作するにはためらわれる環境であったとしても、紙媒体の書籍ならば特にお咎めなしというケースが専らだ。利便性としてはモバイル端末にはるかに優る。いうてみれば、起動時のWindowsとMacの立ち上がり時間の差に匹敵する。おまけに紙媒体はバッテリの心配や輝度の調整に神経を使うこともないからね。もっとも、照明など他の点で気を配ることは多くあろうけれど。
 勿論わたくしは電子書籍やオーディオブックを頭から否定しはない。外出先でと或る作品の一部を引用したり、もしくは確認するのに、電子書籍やオーディオブックになっていさえすれば参考させてもらっていることは、偶にあるからだ。便利だからというてそれに依存するつもりがないだけの話である。あれば便利だがそれ以上のものとはなり得ぬ。利用はしても依存はしないし、そちらへ読書の主軸を移すことも断じてない(獄中の人となり、本ではなくタブレットしか与えられないなら話は別だがね。呵々)。実際にiPadやKindleを手に入れたとしても、このあたりは変わらないだろう。
 ではそろそろ本稿の筆は擱き、外付けHDDからオーディオ・ブックやPodcastを幾作か削除するとしようか。さて、どれから手を着けようかな。◆


 追記
 スタバでのモレスキン初稿から難航、そこではMacBookAirを開くような時間はなかったので帰宅後、本稿のワープロ稿を作成。が、仕事の疲れか、キーボードを叩いているうちに舟を漕ぐこと数度、10数分の睡眠に陥ること2度もあり、いつ布団に入ったかも記憶がない。そんなことから休みの昼間に、どうにかこうにかお披露目できるようなものを完成させて、日中に公開させていただく次第だ。以上、こんな日も偶にはある、という釈明会見を終わる。□

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第2183日目 〈もうすぐ春ですね。ちょっと旅してみませんか♪ そう、金沢とかね!〉 [日々の思い・独り言]

 鬼やらいを済ませて迎えた今日立春、Twitterを見ていたら嬉しいニュースが。来週1週間は春を感じさせる陽気になる、という。暖冬は困りものだが、暦の上ではもはや春。その訪れを待つ心はもう隠さなくてもいいだろう。が、そのまま徐々に春へ向かってゆくのか、或いは、それはぬか喜びで(例によって例の如く)そのあとには厳しい寒さが待ち構えているのか、そこまではわからぬ。さりながら春の訪れを楽しみにする時機の到来であるのは、何人と雖も否定できぬ事実だろう。
 次の季節の足音が近附いてくるのが聞こえると、気分がそぞろ立ってあれこれ予定を立ててしまう。わたくしの場合、旅行の予定を立てるのが専らなのだけれど、行き先がどこであれ、かの地のガイドブックの類に囲まれて名所旧跡へ足を運び、歴史や文化を吸収し、どこを回ろうか、なにを食べようか、なにに触れようか、どんな宿へ泊まろうか、など、考えただけでワクワクしてくる。異境の空の下にいてかの地を歩む自分の姿を想像すると、まだ見ぬ未来に知らず熱い溜め息が零れてしまうのだ。
 芭蕉のような刻苦鍛錬、弥次喜多のような無軌道ぶりはさすがに自分には似合わぬし、範ともし難いが、ゆとりある旅であれ切羽詰まった旅であれ、すくなくとも上田秋成の如く古典や歴史、花鳥風月を途次徒然に思う、そうして家族ありきの慈しみに彩られた旅行をしたい。
 旅先で心動かされるのが、ガイドブックで紹介された風景の確認や諸所で味わう食事だけでは、あまりに侘しいではないか。わたくしは道の辺にひっそりと咲く野花の一つにだって感動したい。わたくしは全身で、五感をフルに使って旅行したい。旅先での見聞や都度都度自身のなかに湧きあがる感慨、感情の揺れ動きをいつまでも記憶して、すべての経験をわが内へ蓄えたい。わたくしにとって未だ旅は1年にそうそうあるものではない、大きなイヴェントであるのだから。
 今年の晩春は金沢へ。計画の域を出ていないが、そこは筆頭候補の地である。この文章を書く恐れを知らぬ愚か者は当初、初瀬に詣でたあと京都経由で北陸本線に乗って金沢へ入り、家族と合流しようと企んだのだが、仕事しているのと大差ない時間を電車に揺られて移動すると判明した以上、後ろ髪引かれる思いでこれを断念した。車中、暇を持て余すからではない。一人旅ならいざ知らず、家族旅行だからね。勝手気儘が許されていいものではない。加えていえば、電車の座席に長時間坐っていて、腰や背中にどれだけ負担がかかるかわからぬ恐怖感もある。この発言の大前提は、近鉄大阪線の長谷寺駅から北陸本線の金沢駅まで鈍行で、しかもずっと座席に坐っている、だ。頭のなかにお花畑が広がってると、こんな発想が当たり前のように出る。呵々。決して乗りテツではないし、鉄道ライターを気取るわけでもない、と表明しておく。
 いったい金沢でなにするの? まずは定番の観光地として兼六園と金沢城は見ておきたい。武家屋敷を左右に眺めて散策し、その一角にあるてふ武家屋敷跡野村家にて憩うてみたい。古都の町並みのなかで気持ち良く迷子になるもよかろう。浅野川や犀川縁に立って、様々な近代小説に登場した金沢を思うてみたい。タイミングが合えば石川県立能楽堂で演し物を鑑賞し、金沢市立能楽美術館が誇るコレクションをじっくり堪能しよう。
 とはいえ、わたくしの金沢旅行でいちばんのトピックは泉鏡花記念館である。<金沢の3大文豪>として他にも徳田秋聲、室生犀星がいて、それぞれに記念館があるけれど、わたくしにとって一等に行きたい場所は鏡花所縁のこの施設だ。高校生の頃から鏡花に親しみ、読み耽ってきたわたくしにとってそこはまさしく聖地エルサレム。リニューアル・オープン後の企画展の期間中に間に合うかはわからぬが、喜びもてそこを訪れるその日その時を、本当に金沢旅行するのか判然とせぬいまから心待ちにしているのは、われながら変な心地だけれど、小さな鏡花宗徒の呟き、望みとして斯く思うのだ。
 なにやら2泊3日ぐらいの日程では消化できそうもない雰囲気だが、そこはほれ、あれだ、取り敢えず行きたい所を列挙しただけで実際のスケジュールを組んでの話ではないから、いまは気にせぬがよろし。うむ。◆

