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第2238日目 〈30年前の東京で、このドヴォルザークは披露された ──ペーター・マーク=都響:ドヴォルザーク《新世界より》を聴きました。〉 [日々の思い・独り言]

 ペーター・マーク=東京都交響楽団(TMSO)によるドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》を聴いた。この指揮者、モーツァルトとシューベルト、メンデルスゾーンを除けばレパートリーはどちらかといえば散発的で、体系立っていない印象が強い。もっとも残された録音を基にしての私見だから、生涯の演奏会リストみたいなものが手に入ればまた違う見方もできるかもしれないけれど──。
 マークにとってドヴォルザークがどれだけの位置を占めるレパートリーなのか、定かでない。かつてドイツ・グラモフォンにエディット・パイネマンの伴奏としてチェコ・フィルと組んだヴァイオリン協奏曲があったけれど、これだけでは判断材料とするに難しい。
 TMSOを相手にした本盤を聴いていると、まずこの曲の持つ叙情的な性格が指揮者マークには打ってつけである、と改めて確認させられる。たとえば有名な第2楽章。ここは約13分を費やしてゆっくりと、慈しむかのように奏でられる。第一ヴァイオリンのすすり泣くかの如き音色に言いしれぬ<わびしさ>を感じるのは、果たしてわたくしだけであろうか。
 主に東武レコーディングの奮闘のお陰で今日われらは東京都交響楽団とマークが共演した際の録音を幾つも聴ける。なかにはシューマンのように惚れ惚れするような名演があり、一方でブルックナーの如き開いた口が塞がるには少し時間を要す珍盤もある。さりながらいまのところ、このドヴォルザークこそ両者の共演の最上の記録とわたくしは思うのだ。ここで聴かれるのは、指揮者とオーケストラと作曲家(作品)の稀有なる三位一体の結晶。
 録音は1986年3月31日、東京文化会館(上野)にて。第232回定期演奏会の記録である。
 併録はワーグナー《トリスタンとイゾルデ》第一幕前奏曲と〈イゾルデの愛の死〉。マークにこんなレパートリーがあったのか、と驚くこと必至の美しき演奏である。1995年10月、サントリーホールでの第416回定期演奏会の記録。こちらもドヴォルザーク同様音盤では初となる曲目という。◆

第2237日目 〈ペーター・マーク「メンデルスゾーン交響曲全集」が発売されます。〉 [日々の思い・独り言]

 ARTSから発売されていたペーター・マーク=ヴェネト州立パドゥヴァ市管弦楽団によるモーツァルトとベートーヴェンの交響曲録音が復活したことで、この際だからマドリード交響楽団と録音したメンデルスゾーンの交響曲全集もリマスタリングして発売してよ東武レコーディングさん、と書いた翌日、東武レコーディングとタワーレコードのHPでそれが実現してしまうことを知って仰け反ったみくらさんさんかである。
 マークとスペインのマドリード響。双方にどのような結びつきがあってのコンビなのか不明だが、たしかこの全集はARTSからは先にボックス・セットが発売されたのではなかったかな。分売されているのを後日ショップの棚に発見して、ありゃ、と思うたことを覚えているもの。
 でも、このメンデルスゾーンはそれ程印象に残る演奏ではなかったな。《スコットランド》もなんだかふんどしの緩い演奏で、また《イタリア》については以前ベルン交響楽団と録音したものよりも(特に金管が)濁って聞こえた。弦にも、冒頭から明朗さも覇気もなかった。それらがオーケストラに由来するのか、録音やマスタリングの技術に由来するのか、定かではないが……。
 むしろマドリード響との録音でなかなか面白いな、と感じたのは最後の第5番だったね。普段は耳にする機会が滅多にない曲だからこそ、スピーカーから流れてくる音楽へ存分に身を浸して楽しみながら聴けたのかもしれない。とは申せ、マーク初のメンデルスゾーン交響曲全集を手放してずいぶんの歳月が流れる。ここに書いたのは当時の書簡からの要約だ。手放してからの歳月=第5番を聴かなくなった歳月。上記以外の印象は自分のなかにはもう存在しない。今回のリマスタリングされた全集を入手したらいの一番にこの第5番へ耳を傾けよう。そうして当時の印象とどれだけ相違するか較べてみよう。
 もはや遅きに失した疑問だけれど、交響曲第2番《讃歌》には歌詞対訳は付くのか。たぶん否であろう。落胆しますね、予感が当たったらば。マークの全集と一緒にカラヤンかドホナーニの同曲国内盤、或いはアバド=ロンドン響の全集国内盤のどれかを購入してこようかしらん……?
 告知によれば発売は3月31日。楽しみ、楽しみ。◆

第2236日目 〈ペーター・マーク「ベートーヴェン交響曲全集」を聴きました。〉 [日々の思い・独り言]

 東武レコーディングの太鼓持ちとか思わないんでほしいんだけど、ペーター・マーク=パドヴァ・ベネト管弦楽団(ヴェネト州立パドゥヴァ市管弦楽団)他によるベートーヴェン交響曲全集もすごいんだよ、というお話。
 リマスタリングの勝利なる点についてはモーツァルトの場合と同じ感想なのだが、劇的に印象が変わったのはむしろこちらの方で、殊第5番と《合唱》に関しては目から鱗が落ちたような感銘を味わっている。わたくしはマークのベートーヴェンを生で聴いたことはないけれど、それでもマークという指揮者への先入観からかれのベートーヴェン演奏を見下していたように思う。おそらくは骨格のがっしりした楽聖の交響曲はマークの不得手に分類されるものなのではないのか、という思いこみ。が、実際のところは然にあらず。今回東武レコーディング盤に改めてゆっくりと耳を傾けてみて、なんだ案外とマークと楽聖の相性は良いではないか、と思い直した次第。
 その契機となったのが第5番と《合唱》であるのは先に触れた。前者の懐深く推進力抜群の演奏、後者の雄々しくも祈りと喜びに彩られた演奏。それらについてわたくしは果たしてARTSのオリジナル盤を聴いた20代後半のときに感じ取っていたであろうか。たしかにベートーヴェン演奏には非力な小編成のオーケストラかもしれないよ、ヴェネト州立パドゥヴァ市管弦楽団は。ならばフル編成のオーケストラならばどこだって<傑作の森>以後の交響曲を誰もが望むような形で、響きもテンポも申し分ない超弩級の演奏ができるのか。勿論、「否」である。たとえば《合唱》。第2楽章など聴いてごらん。ブラインド・テストをしたら有名な誰彼の演奏であるなど錯覚され、実際優れた演奏と評価されるに違いない。それ程にペーター・マークは凄みのある音楽をオーケストラから引き出しているのだ。
 この全集以前にペーター・マークにベートーヴェンの交響曲の録音があるのか寡聞して知らないが、モーツァルトやメンデルスゾーンで馴染んだのとは一風異なった、まるでそちらとは別人の如き演奏を堪能できるとなれば、かれが自身の実力に見合ったオーケストラとコンビを組んでベートーヴェンの交響曲をセッション録音してくれなかったことをつくづく惜しんでしまうのは宜なるかな、というところであるまいか。これが指揮者本人には無礼な発言であるのを承知してなお、そんな恨み節の1つ2つも繰りたくなるのだ。
 指揮者としてのキャリアを顧みたとき、わたくしにはペーター・マークとクラウディオ・アバドがコインの表と裏のように映って仕方ない。2人とも若い頃から頭角を現して、将来を嘱望されることでは同世代の指揮者から一頭地を抜いていた。レコード会社もかれらの実力を看破してレコードを作り広告媒体を駆使して大いに売り出した。そうしてかれらは次世代エースとして愛好家の間で認識され、注目を集めてゆく。
 が、或る時点でマークとアバドの指揮者人生はまったく違う方向へ分岐した。マークはキャリアを抛って香港の禅寺にこもって2年間修行、ヨーロッパ楽壇に返り咲くも次第に(すくなくとも傍目には)ぱっとしない活動を続け、いつしか中央から離れて地方のオーケストラ相手に活動するようになった。行く先々のオーケストラとは良好な関係を築きこそすれ。注目を集めるようなオーケストラのポストに就くことはあまり望まなかった様子である。まぁ、「悠々自適」といえばそうとしか言い様のない、マークらしいといえばそうとしか言い様のない活動。アバドもベルリン・フィル勇退後はマークとはやや違う意味で「悠々自適」といえる活動を繰り広げた。そういえばアバドのベートーヴェンもマークと同じような演奏傾向があるなぁ……。かれらの遺した<不滅の九>については別の機会に考え直してみよう。
 さて、ペーター・マーク。そのキャリアのなかでペーター・マークがどれだけの回数、ベートーヴェンの交響曲を振り、その時代その時代でどんなベートーヴェンを演奏してきたのか。このたび東武レコーディングから復活したARTS原盤の全集へほぼ10年ぶりに接したことで、そのようなことを思いかつ嘆息するのである。過日同じ東武レコーディングから発売された東京都交響楽団他とによる《合唱》がその嗟嘆を更に増幅するのだった。
 今後どのような世上の評価に曝されながらこの全集が聴かれてゆくのかはわからない。しかし、ペーター・マークの業績について語るとき、その芸風について語るとき、このベートーヴェン交響曲全集を無視してそれを行うことは不可能であろう、とだけは指摘しておきたい。
 願わくば、今回の復刻をきっかけとしてこれが江湖に聴き継がれてやがて新たなスタンダードとならんことを。◆

第2235日目 〈ペーター・マーク「モーツァルト交響曲集(付《大ミサ曲》)」を聴きました。〉 [日々の思い・独り言]

 モーツァルトを不得手としていたわたくしも、いまやそれなりのモーツァルト好きである。不得手の時代、モーツァルトが好き、といえるようになりたくて、コンサートでも音盤でも様々な作品を聴いていたが、どうにも、ピン、と来ず、その度にいつかモーツァルトが好きといえる日が来るんだろうか、このままモーツァルトの素晴らしさがわからないまま命を空しうするのではないか、と思い詰めたりしていたっけ。
 でも、それなりの量の演奏を、たくさんの時間を費やして聴いてきた蓄積だったのだろうか、或る日突然わたくしはモーツァルトの恵みを受けてその福音を江湖へ伝える使徒に変貌したのだ。大袈裟? 勿論、百も承知! そう、それは本当に突然のことだったな。そのときのことは未だ言葉にできないし、おそらく今後もそうであろう。ただ、その道均しをしてくれた記念碑的演奏はよく覚えている。シャロン・カム独奏のクラリネット協奏曲が前哨となり、ペーター・マーク=スイス・ロマンド管/ロンドン響とカール・ベーム=ウィーン・フィルによる交響曲集が決定打となった。以来、弾みがついたようにわたくしは、それまでに増していろいろなモーツァルト作品を目で見、耳で聴き、体で感じてゆくようになる。前世紀末のことだ。
 その頃と記憶する。輸入盤を扱う大手CDショップにてマーク指揮するモーツァルトの交響曲と大ミサ曲のCDを見附けたのは。聞いたことのないイタリアの小レーベル(ARTS)、聞いたことのないイタリアの地方オケ(パドヴァ・ヴェネト管弦楽団)であることも、さして気にならなかったよ。わたくしをモーツァルト好きにしてくれたマークの指揮で聴けるモーツァルトであるならばね。
 売価の安さと相俟ってまとめ買いしたCDを仕事から帰ってきたあと、1枚ずつじっくりと聴いてゆくのが当時のいちばんの楽しみだった。改めてモーツァルトの音楽の素晴らしさに素人ながら感激していた。当時のピュアな気持ちはいったいどこへ?
 残念ながら当時購入したARTSレーベルの日本語解説附きCDはいずれも理由あって処分してしまったが、今年2016年になってから『レコード芸術』誌を立ち読みしていると、いつしか廃盤となっていたらしいこのコンビによるモーツァルト作品が全点、東武レコーディングからリマスタリングされて再販される旨告知されていた(ベートーヴェン交響曲全集が同時発売)。
 発売当日にさっそく他のCDと一緒に買いこんできて聴いたけれど、もっさりして輪郭のややぼけた演奏が解像度の高い演奏に生まれ変わり、みずみずしい響きがまるで原盤に収められた演奏とは別物に思えてしまった。以前は余程ボリュームを上げないと潰れて聞こえなかった木管楽器の音がきちんと聴き取れるなどということも含めて、今回のリマスタリングは大成功というてよいと思う。おまけに、フルトヴェングラーばりのデモーニッシュさがより強調されて聴かれるようになったのは、いったいリマスタリング技術の勝利というべきか、それともこの間にいろいろなモーツァルト交響曲をいろいろな指揮者で聴きかつ得た知識に基づく色附けなのかな……。
 かつて発売されていたARTS盤を架蔵する人も今回の東武レコーディング盤は購入して座右に侍らすべきだと思う。スピーカーやヘッドフォンから流れてくる音楽を耳にすれば、ARTS盤とは殆ど別物の演奏と感じたというわたくしの告白にも首肯いただけることと思うのだ。それだけにライナーノーツのお粗末さにはがっかり。木之下晃によるマークのポートレートは良いのだけれど、ライナーノーツに関してはARTS盤の国内盤仕様に付されていた片山杜秀の解説も併録してほしかったな。まぁ、斯様な注文を付けたとはいえ、今回の東武レコーディング盤が貴重な復刻であるのは紛れもない事実である。
 東武レコーディングにはこのままARTSから発売されたマークの録音、つまりメンデルスゾーンの交響曲全集とシューマンの管弦楽伴奏附きピアノ作品集は勿論、ARTS HISTORICALから出ていたオーケストラ曲やオペラの復刻も是非に、とお願いしたい。それともこれって高望み? そうは思いたくないんだよね──。◆

第2234日目 〈フィレモンへの手紙:〈フィレモンの愛と信仰〉、〈パウロ、オネシモのために執り成す〉他with「フィレモン書」読了の挨拶〉 [フィレモンへの手紙]

 フィレモンへの手紙です。

 フィレ1-3〈挨拶〉
 キリスト・イエスに囚われたパウロとテモテから、協力者フィレモンへ、姉妹アフィアと戦友アルキポへ、あなたの家の教会へ。神と主キリストの恵みと平和があなた方へありますように。

 フィレ4-7〈フィレモンの愛と信仰〉
 フィレモンよ、わたしは祈りの度にあなたを思い起こします。というのも、主に対するあなたの信仰と聖なる者たちへ寄せるあなたの愛を、知っているからです。
 われらの間でキリストに対して行われている善きことをあなたが知り、それによってあなたの信仰の交わりがいっそう活発になることを期待します。
 「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。」(フィレ7)

 フィレ8-22〈パウロ、オネシモのために執り成す〉
 フィレモンよ、あなたの愛に訴えてお願いしたいことがあります。
 わたしはこちらで1人の奴隷を回心させました。名前はオネシモ。ご存知でしょう。かれはあなたにとっては役不足、取るに足らぬ者でした。が、いまは違います。キリストの恵みに与るようになったオネシモは、わたしを手伝えるぐらいの人物となったのです。
 本当ならこのままここにいて手伝ってもらいたいのですが、あなたにお返しします。この手紙を携えて帰るオネシモを、どうぞあなたの愛を以て迎え入れてください。かれは1人の人間として、主を信じる者として、あなたの愛する兄弟であるはず。
 「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。」(フィレ15-16)
 どうかかれをわたしと思うて迎え入れてください。かれがもしあなたに対して負債を負っていたり、なんらかの損害を与えているのなら、どうかその請求はわたしに回してほしい。わたしはこの手紙を自分で書いています。だからこの依頼も信用してくれて構わないのです。
 ここでわたしがお願いしたことをあなたは聞き入れて、叶えてくださると信じています。おそらくあなたはわたしが望む以上のことをしてくれるでしょう。
 序でに申せば、わたしは近日中に釈放されそうなので、そうしたらあなたのところへ行きます。いつ訪問しても大丈夫なように準備しておいてください。あなたの祈りによってそちらへ行くことができるよう希望しているのですよ、わたしは。

 フィレ23-25〈結びの言葉〉
 キリスト・イエスゆえわたしと一緒に投獄されているエパフラスが、またわが協力者であるアリスタルコとデマス、マルコとルカが、あなたにどうぞ宜しくといっています。
 どうか主キリスト・イエスの恵みがあなたの霊と共にありますように。

 執り成しを依頼する手紙のなかに、ずいぶんと浮いた話題が一つ。しかもそれはあくまで「ついで」として俎上に。どうやらパウロはこの手紙の筆を執った頃、自分の釈放の可能性を見出していたようであります。それを示唆する具体的な話があったのか、或いは願望に留まる噂や予感の域を出ぬものであったのか。定かではありません。が、そこに信憑性のある裏附けがなければ、「わたしのため宿泊の用意を頼みます」(フィレ22)なんて台詞は出てこないと思うのですよね……。
 本書簡に登場する人物の過半は既に「コロサイの信徒への手紙」を始め、「使徒言行録」、「マルコによる福音書」と「ルカによる福音書」の前夜などで(すくなくとも名前だけは)紹介済み。今回が初出となるのは宛先のフィレモンと、姉妹アフィア(フィレ2)だけであります。



