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第2585日目 〈気にするな、キミたちはなにも悪くない。〉 [日々の思い・独り言]

 相も変わらず朝の首都圏の通勤電車は遅延しまくりだ。曰く、人身事故のため。曰く、急病人の発生/救護を行い。曰く、車内トラブルがあり。曰く、◌◌駅のホームにて異常を知らせる非常ボタンが押されたため。曰く、◌◌駅のホームから人が転落したとの情報があり。曰く、踏切内に車両が閉じこめられたとのことで。エトセトラ、エトセトラ。
 そうして今朝は、線路内に人が立ち入ったとのことで……。当初は全線で運転見合わせ、じきに運転再開したものの大幅にダイヤ乱れが生じており、解消までに数時間を費やす模様。京浜東北線の話である。
 京浜東北線といえば埼京線や小田急線と並ぶ、首都圏の通勤電車に於ける人為的遅延率の上位ベスト・スリー(ん、これはワーストというべきか?)に挙がる路線なのだが──個人的な感想です──、それでも利用客が減らないのは企業密集地帯を通っているから。勿論渋谷、新宿、池袋は外れるけれど、品川や東京、田端で乗り換えれば済む話。
 ところで今日の運転見合わせ→遅延の原因が、線路内へ人が立ち入ったことによるのは既に述べた。最寄り駅のホームでアナウンスを聞いたときは「またか」ぐらいにしか思うていなかったのだけれど、よくよく聞けば場所は浜松町と新橋の間とのこと。え、あすこって高架になっていなかったっけ? どうやれば立ち入れるんだ?
 続報によれば痴漢扱いされた会社員が、華麗なフォームを決めてみせたかはともかく線路内に飛びおりて、命の危険を察した被捕食動物の如くの勢いで逃亡中の由。更なる情報によれば、駅員が本気走りして追いかけたが見失った、仕方ないので運転再開しますが但し徐行運転となります、お急ぎのところ電車遅れまして大変申し訳ございません云々。──車掌氏がなかばキレ気味にそうアナウンスしていたのが印象的じゃった。
 しかしねえ。痴漢扱いされたからって線路に飛びおりて逃げるのはやめてほしいな。数ヶ月ばかり前だったか、板橋の方で同様の報道がされてから今日までに何度となく模倣犯が出没した。真似するな、といいたい。危ないよ。他の電車に接触して怪我したり、それが原因で轢死したらどうすんだ。貴方や貴方のご遺族には何億てふべらぼうな賠償金を払ってゆく能力があるのか。そうしてご家族/ご遺族の被る諸々の迷惑について想像してみるがよい。貴方は卑劣だ。
 もし貴方が潔白で冤罪だというならば、その場で一歩も退かずに異議申し立てをしよう。相手の間違いを正そう。それでも相手が納得せず、あくまで潔白である貴方を痴漢と断定・糾弾するならば、もはや長期戦は避けられまい。相手の言い分が事実ならば、貴方のDNAや上皮組織、(部分であれ全部であれ)指紋が相手の衣服に付着しているはずだ。かならず痕跡は残る。鑑定してもらえ。否、相手がどれだけ喚こうが鑑定させなくてはならない。そうして結果を突き付けて謝罪させるべきだ。
 が、もしも貴方が相手の告発通りの行為を行っていたのなら……素直に白旗を揚げる他ない。変にごねたり、言い訳をしないのが賢明である。貴方や貴方のご家族には冷たい物言いかもしれないが、自分の犯した罪は償うべきだ。それが法治国家の民の義務。むろん、それは法の下した範囲内、モラルを弁えた市民の良識の範囲内での贖罪である。フィクションでお馴染みの、相手の増長や脅迫、強請、たかりに付き合う必要はない、ということだ。
 利用客、鉄道会社の職員、電車の乗務員は毎日毎日、電車の遅延や運転見合わせの連絡に敏感になっている。それらが発生するたび、利用客は憤慨し要らぬ客同士の諍いが発生し、職員は状況把握と振替輸送の手配に東奔西走、乗務員は二転三転するリアル・タイム(ほぼ)の情報と利用客からの突き上げに胃を痛くする。朝の通勤電車は人の心をすり減らす。現代人のストレスの原因の一つ、って絶対これだよなぁ。
 でも利用客の(おそらく、たぶん、きっと)すべては心の片隅でわかっている。今日のような人為的運転見合わせ/遅延の場合、鉄道会社の職員や電車の乗務員にはなんの咎もないことを(自然災害の場合は尚更だ)。当事者以外は誰も彼も被害者だ、と『CSI』シリーズで誰かがいってた。だいじょうぶ、気にするな、キミたちはなにも悪くない。Don’t worry be my happy.◆

