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第2378日目 〈村上春樹『職業としての小説家』が文庫化されました。〉 [日々の思い・独り言]

 村上春樹『職業としての小説家』が早くも文庫化。リアル・タイムで再び読むようになった『1Q84』以後としては、単行本の刊行から最速での文庫化ではあるまいか。その間、ちょうど1年。文庫化を希望する声が余程多かったのか、或いは所謂<大人の事情>だったのか、事実を知る術は勿論ないが、気軽に、いつでもどこでも持ち運んで読めるようになったのは慶賀の一言、良いことである。
 感想を認めよう、そうしなければ、と思いつつ、気附けばずいぶん時間が経っちまったものだが、今回文庫で読み直してみて、小説家になろうと粉骨砕身して実現に努めている人たちは皆が読むべき1冊と思うた。むろん、村上春樹を好きであろうと嫌いであろうと、である。技術を開陳しているわけでもなく、覚悟を強いるような精神論でもなく、しかし丁寧に読めばそれらの<なるには>本よりも得るところは格段に大きいに違いないのだ。もし『職業としての小説家』が数年早く刊行されていたならば、きっとわたくしは本書を何度も読み返して汚くしていたことだろう。それだけ得るところ、教わること、反省させられる点を多く見出すのである。
 小説家による教本としては、個人的にはスティーヴン・キング『小説作法』に次ぐ位置を占める本だ。小説を粗製濫造していた学生時代、しばしのブランクのあと1年に1本乃至2本ペースで書いていた30代の殆ど、そんな風に小説を書くことに血道をあげていた当時のみならず、エッセイに主軸を置くようになった現在でも、本書は<バイブル>と呼んで奉り、また握玩の書と呼んでいっこう躊躇いのない1冊なのだ。さっきは小説家になろうと努力している人たちならば皆、というたけれど、小説に限らず文章を日常的に書く人ならば誰しも熟読玩味すべき1冊だと思うのだ。
 だからわたくしも、改めて1ページ1ページをじっくりと読み耽ってゆこう、と思うている。本書が浄められた机の上に国語事典などと一緒に並ぶ日も、おそらくそう遠くはないだろう。◆

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第2377日目 〈サア、横溝正史ト江戸川乱歩ヲ読ムヨ!〉 [日々の思い・独り言]

 未読の小説の山が存在していることは既に述べた。加えて着々とそこへ更なる未読の本が新規参入していることも。たいがいは誰彼の小説を読み、おお、とばかりに感銘を受けてその人の文庫を何冊か見繕ってきた、というパターンなのだけれど、こうして増えた本の書き手の代表格が宮部みゆきであることも、既にお話ししたことだ。『あやし』読了後に増えた文庫は、そうね、17、8冊というところか。でもタイトルとしては多くない。このなかには『模倣犯』や『ソロモンの偽証』も含まれているからね。
 そうしていま、宮部みゆきに続く存在が2人、この数日で新たに浮上した。いずれも日本推理小説界の巨星ともいうべき作家で、これまで読んだことがなかったの? とびっくり仰天、呵々大笑されてもぐうの音も出ぬ大家である。然様、あなたのご想像通り、横溝正史と江戸川乱歩だ。昨日──時間としては今日になるが、寝る前のことだから昨日としていっこう差し支えないだろう──『獄門島』を読み終わり、今日から『孤島の鬼』を読み始めた。これがなかなか充実した読書体験で、他の作品も読んでみたいな、てふ気持ちにさせられるものだった。
 乱歩については以前にも書いたのであるが、わたくしの乱歩入門は天知茂の<美女>シリーズではなく陣内孝則の明智小五郎シリーズであり、小学校の図書室に常置されているはずなのに棚に1日とあった試しのない<怪人二十面相>シリーズではなく高校時代の怪奇小説好きの熱に浮かされ導かれて手にとって読み耽った『幻影城』正続や『鬼の言葉』だったのだが、小説……はて、30歳になるより前に読んだことはなかったように記憶している。為、ちょうど今日から読み始めることになった『孤島の鬼』には、まだ第1章も終わったばかりだというのに、いたく胸がトキメイテ、今後の展開にワクワクドキドキしているところなのだ、早くも! 事実上、ワガ乱歩体験ハ『孤島の鬼』ヨリ始マル──。
 一方で横溝だが、これはもう掛け値なしに申しあげてもよい、『獄門島』が初めて手にするかれの小説である、と。ん、そういえば『日本怪談名作劇場』の原作になった『髑髏検校』は読み通したんだったかしら。あんまり覚えてないや。相済みません。でもこの小説には魂消たなぁ。いろいろな意味で推理小説のお手本というて構わないのではないか。
 トリックキャラクター、舞台設定、動機の意外性、そうして肝心要のストーリー。これらについては勿論だが、かてて加えて、殺人劇が幕を降ろさないと解決に向けて動けない名探偵とか、肝要な場面でしどろもどろな喋り方になり果てには自らの挙動不審で犯人の最有力候補とさせられる名探偵とか、大団円の場面で恋路破るゝ憐れなるべし名探偵とか、見事なまでのキャラ立ちっぷりであるよ、金田一耕助は! ここまで来たら、拍手喝采を贈らざるを得ない。失笑しているのではなく、驚嘆しつつも讃美しているのだ。
 『獄門島』を読みながら、この直前の事件であり、かつ金田一耕助の初登場となる『本陣殺人事件』と、時系列的には両者の間に置かれる短編「百日紅の下にて」を読みたい、と思うた。横溝作品を揃える角川文庫ならば、別々の本にはなるけれど件の2作を読むこと自体は可能だ。しかし、今回わたくしが親しんだ『獄門島』は中高時代に書店の棚で見掛けて鮮烈な印象を刷りこまれた杉本一文画伯描くところの妖艶なる表紙カバーの版であって(序でに背表紙に「金田一耕助シリーズ」なんて文字も入っていない)、現在流通しているヴァージョンでは断じてない。ゆえにこそ、わたくしは『本陣殺人事件』も「百日紅の下にて」を収める『殺人鬼』も、杉本画伯描くイラストで装われた旧版で読みたいのだが、古本屋へ入ると意識してそれを探してみるが、見附けられたことは未だにない。探し出して日が浅いから仕方ないけれど、こんなときに先生堂や伊勢佐木書林が現在も営業していればいいのにな、と遅れてきた横溝読みであるわが身を嘆いたりするのである。
 そんな流れでわたくしが悩んでおるのは、創元推理文庫から出ている<日本探偵小説全集>の「横溝正史集」を(いっそのこと)買ってしまおうか、ということ。そちらには『本陣殺人事件』、「百日紅の下にて」、『獄門島』の3編が時系列で配置されているからね。さぁて、困った、困った。実際に読むのは、例の未読の文庫の山が予定通り消化され尽くしたあとのこととなるから、いまこの時点でさんざ悩む必要などないのかもしれないが──。でも、目的の文庫は早めに確保しておきたいよね。
 正直なところ、この未読の文庫の山が年内に消えてなくなるとは思うていない。残り2ヶ月で40冊余を読み終わるのは不可能なことだ。断言できる。ここで本来の話題にむりやり帰還すれば、この山が消えてなくなった後の読書予定リストには、宮部みゆきの他に本稿にてお話ししているように横溝正史と江戸川乱歩が新しく加わり、文庫化作品の全巻読破を念じてそのまま中途で放ったらかしな太宰治やアガサ・クリスティ、ドストエフスキーなどと並行してゆるゆると読んでゆくことになる、とお伝えしておきたいのである。
 この年齢でありながら横溝と乱歩の小説に出会えたこと。それを読んで胸躍らせられる気持ちをまだ持てていること。それらの幸運へ、感謝。◆

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第2376日目 〈活字よりも漫画でしょう!〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ青空文庫はとんとご無沙汰である。わたくしとしては、もはや蜜月は過ぎたかな、と捉えている。
 一ト頃は青空文庫で多くの小説や詩、随筆を読んだ。紙媒体ならば全集を繙かなくてはならない限りお目にかかることもないであろうような商品に触れる、束の間の幸福も味わわせていただいた。が、わたくしにとって青空文庫は過去に愛用したツールでしかない。いまとなってはもう。
 なぜか、という問いに返す言葉は拍子抜けするぐらい単純だよ。即ち、目が途轍もなく疲れるのだ。途轍もなく、なる形容詞がポイント。これは大袈裟な話ではない。一時は深刻にわが身を苦しめた症状なのだ。
 10分というたいして長くもない時間、スマホやタブレットの画面にお行儀良く並んだ活字を追っていると、もういけない、目蓋の上の方が鈍く痛み出し、眼球は乾き、首も肩も凝ってくる。帰りの山手線の車内で老舗の眼鏡店の広告を見た。スマホにかぶりつく現代人に向けた眼精疲労の記事の載る広告だった。ああ、俺が青空文庫を見ているときに経験した痛みはこれのことであったのかもな、とつくづく感じ入ったことである。
 上述のような経験を何度も重ねると、さすがに人間とは学習する生物である、わたくしはここで青空文庫との訣別を心のなかで宣言、これを三行半を突き付けることで断行したのだ。とはいえ、未だわたくしのiPhoneには青空文庫のアプリがのうのうと居坐っておる。どうして? 断っておくが後日の再会を期しての、再びのアバンチュールを期待する下心あってのことではない。こうしてエッセイや小説など書いている折に引用などあれば、まずここで調べて下書きに残しておき、あとで正確なところを確認しておけばいい。それだけの理由で残留となっているわけだ。
 然りながらいまもわたくしはiPhoneで読書はしている。青空文庫ではない。まぁ、話の流れからして、当然だね。これで青空文庫だったらフルボッコですもん。やっぱり小説や随筆、詩、或いはノンフィクションなど活字の詰まった作品は書籍である。重さというデメリットさえ除けば電子媒体が書籍に優る点がどこにあるというのか……。闇夜でも読める? 地図ならまだしも、そんな闇のなかで活字の本を常態的に読む人間が、果たしてどれだけいるというのか。目ェ悪くするだけでっせ、旦那。
 久しぶりのエッセイゆえか、脱線してばっかりだが、活字でなければなにを読むのか、という問いはそれでも野暮だと思う。告白すれば、わたくしは自分のiPhoneで漫画を読んでいるのだ。
 もう2ヶ月以上になるが、なんのきっかけでか「GANMA!」というアプリを知った。以来、ここで日々提供される新作漫画を楽しみに読んでいる。その経験を通していえば、電子書籍にいちばんふさわしいのは漫画であるように思える。ふさわしい、というのは少々違うか。理に適った、と表現するのが、最も実情に近いかもしれない。
 勿論、長時間かぶりついていれば目がしょぼしょぼしてきて、疲れ目になり、やがては痛くなる、というのはGANMA!であっても変わりない(変わったら諸悪の根源を探す旅に出る必要が出てくる)。それでも読書中の目への負担は活字、青空文庫を読んでいたときと較べれば格段に軽減した。目が丹念に活字の一行一行を追うような性質のものではないし、そもそもわたくしの知る限り、GANMA!に疲れる程に字の詰まったコマが頻出するような作品はなかったのでないか。
 GANMA!に集う漫画家たちの知名度がどれだけのものか、わたくしはそのマーケットに詳しくないのでわかりかねる。そもそもわたくしに好き嫌い以外に漫画のことを語る資格があるのか、またその能力があるのかも、わがことながら小首を傾げざるを得ない。心許なくて恐縮だが、偽りなき事実を述べてみた。
 さすがに2ヶ月超にわたって毎日アプリを開いていると、好きな作品、贔屓の作品もできてくる。稀に閲覧トラブルもあるにはあるが、それについては目をつぶって見過ごせるぐらいのわずかな瑕疵でしかない。すくなくともそれが重大トラブルにつながったことは、ない。相対的にこのアプリへの信頼度は高いのである。いまや何十の作品がここで連載されているのか、またどれだけの完結作品があるのか、調べるのは手に余るけれど(面倒臭いのではない)、頗る付きで良質な、続きを楽しみにするに値する素晴らしい作品が揃っている、とは明言できる。
 GANMA!には続きが気になる連載作品の新着を知ることのできる「お気に入り」機能があって、わたくしもここに10作を超える作品を登録しているが、冷静に考えずともこれはなかなかの高打率なのではあるまいか。そうして幾つかの作品に関しては紙の書籍として刊行もされている。実は「お気に入り」に登録した作品のうち、幾つかをわたくしは書店で購入して寝しなの読書として楽しんだことがある。
 そう、最近はGANMA!にすっかり夢中だ。これだけが理由ではないとはっきり承知しているけれど、最近は小説を読むスピードが目に見えて落ちてきている。先週から読み始めた横溝正史『獄門島』(角川文庫)も、読み終わるのは果たしていつのことになるやら……という心境である。まぁ、いいけれどね。
 来月からの小説連載もあるからしばらく先になるだろうけれど、今後はGANMA!で知り、新着を心待ちにしている作品に触れる機会も出てくることだろう。でも、いまは触れない。未だ機は到来していないからだ。◆