 〈獄中書簡〉をまず終わらせるため、順番は前後しましたが「フィレモンへの手紙」読了であります。〈前夜〉にも書いたことでありますが、わたくしはこれを読んで「安寧」としかいいようのない気持ちを抱きました。根本にあるのは、ああ良いなぁ、という感情、一読心を洗われたようなそれなのです。
 こうしたシンプルかつストレートな手紙が〈パウロ書簡〉の最後に置かれたことは──たとえ分量偏重の結果だとしても──とても意義のあることと思います。また、他にも単一章から成るパウロ書簡はあったでしょうに本書簡だけが新約聖書に〈パウロ書簡〉の1つとして収められた点を感慨深く思うところなのであります。
 次は前に戻って2つの「テサロニケの信徒への手紙」、3つの〈牧会書簡〉と進んで〈パウロ書簡〉の読了となる。今後、特にわたくしが怠惰に流されて何ヶ月も書かない日が続いたりしない限り、予定通り今秋のうちに新約聖書全巻並びに聖書の読書も終わることでしょう。わたくしの病気がこのあとどれだけ進行したとしても、この予定だけは違えることなく完遂するつもりであります。ご安心あれ。そのときの訪れまで、読者諸兄よ、わたくしはあなたを恃みとする。
 それでは、「テサロニケの信徒への手紙 一」前夜で再会しよう。◆

第2233日目 〈「フィレモンへの手紙」前夜with漫画家、小山田いくさんが亡くなりました……ああ、もう!?〉 [フィレモンへの手紙]

 「フィレモンへの手紙」はおそらくコロサイ、もしくは近郊のラオディキアかヒエラポリスに住んでいたキリスト者、フィレモン宛の手紙であります。なお、これは〈獄中書簡〉の1つ。残り3書簡と離れた位置に置かれているのは、往事の手紙の価値が長さによってこそ決定されていたため。単一章の本書簡がパウロ書簡の掉尾に於かれた理由であります。
 パウロ書簡のうち、個人へ宛てられた手紙は他にテモテとテトスへ向けたものがあって、そちらは〈牧会書簡〉に分類される。そのテモテとテトスは他書簡や「使徒言行録」の記述を再構成することによって、経歴などその片鱗を窺うことは可能です。
 が、フィレモンは本書簡以外どこにも名の出ない人物ゆえ、かれに関する情報は皆無に等しいといえます。住所もコロサイ、乃至は近郊の2つの町のいずれか、という風に、事実に極めて近いであろうが確証はどこにもありません。
 フィレモンはオネシモという奴隷を持っていました。その1点を以てそれなりの立場と経済力がある人物が想像できますが、これも実像とどこまで一致するかは怪しいものです。ただこれを逆手にとって、フィレモンの人物像を勝手に夢想してみるのも楽しいかもしれませんね。
 本書簡は「コロサイの信徒への手紙」と同じ時期、同じ場所で書かれました。即ち、53-55年頃エフェソにて。
 「フィレモンへの手紙」はいうなれば個人と個人の不和を執り成す/調停するために書かれました。──フィレモンの許にいた奴隷オネシモはなんらかの理由によって主人のところを出奔、エフェソへ流れ来たったかれは監禁中のパウロの知遇を得てキリスト者へ回心しました。手紙の内容は、主人の許へ帰るオネシモをキリスト者として迎え入れてあげてください、というもの。
 かつてイエスは律法を無効とし、<新しい掟>を使徒たちや支持者たちへ教えました。その残響は1世紀中葉の本書簡にまでたしかに響いております。それが異邦人へ宛てられた手紙のなかに見出せることに胸が熱くなるのであります。明日のノートでどこまでそれを伝えられるかわかりませんが、もしそれを確かめたいという方がいるならば、是非実際に新約聖書を開いてパウロの言葉を直接味わい、併せて福音書や他のパウロ書簡を繙いてほしい、と思います。
 わたくしは全25節の本書簡を読んで安寧の気分を抱いたのですが、それは勿論わかりやすい内容であることに加えて、これまでの書簡でパウロが説いてきたキリストの福音、イエスが福音書で語った<新しい掟>が純化された形でまとめられているせいもあるでしょう。
 単一章の書物を読むのは旧約聖書続編の最後に収められた「マナセの祈り」以来となります。それでは明日、「フィレモンへの手紙」を読みましょう。

 今朝のことです。出勤前のほんの一時のことです。LINEニュースで知り、Twitterで確かめ、ハフポストまで記事にしたことでようやく本当だったのか……と嘆いた出来事がありました。
 漫画家、小山田いくさんが亡くなった由。享年59才。長野県小諸市のご自宅で亡くなっているのが発見された模様。今年に入ってやはり漫画家である弟たがみよしひさ氏のTwitterには、ご家族の容体が悪い旨呟かれており、ファンの間では様々憶測されていたそうです。
 小山田いくさんの代表作は『すくらっぷブック』や『ぶるうピーター』、『マリオネット師』、『星のローカス』など。『少年チャンピオン』誌でデビューしたこともあってか、秋田書店の刊行物が現役の間は発表の主舞台でした。玄人受けする漫画家でありましたね。
 出会いは小学生のとき、兄から借りた『少年チャンピオン』誌で連載されていた『すくらっぷブック』にて。文化祭の準備をしている回であったと記憶します。爾来、即かず離れずの距離を保ちながらファンをやって来ましたが、その後創作に携わるようになって常に自分の根っこにあったのは小山田いく作品であることを再認識したのは、たぶん火事を経験した30代前半。わたくしが書き紡ぐ小説の世界が特になんの変哲もない日常の光景であるのは、子供の頃に読み耽った小山田いくさんの作品に影響を受けているのだろうなぁ。
 まだきちんとその死を悼み、作品を回顧することはいまの自分にはできそうもありません。初めて好きになったマンガは『すくらっぷブック』、初めて作家読みするようになった漫画家は小山田いくさんでしたから。いまは斯様に追悼の気持ちを表すに留めましょう。
 やすらかにお眠りください。◆

第2230日目 〈コロサイの信徒への手紙第2章2/2、第3章&第4章:〈日々新たにされて〉、〈結びの言葉〉他with「コロサイ書」読了の挨拶〉 [コロサイの信徒への手紙]

 コロサイの信徒への手紙第2章2/2と第3章、第4章です。

 コロ2:20-3:17〈日々新たにされて〉
 あなた方はキリストと共に死に、世を支配する諸霊と関わりある人々。なのになぜ、未だ世に属するような生活をしているのですか。どうして戒律に縛られているのですか。それは人間の定めた規則や教えに拠って立つもので、なんの価値もない、肉の欲望を満足させるだけのものです。
 あなた方はキリスト共に復活しました。ならば、この世のものではなく上にあるものを求めなさい。神の右側にキリストはいます。あなた方の命はキリストと共に神の内に隠されているのです。あなた方の命であるキリストが現れるときには、あなた方もキリストと共に栄光に包まれた姿で現れることでしょう。
 そのためにも地上に属する邪な事どもと縁を切りなさい。邪な事どもとは、淫らな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲を指し、最後の貪欲とは偶像礼拝に他ならぬ。これらのことをしでかす不従順な人々の上に神の怒りは降るのです。
 ああ、そうです、あなた方もかつてはこのような生き方をしていましたね。が、いまはそのすべてを、とりわけ怒り、憤り、悪意、訝り、誹り、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。嘘をつき合うのもやめましょう。さあ、──
 「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ」(コロ3:9-10)なさい。
 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロ3:12-17)

 コロ3:18-4:1〈家族に対して〉
 妻たちよ、主を信じる者に相応しく振る舞い、夫へ仕えなさい。
 夫たちよ、妻をのみ愛しなさい。辛くあたったり、傷附けたり、悲しませたりするな。
 子供らよ、両親に従いなさい。それは主に喜ばれること。
 父たちよ、子供を苛立たせていじけさせるな。
 奴隷たち、主に仕える如く、真心持て肉なる主人に仕えなさい。
 主人たち、奴隷を正しく公平に扱いなさい。
 あなた方は神の御国を受け継ぐ幸いを知っています。主キリストに仕えているからです。
 「不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。」(コロ3:25)例外はない。

 コロ4:2-6〈勧めの言葉〉
 目を覚ましていなさい。感謝をこめて、心をこめて、祈りなさい。
 そのときには、われらのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開き、キリストの秘められた計画をわれらが語れるように。
 「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(コロ4:6)

 コロ4:7-18〈結びの言葉〉
 こちらでのわたしの様子はティキコが語ってくれるでしょう。かれを派遣するのはあなた方がわれらの活動を知り、かれによって心が励まされるよう願うからです。
 ティキコと一緒にあなた方もよく知るオネシモを遣わします。かれら2人がこちらの様子を余すところなくあなた方へ伝えるでしょう。
 それから、共に獄中の身となっているアリスタルコが、またバルナバのいとこマルコが、ユストと呼ばれるイエスが、あなた方へ宜しくというています。「割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。」(コロ4:11)
 あなた方のためにいつも熱心に祈っているエパフラスが、デマスとわたしの愛する医者ルカが、どうぞ宜しくといっています。
 どうかラオディキアの兄弟たちと、ニンファと彼女の家に集う教会の人々に、宜しくお伝えください。この手紙はラオディキア教会にも回してください。ラオディキアの人々がこれを読めるよう取り計らってください。またラオディキア教会から手紙が回ってきたら、あなた方は読むようにしてください。
 それから、アルキポに、務めをよく果たすように、と伝えてください。
 「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。」(コロ4:18)

 慈しみの精神に裏打ちされたパウロ筆「コロサイの信徒への手紙」はこうして擱筆されます。
 わたくしは未だパウロの神学についてはよくわからないところを多く持つのですが、それでもキリストに結ばれたのであれば古い自分を脱ぎ捨てて新しき日々を生きよ、というかれのメッセージには心至るものがあります。引用したコロ3:12-17についてもであります。
 中心をなす理念はわからずとも伝わるべきは伝わるのだ、ということを図らずも今日得心した次第──ちと大きく構えますが、わたくしの本音であります。

 本日の旧約聖書はコロ3:1と詩110:1。



 本日を以て「コロサイの信徒への手紙」読了、予定より1日早く擱筆したのはこちらの事情。明日は慰労会のため、第4章2/2となるはずだった原稿を書くには、おそらく体力も気力もなくなっていることだろう、という判断からです。
 本書簡の読書については常の午前2時に更新することができなくなって、結局最後まで立て直すことはできなかった。されど斯様に読了の報告ができたことに安堵しております。読者諸兄よ、一緒にいてくれてありがとう。サンキー・サイ。
 次は、予告通り順番を換えて〈獄中書簡〉の最後の手紙、「フィレモンへの手紙」であります。単一章のそれは今週末に読みましょう。◆

第2229日目 〈コロサイの信徒への手紙第1章2/2&第2章1/2:〈パウロに与えられた務め〉&〈キリストに結ばれた生活〉with『図書館戦争』新エピソードが読める!〉 [コロサイの信徒への手紙]

 コロサイの信徒への手紙第1章2/2と第2章1/2です。

 コロ1:24-2:5〈パウロに与えられた務め〉
 わたしはあなた方のために苦しむことを喜びとし、(キリストのからである)教会のためキリストの苦しみが欠けたところをわが身で補い、満たしています。神は御言葉をわたしに与え、わたしはそれをあなた方へ宣べ伝えるのです。この務めのためにわたしは教会へ仕えるのです。
 神の秘めたる計画が──世々の初めから代々にわたって隠されていた、異邦人の喜びとなる計画が、聖なる者たちへ明らかにされた。計画とはあなた方の内にあるキリスト、栄光の希望であります。
 わたしの役目はそれを人々へ宣べ伝えること。そうしてすべての人がキリストに結ばれて完全な者となるよう知恵を尽くして教え諭すこと。わたしは自分に与えられたこの役目、務めのために労苦していますが、わが内のキリストの力によって闘っているのです。
 どうかわたしがあなた方コロサイの信徒やラオディキアの兄弟たちのため、まだ見たことも会ったこともない人々のために労苦していることを知ってください。すべてはかれらが心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るために。
 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。」(コロ2:3-4)
 たしかにわたしは遠く離れた地におりますが、“霊”ゆえにあなた方と共にいて、あなたが正しい秩序の下に暮らし、キリストの固い信仰があるのを見て、喜んでおります。

 コロ2:6-19〈キリストに結ばれた生活〉
 主イエス・キリストに結ばれて歩んでください。キリストに根を下ろして自らを育て、エパフラスに教えられた通りの信仰を守ってください人間の言い伝えに過ぎない哲学に惑わされることなく、キリストに従って生きるのです。
 「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。」(コロ2:11-13)
 神はわれらの一切の罪を赦して、われらに不利な訴えの著された証書を破棄、十字架へ釘打ちして取り除いていくれました。そうして諸々の支配と権威の武装を解いて、それをキリストの勝利の列に従え公然と曝し物にしたのです。
 あなた方は食べ物や飲み物のこと、祭りや新月や安息日のことなどで、何人からも批評されてはならない。「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロ2:17-19)
 実はこの頭の働きによって体全体は、それぞれの部位が結びあわさされて有機的に機能し、神に育てられて成長してゆくのであります。

 コロサイとラオディキアとヒエラポリス。この3つの町はいずれも小アジアはフリキア州にあった町です。フリキア州は小アジア中西部にあって内陸部に位置、アナトリア半島にあるトルコ共和国のアジアに属する地域が小アジアと呼ばれたエリアであり、今日のデニズリ県にこの3つの町があったのであります。
 〈前夜〉では触れませんでしたが、本書簡の宛先であるコロサイはエフェソの東方約160キロ程度の位置にありました。紀元前には政治や商業の中心都市で、ギリシア人や土着のフリキア人の他ユダヤ人も多く入植して人口過密のようでしたが、パウロの時代にはすっかり衰退して一地方都市となっていた由。「使徒言行録」にパウロがコロサイへ立ち寄ったという記述が見当たらないことは既に述べましたが、コロサイ出身のエパフラスが故郷や周辺のラオディキア、ヒエラポリスに教会を建てて宣教に努めたのであります。エパフラスとパウロの接触がどのようにされたのかわかりませんが、宣教旅行の途次フリキア州を通過したことは「使徒言行録」に記載されているので、その際に面識が生まれて、かの地の宣教を託した、と考えるのが自然でありましょう。
 パウロの時代に教会が建てられて信徒も相応の数がいたと思しきコロサイやラオディキアですが、いまは往時の面影を伝える遺構があるのみの淋しい場所。衰退と廃墟のきっかけは異教徒による侵入とのことですが詳らかではありません。なお、ラオディキアは「ヨハネによる黙示録」に登場する7つの教会の1つであります。
 残るヒエラポリスはローマ帝国時代に温泉保養地として名を馳せ、街道の要地であったためか繁栄の時代を謳歌したものの、1354年の大地震によって町は滅んでそのまま廃墟と化しました。しかし、今日ではヒエラポリス遺構を擁すパムッカレという丘陵地が明媚な石灰華段丘であることから、1988年にユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されました。現代では世界遺産としての知名度の方が圧倒的であるのは致し方ないところでありましょう。



 有川浩のエッセイ集『倒れるときは前のめり』を読んでいて、どうしても読みたくなった小説がある。映画『図書館戦争 THE LAST MISSION』公開に合わせて書き下ろされた2編のショートショートがそれだ。日本能率協会マネジメントセンターが発行する手帳「NOLTY」とコラボレーションした手帳をテーマにした作品と、書店に張られた映画ポスターに印刷されたQRコードを読み込んだところで出題される『図書館戦争』クイズに全問正解した人だけが読めた、書店に因む作品と。
 それを探し求めて入手するだけの、かつてはあり余る程あった熱意もいまはすっかり枯れてしまった。おそらく読むことは叶わないのだろうなぁ、とエッセイ集でそれらの存在を知った直後に嘆息し、件のコンビニを利用していたのに、本屋さんでそのポスターを見てショートショートが読めることも知っていたのに、どうしてあのとき行動を起こさなかったのか、と自分を責めたりしてね。
 なのに、である。ちかごろ数日に1度の閲覧が再び習慣になってきたタワーレコードのHPを見ていたら、今月末に『図書館戦争 THE LAST MISSION』のDVD/Blu-rayが発売される旨予告されていた。へー、そうなんだ、とさして興味のない風でプレミアムBOXの内容に目を通していると──椅子から転げ落ちた。
 というのも特製ブックレットに問題のショートショート2編が収録されるとあったからだ。わお、と叫んだね。これは買わなくっちゃだな、とも思うたよ。これもいつか著者の短編集に収められたりするのだろうけれど(アニメ版『図書館戦争』のDVD BOXに収められた短編のように)、その日が訪れるまで我慢できそうもない。だってそれって何年後? 
 というわけで、わたくしは本稿の筆を執る直前にタワーレコード・オンラインにて『図書館戦争 THE LAST MISSION』プレミアムBOXの予約注文を済ませてきたところである。発売日前日までの注文ならポイント10倍に惹かれた部分もあるのは、勿論内緒だ。
 わずか10数ページの掌編かもしれないけれど、大好きな作品の登場人物たちがどのようなお久しぶりな姿を見せてくれるのか、いまから愉しみにしている。◆

第2228日目 〈コロサイの信徒への手紙第1章1/2:〈神への感謝〉、〈御子キリストによる創造と和解〉他with飼いたい生物。〉 [コロサイの信徒への手紙]