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第2584日目 〈ひとまず水はいらない、喉の渇きは収まった;綾辻行人読書マラソンは一旦終わります。〉 [日々の思い・独り言]

 性格ゆえか、そのジャンル、その作家へコミットしてしまうと他を顧みること甚だ珍で、豊穣の実りを享受する一方で幾分かの飽きも生じる。目下のところ、そのような作家がいるかといえば本ブログでもはやお馴染みとなった綾辻行人が該当するが、流石に惰性で読書している部分があるのは否めぬ状況に相成ってきた。
 特定の作家へコミットするとはいっても、一度に全作品を読み倒すことは稀である。必ずというてよい程中断を挟むのがわたくしの場合は、常。その中断がどれだけの期間となるかはともかく、干からびて飢えたる喉も臨界を越えれば水の摂取を拒むのだ。
 夢中になって読み耽り、瞬く間(まぁ、そういうことにしておこうぜ)に消化した<館>シリーズ以後は機械的に本を手に取りページを繰り……殊更感慨など表明するまでもない漠とした気持ちのまま消化してゆき、現在に至っている(※1)。
 為、綾辻行人も次に読む『深泥丘奇談・続々』(角川書店)と『霧越邸殺人事件』完全改訂版(角川文庫)でこの読書マラソンは一旦打ち止め、作家コミット型読書の慣習となりつつある中断期を挟んだ後にその読書を再開したい。即ちこれは、第一期完了と第二期開始の予告なのだ。
 実は第二期で読む作品は秘かに買い集めて準備だけは万端である──然る後に提起される問題点は、その一;再開はいつか? その二;本当に再開されるのか? に尽きるわけで……まぁ、善処する気持ちでいる。購うた本を読まずして古本屋へ処分したくないものね(※2)。
 ──なに、質問がある、とな。承ろう。ほう、お前がこの文章を書いた理由を知りたい、と。成る程。この世には知らぬ方が幸せだ、ということもあるのだが、まぁ今回は特別にお答えしよう(偉そうだよねぇ、何様かしら)。
 『奇面館の殺人』のあとで読んだ作品には個々の感想文を書くだけの、思い入れも情熱も持てなかった──これが答えだ。従って次に本ブログでお披露目されるのは『どんどん橋、落ちた』ではない。具体的にどの作品の感想文を書くか決まっているわけでも、ない。ただ、『深泥丘奇談』全三冊の感想文は書く。もっとも各冊ではなく全体のそれになるけれど、当該作について書きたいことが幾つかあるので、ね。
 綾辻行人読書感想文の本ブログへの掲載は、『深泥丘奇談』或いは『霧越邸殺人事件』を以て第一期の完了宣言を行う。但し、来週の今日それがお披露目されることはない。なぜならば、まだ『深泥丘奇談・続』を半分ぐらいしか読んでいないからだ。八月中にお披露目できれば万々歳である。声高に、胸を張って曰う程でもないけれど、まずはそのようにご報告しておきます。◆

※1
<館>シリーズ後に読んだのは、『どんどん橋、落ちた』新装改訂版(講談社文庫)と『フリークス』(光文社文庫)、『眼球綺譚』、『深泥丘奇談』(いずれも角川文庫)。そうして現在は『深泥丘奇談・続』(同)、並行して『人間じゃない 綾辻行人未収録作品集』(講談社)である。

