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第2409日目 〈『ザ・ライジング』第2章 6/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 二時間目が始まるころには件の三年生もすっかり落ち着いた。彼女は池本玲子へ丁寧に礼をいって保健室を出て行った。しばらく一人でゆっくり過ごせるかな、この際だから溜まった書類を片付けようか、と考えて特に急ぎのものがあるか探してみたが、年が明けて取りかかってもまったく構わないものしか、机の上にはなかった。そりゃそうよね、一昨日ここで奴隷相手に発散した後、余力を駆って端から片付けてしまったのだから、残りがあろうはずはない。私の記憶も鈍ってきたかな、と苦笑すると、彼女は陽の当たる場所に椅子を動かして腰をおろした。
 いちばん上の引き出しに手が伸びた。鍵が掛かっている引き出しだった。そこにはこれまでずっとくすぶってきた想いを寄せる男の写真があった。この人を私に振り向かせられる日は来るのかしら? 障害ができてしまっている以上、それは難しいかもしれない。でも、かといって忘れられる想いではなかった。一生を費やしても、忘れることはできないだろう。暗い情念がいつも以上に池本の魂を蝕み、闇に捕らえて放そうとしない禍々しい意志が池本の魂を握りつぶそうとしている。それを彼女はしっかりと自覚していた。あの人を手に入れるためなら、殺人だってやってやる。ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。あなたの隣にいるべきはあのガキではなく、私なんだ。なんとしてでも奪ってやる。
 そんなことを考える一方で、
 ──ワーグナーでも聴こうかな、『トリスタンとイゾルデ』……はやめておこう、もっと他のなにか……ちょっと渋めに『リエンツィ』でも。と、視線を棚の上に置いたラジカセに走らせたときだった。頭痛の種がガラリ、と扉を開けて入ってきた。池本はその生徒の顔を見た途端、気づかれぬような溜め息をもらした。
 「おばさま」とその生徒は大股に歩きながら、こちらへ近寄ってきた。顔色が悪いように見えるが、この子のことだ、と池本は考えた。おおかた自分の気に喰わないことでもあったか、あるいは授業をさぼりたいがためのお芝居だろう、と。いずれにせよ、担任には報告しておく義務がある。
 「なんていっておく?」
 「ん、任せる。少ししたら教室には戻るから、心配しないで」
 いや、別にあんたの心配なんかしてないけどね。報告を怠ってお目玉を喰いたくないだけよ。よほどそういってやろうと思ったが、この生徒にそんなことをいうのは時間の無駄のように思えた。叔母と姪という関係ではあるが、そこに血縁者に独特なある種の絆というものはなかった。池本と他の親戚にはつかず離れずの親戚関係があったけれど、目の前にいて突っ立っている生徒と池本の間に血縁意識がなさしめる同胞の親しみはない。まだ幼稚園に通っていた時分に会ったことはあるが、一時間ばかりしか顔を合わせていないし、遊んだわけでもない姪とこの学園で再会しても、関係が密になるわけでは到底なかった。およそなにか共通の目的がない限り、この子とそんな風になることはあるまい。そう池本は確信していた。
 池本は電話を取って内線をかけた。ここにいる生徒──赤塚理恵の担任は、果たして職員室にいた。体調が優れないようだからしばらく保健室で寝かせます、授業が終わる前には教室へ戻せると思いますので、授業をしている先生にそう伝えてください、とささくれだった口調でほとんど一方的にいうと、すこぶる荒々しく受話器を置いた。
 赤塚の担任はこの学園でも古参の一人になるが、一方で生徒や女教師をつまみ喰いすることですこぶる有名な男だった。噂は事実であるがかなり誇張されている部分もあるので、おいそれと訓告の対象にもできず、それ以上にこの男が教育委員会にも発言力を持つ県会議員の息子でもあるため、学園としても(池本と赤塚の祖父である理事長としても)なかなか注意ができないのだった。事実、池本もここに赴任したその年、ずいぶんとこの男に言い寄られ、セクハラ紛いのことをされて不快な思いを味わった。が、彼は持ち前の鋭敏な嗅覚で、池本の中にいい知れぬ恐怖を感じ取ったらしい。だがそれがなんだったのか、はっきり見極める前に、住まうマンションの前で柄の悪い男達に痛めつけられた。以来、彼が池本に手を出すことはなくなった。いまでも誰彼と手を出しているが、その欲望が池本へ伸びることはなかった。ただときどき、ねっとりとした視線を投げかけられることはあるが、危害を加えるまでには至らなかった。ハレルヤ。□

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第2408日目 〈『ザ・ライジング』第2章 5/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 窓際に並んで坐る希美と彩織のところへ、これまたいつものことながら美緒と藤葉がやってきた。四人が話題の俎上にのぼせたのは、ご多分にもれず今朝の水爆弾事件のことだった。あの三年生の過去の行状がどんなものだったのか、人並みに興味はあったが、真偽についてさしたる関心はなかった。それでも登校してきたときにはすべてが終わっており、断片的にしか事件を知らない彩織に事の顛末(もっとも、真実はわずかにしか含まれていない“事の顛末”ではあったが)を語らんと藤葉は、他のクラス、学年の顔見知りや水泳部の後輩達から仕入れてきた情報を交えて取捨選択し、理路整然とかつユーモアたっぷりに話して聞かせた。やがて始まる授業に間に合うよう、限りなく簡潔に、(自分の知る範囲で)正確に。
 「へえ、そうやったの。ところで、ののとふーちゃんは平気やったんか?」と、藤葉の解説をふんふんと頷き、ときどき「ほう」と声をあげながら耳を傾けていた彩織が、希美と藤葉を代わる代わる見やりながら訊いた。
 美緒も心配そうな顔をして唇を少し噛んで、傍らの藤葉を見、希美を見た。その瞬間に二人に、特に希美になにかがあったのかどうか、美緒は知らなかった。直後の二人には会っていると雖も。そんな彼女の瞳が潤んでいるのが、彩織にはわかった。眠いのかな、美緒ちゃん、とぐらいにしか思わなかったのだが。
 「うん、離れていたしね。近かったけど、平気だったよ」と希美は答えた。「ふーちゃんは? 私より近くにいたよね?」
 「そうだねえ」ちょっと窓の外を見てから、視線を彩織に戻して、藤葉はいった。「そういえば、少し飛沫がかかったかなあ。でも、それぐらいだよ」
 「なるほど、爆心地――“グラウンド・ゼロ”ってわけやな」
 美緒はハッと顔を彩織へ向け、眉間に皺を寄せた。本能の命ずるままに右足で彩織のふくらはぎを蹴っ飛ばした。
 彩織は唇をとがらせながら美緒を見あげた。「なんだよお」と文句をいう前に、あっ、と気がついた。希美と視線が合い、思わずうつむいてしまった。グレーの格子柄のスカートを両手の指先でいじくった。“グラウンド・ゼロ”――しまった、ののの前ではタブーやった。あの事件の記憶は必然的に、南の島での惨事を掘り出さずにはいられない。
 「ごめんな、のの。つい――堪忍や」
 いつになく神妙な表情で許しを請うている親友の姿がそこにあった。みんな、そんなに気を遣わないでよ。却ってこっちがいたたまれなくなるじゃない。つらつらそんな事を思いながらも、怒りは湧いてこなかった。気を遣ってもらっている立場で、そんな理不尽な感情を持ち出す方がどうかしている。横一文字に結んでいた口許をほころばせ、破顔一笑しつつ、ちょっと首を左に傾けて彩織の顔を覗きこむ。
 「いいよ、彩織。気にしてないから」
 三人、特に彩織の顔に安堵の表情が浮かんだ。
 「――それにしてもふーちゃんの話はわかりやすくていいね。やっぱり女子アナになるための練習なの、それも?」
 授業が始まるまでのあと約二分、少し暗くなってしまった〈場〉をなんとかしたい。そんな思いから、美緒は藤葉の将来の夢に話を振った。
 「うーん」という呻きとも思案中ともどうとも取れる声をあげながら、藤葉は髪を撫でた。「そんなんじゃないけどさあ……けど、意識はしてる」藤葉ははにかみながらいった。「でもさ、私、女子アナ目指してるわけじゃないよ。レポーターとか特派員とかさ、報道に携わりたいとは思ってるけど。まあね、テレヴィ画面には映ってみたいけど」
 「新聞記者とかはだめなん? 報道の仕事だったらそれだってありやん」
 彩織の言葉に希美も頷いた。しかし、横目でとらえた藤葉は一瞬、ひるんだように見えた。それをすかさず察した美緒が、
 「だめだよ、彩織ちゃん。ふーちゃん、文章書くの苦手だもん。――ね?」
 続けていたずらっぽい笑みを藤葉に向けながら、「中学のときだって読書感想文や作文の宿題、私が代わりにやってあげてたもんねえ?」といった。
 「美緒ォォォォォォッッ!! そんな昔の話、持ち出すなあっ!」
 藤葉は両の人差し指の関節を、美緒のこめかみにぐりぐりと押しつけながら叫んだ。が、もはや後の祭りであった。そう、文章を書く宿題になると藤葉は美緒をファストフード店の最も高いメニューで買収していたのは、いま彩織と希美の知るところとなった。
 それを見ながら希美と彩織は腹を抱えて笑った。美緒と藤葉もそれにつられて笑い出した。幾つかのグル-プがなにごとか、と四人を見た。あるグループは再び自分達の話題に戻り、あるグループはそのほほえましい光景にしばし時間を忘れた。
 そして、一時間目の始まりを告げるチャイムが、全校中に鳴り響いた。□

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第2407日目 〈『ザ・ライジング』第2章 4/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 「いま配った進路志望の用紙は来週の月曜日に回収するからね。じゃあ、ホームルームはこれで終わります。――あ、日直、一緒に職員室に来て」
 二年三組の担任、高村千佳は出席簿と教務手帳を持って教壇をおり、日直の生徒を従えて、教室を出て行った。黒板の上にかかった時計の針は八時四十五分をちょうど指したところ――一時間目の代数幾何が始まるまで、あと五分あった。高村に呼ばれた生徒が自分のグループの仲間をちらりと見て、ドアを閉めると、常のことながら、かしましくもかまびすしいお喋りが、教室のそこかしこで始まった。
 この日の朝、生徒達の話題は三つに大別された。
 一、進路のこと。
 二、今朝の水爆弾事件のこと。
 三、希美と彩織のこと。
 中でも水爆弾事件についてがいちばん多く話題にのぼり、情報通を自負する生徒が、水をかぶった三年生の過去にあった“よからぬ事情”を開陳し、恨みを抱いた学生が報復したのだ、と自説を滔々とぶって語り、、自分のいるグループや同じ派閥のグループから讃仰されていた。一方では“信頼できる情報筋”から仕入れてきた噂――実は水をかぶった先輩は事故に巻きこまれたのであり、本当の目標は他にいた、とか、空き教室の掃除をしていた一年生がなにかの拍子に誤ってバケツを落としてしまい、中身があふれ、バケツが落下したのだ、とかそんな程度の噂を「ここだけの話だよ」との枕詞を置いて、さも真実らしく仲間に吹きこみ、グループや周囲の面々から呆れ顔で見られているのに気づかぬ者もあった。じゃあ、二個の水の詰まった風船はどうなるのよ、とは誰もが思っていながら、誰もいい出さずにいた指摘である。第一、バケツが落ちてきた、なんていま初めて聞いたし、あんたの他には誰もいってないよ。
 それに較べて希美と彩織の話題はホームルーム前こそ盛りあがったものの、同級生達は「おめでとう、選ばれるといいね」と本人達に声をかけると、さして話すこともなくなってしまい、自然と話題の花としての勢いは落ちた。ホームルームを挟んでときどき昨夜のテレヴィ番組を見たよそのクラスの生徒達が何人かで連れだって、二人を見物にやってきているのは、視界の端にとらえられたから、希美と彩織にもわかっていた。が、二人とも敢えて無視した。視界の中心に持ってこず、努めて気がつかないふりをした。昨夜のテレヴィがどうあれ、芸能人ではないのだ。美緒と藤葉も二人の意思を尊重した。ちなみに件の国民投票で上位十人に入ったそれぞれの順位と票数は次の通り。宮木彩織(受付番号12420)――6位、6486票。深町希美(受付番号12433)――7位、6478票。
 もう一つ、進路について活発に話しているのは、教室の前の方に席を占め、いつも教科書とノート、参考書を広げて机にかぶりついている、〈だいはかせ〉のグループだけ。ご丁寧にもビン底眼鏡に三つ編みの古典的スタイルを、グループ五人が一様に守っていた。そんな彼女らを評して隣に座る森沢美緒は「息がつまるくらいに重苦しい」といい、「せっかくの制服がだいなし」という。視力のよくない美緒は授業中だけ眼鏡をかけているが、それもあって四月の初めてのホームルームで席替えをする際、高村に直訴して教壇のいちばん前の席を確保した。〈だいはかせ〉達は思わぬ障害が発生したことで憤り、教壇の前を取れなかったことにあれから八ヶ月が経ついまでも美緒を快く思っていない。しかし、成績ではどうあがいても美緒に太刀打ちできないのがわかっているものだから、その恨みも空回りに終わっているのが本当のところである。もっとも、クラス、学年それぞれ総合一位、冗談で受けてみた国立大学と私立大学の全国統一模試でも総合一位という記録(伝説とも呼ばれた)を持つ美緒に、果たして誰が太刀打ちできようか? ついでにいえば、藤葉は美緒と同じ列のいちばん後ろに坐っており、水泳部の朝練があるときはたいてい午前中を熟睡して過ごし(休み時間だけもそもそと起き出してくる)、テスト前になると美緒のノートをコピーしたり、美緒の家にこもって大騒ぎを始める。……とまれ、〈だいはかせ〉らを除けば進路についてその朝、まじめな話をするものはなく、気を滅入らせ、溜め息混じりに用紙を鞄の中にしまいこむのが関の山だった。
 常のことながら、教室はかしましくもかまびすしいお喋りに満ちていた。□

