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第2266日目 〈ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース『Hip to be Square…Live!』を聴きました。〉 [日々の思い・独り言]

 ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのライヴ・アルバム『The Oregon Report』が発売されていると知った過日、端緒から購入検討に至るまでの経緯を本ブログにて、やや騒ぎ気味に書いた記憶があります。あのあと、オレゴン州ポートランドで1986年12月18日に行われたコンサートを収めた『Hip to be Square…Live!』をタワーレコード・オンラインにて購入しました。
 どうして『The Oregon Report』でなく、『Hip to be Square…Live!』を買ったのか、ですって? 理由は極めて単純。『Hip to be Square…Live!』の詳細ページに「在庫僅少」の文字が躍っていたからに他なりません。今回のように欲しい音盤が2つのレーベルから発売されていて、どちらを買うか迷ったらまずは在庫の少ない方から手を着けるのは、至極当然の消費活動であると思います。
 それはともかく、仕事のあとコンビニで受け取って帰宅後さっそく聴いてみました。そうして興奮して雄叫びをあげた……午前3時に! 信憑性については読者諸兄に判断を委ねますが、興奮して当たり前じゃないですか。雄叫びあげたって仕様がないじゃん。だってLPやCDの収録トラックの一部として断片的にしか聴くことかなわなかった1980年代後半つまり全盛期のHLNのライヴ、しかも1公演の(おそらく)全セットリストが音盤1枚に収められて聴けるなんて、夢のような出来事としか言い様がないのですよ、モナミ。そうなんだ、これが10代の頃から聴き馴染んで血肉としてきたHLNの音楽なんだ……。こんな懐かしくも素敵なアルバムとこの年齢になって出会えるなんて、うれしいよ! このまま昇天してもいいぐらい? いや、それはご免被る。
 いまは再生手段がないけれど、かれらのライヴを録音したカセットテープや前述のLP を探し出してみなくては、と思います。そうして自分の耳で記憶を確かめるのだ。『Hip to be Square…Live!』を聴いていると、むかしまったく同じ演奏を聴いてる気がしてならんのです。
 本盤に耳を傾けていると、そんな既視感がしばしば起こったのであります。曲の途中のヒューイの掛け声。「I want a new drag」でのメンバー紹介の際、一瞬わずかに音量が下がる箇所のある点。「The Power of Love」前のヒューイのMC。「The Heart of Rock’n’Roll」の<ポートランド>ヴァージョン、その他諸々が、どうにもむかしの記憶をしてやまないのです。だからわたくしは記憶を検証しなくてはならないのだ。
 毎日ろくすっぽ勉強もせずに小説を書きながら聴いたヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース。ターンテーブルの上に載せては針をおろして溝がすり切れるぐらいまで聴いたLPやEP、或いはテープが伸びるまで再生したFM放送からエアチェックしたカセットテープを引っ張り出して、このポートランド公演と同じ音源の有無を調べるのだ。
 この年、この日のポートランド公演を音源に採用してLPやEP、後にはCDで聴けるようになっているなら、以上のようなデジャ・ヴも納得なのだけれど……。きっと世間はそう上手くできていないだろう。
 もっともかれらは元々自分たちのライヴに目新しさを導入することに懐疑的な様子で、ツアー中の演奏曲目も大きく入れ替えたりしないし、曲に大幅なアレンジを施して別物かと思わせるような奇抜さとは無縁でありたい旨発言しているのを、1980年代か1990年代前半の雑誌のインタヴューで読んだ覚えがあります。ライヴではレコードとあまり変わらないスタイルで演奏することにしているんだ、と、やはり雑誌か洋楽番組のインタヴューで語っていたのも覚えています。
 曰く、──お客さんはラジオやレコードで自分たちの歌を知ってコンサート会場に来てくれる、ラジオやレコードで聴いたのと同じ音楽がコンサート会場でも聴けることを期待して足を運んでくれるんだ、だから印象をがらりと変えてしまうようなアレンジを施したくはないんだ、と。
 これはバンド・メンバーではなくヒューイ本人の弁だが、総じてバンドの意思であると考えて差し支えないでしょう。年間何百ものライヴをこなして実力を磨き、パフォーマンス技術を向上させてきたバンドならではの見解といえるのではないでしょうか。もっとも、それゆえに全盛期のHLNが聴かせるライヴ録音についてはそれが「いつ」「どこで」行われたものなのか、データ欠如の状態では混乱必至となるわけですが、その原因(?)の一端が上述したバンドのスタイルに起因することは申しあげるまでもない、と思います。
 しかし、やはり10代の頃から聴いて親近してきた音楽とは良いものです。自然と魂が躍動するのを抑えられなくなる一方で、妙な安心感に包まれている気持ちにもなるのですから。些細なところではあっても、そんな意味でもHLNはわたくしにとって信頼度100%のアメリカン・ロック・バンド、しかも殆ど唯一無二のバンドといえるのであります。

 筆を擱く前にちょっと余談。
 実はこれまでジャンルにかかわらず所謂ブートレグには興味がありませんでした。特定のアーティストのブートレグ漁りに血道をあげて狂熱に浮かされたことがなかった、という意味です。
 な・の・に・っ!
 HLNの本盤を入手、繰り返し聴き耽ったことが眠っていた収集癖に火をつけたようであります。インターネットで探してみたらブートレグ専門店が何軒も出て来たのですが、或る専門店ではヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのライヴ・アルバムが初期から数年前のものまで何枚も並んでおり、いまも購入可能である様子。HLNが現役である以上、ゆるやかながら今後も点数は増えてゆくと想像されます(そうであってほしい、という願望込み)。
 まぁ、すこしずつ買い集めてゆきますよ。1年後には「興味がなかった」発言など忘れたかのように「ブートレグってイイっすね!」とか騒いでいるかもしれません。呵々。

 さあ、あと何回か聴いたら同じ1986年12月のライヴを収めた『The Oregon Report』を買うとしようかな。検証じゃ、検証じゃ。◆

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第2265日目 〈テトスへの手紙第3章:〈善い行いの勧め〉&〈結びの言葉〉with「テト」読了の挨拶、並びに八つ当たりしたいぐらい体のあちこちが痛いこと。〉 [テトスへの手紙]

 テトスへの手紙第3章です。

 テト3:1-11〈善い行いの勧め〉
 人々に伝えなさい。そうしてかれらに思い起こさせなさい。支配者や権威者に服してこれに従い、善き業を行うことができるよう備えておくことを。誰をも誹らず、誰とも争わず、誰に対しても寛容で、すべての人に心から優しく接しなくてはならないことを。
 かつてわれらは悪でした。が、いまや神の憐れみによって救われています。救い主たる神の慈しみと人間への愛が現されたからです。言い添えればこの救いは、聖霊によって新しく生まれ、新たに作り替えられた洗いを通して実現したのであります。
 「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テト3:6-7)
 この言葉は真実です。あなたが声高らかにこのことを人々へ主張してくれるのを希望します。そうすればきっと人々は神をより深く畏れ、ますます善い業、善い行いに励むようになるでしょう。これはとても良いことで、有益なことです。
 愚かな議論や系図の詮索にあたらうつつを抜かさぬように。「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。」(テト3:10-11)

 テト3:12-15〈結びの言葉〉
 わたしはあなたの交代要員としてアルテマスかティキコをそちらへ派遣します。かれらのどちらかがクレタ島に着いたら、あなたはニコポリスにいるわたしへ会いに来てください。冬の間はここで過ごすことにしましたので。
 そちらにいる法律家ゼナスとアポロによくしてやってください。そうして然る後に出発させてください。
 わたしの仲間たちも生活必需品を賄うため、様々な善き行いに励まなくてはならない、と思うています。それは言い換えれば、実を結ばぬ者とならないようにするためであります。
 わたしと共にいる人々があなたに宜しく、というています。
 そちらにいる、われらを愛する信仰の友人たちに宜しくお伝えください。
 恵みがあなた方一同と共にあらんことを。

 アルテマスと法律家ゼナスは本章にのみ名が載り、ティキコはパウロ随伴者として使20:4やエフェ6:21-22他に、アポロはおそらく同一人と思しき者が使18:24やコリ3:1他に名前が載ります。
 良い行いに励んで生活必需品を賄うとは即ち、働かざる者食うべからず、とキリスト者であるかれらも実践せざるを得なかった、ということ。まことこの世は世知辛い、と申せましょうか。



 本日を以て「テトスへの手紙」読了となります。そうして「ローマの信徒への手紙」から始まった〈パウロ書簡〉全編読了の日でもあります。約半年の長い旅を無事に終わらせることができたこと、安堵しております。すべては今日まで支えてくださった皆様のお陰、読者諸兄へ、サンキー・サイ。
 いまは一気に肩から力が抜けたような感覚を味わっていますが、本ブログはまだまだ完結に時間を要す。途中休みなしで駆け抜ければ賞味2ヶ月で完読となるのですが、そうそう無理なスケジュールを立てて実現するはずのないことは、もはや読者諸兄は一人残らずお分かりのことでしょう。えへ。
 しかしながら〈パウロ書簡〉という1つのヤマ場を乗り切ったことは紛れもない事実。わたくしはこれにまずは満ち足りた気分に酔い痴れ、次の手紙の読書を始めるまでしばしの休息を経験しようと考えています。が、これはあくまで心の話であって肉体の話ではありません。なにかに八つ当たりしたいぐらいに腰が痛み、肩が痛くてたまらない──整体師のお世話になれ、とかリラクゼーション施設に行ってこい、とかいろいろご提案いただくのですが、その場だけ良うなっても意味がないのです。本ブログが聖書読書ノートとして機能し続ける限り、肉体の悲鳴が静まる日は訪れないのであります。なんと因果な営みに手を突っこんでしまったものよ、と天を仰いで「嗚呼」と嗟嘆したい気分なのだ。
 さりながら、繰り返しになるが「テトスへの手紙」は終わり、〈パウロ書簡〉は終わった。明日からはエッセイ執筆と読書再開に向けた準備の期間に入ります。かつて〈パウロ書簡〉の一とされ今日ではそこから除外された「ヘブライ人への手紙」そうして〈公同書簡〉の読書はなるべく早くから始めたいのですが、5月はいろいろと、あちこちへ動き回らねばならぬことが多々ありまして、正直、来月中の読書再開は難しいだろうなぁ、といまから予感しています。但し、そうであっても本ブログはエッセイその他を日々お披露目して継続されますので、読者諸兄はどうぞご安心を(ん?)。
 それでは再開の日、再開の時まで、ごきげんよう。◆

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第2264日目 〈テトスへの手紙第1章&第2章:〈挨拶〉、〈クレタでのテトスの仕事〉他with地中海を望む国々を観光してまわりたい。〉 [テトスへの手紙]

 テトスへの手紙第1章と第2章です。

 テト1:1−4〈挨拶〉
 使徒パウロからまことの信仰の子テトスへ。父なる神と救い主キリストからの恵みと平和があなたにありますように。
 「わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。」(テト1:1−3)

 テト1:5−16〈クレタでのテトスの仕事〉
 あなたをクレタ島に残したのは、わたしが完成させられなかった仕事を継いでもらうためでした。そうして、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。長老は何事に於いても非の打ち所がなく、公人としても家庭人としても立派な人でなくてはなりません。善を愛し、分別あって清く正しく自らを節制することができる人、教えにかなった信頼すべき言葉を守れる人でなくてはなりません。なぜならば、健全な教えに従って他人に奨めたり、反対者の主張を論破するなどのことができない人は、その地位と肩書きと職業に相応しくないからです。
 この世には信じられない程たくさんの不従順な者、欺いたり騙したりする者、それに類する者どもが多くいます。あなたはかれらを沈黙させなくてはなりません。「彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。」(テト1:11)
 むかしむかし、クレタ島出身の詩人にして哲学者エピメニデスがいみじくもいうたように、クレタ人は大嘘つきで悪党、大飯喰らいであります。この言葉は正しい。自分のまわりを見てみてください、頷くところが多いのではないでしょうか。──かれらを厳しく罰しなさい。信心を健全に保たせなさい。ユダヤ人の作り話や真理に背を向けた者らの言葉を鵜呑みにして信じないようにさせなさい。
 清い人にはすべてが清いが、そうでない者らは知性も良心も汚れています。かれらはその行いを以て神を否定しています。かれらを嫌悪すべき人間というてなんの誤りや憚りがありましょうか。かれらは反抗的で、一切の善い業については失格者としか言い様がありません。

 テト2:1−15〈健全な教え〉
 あなたは教師となって人々に、健全な教えにかなうことを語りなさい。
 年老いた男には、節制すること、品位を保ち、分別があり、信仰と忍耐と愛とで以て健全であるように奨めなさい。
 年老いた女には、聖なる務めを果たす者に相応しく振る舞い、善いことを教える者となるように奨めなさい。彼女らが若い女性たちを諭し、家庭を大事にし、善良であるように奨めてくれるることでしょう。
 若い男には、何事に於いても思慮深く行動するよう奨めなさい。
 「教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。」(テト2:7−8)
 奴隷は己の主人に忠実となり、善良であるように。それは神の教えをあらゆる点で輝かせることになるからです。
 ──。
 すべての人々に、救いをもたらす神の恵みが訪れました。「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」(テト2:12−13)
 キリストはわれらをあらゆる罪から、不法から贖うために自身をささげました。それは善い行いに熱心な民を自分の民として清めるためでもありました。
 テトスよ、じゅうぶんな権威を以てこれらのことを語りなさい。奨めなさい、戒めなさい。誰にも侮られないようにしなさい。