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第2375日目 〈欠けたる記事の更新/お披露目情報です。〉 [日々の思い・独り言]

 御存知の方もなかには居られるかもしれないが、更新情報はTwitterでしか流していないので、こちらでもお知らせしておきます。
 先日、旧約聖書続編「シラ書〔集会の書〕」の欠けていた第46章から第51章までをお披露目させていただいた。日附としては第1765日目から第1770日目に該当する。モレスキンにはとっくに全章のノートができていたのに、にもかかわらずお披露目されていなかったのは、推測するにエッセイを欠いていたためだ。これに気附いたときは愕然としたね──といいつつあれから歳月は流れて早2年近い。
 そうして本日、新たに「第1866日目 〈マタイによる福音書第20章:〈「ぶどう園の労働者」のたとえ〉、〈イエス、三度死と復活を予告する〉他with完全版お披露目の報告。〉」をお披露目している。こちらはかつて感想のみとしていたものを改稿して本来の形としたものだ。
 これらは、聖書全巻の読書が終わったいまだからこそ可能な作業である。余裕ができた、といえばそれまでだが、逆にいまにならなければできなかったことでもあろう。先週まではとにかく「ヨハネの黙示録」を終わらせる、新約聖書を終わらせる、聖書全巻を終わらせる、という一念が何事にも優先していたからなぁ……。取り敢えず、あとは「マカバイ記一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読と再稿を残すのみだ。
 昨日はグノーシス主義について、まずは宗教事典を読んで概略だけでも摑もうとしたけれど、ふむぅ、と唸ってそれきりになってしまった。初学者が読むにぴったりな本がなかなか見附からないのでまずはその宗教事典にあたってみた次第だが、良質の入門書に出会うことの難しさを感じているこの頃であります。いろいろな本を読んで、時間をかけて、ノートしながら咀嚼してゆくしかないですね。
 歯が立たなかったのは、それ以前にビールをしこたま飲んで酩酊状態であったのがいけなかったのかもしれない……が、原因究明に全力を尽くすつもりは、まったくない。それはきっと無駄な努力になると思う。だって歴史は繰り返されるんだもん。えへ。◆

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第2374日目 〈それでは皆様、ごきげんよう! 次に会う日まで、健やかであれかし。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の読書地・執筆地の稿を以て聖書読書ノートとしての本ブログ、大尾とさせていただきます。にもかかわらず、今宵も斯様にのこのこと筆者が出て来たのは、いうまでもありません、今後についてのお話をしておきたいからであります。
 いつの頃からだったでしょう、聖書読書が終わったらなにをしようか、このブログをどうしようか、と考え始めたのは。とはいえ、聖書読書の次のプランが出たのは比較的早い時期だった、と記憶します。たしか次は『コーラン』か『論語』の読書を検討していて、然る後にダンテ『神曲』へ心移りし、それから……ごめん、忘れた。小説の連載を企み、それを子細に検討し、実施に踏み切ったのは、今年の春頃だったかしら。
 然様、紆余曲折はあったと雖も聖書の次は小説の連載となる。が、明日から直ぐに、というわけにはゆきません。いろいろあるのです。準備というものが。細かくて、面倒臭い作業が。連載の準備とは事務的な作業の方が割合を占め、かつ頭を悩ませるもののようであります。
 小説の連載が終わったら。実はそれについても考えてあるのだ。まずはグノーシス主義について1週間ばかりのエッセイをお披露目する。イコール、それまでに文献を読んで理解しておけ、という自身へ課した業でもあるね。それが終わったらかねてからの宿願であった「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読書と再ノートを。最後に、予告ばかりでちっとも実現しなかった<小特集:9.11>でいまは幕を引いておきましょう。……ざっと計算してみましたところ、本ブログはあと最低でも向こう1年間は生き永らえることができそうであります。
 さて。
 聖書読書ノートとしての本ブログは今月を以て終わりますが、次の小説『ザ・ライジング』の連載は来月10月からスタートとなります。何日から、とまでは決めかねていますが、準備ができたらそれこそ10月1日午前2時からでも始めますよ。
 ところで、9月後半は完全休業とするか、週1日程度でエッセイをお披露目してゆくか、それもこの期に及んでまだ決めていません。まぁ、なにかしらは書くのでしょうね、お披露目するのでしょうね、みくらさんさんかとはそのような人物です。書くことを除いたらわたくしにはなにが残るのさ……。
 それでは皆様、次に会う日までごきげんよう(それは明日かもしれないが)。健やかにお過ごしください。ちゃお!◆

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第2373日目 〈主要なる読書地・執筆地:この8年間、わたくしが彷徨した各所の記録。〉 [聖書読書・付記]

 以下は過去8年間、実際はうち7年間にわたって本ブログにて連載された、みくらさんさんか著す聖書読書ブログ(旧「聖書を読み、音楽を聴く日々」→現「Let’s be Friends」)が、どのような場所で書かれたかを記録したリストである。
 斯様なリストが書かれたのは著者の崇高なる気紛れに拠るところが大きいと仄聞するが、真実を知る者は最早皆この世に亡く、噂ばかりが跋扈する始末だ。
 今回ここに公開するリストは、これの発見と掲載によって喧しい議論が収束するとは思えないが真実を知る一助となれば幸いである、と深甚なる縁を著者と持った関係者から特別な配慮の下に提供されたものである。諸氏よ、とくとご覧じ給へ。

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1;スターバックス
 伊勢佐木モール店
 関内馬車道店
 TSUTAYA横浜みなとみらい店
 横浜ランドマークプラザ店
 横浜アイマークプレイス店
 横浜[アット!]店
 キュービックプラザ新横浜2階店
 神保町1丁目店

 横浜公園店
 横浜モアーズ店
 日産グローバル本社ギャラリー店
 横浜スカイビル店
 横浜ビブレ店
 横浜鶴見店
 桜木町駅前店
 CIAL桜木町店
 横浜ジョイナス店
 北幸店
 横浜西口店 

 新横浜店
 新横浜3丁目店
 ららぽーと横浜店
 ウィング上大岡店
 ショッパーズプラザ横須賀シーサイドビレッジ店
 横浜ビジネスパーク店
 平塚ラスカ店
 イオン秦野店

 川崎モアーズ店
 ラゾーナ川崎店
 アトレ川崎店

 丸の内新丸ビル店
 新丸ビル店
 JR東京駅八重洲北口店
 大手町カンファレンスセンター店
 大手町東京サンケイビル店
 大手町ビル店
 新大手町ビル店
 丸の内三菱ビル店
 秋葉原駅前店
 新宿ダイアン店
 お茶の水村田ビル店
 
2;エクセルシールカフェ
 関内マリナード店

3;カフェ・ベローチェ
 関内駅前店
 伊勢佐木町店

4;カフェ・ド・クリエ
 クイーンズスクエア横浜店
 馬車道店
 桜木町店
 地元の店舗×1.5

5;ドトールコーヒー
 みなとみらいセンタービル店
 地元×2

6;タリーズコーヒー
 横浜ランドマークタワー店
 ショッパーズプラザ横須賀店
 横浜みなとみらいビジネススクエア店
 
 神保町三井ビルディング店
 神保町店

7;上島珈琲店
 横浜北幸店
 カトレアプラザ伊勢佐木店

7;コメダ珈琲
 長津田店
 横浜西口北幸店

8;その他喫茶店
 ミロンガ・ヌオーバ
 カフェテラス古瀬戸

9;図書館
 横浜市中央図書館
 神奈川県立図書館
 国立国会図書館

10;学校
 慶應義塾大学三田キャンパス
 東京大学本郷キャンパス

11;その他
 自宅
 吉祥寺市狐久保

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 前口上は半分ぐらい冗談だけれど、上記のようなリストは昨日の参考文献と併せてどうしても書いておきたかったのです。んんん、わかっていたこととはいえ、やっぱりスターバックス、多いですね。どれだけ好きなんだ。呵々。
 様々な場所で、主としてカフェで、専らスターバックスの特定店舗で、わたくしは聖書を読み続け、原稿を書き続け、MBA購入後はそこで浄書まで行いました。このような環境があったからこそ、本ブログはこうして長い時間をかけて完結まで漕ぎ着けることができたのです。それを記憶するために本稿は書かれたのです。
 すべての店舗のスタッフに心から、深い感謝をささげます。殊、故郷に点在する数店舗のスターバックスの諸バリスタよ、あなた方がいつも気持ち良く迎えてくれたからこそ、4時間超を居坐ってでも読書と執筆に集中することができました。ありがとうございます! 大概はコーヒー1杯で粘り、閉店間際にふらふらと魂抜けた人形のように帰る姿を、あなた方はどのような気分で眺めていたことでしょう。ちょっと怖くて想像できません。
 同じだけの時間をかけて居坐ることは、もうしばらくないと思います。でも、ふらりと訪れて読書したり、原稿を書いたり、MBAを開いてなにか作業しているかもしれない。そんな光景を見たら、呆れ顔で見守っていてください。そうね、絶滅寸前の珍獣でも保護するような思いで。
 ──しかし残念なのは、聖書読書ブログ完結を伊勢佐木モール店で迎えることができなかったこと! これだけは返す返すも……。跡地のドトールなんて1年に1回ぐらいしか行かないもんね。あとは、南蛮屋cafeか。
 なお、本リストはすべて順不同であるが、微妙にグルーピングはしてあります。じっくりお眺めいただくとおわかりになろうかと存じます。ゆえ、わたくしはこのまま口を閉ざして、遁走。◆

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第2372日目 〈主要参考文献:この8年間、聖書読書の支えとなった書物の数々。〉 [聖書読書・付記]

 昨日お伝えし、ずいぶんと前にも約束した覚えのある主要参考文献について、暫定的ながらも以下リスト化してお披露目致します。これ以外にも10点超の漏れがあるはずだけれど、架蔵の書物か、図書館の所蔵本か、その辺ははっきりしているので、後日調査・確認の上、本リストへ追記しましょう。
 では、殺風景なものになるけれど、お目通しいただければ甚だ幸甚と存じます。

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1;底本
 新共同訳聖書(旧約聖書続編付き)

2;適宜参照
 フランシスコ会訳聖書
 フランシスコ会訳新約聖書
 新改訳聖書
 文語訳新約聖書・詩篇附き(岩波文庫)
 文語訳旧約聖書・律法(岩波文庫)
 文語訳旧約聖書・歴史(岩波文庫)
 文語訳旧約聖書・預言書(岩波文庫)
 文語訳旧約聖書・諸書(岩波文庫)
 スタディ・バイブル 新共同訳新約聖書

3;註釈書(いずれも複数巻にまたがるため、シリーズ名のみを掲げた)
 旧約聖書(合本含む) 新約聖書翻訳委員会 岩波書店
 新約聖書(合本含む) 旧約聖書翻訳委員会 岩波書店
 ティンデル聖書注解 いのちのことば社
 コンパクト聖書注解 教文館
 現代聖書注解 日本キリスト教団出版