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第2406日目 〈『ザ・ライジング』第2章 3/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美はプッ、と吹き出した。そういっている彩織の姿がまざまざと思い浮かべられたからだ。ありがとう、彩織。気を遣ってくれたんだね。あの人からかかってくるだろうとも察してくれたんだよね。でも、彩織、気にしなくてよかったんだよ。あの人からは彩織と話してるときに電話があったらしくて、留守電に入ってたから。
 「おめでとう、ののちゃん。よかったね」ふとした拍子に妹みたく感じる希美を見、ほほえみながら祝福の言葉をかけた。まわりに誰もいなければ、きっと抱きしめてしまっていただろう。
 「ありがとう、ふーちゃん」希美もほほえみを返して答えた。「でも、まだ信じられないよ、自分が十人の中に入ったなんて。彩織と一緒なのはうれしいけど、これから先のことを考えたらとても怖い」
 「怖い?」
 「だって自分の人生がむりやり変えられちゃうんだよ。なにひとつ思うようにできなくて、まるで籠の中の鳥じゃない。あの世界の人達は商品価値のある間しかタレントに投資しないじゃない。使い物にならなくなったら、空き缶を捨てるようにポイ捨て。人間のやることじゃないよ、そんなの」
 一気に吐露する希美に、藤葉はしばし呆然とした。それはいままで友人が見せたことのない一面だったから。ののちゃん、いつからこんな芯の強い考えを持つようになったんだろう? ……やっぱり……二ヶ月前にご両親を亡くされたせいなのかな。その日から今日まで、ののちゃんは私達の知らないところで変わっていったんだな。そうじゃなかったら、一人で生活してゆくなんてできないのかもしれない。自分を強く保たなきゃ、現実を直視しなきゃ、年端の行かない女の子が一人で生活してゆくなんてこと、できないのかな。初めて会ったときはまだお子様の面影があった希美が、いまは藤葉の知っている誰よりも逞しく思われたならなかった。その一方で、あの頃の――死んだ妹に重ね合わせて見、時折わけ知らずかばってあげたくなってしまう存在だった希美を、懐かしく思った。
 ――これから先のことを考えたら、とても怖い。
 ――空き缶を捨てるようにポイ捨て。人間のやることじゃないよ、そんなの。
 そんなものなんだろうか、と藤葉はしばし考えた。が、考えてみても未知の世界は華やかさばかりがめだって、その影に潜んで誰彼を蝕んで暗闇の底へ引きずりこむ魔法のことは曇りがちだ。
 でも、ののちゃん――
 「彩織ンは知ってるの?」
 答えは容易に想像できた。二者択一、正解する確率は二分の一、フィフティ・フィフティ。そしてその答えを巡る二人、希美と彩織の話し合いの結果も。
 希美は首を振った。
 ああ、やっぱり。でもこの二人なら大丈夫だろう。揉め事も諍いも起こさず解決するに違いない。――藤葉はそんなことを漠然と考えながら、「そう……」と呟いた。
 教職員と来校者用の昇降口を左手に過ぎ、階段を降りて一階の高等部用の昇降口に入ろうとした矢先だった。なにやら音がして小さな悲鳴が起こり、続けて、五メートルぐらい右手のタイル張りになったグリーンベルトへのアプローチに、バン、となにかが叩きつけられ、割れる音が響いた。その直後、再びなにかが割れる音がした。二度目の音がしたと思しき場所に、頭からコートをずぶ濡れにした三年生が、半べそで立ち呆けていた。
 それを見た周囲の生徒達が騒ぎはじめる。下駄箱の前で身をすくめ、寄り集まり、しまいかけた靴を手にして中腰のまま、被害者の三年生に視線を釘付けにされた生徒がいる一方で、慌てふためいて周囲をキョロキョロと見渡したり、一緒にいた連れと怖さのあまり腕を組んだり、きゃっと叫んで抱き合ったり、階段を駆けあがって一階の昇降口を入った正面にある事務室へ向かう生徒もいた。職員室へ行こうにも昇降口でパニックが発生しているので、事務室に駆けこんだ方が早い、と判断したのだろう。それは懸命な処置だった。その生徒よりも前に立って、二人の事務員が必死な形相で走ってきた。
 様子を少し離れたところから見ていた(希美と藤葉と同じクラスの)生徒がホームルームの始まる前に、「最初にね、三年生の頭に水がザパア、ってかかってきて、そうしたら今度はそのすぐ横で、水が詰まった風船が破裂したんだよ」と“解説”した。誰がやったのか? みんなはそれを知りたがった。その生徒の曰く、「わかんないよ、そんなの。でもさ、何階かの使ってない教室のバルコニーに、誰かの影が見えたんだよね。すぐに引っこんじゃったから、誰かはわかんないけど、その人が犯人なのかなあ。……そんなこといったって、はっきりと見たわけじゃないもん」と。希美も音のした数瞬後、校舎を見あげたが、そのときには同級生のいう人影はどこにも見あたらなかった。
 やがて事務員二人が、息せき切って到着した。その中には保険医や数人の教師もいた。教師らはその場をなかなか離れようとしない(離れられなかった)生徒達に、早く校舎へ入って教室に行くよう促した。例の三年生の前に立った保険医の池本玲子は、生徒の髪やコートや持ち物をすばやくタオルで拭き、声をかけながらそのまま保健室へ連れて行った。
 しばらく希美と藤葉は顔を見合わせていたけれど、まわりの騒ぎが収まるにつれて平静を取り戻し、自分達のクラスの下駄箱へ足を向けた。なにか喋ろうとしても、互いに言葉が出てこなかった。
 そう、
 「なにかあったの?」という、陸上部の練習を終えて頬を上気させ、額に汗を浮かべたジャージ姿の美緒が後ろに(なんの気配も前触れもなく)現れて声をかけ、二人を下駄箱前の簀の子から数センチ、飛びあがらせるまでは。□

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第2405日目 〈『ザ・ライジング』第2章 2/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 聖テンプル大学付属沼津女子学園の正門で木之下藤葉は希美を待っていた。沼津駅発のバスに乗ってちょうど動き始めたとき、人混みの中に希美の姿を見たのだ。
 たぶん、次のバスだろうなあ。
 小首を傾げて坂の下を見やる。まだ希美を乗せたバスは見えない。水泳部の後輩の一団が「おはようございます!」と唱和して、傍らを通り過ぎていった。その後ろ姿を見ながら視線を、前庭と隣接するグラウンドに転じた。トラックをジョギングする陸上部のかけ声が聞こえてくる。美緒もきっとあの中にいるんだろうな、と藤葉は思い、首を伸ばしてみたが、やめた。首筋とマフラーの間から寒風が吹きつけてくる。思わずブルッと震えて、鞄を落としそうになったが、それはどうにか防ぐことができた。
 ――遅いなあ。
 水泳部の朝練がない水曜日は、藤葉にとって憩いの日だった。その前日はゆっくり過ごすことができる(夜更かしをしていられる)。それに、昨夜は友人二人がテレヴィに映り、どちらか、あるいは二人ともハーモニーエンジェルスの一員になれるかもしれない、と全国の人に知らしめた日でもあった。インターネットによる事前の国民投票でも二人とも健闘し、とある巨大掲示板サイトでも評判がよかったのは知っている。あらかじめ予想していたとはいえ、まさか二人そろって上位十人に選ばれ、あのアイドル・グループの新メンバーになれる可能性が一段と濃くなったのが、一晩経たいまでも信じられなかった。
 ののちゃんはなおさらかもしれない。
 そう思った矢先、肩を遠慮がちに叩く者があった。え、誰――? 振り返ってみるとそこには、八重歯を覗かせてこぼれるような笑顔の希美がいた。
 「おはよう、ふーちゃん。どうしたのさ、こんなところで? 風邪引いちゃうよ?」
 「あ、おはよう。びっくりしたあ。いつから後ろにいたの?」
 「いまだよ。バスから降りたら正門に見馴れた背中があるなあ、と思って。そうしたらふーちゃん、ぼーっ、と校舎の方を眺めてるしさ。声かけていいものか悩んじゃっちゃったよ」
 「駅でののちゃん見かけたから、次のバスで来るだろうな、って思って待ってたんだよ」藤葉は鼻をすすり、鞄を持ち直しながらそういった。ふと、目の前の希美の荷物がやけに身軽なのを不思議に思い、視線を落として、思い当たった。 「今日はテューバ、持ってきていないんだね?」
 「うん、今日は部活ないからね。家に置いてきた。――行かない?」
 弾かれたように背を伸ばすと、藤葉は「そうだね」といって、希美と並んで歩き出した。何組かの集団に追い越され追い抜きした。ときどき二人に挨拶してゆく者もあった。それは同じクラスの子だったり、部活の子だったり。教師や職員の姿も見受けられる。
 左手にそれて中等部の昇降口へ向かう一団を横目で見送りながら、藤葉は「昨日ケータイに電話したんだよ」と隣を歩く希美にいった。
 「そうだったんだ、ごめんね、出られなくて。食事の支度したり灯油入れたりしてたからね、気がつかなかった。そのときだったのかな、ふーちゃんが電話くれたのは?」
 自分より数センチ背が高い藤葉を見あげながら、希美がいった。そのなんでもない仕草の希美を、藤葉は奇妙な胸のうずきを覚えた。かわいいと感じるよりももっと胸を突き刺す記憶が甦ったからだ。若菜……。
 「たぶんね。家の方にかけようと思ったら、ちょうど彩織ンから電話があってね。『今日はののンとこに電話しちゃあかんでえ』って釘を刺されてしまった」と、藤葉はさもおかしそうに笑っていった。「たぶん、美緒のところにも同じ電話したんじゃないかな」□

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第2404日目 〈『ザ・ライジング』第2章 1/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 なにかが変わろうとしている一日が始まった。
 カーテンを開け放した窓から射しこむ朝日に目を細めながら、あたかも確信するようにして宮木彩織は頷いた。日の出は午前六時二十一分。彩織はその三〇分も前からその瞬間を待ち構えていた。
 東に望む箱根の峰のあちらから太陽が顔を覗かせるよりも前に彼女が起き出しているのは、けっして習慣でもなんでもない。いってみれば単なる偶然だった。昨夜は国民投票の結果を真っ先に希美に知らせてしみじみと喜びをかみしめ、藤葉や美緒、転校した友人、その他諸々からの「おめでとう!」コールに応対し、翌日学校があるのを頭の片隅で少しばかり気にしつつ、弟とプレステ2で時計の針が三時を指すまで遊び、父に怒られてようやくベッドに入ったものの興奮で寝つけず、芸能人になったらなれたらなれなかったら、と際限なく妄想を広げたがよけい眠れなくなったので、むりやりそれに終止符を打ち、今度は今年の夏から秋にかけて合唱部で練習した、ヴェルディの《レクイエム》のコーラス・パートからアルトのところを切れ切れに思い出しながら口の中で歌い、そうしているうちにようやく深い眠りに落ちていった。
 それから二時間と経たない時間に彩織はむっくりと起き出し、夜のとばりが押しのけられるようにして退いてゆき、目覚め始めた街のさえずりを聞きながら、カーテンを開けた窓の向こうをじっと見つめていた。
 重い窓を両手で開けて、つま先立ちでバルコニーへ出てみた。じわりじわりと指の裏からモルタルの冷気が伝わってくる。さりとて部屋の中へ退散する気は湧いてこなかった。手摺りに掌をかけて、そっと眼下の風景を眺めてみる。
 いつもと変わらぬ街並みが広がっている。右手には狩野川が流れ、左手には県道が東西に走っている。狩野川の水面は波のうねりに陽光が乱反射して照り輝いていた。土手は数年がかりの護岸工事のあとで草の茂って土肌の見える部分はなくなり、ベンチや遊具がそろった小さなアスレチックになっている。彩織にとっては子供のころからの遊び場であり、両親には互いを結びつけるロマンスが生まれた場所。初めてそれを聞いたときは、なんとまあ、お手軽な、と呆れ顔の彩織だったが、「ロマンスの生まれる舞台にはね、彩織、特別な設定や道具立ては一つもいらないのよ」と伏せ目で、かつ幸せそうな笑みを口許にたたえながらの母の言葉に、なんとなくわかったような気になり、折に触れてそれを思い出しては、いつか自分にもそんな日が来るのかなあ、とちょっと顔を赤らめながら夢見ることがある。
 視線を川から正面へ転ずると沼津警察署の建物が、テニスコートを隔てて鎮座坐していた。「警察が近いと心強いね。物騒なこともそうそうないだろうし」とこのマンションを新築で購入し、引っ越してきた初日に父が満足げに喋っていたのを、彩織はいまでも覚えている。それから十年以上になるが、さすがにこれだけの歳月が流れると、なんの前触れもなく鳴り出すパトカーのサイレンは生活音に等しくなり、夜中でない限り驚くこともあまりなくなっていた。どことなく冷たい印象のする警察署だったのに、なんとなく親しみあるそれに変化したのは、疑いもなく彩織が希美と出会ってから(それは小学校二年が始まる春だった。彩織は父親の仕事の関係で、西日本の小京都と称される街から移ってきたばかりであった)。遊びに行くことこそなかったが友人――なにをするのもどこへ行くのも一緒で、どんな手段を以てしても断ち切れない絆で結びつけられた親友の父親がそこに勤務しているとなれば、否が応でも親しみが湧くというものだ。
 ――ときどき学校帰りにおじさんと出喰わしたっけ。中でジュースおごってもろたこともあった。でも、ののには内緒。ウチとおじさんとだけの秘密や。
 そう独りごちて、彩織はくすっと笑った。でもまさか、とふいに真顔になって思った。でもまさか、その人のお葬式に出なきゃならんなんて思わんかった。
 ……冷気を孕んだ風が髪をなぶり、肌を撫で、コバルトブルーの無地のパジャマ越しに凍った矢を突き刺した。
 さぶい~っ!!!
 心の中で叫び、両手をこすりあわせながら部屋へ戻り、窓を閉めた。歯が噛み合わず、ガチガチと悲鳴をあげている。
 彩織はそのままベッドに潜りこんで体を丸め、頭から布団をかぶった。起きるときにめくった毛布に巻きこまれていたウォンバットのぬいぐるみがバランスを失って、彩織の鼻先にキスをした。それを抱えこみ目を閉じたが、もう眠れそうもない。体がぬくんでくるとウォンバットを脇に押しやり、手を伸ばしてチェストに置いてある本を取った。美緒から借りているトールキンの『指輪物語』で「王の帰還」下巻だった。二月に公開された『ロード・オブ・ザ・リング~旅の仲間』を美緒に率いられて藤葉や希美と観に出掛けてからというもの、彩織はすっかりその世界すべてに魅せられてしまい、ねだって美緒が持っていた全六巻の原作を一冊ずつ借りては読み、を繰り返し、途中読めなかったときもあるものの、約十ヶ月を経てようやく最終巻にたどり着き、余すところあと数十頁を数えるばかりだった。
 寝返りを打って枕を横へずらし、肘で支えるように上半身を起こして、本を開いた。何度か姿勢を変えながら、父から朝食を知らされるまで読み耽り、たっぷりした充実感と満足感、もう新しい物語に出会えぬ淋しさを味わいつつ、彩織はこの長い長い物語を読み終えた。□