 まず、本書簡の際立って目を引くのは、挨拶に使徒としての使命についてパウロが縷々述べている点でありましょう。引用したテト1:1−3がそれです。これは特異だ。もしかすると、この点が1つの理由となって本書簡がパウロ没後、その弟子によって書かれたとする説の典拠なのかもしれません
 信仰から離れかけた/離れようとしている/離れた人々を再びキリストの民として立ち帰らせるためにはどのようにしたらよいか。テトスに教師としての心構えと助言をパウロは授けます。
 しかしこれらの事柄は実社会にて「教える」立場に在る人々にも適用できるのであります。ここで語られる内容は一枚一枚皮を剥いでゆけば、本質として残る部分は頗る普遍的であります。教壇に立つ人だけが教える立場にあるわけではありません。様々な職場に置いて研修やOJTはあると思いますが、その担当者も含めて教える立場にある人たちには、ここで読むパウロの教育指南の言葉の数々はわずかなりとも響くところがあるのではないでしょうか。
 さて、テトスがパウロから引き継いで活動の場としたクレタ島とはどのような場所だったでしょうか。そこは前18世紀にクレタ(ミノア)文明の発祥地、そうしてギリシア文明、地中海文明、延いては西洋文明の源となった場所であります。クレタ島なくして今日われらもその恩恵を享受することしばしばな西洋文明は、今日知る形では存在しなかったかもしれない──それ程人類の歴史に於いて最重要と目して疑いない場所なのでした。
 古代社会を舞台にしてクレタ島を一躍有名にするのはギリシア神話であります。最高神ゼウスの生誕地として、テーセウスによる怪物ミノタウロス退治の舞台として。前者は世にいうオリンポス12神が誕生するきっかけとなった挿話であり、後者は当地に建てられたクノッソス宮殿の迷宮を同時に知らしめました。
 後者についてちょっと触れます。クレタ島の王ミノスと王妃パジパエの間に生まれた牛頭人身のミノタウロスは父が名工ダイダロスに命じて造らせたクノッソス宮殿に幽閉されました。ミノタウロスにはいけにえがささげられるのが常でしたが、或る年、アテネから英雄と讃えられるテーセウスが献呈されてきました。かれは王の娘アリアドネに見込まれて宮殿の迷宮に潜むミノタウロスを退治、そうしてかれらは結婚してクレタ島を出発しました。が、どういうわけかテーセウスはアリアドネを、その後立ち寄ったナクソス島へ置き去りにしてしまいます。アリアドネはその地にやって来たディオニュソス神(バッカス神)と結ばれるのですが、これを題材にしたのがリヒャルト・シュトラウス作曲、フーゴー・フォン・ホフマンスタール台本の歌劇《ナクソス島のアリアドネ》(のオペラ部分)であります。
 いまでは日本国内にもギリシア料理を食べさせる店が多くなってきましたけれど、わたくしは行き付けのお店が出す、クレタ島の特産の1つであるオリーブオイルをたっぷり使ったカタツムリ炒めとウサギ肉のトマトソース煮を殊の外好みます。子供の頃ウサギを飼っていたことから後者の料理にはいまでも心理的抵抗を覚えますが、舌と腹はその美味からわたくしを遠ざけるのを許さないのであります……。嗚呼!?



 聖書という読書対象の性質上、イスラエルやトルコ/小アジア、そうしてイタリアやギリシアの観光ガイドや雑誌に手を伸ばすことが多いのであります。
 ずっと以前にも言葉少なに書いたことですが、こうした作業を細々行っていると、ふとした拍子に旅心がついて財布とパスポート片手にふらりと空港へ足が向く誘惑を押さえるのに必死です。別にいいんだけれどね、ふらりと海外へ行ってしまっても。そう、仕事さえなければ憂いなく、躊躇いなく──!
 でもまさか聖書を読んで海外への旅情を誘われるとは思わなかったなぁ。地中海周辺の国には行ったことがないからだと思うけれど、それにしても……という気持ちであります。連れの心当たりはないが来年あたり、地中海周辺をのんびり旅してみようかしらん。◆

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第2263日目 〈「テトスへの手紙」前夜〉 [テトスへの手紙]

 パウロは最初のローマ監禁から釈放された後、故郷タルソスやシリアのカイサリアがある小アジア−シリア・パレスティナへ戻ったらしいのです。その途次立ち寄ったクレタ島でも宣教に努めたが、達成を見届けぬうちにそこを離れざるを得なかった様子。そこでパウロは随伴者としてかれに従っていたテトスをクレタ島に残して後事を託しました。テトスはといえばパウロの意をよく汲み、キリスト者の集団を組織して教会を建て、島内の町村に在って信徒たちの束ね役となる長老たちを育成していたようであります。クレタ島についてはまた明日、「テトスへの手紙」第1章にて触れましょう。
 わたくしは以前、「一テモ」前夜にてパウロが最初のローマ監禁から釈放されたのは63年頃とされる、と書きました。本書簡がその後に書かれたのは勿論ですけれど、具体的に時期を特定するのは難しそう。最晩年、67年頃の作物とされる手紙「テモテへの手紙 二」の数ヶ月前までには書かれていたであろう、というが精々であります。せめてパウロがアカイア州西部沿岸の町ニコポリスに滞在していた時期の手掛かりがあればいいのですが……。
 本書簡の執筆された場所としては、テトスに来訪を所望し、冬の間過ごすと報告しているこのニコポリスをまず候補とするのが自然なようであります。他に候補地として挙げられる場所もありましょうが、それでもニコポリスを論外と退けることはできない、と思います。
 「テトスへの手紙」は全3章46節から成る短い手紙で、〈パウロ書簡〉最後から2番目のもの。ここでパウロがテトスに与えた助言は、信仰に反対の立場を取る者たちへの対処法であります。そうして、それと対になるかのように、語るべき健全な教えと善行の奨めを説いております。分量のせいもありましょうが、一読して躓く点のない、首肯するところの多い手紙といえましょう。
 最後に、本書簡を読んでわたくしがいちばん感銘を受け、心に響いた言葉を。曰く、──
 「あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。」(テト2:7-8)
 それでは明日から1日1章の原則で、「テトスへの手紙」を読んでゆきましょう。◆

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第2262日目 〈テモテへの手紙・二第3章2/2&第4章:〈最後の勧め〉、〈結びの言葉〉他with「テモテへの手紙 二」読了の挨拶〉 [テモテへの手紙 二]

 テモテへの手紙・二第3章2/2と第4章です。

 二テモ3:10-4:8〈最後の勧め〉
 あなたはわたしに倣って、どんな迫害にも屈しなかった。キリストの福音を宣べ伝える者は、また、キリストに結ばれて信心深く生きようとする者は、皆、迫害を受けます。が、主はわれらを迫害から救い出してくれます。
 あなたは自分が学んで確信したことから離れてはならない。あなたは幼い日から読んできた聖書から、それを学びました。聖書はキリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵をあなたへ与えてくれます。聖書はすべての神の霊の導きの下に書かれました。聖書は人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえで有益です。これらのことによって神に仕える人は様々な善き業を行う準備が整うのです。
 わたしパウロは神と主の御前でその国の出現を思いつつ、あなたに厳と命じます。これはあなたへの最後の奨めでもあります。即ち、──
 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(二テモ4:2-5)
 ところで、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(二テモ4:6-8)
 義の栄冠。それは正しい審判者である主が、わたしだけでなく主の日の訪れを待ち望むすべての人々に授けられるのであります。

 二テモ4:9-18〈個人的指示〉
 デマスはこの世を愛することに執着し、わたしから離れてゆきました。
 クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに、ティキコはエフェソに行っています。
 わたしの傍にはルカがいるだけです。テモテよ、わたしによく仕えてくれていたマルコをこちらへ寄越してくれませんか。
 あなたもわたしのところへ来てください。
 その際はトロアスのカルポのところに忘れてきた外套と、書物と羊皮紙を持ってきてください。
 それともう1つ。わたしから離れて真の信仰を失った後も苦しめてくる銅細工師アレクサンドロに注意するように。いつの日か、主によりかれは報復を被ることでしょう。
 「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(二テモ4:16-18)

 二テモ4:19-22〈結びの言葉〉
 テモテよ、冬になる前にこちらへ来てください。
 プリスカとアキラ夫妻、オネシフィロの家族に宜しくお伝えください。
 エウブロ、プデンス、リノス、クラウディア、その他こちらにいるすべての兄弟たちからあなたに宜しくとのこと。
 ──主があなたの霊と共にいてくれますように。恵みがあなたと共にありますように。

 テトスが行った先とされているダルマティアについては次回、〈「テトスへの手紙」前夜〉にて述べることに致しましょう。
 二テモ3:12「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人々は皆、迫害を受けます」てふ文言に触れて、わたくしは思わず、どきっ、としました。単純な言葉のように思えるかもしれません。が、これはパウロでないと発言できないものであります。わたくしが「パウロ名言集」など編む機会あれば、この文言はいの一番に候補に挙げて然るべき位置に配列します。
 これは迫害する側と迫害される側、両方を経験した人物、つまりパウロだからこそ吐き出せた述懐であります。所謂名言としては二流かもしれませんが、その背景に血が流れる程の痛みと悲しみが塗りこまれていることを感じさせる言葉は、「使徒言行録」や〈パウロ書簡〉にそう多くはないと思います。いまのわたくしにはパウロの気持ちがよくわかります。



 本日を以て「テモテへの手紙 二」が読了となります。「一テモ」から続けての読書となったため、読書と執筆に少々惰性の気味がありましたが、どうにかこうにかここへ辿り着くことができました。誰か1人でも本ブログを楽しみにしてくれているのかもしれない、と考えると、疲れた脳味噌と体に鞭打ってでも更新作業に取り掛かる責務を感じます。でも、そうした<枷>がないとこの怠け者は動きませんから(呵々)。
 が、しかしわたくしがこうまでするのはあくまで本ブログを純粋な楽しみとしてくれている人たちへの感謝ゆえであり、本ブログに書かれたことを材料にしてわたくしを誹謗中傷したり攻撃したりするネタを仕入れようなんて浅ましい魂胆の持ち主のためでないことは、改めてここに表明しておく必要がありますね。後者について胸に覚えのある方は3人程いらっしゃるでしょう。幸いはかれらと直接関わりを持たずに済んでいること。いまのわたくしにはパウロの気持ちがよくわかりますよ。
 まぁ、そんな連衆は蚊帳の外へ追いやるとして、新旧取り混ぜて読者諸兄よ、いつも見守ってくださり、ありがとうございます。わたくしはあなた方のために書いてきた。そうして<悠久の希望>なるモナミよ、わたくしはあなたのために書いてきた。これからもそれは変わらない。
 明日からは「テトスへの手紙」を読みます。◆

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第2261日目 〈テモテへの手紙・二第2章&第3章1/2:〈適格者と認められた働き手〉、〈終わりの時の人々の有り様〉他withこのあと、なに読もうかな?〉 [テモテへの手紙 二]

 テモテへの手紙・二第2章と第3章1/2です。

 二テモ2:1-13〈キリスト・イエスの兵士として〉
 テモテよ、あなたはキリスト・イエスに於ける恵みによって強くなりなさい。多くの証人を前にして、わたしから聞いたことを他の人々へ伝えることのできる忠実な者たちへ委ねなさい。キリストの兵士となってわたしと共に多くのことについて忍びなさい。
 イエス・キリストを思い起こしなさい。わたしはこの人に由来する福音ゆえに現在、鎖につながれています。「しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」(二テモ2:9-10)

 二テモ2:14-26〈適格者と認められた働き手〉
 テモテよ、あなたは適格者──キリストの真実なる言葉を伝えるに相応しい者となりなさい。適格者と認められ、神の御前に立つ者、恥じるところなき働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるよう努めなさい。
 俗悪な無駄話を避けなさい。妄言を避けなさい。鵜呑みにするな、信じるな。それらは人の口から口へ連鎖し、際限なく広まってゆきます。残念ながら、ヒメナイとフィレトはそうした話を広めるのに熱心な連衆の1人でした。かれらは復活はもう果たされた、と触れて回り、或る人々の信仰を覆しています。
 「しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。」(二テモ2:19)
 わたしはこう奨めます。若い頃からの情欲を退け、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。諍いの原因になるような、愚かで無知蒙昧な議論を避けなさい。
 「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」(二テモ2:24-26)

 二テモ3:1-9〈終わりの時の人々の有り様〉
 ですがテモテよ、終焉の時が来たら人々は乱れます。自己中心的になり、利害第一に考え、善に背いて悪と結び、快楽に耽り、信心を装いながら実際は信心の力を否定する。努めてかれらのような輩を避けなさい。かれらは他人の家に入りこみ、愚かで罪に満ちた女どもとつながり淫行に走る。
 このような連衆はけっして真理の認識に辿り着くことができないでしょう。かつてモーセに逆らったヤンネとヤンブレがよい例です。「彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。」(二テモ3:8)
 が、こうしたことが今後蔓延ることはないでしょう。ヤンネとヤンブレがそうであったように、多くの人々の前でかれらの無知が暴露される(白日の下に曝される)からです。

 精神の腐った人間で、信仰の失格者というのは、全地に住まう人間の過半を指す言葉であろうと感じられます。だからこそ、適格者として相応しい人物となってキリストの福音を、恥じることなく、怯むことなく伝えてゆけ、というのでありましょう。
 二テモ3:8にはモーセに逆らった者としてヤンネとヤンブレの名が出る。が、モーセ五書はおろか旧約聖書にかれらの名は出ません。一説では出7:11エジプト(ファラオ)の魔術師がこのヤンネ(騒ぐ)とヤンブレ(泡の癒やし手)であるといいます。

 本日の旧約聖書は二テモ2:19と民16:5。



 読書生活はただいま<有川浩祭り>絶賛開催中なのだが、これが終わったらどうしようか、と考えこんでいます。いま読んでいる『キャロリング』のあとは『植物図鑑』しかない用意がないものなぁ。しかも文庫版を入手したのを契機とした再読だし。次は誰の小説を読もうかな、と思案に暮れる、悩ましくも楽しい時期に差しかかっているのです。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの最後の短編集は勿論読むけど、それは別としてですよ、うん。
 さて……。現時点で確定しているのは、ド氏の『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』はしばらく読むのを控えよう、ということ。なんだか最近ド氏を読むとろくでもない出来事が出来するんだよね。双方に因果関係はないと思いたいが、それでも用心を期すにしくはない。
 作家読みの可能性があるならば、南木佳士と葉室麟ぐらいかな。実はこの2人、未読作が溜まっている好きな日本人作家の双璧なのである(なにやら矛盾した物言いだけれど)。他に誰がいるだろう。村上春樹の紀行とエッセイは読むものが一時的にもなくなったときのため取っておいてあるのだが、これらに手を着けるときがそろそろ近付いているとは、あまり思いたくないのだがなぁ。
 読もうと思うている小説はある。しかしそれらは作家買いしたものではなく、あくまで書店で何気なく手にしたら気に入ってしまった、いわば自分的単発作家だ。むろん、その1冊が新たな作家買いのきっかけになるかもしれないけれど、それはさておく。
 それともこれは、未読の太宰作品を消化していよいよスティーヴン・キングの世界へ帰還をせよ、という啓示なのかしらん。勿論、それはいちばん幸福な選択肢である。呵々。◆

