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第2590日目 〈『ラブライブ!』舞台となった街への想い。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ脇目も振らずに読書し、小説を書き、専ら特定のアニメを観るのに耽っているのは、現在の自分を取り巻く人間関係の何割かに或る種の不満を抱いているからだ。かてて加えてようやく忘却し果せた一年前の亡霊の残滓とこれから付き合ってゆかねばならぬことに嗟嘆する日々が始まるのを知ったからだ。
 古巣へ再び還るまでぜったい会社を辞めない、と誓っているので夜逃げのように姿をくらますつもりはまるでないのだが、前途へ暗雲が立ちこめ、常に黄色信号が点る事態となったのは間違いなさそうである。警戒せよ、敵は身内にあり。言動に留意して、殺られる前に殺れ。
 要するに毎日毎日鬱勃としたものを感じ、9時から5時までタイムカードで切り取られる以外の時間はひたすら逃避に費やしているのだ。こうなる前から営々と行ってきた読書と創作に一層身を入れ、或る作品を契機に再燃したアニメ鑑賞に拍車が掛かっているのは、そうした所以であった。
 「或る作品」が『ラブライブ!』だということは、これまでにも本ブログにて何度か告白しているので改めてここで表明するまでもないか。その『ラブライブ!』の続編として昨夏放送された『ラブライブ!サンシャイン!!』の第二期が、来月10月から始まるのをわたくしは首を長くして待ちくたびれている次第。それに先立って『ラブライブ!』絡みの文章をもしかすると今回を含めて3週程お披露目することになるかもしれない──むろん、結果を知るのが神のみであることは読者諸兄であればとっくにご承知であろう。
 質の高い楽曲とPVを入口に『ラブライブ!』へのめりこんだのだが、と同時に作品が舞台に選んだ土地がわたくしに馴染みある場所であったことも、実は大きな要因だった。たとえば、──
 『ラブライブ!』(『ラブライブ!サンシャイン!!』に対して「無印」とも)の舞台は、神田 - 御茶ノ水 - 秋葉原のトライアングル地帯であった。かつては世界に名だたる電気街、世紀が変わって後は世界に名を馳せるオタクの聖地、その昔は青果市場が鎮座坐す秋葉原は作中でもよく描かれてお馴染みであるが、かつてそこに駿河台・神保町を加えたペンタゴン地帯はわたくしが学生時代──10代後半から20代前半を過ごして<庭>とさえ公言したことのある、魔都東京で殆ど唯一「ここに住みたいな」と望んでやまなかった一帯なのだった。
 21世紀になって秋葉原近郊──神田須田町あたりは大規模な区画整理と再開発のてこ入れが為された場所だけれど、変貌前後を知る者の目にはそのリアリティとデフォルメの絶妙な融合が感動的に映り、自分が足繁く通った場所、どこかへ行く際に前を通ったことがあるその場所、まだ自分が幼かったころ祖母に連れられて暖簾をくぐった記憶がたしかにある(池波正太郎のご贔屓だった)老舗の甘味処「竹むら」など、アニメ絵になって眼前に提示されたら、それをきっかけに『ラブライブ!』へすっかりのめりこんで抜け出せなくなるのは、もはや必然といえよう。聖地巡礼というわけではないが、神保町で古本を漁るついでにちょっとあちこち懐かしさ半分で散歩してみようかな、と思うてみたり。そうか、もう万世橋のところに交通博物館はないんだよなぁ……。
 そうしてもう一つの『ラブライブ!』、即ち『ラブライブ!サンシャイン!!』だが、こちらも舞台となった土地がきっかけで関心を持ったが、今度の場合は前作の比では正直、ない。向こうが或る意味で<青春が詰まった街>と恥ずかしげもなく述べるなら、こちらは<子供の頃に暮らしていた街>、<第二の故郷>である。序にいえば、定年退職後の人生を過ごすと定めた街でもある。
 『ラブライブ!サンシャイン!!』の舞台は西伊豆の要諦、静岡県沼津市内浦町である。御用邸よりもまだ南、半島の海岸線が南下を一旦やめて西方向へ向きを変えるその場所に静かに広がる漁港の街。綺麗な海岸線に経って北西へ目を向ければ淡島とその向こうに千本松原、愛鷹連峰と富士山を眺められる明媚な街だ。「昔住んだ街」とは語弊があるか、実際にわたくしが住んでいたのは沼津市中で、この内浦には何度か連れて来てもらったことがあるだけなのだから。が、それでもここが沼津市の一角を占める場所であることに変わりはなく、生活面では車がないと不便を感じる場面がしばしばあると雖も市中よりずっと暮らしやすいことは実際訪れてみれば実感できることだ。
 わたくしが住んでいたのは内浦から見れば駿河湾を挟んだ反対側──富士山を見晴るかす方向の海縁の住宅地だったが、夜浜辺に出ると対岸の内浦の光が霞んで見えたものだった。寄せては返す波の音を聞きながら眺める対岸の灯は──海の上に漂う薄い霧の向こうで瞬いている灯はなにやら、そう、ひどく想像と感傷をかき立てられるそれであったよ。もうちょっと成長していればそこにギャツビーのような想いを滲ませることもできたかもね。えへ。
 ちかごろ『ラブライブ!サンシャイン!!』を某動画サイトで毎日一話ずつ観進めて、はやくもそれが三周目となってようやく個々のキャラクター絡みの見方になったり、μ’sの精神をAqoursが継承するまでの流れとかメンバー間の葛藤とか、そんなところに(先達の導きもあって)着目して観るようになっているけれど、最初は専ら自分のなかに未だ生々しく息づいている沼津の、内浦の、伊豆半島の光景に惹かれて、と同時にそこで過ごした子供時代の思い出をなぞるようにして、Aqoursの物語を追いかけていった。
 もちろんそれの主舞台は内浦で、自分はそこに根を下ろして生活していたわけでないから、いちばん感傷をかき立てられるのはたとえば、AqoursのPVを作るのに渡辺“ヨーソロー”曜ちゃんが案内してまわる沼津駅南口の外観やリコー通りの入口であったり、学校での初ライブのチラシを配る北口の光景であったり、或いは津島“ヨハネ”善子が国木田“ずらまる”花丸を避けて画面を横切るだけの怪しい人となり果てていたマルサン書店の内観であったり(もっともわたくしが沼津市民であった頃は仲見世通りのなかではなく、スルガ銀行の横、現在は広大な駐車場になっている場所にあった2階建ての頼れる書店であった)、或いはAqours加入に誘われたヨハネが逃げ回る一連の場面はさりげなく沼津の観光名所巡りになっていたり、と様々なのだが、それでもこの作品が沼津市の中心と対岸の漁港を舞台としていなかったら、幾ら『ラブライブ!』と雖もこうした文章を綴ることはなかったろう。鑑賞するわたくしの胸中に懐かしさと驚きと感激が綯い交ぜになっていたことを、ああ、読者諸兄よ、ご理解いただけようか?
 いまはすっかり聖地化して行政や漁協がこの作品をバックアップしているそうである。駅前にはカフェができ、漁協の案内所はAqoursの紹介所と化し、主人公である高海“普通怪獣ちかちー”千歌が住まう旅館はおろか曜ちゃんの自宅位置にある喫茶店までもが繁盛してやまぬという。昨年はどうだったのだろう、7月末の恒例狩野川の花火祭り(住んでいたマンションのベランダからよく見えたなぁ)にはバスツアーが開催されると共に、Aqoursメンバー(勿論“中の人”たちである)も沼津市役所の道路向こうにある香陵広場でのステージ・イヴェントに登場、アニメエンディングテーマ「ユメ語るよりユメ歌おう」のカップリング曲「サンシャインぴっかぴか音頭」が計4回披露されたそうだ。
 一方で高海千歌の実家が営む旅館のモデルとなった宿の、某旅行サイトに寄せられた常連と思しき方からの苦情も散見されたりする。これはいけないよ。聖地巡礼は遊びではない。消化されるべきイヴェントでもない。あくまで地域振興の手段である。訪れるファンは皆礼儀を忘れないようにしよう。騒ぐ輩に天罰あれ。
 嗚呼、友よ。生涯の友、ワトスン。そろそろわたくしは旅に出ようと思うのだ。いまならわたくしはかの地を訪れることができる。昨年は十把一絡げに同類の輪で括られるのがなんとなく厭で足を向けられなかったのだけれど、いまはもはや<恥は掻き捨て>である。<同じ阿呆なら何とやら>である。即ち、3年ぶりに沼津の地を踏もうと思うのだ。もはやラブライバーと思われても、すくなくとも表面上は平然と取り繕っていられる鉄面皮ゆえに、斯く思われてもなんとも感じぬ。それは同時にここ数年で頻繁になって来ている<隠遁の地>を探し歩く旅でもある。
 それがたまたま内浦とかあの辺りなだけなんだからね! ──か、勘違いしないでよね。わたくしはけっして動揺していない。ほら、君、見たまえ、キーボードを打つ手だって、震えたりしていないではないか。わたくしはラヴクラフトの小説の語り手ではないのだ。
 『ラブライブ・サンシャイン!』に関していえばわたくしの場合、聖地巡礼は子供時代を過ごした懐かしい土地を再訪することである。◆
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第2589日目 〈中沢健『初恋芸人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 BS未加入だと観たい番組を観られず、地上波で流れる予告CMや番組紹介の記事に接する度刹那の憤慨を催すことがある。まあ、その憤慨も一時期よりは鎮まるようになったけれどね。これについてはNHK-BSがクラシック番組を殆どまったく流さなくなったことが大きい。ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートだって、ここ数年は生中継していないんじゃない?
 たいていの番組ならさっさと忘却できるようになったけれど、昨春にBSプレミアムで放送されたこのドラマだけは観たかった──それが松井玲奈主演の『初恋芸人』。……にもかかわらず、特にこちらからアクションを起こして万難尽くして観る手段を講じたわけではない。CSで放送されたら観ればいいや。そうさっさと諦めたことのだ。斯くして時は流れて昨秋へ至り、──
 昨秋? 然様。神保町の一角に店舗を構える老舗新刊書店の文庫売り場の平台に、かのドラマの原作本が平台に積まれていた。半年前の刊行物ゆえ特に新刊として扱われていたわけでも、企画コーナーの一冊だったわけでもない。どうしてあの時期に平積みされていたのか皆目不明だけれど、ドラマ放送時の帯が巻かれたその文庫を見掛けた途端迷わず摑んでレジへ運んだね。
 ……というわけで、中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)を読みました。
 怪獣・特撮ネタがウリの芸人、佐藤賢治(勿論無名)はライヴ後の打ち上げの席で自分のコントを「面白い」といってくれた市川理沙に一目惚れした。そのあと市川嬢からのメールをきっかけとして友達付き合いが始まる。想う気持ちはどんどん大きくなり、交際を熱望するまでになったが、やがて初恋は思いもよらぬ形でピリオドが打たれる──。
 市川嬢の無自覚な台詞とスキンシップが主人公を惑わせたのだ。現実でも男女問わず存在するよね、他人との距離の取り方が下手で誤解を与えてしまう人。佐藤も悩んだが、市川嬢も悩んだのだ。それもあって彼女は、より大きな安心を与えてくれる年上の男性、主人公の先輩芸人と将来を共にするのを選んだのだった。
 読み始めた当初は、単に女性との交際経験がまるでない芸人の報われない初恋を描いただけのお話、と思うていた。事実、第一章を読んでいる最中はそのあまりの初々しさ、あまりの微笑ましさに口許が終始緩みっぱなしで、これを読んでいた頃の通勤電車の車中では緩む口許を隠すアイテムとしてマスクが必需品であった程である。
 その裏返しかしら。詭弁を弄して気持ちを伝えることを先延ばしにし続ける主人公の、その意気地なさと決断力の欠如にひたすら腹が立ち、これでは市川嬢と両想いになったとしてもすぐに別れるわ、と妙に納得させられたのは。一方で市川嬢は欺瞞だ計算だと罵られても仕方ない言動で主人公を翻弄して、挙げ句に最終章の語り手役をかっさらい、美辞麗句で自分の気持ちと選択を正当化する。最終的に二人は、それもエゴと欺瞞ゆえにもはや修正の効かない未来を自らの手で作り出したのだ。この二人、恋人になったり夫婦になったりしないで正解かもしれぬ。
 とはいえ、物語が進むにつれてページを繰る指が重くなってきたのも事実。読了後はずっしりと沈みこんでしまうた。咨、老いらくの恋の只中へある者にこの小説は重くて、苦い。傷口に塗りこまれる塩分濃度ときたら、婚約者の死後四半世紀の間に唯一度、初めて自分から告白して待たされ振られた時分に読んでいた有川浩『図書館戦争』シリーズよりもはるかに濃く……。
 初恋を描いたお話としてはよくある顛末で、筋運びもテンプレート通りなのにもかかわらず、読み終わってみればこちらの心を容赦なく抉ってくるビター・スウィートな小説だった。いやぁ、恋は苦いね!◆
2017年04月29日 23時40分


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第2588日目 〈夏過ぎて、秋は来にけり、よかったな。──無沙汰の挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 ただいま! 夏の間は不定期な更新になって相済まなかった。可能な限り暑い夏は働きたくない、という程にこの季節を疎んじ厭うがゆえ、たとい例年に較べて涼しく過ごすことが出来たと雖も季節が忌まわしき<夏>であることに変わりはなく、為に暑かろうが涼しかろう(寒かろう)が夏であることに変わりはないじゃん、と開き直って過ごしていたら、肝心のブログ更新も週一から二週に一度となり、挙げ句にもはや三週間も停滞しているとなっては弁解の仕様もない。詭弁を弄する準備はあるが、それをやると向こう三ヶ月毎日更新する羽目になるのでそれはやらない(本気にしないよう、読者諸兄にはお願い申しあげる次第)。
 さて。そう小林完吾風に曰おう。ただ、元日本テレビ・アナウンサー小林完吾を知る人がどれだけ本ブログをお読みくださっているか見当が付かないけれど、それはまぁそれとして、話を先に進めよう。GoAhead.
 お休みというかサボっているというか、表現はともかくみくらさんさんかが皆様の前から姿を消していた間、肝心要のわたくし──みくらさんさんかを演じるわたくしの身の上には、まぁいろいろありましたね。たとえば? お話しできる範囲でいえば勤務先が変わり、就業時間が変わった。トータルで見ればお給料はわずかに上がったもののその代償か、通勤場所がこれまでより微妙に遠くなり、従って満員電車に揺られる時間も延びてしまい、もう毎日がわちゃわちゃしております。メリットがあるとすれば昨年のこの時期にも同じことをいうた覚えがあるのだけれど、一日平均の読書ペースが上がり、一冊を読了する日数が短縮されたことでしょうかね。勿論本のジャンルや分量、活字のフォント、ページのレイアウト、諸々加味することになるので一概に「短くなった」とは申せないのですが、均せばそんな具合であります。
 もっとも、そんな状況であったも原稿は書き、ブログ更新にこれまで勤めてきたわけですから上記がまさに言い訳の範疇を出ないことはじゅうぶん承知している。とはいえその間仕事を離れたところで、常なら本ブログのための原稿をしこしこ書き綴っているべき会社外の時間はなにをしていたのかと訊ねられても、わたくしは正解をお伝えすることができない。疚しいことでも後ろめたいことでも公言を憚られる類のものでもないことはご理解いただきたいのだけれど、単にわたくしはその間自分が行っていた作業について口を開いてご説明申しあげる勇気を持たないのだ。持たない、というよりも、敢えてご説明する必要性をまるで感じないだけの話。もっとも、この間に行っていた内緒事はもしかすると、遠からず本ブログにてお披露目できるかもしれない。──が、そのような事態にならないことをわたくしは切に祈っている。お披露目できるということはある意味で箸にも棒にも引っ掛からなかった、という意味なのだから。嗚呼!!
 ところで久しぶりの休日に海ある故郷の或る喫茶店にてコーヒーを飲みながらこの文章を、Mac Book Air相手に弾丸の如くキーボードに指を走らせて綴っているのだが(1179語。ここまで約十五分)、本ブログの今後の、あまり信頼できない展望についてお知らせしておきたい。
 更新頻度が週に一度となるか、あるいは二週に一度か、状況によって流動的になるのは否めないとしても、取り敢えず一ヶ月に最低二回は更新することを約束しよう。胸を張ってわたくしは諸兄に公約する。それが何ヶ月続くかわたくしにもその実さっぱりなのだが(おい)、お披露目するエッセイがどのようなものか、それは概ね決定している。というても3ヶ月近く前に決定稿が仕上がっている小説2冊の感想と、第一稿のまま筐底に秘した『ラブライブ!サンシャイン!!』に関する文章(休日の朝、まだ覚めやらぬまま綴ったものでね)が、その待機リストにあがっている。その他にも執筆予定として以前に予告していた綾辻行人『霧越邸殺人事件』と『深泥丘奇談』全3巻(いずれも角川文庫)、歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)の感想、マレイ・ペライア奏でるバッハ作品への種々の想い、YouTubeで観たサイモン・ラトル=ロンドン響及び超豪華ゲストによるヴァンゲリス作曲/映画『炎のランナー』メインテーマと、チェリビダッケ=ミュンヘン・フィルによるラヴェル《ボレロ》の感想、お馴染みな日常雑記・心象吐露エトセトラエトセトラ、盛りだくさんというもおこがましい平常運転の内容をお届けする予定だ。
 そういうたかて、現時点でどれだけ仕込みが済んでいても結局は<絵に描いた餅>に過ぎないので、これ以上の贅言は慎むことにするが、こんな具合にこれからも更新・お披露目してゆきますよ、というわが身への諫めも兼ねた予告編であることをどうぞ、読者諸兄にはご了承願いたいのだ。
 年度が替わる頃には毎日更新に戻ることができればいいな。久しぶりに読者諸兄の前に姿を現したみくらさんさんかはそんな春風駘蕩なことをお気楽に述べた後、即ちいまこの瞬間、筆を擱いてふらふら駅前の大衆酒場へ遊びに行ってまいります。ビバ!◆
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第2587日目 〈子守唄はワーグナー。その夜見た夢は、……〉 [日々の思い・独り言]