※2
来たる第二期の準備に購うたのは、<囁き>シリーズ(講談社文庫)と『Another』シリーズ、『最後の記憶』(いずれも角川文庫)である。……あれ、これだけだっけ?□

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第2583日目 〈綾辻行人『奇面館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『奇面館の殺人』を満足の溜め息と共に読了した。鹿谷門美が活躍する<館>シリーズに接するのは久しぶりである。『十角館の殺人』から順に、間を置かずに読んできたわたくしがそうなのだから、リアル・タイムでシリーズを追ってきた人は尚更だろう。まぁ、前回かれが探偵役を務めて動いたのが6作目『黒猫館の殺人』で、本作との間にあるのがあの『暗黒館の殺人』と『びっくり館の殺人』だからね。感慨はどちらの立場であっても、深い。というわけで読者よ、喝采せよ、探偵・鹿谷門美の帰還である。
 『暗黒館の殺人』がミステリ要素薄めで専ら幻妖の世界へ軸足を置き、『びっくり館の殺人』がミステリとはいえど軽量級だったのに対し、『奇面館の殺人』は王道中の王道、待望の本格ミステリである。前2作に肩透かしを喰らわされてインターネット上で怨嗟を綴ったガチのミステリ・ファンもこちらが刊行されたことで溜飲をさげた向きが多いのではないか。
 シリーズ第9の館、奇面館はなんと東京都にある。具体的なことは書かれていないが都下のどこか──おそらくは日野市から更に奥の方と思しい山中。そこは例に洩れず人里離れた場所で、10年に1度の割合で大雪に見舞われ周囲から孤立するという、殺人事件にはお誂え向きの環境だ。然様、作中で奇面館は孤立する──10年に1度の大雪のために。お約束の「吹雪の山荘」である。事実上の密閉空間である館の、更なる密室で事件は起きた。むろん、完全無比の密室などあり得ない。秘密の抜け道? 秘密の隠し戸? 勿論ありますとも! 密室殺人が解決されるためにそれらは欠くべからざるアイテムなのだから。しかも舞台は奇面館、即ち中村青司の館なのだから、なにをか況んや、である。
 雪で閉ざされた山荘、曰くありげな正体主(館主)と一癖も二癖もありそうな招待客の面々、密室での殺人事件。斯くして探偵は立ちあがり、丹念に手掛かりを集め、容疑者のアリバイと言動を検め、クライマックスで一同が介したところで「犯人はあなたです」と指さす。考えてみればこの王道パターンも、<館>シリーズではずいぶんとご無沙汰だ(『迷路館の殺人』以来か?)。そうした意味で本作は原点回帰を果たした作物といえるかもしれない。
 さりながらシチュエーションに限っていえば、『奇面館の殺人』はこれまでのどれにもまして<異様>である。館の主人の意向で招待客は皆、意趣を凝らされた仮面をかぶらされるのだ。しかも仮面は頭部をすっかり覆うもので、後頭部のあたりで鍵が掛けられる仕様である。おまけに本文では誰彼を指すとき人名ではなく、仮面の名称でされるものだから紛らわしいことこの上ない。『奇面館の殺人』には所謂登場人物一覧がないので、面倒とは思うが混乱してしまいそうなら自身で一覧を作るのをお奨めする(もっともクライマックスではそんな努力を空しうさせかねない事態に見舞われるだろうけれど、おそらくはそのせいもあって『奇面館の殺人』には登場人物一覧が付されていないのかもしれない)。
 『奇面館の殺人』のキモは、ホストの影山逸史が<もう一人の自分>を探す目的で同年同月日生まれの人物を招待していることだ。それに加えて、かつ運命のいたずらか、皆が皆似たり寄ったりの背格好なところにある。そうした人々が、デザインは異なると雖も仮面をかぶって滞在中は過ごすことを義務附けられ、殺人事件の発生後はそれが犯人の画策で外せなくなってしまうと、もはやその仮面の下にあるのが誰の顔なのか、互いに疑心暗鬼を募らせるのも当然だろう。
 正直なところ、都度都度前の方を読み返し、気掛かりな点を検める労を惜しまなければ、真犯人を当てるのはそう難しいことじゃあ、ない。だいじょうぶ、わたくしでさえわかったのだ。が、鹿谷によって犯人が特定されて、その動機が犯人の口から告白されたあとに明らかとなる──もしあなたが登場人物一覧を作っていたら、それを反故にしてしまうような──記述には、参った。さすがにこんな仕掛けが用意されていることまでは見抜けなかった。降参である。そこまで徹底していたんですね、影山さん。思わずそう独りごちてしまったよ。たしかに、このあたりは『十角館の殺人』などシリーズ初期作品を彷彿とさせるかもしれないね。
 手掛かりはすべて提示された。それは物理的なものであり、また、台詞に、叙述に埋めこまれてもいる。一々を検めながら謎解きに耽る愉しみを、わたくしはようやっとこの作品で経験できた。いやぁ、詰めが甘かったとはいえ、犯人が当たるってうれしいね!◆