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第2260日目 〈テモテへの手紙・二第1章:〈挨拶〉&〈ゆだねられているものを守る〉withいつの日か、書きたいもの。〉 [テモテへの手紙 二]

 テモテへの手紙・二第1章です。

 二テモ1:1-2〈挨拶〉
 使徒パウロから愛する霊による子テモテへ。キリスト・イエスの命の約束を宣べ伝えるために、この手紙を送ります。父なる神と主により、キリストの恵みと憐れみと平和がありますように。

 二テモ2:3-18〈ゆだねられているものを守る〉
 わたしはいつも祈りのなかであなたを思い起こしています。あなたの抱く純真な信仰も併せて思い起こしています。その信仰はあなたの祖母ロイスに宿り、あなたの母エウニケに宿りました。あなたにも宿っていることでしょう、2人に宿ったのと同じ信仰が。
 その信仰ゆえ、あなたに洗礼を施したときあなたへ与えられた神の賜物を再び燃えあがらせることを奨めます。
 神がわれらに与えてくれたのは、臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊。為にあなたはわたしが主の囚人であるのを恥じてはならない。むしろ神の力を支えとし、福音のためにわたしと共にこの苦しみを忍んでください。
 キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくれました。わたしはこの福音のために宣教者となり、教師となり、使徒となった。それゆえに非道い苦しみを味わったのですが、特段それを恥じてはいません。というのも、──
 「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(二テモ1:12-14)
 ──テモテ、あなたの知っているようにアジア州の人たちはわたしから離れてゆきました。そのなかにはフィゲロとヘルモゲネスもいます。そんななか、エフェソでわたしにとてもよく仕えてくれたオネシフォロは離れるどころか、わたしをしばしば励ましてくれました。また、わたしが囚人の身であることを恥ともせず、ローマに到着したのを知ると方々を捜し歩いて会いに来てくれたのでした。ああ、どうか主の日にオネシフィロが主により憐れみを授けられますように。そうして今日、主がかれの家族を憐れんでくれますように。

 他の書物、書簡には名前の出ない、出たとしても記憶を刺激されることのないぐらいの人物が幾人も出てまいります。内、例外と申せるのはテモテの母エウニケでありましょう。なんとなくギリシア風の名前ですが、彼女は使16:1に出る「信者のユダヤ婦人」であります。しばしば2つの名前を持つ人物が新約聖書には登場しますが、テモテの母も同じだったのかもしれません。もう1つ、ユダヤ人としての、それらしい名前を持っていたのかもしれない、ということです。
 テモテの祖母ロイス、アジア州の民でパウロから離れた者として特記されるフィゲロ、ヘルモゲネス。かれらがどのような人物であったのか、手掛かりは欠片1つも提供されません。
 が、やはりここにしか名前は出ませんが、オネシフィロについてはパウロとの関わりなど或る程度まで想像することができます。かれはパウロが宣教旅行の途次立ち寄ったエフェソにて献身的に尽くし、1回目の監禁か2回目の監禁かわからないけれど、囚われのパウロを熱心に捜して見附け出した程、パウロを思うた人でありました。さりながら本書簡が執筆された頃、オネシフィロはこの世の人ではなかった様子であります。といいますのも、パウロは本書簡の結びの一節のなかで、オネシフィロの家族に宜しく伝えてほしい、と書いているからであります。事実かどうか不明ですが、そんな憶測の余地を残す文言であることに違いはない、と思います。
 引用したテモテ1:13-14については既に〈前夜〉にて述べました。



 いつの日か、「人間の悪意について」書いてみたいと思います。これは昨年の夏ぐらいからずっと意識に上っては消え、を繰り返して執拗にわたくしのなかで澱のように存在しているテーマであります。
 倒れる前に、命運尽きる前に必ず……。◆

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第2259日目 〈「テモテへの手紙 二」前夜〉 [テモテへの手紙 二]

 64年、帝都ローマは大火に見舞われました。時の皇帝ネロはその様子を皇宮のテラスに立って眺めながら、トロイア陥落を詠った詩を吟じていた、と伝えられています。帝都を焼き尽くした大火がどのようにして出たのか、出火の原因は? 故意によるものなら首謀者は誰か? いったいなんの目的で? 真相は歴史のカーテンのずっと奥に隠されていて、定かではありません。諸説ある、というのが精々であります。
 その様々の説のなかに、そうして有力視されてほぼ定見となっているものに、首謀者ネロ説があります。理由はわかりませんが、建築マニアだったそうですから、旧来のローマの街並みを一掃して自分の理想とする帝都ローマを再構築したかったのかもしれません。ただわれらがこの大火について確実に知るのは、これが皇帝への従順を潔しとしない、当時異端視されていたキリスト教を信奉する人々によって引き起こされた、一種の謀反であったこと、そうして、これを契機に史上初のキリスト者の弾圧が開始されたことであります。いわばキリスト者はスケープゴートとされたのでありました。
 パウロは最晩年をローマにて囚人として過ごした。やがて殉教へつながる監禁なわけですが、かれの死は67年頃とされるのが今日の大勢であります。パウロがいつ頃捕まって2回目のローマ監禁生活を送るようになったのか、報告する資料はありません。
 が、「テモテへの手紙 二」はまさにこの(2回目の)監禁中に書かれたのであります。二テモ2:9や同4:6などがそれを示唆しております。従って本書簡はパウロの死の直前、66-67年頃、ローマにて書かれた、と考えるべきでありましょう。おそらくは本書簡が〈パウロ書簡〉のなかで最も新しい時期に書かれた手紙、言い換えれば現存する/新約聖書に収められる〈パウロ書簡〉のうち最後の手紙なのでありましょう。
 なおパウロ殉教の前年、即ち66年、シリア・パレスティナ地方のユダヤ人がローマからの独立を叫んで一斉蜂起しました。これはすぐさまローマ帝国との戦争にまで発展し、ユダヤ人は相応に奮闘したようですが、圧倒的武力を擁すローマ軍を打ち倒せるはずもなく、善戦空しく70年にはエルサレムが、73年には最後の砦であったマサダが、それぞれ陥落したことで独立戦争はユダヤ側の敗北で幕を閉じました。以後、ユダヤ人は、シリア・パレスティナ地方は、ローマのより厳しい監督を受けることになります。これが第一次ユダヤ戦争であります。「テモテへの手紙 二」が書かれたパウロの最晩年は、このような時代であったのです……。
 この手紙が書かれた当時、パウロは孤独でありました。監禁されているから当たり前ではないか、という勿れ。ローマ市民の肩書きが効いたのか、そうした身であっても傍らにあって世話してくれる人物はいたようです。パウロ自身述べるところによれば、それはルカでした。「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を著した、とされる医者ルカでした。が、他の兄弟たちはかれの傍にはいなかった。ローマ帝国によるキリスト教/キリスト者弾圧に由来するのか断定はできませんが、結果としてそれを理由に離れてしまった人は多くいた、と推測されます。ルカ以外に侍る者のないパウロが、もう1人自分の傍にいてほしい、と願ったのはマルコでありました。これは「マルコによる福音書」の著者と伝えられるマルコだったでしょうか。そうしてかつての宣教旅行にて袂を分かち、バルナバと一緒にキプロス宣教へ赴いたマルコであったでしょうか。
 パウロ最後の手紙というフィルターが掛かるとすべてがそんな風に見えてきてしまう、という弊害はありますが、その内容の一々が諦観の極みのように読めてくるから、思いこみとはふしぎなものであります。これを最後の聖訓として読むならば、本書簡でいちばん重きを置くべきは、そうしてパウロの涙にあふれた言葉は、二テモ1:13-14、同4:1-5である、とわたくしは思います。最後にこれらを引用して本稿を終わります。
 「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(二テモ1:13-14)
 「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(二テモ4:1-5)
 それでは明日から1日1章の原則で、「テモテへの手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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第2258日目 〈テモテへの手紙・一第5章&第6章:〈教会の人々に対して〉、〈大きな利得〉他with「一テモ」読了の挨拶。〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第5章と第6章です。

 一テモ5:1-6:2 1/2〈教会の人々に対して〉
 老人を叱るなら相手を自分の父親と思うて諭しなさい。
 同じように、相手が若い男なら兄弟と、年配の婦人なら母親と、若い女性なら清らかな心で以て姉妹と、それぞれ思うて諭しなさい。
 身寄りのない寡婦を大事にしなさい。もし寡婦に子や孫がいれば、その者たちに家族を大事にし、親に尽くして孝行するよう教えるべきです(自分の血縁者、特に家族の世話をしない者は信仰を棄てたも同じで、信仰のない人に劣ります)。神はそれを喜びます。身寄りのない寡婦は神に希望を置いて昼夜問わず一心に祈り、願いをささげますが、放埒な生活をして暮らす寡婦は生ける屍も同然です。
 寡婦として登録できるのは、なによりも1人の男の妻であった人、善い行いで評判の人でなくてはなりません。あらゆる善い業に励んだ人でなくてはならないのです。年若い寡婦を登録してはいけない。なぜならば彼女たちは一時の情欲に流されて信仰から離れ、相手との結婚を望むようになるからです。その後の彼女たちは堕落し続けます。「だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。」(一テモ5:14-15)
 信徒をよく指導している、御言葉と教えのために労苦している長老たちには、倍の報酬が与えられて然るべきです。イエスの言葉にもあるように、働く者が報酬を受けるのは当然至極のこと。また、「申命記」にも、脱穀している牛に口籠をはめてはならない、とあります。
 これも「申命記」にあることですが、長老を訴えるならば2人、乃至は3人の証人が必要です。証人が揃っていない訴えを受理してはならない。棄却しなさい。
 罪を犯した者あらば皆の前で咎めよ。そうすれば皆が恐れを抱くようになるから。
 或る種の人々の罪はすぐ明るみに出て裁かれますが、なかなかそうはならない者もいます。実は善き行いも同じで、すくなくとも隠れたままということはありません。
 何事を行うにも偏見を持ってはならない。依怙贔屓をしてもいけない。誰かに手を置くのに性急になってはならない。犯罪に加担してはいけない。あなたは、「いつも潔白でいなさい。」(一テモ5:22)
 奴隷は自分の主人をじゅうぶん尊敬するようにしなさい。神の御名とわれらの教えが冒瀆されないようにするために。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。」(一テモ6:2)

 一テモ6:2 2/2-10〈大きな利得〉
 われらと異なる教えを説くのに熱心な者らがいます。かれらは信心に基づく教えやキリストの言葉に従わない者どもであります。かれらは一様に高慢で、一知半解どころか無知蒙昧の輩、加えて虚しい議論や口論に取り憑かれています。
 そこから妬みや中傷、邪推といったものが生まれるのですが、その背景にあるのは、精神の腐敗や真理への背反、信心を利得の手段とする考えであります。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(一テモ6:6)
 というのも、われらはなに一つ持つことなくこの世に生まれ、なに一つ携えることなくこの世を去るからです。生きている間は衣食住が事足りていれば良い。そうではないでしょうか。
 金持ちになりたい。そう願う者もあるでしょう。気持ちはわからないでもないのですが、金持ちを目指す者は誘惑や罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。お金への欲は諸悪の根源。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れるのです──。

 一テモ6:11-21〈信仰の戦い〉
 テモテよ、わたしが述べてきた避けるべきことを避けなさい。
 正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
 信仰の戦いを立派に戦い抜いて、永遠の命を手に入れなさい。
 キリストの再臨まで落ち度がなく、非難されることのないよう掟を守りなさい。神は定められた時にキリストを遣わしてくれます。
 この世の富者に命じなさい。高慢になるな、増えてもいつなくなるか知れない富に望みを置くな、と。われらすべての者を豊かにしてくれる神に望みを置くように、と。
 「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(一テモ6:18-19)
 あなたへ委ねられたものを守れ。無駄話や虚言、知識と呼ばれる反対論を避けよ。知識に溺れて信仰の道を踏み外した者もいるのだから。
 ──恵みあれ。

 気になるのは「知識と呼ばれる反対論」のこと。知識に足許を掬われて信仰から離れた者もいる、なる一節。これが初期キリスト教に於けるゾロアスター教の影響というのでしょうか。パウロ存命中にはユダヤ人や異邦人の間にゾロアスター教は入りこんできたといいますから、ここでパウロは暗にゾロアスター教を警戒せよ、キリストの福音を信じる者たちをそこから遠ざけて守りなさい、とテモテへ伝えているように読めてくるのであります。一度、そろそろゾロアスター教について概略なりとも調べてエッセイにしておく必要がありそうですね。
 牧者としての資格を語った後は、その立場に在る者が教会へ集う人々と如何に接するべきか、そのためのアドヴァイスが綴られる。特に寡婦への接し方については細やかな指示が下されています。パウロは寡婦を庇護するのに熱心であったのか、それともテモテが派遣されたエフェソの町には寡婦の信徒が多かったのでしょうか。もっと単純に、若い男であるテモテよ、寡婦に絡め取られて身を持ち崩すな、と遠回しに語っているのでしょうか。
 この点については勿論不明としか言い様がありませんけれど、万民に対してぶれることなき態度を取るように、というパウロのメッセージはしっかりと感じられますね。
 本日の箇所を読んで、非キリスト者であるわたくしのなかにずっしりと残ったのは、お金への欲望は人を破滅へ導き陥れる、という一テモ6:9の言葉。そうして、それ以上に、──
 「いつも潔白でいなさい。」(一テモ5:22)
 誤解され、謂われなき糾弾の対象となること偶さかあるわたくしは、この言葉を信じたいのであります。

 本日の旧約聖書は一テモ5:18aと申25:4、一テモ5:19と申17:6。
 参考として一テモ5:18bとマタ10:10、殊ルカ10:7。



 今夜の飲み会を愉しく、憂いなく過ごすため、休日の午前中を使って2章分のノートを書きました。ちょっとがんばったよ! えへ。
 さて。
 本日を以て「テモテへの手紙 一」を読み終わります。途中、平成28年熊本地震が発生、被災地へのメッセージで2日程中断しましたが、どうにかこの日を迎えられました。時間を割いて本ブログを読み、支えてくださっている読者諸兄に感謝します。
 なんの支障もなければ、そうしてわたくし側の事情がなければ、明日から「テモテへの手紙 二」を読み始めようと思います。この予定を実行できれば今月中に〈パウロ書簡〉はすべて読み終わることができそうであります。実現させたいなぁ。◆

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第2257日目 〈テモテへの手紙・一第3章2/2&第4章:〈信心の秘められた真理〉、〈背教の予告〉他with有川浩『シアター!』を読みました。〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第3章2/2と第4章です。

 一テモ3:14-16〈信心の秘められた真理〉
 間もなくあなたのところへ行けると思うのですが、もしなかなか行けないようであれば、人々が神の家でどのように生活すべきか、について知っておいてほしい。
 信仰の、或いは信心の秘められた真理は確かに偉大であります。ではこれがどういうことかというと、──
 キリストは肉となって現れ“霊”により義とされ、その人のことは教え共々異邦人の間で宣べ伝えられるようになり、全地の人々に知られて信じられ、栄光のうちに天へ上げられた、ということ。

 一テモ4:1-5〈背教の予告〉
 “霊”は次のように、明確に伝えています。「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。」(一テモ4:1-2)
 偽りを語る者たちは、良心に焼き印を押されており、また婚姻を禁じ、或る種の食物に限って摂ることを禁じてきます。その食物は神によって造られた良いものであり神の言葉と祈りによって聖なるものとされています。

 一テモ4:6-16〈キリスト・イエスの立派な奉仕者〉
 以上、ここまで述べてきた事柄を兄弟たちに語り、教えるならば、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われてあなたは、キリスト・イエスの奉仕者に相応しい人物となるでしょう
 どうかあなたよ、俗悪で愚にもつかぬ作り話を努めて退けなさい。
 併せて、「信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(一テモ4:7-9)
 年若だからとて怯懦となるな。信仰、愛、純潔、言葉、行動の点で、あなたは信徒の模範となれ。わたしが行くまでは聖書の朗読と勧めと教えとに専念していなさい。あなたのうちにある恵みの賜物を軽んじるな。それは長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたのです。
 ──これらのことに務めて、離れないようにしなさい。そうすればあなたの成長は誰の目にも明らかとなるでしょう自分自身と教えとに気を配っていなさい。そうすることであなたは自分自身とあなたを信じる人々を救うことになるのです。

 パウロの、テモテを思う愛情と信頼が窺える章であります。かれのエフェソ派遣は修行の一環であったようにさえ思える……修行? 然様、パウロの代理人に相応しい者になるための、協会の監督や奉仕者として誰の目にも非の打ち所なき者となるための。どうだろう?