4;辞典・事典・図解
 新聖書辞典 いのちのことば社
 聖書人名小辞典 レクラム版 ハンス・シュモルト著/高島市子・訳 創元社 
 聖書の植物事典 H&A.モルデンケ著/奥本裕昭・編訳 八坂書房
 地図と絵画で読む 聖書大百科【普及版】 バリー・J・バイツェル監修/船木弘毅・日本語版監修/山崎正浩他・訳

5;読書の杖となり指針となった書物
 聖書ガイドブック―聖書全巻の成立と内容 ジークフリート・ヘルマン&ヴァルター・クライバー著/泉治典&山本尚子・訳 教文館
 新聖書ハンドブック ヘンリ・H・ハーレイ いのちのことば社
 「聖書は初めて」という人のための本(ファーストステップシリーズ) 内田和彦 いのちのことば社  

6;その他
○聖書・キリスト教一般
 バイブル・プラス カラー資料 日本聖書教会
 聖書をひらく 富岡幸一郎 編書房
 旧約聖書入門 光と愛を求めて 三浦綾子 光文社文庫
 新約聖書入門 心の糧を求める人へ 三浦綾子 光文社文庫
 泉への招待 真の慰めを求めて 三浦綾子 光文社文庫
 イエスの生涯 遠藤周作 新潮文庫
 キリストの誕生 遠藤周作 新潮文庫
 カトリックの信仰 岩下壮一 ちくま学術文庫
 信仰の遺産 岩下壮一 岩波文庫
 人間の分際─神父・岩下壮一 小坂井澄 聖母文庫
 襲いかかる聖書 小川国夫 岩波書店
 わたしの聖書 小川国夫 岩波書店
 聖書が語る 生きる勇気のことば 濱尾文郎 角川文庫
 エレミヤ書を読む 木田献一 筑摩書房
 聖書物語 ヴァン・ルーン著/前田晃・訳 岩波文庫
 聖書物語 バン・ルーン著/百々佑利子・訳 ポプラポケット文庫
 キリスト者の自由・聖書への序言 マルティン・ルター著/石原謙・訳 岩波文庫
 キリスト者の自由 マルティン・ルター著/徳善義和・訳 教文館
 マルティン・ルター ことばに生きた改革者 徳善義和 岩波新書
 マルティン・ルター 生涯と信仰 徳善義和 教文館
 眠られぬ夜のために カール・ヒルティ著/草間平作&大和邦太郎・訳 岩波文庫
 幸福論 カール・ヒルティ著/草間平作・訳 岩波文庫
 ヒルティ著作集第6巻 愛と希望 秋山英夫・訳 白水社
 ヒルティ伝 アルフレート・シュトゥッキ著/国松孝二&伊藤利男・訳 白水社
 なぜ私だけが苦しむのか─現代のヨブ記 H.S.クシュナー著/斉藤武・訳 岩波現代文庫

○歴史
 キリスト教の歴史 小田垣雅也 講談社学術文庫
 聖書時代史・旧約篇 山折哲雄 岩波現代文庫
 聖書時代史・新約篇 佐藤健 岩波現代文庫
 旧約聖書の世界 池田裕 岩波現代文庫
 ローマの歴史 I.モンタネッリ著/藤沢道郎 中公文庫
 若い読者のための世界史 エルンスト・H・ゴンブリッチ著/中山典夫・訳 中公文庫
 物語エルサレムの歴史 笈川博一 中公新書
 マカベア戦記 ユダヤの栄光と凋落 秦剛平 京都大学学術出版会
 古代オリエントの歴史 小川英雄 慶應義塾大学出版界
 中東がわかる古代オリエント 小山茂樹 日本放送出版協会
 文明のあけぼの 三笠宮崇仁 集英社
 古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで 山花京子 慶応義塾大学出版会
 聖書とオリエント社会 宗教史学研究所 山本書店

○聖書の登場人物についての参考書
 モーセ 浅野順一 岩波新書
 イエス・キリストの生涯 小川国夫 新教出版社
 イエス・キリストの生涯を読む 小川国夫 河出書房新社
 イエスの風景 小川国夫 講談社
 イエスの生涯 D.F.シュトラウス著/岩波哲男・訳 教文館
 イエスの生涯 エルネスト・ルナン著/忽那錦吾&上村くにこ・訳 人文書院
 パウロ 伝道のオディッセー エルネスト・ルナン/忽那錦吾・訳 人文書院
 反・キリスト 黙示録の時代 エルネスト・ルナン/忽那錦吾訳 人文書院
 ペトロ 川島貞雄 清水書院

○映像
 THE BIBLE 〜選ばれし者たちの歴史物語~ 他多数

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 図書館にあって架蔵されていない書物については時間をかけて蒐集し、すべてを書架へ並べてその背を眺め、折節手に取り、かつての歳月を懐かしむ一方、再び聖書読書へ向かうのがわたくしの希望であり、夢であります。
 まず、家を建て替える乃至は新築して、2階部分まではありそうな吹き抜けを持った20畳ぐらいの書庫を作らなくっちゃな。四囲のぐるりが本棚になっていてね、階段附きの回廊があって、空調が効いていて、ワーグナー《ニュルンベルグのマイスタージンガー》が流れて、アーロン・チェアと天然一枚板の広くて長い机と馴染んだ筆記具とMac(とプリンター)があってね。外部の物音からは遮断されたそんな快適な環境で書き物するんだ。それって書斎じゃん、とかいうな。
 ……どこかにルードヴィヒ2世はいませんか? ただいま絶賛パトロン募集中!◆

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第2371日目 〈聖書の読了にあたって。〉 [終わりのあいさつ]

 2008年9月9日から2013年12月16日。
 2014年1月11日から2014年12月28日。
 2015年1月10日から2016年9月10日。
 これらの日付がなにを示すか、おわかりでしょうか。概ねお察しのことと思うので、さっさと正解を発表してしまいますが、聖書の読み初め日と読了日を列記してみたのであります。上から順番に旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書となります。
 足掛け8年、実質7年を費やして達成した聖書読書ですが、この間にあった種々の出来事を思うと、巧まずして深く、苦い溜め息が出て、唇を引き結び、自然と目は据わり、憂慮に沈んでしまいます。良いことよりは嫌なこと、腹立たしいこと、悔やまれることの方がずっと多かった。好かれることもあったけれど、傷附けられたり、裏切られることの方が遥かに多かった。忘れられない人と出逢った。忘れたくない人々との出会いがあった。思い出すのもはらわた煮えくり返る輩にも会った。世界中の人々を敵に回してでも守りたい人に逢うた一方で、世界中の人々を味方に付けて破滅と社会的抹殺を望む輩と面識を持ってしまった。
 が、しかし、斯様に様々な出会いと経験をしてきたから、現在のわたくしがいます。振り返ってみれば良きことも悪きことも、甘いことも苦いことも、すべての出会いと出来事が自分の糧になっている事実を否定する気はまったくなく、却ってそれらの1つ1つにわたくしは心からの感謝をささげたいのです。終わりよければすべて良し、という言葉がいちばん近いかな、本心に。多くの出会いと経験、それらを全部自分の養分として併せ呑んできたからこそ、いまの自分がいる──それは第三者がどのようにいおうと動かすことのできない事実なのであります。
 では、聖書読書はわたくしにいったいどのような影響をもたらしたでしょうか。自己分析は苦手ですが、恥ずかしい思いをしながらも過去8年の自分を回想してみると……平穏な性格になったかな。春っぽい、という方がいいかな。どちらにせよ、<くまのプーさん>とあだ名されても否とは申せません。心中はどうあれ、外見や口調など対人ツールは努めて温和でいられるようになった、と思います。以前は性格も口の利き方も凶暴でしたからなぁ、今風にいえば中二病患わせたまま大人になっちゃった、的な? 呵々。
 閑話休題。
 聖書を読み、その世界に入り、そこの人々と時空を越えて触れ合うたことが、知らぬ間に自分を変えていったのでありましょう。自分を見てくれている誰かの目に正しいと映ることを弛まず行い、自分の道を正直に、礼節を持って歩むこと。信仰と希望と愛、それを心のなかで大切にして今日を精一杯に生きること。聖人たちの心、行いに倣うべきところは倣うこと。それらのことが、聖書の読書が進むにつれて徐々に、ゆっくりと、着実に自分のなかに染みこんでき、知らず自己変革がされていたのでした。キリスト者になることは遂になかったけれど、こうして聖書全巻を読み通したことで却ってキリスト教について、イエスについて、偏りのないニュートラルな視点と思考は獲得できたのではないか、と自負しております。
 さっき、「足掛け8年、実質7年」と書きました。内訳についてはご存知の方もいようけれど、そうでない方も読者のなかにはおられますので、最後にそのことだけ書いておきます。空白の、欠落した1年の間にわたくしは左右の耳に突発性難聴と一時的な完全失聴を経験した。それに悩み、自棄になり、筆を捨て、人生を捨てようとしました。それは、聖書を開くことのない1年でもありました。でも辛うじて、日常生活に指して支障のないぐらいまでに聴力は回復してくれました。天の恵みに、サンキャー。そうしてわたくしは再び聖書を手に取り……今日へ至るのです。
 これまでにいろいろなことがあったけれど、どうにかこうにか、このように喜ばしい日を迎えることができました。が、わたくしはこれを以て聖書と訣別したわけではありません。これまでのように毎日とはならないでしょうが、これからも机辺に置いて、或いは枕頭に侍らせ、愛読してゆきます──そのためにはボロボロになってページが糸から外れかけている、8年の間毎日持ち歩いて酷使した新共同訳ではなく、新しく購入したものになっているかもしれませんが。◆



 追伸
 明日は主要参考文献の、明後日は読書地・執筆地のリストをお披露目します。□

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第2370日目 〈新約聖書の読書ブログは昨日で終わりです。ありがとうございました!〉 [終わりのあいさつ]

 新約聖書を読み終えて約25時間が経過、しかし未だなんの実感もありません。パブロフの犬程ではないけれど、読まなきゃ、書かなきゃ、と机に向かうてやっと、そうか昨日で終わったんだ、と我に返る始末。誠、習慣とは恐ろしいものであります。
 当初は2016(H28)年の復活祭の時期に読了を予定していました。なのにこうして何ヶ月もずれ込んだのはわたくしの体調管理の不徹底や或いは怠惰に由来する。いったい他になにがあるというのでしょう。ここへ至る事情はさてどうあれ、聖書読書ノートとしての本ブログを思うならば、読み始めの8年前同様、今月に読了・擱筆と相成るのは定めであったかもしれません。果たして復活祭の頃に読了に是もしくは義ありと申す者のありやなしや。
 ──読書中に何度となく空白の日を挟むことはあったけれど、新約聖書を読むことは目から鱗が落ちるような日々を過ごすことでもありました。西洋の絵画音楽の背景を知り、小説ドラマでふとした拍子に出てくる人名や地名、表現に敏感になることができたから。
 共観福音書は書物毎の個性を味わいながら楽しんで読むことができた。逆に「ヨハネによる福音書」は福音書というよりも教義書という感じがして、読書と執筆に難渋させられたね。「使徒言行録」は、ローマ帝国史が背景にあること、パウロの宣教旅行の足跡を地図で辿ったことなども手伝って、新約聖書のなかではいちばん夢中になって読んだ書物でありました。
 「ローマの信徒への手紙」は神学、或いは個人の思想の吐露された内容で、しかも書簡であるため、まずそのスタイルに馴染むことへ時間を要してしまい、それに馴れても今度は内容の理解や把握にこれまた時間を要してしまうことになりました。途中で1度ならず2度までも挫折しかけたけれど、そんなことを克服して前に進み、自分なりになんとなく概要はわかった、という気がしたこともあって、いまは「ロマ書」には深い愛着と、次はもっと勉強した上で再挑戦してみよう、という野望があります。
 「コリントの信徒への手紙 一」は愛にまつわるあの名言ゆえに、「ガラテヤの信徒への手紙」は人は信仰によって義とされるてふ喝破に胸打たれ、読了後も折を見て目を通しています。その他の〈パウロ書簡〉や〈公同書簡〉、「ヘブライ人への手紙」についていえば──これはどんな書物であってもそうなのですが──、何度読んでもよくわからないところもあれば何度か読むと朧ろ気ながらわかってくる箇所もあり、読んですぐ著しく共感の意を示すことのできる箇所もある。
 交通網が発展・整備されたローマ帝国領内ではこの手紙がどれだけ有効かつ協力な伝道手段となったか、地方の信徒にとって信仰の拠り所とすることのできたツールであったのか、そうしたことなどもこれら書簡群を読んで納得した事柄でありました。
 定時更新の原則をかなぐり捨てて毎日の更新にのみ専念することとし、生活環境の変化をなかに挟んでめげそうになっても、なんとか気を奮い立たせて遂にゴールへ到達した「ヨハネの黙示録」。
 ──すべては良き思い出、良き経験でありました。聖書全巻読書を単独達成させたことは誇りである、と自負させてください。良き宝を天に積み、長き時間を費やしての達成感、充実感は到底他のなににも代え難く……。
 「蟻の思いも天に昇る」といいます。どれだけ微力であっても一心にそれを行えばやがて天に届いてかなえられる、という意味ですが、これはナザレのイエスにも、12使徒やステファノにも、バルナバやパウロにも、教会の長老たちにも、そうしてすべてのキリスト者にも適用できる言葉であります。新約聖書はそんなかれらの想いが詰まった信仰と希望と愛の書物なのでした。かれらの根気と信念と希望を養分とする草の根活動が広がり、実ったことで、キリスト教はやがてローマ帝国の国教となり、地球上の数多の国でいまも信じられる世界宗教にまで発展したのであります。
 ──本日は「終わりのあいさつ」ということですので、全巻読了の報告をここにさせていただきました。今後も新約聖書について書くことはあろうか、と思います。その折はまたどうぞ宜しくお願い致します、──
 と、引き続きのご愛顧をお願い申しあげて、本稿擱筆。◆

