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第2569日目 〈推理小説読書の第一期を振り返る。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年の秋から、江戸川乱歩や横溝正史を皮切りにして、遅ればせながら推理小説に淫した日々を重ねて今日へ至っていることを、これまでにも何度か本ブログにて述べてきた。今年になってからは専ら現代の作物ばかり読み耽ってそれらの概ねについて感想めいたコメントをモレスキンのノートに書き留めているが、遅かれ早かれそれらの幾つか(全部ではあるまい)はやがて相応しい分量を伴って清書された後、ここにお披露目されることであろう。が、皆様にご承知置きいただきたいのは、日本人作家の手に成る推理小説に夢中になって読み耽っている現在はいわばその第二期に相当する、ということだ。
 では、第一期とは? 第一期はいまから四半世紀程前に存在した。手紙のやり取りを収めた数十冊のファイルを繙けば容易に当時の読書履歴を確認できるが、いまは外出先(会社からの帰り道、乗換駅にあるスターバックスである)でそれを参照することなどできようはずもなく、ゆえに自分の記憶力を試してみるのも兼ねて本稿の筆を執ってみる。
 ──下地があったとすれば、それは中高生時代に耽読した赤川次郎と久美沙織にあろう。殊、久美沙織の<半熟せりか>シリーズ、いやぁ大好きだったなぁ……。
 歳月は経て元号が変わり、バブル崩壊の余波がわたくしの身の上に降りかかった。入社日直前に内定は取り消され、アルバイトの求人も日雇いばかりでレギュラーの口はなく、辛うじて学生時代のバイト代を基にした蓄えと、加えて実家住まいだったことが幸いしてどうにか日々を生き延びることができていたあの頃の或る日、──
 黄麦堂という古本屋の棚でその1冊を見附けた。偶然の引き合わせである。そうしてその偶然の1冊がわたくしを、面映ゆい表現をすれば大人の推理小説に開眼させたのだ。折原一の『天井裏の散歩者──幸福荘の殺人』、角川文庫版。帰宅して一読、思わず仰け反り、嘆息し、ぶっ飛んだ。こんな推理小説がこの世にあったのか、と。大袈裟だが、本当にそんな風に思うたのだ。
 以来、黄麦堂と中三の冬から週末毎に通っている先生堂、一ト月に一度の頻度で足を向ける学生時代を過ごした神保町の諸々の古書店に通って、同じような興奮を味わわせてくれそうな推理小説を物色する日が始まった。そんな風にして見切り棚から「適正価格」の棚までじっくりと眺めて懐具合とも相談しつつ買い溜めていった推理小説を、次の買い物までの間に片っ端から読破していった。使えるお金はいまよりもずっと少なく、限られていたから、それ程の量にはならなかったけれど。
 そうした時期に読んだものを挙げてみる、記憶のままに、順不同で。折原一では『幸福荘の秘密──続・天井裏の散歩者』と『覆面作家』、『ファンレター』他を読んだ。北村薫の<円紫さんと私>シリーズ他を、宇神幸男の音楽ミステリー4部作──『神宿る手』と『消えたオーケストラ』、『ニーベルンクの城』と『美神の黄昏』──と『ヴァルハラ城の悪魔』を読んだ。森雅裕の鮎村尋深をヒロインにした一連の作品と『ベートーベンな憂鬱症』、『モーツァルトは子守歌を唄わない』他を読んだ。小森健太郎の『ローウェル城の殺人』と『コミケ殺人事件』、『ネヌウェンラーの密室』、『ネメシスの哄笑』、『バビロン空中庭園の殺人』を読んだ。小泉喜美子はエッセイ集『ミステリーは私の香水』をきっかけにして『弁護側の証人』と『血の季節』を読んだ。他に読んだもので覚えているのは、東野圭吾の『むかし僕が死んだ家』と『ある閉ざされた雪の山荘で』並びに『眠りの森』、高田崇のシリーズ(但し最初の3作)と井沢元彦の『猿丸幻視行』ぐらいかな。倉知淳とか日明恩(たちもり・めぐみ)もこの時期に読んだと思うていたが、日明については調べてみたら世紀が変わったあとのデビューだから、どうやら記憶は拘泥している様子だ。確かなのは、この時期を〆括ったのは戸板康二の『家元の女弟子』だったことである。  ……え、乱歩も横溝も、鮎川哲也も泡坂妻夫も、島田荘司も綾辻行人も、有栖川有栖も京極夏彦も読んでいなかったの!? と呆れる向きもあるだろう。そんな方々にわたくしは胸を張って答えよう、イエス! と。だいいちね、当時からかれらの小説を読んでいたら、「第一期」も「第二期」もないですよ。そのまま持続されて今日に至ってます、って。斯くして戸板康二のあと推理小説読書の熱はゆっくりと冷めてゆき、読書生活は従前のそれに戻り、わが推理小説熱は15年以上になんなんとする潜伏期間に突入する。  わたくしは敢えて上で挙げた作品の一々に私見を述べ立てることはしなかった。本稿はあくまで<歴史>に過ぎず、個々についての感想文を目論んだものではないからだ。もっともな理由を一つ挙げるなら、その後の自宅の火事によって殆どが失われたり、手放さざるを得なかったことだろうか。災を免れたのは戸板康二の文庫だけだ。本項に於いて感想を一言だに口にしないのは、手許に本がないからだ、というに過ぎぬ。  ──が、なんということだろう。本稿を書いていたら、またぞろこれらの作品を読みたくなってきてしまった。新装版でも出版社が変わっていても、新品でも古本でも、どうであっても構わぬから、この際一息に上で並べた作品たちを買い直してしまおうか。さて?◆