 コロサイの信徒への手紙第1章1/2です。

 コロ1:1-2〈挨拶〉
 キリストの使徒パウロとテモテから、コロサイの町の聖なる者たち、キリストに結ばれた兄弟たちへ。あなた方へ神からの恵みと平和がありますように。

 コロ1:3-8〈神への感謝〉
 いつでもわれらはあなた方のため祈りをささげています。キリストへの信仰とすべての聖なる者たちへの愛を抱いている、と聞いたからです。信仰と愛、それは天に蓄えられた希望に基づくもので、あなた方はこの希望を福音という真理の言葉を通して聞いています。
 コロサイの地でも……そこに住まうあなた方にも、この福音は届けられています。あなた方のためキリストに仕えるエパフラスによって。かれはわたしの仲間で、“霊”によってあなたの愛を知らせてくれた人です。

 コロ1:9-23〈御子キリストによる創造と和解〉
 神の御心をよく悟り、すべての点で主に喜ばれるよう主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。
 神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どのようなことにも根気強く耐え忍ぶように。
 喜びを以て、光のなかにある聖なる者たちの相続分にあなた方が与れるようにしてくれた御父へ感謝するように。
 御父はわれらを闇の力から救い出し、御父が愛する御子の支配下に移してくれたからです。われらはこの御子により贖われて罪の赦しを得ているのです。
 御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた。天地にあるあらゆるもの、見えるもの見えざるもの、王座や主権、支配や権威、そうしたものはすべて御子によって、御子自身のために造られたのです。
 御子はすべてのものよりも先にあり、すべてのものは御子の支えなくして存在し得ない。
 御子は自身の体である教会の頭。初めの者であり、死者のなかから最初に生まれた人。
 御子はすべてに於いて第一の者、最初の者なのです。
 よろしいでしょうか、皆さん、──
 「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロ1:19-22)
 ──信仰に拠って立ち、福音の希望から離れるなかれ。福音は世界中に宣べ伝えられます。そうしてわたしパウロは福音に仕える者であります。

 殊〈御子キリストによる創造と和解〉はわたくしの処理能力を軽々と超えてくれていますので、ほぼそのままに引用してノートを作りました。とはいえ、弁解めきますが、ここは自分なりの解釈を基にしたダイジェストをしなくてよかった、と思います。当該箇所はパウロのキリスト讃歌のエッセンスであります。パウロ自身の言葉で語らせるのが、やはり正解であった、と己の判断を誇り、自慢したく。
 このなかに、御子即ちキリストはすべてのものが造られる前に生まれた、すべてのものが造られる以前から存在していた、との記述があります(コロ1:15、17)。どこかで極似した文言に触れたことはなかったでしょうか? ──「ヨハネによる福音書」を典拠としていると思しき文言がありましたよ。ヨハ1:1,同17:5及び24,就中ヨハ8:58に。アブラハムが生まれる前からイエスはいた、天地創造以前からイエスは生まれていた。
 パウロが本書簡の筆を執った頃、「ヨハネ伝」が如何なる形でも、書物として存在していた形跡はない。が、その資料となる諸々については──文字であれ口伝であれ、パウロのまわりにあっただろうから、おそらくかれはそうした原資料から吸収した知識を念頭に置いて、キリスト讃歌に含まれるこの文言を記したのではないか、と考えるのであります。
 最後に、続けての引用は憚られたため本文ではやむなく削った、本書簡でいちばん印象に残り、途轍もなく重くて、清らかで、心強く、あたたかみのある文言を引いておきます。曰く、──
 「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはいけません。」(コロ1:23)



 子供じみたことを考えるのが好きである。
 断続的に書き続けていた、いまは本ブログゆえに遠ざかっているが時折帰還すると魂の回復を感じる、と或る家庭の日常を淡々と綴ったファンタジー的かつ黙示録的世界──折りにつけ、それが現実であったら自分はなんと幸せか、と嘆息かつ嗟嘆するのですが、そこでわたくしは本来あったはずの人生を生きている。不慮の事故によって奪い去られる命はあるが、それは世界の混乱のなかで起こったことであり、自分の周辺と斯様な無残な事故は無縁である……という絵空事。神をも愚弄する自己中心的世界の創造。
 そこには、まるでその世界に於ける生命体の秩序を司る守護神の如き<怪獣>がいる。モデルはむろん、わが国の誇るキング・オブ・モンスターだ。かれはわが家から見晴るかす海を棲み家とし、ときどき腹を満たすために遠洋に出て鯨や魚群を襲い、折節子らや居候たちと意思疎通していたり。そんな世界を希求する。わたくしはその怪獣を自分の愛玩動物としたい。
 敢えていおう、ゴジラ飼いたい。◆

第2227日目 〈「コロサイの信徒への手紙」前夜〉 [コロサイの信徒への手紙]

 パウロ書簡はパウロが設立に携わった教会に宛てて書かれていることが多いですけれど、異なる場合だってあります。「ロマ書」など最たるものですが、今回読む「コロサイの信徒への手紙」もその例外に属する手紙であります。パウロがその生涯を通して、本当にただの一度もコロサイを訪れなかったのか、書かれていない事実があることへ思いを馳せれば解答に窮す。絞り出せる解は精々が、すくなくとも「使徒言行録」にその記録はない、というぐらい。まぁ、フリキア州は通過した旨記述がありますから、そのときに訪問した可能性は十二分にありますけれどね。
 しかしコロサイ教会がパウロ以外の人物によって設立されたのは事実のよう。では誰によって? その者の名はエパフラス、コロサイ出身のキリスト者であります。かれの名は手紙に2度載る、コロ1:7と同4:11とに。第4章の記述から判断するに、手紙が書かれたときエパフラスはコロサイにはおらず、監禁中のパウロの傍にいた。もしかするとかれがパウロの許へ、コロサイ教会が直面している<誤った教え>のあることを伝えたのかもしれません。手紙を携えてコロサイへ戻ったかは不明ですが、かれが本書簡に関与していることを否定する必要はないでしょう。またエパフラスはコロサイ周辺の町、ラオディキアとヒエラポリスにも教会を建て、一帯のキリスト信仰の中枢を担った──つまり、牧者として活動していたようであります。
 これまでに読んだ2つの〈獄中書簡〉については執筆された場所と年代について、シリアのアンティオキアにて58-60年頃と推測していました。が、本書簡と次の「フィレモンへの手紙」については少々事情が違うようです。
 「コロサイの信徒への手紙」と「フィレモンへの手紙」の記述を検証すると、両書簡の執筆地はエフェソであり、時期はほぼ同じうして推定53-55年頃、即ちパウロがその地に3年間滞在していた時分という。また、両書簡に共通して名の挙げられる人物の多さが、2つの手紙が時期をほぼ同じうして書かれた根拠の一つとなる由。エパフラスは勿論、フィレモンの奴隷であったオネシモ、エフェソのアルテミス神殿の騒動に巻きこまれたアリスタルコ、「マルコによる福音書」の著者とされるマルコ(バルナバの従兄弟)、「ルカによる福音書」と「使徒言行録」の著者とされる医者ルカ、などであります。
 一方で「コロサイの信徒への手紙」はパウロの死後、「以前コロサイの町があったフリキア地方のキリスト者の間で広まりつつあった誤った教えを論破するために、パウロの名を使い、彼の神学を基礎とし、それを発展させた」(フランシスコ会訳新約聖書 P546)手紙である、とも考えられているそうであります。その人物はパウロ神学を深く、正しく理解しており、またそれを基にして<誤った教え>を論破できるだけの説得力を持った手紙を書くだけの文才と論理的思考を身に付けていた人物、ということにもなりましょう。とはいえ、本ブログではこの点については触れずに済ますつもりであります。なぜかといえば、それについて様々考えるのは本ブログの役目ではないからであります。
 では、その<誤った教え>とはなにか──当時、コロサイの信徒たちの間には幾分誤った教えが流布していた。これをヴァルター・クライバーは、この世を支配する天使の諸力の行為を得なくてはかれらの更に上位にあるキリストへ至る道を見出せないのだ、といい(『聖書ガイドブック』P248 教文館)、フランシスコ会訳の解説では、「コロサイの信徒への手紙」が触れる異端とはキリスト教的グノーシス主義の前身にあたる、紀元前からあって1世紀後半には広範な地域に浸透していた原グノーシス主義であろう、と述べる(P546)。このグノーシス主義はいつかエッセイで触れようと思い、文献に目を通したりしているのですが、未だ浅学なわたくしにはまだ歯が立たぬ代物ゆえ、機を得てきちんとお披露目しておきたく考えております。まだまだ勉強中……。
 それでは明日から1日1章の原則で、「コロサイの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

第2226日目 〈聖書読書が終わったあとは、小説『ザ・ライジング』を連載します。〉 [日々の思い・独り言]

 仕事の都合やらなにやらで開始日を延ばしている「コロサイの信徒への手紙」だが、ようやく取り掛かれる用意ができたので、明日午前2時からの〈前夜〉を以て読み始めとする。さりながら原稿はまだ、ただの一行も書けていない。それどころかメモの類すらない。行き当たりばったり? ぶっつけ本番? やだなぁ、そんな身も蓋もない物言いは。殊〈パウロ書簡〉に差し掛かってからは大概こんな調子でございますよ。
 ──と、台所の事情の一端を垣間見せたところで一言。
 昨日、一昨日とお披露目した小説は、今世紀初頭(この言葉を使うのはまだ早いのかな)に書いた『ザ・ライジング』という長編小説の抜粋であります。幾つかの新人賞へ投稿するも一度として第一次選考を通過したことがないような、世間的には箸にも棒にも引っ掛からないような愚作のようで、再びプロとしてデビューするのは諦めて、物書き屋としては一ト月に数件舞いこむ仕事を除けば完全に趣味というか道楽的な執筆になっている。しかし本作については初めて完成させられた長編ということもあり、また小説技法や書く週間などについて実に多くの事を教えてくれた小説というのも手伝って、愛着も一入なのです。
 どうしていまの時期に抜粋とはいえ『ザ・ライジング』を公開したか。わたくし自身、本作はもう陽の目を見ることはあるまいと思うて筐底に秘してそのままにしておくつもりでした。しかし、聖書読書が終わったあとの本ブログをどうするか、と考えた際、どうしてもこの機会に『ザ・ライジング』を連載しておきたくなったのであります。
 思い付き、といわれて返す言葉はありませんが、これを契機にもしかすると誰かの目に留まり、口コミで存在が江湖へ伝えられてゆくかもしれません。あわよくば紙媒体もしくは電子書籍で出版とか。そんな浅ましい企みが胸の底にあるのは事実で、否定はしない。
 勿論、そんな期待はするだけ無駄と承知しています。でも夢ぐらい見たってバチは当たりますまい? ──と、われながらどうしてここまで卑下するか解せませんが、ほら、あれだ、文章は感情を暴走させる、って奴だ。夜中に書いたラヴ・レターと同じだ。うん。それに、誰かがこれを読んで喜んだり、楽しんだり、或いは一時の暇潰しとしてもらえるなら著者冥利に尽きる。
 任意の場面を抜粋、お披露目したあとでアクセス解析してみました。本稿の筆を執る直前のことです。すると、偶然かもしれませんが頗る付きで好評のよう。この結果を承けて聖書読書が終わったあとは小説『ザ・ライジング』の連載を決めました。これについての変更はありません。
 おそらく半年程を費やして連載することになりますが、これが新章開幕;第2シーズンの始まりとなるのか、単なるつなぎ、インターヴァルの役割を担うのか、なんとも判断のつきかねるのが正直なところ。聖書読書と小説連載の両方が終わったときに初めて回答が出るのでしょうね。が、いまは目の前にある案件について自分のなかで方向性が見出せたことに安堵しているとことなのであります。
 とはいえ、聖書読書ノートとしての本ブログは、あと最低でも半年は続きます。それまでは、あともう一踏ん張り……。◆

第2225日目 〈小説『ザ・ライジング』より 2/2〉 [日々の思い・独り言]

 二時間目が始まるころには件の三年生もすっかり落ち着いた。彼女は池本玲子へ丁寧に礼をいって保健室を出て行った。しばらく一人でゆっくり過ごせるかな、この際だから溜まった書類を片付けようか、と考えて特に急ぎのものがあるか探してみたが、年が明けて取りかかってもまったく構わないものしか、机の上にはなかった。そりゃそうよね、一昨日ここで奴隷相手に発散した後、余力を駆って端から片付けてしまったのだから、残りがあろうはずはない。私の記憶も鈍ってきたかな、と苦笑すると、彼女は陽の当たる場所に椅子を動かして腰をおろした。
 いちばん上の引き出しに手が伸びた。鍵が掛かっている引き出しだった。そこにはこれまでずっとくすぶってきた想いを寄せる男の写真があった。この人を私に振り向かせられる日は来るのかしら? 障害ができてしまっている以上、それは難しいかもしれない。でも、かといって忘れられる想いではなかった。一生を費やしても、忘れることはできないだろう。暗い情念がいつも以上に池本の魂を蝕み、闇に捕らえて放そうとしない禍々しい意志が池本の魂を握りつぶそうとしている。それを彼女はしっかりと自覚していた。あの人を手に入れるためなら、殺人だってやってやる。ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。あなたの隣にいるべきはあのガキではなく、私なんだ。なんとしてでも奪ってやる。
 そんなことを考える一方で、
 ──ワーグナーでも聴こうかな、『トリスタンとイゾルデ』……はやめておこう、もっと他のなにか……ちょっと渋めに『リエンツィ』でも。と、視線を棚の上に置いたラジカセに走らせたときだった。頭痛の種がガラリ、と扉を開けて入ってきた。池本はその生徒の顔を見た途端、気づかれぬような溜め息をもらした。
 「おばさま」とその生徒は大股に歩きながら、こちらへ近寄ってきた。顔色が悪いように見えるが、この子のことだ、と池本は考えた。おおかた自分の気に喰わないことでもあったか、あるいは授業をさぼりたいがためのお芝居だろう、と。いずれにせよ、担任には報告しておく義務がある。
 「なんていっておく?」
 「ん、任せる。少ししたら教室には戻るから、心配しないで」
 いや、別にあんたの心配なんかしてないけどね。報告を怠ってお目玉を喰いたくないだけよ。よほどそういってやろうと思ったが、この生徒にそんなことをいうのは時間の無駄のように思えた。叔母と姪という関係ではあるが、そこに血縁者に独特なある種の絆というものはなかった。池本と他の親戚にはつかず離れずの親戚関係があったけれど、目の前にいて突っ立っている生徒と池本の間に血縁意識がなさしめる同胞の親しみはない。まだ幼稚園に通っていた時分に会ったことはあるが、一時間ばかりしか顔を合わせていないし、遊んだわけでもない姪とこの学園で再会しても、関係が密になるわけでは到底なかった。およそなにか共通の目的がない限り、この子とそんな風になることはあるまい。そう池本は確信していた。
 池本は電話を取って内線をかけた。ここにいる生徒──赤塚理恵の担任は、果たして職員室にいた。体調が優れないようだからしばらく保健室で寝かせます、授業が終わる前には教室へ戻せると思いますので、授業をしている先生にそう伝えてください、とささくれだった口調でほとんど一方的にいうと、すこぶる荒々しく受話器を置いた。
 赤塚の担任はこの学園でも古参の一人になるが、一方で生徒や女教師をつまみ喰いすることですこぶる有名な男だった。噂は事実であるがかなり誇張されている部分もあるので、おいそれと訓告の対象にもできず、それ以上にこの男が教育委員会にも発言力を持つ県会議員の息子でもあるため、学園としても(池本と赤塚の祖父である理事長としても)なかなか注意ができないのだった。事実、池本もここに赴任したその年、ずいぶんとこの男に言い寄られ、セクハラ紛いのことをされて不快な思いを味わった。が、彼は持ち前の鋭敏な嗅覚で、池本の中にいい知れぬ恐怖を感じ取ったらしい。だがそれがなんだったのか、はっきり見極める前に、住まうマンションの前で柄の悪い男達に痛めつけられた。以来、彼が池本に手を出すことはなくなった。いまでも誰彼と手を出しているが、その欲望が池本へ伸びることはなかった。ただときどき、ねっとりとした視線を投げかけられることはあるが、危害を加えるまでには至らなかった。ハレルヤ。
 「本当に体調が悪いの?」
 わざとらしいぐらいに親しみをこめたいい方で、池本は姪に訊いた。
 「うん。今日はね、本当に体調が悪い」
 オウム返しに答える赤塚の背中を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、どうにかそれは抑えることができた。
 「ベッドで横になっていい?」
 「いいわよ。好きなとこで寝なさい。──あ、そうだ、私、今夜の夕食会には出られないから。お祖父様や他のみんなにそういっておいて」
 赤塚が無表情に頷いて、ベッドへ向かった。それを横目で見ながら、椅子を机に向けて池本は、「仕事させてもらうよ」とだけいって、いますぐに目を通す必要もない書類を手にした。早く出ていってくれないかな、安心して写真も眺められないじゃない。
 保健室にはそれから数分、静寂の時間が流れた。時計の針が動く音、ストーブの上に乗せたやかんの口から立ちのぼる湯気と蒸気の音、二人の息づかいと赤塚がベッドの上で寝返りを打つ音だけが、その静寂を破ろうとしていた。
 「ねえ、おばさま?」
 カーテンの向こうから姪の声がした。「なあに」と池本は、そちらに目を向けることなく答えた。
 「昨夜の番組、観た? ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーを募集してたんだけど」
 「ううん、観てないよ。興味ないしね。……それがどうかしたの?」
 「私さ、応募してたんだよね」うつろな声だった。
 「あ、そう。それで?」
 そういいながら池本は、「ちょっと、いまなんていった?」と口の中で訊ねた。ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーの応募にあんたが参加した? あらまあ、と放心に近い状態で彼女は思った。世も末だわ……新世紀になってまだ二年なのに。ただね、お祖父様の顔に泥を塗るのだけはやめてよね。まあ、私もあまり人のことはいえないけれど、自分以外に知る人はいないし、私の場合は趣味だからね、男を手玉にとって隷属させるのは。進んでこういう状況を生み出してるわけでもなし、全部男達が自分から身を捧げてきただけのこと――あ、だけど〈彼〉、進路指導を担当している色っぽい先生を恋人に持つ講師の場合は、そうね、あれだけ例外か。あれは私がてなずけたんだから。それはともかくとしても、へえ、あんたがねえ……。
 「選ばれたの?」と、あるはずもない結果を口にしてみた。これでイエスなんていわれたらどうしよう。だが、杞憂だった。
 「ううん、だめだった……三組の宮木さんと深町さんは上位の十人に選ばれてたけど、私なんか名前も出てこなかったよ」
 カーテンの向こうに耳をすませてみると、涙をすする音がした。演技ではなさそうだ。本当に泣いている。
 池本は椅子から立ちあがると、足音をたてずにベッドへ歩いていった。そっとカーテンを引き、こちらに背を向けて肩を振るわせている姪の肩に手を置いた。それはなだめるようでもあり、親しみがこもっている風でもあった。それをさせた感情が果たして真実だったのか、それとも、自分の脳裏へ瞬く間に思い浮かんだ、だがまだはっきりと形を成していない計画を実行するための計算ずくの行為だったのか、池本玲子は後になってさんざん考えてみたが、いつになっても答えは出せそうもなかった。
 いきなり身を起こした赤塚が、池本の胸へ飛びこんだ。「くやしいよ」とひたすら繰り返し呟きながら。下着を着けていない胸に顔を埋める姪の頭を撫でながら、池本はなにかいおうとして口を開いたが、いうべき言葉もないことに気づくとそのまま口を閉じた。
 「選ばれなかったことなんてどうでもいいの。みんなが陰で私を笑っているのに耐えられないの」
 なるほど、そういうことか。砂上の楼閣に住む勘違いお嬢様には、その結果は残酷だったかもね。あれだけのアイドル達の追加メンバーの募集となれば否が応でも衆目を引くだろう。そこにあんたは十代の記念(うーん、そうだったのかしら?)に応募した。結果は芳しくなかったけど、その結果が最悪だった。それに輪をかけたのは、同じ学校の、しかも同学年の二人が名前を呼ばれたことだった。その番組を観ていた人々があんたのみじめっぷりに注目して、陰でこそこそ額を寄せ合い笑ってる。なんでもないことじゃない、といってやればいいのだろうが、いまはそんな風に励ます言葉も喉元にはあがってこなかった。
 ふと、最前頭をかすめていった計画が明瞭な形を取って、池本の脳裏に再び浮かびあがった。あのガキをあの人から遠ざけるために、私は奴隷を使う。完膚無きまでにガキを痛めつけ、あの人を私に振り向かせるために、私はてなずけた奴隷を使う。あのガキは姪の逆恨みを買ったことだろう、本人はまだ知らないだろうが。赤塚理恵はそう簡単に気持ちを切り替えない。相手を傷つけずにはいられない女だ。ならば、と池本は考えた。私の計画にこいつを(白衣とお気に入りのセーターを涙で濡らしてくれている薄汚れた姪とやらを)巻きこむのもいいかもしれない。理恵ちゃん、あんたも奴隷と一緒に共犯になってもらうよ。
 ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。
 胸に顔を埋めて泣きじゃくる姪が、無性に愛おしくてたまらなくなった。抱きしめこそしなかったものの(これ以上セーターが濡れるのはごめんだった)、優しく髪を撫でて囁いた。「ねえ、理恵ちゃん。今夜、私の携帯に電話しなさい。もしかしたら、いい話ができるかもしれないから」
 赤塚が顔をあげるのがわかったが、そちらを見るつもりはなかった。せっかくまとまりかけてきた計画が雲散霧消してしまうかも、と考えたからだ。ただその代わり、「きっと君も気にいる話だと思うよ」といい加えた。
 たまらなくいい気分だ。もうすぐ私の想いは実を結ぶ。仕方ないから、あんたの望みも叶えてあげるわ。◆