 昨日までは《トリスタンとイゾルデ》を就眠の音楽にしていた。今日は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第一幕、明日はその第二幕……。
 都合三夜、《トリスタン》が子守唄だったわけだが、おお友よ教えてほしい、この間に見た夢のいずれもがもの哀しいそれであったのは偶然と済ませてよいのか否か、を。
 こんな夢だった、──
 一夜めは濡れ縁に坐って背中を丸め、しとどに泣く母を見た。その原因はわたくしだ。母を欺き、放蕩に耽り、遂に彼女の知るところとなっては気も狂わんばかりに喚いてわたくしを詰り、刹那の後には頭を振って泣き明かし。顧みればわたくしは母を悲しませてばかりの人生を過ごしてきた。本来なら孫の顔を見せ、抱かせ、悠々自適とまではいわぬまでも気苦労のない暮らしをさせてあげていられる年齢なのに。家族を作るでもなく、そのために行動するわけでもないわたくしは罪人だ。──そのあと、母の姿は見えなくなって、わたくしは夢から覚めて泣いていた。
 二夜めはYさんを見た。通路を挟んだ両側に小上がりのある居酒屋。顔と名前が一致しない勤め先の人がたくさんいるなか、テーブルを同じうしたYさんが既に退職しているのをゆくりなくも本人から知らされた。もうとっくだよぉ。まわりが賑やかななか、ふと、そのあとで気まずさと焦燥と、心のなかで膨らんでくる或る種の禁忌を覚えた。物理的にはとても近くにいるのに実際はいちばん遠くに……。それからYさんは消えて、わたくしは夢から覚めて空しくなった。
 三夜めは雨のなかをAさんと歩いていた。学校みたいに平べったい建物を出て、門からすこし歩いたところの二股路で他の同僚と別れ、駅に向かう。田舎だ、そこは。樹木から枝が大きく張りだして覆う下の道を、無言で歩いた。小高い山の斜面に作られた道らしかった。右手には麓の街が広がっている。唐突にAさんが口を開いた、戻ってこないでね? 当たり前だ、と即答した。今更、あの不正と策謀と縁故で腐敗した<お友達部署>へ、はたして誰が戻ろうとするのか。罪人の仲間入りはごめんだ。雨はしとしと降り続ける。そのあと夢から覚めて、縁切りして思い出から葬った過去を想うて、万歳三唱したわたくし。
 ──作曲家と愛人の不義の結晶はわたくしの深層意識に働きかけて、顔を背けていた出来事を垣間見せ、もの哀しい思いと悔恨の思いを寝覚めの心に残していった。
 音楽はそのときの心にどのような影響を及ぼすか。いっときそんなことを考えてみもしたが、日々の諸事にかまけているうち忘れてしまった。もしこれらの夢を《トリスタンとイゾルデ》が見させたのなら、ならば《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は失脚と獲得、諦念と礼讃の夢をわたくしに見させるのだろうか──否、そんな単純な話ではよもやあるまい。
 子守唄はワーグナー作曲。いまは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、つぎは《ローエングリン》、《パルジファル》……。さて、わたくしはその夜、どんな夢を見る?◆

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第2586日目 〈かれらが遺してくれたもの──小諸の町を想う。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしは初めて訪れるずっと以前から、小諸の街並みや小諸を取り巻く自然を、見て知っていた。

 二十歳の夏のこと。家族四人で軽井沢にある祖父の別荘にて数日を過ごした後、車で西へ下った。どうして小諸へ行くことになったか、まったく覚えていない。想像するに、なにかの拍子に島崎藤村の話題になり、ゆかりの街が近くにあるから行ってみようか、という流れでなかったか。きっかけはともかく、われらは一夏の家族旅行の〆括りに、信州小諸へ立ち寄ったのだった。
 そう、島崎藤村はこの街に教師として赴任していたことがあった。小諸時代の作物に随筆『千曲川のスケッチ』と詩集『落梅集』がある。『落梅集』は名作「千曲川旅情の歌」、就中「小諸なる古城のほとり」を収めることで知られよう。
 『千曲川のスケッチ』には小諸城址からの景観が、こんな風に綴られている──
 「私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える」
 くたびれた文庫本を久しぶりに書架から出して開き、この一文に出くわしたとき、或る光景を思い出した。初めて訪れたその夏の日よりもずっと以前に見た覚えのある、小諸の街の光景だった。ここで話は冒頭にリンクする。

 小諸に縁ある著名人は、なにも島崎藤村に限らぬ。人によって選ぶ人物は変わるだろう。失礼ながら異郷者たるわたくしには、小諸といえばこの人物しか思い当たらない。マンガ家、小山田いく(1956.6-2016.3)である。
 小諸に生まれ、小諸に育ち、小諸の土に帰った人、小山田いく。氏のマンガの、すくなくとも初期の短編、長編は故郷小諸を舞台にすることが多かった。描きやすく、馴染み深く、愛着ある土地だったからだろう。早過ぎる晩年には小諸市のオリジナル壁紙や「こもろすみれ姫」のデザインを手掛けるなどして、生まれ故郷に貢献されていた様子である。
 長きにわたってシーンの最前線で活動するに氏の作風はちょっと地味だった。しかし、優しさとぬくもりと慈しみにあふれた画風とストーリーには、数はすくなくとも熱心なファンがずっと付いていた。
 氏の亡きあと有志のファンによって「民宿 懐古苑」と「小諸宿 本陣主屋」の二ヶ所をメイン会場にした追悼展が開かれて、連日盛況であったと風の噂に聞く。仕事の関係で足を運ぶことは出来なかったが、無理してでも出掛けるべきだった、と今更ながら後悔している。

 『すくらっぷブック』を読み始めたのは小学校高学年だが、そのあと灰色の十代後半を過ごすことになり、小山田作品すべてを押し入れの奥に突っこんで読まないようにしてしまった。現実に打ちのめされたからだ。その封印期間は高校を卒業して進学するまで続く。押し入れから引っ張り出して再び読み耽るようになるのは、進学先で折口信夫の民俗学に遭遇したためである。
 折口信夫の学問に触れて民俗学へ興味を抱き、自分の住まう土地の伝承や祭事、地方の伝統芸能を調べたり、取材と称して小旅行に出たことが、しばしばあった。そのルーツはどこにあるか、つらつら考えて──みるまでもなかった。兄から借りた『週刊少年チャンピオン』に連載されていた『すくらっぷブック』へ辿り着くより他にないではないか。
 封印を解除したあとで読む小山田作品、殊『すくらっぷブック』は単なる青春グラフィティの枠を大きく越えて、民俗学への関心をかき立てるテキストのようになっていた。信州或いは雪国という馴染みなき地の習俗や地勢などについて知るきっかけを作った作品へと、変貌していたのである。
 たとえば、南国の宮崎生まれで北国に憧れていた他校の転校生を誘って雪の高峰高原へ遊びに来た、第92話「雪ぼっこ」。
 その転校生はかまくらを作って内部の温かさに驚き、かつ喜び、ラスト小諸の街へ帰るときは農家の伜が編んだ藁頭巾をかぶって高峰高原を降りてゆく。
 雪が日常的に降る地方では傘を差すことがあまりないこと、転校生のかぶる藁編みの笠を藁頭巾とか藁帽子などと呼ぶこと、雪のたくさん降った年は豊作と言い伝えられていること、それらを知ったのはこの第92話に於いてである。
 或いは第30話「虎落笛」。浅間山から風の吹き下ろす所には葦簀を作らないと雪が吹き溜まって、出入り口の開閉を妨げてしまう。太平洋岸でしか暮らしたことのない者には、頭では理解できてもまるで実感のない生活の知恵だ。
 同じエピソードでは、葦簀の隙間を通った風が立てる笛の音の如きを虎落笛と呼ぶことも紹介される。この虎落笛が冬の季語であることは、亡き婚約者が遺した歳時記で知った。

 二十歳の夏の日、家族で小諸懐古園へ行った。懐古園には藤村の詩碑がある。刻まれるのは、むろん「小諸なる古城のほとり」である。「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/……」
 が、正直なところ、この詩碑が園内のどこにあったか、記憶は定かでない。インターネットで懐古園の園内図を見てみたり、グーグル・マップやグーグル・ストリートビューを使って仮想散策してみたけれど、なにかが違うように思えて仕方ない。殆どすべての位置関係が、記憶のなかの園内とは微妙に異なっている気がしてしまうのだ。四半世紀も経てば誰の身にも自ずと生じる、記憶の書き換え現象ゆえの違和感だろう。
 そんなわけで詩碑については十中八九、わたくしの記憶違いなのだが、仮想散策をした結果、記憶と現実の間に違うところのない場所が、一つだけあった。懐古園西端の展望台である。
 あの夏、わたくしはここに立って、眼下に千曲川が流れる光景を目にした。グーグル・マップの千曲川は両岸がずいぶんと開けて樹木も少なく、痩せた川に見える。以前は川の色も濃く、両岸は深い緑で覆われていたように思うのだが……。そんな風にパソコンのモニタ画面とにらめっこしながら展望台からの記憶を整理、点検していると、再び『すくらっぷブック』の一コマが脳裏に甦ってくる。
 時は三月、或る日の宵刻。中学を卒業したばかりの主人公、柏木晴(晴ボン)以下クラスの生徒を前に、担任であった正木先生がこの展望台にて最後のホームルームを行う。千曲川の流れを指差して、正木先生はいう──
 「よくここでスケッチしたもんだが…おもしろい川だよ/スケッチする時の気分で絵がガラッと変わっちまう/鏡だな あの水面は……心を映す鏡ってやつだ!」
 残念ながらわたくしは、千曲川を前にしたときの気分、感情、抱えているもの次第で幾らにでも姿面容を変えてゆく水面の表情を観察することのないまま、あの夏、そこから去った。一ヶ所に何時間も腰を据えるのは、家族が一緒の旅行者には出来ない芸当なのだ。
 さりながら、あの悠然とも泰然とも形容できる千曲川の流れを思い出すたび、正木先生の台詞に共鳴する自分がいる。人生は移ろいやすく、消えやすい。『方丈記』を持ち出すまでもなく、行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、なのだ。
 千曲川は人生を映し出す鏡に似ている。異郷者なのに、こんな知ったような発言はおかしいだろうか。でも、小諸を訪れる前からそんな刷り込みがされていたのだ。それが『すくらっぷブック』というマンガの一コマ、台詞に基づくものであることは、もはや改めて申しあげるまでもない。

 『すくらっぷブック』を読み返すたび、描かれる街並みは当時の様子に比較的忠実であった、という、どこかで聞いた文言を思い出す。あれから四半世紀。小山田いくが愛した小諸の街は、いまどれだけ往時の面影を留めているのか。
 主人公の親友、イチノと理美がしばしの別れを前にファーストキスを交わした、小諸駅の「貨物置き場の横をとおるとき 一瞬死角に」なる「だれにも見えない」場所はいまでもあるのだろうか。カメラ屋の娘みっちゃんの自宅兼店舗は改装されることなく、作品のなかで描かれたままに残っているのだろうか。
 或いは──四コマ漫画誌に発表された短編、「約束」で印象的に描かれた千曲川対岸の久保や山浦から眺めた小諸の街並みは、いまも同じように見えるのだろうか。
 この短編では、バーのマスターが客に対岸の久保や山浦に行ってみてはどうか、と勧める場面がある。「小諸は浅間山の麓の街ですから 対岸から眺めると平衡感をなくすようで ちょっと気持ちいいですよ」と。
 このあとに前述の見開き絵が登場するのだが、その折に女性が呟く台詞、「ふ…と からだが揺らいで 心が別世界に転がり込む」、傾くような感覚を味わうためにだけでも、いつの日かわたくしは小諸を再訪しよう、と固く誓った。勿論、あれから何年も経ついまでもその誓いは果たされていない。呵々。
 浅間山麓の街、小諸は傾斜の街である。東北旅行からの帰り、電車の窓外に広がる明かりを見た晴ボンの台詞──「浅間山へ向かってせりあがる光のつらなりは ボクたちの街の光だ/ただいま ボクの街」(第66話「暁着3時31分」)と、藤村が『千曲川のスケッチ』で記した「一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ」、そうして「約束」に於ける台詞と見開き絵。この三つは見事なまでの調和を見せてわたくしのなかにあり続けている。

 あの二十歳の夏の日以来、わたくしは小諸を訪れていない。
 ここへ一緒に来た父も祖父も、もうこの世の人ではない。
 学生だったわたくしは社会人になり、不惑の年齢を超えて未だ迷い続けている。◆
                    
 追記:『千曲川のスケッチ』と「小諸なる古城のほとり」は新潮文庫から、『すくらっぷブック』と「約束」(『きまぐれ乗車券』所収)は『小山田いく選集』から、引用した。□

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第2585日目 〈気にするな、キミたちはなにも悪くない。〉 [日々の思い・独り言]

 相も変わらず朝の首都圏の通勤電車は遅延しまくりだ。曰く、人身事故のため。曰く、急病人の発生/救護を行い。曰く、車内トラブルがあり。曰く、◌◌駅のホームにて異常を知らせる非常ボタンが押されたため。曰く、◌◌駅のホームから人が転落したとの情報があり。曰く、踏切内に車両が閉じこめられたとのことで。エトセトラ、エトセトラ。
 そうして今朝は、線路内に人が立ち入ったとのことで……。当初は全線で運転見合わせ、じきに運転再開したものの大幅にダイヤ乱れが生じており、解消までに数時間を費やす模様。京浜東北線の話である。
 京浜東北線といえば埼京線や小田急線と並ぶ、首都圏の通勤電車に於ける人為的遅延率の上位ベスト・スリー(ん、これはワーストというべきか?)に挙がる路線なのだが──個人的な感想です──、それでも利用客が減らないのは企業密集地帯を通っているから。勿論渋谷、新宿、池袋は外れるけれど、品川や東京、田端で乗り換えれば済む話。
 ところで今日の運転見合わせ→遅延の原因が、線路内へ人が立ち入ったことによるのは既に述べた。最寄り駅のホームでアナウンスを聞いたときは「またか」ぐらいにしか思うていなかったのだけれど、よくよく聞けば場所は浜松町と新橋の間とのこと。え、あすこって高架になっていなかったっけ? どうやれば立ち入れるんだ?
 続報によれば痴漢扱いされた会社員が、華麗なフォームを決めてみせたかはともかく線路内に飛びおりて、命の危険を察した被捕食動物の如くの勢いで逃亡中の由。更なる情報によれば、駅員が本気走りして追いかけたが見失った、仕方ないので運転再開しますが但し徐行運転となります、お急ぎのところ電車遅れまして大変申し訳ございません云々。──車掌氏がなかばキレ気味にそうアナウンスしていたのが印象的じゃった。
 しかしねえ。痴漢扱いされたからって線路に飛びおりて逃げるのはやめてほしいな。数ヶ月ばかり前だったか、板橋の方で同様の報道がされてから今日までに何度となく模倣犯が出没した。真似するな、といいたい。危ないよ。他の電車に接触して怪我したり、それが原因で轢死したらどうすんだ。貴方や貴方のご遺族には何億てふべらぼうな賠償金を払ってゆく能力があるのか。そうしてご家族/ご遺族の被る諸々の迷惑について想像してみるがよい。貴方は卑劣だ。
 もし貴方が潔白で冤罪だというならば、その場で一歩も退かずに異議申し立てをしよう。相手の間違いを正そう。それでも相手が納得せず、あくまで潔白である貴方を痴漢と断定・糾弾するならば、もはや長期戦は避けられまい。相手の言い分が事実ならば、貴方のDNAや上皮組織、(部分であれ全部であれ)指紋が相手の衣服に付着しているはずだ。かならず痕跡は残る。鑑定してもらえ。否、相手がどれだけ喚こうが鑑定させなくてはならない。そうして結果を突き付けて謝罪させるべきだ。
 が、もしも貴方が相手の告発通りの行為を行っていたのなら……素直に白旗を揚げる他ない。変にごねたり、言い訳をしないのが賢明である。貴方や貴方のご家族には冷たい物言いかもしれないが、自分の犯した罪は償うべきだ。それが法治国家の民の義務。むろん、それは法の下した範囲内、モラルを弁えた市民の良識の範囲内での贖罪である。フィクションでお馴染みの、相手の増長や脅迫、強請、たかりに付き合う必要はない、ということだ。
 利用客、鉄道会社の職員、電車の乗務員は毎日毎日、電車の遅延や運転見合わせの連絡に敏感になっている。それらが発生するたび、利用客は憤慨し要らぬ客同士の諍いが発生し、職員は状況把握と振替輸送の手配に東奔西走、乗務員は二転三転するリアル・タイム(ほぼ)の情報と利用客からの突き上げに胃を痛くする。朝の通勤電車は人の心をすり減らす。現代人のストレスの原因の一つ、って絶対これだよなぁ。
 でも利用客の(おそらく、たぶん、きっと)すべては心の片隅でわかっている。今日のような人為的運転見合わせ/遅延の場合、鉄道会社の職員や電車の乗務員にはなんの咎もないことを(自然災害の場合は尚更だ)。当事者以外は誰も彼も被害者だ、と『CSI』シリーズで誰かがいってた。だいじょうぶ、気にするな、キミたちはなにも悪くない。Don’t worry be my happy.◆

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第2584日目 〈ひとまず水はいらない、喉の渇きは収まった;綾辻行人読書マラソンは一旦終わります。〉 [日々の思い・独り言]