 先日、有川浩『シアター!』既刊3冊を読了しました。この作者の小説は概ね好きです。婚約者亡きあとただ1人、自分から告白して1ヶ月の猶予期間の後あえなく振られた手ひどくも清らかな失恋の最中に読んでいた『図書館戦争』シリーズや、いまなお、そうしてこれまでもずっとエバーグリーンであり続けるであろう『レインツリーの国』、個人的には『海の底』を頂点とする<自衛隊3部作>とそのスピンオフ・エピソードを集めた短編集、加えて<自衛隊物>と総称してよい系統にある作品群など、どれもこれも思い入れがあって「ベストを選ぶとしたらどの作品ですか?」なんて訊ねられると、考えこんで却って困ってしまうぐらいに。
 が、今回読んだ『シアター!』はそれらを遥かに凌駕するぐらいの圧倒的な読後感を植え付けたのであります。これ程自分のなかに突き刺さるような、打ちのめされたような思いを味わったことは、すくなくとも有川作品ではこれまでなかったなぁ……。どういうことかというと、──
 好きという一言で括れる程度に楽しめるだけならよかった。けれども『シアター!』の場合はむしろ嫉妬に狂わされたんだ。キーッ、って地団駄を踏んだよ。理由は、自分でも嫌になる程わかっている。描写や感情、台詞の一々が自分の心に直球で響いてきたからだ、と。なんというかね、匕首でぶっ刺されたような思いなのだ。これまで読んだ、或いはこれから読む有川作品でもこのシリーズは別格中の別格。完結巻と噂される第3巻が早く読みたいよ!
 読み終えて後、冷静になった頃を見計らって、改めて理由について考えてみた。これ程までに打ちのめされたのは、なぜなのだろう。自分も演劇の熱に中てられて小劇団に参加、その活動に片足を突っ込み、そちらの世界へ進もうと本気で考え、学校に求人のあった某大手劇団の舞台監督助手に応募までした。時期を同じうして、わたくしは演劇を離れた。それで食ってゆくことの難しさ、不安定さ、将来のヴィジョンが描けないことに不安を感じて。時代はバブルがはじけてアルバイトの口を探すことさえ大変だった1990年代前半……。
 中途半端な気持ちで演劇への気持ちを封印しただけに、作中で<鉄血宰相>春川司が放つ台詞、「なにかを諦めるための必要な条件、それは全力で尽くして力及ばず折れること」てふは、崩れ落ちた気持ちを慰撫することも不可能なぐらいの破壊力を孕んでいた。古傷を抉られたような気分、とは言葉が非道いけれど、うぅむ、全力で否定することもできません。後ろめたさとやましさが同居した気持ちが頭をもたげるからね。sigh.
 演劇はたしかに挫折した。が、せめて物書きとしては最期までこの職能を全うして死んでゆきたい。挫折して筆を折る(捨てるという方が遥かに正確なのだけれど)日が来たとしても、そのときには<鉄血宰相>の件の台詞に力強く頷けるだけの潔さを身に付けていたいものであります。わが魂は怯懦ではない、と敢然と言い放ってね。◆

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第2256日目 〈テモテへの手紙・一第2章&第3章1/2:〈祈りに関する教え〉他withジェイムズ・ティプトリー・Jr『あまたの星、宝冠のごとく』を読みたくて。〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第2章と第3章1/2です。

 一テモ2:1-3:1 1/2〈祈りに関する教え〉
 わたしはまず皆さんに奨めます。王たちや高官たちも含めたすべての人々のため、願いと祈りと執り成しと感謝をささげなさい。「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(一テモ2:2)
 男は怒らず、争うたり諍いなどしないで、清い手をあげて祈りなさい。
 婦人は慎みと貞淑を以て身を飾りなさい。髪を編んだり結わったり、金や宝石、高価な着物を身に着けるのは控えなさい。むしろ質素な身なりでよいのです。善い業で身を飾る方が、神を敬うと公言する婦人には相応しいのですよ。
 婦人は物静かであれかし。従順であれかし。婦人が男の上に立つこと、人に教えること、わたしはそれを許しません。なぜならば神が先に造ったのはアダム(男)であり、エバ(女)ではないからです。
 アダムは誘惑されず、騙されなかった。が、エバはそうではありませんでした。彼女は罪を犯してしまいました。──しかし、とわたしはいいます。しかし、婦人は信仰と愛と清さを保ち続け、かつ貞淑であるならば、男の妻になり子供を産むことで救われます。この言葉は真実です。

 一テモ3:1 2/2-7〈監督の資格〉
 監督の職を求める人は良い仕事をするのを望んでいる、といえるでしょう。
 監督となるに相応しいのは、以下に挙げるような資格を持つ人物です。即ち、──
 ・非の打ち所のない人
 ・1人の女性の配偶者であること(1人の妻の夫であること)
 ・節制できる人
 ・分別のある人
 ・礼儀正しい人
 ・客をよくもてなせる人
 ・酒は飲んでも溺れない人
 ・暴力に訴えない人
 ・何事につけ寛容な人
 ・争いや諍いを好まない人、できれば無縁な人
 ・金銭に執着しない人
 ・自分の家庭をよく治めている人
 ・常に品位を保ち、子供たちを従順な者に育てている人
 (自分の家庭も治められない人がどうして神の教会を監督できると思いますか?)
 ・信仰生活に入って長い人
 (短い人は監督に相応しくない。高慢になり、悪魔と同じ裁きを受けかねないから)
 ・教会以外の人々からも良い評判を得ている人
 (そうでなければ中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです)

 一テモ3:8-14〈奉仕者の資格〉
 では次に、奉仕者たる人の資格について述べましょう。
 わたしはこう考えます、──
 ・品位のある人
 ・二枚舌でない人
 ・大酒飲みでない人
 ・やたら利益ばかりを求めないこと
 ・清い良心のなかに信仰の秘めたる真理を持っている人
 ・他人を中傷しないこと
 ・節制できる人
 ・あらゆる点で忠実である人
 ・1人の女性の配偶者であること(1人の妻の夫であること)
 ・子供たちと自分の家庭をよく治めている人
 ……奉仕者になるのを望んでいる人々もそのための審査を受けるべきです。その結果、特に恥ずべきこと、沙汰されることがなければ、その人を奉仕者の役目に就ければいいでしょう。婦人の奉仕者についても然りであります。
 「奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得る」(一テモ3:13)のです。

 監督、奉仕者の資格が縷々述べられますが、こうして読み、書き出してみると、それらがいずれも皆、どんな職業であれ管理職に就く者へ求められる資格であると感じました。これらについて特に忖度するつもりはございません。
 引用はしませんでしたが一テモ2:14-15、エバの原罪ゆえに婦人は、敬虔であり続け、かつ子供を産むことで救われる云々。この文言に関しては、やれやれこのパウロって奴ァは……と、(『涼宮ハルヒ』のキョンのように)頭を振り振り嗟嘆してしまいます。これが当時の、キリスト者の女性観と承知はしつつも、あまりにストレートな物言いっぷりに考えさせられてしまうことであります。
 パウロが今日の社会を窺って男女の有様を目撃したら、卒倒してしまうかもしれませんね。



 ジェイムズ・ティプトリー・Jrの最後の短編集『あまたの星、宝冠のごとく』(ハヤカワ文庫SF)を読みたい一心で、今日は仕事が終わったあとどこにも寄り道せずに(快挙!)帰宅。が、却ってそれが祟ったか、机の前に坐ったら途端に体が横に傾きうつらうつらとし始めて、夕飯と風呂を済ませて本稿を綴る前にベッドに横になったらやっぱり転た寝。
 通勤の折節に読むようでないと、いまの自分に趣味の読書はできないようだ。ならば1ヶ月後にはこの短編集を会社の行き帰りの電車のなかで、カフェで、それ以外の場所で、生活の合間合間に読むことができる、という算段になる。これを機会にジェイムズ・ティプトリー・Jrの短編集すべて読み返そうかしらん。そうしたらきっと、またぞろSFへの情熱が復活して本を買い漁って読み耽る日が帰ってくるのだろうなぁ。でも、それが高校生のときに理想として思い描いた、大人になった自分の読書環境でもあったのだよな。
 さて、では本日最後のチャレンジ。本稿を予約投稿後、『あまたの星、宝冠のごとく』を携えて布団に入り、1編なりとも読み果せられるようにしよう。◆

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第2255日目 〈被災地の方々へ、音信不通の知人へ;ガンバレ、九州。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 熊本の地震について、時々刻々と被害の大きさが明らかになっています。
 亡くなった方々もあることが、先日の更新後に判明し、本稿執筆時点では37人にのぼる由(読売新聞“YOMIURI ONLINE” 2016年04月16日20時14分更新記事に基づく)。
 亡くなった方々のご冥福を祈り、ご遺族の方々に心からお悔やみ申しあげます。
 家屋の倒壊により閉じこめられて未だ救助されていない人々もいると聞く。願わくば、行方不明者の方々の安否が一日も早く確認され、皆無事に救助されますように。
 避難生活を送っている方々は体調管理にお気遣いください。持参した物でも援助物資でも構いません、食べるべき物を食べ、飲むべき物を飲み、そうして心身の平生に努めてください。
 それどころであるものか、と反駁されるかもしれない。が、被災地にいて音信不通の知人を含めて、被災地の方々には良心と良識を持っていまを生きてほしい、と願うのです。
 わたくしに出来るのは本ブログにてこうして言葉を発信すること、義援金と物資を送ることぐらいですが、1日も早く以前のような日常生活が帰ってくることを祈っています。
 ガンバレ、九州。ガンバロウ、九州。
 ──被災地の外にいる人々よ、われらは再び団結しよう。◆

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第2254日目 〈テモテへの手紙・一第1章:〈挨拶〉、〈異なる教えについての警告〉&〈神の憐れみに対する感謝〉withFacebook断ちをしている!〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第1章です。

 一テモ1:1-2〈挨拶〉
 使徒パウロから信仰によるわが子テモテへ。父なる神とわれらが主キリスト・イエスからの恵みと憐れみ、平和がありますように。

 一テモ1:3-11〈異なる教えについての警告〉
 あなたはエフェソに留まりなさい。その地で或る人々に命じなさい。異なる教えを説くな、と。作り話や切りのない系図に心奪われるな、と。それは無意味な詮索を生み出すだけだから、と。
 「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」(一テモ1:5)
 あなたが相手にする或る人々は、これらのことから外れて道を踏み迷い、無益な議論の渦中に巻きこまれます。かれらは自分がいっていることも主張していることもよくわかっていないのに、いっぱしの律法教師になるのを望んでいるのです。
 が、われらは律法の正しい使い方を知っている。律法はかれらのように道を踏み外した者のためにある。一方で、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられてもいるのです。
 上述のことは神の福音と一致しており、わたしはその福音を委ねられている者。

 一テモ1:12-20〈神の憐れみに対する感謝〉
 わたしが主キリスト・イエスに感謝するのは、罪人のなかの罪人であったわたしを召して務めに就かせてくれたからです。勿論、それゆえばかりではありませんが……。
 以前のわたしは神を冒瀆していました。そうして迫害する者、暴力を振るう者でした。が、これらのことは信じていない時分の所業だったので、わたしは憐れみを受けたのです。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(一テモ1:16)
 テモテよ、わたしは以前、あなたについて預言を受けました。いま、その預言に従って命じます。即ち、その預言に力づけられ、信仰と正しい良心を持って、雄々しく戦いなさい、と。
 あなたが相手にする或る人々はこの正しい良心を捨ててしまったために、せっかくの信仰を挫折させてしまいました。ヒメナイとアレクサンドロはそのうちの1人です。わたしはかれらをサタンに引き渡しました、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため。

 テモテが相手にしなくてはならない「或る人々」とはどのような人たちか。それはエフェソの信徒たちを惑わせたり、不安にさせる事柄を吹聴して回る人たちのことです。吹聴の内容がなにかといえば、二テモ2:18にある如く、キリストの復活はもう起きてしまった、というものであります。かれらは正しい良心を捨て、その信仰が挫けてしまったので、斯く喧伝して信徒たちの信仰心を覆そうとした。
 パウロはテモテに、そのような連衆と対峙してエフェソの人々の信心を回復させよ、と命じたのです──困難な課題ですが、逆にそれだけパウロがテモテを信頼し、その能力を評価していた証しでありましょう。
 「正しい良心を捨て、その信仰は挫折して」(一テモ1:19)しまった者として名の挙がるヒメナイとアレクサンドロ。その名からギリシア系と想像されますが、かれらは「テモテへの手紙 二」にも登場します。ヒメナイは二テモ2:17、アレクサンドロは同4:14にて。かれらについてはその際に改めて述べるとしましょう。本稿ではキリストの福音に背を向けた人たちというに留めておきます。
 しかしまぁ、エフェソとは問題(話題?)てんこ盛りの町でありますね。感心してしまいます。
 また、備忘として書けば、二テモ1:7「彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています」をわたくしは本業に於ける自戒の言葉として刻みたく思います。