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第2568日目 〈初めての店で買い物(ネット通販)したら、大満足な結果で終わりました。〉 [日々の思い・独り言]

 旧国名を屋号に冠した店で本を買った。インターネット通販のそのサイトを覗いていたら、現物を見ること年に一度ありやなしやでオークションサイトや古書店のサイトに出品されれば絶版ゆえに高値が付く、大好きな漫画家のコミックスが安価で売られているのを発見したのだ。しばし検討の後、その漫画家が連載していた少年誌の創刊40年を記念した特別号と江戸川乱歩の『探偵小説四十年』上下を一緒に購入した。
 その直前にブックオフ・オンライン(以下BOL)で購入した文庫が、外からもはっきり判別できる程の<イタミ>──ヌレとシワ、ヤブレてふ三拍子揃った状態で送られてきたことに呆れ果て、交換か返品・返金いずれかを求めるメールを出したら対応するカスタマーサービスの凄まじき恫喝、上から目線かつ投げやり対応に落胆してここに代わる通販サイトを探していた矢先に出会ったのが、冒頭に述べた旧国名を屋号に冠した店のサイトだったのである。勇を鼓してここで買い物してみようと思うたのは、勿論好きな漫画家のコミックスが売られていたこともあるが、と同時にこの店のレヴェルを見極めるといういやらしい理由もあった。が、それを見極めずして買い物なぞできるものであろうか。否。
 さて、BOLのシステムに馴れた者にはそこからが長かった。注文確認のメールが来たはいいが、発送や支払いに関するメールは待てど暮らせど送られてこない。もしかすると多量の迷惑メールや不要メールに混じって削除してしまったのか。確かめようにも<ゴミ箱>にはもはやそれらのメールは一通たりとも残っていない。不安に駆られてそこのカスタマー・センターに電話したら、BOLのように一拠点でなく各店舗にて在庫管理が行われているので、商品がすべて揃った時点で支払いやその後の発送にまつわるメール連絡がされる由。それを聞いて安堵した。けれどもその一方でこうも思うた、最初のメールにそれを書いておいてよ、と。
 さりながら当面の懸念は去った。あとは待てばよい。そうやって日が過ぎ、一週間ばかりが経った或る日、待ち望んでいたメールが来た。曰く、商品は全点揃った、状態に支障なし、ついてはいついつまでにどこそこの口座へこれだけの金額を振り込まれたし、入金確認後は早急に発送手続きを行い貴兄の許へお届けしよう、と。そうして指定された口座へお金を降り込んだのだが、今度はそこからがまた長く感じられ……1月末日。ようやっとそれは到着した。購入のクリックから約10日。もうちょっと経っていたかな。
 なお、これは2回目の買い物で経験したことだが、発送準備完了のメールから一定期間入金するのを忘れていたりすると、所謂督促のメールが送られてくる。いついつまでに入金が確認できなかったら今回の注文はキャンセルさせてもらうぜベイビー! って趣旨の。ここまで軽い文章ではないけれどね、誤解する人がいるかもしれないから念のため。
 到着した段ボールを、なんとなく左右に振ってみる。カサともゴソとも音がしない。過剰なまでの隙間埋めがされているのか。どんだけの緩衝材を詰めたんだ。そんな風に思うても仕方ない程に、微塵も中身が動く形跡はなかったのである。開梱前から溜め息を内心で吐いてしまったが、気を取り直してカッター片手に開梱作業。そうして箱を開けた目に飛びこんできたのは──あのお馴染みの緩衝材たち……丸められた新聞紙や油紙、円柱形のビニール・クッションや色を塗ったら遠目にはスナック菓子と偽ることもできそうな小指程の大きさの発泡スチロールなどではなく、段ボール箱の底と同じサイズのボール紙の上に一段が均一な厚みになるようにして重ねられた本があり、それら全体をわずかのズレもないラップ包装が施されており。倉庫で梱包に携わった経験のある方なら実感されることだろうが、複数の商品をズレたり傷附けたりすることなく(たとえば本なら縁が曲がったりしないように)ラップ包装するのは技術が必要なのである。まぁ、1日で習得できてしまうような技術だけれどね。加えて乱歩については、これが店舗在庫だったのだろうか、2冊共に丁寧にビニール封されており、管理カードが入ったままである。管理カードを抜かずに送られてきたのがルールなのか人為的ミスなのか定かでないが、この梱包の丁寧さにはびっくりし、感動し、ひとえに嬉しかった。一回一回の作業に手抜きがなく、心配りがされていて、ブックオフ・オンラインのように機械的なスピード重視品質低下の流れ作業に堕していない証しといえよう。
 わたくしがBOLについて斯くまでいうのは、エンド・ユーザーとしてのみならずそこで働いて出荷に携わっていての実感と反省に基づくものである。とまれ、今回の、ここでの初めての買い物はじゅうぶん満足できる結果に終わった。
 ここがBOLと大きく異なるのは、取り扱いジャンルの傾向がサブカルに重きを置いており、従って商品も書籍や音楽・映像ソフトのみならずフィギュアやトレーディング・カード、AV機器、同人誌や同人ソフトなどなど多岐にわたる。このあたりはまんだらけと同じと思うてよいか。もっとも、まんだらけでは乱歩はともかく、内田百閒の随筆や田中阿里子の歴史小説が取り扱われることはないと思うけれど。
 前述の文庫の一件があるまで、わたくしはBOLに相応の信用を置いていた。が、それは本来ならば出荷する以前に入庫させるべきですらなかった商品を、検品を疎かにして発送したことで(ちなみにそれはサイトのガイドラインにも同様の趣旨が明記されていて、またスタッフの研修に於いても徹底されているはずなのだが)地に堕ちた。カスタマー・センターの担当者の対応がそれに拍車をかけた。一事が万事である。
 信用失墜しようが先方にはわたくし以外の顧客が何十万といることだから屁とも思わぬだろうが、BOL以外の買い物先を探す必要が今回生じたことで、もとより屋号のみは知っていたその店で今回不安混じりの初めての買い物をしてみた。これは大当たりであった、と報告しておく。取り扱いジャンルの傾向とわたくしの嗜好が大なり小なり齟齬を来していることから、一ヶ月に一度程度利用すれば上等といえるが、今後も折に触れてここで買い物するであろうことは確かである。初回の満足はその後も継続されており、一度限りの奇跡ではない、とわかったからだ。
 その店の屋号は、駿河屋である。◆