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第2369日目 〈ヨハネの黙示録第22章:〈新しいエルサレム〉2/2&〈キリストの再臨〉with終わりの言葉、感謝の言葉、いつものエッセイ。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第22章です。

 黙22:1-5〈新しいエルサレム〉2/2
 わたしは視た、神と小羊の玉座から水晶のように輝く命の水の川が流れ出るのを。天使がわたしにそれを視させたのである。
 その川は都の大通りの真ん中を流れ、両岸に命の木が植えられていた。命の木は年に12回、実を結ぶ。毎月、実がみのる。命の木の葉は諸国民の病を治す。
 「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」(黙22:3-4)
 ──いまや夜も昼もなく、月も太陽もない。灯し火も不要である。神なる主がわれら僕を照らし、世々限りなく統治するからだ。

 黙22:6-21〈キリストの再臨〉
 天使がいった、──
 「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」(黙22:6-7)
 これらを視て、これらを聞いたのは、わたしヨハネである。わたしはこれらのことを示した天使にひれ伏そうとした。が、天使はそれを留めた。自分もあなた方同様、仕える者なのだから、とて。
 天使がいった、──
 この書物の預言の言葉を秘密にしていてはならない。時は迫っているからだ。不正を行う者、汚れたる者は、更に不正を重ね、また汚れよ。正しい者は更に正しいことを行い、聖なる者はなお聖なる者となるよう努めよ。
 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」(黙22:12)──わたしはアルファでありオメガである、最初の者にして最後の者である、初めであり終わりである。
 おお、命の木に対する権利を与えられ、門をくぐって都へ入ることができるよう自分の衣を洗い、清める者は幸いである。かれらのように出来ない衆は都の外にいるしかない。
 わたしイエスは天使を派遣し、諸教会のために以上の諸々のことをあなたに証しした。わたしはイエス、ダビデのひこばえにしてその一族の者、そうして明けの明星である。
──天使、否、イエスはわたしにそういった。
 「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙22:18-19)
 すべてを証しする方がいう、わたしはすぐに来る、と。アーメン、どうぞすぐに来てください、主イエスよ。
 「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(黙22:21)

 使徒ヨハネに幻視させ、また語りかけていたのは、そうか、イエスであったのか。どこからイエスの語りかけであったのか、定かでないけれど、個人的にはそれゆえにすべてが符合、すべてに納得。
 〈キリストの再臨〉まで読んだことで確信できたのは、「ヨハネの黙示録」が実際はこれ以上は恃むべくもない「希望」の書物である、ということでした。ホロコーストは世界の新生──永遠の神の国の訪れと小羊が照らす世界が出現するための通過儀礼なのでした(勿論、現実にそれを行う者あらば困った事態になりますが)。
 そんな視点で改めて聖書を読み返すと、旧約・新約の別なく、聖書は<一時的な希望>と<窮極的な希望>、双方を物語ってきたことに気附かされます。一時的な希望とは状況の変化を望むことをいいます。そうして窮極的な希望とは、本章で感動的に予告された〈キリストの再臨〉、就中黙22:20「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」を指すことになります。

 本日を以て「ヨハネの黙示録」、新約聖書、聖書全巻の読書を終わります。
 読者諸兄よ、今日までの閲読、愛顧、支持に感謝致します。ありがとうございました。
 あなた方に愛と平安あれ。微笑みあれ。



 昨日、宮部みゆきの『あやし』を読んでいる、と書きながら、未読の山が消化されたら改めてこの人の小説を10数冊ばかり読み耽ってみよう、と考えていました。自分の文章に影響されちゃった? ああ、多少なりともね。
 本稿はこの1週間、すっかりご無沙汰になってしまった、先週までは頻繁に通っていた市内某所のスターバックスに約5時間ばかり居坐って(申し訳ない。この間、コーヒー4杯とシフォンケーキドーナツを消化……)モレスキンで書き、MacBookAirで清書しておりますが、これの予約投稿が済んだらブックオフ2軒を回って、気になった宮部みゆきの文庫を買いこんでこようと思います。
 中居正広が紹介したことで今更ながら歌野晶午や東野圭吾も読みたいしね。嗚呼、なんてこったい、どんどんスティーヴン・キングからは遠離るではないか……!?
 ──なんだか聖書読了の日にそぐわない、いつも通りのエッセイですな。◆



 追伸
 友らよ、グラウンドゼロに散った友垣よ。
 15年目のこの日に読み終えた。それをあなたに報告しよう。

 妻よ、妻となるはずだった人よ。
 ようやくこの日を迎えられた。わがポラリスにこれをささげよう。□

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第2368日目 〈ヨハネの黙示録第21章:〈新しいエルサレム〉1/2with宮部みゆき『あやし』を読んでいます。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第21章です。

 黙21:1-27〈新しいエルサレム〉1/2
 最後の7つの災い──神の怒りが盛られた7つの鉢を携えた7人の天使のうちの1人がわたしに近附いてきて、ここへ来よ、小羊の妻である花嫁を見せてあげよう、といった。
 「この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。」(黙21:10-11)
 花嫁エルサレムの都を件の天使が測量してみせた、手にした金の物差しを用いて。都は正方形で、長さと幅は等しい。測ると都の外側は12,000スタディオン、つまり約2,220,000メートルあった。長さと幅と高さは等しい。次に城壁を測ると144ペキス、つまり6,480メートルあった。天使が用いた物差しの尺度は、人間が使う物差しのそれと一緒である。
 城壁には12の門があり、それぞれに12人の天使がいる。門には天使1人1人の名が刻まれていて、それはイスラエルの12部族と同じだった。なお、門は東西南北、各方角に3箇所ずつ設けられている。
 城壁それ自体は碧玉で作られている。そこには12の土台石が築かれており、それぞれに小羊の12使徒の名が刻まれてあった。土台石はそれぞれが異なる宝石で作られていた。第一の土台石から順番に、碧玉、サファイア、めのう、エメラルド、赤縞めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉、ひすい、青玉、紫水晶、である。序にいうと、城壁の12の門のそれぞれは1個の真珠で作られていた。
 都と、都の大通りは透き通ったガラスのような純金で出来ていた……。
 わたしは視なかった、都のなかに神殿があるのを。それは当然のことで、いまや最初のものはなく、神なる主と小羊とが都の神殿だからである。都を照らす太陽も明かりもいまや必要ではない。小羊が都の明かりだからだ。諸国民はその都の光のなかを歩き、地上の王たちは自分たちの栄光を携えて、ここに来る。12ある門は外へ向かって開けられていて、閉ざされることがない。いまや夜さえ存在しないからだ。
 人々は来る、諸国民の栄光と誉れを携えて、この都へ。が、汚れた者、忌むべき行いに耽った者、偽りを行う者が都に入ることはできない、誰1人として。例外はない。
 新しいエルサレムには、「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」(黙21:27)

 「エゼキエル書」に基づく新しいエルサレムの描写には悩まされました。唸りながらどうにか形こそ為したものの、結果は自分としても可不可の判断を下し難いもので……読者諸兄の判定を待つとしましょう。
 新しく出現した世界はまさしく<神の国>というに相応しい態を成している様子。すべては、(神とキリストの現出によって)それ自体が神殿と化したエルサレムを中心とし、全世界を照らす小羊即ちキリストの光のなかで運営されてゆくのです。
 城壁の土台石の1つを作る「かんらん石」は、鉄とマグネシウムを含むケイ酸塩鉱物。鉄かんらん石やマンガンかんらん石(テフロ石)など幾つかの種類があるけれど、黄緑色で短柱状な苦どかんらん石のなかでも特に純度が高く美しいものは、「ペリペット」という宝石名で親しまれている。これは8月の誕生石であります。

 本日の旧約聖書は黙21:6とイザ55:1、黙21:19-20と出28:17-20及び同39:10-13、黙21:23とイザ60:1-2。



 過去に読んだ覚えがある宮部みゆきの作品は極めて少ない。なにかの偶然によって先日から再び読むようになったのだけれど、当時はどうしてこの面白さ、この軽みに囚われなかったのかな、ふしぎに思い、小首を傾げている。
 彼女の時代物を読むのは今回が初めてだと思うのだけれど、人の心の機微というのをとても上手に書く人だったんだなぁ、と今更ながらに感嘆してしまった。いまは『あやし』(角川文庫)を読んでいる途中だが、現時点では全9篇のなかでは「影牢」と「安達家の鬼」がベストだ。時代小説と怪奇小説の今日的ハイブリッドとして、自分が小説を書くにあたっての手本としたいぐらいである。
 本書については後日、必ず感想文を書こう。そうしていつになるかはわからぬが、必ず本ブログにてお披露目しよう。
 次に読む<三島屋>シリーズも『あやし』のように楽しめればいいな。◆

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第2367日目 〈ヨハネの黙示録第20章:〈千年間の支配〉、〈サタンの敗北〉&〈最後の裁き〉with読了日を目前にして。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第20章です。

 黙20:1-6〈千年間の支配〉
 わたしは視た、底無しの淵の鍵と大きな鎖を手にした1人の天使が天から降って来るのを。この天使はかつてサタン、悪魔、年を経た蛇、様々に呼ばれた竜を捕らえて縛り、底無しの淵へ投げこんで鍵を掛け、封印し、1,000年の時が満ちるまで閉じこめた者である。天使はその1,000年が終わるまで、諸国民の上に災いが及ばないように、と竜を閉じこめたのであったが、1,000年が過ぎると竜は解放されることになっていた……。
 わたしは視た、裁くことを許された者たちが坐る多くの座を。また、イエスの証しと神の言葉のために死に追いやられた人々の魂も視た。かれらは獣を拝むこともその像を拝むことも、獣の刻印を押されることもなかった。かれらは生き返ってキリストと共に1,000年の間、統治することになる。これなん第一の復活といふ。
 「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」(黙20:6)