 性格ゆえか、そのジャンル、その作家へコミットしてしまうと他を顧みること甚だ珍で、豊穣の実りを享受する一方で幾分かの飽きも生じる。目下のところ、そのような作家がいるかといえば本ブログでもはやお馴染みとなった綾辻行人が該当するが、流石に惰性で読書している部分があるのは否めぬ状況に相成ってきた。
 特定の作家へコミットするとはいっても、一度に全作品を読み倒すことは稀である。必ずというてよい程中断を挟むのがわたくしの場合は、常。その中断がどれだけの期間となるかはともかく、干からびて飢えたる喉も臨界を越えれば水の摂取を拒むのだ。
 夢中になって読み耽り、瞬く間(まぁ、そういうことにしておこうぜ)に消化した<館>シリーズ以後は機械的に本を手に取りページを繰り……殊更感慨など表明するまでもない漠とした気持ちのまま消化してゆき、現在に至っている(※1)。
 為、綾辻行人も次に読む『深泥丘奇談・続々』(角川書店)と『霧越邸殺人事件』完全改訂版(角川文庫)でこの読書マラソンは一旦打ち止め、作家コミット型読書の慣習となりつつある中断期を挟んだ後にその読書を再開したい。即ちこれは、第一期完了と第二期開始の予告なのだ。
 実は第二期で読む作品は秘かに買い集めて準備だけは万端である──然る後に提起される問題点は、その一;再開はいつか? その二;本当に再開されるのか? に尽きるわけで……まぁ、善処する気持ちでいる。購うた本を読まずして古本屋へ処分したくないものね(※2)。
 ──なに、質問がある、とな。承ろう。ほう、お前がこの文章を書いた理由を知りたい、と。成る程。この世には知らぬ方が幸せだ、ということもあるのだが、まぁ今回は特別にお答えしよう(偉そうだよねぇ、何様かしら)。
 『奇面館の殺人』のあとで読んだ作品には個々の感想文を書くだけの、思い入れも情熱も持てなかった──これが答えだ。従って次に本ブログでお披露目されるのは『どんどん橋、落ちた』ではない。具体的にどの作品の感想文を書くか決まっているわけでも、ない。ただ、『深泥丘奇談』全三冊の感想文は書く。もっとも各冊ではなく全体のそれになるけれど、当該作について書きたいことが幾つかあるので、ね。
 綾辻行人読書感想文の本ブログへの掲載は、『深泥丘奇談』或いは『霧越邸殺人事件』を以て第一期の完了宣言を行う。但し、来週の今日それがお披露目されることはない。なぜならば、まだ『深泥丘奇談・続』を半分ぐらいしか読んでいないからだ。八月中にお披露目できれば万々歳である。声高に、胸を張って曰う程でもないけれど、まずはそのようにご報告しておきます。◆

※1
<館>シリーズ後に読んだのは、『どんどん橋、落ちた』新装改訂版(講談社文庫)と『フリークス』(光文社文庫)、『眼球綺譚』、『深泥丘奇談』(いずれも角川文庫)。そうして現在は『深泥丘奇談・続』(同)、並行して『人間じゃない 綾辻行人未収録作品集』(講談社)である。

※2
来たる第二期の準備に購うたのは、<囁き>シリーズ(講談社文庫)と『Another』シリーズ、『最後の記憶』(いずれも角川文庫)である。……あれ、これだけだっけ?□

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第2583日目 〈綾辻行人『奇面館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『奇面館の殺人』を満足の溜め息と共に読了した。鹿谷門美が活躍する<館>シリーズに接するのは久しぶりである。『十角館の殺人』から順に、間を置かずに読んできたわたくしがそうなのだから、リアル・タイムでシリーズを追ってきた人は尚更だろう。まぁ、前回かれが探偵役を務めて動いたのが6作目『黒猫館の殺人』で、本作との間にあるのがあの『暗黒館の殺人』と『びっくり館の殺人』だからね。感慨はどちらの立場であっても、深い。というわけで読者よ、喝采せよ、探偵・鹿谷門美の帰還である。
 『暗黒館の殺人』がミステリ要素薄めで専ら幻妖の世界へ軸足を置き、『びっくり館の殺人』がミステリとはいえど軽量級だったのに対し、『奇面館の殺人』は王道中の王道、待望の本格ミステリである。前2作に肩透かしを喰らわされてインターネット上で怨嗟を綴ったガチのミステリ・ファンもこちらが刊行されたことで溜飲をさげた向きが多いのではないか。
 シリーズ第9の館、奇面館はなんと東京都にある。具体的なことは書かれていないが都下のどこか──おそらくは日野市から更に奥の方と思しい山中。そこは例に洩れず人里離れた場所で、10年に1度の割合で大雪に見舞われ周囲から孤立するという、殺人事件にはお誂え向きの環境だ。然様、作中で奇面館は孤立する──10年に1度の大雪のために。お約束の「吹雪の山荘」である。事実上の密閉空間である館の、更なる密室で事件は起きた。むろん、完全無比の密室などあり得ない。秘密の抜け道? 秘密の隠し戸? 勿論ありますとも! 密室殺人が解決されるためにそれらは欠くべからざるアイテムなのだから。しかも舞台は奇面館、即ち中村青司の館なのだから、なにをか況んや、である。
 雪で閉ざされた山荘、曰くありげな正体主(館主)と一癖も二癖もありそうな招待客の面々、密室での殺人事件。斯くして探偵は立ちあがり、丹念に手掛かりを集め、容疑者のアリバイと言動を検め、クライマックスで一同が介したところで「犯人はあなたです」と指さす。考えてみればこの王道パターンも、<館>シリーズではずいぶんとご無沙汰だ(『迷路館の殺人』以来か?)。そうした意味で本作は原点回帰を果たした作物といえるかもしれない。
 さりながらシチュエーションに限っていえば、『奇面館の殺人』はこれまでのどれにもまして<異様>である。館の主人の意向で招待客は皆、意趣を凝らされた仮面をかぶらされるのだ。しかも仮面は頭部をすっかり覆うもので、後頭部のあたりで鍵が掛けられる仕様である。おまけに本文では誰彼を指すとき人名ではなく、仮面の名称でされるものだから紛らわしいことこの上ない。『奇面館の殺人』には所謂登場人物一覧がないので、面倒とは思うが混乱してしまいそうなら自身で一覧を作るのをお奨めする(もっともクライマックスではそんな努力を空しうさせかねない事態に見舞われるだろうけれど、おそらくはそのせいもあって『奇面館の殺人』には登場人物一覧が付されていないのかもしれない)。
 『奇面館の殺人』のキモは、ホストの影山逸史が<もう一人の自分>を探す目的で同年同月日生まれの人物を招待していることだ。それに加えて、かつ運命のいたずらか、皆が皆似たり寄ったりの背格好なところにある。そうした人々が、デザインは異なると雖も仮面をかぶって滞在中は過ごすことを義務附けられ、殺人事件の発生後はそれが犯人の画策で外せなくなってしまうと、もはやその仮面の下にあるのが誰の顔なのか、互いに疑心暗鬼を募らせるのも当然だろう。
 正直なところ、都度都度前の方を読み返し、気掛かりな点を検める労を惜しまなければ、真犯人を当てるのはそう難しいことじゃあ、ない。だいじょうぶ、わたくしでさえわかったのだ。が、鹿谷によって犯人が特定されて、その動機が犯人の口から告白されたあとに明らかとなる──もしあなたが登場人物一覧を作っていたら、それを反故にしてしまうような──記述には、参った。さすがにこんな仕掛けが用意されていることまでは見抜けなかった。降参である。そこまで徹底していたんですね、影山さん。思わずそう独りごちてしまったよ。たしかに、このあたりは『十角館の殺人』などシリーズ初期作品を彷彿とさせるかもしれないね。
 手掛かりはすべて提示された。それは物理的なものであり、また、台詞に、叙述に埋めこまれてもいる。一々を検めながら謎解きに耽る愉しみを、わたくしはようやっとこの作品で経験できた。いやぁ、詰めが甘かったとはいえ、犯人が当たるってうれしいね!◆

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第2582日目 〈綾辻行人『びっくり館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『暗黒館の殺人』を読了した翌日から『びっくり館の殺人』を読む。それはちょっと苦痛を伴うものであった。物語の軽さ、密度の薄さにとまどい、それに折り合いを付けられないまま巻を閉じるに至ったからである。
 作者は機会ある毎に『びっくり館の殺人』はシリーズ番外編にあらず、正統なる第8作なり、の考えを発信してきた。にもかかわらず、本作を否定する向きは多いようで、それはおそらく本作の出自に大きく由来するのだろう。
 『びっくり館の殺人』の親本はお馴染み講談社ノベルスではなく、<新本格ミステリ>の産みの親、名伯楽・宇山日出臣が企画した《講談社ミステリーランド》叢書の1冊として刊行された。作者が「初めて『少年少女向け』を念頭に置きながら」(『奇面館の殺人』下P329)執筆した作品である。
 が、対象年齢がどうあれ綾辻行人は手を抜かない。甘い言葉でお茶を濁したり、勧善懲悪メデタシメデタシで終わる展開になどしたりしない。手加減なし。それが証拠に作中で2度起こる殺人事件の真相や動機、どこか常軌を逸したびっくり館住民の言動、かれらのファミリー・ヒストリー、阪神・淡路大震災とのリンクなど、結構グイグイ攻めてくるタフネスかつダークネスな作品となっているのだよ、この『びっくり館の殺人』は。
 良くも悪くも本作は、(見ようによっては『暗黒館の殺人』以上に)読者の評価が大きく分かれる。道尾秀介のようにシリーズ屈指の傑作と評価する人もいれば、手応えのなさと殊ラストの不明瞭さに本を抛り投げ、知る言葉を動員して罵倒を尽くす人もいる。わたくし? さあ、どちらでしょうね。本稿をお読みいただけば、おわかりでは?
 兵庫県A**市六花町にある古屋敷龍平氏の邸宅、通称「びっくり館」は1964年、中村青司によって設計されたシリーズ第8の館。判明している限りでここは中村青司が、まっさらな状態から設計図面を引いた最初の館となる。施主の古屋敷龍平氏はかれを「信頼をおいていた古い友人に紹介され」(P204)たそうだが、この旧友とはいったい誰だろう? 候補に挙げられるのは浦登征順か神代教授なのだが……。
 『びっくり館の殺人』は2005年6月、語り手の永沢三知也が子供時代を過ごしたA**市を訪れる場面から始まり、自身第一発見者となる殺人事件が発生した1994年8月末から12月にかけての出来事を回顧する、いわば額縁小説の体を取る。シリーズの時系列でいえば『びっくり館の殺人』は次作『奇面館の殺人』の翌年のお話だ。鹿谷門美が三知也相手に口にした「不気味な仮面をモティーフにした館」(P138)とは奇面館を指す。時系列に於いて『びっくり館の殺人』はシリーズ最新の事件を扱っているのだ。備忘を兼ねてここに記す。
 本作で作者はこれまで以上の遊び心を発揮して、読者を楽しませてくれている。たとえば、登場人物に中井英夫『虚無への供物』やポオ「黒猫」を読ませてみたり、昭和29年の洞爺丸沈没事件に関係者を遭遇させていたり、或いは映画『エクソシスト』や『オーメン』を連想させる数々の描写があったり、と。若年の読者が将来なにかの拍子にそれを思い出して、観たり読んだりするきっかけとなれば、と願うてのことである由。
 作者の思いを恣意的に受け取れば、若き中村青司が施主の養女を気にかけており、館の竣工時にサティのピアノ曲のレコードをびっくり箱仕立ての建築模型と一緒に贈った、という昔語りも『暗黒館の殺人』を未読の人へのプレゼンテーションと見ることだって可能だろう。養女の名は、古屋敷美音……「みお」、である。
 『びっくり館の殺人』の要諦を担うのは、やはり古屋敷梨里香(龍平氏の孫)だろう。弟俊生の口から、腹話術人形リリカの口から、亡き梨里香についての幾つかの証言。曰く、ときどき瞳がいろいろな色に変化した。曰く、怖い顔をして不気味な呪いの言葉めいたことを呟いていた。曰く、まわりの人を自分の意のままに操っている。そうして梨里香は母、美音から「悪魔の子」と呼ばれていた……。ちなみに梨里香の誕生日は、嗚呼! 6月6日なのである。
 『びっくり館の殺人』は日にちを置いて読み返すと作中に仕掛けられた怖さが、じわり、じわり、と読み手のなかに染みこんできて、思い出すたび悶々とした気持ちにさせられる類のお話。そうして気になり始めるとそう簡単に心のなかからこれが消えることはなく、いつの間にやら再び本書を手に取って読み耽る羽目になるお話。そんな不思議なポジションを占める作品なのだ、『びっくり館の殺人』は。◆

 追記
 講談社ノベルス版巻末には、道尾秀介を相手にしたネタバレ満載の袋綴じ対談が収録されている。なかなか示唆に富む内容にもなっているので、こちらも是非お手許にどうぞ。□

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第2581日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉3/3 [日々の思い・独り言]


 『暗黒館の殺人』と『十角館の殺人』の相関は以上を以て区切りとし、ここから先は駆け足で『水車館の殺人』から『黒猫館の殺人』までシリーズ諸作の要素が『暗黒館の殺人』に反映した箇所について述べてゆく。ちょっと長めの備忘と思うていただいても構わない。
 暗黒館には昭和18(1943)年、<幻視の画家>藤沼一成が訪れて仮称「時の罠」を描き、おそらくは同じ時期に「緋の祝祭」と「兆し」と題する絵画を贈った(第3巻P484-87、第4巻P229-32)。作品クライマックスの火災を免れて残った作品は1970年代中葉、画家の息子紀一に請われて所蔵先を暗黒館から岡山の水車館に移している(第4巻P377、『水車館の殺人』P79-80)。
 今度は戦後、昭和25(1950)年10月に探偵小説作家・宮垣杳太郎(※)が、父を通して知己であった浦登征順を訪ねて、暗黒館へ来た。このとき宮垣は処女作『瞑想する詩人の家』(初版?)に署名して、贈っている。馴染みある旧姓時代の征順の名を為書にして(第2巻P401-03、第4巻P338-41)。宮垣杳太郎は丹後半島・迷路館の主人である。
 火事で焼失した暗黒館・北館の再建にあたって、浦登柳士郎は懇意にしていた古峨精計社社長(当時)、古峨倫典へ1階サロンの壁に埋めこむからくり時計を特注した。その時計は、午前の正時には<赤の円舞曲>を、午後の正時には<黒の円舞曲>を、それぞれ奏でるよう設定されている。この2曲は若かりし頃の浦登美惟が作曲したもの(第1巻P528-33)。古峨倫典は鎌倉・時計館の初代館主である。
 『黒猫館の殺人』のモティーフ、<アリス>は美鳥と美魚姉妹の飼い猫チェシャの名に明かだが、鏡合わせという点を考慮するならなによりも美しきシャム双子の彼女たちの格好を指摘できようし、併せて彼女たちの私室の造作、家具調度(書架の本を含む)までもその範疇に入れられるだろう。
 また『暗黒館の殺人』第2巻「解説」で佳多山大地が、本作と『人形館の殺人』の相関について<封印された記憶>を指摘している(P453)が、これは蓋し卓見と思うた。まったく気附かなかったなぁ。
 ──斯様に『暗黒館の殺人』は新装なったあとの先行6作を統合する役割をも担った。これを旺盛なるファン・サービス(=一見さんには敷居が高い)と取るか、作者の自己満足とひねた見方をするか(事実、こうした見方はある)。或いは、これまで断片的に提示されていたシリーズの構成要素に有機的つながりを持たせた腐心の成果と評価するか。読み終えた者の読解力と省察力によって印象は異なろう。即ち、これまでの読書履歴(量と質)と読書姿勢が問われることにもなる。
 統合云々は置いておくとしても、時系列でいえばこれが出発点となったことを併せて考えれば、その後中村青司が手掛けて江南孝明&鹿谷門美がかかわってゆくことになる館、そのそれぞれの施主が如何なルートで中村青司を知り、自邸の設計を依頼したのかも自ずと明らかであろう。未だ姿を現さぬ第10の館についても、それは同じであるまいか。
 なお、余談ながら旧文庫版「あとがき」で作者は中村青司に触れて、(『十角館の殺人』では死亡としたけれど)その実いまは生死不明ってことにしようか……、と嘆息していることを紹介しておきたい(P348)。

 筆を擱く前に老婆心じみた忠言を。ゆめ読み急ぐなかれ。机にかじりついて一語一語を精読する必要はないけれど、活字の表面にただ視線を滑らせるのではなく、一行一行を丁寧に読み、時には前の方へ戻って鏤められた伏線や描写を検めるなどしながらゆっくりと、それこそ狐こと山村修の井上究一郎訳プルースト『失われた時を求めて』に寄せた書評の一節ではないけれど、ゆっくりと、時間を失いながら読んでゆくべきなのだ。
 文庫版『暗黒館の殺人』全4巻に読み応えある解説を寄せた佳多山大地の表現を援用すれば、作品のなかに降り積もった長き時間を辿るように読者もまた腰を据えて時間を失ってゆく法悦へ身も心も浸かればよい。物語はそれに見合った読み方を読者へ求める。その意を汲んだ読者ならば、『暗黒館の殺人』を長すぎるとか読みにくいなどというだけの、的外れで己の読解力の浅さを露呈するような意見を無自覚にインターネット上へあげる愚は、けっして犯さないだろう。◆


 ※「宮垣杳太郎」の表記は『迷路館の殺人』と『暗黒館の殺人』で混在している。
 旧文庫版・新装改訂版『迷路館の殺人』と講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』では「葉太郎」、文庫版『暗黒館の殺人』では「杳太郎」となっているのだ。
 それぞれ初刊の刊行年月を挙げると、『迷路館の殺人』旧文庫版は1992年5月、新装改訂版は2009年11月、講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』は2004年9月、文庫版『暗黒館の殺人』は2007年10-11月である。
 文庫版『暗黒館の殺人』と、そのあとで新装改訂版が出された『迷路館の殺人』で表記が異なる理由については不明だが、本稿に於いては文庫版『暗黒館の殺人』に従って「宮垣杳太郎」で統一した。現時点で流通する各版でこの点が解消されているのか、調査は行っていない。
 序に申せば『奇面館の殺人』では「宮垣杳太郎」と表記されている(上巻P355)。□

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第2580日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉2/3 [日々の思い・独り言]