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第2567日目 〈仕事帰りの<巣>を探すことの困難について。〉 [日々の思い・独り言]

 つくづくと過去の勤務地が恵まれた場所にあったことを痛感している今日この頃。
 いや、いまのところも新宿なんていう幾らでも候補地が見つかるはずの場所なんだけれど、然に非ず。人が多くて店内が狭くて、しかも閑散とする時間帯がないという、却って悪しき傾向に囚われた場所なのだ。
 乗換駅にも何カ所かあるけれど、北と南に日本有数のオフィス街を抱えるゆえにどこもかしこも混雑、混雑、混雑。店内は狭く、自分が立ち寄れる時刻に閑散とすることはまずあるまいという具合。しかも新幹線や長距離バスの利用客もいて混雑に輪を掛けるっていうね。大型書店の裏手にひっそりとたたずむ喫茶店/カフェもあるのだが、こちらは閉店時間が他より1時間も早いとなれば、ここも使い勝手が良いとは到底いえない。嗚呼!
 いまは通勤ルートにあって帰宅に支障ないエリアの探索と、そこにあるカフェをネットで探して訪ね、判決を下す日々を送っている。明日は地下鉄の途中駅にある店を偵察してみよう。そこも使えないとなれば、……平日は原稿を書いたりするのに相当な支障が出ることは疑うべくもない。金曜日ならば穗乃果ちゃんの実家近くにある喫茶店/カフェに(乗換駅を通り越して)こもることも可能なのだが……。
 それにつけても、おお、神保町と横浜は恵まれた場所であった。かというてまさかサード・プレイス/アトリエ/《巣》欲しさの一心から異動希望を出すわけにもゆかぬ。それは社会人として褒められたことではない。困った、困った。
 考えあぐねてみくらさんさんかは一つの結論に至る──いっそ、新宿御苑近辺や神保町/淡路町あたりにマンション買っちゃおうか、と。やれやれ、愚昧なる妄想よ。◆

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第2566日目 〈小説完結のお知らせと、これからの本ブログのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 2017(平成29)年04月06日を以て、昨年10月02日からこっそり更新を続けてきた小説『ザ・ライジング』完結と相成りました。ここに謹んで昨日まで忍耐強くお読みいただいた読者諸兄に感謝の意を表したく存じます。
 顧みれば2003年1月10日に筆を起こし、途中人生を揺るがすようなアクシデントがあったけれどなんとか気持ちを奮い立たせ、同年12月末日に第一稿の筆を擱いたのでした。その数日後、舞台となった静岡県沼津市を訪れ、ぼんやりと日暮れの駿河湾を眺めて過ごしたものでした──そこには子供の頃の思い出がいっぱい詰まっている……。
 こうして電脳空間にて不特定多数の目に触れる形で公にしたことは、本作が孕む大小様々の瑕疵を、作者のわたくしへ突き付けることにもなりました。でもこれはとっても貴重な経験で、読者の顔が見えるSNSではどうしても馴れ合いになってしまい、こちらとしてもどこかに甘えた気持ちを抱いてしまっていたことでしょう。目に付いた部分は手入れして風通しを良くしたり、加除訂正を加えたりしていましたが、それらはあくまで小さな箇所に対しての手入れでしかなかったので、今後折を見附けては全体を見渡した更なる改訂作業に入りたく思います。
 半年にわたるご支持ご愛顧ご愛読に、改めて御礼申しあげます。どうもありがとうございました。
 実は本作には既に形になった番外編ともいうべき短編が存在します。こちらも少し時間が経ったら同じようにお披露目できたらいいな、と考えております。