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第2403日目 〈江戸川乱歩『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 経緯はさておき、地元の小さな図書館から『幻影城』を借り出したのは、そのなかに「怪談入門」という随筆があったからだ。頃は高2、ちょうどH・P・ラヴクラフトを媒介にしていよいよ怪奇幻想文学の森へ分け入ろうとしていた時分である。
 返却までの2週間で「怪談入門」は勿論、『幻影城』を何度読み返したか覚えていない。ただ読みながら、当時国内で刊行されたことのある怪奇小説の雑誌や翻訳を能う限り収集してリスト化しよう、それを系統立てて一個の論書やエッセイ集を上梓しよう、と固く決意したのははっきりと覚えている。それの端緒として未完の『世界幻想文学講話』なるエッセイ集に収まることとなる文章を幾つか書いて、あちこちの同人誌に発表したっけ。が、『世界幻想文学講話』に留まらず刊行物の収集やそれを基にしての著書の上梓などいずれも既に果たせぬ夢となった。もっとも、よしんばそれができたとして、わたくしに東雅夫氏のような仕事ができたとはわれながら思えぬ。餅は餅屋へ。その通りである。
 筆が流れた。許せ。乱歩との初遭遇が怪談を縁にして、という事実が、あれから30年を経たいまの乱歩読書に幾許と雖も影響を与えておるであろうことは首肯せざるを得ない。どういうことか、といえば、『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)を読み終えて、「これは!」と膝を打って二重丸を付けたのは専ら怪奇趣味がかった短編であり、逆に「これは……うむむ」と腕組みして小首を傾げて天を仰いだものが本格物と当時称された推理小説群であったのだ。
 先の「怪談入門」で、そんなら私がこれまで書いてきたのも怪談であった、と乱歩自ら納得して題名を掲げたものに「人間椅子」や「鏡地獄」、「押し絵と旅する男」などあったが、前の2作は『江戸川乱歩傑作選』に入っていて、二重丸を付した小説である。わたくしが「人間椅子」などを気に入ったのもそこへ漂う怪奇趣味に感応したからだ。
 そんな所以だから世評に高い「二銭銅貨」や「D坂の殺人事件」などは面白く読めたものの、残念なことに二重丸を付けるに至らなかった。前者に於ける暗号のトリックと最後のどんでん返し、後者に於ける日本家屋での密室殺人の可能性を示したトリックと名探偵明智小五郎の推理など、いずれについても存分に楽しめた……にもかかわらず自分のなかで評価が低いのは、併収作に怪奇趣味に彩られた作品が併収されている不幸に起因しよう。また、忘れてならぬのはここに「芋虫」があることだ。
 ご記憶の方がどれだけおられるかわからないが、昨年、わたくしへ乱歩を奨めてきたのは行き付けのクラブのお嬢さんだった。その折彼女が猛烈にプッシュして愛着ぶりを吐露したのが、かの「芋虫」である。
 復員してきたものの両手両足を根元からなくして自由を失い、だが食欲と性欲は世人以上に旺盛な夫と、それを介抱するうちに自身の内に眠っていた加虐性に突き動かされて夫を虐げる妻。かれらが織りなすエロスとサディズムの物語は、妻による至極残虐な行為をクライマックスとして読者の記憶に焼き付く。まさに乱歩らしい一編である。
 最初はエログロ小説の1つとして「芋虫」を読んだが、二読、三読するに従い、次第に世間から忘れられてゆく夫婦の侘しい生活を想像して、そこに<哀れ>を覚えたことである。「悪夢」という題で発表された昭和4(1929)年当時は反戦小説として世間には受け入れられたそうだが、わたくしは夫婦の交情や終盤の凄惨さ、直後の妻の反省といった描写を通して恋愛小説の一変形──哀れを催させる一方でなんともやりきれぬ読後感の恋愛小説と読んだのである。
 ──仄聞するところでは、乱歩は生涯の全短編の殆どすべてをキャリアの初期に書きあげていた、という。創元推理文庫の『人でなしの恋』裏表紙にある文言に拠れば、同文庫の『D坂の殺人事件』と『日本探偵小説全集 江戸川乱歩』、『算盤が恋を語る話』の4冊を以て乱歩のほぼ全短編をを網羅されている由。
 しかしながらわたくしのような乱歩入門者には、昭和35年に刊行されて未だ版を重ねて親しまれるこの新潮文庫版短編集がいちばんだ。個人の好みはあろうけれど、乱歩が足跡を残したジャンルのなかから代表的な作品を精選した、バランスの取れた作品集であることは疑うべくもない。わたくしはまだその域に達していないけれど、きっと様々な乱歩の短編集を渉猟したあとで帰ってくる<港>のような1冊なのではないか。
 たぶん『孤島の鬼』と本書がわたくしにとっての本格的乱歩開眼の文庫となるだろう。紆余曲折を経て人生の秋を迎えたいま、大乱歩の作品に遅ればせながら親しめるようになったことに感謝。◆

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第2402日目 〈わたくし、真剣に悩んでます(乱歩短編集のことで〉。〉 [日々の思い・独り言]

 ♪どうする、どうする、どぅおッする、キミならどうする〜?♪ これは『電磁戦隊デンジマン』という、たしか小学校へ上がる前に毎週観ていた特撮ドラマ、戦隊物の主題歌の一節です。他のフレーズはまるで忘れているのにこの箇所だけ覚えているのも不思議な話ですが、今日はこれをマクラに、あなたならどうしますか? というお話しを一席。──ええ、相済みません、またも乱歩でございまして。
 大いなる満足を以て『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)を終わり、続けて今夏出版された『江戸川乱歩名作選』(同)に取り掛かっております。それはさておき(なんで!?)、ただいま拙、些細な悩みを1つ抱えております。世に多くある乱歩短編集に収録される作品の重複についてであります。
 その前に、これまで読んだ短編集、これから読む短編集を列記しますね。既に過去にお話ししていることの繰り返しとなるが、ご容赦を。『パノラマ島奇談 他四編』(江戸川乱歩文庫 春陽堂)と『江戸川乱歩傑作選』をこれまでに読みました。いまは『江戸川乱歩名作選』でして、このあとは『算盤が恋を語る話』と『人でなしの恋』(共に創元推理文庫)を読みます。
 ……なんとなくお察しの向きもあろうけれど、この5冊の目次を点検した際、重複する短編が幾つか出てくるのですね。『パノラマ島奇談』所収の「白昼夢」が『江戸川乱歩名作選』に、「接吻」が『人でなしの恋』に、それぞれ収められています。また、『江戸川乱歩名作選』所収の「踊る一寸法師」と「人でなしの恋」が『人でなしの恋』に収録されております。
 要するにそれらを都度読み直すか、或いはいちど読んで日も浅いことだしすっ飛ばすか、と、そんな些細なことで悩んでおるのですよ。そんなどうでもいい点について倩思いを巡らせている次第なのです。マクラを踏まえれば、そんなとき読者諸兄ならどうされますか、とお訊ねしたいのです。
 うぅん、悩ましいですね。どの短編も読み直すことになりましょうが、「白昼夢」と「接吻」はすっ飛ばす方に分類されましょう。読み流す、というてよいかもしれぬ。「人でなしの恋」は……どうなるんだろう、見当が付かない。というのも、本稿執筆の現時点で読んでいるのがまさしくこの「人でなしの恋」だから。ゆえに判断を下すのはちょっと早そうであります。
 まぁ、こんな悩みを抱かずに済ます唯一の方法は、最初から同じレーベルで読んでゆくことぐらいしか思い浮かびません。それも光文社文庫版全集や創元推理文庫、春陽堂文庫に限った話であります。その上でもし「落穂拾い」の必要があれば、他社の文庫を買うなり借りるなりして用を足せばよい。もっとも、はじめから光文社文庫版全集を読んでいたらたぶんこのお世話になることは、(まず)ないように思いますが……。あ、解説や挿絵といったあたりでお世話になることはあるかもしれませんね。
 それにしたって、斯様に些末なことで悶々としていられるなんて、なんと平和で牧歌的、幸せなことでありましょう。わたくし、悩んでます。そんな風にいうたって誰も信じませんよね。さりながら本人はそれなりに真剣なようで。◆

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第2397日目 〈なぜ更に本を買うのか、という誰に宛てるでもなき弁明を試みる。〉 [日々の思い・独り言]

 遂に刊行されちゃいましたよ、これでますます未読の作品が増えてしまった……あ、単行本を所有しているから、増えたのはあくまで冊数であって作品ではなかったか。──と、そんな風に嘆息しているのはスティーヴン・キング『11/22/63』全3巻(文春文庫)が書店の平台に積まれているのを実見したからである。当然の如くしばし逡巡する暇もなく、選び、摑み、レジへ運んだ。──そうして、或る種特別な、曰く形容し難きほのあたたかさを孕んだ幸せを、その日一日感じて過ごした。ここへ至るまでに百数十冊の本を読了せねばならぬ現実からは、この際だから目をそらし。
 思うに、どうして未読の本が増えるのか。けっして夜中にこっそり分裂して増殖しているわけではない。いまや本は消耗品でしかなく、今日この時を逃せば二度と見附けることができないかもしれないご時世だからだ。それを知る者、それを経験した者は、だから事情が許す限りで本を買う。「読みたいから買う」という至極真っ当な購買理由と「いま買わずして次の機会などあるものか」という釈明は、その実等しい関係にある。出掛けたら必ず何冊かは買って帰ってくる、とは家人の立場にある人の口からよく聞く台詞だが、上述の理由を踏まえた上で最早それは強迫観念に由来することを知ってほしい。
 未読の文庫、未読の単行本が合計して150冊近くになっている理由も、果たして前段にて申し述べたとおりである。まぁ、それのみに由来するとは断言しかねるが、根本を探れば、いま買っておかなくちゃ! なる思いがそこへ横たわっていることは否定できぬ。加えて、読むスピード、読む時間の確保、などなど検討すべき要素もあろうが、それはさておく。
 ところで困ったことにいまわたくしがいるのは、新宿に本店を構え、全国規模で支店を展開する新刊書店が小道を挟んだ向こうに鎮座坐す様が否応なく目に入ってくるてふロケーションにある、某マーメイド印のシアトル系カフェである(婉曲な書き方をする必要があったか?)。困った、というのはそこにいる事実ではなく、自分の生活圏内にある書店のどこにも置いていない文庫が、帯附き初版でその店舗に置かれているのを発見したからだ。……脳裏にあの未読の本の山の光景が効果音を伴ってよみがえる。これ以上増やすのは自分の首を自ら絞めるも同じだ。ならぬ、財布の紐をゆるめてはならぬ。プッチーニのオペラのアリアが途端に脳内再生されるのはどうしたことだ。欲望に身を焦がすなかれ、お前よ。嗚呼、だがしかし……!
 ……長き沈黙のなかで熟考した結果については、どうぞ読者諸兄よ、ご想像を逞しうされるがよい。わたくしは事実をここに述べる勇気を持たぬ者である。ハワード……。◆

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第2396日目 〈診断結果が出たので、今後の活動について考えてみた。〉 [日々の思い・独り言]

 過日、突発性難聴と診断され、現在は(いろいろあった末に)通院・投薬療養中のわたくしです。病名を告げられたときは一瞬めまいがして、意識が遠くなりました。何年か前に同じ病名を告げられたのは、なんだったのだろう? 完治していなかったのか、それとも誤診だったのか。そんな疑問が湧くけれど、それはさておき。
 今回斯様な診断が下されたことで、行く末について様々思いを巡らせました。幾つかに関しては方向性を見出せたので、備忘も兼ねて記しておきます。
 まずは20歳になる前から現在に至るまで続けてきたライター活動を、この際に停止することに決めました。また一方で、読書に特化したブログの開設も計画しております。後者については、今後音楽鑑賞に支障を来すこともあるでしょうから、せめてもう1つの趣味である読書をこれまで以上に活発化させる必要があった、という、まぁ、切実な理由が背景にあるのでした。
 ライター活動についてはね、正直なところ、収入的にも仕事量的にももう頭打ちの状態かな、と。現在の体調では納期を厳守できる自信もありませんし(これがいちばん大きな理由かな)。加えて、新規クライアントの開拓や既存クライアントの掘り起こしを目的に営業をかけるも、結果は玉砕。右往左往の果てにこの決定はされた、と思うより他ないのでした……。
 読書ブログについては前々段に尽きております。音楽鑑賞に支障が出る未来が想定されている以上、読書ブログの開設はこれまでよりも具体的に、鮮明に、切実になってきております。体裁としては、書影が掲載され、出版年月日やISBNなど書誌データが完備されて入るのは勿論として、デザイン面では(本ブログとは正反対に)明るくて、楽しい気分にさせてくれるものがいいですね。……となると、各プロバイダで用意されているテンプレートは帯に短く襷に長しですから、遅ればせながらWordPressで作成することになるのかなぁ。でも、なんだか敷居が高いんですよね。なんだか初心者には難しそう……。会社に行ったらWordPressの教本を見てみよう、っと。
 現実に読書ブログを開設することになったら、更新頻度はどれぐらいが最適だろう。本ブログと並立することになるわけだから、毎日の更新は事実上不可能だ。週に1回、或いは10日に1回というペースでやってゆくのが、いちばん無理のない方法かしら。
 これは換言すれば、読んだ本の感想が本ブログに掲載されることが以後なくなることを意味するのですけれど、嗚呼、果たしてそんなことをやってゆけるのでしょうか──いま心のなかの自分の声が、そんなことできるわけないじゃん、と申しております。あっはっはっは! と高笑いさえ聞こえてきます。これは預言かな。もしくは託宣? 呵々。
 とまれ、実際に読書ブログを開設するとなれば、スタート時点で少なくても10本程度の書評は仕上げておかなくてはいけません。本ブログとの並立がされる以上、それだけの保険がないと始められません。率直に申しあげれば、それだけの球数があっても不安で不安でなりません。まぁ、斯様な心配はあると雖も、最初の1冊は有川浩『レインツリーの国』(新潮文庫→角川文庫)で飾りたいものです。その次は……さて、なににしましょうか? 
 ──正式に突発性難聴と診断されたことで、自分の意識には多少なりとも(良きにつけ、悪しきにつけ)変化が生じました。本日ここでお伝えしているライター稼業の停止や読書ブログの開設検討はその一端であり、そうして変化によって生じた暗鬱を退けるための希望であります。荒海を航海してきた船が頼りとすがる灯台の明かりであり、どこの海にいても船を導いてくれる北極星に等しい希望であります。生涯の希望を手に入れることの困難、もしくはそれの事実上の不可能を予見しているいま、わたくしはそれにすべての望みを託すことしかできないのです。
 でも、これも天の配剤。もし<試練>と呼ばれる類のものならば、却ってそれを楽しみましょう。神様からの贈り物……他人が経験できないことを経験して、人間として更に寛容で懐の深い、天に富を積む者となりなさい、というメッセージのこめられた神様からの贈り物、と思うことに致します。
 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタ6:21)◆

