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第2358日目 〈ヨハネの黙示録第11章:〈二人の証人〉with今年最後の3ヶ月で部屋の模様替えとかしよう!〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第11章です。

 黙11:1-14〈二人の証人〉
 わたしは杖のような物差しを与えられた。声がわたしにいった、その物差しで神殿と祭壇を測、礼拝する者の数を数えよ。但し神殿の外庭は測らなくてもよい、そこは異邦人に開放されているからだ。声曰く、異邦人は42ヶ月にわたって聖都を蹂躙するからである、と。
 声は、2人の証人を立てて1,260日の間預言させよう、といった。それは地上の主の御前に立つ2本のオリーブの木であり、2つの金の燭台である。証人は預言の最中は天を閉じて雨が降らないようにする力があり、またかれらに害を及ぼそうとする者に対してはことごとく殺めて倒す力もあった。
 かれらが預言を終えると、1匹の獣が底無しの淵から這いあがってきて戦い、獣が勝利を収める。証人の死体は、たとえばソドムやエジプトと呼ばれる町の目抜き通りに曝され、全地の人間がそれを眺めに集まってくる。3日半の間、それはそこに曝され、ゆえに埋葬することを許されないだろう。「地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。」(黙11:10)
 3日半が経過した後、命の息が神から出て、2人の証人の体に入る。すると証人は再び立ちあがった。死体を眺めていた者らはどよめき、驚き、そうして恐れた。2人の証人はそのとき聞こえた天からの声に従って、雲に乗り、天に上がった。誰もが──かれらの敵さえもそれを見た。かれらが天に上ると、地上には大きな地震が起こり、都の1/10が倒れ、7,000人が死に、辛うじて生き残った者らはこのことに畏怖を抱いて、天の神の栄光を讃えた。
 ──第二の災いが過ぎ去り、この後更に第三の災いが速やかにやって来る。──

 2人の証人/預言者とは2本のオリーブの木であり、2つの金の燭台である。これはゼカ4:1-3を踏まえた表現であるが、具体的に誰と誰を指すのか、定かではない。
 本章では過去に読んだ書物の場面を連想させるところが3ヶ所あります。杖のような物差しを与えられて神殿や祭壇を計測せよ、とは「エゼキエル書」を思い出させます。バビロンにいた預言者エゼキエルは或るとき幻のなかでエルサレムに戻り、神のみ使いがエルサレム各所の測量を行うのに同行します。黙11:1を読んで、わたくしはそれを思い起こしたのでありました。本章にてこの計測の指示が幻視者に与えられたのは、エルサレム陥落を暗に伝え、瓦礫からの復興もしくは新たなる聖都造営に備えてのことなのかもしれません。
 そうして黙11:7-13。ここについては2つに分けます。1匹の獣によって2人の証人が殺され、死体が曝され、それを見物に来た衆がいて、地震に襲われる:これをゴルゴタの丘に於けるイエスの処刑と直後町を襲った地震を思わずに読み流すのは不可能事ではないでしょうか。1匹の獣がローマを指すのか、或いはもっと大雑把に反キリスト勢力を指すのか、はっきりとしたことはわかりません。
また、3日と半日後に2人の証人は神の命の息を吹きこまれて立ちあがり、やがて天に上った:これを3日後に実現したイエスの復活と昇天を思い出さずに読める人がどれだけいるのでしょう。疑問です。
 「ヨハネの黙示録」著者は旧約聖書に精通し、イエスに親しく接した人物であろう、とは既に述べました。それが使徒ヨハネならば、すくなくともゴルゴタの丘での磔刑から皆の前での昇天までを具に目撃しているわけですから、それを書物に綴る際自在にパラフレーズすることは十分可能でありましょう。
勿論、幻視した事柄を書いたものが本書「ヨハネの黙示録」でありますが、幻視した光景のすべてを正確に文字へ移し替えることができたとは到底考え難い。──物書きの端くれとして疑を呈す、そんなことが完璧に出来るものか、と──。視た光景をあとから思い出して書こうとしたとき、描写の補強材料になるのは<それ>にまつわる自身の記憶だけではありませんか。そう考えるのであります、いまは。



 ブログが終わったらぜったい部屋の大掃除と模様替えに手を着けるんだ。床から隆起した本の山脈を切り崩し、Macがあるに相応しい部屋にするんだ。なによりも探している本や書類の類がすぐに見附けられる部屋にするんだ。
 そのためには不要なものはヤフオクに出品したり、処分できないけれど部屋に常置する程でもないものについては、(むかしのように)レンタル倉庫も活用していかないとね。10月頃から少しずつ手を着けて、年末年始には新装できれば良いな。◆

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第2357日目 〈ヨハネの黙示録第10章:〈天使が小さな巻物を渡す〉withジャズ……聴きたい時が聴き時。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第10章です。

 黙10:1-11〈天使が小さな巻物を渡す〉
 わたしは視た、天からもう1人、力強い天使が雲を纏って降りて来るのを。右足で海を、左足で地を踏みしめた天使、その手には封の開かれた小さな巻物。獅子の咆吼を思わせる大きな声で叫ぶと、呼応したかのように7つの雷がそれぞれの言葉で語った。わたしはそれを書き留めようとしたけれど、天からの声がそれを制止した。
 が、しかし──わたしは視た、そのとき、海と地を踏みしめて立つ天使が右手を高く掲げ、世々限りなく生きる方にかけて誓うのを。地と空と海を創造し、そこに暮らす生きとし生けるものを創造した方にかけて、かの天使は誓った、──
 「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」(黙10:6-7)
 再び天からの声が聞こえた。それはわたしにこういった。天使から巻物を受け取れ、と。わたしは、どうかその巻物を自分に下さい、とお願いしてそれを受け取った。すると三度、天からの声が聞こえた。その巻物を食べよ、あなたの腹には苦いが口には密のように甘い、と。わたしはそうした。天からの声がいったように、口には甘かったが腹には(確かに)苦かった。
 すると、わたしにこう語りかける声があった。あなたは多くの国の民、民族、言語を異にする民、また王たちに関して再び預言しなくてはならない。声はわたしにそういった。

 黙10:3「七つの雷」はなにを意味するのだろう。例によって譬喩であったり、象徴であったりするのか。或いは、そんなものとは無縁で、意味あるものの描写がここまで続いた流れで「七つ」てふ数詞を付しただけなのかも。
 果たして真相は奈辺にあるか。わたくしには不明である。どなたか、ご教示を乞う。
 巻物を食べよ、というのは、食べることによってその内容──神の秘められた計画をわが身を以て知れ、という命令。「わたし」にとって、それは使命。口には甘く、腹には苦い、というのはキリスト者にとって預言は甘美なものだが、そうでない者には裁きを伴う苦々しいものでしかないことを意味しております。

 本日の旧約聖書は黙10:5-6とダニ12:7。



 TSUTAYAの返却日に間に合わず、延滞料金がずいぶんな額になるなぁ……とうなだれていたけれど、電話したら明日の営業時間までにポストへ返却すれば延滞料金は発生しないとのこと。まずはほっと一息、安堵の溜め息。延滞未経験ゆえ不安でならず、どうなることかと思うたけれど、どうにかなったことに感謝します。そうか、TSUTAYAの返却日/時間とはそのように設定されていたのですね。
 今回は無性にジャズが聴きたくなり、じゃぁ買いこんでくれば良いじゃん、なる散財を推奨する悪魔の囁きになんとか屈することなく、普段利用するTSUTAYAにてCD10枚1,000円のキャンペーンを利用して、名盤とされるものばかりを借りてきました。
 ジャズを聴き始めてから20年近くになるけれど、系統立てて聴いたことは一度もない。常に手当たり次第、目に付き次第。ジャケットやら誰彼のエッセイや小説に触れて、聴いてみようかな、と思うが精々。名盤中の名盤と呼ばれるものが昔から何度となく再発されてきていて、それが非常に安価で入手可能な時代にあってなお、わたくしはこれまで腰を据えてジャズを聴こうという気になったことはなかった。今後はそれを改善してゆく──わたくしの音楽面に於けるいまのところ唯一の楽しみである。
 レンタルと購入を組み合わせてゆくことになるわけだが、このたび延滞の不安など抱きもしなかった1週間前、盟友たる同僚と此度の人事異動について途切れる会話を酒飲みながら交わして別れた帰り、TSUTAYAに寄るため途中下車して、流れる汗を拭き拭き棚からカゴへ移してセルフレジへ持っていったジャズ・アルバムは、──
 マイルズ・デイヴィスを2枚、ビル・エヴァンスを2枚、ゲッツ&ジルベルトを1枚、セロニアス・モンクを3枚、アート・ペッパーを1枚、という布陣。タイトルは伏せるけれど、どれもこれも名盤、定盤として歴史へ刻まれたアルバムである。読む人によっては今更感もある内容だけれど、聴きたいと思うたときがその人にとって最良のタイミング。名声に惑わされて知らぬうちから手を出すと却って訳がわからず、ジャンルから遠ざかるきっかけになりかねないのだから、然様、「聴きたい時が聴き時」なのだ。
 iTunesに取りこんだこれらのアルバムに、これからじっくり耳を傾けてゆきます。
 ──レンタル枚数とアーティストのアルバム合計数が合わない? ん〜、気のせいではないでしょうか。けっして『ラブライブ!』のベスト・アルバムを借りたわけでは、な、ないんだからね! ど、動揺させないでよ! ぷん。◆

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第2356日目 〈ヨハネの黙示録第9章:〈天使のラッパと災い〉2/2withいつもの悩み、終わらぬ悩み。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第9章です。

 黙9:1-21〈天使のラッパと災い〉2/2
 第5の天使がラッパを吹くと、一つの星が天から地上に落ちてきた。その星には底無しの淵へ至る穴を開く鍵が与えられた。開かれた穴からは煙が立ちのぼり、空や太陽を暗くした。
 煙のなかからイナゴの大群が出現して、額に神の刻印を押されていない者らを襲った。地上の草花や作物に害を加えてはならない代わりに、神の刻印のない者を襲うよう命じられていたのだった。
 とはいえ、イナゴは人を殺めることを許されていなかった。5ヶ月の間、襲った者らを苦しめることはできたと雖も。「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。」(黙9:6)
 イナゴの主人は底無しの淵の使者。その名はヘブライ語でアバドン(滅びイ)、ギリシア語でアポリオン(滅ぼす者イ)という。
 ──第一の災いが過ぎ去り、このあと更に2つの災いがやって来る。──
 第6の天使がラッパを吹くと、神の御前の金の祭壇の4本の角から1つの声が聞こえた。声は第6の天使にこういった、大河ユーフラテスの畔に縛られている4人の天使を解放せよ、と。
 斯くして4人の天使は解き放たれた。かれらはまさしくその年、その月、その日、その時間のために大河の畔で縛られていたのである。4人の天使が率いる騎兵の数は万の2万倍、即ち2億。
 わたしが視た馬の姿はこうである。頭部は獅子の頭の如し、口からは火と煙と硫黄を吐いていた。火と煙と硫黄、この3つの災いによって人間の1/3が命を奪われた。馬の力は口と尾にあった。尾は蛇に似て、先端に頭がある。この頭で害を加えるのだった。また、馬の乗り手は炎のような赤、ヒアシンスのような青紫、硫黄のような黄色で彩られた胸当てを付けていた。
 ……斯様な災いを免れてなお、救い難き悔い改めぬ者らがいた。かれらは悪霊を崇め、偶像を拝み、殺人や呪術、淫行に耽り、盗みを働き続けた。

 キリスト者にあらざる者はことごとく滅びる。では、どのようにして? 本章はその答えを提示する。キリスト者にあらざる者らは斯く滅びるべし。むろん、それはほんの一端。序の口に過ぎないのだけれど。「ヨハネの黙示録」という書物に相応しい超弩級の滅びの歌劇を堪能しましょう。
 それだけではなんなので、註釈めいたものを2つ。
 イナゴが人に害を加える期間として記される「5ヶ月」はイナゴの生育期間でもあります。生きている間は思う存分人を襲い、死を望んでも死ぬことのできない程の苦しみを与えよ、ということでしょうか。なかなか背筋を寒くさせられることであります。そうそう、イナゴによる災いということで、出エジプトの挿話を思い起こす読者もおられるかもしれませんね(出10:1-20)。
 黙9:14「ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使」。ユーフラテスは勿論古代文明を育んだ母なる川の1つですが、イスラエルにとってそれは神がアブラハムに与える約束の地の東境(創15:18)であり、同時に滅びを伴う(列強の)侵入の譬えでもあります。これはユーフラテスの向こう岸でアッシリアや新旧バビロニア、メディアやペルシアといった古代オリエントの支配国家が繰り返し勃興したからでしょう。そうなると、4人の天使はイスラエルを脅かして国家と民を揺るがした、上述の列強諸国の比喩であることはいうまでもありません。
 いやぁ、それにしても引用した黙9:6、死を望んでも死ぬことができない、とはなによりも恐ろしいことでありますね。



 毎度のことだが、ブログ原稿の清書部分は2、3時間あれば自然と書けるのだが、日々付属するエッセイについてはいつも頭を悩ませる。聖書部分をPCで入力する段になっても、なにを書くか、まだ決めあぐねている。一つ、二つのアウトラインでもあれば前に進むことができるのだけれど……。なにも思い浮かばない間はひたすら苦痛ですね。
 どうしてこのスタイルを採用したのか、と後悔することはないけれど、書くことが決まらない以上、最悪の場合、今日は安息日にしちゃおうかな、と逃げの一手を講じたくなることもある。幸いと実行したことがまだないのは、ささやかな自慢といえようか。◆