 ──さて。聖書という本ブログ最大の<レーゾン・デートル>を失ったあとの喪失を埋める意味もあって、昨秋から『ザ・ライジング』をお披露目してきたわけですが、お察しのようにさっそくわたくしは今後のことに頭を悩ませております。
 <死海写本>や<グノーシス主義>、或いは聖書やキリスト教に関するエッセイも書きたいという希望はあってもなかなかそちらへ意欲が駆り立てられることが(残念ながら)なく、同様に「マカバイ記・一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読書とそれに伴うノートの執筆・お披露目も叶うことがなく……。
 現在は書評というのもおこがましい読書感想文を清書して、ここで発表してゆくことで延命することをかなり真剣に検討しております。モレスキンのノートを開けば、推理小説に偏るけれどそれぞれの作品について書いた文章が、定稿未定稿の別なく眠っている。これらを一つ一つ取り挙げて手を施してあげれば、それなりに読めたものとなるように思うておる次第であります。
 更新頻度については、たぶん落ちるでしょう。わたくしを取り巻く現状/環境が毎日定時更新を難しくしております。ゆえ、『ザ・ライジング』完結後はしばらくの間、週に1回の更新となってしまうことをあらかじめここで申しあげておきたく思います。
 愛ある読者諸兄よ、今後ともどうぞ宜しくご支援ご愛顧ご愛読の程、お願いいたします。

 「互いに相手を受け入れなさい。」(ロマ15:7)◆

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第2565日目 〈『ザ・ライジング』エピローグ 1/1〉 [小説 ザ・ライジング]