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第2395日目 〈江戸川乱歩『パノラマ島奇談』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『孤島の鬼』を読み終えたことで、帰りの電車のなかで読むものがなくなった。夢想のネタもないいま、それは耐え難い時間の過ごし方だ。読み終えたものを読み返せばいいではないか、だって? ああ、そうだな、至極まっとうな意見だ。然りだ。但し、帰りの電車のなかで読み終わり、まだ乗っている時間があるのならな、勿論そうしている。が、会社の休憩室だったか退勤後のビルのエントランスだったかで巻を閉じて、乱歩メッチャ面白いじゃん! と脳みそが沸騰している状態のわたくしに斯くも冷静かつ常識的な判断を下すよう求める者が、果たしてこの世のどこにいるであろう?
 わたくしは乱歩の小説から受けた酩酊と興奮を抱きながらなかば夢遊病者の如く歩いて、10メートルちょっとの場所にある大きな新刊書店へ迷い入ると、車中読書用の『パノラマ島奇談』(春陽堂 江戸川乱歩文庫)と、新潮文庫版短編集のあとで読む心づもりの『人でなしの恋』と『算盤が恋を語る話』(共に創元推理文庫)を買うてきた。松井玲奈主演ドラマの原作となった中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)とW・H・ホジスン『〈グレン・キャリグ〉号のボート』(野村芳夫・訳 〈ナイトランド叢書〉書苑新社)を一緒にして。
 思えば『パノラマ島奇談』程、導入と結末が人口に膾炙した乱歩作品もないのではないか。読まずともキモが知られている推理小説といえば、コナン・ドイルの「まだらの紐」とアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』がリストの筆頭候補であろうけれど、『パノラマ島奇談』もそこへ加えて構わないだろう。もっとも、『パノラマ島奇談』を<推理小説>というてよいものか、わかりかねるのだけれど。勿論、わたくしも『パノラマ島奇談』がどのように始まり、どのように終わるかは事前に知っていたクチである。にもかかわらず、この度初めて通して読んでみたこの作品は、じゅうぶんに楽しむことができた。楽しめたのだけれど……実はまるで楽しめなかった部分、退屈だった部分、読み飛ばそうかなぁと考えさえした部分も、それなりにあったのである。
 おそらくこれをいうと四方から中身の入った缶詰が飛んでくるような気がするのだけれど(缶切りをセットで投げてくるなら、そうして賞味期限内であるならば、まぁ受け取るに吝かではない)、それは主人公にしてパノラマ島の創造主、菰田源三郎と千代子夫人が島に上陸して目にする、数々の奇観の描写のことなのだ。読んでいて心が躍ることも琴線に触れるような箇所もほぼ皆無なる点になかば失望、なかば呆然としたのである。前者は作品に対して、後者はわたくし自身に対して。
 世の多くの乱歩好き、或いは乱歩の洗礼を浴びた人々と同じように、小学生から高校生ぐらいまでの時期にこれを手にしていたならば、もっともっと熱狂していたことだろう。莫大なる富の殆どすべてを注ぎこんで人外境へ己の理想郷を建設する、そのファナティックな情熱に打たれて、すくなくとも一時期の愛読書、握玩の書となっていたことであろう。が、いまは駄目だ。件の描写が続く間、心が作中に遊ぶことはわずかで、他のことばかり考えていたとはけっして衒った態度ゆえではない。
 それはなんだったのか、と質す勇気ある者あらば斯く答えよう──この人、これだけのパビリオンを造ったはいいが、維持費やメンテナンス費のことなんてまるで考えてないよね、困るわぁ、こういう施主──。その心配は的中する。物語が進み、探偵北見小五郎の登場するに及んで遂に現実となり、……思わず嘆息。菰田源三郎こと人見広介はのうのうと曰うのだ、資産もあと1ヶ月ぐらいしか保たないんだよね、と。ああ、もうバカ! 嗚呼、なんたる大馬鹿者! と最大級のフォントを用いて糾弾したいぐらいだ。
 でも、最後まで読んで巻を閉じたいま、これで良かったのかもしれないな、と思う。作品としてではなく、かれの人生として、である。人見広介はあくまで自分の理想郷をこの世へ現出せしめたかったのだ。自分の、自分による、自分のための理想郷、即ちパノラマ島の造営。かれは一度それを現実のものとしたならば永続させるつもりはなく、機を見て相応しいときに理想郷での生活に幕を閉じ、理想郷の閉鎖を目論んでいたのではないか。そう考えれば、たとい作中では真相の露見の末と雖も斯くの如き幕引きを、かれは遅かれ早かれ実行したのではなかったか。人見広介が思い描いた終わり方の理想、その美学は、どのようなコースを辿ろうともあの花火に帰着したことであろう。
 斯くして、読者諸兄よ、以上わが『パノラマ島奇談』初読後の思いを倩述べた。幸いとそこには嘘も偽りもない、取り敢えずこのあとは同書に収められる残りの短編を部屋の隅っこで丸くなりながら秋の虫の声、そぼ降る雨の音をBGMにして読むことにする。前述したようにこのあとも4冊の短編集が控えているから、なにかの拍子に乱歩の話題が出ることもあろう。その才は、どうかあたたかく迎えてほしい。では、さらば。◆

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第2394日目 〈探偵小説よ、わが前に扉を開けよ。〉 [日々の思い・独り言]

 冷静に考えるまでもなく、わたくしは所謂探偵小説というものに冷淡であったように思う。代表作かどうかは別として、著名な探偵小説作家の1編か2編は読んでいながら、それを体系的な読書に発展させてゆくことも、誰彼構わずとにもかくにもそのジャンルを読み漁り読み耽ることも、なかった。
 さりながら、それまでの探偵小説への冷淡な態度はちかごろ徐々に軟化してきておるな、と自分でも感じることがしばしばだ(ほぼ同時発生した時代小説への関心と異なるのは、時代小説が一種の回帰であることだ)。その兆しは何年前からか既にあり、知らず芽吹いて育って爆ぜるのを待っていたのである。
 爆ぜる実があるということは蒔かれた種があるということである。蒔かれた種とは、江戸川乱歩に他ならない。ああ、読者諸兄よ、覚えておられようか、乱歩の『孤島の鬼』を読んでいる、と先達てお話ししたことを。実は今日、本稿の筆を執る直前に読了した。おそらく帰路に読むものはないだろう、とわかっていながら新潮文庫の短編集を持参しなかったのは、われながら迂闊であった。そこでわたくしは職場近くの古本屋と新刊書店に退勤後駆けこんで、乱歩の中短編集を3冊買ってきた(プラス・アルファあり)。これなん即ち乱歩にハマったことを意味し、ひいてはかつてわたくしが冷遇して看過してきた日本の探偵小説の扉を厳かに叩き、平家の落ち武者よろしく「開門」と請うたことを意味する。
 本格的な歩み寄りのきっかけは確かに乱歩だ。そうしてその道筋を示してくれたのは、わたくしが個人的に知るなかではいちばんの読書家である何某であり、『ビブリア古書堂の事件手帖』第4巻であり、陣内孝則扮する明智小五郎だったのである──かれら偉大なる水先案内人に感謝、敬礼。
 かれらの導きでいま、わたくしは乱歩に囚われているわけだが、ここから先のしばしの読書の道筋はだいたい見えている。己の性格を思えば斯くなるあるらん、と。過日お話ししたことの繰り返しになるかもしれないが、気掛かりの1つである横溝正史(すくなくとも「本陣殺人事件」と「百日紅の下にて」を以て)弾みをつけて、そのあとは熱に浮かされたような気持ちで、そうして時間をかけて、夢野久作や坂口安吾、海野十三などへ進み、途中断続はあるに相違ないが、長くこのジャンルを読んでゆくことになるだろう。
 そうして──わたくしのことだからまたぞろ探偵小説の執筆を企てるのだろう。で、トリックやらプロットやらが面倒臭くなって(橋本治の『徒然草』に倣えば、ワケワカンナクナッテクンノナ!)、それを書き記したノートを閉じて筐底にしまいこんで忘れてそれっきりになるのだろう、きっと。
 それでは本日のまとめ。歴史は巡り来る、出会いは繰り返される。今般に於ける探偵小説とわたくしの邂逅と耽溺はその証左である。◆

 追伸
 明日は江戸川乱歩『パノラマ島奇談』の感想だよ。□

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第2393日目 〈好きならば、その想いは伝えるべきである。〉 [日々の思い・独り言]

 エッセイをパソコンで書くのは久しぶりである。ゆえに、というべきか、なにを書いていいのかよくわからずにいる。
 武田綾乃『響け! ユーフォニアム』のことを書こうと思うたけれど、やめた。なぜならば今月からAT-X他にてパート2が放送される話題に乗っかるようで嫌だからである。第1シーズンがMXで放送されていたときリアル・タイムで観ていて、面白いぞ、とアニメ好きの同僚にも勧めてまわり、さりながら今春上映の劇場版は観逃して、そうしてアニメ化の報を聞く前に原作にも手を着けていたにもかかわらず、わたくしが『響け! ユーフォニアム』についてなにも語ろうとしなかったのは、怠惰のみならず吹奏楽未経験者が感想にもならぬ感想を認めることの愚を言い訳に筆を投げたからに他ならない。
 でも、それは言い訳なんだ。詭弁だよ。指を指されるまでもなく、自分でわかっているさ。未経験であろうと経験していようと、好きなものについて語るときに経験の有無は確かに大きなバックボーンとなり、強みとなるだろうけれど、それはけっして有資格ではない。先頃亡くなった音楽評論家、宇野功芳の言葉であったと思う。曰く、クラシック音楽評をする人間がみな楽譜を読める必要はないでしょう、と。
 ──わたくしはこの言葉をたぶん『レコード芸術』誌で読み、これまでやや後ろめたさというか、クラシック音楽が好きでずっと聴いてきて、機会をいただいてレヴューまで偉そうに書く立場にあったにもかかわらず楽譜が読めないことにコンプレックスを感じて、小さな楽器店で楽譜の読み方なる教本とそこで紹介される楽譜、当該作品のCDを購入して勉強すれどいっこうに捗らない、自分にこの方面の知識を基本中の基本でさえ習得することは困難なのかしらん、なんて引け目を感じていたのだけれど、件の音楽評論家の言葉を読んだ際に救われた気分がした、といえば、ここまで読んでくださった読者諸兄は首肯してくださるであろう、と信じる(ここまでワン・センテンス)。
 当時もいまも変わることなく、ずっと吹奏楽のCDを聴いている。往時に較べれば格段に量は落ちたけれどね。併せて雑誌や書籍を読むことも続けていた。<お勉強>という意識はまったくなく、ただ<好き>という純粋なる感情からだ。他人へ口外するのを憚れる、甘酸っぱく濡れそぼった思い出を伴うので詳細どころか塵芥程も書くのは控えるが、その純粋なる<好き>という感情が芽生えたのは、まぁ人との出会いだよね。さる人物との出会いがきっかけで、わたくしは吹奏楽に興味を抱いた。当時は自分の周辺に、吹奏楽に興味がある、と口走ると閉口するぐらいの勢いで煽ってくる人が何人となくいた職場──都内は山手線沿線にある某メガストアである──だったから、時間があれば資料も新着ソフトも自ずと横目でチェックすることのできる環境にあった(勿論、担当者の機嫌を損ねない程度にね)。即ちわが吹奏楽への関心は然るべき環境で育まれ、そこから離れたあとも奇跡的に持続されたのである。
 過去にも書いたことだが、吹奏楽に興味を持った頃にいちばん聴きたかったのは、ジールマンの《チェルシー組曲》だった。が、これの音源は極めて少ないようで、当時は1人の指揮者が録音したものしか見附けられなかった。が、LPで発売されたそれがCD化されたという情報はなく、吹奏楽の掲示板で知り合った方がご提供くださったカセットテープで無聊を慰めるよりなかった……事態が好転したのは4年程前である。
 山田一雄が往年に指揮、録音した吹奏楽オリジナル曲のLP3枚がCD2枚組となってタワーレコードから復刻されたのだ。ここに件の曲は収録されていた。その事実がなければわたくしは仕事帰りに、閉店間際のかつての古巣に駆けこんでこのディスクを買うこともなかったであろう。帰宅して昔を否応なく思い出しつつもその演奏に耳を傾け、かっこいいなぁ、なんとなく『サンダーバード』に似ているなぁ、なんて思いながら数回、そのあとで再生した覚えがあるね。その後、徐々に他の曲も《チェルシー組曲》と同じような聴き方をして耳を馴らし、好きになっていった。でも、これとてオリジナル曲の場合である。編曲だとどうしても原曲の方に想いが傾き、アレンジされた版を奏でる吹奏楽に抵抗を感じたりするのは、いまも昔も変わらぬ気持ちである。きっと吹奏楽に編曲されたベートーヴェンの第5交響曲がトラウマになっているんだろうなぁ。
 さて、ここまでの吹奏楽の話はすべて余談だ。お読みいただき、ありがとうございました。
 そろそろここで武田綾乃『響け! ユーフォニアム』にまつわる話を書くべきなのかもしれないが、やめておく(ん、デ・ジャヴ?)。アニメの第1シーズンがただいまスカパー! の日テレ・プラスにて平日午前0時から2話連続で放送中、既に折り返し点をまわって地区予選に向けた真剣勝負が始まったところだ。勿論、毎日これを観るのが楽しみなので渋々会社に行っているという事情こそあれ、アニメ・シリーズ全体であれ1話毎であれ、感想の筆を執ることはないだろう。というか、どのように書いていいのかわからない、というのが本音。餅は餅屋に、とは先程自分で曰うた台詞に反するけれど、越境は時によって大きな火傷を伴う行為である、と知れば、おいそれと軽率に足を踏み入れることは殆どなくなるであろう。経験者? 大当たり!
 が、本当に好きなアニメならば、大いに筆を揮ってわが心情告白を文章で書き綴っても宜しかろう。そこに『響け! ユーフォニアム』は含まれる。事の序でにいえば『ラブライブ!』(無印)も『宇宙戦艦ヤマト2199』も『重戦機エルガイム』も『キャプテン・フューチャー』も『くまのプーさん クリストファー・ロビンをさがせ』も、大いに筆を揮ってわが想いを綴りたい作品であるものだ。そう、好きならば書くべきなのである。好きならば伝えるべきなのである。かつて『ヱデンズ・ボウイ』のヒロイン、神属の1人エリシスは後日譚の小説でこういっている、「言葉にして伝えなくてはならないこともある」と。まさしくその通りだ。自分の思惑と異なる結果が帰ってくることを恐れるべきではない。
 と、本来の帰着点にようやく達したところで、本稿お開き。擱筆。
 ナポレオン曰く、ゴールさえ見失わず、そこへ着実に進むならば、どのようなコースをとろうが関係ない、と。正確なところは当然よく覚えていない。渡部昇一の本からの孫引きである。許せ。◆

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第2392日目 〈『ザ・ライジング』第1章 13/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 深町家の居間で希美の母が、ビールを飲んでいる夫に向かって、なんで希美に「おめでとう」っていってあげなかったのよ、となじられ、後の祭りと後悔しながら、今度会ったときは忘れずにいうよ、とうなだれたのとほぼ同じころ、三島駅北口から歩いて十分ばかりのところにあるマンション、クレイブホームズ三島長泉町弐番館の五階の、ある部屋の手摺りに一羽のカラスが羽を休めようと留まった。その目はカーテンの引かれた窓へ向けられている。ペアガラス窓とオレンジのドレープカーテンの向こうでは、森沢美緒が壁に対して寝息を立てていた。
 美緒は夢の中にいた。
 誰かと誰かが人気のない石造りの塔の頂上を目指していた。壁に沿って設けられた螺旋階段を、声を交わすこともなく一段一段を踏みしめて歩いている。塔の中は冷えきって、少しでも体を動かしていなければたちまち凍ってしまうのではないか、と訝しみたくなるぐらいだった。二人は頭からすっぽりと頭巾をかぶり、表情は覗きこまねばわからないぐらいである。頭巾は肩から足許まで、弧を描くように垂れており、階段を一歩登るたびに裾がめくれた。
 進む先が明るくなってきた。後ろの者がそちらを見やったが、口許にはなんの表情も浮かばなかった。最後の一段を登ると、少しの飾り気もない小部屋が一つ、あるきりだった。回廊と異なっているのは、壁に一カ所、約四〇センチ四方にくりぬかれた窓があり、そこから外の世界が見晴らせることだった。しかしそのわずかな空間も、立てに鉄格子がはめこまれ、ほんのわずかでも頭を出して巡らせることはできなかった。
 部屋のほぼ中央に向かい合って立つと、二人はあたりを見回して、どちらからともなく抱き合った。衣擦れの音が、小さく聞こえた。顔が近づき、唇が触れる。舌が淫靡に絡まり、掌が相手の体を這ってゆく。床へ折り重なるように倒れ、上になっていた者が組み敷いた相手の衣の胸元をまさぐり、はだけさせた。小さな乳房があらわになり、上の者はもう固くなっている乳首を口に含んで、吸った。引き裂くように衣を脱がせ、指と舌は徐々に股間へ降りてゆく。薄い草むらを指の腹でさすり、舌で舐めあげる。さすがに相手の反応があり、彼の者は荒々しく相手の秘めたる聖域を汚しにかかった。やがて、脚を開かせて股間に顔を埋めていた人物が、満足げな笑みを口許にたたえながら、自分が意のままにしている相手の顔を見ようと、ゆっくり頭をあげた。その顔は森沢美緒に他ならず、彼女は相手の名前を、あたかも慈しむかのような口調で囁いた。そっとほほえみながら、「希美ちゃん……」と。
 ――目が覚めてみると、頬と枕が涙に濡れていた。耳たぶや髪まで湿り気を帯びている。美緒は体を横にしたまま、手の甲で拭い、指先で髪を払って、頭を少し動かして枕の濡れた部分から離れた。目を閉じ、また開く。視線が吸い寄せられるように、机の上の写真立てに向けられた。〈旅の仲間〉四人で今年の夏に港へ出かけたときに撮った写真だ。いちばん左端に美緒がいて、その横に希美がいる。涙が一条流れ落ちた。下唇を噛んだ。
 なんであんな夢を見てしまったんだろう……もう見ちゃいけない夢なのに。想う人の幸せのために、けっして見てはいけない夢を見てしまった。でも――、
 「諦められないよ、希美ちゃん……」
 美緒は目をつむった。ときどき肩を小刻みにふるわせ、か細い泣き声をあげながら。
 枕許の時計の針は、四時四十八分を指していた。◆