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第2355日目 〈ヨハネの黙示録第8章:〈第七の封印が開かれる〉&〈天使のラッパと災い〉1/2with加藤シゲアキ『ピンクとグレー』を読みました。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第8章です。

 黙8:1-5〈第七の封印が開かれる〉
 小羊が第7の封印を開くと、半時間程だが天は沈黙に包まれた。神の御前に7人の天使が立つのを、わたしは視た。かれらに7つのラッパが与えられた。
 いずこからか、別の天使が来た。手には金の香炉を持っている。その天使は祭壇のそばに立ち、多くの香を受け取った。というのも、すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前の金の祭壇に供え、ささげるためである。香の煙が立ちのぼり、聖なる者たちの祈りと共に神の御前にそれは届いた。
 天使が香炉を取ると、それに祭壇の火を満たして地上へ投げた。すると地上では、雷が轟き、稲妻が光り、様々な音が全地に響き、大きな地震が起こった。

 黙8:6-13〈天使のラッパと災い〉1/2
 それぞれラッパを渡された7人の天使は、構えて吹く用意をした。
 第1の天使がラッパを吹くと、血の混ざった雹と火が生じて地上へ投げ入れられた。地上の1/3、木々の1/3が焼かれて滅び、すべての青草も焼き尽くされた。
 第2の天使がラッパを吹くと、燃え盛る大きな山のようなものが海に投げ入れられた。すると、海の1/3が血に変わった。血の色に染まったのではない。血に変わったのである。また、神の被造物のうち海に住む生き物の1/3が死に、船という船の1/3がことごとく壊された。
 第3の天使がラッパを吹くと、松明のように明るく燃える大きな星が天から落ちてきて、川という川の1/3と水源に落下した。星が落ちたところの水は例外なく苦かった。毒にも等しい苦さだったので、それを口に含んだ者は皆死んだ。天から落ちてきたその星の名が「ニガヨモギ」というたからである。
 ──一連の様子を空から見ていた鷲が、こういった。地上に住む者らよ、お前たちは不幸だ、まだこれから3人の天使がラッパを吹こうとしているのだから。不幸だ、不幸だ、不幸だ、……。

 特段添えるべき補注やお話はないのですが、それでも敢えて1つだけ。
 1986年4月、旧ソヴィエト連邦のウクライナ・ソビエト社会主義共和国にてチェルノブイリ原子力発電所が炉心溶融を起こして世界最大級、レベル7という事故につながりました。概要や原因、経緯等についてはWikipediaに詳細がありますが、図書館などでそれについて書かれた紙資料も博捜して、この事故について知りたい方は事実に近附いてほしく思います。
 さて。当時高校生であったわたくしはその後降った雨に放射能が含まれており、傘をささずにそれを浴び続けると髪の毛が抜けてしまうぞ、と脅された覚えのある者ですが、ところで「チェルノブイリ」とはどのような意味かご存知ですか?
 それはウクライナ語で「ニガヨモギ」を意味するそう。然り、本日読んだ第3の天使が吹いたラッパに呼応して天から落ちてきた星が「チェルノブイリ」なのであります。
 原発事故が起こった際は勿論、今日に至るまでチェルノブイリ原発事故と「ヨハネの黙示録」の相似が指摘され、事故はあらかじめ聖書のなかで予告されていた、と騒ぐ向きがありました。本当に予言であったのか、ただの偶然の一致なのか、それはわかりかねますが、容易に重ね合わせられることだけに頷かされるのであります。
 わたくし? わたくしは……もしかしたらそうなのかもしれないね、というぐらいの思いです。勿論、これは小説に使えるな、と考えはしましたけれどね。



 加藤シゲアキ『ピンクとグレー』(角川文庫)を読了。荒削りな部分もあるけれど、才能は確かにある人だ、と偉そうにもそう感じました。最終章のカット割りに当初はこんがらかってしまったけれど、これはたぶんわたくしが読書に意識を集中できなかった証拠。改めて読み返しましょう。
 さりながら本作は実に疾走感と喪失感に満ちた、痛々しい心の記録。こんな小説を物し得た加藤シゲアキにもはやジャニタレ作家なんて肩書きは失礼であろう。斯くも切れ味鋭い小説を書いたかれに思わず、嫉妬。
 この人の小説がもっともっと読みたいか? 正直なところ、まだ判断できません。好きか苦手か、それさえも、また。処女作の本書1冊だけで判断できようはずもない。明日からは2作目の小説である『閃光スクランブル』(同)を読みますが、それを読み終えたとき抱いた気持ちに従ってこの作家を追いかけるか否か、じっくり検討したく思います。◆

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第2354日目 〈ヨハネの黙示録第7章:〈刻印を押されたイスラエルの子ら〉&〈白い衣を着た大群衆〉with新しいブログ開設を視野に入れる。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第7章です。

 黙7:1-8〈刻印を押されたイスラエルの子ら〉
 わたしは視た、大地の四隅に4人の天使が立っているのを。かれらは四隅からの風を押さえつけ、大地にも木にも海にも吹きつけないようにしていた。また、もう1人の天使が現れるのも視た。その天使は手に神の刻印を持っている。かれは太陽の昇る方角から現れた。
 最後の天使が先の4人の天使にいった。神の僕たちすべての額に刻印を押し終えるまで、大地にも木にも海にも害を加えてはならない、と。4人の天使たちは大地と木と海に害を加える力を与えられていたからである。
 そうしてわたしはヨハネは神の刻印を押される人々の数を聞いた。その数は144,000人。イスラエルの12部族から選ばれた12,000人ずつが額に刻印を押された。ユダ族から、ルベン族から、ガド族から、アシェル族から、ナフタリ族から、マナセ族から、シメオン族から、レビ族から、イサカル族から、ゼブルン族から、ヨセフ族から、ベニヤミン族から、選ばれた12,000人ずつが額に刻印を押されたのである。

 黙7:9-17〈白い衣を着た大群衆〉
 その後、更にわたしは視た。あらゆる国民、あらゆる民族、あらゆる種族、あらゆる言語の使用者が、全地の民のなかから集い来たったのを。かれらは皆白い衣を着、手にはナツメヤシの枝を持っていた。かれらは玉座の前と子羊の前に立ち、大きな声で、救いは玉座に坐る神と子羊のものである、といった。
 また、4人の天使は玉座と長老たちと4頭の生き物を囲むようにして立っていた。かれらは玉座の前にひれ伏して、そこに坐る神を礼拝した。讃美と感謝、栄光と力、知恵と誉れ、威力が世々限りなくわれらが神にありますように。アーメン。
 それを視、聞くわたしに長老の1人が話しかけた。この白い衣を着た者らがどこから来たか、知っているか。わたしは、それはあなたの方がご存知です、と答えた。すると、長老はこういった、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙7:14)と。
 続けて、──かれらは玉座の前にいて、夜となく昼となく神殿で神に仕えるものである。かれらはもはや飢えることも渇くこともない。なにものもかれらを襲わない。
 「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」(黙7:17)

 イスラエルの12部族すべてを列記するのは何年振りでしょう。錆びついた記憶を鞭打ってみても思い出すことかなわず、それは無駄な努力と諦めました。そうして気附いたのは、嗣業の地を分割した当初は後の南王国の領内に自分たちの土地を得たものの事情あって北方へ移ったダン族(ヨシュ19:40-48)の名が見当たらぬことであります。部族を半分に分かたれていたマナセ族、嗣業の地をその職能ゆえに相続せぬレビ族は当然のようにこのリストへは載るにもかかわらず、ダン族はなぜ?
 思うに北方へ第2の嗣業の地を得たダン族はその規模、その場所からアラムを初めとする異民族の偶像崇拝に抵抗する力弱く、段々と染まってしまったのではあるまいか。神の道を正しく歩むことも神の目に正しいと映ることも継続できず、次第次第に本来の信仰をなくしていったのではあるまいか(わたくしにはそんな風に思えてなりません)。──となれば、「ヨハネの黙示録」に於いて神の刻印を額に押される部族のリストから外されている理由もわかる、というものです。
 ダン族を除く12部族の選ばれた者が144,000人というのは、部族を示す12に2乗して1,000を掛けた積であります。実際の人数というよりも、「無数」を示す象徴的数字と考えるのがよいでしょう。聖書を読んでいると象徴としての数字にしばしば出喰わします。聖書読書もあと数週間で終わることですし、そのあと落ち着いたら機を見て数字についてのエッセイを1編、認めてみましょうか。聖書読書が終わったあとにやりたいこと、書きたいことがたくさんありすぎて、どれだけ実現するかわからないけれど、数字のエッセイは400字詰め原稿用紙2枚程度の短いものになったとしても、書いてみたいなぁ、と思うております。
 黙7:14「大きな苦難」とはローマ帝国に於けるキリスト教弾圧、キリスト者迫害を指します。ローマ時代のそれについては既に本書〈前夜〉にて述べました。そちらをご参照いただければ幸いであります。

 本日の旧約聖書は黙7:3とエゼ9:4、黙7:16とイザ49:10、黙7:17aとエゼ34:23、黙7:17bと詩23:2、黙7:17cとイザ25:8。



 もう1つ、ブログを新たに立ちあげる(この表現は正しいか?)つもりでいます。
 来月からはこれまでのように雑駁な話が、相手と顔を合わせてできなくなるであろう環境へ飛びこむことになる。今後、かれらに紹介できるような、かれらが訪問してくれるようなブログを作っておきたいのです。
 今回の環境の変化はあらゆる意味で、<吉>と出るか<凶>と出るかわからないので、たとえいまの場所を離れても自分史上最強の仲間たちとつながり続けていたいのですよ。そのためのツールとの1つとして、新しいブログというわけです。
 さて、実際に立ちあげるとして、どんなブログにしようかな……。◆

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第2353日目 〈ヨハネの黙示録第6章:〈六つの封印が開かれる〉with最近、日付が付いてないよね、と質問してきたあなたに。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第6章です。

 黙6:1-17〈六つの封印が開かれる〉
 わたしが視る幻のなかで──
 小羊が第1の封印を開くと、4頭の生き物のうち第1の生き物が雷のような声で「出て来い」といった。すると、白い馬が現れた。乗り手は手に弓を持っていた。乗り手は冠を与えられると、勝利の上に更なる勝利を重ねようと出て行った。
 小羊が第2の封印を開くと、第2の生き物が「出て来い」といった。すると、火のように赤い馬が現れた。その乗り手には、地上から平和をことごとく奪って殺し合いをさせる力と、大きな剣が与えられた。
 小羊が第3の封印を開くと、第3の生き物が「出て来い」といった。すると、手に秤を持つ乗り手が黒い馬を駆って現れた。4頭の生き物の間から、小麦1コイニクスで1デナリオン、大麦3コイニクスで1デナリオン、オリーブ油とぶどう酒を忘れるな、と唱える声のようなものが聞こえた。
 小羊が第4の封印を開くと、第4の生き物が「出て来い」といった。すると、「死」と呼ばれる乗り手が駆る黒い馬が現れた。それには「陰府」が付き従っている。「彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。」(黙6:8)
 小羊が第5の封印を開いたとき、わたしは祭壇の下に、殉教した人々の魂が群れる様を目にした。かれらは主に向かって、どうしていつまで経っても裁きを行おうとしないのか、われらを死に至らしめた者らに血の復讐を行わないのか、と叫び、訴えた。主は1人1人に白い衣を与えた。そうして、殉教者の数が満ちるまでなおしばらく静かに待っておれ、といった。
 小羊が第6の封印を開くと、──
 「そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。」(黙6:12-14)
 身分や職業に関係なく全知の人々は洞穴や山の岩間に隠れ、それらが自分たちの上から覆いかぶさって、玉座に坐る方の顔と小羊の怒りからわれらを守れ、と訴え、願った。
 ……神と小羊の怒りの大いなる日が訪れた。誰がそれに耐え得よう。……

 封印が開かれる毎に終末の色は濃くなってゆく。われらが思い描く黙示録の役者と舞台が着々と揃い、整いつつある。そんな感が致します。緊張感と切迫感、事態の急転と深刻、悲愴と混迷と絶望を読み手に抱かせる、短くも充実した背景を持つ一章といえましょう。
 尊崇の念から馬を駆る者──騎士は、どうしても「乗り手」としたかった。勿論「黒の乗り手」即ちナズグルのイメージをそれらへ重ねておりますゆえに。
 久々に登場した単位のことを。1コイニクスは容量の単位で約1.1リットル。1デナリオンはローマ通貨単位で1日の労働で支払われる金額──今日風にいえば時給1000円の仕事に8時間従事しての日当、と考えればよいでしょうか。

 本日の旧約聖書は黙6:4とゼカ1:8及び同6:2、黙6:8とエゼ5:17及び14:21、黙6:12とイザ13:10及び同34:4並びにエゼ32:7-8又ヨエ2:10及び同3:4と同4:15(ex;マタ24:29)。黙6:13-14とイザ34:4、黙6:15とイザ2:19及び同21、黙6:17とヨエ2:11及びマラ3:2。