 二〇〇三年十二月二十五日、午後一時二十三分。
 室内は閑散として実際以上に広く見えた。昨夜目が覚めたときにそばにいた看護婦に訊くと、ここは自宅から一キロばかり離れた市道町の千本病院だという。真南に面しているため、冬のやわらかな陽射しが差しこみ、暖房を入れる必要を感じないぐらいだった。眼下には子持川がさざ波をきらめかせて流れている。本来は二人部屋なのだが、いまは希美一人ということもあって、室内を仕切るカーテンは取り外されている。空いていたベッドやテレビも、ロッカーさえも運び出されていた。実際以上に部屋は広く見える。沼津署の計らいということだったが、大げさだな、とそれを聞かされたとき、希美は苦笑しながら思った。この部屋のある病棟の看護婦達からは、どうやら警察の関係者であると思われているらしい。ベッドで眠る希美を訝しげに見る看護婦の視線から、重要人物待遇で慮られているのがよくわかった。さすがに面と向かってはいわないけれど、「あなた、いったい何者なんです?」と問いたげな看護婦の視線がときどき感じられた。
 いま、病室には彼女の他は誰もいない。静かだった。希美は広げていた新聞をたたんで、テーブルに置いた。同じように四分の一の大きさにたたまれた新聞が何紙か、既に積み重ねられている。どれも目覚めてすぐ、看護婦に頼んで揃えてもらったものだ。目的は白井正樹の死亡記事。どの新聞もほぼ似たような扱いでその記事を載せていた。通り一遍の事実だけが綴られ、テレヴィで知った以上の情報はまったく得られなかった。それは即ち、希美が求める情報は欠落していることを意味していた。池本先生はなんで私の大切な人の命を奪ったのだろう。そこに痴情のもつれがあったのか、それとも、たまたま白井がその場に居合わせてしまったのか……。それを希美は知りたがっていた。池本玲子は逮捕されてから何一つ喋ろうとしていないらしい。
 深く長い溜め息がもれた。視線が新聞の山から窓外に向けられた。
 一生忘れられないクリスマスになっちゃったな……。なんだかふしぎ。この半年で両親と死別し、将来を誓った男性と出逢い、永別した。いったい今年ってなんていう年なんだろう。
 扉をノックする音が聞こえた。「はあい?」と返事すると、細く開けられた隙間から美緒が顔を出した。前髪が目にかかり、唇が薄く開いて心配そうな顔つきだった。扉を後ろ手に閉めて所在なげに立つ美緒に、希美は坐るよう促した。小走りに示された丸椅子へ移動する美緒を見て、希美はやすらかであたたかな気持ちを胸の底に覚えた。と、それと共に、なにごとかを隠している表情でもあるのが、気にかかった。しかし、それはあまりいまは気にならなかった。美緒がここにいるというだけで幸せだったからだ。
 「もう起きてるんだね。よかった……」
 「いろいろ心配かけちゃってごめんね」毛布の上で両掌を合わせて希美はいった。「でも、うれしかった。みんなが来てくれて……真里ちゃんや田部井さんまで」
 頷きながら美緒は「みんな、希美ちゃんが好きなんだよ」といった。「警察や消防署の人がたくさんいて、びっくりしちゃった」と笑顔で付け加え。
 それからしばらく二人の間に沈黙が訪れた。が、決して居心地の悪い沈黙ではなかった。むしろ幸せさえ感じられる沈黙だった。彩織や藤葉、真里のときとは異なるそれだった。――沈黙は美緒の「そうだ」という小さな声で破られた。
 「希美ちゃんに渡すものがあったんだ」そういいながら美緒はトートバッグの中を漁った。「それで一人で来たんだよね……」
 「渡すもの?」おおよそ察しはついたが、そうか、あれを美緒ちゃんに渡していたんだっけ……。
 「うん、そう。――あ、これだ。はい」と美緒が差し出したのはA4大の茶封筒だった。中身は死のうと決めた直後に電気のつかない自分の部屋で綴った日記帳だ。美緒ちゃんへ送っておけば安全だ。そう思って封筒に宛名を書いたのは、果たして本当の出来事だったようだ。記憶が混濁していないことに、感謝。
 「日記だね」
 「今朝届いたの」美緒がいった。「ごめんね、――最後の日の日記だけだけど、読んじゃった」
 「謝らくていいよ。読んでもらうつもりで送ったんだから」封筒を受け取りながら希美はいった。
 「希美ちゃん……」美緒は涙のあふれてきた顔を両手で覆いながら、丸椅子からベッドの縁に腰を動かした。そのとき、美緒の頭の片隅を、赤塚さんのことは黙っていよう、という思いがよぎった。それは、また別の機会のお話だ。ややあって、すすり泣く声が病室に響いた。
 「ふーちゃんを責めないでね。私が内緒にして、って頼んだんだから」希美は手を伸ばして優しく美緒を抱き寄せた。気のせいか、泣き声はほんの少しながらやんだような気がする。胸元がやけに熱く感じられる。そういえば、この前は逆だったっけ。希美は数日前をふと思い出した。
 それから何分かして美緒が希美から離れた。涙で濡れた顔をハンカチで拭いた。照れ笑いを浮かべる美緒をこんなに愛しく思ったことはなかった。
 ……ふいに欠伸が出た。時計を見ると――誰かが買ってきてくれたのかしら、この時計?――起きてからもう二時間が経とうとしている。まだ体力が回復したわけでもなく、日常生活を支障なくこなせるレベルではないよ、お金は心配しなくていいから、今年は病院で検査とリハビリに専念しなさい、とさっき検診に来た河井医師がいっていたのを思い出した。長時間起きているのは体に負担をかけるだけ、ってことか。静岡の叔父さんは海外出張中で連絡がつかない、ともいっていたっけ。
 「もう帰るね。希美ちゃん、疲れているみたいだし」そういって美緒は立ちあがった。希美は美緒の気遣いに感謝して、敢えて引き留めようとしなかった。「明日の面会時間にみんなで来るね。……若菜さんも一緒の方がいい?」
 「うーん……」と希美は腕組みをして何秒か考えこんだ。「じゃあ、お願い。着替えを用意しなくちゃならないから」
 美緒は頷いて「それじゃあ」というと、手を振って病室を出て行った。
 希美はそれを見送ると、そのままベッドへ倒れこみ、毛布を顎の下まで引っ張りあげた。天井を仰いでなにとはなしに、来し方へ思いを馳せた。
 ――。
 深町希美は一時間後に寝に就いた。そうして夢を見た。それは大きな海原を望む砂浜を、自分よりも背の高い誰かと一緒になって歩いている夢だった。◆
『ザ・ライジング』完