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第2391日目 〈『ザ・ライジング』第1章 12/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 弱々しい緑の光が、視界の端を彩っていた。ユニゾンの男声合唱がかすかだが、しかしはっきりと希美の耳に触れた。こんなCDかけた覚えないよ、私。持ってないもん。それに……。希美は固く口を結んで寝返りを打ち、布団を肩がすっぽり隠れるぐらいまで引きあげた。合唱に女声が加わり、厳かに金管の調べが響き渡った。ホルンが歌っている。あ、これ……。
 モーツァルトの《レクイエム》だ。
 夢うつつの境界をさまよいつつもゆっくりと、時間が流れているこちら側の世界へ引き戻されかけているとき、いま部屋に流れているのが誰の、なんという曲なのか、思い出した。なんでよりによって、《レクイエム》? モーツァルトなら他の曲でもよかったじゃない。それこそ《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク》とかピアノ協奏曲とか、それとかそれとか……。
え、と希美はふと、考えを巡らせた。
 ――誰がこれをかけたの? 誰がこれを聴いていたの、私以外の誰が?
 そして、
 なんで私、ベッドで寝てるの?
 布団を剥いでベッドに起き直った。裸ではなかった。パジャマを上下、ちゃんと着ている。なんの気なく右手でお尻を触ってみた。パンティのラインが掌に感じられる。自分で着たのだろうか? ぜんぜん覚えていないけれど、でも、他に着せてくれる人はこの家にはいない。それに私、お風呂場で気を失ったはずだ。誰がここまで連れてきてくれたんだろうか。――ママ? そうなのだろうか……。
「希美、大丈夫かい?」
 優しい響きの男の声が、すぐそばでした。希美にとっては忘れられようはずもない声。張りがあって奥行きのある、それでいて甘やかなバリトン。
 「――パパ? そうなんでしょう?」
声のする方向へ首を巡らせる。少し離れたところであぐらを掻きながら、その声の主は希美を見ていた。
 部屋は闇に包まれていた。ラジカセのパネルから発せられた淡い緑光だけが唯一、文字通り部屋に色を添え、家具や声の主の輪郭を浮かびあがらせている。
 声の主ははっきりとは見えない。
 「パパでしょ?」
 「ああ、そうだよ。心配していたけど、なんだか元気でやっているようで安心したよ」
 父の影は立ちあがり、希美の手に自分の手を重ねた。ぬくもりのある、大きな手だった。途端、思い出があふれかえってきた。
 「カラ元気だよ。押し潰されちゃいそう」
 「あんな形で君と別れるなんて思わなかったよ。いつもね、ママと話しているんだよ」
 「――なにを?」
 「希美とまた三人で暮らせるようになるには、あと何十年ぐらい待てばいいんだろうね、って。どう、なんだったらこっちに来るかい?」
 自分の顔の強張るのが、はっきりとわかった。そりゃ一緒にいたいとは思うけど、でもちょっと待って。私にだって心の準備ってものがね、パパ――。
 すると父は笑って、「ごめんごめん、冗談だよ。そんなこと話し合うわけがないだろう?希美はね、寿命を全うしてからこっちへ来ればいいんだよ」
 「もう! パパの意地悪!」
 頬をふくらませて口許には笑みを浮かべながら、希美はもう一方の手で父の胸のあたりを叩いた。いや、叩いたつもりだった。手はなにものにもぶつかることなく、空を切った。でも、掌のぬくもりは確かに感じている。
 それに気づかぬ様子で父は、
 「でも、あんな格好で死ぬのだけはやめておくれよ?」
 たちまち顔が真っ赤になった。――パパ、私の裸見たんだ!?
 「んーもう、パパのドスケベ!! ママに言いつけてやるから!」
 そして、二人の笑い声が約二ヶ月ぶりに、この部屋に満ちた。
 ちょっとあって、居間から鐘の音が四つ、壁越しにかすかに聞こえてくる。
 「さ、もう寝なさい。あと少しで夜明けだ。明日も学校でしょ?」こくん、と希美は頷いた。「じゃあ、もう寝なきゃ」と父が言った。
 「……どこにも行かないで」パジャマの乱れを直してベッドに潜りこみながら、父にそうねだった。
 父の大きな手が額に置かれた。
 「いつでも君を想い、見守っている。いつもそばにいるからね」
 ママも同じことをいってたな。雑誌の心霊特集に出ていた守護霊って、本当にいるのかもしれない。ううん、自分には確かにいる。私を生み、育ててくれた人達。私をいちばん愛してくれていた人達が、守ってくれている。うん。いつでもどこでも。――そう思うと安心して、急に眠気が押し寄せてきた。
 「ありがとう、パパ、ママ……」父が頷くのを感じて、希美は目をつむった。「さっきね、ママに会ったんだよ……」
 「うれしかったろうね?」
 返事はなかった。まだあどけなさが残る娘の寝顔を見て、まだ子供なんだよな、いくら大人びてきたとはいえ。そう思う父の口許に、笑みが静かに浮かんだ。
 しばらくベッドの横にいて、希美が生まれた日から最後の別れの日までを思い出していた父は、娘が完全に寝入ったのを確かめると立ちあがり、身をかがめて額に口づけた。
 「おやすみ、希美。君がどこにいようとも」
 ドアのそばにいる妻と目が合い、ほほえんだ。その肩を抱いて、しばし一緒に娘を見やった。そうして眠っている娘を起こさぬように、後ろ手でそっとドアを閉めた。□

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第2390日目 〈『ザ・ライジング』第1章 11/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 息を呑んで、声のした方へ振り返った。幻聴であるはずがない。でも、あり得ない。
 湯船の反対側に母がいた。娘と同じく黒髪を頭の上でまとめ、タオルで巻いている。十七年見馴れたふっくらとした母の顔。目尻に少しばかりの皺こそあれ、それが却ってもとより母の持っていた上品さとしとやかさに磨きをかけていた。豊かな胸のふくらみが、湯に浮いている。
 「どうしたの、のんちゃん? ママじゃないの」小首を傾げながら娘を見つめる母は、両腕を希美の方へ差し伸べた。「こっちにいらっしゃい。お話ししましょうよ」
 ママがいるわけがない。そう思いながらも、目の前にいるのがたぶん幽霊というやつなのだろう、とわかっていながらも、体は抗うことなく、母へ寄っていった。
 「ほんと、この浴槽広いわよね」と娘の肩に手をかけて母がいう。
 「パパがこだわったから」
 「覚えてるんだ? ねえ、パパのいちばん大好きな場所だったし」口許をほころばせながら母がいった。
 希美は顔をしかめた。なんだろう、この匂い。
 それ以上考える間もなく、母が呼んだ。「オーディションはどうだったの? 彩織ちゃんと応募した、あれ」
 「うん。さっき彩織から電話があってね。今日が国民投票の上位十人の発表だったの。そうしたらね、私達二人ともその中にいたんだよ!? ぜんっぜん信じられなくって、いつもの彩織の冗談かと思っちゃった。怒られたけどね」
 喋っているうちに興奮してきて、思わず息が詰まった。母は一瞬たりとも娘から視線をそらさず、頷きながら聞いていた。「でもね、十人に選ばれたんだよ。彩織は最初から歌手になりたい、っていってたから違うんだろうけど、私はなんだかもうここまで来られただけでいいや、って感じなんだよね。けど、十人ってすごいよね。何万人も応募してきてそのうちの十人なんだもん。なんだかうれしい、っていうよりもまだ信じられないよ。彩織が今日のヴィデオ、明日貸してくれるっていってるけど、それ観てもまだ信じられないと思うんだよねえ」
 邪気のない笑顔で話す娘の頬を撫でながら、母の目から涙が一条流れ、湯に落ちた。
 ほぼ同時に浴室の隅っこで、パチャ、っという音がした。なんだろう。希美は音のした方へ目を向けた。タオル掛けからタオルが一枚、床に落ちているのが見えた。あの音か。
 「ねえ、のんちゃん」
 母の呼びかけに答えようとして、ためらった。さっきと同じ匂いがまた鼻をついたからだ。今度はすぐに消えそうもない。
 「希美?」
 ううん、と首を振りながら母の方へ向き直る。母はいなかった。いや、正確にいうべきか。生前と変わらぬ姿で希美の話を聞いていた母はいなかった。代わりに希美に対坐していたのは、顔の半分が焼けただれて赤黒い肉に髪がざんばらに付着した、片眼がねばつく筋を引きながら内側へめりこんでいる、この世の者ならざる姿をした母だった。顔のもう半分は頭蓋骨ごと砕けて脳髄や神経が枯れ木の枝のように乱舞していた。首や肩も、ある箇所はめくれてひくついている肉を見せ、ある箇所はぽっかりと穴が空いている。ところどころにガラスや板の破片が突き刺さっているのが見えた。
 異類の姿を目の当たりにしても、希美の口から悲鳴や絶叫はあがらなかった。超自然の存在と正面より向き合ったときは、得てしてそんなものだ。確かに喉もとまで目の前の異類を否定する叫びは出かかっていた。全身を縛っている恐怖が解けたら、ためらいなく叫んでいたかもしれない。半分開きかかって小刻みに震えている口許を見れば、きっと誰しもそう思っただろう。しかし、いま目の前にいるのはどれだけ姿が違っていようとも、自分の母親であることに変わりはなかった。希美にとっては自分を生み、育て、慈しみ、愛してくれた“大好きなママ”。時には厳しく叱り、時には優しく抱きしめてくれたママ。
 「ママ……」
 おそるおそる手を伸ばしてみる。母の表情がちょっと変化したように思えた。なんとなくそれが希美には、ほほえんだのだ、とわかった。頬に熱い雫が垂れてゆく。一人でいて淋しくなってもこらえていた涙がしとどにあふれてきた。涙のせいか、目の前がかすんでくる。
 「なんで死んじゃったのよ……」
 母の、ほんのお情け程度でしか肉の付いていない指が、差し伸べてきた希美の指に絡まった。互いの愛情を確かめるように、掌を重ね合わせた。そしてただれた左腕が希美の背中にまわされ、抱き寄せた。それに抵抗することもなく、希美は母の両腿の間に割って入り(しげしげと眺めて確かめたりはしなかったが、ざらざらとした肌触りを、脇腹や掌に感じた)、焼け焦げて肉のただれた胸元へ、下唇を噛み、目をつむり、顔を埋めた。ふしぎとそこは、あたたかかった。
 そうだ、私はこの人のここで育ったんだ。
 やがて希美はさめざめと泣き、より強く母の胸元へ顔を押しつけた。懐かしい思いがこみあげてきた。
 「なんで死んじゃったの……?」
 「一人にしちゃってごめんね。パパもママもそんなつもりじゃなかったのよ。――希美に淋しい思いをさせちゃって、ごめんね。でもね、のんちゃん。これだけは覚えていて。私達はいつでもどこでもあなたを想っているし、見守っている。大丈夫、希美は強い子だもの。きっと……は……生きて……愛してるわ」
 そして、母は消えた。
 いや、行かないで、ママ。ずっとそばにいて。私にはパパもママも必要なの。だから帰ってきてよ……。私だって話したいことはたくさんあるんだから……もっといて、行っちゃやだ。ママ、もういちど出てきて。
 「お願い、私を一人にしないで……」
 浴槽の縁に左手をかけ、前屈みになった上半身を支えるため、拳にした右手を浴槽の底に押しつけた。ほどけた髪が顔の横や肩へ垂れ、毛先が湯に浮かんだ。涙が頬や鼻の頭をぬらし、音を立てて落ちた。「もうひとりぽっちはやだ。一人にしないで、お願いだから……」
 刹那の後、全身から力が抜けた。右肘ががくんと折れ、左手が滑って湯の表面を打ち、体全体が前のめりになって、頭が湯に沈んだ。
 自分でも意識が遠くなってゆくのを感じる。ゴポゴポ、っという音が耳のそばで果てしなく続いた。気のせいか、湯水に塩の味がした。目の前に黒い雲が漂ってき、やがて人の姿となった。長い衣を頭からすっぽりとかぶっている。それが希美を手招いていた。しわがれた声でその者が笑う。その背後から聞き馴染んだ声が、自分を呼んでいた。
 希美は顔を湯に浸けたまま、気を失った。□

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第2389日目 〈『ザ・ライジング』第1章 10/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 背筋を寒気と怖気が走っていった。鼻息が荒くなり、肩がけいれんするような感覚を覚えた。視線がうつろになってくるのがわかる。口も半開きになりかけていた。
 頭を振って固く目を閉じ、念仏を唱えるように何度となく口の中で呟いてみる。それが護符である、とでもいうように。目をつむってしまえ、そうすれば次に目蓋を開いたときには怖いものはいなくなっている。
 あまりに固くつむっていたせいか、目を開けるとしばし立ちくらみにおそわれたが、洗面台の縁を手で掴んでよろける体をどうにか支えた。知らぬうちにやや呼吸も乱れていたらしく、息を吸っては吐く音がはっきりと聞こえる。下に落としていた視線を、再び鏡の中へやった。
 今日洗う必要なんてないよ。だって毎週水曜日の夜に洗濯してるじゃない。明日するのよ? 学校が終わって帰ってきたら、すぐにやればいいだけのことじゃない。
 「そうだね」と希美はいった。「予定は乱しちゃいけないよね」
 希美はジーンズとパーカーを脱いでたたみ、脱衣カゴの上に置き、下着をドラム缶の中に放りこむと、浴室のガラス扉を開けた。希美の裸体の輪郭が艶めかしく光り、やがて見えなくなった。