 ここで一つ提案、『暗黒館の殺人』を読み終えたらば改めて『十角館の殺人』を読んでみよう。というのも『暗黒館の殺人』はシリーズ最重要人物の語られざる物語であり、或る意味で本作がシリーズ出発点となっているからだ。『十角館の殺人』は新装改訂版を用うべし。
 九州は大分県、S半島J崎の沖合約5キロの海上に浮かぶ、角島。そこに建つ洋館(青屋敷)で或る建築家が殺された。中村青司。享年46。1985年9月20日未明のこと。犯人は行方不明の庭師と目されたが、その死にまつわる諸々に疑念を抱いた人物が2人──当時まだ大学生であった江南孝明と鹿谷門美を名乗る前の島田潔である。かれら素人探偵は事件で唯一死体の発見されていない庭師、その未亡人を大分県の安心院に訪ねる。その折彼女が洩らした台詞──青司は子供が好きでなかったのではないか、てふ一言が、角島の事件に新たな光を投げかけた。
 結果、2人が辿り着いたのは、急性アルコール中毒で急死した青司の娘千織は中村青司の妻とかれの弟の間にできた不義密通の結晶であったこと、角島での殺人・放火事件も庭師の犯行ではなく中村青司が使用人と妻を殺害してその後自らも焼身自殺を遂げ、同時に青屋敷も全焼したのだ、という図式に変わったことである。──1985年9月にあった事件のおさらいをした。
 以下、『暗黒館の殺人』を踏まえたお話になる。中村青司が娘を好きになれなかったのは、彼女が実子ではないだろうという推測から逃れられなかったことに加えて、もし彼女が実子だったらかつて浦登邸で口にした<ダリアの肉>、玄児の輸血によって胎内に取り込む結果となった<ダリアの血>ゆえに、千織も<不死の血>……それは呪縛かもしれない……が体内に流れる存在なのかもしれない、と恐れを抱いたからでなかったか。幸いに(?)娘は事故死だったので<復活>は免れたものの、却ってそれが中村青司のなかでなにかのスイッチが入るきっかけとなり、件の凶行へ駆り立てたのかもしれない。
 が、それはダリアの呪縛を己の死を以て絶とうとしたからだ、とはどうしても思えない。自殺した者は生者にあらず死者にあらず、この世に在って惑い続ける存在となるゆえに──中村青司も暗黒館で知っていたはずの、<ダリアの肉>を食した者の逃れられぬ定め──。
 そこで注目されるべきは、中村青司が死の直前に弟へ掛けてきた電話での台詞だ。曰く、自分たちはいよいよ新しい段階を目指す。曰く、大いなる闇の祝福が云々。なんの予備知識も与えられていない第三者にはチンプンカンプンな内容だけれど、『暗黒館の殺人』のあとで『十角館の殺人』を読み返すなら否応なくこの台詞にぴん、と来る。即ち、<ダリアの宴>の結果を意識した台詞──遺言──頌(オード)なのだ。なお、この箇所は新装改訂版の刊行に伴い加筆された。
 ところで、なぜ中村青司は自邸の離れとして、よりにもよって十角形の建物を建てたのか。角島の屋敷と十角館、湖の小島の暗黒館と十角塔。思うにかれは、浦登家の人々を、就中浦登玄児のためのモニュメントとして建築したのだろう。再建にかかわった暗黒館の各館を<惑いの檻>を中心に交差する廊下(十角塔から見おろすと、十字架を模した形になる)でつないだのと同じ想いから。……『十角館の殺人』の初稿タイトルはそういえば、『追悼の島』でしたね。
 『暗黒館の殺人』の「中也」が語り手を務めるメイン・パートが終わった瞬間から、中村青司と<館>シリーズの物語が新しく始まる。となると、最大級の疑問が脳裏をかすめて、やがてじわじわと侵食して中心に居坐るようになる──即ち、果たしてかれ中村青司は本当に死亡したのか? 暗黒館の中庭の<惑いの檻>で他の者同様未だかれも惑い続けてこの地上にいるのだろうか? ……生きることも死ぬこともできず……なんとなればかれも<ダリアの宴>に列なり、<ダリアの肉>を食した者であり、玄児経由で<不死の血>を体内に取りこんだ「仲間」なのだから。玄児がいみじくもこぼしたように、──「いったんは去っても、君はここに帰ってくる。俺には分かる。今は否定し、拒否しようとしていても、いずれはすべてを受け入れ、帰ってくる」(第3巻 P154)──ついでに触れれば、作者は『水車館の殺人』旧文庫版の「あとがき」でぼやいている。曰く、いっそ中村青司を生死不明にしてしまおうか云々、と。
 もう一つ。『十角館の殺人』にて中村青司が妻の左手を切り落としたのは、ダリアや玄児の左手首にあった傷、<聖痕>を意識したか、それとつながるなんらかの事情ありきの行為だったのかもしれない。……と、これはただ、ふと思うたまでのこと。□

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第2579日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉1/3 [日々の思い・独り言]

 この感想を書くにあたってどうしてもカバンへ入れて持ち運ぶ必要があるため、古本屋で講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』上下巻を買ってきた。それから折につけノベルス版であれ文庫版であれ読み返してみて、やはり『暗黒館の殺人』を傑作だと信じて疑わぬ思いに揺らぎはなかった。
 ──いつかやってみたかった、浅倉久志による『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック)「訳者あとがき」の一節の模倣で本稿を始めたのは、他でもない、これまでに読んできた綾辻行人の諸作のうちでこれ程、「傑作」という呼称を問答無用で冠すに相応しいものが(すくなくともわたくしには)見当たらないからである。
 5月いっぱいを費やして物語の世界に沈潜していた時間は、とても幸福だった。現実ではいろいろあったけれど、物語のなかへ潜りこんでいる時間はしあわせだった。物語の世界に足を踏み入れて種々諸々の意味で幸福と悦楽を実感したことは、2017年に於けるわたくしの読書体験でもおよそ最たるものとなるだろう……。
 幸福だった、という理由の一つはこういうことでもある──こちらが抱く、犯人はこの人だろうか、こんなトリックではないか、などと考えても、それらがことごとく、見事に外れてゆくことで尚更、一語一行、一文、行間を丹念に読み、或いは前の方を読み返して検討するのだけれど、やはり凡百の頭では真相を見出し、そこへ辿り着くのは難しく、そうしてそれは二度、三度と繰り返され。
 こんなわけだから、文庫版第4巻の中葉あたりから徐々に、いい方を変えればそこそこ露骨に全体像が窺えてきたときは、新緑の気持ち良い時節だというのに、思わず薄ら寒くなり、肌に粟粒が浮かんできたよ。同時に、興奮と驚愕のつるべ打ちに脳みそは沸騰して体は火照り続け、昂ぶるばかりの心を鎮めるため途中で敢えて読みささねばならなかったこともしばしばで。
 文庫版「あとがき」にて作者自ら曰うこの件り──「(この『暗黒館の殺人』は)何と凄まじくも僕好みの傑作であることか」には惑うことなく首肯したわたくしなのだけれども、実はこの作品、インターネット上では賛否両論、いや、悪罵の方が目立つ印象のある作品でもあった。
 たしかにミステリ小説として読むならば、明快な真相究明と結末を求めるならば、最後まで読んだあとで「ふざけんな!」と怒り心頭に発して本を床なり壁なりに叩きつけたことだろうが、21世紀になって以後、ハイブリッドというかジャンル・ミックスされた作風、内容の小説がとみに顕在化してきたことを併せて考えればわたくしは『暗黒館の殺人』を謎解き小説として読むことはどうしてもできないし、またそう読むべきでもないだろうなぁ、と考える。
 『暗黒館の殺人』に頻出する<謎>の多くは誰彼によって真相が暴かれないまま──というよりも、そんな如何にも人智の枠内での解決や説明を拒絶する/寄せ付けない類の、人間が踏みこむべきでない領域に属する類の<謎>であるゆえに、最後の最後まで、それこそ読了して巻を閉じたあとまで一種、異様な空気のなかへ在り続けるのだ。物語の幕切れでいみじくも江南孝明が述懐するように、そこは僕たちが──人間が近附いてはならない場所であるゆえに。
 むろん、ミステリの体裁を採っていながらミステリでもオカルトでもなく……てふ中途半端ぶりを指して「駄作」と評したい向きの気持ちもわからないでもないが、受け取るばかりで思考を停止させた読み方も果たしてどうなのか、と考えさせられますな。
 『暗黒館の殺人』を傑作たらしめている要因の一つは、自在に分裂して個々の登場人物のなかに入りこんだり、時間を行ったり来たりすることのできる<視点>の導入にある。マルチ・キャラクターによるマルチ・プロットという方法を採り難い(『暗黒館の殺人』の)物語構造である以上、澱みなく、滞りなく、語られるべきことが語らしめられるためには<視点>の採用と活用が不可避であった。
 この<視点>を採用した長編小説の書き手には、たとえばチャールズ・ディケンズやスティーヴン・キングがいるけれど(ウィリアム・サッカレーもいたか)、そこそこ長くて、そこそこ入り組んだ物語を破綻なく語るためには、時としてこのように全能とさえいうてよいカメラの存在が不可欠になる。もし<視点>という突破口を見出すことができなかったら『暗黒館の殺人』は<館>シリーズ屈指の失敗作となっていたのではないか。もっとも、この<視点>の採用ゆえに「読みにくい」という声もあるのだろうけれど、それ程のものであろうか?□

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第2578日目 〈綾辻行人『黒猫館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 “黒猫館”といえばわたくしの世代には悶々とした感情を抱かれる方もおられよう。人里離れた場所に建つ妖しの洋館。そこで営まれる背徳と淫靡の生活。いまにして思えば、人生初のメイドさん萌え……。わたくしが書きたい物語の或る方向に於ける目標は、この、戦前の雪深い山中に建つ洋館を舞台とする物語にあったのだ。それはいまも変わることなくあり続けており──
 ──さて、マクラはここまでにして、綾辻行人『黒猫館の殺人』である。
 宿泊していたホテルの火災によって記憶をなくした老人、鮎田冬馬から一冊の手記をあずかった江南孝明と鹿谷門美。それを読んで自分の正体と書かれた内容が事実なのか、回答を導き出して自分に教えてほしい──鮎田は2人にそう依頼した。手記には、鮎田老人が雪深く人里離れた地に建つ洋館<黒猫館>の管理人として独り住まわっていること、館のオーナーの息子とそのバンド仲間が滞在することになったいきさつとかれらの無軌道な言動、かれらが現地で若い独り旅の女性をナンパしたこと、その夜館の大広間でかれらがドラッグに耽り誰かが女性を殺害してしまったこと、その後館の地下で白骨死体が発見されかつ1人が後に命を落としたこと、が記されていた。
 『黒猫館の殺人』を読むにあたって自身も推理合戦に参加したい、という向きは、新装改訂版の帯に特筆された「全編に張り巡らされた伏線の妙」を常に念頭に置きながら、けっして読み急ぐことなく都度都度立ち止まりながらページを繰ってゆくことをお奨めする。
 作者が仕掛けたトリックはまさに空前絶後、なんとスケールのでかい大技であることか……と嗟嘆せざるを得ない類のものだ。『人形館の殺人』程ではないものの、読者の賛否がこれまたはっきり分かれる作品であろう。本作がオマージュをささげるのがエラリー・クイーンの中編「神の灯」だけれど、スケールでは『黒猫館の殺人』の方がはるかに凌駕する。凌駕したからなんなのだ、といわれても困るけれど、判明した途端に椅子からずり落ち、或いはのけ反って天を仰ぐこと必至。そうして、設計士・中村青司と依頼主・天羽辰也の常識外れな企てにツッコミの一つも入れたくなってしまうのだ。
 鮎田老人が鹿谷たちへ託した手記(奇数章で語られる)は犯人当てミステリの<問題編>で、偶数章での鹿谷門美&江南孝明の行動は真相解明の調査と推理である。読者よ、奇数章で語られる事柄に疑問を抱け。読者よ、偶数章で判明してゆく事実と手記の齟齬に気附いて真相を看破せよ。そうして読者よ、<回答編>に相当する「エピローグ」を充足の溜め息と共に読み終えたまへ。
 真相解明の手掛かりはなにか、ですと? それは言わぬが花だ。ミステリ小説の書評や感想を書くのは難しい。ストーリーとトリックについてどこまで語っても構わないか。ネタバレにつながることは一切書かない方がいいのか、それとも細心の注意を払いさえすればぎりぎりのところまで筆を進めてよいのか。これらの点に自分なりの折り合いをつけられない限り、真相解明の手掛かりは? と訊かれても返す言葉はなにもない。
 あるとすれば……そうね、中村青司が恩師神代教授に依頼主を評して曰うた「あれはどじすんですね」(P152)と、むかし依頼主が神代教授に己のことを述懐した際の台詞、「私は鏡の世界の住人だ」(P238)、かなぁ。嗚呼、わたくしはもう口を閉ざすべきだ。作者のこの言葉──「ある程度の読者が八十パーセントまでは見抜けるかもしれないが、問題は残りの二十パーセントにこそありますぞ」(P417)を紹介した上で。
 感想の筆を擱く前に、「ミステリ小説の読者あるある」に第8章で遭遇して、思わず、これって自分のことだ、と深く深く首肯させられた一節のあったことをお伝えしておきたい。黒猫館で発生した密室殺人の現場調査での江南による、あまりに正直過ぎる述懐。曰く、「時刻表を使ったアリバイトリックと同じで、まあどうにかしたんだろうな、という気分になってしまって、種明かしをされても『ふーん』としか思えないのである」(P321)と。身に覚えのある読者も多くおられることだろう。もしかするとこの一節、骨の髄からのミステリ小説作家、綾辻行人からの苦言なのかもしれないね。
 ──ところで、千街昌之の解説を読んで、いったいどれだけの人が前作『時計館の殺人』を読み返しただろう。たしかに『黒猫館の殺人』の真相そうしてトリックの背景と成立のための前提条件は既に『時計館の殺人』に埋めこまれていた。それは<回答編>「エピローグ」につながってゆく事柄でもあった……。
 もう一つ、ついでに。第4章;神代教授が「自分の影響か知らないが」と前置きした上で、若き中村青司はイタリアの建築家、ジュリアン・ニコロディに関心を持っていたと話す(P139)。むろん、『暗黒館の殺人』でかの館の建築に影響を与えた異郷の建築家として名が出る人物である。こちらの感想はまだお披露目していないから、これ以上は書くのを控えよう。まぁ、<館>シリーズを順番に読んでこそ得られる愉しみの一つを『黒猫館の殺人』も備えているのだ、と申しておきましょう。◆

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第2577日目 〈綾辻行人『時計館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 シリーズ第5の館のお目見えである。
 『時計館の殺人』の舞台は鎌倉今泉、時計屋敷(時計館)。館は大きく3棟に分かれ、玄関と時計塔があるのが1979年以後に増築された<新館>、初代館主の古時計コレクションがずらりと飾られて今回の惨劇の主会場となる1974年に立てられた<旧館>、そこと廊下で結ばれた先にある開かずの間<振り子の部屋>。
 時計塔に設けられた時計盤は、しかし中庭を向いており、しかもいま針は長短いずれも外されてしまっている。まだ針が備わっていた時分の時計盤を見る機会のあった者はいつでも好き勝手な時間を射しているように見えたものだから、「きまぐれ時計」と呼んでいた(ここ、解決編に至って重要となる指摘)。そうしてシリーズのお約束として、初代館主の依頼を受けて旧館・新館いずれも中村青司の設計になる。
 ──“いま巷で評判の美人霊能者と、曰く付きの洋館で交霊会をやろう!” 物語の発端を有り体にいうてしまえば、こうなる。舞台は鎌倉今泉、時計屋敷(時計館)……とはしつこいか。向かうは交霊会を企画したオカルト雑誌の取材チームと、大学のミステリー研究会(実態は超常現象愛好会)の面々。先に現地入りしていた霊能者と合流した一行は以後3日間、密室状態となった<旧館>にて外部との接触を一切断って、館に棲みつくという少女の亡霊とのコンタクトに臨む──のだが、程なくして第一の、続けて第二、第三の殺人事件が発生。おまけに唯一、いずれの犯行が可能であった人物は早々に失踪してしまい。
 斯くして……交霊会ご一行様、赴きし中村青司の館にて謂われなき──と当初は思われた──連続殺人の犠牲者となりにけり(免れし者もありとは雖も)。
 ……改めて感想を書くために読み返してみると、もうプロローグから露骨なまでに伏線が張られていることにびっくり。その堂々ぶりに却ってこちらはあたふたしてしまうのである……そんな書き方じゃすぐにトリックも真相も見破られちゃうよ! とあらぬ心配を抱きつつ。ミステリ小説を読むに年季の入った御仁ならば、それこそ上巻2/3あたりで幾つかの小さな真相を看破し、かつメイントリックにかかわる仕掛けに気附いて限りなく正解へ近附けてしまうのではないか、というぐらいの堂々ぶりだ。なのに、どうあってもはぐらかされてしまうのに嫌気がさして、挙げ句の果てにはこれがミステリ小説の読者のあるべき姿かもしれないな、と取り繕ってみたりして。
 正直なところを申しあげればですね、遅まきながらわたくしも下巻を半分ぐらいまで読んだところでメイントリックについては察しがついたのですよ。賊に狙われた参加者の一人がお馴染み、秘密の抜け道を通って納骨堂の外に広がる光景を見て驚いた場面じゃった。以下、一部ネタバレな文章になるけれど(『時計館の殺人』未読の方はここから数行を読み飛ばしていただいて構わぬが、読んでしまっても気にすんな。神林しおり嬢もいうておる、読んでいない小説のネタバレなんて記憶に残らない、と[施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第3巻P20 一迅社REXコミックス 2016.11]。だから読んでしまわれてもまるで問題はない。安心して)、昼夜が逆転しているという事態に、108個の古時計が刻んで知らせる<旧館>での時間の流れとグリニッジ標準時が示す外の世界の時間の流れが異なっていること以外、どんな理由を与えられるのか。
 が、さすがにこのメイントリックの全貌──ねじ曲げられた時間が統べる虚構の世界はなぜ作られたのか、それが真実だと思いこませるため敷地内の隅々にまで施された造作の数々はどうして必要だったのか──までは見破ることができなかった。残念、残念。
 本作に於けるメイントリックとは前述の通り、時間の流れ方が<旧館>の内と外とでは異なる、というものだが、実はこれ、犯人が意図して拵えたわけではない。先代(初代)館主、古峨倫典がやがて死ぬべき運命を負わされた一人娘、永遠の夢をかなえてやるためにあつらえた、狂おしいまでの愛情の産物だったのだ。別の単語で表現すれば、即ち「妄執」という。
 永遠の夢──それは16歳の誕生日に母のウェディング・ドレスを着て婚約者と結婚すること。が、昔から信頼していた占い師の口から永遠が16歳の誕生日を迎えることなく死亡することを聞かされた父の胸は、信じたくない気持ちと信じざるを得ない気持ちに苛まされ、引き裂かれんばかりとなった。というのも、かつて占い師が永遠の母の死期を占い、その通りになったのを古峨倫典は忘れていないからだ。そうして永遠にまつわる占いを裏付けるかのように翌年、少女は完治不可の難病「再生不良性貧血」と診断されてしまった……。そこで父は考えた、要するに娘が16歳の誕生日を迎えて結婚式を挙げられれば良いのだ、と。斯くして古峨倫典は資産を投じて時計館<旧館>の設計を中村青司に依頼。完成してからは館内の古時計すべてを、実際よりも早く時間を刻むよう調整、永遠をそこへ幽閉した。
 斯様にして古峨永遠はそこで正確な時間を知ることなく、季節の花々、移ろう季節を楽しむことなく、「本当の時間」というものから徹底的に切り離された環境で成長するのだが、死の直前、10年前の夏の日に敷地内に迷いこんでいた子供たちから実際の年月日を知ってしまう。すべてのからくりに気附いて絶望した永遠は、なかば錯乱して挙げ句に自死を遂げたのだった──。件の子供たちが長じて時計館を訪れたミステリー研究会の中心人物たちであることは、既に述べた。
 自分が永遠のために構築した世界を壊された古峨倫典は、娘に死のきっかけを与えたかの子供たちの名前を調べあげて日記にかれらの名前を、フルネームで書き綴った。愛娘を亡くした哀しみと死に追いやった連衆への憎悪のなかで。為に古俄倫典は「私はやはり、彼らを憎まないわけにはいかない」と無念の思いを滲ませる文章を残さなくてはならなかった……。
 当初は今回の連続殺人、父から聞いたか或いは偶然からか、永遠の自死がミステリー研究会の面々に原因があると信じて疑わなかった永遠の弟、由季弥が非道なる下手人と思われたが……然に非ず。真犯人は別にいた。犯行の動機も、また別にあった。学生たちは10年前の夏の日、我知らずして古峨家の関係者をもう一人、死に至らしめていたのだった。
 ──と、ここまで書いたところで恐縮だが、真犯人は誰か? 動機は? 殺害方法は? エトセトラエトセトラ、本稿では語らず触れず済ますとしよう。時計館<旧館>に閉じこめられた江南孝明と行動を共にして事件の経過をつぶさに観察して、鹿谷と一緒に時計館の外或いは時計館<新館>で提示された手掛かりと記述の齟齬を見落とすことなく検めて、謎解きを愉しまれるがよい。
 なお、講談社ノベルス版「あとがき」にてシリーズ第一期〆括りと位置附けられた本作は、1992年3月、第45回日本推理作家協会賞長編賞を受賞した。◆