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第2564日目 〈『ザ・ライジング』第5章 24/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 美緒が行ってしまうと、希美と藤葉だけがその場に残された。二人には友人と救急隊員達のやりとりが、ずっと離れた世界でのさざめきのように、そして、現実の外側の世界から聞こえてくるように感じられた。自分の体を支える藤葉を気遣って、希美は「もう大丈夫だよ」といった。
 「もう死のうなんて思わない、って約束して」と藤葉がいった。途端、涙があふれてき、希美の顔に何粒か降りかかった。「ののちゃんがいなくなったら、私、私……」
 「安心して、ふーちゃん。――私はもうここにいる。ね?」と希美。てへてへといつもの笑みを浮かべながら。そして、「でも、私の台詞じゃないよね」と付け加えた。
 救急隊員らがようやく立ちあがって担架を持ち直し、再び走り始めた。陣頭指揮を執っているのは彩織だった。
 それを背中越しに眺めていた藤葉に、希美は心配げな表情で声をかけた。
 「ふーちゃん――あのことは……部室でのこと……」
 「うん。誰にも話してない――約束したじゃない」と藤葉は答えた。「話すかどうかはののちゃんが決めることだと思ったから……」
 そうだね、とか細い声でいいながら希美は頷いた。「ごめんね。心配かけて」
 視界の端に三体の、光に包まれた人影が現れた。何気なしにそちらへ目を向けた希美は、あっ、と小さな声をあげた。それきり黙りこくってしまった。藤葉がそれを耳にした様子はない。救急隊員達に「早く!」とせかしていた。希美の視線の先には両親と白井正樹が立っている。三人とも打ち解けた様子で談笑していた。本当の親子を思わせる親密さだった。三人はそれぞれに希美を見つめた。もうなにも語りかけてこないが、彼等の瞳は彼女を想う気持ちに満ちあふれている。――あなたに希望を託して死んでいった人々の想いを裏切らないで。それはもしかすると成長した私じゃなくて、パパやママ、正樹さんからの言葉だったのかもしれない、と希美は少しずつ意識の遠のいてゆく中で呟いてみた。もう弱音なんかいわないよ、――ありがとう。ありがとう。
 ――頼りない騎兵隊が到着した。〈旅の仲間〉の三人プラス真里に声をかけられながら、希美は自分が担架に乗せられ、毛布を掛けられ運ばれてゆくのを感じた。体力の消耗と疲れは極みに達していた。そのせいもあってだろう、そのまま深い眠りの淵へすべりこんでいった。◆

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第2563日目 〈『ザ・ライジング』第5章 23/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 ぼやけていた視界が時間を経るにつれて焦点を結んでゆく。声はすれども姿は見えず。暗闇の中で置き去りにされて声の聞こえる方向へ足をそろりそろりと踏み出す。そんな感覚が心をかすめていった。十数センチしか離れていないところに〈旅の仲間〉の他の面々が揃って自分を取り囲んでいる。激しくむせて意識がはっきりと現実へ戻ってきたときから、それはわかっていた。なのに視界は真っ暗なまま。失明したのかな、と思わないでもなかったが、それにしては、近いところでゆらゆらと光の影がゆらめいていた。一つではなく、幾つも。初めは、幻かしら、目が見えなくなったからこそ見えるもう一つの世界かしら、と思いもしたが、だんだんとそれは寄り集まって大きくなり横に広がり……元いた世界の光景が視界に映りこんでくるようになった。夜の世界にも色彩はある。そう希美が知ったのは、このときだった。ほんの少し眼球を動かすと、藤葉と目が合った。髪ばかりか全身がびしょ濡れだった。白井と決別した刹那の後に聞こえたのは、藤葉の声だったのだ、と合点した。泳いで私を助けに来てくれたんだ、と希美は思った。
 「ののちゃん……よかった……」藤葉が顔をほころばせた。
 「のの……のの……」しゃくり声をあげながら、彩織。
 美緒は涙をぼろぼろ流しながら、必死に笑顔を作ろうとした。
 「ずっと一緒にいてあげればよかった。でも、無事で安心したよ」と真里がいった。
 希美は四人を見あげた。「ごめんね、みんな……。ありがとう……」
 耳をすますと防波堤の方から十数人の男のさんざめく声が聞こえてきた。防波堤のすぐ向こうの空が毒々しいまでの赤色に染まっている。とても慌ただしい雰囲気が、否が応でも伝わってきた。滅多に感じることのない空気だった。無線で駆り出されて取るものも取り敢えず、救急車やパトカーが事故や火災の現場へ集中したときに発生する、緊張で張りつめて落ち着きを失いがちな、あのせわしくも独特な空気。え、これってもしかして――
 「そこの派出所に田部井さんがおったからな。声かけて連絡してもろたんや」と鼻の下をこすりながら彩織がいった。
 「――それにしてもずいぶん来たなあ」防波堤のスロープを降りてくる警官や担架を持った救急隊員達を眺めた真里が、半分呆れた顔でいった。その手はずっと希美の手を握りしめている。そして「よかった……」と呟いた。それは折から吹いてきた風のいたずらで誰の耳にも届かなかった。
 沼津署の面々の先頭には田部井が立っていた。後ろの救急隊員達に希美のいる場所を指で示し、せかしている。こうして見ていると、刑事だった頃の片鱗を窺えるようで面白いな、と束の間、希美は思った。濡れた砂浜に足を取られながらも、数人が近づいてくるのがわかる。と、後ろの一人が足許をよろめかせてうつ伏せに転んだ。わずかの間を置いて、他の三人も砂浜へ倒れこんだ。
 彩織が額をぺちんと叩き、あちゃあ、と呻き、真里と共に救急隊員らの傍らへ走り寄った。まだ新人なのか、砂浜での行動は不馴れのようだった。女二人では難儀しそうだ、と判断したか、美緒もそちらへ足を向けた。立ちあがったとき、ちら、と窺うような眼差しで美緒がこちらを見やるのに気づくと、希美はやわらかな笑みを見せて、ゆっくりと頷いた。□