 艶めいた黒髪を結いあげてほどけないようにまとめ、丁寧に体を洗い終えると、湯船へ体をゆっくりと沈めた。頭の上でぶんぶんと唸り声をあげている浴室乾燥機の音をなるたけ無視して、目を閉じて耳をすましてみた。街路を駆け抜けてゆく風は帰宅したときよりも、さっき外の鍵を確認したときよりも、ずっと荒々しくなってきたようだ。いやだなあ、と独りごちた。公園から舞ってきた葉っぱがきっとガレージや門のところに吹き溜まって、否応なしに掃除しなくちゃならなくなるんだよね……。
 ぼけっと壁のタイル地を眺めながら(継ぎ目の汚れがめだっているところがあった。大掃除の前に洗剤で落としておいた方がいいなあ)、今度のデートのことを考え(どこに連れてってもらおうかな、横浜でしょ……お風呂からあがったら、ママ達の部屋に横浜のガイドブックがあったな。少し前のやつだけど、それを見てみようっと)うつらうつらし始め、くしゃみが出た。
 そろそろ出なきゃ。のぼせちゃう。――あ、歯磨き。
 (「希美が真似したらどうするのっ!?」母が夫に諫めた。父にいわれて体をごしごし洗っていた小学二年生の希美が、浴室の扉を開け放って仁王立ちし、腰に手をやってこちらを見おろしている母を、どうかしたの、とでも言いたげな目で見つめた。が、母の視線は自分ではなく、父に向けられていた。父は、浴槽に腕をかけ、上半身を乗り出すようにして、歯を磨いている真っ最中だった。歯ブラシを動かす手を休め、泡でいっぱいになった口を開き、「ぼふがじだのがひ?」と訊ねた。夫の間の抜けた声と顔をまともに正視するのは無理だった。母は破顔一笑した。床に笑い転げることはさすがになかったが、夫を指さし、文字通り腹を抱え、目から涙を流しながら大笑いした。つられて希美も吹き出した。笑いの元凶たる父も口の中の泡をたらふく溜めたまま、笑い出した。親娘三人の笑い声が、家全体をリフォームしたときにそれまでより広くした浴室に響いた。三人の幸せに満ちあふれた笑いは、「っくちょん」という希美の小さなくしゃみでひとまず幕となった。「希美とお風呂に入るときは歯磨くのやめてよね」とガラス扉を閉める際に、母が釘を刺したのを、希美はいまでもなんとなく覚えていた)
 確かにあれからというもの、父は希美と一緒に風呂へ入っているとき、歯を磨いたことはない。が、その光景はしっかりと希美の脳裏に焼きついてしまっていた。一人で入るようになってしばらくすると、歯ブラシセットを持ちこんで浴槽の縁に腕をかけてぼんやりととりとめのないことを考えながら、歯を磨くことが習慣になってしまった。母に見咎められても懲りることなく、それはいつ如何なるときでも続けられた。せいぜい学校行事や部活の合宿でどこかへ泊まったりするとき以外は、その生活原則が破られることはなかった。彩織にからかわれることがあっても、やめなかった。
 今度からクリスマスもお正月も誕生日も、なにもかも一人で過ごすのかあ……。〈旅の仲間〉やあの人がいるとはいえ、はあ、淋しいなあ。
 ふいに目頭が熱くなり、指で両眼を拭った。鼻をすする。
 途端、なんだか懐かしい気配を感じた。甘くてやわらかい、あたたかくて優しい、まるで春のそよ風を思わせる気配。浴室に満ちていた湯気が、すうっ、と引いてゆく。しゅう、という音がして、忘れようはずのない声が耳を撫でた。そう、はっきりと聞こえた。幻聴であるわけがない。でも――。歯ブラシが手から滑り落ちて、床に転がった。コトン。
 「希美――どうしたの? 心ここにあらず、って感じだったよ?」□

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第2388日目 〈『ザ・ライジング』第1章 9/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 いちど外へ出て(折から吹きはじめた横なぶりの強い風が、パーカーのフードをあおって耳にあて、髪を乱した)、門扉がちゃんと閉まっているのを確認すると中へ戻り、壁の窪みに新しく設けたセキュリティシステムを“ON”にして、開口部のすべてに取りつけてある対人センサーを作動させた。これで侵入者対策は、万全とは言えないまでも、日常の安全は確保された。なにかあればたちまちのうちに警備会社と父が嘗て勤務していた沼津警察の面々が、いざ鎌倉とばかりに馳せ参じてくる。未成年の女の子の一人暮らしを守るには、これだけやってもまだ足りないぐらいだよ、と静岡の叔父はいっていた。ここで一人暮らしを始めてさして日数を経ていない平日の昼間、家の前を行きつ戻りつして周囲をこそこそ見渡し、背を伸ばして塀の中を覗きこみ、写真を撮っていた男がいるのを、向かいの家の老婆が見つけて、警察に通報したことがある。希美の両親が亡くなって以来、このあたりは特に念を入れてパトロールしている、公園の向こうの派出所の警官が自転車で駆けつけ、この不審者を問答無用で取り押さえた。カメラをまずは没収して尋問しようとすると、男は警官の腕を払って公園の方へ逃げかけた。事実、そこから数メートルは逃走した。が、いきなり反対側から応援がやってきたのに泡を喰って、足を絡ませて転び、その場で御用となった。不審者がいうには、そこで葬儀が出たのは知っていたので、もしかすると香典がまだ家のどこかにあるのではないか、と考えてのことだったようだ。その強盗未遂事件を契機に、希美は叔父や父の嘗ての同僚達の意見を受けて、自宅の境界や開口部に安全対策の工事を施した。以来、家を留守にするときはもちろん、夜になるとセキュリティ・システムを作動させ、それを怠ったことはなかった。
 居間の電話が鳴った。静寂を破った甲高い着信音に思わずびっくりし、背筋がぴんと伸びた。振り返って電話を見やるのと、音がやむのはほぼ同時だった。
 間違い電話だったのかな?
 近づいてディスプレイを見てみた。〈着信あり 0;21 非通知〉とあった。疑問の解決には役立ちそうもない。でも、登録している誰彼ではなさそうだ、と希美は思った。 お風呂入っちゃおう、っと。そう低い声で呟くと希美は自分の部屋から下着とパジャマを持って、TOKIOの《花唄》を口ずさみながら、浴室へ足を向けた。

 一人で生活するようになっていちばん思い知ったのは、如何に母が時間をうまくやりくりして効率よく家事を済ませていたか、だった。この二ヶ月で否応なく家事のすべてをやるようになって、特に意識するでもなく家事の進め方、順番は母のそれと酷似するようになり、迷いが生まれれば誰に相談するより前に母ならどうしていただろうか、を考えるようになった。思い出の一つ一つを吟味し、辛抱強く解決につながる記憶を探し続けた。けれども、子供のころから家事を手伝っていたのが幸いして、一歩間違えば哀しみの泉に手を突っこみかねないその作業も、さして時間を要することなくピリオドを打つことができた。
 たとえばいま悩んでいるのは洗濯のことだった。今日は火曜日、昨日の分と今日の分で特別まだ溜まっているわけでないし、あんまりこまめにやるのも却って不経済だよね。……別に無精しているわけじゃないよ。面倒くさくて溜めてるわけじゃないからね。と、希美は誰に説明するわけでもなく口の中で呟いた。事実、希美は週に三度、洗濯機の前に陣取って時間を過ごしている。一人暮らしならこんなペースで十分だ。夏ならもう少しピッチをあげなくてはならないだろうけれど。しかし、今日はブラウスを出してしまった。これだけ別に今夜洗っちゃいますか? まさか、なんて不経済な! それなら他の洗濯物だっていま一緒に洗っちゃったっていいわけじゃない。でもなあ、もう二枚ブラウスあるしなあ……うーん、どうしよう。希美は洗濯機のドラムの中身をじっと見つめながら、考えた。超特急で洗わなきゃいけないものなんて、こうして見るとないよねえ……。
 なんとなく洗濯機から目を離し、振り向いて洗面ボウルの上の鏡を見た。浴室の電気がガラス扉の向こうからもれて、電気を点けていない洗面所のあちこちに、くっきりとした陰影を作り出していた。鏡の中に視線をさまよわせる希美の顔の左半分は闇に覆われ、頬のふくらみや目の下のわずかな窪みも、まるで墨を塗ったように黒く沈んでいた。背後の、蓋の開いた洗濯機のドラム缶からひょっこりとドワーフやオークが一匹、乃至は数匹、縁に手をかけて姿を現しそうな気がする。かすかなさざめきや低いうなり声を前触れにして。□

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第2387日目 〈『ザ・ライジング』第1章 8/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 「上位十人、って……ハーモニーエンジェルスの三期オーディションのこと?」
 「あったり前やん。他になにがあるっちゅうねん。ここまできたら絶対、選ばれようなあ、のの。――のの? おーい、のの……って泣いとるんかいっ!?」
 希美は拭ってもぬぐっても流れてくる涙を手の甲で払い、鼻をすすった。唇に触れる涙は、ありきたりな表現が本当のことだと知らされる味だった。つまり、苦かった。
 部活の練習で遅くなり、夕食を取りながら母と一緒にテレヴィを観ていたときだった、〈“ハーモニーエンジェルス”三期メンバー募集〉のテロップが流れたのは。なにを考えるでもなくぽつりと、「応募してみようかなあ……」とつぶやき、母がテレヴィの画面と娘の顔を交互に見ながら、「そうね、やってみれば?」とこれまたなにを考えるでもなく答えたのが、なんだかついこの間のように思える。「やってみればいいじゃない。何事もチャレンジだよ。彩織ちゃんも誘ってみたら?」と母がいった。続けて、「最近ののんちゃんはすごく綺麗になったもの。そこそこいいところまで行けるんじゃない?」とも。ようやく母が実は結構本気で自分をたきつけていると知ったときには、もう遅かった。母は入浴中の父のところへ行って、「希美がハーモニーエンジェルスのオーディションを受けることになったから」と決定事項として報告した。そこまでされては、おいそれと後に引きさがることもできない。その一方で、芸能界ってどんなところだろう……メンバーになれたらTOKIOに会えるかなあ……合格するはずもないからちょっと応募してみようかなあ、とそれなりに乗り気になったのも事実ではあったのだが。が、当然のことながら父はいい顔をしなかった。子供のようにむくれて反対した。ベッドの中で妻に説き伏せられること一週間、遂に父は折れた。そして、なんだか父もうきうきし始めた。憧れ半分、後悔半分で課題曲になっていたハーモニーエンジェルスの最新シングル《恋のウムウムウム》(一九六四年にR&Bシンガー、メジャーランスが歌っていた同名曲のカバーだった)を駅前のカラオケで練習し(英語の発音がとても難しかった!)、告知から二週間目の日曜日、藤葉や美緒ものこのことやってきた深町家の和室で、希美と彩織二人分のヴィデオ撮影が行われた。しかし、その後の両親の事故死で希美は夕飯が終わるまで、オーディションのことなどほとんど忘れてしまっていた。
 そこへ持ってきて、いまの彩織の報告――やった、歌おう、感電するほどの喜びをっ!……ん、これって誰だっけ? まあ、いいか、それはともかく――
 いまとなってはオーディションへ応募するときの大騒動さえ、亡き両親の思い出と密接に結びついた思い出になってしまっていた。それだけに期待してもいなかった上位十人へのノミネートは、両親が生きてくれていたらどんなに喜んでくれただろう、と考えざるを得ない結果でもあった。まあ、もっともだからといってハーモニーエンジェルスに入れる、と決まったわけではない(第一、本選考の参考となる国民投票でしかない。この結果がどれだけ実際のオーディションに作用するのかは知りっこない)。
 でも……
 「うれしいよお……彩織……」くすんくすんと鼻を鳴らしながら、希美はいった。
 「やったなあ、のの。うちな、正直いって不安だったんや、今日番組観るの。どっちかが残ってどっちかがハイ、サヨウナラ、じゃいややし、それにうち、ののと一緒にハーモニーエンジェルスになりたかったから。――ありがとうな、のの」
 興奮も鎮まったらしく、落ち着いた声で彩織が喋った。電話でなく面と向かっていれば、泣きしおれる希美の肩を抱き、掌を重ねながら話していただろう。そう、両親の葬儀の席でそうしてくれていたように。そんな光景を心の片隅で想像しながら、希美は小さな声で頷きつつ、彩織の声を聞いていた。
 ううん、こっちこそ。いつもそばにいてくれてありがとう。
 涙はようやく収まってきた。手の甲は乾き始め、丸めてゴミ箱へ捨てるティッシュペーパーの数も減ってきている。
 「がんばろうね、彩織」
 「いつものののに戻ったね。ああ、がんばろうなあ。うちら戦友やしな」
 それから二人はしばらく、話題を変えてクリスマスのことを話し合った。今年は希美の家でお泊まりでやることになっている。この日はデートはお預け。だから、前日に会う約束をしていた。そしてたぶん――誰もいわないが、大晦日と元日も、希美の家で四人は、希美、彩織、美緒、藤葉らグループ〈旅の仲間〉は過ごすのだろう、と感じている。希美と彩織に至っては、幼な馴染みの真里ちゃんも来るかなあ、とぼんやり考えながら。
 時計が十二時の鐘を打った。明日も会えるのに(明日で二学期の授業は終わるんだ……やった!)、二人は名残を惜しむ恋人達のように電話を切った。□

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第2386日目 〈『ザ・ライジング』第1章 7/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 まあ、それはともかく。お話を進めましょう、と希美は作者に促した。オーケー。
 唇を内側にすぼめてマウスピースをあてる。ブレスしてみる。わずかではあるが、唇とリムの間から息が洩れた。リムの位置をほんの少しずらして、再び、ブレス。今度は息洩れもせずにスロートから流れるように、ひゅうと音を伴いながら息がなめらかに出てきた。しばらくタンキングやロングトーンの練習を繰り返しているうち、ふと、秋の学園祭で披露した曲を吹いてみようかな、という気になった。元はドビュッシーのピアノ独奏曲なのだが吹奏楽用にアレンジされた《亜麻色の髪の乙女》だった。学園祭での曲を選ぶ際に希美とマネージャー、あともう一人クラリネットの一年生の三人で頭を悩ませていたとき、寄りかかった拍子に崩れた楽譜の山から偶然に見つけだし、一回の読譜ですっかり気に入ってしまった曲だった。テューバのパートだけ、吹いてみよう。マウスピースだけ、テューバ本体はなしで。
 当然ながら、テューバ特有のずっしりとした低音が響くわけでも、牧歌的な音色が聞こえてくるわけでもない。にもかかわらず、希美は巧みにブレスを調整し、トーンを効かせ、メロディアスな唄を、朗々と奏でていった。といってもすぐにテューバのパートは終わってしまうので、もう一度最初から。なんだか夢を見ているような、ふわふわした感覚を覚えた。足が地に着いていないような、このまま天上までのぼってゆけそうな快楽。「ここではふわふわ、みんな浮いているぞお!」とばかげた化粧で叫んでいる怪物の出てくるホラー映画を見たような覚えがあるが、あれはいったいなんだったっけ……。
 ふと一瞬、気の遠くなるのがわかった。そうなったときはイエロー・カード。警告!
まだ自制心があるうちにやめておこう。……それでもマウスピースを離しがたく思っていたその矢先、充電中ながら電源を入れたままにしておいた携帯電話が、けたたましく鳴り始めた。