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第2576日目 〈鎌倉の古我邸のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 あなたはJR横須賀線を使ってここへ来たのだろうか。それとも江ノ電? まぁどちらでも構わない、電車を降りたら西口に出て、目の前のバス道路を市役所前の交差点まで歩こう。信号を右方向へ折れ、道なりに150メートル程北へ。そうすると、鎌工会館ビルを右斜め前に臨む十字路へ出る。そこを左に曲がって日本キリスト教会鎌倉栄光教会の前を通り過ぎて歩くこと、約60メートル。厳めしい鉄製の両開き扉の前に出る。
 そうして扉の柵の間から奥を窺うと、<ザ・洋館>としか言い様のない建物を目にするはずだ。ここが「鎌倉三大洋館」で近頃まで唯一非公開を守り続けた古我邸である。数年前に当主が逝去されたあとは取り壊しの話もあったようだが、現在は装い新たにフレンチ・レストランとして新しい一歩を踏み出している由。
 もとより鎌倉散策の名所、隠れた観光スポットとして知られていた古我邸の前を一時期、明らかに異質な面子が邸の写真を撮ったり、同行者と顔を寄せ合い恍惚の表情(?)を浮かべて何事かを囁き交わしている光景を、扇ガ谷のあたりを散策路としていたわたくしは、確かに見たことがある。当時は「聖地巡礼」なんて言葉、一般化していなかったから、なにかのドラマや映画にでも使われたのかなぁ、ぐらいにしか思うていなかったのだけれど、20世紀から21世紀になり、今年2017年になってようやっとわたくしは、あのときかれらを古我邸前まで来させたその原動力がなんだったのかを知った。
 あれはやはり「聖地巡礼」だったのだ。そうしてわたくしもつい最近、改めて同じことをしてきた。散策に使わなくなってずいぶんとなるけれど、あたりの景観はまるで変わることなく、そこに在り続けていたものだから、駅を出てからこちらへ来るまでのふとした瞬間にタイムスリップしてしまうたかと錯覚した程だ。そうしてかの古我邸も前述の通りフレンチレストランとして生まれ変わり、相変わらず深い新緑の森を背中にして、そこへ静かに建っていた……。
 そうか、この見馴れた古我邸が時計館のモデルになったのか。自分が立つのとあまり変わらぬ位置に、鮎川哲也と綾辻行人が立っていたのか。そんな風な感慨に浸りながら、その一方でかつて目撃した、ここに足を運んで写真撮影したり、何事かを囁き交わす人々の光景を思い出す。成程、所がわかっていれば熱心なファンなら一目見たい気分にはなるよなぁ……。
 古我邸は現在フレンチ・レストランとしてランチもディナーも行っているが、前庭(オープンエアテラス)でカフェも楽しめる。残念なことに本稿執筆の時点ではカフェでのランチは行っていない様子だが、いまの季節、源氏山から新緑の森を吹き抜けてくる風を感じながら、スパークリング・ワインや鎌倉ビール、或いはコーヒーなど味わいながら、いっときの至福を堪能してみては如何だろう。
 次は『時計館の殺人』にて鹿谷門美が立ち寄った極楽寺にある<純喫茶A>訪問の記録(?)でも綴ろうか、と企んでいる(けっして『時計館の殺人』感想の筆が遅れているがための苦肉の策ではない)。ネット情報は見ていないが、土地勘頼りにたぶんあすこだろう、という見当はついている。江ノ電沿いの坂道の……。◆

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第2575日目 〈綾辻行人『人形館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『人形館の殺人』(講談社文庫)は〈館〉シリーズの異色作である。どこが? まず舞台となる地。これまでは、そうしてこのあとも中村青司の館は人外魔境ならぬ人里離れた地に建てられていたが、本作の人形館はなんと京都市中、しかも左京区北白川てふ場所なのだ。しかもこの館と中村青司のつながりは、シリーズに登場する館群のうちでもまた異色で……この点を縷々綴ると仕掛けられたトリック(大技、というた方がよいか)を割ることになるので、以下自粛。
 因みに北白川は著者の母校のある百万遍の東にあって、著者にも馴染み深いエリアであるからか読んでいて、シリーズの他の作品よりも土地の描写に力が入っているように見受けられる。気のせいだろうけれどね。
 粗筋を文庫裏表紙から引く、──「父が飛龍想一に遺した京都の屋敷──顔のないマネキン人形が邸内各所に佇む「人形館」。街では残忍な通り魔殺人が続発し、想一自身にも姿なき脅迫者の影が迫る。彼は旧友・島田潔に助けを求めるが、破局への秒読みは既に始まっていた!?」
 本作は館の立地以外の点でも異色である。但しそれを述べようとするとミステリ小説の書評/感想の独自コードに抵触してしまう。ゆえに、どこまで書くか、悩んでしまうわけだが、ぎりぎりのラインでその異色なる点に触れるなら……「一人称はすべてを語らない」、「一人称は目の前の事象を現実として語るが、その現実は必ずしも事実とは限らない」だろうか。加えてもう一つ触れれば──島田潔はどこにいる?
 この奥歯に物が挟まったような説明にもどかしさを感じて(正しい反応だ)もっと直截簡明な物言いを求める人は、こんな風に訊ねてくるかもしれない。で、全体的にどんな雰囲気の小説なのさ、と。わたくしはそのお訊ねに対して、そうねえ、と一頻り顎を撫でさすった上で、ヒッチコックの『サイコ』を彷彿とさせるかなぁ、とお答え申しあげようと思う。
 顧みて自分はミステリ小説の模範的読者かもしれない。読書中はあれこれと推理を働かせてみても大抵最後のドンデン返しにしてやられ、きいっ! と叫んで地団駄を踏み、そうしておもむろに前の方を読み返して成程と首肯し、作者の仕掛けにまんまと引っ掛かった自分に舌打ち、溜め息するのだから。
 その騙され易さは本作の読書中も健在で、就中クライマックスとなる第九章、416ページにて思わず「えっ!?」と叫び、そのあとは困惑して頭の整理にこれ努めなくてはならなかった。読み進めてきて自分なりに推理を組み立ててきて、一部については極めて正解へ近附いたようだったのに、かのページ以後になって根本からあざやかに引っ繰り返されてしまうた。執筆・出版された時期を念頭に置けば真相と仕掛けを然るべく看破できたはずなのに、まさか〈館〉シリーズでこのテを喰らうとは……!! 新装改訂版の帯に躍る「シリーズ最驚の異色編!」てふ文言の真意を、(未読の)読者よどうぞご確認なされよ。
 刊行当初から賛否両論、はっきりと二極化するという『人形館の殺人』だが、わたくしはこの長編を専らそのシチュエーションゆえに好む者である。著者もまたお気に入りの一作である由。◆
2017年04月26日

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第2574日目 〈綾辻行人『迷路館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 <館>シリーズ第3作、『迷路館の殺人』(講談社文庫)を春雨そぼ降る今日、4月1日夕刻に読了。この月日に因んだ作為ではなく、あくまで偶然の一致に過ぎぬ。もっとも読み始めた当座はなんとなく、4月1日に読み終えられたらいいな、ぐらいには考えた覚えもあるけれど。どうせなら4月1日に読み始めて4月3日午前に読み終わる方が、この作品の場合は最上だったのかもしれないけれど、現実的には到底不可能事なので却下しよう。
 舞台は地下に建造されたギリシア神話さながらの迷宮を擁す<迷路館>である。建築主が中村青司、館の主人が推理小説界の大御所、宮垣杳太郎、その還暦祝いに招かれた4人の作家と1人の評論家、編集者とその妻(妊娠中)。そうして訪問客のひとりとしてひょっこり登場した名探偵、島田潔。この四者が集うたおよそ建築基準法を無視した迷路館。役者は揃い、舞台は整った。これで何事かが起こらなくては嘘だ。斯くして(すべての読者が望むように)館の薄闇のなかで血まみれの見立て殺人の幕が切って落とされる……。
 前作『水車館の殺人』が全体的にはオーソドックスな作劇であったのから一転、本作は最後の最後まで「謎」、「謎、「謎」のオンパレードで、終始著者の魔法に翻弄されっぱなしであった。一旦は真相解明となったものの、最後の章でもう一つ、作品を最初から読み直すことが推奨されるようなドンデン返しが待ち構えていようとは、思いもよらなんだ。もうわたくしのような未熟な読者は、「マジっすか!?」「やられた!」と天を仰いで叫ぶより他ないのである。地団駄を踏む? うん、まぁそういうてもよいかもな。巻の中葉で館のからくりがわかり、真犯人にもおよそ見当が付き、ワープロに残された文書の真相にも気附けた──それはだいたいに於いて当たっていたのだが、まさかそれを簡単に飛び越えた事実が用意されているとはなぁ。文庫の裏表紙に「徹底的な遊び心」とあるが、それを極限まで突きつめれば斯くも周到かつ大胆な伏線の張り巡らされた、読んで仰天、読み返して仰天な推理小説ができあがるのだ。綾辻行人、凄まじき。
 ──告白すれば『迷路館の殺人』を読むつもりはまったくなかったのである。当初は『十角館の殺人』だけで<館>シリーズは済ませるはずだったのに、その面白さと謎解きの妙、中村青司が建てた館の魅力に取り憑かれて『水車館の殺人』に手を伸ばし、その最中にこれも面白そうだな、と『時計館の殺人』と『暗黒館の殺人』を購い、第2作の読書も途中まで来るとさすがにそこから一気に第5作へ飛ぶのも気が引けて、間を埋めるようにして第3作の本作と第4作の『人形館の殺人』を買ってきたのである。そうして本作を読んでいる途中には、もうこうなったら<館>シリーズを全部読んでしまえ、と思い立ってしまったのであった……即ちそれは、<未読小説(文庫に限る)読破マラソン>のコースが大きく変更されたことを意味する。どんなに早くても、6月中旬あたりまでは綾辻行人の華麗なるマジックとロジックにどっぷりと浸かっていることは必至だ。
 かつて著者は島田荘司『【改訂完全版】斜め屋敷の犯罪』の初刊(講談社ノベルス)の巻末余白に「島田荘司のファンになります」なる文言を記した由。それに倣えばわたくしは本稿にて、『迷路館の殺人』がダメ押しになって綾辻行人のファンになります、と公言しておこう。◆

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第2573日目 〈綾辻行人『水車館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「横溝正史風の本格探偵小説をイメージ」して執筆したというだけに、本作『水車館の殺人』はアクロバティックな前作『十角館の殺人』とは打って変わり、端正にして古典的そうしてオーソドックスな作風を漂わせる本格ミステリである。
 岡山県の、人里離れた場所にシリーズ第2の館、水車館は建つ。中村青司の設計で11年前──というから1975年のことだ──に建てられた。館の造営に併せて水路をそのすぐ脇を通るよう引きこみ、三連の水車で以て館内の電力をまかなう。主は実業家の藤沼紀一、いまは妻の由里絵と執事の倉本庄司が暮らし、通いの家政婦が別にいる。一方でこの館は紀一の父にして不世出の幻想画家、藤沼一成の作品のほぼ全点を収蔵してもいた(未公開の大作一点を含む)。水車館以外の場所で一成の絵画を鑑賞することはできず、為に年に一日だけ、世間の喧しい連衆を鎮める目的で特定の数人を招待して開放している。1984年には美術商と大学教授、外科院長、菩提寺の住職の4人を。作中に於いて<現在>となる1985年には住職を除いた3人を。
 が、現在パートの1985年は思わぬ闖入者が現れて水車館の客となった。然り、『十角館の殺人』で探偵的役回りを務めた島田潔である。斯くして物語は動き始め、1年前に起きた殺人事件と失踪事件の真相へ徐々に迫ってゆくこととなる。島田による関係者への事情聴取と並行するようにして──嗚呼、今年もまた新たな殺人事件がここを舞台に発生するのであった! 同時進行するは或る人物がひた隠す秘密が暴かれる瞬間へのカウント・ダウン。なお、1985年のパートには数ヶ月前によんどころない事情を抱えて水車館を訪れた一成の弟子、正木慎吾が館の住人(居候、か)としており、由里絵にピアノの手ほどきをしている。
 三人称で語られる過去パートと紀一の一人称で語られる現在パートが一章毎に、交互に綴られてゆくことで、両年の事件が立体的に立ちあがり、全貌と関係が白日の下に曝される。1985年と1986年の出来事が一つの動機、一つの真相へと収束してゆくあたりの描写は「圧巻」の一言だ。読者はおよそ一人の例外もなくページを繰る手をその間止めることができず、きっと最後の一行、最後の一字へ辿り着くまでの時間をもどかしくも幸福に感じることだろう。そうして、物語の魔法に搦め捕られて心をたゆたわせる法悦をたっぷりと味わわせてくれることだろう。むかし観た映画のパンフレットに「愛ゆえの凶行か?」なんてコピーが躍っていたけれど、『水車館の殺人』の動機と真相はまさしくその文言こそが相応しい。
 敢えていうなら冒頭での一成のモノローグ──「何も変わっていない。──第三者の目にはそう映るであろうものが、しかしいかに大きな変化を内在しているのかを、私は知っている」(P25)──この何気ない述懐が鍵となる言葉であるのを指摘しておきたい。作品全体、その仕掛けの要となる一文だ。読み返した際にこの一文にぶつかって嗟嘆、天を仰いだわたくしである。
 筆を擱く前に、どうしてもこれだけは。まさか綾辻行人の小説を読んでキャラ萌えすることになろうとは、思いもせなんだ。お相手は幽閉の美少女、水車館の奥方、藤沼由里絵その人である。単に館の住人の一人として事件に遭遇するのではなく、実はこの女性こそがキー・マンなのだが、わたくしにはそんなのどうでもいいお話で(失礼!)、ではどこに萌えたかといえば、なんというてもその幸薄く、触れれば砕け散るガラス細工のようなか細さ、その居ずまいの儚さがたまらないのだ。具体的な描写はないと雖も──おお、彼女が毛布にくるまって雷鳴におののく姿のか弱さと艶やかさよ……!◆

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第2572日目2/2 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 本稿は読書中の小説に関する備忘というか、メモのようなものである。ジャンルがミステリゆえに「もしかしたら……」と思うた事柄はかりにそれが誤りであったとしても、書き留めておくのが最善であろう。
 読書が終わったあとにこれを読み返したら、わたくしは赤面して、それこそ穴があったら入りたい心境に陥り、同時に本稿を破棄したい衝動に駆られるかもしれない。或いは読了済みの方が本ブログをお読みになったら、なんだこの的外れな推測は、と腹を抱えて大笑いもしくは嘲笑の的にされるやもしれぬ。
 が、それはそれでいっこうに構わぬではないか。正解を導き出すだけがミステリ小説を読む愉しみではあるまい。
 ──と、あらかじめ詭弁を弄しておいたところで、では、本題。