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第2562日目 〈『ザ・ライジング』第5章 22/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 どうにかして足の届くあたりまでくると、藤葉は片膝をついて立つと、波の来ない場所まで希美を引きずっていった。雨に濡れて湿り気の増した砂浜に、自分の足跡と希美の踵がつける二本の筋が残った。ジーンズや厚手のシャツが肌にぴったり貼りついていたが、重く感じただけで他に寒さや気持ち悪さなどは湧いてこなかった。
 「のの! ふーちゃん!」と叫びながら彩織が寄ってき、希美の両足首を握り持って、藤葉と一緒に、彼女と自分が脱いだコートを重ねて広げた場所まで運んでいった。
 「息は! 呼吸はしてるの!?」真里が訊いた。
 藤葉はぴくりとも動かぬ親友の顔を見つめたまま、「たぶん……。でも、反応がないの」と答えた。
 「ふーちゃん、人工呼吸できたよね? できる、いま?」美緒が不安な表情を向けた。見れば美緒のみならず他の二人の視線も、まるで射すように藤葉へ注がれている。「救急の人達が来るのなんて、待っていられないよ」と美緒。
 「――やってみる」藤葉はいった。希美の双房の間に両掌を重ねて置き、タイミングを計ってぐいと押した。二度繰り返す。屈んで鼻をつまみ、希美の唇に自分を重ねた。必死になって空気を送りこもうとするが、親友の命を助けられるかどうか、まったく自信がなかった。それでも藤葉は憑かれたように人工呼吸を行った。それを傍らにいて、押し潰されそうな気持ちを抱えた美緒が見ていることなぞ、いまの藤葉には構っていられぬ問題だった。
 実際以上の時間が流れたようだった。人工呼吸を始めた希美が最初の反応を見せたのは、きっかり五〇秒後だった。ごほっ、と短くであったけれど、希美がむせるように咳きこんだのだ。三人は歓声をあげた。藤葉はなおもそれを続けた。
 すると希美は体を時折くの字に曲げ、断続的に激しく咳きこむようになった。しばらく続いてやや収まった頃、希美がうっすらと、だが確かに両目を開けた。藤葉は自分の目から涙がこぼれるのを我慢できなかった。□

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第2561日目 〈『ザ・ライジング』第5章 21/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美の手を摑んだとき、藤葉は思わず恐怖を覚えた。凍りついたような冷たさが掌から伝わってきたからだ。一瞬ではあったものの、死体みたい、という思いが頭をよぎった。霊安室に眠る妹の死体が脳裏に浮かんだ。天井からの蛍光灯の明かりが妙に寒々しかった。ドラマに出てくる作り物の霊安室や棺と異なって、すべてが白日の下に曝されて白っぽい印象が残っている。とはいえ、病院の地下にある霊安室とそこにいる自分達(両親と祖父の他に美緒がいた。美緒は木之下若菜が息を引き取る少し前からずっと藤葉に付き添っていた)が精密に作られた舞台セットのように感じられたのも事実だった。その霊安室で触れた妹の冷たくなった体を、希美の手を摑んだ拍子に彼女は思い出し、ぞっとしたのだ。
 ののちゃん、死なないで。藤葉はそれだけを願いながら、希美の脇の下から肩へ手をまわして、岸へと泳いでいった。藤葉の視線がなんの反応も示さずぐったりしたままの希美と、こちらを見て希美と自分の名前を連呼する彩織と美緒、真里の間でしきりと動いた。防波堤の向こう側で赤いランプが点灯している。ぐるぐると夜空に円を描いて点滅していた。それは一つではなく、時間が経つにつれて数を増してきている。空の一部が赤い光に染まって、広げられてゆく。時間が経つにつれて続々と、パトカーや救急車が到着してきたらしい。防波堤のスロープをえっちらおっちらと走ってのぼってゆく田部井の姿が見てとれた。足の届くところまで、あと数メートル……。
 「ののちゃん、しっかりして。もうすぐみんなのところに着くからね!」
 そも希美を見つけたのは美緒だった。突然に現れて天空を染めた光の帯が海をも照らし、そこにゆらゆらと揺れる影法師を見たのだ。「ふーちゃん、あれ……」と促され、指さす方向をたどると、重なり合った二人の人影が藤葉の目にも映った。それが希美と、彼女に別れを告げる白井の姿だ、と藤葉は直感した。やがて片方が消え、片方は崩れるようにして海面へ倒れた。美緒が波打ち際まで走り寄って海に入ろうとした。藤葉はそれを視界の端で捉え、真里と共に制止した。それでもなお海に向かおうとする美緒の肩を摑んで、「あんた、ろくに泳げないじゃない。私が連れてくるから、美緒は彩織や若菜さんとここにいな!」と一喝すると、コートとトレーナーとスニーカーを脱ぎ捨て、波打ち際に歩を進めた。なおもぐずる美緒に藤葉は踵を返してなにかいおうとしたが、彩織に「美緒ちゃんのことはええから、ふーちゃん、早う行ってえな!」とせかした。彩織が美緒の手を引っ張って波打ち際から遠ざけようとしているのを見て、藤葉はじゃぶじゃぶと水をかき分けて海の中へ入っていった。……。□