 皆様からのご質問に答えてみようか、と思います(たまにはね)。
 近頃いちばん多いのは、「どうして最近はタイトルに日付を記さないんですか?」という内容でした。やっぱり気になりますよねぇ。わたくしも実は気になっている、どうしてなんだろうね。……すみません、ボケてみました。
 ではマジメに。
 ところで皆様、新約聖書の目次と本ブログの「マイカテゴリー」を較べて、然るべき位置に「ヤコブの手紙」がないことをご存知でしょうか。いちばん下にそれはあるのですが、然るべき位置では断じてない。これが日付を付けていない最大にして唯一無二の理由であります。
 「ヤコブの手紙」のノートはすべて完了しております。前後の原稿調整も予定は立っております。ただわたくしに粘り強さと勤勉さ、そうしてかつてのような使命感が欠けてしまっているために、空白の日々が生まれ、日付を持たぬ記事が絶賛量産中な次第。
 先日、どうにか日付を持つ〈「ヤコブの手紙」前夜〉はアップしたものの、以後はすっかり当該書簡のノートはお披露目できず終い。現在は「ヨハネの黙示録」読了をのみ目指して毎日を過ごしています。為、「ヤコブの手紙」は前後のエッセイと併せて後回しになっており……。
 おそらく、「ヨハネの黙示録」が終わるまで過去記事に日付を付すことはできないと思います。聖書読書完了から『ザ・ライジング』連載開始まで、1週間ばかり本ブログはお休みをいただくことを予定しているので、その間に一念発起して日付を付すだけの単純作業に勤しみたいものです。
 納得いただけるような、いただけないような、まぁいつもながらのお話ですが、上記を以てご質問への回答とさせていただきたく──。
 そのうち他のご質問に答える新たな機会があれば良いな、と思います。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2352日目 〈ヨハネの黙示録第5章:〈小羊こそ巻物を開くにふさわしい〉with映画『REC』シリーズを再鑑賞して気附いた悔しさ。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第5章です。

 黙5:1-11〈小羊こそ巻物を開くにふさわしい〉
 わたしは視た、玉座に坐る方の右の手に1つの巻物があるのを。それは表も裏も字で埋め尽くされており、7つの封印で閉じられていた。わたしは聞いた、1人の力強い天使が、この巻物の封を解いて開くことのできる者、見ることのできる者のありやなしや、と問うのを。その声に答える者は誰もなかった、天にも地にも地の下にも。
 わたしは号泣した。そんなわたしに1人の長老が話しかけた。曰く、泣くな、見よ、ユダ族の獅子にしてダビデのひこばえ、かれが勝利を得たのであの巻物を開いて読むことができる、と。
 わたしは視た、玉座と4頭の生き物と長老たちの間に屠られた小羊が立っているのを。小羊は7つの角と7つの目を持っていた。小羊は玉座の方へ進み出て、そこに坐る方の右の手からかの巻物を受け取った。
 そのとき、4頭の生き物と24人の長老は、竪琴と、香がたっぷり入った金の鉢とを手に持ち、小羊の前にひれ伏した。そうしてかれらは新しい歌をうたった。あなたは巻物を受け取って封印を解くのに相応しい方、と。続けて、──
 「あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、/彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。/彼らは地上を統治します。」(黙5:9-10)
 わたしは視て、聞いた。万の数万倍、千の数千倍になんなんとする数の天使たち、天と地と地の下と海にいるすべての被造物とそこにいるあらゆるものが、口を揃えて異口同音に、それぞれ屠られた小羊を讃えるのを。

 屠られた小羊とは「イザヤ書」にてメシア即ちキリストを表現した語であります。神が持つ巻物──神の秘められた計画が書き綴られた巻物を開封する資格、読む資格、ここでは書かれておりませんが実行する資格を持つのは、屠られた小羊のみなのだ、というのが本章の主旨。後半は専らキリストを讃える場面なので、そう脂汗垂れ流して読解に懸命となる必要はないでしょう。
 この屠られた小羊が持つ7本の角は王権を、7つの目は全知を、それぞれ意味します。これはわれらがいままでの新約聖書読書に於いて培ってきたキリストのイメージ或いは権能と、ぴたり、と重なり合いますね。
 なお、黙5:5「ダビデのひこばえ」の「ひこばえ」。これは木の切り株から生える若芽のこと。ヤコブによって獅子と称されたユダ族の者ダビデの家系からイエスが誕生して、人類の罪を己が血によって贖い、神の右に坐ることを許されたメシアとして信徒の前に立つことを、たった一語で説明し得た表現であります。

 本日の旧約聖書は黙5:5と創49:9、黙5:6とイザ53:7。



 CSにて『REC』シリーズ全4作の一挙放送があったので、迷わず録画した……といいたいのだが、「3」と「4」についてはさる事情あり後日別々に録画することとなり、いまは帰宅してから寝るまでの間になんとか時間を捻出して鑑賞中である。
 まだ「2」も公開されていない頃に「1」を観て、あんまり……など残念な発言を本ブログにて、した。数年を経て再び鑑賞してみて、以前よりは面白く観たのだけれど、感想やら採点やらが180度変化する事態とはならず、本シリーズに対する自分の包容力の限界を痛感させられただけであった。
 おそらく、わたくしが『REC』シリーズを評価できないのは悔しさゆえだ。映画監督を夢見た10代の時分、に作りたい、と望んだホラー映画のスタイルを実現させられてしまったから。シリーズを通して徐々に謎が解明されてゆくパニック劇を小説として書いてみたい、と企んでいたのが、あっさりと実現されてしまったから(『LOST』では悔しさとか嫉妬とか感じなかったね……。こういうものを作るは自分の手に余る、と自覚させられたから!)。
 愛憎相半ばする? うん、そうかもね。しかし、プロであれアマであれ、フィクションを作り出す者は誰でもこんなジレンマを抱えるのではないか。あ、ちくしょう、俺がやりたかったことをこいつ、やりやがった! こんなことなら俺が、出来は未熟でもさっさと手掛けておくんだった! そんな悔しさと嫉妬を、フィクションの作り手ならば生涯に何度となく抱えて身悶えるのではないか。
 それにしても「2」のラスト、最上階での継承シーンはなんだかえげつないですね。で、これが実は「4」への伏線となっており……あはぁ……。◆

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第2351日目 〈ヨハネの黙示録第4章:〈天上の礼拝〉with新共同訳聖書の引用一覧に抱く疑問。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第4章です。

 黙4:1-11〈天上の礼拝
 幻視は続いた。開かれた門が天にあった。最初に聞いた声がわたしをそこへ導き、このあと必ず起こることを見せる、といった。すると、わたしはたちまち“霊”に満たされた。
 ──天には玉座があって、そこに坐る方があった。その姿は碧玉や赤めのうのように輝いている。玉座からは稲妻や轟音や雷鳴が絶え間なく鳴り響き、その前には神の7つの霊を示す7つの灯し火があった。玉座の前は水晶に似たガラスの海のようである。そうして、玉座のまわりには虹が架かっていた。
 さて。玉座のまわりに24の座が設けられていたが、そこには白い衣を纏って金の冠をかぶった24人の長老が座っていた。
 また、玉座の中央とそのまわりには4頭の生き物がいる。第一の生き物はまるで獅子のよう。第二の生き物は若い雄牛のよう。第三の生き物は人間のような顔を持つ。第四の生き物は空飛ぶ鷲のよう。生き物の体には前にも後ろにも、目がびっしりと付いていた。それぞれに6枚ずつある翼にも、周囲と内側にびっしりと目が付いていた。
 かれらは夜となく昼となく、神と主キリストを讃える言葉をいっていた。曰く、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、と。こうやって4頭の生き物は、玉座に坐る、世々限りなく生きる方の栄光と誉れを讃える感謝をささげている。
 それを承けて、今度は24人の長老たちが玉座の前にひれ伏し、世々限りなく生きる方を礼拝し、冠を玉座の前に投げ出して、いった。曰く、──
 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。/あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」(黙4:11)

 本章から「黙示録」の「黙示録」たる譬喩や象徴的表現など用いた記述が始まります。正直なところを告白すれば、読んでも書いても迷い、悩み、頭を抱えました。書き直しを試みて出来上がったのは、やはりというべきか、やや表現をアレンジしたに過ぎぬものでしかなく……これからを思うと嘆息してしまうのでありました。右往左往の末、公開が常の時間より遅くなったことをお詫び致します。
 黙4:4「二十四人の長老」とはイスラエルの12部族の長プラスキリストの12使徒を指しております。そこまで踏みこんで特定していながら、或る考えではイスラエルの12部族の長を以て旧イスラエル(旧約聖書の時代)を代表させ、残り12人の長老を以て新イスラエル(新約聖書の時代)を代表させる、という。新イスラエルの代表が12使徒をいうのか否か、調べても明確な根拠は見出せなかったのだけれど、わたくし個人はキリストの玉座に侍る者として12使徒をあてるのは頗る自然なことと思うのであります。もっとも、そうなると最初の殉教者であるステファノやキリストの福音を異邦人の地にまで広げて回ったパウロはどうなる、という話になりますが……。
 黙4:7に出る「四つの生き物」は「エゼキエル書」や「ダニエル書」に極似の描写のされた生き物が登場しています。世界のすべてを、隅々まで見渡す目を持っています。わたくしは最初、「獣」としてノートを進めましたが、違和感を覚えて先の章を読んだり、「ダニエル書」など読み返して結局「生き物」に戻しました。これら象徴的存在はおそらく「ケルビム」なのでしょう。ケルビムは契約の箱の装飾になっている、エデンの園の命の木の守り役として創3:24にあるのが初出。数いる神の使いのなかでも上位にある存在であります。但し、「ダニエル書」にて描かれる4頭はあくまで「獣」です。これから地上に現れる4人の王を暗喩したものでありました。黙19:4にてかれらが再び、24人の長老とともに神と主キリストを讃えている光景にわれらは出会う。

 本日の旧約聖書は黙4:7-8とエゼ1:5-7及び同10並びにエゼ10:12及び14そうしてダニ7:3-7、黙4:8とイザ6:3。



 「ヨハネの黙示録」の著者は旧約聖書に精通した人物だ、という。それゆえに旧約聖書を踏まえた描写も多い、と。読んでみて納得しているところだが、釈然としない点が実はある。というても「ヨハネの黙示録」そのものについてではない。
 新共同訳聖書の巻末には「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」というのがある。マタ27:46は詩22:2が引用されている、という具合に。この一覧は「ペトロの手紙 二」で終わっていて、そのあとは一切ない。まるで旧約聖書を引用した文章は以後登場しない、とでもいうかのように。
 この一覧があくまで引用であり、踏まえたものを対象としていないのはじゅうぶん承知だ。が、「黙示録」に於いても一覧に載るのと同じ意味合いで旧約聖書の引用はある。イゼベル(黙2:20)や4頭の生き物(黙4:6-8)などがそうだ。4頭の生き物による讃美も然り。
 どうして「ヨハネの手紙 一」以後の引用箇所を新共同訳は切り捨てるのか。直接的な引用ではないから、といわれればそれまでだが、どうにも釈然としない。回答を求める気はないが示唆だけでも欲しい。たといわたくしの一知半解ぶりを嘲笑われ、蔑まれる結果となろうとも。
 引照箇所が載る新共同訳聖書を遣えばよい、なんて声は勿論受け付けられない。聞きたくもない。だってそれが窮極的に正解だもの。◆

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第2350日目 〈ヨハネの黙示録第3章:〈サルディスにある教会にあてた手紙〉、〈フィラデルフィアにある教会にあてた手紙〉他withS.キング『ミスター・メルセデス』を買いました。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第3章です。

 黙3:1-6〈サルディスにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、サルディス教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。生きているとは名ばかりで実は死んでいることを知っている。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを叱咤し、強めよ。あなたは自分たちの行いが神の前に完全である、と主張する。わたしは認めない。あなたは死にかけているのだ。目を覚まして悔い改めよ。「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」(黙3:3)
 が、幸いなことにサルディスには衣を汚さずに済んでいる者が少なからず存在する。かれらは白い衣を着てわたしと共に歩くだろう。かれらはそうするに相応しい。
 勝利者にこの白い衣を着させよう。かれの名が命の書から抹消されることはない。わたしはかれの名を、父の前で公然といい表す。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 黙3:7-13〈フィラデルフィアにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、フィラデルフィア教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。弱かったあなたがわたしの言葉を守り、わが名を知らないと偽証することもなく、よくわたしの教えに従ったことを知っている。
 サタンの集いに属する人々のなかにはユダヤ人を自称する者がいる。しかし、それは偽称である。わたしは、あなた方の足下にかれらをひれ伏させよう。そこまでしてようやくかれらは、わたしの愛があなた方に注がれていることを知るだろう。
 「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(黙3:10)
 わたしはすぐに来る。だからそれまで自分に与えられたものを固く守っていなさい。
 勝利者をわが神の神殿の柱としよう。かれがそこから立ち去ることはもうない。わたしはその上にわたしの神の都、即ち新しいエルサレムの名を、わたしの新しい名と共に書き記そう。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 黙3:14-22〈ラオディキアにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、フィラデルフィア教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたが熱くもなく冷たくもないことを知っている。あなたがあまりに生温いので、吐き出してしまいたい程だ。どちらかであってくれればいいものを。
 あなたは自分が金持ちであることを誇る。自分は満ち足りていて、改めて必要なものなどなに一つない、と豪語する。あなたは自分がわかっていないようだ。あなたは惨めで哀れで、貧しく、盲目で、裸である。わたしはあなたに、火で精錬された金をわたしから買うよう奨める。裕福になるように。わたしはあなたに、裸の恥を隠すための白い衣や見えない目に塗る薬を買うよう奨める。
 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(黙3:19)
 わたしは戸口に立って扉を叩く。その音を聞いて扉を開ける者と一緒にわたしは食事を取ろう。わたしは勝利者を自分と同じ座に坐らせてあげよう。かつてわたしが御父と共にその玉座に坐ったのと同じように。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 昨日のエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ各教会宛の手紙を読むと、個々の教会がどのような障害に見舞われているのか、或いはその教会がどのような状況にあるのか、推察することができました。
 対して本日のサルディス、フィラデルフィア、ラオディキア各教会宛の手紙では、それぞれの教会が(手紙が書かれた当時は)どのような体質を持っていたのか、よりはっきりと記されております。即ちサルディス教会はもはや「死に体」同然で、フィラデルフィア教会は篤信家が集い、ラオディキア教会はどっちつかずの態度を示しているのです。
 主キリストの言葉を額面通り信じるならば、向けられた言葉の激しいのは最後のラオディキア教会へのそれであります。信仰のあるやなしや、どっちつかずのあなた方の態度にわたしはもう反吐が出そうだ、どちらかに態度を決めろ、と主は迫る。
 そのなかに出る「火で精錬された金」(黙3:18)はキリストに従う者への霊的なまことの賜物である、とフランシスコ会訳の註釈はいう(P697)。これがあることで人は真の意味で、神が求めるのと同じ意味で富者となるのであります。
 黙3:18は一読、神を信じるかどうしようか、心を決めかねている者を信徒にせんが為の買収のように見える文章ですが、勿論そうではない。教会の構成員であり、信徒であるならば態度を決めかねているということ自体があり得ぬ話なのです。神の目に正しいと映ることを行い、神の道をまっすぐ歩くならば、霊的賜物を約束通り与えもするし真の意味での富者にもなれる、そうして「白い衣」(黙3:4及び18)即ち弱い人間が持っている惨めさを覆い隠す神の恵みの象徴(フランシスコ会訳 P697)を与えて、あなた方を癒やそう、というのであります。
 黙3:12に出る「わたしの新しい名」ですが、終末の時にキリストが勝利者に与える栄光に満ちた、永遠不変の名前である、とされているそう。一方ではキリスト再臨の時に信徒のみが知ることができるキリストの新しい名である、とも。これについてはわたくしからどちらかの説を支持することはやめておきます。わたくし自身、どちらに与する意見を持っているのか、しかと考えてはいないからであります。