 今年の秋には聖書読書ノートとしての本ブログを終わらせる予定だが、それまでの間Facebookは殆ど使わないことにしました。決断。これがどれだけ原稿執筆の妨げになっているか、近頃はっきりとわかってきたからです。自分の意思でiPhoneからアプリを削除し、Macのブックマークからも削除。但し、努めて避ける間のつなぎとしてメッセンジャー・アプリだけはiPhoneに残しました。
 Facebook断ちをして今日でおそらく1週間ぐらいかな。頗る順調である、執筆ばかりか生活全般に於いて、頗る順調と報告しよう。自分にとってSNSはTwitterとLINE、noteがあればまずはじゅうぶんかもしれないなぁ、とさえ思うております。それが錯覚なのか事実なのか、いずれであるかは今秋に結論が出るでしょう。
 Facebook断ちをしてみて思うこと? そこに浸かっていた時間よ、カムバック! と叫びたいですね。いや、本当に。しばらくおいらはSNSから自由になろう。自分の為すべき事を為してからそこへ戻ればよい。その間に友達であった方々がいなくなってしまっても、それは宜なきことと諦めよう。
 さて、それでは読書と執筆に戻るとしますか。
 ──読書といえば有川浩祭りはまだまだ続いていて、今月は『シアター!』シリーズを読んでいるのだけれど、これがまためちゃくちゃ面白くて響いてくるところ大で……というのはまたの機会と致しましょう。◆

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第2253日目 〈4月14日21時26分頃、熊本県で大きな地震がありました。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 4月14日21時26分頃、熊本県でマグニチュード6.5、県内益城町にて最大震度7を観測する大きな地震がありました。深度7を超える地震は東日本大震災が発生した2011年3月11日以来とのこと。海面がやや上昇するかもしれないが、津波の心配はないとのこと。
 夜の安堵の時間に襲った大きな地震。
 ニュースやTwitterでリアルタイムの報道等がされています。まずは正確な情報を把握して、落ち着いて行動しよう。現地に知己の人がいる場合は災害時の伝言ダイヤルやLINE、Facebookやメッセンジャーも利用して、安否の確認をしよう。
 家屋の倒壊や火災、ガスや電気の供給停止など、様々の被害が出ています。負傷者は多数いるが、現時点では死亡者はいない様子。今後も余震が続くでしょうが、被害の拡大が食い止められるを願います。県外の警察や消防に加えて陸上自衛隊も既に動き始めて被災地入りしているそう。
 鹿児島県薩摩川内市の川内原発(九州電力)、愛媛県伊方町の伊方原発(四国電力)、いずれも異常はないといいますが、余談は禁物。
 ──地震発生時、スタバでのんびり原稿を書いていた自分。東日本大震災と異なり、こちらで揺れを体感していないことも手伝って、正直なところ大きな地震が国内であったという実感はない。それだけにこんな大きな地震の報道に接して、なにもできない、なにも行動できない自分が虚しいです。今自分にできるのは、正しい情報、誤った情報を取捨選択して、Twitterであればネガティヴなものはリツイートしないよう心掛け、今日から始まるであろう支援活動にどのように関われるかを考えること。
 被害を誇張するような情報、誤った支援を呼びかける情報に、被災地の外に住むわれらは惑わされないようにしよう。
 現地の方々が不安に負けず、良心に根ざした行動をし、以前と変わらぬ生活に早く戻れますように。
 わたくしはなにをすべきか?◆

 4月15日00時27分、横浜でも地震がありました。震源地は駿河湾南方沖、マグニチュード3.9、最大震度不明──。□

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第2252日目 〈「テモテへの手紙 一」前夜〉 [テモテへの手紙 一]

 これから読む2つの「テモテへの手紙」と「テトスへの手紙」は、〈牧会書簡〉と総称されます。各地の教会で発生した諸問題について著されたいままでの手紙と違い、これらは教会運営にまつわる種々の事柄について述べたものであります。
 では牧会とはなにか。カトリックなら司祭、プロテスタントなら牧師による信徒の導きであります。その内容としては、魂の治療や回復、信徒の信仰生活の管理・指導、などが挙げられます。従ってこれらの手紙が個人に宛てた私信というよりも、広く教会運営と信仰生活にまつわる諸事を記した指導書、手引き、ガイドブックというように考えた方がよいでしょう。
 なお、当時に於ける教会とは今日われらが町中や外国で見るような、或いは遺構で見るような一個の厳然たる建築物では勿論なく、信徒の家を会場とするようなものでありました。ゆえに小さな町や村であれば一軒の家で済んだとしても、規模の大きな都市ともなれば複数の会場が必要とされたでしょう。そのためにも指導する監督は不可欠。テモテやテトスはその任に就いて教会運営を委ねられた人物なのでした。
 「テモテへの手紙 一」は協会の監督や奉仕者たる者の資格、なんのために神に祈るか、異なる教えに従ったりキリストの教えに背くことについての訓戒、聖職者の信徒たちへの関わり方、といった事柄について述べています。わたくしがいうのもなんですが、非キリスト者ならずとも首肯、納得できる部分の多い手紙だと思います。
 本書簡の宛先であるテモテはパウロの宣教旅行の随伴者として、「使徒言行録」や他書簡でもわれらにお馴染みの存在であります。改めてかれの履歴を述べると初登場は使16:1、ギリシア人の父と篤信家のユダヤ人の母の子として、既にリストラやイコニオンでは信心深い者として知られていた。パウロはかれを弟子とし、第2回、第3回の宣教旅行のお伴とし、代わって各地の教会の指導に個別に当たらせたこともあったようです。「テモテへの手紙 一」が書かれた頃、テモテはパウロの指示によりアジア州エフェソに赴き、そこに逗留して現地の信徒たちを指導しておりました。
 「使徒言行録」はパウロが帝都ローマに監禁(実際は軟禁というた方がより事実に近そうですが)されている場面でも筆が擱かれます。パウロのローマ監禁は2回に及んでおり、1回目が「使徒行伝」が報告する60年頃、2回目が殉教につながる67年頃。1回目は63年頃に釈放されたと伝えられますから、2回目の監禁までの4年間に本書簡は書かれた、と考えられています。もしかするとこの間にパウロは第4回宣教旅行として本来の希望であったイスパニア(スペイン)まで赴いていたかもしれません(ロマ15:24)。執筆地については本書簡、即ち一テモ1:3からマケドニア州とは推測できますが、どの町で、とまでは判然としません。宣教旅行で立ち寄った(どこかの)町を再訪したときかもしれませんし、或いは聖書に記されていない町であったかもしれない。われらにそれを知る術はどうやらなさそうであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「テモテへの手紙 一」を読んでゆきましょう。◆

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第2250日目 〈テサロニケの信徒への手紙・二第3章:〈怠惰な生活を戒める〉、〈結びの言葉〉他with「テサロニケの信徒への手紙」読了のご挨拶。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 テサロニケの信徒への手紙・二第3章です。

 二テサ3:1-5〈わたしたちのために祈ってください〉
 この手紙の筆を擱く前に、兄弟たちよ、あなた方へお願いしたい。どうかわれらのために祈ってください。主の言葉がすみやかに人々へ宣べ伝えられ、崇められるように。われらが道から外れた悪党たちの標的にならないように。
 忘れてはなりません、すべての人に信仰があるわけではないのです。
 主はあなた方を強め、悪人から守ってくれます。なんとなれば主は真実な方だから。主があなた方に神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくれますように。

 二テサ3:6-15〈怠惰な生活を戒める〉
 仄聞するところでは、あなた方のなかには怠惰な生活をし、働くことを厭い、却って余計なことに耽っている者がいるそうですね。そのように怠惰に暮らし、われらの教えを守らない者のことは努めて避けなさい。われらは怠惰な生活をして暮らす者へ、こう忠言します。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい、と。
 われらはテサロニケに滞在中、夜も昼も休むことなく、誰からの援助を受けることなく、働き続けました。それは偏にわが身を以てあなた方に模範を示すためでした。実際われらはそちらにいるとき、働かざる者食うべからず、と教え、命じていました……。
 兄弟たちよ、弛まず善き行いに励みなさい。
 「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」(二テサ3:14-15)

 二テサ3:16-18〈結びの言葉〉
 いつ如何なるときでも平和の主自身があなた方に平和をもたらしてくれますように。主があなた方一同と共にあり続けますように。
 わたしパウロが自身の手でこの挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印であります。わたしはこの手紙の結びにこう綴ります──われらの主イエス・キリストの恵みがあなた方一同にありますように。

 パウロは本書簡のなかで2度、テサロニケ滞在中の自分たちが行ったこれこれのことについて思い出してみてください、とかの地の信徒たちへ訴える。これらの箇所を読んで、さてそんな描写があったかな、と「使徒言行録」を開いて読み直しても、該当するような箇所は見当たりません。
 他の、訪問済みの町の教会に宛てた〈パウロ書簡〉にもいえることですが、「使徒言行録」と手紙いずれか片方だけが<正>であるわけではありません。どちらかだけが事実を伝えているわけではないのです。今回の場合は「使徒言行録」と「二テサ」双方に書かれた、それぞれの出来事のすべてが同地に於いてパウロたちが行った事どもなのだ、と考えるのが最も史実に近いであろう、とわたくしは考えます。
 ──われらはわが身を以てあなた方に模範を示した。だからあなた方もこのように行いなさい。或る意味でこれ以上は望みようがないOJTですが、それでいてなお怠惰な生活に走る者がいたとなると、信仰は植え付けられても根幹となる人間本来の性質は変えられないのかな、と嘆息します。どんなに深く、真実な信仰を持っていたとしてもDNAレヴェルで怠惰なのであれば、最早斯様な生活をしてしまうのも仕方ないか、と溜め息交じりに諦めるよりないのかも……。



 10日にわたって「一テサ」、「二テサ」を途中に間を置かず読んでまいりました。〈パウロ書簡〉のなかでこの2つの手紙は他書簡のように、たとえば〈主要書簡〉や〈獄中書簡〉という風になにかしらのカテゴリーにまとめられることのない手紙であります。息切れせずに、怠惰にならずに読み進め、無事終わらせる事ができた理由の1つに、変に〈主要書簡〉や〈獄中書簡〉といったレッテルに惑わされることがなかったから、というのはあるかもしれません。
 とまれ、本日を以て2つの「テサロニケの信徒への手紙」は読了となります。飽きず毎日本ブログを読んでくださっている読者諸兄に感謝。あなた方の存在なくして読書と執筆とPC入力の日々を、判で押したようなその日々を過ごすことは耐えられなかったであろう。ありがとうございます。サンキー・サイ、と綴る方がより「らしい」か?
 次は〈パウロ書簡〉最後の手紙群、即ち〈牧会書簡〉である。その初め、「テモテへの手紙 一」は明後日から読む予定です。◆

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第2249日目 〈テサロニケの信徒への手紙・二第2章:〈不法の者についての警告〉&〈救いに選ばれた者の生き方〉with美辞麗句は並べない;お金を遣うということ。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 テサロニケの信徒への手紙・二第2章です。

 二テサ2:1-12〈不法の者についての警告〉
 兄弟たちよ、お願いがあります。霊や言葉によって、或いはわれらから送られた手紙によって、主の日は既に来てしまった、などと叫ぶ者がいたとしても、動揺して分別をなくすなどといった真似はしないでください。知らないうちに主の日が過ぎてしまっていることはありません。
 その日が来る前には必ず神に対する反逆が起こります。そうして不法の者即ち滅びの子が登場します。かれは神への、その権威への完全なる反逆者。神を嘲り、罵り、貶めるなど、あらゆる形で抗った挙げ句、神殿に坐りこんで己を神と自称する。
 いまはまだ、かれは不法の者にはなっていない。かれを抑えつける力が働いているからです。しかし、その計画は秘かにかれに近附き、蝕んでいます。定められた時が来れば抑えつけていた力は取り除かれて、不法の者即ち滅びの子が登場する。かれはサタンの働きによって現れ、ありとあらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な御業を披露し、同時にありとあらゆる不義を用いて滅びゆく人々を欺くことになります。
 が、不法の者は主イエスが吐く息で殺され、御姿の輝かしい光で滅ぼされます。「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからであります。」(二テサ2:10)
 そこで神はかれらに惑わす力を与え、偽りを信じるよう仕向けた。斯くして真理を信じず不義を喜んでいた者は皆裁かれるのです。

 二テサ2:13-17〈救いに選ばれた者の生き方〉
 主に愛された人々は、しかし救われます。われらがあなた方について神にいつも感謝するのは、あなたが救われるに足る人々だから、というだけではありません。あなた方を聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなた方の信仰とにより、神はあなたを救われるべき者の初穂として選んだからです。われらはこのことについて神へ感謝せずにはいられません。
 兄弟たちよ、しっかりと立って、われらが説教や手紙で宣べ伝えた教えを堅く守りなさい。
 「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。」(二テサ2:16-17)

 「二テサ」のテーマその①であります。主の日って実はもう来ちゃっているんだぜ。え、マジで!? まじまじ、大マジよ。そんなぁ……。当時、テサロニケの信徒たちの間に起こった動揺の端緒はこんなやり取りであったろう、と想像されます。
 これを伝え聞いたパウロは、いやいや、そうではないよ、とばかりに慌てて本書簡の筆を執って一気呵成に認めたのであろう──というのは〈前夜〉にて既に申しあげました。そんなデマを鵜呑みにしても仕方ない空気が、この時代のキリスト者の間に漂っていたらしいことも。
 パウロはそうしたデマに取り合うな、といいます。風評に惑わされるな、と。諫めるというよりも諭すというた方がより適切な調子で。後年の書簡のように一つ一つの説得に強烈かつ堅固な神学で裏打ちするようなものではなく、よりわかりやすく、より効果的な文章と表現を用いて。
 本章前半で示されたことを承けて綴られる、「しっかりと立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(テサロニケ2:15)のなんと晴れやかで、頼もしく、揺らぎなき信念に満ちた言葉でありましょう。テサロニケの信徒たちがこれを聞いて深く首肯し、喜びの声をあげる様子がわたくしには想像できるのであります……。