 『暗黒館の殺人』は綾辻行人によるゴシック小説でもある。そも人里離れた場所に一軒だけぽつねんと建つ、まわりの人々の訪問を拒むかのような趣の館が舞台で、そこに住むなにやら曰くありげな人々と外部から(必然か偶然かは置いておくとして)やって来た者が登場し、後者が(意図的にか否応なくかは別として)館とそこの住人の秘密の最奥=核心、心臓へ迫ってゆく──。それがかつてヨーロッパの読書界を席巻し、現在に至るまで細々と命脈を保つゴシック小説の定石である。
 海外の幻想文学に魅せられた当初から、退屈極まりない、とまで腐される(揶揄される)ゴシック小説を好んできた。<館>シリーズ、就中『暗黒館の殺人』に触れて郷愁というか懐かしさを覚えたのは、そんなところに由来するのだろう、と自分では分析している。
 19世紀末、正統ゴシック小説の到達点と呼んでよい長編小説がイギリスで生まれ、瞬く間にヨーロッパのみならず新大陸アメリカにまで波及した。ブラム・ストーカー著『吸血鬼ドラキュラ』がそれだ。
 なお、これの読書には、小説としての面白さや雰囲気を第一とするなら平井呈一訳の創元推理文庫版、小説を読む醍醐味の一切を犠牲としてでも正確さのみを追求した、ただの英文和訳で構わぬならば新妻昭彦と丹治愛共訳の水声社版をお奨めする。この水声社版がお奨めできるのはひとえに完訳である点と精細な註釈のある点。それ以外にお奨めできるポイントは、ない。
 話が横道に逸れたけれど、ここで『吸血鬼ドラキュラ』を唐突に持ち出したのはゆめ奇を衒っての話ではない。
 浦登玄児、その文庫版を読み進めるにつれて、本作がますますゴシック小説に相応しい闇を纏ってゆくのと同時に、『吸血鬼ドラキュラ』或いは吸血鬼小説全般を意識したモティーフが次第次第に目に付くようになってきたからだ。暗黒館の当主一族の姓が、ドラキュラ伯爵のモデルとなった実在のルーマニア王ヴラド・ツェペシュを思わせる「浦登」。初代当主の妻ダリアの出身国が、吸血鬼小説と浅からぬ縁を持つイタリア。これだけでもじゅうぶんに、ねぇ……連想するな、という方が無理な話である。
 わたくしがかの一族を吸血鬼もしくはそれの変形種と思うに至ったのは、むろん読書中の現時点では憶測でしかないし、読み終わってみれば失笑するより他ないかもしれないけれど、第2巻P179を読んでいたときだった。語り手「中也」に向かって館の住人のひとり、語り手を暗黒館に招いた浦登玄児がいった一言、──君ももうわれわれの仲間なんだよ。仲間とは? 第1巻のクライマックス、年に一度の浦登家の秘儀、<ダリアの宴>。一族の者のみがその日に執り行われるこの宴に、語り手は特別に参加を求められ、<肉>と呼ばれるものを食す羽目になった。その翌る日からだ、かれが一族の関係者と見做され、前述の如く仲間と称されるようになったのは。
 こう思うのだ、宴に列席して肉を食したことで語り手は、吸血鬼とそれに血を吸われた者、言い換えれば支配者と被支配者に等しい関係性を持ったのではあるまいか、と。うぅん、なんていえばいいかな。宴に列席して肉を食したことで語り手「中也」は浦登一族の秘密を共有し、一族に縁故ある者として認識された──言葉を変えれば、一族の秘密という底無しの闇に囚われ、取りこまれた。そんな風にわたくしは思うのだ。
 かてて加えて、館は常に闇の色と血の色に包みこまれ、外光は色附きの磨りガラス窓や閉ざされた鎧戸の隙間から洩れてくるぐらいが精々なのだ(おまけに外は嵐/台風で昼でも太陽の日差しが届かぬ状況である)。
 「百目木峠の向こうの浦登様のお屋敷」には近附くな、あすこには良くないものが棲みついているから。館にいちばん近い集落I**村では昔からそう囁かれて、守られてきた(村の少年、市朗はその禁を破ったがために恐ろしい目に遭うわけだが)。
 浦登家と縁戚にあって館に泊まりこんでいた自称芸術家の首藤伊佐夫は自分の芸術の目的は「神と悪魔の不在の証明」にある、と語り手に話して聞かせた。そうして語り手「中也」はキリスト者である。
 これらを以て件の一族をアンチ・キリストたる吸血鬼もしくはその変形種と憶測するのは、けっして無理な話ではあるまい? そういえばキリスト者に己の血(本作では肉)を呑ませて汚れた者(魂)に堕として自分の陣営に引きずりこむ、という図式はスティーヴン・キング『呪われた町』にも見られた。
 シャム双生児姉妹が語り手に話す、初代玄遙と玄児は「特別」で、彼女たちの父浦登柳士郎は「失敗」(なのかもしれない)、そうして成功した者はまだいない。この文脈でゆけば、吸血鬼と人間が交配した結果、館を離れて人間と同じく陽光の下でも生活できる者を「成功」と呼び、そうでない者(生者でも死者でもない、そんな曖昧な状態にあって惑っている者、と捉えられる)を「失敗」と呼んでいるのか。「特別」とは特定条件下でありさえすれば暗黒館を離れて活動することも可能な存在、か。
 また、このシャム双生児姉妹──美鳥と美魚が「中也」に求婚して、困惑するかれを救うように玄児が登場する一連の場面は、『吸血鬼ドラキュラ』にてドラキュラ城に泊まるジョナサン・ハーカーを誘惑する3人の女吸血鬼と伯爵が現れてそれを追い払う場面に重なってくる。
 言い足せば、暗黒館の中庭の、一位の植えこみに四方を囲まれた<惑いの檻>と呼ばれる墓所は、いってみれば初期キリスト教会/帝政ローマの時代、その帝都の地下に建設された共同墓所(方コンペ)と同じなのだろう(中庭ではないけれどドラキュラ城にも同種の墓所が存在しており、そこにドラキュラ伯爵やハーカーを誘惑した女吸血鬼たちが眠っている)。そのローマはイタリアの首都、イタリアは玄遙の妻ダリアの故国だ。地下墓所に安置される棺には吸血鬼が眠っている。「檻」とは不死なる吸血鬼たちを閉じこめておく、その魂が彷徨い出ぬよう封印している場所の形容なのだろう。──嗚呼、まさしく定番の図式ではないか。もっとも、この連想、この図式さえも著者があらかじめ想定していたミス・ディレクションの類であったなら、喝采せよ、わたくしはミステリ小説の好き読者であることが証明されたに過ぎぬ。深読みしすぎ、穿ちすぎ、騙されやすい、エトセトラエトセトラ。
 序でに邪推すれば、昔玄児が十角塔に幽閉されていたとき、食事の差し入れなど面倒の一切を見てくれていた諸居静は「中也」の実母なのではあるまいか。彼女がその後館を出てゆく際連れていったわが子とは他ならぬ「中也」ではなかったか。為に東京でかれを見附けた玄児は白山の自宅に、訳あってのことだが住まわせ、暗黒館に誘ったのではないのか。
 ああ、さて。
 以上は『暗黒館の殺人』第2巻P288まで読み進めた、2017(平成29)年5月10日午前時点での所感(推理? 否、憶測だね、やっぱり)である。思うたこと、考えたことを綴ってみたのだ。全巻を読了してみれば、吸血鬼云々の話は完全なる的外れかもしれない。そのときはそのとき。この時点でわたくしはこう考えました、でも実際のところはどうなんでしょうね、というに過ぎぬのだから。が、この『暗黒館の殺人』が著者が現代風にアレンジしたゴシック小説である、という意見を引っ込めるつもりの微塵もないことはお伝えしておきたい。

 これは中間報告もとい備忘である。『暗黒館の殺人』の感想は全4巻を読み終えたら改めて、ゆっくりと筆を執るつもりだ。◆

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第2572日目1/2 〈綾辻行人『十角館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』(講談社文庫)はアガサ・クリスティの名作『そして誰もいなくなった』へのオマージュである。ゆえにクリスティを読んでおれば自ずとこちらの犯人もトリックも見破れるようになっている──わけがない。そんな底の浅い推理小説が果たして発表から30年を経たいまでも読み継がれているだろうか。否。そんな安易な小説が推理小説界に<新本格>を芽吹かせ、新たな一大ムーブメントを築く端緒となり得たであろうか。否。
 『十角館の殺人』、それは記念碑的作品である。大分県の沖合に浮かぶ孤島、青島。そこは1年前に忌まわしい事件の舞台となった島である。そこに残る館を訪れた推理小説研究会の男女を見舞う連続殺人。島の外にあって1年前の事件を探る名探偵、島田潔と、その助手を務める江南孝明(かれも1年前まで推理小説研究会に籍を置いていた)。やがて白日の下に明らかとなった事件の全容は実に意外なものであった……。と書けば、よくある「お話」で『十角館の殺人』もそこから大きく踏み外すこともないのだが、本作が大いに異色なのはトリックの意外性、叙述の妙、計算され尽くした構成に起因する。
 本稿でのネタバレは避けたいので詳述は控えるが、発表当時の衝撃たるや賛否両論、毀誉褒貶相半ばしたというのも成程、そうであろうな、と深く首肯させられる。もっとも、犯人の動機附けに唐突の感を否めないのは、何度読み返しても払拭できぬ唯一目立つ瑕疵だけれど。
 新装改訂版でその衝撃を最大級に演出するページ組みがされた、終盤の“あの一言”。これこそ後に続く<館>シリーズで手を変え品を変えて読者を幻惑せしめる<大どんでん返し>の出発点にもなり、また30年後まで影響を保ち続けるものなのは、わたくし如きが指摘するまでもあるまい。
 すべては思いこみを逆手に取った手腕なのだ。探偵役とワトスン役、かれらが直接訊ねて聞きこみを行う人々以外は全員その島にいるはずだ、という思いこみ。そうしてあだ名についての、それ。考えてみれば本名に起因するあだ名をサークル内で与えられているのは、島の外にあってワトスン役を演じている江南孝明だけなのだ……。
 が、わたくしは推理小説の実に素直かつ模範的な読者だから、ページを繰ったところにたった一行印刷された“あの一言”に、「えっ!?」と声にならぬ叫び声をあげて前のページを逐一読み返してしまった。そうして唸った。こちらの思いこみを裏附ける既述は、目を皿のようにしたってどこにも書いていない。心地よい騙しのテクニックに唸り、脱帽した次第である。
 ──その酩酊に千鳥足気分でいたら先へ進むことをすっかり忘れ、気附けば降りる駅まであとわずか。このまま帰宅しても今日読み終えることは、まず以てあるまい。脳天にハンマーを喰らったような衝撃、即ち終盤の“あの一言”にこの印象も薄れてしまうことだろう。斯様な懸念から、自宅から最寄り駅までの間にあるファミレスに寄り道して残りのページに耽溺し、興奮と満足のうち巻を閉じるに至ったのだった。読了のみを目的としてファミレスに入る──こんな経験は顧みても昨秋、乱歩の『孤島の鬼』以来である。
 綾辻行人、凄まじき。文庫の扉へ読了日と一緒に記したその言葉に、偽りはない。
 咨、だけどこんなに夢中になって読み耽った小説は久しぶりだ。お陰で長い通勤時間を退屈することなく過ごし、頗る密度の高い読書生活を満喫できたよ。それは──幸運なことに──『十角館の殺人』読了から1ヶ月以上が経ったいまでも続く<綾辻行人祭り>が証明している。更に幸運なことに、その<祭り>はまだしばらく終わる気配を見せないのである。◆

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第2571日目 〈2017年1-3月に読んだ小説(殆どが推理小説なのだ!)。〉2/2 [日々の思い・独り言]

 寄り道を切りあげて本道へ戻ったわたくしの前にあったのは、湊かなえ『告白』(双葉文庫)である。新人賞を受賞した第1章は雑誌で読んでいたけれど、書籍化された全編を読むのはこれが初めてなのであった。機会はありながら読まないで過ごしてきたのが不思議といえば不思議だが、詭弁を弄することをお許しいただけば、これまで現代日本のミステリ小説に殆ど関心が向かなかったのだから、まぁ、仕方ないといえば仕方ないよね。先日もお話ししたように、20世紀最後の10年の中葉あたりで国産ミステリを読むことを殆どやめてしまったのだが、その当時まだ湊かなえはデビューしていなかったものね。読んでいなくなって当然だったのだ。以上、詭弁終わり。
 閑話休題。『告白』のこと──読んでいる間中、ずっとゾクゾクしていた。体の芯から湧き起こってくる震えが止まらなかった。読書しているわたくしのなかにあった、この小説に対するなにかしらの気持ちに言葉を与えるなら、「スッゲー!」の一言。冷静に分析することもできない程の興奮の渦中に、読書中も読了後もずっとあったわたくしはこの一言以外に発する言葉をいま以て持てないでいる。情けない話だが、本当のことなのである。それは読書中に自分のなかで生まれる様々な感情、一瞬乃至は刹那の思い、そんなあれやこれやをすべて一切合財内包した先に存在するのが、「スッゲー!」という頭の悪そうな言葉なのだ。陳腐な台詞にもそれなりの魂があることをお知りいただければ幸甚、幸甚。
 日本とか外国とかの別なくミステリ小説を斯くも息を詰めて、まなじりを決して読むなんて久しぶりのことだったから、なおのこと興奮の度合いは大きかったんだろうね。読後の余韻もじゅうぶんに満足のゆくもので。いやぁ、それにしても(と、遠い目をする)『告白』のラストは衝撃的だったなぁ。ここまでダメ押しをされたら脱帽するより他にないではないか。
 『告白』のような興奮を求めて第2作の『少女』(双葉文庫)と短編集『望郷』(文春文庫)を読んだが、顧みて「ゆるい」小説だったてふ印象が拭えない。『少女』は、こちらを『告白』よりも先に読んでいたら必ずやそちら以上にびっくり仰天したことだろう。『少女』も救いがなく、八方塞がりで、<イヤミス>としか言い様のない小説であったから。
 登場人物たちは、誰彼の台詞のなかでしか登場しない者も含めて、皆が皆、なにかしらの形でつながりを持っている。縦横無尽に散りばめられた手掛かりを組み合わせることで初めて読者の前に提示される、裏の、というか真の人物相関図を目の当たりにするとき、読者は目を丸くしたり、唖然としたり、短い悲鳴をあげるのではないか。
 『少女』を「ゆるい」と思うた原因は作品それ自体に瑕疵があって目立つゆえのことでは断じてなく、単に『告白』の後に続けて読んだがための不幸に起因するのだろう。わたくしはそう分析している。
 もう一方の『望郷』だが、理由はどうあれ、収められた6つの短編にわたくしの琴線が触れることはなかった。精々が「海の星」という作品に漂う<男の哀感>にしみじみさせられたことぐらいか。そういえば、これと表裏一体を為すような「夢の国」も忘れがたい作品だった。地方の小さな街の閉塞感とそこで生活する人々の姿が巧みに描かれていたからだ。
 昨秋からの流れで、年が明けてからもミステリ小説ばかりを専ら読んできた。その反動ではないが、気分転換のように文庫化された又吉直樹『火花』(文春文庫)を読んだ。読んでいる最中に例のプレミアム・フライデーがあり、村上春樹の最新小説『騎士団長殺し』が発売された。行きつけのクラブのお気に入りのお嬢さんを同伴した。そうして、読み終えた直後にNHKでドラマの放送が始まった。『火花』については『暗黒女子』同様、かつて本ブログにて拙い感想文をお披露目している。
 このあとに乾くるみ『蒼林堂古書店へようこそ』(徳間文庫)と『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)を読んでいるが、これらの作品について本稿で述べることは控えさせていただきたい。箸にも棒にも引っ掛からないから、という不遜な理由ではなく、どうにかして感想文を認めよう、と機会ある毎に四苦八苦して取り組んでいるからである。あがいてもあがいても結局一本の原稿として披露するに及ばないと判断したときは……その際はその際である、2作まとめて一度にお披露目してしまおう。要するにこの段落は時間稼ぎの言い逃れに他ならない。
 乾くるみを2作で切りあげた後は、手塚治虫・著/三上延・編『ビブリア古書堂セレクトブック ブラック・ジャック編』(角川文庫)と中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)を読んだ。後者については既に感想文を仕上げてあるので、やがて読者諸兄の目に触れることだろう。
 さて、その『初恋芸人』から一週間。元同僚に奨められて購入したものの数ヶ月放置し、ようやっと手にすることのできたのが、綾辻行人『十角館の殺人』(新装改訂版/講談社文庫)である。本稿を認めている現時点で第12章「八日目」を読んでいる最中なのだが、帰りの電車のなかでまず間違いなく読み終わると思う。
 これは実に面白い小説だ。こんなにドキドキさせられるミステリ小説が書かれていたのか、と己の不明を恥じ、また喜びに湧いている。当初は『深泥丘奇談』正・続(角川文庫)のみのつもりだったのが、『十角館の殺人』を奨められたことですっかりハマり、恒例の寄り道<この作家の他の作品も読んでみよう>シリーズが始まった。今回が他と違うのは、1作、2作でその寄り道に満足することはなく、今後数ヶ月は継続されるだろう、ということ。それが証拠に今日、『水車館の殺人』と『時計館の殺人』(いずれも新装改訂版/講談社文庫)、『霧越邸殺人事件』と『眼球奇談』(共に角川文庫)を、それぞれ新刊書店と古本屋で買ってきたところである。おそらく今後しばらくの間はこのシリーズが適用される作家は現れないだろう。
 ここまで書いてきて思い出したのだが、綾辻行人の作品に接するのは今回が初めてではない。佐々木倫子と組んだ『月館の殺人』(小学館)もしくは『Another』(角川スニーカー文庫)、いずれかが初めて接した綾辻作品であった──。
 以上、これまでの3ヶ月で読んだ、何冊かの小説について倩思うところをだらしなく綴ってきた。残りの9ヶ月でどれだけ読めるか、どんな物語がわたくしを待ってくれているのか、それを考えるとワクワクしてくる。第3代アメリカ合衆国大統領トマス・ジェファーソンは「本がなければ生きられない」“I cannot live without books.”というたそうである。マイケル・ジャクソンは「僕は読書が大好きだ。もっと多くの人に本を読むようアドバイスしたい。本の中には、まったく新しい世界が広がっているんだよ。旅行に行く余裕がなくても、本を読めば心の中で旅することができる。本の世界では、何でも見たいものをみて、どこでも行きたいところに行ける」“I love to read. I wish I could advise more people to read. There’s a whole new world in books. If you can’t afford to travel, you travel mentally through reading. You can see anything and go any place you want to in reading.”というた由。まさしく。
 小説を読むこと。それは逃げこむことであり、守ることであり、再生であり、治癒であり、回復である。他になにが? いまのわたくしの場合、それはミステリ小説である。これ以上に最適な逃避と守備、治癒と回復のためのフィクションが果たしてあるのか、寡聞にして自分はそれを知らない。◆

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第2570日目 〈2017年1-3月に読んだ小説(殆どが推理小説なのだ!)。〉1/2 [日々の思い・独り言]

 これからお読みいただく小文は、今年2017年の3月18日に第一稿が書かれた。いま頃になってお披露目する理由については、最後(2/2)までお読みいただいた上で、そうして来週の更新を併せてご覧いただけば自ずと明らかになろう。
 申し添えれば、書かれた場所は神田淡路町のスターバックスである。そこは『ラブライブ!』の主人公、高坂穂乃果の実家のモデルとなった老舗甘味処に程近い店舗でもあるのだが、けっして聖地巡礼の途中で、或いは終えたあとに立ち寄って書かれたものでないことをご承知おきいただきたい。なお件の甘味処は池波正太郎のエッセイにも何度となく登場する店でもある。
 さて、本稿はちょっと長いので分割することにした。今日と明日、2日続けてのお披露目となるが、ゴールデン・ウィーク特別企画というわけではない。そんな考えはまったく持っていない。
 ならば、どうして? んんん──「なんとなく」、「そんな気分だから」、というのがいちばん正解に近いかな。呵々。
 では、始めよう。アゴーンを。