 本日の旧約聖書は黙3:7とイザ22:22、黙3:12とイザ62:2。



 また未読の海外小説が溜まってしまいました。スティーヴン・キング『ミスターメルセデス』上下(文藝春秋)を会社帰りに買ってきたのです。お陰で本日の聖書読書はまったくこなすことができず、明日から自転車操業の日々が始まるのは必至。
 でも、構いません。「ヨハネの黙示録」が終わるまでは脇目も振らずにその読書と執筆に勤しもう、と決めてはいても、キングの小説を発売日に買うことはそれに優先されるべき事項なのですから。まぁ、購入しても未読のキング本の山に積むことしかいまはできないのですが……。
 9月中旬に「ヨハネの黙示録」を読み終え、未読の小説の山を片附けた後、憂うことなくまだ読んでいないキングの小説群に溺れることと致しましょう。その日の訪れがいまは唯一の生きる希望。大袈裟ではない、本心からの思いである。笑うな。◆

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第2349日目 〈ヨハネの黙示録第2章:〈エフェソにある教会にあてた手紙〉、〈スミルナにある教会にあてた手紙〉他with加藤シゲアキ『ピンクとグレー』を読み始めました。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第2章です。

 黙2:1-7〈エフェソにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、エフェソ教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたの行いと忍耐と労苦をわたしは知っている。自らを使徒と偽証する者どもを徹底的に調べあげ、その嘘を見抜いたことを知っている。わたしの名のために我慢し、疲れ果てたりすることなく、よく忍耐したことを知っている。
 が、あなたへいうておかねばならぬことがある。それは、あなたが初めの愛から離れてしまったことだ。顧みて反省し、悔い改めなさい。初めの頃の行いに立ち戻りなさい。悔い改める様子がなければわたしはあなたのところへ行き、あなたの燭台を取りあげる。
 一方、あなたには取り柄もある。それはニコライ派に与さず、わたし同様憎んでいることだ。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。勝利者には神の楽園にある命の木の実を食べさせてあげよう。

 黙2:8-11〈スミルナにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、スミルナ教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたの苦難や貧しさをわたしは知っている(だがしかし、あなたは本当は豊かなのだ)。自称ユダヤ人があなたを非難していることを知っている。が、かれらはユダヤ人ではない。サタンの集いに属する連衆である。
 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」(黙2:10)
 悪魔があなたの何人かを捕らえて牢に入れようとしている。それはあなたを試すためだ。あなたは10日間、それゆえに苦しめられるだろう。
 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙2:10)
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。勝利者は第二の死からけっして害を受けることがない。

 黙2:12-17〈ペルガモンにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、ペルガモン教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたが住む所がどのような場所か知っている。そこにはサタンの王座がある。そこではわたしの忠実な証人アンティパスが殺された。が、そのようなときでもあなたはわたしに対する信仰を捨てなかった。
 が、少しばかりあなたにいうておかねばならぬことがある。ペルガモンにはバラクの教えの信奉者がいる。同じく、ニコライ派の教えの信奉者もいる。悔い改めよ、かれらゆえに。その様子がなければわたしはあなたのところへ行き、わたしの口の剣をかざしてかれらと戦おう。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。勝利者には隠されていたマンナと白い小石を与える。白い小石には受取り手以外は知ることのできない新しい名前が記されている。

 黙2:18-29〈ティアティラにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、ティアティラ教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたの行いと奉仕、愛と信仰、忍耐を知っている。更に、近頃のあなたの行いが以前の行いに優っていることを知っている。
 が、あなたへいうておかねばならぬことがある。あなたはイゼベルというあの女の振る舞いを大目に見ているが、それはよくない。彼女は預言者と自ら称してわれらが僕たる人々に偶像へ供えた肉を食べさせたり、淫らな行いに耽らせたりするなど、誤ったことを教えている。悔い改めの機会を与えても無駄だった。為にわたしはこの女を床に伏せさせる。また、悔い改めないならば彼女に惑わされて淫らな行いに興じた者を非道い苦しみに遭わせ、彼女の教えを受け入れて従った衆を打ち殺そう。──斯くしてすべての教会はわたしこそが正しいことを悟る。
 ティアティラの人々のなかでイゼベルの教えに耳を傾けず、サタンの奥深い秘密へ触れていないあなた方に、わたしはこういおう。けっして別の重荷を背負わせたりはしない、と。わたしが行くときまでいま持っているものを固く守れ、と。
 勝利者に、わたしの業を最後まで守り続ける者に、諸国民の上に立つ権威を与えよう。わたしも父から同じ権威を授けられたのだ。
 「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」(黙2:28)
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 ニコライ派とは信仰がありさえすれば偶像崇拝をしても、淫行に耽っても構わない、現世の快楽享受を肯定する、当時小アジアで流行ったキリスト教の一派であります。使6:5アンティオキア出身の改宗者ニコラオに従う人々をニコライ派と呼ぶ。
 ニコラオが新約聖書に当該箇所以外に登場することはないので、かれが実際にどのようなことを宣べ伝えていたのか定かでないけれど、もしニコライ派が本当にニコラオに起因する一派であるならば、かの時代に小アジアで拡大していたグノーシス派の教えと融合して一派を成し、それが本章にて「警戒せよ」といわれるまでに成長していったのかもしれません。
 黙2:20のイゼベルは人名というよりもあだ名と捉えた方がよさそうです。或る属性の女性に関せられる形容詞にも似たあだ名。つまり、民を異教崇拝、もしくは背教に導く役として、ティアティラ教会の信徒たちの切り崩しを図った女性がいた。それがまるで北王国イスラエルの王アハブの后イゼベルを思わせるものであったので、確証せられた、というのは実情だったのではないでしょうか。
 「マカバイ記 二」に南王国ユダの預言者エレミヤについて触れた場面がありました。晩年のエレミヤが契約の箱と幕屋を携えて、ネボ山とされる山へ出掛けた、という場面であります(二マカ2:4-8)。黙2:17「隠されたマンナ」はエレミヤが山中の洞穴に運んだ契約の箱のなかに収められた、といわれます。これは終末の時に契約の箱と共に見出されるとされ、永遠の命を示している、と考えられている由。
 なお、本来なら昨日も申しあげたように、手紙が宛てられた7つの教会がある町について場所や来歴、特記事項など述べるつもりでおりましたが、検討してみるに分量的にも体力的にも時間的にも今日明日の原稿に組みこむのは難しい、と判断致しました。為、この件に関してはなるべく早いうちに、たとえば1日2回更新の日を設けて、「ヨハネの黙示録」が佳境に入る前に消化することと致します。ご寛恕願いたく──。

 本日の旧約聖書は黙2:14と民22:5及び同31:16並びに申23:4、黙2:17と出16:14-15(ex;二マカ2:4-8)、黙2:20と王上16:31及び同18:4と同章19、同21:1-16並びに王下9:7と同章30-37(イゼベル)。



 2日続けて『リカーシブル』の話題は避けようと思う。というのも昨日の原稿を書いた約1時間半後に読了、その感想を認めるか否か、思案に暮れているためである。
 『ボトルネック』に端を発して『儚い羊たちの祝宴』、『さよなら妖精』を経てようやく米澤穂信を脱した今日からは、ややテイストを変えて(というてもこれまた予定通りなのだが)加藤シゲアキ『ピンクとグレー』(角川文庫)を読み始めた。
 NEWSのメンバーが本腰入れて小説を書き、それがずいぶんと小説好きの間でも評判が高く、かつ映画化もされる程の話題作ということは、地元の書店に平積みされていることからも推察できたが、正直なところ、わたくしは殆ど関心がなかった。有川浩のエッセイ集『倒れるときは前のめり』に収録された書評を読まなければ、たぶん買って読んでみようとは思わなかったであろう1冊である。
 まだようやく第2章に差し掛かったところゆえ発言は控えるが、これはなかなかの秀作と思うた。先を読ませるだけの力はある。芸能人の書いた小説ということで色眼鏡で見ていた部分なきにしもあらず、そんな読まず嫌いの偏見が手伝って敬遠していた自分が恥ずかしくなるぐらい、この小説はアタリかもしれない、という興奮と熱狂に囚われているのだ。
 デビュー作もまだ手にしたばかり、という状態ゆえ何事かを発言することはためらわれるが、これだけはいえるだろう。『ピンクとグレー』と次に読む予定の『閃光スクランブル』(同)を読み終えたら、古本屋や新古書店を回ってまだ文庫化されていない作品を探して購い、読むことになるのだろうな、ということは。
 さて、それでは寝に就くまでのわずかな時間、この将来性たっぷりな新人作家の小説を楽しむとしよう。◆

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第2348日目 〈ヨハネの黙示録第1章:〈序文と挨拶〉&〈天上におられるキリストの姿〉with米澤穂信『リカーシブル』の表面的第一印象〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第1章です。

 黙1:1-8〈序文と挨拶〉
 これはイエス・キリストによる黙示である。間もなく起こるであろうはずのことを僕に伝えるため、神がキリストに与え、キリストが天使を派遣して僕ヨハネ、即ちわたしへ伝えたものである。わたしはそれをすべて、ここに記録した。
 「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」(黙1:3)
 アジア州の7つの教会へ、イエス・キリストの愛と恵みと平和が与えられますように。
 われらへの愛ゆえ自身の血によってわれらを罪から解放してくれた方へ。われらを王とし、御父である神に仕える祭司としてくれた方へ。栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
 神である主、かつていて、いまもいて、これからもいる方、全能者がこういった、わたしはアルファでありオメガである、と。

 黙1:9-20〈天上におられるキリストの姿〉
 わたしはヨハネ。イエス・キリストに結ばれ、その苦難、支配、忍耐にあずかる者。また神の言葉とイエスの証しゆえにここパトモス島へつながれている者。
 或る年の主の日のこと。その日、“霊”に満たされていたわたしは、背後でラッパのように響く大きな声を聞いた。その声曰く、あなたの視ていることを巻物に記し、7つの教会に書き送れ、と。その教会とはエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアである。
 わたしは声の主を確かめようと振り返ってみた。すると、7つの金の燭台が見えた。その中央には人の子らしき姿があり、足許まで届く衣を着、胸には金の帯を締めている。その頭、その髪は白い羊毛に似ており、雪のように白い。目はまるで燃え盛る炎で、足は炉で精錬された真鍮の如くに輝いていた。口からは鋭い両刃の剣が出、顔は強烈な輝きを放つ太陽のよう。右手には7つの星を持っている。
 見るやわたしはその方の足許に倒れこんで、死んだようになった。するとその方はわたしの頭に右手を置き、恐れるな、といった。続けて、──
 わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持つ。「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」(黙1:19)
 あなたはわたしの右の手に7つの星を見、また7つの金の燭台を見た。その秘められた意味とはこうだ。7つの星は7つの教会の天使たち、7つの金の燭台は7つの教会である。