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第2582日目 〈綾辻行人『びっくり館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『暗黒館の殺人』を読了した翌日から『びっくり館の殺人』を読む。それはちょっと苦痛を伴うものであった。物語の軽さ、密度の薄さにとまどい、それに折り合いを付けられないまま巻を閉じるに至ったからである。
 作者は機会ある毎に『びっくり館の殺人』はシリーズ番外編にあらず、正統なる第8作なり、の考えを発信してきた。にもかかわらず、本作を否定する向きは多いようで、それはおそらく本作の出自に大きく由来するのだろう。
 『びっくり館の殺人』の親本はお馴染み講談社ノベルスではなく、<新本格ミステリ>の産みの親、名伯楽・宇山日出臣が企画した《講談社ミステリーランド》叢書の1冊として刊行された。作者が「初めて『少年少女向け』を念頭に置きながら」(『奇面館の殺人』下P329)執筆した作品である。
 が、対象年齢がどうあれ綾辻行人は手を抜かない。甘い言葉でお茶を濁したり、勧善懲悪メデタシメデタシで終わる展開になどしたりしない。手加減なし。それが証拠に作中で2度起こる殺人事件の真相や動機、どこか常軌を逸したびっくり館住民の言動、かれらのファミリー・ヒストリー、阪神・淡路大震災とのリンクなど、結構グイグイ攻めてくるタフネスかつダークネスな作品となっているのだよ、この『びっくり館の殺人』は。
 良くも悪くも本作は、(見ようによっては『暗黒館の殺人』以上に)読者の評価が大きく分かれる。道尾秀介のようにシリーズ屈指の傑作と評価する人もいれば、手応えのなさと殊ラストの不明瞭さに本を抛り投げ、知る言葉を動員して罵倒を尽くす人もいる。わたくし? さあ、どちらでしょうね。本稿をお読みいただけば、おわかりでは?
 兵庫県A**市六花町にある古屋敷龍平氏の邸宅、通称「びっくり館」は1964年、中村青司によって設計されたシリーズ第8の館。判明している限りでここは中村青司が、まっさらな状態から設計図面を引いた最初の館となる。施主の古屋敷龍平氏はかれを「信頼をおいていた古い友人に紹介され」(P204)たそうだが、この旧友とはいったい誰だろう? 候補に挙げられるのは浦登征順か神代教授なのだが……。
 『びっくり館の殺人』は2005年6月、語り手の永沢三知也が子供時代を過ごしたA**市を訪れる場面から始まり、自身第一発見者となる殺人事件が発生した1994年8月末から12月にかけての出来事を回顧する、いわば額縁小説の体を取る。シリーズの時系列でいえば『びっくり館の殺人』は次作『奇面館の殺人』の翌年のお話だ。鹿谷門美が三知也相手に口にした「不気味な仮面をモティーフにした館」(P138)とは奇面館を指す。時系列に於いて『びっくり館の殺人』はシリーズ最新の事件を扱っているのだ。備忘を兼ねてここに記す。
 本作で作者はこれまで以上の遊び心を発揮して、読者を楽しませてくれている。たとえば、登場人物に中井英夫『虚無への供物』やポオ「黒猫」を読ませてみたり、昭和29年の洞爺丸沈没事件に関係者を遭遇させていたり、或いは映画『エクソシスト』や『オーメン』を連想させる数々の描写があったり、と。若年の読者が将来なにかの拍子にそれを思い出して、観たり読んだりするきっかけとなれば、と願うてのことである由。
 作者の思いを恣意的に受け取れば、若き中村青司が施主の養女を気にかけており、館の竣工時にサティのピアノ曲のレコードをびっくり箱仕立ての建築模型と一緒に贈った、という昔語りも『暗黒館の殺人』を未読の人へのプレゼンテーションと見ることだって可能だろう。養女の名は、古屋敷美音……「みお」、である。
 『びっくり館の殺人』の要諦を担うのは、やはり古屋敷梨里香(龍平氏の孫)だろう。弟俊生の口から、腹話術人形リリカの口から、亡き梨里香についての幾つかの証言。曰く、ときどき瞳がいろいろな色に変化した。曰く、怖い顔をして不気味な呪いの言葉めいたことを呟いていた。曰く、まわりの人を自分の意のままに操っている。そうして梨里香は母、美音から「悪魔の子」と呼ばれていた……。ちなみに梨里香の誕生日は、嗚呼! 6月6日なのである。
 『びっくり館の殺人』は日にちを置いて読み返すと作中に仕掛けられた怖さが、じわり、じわり、と読み手のなかに染みこんできて、思い出すたび悶々とした気持ちにさせられる類のお話。そうして気になり始めるとそう簡単に心のなかからこれが消えることはなく、いつの間にやら再び本書を手に取って読み耽る羽目になるお話。そんな不思議なポジションを占める作品なのだ、『びっくり館の殺人』は。◆