 今年読んだ本について、書く。「について」というても当たり障りのないコメントの域を出るものではないこと、賢明なる読者諸兄ならば先刻ご承知のことであろう。
 いや、それにしても時間の過ぎるのは早い。なんだか正月気分の抜けないまま気附いたら年度末を迎えていた、そんな感慨である。
 私事で恥ずかしいけれど、年が改まってからの1.5ヶ月、異動先がまったく見附からず退職を視野に入れざるを得ない、のっぴきならぬ状況に追いこまれていた頃にようやく新天地を得られて安堵し、片道約1.5時間弱の通勤と雖もそれなりに忙しく、やり甲斐と達成感と充実感で満たされる仕事ができている。感謝の一言。そうしていまは、転属から1.5ヶ月を経て繁忙期に突入、いまはひたすら一所懸命仕事を覚え、朝から晩までひたすらパソコンに向かって作業して、がっつり残業代を稼いでいるのである。
 正直なところ、通勤時間の長さも相俟ってなかなか文章を書くための時間を割けず、またそのための場所を見附けることもできないのが悩みの種だけれど、これに関しては繁忙期が終わって心身共に余裕が生じるまで解決策を見出すことはできなさそう。へとへとになって帰宅したらあと少しで日付が変わる、という時間だもの。
 小説『ザ・ライジング』を書いていた頃も現在とほぼ同じエリアで働いていたが、時間の制約は当時の方が厳しかったにもかかわらず(開店前から閉店後まで、約14時間ぐらいは労働していたなぁ。当然サービス残業である)、ずっと上手に時間をやり繰りして執筆に耽っていた覚えがある。やはり仕事が終わったらさっさと、寄り道しないで帰宅して、早くに就寝して朝型に切り替えるのが<たった一つの冴えたやり方>なのかしらん。
 さて、マクラはここまで。今年になって読んだ本(専ら小説)のお話である。だいじょうぶ、忘れていない。
 読書好きなお嬢さんとのLINEのログを遡ることで、いつ、誰の、なんという本を読んでいたかは判明する。またそこに記録された本を発掘して扉ページを開けば読了日も書いてあるので、おおよそについては読んだ順番も特定できる。そも2017年が始まってまだ3ヶ月である。順番はともかくなにを読んだかは概ね記憶しておるし、書架を検めればLINEに頼らずともその点は明らかとなる。幸いなことにそこまでわが記憶力は減退していないのだ。サンキー・サイ。
 では、始めよう。アゴーンを。
 2017年になって最初に読んだのは、斎木香津『凍花』(双葉文庫)であった。これは中居正広がラジオで紹介していたのを聞いて意識の片隅に引っ掛かっていたのを数日後、本屋で見掛けて立ち読みしてみたところ、最後まで読んでみたくなったのでレジへ運んだもの。
 読み進むにつれて気持ちのすれ違う姉妹の哀しさに心がざわついて、いたたまれない気持ちに陥ったことである。なんだかね、兄弟間にある理解不足、意思疎通の不全など、いろいろ考えさせられてさ……。本人以外の誰も相手の真情或いは心情を汲むことのできないやりきれなさに、打ちのめされるしかなかったのである。加害者として逮捕されて黙秘を貫く長女の傍に、凶行以前からいられてあげたなら……という中居の発言が読了後の自分の心に染みこんできて、深く首肯してしまうたね。
 事の序に申せば、本書同様に中居がメディアで紹介して気になり、後日購入したものに歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)があるが、まだ1ページも読めていない。後述する<綾辻祭り>が一段落したあとでないと、通勤の読書のお伴にすることはできないのだ。
 『凍花』に続いて手にしたのは、映画が来月4月1日公開予定な、一方で作品それ自体よりも別の一件で話題になっている気がしないでもない、秋吉理香子『暗黒女子』(双葉文庫)だった。独立した感想文を書いて既に本ブログにてお披露目済みなので、検めての発言は控える。繰り返しを恐れず敢えて述べることがあるとすれば、最後の章に於ける戦慄とおぞましさと気持ち悪さは他に類を求められること極めて稀にして、読後2ヶ月を経過しようとしている今日なおその思いにまるで変化のないことの一点だけだ。記憶に残る、イヤミスの極北というてよいだろう。
 この人の他の小説も読んでみたい。読後感が良ければそんな気持ちが起きるのは至極当たり前な流れだろう。斯くしてデビュー作を含む短編集『雪の花』(小学館文庫)を手にしたのだが……映像化もされたという表題作(これがデビュー作である)は廃村となった雪に閉ざされる故郷で自殺しようと決めた夫婦の物語で、いつわが身に降りかかるか知れぬシチュエーションなだけに、必要以上に感情移入して読み耽った。夫婦を取り巻く環境への憤りと決断を余儀なくされたかれらへの共感が、わたくしをしてこの短編への思い入れをより深くしたのだ。最後の最後に希望の兆しが見えたところで幕となるのが、殊に印象的であった。が、「雪の花」を除く他の3編は……読むのをやめよう、と思うたのは二度や三度のことではない。この段落の〆に但し書きを付けるなら、『雪の花』はミステリ小説集ではない、ということか。□(第2571日目に続く)

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第2569日目 〈推理小説読書の第一期を振り返る。〉 [日々の思い・独り言]

 昨年の秋から、江戸川乱歩や横溝正史を皮切りにして、遅ればせながら推理小説に淫した日々を重ねて今日へ至っていることを、これまでにも何度か本ブログにて述べてきた。今年になってからは専ら現代の作物ばかり読み耽ってそれらの概ねについて感想めいたコメントをモレスキンのノートに書き留めているが、遅かれ早かれそれらの幾つか(全部ではあるまい)はやがて相応しい分量を伴って清書された後、ここにお披露目されることであろう。が、皆様にご承知置きいただきたいのは、日本人作家の手に成る推理小説に夢中になって読み耽っている現在はいわばその第二期に相当する、ということだ。
 では、第一期とは? 第一期はいまから四半世紀程前に存在した。手紙のやり取りを収めた数十冊のファイルを繙けば容易に当時の読書履歴を確認できるが、いまは外出先(会社からの帰り道、乗換駅にあるスターバックスである)でそれを参照することなどできようはずもなく、ゆえに自分の記憶力を試してみるのも兼ねて本稿の筆を執ってみる。
 ──下地があったとすれば、それは中高生時代に耽読した赤川次郎と久美沙織にあろう。殊、久美沙織の<半熟せりか>シリーズ、いやぁ大好きだったなぁ……。
 歳月は経て元号が変わり、バブル崩壊の余波がわたくしの身の上に降りかかった。入社日直前に内定は取り消され、アルバイトの求人も日雇いばかりでレギュラーの口はなく、辛うじて学生時代のバイト代を基にした蓄えと、加えて実家住まいだったことが幸いしてどうにか日々を生き延びることができていたあの頃の或る日、──
 黄麦堂という古本屋の棚でその1冊を見附けた。偶然の引き合わせである。そうしてその偶然の1冊がわたくしを、面映ゆい表現をすれば大人の推理小説に開眼させたのだ。折原一の『天井裏の散歩者──幸福荘の殺人』、角川文庫版。帰宅して一読、思わず仰け反り、嘆息し、ぶっ飛んだ。こんな推理小説がこの世にあったのか、と。大袈裟だが、本当にそんな風に思うたのだ。
 以来、黄麦堂と中三の冬から週末毎に通っている先生堂、一ト月に一度の頻度で足を向ける学生時代を過ごした神保町の諸々の古書店に通って、同じような興奮を味わわせてくれそうな推理小説を物色する日が始まった。そんな風にして見切り棚から「適正価格」の棚までじっくりと眺めて懐具合とも相談しつつ買い溜めていった推理小説を、次の買い物までの間に片っ端から読破していった。使えるお金はいまよりもずっと少なく、限られていたから、それ程の量にはならなかったけれど。
 そうした時期に読んだものを挙げてみる、記憶のままに、順不同で。折原一では『幸福荘の秘密──続・天井裏の散歩者』と『覆面作家』、『ファンレター』他を読んだ。北村薫の<円紫さんと私>シリーズ他を、宇神幸男の音楽ミステリー4部作──『神宿る手』と『消えたオーケストラ』、『ニーベルンクの城』と『美神の黄昏』──と『ヴァルハラ城の悪魔』を読んだ。森雅裕の鮎村尋深をヒロインにした一連の作品と『ベートーベンな憂鬱症』、『モーツァルトは子守歌を唄わない』他を読んだ。小森健太郎の『ローウェル城の殺人』と『コミケ殺人事件』、『ネヌウェンラーの密室』、『ネメシスの哄笑』、『バビロン空中庭園の殺人』を読んだ。小泉喜美子はエッセイ集『ミステリーは私の香水』をきっかけにして『弁護側の証人』と『血の季節』を読んだ。他に読んだもので覚えているのは、東野圭吾の『むかし僕が死んだ家』と『ある閉ざされた雪の山荘で』並びに『眠りの森』、高田崇のシリーズ(但し最初の3作)と井沢元彦の『猿丸幻視行』ぐらいかな。倉知淳とか日明恩(たちもり・めぐみ)もこの時期に読んだと思うていたが、日明については調べてみたら世紀が変わったあとのデビューだから、どうやら記憶は拘泥している様子だ。確かなのは、この時期を〆括ったのは戸板康二の『家元の女弟子』だったことである。  ……え、乱歩も横溝も、鮎川哲也も泡坂妻夫も、島田荘司も綾辻行人も、有栖川有栖も京極夏彦も読んでいなかったの!? と呆れる向きもあるだろう。そんな方々にわたくしは胸を張って答えよう、イエス! と。だいいちね、当時からかれらの小説を読んでいたら、「第一期」も「第二期」もないですよ。そのまま持続されて今日に至ってます、って。斯くして戸板康二のあと推理小説読書の熱はゆっくりと冷めてゆき、読書生活は従前のそれに戻り、わが推理小説熱は15年以上になんなんとする潜伏期間に突入する。  わたくしは敢えて上で挙げた作品の一々に私見を述べ立てることはしなかった。本稿はあくまで<歴史>に過ぎず、個々についての感想文を目論んだものではないからだ。もっともな理由を一つ挙げるなら、その後の自宅の火事によって殆どが失われたり、手放さざるを得なかったことだろうか。災を免れたのは戸板康二の文庫だけだ。本項に於いて感想を一言だに口にしないのは、手許に本がないからだ、というに過ぎぬ。  ──が、なんということだろう。本稿を書いていたら、またぞろこれらの作品を読みたくなってきてしまった。新装版でも出版社が変わっていても、新品でも古本でも、どうであっても構わぬから、この際一息に上で並べた作品たちを買い直してしまおうか。さて?◆

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第2568日目 〈初めての店で買い物(ネット通販)したら、大満足な結果で終わりました。〉 [日々の思い・独り言]

 旧国名を屋号に冠した店で本を買った。インターネット通販のそのサイトを覗いていたら、現物を見ること年に一度ありやなしやでオークションサイトや古書店のサイトに出品されれば絶版ゆえに高値が付く、大好きな漫画家のコミックスが安価で売られているのを発見したのだ。しばし検討の後、その漫画家が連載していた少年誌の創刊40年を記念した特別号と江戸川乱歩の『探偵小説四十年』上下を一緒に購入した。
 その直前にブックオフ・オンライン(以下BOL)で購入した文庫が、外からもはっきり判別できる程の<イタミ>──ヌレとシワ、ヤブレてふ三拍子揃った状態で送られてきたことに呆れ果て、交換か返品・返金いずれかを求めるメールを出したら対応するカスタマーサービスの凄まじき恫喝、上から目線かつ投げやり対応に落胆してここに代わる通販サイトを探していた矢先に出会ったのが、冒頭に述べた旧国名を屋号に冠した店のサイトだったのである。勇を鼓してここで買い物してみようと思うたのは、勿論好きな漫画家のコミックスが売られていたこともあるが、と同時にこの店のレヴェルを見極めるといういやらしい理由もあった。が、それを見極めずして買い物なぞできるものであろうか。否。
 さて、BOLのシステムに馴れた者にはそこからが長かった。注文確認のメールが来たはいいが、発送や支払いに関するメールは待てど暮らせど送られてこない。もしかすると多量の迷惑メールや不要メールに混じって削除してしまったのか。確かめようにも<ゴミ箱>にはもはやそれらのメールは一通たりとも残っていない。不安に駆られてそこのカスタマー・センターに電話したら、BOLのように一拠点でなく各店舗にて在庫管理が行われているので、商品がすべて揃った時点で支払いやその後の発送にまつわるメール連絡がされる由。それを聞いて安堵した。けれどもその一方でこうも思うた、最初のメールにそれを書いておいてよ、と。
 さりながら当面の懸念は去った。あとは待てばよい。そうやって日が過ぎ、一週間ばかりが経った或る日、待ち望んでいたメールが来た。曰く、商品は全点揃った、状態に支障なし、ついてはいついつまでにどこそこの口座へこれだけの金額を振り込まれたし、入金確認後は早急に発送手続きを行い貴兄の許へお届けしよう、と。そうして指定された口座へお金を降り込んだのだが、今度はそこからがまた長く感じられ……1月末日。ようやっとそれは到着した。購入のクリックから約10日。もうちょっと経っていたかな。
 なお、これは2回目の買い物で経験したことだが、発送準備完了のメールから一定期間入金するのを忘れていたりすると、所謂督促のメールが送られてくる。いついつまでに入金が確認できなかったら今回の注文はキャンセルさせてもらうぜベイビー! って趣旨の。ここまで軽い文章ではないけれどね、誤解する人がいるかもしれないから念のため。
 到着した段ボールを、なんとなく左右に振ってみる。カサともゴソとも音がしない。過剰なまでの隙間埋めがされているのか。どんだけの緩衝材を詰めたんだ。そんな風に思うても仕方ない程に、微塵も中身が動く形跡はなかったのである。開梱前から溜め息を内心で吐いてしまったが、気を取り直してカッター片手に開梱作業。そうして箱を開けた目に飛びこんできたのは──あのお馴染みの緩衝材たち……丸められた新聞紙や油紙、円柱形のビニール・クッションや色を塗ったら遠目にはスナック菓子と偽ることもできそうな小指程の大きさの発泡スチロールなどではなく、段ボール箱の底と同じサイズのボール紙の上に一段が均一な厚みになるようにして重ねられた本があり、それら全体をわずかのズレもないラップ包装が施されており。倉庫で梱包に携わった経験のある方なら実感されることだろうが、複数の商品をズレたり傷附けたりすることなく(たとえば本なら縁が曲がったりしないように)ラップ包装するのは技術が必要なのである。まぁ、1日で習得できてしまうような技術だけれどね。加えて乱歩については、これが店舗在庫だったのだろうか、2冊共に丁寧にビニール封されており、管理カードが入ったままである。管理カードを抜かずに送られてきたのがルールなのか人為的ミスなのか定かでないが、この梱包の丁寧さにはびっくりし、感動し、ひとえに嬉しかった。一回一回の作業に手抜きがなく、心配りがされていて、ブックオフ・オンラインのように機械的なスピード重視品質低下の流れ作業に堕していない証しといえよう。
 わたくしがBOLについて斯くまでいうのは、エンド・ユーザーとしてのみならずそこで働いて出荷に携わっていての実感と反省に基づくものである。とまれ、今回の、ここでの初めての買い物はじゅうぶん満足できる結果に終わった。
 ここがBOLと大きく異なるのは、取り扱いジャンルの傾向がサブカルに重きを置いており、従って商品も書籍や音楽・映像ソフトのみならずフィギュアやトレーディング・カード、AV機器、同人誌や同人ソフトなどなど多岐にわたる。このあたりはまんだらけと同じと思うてよいか。もっとも、まんだらけでは乱歩はともかく、内田百閒の随筆や田中阿里子の歴史小説が取り扱われることはないと思うけれど。
 前述の文庫の一件があるまで、わたくしはBOLに相応の信用を置いていた。が、それは本来ならば出荷する以前に入庫させるべきですらなかった商品を、検品を疎かにして発送したことで(ちなみにそれはサイトのガイドラインにも同様の趣旨が明記されていて、またスタッフの研修に於いても徹底されているはずなのだが)地に堕ちた。カスタマー・センターの担当者の対応がそれに拍車をかけた。一事が万事である。
 信用失墜しようが先方にはわたくし以外の顧客が何十万といることだから屁とも思わぬだろうが、BOL以外の買い物先を探す必要が今回生じたことで、もとより屋号のみは知っていたその店で今回不安混じりの初めての買い物をしてみた。これは大当たりであった、と報告しておく。取り扱いジャンルの傾向とわたくしの嗜好が大なり小なり齟齬を来していることから、一ヶ月に一度程度利用すれば上等といえるが、今後も折に触れてここで買い物するであろうことは確かである。初回の満足はその後も継続されており、一度限りの奇跡ではない、とわかったからだ。
 その店の屋号は、駿河屋である。◆

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第2567日目 〈仕事帰りの<巣>を探すことの困難について。〉 [日々の思い・独り言]

 つくづくと過去の勤務地が恵まれた場所にあったことを痛感している今日この頃。
 いや、いまのところも新宿なんていう幾らでも候補地が見つかるはずの場所なんだけれど、然に非ず。人が多くて店内が狭くて、しかも閑散とする時間帯がないという、却って悪しき傾向に囚われた場所なのだ。
 乗換駅にも何カ所かあるけれど、北と南に日本有数のオフィス街を抱えるゆえにどこもかしこも混雑、混雑、混雑。店内は狭く、自分が立ち寄れる時刻に閑散とすることはまずあるまいという具合。しかも新幹線や長距離バスの利用客もいて混雑に輪を掛けるっていうね。大型書店の裏手にひっそりとたたずむ喫茶店/カフェもあるのだが、こちらは閉店時間が他より1時間も早いとなれば、ここも使い勝手が良いとは到底いえない。嗚呼!
 いまは通勤ルートにあって帰宅に支障ないエリアの探索と、そこにあるカフェをネットで探して訪ね、判決を下す日々を送っている。明日は地下鉄の途中駅にある店を偵察してみよう。そこも使えないとなれば、……平日は原稿を書いたりするのに相当な支障が出ることは疑うべくもない。金曜日ならば穗乃果ちゃんの実家近くにある喫茶店/カフェに(乗換駅を通り越して)こもることも可能なのだが……。
 それにつけても、おお、神保町と横浜は恵まれた場所であった。かというてまさかサード・プレイス/アトリエ/《巣》欲しさの一心から異動希望を出すわけにもゆかぬ。それは社会人として褒められたことではない。困った、困った。
 考えあぐねてみくらさんさんかは一つの結論に至る──いっそ、新宿御苑近辺や神保町/淡路町あたりにマンション買っちゃおうか、と。やれやれ、愚昧なる妄想よ。◆