 「主の日」とは安息日に当たりますが、普通の安息日ではない。福音書に拠ればイエスはニサンの月の13日金曜日に処刑されて、3日目の同月15日日曜日に復活した。「主の日」とはまさにこの復活の日のことであり、キリスト教や信徒にとって最重要な安息日なのであります。この日にヨハネがイエス・キリストの声を聞き、それに導かれて黙示の幻を視たのは、とても意味深いもののように思えてなりません。
 黙示文学に於いて未来に起きる出来事やそれをあらかじめ伝える存在の描写は、時に擬人化され、時に譬喩で武装してされることがあります。擬人化ということでは「ダニエル書」がそうでしたし、譬喩ということでは本日の黙1:13-16や預言書なれど「エゼキエル書」がありました。これを読み解くのはなかなか困難を伴うことがあるけれど、一種のレトリックだと考えれば比較的取り付きやすく、またわかりやすいと思います。
 黙1:11にてエフェソ以下7つの地名が挙げられておりますが、個々については明日明後日の当該章にて位置や特記事項など述べるつもりでおります。

 本日の旧約聖書は黙1:7とダニ7:13及びゼカ12:10。



 順調に2016年下半期の小説読書マラソンは予定を消化中……といいたいところですが、米澤穂信『リカーシブル』(新潮文庫)に取り掛かってからはややペース・ダウンした。理由は幾らでも思い浮かぶ(取って付けられる)けれど、主たる理由はただ一つ。
 一言でいってしまえば、『リカーシブル』の世界に没頭できないのだ。これまで読んできた米澤作品との勝手の違いに戸惑いを感じ、抵抗を覚えるのだ。なんというても10代、しかも中学生になったばかりの女の子の一人称である。これまで読んだなかにも女性の一人称はあった。が、それは太刀洗万智という大人の女性、しかもジャーナリストの一人称である。その語り口の渇き具合に戸惑うたり、抵抗を感じることはなかった。が、『リカーシブル』は……。
 ようやく後半1/5に差し掛かったところで物語は一気に加速し、語り口も拙さと幼さを脱して来たが、正直、そこに至るまでは読書がきつかった。そのうちにこちらを裏切るように物語は面白くなるはず、と信じてページを繰るのだが、それもけっこうきつく感じる日が多く……読書を始めてから約10日、本を開かなかった日は幾日あるだろう。
 とはいえ、上記は本稿初稿執筆時にはまだ物語が劇的に動き始める直前まで抱いていた、作品への表面的第一印象に過ぎぬ。読み返していただければおわかりのはずだ、内容についてはただの一歩も踏みこんでいないことに。これがなにを意味するか、賢明なる読者諸兄はおわかりだろう。そうしてこんな台詞がどのような結末を辿るかも。呵々。◆

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第2347日目 〈「ヨハネの黙示録」前夜〉 [ヨハネの黙示録]

 新約聖書の最後に置かれた「ヨハネの黙示録」は、新約聖書唯一の黙示文学であります。
 黙示文学とはなにか。世人から隠されていた秘儀が覆い(ヴェール)を取り除かれて明らかにされる。それが「黙示」の定義。秘儀とは神が統べ、主がいる天上に属する事柄で、この世が終末の日を迎えて新たな神の国、新たなエルサレムが代わって現れることを指す。黙示文学とはそうしたことどもを象徴的表現を用いて語ったものである。──細かいことをいいだしたらキリがないけれど、黙示とは? 黙示文学とは? と訊かれたら、まずは斯く回答しておけばよいように思います。
 付言しますと、旧新約聖書正典のうち、黙示文学に分類されるのは「ダニエル書」と本書の2書。旧約聖書続編まで視野に入れれば「エズラ記(ラテン語)」があります。が、「イザヤ書」から「マラキ書」までの15の預言書も黙示文学の性質を一端なりとも持っている、といえます。それらもまたこの世の終末について語り、神の国の到来を伝える箇所があるからです。
 ところで「ヨハネの黙示録」とはどのような書物なのでしょう。著者や執筆年代・場所といったことから筆を起こしますと、──
 イエスの母マリアの世話を託された12使徒の1人、ヨハネが本書の著者とされます。ご多分に漏れず別人説もありますが、ここではその問題について立ち入りません。イエスに付き従った12使徒のなかでヨハネはただ1人殉教を免れ、最後まで生き永らえて安寧のうちに息を引き取った、といわれます。1度はローマ兵に捕らえられて処刑が実行されますが、どんな過ちがあったのか、実際死に至ることはなく一命を取り留め、小アジア沖合のパトモス島へ流されます。その後流刑は解除され、ヨハネはアジア州エフェソへ移って庵を結び、死ぬまでそこで暮らした由。
 パトモス島にてヨハネは主キリストの言葉を聞き、それに導かれて終末にまつわる幻、ヴィジョンを視ました。が、実際に筆を執り書物として著されたのはエフェソに於いてであった、と考えられます。〈「ヨハネの手紙 一」前夜〉で述べたことの繰り返しになりますが、わたくしには幻視の地パトモス島にて「黙示録」の筆を執るだけの心的物質的余裕(余力、という方がよいか)がヨハネにあったとは俄かに信じられないし、思えもしないのであります。やはり本書は3つの書簡同様、パトモス島での流刑解除後、エフェソ移住後にその地で書かれたのでありましょう。
 となれば執筆年代は──ローマ帝国によるキリスト教弾圧がヨハネ流刑の原因となっているのは間違いないけれど、それはネロ帝よりも90年代にそれを実施したドミティアヌス帝の御代であったろう。流刑解除がドミティアヌス帝の御代が終わってからなのか、定かでないけれど、いずれにせよ世紀の変わり目前後であったろう、と推測されます。
 パトモス島でヨハネが視た幻は終末にまつわるものであったのは既述の通り。屠られた子羊によって7つの封印が開かれるのに続いて、7人の天使がそれぞれラッパを吹く毎に終わりの瞬間が近附いて来、また神の怒りが盛られた7つの鉢の中身が地上へ注がれる。大淫婦バビロン即ちローマ帝国滅亡とその後の千年王国の訪れ、サタンとの最終決戦、新しい天と新しい地と新しいエルサレムの出現、そうしてキリスト再臨。それらをヨハネは幻視した。
 こうした一連の幻は当時のキリスト者の間に漂っていた不安を反映したものでした。ゴルゴタの丘でイエスが死んで以来、キリスト者はずっと主の再臨を待ち望んでいました。それは必ず来る、近い将来に実現する、とかれらは信じ続けた。
 が、現実はどうだろう? ナザレ人イエスが十字架上で死んで半世紀以上が経つと、教会の構成員の世代交代も進み、かつての12使徒もその殆どが既に亡く、ローマ帝国による大規模なキリスト教弾圧、信徒の迫害/逮捕/処刑が日常化したような世相にあってはキリスト再臨を疑ったり、信じられなくなってしまったり、希望を捨ててしまうような人も増えたでありましょう。
 おまけにドミティアヌス帝は神なる皇帝を礼拝せよ、トラヤヌス帝は死したる皇帝をも神として礼拝せよ、と、キリスト者には棄教へつながるお触れをローマ市民に発布しました。キリスト教迫害の端緒はまさしくこの皇帝礼拝の拒絶にあったのです。
 斯様にして当時のキリスト者の抱く不安が幻視に反映し、「ヨハネの黙示録」が執筆された時代背景となったのであります。
 そう考えると、本書もまた希望と励ましの書といえるかもしれません。主の再臨は必ずある。それ一点を足掛かりにして、希望と信心の萎えた信徒を励ます側面を本書は持っているのであります。
 ──「創世記」や福音書と同じぐらい、数多の人々によって、数多の言葉によって、数多の書物によって、「ヨハネの黙示録」は語られてきました。その内容は至極真っ当なものから些か眉唾、キワ物的なものまでが千差万別なこともあって、初学者は聖書全体の最後に鎮座坐す「ヨハネの黙示録」へのアプローチをためらってしまう傾向がある。告白;わたくしとて例外ではない。読書の開始を予定より数日遅らせてしまったのも、要因の主たるところはそこにありました。腰が引けてしまったのですね。
 しかし、いまや抜錨の時。これまでに読んできた68の書物同様、本書を読むに際してもキリスト教神学がどうとか譬喩がどうとかなんていう余計な知識に振り回されることはせず──したくてもできない、というのが本当のところですが──、眼前に置かれて開かれている本書、「ヨハネの黙示録」を一つの物語として楽しみながら読むことに重きを置こうと思う。
 序にいえば、われらは既に聖書を読む前から「ヨハネの黙示録」に出る固有名詞や表現などに親しんでおります。映画『オーメン』シリーズで悪魔の数字とされた「666」は黙13:8を出典としますし、『幻魔大戦』や『デビルマン』で夙に知られる「ハルマゲドン」は黙16:16に出る地名です。また、慣用句として用いられもする「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」は黙22:13に見られます。それがわかれば少しは気構えも減るのでは?
 それでは明日から1日1章の原則で、「ヨハネの黙示録」を読んでゆきましょう。◆

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第2346日目 〈聖書読書ノートブログ再開のお知らせ〉 [ヨハネの黙示録]

 お待たせしました。聖書読書ノートとしての本ブログを明日から再開させます。
 キリスト教に於ける人類の救いの歴史の最終形態/最終段階が如何なる風に提示されるのか。「ヨハネの黙示録」が描くのはまさしくそこであり、同時に人類(=キリスト者)にもたらされる救いと新しい世界の訪れとキリスト再臨の希望であります。もう少し立ち入ったことは明日の〈「ヨハネの黙示録」前夜〉やそれ以後の各章に於いて触れてゆきましょう。
 非キリスト者にとっても手に余る感のある書物でありますが、ここが最後の正念場、堪え所、踏ん張り所。「ダニエル書」のときのように調べた結果に縛り付けられるような愚は繰り返さない。なによりも「エズラ記(ラテン語)」の轍は踏まない。
 「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙22:18-19)◆

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第2345日目 〈悩める浅学非才の八方美人〉 [日々の思い・独り言]

 プロであれアマであれ著述に携わる人は自分の書く文章についてなにかしらのこだわりを持っているものだろう。こだわりのテーマがあるだろう、というた方がよいか。たといそれがどんなものであれ。
 柴田宵曲『俳諧随筆 蕉門の人々』(岩波文庫)を寝しなに開いて目を通していた。その折にふと、本当になんの前振りもなく唐突に、自分が書きたいことっていったいなんだろう、と思うたのである。これこれのことを専門とし、それについての文章を中心に書いている。そう胸を張って、あたかも名刺を差し出すかの如くにいえる<なにか>が果たして自分にはあるのか。
 ──自問自答しても進展はない。「さあ?」という、なんとも無責任な声が返ってきて空しくなるばかりだ。いったい自分がこだわりたい/執着するテーマとはなにか? 敢えていうならば、それは人の死、人の悪意について、であろうか。でも、それらはこだわりというよりは背に張り付いて離れぬゴーストというのがはるかに正しい。聖書にまつわる事柄がこだわりと呼ぶに相応しいものになるか不明である以上、現時点では曖昧なことしか考えられない。
 思うに自分は浅学非才の八方美人なのだ。学生時代に芭蕉の俳文の一節に出会い、そこへ自分の想い、そうして理想を重ねた。我も斯くあらん、と念じたのである。「無能無才にして此一筋につながる」(「幻住庵記」『芭蕉俳文集』上 P52 岩波文庫)ことを目指してきたはずなのに、「此一筋につながる」ようなものをわたくしは見出せたのか? しばし瞑目して叱るに、否、と力なく頭を振るよりないのが現実だ。嗚呼、と嘆息せざるを得ぬ。82歳での往生を目論んでいるわたくしとしては人生の半分を折り返し点を過ぎているのになに一つままならぬ、定まるところなしというのはどうしたことか。
 特にこれというこだわりを表明することなく、そのときに書きたいもの、書きたいことを俺は書く。そんな風に達観できればよいのだけれど、その境地に達するのは性格的にチト難しそうである。◆

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第2336日目 〈アドルフ・ヒトラーの復活〉 [日々の思い・独り言]

 会社備え付けのロッカー1基、縦3列横4列内寸奥行き約40センチ高さ約……んんん50センチぐらい(てきと〜)が約13万円と知り、果たしてこのロッカー1基で月給に占める割合や如何に、と考えこみ、入社してから今月までの給料でいったい何基のロッカーが購入できたか、と皮算用し、企業向けロッカービジネスを心中密かに企み、1基の内1扉分が約1万円也かぁ、と嘆息した今宵のみくらさんさんかであります。
 野球帰りの人々でごった返すなかを縫うようにくぐり抜け、到着したいつものスターバックスで辛うじて最後の1席に坐れたと思うたら途端に睡魔に襲われ、寝覚めたら空席が目立つようになっている店内を目の当たりにして、すはトワイライト・ゾーンへ彷徨いこんだか、俺はヴィック・モローか、と刹那不安になった。ご存知の方もおられようか、そのときわたくしの脳裏にあったのは至極傲慢な男が戦時下のドイツに迷いこみ、SSにユダヤ人と間違われて執拗に追われる、という、スピルバーグ製作の映画版で栄えある第1話に選ばれた映画オリジナルの一編である。
 わたくしが初めてこのエピソードに触れたのは映画版の方でたしか高校生の頃、テレヴィの洋画番組であったと思うのだが、当時の自分にはこのエピソードが持つアイロニーなぞ当然わかるはずもなく、単に悪夢じみたそれとしか受け取れなかった。ナチスによるユダヤ人虐殺について細かい事柄を本や映画から仕入れたり、そこから派生して人権や人種差別などに関心の矛先が向くようになったのは、それからしばらくあとのことだったもの。もしわたくしがいまの時代に当時と同じ年頃であったなら、専ら都市部で行われた/行われているヘイト・スピーチなどここに重ね合わせていたことだろう。
 事程然様にこのエピソードは普遍性ある寓話だ。本当はいつの時代にも適用できる普遍性など持たない方がいいのかもしれないけれど、人類が存在して争い、諍い続ける以上はけっしてフィクションとはなり得ぬ性質のものである。
 映画版『トワイライト・ゾーン/超次元の体験』が呼び水となったのかもしれない、以後わたくしは今日に至るまで好むと好まざるとにかかわらず、ナチス・ドイツを扱った、或いはその時代を背景とした映画やドキュメンタリー番組、書物などに多く触れてゆくことになった──ヒトラー著『我が闘争』は言うに及ばず。映像作品では『夜と霧』と『縞模様のパジャマの少年』が双璧となるが、ここにこれまでとは一風変わった関連映画が封切られていることは既にご承知かもしれぬ。
 その映画、邦題を『帰ってきたヒトラー』という。原作は河出文庫より上下巻で発売中(ティムール・ヴェルメシュ/著、森内薫/訳)。自殺したはずのヒトラーがなんと21世紀ドイツに突然復活、どうにもちぐはぐな言動の末にモノマネ芸人としてブレイク、やがて遂に政界復帰を目指して活動を開始する……というストーリー。主演はブルーノ・ガンツよりもヒトラーらしい風貌のオリバー・マスッチ、監督・脚本はデヴィッド・ヴェンド。
 或る意味でこれはヒトラーを主人公にした数多の栄華の頂点を極めたものだ。「笑いと恐怖は紙一重」という言葉をこれ程的確に表現した映画とは、そう滅多にお目にかかれるものではない。どん詰まりの笑いはやがて窮極の薄ら寒さに取って代わる。◆