第2224日目 〈小説『ザ・ライジング』より 1/2〉 [日々の思い・独り言]

 「失礼しました」
 木之下藤葉は一礼して職員室を出た。水泳部の部長に選ばれるとき、必死になって抵抗したのが嘘のように、いまはこの職務(?)に馴染んでいる。抵抗した唯一の理由は、毎日の練習のあとで部誌を書かされなくてはならないからだった。何時間も泳いだ後の疲れ切った体でそれをやるのは、まるで狂気の沙汰に思えた。なまじ全国大会を制覇し、オリンピック選手を何人も輩出している水泳部の部長ともなれば、個人の練習はほとんどできず、やらされる(“やるべき”ではなく)雑用も多い。そのダメ押しともいえるのが、毎日の部誌の執筆であった。部員の記録も兼ねているこの部誌は、そのまま日々の練習プログラムにも反映される。文章の苦手な藤葉にとっては、まさしく拷問。
 はあ。大きな溜め息がもれた。教室に待たせている森沢美緒と深町希美を思った。クリスマスの相談でもしてるかな? きっと待ちくたびれているだろうなぁ……。帰りになにかおごらなきゃいけないかな。でも、彩織ン──希美の幼な馴染み、宮木彩織がいなくてよかった。いたら、お財布の中がスッカラカンになってしまうのは間違いない。たまらず、口許に笑みが広がった。そんなときだった。
 「──むかつくのよね」
 知らぬ間に背筋を伸ばしてしまう。誰だろう? 私のこと?
 エレベーターホールを過ぎて吹き抜けになっている階段の、いちばん下の段に足をかけたまま、耳をすましてみた。静かだった。思わず耳鳴りを覚えてしまうほどの、底知れぬ静けさ。生きとし生けるものがみな息絶えてしまったように、なに一つとして物音が聞こえない。
 「──絶対に許さないんだから。破滅させてやるわ、必ず」
 一階から聞こえてくるようだった。そこには学生食堂や保健室、聖テンプル大学付属沼津女子学園高等部の全学年の下駄箱がある。声の主はどうやら、階段を降りきったエレベーターホールと下駄箱の間にいるようだ。藤葉は階段の手摺りから身を乗り出してみた。そうすれば階下が見渡せ、声の主も特定できる、といわんばかりに。だが、一瞬気が遠くなっただけで、声の主ばかりでなく、誰の姿も視界に捉えることはできなかった。
 体勢を元に戻して二、三段昇り、立ち止まる。耳をすましてみた。なにも聞こえない。 気にすることはないや。そう、その通りだ。だって私のことじゃもの。
 そう自分を納得させ、藤葉は教室に向かった。外はすっかり陽が落ち、愛鷹山の稜線はおろか、その向こうに聳える富士山の姿も、藤葉達三人が正門を出てバス停で沼津駅行きのバスを待っているころには、単なるシルエットでしか見えなくなっていた。

 沼津港行きのバスの揺れに身を任せながらTOKIOの《Green》を聴いているうち、深町希美は浅い眠りに落ちていた。女声のアナウンスは聞こえている。しかし、心はまるで闇をたたえる淵の底から伸びてきた触手に絡みとられたように、ゆっくりと深淵へ落ちこんでゆく。起きようとしても体はそう簡単にいうことを聞いてくれそうにない。
 ──起きなきゃ。
 さもないと、もう一つ先のバス停で降りる羽目になる。
 膝の上に乗せた鞄の重さがそろそろ応えてきた。寝言ともうなされているともとれる、言葉にもならない言葉をムニャムニャと呟きながら、希美はバスのアナウンスに耳を傾けた。どうやら緑道公園を通り過ぎたらしい。そこは嘗て、港へ行く廃線の線路が敷かれ、草が伸び放題だったらしい。両親が子供だった時分は、海岸と千本松原、そしてこの在りし日の緑道公園が遊び場だった、と何年か前に聞いたことがある。両親……。
 「次は、千本緑町、千本緑町──」
 希美は、はっと目を覚ました。
 降りなきゃ。
 鞄を抱えながら、窓の脇にある降車ボタンを押した。チャイムが鳴り、運転手が次で停まることをマイクで告げた。
 MDを停めてイヤホンを耳から外す。席から立ちあがると床に置いてあったテューバのハードケースを持ち、昇降口のそばへ移動した。これまで私、何千回ここで降りたんだろうな、そう思っているうちにバスは停まった。扉が開くとハードケースを右手にしっかり持ち、ぶつけないように気を遣いながらバスを降りた。他に降りる人はいない。すぐに扉が閉まり、バスは次の停留所めざして去っていった。
いま来た道を少し戻り、ちょうど青信号に代わった交差点を渡って、千本公園の手前で折れる帰り道──街灯が少ない代わり、道に面した家々から洩れる明かりのせいでさして危ないとは思えぬいつもの帰り道を、師走の寒風が吹きつける中をたどっていった。◆

第2223日目 〈寿命ある限り、有川浩を読んでゆく。──第2202日目への後記〉 [日々の思い・独り言]

 昨日、有川浩『海の底』読了の旨ご報告した。併せて『クジラの彼』所収の番外編も読んだ、と。『海の底』を読んだ人のなかで、あの2人の行く末が気にならないなんて人がいるのかな。しかもあんな幕切れを提示されたとあっては! 為に『クジラの彼』で読める2作の番外編で、あの2人のその後が描かれた「有能な彼女」を先にしたことは、知る方ならば是非とも首肯いただきたく。だって『海の底』ぐらいのキュンキュンぶりが大好きなんだもの。
 ──と、ここまでは導入、それでは本題。
 本ブログ第2202日目に於いてわたくしは購入したばかりな有川浩のエッセイ集『倒れるときは前のめり』をすこしずつ読み進めていることを報告し、どうしてストーリーセラーは単行本とは違う出版社で文庫化されて、またレインツリーの国は他社にて再文庫化されたのだろう、と疑問を呈した。
 件の文章を書いたとき、わたくしは有川浩がブログを持っていること、Twitterをやっていることをまったく知らなかった。加えてエッセイ集を読んではいても、疑問の解決になる箇所の載るページまでは読むに至っていなかった。誤魔化し? 言い訳? 如何様にも取られるだろうが、構わない。今日は第2202日目以後に知った事柄に基づいて、過日の見解を一部なりとも修正したく思う次第。
 『ストーリーセラー』も『レインツリーの国』も版権の移動については双方同じ事情によるらしい。詳細は著者の当該ブログ記事をご参照いただきたいが、有川浩に向けられた執拗な悪意が原因のようだ。それを回避するために親本の版元から版権を移してゆくことになった様子。当該記事では『三匹のおっさん』が俎上に上せられているが、時期的にはそれ以後の刊行となる文庫版『ストーリーセラー』、角川文庫版『レインツリーの国』も、おそらくは版権移動の内実は同じだろう。
 このあたりの事実確認をきちんとしない状態で第2202日目の原稿を書き、そのまま更新してしまったことに赤面を隠せないわたくし。己を愚笑できる程<寸鉄人を刺す>ボキャブラリーは、不幸にして持ち合わせていない。
 そうしてもう一点。たとえば『三匹のおっさん』や『レインツリーの国』について、一度は単行本と同じ出版社から文庫化されたにもかかわらず、その文庫が後日、別の出版社から再刊されたとき、書影のみならず解説の布陣やページ割りまで同一なのはなぜなのだろう、という疑問について。
 これも著者のブログで真相を知った。真相というか、そこへ込められた著者の想いに気附かされた、というた方が正しい。まぁ、弁解じみてしまうが、海外の小説を読み馴れていると、一度品切れや絶版になったものが再刊される場合、同一出版社からであろうと違う出版社からであろうと、書影や解説、フォントの変化に伴うページ割りの変更なぞ普通にあるので、斯様な疑問を抱いたのだが、──
 「変わらないこと」/「変えないこと」への著者の想いが如何なものかといえば、違う出版社から新たに文庫が出ることで買い直すなどの不利益を読者に生じさせたくない、とのこと。根が単純なのか、貧乏性のせいか、この一文に接して、じわり、と目頭が熱くなった。大仰かもしれないが、感動したよ。中学生の頃から好きな某国民的ミステリ作家の文庫化済み作品も(事情は知らぬが)よく版権移動しているけれど、そのたびに書影や解説が変わるもの。それが慣例なのかもしれないけれど、しかし愛読する作家、今回でいえば有川浩がそうした配慮をしてくれている、と知れば、その姿勢に<漢>を感じて断固支持を表明した上で今後もこの人の作品を読んでゆこう、という気持ちも新たになるというものだ。
 ──わたくしが難聴でなかったら。初めての有川作品が『レインツリーの国』でなかったら。それとの出会いのタイミングが前後にずれていたとしたら。正直、こうも有川浩の作品へ夢中になることはなかったかもしれない。否、もうすこし冷静な気持ちでファンを自称していただろう。換言すれば、このような文章は書いていなかったかもしれないね、ということ。本件に関していえば、今後も否応なく付き合ってゆくことになる難聴には感謝すべきなのかもね。
 いまたしかにいえることは、寿命ある限り、この人の作品を読み続けてゆく、という決意。もっとも、昨日も書いたように、あまりにラブコメ度全開で濃ゆいものには少々引いてしまうかもしれないけれど。◆

第2222日目 〈有川浩『海の底』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『図書館戦争』シリーズを発端として集中的に行った<有川浩読書プロジェクト>、3年近くの中断を挟んでの第2幕は本日読了した『海の底』(角川文庫)から始まりとなる。本日は読了報告のみなので感想の筆は控えるが、<自衛隊三部作>のうちでは本作がいちばんのお気に入りだなぁ。それって子供の頃から空自より海自の方が好きだったせいかも。
 ラブコメ度でいえば、読んでいて足をジタバタさせられる『図書館戦争』シリーズや『植物図鑑』程ではないが、勿論こちら『海の底』にもその要素はしっかりと練りこまれている。番外編である「クジラの彼」と「有能な彼女」(共に『クジラの彼』所収 角川文庫)も併せて読んだけれど、そちらも含めて小声でそっと告白すれば、わたくしには『海の底』の方が性に合います。
 有川浩の場合、ラブコメ度が全開な作品の方が本領なのだろうけれど、針が振り切れたようなその描写、その濃度は時として辛くなってしまうのだ。端的に申してしまうが、傍観者として読むには少々心が痛いのである。それもあってだろう、わたくしには『海の底』の方が性に合う、というのだ。
 それはさておくとしても、本作はとても面白くて、痛快で、のめり込ませる小説。これを読む往復の通勤電車の片道10分弱、或いは1人になった昼休憩のわずかな時間の憩いとなり、回復となり、至福の一時となった。──この3年間で読まずに買うだけだった著者の単行本、文庫本はまだまだあるので(失礼)、いま暫くは『海の底』同様のすばらしきエンタメ小説読書の時間を過ごせそうだ。これを幸福といわずになんといおう?◆

第2221日目 〈道の先に朧ろ気に見えてきた(かもしれない)もの、途中で拾ってゆくもの。〉 [日々の思い・独り言]