 もうすぐ月末、給料日。吟味したうえ買い控えている本を贖い、オンラインで注文済みのCDが届く時機の到来である。散財というなかれ。とはいえこの消費活動を、自分へのご褒美、だとか、自分への投資、などと眉唾めいた言葉で片附けはしない。そんな意図はまったくないからだ。稀に「自分へのご褒美」としてなにかしらの物を買うことはあるが、毎月そんなことをしていてはすべての買い物に於いて体のいい弁解にしかならないではないか。本質を見失うだけである。
 わたくしは心底読むのを欲す小説を選んで買い、本当に試聴したいCDをあれこれ悩んで選び注文したのだ。この消費活動のいったいどこに美辞麗句でごまかす余地があるというのだろう。取り敢えずここで述べた<今月のお買い物計画>の根底にあってそれを支える盤石な基盤は、純粋に「欲求」である。読みたい、観たい、聴きたい。たまたま可処分所得は多い今月だ、それらの購入に回せるお金が相応にあるならば、知的渇望を癒やすために費やすのは必然だろう。金銭は精神の自由、肉体の自由、時間の自由を保証する人生の杖の一つである。これを呵々する人はお金の怖さやありがたみを知らない人たちだと思う。
 可処分所得が多いなら、吟味や選別など鷹揚にしておいて、自らの琴線に触れたものを片っ端から買ってゆけばよいではないか。そんな声をあげる御仁もおられよう。正論のように聞こえて然に非ず、それはただの浪費だ。多いと自負できるからこそ、財布の紐は引き締めるのだ。自分の欲望には際限がなく、しかしそれを収める空間には限界がある。消費と浪費を取り違えてはならぬ。個人的消費は斯様に引き締めるけれど、それ以外は必要な場面で必要なお金を遣っているから、わたくしなりに日本経済の活性には、微力ながら貢献していると思うのだが。まぁ、今月に関しては、という限定句を冠しての話であるのは冒頭からきちんと読んでくださった読者ならおわりであろう。
 ──で、なんの本買うの? なんのCD買ったの? そんな質問が遠い山並みの向こうからかすかに聞こえてくる。が……教えてあげないよ、ジャン・バルジャン。◆

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第2248日目 〈テサロニケの信徒への手紙・二第1章:〈挨拶〉&〈キリスト来臨と裁き〉with今年も夏蜜柑を収穫しました。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 テサロニケの信徒への手紙・二第1章です。

 二テサ1:1-2〈挨拶〉
 わたしパウロとシルワノ、テモテからテサロニケ教会のあなた方へ。父なる神と主キリストにより恵みと平和がありますように。

 二テサ1:3-12〈キリスト来臨と裁き〉
 われらはいつも、あなた方のことを神に感謝しています。あなた方の信仰が日増しに成長してゆき、お互いに1人1人の愛があなた方全員の間で豊かになっているからです。ゆえにわれらは神の諸教会の間であなた方を誇ることができているのです。これ即ち神の国に相応しい存在としてあなた方を選んだ神の判断が正しかったことを示しています。神は正しいことを行うのです。
 「あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。」(二テサ1:6-7)
 神はわれらに休息を以て報いてくれる、主イエス・キリストが天使たちを率いて、燃え盛る火ののなかを通って天から来る時に。
 が、地上に在るのは神を、主を信じる人々ばかりではありません。では、信じない者たちはどうなるのでしょう。やはり救われる? 否、──
 「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」(二テサ1:8-9)
 キリスト再臨の日、主はすべての聖なる人々から崇められ、信じる人々の間で誉め讃えられます。あなた方も──主を信じる限り──その一員となるのです。そうなれるよう、われらはいつも祈っています。
 どうかわれらの神があなた方をその招きに相応しい者としてくれますように。どうかわれらの神がその御力で以て善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就してくれますように。──神と主キリストの恵みによってあなた方の間でイエスの名が崇められ、また、主により誉れを受けることができますように。

 その信仰を失うことがありませんように。パウロの願いはその一点に集約されます。どんな苦難や逆境のなかにあったとしても、信仰と希望と愛、それを持ち、互いの間で行われているならば、主の日の訪れに際してあなた方には休息が与えられ、神の国に入るに相応しいと選別されるのだ。本章に於けるパウロのメッセージはだいたいそんな風に要約できましょう。
 「来臨」と「再臨」の使い分けについて、一言。
 復活したイエスが主の日(裁きの日)に訪れる──新共同訳を始めとする日本語の新約聖書はそれを「来臨」と訳し、本ブログでは「再臨」と記します。福音書で描かれたイエスの公生涯こそむしろ「来臨」であろうと思うていたので敢えて「再臨」と書いていたのですが、調べてみたところ、ギリシア語でそれに相当する単語は「パルーシア」というがそこに「到来」とか「出現」などの意味はあっても「再び」というニュアンスは含まれない由。為に今日読める新約聖書にて該当箇所は「再臨」ではなく「来臨」と訳されているそうです。
 一方本ブログでそれを「再臨」と記すのは、ここが聖書翻訳の場ではなく、あくまでノートという立場を取っているから。主の日にイエスが再び地上に臨むので、「再臨」とするのはけっして誤りではないでしょう。



 樹齢どれぐらいなのかわかりませんが、わたくしが生まれる前から庭の一角にある夏蜜柑の木。初春の頃に寒い日が続いたので実りが心配だったのですが、今年も推定50個以上の夏蜜柑を恵んでくれました。
 2連休最終日の今日(昨日ですか)、高枝切り鋏と脚立とノコギリを駆使して昼過ぎから剪定ついでに収穫。けっこうな勢いで地上に落下しても、やはり夏蜜柑の皮は厚くて丈夫です。ぱっかりと割れるなんて軟弱な実は1個もありませんでした。でも、先に獲ってガレージへ並べておいた実にくっ付いたままの枝が、落下の拍子に刺さって側面部分に穴が開いた、というのは2個ばかりありましたが。
 小一時間をかけて収穫した夏蜜柑は全部でちょうど40個。皮の表面や実がぶよぶよしていないか、などをチェックして、さっそく4個を選んで果肉は砂糖漬けにして戴くことに。表皮は刻んでネットに入れてミカン風呂。でも今回は、ピールやマドレーヌにもする化けてもらおうと企んでいます。
 自分の家の庭で獲れたものでこのような楽しみを得られるのは、しあわせです。◆

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第2247日目 〈「テサロニケの信徒への手紙 二」前夜withバーンスタインのマーラーを聴いています。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 執筆の時期、場所について「テサロニケの信徒への手紙 二」は「一テサ」とほぼ変わるところはない、というのが一般的なようであります。「一テサ」を書いてから/送ってから数ヶ月後に新たにテサロニケ教会の人々のために筆を執ったのが今回読む「二テサ」、即ち「一テサ」同様50-52年頃、コリントにて書かれた、とされる。一説にパウロ没後、その名を借りて書かれた手紙の一つともいわれますが、定かではありません。本ブログではこちらもパウロ真筆として扱います。疑う理由と根拠が、こちらにないからであります。
 パウロはどうやら「一テサ」を送ったあと、風聞か人伝かわかりませんが、テサロニケの信徒たちを惑わす出来事のあるのを知った様子。その出来事というのは2つに分けられるようでありまして、1つは同地の人々がイエスの再臨は既にされてしまっていて、自分たちはそれにあずかることができなかった、という落胆。もう1つはパウロの教えを否定する、むしろ怠惰な生活を奨める人物が現れてテサロニケの人々を動揺させていたこと。これらの出来事に触れてパウロは必要を感じ、2通目の手紙を書くに至ったのでありました。
 が、1番目の出来事──再臨は既にされている、とテサロニケの人々が考えてしまったのも宜なるかな、と思うのです。福音書や「使徒言行録」を読みますと、十字架上で死んだイエスの再臨──主の日はそれ程遠くない頃に訪れて実現する、と考えられていた節が窺える。が、イエスの死から20年以上の歳月が経過していた1世紀中葉、待てど暮らせど一向にその日が訪れる様子は見られぬ。となれば、人々の考えることは自ずと限られてくる。①再臨はもうされてしまった(=見逃した/わからなかった)、②その日は来ないかもしれない(=不安、戸惑い、不審)、のいずれかとなりましょう。前者が「二テサ」当時のテサロニケの信徒たちの心境を映した嘆きであり、そうして後者の種々の思いが出発点となり、来たるべき日に供えて新約聖書が編纂されたのであります。
 全3章47節、わたくしの使う新共同訳では実質2ページで済む、という短さが暗に示すように、本書簡は話題を絞り、その要点だけを綴った、まあ手紙というより指示書というた方が良いやもしれぬ代物であります。別のいい方をすれば「テサロニケの信徒への手紙 二」は一気呵成に書かれたがゆえ要点だけが記される結果となったのでしょう。だからこそ、わたくしのような非キリスト者も読書中、成る程、と首肯しながら、或いはその内容を咀嚼しながら、理解しながら、読んで腑に落ちるところが幾つもあるわけです。
 それでは明日から1日1章の原則で「テサロニケの信徒への手紙 二」を読んでゆきましょう。



 昨日騒いだヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース『The Oregon Report』ですが、『Hip to be Square…Live』以外にも同じ放送音源からCD化されたものが最低2種類は出ているようであります。今日昼、県立図書館への長い坂道をのぼったところで一服しながらGoogleで調べていたら、検索結果を何ページも送ったあとにその情報が出ていました。そちらは1990年代前半のリリースである由。以上、補足。
 では、本題。
 県立図書館に出掛けた理由なのだけれど、別に本ブログのための下調べに行ったわけでは(今日は)ない。先月からレナード・バーンスタインがドイツ・グラモフォンに録音した、2度目のマーラー交響曲全集を借りて聴いているのです。第4番のCDだけがバラの状態では貸出棚にないのだけれど(所蔵されていない、という意味である)、幸い交響曲全集のボックスが別にあるので、こちらはあとで借りてくればよいのです。ひとまず今日借りた3曲を以て《角笛》交響曲はすべて聴き果せた。
 全集へ向けた録音は全9曲プラス《大地の歌》を完了する前にレニーの死により中断したそうですが、非道いことをいうようですが、数少ない自分の好きなマーラー交響曲はすべて再録音されていたので、その点は妥協することと致します。作曲家としてではなく曲単位で好きか否かを計る場合、このような感慨を抱いてしまうのは果たして惨い所業なのでしょうか。わたくしがいまよりずっと若かった時分、ショルティのLPでマーラーを聴き耽っていた頃にバーンスタインの全集も同じように聴き耽っていたら、上述のような感慨は生まれなかったかもしれないなぁ。
 借りてきたマーラー/バーンスタインのCDは2回程聴いた後、iTunesでiMacへ取り込んでiPhoneで聴けるようにします。イヤフォンではなくヘッドフォンの購入を検討している理由の半分はiPhoneでマーラーを聴くに備えての話であります。iPhone付属のイヤフォン、家電量販店などで売られるイヤフォンでマーラーを聴くのは、すくなくともわたくしには無理です。いたずらに耳を痛めるだけです。耳に負担をかけることなくマーラーが聴けるヘッドフォンを折に触れて探すのは、案外と労多くして実りなしの作業であります……。
 今一度レニー。かれのマーラーを聴こうとこの度思い立ったきっかけはCSのクラシカ・ジャパンで観た、たしかウィーン・フィル相手の交響曲第2番《復活》でありました。仕事帰りの午前様になったとき、明日は休みをいいことに夕食後、ビールを飲みながら録画したものを観ていたのですが、これがすっかり興奮させられる演奏でした。最後までまんじりともせず、食い入るように観て、聴きましたよ。
 それに刺激されて、バーンスタインのマーラーを聴いてみようかな、と思うた。興奮収まらぬ頃に出掛けた県立図書館にてDGの全集を見出したのが、今日に至るプチ・マーラー熱の直接の原因。──更に今回の遠因を辿れば年始、風邪に倒れて正月から臥せっていたときに聴いた、アバドとカラヤンがそれぞれベルリン・フィルを振った第9番にあるでしょうね。病床の身で第9番を聴くのもいったいどうなのか、というところでありますが、それはこの際不問で。
 バーンスタインのマーラーを聴いた感想を認めることはないだろうけれど、最前のヘッドフォンも含めて音楽の再生環境にようやく──あれから10年以上が経ってようやく思い巡らし、構築を検討できるようになったので、それらに関して短い文章を書くかもしれません。
 この出来事を端緒としてバーンスタインの残した録音等に手を伸ばし、10数年ぶりにマーラーの音楽をじっくり聴くことが増えるかもしれないなぁ。そんな予感がしている、春の今宵。◆

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第2246日目 〈テサロニケの信徒への手紙・一第4章2/2&第5章:〈主は来られる〉&〈結びの言葉〉withHLN『The Oregon Report』!〉 [テサロニケの信徒への手紙 一]

 テサロニケの信徒への手紙・一第4章2/2と第5章であります。

 一テサ4:13-5:11〈主は来られる〉
 既に眠りに就いた人々について希望を持たない人たちのように嘆き悲しむのはやめましょう。われらはイエスが死んで復活したと信じています。イエスを信じて眠りに就いた人々を神はその眠りから導き出してくれるのです。
 「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(一テサ4:15-17)
 あなた方はこの言葉によって互いを励まし合いなさい。
 主が来臨するとき、またその時期について、あなた方がなにかを書き記したりする必要はありません。というのも、主が来臨する日は必ず来て、そうしてある日突然訪れるというものではないからです。それは不可避の出来事でありますが、前兆はあるのです。主の日が盗人のようにあなた方を突然襲うことはありません。
 その日の訪れに備えて、われらは惰眠を貪っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。われらは<夜>に属する者に非ず。<昼>に属しています。だから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜として被り、身を慎んでいましょう。神はわれらを主イエス・キリストによる救いにあずかるよう定めたのであって、怒りに定めたのではありません。
 主が死んだのは、昼も夜もわれらと共に在るためです。為、あなた方はかの言葉を糧として互いを励まし合い、向上に努めなさい。