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第2182日目 〈我思ふ、われにビートルズを語る資格のありやなしやと。〉 [日々の思い・独り言]

 自分にどれだけビートルズを語る資格があるのかわからない。まあ、いうてみればニワカやしな。──そんなことを口走った途端、まわりのビートル・マニアが蜂起して、その陣営は真っ二つに分かれたのである。「否、否、否!」と叫ぶ支持派と「然り、然り、然り!」と喚く弾劾派とに。当事者たるわたくしはそんな最中、両陣営の狭間にあってぼんやり、窓の外の夜の街を眺めながら好きな人のことを考えている。まさにまさにAll you need is kill、ではなくAll you need is loveだ。
 そもビートルズを語る、というよりもそれについて何事か発言してみよう、と思うたきっかけは、既にここで何度となく触れているように、なにかの拍子にビートルズのオリジナル・アルバムをリリース順に聴いてゆくのを決めたためだ。現在iTunesの「マイ・ミュージック」には『リボルバー』を除いて『プリーズ・プリーズ・ミー』から『レット・イット・ビー』まで取り込みが済んでおり、今後はアンソロジーやBBCのライヴ、『レット・イット・ビー …ネイキッド』へ歩を進めてゆくことだろう。
 そのあとはどうするの、ですって? おそらくメンバーのソロ・アルバムを、すべてではないにしても聴いてゆくことになるだろう──いや、実はもう着手してしまっているのだけれどね、この前ジョン・レノンの『ジョンの魂』を(枚数調整も兼ねて)借りてきたから。
 ……まぁもっとも、まだこちらは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』までしか聴けていないのですけれどね。裏を返せば、この先で待っている未知のビートルズを楽しみにできるわけである。
 Facebookであれ本ブログであれ、各アルバムの感想でも認めてみようかな、と企てたのが今回の、現在の、元凶たるわたくしをすっかり差し置いて(どういうことよ、失礼こいちゃうわよね!)支持派と弾劾派の一進一退の攻防戦へ発展した内戦の原因である。かつて、本ブログ開設以前より筆を執って書き進めていたレコード評「一枚のレコード」や正式発行を待たずして頓挫した(企画倒れではないのだが)有料音楽エッセイ誌『音楽の空間』に収めるような短文を、然るべき舞台にて公にしたいのである。極めて私的なビートルズ・アルバムへの思うところを綴った……。
 が、それを行うのはデビュー・アルバムからラスト・アルバムまでの12枚と、『1962-1966』(赤盤)と『1967-1970』(青盤)、そうしてわたくしには入り口であり入門であり、長きにわたってオンリー・ワン的位置を占めた『ビートルズ 1』、『レット・イット・ビー …ネイキッド』の4枚である。それ以外のアルバムについては、かりに公認アルバムであったとしても追いかける意思はない。自分の性格上、これら16枚が限度だ。
 勿論、その過程でわたくしがビートル・マニアと化せば話は別だが、幸か不幸かその心配、いや、可能性はなさそうである。済まぬ。
 ただここでお伝えしておくと、機会あらば或る日突然、本ブログにてアルバム・レヴューを始めるかも。エッセイ期間中のことか、読書ノートのエッセイ部分でか、そこまでのことは(現時点では)神ならぬわたくしにはわかりかねる。確定した未来が見通せるなら苦労はしない。序でにその未来が修正可能なら尚のこと良いのだが。
 横道に逸れてしまうたが、そんな風にしてレヴューという名の感想文/作文がお披露目され始めたら、読者諸兄よ、どうぞ寛容な心でそれらをお読みいただき、恙なき完結を祈っていただければ幸いである。
 さて、経過報告をしておくと、わたくしを挟んでの支持派と弾劾派の攻防戦は未だ続行中で、しかも終息の気配を見せない。どうしたものか、困ったね。いやはやなんとも。
 ──なお本稿は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』と『イエロー・サブマリン』(ビートルズ楽曲まで)をBGMとして第一稿が執筆された。Mac Book Airを使用してのワープロ稿は『イエロー・サブマリン』(ジョージ・マーティンによるオーケストラ曲から)、『アビー・ロード』と『レット・イット・ビー』(3曲目「Across The Universe」まで)をBGMとして作成された。
 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』では「When I’m Sixty-Four」も良いけれど、同じぐらいに「Good Morning Good Morning」も好きだな。お気に入り。◆