 聖書の読書が終わったら本ブログを如何に存続させるか。最近考えることといえば、そればかり(比喩だよ)。聖書を読み終えたら、あれをしよう、これもしたい、という願望はたくさんある。聖書読書−原稿執筆−ブログの定時更新、という3点ワンセットの枷があったものだから、終了後の「やりたいことリスト」は爆発的増殖の傾向を見せて留まろうとしない。
 が、肝心の本ブログのその後は? 屍体にはしない、とだけ決めてあったけれど、さて、<聖書以後>が具体的に視野の遠くへ入ってくると、否が応でも聖書に代わるなにかが必要になってきたことを痛切に感じる。観た映画や読んだ本の感想だけでは到底代替案になりはしない。もしその線で行こうとするなら、一週間に2日の更新が精々であろう。自らの怠惰癖を考慮すれば、それさえ危うく思えるのだけれど……。
 やはり<柱>になるものが欲しい。聖書に匹敵するぐらい強力なパーソナリティが自分にあるだろうか? ここでわたくしは両の腕を固く組み、顎が胸に付くぐらい首を前傾させて、喉奥から唸り声のような声を絞りあげて、考えこむ。そうして、記憶を手繰り、自らの能力を併せて鑑み、<それ>の取捨選択を猛烈な勢いで行う。ファティマの演算能力も斯くや、というぐらいに勢いで。──勿論、本稿にて結論は出ない。
 それはさておき。聖書以後は、己の文学の出発点であった幻想文学か日本古典文学に立ち帰ろうと思うこと度々なのだけれど、前者についてかつての情熱は、辛うじて熾火程度にしか残っていないことを自覚している。
 後者はやってやれないことも、なくはない。というのも20代のわたくしは馬鹿みたいに岩波書店から出ている「日本古典文学大系」と「新日本古典文学大系」全200巻(索引除く)の読破を企み、実際に手を着けて「日本古典文学大系」の中途まで読み進めたのである。すくなくとも第一期全66巻は全巻読破し、第二期に関しては好きな作品をつまみ食いして消化した。
 斯様に馬鹿な企画を立案して実行に移したのだから、知的欲求が高まっていたというべきなのか、或いは単に無謀なことに挑戦してみたかっただけなのか、或いはまったく別の理由あってのことか、真相は誰に伝える必要もないけれど、とまれ、こうした実績がある以上は<聖書以後>を考えた場合、20年近くの中断期間を超えて再びこの企画に挑んでみようかな、今度は1冊1冊の感想やらなにやらをブログに残してゆこうかな、と「人生最後の野心」が頭をもたげてくるのを抑えられずにいるのだ。……。
 取り敢えずは聖書の読書が終わっても本ブログは閉鎖しない、と決めているし、電脳空間のあちこちへ無残に転がる屍体的ブログにはしないことも決めている。序でにいえば、聖書読書が終わったあとの身の振り方も。立場が変われば非難をダイレクトに浴びるのは致し方ないが、相手の感情に一々付き合ってはいられない。それもあっての、身の振り方の決断。
 今後も本ブログの<聖書以後>については(使い勝手の良いネタであることがわかったこともあり)不定期ながら、ほぼリアルタイムでお伝えしてゆこう。結果としてそこで語られたことは何一つ実現しておらず、まったく別の方向を示すこともじゅうぶんあり得るが、それもわたくしの性格を如実に示したものとして、後日になればまたとない記念となることであろう。ゆえにわたくしはしたり顔で、こう書き添えよう──呵々、と。
 さて、本当にどうしようかな……。

 本ブログが聖書読書ノートであるうちに済ませておきたいものも、ある。既に予告してある旧約聖書続編に収まる「マカバイ記」の再読、「エズラ記(ラテン語)」への再挑戦は当然として、その実わたくしがここで申しあげようとしているのは、聖書とはなんの関わりもないエッセイの話なのだ。
 わたくしの洋楽入門に最大級のインパクトを残し、未だマイ・ベスト・アーティストの地位を転がり落ちることなきヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの全アルバム・レヴューがそれ。
 ・Huey Lewis & The News(1980)
 ・Picture This(1982)
 ・Sports(1983)
 ・Fore!(1986)
 ・Small World(1988)
 ・Hard At Play(1991)
 ・Four Chords & Several Years Ago(1994)
 ・Plan B(2001)
 ・Soulsville(2010)
上記9枚のオリジナル・アルバムに加えて、
 ・Live At 25(2004)/結成25周年ライヴ。別にDVDあり!
 ・The Best of Huey Lewis & The News(1996)/新曲、4曲入り!
 ・Greatest Hits(2000)/DVD付き!
 ・Sports (30th Anniversary Deluxe)(2013)/Disc-2はライヴ・ヴァージョン!
の4枚はまたとない青春の記念として、本ブログに遺しておきたいものであります。
 それでは。◆

第2220日目 〈フィリピの信徒への手紙第4章2/2:〈勧めの言葉〉、〈贈り物への感謝〉&〈結びの言葉〉with読了の挨拶。〉 [フィリピの信徒への手紙]

 フィリピの信徒への手紙第4章2/2です。

 フィリ4:2-9〈勧めの言葉〉
 エボディアとシンティケには、主に於いて同じ思いを抱くよう奨めます。真実の協力者よ、2人を支えてください。彼女らは他の協力者と一緒になって、福音のために戦ってくれたのです。
 あなた方よ、主に於いて喜びなさい。あなた方の広い心がすべての人に知られるようになさい。主はあなた方のすぐ近くにいます。
 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリ4:6-7)
 フィリピの兄弟たちよ、すべてに於いて真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、その他徳や称賛に値することがあれば、心に留めなさい。
 フィリピの兄弟たちよ、わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共にいることでしょう。

 フィリ4:10-20〈贈り物への感謝〉
 あなた方が示してくれた心遣いに感謝します。物欲しさからいうのではないが、これまではその思いはあっても実行に移すのは簡単でなかったのでしょうね。
 でも、わたしは自分の置かれた境遇で満足することを覚えたのです。豊かに暮らす術も、貧しく暮らす術も身に付けています。満腹であれ空腹であれ、物が有り余っていようが不足していようが、現状で対処する術といいますか、秘訣を授かっているのです。
 「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリ4:13)
 あなた方もご存知のように、福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、互いに物資のやり取りが行える教会はあなた方の他にありませんでした。また、テサロニケにいたときもあなた方はわが窮状を救おうとして、援助のための物資を届けてくれました。そうして今回もエパフロディトの手で……。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくれるいけにえであります。
 「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(フィリ4:19)
 われらが父なる神に、代々限りなき栄光がありますように。アーメン。

 フィリ4:21-23〈結びの言葉〉
 キリストに結ばれたすべての聖なる者たちへ宜しくお伝えください。
 わたしと共にいる兄弟たちがあなた方へ宜しく、といっています。
 こちらの聖なる者たち、就中皇帝の家の人々からも、宜しくとの言伝を預かっています。
 主イエス・キリストの恵みがあなた方の“霊”と共にありますように。

 本稿冒頭で触れられる2人の女性──エボディアとシンティケがどのような人物なのか、先達てのエパフロディト同様、否、それ以上に定かではありません。エパフロディトの場合は或る程度まで類推するための材料が2つ3つと雖も与えられていましたが、彼女たちはフィリピ教会に属する人という以外はなにもわからぬ。どうしてパウロがこの2人を名指したのかも。
 「使徒言行録」にはエボディアの名もシンティケの名も記されませんが、彼女たちは(西洋初のキリスト者となった)リディアの縁者の1人であるかもしれません。2人のどちらかは、霊に憑かれていた女奴隷であった可能性だって否定はできない。例によって真相は、歴史のカーテンのずーっと奥に取り残されています。
 同様に、「命の書」なるものに名が記されているクレメンスや真実の協力者についても、<真相不明>というもどかしさが残るのには変わりありません。やはりマケドニア州に住まう、パウロにとっては異邦人、地理的に見ればギリシア人であろう、というが精々な。
 因みにクレメンスという名を挙げれば、ローマ教皇のなかにはその名を持つ人物が2世紀から18世紀までに14名おりますし、2世紀にはアレクサンドリアのクレメンスと称される、ギリシアはアテネ出身とされるキリスト教の神学者がおりました。クレメンスという名は地中海世界では、殊ギリシア地方に多い名前だったのかもしれません。この点については、好きな指揮者の名前でもありますので、も少し調べてみようと思います(その指揮者──クレメンス・クラウス──はウィーン出身で、ギリシアとは縁が薄そうですが)。
 それにしても本章にて、本書簡でわたくしがいちばん共感の思いを抱いたのは、パウロが自分は自分の置かれた境遇で満足することを覚えたのです、と告白している点であります。境遇とはあくまで訳語ですから、これを環境とも状況とも言い換えてよいでありましょう。現代風にミニマル・ライフと表現したってよい。個人の生活という視点で見ても、これは或る種の憧れというてよいように思います。ストイック、というのではなく、簡素──シンプルな生活様式というのは、(西洋に於いては)もしかするとパウロのような人物によって始められたのかもしれませんね。
 突飛な連想と苦笑されそうですが、わたくしはこの箇所を読んでいて、たとえば、20世紀アメリカの怪奇小説作家、H.P.ラヴクラフトを思い、近世期の国学者/歌人/俳人/茶人/医者にして小説家、上田秋成を思い、19世紀イギリスの女流作家、エミリ・ブロンテを思いました。わたくしがパウロのこの文章に反応したのは、わが文学的灯台、北極星であるかれらの生活とオーバーラップしていることへ無意識にも感応したためなのかもしれません……。
 フィリ4:22にある「皇帝の家の人々」とは、パウロが監禁されていた牢獄を警護するローマ兵でありましょう。牢獄のパウロは最も身近にいる異邦人、即ちローマ兵に福音を説いてかれらの心を動かしたのであります。



 「フィリピの信徒への手紙」は本日を以て読了。〈前夜〉を含めればわずか5日の読書であったが、無事にこの日を迎えられたことを喜ぶのは他の書物となんら変わりありません。読者諸兄の支えなくして日々の読書と執筆、本ブログの更新があり得ぬのも然り。サンキー・サイ。
 次の「コロサイの信徒への手紙」は少し日を置くことになるかもしれません。が、わたくしは必ず帰還する。約束。聖書の読了まで道の果ての開拓地へ行ったりしないということも、ここに誓っておこう。
 ──それにしても今回、久しぶりに聖書の読書と原稿の執筆、ワープロ稿の作成とその後のブログ更新をすべて一つながりの作業として退勤後の3時間か4時間をかけて行ったが、やはりこの方法が自分にはいちばん馴染んでいるかなぁ。原稿のストックがあると、どうも怠けていけない。◆

第2219日目 〈フィリピの信徒への手紙第3章&第4章1/2:〈キリストを信じるとは〉&〈目標を目指して〉〉 [フィリピの信徒への手紙]

 フィリピの信徒への手紙第3章と第4章1/2です。

 フィリ3:1-11〈キリストを信じるとは〉
 あなた方のなかに動揺と困惑をもたらしたあのユダヤ主義者たち、あの犬どもに注意しなさい。あの邪な働き手たちに注意しなさい。切り傷に過ぎない割礼を持つ者たちを軽快しなさい。われらこそ神の霊によって真の割礼を受けた者なのですから。
 わたしは生まれて8日目に割礼を受けた、イスラエルに属するベニヤミン族の出身です。わたしはヘブライ人のなかのヘブライ人。律法に関してはファリサイ派の一員で、熱心さについては教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした。
 わたしにとってこれらは有利なことでした。しかし、いまは却ってキリストゆえに損失と見做しています。のみならず、主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさによって、いまでは他の一切を損失と見るようになりました。いまやそれらは塵芥でしかありません。
 「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ3:9)
 キリストとその復活の力を知ったわたしは、その苦しみに与り、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者のなかからの復活を果たしたいのです。

 フィリ3:12-4:1〈目標を目指して〉
 わたしは自分が欲しいと願うものはまだ得ていませんし、完全な者となっているわけでもありません。どうにかしてそれを得ようと(捕まえようと)努めているところです。というのも、自分はまだイエス・キリストに捕らわれている者だからであります。
 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリ3:13-14)
 わたしは以上のような目標を目指して達することができるよう、努めます。あなた方のなかには異なる目標や考えのある人もいるでしょう。いずれにせよ、われらは到達したところに基づいて進むべきなのです。
 あなた方はわたしに倣う者となりなさい。われらを模範として歩む人々へ目を向けなさい。いま再た涙ながらにいいますが、キリストの十字架に敵対する輩は未だ多いのです。かれらの行き着く先にあるのは、滅びです。かれらの神は腹、誇りとするのは恥ずべき諸事、かれらの考えることはこの世のことばかりです。
 しかし、われらは違う。われらの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが来て、われらを救うのです。われらはそれを待っているのです。万物を支配下に置くことのできる力を、キリストは持っています。その力によってわれらは、この卑しい体からキリストと同じ栄光があふれる体へと変えられるのです。
 「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」(フィリ4:1)

 パウロはキリストによって死者のなかからの復活を果たしたい、と望む。ここでいう復活は、肉体が滅びたあと訪れる<死>からのそれではなく、回心を経て新たにキリスト者として新生する、という意味合いであるように、わたくしは思います。律法への義に縛られていた過去の自分からの脱却、キリストへの信仰による義に基づく新たな自分に生まれ変わること、といえばいいでしょうか。それが延いては最終的な目標としてパウロが掲げた、天に召されて神やキリストと共にあることへとつながってゆくのでしょう。
 そのパウロは、信仰による義を基として神からの義に授かろうとする。その最終目標は、前述したように神からの賞与をもらうことでした。ではその賞与はなにか、といえば、上(天)に召されて神や主キリストと共に在る、というものです。そうした最終目標を目指して活動する自らの様子を「走る」という行為に喩えたのが、引用したフィリ3:13-14であります。
 この箇所は誰もが──すくなくとも向上心を持ち、人生になんらかの目標を掲げる人ならば、誰しも首肯・共感できるのではないでしょうか。後ろのものを忘れて前を見て、ひたすらに目標目指して走る。実に励みとなる文言ではありませんか。◆

第2218日目 〈フィリピの信徒への手紙第2章:〈キリストを模範とせよ〉、〈共に喜ぶ〉他with昨日と変わることのない3月11日を過ごそう。〉 [フィリピの信徒への手紙]

 フィリピの信徒への手紙第2章です。

 フィリ2:1-11〈キリストを模範とせよ〉
 もしもあなた方にキリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、慈しみ、憐れみがあるならば、皆同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてほしい。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。」(フィリ2:3-5)
 イエス・キリストも然り。キリストは神の身でありながらその身分に固執しなかった。自分を無にして、僕となり、人間の姿で現れて、へりくだり、十字架上の死に至るまで従順だったのです。いと素晴らしきかな、範とすべきかな。このキリストの行いのため、神はキリストを高く上げ、世界へあまねく知られる名を、あらゆる名に優って知られる名を与えたのでした。
 斯くして天上のもの、地上のもの、地下のものがその御名の前にひざまずき、すべてが口を揃えてキリストを主といい、父なる神を讃えるのであります。

 フィリ2:12-19〈共に喜ぶ〉
 わが愛するフィリピの人々よ。わたしが共にいないときは尚更従順でいてください。恐れ戦きつつ自分の救いを達成するよう努めてください。神はあなた方の内に在ってあなた方へ働きかけているのですから。
 「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」(フィリ2:14-16)
 あなた方が務めれば、わたしの労苦も報われる。わたしはそれをキリストの日に誇れることだろう。
 更に信仰に基づいてあなた方がいけにえをささげ、礼拝を行う際にわたしの血がそこへ注がれたとしても、わたしは喜びます。あなた方一同が喜ぶなら、共に喜びます。だからあなた方もわたし同様に喜びなさい。

 フィリ2:20-30〈テモテとエパフロディトを送る〉
 わたしはあなた方の様子が知りたい。そこでテモテをそちらへ遣わします。わたしと同じかそれ以上にあなた方を想うものがあるとすれば、それはテモテを措いて他にありません。テモテが如何なる人物か、あなた方はご存知でしょう。かれはわたしと共に福音へ仕えた者です。
 自分のことで見通しが付き次第、テモテをそちらへ派遣します。じきにわたしも主キリストによってそちらへ行くことでしょう。
 ところでわたしはエパフロディトをそちらへ帰さなくてはなりません。かれはあなた方によって、贈り物を携えてわたしのところへ遣わされてきました。エパフロディトはこちらで、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭った」(フィリ2:30)。瀕死の重傷を負ったかれですが、いまは神の憐れみもあって回復しています。
 自分の病気があなた方に知られたことで、かれは面目なさそうにしています。心苦しく思うているようです。そうして、いまはとてもあなた方に会いたがっています。そんなこともあるので、わたしはかれをなるべく早急にあなた方の許へ帰そうと思います。きっとあなた方はエパフロディトとの再会を喜び、エパフロディトはあなた方との再会を喜ぶことでしょう。わたしも、淋しいですが喜びます。
 どうかかれを主に結ばれている者として歓迎し、かれのような人々を敬ってください。かれは──エパフロディトはわが兄弟、わが協力者というに留まらず、窮乏時のわが奉仕者であり、そうして戦友です。

 エパフロディトの人物像はよくわかりません。マケドニア州フィリピの出身であろうとは推測できますし、選ばれてパウロの許へ派遣されたということは教会の主立った人の内の1人、もしくはその信仰の篤さが皆から認められて敬愛される信徒だったのでしょうか。
 かれはキリストの業のため命を賭して活動し、瀕死の重傷を負った、といいます。特に記されてはおりませんが、フィリピからシリアのカイサリアまでの長旅(小アジア横断!)の疲れ癒えぬうちに福音宣教を始めて無理に無理を重ねて、結果倒れて寝こんでしまったのかもしれない。もしかすると、パウロがそうであったようにエパフロディトもユダヤ人の反対者や暴徒によって負傷したのかもしれない。
 どちらであったのか、或いはどちらでもなく別の理由によるのか、定かでないけれど、──すくなくとも本書簡が書かれた頃は命に別状ないことが判明し、幸いと順調に回復している様子。パウロがかれをフィリピへ帰す意向を示したということは、逆にいえばそれだけエパフロディトの体力が再度の長旅に耐えられるぐらいには戻ってきているわけだ。旅立ちの日が近附いていることがわかっているパウロの筆は、その文言と同じで淋しそうであります……。
 ──引用したフィリ2:3-5はイエスが説いた隣人愛をそのまま敷衍してゆけばこうなる、という見本、好例と申せましょうね。