 黙20:7-10〈サタンの敗北〉
 さて、前述の1,000年が経ったので竜は──サタンは底無しの淵から解放された。サタンは諸国の民、ゴグとマゴグを誑かして集めた。集められた者らは軍勢となって地上の広い場所へ進み、聖なる者たちの陣営とかれらが愛した都を包囲、攻撃した。すると、天から火が落ちてきてサタンが集めた軍勢を焼き尽くし、滅ぼした。
 悪魔/サタンは獣や偽預言者同様、火と硫黄の池に投げこまれた。火と硫黄の池に投げこまれた者どもよ、夜となく昼となく、世々限りなく責め苛まされよ。

 黙20:11-15〈最後の裁き〉
 わたしは視た、大きな白い玉座とそこへ坐す方を。その御前からは天も地も逃げ出した。行方は杳として知れぬ。
 わたしは視た、大きな者も小さな者も玉座の前に立っている光景を。幾つかの書物が開かれた。それとは別に1つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちはこれら書物に記録された行いによって裁かれるのだった。
 海は自分のなかの死者を玉座の前に差し出した。「死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」(黙20:13-14)
 ……命の書に名のなき者は皆等しく火の池に投げこまれた。

 いわゆる<最後の審判>である。それは斯く始められ、斯く終わりとなった。もっと凄惨な場面、怖気を震わされる誘う描写を(期待半分に)思うていた方々、お生憎様。極めてヘヴィーなことは極めてシンプルに語られると知れ。これを指してアンチ・クライマックスと不平を洩らす衆よ、これが作劇術である。知恵と想像力を持って諸人よ、「ヨハネの黙示録」読書に励め。
 〈最後の裁き〉に於いて天と地は最早なく、やがて死も陰府も消えてしまう。残った海も黙21:1で「なくなった」と報告される。それまであった天と地が玉座、言い換えれば神の御前から既に消えているというのは、新しい天と新しい地が代わって世に現れるためであります(黙21:1)。と同時に「創世記」に於ける天地創造劇の逆再生を見る思いもするのだ、とここに告白しておきます。
 黙20:8に出るゴグとマゴグはエゼ38:2以下に基づく。マゴグはカスピ海と黒海の間、コーカサス地方の一部にあった国、もしくはこの地域の部族連合だろうか、と第1253日目の記事に書きました。いまから3年以上前に書いた記事です。そうして、ゴグ。それは、「メシェクとトバルの総首長」(エゼ38:2)とされる。メシェクとトバルはキリキア地方の国だ。「ヨハネの黙示録」で両者はサタンによって地上の四方から集められた、神への対抗勢力として登場するのは本章をお読みになればおわかりいただけるでしょう。つまりそれは「エゼキエル書」の描写に則って神に抗う勢力として描かれているのであります。

 本日の旧約聖書は黙20:8-9とエゼ38:2-16。



 15年目の9月11日に聖書全冊の読書が終わることを宣言する。明後日のことだから「宣言」というも空しいことだが。
 7年目の9月11日を前に覚えた胸騒ぎを鎮めるのが通読のきっかけだったわけだから、やはり9月11日を読了日とするのが道理だろう。──そうか、もうそんなに歳月は流れていたのか……。
 これまでに出会った人々は、いまいったいどうしているのだろう?◆

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第2366日目 〈ヨハネの黙示録第19章2/2:〈小羊の婚宴〉&〈白馬の騎手〉withお帰り、iPhone6S。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第19章2/2です。

 黙19:-10〈小羊の婚宴〉
 わたしは聞いた、玉座からの声を。神を畏れよ、神を讃えよ、大きな者も小さな者も等しくわれらが神を讃えよ。
 わたしは聞いた、群衆の和した叫び声のようなもの、多量の水の轟きや激しい雷のようなものがこういうのを。曰く、──
 ハレルヤ、全能者にしてわれらの神なる主が王になった。神の栄光を讃えよう。歌おう、喜びを! 「小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。/花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。/この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」(黙19:7-8)
 天使がわたしにいった、書き記せ、小羊の婚宴に招かれている者は幸いである、これは神の真実なる言葉である、と。
 わたしは思わず天使にひれ伏そうとした。が、天使はそれを留めた。あなたがひれ伏し、礼拝するべきは神のみである。わたしはあなた方イエスの証しを守る人々と同じで、仕える者なのだから。「神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(黙19:10)

 黙19:11-21〈白馬の騎手〉
 わたしは視た、天が開かれているのを。白い馬が現れた。乗り手は誰か、どのような者か。それは「誠実」と呼ばれ、「真実」と呼ばれる。正義を以て裁き、戦う。乗り手の目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴く。乗り手には、自分の他は誰も知り得ぬ名が記されている。纏う衣は血に染まっており。かの乗り手は「神の言葉」と呼ばれた。これに従うは白い馬に乗り、白く清い麻の布を纏った天の軍勢である。
 白の乗り手の口からは鋭い剣が出ていて、これで諸国の民を討ち倒す。白の乗り手は自ら鉄の杖を振るって諸国民を統治する。また、白の乗り手は自らぶどう酒の搾り桶を踏むけれど、そこで作られたぶどう酒には神の、凄まじく激しい怒りが詰まっている。白の乗り手、この方の衣と腿のあたりには「主の主、王の王」てふ名が記されていることを知れ。
 わたしは視た、太陽のなかに1人の天使が立つのを。わたしは聞いた、この天使が空を飛ぶすべての鳥にこう呼び掛けるのを。曰く、──
 「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」(黙19:17-18)
 わたしは視た、底無しの淵から這いあがってきたあの獣と、地上の王とその軍勢から成る連合軍が、白の乗り手とその軍勢に立ち向かうために集結しているのを。が、獣は捕らえられた。獣の前でしるしを行った偽預言者も捕らえられた。獣の刻印を押されたり、獣の像を拝んでいた者らは惑わされていたのだ、他ならぬこの偽預言者が行っていたしるしにより。
 「獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。」(黙19:20-21)

 かつて様々な書物のなかで予告されていた神なる主による裁き、顧みられることのなかった隅の親石即ちキリストが地上の王権に対して勝利を収めることが、つるべ打ちのように提示され、かつ具体化してきています。
 そうしてこれまでに読んだいろいろな場面や表現が、本章にて頻出するのにも気附かされます。黙19:15aと同1:16及び2:12(口から鋭い剣が出ている)、黙19:15bと黙同2:27(鉄の杖で治める)、黙19:15cと同14:19-20(ぶどう酒の搾り桶)がそうです。この傾向はまだ続き、こうした点からも本書が最後のコーダを築きつつあることを実感させられることであります。
 ただ記憶の残滓となっているだけあり、ずいぶんと探してしまいました。数日前に読んだ記憶が実は「ヨハネの黙示録」読み始めの頃であったり、少し前に読んだと思うたらつい2、3日前であったり、と、成る程、記憶とはまったく以て頼りにならぬ場合があるようです。
 ──花嫁として描かれるのがキリストなのは勿論ですが、〈白馬の騎手〉に出る白の乗り手もまたキリストのことでありましょうか。そうであってなんら矛盾するところはないと思います。
 引用した黙19:17-18は「エゼキエル書」に基づく表現であります。しかしながら意味するところは正反対でございまして、「エゼキエル書」で鳥が食べるのは神の民、意味するところは迫害であります。一方本書では獣に従う人々が鳥に食べられる、即ち裁きとなります。「ヨハネの黙示録」の著者が旧約聖書に精通しているとは何度もいうてきたことですが、この箇所を読んでいると精通しているばかりでなく、余程の文章の得手でないと斯様な視点の置き換えはできないだろう、と、その才に感服するのでありました。

 本日の旧約聖書は黙19:15bと詩2:8-9、黙19:5cとゼカ14:2-5及びヨエ4:2並びに同12、黙19:17-18とエゼ39:17-20。



 わがiPhone6Sに災い発生。昼休憩時、財布と文庫とスマホを持って外へ出た。EVホールにてスリープ状態を解除しようとしても、iPhone6Sはうんともすんとも答えない。どうしたことか。すはAppleタイマーの発動か。充電が切れたとは考えられない。もしそうならば、画面は沈黙したままではないはずだ。ホーム・ボタンを長押ししてもスリープ・ボタンを押し続けても、やはりいっこう反応はなく。カバンをロッカーにしまう際気附かぬうちに衝撃を与えてしまっていたか──否、同じくカバンに収まるMBAは正常に動作している……。
 研修が続くなか、iPhone6S本体がどうなったか、というよりも、なかのデータがどうなっているのかについての不安が高まり、胸の内を占めてきた。心配なのは連絡帳と写真とLINEだ。昨日はバックアップが取る時間を割けなかったのだ、わたくし側の一方的事情により。よりによってその翌日にこのトラブルだ。仕事は仕事と割り切ってみても、どうしても気に掛かってしまう。あなたの写真が消えてしまうのは身を切られるよりも辛い。そうなったらいったいわたくしはどうしたらいいんだい、モナミ?
 そうして定時になるやわたくしはいつものようにいそいそと退勤し、通勤で使うのとは別な地下鉄に乗って有楽町/銀座を目指した。この途中で行く手を阻む様々な出来事があったのだけれど、それらについての詳述は省こう。わたくしは無駄話が嫌いなのだ。呵々。
 ──ぴん、と来た方もおられよう、駈け込み訴えの先はApple Store銀座店。初めての聖地巡礼がこうした形で実現するとは思いもよらなんだ。
 汗たらたらの姿で店内に突入したわたくしは、勝手知ったる様子で1階の人混みを突破して、人待ち顔なEVを華麗にスルー。隅っこに設けられた階段で一気に4階、ジーニアス・バーへ。
 そこで修理の受付待ちの列に並ばされること約1分弱、一部が囓られたリンゴを控えめにあしらったネイビーブルーのTシャツを着た髭面好青年が近寄って来て曰く、どうしました? と。かくかくしかじかなのじゃ、とわたくしは伝える。すると青年はわがiPhone6Sを手にし、ホーム・ボタンとスリープ・ボタンを同時に長押しし始めた。それから約1分。それやったよ、と心のなかで呟きかけたわたくしの目前で、真っ黒だった画面に白いリンゴマークが誇らしげに浮かびあがったではないか!? ハレルヤ、奇跡は起こったのである。青年曰く、急激なシャットダウンがされた場合に起こりがちな症状であるらしいが、うむ、すまん、わたくしにはよくわからぬ。
 理由はともあれ、しかしわがiPhone6Sは治った。復活したのだ。よもやこれが日本時間午前2時からアメリカで開催されるイヴェントでのiPhone7発表に併せた、かれなりの抗議運動であったとは思えぬ。もしそうならば、このiPhoneはAIよりも遥かに人間に近く、また人間臭いといえるのではあるまいか。ファティマみたい? 嗚呼、残念ながらあすこまで優秀ではないし、自身愛情も寄せられぬ。
 ともあれ、お帰り、iPhone6S。データ消滅を免れたことに喜びを。そうして感謝を──Apple Store銀座店の青年、ジャック・バウアー似の貴男へ。かれの手はマジック・ハンド。かれはハンド・パワーの持ち主じゃ。◆

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第2365日目 〈ヨハネの黙示録第18章&第19章1/2:〈バビロンの滅亡〉with未だここでお披露目されざるエッセイ群について。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第18章と第19章1/2です。