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第2181日目 〈文学のススメ、自分宛。〉 [日々の思い・独り言]

 残業した帰りのスターバックスでコーヒーを飲みながら志賀直哉を読んでいるのですが、どうにも集中できず、作中世界へ入ってゆくこともできず、それ以上ページを繰るのを断念して巻を閉じました。そうして吸ってもいない、見えてもいない煙草の紫の煙を眺めながら予感を受けました──これ以上この時点で志賀直哉を読み続けることはあるまいな、と。が、3冊の新潮文庫を処分するわけではない(2016年2月1日現在)。2,3年の内に改めて読み直す気になるかもしれないし、未読の中巻、下巻に収められるなかにも読んでおきたい、読みたい短編が含まれているのだ。咨、この結末の訪れがあらかじめわかっていたなら、他文庫の傑作集1冊ぐらいで済ませておくんだったな。残念。
 残念といえば斯様な結末のあることがわかっていたなら、他の作家の小説を読む時間に充てるべきだった。若干後悔している。いまわたくしの念頭にあるのは佐藤春夫なのだが、買い溜めた新潮文庫と岩波文庫を心ゆくまで堪能する時間に費やしたかった。前者の『田園の憂鬱』と『わんぱく時代』、後者の自選・多選の2種の短編集に耽り、そのまま『小説永井荷風伝』(岩波文庫)と『たそがれの人間』(平凡社ライブラリー)へ至る道を歩むべきであった。切にそう思うている。後者は東雅夫が編んだ怪異小品集、平井呈一のエッセイで興味を持った「化物屋敷」を含む1冊だ。本音を言えば、学生時代に数編を読んだ佐藤春夫一世一代の名仕事、名随筆集『退屈読本』(富山房百科文庫)もここに加えたかったが、火事のあと処分して未だ買い直してはいないこともあって、この度の読書計画に含めるのは諦めた。講談社文芸文庫を中心とした第二期の大トリでも務めてもらおうか、とただいま画策中。
 講談社文芸文庫といえば北条民雄と原民喜の全小説集が分厚い背表紙を見せて、書店の棚に並んでいます。これがまたタマラナイ。北条民雄は婚約者を亡くした直後ぐらいに読んだけれど、さすがに辛くて表題作1編だけ読んで放り投げた。北条民雄の小説で描かれる死の透明な姿に言い難い拒絶反応を起こしたのだ。序でに、古本屋で買ったそれは角川文庫版で活字が小さく、おまけに所々印刷が薄れて、読み疲れてしまうことも手伝って。その後創元ライブラリから上下巻で『定本 北条民雄全集』が刊行されたけれど、逡巡した後に購入を見送り、現在に至っている。講談社文芸文庫から刊行されている『北条民雄小説随筆書簡集』は、その創元ライブラリ版を合本化したもの。すくなくとも文学好きなら、読書家を自認するなら、北条民雄も原民喜も読んでみてほしいな、好むと好まざるとにかかわらず問答無用で、というのが本音。
 問答無用といえば、本気で趣味;読書というならばこれぐらいは読んでおけ! という一群の書物があって然るべきと思うのだ──という書き出しで始まる段落がここで出現するはずだったのだが、途中まで書いてわれながら笑っちゃう程に破綻してしまったので、躊躇いなく破棄をした。えへ。
 嗚呼、しかしいったい志賀直哉のどこがそれ程までにすばらしく、人を惹きつけて止まぬというのだろう。今度同僚に訊いてみよう。◆