 マウスピースを唇に押しあてたまま、携帯電話を見やった。気づけば眼は涙で濡れている。ひどく潤んでいたようで頭を振った途端、頬を斜めに涙が流れてゆき、首筋を伝ってパーカーの隙間から鎖骨へしだれていった。見様によってはエロティックな光景だった。
 電話は相変わらず鳴っていた。これ以上鳴らしていると、向こうから切れてしまうかもしれない。留守電につながってしまう可能性だってある。ただでさえ高額な基本使用料を取られている上に、こちらから(なんの用事かも定かでない相手に)かけ直すのは避けたいことだ。仕方なく唇からマウスピースを離し、左手の薬指と人差し指で挟みながら、右手を宮台へ伸ばして携帯電話を取った。
 誰だろう、と思う間もなく「あっ」と叫び、急いで通話ボタンを押した。「もしも――」
 「遅いぞお、のの。かわいい彩織ンをいつまで待たせる気やあ?」
 受話口の向こうから聞こえてくる、耳馴れた関西弁。いうまでもなく宮木彩織だった。ころころした軽やかな声はいつもと同じだ。
 「ごめんね、出るの遅くなって。ちょっと練習してたから」
 「そうやったんか、すまんかったなあ。――明日学校で話そうか?」
 「ううん、いいよ、もうやめようと思ってたところだから」
 それに我慢なんてできないでしょ、彩織は。いつでもなにかを話したい人だから。
 「なあ、のの」
 「どうしたの、元気ないよ?」
 彩織が深呼吸する気配が、はっきりと伝わってきた。興奮しちゃうようなニュースでもあったのかな。ん、もしかして、あのことかしら――? こちらから話の進みを促そうとしたときだった。
 「のの、うちらやったで! 上位十人に二人してランク・インや!」
 もうこれ以上はないというぐらいの取り乱しようで、彩織が絶叫しながら報告した。希美はひょいと時計を見た。十一時を回ったところだった。耳をすませば彩織の後ろで、彼女の両親と弟が大騒ぎしているのがよくわかる。彩織と希美が二人そろって快挙を成し遂げたことに、きっと興奮しているのだろう、と希美は推測した。
 きっと本当に違いない。が、希美はそう簡単には信じられなかった。だから、確かめるように訊いてみる。□

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第2385日目 〈『ザ・ライジング』第1章 6/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 居間の座卓に料理を持ってゆき、箸とナイフをそろえる。なんだか妙な取り合わせだなあ、と楽しくなった。ね、そう思わない? そう呟きながら、希美は居間の一角にある仏壇に目をやった。
 急須に茶葉を落とし、ポットからゆっくりお湯を落とした。湯気が白く立ちこめ、ゆらゆらと朧にゆらめいてゆき、すぅっと薄くなって、消えた。蓋を閉めてそっと何周か急須をまわし、四脚の茶碗に音をさせないように静かにお茶を注いだ。何回かに分けて注ぎ終わると、小盆に茶碗三脚を乗せて仏壇の前で座り直した。片手で盆を持ちながら、もう片方の手で茶碗をそれぞれの仏壇の前に置く。一脚は先祖代々の位牌に、もう二脚はまだ新しい黒檀の位牌と写真の前に。
 希美は盆を脇に置いた。鉦をたたくと目をつむって合掌した。刹那、死者達との思い出がよみがえり、浮かんで消えていった……。
 死者は歌うか? 死者は愛するか?
 囁くような声で、希美はそっと呟いた。「今日も一日、無事に過ごせたよ。ありがとう。パパ、ママ……」

 食事をすませると、すぐに洗い物と片附けをして一息ついた。昼間に録画しておいた映画を観ようとヴィデオをまわしたが、予想外につまらなかったので、三〇分ばかり見たあたりで消した。たまっていた新聞や広告に目を通していると、今日はいつも使うスーパーの特売日だったらしい。しまったあ、と唸って、仕方ないか、と溜め息をついた。だって今朝は寝坊して新聞に目を通す時間がなかったんだもん。
 そんなこんなをしているうちに時間は過ぎてゆき、気がつけば時計の針は十時半を回っていた。いまからテレヴィ観ても、もう発表は終わっちゃってるよなあ……。いいや、明日になれば彩織が教えてくれるよ。聞くのもなんだか怖いけど。
 希美は新聞をたたみながら(明日からは広告だけは必ずチェックして、学校に行こう!)、お風呂に入っちゃおうかな、それとも、二、三〇分練習しようかな、と迷った。
 しばし迷ったあげく、練習をすることにした。部屋へ戻り、テューバの入ったハードケースを開ける。中学二年の誕生日に両親から贈られた、自分だけの大切な楽器。以来、一日たりとも練習を行わなかった日はない。もちろん、実際にテューバを吹かない日はある。が、吹奏楽をやる者にとって楽器を吹かない日はあっても、アンブシェアの練習をさぼる日はない。そんな輩がいるとすれば、まじめに吹奏楽していない証拠だ。
 ゴールドラッカーで仕上げられ、部屋の蛍光灯の明かりを受けて鈍い輝きを放っているテューバの表面を撫でながら、少しだけ音出ししてみようかな、と考えた。防音工事が施された部屋だから、きちんと閉めきっていさえすれば真夜中に思いっきり噴いても、苦情がくることはない。それはもう実証済みだった。が、でも、とすぐに思いとどまった。朝練で一時間、放課後も自主練で二時間も吹いていたのだ。さすがにもういいや、と疲れも手伝って諦めた。吹くのはやめておこう。
 アンブシェアだけ軽くやっておこう、と希美は考えた。これとて放課後、練習から戻ってきたあと、教室で森沢美緒の宿題を丸写ししながら、マウスピースを唇にあててしていたのだが。
 通学鞄から折りたたみの手鏡を出し、ハードケースからマウスピースを手にする。鏡を開いて唇を映した。薄く、形のよい艶のある唇だった。「あ・い・う・え・お」と声にして、唇の形を確かめてゆく。良い音、綺麗な音を出すにはアンブシェアができていないとお話にならない。母の奨めもあって中学に入学すると吹奏楽部に入り、その最初の練習のときに顧問だった教師(担当は地理だった)からいわれたことがある。そりゃそうだよね、と希美は考えた。唇の形がちゃんとなってなきゃ、まともな音なんて出っこないんだから。批判するつもりはないけど、トランペットやってる赤塚さんなんていい例だと思う。□

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第2384日目 〈『ザ・ライジング』第1章 5/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 冷蔵庫には二日前、スーパーの特売で買った若鶏の骨付きモモ肉が一本、ビニールで包んで入っていた。本当はマグロのヅケを作ろうと思ったのだが、予想外に高かった(六三八円もした!)のとタイムサービスの対象になっていなかったので、予定を変更して安く売られていた若鶏を買ったのだ。冷飯もどんぶりに二杯分あった。今夜はチャーハンと若鶏を焼けばいいや、と希美は考えた。あとは果物と――余力があればサラダでも作ろうかな、と考えて、やめた。トマトを切らしていたのを思い出したからだ。冷蔵庫の扉にマグネットで押さえてある〈お買い物メモ〉に「トマト」と書きこんだ。
 まるで主婦だね。
 (のの、いつでもお嫁さんOKやなあ、うらやましいわ)高校受験が終わって授業も間遠になり始めていた中学三年の三月、小学二年からずっと一緒の宮木彩織が泊まりに来た日の夜、希美の部屋でのらくらしていたときに、ふと彩織の口からこぼれた一言が脳裏に甦る。普段は歯切れのよい、聞いているだけで元気が湧いてくるような彩織の関西弁がそのときに限って、やけに物憂げな調子だった。なんだか瞬時に座がしんみりしてしまったこともよく覚えている。彩織だってお料理上手じゃない、という希美のフォローに彩織は右手を振りふり否定し、いや、ののには適わんよ、ほんまに、と続けた。その後はすぐに大好きなTOKIOの話題に移ったので、あまり深くは考えずにいたが、いまにして思うと……さては彩織、あのとき好きな人でもいたのかな、と想像した。そういえば彩織の口から好きな人の話しって聞いたことがなかったな、といまさらながら希美は思い当たった。いつも彩織って誰かの縁結びに奔走していたように思うのは、気のせい? 小学校の時も中学の時も、それに今年は――私とあの人の縁結びに一役買ってくれた彩織(ありがとう!)。よおし、今年のイヴは美緒ちゃん達と彩織を集中攻撃だ。
 口許をほころばせながら、点火させたガスコンロにフライパンをかけた。温まってきたところで植物油を薄くひき、骨に沿って切りこみを入れた若鶏を油がはじけぬように静かに置き、火力を調節し、いらなくなった広告でフライパンの口をふさいだ。油と肉汁のはじける音が一段低くなって聞こえた。
 さて次はチャーハンだ。冷蔵庫から取り出したどんぶりのラップをはがすと、モモ肉のときと同じように別のフライパンに油をひき、そっとあけた。木ベラでほぐし、具のベーコンやグリーンピース、細かく刻んだ人参を混ぜた。ときどき若鶏をひっくり返す。チャーハンを炒める。しばらくはそれを繰り返した。やがて米が程良い黄金色になり、香ばしい匂いが鼻をついた。木ベラで少量をすくい、指でつまんで口にしてみる。もう少し炒めた方がいいかな。
 そうこうしているうちに若鶏はこんがりときつね色に焼きあがっていた。切りこみを広げてみても、血があふれてきたりはしなかった。念のために菜箸で二、三カ所を挿してみる。大丈夫そうだった。牛肉ならレアで食べてもそれなりに味を楽しめるが、鶏肉となるとそうはいかない。肉の味や歯応えよりも前にゾッとするような感触の血が唇と舌を射て、喉を通るときの背筋が寒くなる感覚は、思い出しただけで身震いがする。鶏肉は中までこんがり焼きあげられてこそ、食卓へ並べるにふさわしい食べ物なのだ。希美はそれを中学一年の夏休みに市が主催した林間学校に参加したとき、同じ班だった彩織ともども思い知ったのだった。
 食器棚から香蘭社の平皿を出して若鶏を乗せた。付け合わせ(といっていいものかどうか悩むところだが)は一緒に軽く焼いた、スライスした人参。昨年の春、吹奏楽部の合宿を箱根でしたとき、最終日にやった焼肉パーティで焼き野菜を初めておいしいと思って以来、希美は家でも外でも(焼肉屋に行くなんてことは滅多になかったが)好んでそれを食べるようになった。最初は笑っていた彩織も藤葉も、希美につられたか、いつしか黙々と口に運ぶようになっていた。
 チャーハンもそろそろ食べ頃だ。火を消すと用意しておいた器に、こぼさぬように丁寧に移し替えた。湯気が立ちのぼり、香ばしい匂いが台所に満ちた。それに刺激されたのか、再び希美の腹の虫がわめいた。『ピーナッツ』のエピソードが、こんなときはいつも思い出される。チャーリー・ブラウンがいつもより少し早くご飯皿を持ってくる。しかしスヌーピーはそれを目の前にしても口をつけようとしない。「僕は起きているが、お腹はまだ眠っている」から。スヌーピーのようにお腹の意思は尊重するべきだ、と希美は思う。余裕があるときは。しかし、たまには無視することも必要だ。
 さて、遅くなったけど、夕飯にしよう。□

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第2383日目 〈『ザ・ライジング』第1章 4/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 灯油タンクを持って勝手口から物置へ、サンダルをつっかけて出た。タンクを置いて壁の柱にネジで止めてある電源スイッチを“入”にする。天井からぶらさがっている白熱灯が低いうなり声をあげ、周囲を照らした。いろいろな生活必需品にあふれて雑然としているが、こうした場所特有のほこりっぽさは感じられない。雨の日は洗濯物干し場にもなるせいかもしれなかった。
 自転車の隣に置いてある灯油の入ったポリタンクを、軽く持ちあげてみた。腕が、ピン、と張った。正直、少ししびれた。まだだいぶ中にあるようだ。もっと給油していたような気がするんだけど……。まあ、いいか。
 灯油タンクを両手で摑み、ひっくり返した。取っ手を下に、キャップ部分を上に。カラーボックスの中に放りこんであったポリエチレン製の手袋を両手にはめる。
 えーっと、吸い上げ器は、と……。
 キョロキョロ左右を見回して、目当てのものがカラーボックスの陰にあるのを発見した。手を伸ばして、なんとか引き寄せた。二つのタンクのキャップをはずし、吸い上げ器の筒の方をポリタンクに、鍔が引っかかるまで差し入れ、半透明の蛇腹の先を灯油タンクに入れた。
 吸い上げ器のボタンを切り替えると、ゴボッゴボッ、と灯油を汲みあげる鈍い音がポリタンクの底の方から聞こえてきた。しばらく経つと、給油タンクのインジケーターは緑色に埋まりかけている。もうすぐ満タンになる……すべて緑一色……満タンになった。希美は両方のタンクのキャップを閉め、特にこれからストーブへ入れる灯油タンクの方は念入りにキャップをひねった。これでよし、と頷くと希美は立ちあがり、ポリタンクと吸い上げ器を元あった場所に戻し(吸い上げ器はティッシュペーパーと古新聞誌で口を拭いてから)、二ヶ所ある出入り口の鍵が掛かっているのを確かめた。
 その途端、背筋が急に寒くなった。肩も思わず震え、持っていた灯油タンクを落としそうになる――が、それはかろうじて免れた。明日はこの冬いちばんの冷えこみになるでしょう、と昨夜のニュースで気象予報官がいっていたのを思い出した。冬が終わってもいないのに、なんで「この冬いちばん」なんて断言するんだろう、なんで素直に「今年いちばん」っていわないのかな、と疑問に感じたのも一緒に。別にいいけどさ、あまり信じてないし。そんなことはどうでもいいや、早く中に入ろう、っと。希美は物置の電気を消し、勝手口から台所を抜けて、居間へ足を戻った。
 灯油タンクを入れ、レバーを押しさげる。ピーッ、パチパチパチパチ。炎が青くゆらめき、やがてオレンジ色に変化した。具合を調節しているうちに炎は安定し、静かに燃えさかっている。
 それを見届けると、しばらく両手をかざし、目をつむった。目蓋の裏は初めこそ真っ暗だったが、いつしか炎の色に染まった。溶鉱炉っていうのもこんな感じなのだろうか。目をつむっても、火の色が見える。焼かれるって、こんな感じなのかな……。欠伸が出た。二度、三度と続けて。このままこうしていたら――あまりの暖かさにうつらうつらして意識が遠のき、眠ってしまう。挙げ句の果てに……前のめりに倒れてストーブに抱きつき、服が火に燃え移って私は火だるま。
 耳許で鐘の音がした。ゴーン! ごーん! ゴーン! ごーん! ゴーン! ごーん!ゴーン! ごーん! ゴーン!
 思わず目が覚めた。背中が少し痛い。いまの鐘の音はなんだったんだろう。私の幻聴?いや、それは違った。希美の耳の置くに余韻が残っているばかりでなく、居間にその音色の残響はあった。
 生まれる前からある古い壁時計を見あげて、ようやく合点がいった。九時だった。
 そうか、時計だったんだ。それにしても、もう九時か。
 こんなことをしている場合じゃない。ご飯とお風呂だ。
 希美はよいしょ、と腰をあげると、浴室に向かい、お湯の量を確かめると湯沸かしのタイマーを二〇分にセットして台所へ行き、遅い夕食の支度に取りかかった。□