 黙18:1-19:4〈バビロンの滅亡〉
 わたしは視た、大きな権威を有する別な天使が天から降ってくるのを。その栄光によって地上は輝いたのだった。その天使が叫んで曰く、──
 倒れた、大バビロンが倒れた。そこはあらゆる汚れた獣の巣窟。すべての国の民は彼女の供するぶどう酒に甘え、すべての国の王は彼女と淫らな行いに耽り、すべての国の商人は彼女の供する贅沢によって富を築いた。
 わが民、わが民、聞け、わが民。その災いに巻きこまれたりしないように。彼女の罪は積もり積もって天にまで届いている。神がその不義を覚えているからだ。彼女があなたにしたのと同じ罰を以て彼女に報いよ、報いる際は倍返しで臨め。彼女が心のなかでどれだけ自分を正当化しようと無駄である。
 「それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、/死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。/また、彼女は火で焼かれる。/彼女を裁く神は、/力ある主だからである。」(黙18:8)
 彼女と淫らな行いに耽って楽しんだ王たちが、彼女の大盤振る舞いによって財を築いた商人たちが、彼女のために嘆き悲しんだ。また、遠くに立って彼女が焼かれる様を見た海の男たちが、頭に塵や灰をかぶりながら、彼女の不幸を泣き悲しんだ。
 「天よ、この都のゆえに喜べ。/聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。/神は、あなたがたのために/この都を裁かれたからである。」(黙18:20)
 わたしは聞いた、ある力強い天使が大きな挽き臼のような石を海に投げこんでこういったのを。曰く、──
 バビロンよ、お前が顧みられることはもはやない。いま海へ荒々しく投げ入れたあの石のように、ゆめ人の目に映ることはない。お前のなかでは二度と楽の音が響くことも、手に職ある者たちの掛け声が聞かれることも、ない。灯し火の輝きがお前を照らすことはない。花婿や花嫁のしあわせな声が、お前バビロンの街角を賑わせることもない。──けっして! 二度と!!
 「なぜなら、お前の商人たちが/地上の権力者となったからであり、/また、お前の魔術によって/すべての国の民が惑わされ、/預言者たちと聖なる者たちの血、/地上で殺されたすべての者の血が、/この都で流されたからである。」(黙18:23-24)
 その後にわたしは聞いた、天からの唱和を。曰く、──
 ハレルヤ、主を讃えよ。救いと栄光と力、それはわれらが神のもの。その裁きは常に真実で正しい。全地を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちが流した血の復讐を彼女に対して果たしたからである。ハレルヤ、主を讃えよ。「大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙19:3)
 ──24人の長老と4つの生き物がひれ伏して、玉座に坐す神を礼拝して、いった。アーメン、ハレルヤ。

 はた、と頭を抱えました。本書にはいったい何人の天使/御使いが登場するのか、と。ラッパを吹く。最後の災いを携える。神の怒りが盛られた鉢を持つ。7人の天使がそれを行う。この7人はすべて同一なのか、すべてまったく別なのか。まずここで考えこむ。また、別の天使が幻視者に働きかける場面も複数ある。これらもすべて同一なのか、否か、不明である。
 数えあげる余裕はないけれど、すべて別の天使だとしたら30人近くの天使/御使いが「ヨハネの黙示録」には跋扈することになる計算だ。もう跋扈としか表現しようのない、天使の大盤振る舞いだ。それだけの人数に一々口伝した神もご苦労さんなら、幻視してごまかすことなく対面してみせた使徒ヨハネもご苦労さんである。むろん、ヨハネにしてみれば、いつまで接待しなくてはならんのだろうか、と先の見えなさ加減にうんざりしていたかもしれないけれど。
 さて。バビロンは滅びた。それを嘆く者は多い。嘆く者は肉の生活に於いてローマの名の下でささやかな生活を営んでいた者たちでもある。キリスト者の神は裁きによってそれを奪った。視点を変えればローマの臣民にとってキリスト者の神こそ<サタン>と呼ぶに相応しかろう。

 本日の旧約聖書は黙18:6-7aと同罪刑法についてはレビ24:17-20及び詩137:8並びにエレ50:29、倍返しについては黙18:6-7aと出22:3及び同6並びに同8更にエレ16:18、黙19:3とイザ34:10。



 長くなってしまったエッセイ、まとまりの付かなくなってしまったエッセイ、予告しながら未だ手付かずのエッセイ。ノートにも心中にも、そんなのがたくさんある。
 基本的に本ブログに載るエッセイは数10分から精々が2時間弱で、すくなくとも第一稿は一気呵成に書いているから、どうしても上手くまとまってくれなかったり、或いは手に負えなくなってしまったものもあるのだ。そうしたものについては聖書読書が終わったあと、時間を作って推敲したりして、機を見てここに披露目したいね。
 いまはまだ予告だけのエッセイも聖書読書が終わったあとで過去記事を点検して、当時語らんとしていた話題を洗い出した上で、小説完結後にのんびりと、紫煙くゆらせながら、ひなたぼっこして書いてゆきたいものである。──そんな日は来るの? と訊かれたら、心のなかにZ旗掲げて鋭意努力します、と応じよう。対応の準備だけは万全である。◆

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第2364日目 〈ヨハネの黙示録第17章:〈大淫婦が裁かれる〉with通勤中の読書がはかどります!〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第17章です。

 黙17:1-18〈大淫婦が裁かれる〉
 7つの鉢を持った7人の天使の1人がわたしに話しかけた。こちらへ来て、多くの水の上に坐る大淫婦が裁かれる様を見よ、と。地上の人々はあの女の供する淫らな行いにあふれたぶどう酒に酔ってしまった。
 “霊”に満たされたわたしは天使に連れられて荒れ野に行った。そこには赤い獣に跨がる女がいた。獣は7つの頭と10本の角を持ち、全身の至る所が神を冒瀆する数多の名で覆われている。
 女はといえば、紫と赤の衣を着て、金と銀と真珠で飾り立てている。忌まわしいものや己の淫行による汚れで満たされた金の杯を手にしている。女の額には秘められた意味の名が記されている;大バビロン、淫らな女や地上の汚れた者どもの母。
 わたしはこの大淫婦が聖なる者たちの血、イエスの証人たちの血に酔い痴れているのを見た。驚くわたしに件の天使がいった。この女と、10本の角と7つの頭を持つ獣の秘められた意味を教えよう。「あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。」(黙17:8)
 ここに知恵ある考えが必要である、と天使がいった、──
 ここで知恵のある考えが必要となる。獣の7つの頭とはこの女が坐る7つの丘のことだ。ここに7人の王がいる。内5人はもう倒れた。いまは1人が位に就き、もう1人はこれから現れる(但し在位は短い)。
 以前はいたがいまはいない獣は第8の者であるが、それは7人の王のなかの1人である。かれは現れるが、やがて滅びる。
 獣の10本の角とは10人の王である。かれらはいまは国を治めていないが、遅かれ早かれ獣と共に、一時の間とはいえ、王の権威を授かることになろう。かれらは心を1つにして、自分たちの権威と力を獣に委ねる。
 かれらは小羊と戦う。が、小羊は主の主、王の王だから、かれらに到底勝ち目はない。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者も同じように勝利を収める。
 続けて天使がいった、──さっきあなたが見た水、彼女が坐る場所は即ち、民族も種族も言葉も違う諸国民のことである、と。「また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう。神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。」(黙17:16-17)
 あなたが見たかの女、それはつまり地上の王たちを支配しているあの大きな都のことであると知れ。

 まずは整理を。黙17:3「女」=同5「大バビロン」=同15「淫婦」=同18「地上の王たちを支配しているあの大きな都」、即ち大淫婦/帝都ローマとなる。再三繰り返してきたことだけれど、ちょうど好い機会であるので改めて触れた次第。これが最後です。
 黙17:3及び同9「七つの頭」とは7人のローマ皇帝をいうのが一般的だが、ヘンリー・H・ハーレイは意見を異にし、共和政ローマと帝政ローマを含めた、過去に現れた7つの世界帝国を指すのだ、という。またハーレイは黙17:9「七つの丘」はローマの町が築かれた実際の7つの丘である、と著書で述べている(『新聖書ハンドブック』P954 いのちのことば社)。
 黙17:3及び同12「十本のつの」はローマ帝国に従属する国の10人の王のことだ。
 引用した黙17:8は自殺したネロ帝がドミティアヌス帝となって甦った、という第13章で紹介した故事に倣った記述でありましょう。



 今日から(昨日からですか)通勤時間が約2.5倍、それに伴い交通費も約3倍になったみくらさんさんかです。ああ、給料日前に異動の辞令など拝するべからず。呵々。まぁね、交通費が全額支給でなかったら、わざわざ多摩川越えて東京くんだりまで働きに出たりはしませんよ。この諧謔、わかってほしい!
 それはさておき。
 朝のラッシュから外れていると、比較的空いた電車のなかではたいがい坐れもする。幸いなるかな、善き人よ。混雑もやや収まった時間帯の、長くなった通勤にメリットがあるとすれば、この坐れる可能性の圧倒的高さに加えて、やはり本を読む時間が飛躍的に多くなった点でありましょう。
 いや、まったくズイズイと読めるのです。この分でゆくと、宮部みゆきの短編集『淋しい狩人』(新潮文庫)も明日の往路で読了してしまうかな。どういうことかといえば、読むものがなくなった帰路に備えて新しい本も鞄のなかに潜ませておかねばならない、ということであります。<涼宮ハルヒ>シリーズをすっ飛ばして宮部みゆきに走った理由は簡単だ、そのタイミングに合わせて東京に異動と相成ったからに過ぎぬ。嗚呼、溜め息。次に待機しているのは……同じ著者の『あやし』(角川文庫)であったかな。
 このペースが維持できていれば、例の未読本の山も年末には1/3を残すばかりとなりそうです。が、未来とは皆様ご承知のように未確定であります。はてさて、その結末や如何に……?◆

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第2363日目 〈ヨハネの黙示録第16章:〈神の怒りを盛った七つの鉢〉withカラヤン=BPO《指輪》iTunesに登場、が、けっして良い感情は持っていない。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第16章です。

 黙16:1-21〈神の怒りを盛った七つの鉢〉
 わたしは聞いた、神殿から大きな声がして、7人の天使に、行って7つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注げ、というのを。
 それを承けて──
 第1の天使が鉢の中身を地上に注いだ。すると、獣の数字を刻印された者、獣の像を礼拝する者に、悪性の腫瘍が生じた。
 第2の天使が鉢の中身を海に注いだ。すると、海は血のようになって、そこで生きるものすべてが死んだ。
 第3の天使が鉢の中身を川とその源に注いだ。すると、水は血になった。そのときわたしは聞いた、水を司る天使が神の裁きを肯定し、祭壇もそれに同調するのを。
 第4の天使が鉢の中身を太陽に注いだ。すると地上の人間は太陽の熱で焼かれ、太陽を司る神の名を冒瀆した。かれらが悔い改めることはなかった。
 第5の天使が鉢の中身を獣の王座に注いだ。すると、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみ悶えた末に舌を噛み、神を冒瀆した。かれらが悔い改めることはなかった。
 第6の天使が鉢の中身を大河ユーフラテスに注いだ。すると川の水は干上がり、東の方向から来る王とその軍勢のための道が出来上がった。
 「わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」(黙16:13-14)──汚れた霊どもは、ヘブライ語で<ハルマゲドン>と呼ばれる地に王たちを集めた。
 第7の天使が鉢の中身を空中に注いだ。すると、事は成就せり、と宣う大きな声が神殿から聞こえたのだった。稲妻が光り、様々な音が轟き、雷が鳴り、そうして大きな地震が起こった。「それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。」(黙16:18)
 その地震によってあの大きな都、つまりローマは3つに引き裂かれ、諸国の町々が倒れた。神は大バビロンの淫業を思い起こして、自分の激しい怒りが含まれたぶどう酒の杯を与えた。
 1タラントン程の重さがある大粒の雹が地上に降った。地上の人々はその雹害の凄まじさゆえに神を罵り、冒瀆した。