 2度目の再婚を3月11日に行う友がいる。つまり3度目の結婚であるわけで、そのたび呼ばれるわれら友人一同は「そろそろ落ち着いてくれないかなぁ」と財布の中身と相談しつつぼやくわけだ。その友人から聞いた話。
 かれは、頼んでもいないのに結婚式でのスピーチを自ら買って出てきた職場の上司から、日取りが3月11日に決まっていることを伝えたその場で「君たちはなんて常識外れなんだ」と非難されたという。「日本中が東北を悼むべき日に祝い事なんて以ての外じゃないのかな。せめて他の日に変更したまえよ。ぼくは式には出ないよ」
 聞いて呆れるとはこのことだ。ならば1月17日にはなにを思うか。この日、阪神地方も未曾有の被害を受けたんだ。津波も原発もなかったけれど、だから<1.17>が人々の脳裏から霞んでいいわけではない。
 <3.11>を風化させてはならない、とは叫ぶものの、自分自身の記憶も風化しつつあることを否定はできない。今年の3月11日は震災から5年の節目の時。この日が近附くとなにやら思い出したように被災地の、草の根レベルの情報が取り挙げられ、種々の催しや活動を取材しては「忘れてはいけない記憶ですね」と耳当たりのいいコメントがセットでお茶の間に流される。が、その日が過ぎるとそれらの活動がメディアで報じられることは殆どなくなってしまう。
 記憶は語り継がなくてはならない。震災遺構は次の世代も交えて残すか取り壊すか決めるべきだし、震災復興にまつわる様々な事業への助演金は減額されることはあっても打ち切るべきではない。こうした活動や支援が記憶の風化を阻む礎となろうし、収集・整理された記録が震災を知らない世代へ渡されることこそが風化を留める堤防となる。
 でも、われらはあの日を普通に迎えて、生活するべきなのである。われらは<3.11>を前にすると冷静でいられなくなるようだ。正直なところ、あまりに過敏、あまりに過剰という気がしている。<3.11>だからとて、なににつけ厳に自粛するというのは方向が間違っている。冒頭の「祝い事は慎め」など言語道断、ならばその日が誕生日や結婚記念日だとかいう人に対しては、事前に済ませておくか、事後に行え、とでもいうのか。そんなことされて、被災地の人は喜ぶか? 被災地の人はそれを望んでいるか? 普通に生活すること、それがいちばん大事なんだ。
 <3.11>ゆえに祝い事を慎め、慶賀は自粛しろ、という人々よ。あなた方は<1.17>を自粛して生きているかい? <3.11>はダメで<9.11>はいいのかい? <9.11>。これ、外国の惨事というたかて、あすこには日本人犠牲者もいたんやで。わたくしも目の前であの惨事を経験し、知人2名を亡くした。海の向こうで犠牲になった人は悼まなくてもよし、国内の天災・人災で亡くなった人たちばかりを悼め? なんたる傲慢、なんたる驕り、なんたる自己中。
 むろん、震災で亡くなった方々、家族を失った方々、原発で避難を余儀なくされた方々へ手向けるべき言葉はたくさんある。が、それは直接その方々へ向けて発信すればいいこと。<3.11>ゆえに結婚式は控えろ、なんていわれちゃったんだよね、とぼやいた友人の言葉に日頃の思いが一気に固まったので、今日はそのことについて書いてみた。
 悼む気持ちは持とう。あの日を忘れるな。されど静かに、穏やかに、あくまで平常に過ごそう。1年365日あるうちの、昨日と変わることのない3月11日を過ごそう。◆

第2217日目 〈フィリピの信徒への手紙第1章:〈挨拶〉、〈フィリピの信徒のための祈り〉他withよく聴くビートルズ・アルバムはといえば、……〉 [フィリピの信徒への手紙]

 フィリピの信徒への手紙第1章です。

 フィリ1:1-2〈挨拶〉
 キリストの使徒パウロとテモテから、フィリピの町の聖なる者たち、監督者、奉仕者たちへ。父なる神と主キリストの恵みと平和がありますように。

 フィリ1:3-11〈フィリピの信徒のための祈り〉
 あなたのなかで善い業を始めた方がキリスト・イエスの日の訪れまでにその業を成し遂げてくれる、わたしはそう確信しています。というのも、このように監禁されている間も、福音を弁明して立証するときも、あなた方一同のことをともに恵みに与る者と思い、心に留めているからであります。
 「わたしが、キリスト・イエスの愛の力で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(フィリ1:8)
 どうかあなた方が知る力と見抜く力を併せ持ち、愛がますます豊かになり、本当に重要なことがあふれるぐらいに受け取れ、神の栄光と誉れを受け取られますように。
 ──わたしはそう祈ります、あなた方のために。

 フィリ1:12-30〈わたしにとって、生きるとはキリストを生きること〉
 フィリピの兄弟たちよ、わたしはいま、獄中の身。が、嘆くなかれ。これは福音の前進のために役立つ出来事となるだろうから。わたしが囚われている理由がキリストのためであることが、この監獄のある兵営に詰める人々、その他のここで暮らす人々に知れ渡り、捕らわれたわたしを見て主の兄弟たちの多くの者が確信を得て、ますます勇敢に、恐れることなく、御言葉を語るようになったのです。
 が、キリストを宣べ伝えることは必ずしも純粋な動機によるものばかりではありません。種々の不純な動機に起因する場合もあるでしょう。が、だからどうしたというのです。わたしは──動機はともあれ──キリストの福音が多くの人々によって語られ、広められてゆくのを喜んでいます。わたしはどんなことにも恥をかかず、生きるにしても死ぬにしても、わが身によってキリストが公然と崇められる時が来るように、と、切に願い希望しています。
 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリ1:21)
 わたしはこの世を去ってキリストと共に在ることを熱望している。正直なところ、肉に留まるよりはその方がずっと望ましいのです。が、しかし、わたしはこのまま生きることでしょう。わたしはあなた方にとって必要な存在です。あなた方の信仰を深め、喜びをもたらすが如く、いつも共にいることになるでしょう。あなた方の前にわたしが再び姿を現すとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなた方の誇りは、わたしゆえにいや増しにますことでしょう。
 フィリピの兄弟たちよ。ひたすらキリストの福音に相応しい生活をしなさい。そうすればわたしはあなた方について、会ったときでも離れているときでも、きっとこのようなことが聞けるでしょう。曰く、──
 「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。」(フィリ1:27-28)
 おわかりになるでしょうか、あなた方はキリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのだ、ということを。あなた方はわたしの戦いを見て、聞いています。あなた方も、いまわたしが経験しているのと同じ戦いを戦っているのです。

 本章を読んでいていちばん驚かされたのは、御言葉を語るにあたってはその動機が純粋なものであろうと不純なものであろうとどちらでも構わない、というパウロの一言。心からの思いあってこそ人は動き、また動かされるのではないか。そう小首を傾げたくなるのであります。
 が、パウロにいわせれば勿論そうではない。これはおそらく、最初のきっかけはかりに利益を求めたり、獄中のパウロを苦しめんがためのことであったとしても、御言葉を語るにつれてだんだんと御言葉それ自身が話者に作用して不純な動機で語り始めたかれを改悛させることだろう、という、それが内包する力、人に及ぼす力に信頼を置いて斯く言い放ったのかも知れません。或いはも少し単純に、不純な動機で語り始めた人は御言葉によって自滅することだろう、とわかっているからこその発言であったか。結局それは(フィリ3:18-19で書かれたように)十字架に敵対している者たちなのだから、やがては滅びてしまうだろうね、と……。
 どちらであるにせよ、どちらでもないにせよ、すくなくとも「フィリピの信徒への手紙」を読み始めたばかりの現時点では、パウロの真意が奈辺にあるか定かでありません。
 読みが浅いせいか、殊に過半を占める〈わたしにとって、生きるとはキリストを生きること〉は難渋してしまいました。こんなことでどうするのか。以前ぐらいに時間と体力があって、集中力を持続させられ、<灰色の脳細胞>が活発に動いてくれればなぁ。そうしたら、リカバリできる? と秘書。勿論、とわたくし。嗚呼、というべきか、呵々というて〆括るべきか。



 ビートルズのアルバムでいちばん聴いているのは、実は『イエロー・サブマリン 〜ソングトラックス〜』であったりする。オリジナル盤からジョージ・マーティン(2016年3月8日90歳にて逝去、合掌)作曲のオーケストラ曲を除いて、映画『イエロー・サブマリン』に使用されたビートルズの歌だけで構成した一種の企画盤であるけれど、これがなんともいえない法悦をもたらしてくれるのだ。これはこれでじゅうぶんにアリだ。或る意味で入門盤としてオススメできるかも。
 これに次いでよく聴いているアルバムは『パストマスターズ』Vol-1とVol-2かな。オリジナル・アルバムが出て来ないのがいやはやなんともなのだが、そちらはほぼまんべんなく聴いているからどれがいちばん聴いている、という比較ができないのだね。
 でも、自分が今回のビートルズ洗礼以前に聴いていたかれらの歌は、アルバム収録のヴァージョンというよりも『パストマスターズ』に収められたヴァージョンのような気がしてならぬのは、果たして気のせいだろうか。もとより確認する術は最早ないけれど、そんな風に耳が記憶しているのである。ふむぅ。◆

第2216日目 〈「フィリピの信徒への手紙」前夜〉 [フィリピの信徒への手紙]

 パウロ書簡を読み始めてから、以前に増して伝ルカ著「使徒言行録」をしばしば繙くようになりました。ここの書簡がいつ、どこで、どのような背景あって書かれたものなのか、手掛かりは「使徒言行録」に埋めこまれている場合が多々である、と申して過言でありません。ほんとう、「ロマ書」以来果たして何度、「使徒行伝」に戻ってページをめくり、該当箇所を前にして考えこんだことでしょうか。
 今日から読むフィリピも、「使徒言行録」に記された第2回宣教旅行の途次立ち寄ったフィリピ訪問の記事が出発点となっています。パウロは小アジアでの宣教をひとまず済ませると、今度は随伴者たちと共に海を渡り、マケドニアの地を踏み、遂に西洋古典文明の牙城でキリストの福音を宣べ伝えるのであります。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マコ16:15)
 パウロとフィリピのかかわりは使16:12に始まる。シラスとテモテを伴って小アジアはトロアスの町から海路、サモトラケ島を経てネアポリスの港でマケドニアへ上陸。そのままマケドニア州第一区の都市にしてローマ帝国の植民都市、フィリピへ入ったのであります。そこでかれはリディアという女性を回心させ、ギリシア初のキリスト者とした。別の日には川岸の祈りの場所へ出掛ける途中、女奴隷に憑いた霊を追い払った。これが原因でパウロとシラスは投獄されたが、ローマ市民権を持つ者ゆえに釈放された。──「使徒言行録」が記録するパウロとフィリピの町のかかわりであります。これが縁となってパウロはこの地に西洋初の教会を設立(50年頃)、その信徒の多くは異邦人でありました。
 本書簡の筆が執られたきっかけは、フィリピ教会にユダヤ主義者が入りこんで割礼を強要したことにあった。この割礼を強要するユダヤ主義者が「ガラテヤ書」のときのようなユダヤ人キリスト者と同じ主張をしたのか定かでありません。単に割礼を強いてユダヤ教に回心させようとしたのか、真にキリスト者となるには割礼しなくてはならないと誤った教えを説いたのか、判然としません。ユダヤ主義者であるならば前者の可能性が高くなるのかな、と思うが精一杯で。ただ、かれらの登場によってフィリピ教会が動揺、混乱したのはたしかなのでしょう。パウロはこれを知って、信徒の動揺や混乱、迷いを鎮めるために本書簡の筆を執った──そう考えるのが自然であるように思います。そのユダヤ主義者たちはフィリ3:2にて「あの犬ども」と罵っております。
 「エフェソ書」同様〈獄中書簡〉を構成する1つである本書簡は、やはり同じように58-60年頃、シリアのカイサリアにて書かれた、と思しい。その内容は大きく2つに大別でき、1つはフィリ2:6-11に於けるイエス・キリストの受難と栄誉を讃える部分、もう1つはフィリ3:8-11に於けるパウロの義認(義化)論の部分である。本書簡は<喜びの手紙>または<感謝の手紙>と呼ばれ、それは専らフィリピからシリアのカイサリアへ援助物資である贈り物を携えてきたエパフロディトと、斯様に厚意を示してくれ、かつ自分のために祈ってくれもするフィリピ教会への感謝と喜びに由来するようだが、わたくしは同時にキリストへの感謝、喜び、信頼、畏敬といった想いに彩られた手紙であるがための呼称であるとも思うのであります。
 上記に関して、ヴァルター・クライバーはこう述べています、「手紙全体を通して注意を引くのは、パウロが実に親密に語り、実に心を込めて教会への勧めをなしている点である。この点において、パウロとこの教会との特別な関係が明らかになる」(『聖書ガイドブック』P248 教文館 2000.9)と。至極もっともな指摘といえましょう。
 それではフィリピとはどのような町であったのか。最後はその点に触れておきましょう。
 「使徒言行録」でこの町がどう紹介されているのかは、前に述べました。フィリピの町の起源は前358-6年頃、マケドニア王フィリポス2世によって整備されて復興した。それ以前はクレニデスと呼ばれて廃都に等しかった由。フィリポス2世はアレクサンドロス3世ことアレクサンドロス(アレクサンダー)大王の父王であります。
 その後、世界の覇権は共和政ローマに移り、前42年9月、ローマにとってもフィリピの町にとってもターニング・ポイントとなる出来事が起こりました──共和主義者のブルータス=カシウス連合軍と第2回三頭政治により手を結んだアントニウス=オクタヴィアヌス連合軍がこの地で武力衝突したのであります。結果はアントニウス=オクタヴィアヌス連合軍の大勝利。この戦いは事実上共和政ローマの終焉を知らせると同時に、時代の流れが帝政ローマ誕生へ舵を切った瞬間でした。やがてこの地はオクタヴィアヌスこと初代ローマ皇帝アウグスティヌスによってローマ帝国へ併合され、属州として生きることとなったのです。『ローマの歴史』(中公文庫)の著者、インドロ・モルタネリはこのフィリピの戦いを指して、「共和政とその良心はともにフィリピで滅んだ」と慨嘆しております(P306)。
 なお、フィリピの町は帝都ローマからトラキア州ビザンティウムへ至るエグナティア街道の途中に位置しておりました。この街道は他のローマ街道と同じく軍事上、商業上の主要幹線であり、パウロがギリシア本土に於ける宣教活動の第一歩にここを選んだことは、かれなりの戦略あってのことだったのでありましょう。福音書や「使徒言行録」、各書簡の背景を繙くことは自ずとかの時代の様々な出来事を知ることであります。シリア・パレスティナ、地中海世界──就中ギリシアや共和制/帝政ローマの歴史を聖書読書と併せて知ることの愉しみは、なににも代え難い知的快楽、知的道楽と申せましょう。もとより歴史のアマチュアの手慰みであるのは承知のことです。
 蛇足ではありますが、ビザンティウムはローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルとして生まれ変わり(330年)、395年にローマ帝国が東西に分裂後は東ローマ帝国の帝都として繁栄し、1453年に帝国が滅亡するとオスマン帝国の首都となりイスタンブールに改称されました。そうしてここはオリエント急行の始発/終着駅……名探偵ポアロはイスタンブールでの事件解決後、オリエント急行に乗車してあの事件に巻きこまれたのでありました。
 それでは明日から1日1章の原則で「フィリピの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

第2215日目 〈YouTubeで懐かしの洋楽を試聴しよう!(その3)〜ブライアン・フェリー「ドント・ストップ・ザ・ダンス」〉 [日々の思い・独り言]