 一テサ5:12-28〈結びの言葉〉
 お願いです。あなた方の間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじて、かれらを愛を以て心から尊敬しなさい。
 兄弟たち、平和に過ごしなさい。怠け者がいたら戒めなさい。「気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(一テサ5:14)
 悪を以て悪に報いるなかれ。お互いにであっても、すべての人たちに対してであっても、誰に対しても善に努めなさい。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(一テサ5:16)神はあなた方にこのことを望んでいます。
 「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」(一テサ5:21)
 平和の神があなたを全く聖なる者としてくれますように。霊も体も魂もなに一つ欠けることがなく、われらが主キリスト・イエスの来るときには非の打ち所のない存在としてくれますように。
 あなた方を招いた方は真実で、必ずその通りにしてくれます。
 兄弟たち、われらのために祈ってください。
 あなた方よ、聖なる口づけによってすべての兄弟たちに挨拶しなさい。この手紙をすべての兄弟たちに読み聞かせなさい。主により命じます。
 われらが主イエスの恵みがあなた方にありますように。

 来臨は或るとき突然に訪れるのではなく、事前の地均しあって為される。そうパウロは説きます。以前に読んだパウロ書簡のなかにやはり同種の主張があったように思います。また、福音書にもよく似たことが書かれていた、と記憶します。夜も昼も目を覚まして、身を慎んでいましょう、という点についても然り。
 上述のことは、たとえば福音書ならマタ24、マコ13、ルカ12と17そうして21に見られました。パウロ書簡としてはロマ13:11-14、一コリ16:13-14といった箇所が挙げられるでしょう。
 ゆえに、というわけではありませんが、わたくしは書簡群のうち最初期に書かれたとされる「テサロニケの信徒への手紙 一」は、福音書の精読を通してパウロが摑み取ったエッセンシャル・オブ・ゴスペルというべきものであり、それまで行っていた宣教の内容を<神学>へ発展させるためのプッシング・ボードの如し、と思うのであります。
 ──本日を以て「テサロニケの信徒への手紙 一」は読了となりますが、読了挨拶は次の「テサロニケの信徒への手紙 二」と一緒に。というわけで、明日は(短いながら)「テサロニケの信徒への手紙 二」前夜であります。



 例によってタワーレコードのHPを巡回中、Rock/Popsのページを開いた。殆ど知らないアーティストの新作が並んでいるなぁ。その反動だったか、検索ウィンドウに「ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース」と打ちこんでみた。見馴れたジャケットのオリジナル・アルバムやライヴDVD、或いはベスト盤やコンピレーション・アルバムがわらわらと出てくるなか、見馴れぬタイトルのアルバムを発見。タイトルを『The Oregon Report』(Refractor Records//FMCB101CD//2015/09/18)という。
 これはなんだ、よもや新作か!? 勇んでタイトルをクリックしたが、得られる情報はなにもなく、Googleで調べてみた。その瞬間にも期待値は一気に沸騰する。ベスト盤の類を除けばかれらのアルバムは2010年のメンフィス・ソウルのカバー・アルバム『Soulsville』以来だ。いったいどんな内容なんだ、カバーではなくて完全オリジナルな音盤であることを祈っているぜ! ……と、ようやくGoogleの検索結果から見附けた情報によれば、『The Oregon Report』は1986年12月17日、オレゴン州ポートランドでのスタジアム公演を収めたライヴ・アルバム。
 タイトルだけ先に知り、Googleが検索結果を表示するまでの極めて短い時間、わたくしはこんな風に思うて過ごしておったよ。曰く、──
 またまたまさかのベスト盤かよぉ! いったいどうなっているんだ、このアルバム・タイトルとヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの関連はどこにあるのさ!? 「オレゴン」ってあのオレゴン州か。ヒューイが住んでいる所ってモンタナ州だろ。バンドとオレゴンの関係っていったいなんなの。それともレコード会社がオレゴンにあるからその会社のリリース物です、っていう程度の意味合いで件のタイトル?  期待値が大きかっただけに反動は実に、実に、実に大きく、地中にめり込んで地殻を引き裂きマグマ溜まりにまで達するか、という勢いだ。つまり一言でいえば、超ベリー・バッドなのである。もうね、布団かぶって明後日までふて寝したいレベルである。みくらさんさんか、マジ失望。  比較的コンスタントに新作がリリースされるアーティストのファンが羨ましいや。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの新作アルバムが2010年代にリリースされることは、もうないんじゃないのか? レコード会社ももうちょっとこのあたり検討してよね。いっそのこと日本のレコード会社がかれらに働きかけて、新作アルバム3,4枚作ってもらえば良いと思うの。だって、ねぇ?
 ──と、ここに至るまで約1.数秒。即ち、Googleの検索結果が表示されるまでの、刹那の時間。検索結果をスクロールしてゆく前に、一旦コーヒー・ブレイク、クール・ダウン。
 1980年代のライヴ音源がリリースされるのは別段珍しいことではない。『The Oregon Report』が正規盤であるかも不明だ。HLNの公式サイトになんの情報も出ていないところから察すれば、おそらく正規盤として扱われる類のアルバムではなかろう。放送音源(WAAF-FM)であるようだから、所謂ブートレグでしょうね。
 が、ブートレグであったとしても、1980年代なかばという全盛期のライヴがこうして聴けるのは貴重だ。考えてみればHLNにはそんなアルバム、これまで1枚もなかったものね。同じ1980年代アメリカン・ロックの一方の雄であったB.スプリングスティーンには幾らでもそうしたものがあるにもかかわらず。
 これが正規盤でなかったとしても構わない。わたくしは買うさ。HLNのライヴ・アルバムなんて結成25周年を記念した『Live at 25』があるだけだからね。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースが筋金入りのライヴ・バンドであることを証明するには打ってつけの1枚であろう。
 でも気になる点が1つ。ほぼ同時期にリリースされた『Hip to be Square…Live』(Klondike Records//KLCD5029//2015/08/14)というライヴ・アルバムがあって、こちらも1986年12月、オレゴン州ポートランドでのコンサートを収めた1枚。やはりWAAF-FMの放送音源を使っているが、収録日は『The Oregon Report』が12月17日、『Hip to be Square…Live』が12月18日。曲目と順番に異なるところはない。完全一致。これは是非両方を購入して確認しなくてはいけないね!
 それはさておき、わたくしが願うことはこういうこと──これを機に、放送音源がCD化されて昔からのファンの渇きを癒やしてほしいな。◆

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第2245日目 〈テサロニケの信徒への手紙・一第2章2/2,第3章&第4章1/2:〈テサロニケ再訪の願い〉&〈神に喜ばれる生活〉withシェルヘン・ボックス、登場!〉 [テサロニケの信徒への手紙 一]

 テサロニケの信徒への手紙・一第2章2/2と第3章、第4章1/2です。

 一テサ2:17-3:13〈テサロニケ再訪の願い〉
 わたしとあなた方は遠く隔てられた地にいます。切に願うのはあなた方の顔を見たい、ということ。それゆえにわたしはそちらへ再び行くことを希望しているのです。いままでも何度か再訪の機会はありましたが、都度サタンに妨げられてきました。主イエス来臨のとき、あなた方はわれらの喜びとなり、誉れとなる──あなた方以外の誰もわれらの希望となり誇るべき冠となる人々はいません。わたしはそんなあなた方に会いたいのです。
 その思いは留まるところなく膨らんでゆきました。われらはアテネに残りましたが、そちらへ協力者である兄弟テモテを派遣しました。あなた方を励まし、信仰を強め、如何なる苦難に遭おうとも誰一人それに動揺しないで済むようにです。誘惑者が来てあなた方を惑わせたりしないように、わたしはテモテをテサロニケに派遣したのです。
 ──いまテモテがこちらへ帰ってきました。あなた方の信仰と愛についてうれしい知らせを携えて。加えて、あなた方がわれらに、しきりに会いたがっている、とも聞きました。われらはあらゆる困難と苦難に直面していますが、あなたがたの信仰と愛について聞いたことで励まされました。あなた方が主イエスにしっかりと結びついているならば、われらはたしかに生きている、といえるのです。神の御前にてあなた方は、われらの大きな喜びとなるでしょう。そのためにも、──
 「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」(一テサ3:10)
 どうか、神と主イエスがそちらへ行く道をわたしの前に開いてくれますように。主があなた方を、互いへの愛とすべての人への愛とで満ちあふれさせてくれますように。主イエスが来臨するとき、あなた方の心を強め、神の御前で聖なる、非の打ち所なき者としてくれますように。

 一テサ4:1-12〈神に喜ばれる生活〉
 テサロニケの兄弟たちよ。あなた方はどのようにして歩めば神に喜ばれるか、よく知っています。今後も弛まず歩いてください。
 神の御心はあなた方が聖なる者となることにあります。即ち、──
 「みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならない」(一テサ4:3-5)
 神があなた方やわれらを招くのは、聖なる生活をさせるためであって汚れた生き方をさせるためではありません。従って戒めに背いたり拒むことは、聖霊を与えてくれた神を拒むことに他ならないのです。
 兄弟愛については書く必要がなさそうですね。なぜなら、あなた方はもうそれを、マケドニア州全土の兄弟たちに実践しているからです。これからも精励してください。
 「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」(一テサ4:11-12)

 わたくしにとって「テサロニケの信徒への手紙 一」の価値は引用した第4章の2つの文言にしかありません。聖書読書を始める前からここには下線を引いて折に触れて読んでいたのです。というのも、自分の理想がここにあるからです。どんな仕事に就いていようと、<人>として貴い者になろうと、これらの文言を金科玉条のように押し戴いてきたのであります。
 が、顧みて果たして実行できているか、と訊かれれば……ううむ、理想へ至る道は険しく、長い、というところでしょうか。でも、この一テサ4の2つの文言が心のなかにある限り、理想とする自分自身、そうして生活にわずかずつでも近附いている、と信じて止まないのであります。



 4月5日、どうやらヘルマン・シェルヘンがウェストミンスター・レーベルに残した膨大な録音からセレクトされたボックス・セットがドイツ・グラモフォンからリリースされたらしい。指揮者シェルヘンの本領発揮といえよう大バッハやマーラーが聴けるのはうれしいのだが、一方でブラームスの第1交響曲やベートーヴェンの<不滅の九>については第9番など一部を欠くのが惜しい。とはいえ、このボックス・セットに収められた過半は1990年代に発売された国内盤を持っているから、その点を咎めるのはやめるとしよう(上から目線なのは承知だ)。
 買うの? んんん、正直、迷っている。シェルヘンがウェストミンスターに録音したバッハ作品にはカンタータ集があって、枚数としては4枚分ぐらいになるはずなのだが、こちらは収録が見送られたようだからなぁ──いったい誰がセレクトしたのか、タワーレコードの告知からは判然としないが、逆にごっそり落としてくれているあたりが潔い。消費者であるこちら側にいわせれば、或る意味で勇断といえるだろう。中途半端な収録なら御免被るケースもあるからね。序でにいえば、新ヴィーン楽派も抜け落ちている。指揮者としての出発点となった作曲家たちの録音を落としたのは解せぬが、まぁいいか。
 4月末にはかつて大幅なカットと終演後の聴衆の応酬が話題となったマーラーの交響曲第5番もAltusから復刻されるそうだ。オーケストラはフランス国立放送管弦楽団。初出時のフランス・ハルモニアムンディ盤と比較して音質の大幅な向上が謳われている点が、予約購入に踏み切らせました。こちらも処分して後悔した音盤だからなぁ、今度は大事にしようッと。同じ日に演奏されたバッハの《フーガの技法》とメシアンの弟子バリフの《角笛と猟犬》も収録される由。こちらは初出ということなので、この2曲だけでも購入理由になるかもね。ならない? そうかなぁ。◆

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第2244日目 〈テサロニケの信徒への手紙・一第1章&第2章1/2:〈挨拶〉、〈主に倣う者〉他with『図書館戦争 THE LAST MISSION』がまだ観られていません!〉 [テサロニケの信徒への手紙 一]

 テサロニケの信徒への手紙・一第1章と第2章1/2です。

 一テサ1:1〈挨拶〉
 わたしパウロと兄弟シルワノとテモテからテサロニケの教会のあなた方へ。恵みと平和が神と主に依ってありますように。

 一テサ1:2-10〈主に倣う者〉
 われらは祈りの度毎にあなた方を思い起こし、神に感謝しています。というのも、──
 「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」(一テサ1:3)
 あなた方の町で、われらがどのように働いたかはご承知でしょう。あのとき、あなた方はひどく苦しめられていた。が、聖霊に基づく喜びを以て御言葉を受け入れて、われらに倣い、主に倣い、マケドニアとアカイア両州の信徒たちすべての模範となったのでしたね。あなた方の神への信仰の篤さについては至る所で伝えられています。そこでの信仰に関してわれらが補足したりするようなことはありません。
 なぜならば、かれら自身が広告塔となってわれらのことを言い広めてくれているからです。われらがどのようにあなた方へ迎えられたのか、あなた方が如何にして神に立ち帰り生ける神に仕えるようになったか、どのようにしてあなた方が御子が天から来るその時を待ち望むようになったか、そうした事柄をかれらは言い広めています。
 なお、最後に触れたこの御子こそが、神が死者のなかから復活させた、来たるべき怒りからわれらを救う役を与えられたイエスなのであります。

 一テサ2:1-16〈テサロニケでのパウロの宣教〉
 われらがあなた方の町へ行ったことは決して無意味ではなかった。それどころか神に勇気づけられて、激しい苦難に見舞われつつも、吹きすさぶ逆風に曝されるつつも、神の福音をあなた方へ語ったのでした。
 われらの宣教は不純な動機から為されているわけではない。われらは神によって、福音を宣べ伝えるために選ばれ、その資格を与えられたのです。福音を委ねられていなければ、宣教に努めていたかどうか……。われらは人に喜ばれるためではなく、われらの心を吟味する神に喜ばれるため、この仕事に就いているのです。
 われらは人にへつらったり、口実を設けて掠め盗ったりしませんでした。神が証人です。われらは何人からも人間としての誉れを求めたことがありません。キリストの使徒として権威を主張することができたからです。
 われらはあなた方の間では威丈高にならず、幼な子のようになっていました。キリストの福音ばかりか、自分の命さえ喜んで与えたいと願った程、あなた方を愛したのであります。
 われらは誰にも負担を掛けませんでした。夜も昼も働きながら神の福音を宣べ伝えました。あなた方はわれらの労苦と骨折りを覚えているでしょう。われらが信徒1人1人に対してどれ程敬虔に、正しく、非難されることがないよう振る舞ったか、あなた方が証ししてくれるでしょう。
 「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」(一テサ2:11-12)
 絶えることなく神に感謝しているわれら。なぜならば、あなた方は福音を人の口から出た言葉ではなく、神の言葉として聞き、自分たちの内へ受け入れたからであります。事実、それは神の言葉であります。そうして現にあなた方のなかで働いて作用しているものなのであります。
 テサロニケの兄弟たちよ。あなた方はいま、ユダヤの、キリストに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。あなた方もキリスト者となったユダヤ人同様、同胞から苦しめられていたためであります。ユダヤ人たちは預言者とナザレのイエスを殺し、使徒を始めとするキリスト者たちを迫害しました。神の目に正しいと映ることをせず、あらゆる人々に敵対して異邦人も救済されるよう願い語るわれらの宣教を妨げるなど、自分たちの罪を重ねるようなことばかりしています。「神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。」(一テサ2:16)