 人間の世界は神の怒りによって八方塞がりの様子を呈し、徐々に終末の色を濃くしてゆきます。そんな状況のなかにあってさえ、神をも主をも畏れぬ衆は悔い改めることがない。却って神の名をみだりに唱え、冒瀆するばかりでありました。加えて大淫婦と称される大バビロンも滅びの時を迎えつつあり──。これまで何度となくいろいろな書物で予告されてきた裁きの日、終末の時が世界を無秩序と壊乱に追いこんでゆく様を、われらは本章にて目撃することになります。
 そんな最中、神や主、その御使い、教会や信徒たちへ敵対する者らに向けて、竜と獣と偽預言者の口から蛙のような汚れた3つの霊が出て号令を掛け、一ツ所へその軍勢を集結させます(黙16:14)。ハルマゲドンがその場所。ヘブライ語で「ハル・メギド」と発音され、意味は「メギドの山(丘)」となる。元は地名であり、本書の内容から転じて神とサタンの最終決戦そのものを指すようになったことは〈前夜〉で触れた通りであります。
 メギドは旧約聖書に既出の地名で、王下23:29-30、アッシリア救援のため北上してユーフラテス川を目指すファラオ・ネコ率いるエジプト軍を迎え撃たんと出陣した南王国ユダの王ヨシヤが討たれるなど、イスラエル史ではしばしば古戦場として名が挙がります。古戦場としてのメギドはカルメル山南東約30キロ強の場所にあり、新約聖書時代はサマリアに属していました。が、一部ではメギドを戦場として象徴的に用いたのであって具体的な場所を想定したものではない、という意見もあるそうです。
 1タラントンは約25キロ(約35キロとも)。



 本日のびっくり。
 久々にiTunesを見ました。オーディオ・ブックやPodcastで面白そうなものはないかなぁ、と物色するためにね。探してみたけれど食指の動くものがなかったので、なんの気なく「ミュージック」に移り、クラシック音楽のページを見ておりました。
 ダニエル・ハーディング=スウェーデン放送響のベルリオーズ、ニュージーランド弦楽四重奏団のブラームス:弦楽四重奏曲第1番、視聴しておりましたところ、どこかで見覚えのあるカバーデザインが「新着ミュージック」にありました。よもや、いやまさか……クリック……やっぱり!
 カラヤン=ベルリン・フィル他によるワーグナー《ニーベルングの指輪》全曲がダウンロード販売されていました。嗚呼、遂にここまで音楽はお手頃に、お気軽に、消費される代物となったのか、と慨嘆しましたよ。CDになって後も1枚1枚大切に、じっくりと耳を傾けたオペラが……。なんだか世も末であります。とっくに末っているという声もあるけれど、目の前のこの現実、まったく以てやりきれない。
 頒価6,000円。これだけの金額を支払って約15時間になんなんとする怪物オペラをモバイル・オーディオで聴き通せる人が、さて、いったいどれだけの数いるんだろうね。アルバム購入のみでしか入手不可能なデジタル・ブックレットには日本語対訳や解説などLP/CD時代同様、きちんと載っているんだよね?◆

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第2362日目 〈ヨハネの黙示録第15章:〈最後の七つの災い〉with『閃光スクランブル』は読了に至らず。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第15章です。

 黙15:1-8〈最後の七つの災い〉
 わたしは視た、驚くべき大きな1つのしるしが天に現れるのを。最後の7つの災いを7人の天使が携えていたのである。「これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。」(黙15:1)
 わたしは視た、火が混じるガラスの海と、獣やその像、その数字が刻印された者らに打ち勝った人々の姿を。かれらは神の竪琴を手にして、火が混じるガラスの海の岸の汀に立ち、モーセの歌と子羊の歌をうたっている。
 更にわたしは視た、天にある証しの幕屋の神殿が開かれて、7つの災いを携えた7人の天使がそこから出てくるのを。輝かんばかりに清い亜麻布の衣、腰には金の帯を締め。4つの生き物のうちの1つによって、神の怒りが盛られた7つの金の鉢が7人の天使に渡された。
 神殿は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされていた。何人と雖も神殿の中に立ち入ることはできない、7人の天使の7つの災いが終わるまでは。

 ここからが「ヨハネの黙示録」のクライマックスであります。このあとそれぞれの災いがそれぞれに降され、大淫婦即ちローマが裁かれ、主による千年王国の実現とサタンの最終戦争、そうしてすべての浄化として新しい天と新しい地、新しいエルサレムの訪れに至るのです。
 既に黙3:6に出、本章第2節にも出たのですが、「ガラスの海のようなもの」とはなんだろう。前者では「水晶に似た」とあり、後者では「火が混じった」とある。本章に於けるそれが黙3同様神の玉座の前にあったか、わたくしにはわかりかねる。そも「海のようなもの」と曖昧にいうておきながら、「海の岸」と断定しているのも謎だ。それが水の集まった場所を示すとしたら、「海のようなもの」はとても大きな湖、たとえば死海や黒海のような場所をいうのか。「のようなもの」に「岸」があるならば、直後に出る「海の岸」という表現は矛盾するように思えるのだけれど……。どの日本語訳を見てもこの点は大同小異なので、ヘブライ語やギリシア語などでも同様なブレがあると考えてよさそうであります。
 ──上記は1つ所ばかりを見て全体を俯瞰していないためのわが妄言かもしれない。が、わたくしにはどうもその点が引っ掛かって仕方がないのです。
 黙15:5「証しの幕屋の神殿」とは出38:21「掟の幕屋」、出40:34「臨在の幕屋」など様々な呼ばれ方をするけれど、つまり「幕屋」のことであります。聖書では殊に顕著ですが古代の書物を読むにあたっては、固有名詞は必ずしも1つだけとは限らず、同じものをいうていながら時と場所、話者が代われば呼び方など幾らでも変化することを念頭に置き、またそれを弁えている必要があるでしょう。……前述の「ガラスの海」問題も結局はここに帰着するのかなぁ。

 ──残り7章、あと7日! しかし周囲が激しく動く7日間! 気を引き締めてゆこう!

 本日の旧約聖書は黙15:3aと出15:1-18、黙15:3c-4とエレ10:7、黙15:5と出38:21他。
 黙15:3b(子羊の歌)は黙5:9-10及び12。



 ……加藤シゲアキ『閃光スクランブル』は半分も読み進められないうちに放り投げることと相成りました。ページを繰る気になれず、その先まで読んでゆくのに努力を要したことから、もう本当に辛かった。心血注いで書きあげたであろう著者には心の底から申し訳ない気持ちでいっぱい。『ピンクとグレー』はまだ興味本位で最後まで読み通せたけれど、それでもどうにかこうにか一念発起して、という程度。
 どうしてだろう、と考えてみた。実はそのあと、今日から読み始めたのが宮部みゆき『淋しい狩人』(新潮文庫)という連作短編集なのだけれど、最初の1編を読み終えて、なぜ加藤の小説を読み通すのが辛かったのか、朧ろ気ながらわかったように思うのだ。
 一言でいって、加藤の小説には余裕がないのだ。話がどこまで進もうともそこにあるのは閉塞感ばかりで、そこにはわずかながらの潤いも余裕(余白というて良いやもしれぬ)も与えられないことから、段々と気が滅入ってくる。内容に関係なく、読んでいて気持ちが殺伐としてくる。これ以上読むのは時間の無駄、とは過ぎたる発言であろうが、実際の所そうとしか言い様がないから始末が悪い。
 ──違うときに読んでいたら印象は異なっていただろう。すくなくとも読み終えることはできたはずだ。今回は単に呼吸が合わなかっただけ、と思いたい。そのとき処分することなくまだ棚に残っていたらば、再読してみるのも良いかもしれない──でも果たしてその日は訪れるだろうか?◆

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第2361日目 〈ヨハネの黙示録第14章:〈十四万四千人の歌〉、〈鎌が地に投げ入れられる〉他with映画のベスト10リストを作るつもりだけれど、〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第14章です。

 黙14:1-5〈十四万四千人の歌〉
 わたしは視た、シオンの山に小羊が立っているのを。小羊の名と小羊の父の名を額に記した144,000人の者が小羊と共にいるのを。わたしは聞いた、多量の水が轟くような音、激しい雷のような音を。が、それらはわたしの耳には竪琴を奏でるように聞こえた。144,000人は神の御前で、長老と4つの生き物の前の前で、声を1つにして新しい歌をうたった。それはかれらにしか覚えられないような歌だった。
 この144,000人は地上から贖われた者で、まだ女によって身を汚したことのない、所謂童貞である。かれらは小羊の行く所どこにでも付き従ってゆく。かれらは、神と小羊にささげられた初穂。かれらは、人々のなかから贖われた者たち。かれらはその口に偽りがなく、咎められるところなき人たち。

 黙14:6-13〈三人の天使の言葉〉
 わたしは視た、別の天使が空を飛び来たったのを。その天使はあらゆる種族、あらゆる民族、あらゆる言語を異にする人々、そうしてあらゆる国民へ告げ知らせるため、永遠の福音を携えてきた。
 その天使がいった。神を畏れよ、神を讃えよ。裁きの時は来たれり。創造主を礼拝せよ。
 続けて第2の天使が来て、いった。大バビロンが倒れた、(神の)怒りを招く淫らな酒を諸国民にたらふく飲ませた大バビロンが!
 続けて第3の天使が来て、いった。獣とその像を拝み、獣の数字の刻印を押された者は、押した者諸共神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、聖なる者たちと小羊の前で火と硫黄で苦しめられることになる。苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、獣とその像を拝み、獣の数字の刻印を押された者は、昼も夜もただの一刻さえ安らぐことはできない。
 「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。」(黙14:12)
 わたしは聞いた、天から聞こえる声がこういうのを。曰く、書き記せ、いまから後主に結ばれて死ぬ者は幸いである、と。
 また、“霊”がこういうのも聞いた。曰く、然り、かれらは労苦を解かれて平安を得る。その行いが報われるからである、と。

 黙14:14-20〈鎌が地に投げ入れられる〉
 わたしは視た、人の子のような方が白い雲に乗っているのを。その方は頭に金の冠を戴き、手に鋭い鎌を持っている。天使が神殿から出て来て、刈り入れの季節になりました、地上の穀物をその鎌で刈り取ってください、いまや機は熟しましたので、とその方にいった。その方は地上に鎌を投げ入れた。斯くして地上では刈り入れが始まった。
 わたしは視た、やはり鋭い鎌を手にした別の天使が神殿から出て来たのを。また、祭壇のところから火を司る別の天使が出て来て、鎌を手にした天使にいった。その鎌を地上へ投げ入れて全地のぶどうを刈り入れよ、既にぶどうの実は熟している、と。天使は地上へ、手にしていた鎌を投げ入れた。斯くしてぶどうの房の刈り入れが始まった。
 ──収穫されたぶどうは神の怒りの大きな搾り桶に投げこまれ、都の郊外で踏まれた。すると血が搾り桶から流れ出た。それは大地にあふれて馬のくつわに届く程の量となり、1,600スタディオン(約300キロ)にわたって広がった。地は血であふれた。

 鎌によって刈り入れられたものが踏まれて搾り場にあふれる、というのはヨエ4:13に基づく表現であります。これは同時に裁きの日が近附いていることを示しており、引用した黙14:12の文言と見事に呼応します。
 偶然でしかないかもしれませんが、本章は神の栄光や讃美といった輝かしい内容から徐々に暗がりの色を湛えた内容へと、あたかもグラデーションを描くように推移してゆく。そのターニング・ポイントというべきは黙14:8(また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」)であり、殊に次の〈鎌が地に投げ入れられる〉を読んで、それが大義名分を掲げた一方的な<ジェノサイド>を暗喩するとわかれば、途端に身震いするというものであります。
 単位について、一言添えます。1スタディオンは約185メートル。1,600スタディオンは本文の通り約300キロとなりますが、4の倍数であることから東西南北四方をも意味する。全方位、全世界の暗喩でありますね。
 ──ここでいう「童貞」とは今日のわれらが思うような肉体的・性的なそれでは勿論、ありません。本章に於いてそれは愚像崇拝に代表されるような神の道から外れた行いに耽るなど、肉体も心もキリスト者として身を慎んで生きた者のことであり、清らかな信仰心を抱く者のことであります。……はい、勘違いした者、正直に、挙手!