 1980年代、洋楽に目覚めた10代の少年少女が情報源としたのはFM誌とFM放送、レンタルレコード、映画、『ベストヒットUSA』、MTVでなかったろうか。他の地方はいざ知らず、わが故郷はTVK(テレビ神奈川)がなんの苦労もなく視聴できたエリア。夜も一定の時間を過ぎると洋邦のアーティストのPVが流れて、好む好まざるとにかかわらず、多くのアーティストを知ることができたものじゃ。番組名は忘れたけれど、夕方にも洋楽のPVを流すことがあったっけ、TVKは。
 たしか金曜日の夜に放送されていた『SONY MUSIC TV』だったと思うが、或るとき、いつものように寝ぼけ眼をこすりながら観ていたら、その眠気を一気に吹き飛ばすようなPVが流れてきた。色調は全体的に暗めで、艶めかしく体をくねらせる女性、硬質でやたらクセがあるけれどもすぐに脳裏にこびり付く歌声、優男というべきか伊達男というべきか、とにかく端整な顔立ちの歌い手(ややナルシストの傾向あり)。それまで聴いたことがないようなアダルトな音楽に、思わず口をあんぐり開けてブラウン管のなかの映像に見入り、流れてくる音楽へ耳を澄ませたのを覚えている。
 件のPVこそ本日ご紹介のブライアン・フェリー「ドント・ストップ・ザ・ダンス(Don't Stop the Dance)」。ロキシー・ミュージック2度目の解散後の1985年、6枚目のソロ・アルバム『ボーイズ・アンド・ガールス』からのシングルカット曲である。同年には富士フイルムのビデオテープのCMに、2002年には日産プリメーラのCMに使用された。
 ──しかし、これには打ちのめされたね。それまで聴いてきたアメリカン・ロックや今日でいうJ-Popとはまるで毛色の異なる曲だったから。自分の乏しい音楽経験を総動員してもこれに匹敵するものはなかったし、同様に乏しく未熟な来し方に於いても。いまならそのPVに接したときの第一印象に「デカダン」という言葉を与えることができる。が、そんなボキャブラリーを持たない10代中葉の少年にとって「ドント・ストップ・ザ・ダンス」は大人な音楽の世界を垣間見させる、少々刺激の強い曲としか言い様のないものだったのだ──。
 顧みればこの曲が、明確に覚えている限り初めて聴く英国籍の洋楽であったな。まだビートルズもローリング・ストーンズも、エルトン・ジョンもエリック・クラプトンも、すくなくともそれと意識しては聴いたことのない頃だったからね(とはいえ、カルチャークラブを知る時期はすぐ目の前に迫っていたのだが)。まぁもっとも英国籍の洋楽との第一種接近遭遇がブライアン・フェリーだったというのも、われながらいったいどんなものなのか、とは思うけれど。
 高校へ入学するとお小遣いの額は少し上がった。新しい学校では何人かの洋楽好きを見出すことができた。中学時代に使っていたレンタルレコード店はいつの間にか潰れていたが、地元商店街のレコード店は健在、しかも乗り換えに使うターミナル駅周辺には何軒かのレコード店が存在していた(中古レコード店2軒を含む)。そんな環境のなかでわたくしは、おそらくはまわりの音楽好きもそうだったろうが、欲しいLP、聴きたいLPを、吟味に吟味を重ねて選んで購入していった。手が回らない部分はFM誌の番組表を隅から隅まで目を通してエアチェックするか、持っている友人知人を探してダビングさせてもらったりした。
 ロキシー・ミュージックはもとよりブライアン・フェリーは誰彼のお世話になってレコードを聴いたアーティストだ。が、そもそもの持ち主を辿ろうとしてもどうしたわけか記憶から欠落している。ごっそり抜け落ちているのだ。フェリーについては前述『ボーイズ・アンド・ガールス』の他『ベールをぬいだ花嫁』(1978)を聴いた覚えはあるし、ロキシー・ミュージックについても1982年発表の『アヴァロン』は聴いている。にもかかわらず、「聴いた」という記憶以外にはなにもないのだ。「ドント・ストップ・ザ・ダンス」のPVはあれ程しっかりとカット割りやアングルに至るまで覚えていたというのに。やはり映像を伴うと記憶への残り方は著しく高い率を示すのかしらん。
 では、1985年の洋楽シーンを代表する1曲、未だ魅力の褪せることなきブライアン・フェリーの「ドント・ストップ・ザ・ダンス」をYouTubeでどうぞ、──
 https://www.youtube.com/watch?v=XjhTHQhJLxs

 次回はカルチャークラブの名曲「カーマはきまぐれ(Karma Chameleon)」を。但し、気紛れに更新するゆえ、すべてに於いてお約束は致しかねる。◆

第2214日目 〈ぼくのレイモンド・カーヴァー体験;「つぶやき・なう」暫定的最終回の予告〉 [日々の思い・独り言]

 第2214日目は〈ぼくのレイモンド・カーヴァー体験;「つぶやき・なう」〉の暫定的最終回を予定。村上春樹訳全集を揃えた、ということと、ちかごろ読んだ短編2編の感想を書きます。決定稿の完成が遅れているので、それまで待っていてください。◆

第2213日目 〈エフェソの信徒への手紙第6章:〈悪と戦え〉、〈結びの言葉〉他withエフェソ書読了の挨拶。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第6章です。

 エフェ6:1-4〈子と親〉
 子供たちは主に結ばれている者として両親に従いなさい。父と母を敬え、とは約束を伴う最初の掟です。
 父親たちは子供を怒らせてはならない。主が躾け、諭すようにして、子供たちを育てなさい。

 エフェ6:5-9〈奴隷と主人〉
 奴隷たちは肉による主人に従いなさい。恐れ戦き真心を以て、キリストへ仕えるが如く主人に仕えよ。奴隷の身分であったとしても、善いことを行えば主から報いを受けられるのだから。
 主人たちは奴隷をキリストの如くに扱いなさい。ゆめ虐げてはならぬ。主人の上にも奴隷の上にも、等しく同じ神がいて、人を分け隔てることはないのだから。

 エフェ6:10-20〈悪と戦え〉
 エフェソの聖なる者たちよ、これが最後の奨めです。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェ6:10-12)
 邪悪な日の訪れに供えて、いつその時が来ても抵抗してしっかりと立っていられるように、神の武具を着けてそれに臨め。また、どのようなときも“霊”の助けを得て祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために絶えず目を覚まして根気よく祈り続けよ。
 「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェ6:19-20)

 エフェ6:21-23〈結びの言葉〉
 われらの様子を皆さんに知ってもらうため、ティキコをそちらへ派遣します。かれはわたしの宣教旅行の同伴者の1人で、主に結ばれた、わが愛する兄弟です。あなた方はティキコから、心に励ましを受けることでしょう。
 どうぞあなた方へ平和と愛が、父である神と主キリストからありますように。恵みが、変わることなき愛を以て主キリストを愛するすべての人々へ共にあらんことを。

 新共同訳新約聖書の本章の訳文は徹底的に改めるべきです。日本語として機能していない文章から神の御心を知れなど無理な話。がちがちの朴念仁どもに依拠してばかりでなく、ユダヤ教/キリスト教に明るい職業翻訳家も翻訳チームに交えて、日本語として読める聖書を作りあげてくれ。ドイツ語に於けるルター訳の如く、英語に於ける欽定訳聖書の如く、日本語の文章の模範となるような、かつての文語訳のように影響力ある聖書を残してくれ。それが文章に異様にこだわりたい本ブログ主からの希望であり、要求であります。
 それはさておき。
 正直なところ、何度読んでもよくわからぬ文章のお陰もあってか、本章の前半は読み流しても構わないでしょう。わずか一行に惹かれるものはあると雖もそれ以外の箇所はまるでどうでもいい。少なくとも、これまでと同じ姿勢で臨む必要はまったくない、と判断しました。上の本文をお読みいただいて、なんだか薄い文章だな、とお感じの方が居られれば、わたくしのなかば投げ遣りな読書姿勢が影響したのだ、と思うていただいて結構です。
 〈悪と戦え〉でパウロは神の武具を着けて云々と述べますが、おわかりのように本文ではばっさり削除しました。ちょっと落ち着かないので補記しておきます。
 帯:真理
 胸当て:正義
 履物:平和の福音を告げる準備
 盾:信仰
 兜:救い
 霊の剣:神の言葉、以上であります(エフェ6:14-17)
 ──おそらくは本書簡を携えてエフェソへ向かったであろうは、第3回宣教旅行の随伴者の1人、アジア州出身のティキコでした。随伴者として選ばれたことから、アジア州内の諸教会では知られた存在で、特に信仰に篤かっただろうことが想像できます。残念ながらプロフィールが知られないティキコの初出は使20:4。本章第21節の他、「テモテへの手紙 二」第4章第12節でも名前が出ます。

 本日の旧約聖書はエフェ6:2-3と出20:12及び申5:16。



 最後に新共同訳聖書の訳文について愚痴っちまったが、そんなことはあっても「エフェソの信徒への手紙」は本日で読了となる。1週間以内で読み切れる書物は久しぶりだ、と以前に書きましたが、実際終わってみると、本当にこれで全部だったのかなぁ、と不安になってしまいます。でも、読了は本当の話。信じろ、俺。
 最終日にあたり、読者諸兄に感謝します。過去に何度となくいうたかもしれないが、事実なので何度だって述べる。あなた方なくして本ブログの継続はあり得ぬし、わたくしもあなた方なくして会社帰りの読書と執筆に耽ったりはしない。たとい亡き婚約者とテロの犠牲となった友らの追想と雖も、斯くも本腰を入れて本ブログのための時間を割くのは、読者諸兄あってのこと。
 数は少ないながらも年来の読者の方々へ、また、新規参入であってもお気に召していただきそのままお読みくださっている方々へ、わたくしは心よりの感謝をささげる。これを一言でいえば、ありがとう、という言葉に結ばれる。
 次の「フィリピの信徒への手紙」を明日から読むか、明後日から読むか、まだ決めかねていますが、再開の日まで皆様がご健勝でありますように。道の果ての開拓地へ、誰も行ってしまいませんように。◆

第2212日目 〈エフェソの信徒への手紙第5章2/2:〈光の子として生きる〉&〈妻と夫〉with〈獄中書簡〉読書の今後について、及び有川浩『ストーリーセラー』読了の報告。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第5章2/2です。

 エフェ5:6-20〈光の子として生きる〉
 空しい言葉に惑わされるな。神の怒りは不従順な者の上に降る。あなた方はもう暗闇に住まう者ではない。主に結ばれて光となった。ゆえに光の子として歩みなさい。光からこそ、あらゆる善意と正義と真実が生まれるのです。
 未だ暗闇に住まう者の為すことはけっして主の喜んでくれることのない、口にするのも恥ずべき行いの数々。そんな実を結ぶことのない暗闇の業に加わってはなりません。
 どうか、愚かな者としてではなく賢い者として、細かく気を配って歩きなさい。時をよく用いるのです──いまは悪い時代ですが、だからというて無分別な者とならず、主の御心が奈辺にあるかをよく考えなさい。
 「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(エフェ5:18-20)

 エフェ5:21-33〈妻と夫〉
 夫婦はキリストに対する畏れを持って互いに仕え合いなさい。キリストが教会の頭であり、それゆえに教会がキリストに仕えるのと同じように、妻は頭である夫に仕えなさい。すべての面で妻は夫に仕えるべきなのです。
 夫たちは妻を愛しなさい。キリストが教会を愛し、教会のために自分を与えたのは、洗礼によって教会を清めて聖なる者とし、汚れなき、聖なる、栄光に輝く教会を自分の前に立たせるためでした。夫もそのように、あたかも自分の体の如く妻を愛さなくてはなりません。
 夫婦はキリストの体の一部。それは聖書にある、それゆえに人は両親から離れてその妻と結ばれ、2人は一体となる、ということなのです。
 「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェ5:33)

 あなた方は自分の体の如く妻を愛せ(エフェ5:28)──この文言は一読すぐにはわかりにくいかもしれません。でも、ちょっと考えればわかることだと思います。
 といいますのも、体はその人の活動と生活を支え、維持する最も大事なものだからであります。よく<体は資本>といいますが、換言すれば健康な体があってこそ、人間は正しいことを為し、天に徳を積み、愛と正義と信仰の業を行うことができる。誠、肉体は人生の良きパートナーなのであります。
 夫にとって妻は、体と同じように大切に、気を遣って扱うべき存在であり、同時に最良の、否、唯一無二のパートナーなのだ。パウロはちと遠回しな表現で奥様を愛しなさい(愛し抜きなさい)、大切にしなさい、というておるのです。伴侶を指して「ベターハーフ」と称するのも宜なるかな、と思います。
 それにしても羨ましい話。だってわたくしが今後妻帯する可能性なんて万に一つもないのですから。

 本日の旧約聖書はエフェ5:31と創2:24。



 先日、本ブログの今後について、聖書読書ノート完了後を視野に入れて述べました。今回は現在読書中の〈獄中書簡〉に関して、このあとの予定をお知らせしておきます。
 「エフェソの信徒への手紙」、「フィリピの信徒への手紙」、「コロサイの信徒への手紙」、「フィレモンへの手紙」の4つをまとめて斯く称すのだ、ということは〈エフェソ・前夜〉(第2207日目)で説明致しました。これらが順番に収められていれば、いまこうした文章は書いていません。というのも、「コロサイ」と「フィレモン」の間には2つの「テサロニケの信徒への手紙」と〈牧会書簡〉としてまとめられる2つの「テモテへの手紙」と「テトスへの手紙」があるからです。
 一時、似たような挿話が続く福音書の読書を退屈することなく消化するために、「使徒言行録」や〈4大書簡〉を途中で挟んでゆこうか、と企んだことがありました。結局そんな馬鹿げたことをしなくてよかった、と安堵した次第ですが、今回は少々話が異なります。
 そこで様々悩んだ挙げ句、変則的ではありますが、「コロサイ」読了後は狭間の5つを飛び越して「フィレモン」を読み、まずは〈獄中書簡〉を終わらせてしまうことにしました。そのあとは1番目の「テサロニケ」へ戻って、しれっ、とした顔で順番に読み進めてゆきます。従ってパウロ書簡で最後に読むものは、〈牧会書簡〉の「テトス」になるわけであります。
 今回の報告と判断を読者諸兄が諒としてくださいますように。サンキャー。
 

 有川浩『ストーリーセラー』(新潮社)を今日(昨日ですか)読了。Side:Aも良いが、わたくしは書き下ろしのSide:Bの方が好きです。
 次は『空飛ぶ広報室』か『明日の子供たち』か、或いは『キャロリング』か。迷うなぁ……。ところでド氏の『未成年』はどうなっちゃったんでしょうね。あは!◆

第2211日目 〈エフェソの信徒への手紙第4章&第5章1/2:〈古い生き方を捨てる〉、〈新しい生き方〉他with可処分所得が増えたなら、……〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第4章と第5章1/2です。

 エフェ4:1-16〈キリストの体は一つ〉
 わたしはあなた方へ奨めます。神に招かれたのならばその招きに相応しく歩みなさい。高ぶらず、柔和で、寛容の心を持ってください。愛を以て互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つよう努めるのです。主は1人です。信仰は1つしかなく、洗礼も1つしかありません。すべての父である神は唯一です。神はすべてものの上にあり、すべてのものを通して働きかけ、すべてのものの内にいます。
 聖なる者たちはそれぞれの分に応じて奉仕の業に尽くす。或る者は使徒に、或る者は福音宣教者に、或る者は教師や牧者に、といった具合に。斯くしてわれらは皆神の子に対する知識と信仰に於いて1つのものとなり、成熟した人間となり、満ちあふれるキリストの豊かさになるまで成長するのであります。もう未熟な者ではありません。風評や、風が吹く度毎に変わる教えに玩ばれたり、惑わされたり、迷わされたりしません。愛に根ざして語り、キリストへ向かって成長してゆくのです。
 体全体はキリストによって結ばれて1つとなり、各部位はそれぞれの分に応じて働き、自ら愛によって造り上げられてゆく。

 エフェ4:17-24〈古い生き方を捨てる〉
 あなた方は未だキリスト者にあらざる異邦人と同じような、知性は暗く、無知で頑な、そうして淫蕩な生活を送ってはなりません。あなた方はキリストによって結ばれた神の家族なのです。
 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェ4:22-24)

 エフェ4:25-5:5〈新しい生き方〉
 エフェソの聖なる人々よ。偽りを捨てて、各々が隣人に対して真実を語るようにしなさい。われらは互いに体の一部なのです。
 たとい怒ることがあってとしても、罪を犯してはならない。怒りを持続させてはなりません。それは悪魔に付け入る隙を与えるだけです。
 泥棒はこれまでの所業を改めて、今日から盗みを働いたりしてはなりません。労苦して得た正当な収入のなかから困っている人々へ分け与えなさい。
 誹謗中傷、それに類する悪い言葉を口にしてはならない。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェ4:29)
 神の聖霊を悲しませるな。あなた方は聖霊によって贖いの日に対して保証されているのだから。
 無慈悲、憤り、怒り、喚き、妬み誹りなど<負>の感情、<負>の行いの一切を捨てなさい。互いに親切にしなさい。憐れみの心で接しなさい。赦し合いなさい。
 ──あなたは神に倣う者となれ。キリストのように、愛によって歩む者となれ。自らを貶め、下劣と後ろ指指されるような言動を取るな。
 それよりも、感謝を。あなた方はかれらと違い、キリストと神の国を受け継ぐことができるのだから。

 本章はとても良い章であります。人間如何に生きるべきか、については、西洋に於いてはギリシアやローマの哲学者たちにより、東洋に於いては孔子を筆頭に数多の思想家たちにより、説かれ、書かれ、そうして幾万という人々に読まれてきました。この流れが実に今日に至るまで絶えることなく続いていることは、書店へ行けば一目瞭然でありましょう。
 聖書のなかでも度々それは取り挙げられてきましたが、本章はそのなかでもいちばんわかりやすく、具体的で、実践的であります。これが人間教育の現場に適用されると敬虔な人物ができあがることは簡単に想像できます。
 が、わたくしは本章を読んで牧者の誰彼よりも真っ先に、カール・ヒルティやハマトンを想起したのであります。さほど突飛な連想ではない。新しい生き方として提示されたパウロの意見はその後千数百年にわたって西洋社会で醸造されて熟成し、やがてかれらのような人物を生み出す背骨となったわけですから。ヒルティやハマトンの人物像に想いを巡らし、またその著作に親しんだならば、わたくしのこの発言に違和感を覚えるどころか賛意を示してくださる方はきっと多い、と信じております。