 追記
 講談社ノベルス版巻末には、道尾秀介を相手にしたネタバレ満載の袋綴じ対談が収録されている。なかなか示唆に富む内容にもなっているので、こちらも是非お手許にどうぞ。□

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第2581日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉3/3 [日々の思い・独り言]


 『暗黒館の殺人』と『十角館の殺人』の相関は以上を以て区切りとし、ここから先は駆け足で『水車館の殺人』から『黒猫館の殺人』までシリーズ諸作の要素が『暗黒館の殺人』に反映した箇所について述べてゆく。ちょっと長めの備忘と思うていただいても構わない。
 暗黒館には昭和18(1943)年、<幻視の画家>藤沼一成が訪れて仮称「時の罠」を描き、おそらくは同じ時期に「緋の祝祭」と「兆し」と題する絵画を贈った(第3巻P484-87、第4巻P229-32)。作品クライマックスの火災を免れて残った作品は1970年代中葉、画家の息子紀一に請われて所蔵先を暗黒館から岡山の水車館に移している(第4巻P377、『水車館の殺人』P79-80)。
 今度は戦後、昭和25(1950)年10月に探偵小説作家・宮垣杳太郎(※)が、父を通して知己であった浦登征順を訪ねて、暗黒館へ来た。このとき宮垣は処女作『瞑想する詩人の家』(初版?)に署名して、贈っている。馴染みある旧姓時代の征順の名を為書にして(第2巻P401-03、第4巻P338-41)。宮垣杳太郎は丹後半島・迷路館の主人である。
 火事で焼失した暗黒館・北館の再建にあたって、浦登柳士郎は懇意にしていた古峨精計社社長(当時)、古峨倫典へ1階サロンの壁に埋めこむからくり時計を特注した。その時計は、午前の正時には<赤の円舞曲>を、午後の正時には<黒の円舞曲>を、それぞれ奏でるよう設定されている。この2曲は若かりし頃の浦登美惟が作曲したもの(第1巻P528-33)。古峨倫典は鎌倉・時計館の初代館主である。
 『黒猫館の殺人』のモティーフ、<アリス>は美鳥と美魚姉妹の飼い猫チェシャの名に明かだが、鏡合わせという点を考慮するならなによりも美しきシャム双子の彼女たちの格好を指摘できようし、併せて彼女たちの私室の造作、家具調度(書架の本を含む)までもその範疇に入れられるだろう。
 また『暗黒館の殺人』第2巻「解説」で佳多山大地が、本作と『人形館の殺人』の相関について<封印された記憶>を指摘している(P453)が、これは蓋し卓見と思うた。まったく気附かなかったなぁ。
 ──斯様に『暗黒館の殺人』は新装なったあとの先行6作を統合する役割をも担った。これを旺盛なるファン・サービス(=一見さんには敷居が高い)と取るか、作者の自己満足とひねた見方をするか(事実、こうした見方はある)。或いは、これまで断片的に提示されていたシリーズの構成要素に有機的つながりを持たせた腐心の成果と評価するか。読み終えた者の読解力と省察力によって印象は異なろう。即ち、これまでの読書履歴(量と質)と読書姿勢が問われることにもなる。