 本日の旧約聖書は黙14:15とイザ17:5及び27:12、黙14:18とイザ63:1-3及びエレ25:30、黙14:20とゼカ14:2-5及びヨエ4:2並びに同12。



 9月になって秋風も吹き始めた頃でありますが、同時に天候不順な日も続くようになりました。この時期になるとわたくしのなかに到来する1つの思い、それは……まぁ、実際はいろいろあるんだけれどさ、今年観た映画のベスト10のリストでも作り始めるかぁ、ということ。勿論、まだ3ヶ月残っている。が、叩き台となるリストは作っておくべきだ。残り3ヶ月でリストを改定してゆけばいいだけの話である。
 わたくしのこのリストでは今年ロードショー公開された映画とは限定しないから、選ぼうとするとまず「今年観た映画のリスト」を作るところから始まるわけだが、これがとっても難儀な作業で映画館やTV、レンタル(オンデマンドはここに含める。ご意見無用)、CS放送も含めることになるから、雑多かつ無節操なリストが出来上がることになる。その上でベストを選出するわけだから、これはもう一人アカデミー賞審査員状態ですよ(われながら意味わからん)。
 洋画・邦画の別なく選ぶこともあれば、それぞれに分けて選ぶこともある。年によってまちまちなのだが、今年はどうやら双方一緒のリストになりそうだ。なぜならば、今年は洋画ベスト10、邦画ベスト10と分ける程の良作に出会った気がしないからである。たぶん、洋邦併せてベスト15ぐらいまでは簡単に絞りこめるね。そもそもぶっちぎりの、文句なしの第1位という作品がない。『さらば、あぶない刑事』や『シン・ゴジラ』を以てさえも、だ。これはモナミ、困った事態なのですよ。実に、実に、困った事態なのですよ、おわかりですか、ヘイスティングス? ホット・チョコレート飲んでも灰色の脳細胞は動いてくれそうにありません。
 とまれ、年末にはこのリスト、お披露目できればいいですね。これまで作っておきながら公開してこなかったのは、単にタイミングを逸していたからに他なりません。他にどのような理由があるというのです?◆

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第2360日目 〈ヨハネの黙示録第13章:〈二匹の獣〉with加藤某のあとは宮部みゆきだよ!〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第13章です。

 黙13:1-18〈二匹の獣〉
 わたしは視た、一匹の獣が海中から出現するのを。獣は10本の角と7つの頭を持ち、10本の角には10の冠を戴いている。頭には地上のあらゆる言語で神を冒瀆する言葉が書かれていた。
 竜はこの獣に、自分の力と王座と強大な権力を与えた。
 獣の頭は傷附けられていて、誰もが死んだと思いこんでいた。が、その致命的な傷は治って再び全地の諸国民の前に現れた。人々はすっかり驚いてしまい、皆々これに服従した。竜が獣に自分の権威を与えていたので、人々はこの獣を拝んだのである。そうして人々はこの獣に比肩し得る者のありやなしやを囁き交わした。
 獣には大言壮語と冒瀆の言葉を吐く口が与えられていた。また、42ヶ月にわたって活動する権威も与えられていた。獣は口を開いて神を、神の名を、神の幕屋を、天に住む者たちを冒瀆し尽くした。獣は聖なる者たちと戦ってこれに勝利する力を与えられていた。あらゆる種族、あらゆる民族、あらゆる言語を異にする民、あらゆる国民を支配する権威も与えられていた。
 「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。/耳ある者は、聞け。/捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。/剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。/ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」(黙13:8-10)
 ──これをわれらは第一の獣と呼ぼう。──
 わたしは視た、一匹の獣が地中から出現するのを。小羊に似た2本の角を持ち、竜のように物をいっていた。
 この獣は第一の獣が有していたあらゆる権威を、第一の獣の前で揮い、かつ致命的な傷の治った第一の獣を全地の諸国民に拝ませた。大きなしるしを行って天から火を落とし、人々の前で燃えあがらせた。第一の獣の前で行うのを許されていたしるしによって、地上の人々を惑わし、剣によって傷を負ったもののなお生きている先の獣の像を造るよう命じたのである。この第二の獣は件の像に息を吹きこみ、喋れるようにした。獣の像を拝まぬ者あらば容赦なく殺した。
 この第二の獣は、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しき者にも、奴隷にもそうでない者にも、およそすべての者に右手か額に或る刻印を押させた。その刻印なき者は物を売ることも買うこともできなかった。
 刻印について述べよう、──
 「この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(黙13:17-18)

 本章がローマ帝国によるキリスト教弾圧、信徒迫害を語っているのは明白であります。ほんの少しの歴史的事実さえ承知していれば、あとはジグソーパズルの空白を埋めるが如し。勿論常に自制して牽強付会に陥らぬよう努める必要はありますが。いずれにせよ、露骨といえばあまりに露骨な章ではございます。
 〈前夜〉にて綴ったことの繰り返しになりますが、これの背景となるのは皇帝を神として礼拝せよ(ドミティアヌス帝)、死したる皇帝をも神として礼拝せよ(トラヤヌス帝)、という勅命(黙13:3-4及び12)。もう1つは、ネロ帝のローマ大火(黙13:13)であります。また、黙13:3はネロ帝にまつわる伝説を踏まえている、といいます。ネロ帝が生まれ変わってドミティアヌス帝となり、キリスト教、教会、信徒たちへ前後に例なき最大級の弾圧/迫害を行った、という伝説。
 そうして刻印の数字、666はヘブライ語でネロ帝の名を綴り、その子音をそれぞれ数字に変換した際の和とされる。この数字についてはいろいろ解釈や想像を生む余地があるから意見の完全一致は難しいのかもしれませんが、「666=ネロ帝」とするのがいちばん有力かつ妥当であるのだろうな、とわたくしなどは思うのであります。この数字をオカルト的意味合いで不吉な数字というイメージを、キリスト教と縁なき者にまで植え付け、周知・定着させたのは疑うべくもなくかの映画『オーメン』でありましょうな……。

 本日の旧約聖書は黙13:10とエレ15:2及び43:11。



 先日加藤某の小説中途で閉じ、別な作家の小説を読むことにした旨お伝えしました(してるよね?)。
 あれから次は誰を読もうか、と未読の山を眺めて考えていたのですが、やはりここは宮部みゆきしかいないだろう、と決めるに至りました。──本物のプロフェッショナルの小説を読みたいのだ!!
 未読の山にある文庫は『淋しい狩人』(新潮文庫)と『あやし』、そうして『宮部みゆきの江戸怪談散歩』(新人物往来社文庫)でした。単行本では<三島屋>シリーズの『おそろし』(角川書店)、『あんじゅう』(中央公論新社)と『泣き童子』(文藝春秋)であります。
 通勤時間もこれからは長くなることだし、どうしたわけかこれまで縁の薄かった作家をがんがん集中的に攻めてゆこうか、と思うております。このあとには横溝正史『獄門島』と江戸川乱歩『孤島の鬼』(創元推理文庫)と新潮文庫から出ている2冊の短編集が控えておるのじゃ。
 できれば宮部みゆきと『獄門島』の間に、横溝の『本陣殺人事件』と『殺人鬼』を読んでおきたいのだけれど、これはわれながら難しいなぁ、と諦めております。なぜなら古本屋を回る時間がそれまではまったく取れそうもないから。まぁ、現実とは常にそのようなものであります。◆

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第2359日目 〈ヨハネの黙示録第12章:〈女と蛇〉with加藤シゲアキの小説を読むのは諦めます。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第12章です。

 黙12:1-17〈女と蛇〉
 天に2つのしるしが現れた。1つは大きく、太陽を纏った女が月を足の下にして立ち、12の星の冠を頭上に戴いている。彼女は身籠もっており、産みの痛みに苦しんでいた。もう1つのしるしは、7つの頭を10本の角を持つ赤い竜だった。7つの頭には7つの冠。尾で天の星を掃き寄せて、地上へ投げ続けている。竜は女の前に立ちはだかって、どかなかった。生まれた子供を喰らうつもりでいるからである。
 やがて女は男の子を産んだ。鉄の杖ですべての国民を統治することになっている男の子を。子供は神の許へ、その玉座へ引きあげられた。
 一方、女は荒れ野へ逃れた。そこには神が彼女のために用意した場所があり、1,260日の間、女は神によって養われることになっている。
 ──天で戦いが起こった。大天使ミカエルとその御使いたちが竜に戦いを挑んだのだった。それに味方する者は破れ、天に居場所がなくなった彼らは地上へ投げ落とされた。
 天から大きな声が聞こえてきて、こういっていた。曰く、われらの神の救いと力と支配が現れた、神のメシアの権威が現れた、われらの兄弟のことを神の御前で告発する者が地上へ投げ落とされたからである、と。声は〈告発者〉に打ち勝った兄弟たちを讃え、最後にこういった、──
 「地と海とは不幸である。/悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。/残された時が少ないのを知ったからである。」(黙12:12)
 ──地に落とされた竜は、かの男の子を産んだ女を追った。女が一対の鷲の羽を与えられていて、それらを使って飛ぶが如くに逃げるので、竜は女に追いつけなかった。女が目指すのは荒れ野にある自分の場所、彼女はそこで向こう3年の間蛇から逃れ、神によって養われるのである。蛇は口から水を吐き出して女を後ろから押し流そうとしたものの、大地が口を開けてその水を呑みこんで、都度彼女を助けた。
 「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。」(黙12:17-18)

 女を狙う竜は節、というか場面によって呼ばれ方を変えます。黙12:9に拠ればこの巨大な竜は年を経た蛇であり、悪魔ともサタンとも呼ばれる存在で、全人類を惑わすものであります。ノートにこの旨反映させられませんでしたが、所によって「竜」と書いたり「蛇」と書いたりしたのはそうした次第であります。
 申すまでもないかもしれませんが、出産を控え、男の子を産んだ女は聖母マリア、その息子で鉄の杖を用いて諸国民すべてを治める男の子はイエスであります。「ヨハネの黙示録」著者は女/マリアの出産前を描写して、「子を産む痛みと苦しみのために叫んでいた」と記しますが、これが知恵の実を食べて罪を犯したエバに神が与えた因果であるのも、最早説明不要でしょう。
 なお、堕天使の記述はイザ14:12-15に見られます。本章ではサタンが地上に落とされた理由が天使ミカエルとその軍勢に戦いを挑んで敗れたためだ、と語られます。

 本日の旧約聖書は黙12:1及び5とイザ7:10-16、黙12:4とダニ8:9-12。



 加藤シゲアキの小説、2冊目を読んでいる、と申しましたが、正直なところ最早限界です。1冊目は興味だけが先行してなんとか読み進めたものの、いまの2冊目は「最後まで読む必要ないか」と見放す気分。おそらく一両日中には巻を閉じて他の作家の小説を手に取ることでしょう。
 どんな作家のどんな作品でも楽しく読むことができます、という人が果たしてどれだけいるのだろう。そのような人物は皆無に等しいだろう、とわたくしは申しあげたい。
 加藤シゲアキの小説を途中で読むのをやめてしまうのは、まずもって相性としか言い様がないのだけれど、実はここ10年、そうした小説と遭遇したことがなかったのだから単に相性というて片附けるのは、やや乱暴なことかもしれぬ。
 では、相性というだけでないならば、なにがわたくしを加藤から遠ざけるのか──。
 作品に於ける緩急の欠落とはいえるかもしれぬ。どの場面になっても物語は均一な質を維持したまま進んでゆき、そこにはいささかの緊密も緩慢もない。読み進めてゆくと、息苦しささえ感じるのだ。
 息継ぎする場所がどこにもない長編小説。致命的ではないか。余白を残した場所がまるでなく、画用紙の隅々までごってりと、まんべんなく色彩が敷かれた長編小説。そこから疲労以外のなにを与えられるのか。
 ジャニタレというブランドがどれだけ売り上げに貢献しているか不明だが、かれに物語を紡ぐ能力は与えられていると思うのだ。それが先天的なものか、後付けなものかは別としても、だ。この作家がたくさんのことを吸収して、血反吐吐くぐらいに物語を紡ぎ、語ることに執念を持てば、やがてアイドル出身の作家なんて色眼鏡の評価と訣別して、50本の指には入るエンタメ作家として世間に認知されることだろう。
 あと5年後ぐらいに、加藤シゲアキの新作小説を楽しんで読めるようになっていれば嬉しいな、と思う。◆

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