 本日の旧約聖書はエフェ4:8と詩68:19,エフェ4:25とゼカ8:16,エフェ4:26と詩4:5(70人訳)。



 学生時代の読書は文庫が中心で、とてもではないが単行本を買うことなどできなかった。小説にしろ、人文科学の本にしろ、単行本は図書館で借りるか、新刊書店で立ち読みするものと相場が決まっていた。古本屋を数に入れないのは個人的理由によるので、いまは触れない。
 所謂可処分所得が少ないと、書籍購入代に充てられる金額はその分シビアになる。探し歩いて、吟味して、諦めがつけばそのまま暫しの、或いは永遠のお別れ。諦められなければ……清水の舞台から飛び降りる覚悟でレジへ運ぶ。学生時代は古本屋の街で過ごしたので、安価で良書がずいぶんと買えたものだが、内情は変わらない。使える金額が少なければ少ないだけに、……。
 社会人になってどれだけの歳月が流れたことやら知れぬ。今日に至るまでの間、なにを得て、なにを失くしたか、倩考え始めればキリがない。
 が、これだけは確実にいえる──お給料をもらうようになって、単行本を買うことに憂いがなくなった、と。むろん、購入するかどうかの迷いは未だにあるけれど、躊躇することは格段に減ったように思う。衝動買いが増えたとは単行本に関しては思わないが、欲しい、と思ったときに運良くお財布にお札が数枚入っていれば、よし、と内心頷いてレジへ直行できるのは幸せだ。時には序でに何冊かの文庫や単行本も物色したりしてね。
 大人になると単行本の購入が増えるのは自分に限ったことではないし、大人になって単行本の購入に躊躇いがなくなってくるのは勿論可処分所得が増えたことに理由がある。が、ここにもう1つ、わたくしなりに理由を付け加えれば、文庫本にならずに消えてゆく単行本のなかにどれだけ自分好みのものがあるか、そのなかにどれだけ自分が必要としているものがあることか、という事実に気が付いてしまったせいもある。
 小説の場合、時代小説で文庫本化されていない名作は幾らでもあるよ。わたくしは江戸時代の文芸に携わった人々の小説を読むのが好きなのだけれど、一部有名作家の作物を除けば結局単行本のお世話になるより他ない。人文科学の本に至っては逆に文庫で読めるものがどれだけあることやら。
 とまれ、わたくしは今日も今日とて読みたい本を探しに書店へ出向き、読みたい単行本があれば内容吟味の上、レジへ運んで、その後に訪れる一時の読書の桃源郷を愉しむのである。◆

第2210日目 〈エフェソの信徒への手紙第3章:〈異邦人のためのパウロの働き〉&〈キリストの愛を知る〉with相手の目を見て物をいえ。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第3章です。

 エフェ3:1-13〈異邦人のためのパウロの働き〉
 わたしはあなた方異邦人のためにキリスト・イエスの囚人になっています。
 この手紙の冒頭で書いたように、神による秘められた計画の啓示がわたしへもたらされました。キリスト以前は何人も知らされていなかったこの計画は、いまでは“霊”ゆえにキリストの聖なる使徒たち、預言者たちへ啓示されています。つまり、異邦人と雖も福音によってキリストに於いて、約束されていたものをわれらと一緒に受け継ぎ、同じキリストの体に属し、同じ約束に与る者となったわけです。
 神はこの世でもっともつまらなくて卑しい者、つまりわたしパウロに、異邦人への宣教者たることを課しました。と同時に、神のその力を以てわたしは恵みを賜ったのであります。わたしはその恵みにより、キリストの計り知れない富──福音について異邦人へ告げ知らせて回り、万物の創造主である神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が如何にして実現されるのか、それを説き明かして回っています。
 今日、そうした神の知恵や計画は教会によってあまねく知られるようになりました。これは神による永遠の計画が主イエス・キリストによって実現されるためなのです。
 「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェ3:12-13)

 エフェ3:14-21〈キリストの愛を知る〉
 わたしは祈ります、御父の前に跪き。
 どうか御父がその豊かな栄光、その霊により、力を以てあなた方の内なる人を強め、信仰によりあなたの心の内にキリストを住まわせてくれますように。どうかあなた方が御父によって愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となりますように。
 「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェ3:18-19)
 ああ、わたしたちが望んだり思ったりする以上のことをかなえられる神に、栄光が世々限りなくありますように。教会と、キリストによって。アーメン。

 これまでわれらは「ロマ書」から始まって5つのパウロ書簡を読み、いまはこうして6つめのものを読んでいます。
 日本語で読んでいるため表面的な事柄しか窺えないときもありますが、瞥見していずれにも共通して出て来る話題があるのはなんとも興味深いものだと思います。そのうちの1つが、使徒としての、宣教者としての役目を陳述した件であります。むろん、その度毎に小見出しが設けられているわけでありません。本文のなかへ組みこまれているものだってある。
 そこに気附いて改めて読み返してみると、面白い。そうして推理してしまう──なぜパウロはあたかも変奏曲の如く、ここの書簡に於いて自身の役目について書いたのだろうか、と。ここまで読んだ手紙が偶々そうした記述を持つだけで、次に読むものからはそんな意味の文章はまるで出て来ないかもしれない。あり得ることだ。偶々こうした記述を持つ手紙が残って、新約聖書に収められただけなのかもしれない。じゅうぶんあり得ることだ。
 どちらであったにせよ、異邦の信徒たちへ手紙を書き送るにあたって都度パウロは自身に課された役目/職務、自身が使徒として選ばれた正当性を語らずにはいられなかったのでしょう。パウロを偽使徒と称して腐し、その資格を疑い、貶める者らのいたことは「使徒言行録」や「コリントの信徒への手紙 二」、「ガラテヤの信徒への手紙」に明らかでありました。パウロは目に映らぬけれども確実に存在する無理解者、迫害者の存在を念頭に置いて、手紙の筆を執っていたのかもしれませんね。



 相手の目を見て物のいえぬ輩が増えて呆れてしまいます。
 たとえば。相応に目を惹く容貌の女性が本日、行き付けの某飲食店に居ってな。マホでLINEするのが最優先らしく指だけ器用に動かして、注文を取りに来た店員など一瞥もせずにぼそぼそした声で注文。聞き取れなかった店員が今一度聞き返すと逆上してスマホをテーブルに叩きつけて、こっちは忙しいんだよ、一度で聞き取れ馬鹿野郎! とかの女性はぶち切れた。
 哀れなり、テーブル。哀れなり、画面のひび割れたスマホ。後者についてはこうもいえよう、自業自得、と。更に哀れと思うのは、その場に於ける優先事項の判断を誤って、挙げ句に己の評価を自ら落とした件の女性だ。テーブルと店員には同情申しあげるが、スマホと持ち主の女性についてはいささかの情も湧かぬ。蔑むばかりじゃ。ニンジンと干瓢ばかりの駅弁にも劣る。
 が、こんなのは実際に目撃し得た、氷山の一角。会社にもいます、どんなところにもいます、こうした人。場合によっては自分だって知らず行っているかもしれない。が、しつこく付きまとう小売業の店員を無視したいときだけだ、こんな技が通用するのは。せめて人になにかを頼むときは相手の目を見て物をいえ。そんな当たり前のことができないって、いったいどんな育ち方をしたのだろう、と小首を傾げるね。
 社会人としては勿論だけれど、こうしたことって小学生や幼稚園児でも必要でしょ。ということは、物心ついたときには教えられていなければ可笑しいのでないのかな。まぁ、そこまでゆくと親の育て方、という話になるのだろうけれど、それは間違っている。要は本人の問題だろう。
 人として当たり前のことができない人など、どれだけ世間から敬われたり好かれたりしていても、わたくしは信じない。信じられません。どれだけ立派な地位に在って尊敬されているようでもモラル欠落者として世にはびこるぐらいなら、酸いも甘いも知った者として善き業を行って社会の片隅で無名のまま暮らす方が、どれだけ幸せであることか。前者が語る人生は金メッキ、後者が語る人生は本物。そんな分け方もできるかな。◆

第2209日目 〈エフェソの信徒への手紙第2章:〈死から命へ〉&〈キリストにおいて一つとなる〉with本ブログの今後について。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第2章です。

 エフェ2:1-10〈死から命へ〉
 以前までのあなた方は自分の過ちと罪のために死んでいました。肉体は生きていても、霊は死んでいたのです。それというのもあなた方はこれまで、世を支配する者、かの中空を勢力下に置く者といった不従順な者らのなかにある霊に従っていたからです。
 われらもかつてはこうした諸霊に従っていました。われらの神と無縁な生を営む者らに混じって、いつしか罪に彩られた放埒な生活を送っていたのです。が、神はそんなわれらに憐れみをかけて、この上なく愛してくれました。加えてその愛によって、罪ゆえに死者となっていたわれらを、われらの罪を贖って死んで復活したキリストと共に生かし、共に天の王座へ着かせてくれもした。
 「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェ2:7-8)
 これは神の賜物なのですよ。自分の力で為された行いではありません。何人と雖も誇ることがないようにするためです。また、神が前以て準備していた善き業のために行き、歩むためです。

 エフェ2:11-22〈キリストにおいて一つとなる〉
 そのことを心に留めておきなさい。かつてあなた方は異邦人と呼ばれ、割礼を受けていない者と称されました。キリストを知らず、イスラエルの民と関係を持たず、約束を含む契約と無縁で、この世に希望を抱くことなく神を知らぬまま、あなた方は生きてきた。が、もはやそうではない。いまはキリスト・イエスに於いてキリストの血によりそれと近しい者となったのです。
 キリストはわれらが平和。自分の肉に於いて敵意という隔たりの壁を壊し、規則と戒律に縛られて名ばかりとなった律法を棄てました。キリストは十字架を通して両者を1つに結び合わせ、神と和解させた。そうして十字架によって敵意を滅ぼした。
 「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェ2:17-18)
 従ってあなた方はもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者であり、神の家族なのです。いまのあなた方は使徒や預言者を土台としたその上に建てられている。その要、その礎石は勿論、キリスト自身であります。キリストに於いて土台の上のものは成長し、結び合わされて教会または聖なる神殿となる。あなた方も霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 キリストに於いて1つに結びあわされた者は、誰もが神の子、神の家族である。それは即ち自分の内にこそ神は在る、という以前読んだ書簡にてパウロが発信したメッセージへつながります。
 他のパウロ書簡で述べられていたそのことが本章でも再び取り挙げられることで、<点>の状態で頭のなかにあったものが他と関連附けられてゆく。これまで暗くてよく見えなかった<点>の周囲に光が射して、以前に述べられてそのままにしてあった他書簡或いは<点>が案外近くにあって、しかも双方をつなげる線が件の<点>と<点>の間に見えたことで、立体的に物事が把握できてくる実感を、徐々に抱くことができます。読書の継続なくして斯様な経験はありますまい。
 エフェ2:2「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い」はなんだかとってもカッコイイ文言だなぁ、と鼻の下を伸ばし、エフェ2:12「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」はちょっと言い過ぎというかエフェソの信徒の過去についてどうして斯くも傷口に塩を塗りこめるようなことをこの人はしでかすのだろう、と思わず頭を振っちゃったことでありますよ。



 そろそろ本格的に考え出さなくてはならない時期が来たようです。あと半年もすればお別れなのですから。
 病気や怠惰、事故等がない限り本ブログは予定通り、夏の終わり頃に聖書全巻の読書を終えて大尾となります。その後について考えておかなくてはならないな、と、仕事と原稿書きを終えて夜の街を歩きながら、最近頓に思うようになったのであります。
 当初目論んでいた、たとえばトマスやユダの福音書や新約聖書外典、死海文書やナグ・ハマディ文書などの原稿を、すくなくとも現在と同じような形で本ブログに発表することはないでしょう。力尽きたのだろう、といわれては返す言葉がありませんけれど、むしろ疑問を抱いた、という方がより真実に近いかもしれません。
 ……自分は聖書やユダヤ教/キリスト教に精通したいのか。否。約束を果たす、という意味では旧約・旧約続編・新約を読了してここにこうして記事をお披露目しておれば、それだけでいいはず。そこから逸脱してまで、自分は外典や死海文書等の読書に血道をあげたいのか。否。際限なき薄闇の未来は実人生だけでじゅうぶんであります(大袈裟か)。──もっとも、全体の見渡しができていないから及び腰になっているだけかもしれませんが。
 まぁ、聖書にまつわる未来は現実味が薄いためともかくとして、その後も週に1日か2日程度の感覚でこれまで通りの内容雑多なエッセイ、時には小説をお披露目してゆこうかな、ぐらいには思うております。わたくしは中学生の頃から今日まで途切れることなく文章を書いてきた者なので、骨の髄にまで染みついた道楽ともいうべきこの愉しみを放棄することはできません。
 開設当初からの読者はお気附きかもしれませんね。既に『論語』や『コーラン』、『神曲』などの読書ノートブログを書く意思が、わたくしから消え失せていることを。これはこれで相当に骨の折れる作業ですよ。『論語』は学生時代から実に馴染みのある書物ですから、他に較べればまだ良いかもしれませんね。
 聖書の読書が終わるあと半年のうちに、その後の方向性を見出せるようにしておきましょう。あと半年しかない。でもまだ半年もあるのだ。うむぅ……。◆

第2208日目 〈エフェソの信徒への手紙第1章:〈挨拶〉、〈神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる〉&〈パウロの祈り〉with新人さんを育てる、ってこと。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第1章です。

 エフェ1:1-2〈挨拶〉
 キリスト・イエスの使徒パウロからエフェソの聖なる者たち、信徒たちへ。神とキリストからの恵みと平和のあらんことを。

 エフェ1:3-14〈神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる〉
 神はわれらをキリストに於いて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくれました。神はわれらをキリストに於いて、聖なる者、汚れなき者として選んだ。実にキリストによって神の子にしようと、神はわれらを選んでいたのです。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(エフェ1:6)
 われらは御子に於いて罪を赦され、その血によって贖われました。前以てキリストに於いて決められていた神の御心に基づく秘めたる計画を知らせるため、神は豊かな恵みをわれらの上に注いであふれさせ、すべての知恵と理解を与えました。斯くして時は至り、救いの業は完成されて、あらゆるものがキリストの下へ一つにまとめられるのであります。
 われらはキリストに於いて約束されたものの相続人。それは以前からキリストに希望を抱いていたわれらが神の栄光を讃えるためなのです。
 われらは約束された聖霊に証印を押されます。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェ1:14)

 エフェ1:15-23〈パウロの祈り〉
 わたしは祈りの度毎に感謝しています。あなた方が主イエスを愛し、すべての聖なる者たちを愛している、と聞いたからです。
 どうかあなた方が主イエス・キリストの御父である神によって知恵と啓示の霊を与えられ、神を深く知り、心の眼が開かされますように。
 どうかあなた方が主イエス・キリストの御父である神によって、その招きによってどのような希望が与えられ、聖なる者たちが受け継ぐ栄光がどれだけ豊かであるか、あなた方が知ることができますように。
 どうかあなた方が主イエス・キリストの御父である神によって、われら信仰者に対して神の振るう力がどれだけ絶対的で偉大、そうして強大なものであるか、どうかあなた方が悟りますように。
 「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェ1:20-23)

 信徒にとってキリストは<ハブ>の役割を果たし、かつそれはネットワークの中枢にして最上位にある存在だとはっきり示した言葉で、本書簡は開幕します。就中引用もしたエフェ1:20-23はそうしたことを明確に、唯一点の迷いも曇りもなく論述した箇所である、とわたくしは読みました。
 祈りという形で表出されたパウロ思想の要、けっして譲ることのできぬ生命線を見た思いであります。



 新人を育てることはお金もかかり、研修やOJTを担当する者には神経をすり減らせる行為だ。が、その一方でコンプライアンスや社内ルール/マナー、そうして業務知識の確認が人知れずできる点で、またとない自分磨きの場をそれは兼ねている。
 とはいえ、こちらの力不足なのか、相手の資質によるのか、もしくは相乗効果を来したか。どうあがいても底上げして独り立ちさせられることかなわず去る姿を見送らざるを得ないことも、往々にしてある。自分がしてきたことに疑問を抱き、方法や接し方を反省し、しばしの間落ちこんでしまうのはそうしたときだ。あんなに一所懸命教えてもらったのに独り立ちできなくて済みませんでした、と殊勝にいわれたときなど尚更。いや、もしかしたらそれは俺に原因があったのかもしれないし(でも実はそんなこと、微塵も思っていないときもある)。
 が、それだけに、次に入ってくる人たちは、と思う。1人でも多くの人材を早くに独り立ちさせて、先輩たちのなかへ組みこんで実戦を経験してもらえるよう、まずはそちらへ全力を傾注できるようにしたいのである。しかしながら、それにはOJTに集中させてくれるだけの環境が必要だ……。
 会社へ行けば、わがマイ・スウィート・ハニーも何人かいるし、頼りになる仲間が揃っている(極々一部に存在する反対派・中傷派は華麗にネグレクト〔スルーではなく〕)。──これは折々別業務を行うことしばしばなわたくしにとって、孤独と無聊を慰めるなによりの支え。
 クマのプー助、別称:テッド、ときどきパディントンなわたくしは春の花も嵐も踏み越えて、行くさそいつが男の生きる道、と歌ってみたり、叫んでみたり、ぼやいてみたり。
 ──ところでこのエッセイ、コンプライアンスに抵触していないですよね?◆

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