 統合云々は置いておくとしても、時系列でいえばこれが出発点となったことを併せて考えれば、その後中村青司が手掛けて江南孝明&鹿谷門美がかかわってゆくことになる館、そのそれぞれの施主が如何なルートで中村青司を知り、自邸の設計を依頼したのかも自ずと明らかであろう。未だ姿を現さぬ第10の館についても、それは同じであるまいか。
 なお、余談ながら旧文庫版「あとがき」で作者は中村青司に触れて、(『十角館の殺人』では死亡としたけれど)その実いまは生死不明ってことにしようか……、と嘆息していることを紹介しておきたい(P348)。

 筆を擱く前に老婆心じみた忠言を。ゆめ読み急ぐなかれ。机にかじりついて一語一語を精読する必要はないけれど、活字の表面にただ視線を滑らせるのではなく、一行一行を丁寧に読み、時には前の方へ戻って鏤められた伏線や描写を検めるなどしながらゆっくりと、それこそ狐こと山村修の井上究一郎訳プルースト『失われた時を求めて』に寄せた書評の一節ではないけれど、ゆっくりと、時間を失いながら読んでゆくべきなのだ。
 文庫版『暗黒館の殺人』全4巻に読み応えある解説を寄せた佳多山大地の表現を援用すれば、作品のなかに降り積もった長き時間を辿るように読者もまた腰を据えて時間を失ってゆく法悦へ身も心も浸かればよい。物語はそれに見合った読み方を読者へ求める。その意を汲んだ読者ならば、『暗黒館の殺人』を長すぎるとか読みにくいなどというだけの、的外れで己の読解力の浅さを露呈するような意見を無自覚にインターネット上へあげる愚は、けっして犯さないだろう。◆


 ※「宮垣杳太郎」の表記は『迷路館の殺人』と『暗黒館の殺人』で混在している。
 旧文庫版・新装改訂版『迷路館の殺人』と講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』では「葉太郎」、文庫版『暗黒館の殺人』では「杳太郎」となっているのだ。
 それぞれ初刊の刊行年月を挙げると、『迷路館の殺人』旧文庫版は1992年5月、新装改訂版は2009年11月、講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』は2004年9月、文庫版『暗黒館の殺人』は2007年10-11月である。
 文庫版『暗黒館の殺人』と、そのあとで新装改訂版が出された『迷路館の殺人』で表記が異なる理由については不明だが、本稿に於いては文庫版『暗黒館の殺人』に従って「宮垣杳太郎」で統一した。現時点で流通する各版でこの点が解消されているのか、調査は行っていない。
 序に申せば『奇面館の殺人』では「宮垣杳太郎」と表記されている(上巻P355)。□

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