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第2335日目 〈愛が深ければ語るも至難、されど我は語る、『ラブライブ!』を〉 [日々の思い・独り言]

 人はどの段階に至ればラブライバーと見做されるのか。
 昨年、μ’sはNHKの音楽番組に数度出演し、紅白歌合戦にて遂にその名を全国津々浦々のお茶の間へ知らしめた(但し、定着したかといえばそれは別問題となる)。年が明けたらばアニメ・シリーズ第一期が放送され、途中μ’sのファイナル・ライヴとラスト・シングルのリリースという2.5次元の出来事を挟み、年度改まって後にアニメ・シリーズ第二期の放送が始まった。勿論、これは地上波、NHK教育でのお話。μ’sのファイナル・ライヴの前後にはCSのディズニー・チャンネルに於いて第二期が放送されていた。
 観た? 当然。胸を張って回答できる。『ラブライブ!』が以前から気になっていたのは確かだ。TSUTAYAへ行けばアニメの棚に面陳されたDVDを借りようか、と迷うたことは度々あったし、それはCDであっても変わるところではない。やがて興味/関心/好奇心は最高潮に達する。それに並行して電脳空間を彷徨っては作品そのものと周辺の情報を蓄えてゆき、言い換えれば余計な情報までをも取りこんでゆき。──にもかかわらず、わたくしは『ラブライブ!』本編に手を伸ばそうとはしなかった……。
 どうしてか? 答えは割に単純だ。機がまだ熟していない、とわかっていたから。本能的にそれは察していた。そうして、事前に最高潮に達していた興味/関心/好奇心を維持したまま、わたくしは『ラブライブ!』本編の鑑賞という待ちに待った体験の扉を開けることができる、と確信していたからに他ならない、ともいえるだろう。顧みればNHKの音楽番組への出演は年末の紅白歌合戦出場、年明けのアニメ・シリーズ放送を検討するための布石であったのかもしれない。結果としてμ’sは紅白歌合戦に、メンバーの1人が怪我によって欠場せざるを得なかったとはいえ出場して堂々たるパフォーマンスを披露し、その数日前に待望のアニメ・シリーズ放送もNHK公式サイトにて告知されたのだった。
 諸君、喝采せよ、時は満ちた。斯くしてわたくしはTSUTAYAでのレンタルは回避して……『ラブライブ!』第一期と第二期、劇場版を鑑賞済みである。えへ。
 で、観てみてどうでしたか? 誤解を恐れず告白すれば、自分でも信じられないぐらいこのアニメを愛してしまったよ! 放送日はまず間違いなく出勤日だったから、夜中に帰宅して遅い夕食を摂りながら録画したものを見るのが最高の愉しみであり、最良の癒やしとなっていたのだ。まぁ、いろいろある時期だったからね。
 それに、ああん、もう! 主人公の高坂穂乃果がべらぼうに可愛いんだよ、まったくもう! 自分がホノキチであるのはじゅうぶん自覚している。
 かつて松井玲奈はこの主人公の親友、南ことりを指して「わたしの嫁」というたが、その伝でゆけば高坂穂乃果はわたくしの「孫」である。孫? 娘ではなく? 然り、孫だ。娘ではない。
 スクールアイドルの頂点となったグループμ’sのリーダーにして和菓子屋「穂むら」の看板娘、子である穂乃果のあれこれを思うとパパはもうおちおち眠っていられない。ソワソワする、どころの話ではなく、大金注ぎこんで警備を付け、それでも心配と不安と愛情がカオス化して仕事なんて上の空。娘の身を案じた挙げ句に仕事を休んで半ストーカー化して、「パパ、好い加減にして!」と頬膨らませて抗議してくる彼女の姿に蕩けつつも意気消沈するのが関の山。仏頂面の穂乃果にパンを与えて「いやぁ、今日もパンが美味い」なんて満面の笑顔を伴った台詞は引き出せそうもない。その点、孫ならば……シミュレーション開始──数分経過──終了。よし、妄想完璧。万事抜かりなし。ミッション・コンプリート(マック・テイラー風に)。
 なあ、そこの君、ドン引きするのはやめてくれたまえ。ボクニハどん引きサレル理由ガワカラナイヨ。Good grief.
 穂乃果への身内の者的な愛情の発露はともかく、今年になってようやくシリーズ全26話と映画版を鑑賞し得た幸せをしみじみ噛みしめている。これって2016年上半期、上から2番目の幸福かなぁ。
 愛が過ぎれば上手に語ることは難しい。まずは『ラブライブ!』総合的感慨として本稿をお披露目して以て前編としたい。いつかわたくし的『ラブライブ!』愛を憚ることなく吐露して後編と為し、補うようにiPhoneとiPodに取り込み済みでスイッチが入ればヘヴィーローテーションするアルバム『μ’s Best Album Best Live! Collection Ⅱ』を中心に久々のレヴュー記事を物すことを企んでいるところである。
 さて、それではチェリビダッケの顰みに倣ってビールとチーズを用意してCSのサッカー中継を観戦しながら、ぼんやりした頭で『ラブライブ!』小説のプロットでも拵えるとしよう。BGMは──「輝夜の城で踊りたい」?◆

 本稿はと或る『ラブライブ!』ファン運営のHPへ寄稿して公開終了となった原稿に加筆修正の上、本ブログへ再掲載するものである。関係者各位に、サンキャー。□

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〈ユダの手紙:〈偽教師についての警告〉、〈警告と励まし〉他with「ユダ」そうして書簡群読了の挨拶。〉 [ユダの手紙]

 ユダの手紙です。

 ユダ1-2〈挨拶〉
 イエス・キリストの僕にしてヤコブの兄弟ユダから、キリストに守られ召されたあなた方へ。憐れみと平和と愛のあらんことを。

 ユダ3-16〈偽教師についての警告〉
 わたしはあなた方に、聖なる者たちへいちど伝えられた信仰のために戦いなさい、と奨めます。むかしから出現が噂されていた不信心者どもがいまやあなた方のなかへ紛れこみ、あなた方の生活や信仰をその基から揺さぶり、かき乱そうと画策している。「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え」(ユダ4)て、かつキリストを否定しています。
 いまいちど思い出してほしい。神は自分の民をエジプトから救い出したが、民のうちで自分を信じない者を滅ぼしました。己の領分を守らなかった天使たちを永遠の鎖で縛り、大いなる裁きの日のため暗闇のなかに幽閉しました。ソドムとゴモラ、その周辺の町々は淫らな行いに耽り、ふしだらで自堕落な肉の欲を求めた結果、永遠の火の刑罰によって消滅し、その名はいまも見せしめとしてあり続けています。
 あなた方のなかに紛れこんだ夢想家たち──偽教師たちも以上のような連衆と同じく、身を汚し、権威を認めず、栄光ある人々を嘲ります。「この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。」(ユダ10)
 かれらは不幸です。<カインの道>を辿り、金銭を求めて<バラムの迷い>に陥り、<コラの反逆>によって滅びてゆくのですから。
 「こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。」(ユダ12-13)
 アダムから数えて7代目にあたるエノクも、不信心者に対する主の裁きについて述べています。
 わたしはあなた方にいいます、──
 「こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。」(ユダ16)

 ユダ17-23〈警告と励まし
 どうか愛する人たちよ、前以てキリストの使徒たちが語ったことを思い出してほしい。かれらはいいました、終わりの時には信仰ある人を嘲る者らが現れて不信心に基づく欲望のままに行動する、と。
 件の夢想家/偽教師どもはあなた方のなかに紛れこんで、あなた方の結束を見出し、煽動と分裂に奔走する、悪意と邪心に漲った、霊を持たない連衆です。あなた方はかれらを、異端分子を、1人残さず排除すべきです。そうしなくてはなりません。
 どうか愛する人たちよ、「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」(ユダ20-21)
 疑いを抱く人たちを憐れみなさい。じゅうぶん用心しながら他人を憐れみなさい。肉によって汚れた者らの下着にすら手を触れてはなりません。それを忌み嫌え。

 ユダ24-25〈賛美の祈り〉
 われらが救い主たる唯一の神にわれらが主イエス・キリストを通して、栄光と威厳、力と権威が、いついつまでもあり続けますように。永遠のむかしから現在に至るまで、そうして遙かなる永遠の未来まで。アーメン。

 引用したユダ12-13は、割と手厳しい調子の目立つ本書簡のなかでも際立ったもので、凄まじき罵りの言葉に思わず身震いしてしまいます。お前なんざゴミ以下だ、アメーバ以下だ、バクテリア同然だ、って感じでね。同じぐらいに「!」としか申しあげるより他ないのが末尾ユダ23であります。下着にすら、とは……思春期の娘が父親の洗濯物を箸でつまむわけでもあるまいに……。
 コラは荒れ野を彷徨うなかモーセとアロンに反逆した1人で、裂けた大地に家族諸元呑みこまれて落命した人であります。
 ──ところで、外典と偽典について私見をまとめておきたく思います。
 まず、正典がある。旧約聖書に収められる39の書物、新約聖書に収まる27の書物が正典。これらがいつ、どのような過程で正典として認められ、<聖書>の名の下に綜合されたかについては、機を改めて本ブログにてお伝えしましょう。
 外典とは、正典とは認められないがそれに準ずる位置を占めるもので、旧約聖書続編としてまとめられる13の書物のうちギリシア語とラテン語それぞれによる「エズラ記」と「マナセの祈り」を除いた10の文書をカトリック教会では第二正典とし、2つの「エズラ記」と「マナセの祈り」を外典と呼ぶ。続編の書物群についてプロテスタント教会では価値を認めて外典として扱うところもあれば、価値を認めず無視するところもあるという。なお、フランシスコ会訳聖書では旧約聖書続編に収められる各書物を旧約聖書正典のなかに交えて載せております。
 一方、偽典とは旧約聖書の正典とも外典とも扱われない、しかし聖書にかかわる宗教的文書を指す。本書簡に即していえば『モーセの昇天』と『第一エノク書』が相当します。が、時代や風潮によって外典と偽典の境界や概念は変化する。これらはあくまで私見であることを忘れないでいただきたい。I think so.
 ユダ9と同14-15はこの2つの偽典を典拠とした箇所です。前者は『モーセの昇天』から、後者は『第一エノク書』から。
 『モーセの昇天』は1世紀後半に成立したとされ、元はアラム語かヘブライ語で書かれていたようですが、現存するのはギリシア語から重訳したラテン語写本のみとぞ。旧約聖書偽典の1つで黙示文学に属します。内容はモーセが後継者ヨシュア相手に話すイスラエル民族の未来史であり、バビロン捕囚やハスモン王朝の誕生、ヘロデ王の暴虐、ローマによる支配などを経て神の国到来まで述べられたところで筆が擱かれる。
 『第一エノク書』は『エチオピア語エノク書』とも呼ばれ、前2-1世紀に成立したとされる。これも旧約聖書偽典の1つ。初期キリスト教会、牧者や信徒たちの間では広く読まれた様子で、聖書を読みながら参考文献を繙いているとその名を目にすることの多い書物だ。ユダ14-15は『第一エノク書』第60章第1節と第1章第9節に拠っているそうだが、惜しくも未見未読、こんど図書館にこもって確認してきます。
 また、ユダ6にある鎖につながれて幽閉された天使たちの挿話は、この『第一エノク書』に詳しく載る由。
 以上、感想の場を借りて外典と偽典について備忘として記した。以前より機会を得て書いておきたい、と願うていた話題であったので、簡単ながら筆を執ることのできたことを感謝します。

 わたくしは本書簡、「ユダの手紙」を好む。下卑た悪意と蔑みで徒党を組み、排斥せんと欲して煽動を繰り返す衆に抗う縁として。
 ここでもまたわたくしは呟かねばならない、味方以外はすべて敵である、と。誤りはあるだろうか?