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第2382日目 〈『ザ・ライジング』第1章 3/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 昨夜、寝しなに聞いていたのはなんだったっけ? タンポポだったかな、それとも、ロジャー・ボボ?
 操作パネルを見ると、昨夜はMDが聴かれていたようだ。あ、そうか、タンポポを聴いてたんだけど、すぐに寝ちゃったんだ。再生ボタンを押すとややあってから、《恋をしちゃいました!》が流れてきた。目下のところ、希美がいちばん好きな歌だった。その軽やかなメロディを口ずさみながら、クロゼットを開けた。
 制服の柄に合わせたわけではなかったが、希美が通学のときに(好んで)着るコートは、色はそのときによって違うけれども、たいていが青いチェック柄のコートだった。袖のところが茶色のファーになっている。希美の通う学校では夏冬の制服こそきちんと定めているものの、コートやカーデガンに関しては“みずぼらしくなく、だらしなくなければ”さほどうるさくは決めていなかった。衣服について校則を細かく定めていては、逆に学園の品位を貶める結果になるかもしれない、という憂慮から生まれたものだが、それを知っている生徒も教職員も、実はあまりいない。
 希美はまだ少しかじかむ指でコートのボタンをはずし、ハンガーに通してからクロゼットの端に掛けた。ライトグレーの、左腕に校章のワッペンがあるブレザーとグレーの格子模様のベストとスカートを脱ぐと、きちんと皺を伸ばしてからハンガーに掛けた。しばし制服を眺めながら、この制服ってそんなに人気あるのかな、と考えた。美緒ちゃんはこの制服着たさに入試を受けたっていってたし、県内の他の女子高生でもこの制服に憧れてる人は多いらしい。それを知ると少し誇らしい気分になったが、セーラー服の方が簡単なのにな、と思わないでもなかった。
 臙脂色のリボンをほどき、ブラウスを脱ぎ捨て、黒のストッキングと白のソックスも脱いで、洗いざらしたブルージーンズに足を通した。お腹のあたりがちょっとふくらんでいるような気がする。太ったかなあ、そんなに食べてないけどな……はあ。
 頭をあげた拍子に、クロゼットの扉に掛けた鏡の中の自分と目が合った。上半身へ目をやってみた。色白の肌に水色のブラジャーが映えていた。ブラジャー越しに掌を置いてみる。うーん、と希美は唸った。もう少しだけ欲しいんだよなあ。進路指導の大河内先生ほどじゃなくていいから、せめて、彩織や美緒ちゃんぐらいは。楽器やるのに胸の大きさは関係なさそうだから、うん、もうちょっとだけ。あの人に揉んでもらったら、大きくなるかしら? 希美の顔が真っ赤になった。まだしてもいないのに、私ったらなに考えてるのよ!?
 そんなとき、くしゃみが出た。
 「っくちょん!」
ついでに鼻もすすってみる。あまり上品とは言えないが、だって鼻水出ちゃうんだもん。〈ののちゃんのお子ちゃまくしゃみ〉と、くしゃみするたび木之下藤葉にからかわれる。希美としてはそろそろ聞き飽きてきているのだが、誰もそれをいわない。藤葉を恐れてではない。宮木彩織や森沢美緒にいわせると、希美の反応がときどき面白いからだ。失礼しちゃうよね。でも、風邪なんかひいたらシャレにならないな。秋の吹奏楽コンクールに出られなかったのに加えて、来年のアンサンブル・コンテストにも出られなくなっちゃう。よしんば出られても、不調のまま出場するのは絶対嫌だ。
 厚手の、フードのついた濃紺のパーカーを頭からかぶり、最後にこれまでツインテールにしていた髪の毛を結んでいた輪ゴムを取り、二、三度頭を振った。手櫛でおおざっぱに整えて、鏡を覗く。白い歯を出して、にっこり笑ってみた。八重歯がほっそりとした輪郭に相俟って大人びた顔立ちを、鏡の中に映している。うん、悪くない。決して悪くない。髪をおろした私も、えへ、なかなか美人さんだぞ。まあ、時には実年齢より年下に見られるのが癪ではあるが、それだって私のチャーム・ポイントだ。そうそう、なにごともポジティブでいこう。
 さて、では灯油を入れちゃいますか。クロゼットの扉を閉め、部屋の電気を消そうと指がスイッチに触れた途端、お腹の虫が派手に鳴いた。さっきほどではないが、顔が赤くなっていった。ふーちゃん達に聞かれてなくてよかったあ。もっとも、彩織はいつも聞いてるけどさ。――っくちょん。〈ののちゃんのお子ちゃまくしゃみ〉、再び。
 冷蔵庫の中になにがあるか、それを確かめてから、真冬の夜の給油作戦を始めよう。
 希美は廊下を挟んである台所に足を向けた。□

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第2381日目 〈『ザ・ライジング』第1章 2/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 千本公園の入り口の手前で、道は左手に曲がり、緑町の住宅街を貫く。希美は道を曲がってすぐに視界に入った自宅だけが真っ暗なのに気づいた。玄関ポーチの電気をタイマーにセットしなかったのは今日が初めてではないが、なんだか腹が立った。
 不用心だね。誰かが心の中で囁いた。そうだね、でもね、そんなこともないんだよ。だって――
 門扉に手を掛けようとした途端、強烈なライトが希美を照らした。用心するに越したことはない、と静岡市に住む叔父が取りつけてくれた防犯ライトだった。
 ほらね、大丈夫なんだから。
 口の中でそう呟きながら門扉を開け、バラのプランターを並べたアプローチの階段をあがり、ハードケースを置いた。コートのポケットをまさぐり、鍵がなかなか見つからないのに焦った。
 どこにやったっけかな、早くしないとライトが消えちゃうよ……。
 コートの内ポケットを探してみると、指先がキーホルダーに触れた。 
やった、あった。
 鍵穴にシリンダー錠を差しこみ、玄関扉を開けたのと、防犯ライトが消えたのはほぼ同時だった。鞄とハードケースを上がり口に置くと、さっと扉の方を振り返り、鍵を掛け、チェーンを掛けた。一人暮らしに馴れてくると、玄関の開け閉めが異様に早くなる。この二ヶ月で希美が身をもって知ったことの一つだ。
 廊下の電気を点け、荷物はそのままにして居間へ足を向けた。ガラスの向こうに広がる庭を見ていると、闇のカーテンをかき分けて顔も体も焼けただれた愛すべき死者達が、両手を差し伸べながら現れてくるような気がした。さすがに十七歳の高校二年生ともなると幽霊なんてものを信じる気もなかったが、それでも時折、希美はそんな者達――夜の世界の住人の存在を願い、訪れを待ち焦がれてしまうときがある。それはこの二ヶ月で顕著になった……。
 頭を振って電気を点けぬまま、居間のシャッターを閉めようとすると、隣の、幼な馴染みの家から洩れ伝わってくる家族団欒の声が、胸に響いて痛んだ。真里ちゃん、もう帰ってきてるのかしら……? いいな、家に帰ると「お帰り」っていってくれる人がいて。
 涙が出そうになるのをこらえて希美はシャッターを閉めた。隣の八畳の和室と両親の寝室のシャッターも閉めてしまうと、居間へ戻り、電気を点けた。ほっと一息。
 寒いや、といまさらながら思った。両手をこすり合わせながら、石油ストーブの前にかがみこみ、点火レバーを押しさげた。パチパチと音がするだけで、灯る気配はなかった。タンクから灯油が送り出されるときの、お馴染みのゴボッ、という音も聞こえない。嫌な予感がした。残量を示す給油サインを覗きこむ。緑色のインジケーターは姿を消し、小窓からはグレーのパネル地しか見えない。
 ちょっとやめてよね、なんだってこんな冷えこむ夜に――
 灯油タンクは空だった。
 希美は小さな溜め息を吐くと立ちあがり、廊下に置いたままの鞄とハードケースを持って、玄関脇の自分の部屋に引っこんだ。着替えたら夕飯の支度とお風呂を沸かす前に、灯油を補充しなきゃ。まあ、一週間に一度はあることだ。仕方ない。

 他の部屋と同じように自分の部屋も、シャッターを閉めてから電気を点けた。本当はどっちがいいんだろう、電気点けてからシャッター閉めるのと。希美は一人で暮らすようになってからときどき考えるが、いつも結論が出る前に決まった行動をしていて苦笑する。やっぱり習慣って変えられないんだな、と独りごちながら。鞄とハードケースもいつもと同じ場所、鞄は机の脇に、ケースは本棚の前に置く。エアコンのリモコンを探すと、枕元にいる焦げ茶色の小さなクマのぬいぐるみが下敷きにしていた。「めっ」とたしなめてから、エアコンに向けてスイッチを押してみてが反応はない。何度かやってみて、ようやく動き出した。クロゼットへ向かう前に、カラーボックス上のMDラジカセの電源を入れた。操作パネルが緑色に光り、“HELLO”の文字が浮かびあがる。
 「もう夜だよ。八時過ぎてるの」
 むなしいツッコミを入れてみても、もとより反応があるわけでもない。希美は制服のブレザーのポケットから携帯電話を出し(「希美ちゃんのポケットって、なにが入ってるかわからないね」と森沢美緒にいわれたことがある。ペンや折りたたんだ楽譜、飴やMDが入っていれば、その台詞も頷けようものだ)、電池の残量を確かめてから、ベッドの宮台にある充電器にセットした。□

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第2380日目 〈『ザ・ライジング』第1章 1/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 「失礼しました」
 木之下藤葉は一礼して職員室を出た。水泳部の部長に選ばれるとき、必死になって抵抗したのが嘘のように、いまはこの職務(?)に馴染んでいる。抵抗した唯一の理由は、毎日の練習のあとで部誌を書かされなくてはならないからだった。何時間も泳いだ後の疲れ切った体でそれをやるのは、まるで狂気の沙汰に思えた。なまじ全国大会を制覇し、オリンピック選手を何人も輩出している水泳部の部長ともなれば、個人の練習はほとんどできず、やらされる(“やるべき”ではなく)雑用も多い。そのダメ押しともいえるのが、毎日の部誌の執筆であった。部員の記録も兼ねているこの部誌は、そのまま日々の練習プログラムにも反映される。文章の苦手な藤葉にとっては、まさしく拷問。
 はあ。大きな溜め息がもれた。教室に待たせている森沢美緒と深町希美を思った。クリスマスの相談でもしてるかな? きっと待ちくたびれているだろうなぁ……。帰りになにかおごらなきゃいけないかな。でも、彩織ン──希美の幼な馴染み、宮木彩織がいなくてよかった。いたら、お財布の中がスッカラカンになってしまうのは間違いない。たまらず、口許に笑みが広がった。そんなときだった。
 「──むかつくのよね」
 知らぬ間に背筋を伸ばしてしまう。誰だろう? 私のこと?
 エレベーターホールを過ぎて吹き抜けになっている階段の、いちばん下の段に足をかけたまま、耳をすましてみた。静かだった。思わず耳鳴りを覚えてしまうほどの、底知れぬ静けさ。生きとし生けるものがみな息絶えてしまったように、なに一つとして物音が聞こえない。
 「──絶対に許さないんだから。破滅させてやるわ、必ず」
 一階から聞こえてくるようだった。そこには学生食堂や保健室、聖テンプル大学付属沼津女子学園高等部の全学年の下駄箱がある。声の主はどうやら、階段を降りきったエレベーターホールと下駄箱の間にいるようだ。藤葉は階段の手摺りから身を乗り出してみた。そうすれば階下が見渡せ、声の主も特定できる、といわんばかりに。だが、一瞬気が遠くなっただけで、声の主ばかりでなく、誰の姿も視界に捉えることはできなかった。
 体勢を元に戻して二、三段昇り、立ち止まる。耳をすましてみた。なにも聞こえない。 気にすることはないや。そう、その通りだ。だって私のことじゃもの。
 そう自分を納得させ、藤葉は教室に向かった。外はすっかり陽が落ち、愛鷹山の稜線はおろか、その向こうに聳える富士山の姿も、藤葉達三人が正門を出てバス停で沼津駅行きのバスを待っているころには、単なるシルエットでしか見えなくなっていた。

 沼津港行きのバスの揺れに身を任せながらTOKIOの《Green》を聴いているうち、深町希美は浅い眠りに落ちていた。女声のアナウンスは聞こえている。しかし、心はまるで闇をたたえる淵の底から伸びてきた触手に絡みとられたように、ゆっくりと深淵へ落ちこんでゆく。起きようとしても体はそう簡単にいうことを聞いてくれそうにない。
 ──起きなきゃ。
 さもないと、もう一つ先のバス停で降りる羽目になる。
 膝の上に乗せた鞄の重さがそろそろ応えてきた。寝言ともうなされているともとれる、言葉にもならない言葉をムニャムニャと呟きながら、希美はバスのアナウンスに耳を傾けた。どうやら緑道公園を通り過ぎたらしい。そこは嘗て、港へ行く廃線の線路が敷かれ、草が伸び放題だったらしい。両親が子供だった時分は、海岸と千本松原、そしてこの在りし日の緑道公園が遊び場だった、と何年か前に聞いたことがある。両親……。
 「次は、千本緑町、千本緑町──」
 希美は、はっと目を覚ました。
 降りなきゃ。
 鞄を抱えながら、窓の脇にある降車ボタンを押した。チャイムが鳴り、運転手が次で停まることをマイクで告げた。
 MDを停めてイヤホンを耳から外す。席から立ちあがると床に置いてあったテューバのハードケースを持ち、昇降口のそばへ移動した。これまで私、何千回ここで降りたんだろうな、そう思っているうちにバスは停まった。扉が開くとハードケースを右手にしっかり持ち、ぶつけないように気を遣いながらバスを降りた。他に降りる人はいない。すぐに扉が閉まり、バスは次の停留所めざして去っていった。
いま来た道を少し戻り、ちょうど青信号に代わった交差点を渡って、千本公園の手前で折れる帰り道──街灯が少ない代わり、道に面した家々から洩れる明かりのせいでさして危ないとは思えぬいつもの帰り道を、師走の寒風が吹きつける中をたどっていった。□

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第2379日目 〈明日から小説の連載を始めますね、っていうお知らせです。〉 [小説 ザ・ライジング]

 いわずもがなの告知をさせていただきます。
 かねてよりお伝えしていた通り、明日から『ザ・ライジング』という小説を本ブログで連載させていただきます。前口上めいた文句、惹句は控えましょう。自らハードルを上げて、首を絞める結果になりかねませんから。あらすじも内容も伏せましょう。光文社古典新訳文庫のプルーストに倣うわけではありませんが、それら不明のまま日々のわずかな時間を楽しんでいただきたいですから。
 とはいえ、1つだけ読者諸兄にご理解を求めなくてはならぬことがあるのです。本作は13年前の地方都市を舞台にしています。連載にあたっては年代や地理、作中の固有名詞など、細かな点についてアップデートを施す予定でした。
 が、今回改めて全体へ目を通してみたところ、そのようなことは行わぬが吉と判断したことであります。要するに、諦めたのです。放り出したわけではありません。断念したのです。作中の出来事の様々が、当時の自分を取り巻いていた環境、自分が(突然)置かれた状況と結び付いていることに気が付いたら、もうアップデートなんて考えはどこかへ行ってしまいました。それに気附いたら、辛くなってしまいました……。以上、アップデートを断念したことについての答弁でありました。
 聖書読書ノートと変わることなく、明日からほぼ毎日、約4ヶ月にわたって連載されてゆくことになる拙作を、読者諸兄に楽しんで閲読いただければ、こんなにうれしいことはありません。どうぞよろしくお願いいたします。◆

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