 〈挨拶〉に出るシルワノは第2回宣教旅行に於けるパウロの随伴者の1人シラスであります。
 テサロニケ教会に集う信徒たちがどれだけ篤信家揃いで、神の目に正しいと映ることをことごとく行って、そうしてどれだけ敬虔であるかを讃える言葉で始まる本書簡。パウロの神学論が前面に押し出されることとなる後の手紙と異なり、より相手のしあわせを心より願ったパーソナルな傾向を見せる手紙と思い、また人間パウロの真心にあふれたあたたかみのある──血の通った手紙と思います。これはやはり〈パウロ書簡〉のうち最初期に書かれたことが関係しているのかもしれません。
 宣べ伝えたキリストの福音は、テサロニケの信徒たちの模範的な信仰生活を通してマケドニア、アカイア両州のみならずギリシア諸州へ広められてゆく。自分に代わって恵みと平和について異邦人へ語り、説くことのできる存在のあることは、パウロにとってどんなに心強く、喜ばしいことであったでしょう。
 引用した一テサ1:3は後年に書かれる「コリントの信徒への手紙 一」第13章の萌芽といえましょう。信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を抱いて忍耐する。信仰、希望、愛。これらが最後まで残るのでありましたね。



 先月末、『図書館戦争 THE LAST MISSION』のBlu-rayを入手しました。タワーレコード・オンラインで予約し、数日後に受け取りました。当然、特典てんこ盛りのプレミアムBOXです。公開に併せて発表された掌編が読める、という<ウリ>がなければプレミアムBOXの購入は見送っていたかもしれないなぁ……。
 受け取った翌日は休みにあたっていたので、さっそくじっくりと鑑賞する予定だった──が、予定はあくまで予定でしかない。あれから1週間が経とうとしているのに、その間に休みを2日もらっていたにもかかわらず、今日に至るも未だ観ていないという事態が継続中。いやぁ、参ったね。マンションを見に行ったり、病院に行ったりしていたせいかな。そういえばお花見して束の間の安息も得られたこともあったっけな(と、遠い目)。
 明日も休みだけれど、予定があるから鑑賞は無理だろう。これまでの経験値に基づく限りなく事実に近い予想である。諦めの境地? うむ、それ以外に言い様がないな。ハンス・ザックスのような諦念の微笑を以てこの憂うべき自称を傍観しようか。が、その次に控えている久しぶりの連休には必ず! と、必要以上に鼻息を荒くして意気込んでいる今夜であります。ただいま4月4日、21時07分……。◆

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第2243日目 〈「テサロニケの信徒への手紙 一」前夜withスタバにいたから午前様。〉 [テサロニケの信徒への手紙 一]

 「(パウロはテサロニケ到着後、ユダヤ人の会堂へ行き、)三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」(使17:2-4)
 シラスとテモテを随伴者とする第2回宣教旅行の途次、パウロはテサロニケへ立ち寄りました。ここを離れたあとに書き送られた手紙が「テサロニケの信徒への手紙 一」であります。
 本書簡は<パウロ書簡>のうちでも最初期に書かれたと目され、パウロ真筆を疑われない手紙の一つという。執筆時期はおそらく第2回宣教旅行の終盤、その場所はコリントである可能性が高い。宣教旅行は48-52年と推定され、コリントはその終盤に差しかかった頃に滞在した町。パウロはテサロニケの次に行った町ベレアを去る際、宣教が不十分であるのを思うて随伴者シラスとテモテをそこに残した(使17:14)が、かれらはコリントでパウロと合流した(使18:5)。その折の喜びをパウロは本書簡を綴る際、曰く、「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰ってきて、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせをもたらしてくれました」(一テサ3:6)と。執筆場所はコリント、年代はコリント滞在時期とされる50-52年頃だろう、と考えるのが無難な様子であります。
 パウロは本書簡で──全5章の短い手紙でなにを、テサロニケ教会の信徒たちへ語らんとしたのでしょう。実はこの点、「フィレモンへの手紙」によく似ています。つまり教会内で起きた諸問題について論じるのではなく、もっと根本的なこと、即ちキリストへの信仰に深く帰依するかれらを喜びとし、感謝し、励ました手紙なのであります。これまで読んだ手紙の大半(たとえば「ローマの信徒への手紙」や「ガラテヤの信徒への手紙」など)は非キリスト者にしてみれば、その情熱の奔流に呑まれて辟易するところもあったのですが、対して本書簡は文章は平易、趣旨は明快なる点がこれまでに読んだ手紙とは明らかに異なり、読んでいてよくわかるという喜びを抱くものであります。まあ、それゆえにやや一本調子の罠に陥ったところはありますが、それについては視界の外に置くと致しましょう。
 パウロは第2回宣教旅行でテサロニケを訪れた際、この地に教会を建てました。ローマ帝国属州マケドニアのテサロニケは当時よりして既に規模の大きな通商と軍事の要衝でありましたが、それは時代を遥かに下った今日に於いても変わりなく、ギリシア第2の都市テッサロニキとして往時の繁栄そのままに在り続けております。
 テサロニケの町はアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)の死後に勃発したディアドコイ戦争(前323-281年)の最中、アンティパトロス朝マケドニアの初代王カッサンドロスによって創建された、と伝えられます(伝前315年頃)。その後、マケドニア地域の支配者は共和政ローマから帝政ローマに、帝国分裂してからは東ローマ帝国、オスマン帝国に移り変わってゆきましたが、いずれの時代にあってもその版図のなかでテサロニケは相応の存在感を示したようであります。
 パウロがテサロニケに教会を建てた意義は頗る重要で、帝都ローマとビザンティウムを結ぶエグナティア街道に面したこの町が真の意味での拠点となって、世界の西側へキリストの福音が流れこんでいったのであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「テサロニケの信徒への手紙 一」を読んでゆきましょう。



 深夜まで営業している職場近くのスターバックスにいます。ついつい長居してしまうのが頭痛のタネなこの店舗、いつも通っている店舗は22時までの営業なのに対して、ここは午前2時が閉店。ゆえ普段以上に原稿を書くための時間を費やしてしまったり、なんとなく本を読んで過ごしてしまうのですね。
 じゅうぶん予想され、大概その通りになる顛末として終電に間に合わなくなり、自宅まで小一時間をかけて徒歩で帰宅する始末です。従って翌日が仕事のときは睡眠不足(自業自得!)で出勤、業務に就くことになる。あまり良い結果を生まないことは重々承知なのだが、それでも原稿書きに最適な環境が整ったこのスタバへ立ち寄ってしまうのだ。
 でも、殆ど時間を気にしないでじっくりと物が書ける場所が家の他にあるというのは、或る意味で自分がとても恵まれた環境にいることの裏返しでもありましょう。いつまでもここにいられればいいのになぁ……。◆

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第2242日目 〈指揮者、モーリス・アブラヴァネルを知っていますか?〉 [日々の思い・独り言]

 明日お披露目予定の「テサロニケの信徒への手紙 一」前夜を執筆中、宛先となった町テサロニケについて調べていると、ちょっと懐かしい名前に遭遇した。
 LP初期の時代、アメリカにVOXというレコード会社があった。今回集中的に文章を書いていたペーター・マークは1960年代後半から1970年にかけて、フィルハーモニア・フンガリカを指揮してシューベルトの交響曲全集や劇付随音楽《ロザムンデ》全曲、或いはモーツァルトの《フリーメーソンのための音楽集》をVOXレーベルに録音している。今日なお現役のレナード・スラットキンはセントルイス交響楽団を振ってガーシュイン、ラフマニノフの交響曲全集とピアノ協奏曲全集を、ピアニストのアルフレード・ブレンデルも無名時代にベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を小品と一緒に、このVOXに録音していたのだ。
 1990年代の初め、当時の録音が2枚組、或いは3枚組、4枚組でという廉価版のシリーズになって輸入盤を扱う一部ショップに並んだが、それはちょうどクラシック音楽を聴き始めた、あまり自由になるお金のない時代のわたくしにとって質の良い演奏で名曲やその周辺の曲を知ってゆくことのできる、まさしく水先案内人の如き存在であったっけ。廉価CDの雄NAXOSと併せて、VOX BOXから受けた恩恵は言葉で言い尽くしがたいものがあるね。  が、本稿の眼目はそうしたことにあるのではない。テサロニケ出身の或る指揮者のご紹介である。  ギリシアのマケドニア地方に位置する町テサロニケ。今日ではテッサロニキと呼ばれるようだが、この町、紀元前からローマ帝国の強いた主要街道の一つに面していたこともあり、通商と軍事の要衝としてずっと栄えてきた。地中海世界の覇者がどれだけ代わろうとも、その地位は(結果的に)安泰であったのだ。  オスマン帝国時代のテサロニケに医者の息子として生まれたのが、後の指揮者モーリス・アブラヴァネルである。父からは自分のあとを継ぐことを望まれていたが、親の心子知らずとでもいうのか、医者になるぐらいなら……と拒絶の手紙を以て親と同じ道へ進む可能性を封印したモーリスはドイツはベルリンに留学、かの地で作曲家クルト・ヴァイルの門下に入り、音楽家としての人生をスタートさせる。  ドイツ各地で合唱指揮者、歌劇場指揮者としてのキャリアを積んで活躍するアブラヴァネルの前には暗雲が立ちこめる。時代はヒトラー率いるナチス党が台頭、反ユダヤ主義の風が欧州を席巻しようとしていた。機を見るに敏なユダヤ人芸術家は我先に国外へ脱出、アブラヴァネルも例外でなくまずフランスへ亡命した。しかしここにもナチスの軍靴は聞こえて来、かれはオーストラリア、アメリカへ転々と身を移してゆく。  安住の地はアメリカ合衆国。メトロポリタン歌劇場でオペラを指揮するなど実績を積み重ねていったアブラヴァネルは、そうして遂にベスト・パートナーたるユタ交響楽団の首席指揮者に就任する。この地方オーケストラはモルモン教をバックにしているゆえに資金も潤沢にあった、といわれる。為に楽器も良いものが揃っている、と。いいかえれば腕の良い奏者を相応の給料で雇い入れることも可能であった、ということ。アブラヴァネル就任までの経緯は知らないが、アブラヴァネルとユタ響の組み合わせはまさに<黄金コンビ>と称すに相応しかった。  かれらはVOXやヴァンガードといったレーベルを中心として、陸続と名演奏を送り出した。なかでも金字塔と呼ぶべきは世界初、史上初となるマーラーの交響曲全集の完成である。直後に完成したL.バーンスタインの1回目の全集やその後のマーラー全集の陰に隠れて話題になることが少ない様子だが、これはなかなか良い演奏である。理性と情念が程よく調和したマーラー。  しかし、個人的な思い入れではあるがマーラー以上にアブラヴァネル=ユタ響の音盤で触れたいのは、チャイコフスキーの交響曲全集である。わたくしはこれでチャイコフスキーの初期交響曲を知ったのだ。冷静に考えてみれば、後期の3曲に於いても第5番以外はアブラヴァネル=ユタ響の音盤で知ったような気がしないでもない。これについて語るのはちょっと愛着が過ぎていけないので、冷静になって気持ちを整理してから改めて聴き直し、そうした上で後日、新たに稿を起こすことにする。  一つだけ述べておかねばならぬことがあるとすれば、こういうこと──モーリス・アブラヴァネルはA.フィードラーやカラヤン、ショルティ、海野義雄と共に、わたくしにクラシック音楽の扉を開いてくれた大恩ある人物なのである。◆

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第2239日目 〈ペーター・マーク=都響:ブルックナー交響曲第5番を聴きました。〉 [日々の思い・独り言]

 ブルックナーの交響曲第5番を音盤で初めて聴いたのはカラヤン=ウィーン交響楽団によるオルフェオ盤、1954年10月2日のVSO創立90周年記念コンサートの録音であった。これは同時にブルックナー初体験であったわけだが、最初に聴いてすっかり興奮したせいか、その後しばらくは第5番を専ら聴き耽ることになる。なかでも今回のペーター・マーク=東京都交響楽団のライヴ録音は<珍>と称すより他なきものと思うた。
 他のブルックナー指揮者ならじっくりと歌わせるような、言い換えれば往々にして濃厚な味付けになりがちな箇所でもマークはさらりと流す。譜面通りにやれば金管が咆哮するような箇所でも「控えて、控えて」と注文を出したかのようなジェントルマンな演奏を旨とする。一方で、時折テンポを意図的に崩すような大胆表現が散りばめられているから侮れないのも事実。まぁ、総体的にいえば、ブルックナーらしくないのだ。
 でも、実はそれがこの演奏最大のキモ。ブルックナーの音楽が持つ宇宙的な規模、神への捧げ物に相応しい荘厳さときっぱり手を切った場合、あとに残るのはなにか? ブルックナーの音楽の根底に塗りこめられた素朴さ、民謡を連想させる歌心であるまいか。
 ここがマークの資質と合致して最大限に発揮されたゆえに、ここに聴くブルックナーが他の指揮者による演奏に較べて次元とベクトルの異なる演奏となったのだ。チェリビダッケに代表されるスケールの大きな演奏とは真逆の方向を向いたマーク=都響のスタイルは、しかしブルックナー演奏のもう一つの指針と捉えて決して軽視したり骨董的扱いをしてはならぬだろう。
 この第5番を聴いて、他にブルックナーを振ってはいないだろうか、録音されたりしていないだろうか、と電脳の海を逍遙してみたが、非力なことも手伝って同曲は勿論他の曲も演奏記録は見附けられなかった。この点、識者のご指摘を待ちたい。個人的には第6番と第7番など聴いてみたいのだが……。
 1986年4月10日に行われた第233回定期演奏会のライヴ録音、会場は東京文化会館である。東武レコーディング。◆

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