 本日の旧約聖書はユダ5と出12:51及び民14:29-33、ユダ6と創6:1-4(ex;二ペト2:4)、ユダ7と創19:1-29、ユダ11aと創4:8、ユダ11bと民22:4-35(ex;二ペト2:15-16)、ユダ11cと民16全節、ユダ14と創5:18及び同22-24。



 「ユダの手紙」を読み、考え、ノートを擱筆したことで公同書簡、そうして新約聖書の2/3弱を占める書簡群の読書は、本日を以て完了となります……が、ふしぎとなんの感情も湧いてきません。大きな区切りをぶじ迎えられた喜びも、10ヶ月ばかりを費やして読了した達成感も、なにも。あるとすればただ1つ、それは、すべてへの感謝の想い。失笑する勿れ、この感慨は真実である。
 足掛け8年、実質7年の長きにわたる聖書読書も間もなく終着点。暗黒の塔を一面の薔薇野原の向こうに聳えるのを発見したローランドにわが身をなぞらえたい気分……とは、さすがに救われない喩えか。しかし、ヒルティの言葉を借りれば斯くいえよう、わたくしの前にはただ希望のみが広がっている、と。そう、何だ彼だで残る書物はあと1つだけなのだ。
 最後の日にラッパは鳴らされるか。終末を告げるそれではなく、ゴールを高らかに喧伝する妙なる祝いの音色。そのとき、わたくしのなかを通り過ぎていった人はよみがえって微笑むか。そのとき、わたくしは涙するか。しとどに流れて頬を濡らせ、涙よ。
 新約聖書唯一の黙示文学「ヨハネの黙示録」の読書は終戦記念日をメドに始める予定であります。読者諸兄よ、そのときまで健やかであれ。◆

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〈「ユダの手紙」前夜〉 [ユダの手紙]

 今回読む「ユダの手紙」は公同書簡最後のものであると同時に、パウロ著「ローマの信徒への手紙」に始まった書簡群の掉尾を飾る手紙でもあります。
 わたくしは以前書いた〈「二ペト」前夜〉に於いて、「ペトロの手紙 二」と「ユダの手紙」では偽教師への警戒というテーマが重複しており、外典『第一エノク書』を援用した文言が見受けられる、と述べました。また、両書簡は思想の上でも近しい関係にある、とも。偽教師の出現について一言すると、「二ペト」では近い未来の出来事として語られ、「ユダ」では近過去もしくは現在の出来事として語られています。
 両書簡が内包する種々の事柄を検討すると、「二ペト」は「ユダ」よりも後の時代に、それを参考として書かれた、と考えるのが一般的であるようです。が、果たしてそうなのでしょうか。「二ペト」と「ユダ」は皆がこぞって指摘したがるような依存関係にあるのでしょうか。偽教師の出現や異端思想との接触によって揺れる教会や信徒たちへ向けて筆が執られた、というその目的と背景が共通するならば、書かれた時期や宛先が違っていたとしても、手紙で語られる内容は自ずと類似するものではないでしょうか。そうわたくしは考えるのであります。
 「ユダの手紙」は公同書簡の中でも旧約聖書の内容を踏まえた記述が目立ちます。と同時に外典からの援用もはっきりした形で見受けられます。たとえばユダ9は『モーセの昇天(ギリシア語断片)』を、ユダ14は『第一エノク書』を下敷きに書かれています。この点については本文を読む明日に改めて述べると致しましょう。
 本書簡の著者はユダとされます。使徒ユダではなく主の兄弟ユダ。ユダ1ではヤコブの兄弟と自己紹介しますが、ヤコブは「ヤコブの手紙」の著者であり、そうして主イエスの兄弟でした。必然的にユダもイエスの兄弟の1人となります。
 これが書かれたのは1世紀後半、およそ80年代であろう、とされます。ユダもエルサレム教会の一員で牧者として信徒を束ね、指導したけれど、60年代後半に勃発した第一次ユダヤ戦争によってエルサレムは第二神殿を失い、町も壊滅状態となりました(70年)。80年代は廃墟となったままですから、執筆された場所がエルサレムであるとは考えられない。この点を推理するためにはユダの生涯の伝承を知る必要がありましょうが、あいにくとまだそこまでの調査はできていないのです……。ユダが足跡を残したローマ帝国領内の町や村のどこか、としかいまはお伝えできません。
 「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」(ユダ7)──なぜこの箇所を引用したか、おわかりになりますか、ヴ(vous)?
 それでは明日、「ユダの手紙」を読んでゆきましょう。◆

 追伸
 今回はちょっと難儀しました。□

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〈ヨハネの手紙・三:〈挨拶〉、〈善を行う者、悪を行う者〉他with「二ヨハ」及び「三ヨハ」読了の挨拶。〉 [ヨハネの手紙・三]

 ヨハネの手紙・三であります。

 三ヨハ1-4〈挨拶〉
 長老のわたしヨハネから愛する子ガイオへ、まことの愛をこめて。
 あなたが真理に歩んでいることは、あなたに会った兄弟たちが一様に伝えてくれます。わたしにはそれがとてもうれしい。わが子らが真理に歩んでいるのを伝え聞く程喜ばしいことはないのですから。

 三ヨハ5-12〈善を行う者、悪を行う者〉
 ガイオ、あなたは誠意を以て兄弟たちへ尽くしてくれています。殊、余所から来て宣教して回る人らに対して。かれら巡回伝道師たちはここエフェソの教会であなたの愛を証ししています。どうぞ神の喜びとなるよう、かれらを次の目的地へ送り出してください。かれらは神の御名のためにこれを行うのであって、報酬が発生しているわけではないのです。
 ところで、あなたの属する教会にはディオトレフェスという者がいて、件の巡回伝道師の受け入れを拒む活動をしている由。それは容認し難い行為です。わたしはそちらへ行った際、かれに会ってそのことを指摘するつもりです。ディオトレフェスは悪意に満ちた言葉を操って自説に同調する者を増やしてゆき、あなたのような心がけの立派な人の行いを邪魔して、かつ教会から追い払い、締め出しています。
 われらはあなたのように働くべきです。そうして、真理のため共に働く者となるべきなのです。
 「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。」(三ヨハ11)
 ご存知と思いますが、善を行う人は神に属する人であり、悪を行う者は神を見たことがない者なのです……。
 この手紙をあなたに届けたデメトリオ──かれについてはあらゆる人が、真理そのものが、われらが、証しします。あなたはその証しが真実であることを知るでしょう。

 三ヨハ13-15〈結びの言葉〉
 書きたいこと、伝えたいことはまだまだありますが、いまは一旦筆を擱きます。手紙ではなく、直にお目にかかって親しく話し合うことを希望します。
 そちらの兄弟1人1人に宜しくお伝えください。あなた方に平和あれ。

 三ヨハ9「わたしは教会に少しばかり書き送りました」とはなにか? 実はこれが「ヨハネの手紙 一」でなかったか、とわたくしは過日に推理しました。ディオトレフェスによってかき乱されて調和の均衡を欠いた教会に書き送られたのが、為すべきを為し、退けるべきは退けよ、という内容の文書だったらば、その最有力候補に「ヨハネの手紙 一」以外なにがあるでしょうか。「一ヨハ」が本書簡に添えられた回状であり、本書簡が「一ヨハ」に添えられた手紙である、というたのはそんな小さな考えからであります。
 ディオトレフェスに寝返った者がどれだけいたかわかりませんが、こうした反旗を翻す集団は中心人物を失うやたちまち分裂してしまうものです。中心人物を失った反対勢力は消滅します。そこに属していた者は、寝返ってからは糾弾の対象とした古巣集団へさも当たり前のように復帰し、表面上は平和を保っておりますが内心は針のムシロ状態でしょう。そうして求心力と影響力をなくしたかつての中心人物は活動の場を他に移して同じことを「正しいこと」と錯覚して繰り返し、見放されたりするのを繰り返すのです。これは政治の世界でお馴染みの光景ですし、学校や会社でも組織集団を人間が構成する以上はけっしてなくならない、おぞましい排他的行為であります。まぁ、いわゆる村八分を画策する、実行する、ということですね。
 さて。
 巡回伝道士たちの仕事はペトロ以下の使徒たちやパウロがしたのと同じものでした。まだキリスト教が伝わっていない地域、伝わっているけれど改宗には至っていない地域を訪ねて諸地方を行脚し、ひたすら言葉を尽くして、心を尽くして、行いを尽くして、キリストの福音を伝えて回る。
 これは時代がずっと下ってもキリスト教会、殊カトリック教会が実施していることであります。室町時代末期に来朝したポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルが、われらがいちばんよく知る巡回宣教師の末裔です。フィリピン韓国にもこのような役目を果たした人々がいました。東南アジアのキリスト教布教にはイエズス会が大きな役割を果たしたようであります。また、大航海時代の一方の雄スペインも、たとえば南米インカ帝国を滅ぼした後、植民地化と同時に宣教師を送りこんで現地人の改宗に努めさせたのでした。
 ──仏教やイスラム教の伝播は歴史的にも地理的にも限定的なのに対して、キリスト教のそれは歴史的には古代から現代に至り、地理的には聖書のなかで予言されたように地上全土を覆いました。この伝道の熱意たるや尋常ではありません。余程の使命感があり、継続されて衰えることなき意欲と能力と精神力の持ち主でなければ務まらないでしょう。
 わたくしはときどき思うのですが、キリスト教の伝道が中東からエジプトを経由してアフリカ諸国へ、小アジアを経由してヨーロッパ諸国へ伝わり、大西洋を越えて南北アメリカ大陸に、地球を半周して東南アジアにまで波及した根本にして最大の要因は、勿論ローマ帝国の存在がありますけれど、時代が下っては大航海時代の訪れや、産業革命を背景としたイギリスの世界進出が<鍵>となっているのではないでしょうか。後者でいえば、<日の沈まぬ国>大英帝国の形成は、同時に地上全土へキリスト教が広まってゆく決定的一打になった、と思うのであります。
 西洋史や地図、好きで読み漁る航海史など見ていると、ついそんなことを考えます。ヨーロッパ諸国の外洋進出という視点から改めてキリスト教の広まってゆく過程、歴史を観察すると、これまで思いもかけなかったような物語が見えてくるように思います。

 本日を以て4日にわたった「ヨハネの手紙 二」と「ヨハネの手紙 三」の読書を終わります。この調子なら予定通りの新約聖書読了も果たせそうですが、油断は禁物。「ヨハネの黙示録」が控えている以上はね。
 しかし、まずは3つの「ヨハネの手紙」が終わり、10ヶ月をかけて読んできた書簡群の読了が間近に迫ってきたことを素直に喜ぼう。「歌おう、感電する程の喜びを!」と叫ぶのはまだ早いが、遅かれ早かれその日は訪れる。
 読者諸兄よ、あともう少しのお付き合いを願いたい。いつもありがとう。サンキー・サイ。◆

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〈「ヨハネの手紙 三」前夜〉 [ヨハネの手紙・三]

 既に述べた如く〈公同書簡〉にカテゴライズされるものは特定の宛先を持たない、すくなくとも明記はしていない、という特徴があります。唯一の例外といえるのが今回読む「ヨハネの手紙 三」。どうしてこれが〈公同書簡〉の1つとされるのか、その理由をわたくしは知りません。〈パウロ書簡〉の2つの「テサロニケの信徒への手紙」のように無冠でもよいと思うのですが……。
 本書簡の宛先となったガイオとは、では誰か。新約聖書にその名はここ以外にも出る。1つはパウロの第3回宣教旅行の随伴者(使19:29、同20:4)、もう1つはコリント教会の信徒(ロマ16:23、一コリ1:14)。「使徒行伝」の場合、使19:29では「マケドニア人ガイオ」、同20:4では「デルベのガイオ」と呼ばれ、双方が同一人物だという確たる証拠はありません。新約聖書の時代にはありふれた名前だった由。
 本書簡の受取手は「使徒行伝」に出るガイオなのか、〈パウロ書簡〉に出るガイオなのか。どちらかなのか、否か。それぞれの執筆時期や場所などから考えて、ここは第三のガイオの存在を検討するのがいちばん無難で、正解に近いようであります。
 かれガイオは自分の属する教会の指導者的立場にあった人。信徒を束ねる傍ら、宣教のために旅する人々をもてなし、世話し、施しをすることもあった様子です。この行為はよく知られたことであったらしく、著者ヨハネはガイオの行いを誉め讃えた。そうしてキリスト者は、教会は、真理のためにもガイオのように働かなくてはならない、と自戒のような一言を添えております。
 ヨハネス・シュナイダーの紹介する古伝承に拠れば、本書簡の受取手ガイオは著者でもある使徒ヨハネからベルガモ教会の司教に任ぜられた、とのこと(NTD新約聖書註解『公同書簡』P422 松本武三他訳 NTD新約聖書註解刊行会 1975)。事実無根の伝承なのか、幾許かの史実に立脚しての伝承なのか、定かでありませんけれど、そんな話が出てもおかしくない人物であった、とはいえそうであります。
 が、ガイオの行為を妨害するような振る舞いに出る者が、同じ教会にいました。ディオトレフェスという人物です。かれは指導者になりたがっていた(三ヨハ9)。ゆえにかれが当時その地位になかった、と考えるのは早計に過ぎましょう。もしかすると、既に指導者の1人になっていたかもしれないが、更に上位を、上の立場を狙っていたのかもしれない。一般に「長老」と呼ばれる存在になりたがっていたのかもしれない。本人にインタヴューできない限り、この一文の背景は永遠に不明のままであります。巡回伝道者たちへの世話や施しなど一切する必要はない、と主張し、自分と対立する人(つまりガイオのような存在)を教会から追い出している、というのが、本書簡から読み取れるディオトレフェスの姿です。調和を乱す者、そんな印象を抱きます。
 「ヨハネの手紙 三」はガイオへの称讃とディオトレフェスへの非難によって構成される。この2人が俎上に上る理由は十分に理解できます。片や受取手、片や問題児なのですから。
 それでは、三ヨハ12に名の出るデメトリオとは誰なのか、どうしてここに名が挙がるのか。人物像については未詳ですが、その名に触れる可能性として浮上するのは、かれこそが本書簡をヨハネから託されてガイオに届けたのではあるまいか、ということ。デメトリオが信徒として立派な人物である、と力説しているのは、かれの身元保証の意味もあってのことでありましょう。
 それでは明日、「ヨハネの手紙 三」を読んでゆきましょう。◆