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第2566日目 〈小説完結のお知らせと、これからの本ブログのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 2017(平成29)年04月06日を以て、昨年10月02日からこっそり更新を続けてきた小説『ザ・ライジング』完結と相成りました。ここに謹んで昨日まで忍耐強くお読みいただいた読者諸兄に感謝の意を表したく存じます。
 顧みれば2003年1月10日に筆を起こし、途中人生を揺るがすようなアクシデントがあったけれどなんとか気持ちを奮い立たせ、同年12月末日に第一稿の筆を擱いたのでした。その数日後、舞台となった静岡県沼津市を訪れ、ぼんやりと日暮れの駿河湾を眺めて過ごしたものでした──そこには子供の頃の思い出がいっぱい詰まっている……。
 こうして電脳空間にて不特定多数の目に触れる形で公にしたことは、本作が孕む大小様々の瑕疵を、作者のわたくしへ突き付けることにもなりました。でもこれはとっても貴重な経験で、読者の顔が見えるSNSではどうしても馴れ合いになってしまい、こちらとしてもどこかに甘えた気持ちを抱いてしまっていたことでしょう。目に付いた部分は手入れして風通しを良くしたり、加除訂正を加えたりしていましたが、それらはあくまで小さな箇所に対しての手入れでしかなかったので、今後折を見附けては全体を見渡した更なる改訂作業に入りたく思います。
 半年にわたるご支持ご愛顧ご愛読に、改めて御礼申しあげます。どうもありがとうございました。
 実は本作には既に形になった番外編ともいうべき短編が存在します。こちらも少し時間が経ったら同じようにお披露目できたらいいな、と考えております。



 ──さて。聖書という本ブログ最大の<レーゾン・デートル>を失ったあとの喪失を埋める意味もあって、昨秋から『ザ・ライジング』をお披露目してきたわけですが、お察しのようにさっそくわたくしは今後のことに頭を悩ませております。
 <死海写本>や<グノーシス主義>、或いは聖書やキリスト教に関するエッセイも書きたいという希望はあってもなかなかそちらへ意欲が駆り立てられることが(残念ながら)なく、同様に「マカバイ記・一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読書とそれに伴うノートの執筆・お披露目も叶うことがなく……。
 現在は書評というのもおこがましい読書感想文を清書して、ここで発表してゆくことで延命することをかなり真剣に検討しております。モレスキンのノートを開けば、推理小説に偏るけれどそれぞれの作品について書いた文章が、定稿未定稿の別なく眠っている。これらを一つ一つ取り挙げて手を施してあげれば、それなりに読めたものとなるように思うておる次第であります。
 更新頻度については、たぶん落ちるでしょう。わたくしを取り巻く現状/環境が毎日定時更新を難しくしております。ゆえ、『ザ・ライジング』完結後はしばらくの間、週に1回の更新となってしまうことをあらかじめここで申しあげておきたく思います。
 愛ある読者諸兄よ、今後ともどうぞ宜しくご支援ご愛顧ご愛読の程、お願いいたします。

 「互いに相手を受け入れなさい。」(ロマ15:7)◆

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第2540日目 〈又吉直樹『火花』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 又吉直樹『火花』はふしぎな小説である。初出誌『文藝春秋』で読み、単行本で読み、今回また文庫で読んだ。なのに感想を求められるとひとしきり小首を傾げて言葉を選ぶ振りをして、挙げ句に口から出る言葉は「うん、おもしろかったよ」だけで、後が続かない。
 わたくしは作家・又吉直樹を、まるで異類のように見る。
 これまで芸人が書いた小説は幾つもあって、概ねマスコミの話題になったものだが、果たしてどれだけの作品が風化に耐えて生き残るのだろう。時代の徒花というより他ないそれら──芸人が書いたてふ話題先行で宣伝された小説の多くが、最大瞬間風速こそ記録するもののさっさと熱帯低気圧になって消滅してしまって記憶に残る程の爪痕も残さなかった、小規模な台風でしかない。
 一方で又吉直樹は<芥川賞受賞>という事実が物語るように、行く末の見定められぬ才能ながらすくなくとも現時点では「本物」と太鼓判を押すことができる、およそ唯一というてよい芸人作家である。多忙のなかでいったいどれだけの努力と研鑽を重ねてきたのか。努力する天才──口にするのは生易しいけれど行動して結実させる難しさを知る者として、わたくしは又吉直樹をあたかも別世界から人の形をして現れた異類を見るような思いをこめた目で眺めるのである。
 そんな人物の書いた小説の感想を求められて、「うん、おもしろかったよ」という一言しか絞り出せないのはなんとも情けない話だ。感想を認めようとしてこれまでに何度も『火花』を読み返した。そうしてその度に筆を投げて、別に書かなくってもいいや、と他の人が書いた小説に手を伸ばす。誰彼に吊しあげられるわけでもなし、一家が路頭に迷う羽目に陥るわけでもなし……。今回もその目的は果たせそうにない。
 が、読む度に心へ物淋しさがこみあげてきて、涙腺をそっと刺激させられたことだけは記しておかねばなるまい。どうしてだろう。おそらく作者同様芸人の世界に身を置く、未だ世間の目を向けられずにもがく主人公たちの泥臭さやかっこ悪さが、あとほんのちょっとで手が届いたはずなプロ作家の世界に背を向けた自分の後ろめたさと後悔と口惜しさを思い出せるからかもしれない。ひたむきに前に進んで自分たちが望む世界へ手を伸ばし続ける主人公たちが、夢を実現させる手前で諦めたわたくしには厭味なぐらい輝いて見えたからかもしれない。辿り着くことのできなかった世界を目指すかれらを刹那恨めしく思い、折節羨ましく思い、久遠に尊敬する。
 「うん、おもしろかったよ」その言葉の裏にはわれながら底知れぬ切ない気持ちが生々しく息づいている。いちど気附いてしまった気持ちが鎮まるには、あとどれだけの時間が必要なのだろう。◆

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第2538日目 〈小説第5章、幕開けの予告。〉 [日々の思い・独り言]

 言い訳なんて無駄なことはしない。繁忙期にかまけて本ブログの管理を怠ってしまったのは事実だから。一つだけ伝えることがあるとすれば、──ただいま。
 開いた日数分のエッセイの準備はできているので、追って順次公開してゆく。穴の開いたカレンダーも、4月下旬には本来あるべき姿へ戻っていることだろう。
 本ブログの(無期限)停止はゆめ有り得ぬ事態。いまも昔もこれからも、生きる縁である本ブログはこれからもずっと、みくらさんさんかの唯一の逃れ場として機能してゆき、たとい中断期があろうとも、かつてそうであったようにいつか何事もなかったように更新は再開される。そうお伝えしよう。
 連載中の長編小説『ザ・ライジング』は間もなく第5章が始まる。続くエピローグを以て終わりだ。こちらのお披露目開始日は3月13日月曜日、午前2時の予定。読者諸兄よ、もう少しだけ待っていてください。◆

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第2532日目 〈又吉直樹『火花』について。〉 [日々の思い・独り言]

 タレントの書いた小説がいま見るような形でもてはやされるようになったのは、いつ頃からだったろう。いまは様々なジャンルの小説史が調べられてその成果が出版されているけれど、タレントの書いた小説と真っ向から取り組んだ調査結果は上梓されたことがないようだ。それどころか、このジャンルの出版点数は確実に増えているにもかかわらず、積極的踏破そのものはまだされていないのが現状らしい。わたくしはこの、タレントが書いた小説の歴史と研究こそが唯一「現代日本小説史」に欠けた部分であり、また今後見識ある者が挑むべき最後の未開地である、と考えている。
 さて、タレントのなかでも芸人に絞っていうと、隆盛の先鞭をつけたのは明らかに劇団ひとりの『陰日向に咲く』であった。これが売れに売れて映画も好評だったものだから、二匹目のなんとやらで品川ヒロシ『ドロップ』や田村裕『ホームレス中学生』などなどあとに続くものが多く世に出たけれど、どれもこれも中学生が夏休みの宿題に嫌々書いた作文とさして変わるものではなく、さぞかし校正・校閲の手を患わせたことであろうと察せられる、一発花火的代物でしかなかった。2作目、3作目を物した人もいたけれど、お金を払って読む一般読者はもう騙されない。それらも前作同様評判になったなんていう話はどこからも伝わってこない。
 が、ここに1人の本物がいる。小説としては実質的な処女作となるのだろうが、それ以前から単著共著含めて複数を物していたこの人は、けっして一発屋で終わったりするまい。誰のことか、といえば、勿論、又吉直樹である。
 『火花』芥川賞受賞。このニュースに世間が騒いだ。綿矢りさ・金原ひとみてふ史上最年少コンビの受賞以来、読書にあまり縁なき人たちの記憶から薄らぐか或いは消えていた芥川賞への関心を再燃させるのに、又吉の受賞は十分すぎる程の話題であったのだ。受賞作が掲載された『文藝春秋』は創刊以来初の快挙となる増刷を経験した。人々は先を争うて『火花』を読んだのである──が、わたくしはこのブームに踊らされるのを潔しとせず(呵々)、実際に掲載誌を手にしたのはそれから1年近く経ってからのことなのだ(しかも貰い物だというね)。雑誌を入手する以前に既に単行本を買うて読んでしまっているから、今更感が漂うのは否定できないけれど。
 そうして今年。先月2月下旬である。『火花』が文春文庫から出た。ドラマが地上波で放送されるのに合わせた刊行であるのは想像に難くない。なぜなら文庫にはドラマのイメージ・フォトがあしらわれた特大帯が巻かれていたのだから。
 電子書籍版も購入していたので都合4ヴァージョンを架蔵している計算になるが、かというてわたくしは芸人としても作家としても又吉にそれ程入れこんでいるわけではない。才能も実力もあるとわかっているが、なんというか、いま一歩踏み込めないのだよね。わかってもらえるだろうか、この感じ? それはさておき、このたび文庫がお目見えしたこともあって改めて読み直してみた。休みの週末を殆ど潰して読み耽った。読後感にさしたる変化なく、また前回に比して読みが深くなったとはどうしても思えぬのが、まぁ難といえば難かもしれないけれど。
 またそのうち感想でも書くわ。楽しみにしててぇな。ほな、さいなら。◆

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第2531日目 〈こんな夢を見た;灰白の壁で覆われた楕円形の建物にて。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日は突発的な休みとなって申し訳なかった。仕事のあとに元同僚と久しぶりに会い、酒食に耽りつつ存分に語り明かしたのである。そうして日附けが変わるすこし前に帰宅、もうなにをする気にもなれぬまま床に就いた……。
 実は一昨日、昨日、今日(昨日ですか)と3日続けて、かつての事業所の仲間たちが登場する夢を見た。偶然なのか、なんらかの力が働いてのことであったか、考えてみても答えは出ない。しかしそこで見た夢はかれらと一緒にいたときの記憶に基づいたものでは全然なく、かれらを登場人物の1人と見做した仮想現実に於ける出来事だったことを注記しておく。目覚めたあと、いまの職場の誰彼の姿や言動と較べてしまい、たまらず嗚咽がこぼれてしまったことであるよ。ナンデボクハコンナ遠くニ来テシマッタンダロウ? それはさておき、夢のお話。
 一昨日の朝の夢、こんな内容だった──出演者は事業所立ちあげ時から共にいた管理者たちプラス自分。新しい事業所拠点の設営のため、灰白の建物のなかにいる。まわりがどのような景色なのか、石灰岩によく似た色の靄が窓の向こうを埋め尽くしているものだから、知る術がない。
 われらは建物の何階かにいて、幅10メートル程は優にある回廊を挟んだ2つの部屋に別れて作業している。わたくしは天井が高く、畳で数えれば200畳の更に倍はありそうな広さの南に面した部屋にいて、床から天井まで、壁の端から端まで曲線を描く外壁に沿うようにして嵌めこまれた、厚さはガラスブロック並みにあるにもかかわらず外の景色が歪んで見えることのない、極めて高純度のガラス窓に背中をくっつけて、突っ立っていた。手には長さ1.5メートルぐらいの余って使い途のなくなったLANケーブルが1本、ケーブルの色はブルー。実際にわたくしが在籍している会社が利用するオフィス家具の通販会社で取り扱われているLANケーブルだ。
 われらが初めてここへ来たとき(それは前日のことと推察される)、オフィス家具や機器類はすべて搬入されて、事前に知らせてあったレイアウトで配置されていた。向かい合わせに配置された5人掛けオフィス・デスク×2プラスお誕生日席に管理者席が1台配置されて構成する1つの島が全部で10島、加えてネットワーク・プリンターや書架、両開き扉のキャビネットと引き出し3段のキャビネット、ホワイト・ボード、セキュリティ・ボックス、そうしてデスクトップ・パソコンと電話機が全スタッフ分。必要なものは不足なく搬入されているようだ。あとは実際の業務がここで始まったあと、不足なもの、あったら便利なものが見えてくるだろう。
 この部屋に入って電話機とパソコンを目にしたときのことは夢から覚めたあともはっきり覚えている。電話機;使いづらいことこの上ない筐体が角形なそれであることに消沈、パソコンを見てやっぱりここへ移って来てもWindowsなのか相変わらずケーブルがごちゃごちゃしていて美しくないなぁと軽く罵倒。
 描写に重きを置いたが、出演者の行動は広い舞台にそぐわず大きくない。いつの間にか窓から離れて、現実では仕事のあとでときどき一緒に酒を飲んだりする仲の管理者(男)と、パソコンのセッティングを一通り済ませて手持ち無沙汰でいたときである。壁の向こうでセキュリティ・カードをかざして施錠が解除された音が聞こえたあと、ドアが勢いよく開いた。頬を紅潮させたうら若き、九州出身の女性管理者が興奮した様子で飛びこんでくる。その勢いに気押されて立ち尽くし、目が点になったわれらを見て、彼女はいった。向こうの部屋凄いよ! と。
 なにがどう凄いのか、説明を求めても彼女の話はまったく要領を得ない。そのうち、とにかく来ればわかるから、と説明そのものが放棄された。なおも行くのを逡巡する男たち、それに業を煮やした彼女。もう! 両頬を膨らませるやわたくしの手を取ると(摑むと? 握ると?)、部屋から引きずり出したのである。もう1人の、男性管理者に対しても同様にして。両手に花ならぬ、両手に……なんだろ? とにかく彼女はわれらを部屋から引っ張り出して回廊を大股に歩いてゆく。その人を秘かに思慕したこともあるわたくしはその状況にどぎまぎし、かつ嬉しかったのだが、一方でなにかが変だ、と最前ふと心の片隅に生まれて激しく存在を主張する疑念を無視できずにいた。
 回廊の中心には一段の幅が5メートル以上ある階段──踏み面も腰高の手摺りもすべて大理石のような光沢を放っている。昇降の際は滑ったりしないように気を付けなければならない──があった。ここが途中階であることはその階段を見ればすぐわかる。上の階にも下の階にも階段は途中で踊り場を経て曲がり、伸びていた。が、踊り場に差しかかるすこし手前から階段は薄暗くなっており、踊り場を曲がったあとはまったくの暗がりに閉ざされている。果たしてこの建物がどれだけ高く、どれだけ巨大で、いったい何階建てなのか、その階段の暗がりを見た途端にそれらについて考える力は麻痺させられてしまった。
 回廊を通って階段の前に来たとき、下へ向かう階段の闇のなかから自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。わたくしは立ち止まった。件の女性管理者の手が離れたが、彼女はそれにはお構いなしで残った1人の手を引いてそのまま歩幅を変えることなく、回廊の反対側にある、ドアの開かれたままの部屋へ向かってゆく。わたくしは不安に駆られて2人に呼び掛けたが、こちらの声が届いていないのか、歩をゆるめることも止まることも、こちらを見ることもしなかった。彼女が扉の向こうにいると思しき者の名を呼び、連れてきたよ! といった。その声は回廊中に響き渡った。特に音や声が響くような構造になっているとは思えないのに……。刹那の後、2人の姿はドアの向こうに消えた。ドアは重々しい音を立てて閉まった。
 わたくしは下へ降りてゆく階段の方へ足を向けた。もはや周囲はまったき闇である。黒に黒を重ねてなお黒い、そう滅多にお目にかかることも経験することもできない闇のなかに、わたくしは独りぽつねんとしている。小声で、誰かいるの、と訊ねるも、返ってくる声はなかった。が、やがて──胸にあたたかいものが触れた。比喩ではなく、物質が触れたのである。それは死者のぬくもりであった。そうして耳許で囁きかける甘やかな声。逃げなさい。生きていれば毎日その声を聞き、そのぬくもりに触れられたはずだった人が、姿を見ることは叶わねどここにいる。夢のなかとはいえこの得体の知れぬ建築物に迷いこんだわたくしを導くために冥界から還ってきてくれたのか……?
 場面転換。
 わたくしは外にいて、岩場にもたれかかって灰白の壁で覆われた楕円形の建物を見あげている。どうやらわたくしがいるのは、岩山の中腹あたりであるようだ。建物の基部は岩場の向こう、小規模な落石を何度も起こしている落ち窪んだ底にあって、しかもそこは相当深いところにあるのだ。反対に建物の頂は空の雲を突き破ってなお伸びて、どうやら星の広がる真空の海へまで達している様子。
 基部も頂も見ること能わざるその建物を、岩場にもたれてうつろな目で眺めている。わたくしがいる場所と同じ高さの壁にぽっかりと開いた矩形の出入り口から、回廊の反対側に抵抗する力も奪われて連れてゆかれた男性管理者が無事に、異形の物と化すことなく心身共に異常ないまま姿を現すのを待っている。空には巨大な恒星と天の川銀河が見える。フェード・アウト。
 ──わたくしはすべてを語り終えた。次の日に見た夢は語られることがない悲しい艶夢であった。玉の緒よ耐えねば耐えね……。◆

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