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第2180日目 〈YouTubeで懐かしの洋楽を試聴しよう!(特別編)〜ミック・ジャガー&デヴィッド・ボウイ「Dancing in the Street」〉 [日々の思い・独り言]

 先日デヴィッド・ボウイが亡くなった。どういうわけか、この人には不死身のイメージが付き纏うていたので、業務時間中にTwitterやFacebookで速報が流れた(こんな時代なのだ!)ときにはわが目を疑ったっけ。周囲に秘かに大量生息していたファンが嘆き悲しみ、喪に服す様を見て、その夜の報道番組で逝去のニュースを見て、ようやく実感が湧いた次第。
 1980年代のデヴィッド・ボウイの歌にはラジオ経由でしばしば接していたはずなのに、唯一の例外を除いてはすべて体を通過していったのだ。当時の自分にとってデヴィッド・ボウイって、あくまで俳優だったんだよね。『地球に堕ちてきた男』、『戦場のメリークリスマス』、『ラビリンス 魔王の迷宮』、みんな好きでよく観たなぁ。特にルーカスの『ラビリンス』はね、映画の世界に入りこみたいと切に祈った人生2番目の映画でしたよ。
 翻って歌手としてのデヴィッド・ボウイを知るのは、唯一、ミック・ジャガーとデュエットした「ダンシング・イン・ザ・ダーク」のみ。たしか1985年末にNHK-FMで放送された洋楽特集番組(※)で聴いて以来、時折2人の歌声が脳裏によみがえるのだった。この番組はカセットに録音したけれど、放送された1985年当時のヒット曲のうち、比較的よく聴いたものに分類できると思うな。
 これにMVがあることを実はつい先日知ったのだが、それまでどういうわけか敢えてこの曲の映像を探そうとはしなかった。もっとも、今回の発見は「デヴィッド・ボウイ」で検索を掛けた結果として偶然見附けたのだったけれど。出所? 勿論YouTubeですよ。
 初めて観たときには軽い衝撃を脳天に喰らった気分だった。わかっていたことだし、言わずもがなのことなのだが、ミック・ジャガーもデヴィッド・ボウイも、いやぁ若いっ! 30年前の映像なのに2016年になっても殆ど容姿の変化が見られないとは、この2人、いったい何者なのかね? それにしてもミックとデヴィッドが屋内やストリートで踊りまくる光景はまさしく眼福。キレてます、イッてます。是非ご自身の目でご確認を(https://www.youtube.com/watch?v=9G4jnaznUoQ)。
 だけど、わたくしがラジオで聴いた「ダンシング・イン・ザ・ストリート」は最後、フェード・アウトではなく2人が「Tomorrow!」と力強くシャウトしたところで終わった覚えがあるのだけれど、気のせいかしら。他の曲と混ぜちゃっているのかな。
 タワーレコードやTSUTAYAからは瞬間的にデヴィッド・ボウイのアルバムが品薄になったようだけれど、現在は常態に復している様子。逝去2日前にリリースされた新作『ブラック・スター』は既に購入済みだけれど、明日の図書館帰りにでも実店舗にて過去のアルバムを何枚か見繕って買って来ようかな、と、なかば本気で検討中であります。◆

 ※追記
 まだ10代の頃に聴いたその番組のタイトルは「1985年軽音楽ハイライト」といった、と記憶する。これを録音した90分のカセットテープは部屋のどこかにまだ残っているはずで、他にG.I.オレンジやヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース、ハワード・ジョーンズ、ブライアン・アダムス、デビューしたばかりのホイットニー・ヒューストン等のその年のビルボードにランクインした曲が約1.5時間か2時間にわたって流されたはずだ。
 しかし「軽音楽」という表記、当時としては苦肉の策だったのだけれど、いまとなっては却って新鮮ですね。□

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