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〈ヨハネの手紙・二:〈挨拶〉、〈真理と愛〉&〈結びの言葉〉withホレイショ・ケインの言葉(その3)他〉 [ヨハネの手紙・二]

 ヨハネの手紙・二です。

 二ヨハ1-3〈挨拶〉
 長老のわたしヨハネから選ばれた婦人とその子供たちへ。わたしはあなた方を愛しています。いえ、わたしだけでなく、真理を知っている人々は皆、あなた方を愛しております。
 われらの内にある真理は永遠にわれらと共にある。父なる神と御子キリストの恵みと憐れみと平和は、真理と愛の内にわれらと共にあるのです。

 二ヨハ4-11〈真理と愛〉
 わたしが書く掟は新しいものではなく、初めからわれらが持っていた掟です。つまりそれは、お互いに愛し合いなさい、ということ。
 「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」(二ヨハ6)
 なぜこんなことを書き送るのか、おわかりになりますか。あなた方の周囲に現れて教えも掟も異にする衆への警戒を促すためです。かれらは反キリストです。かれらはイエス・キリストが肉となって来たことを公言しようとしない。かれらは世の人を、キリスト者を惑わします。かれらは反キリストです。
 あなた方は神の掟に従ってあゆみ、努力して得たものを失うことなく、豊かな恵みを受けるように心掛けなさい。それが大事なのですよ。キリストの教えに留まる人の内にこそ、御父と御子はおるのです。
 キリストの教えに留まるどころか、そこから逸脱したような輩が神に結ばれているわけがありません。そんな連衆を家のなかへ招き入れたりしないように。挨拶を交わすことも厳禁です。かれらと親しうする者は異端に染まります。

 二ヨハ12-13〈結びの言葉〉
 書きたいことはまだ山程ありますが、紙にインクで、ペンを用いて綴るようなことはやめておきましょう。それよりもわたしはそちらへ行って、顔と顔を合わせて直に話すことを望みます。われらの喜びも満ちあふれることでしょう。
 あなた方の姉妹、選ばれた婦人の子らが、どうぞ宜しく、とのことです。

 本書簡が「一ヨハ」の論点をまとめたものであることは、昨日お話しした通りであります。短さゆえというところは割り引いて考えるとしても、こちらの方がより具体的で論旨明快なのは、本稿に留まらず実際新約聖書を繙いてみても即座におわかりいただけましょう。わたくしもおこがましくも著者ヨハネに成り代わって本稿を物したつもりでいるのです。



 本来ならばここで読了の挨拶となりますが、今日はイレギュラー。明後日の「三ヨハ」ノートにてまとめて読了の挨拶をさせていただきます。
 楽しみにしてくだすっていた読者諸兄よ、肩透かしを喰らわせて申し訳ない。いまはとにかく前進あるのみ。GOAHEAD.
 明日と明後日は「ヨハネの手紙 三」、その後はやはり2日をかけて「ユダの手紙」を読んでゆきます。意欲が突然奪われたりしないように、毎日更新を負担に思うて息切れしないように、気力を振り絞ってがんばるので、どうか愛する読者諸兄よ、モナミ、最期の日までわたくしを支えてほしい。

 その写真を撮ってLINEで送信し、はた、とわれに返ってつくづく自分は阿呆か、と嘆息した。同じ小説好きの人に今年下半期の読書予定として待機中の小説、文庫・単行本織り交ぜて写メしたのである。
 改めて床に降ろして積みあげて、iPhoneカメラ越しにその光景を眺めてみると、いやぁ自分の「愚」を感じたね。このあとどれだけの時間を読書につぎ込むのか、と。他にすることはないのか、俺?
 愉しいから良いけれど、数少ないホンマの趣味やから構わないけれど、それにしても、ねぇ……。帰り際に同僚にいわれた言葉が思い出されて胸をちくり、と刺すのである。

 第何回目か忘れた「ホレイショ・ケインの言葉」。
 『CSI:マイアミ』S1#20「ヒトラーの子」に於ける、初視聴のときからわたくしを支配し、杖となったその一言──「人になにをいわれようと関係ない。大切なのは、自分が自分をどう思うか、だ。しっかりした信念を持て」
 嗚呼、これこそいまのわたくしが座右の銘とし、厚顔無恥を、或いは他人の批判へ耳を貸さない風を装うために<武装>すべき言葉だ。
 わたくしはわたくしの信じる道を歩く。誰が後ろに踏み留まろうが構わない。わたくしは1人だけであっても前に進む。共に歩めぬ者らよ、さらばだ。いつかどこかで会おう。この“This Hard Land”で生き抜いてほしい。わたくしもサヴァイヴァルに励もう。そのときまで元気で。盟友よ、では一緒に行こう。
 信念と信仰と希望を胸にしまって、ぬるま湯のような毎日を、汚濁末法の世を生きよう。◆

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〈「ヨハネの手紙 二」前夜〉 [ヨハネの手紙・二]

 公同書簡とは特定の、明確な宛先を持たぬ、広く教会や信徒に宛てて書かれた手紙をいう。これに則れば読了した「ヤコブの手紙」や2つの「ペトロの手紙」、「ヨハネの手紙 一」はたしかに公同書簡としかいいようのないものであります。
 では翻って「ヨハネの手紙 二」はどうか、というと、冒頭の挨拶で「選ばれた夫人とその子たちへ」(二ヨハ1)とある。古来よりここに議論が集まったそうですが、その殆どすべてはあまりに考えすぎといいますか。それらは明白な表現のされていない文言をどうにか解析して事実を白日の下に曝したい、否、曝す必要がある、という強迫観念の賜物としかわたくしには思えません。物事は時に極めて単純で、拍子抜けするような事実をわれらの前に提示します。
 ここでわたくしが指摘したいのは、教会は女性名詞で語られてき、信徒は親子関係になぞらえるなかで語られてきた、ということ。これを「ヨハネの手紙 二」冒頭にあてはめれば、やはり他の公同書簡同様、広く教会やそこへ集う信徒(教会の構成員)ということになります。……この公同書簡の定義から逸脱するのはただ1つ、次の「ヨハネの手紙 三」でありますが、これについてはまた明後日に取り挙げると致しましょう。
 但し、実際に本書簡の宛先となったのは、「一ヨハ」よりも狭い地域だったでありましょう。つまり、著者ヨハネが暮らしていた町から多くの日数を費やして赴くような地域ではなかっただろう、ということです。示し得る揺るぎなき根拠は本書簡のなかにありません。が、手掛かりは1つだけ、ある。
 二ヨハ12「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」条。
 もしかするとそれは、仮説を補強して望む答えを導くため事実を歪めた結果なのかもしれません。しかしわたくしはこの筆致に物書きの感覚として遠路はるばる訪ねてゆくような場所を想定することに疑問を抱くのであります。なお、二ヨハ12は若干の語句を変更して「ヨハネの手紙 三」末尾にも見られます。
 では「ヨハネの手紙 二」はいつ、どこで、誰によって書かれたか、という毎度お馴染みの話題となるのですが、この点については既に見解を述べてあります(偉そうに申して相済みません)。「一ヨハ」前夜で申しあげたことと変わるところはない──即ち、著者は使徒ヨハネ、時期は90年代後半から2世紀初頭にかけて、場所はアジア州エフェソ。ヨハネの名前を冠する3つの手紙──「一ヨハ」については<手紙>と称することに抵抗がありますが──は時期を近しうして個々に、同じ場所にて筆を執られたでありましょう。
 単一章から成る本書簡の内容ですが、こちらもまた「一ヨハ」と同じであります。反キリストに対する警告であり、神の掟を守って異端に染まるな、という訓戒。全5章をかけて縷々述べられた「一ヨハ」の内容を凝縮させたようなものなんですね、といわれれば返す言葉もありません。事実ですしね。
 わたくしがふしぎに思うているのは、「一ヨハ」と残り2つの「ヨハネの手紙」の関係です。先にわたくしは「一ヨハ」を、手紙本体というよりは手紙に添えられた回状ではないか、と想像しました。
 かりにこの想像が事実だったとして、「一ヨハ」に添えられた手紙がもし新約聖書に収められるとすれば、「二ヨハ」と「三ヨハ」のどちらに可能性の軍配があがるだろうか。わたくしは「三ヨハ」の可能性は薄い、と考えます。
 本体である回状の内容を改めて手紙に書く。それは回状のみでは受取手にその内容がわかってもらえないかもしれない、と考えていることになりはしないか。相手方の理解度を疑問視していることを白状したも同然であります。ならば、個人への指導に終始する「三ヨハ」の方がより相応しく思うのですが、如何でしょうか……?
 それでは明日、「ヨハネの手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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〈ヨハネの手紙・一第5章:〈悪の世に打ち勝つ信仰〉、〈永遠の命〉他with「一ヨハ」読了の挨拶。〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第5章です。

 一ヨハ5:1-5〈悪の世に打ち勝つ信仰〉
 イエスがメシアである、と信じる人は誰もが神から生まれた人であり、神から生まれた人は同じく神から生まれた他の人を愛するようになります。神を愛し、神の掟を守ることは神の子らを愛することを意味するのです。
 神を愛することは神の掟を守ること。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(一ヨハ5:4)──世に打ち勝つ人とは即ちイエスが神の子、メシアだと信じる人であります。

 一ヨハ5:6-12〈イエス・キリストについての証し〉
 イエス・キリストは水と血を通って、来ました。真理である“霊”がそれを証ししています。
 神が御子に対して行った証しこそ神の証し。御子を信じる人の内にこの証しはある。が、そも神を信じぬ者は御子に対する証しについて知るところはなにもなく、為に神を偽り者に仕立てています。
 「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(一ヨハ5:11)
 御子と結ばれている人にはこの命がある。御子と結ばれていない人にこの命はない。

 一ヨハ5:13-21〈永遠の命〉
 わたしがこうして書き送るのは、自分の永遠の命を得ているのだ、ということを悟ってほしいからに他なりません。
 既に述べたように、それが神の御心にかなうことならば願いは聞き入れられます。求めよ、然らば与えられん、というわけですね。このことを理解できるなら、神に願ったことは既にかなえられていることがわかるはずです。
 死に至らぬ罪を犯した兄弟がいたら、かれのため神に願いなさい。かれは神によって命を与えられるでしょう。
 一方で、死に至る罪があります。死に至る罪を犯した者のため神に祈れ、とはいいません。不義はすべて罪、例外はない、かれの前にあるのは避けられない死です。
 「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。」(一ヨハ5:20-21)

 総括としての本章を読み終えて倩思うのは、この世全体が悪い者の支配下にある、てふ一ヨハ5:19の文言です(ノートはしませんでしたが)。
 本書簡は90年代後半から2世紀初頭の成立と推理しました。ドミティアヌス帝によるキリスト教弾圧/迫害があったあとの時代、と考えました。
 ヨハネが手紙の筆を執った時代は件のキリスト者への迫害の記憶が生々しく残っている、まだ歴史的遠近法のなかでそれが古典化していない頃であります(*)。そうした時代に、反キリストについてはまぁともかく、世の支配体制について一石を投じるような言葉で触れるのは相応の覚悟を伴ったのかもしれないなぁ、と憶測。実際はなにも心配することのない、わたくし一人の杞憂かもしれないけれど……。
 ただ、本書簡の史的背景を踏まえた上でかの文言を読むと、あらぬ想像が頭をもたげて暴れるのだ、と詭弁を弄しておきましょう。
 *米澤穂信『氷菓』より表現を借用した。法的道的支障があれば典拠資料を添えた上でご報告いただきたい。善処する



 手紙の体裁を整えないがゆえに回状と推理した「ヨハネの手紙 一」を終わります。ブログの今後のテーマを(改めて)見出し、(ほぼ)確定させられたことは当該日で述べましたが、これはいままさにこのとき「一ヨハ」を読んでいたからこそ摑み得たもの。天に、サンキャー。
 実は本書簡の記事をお披露目中、本ブログに激震が走りました。いつもと変わらぬ記事が公開されたその日、どうした理由でか訪問者数が500人強、PVがなんと30,000以上の記録が樹立されたのです。普段は1/2,1/100程度なのに……。
 どうしてこんなに読まれたのだろう? なにが起爆剤となったのかさっぱりわからないし、新たな固定読者の獲得につながるなんて楽観視はしていない。けれども出された数字は事実以外の何物でもありません。この数字が維持できたら良いけれど、ブログの性質上それは難しそうだ。わたくしに出来るのは、これまで通りのレヴェルの原稿を日々怠ることなく書き、これまで通りの定時更新を愚直に繰り返してゆくだけです。
 既存の読者諸兄よ、新たな読者諸兄よ。そうして、モナミ。わたくしはあなた方のため、あなたのため、そうして自分の救いのために、今後も書く。更新してゆく。あなた方あればこそ、あなたあればこそ──サンキー・サイ。◆

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