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第2560日目 〈『ザ・ライジング』第5章 20/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 黒い衣の男は去った。消えたのだ。もう姿を現して冥土に手招くこともないだろう。私が死を望まない限りは決して――。
 澄みきった空を見あげると、無数の星が瞬いていた。いまにも降ってきそうでそら恐ろしい気分さえする。希美は己を岸へ寄せてゆこうとする波に身を委ね、虚空に向かって「ありがとう」と呟いた。開かれた目から涙がこぼれた。真珠の輝きに似た大粒の涙が頬を伝い、海へぽちゃりと落ちた。あの人は……正樹さんは身を挺して(っていうのかな。間違えている気がしないでもないけれど)私を助けてくれた。死んでしまってもなお、婚約者の危機に駆けつけてくれた。西部劇の騎兵隊みたいに……ありがとう。死者も愛するってパパがいってたけれど、それってこういうことなんだね。そうなんでしょ、あなた?
 闇の中から「そうだよ、もちろんさ」と白井が応えた。「ついでにいえばね、死者も歌うんだよ」
 希美は声のした方へ視線を流した。少し離れた海上に白濁した光の筒が伸びていた。その中心に黒い粒子が集まって、影法師になってゆく。それは人間の姿になり、容姿を整えていった。光の筒はそれに反比例して薄くなりはじめた。白井正樹の上半身だけが波の上にあった。彼は生前となんら変わらぬ眼差しで希美を見つめている。
 「正樹さん」と希美はいった。一昨日の宵、緑町の自宅のそばで別れたのが、もう何十年も前の出来事に思えた。最後に逢ったときの姿ではあったが、印象はずいぶんと異なった。まるでセピア色にあせた一葉の写真を眺めるような奇異を感じた。私の夫になるはずだった愛しい男性。「あなたの奥さんになりたかったな……」
 白井の手がすっと伸びて、希美の掌を包んだ。この掌を握ることはもうないんだ、と希美は思った。嗚咽が喉までこみあげてきた。涙をこらえるように唇を噛んだ。目頭が熱くなり、涙に視界が曇った。泣かないで、と白井が語りかけてきた。僕まで泣きたくなっちゃうよ。希美は小さく、うん、うん、と頷いて、白井の掌を握り返した。彼は腕に力をこめて希美を立ちあがらせた。そっと肩に手を寄せた。
 そのとき、希美は気がついた。夜空が表情を変え始めたのを。わずかにちぎれて浮かんでいた雲がすごい勢いで南の空の彼方へ移動してゆく。闇の統べる空は黄金色に照り輝き、刹那の後に再び闇へ色を譲り、空には神秘的な彩りを纏った光の帯が現れ、緑色を基調として、ゆらめいて形を変化させた。いつしか光の帯は渦を巻き、奔流となって、空を覆いつくさんばかりの絨毯となって広がっていった。
 光の帯の舞踏はいつしか数千の粒子となって海面へ降り注いだ。幾つかが二人のまわりに音もなく落ちてきた。光に照らされた自分と白井の姿が影となって海上へ伸びてゆくのを、希美は視界の端で捉えた。
 刹那の後、希美はそっと抱き寄せられた。これまでのどの抱擁よりも官能的で居心地のよいそれだった。白井の胸に頬を寄せ、掌をあてた。ともすれば心臓の鼓動も聞こえてきそうだ。結婚したら、と希美は頭の片隅で考えた。ほとんど毎晩、私はここで眠りに就くことになっていたのかもしれない。開いた掌を拳固にし、体を硬くした。これが最後なら、正樹さん、せめて――
 希美は白井の腕から離れ、彼の首に手を回すと、自分から荒々しく唇を重ねた。互いの唇が何度となくぶつかり合い、相手を激しく求め合った。彼がどんな姿だろうと知ったことか。いまキスしている相手は他の誰でもない、私が生涯で初めて本当に愛した男性なのだから。唇を重ねていたのは途方もなく長い時間に感じられた。だが、どんな幸福もいつかは終わりの時が訪れる。希美は唇を離した。唇に残る火照りとときめきと涙の味を、私は一生忘れないだろう。
 お別れだ、と希美ははっきりと悟った。こうして逢うことはもうない。
 「金輪際、死のうなんて思わないよ。もうなにがあってもへっちゃら」と、体が透け始めた白井にいった。気のせいか、白井の顔が安心したようにほころんだ。
 「あなたの分まで生きるから。いつまでも――パパとママと一緒に、正樹さんも見守っていてね」
 白井がにこやかな顔で頷くのを認めると、希美は、てへてへ、と笑いながら手の甲で涙を拭った。力強く、思い切り。
 白井正樹の姿は見えなくなった。周囲には夜半の海の景色が戻ってきている。
 さよなら、と希美は口の中で呟いた。
 それからややあってのことだった。波間に漂う希美が、「ののちゃん!」と叫びながらこちらへ泳いでくる藤葉に気がついたのは。だが、希美にそれへ応えるだけの体力はなかった。□

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