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第0664日目 〈ヨブ記第42章:〈主なる神の言葉〉5/5&〈結び〉〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第42章です。

 ヨブ42:1-6〈主なる神の言葉〉5/5
 ここに至って遂にヨブは己の過ちを認めた。全能者に抗い、その御旨を妨げること能はず、神を軽んじその御業をあげつらっていた、と悟ったのである。
 「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。/それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ42:5-6)

 ヨブ42:7-17〈結び〉
 次に神は、遠方より来たる3人の友(代表してテマン人エリファズ)へ怒った。
 ヨブはわたし、主なる神について正しいことを語ったが、お前たちはそうではなかった。ヨブは自分の正しいところを信じてわたしについて語った。が、お前たちは自分の説得材料としてわたしを利用しただけだ。しかし、お前たちが自分のためにいけにえをヨブにささげれば、ヨブはそれを受け入れてお前たちのために祈るだろう。わたしはその祈りを受け入れる。
 テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルはいわれた通りにした。ヨブは友だちのために祈った。主なる神は祈りを受け入れた。
 主はヨブの境遇を回復し、家畜を始めとする財産はすべて倍にした。縁者が集い、ヨブをいたわり、慰めた。ヨブには7人の息子と3人の娘が新たに生まれ、彼らは父ヨブの財産をそれぞれ相続した。
 「ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」(ヨブ42:16-17)



 いちばんの疑問は「エリフはどこへ行ったのか?」でありましょう。が、もはやそれは取るに足らぬ疑問なのかもしれません。彼が何人であろうとも、肝心なのは、終局に至ってヨブが悔い改めた、という事実。そういえば「自分のためのいけにえをささげる」なんて文言は久しぶりに目にしたような気がいたします。
 最後、ヨブは再び以前と同じ数の子供に恵まれました。以前と異なるのは新たに生まれた子供たちが財産の分け前を受けた(財産を相続した)、という点にありましょう。主なる神はヨブにのみならず、災いの後に生まれた7人の息子と3人の娘にも祝福を与えたのでありました。おまけに娘たちは名前まで明らかになっています。
 「ヨブ記」は何次かの編集が施されている、と仄聞します。どの過程で<結び>の内容が今日読むように確定されたか知りませんけれど、編集後期に子供たちのことが加えられたとすれば、ヨブの系譜に繋がる(とされた)人々が自分たちの存在を正当化する保険であったのかもしれません。無論、これは単なる一読者の邪推でしかありませんので、どうか目くじらお立てにならぬよう、くれぐれご注意お願い申し上げます。
 でもこの類のことは、洋の東西を問わず繰り返し行われてきたことでもありました。ヨブらが実在か否かは別として、「ヨブ記」の編集作業中に斯様な改変がされていたとしても、決してふしぎではありません。当時の編集者たちが「そうすべき」と判断したなら、それは必定といえる作業であったわけですから、後代のわれらが喧しく言う必要はないでしょう。歴史は良くも悪くも改竄されるし、史書やそれに準ずる書物はその影響を被ります。その点を忘れてはならない。現代のわれらが為すべきは、上辺(うわべ)に惑わされず、虚飾を廃して、可能な限り真実に近いその時代の姿を探ってゆくことなのですから。
 が、これはもはや研究者たちの領域でもありますから、わたくしはいまの饒舌を慎み、静かに綺麗に、「ヨブ記」読書ノートの幕を閉じたいと思います。「詩編」ノートにて再たお会いしましょう。



 HDDに保存されたままの『くまのプーさんクリストファー・ロビンを探せ』を観ました。プーがどれだけクリストファー・ロビンを想い、好きでたまらないかを知りたいなら、是非この作品をご覧ください。プーが歌う「どこにいるの?」には思わず、ほろり、とさせられました。あの少年が大好きなんだね、プーくま! でも同じぐらい彼も君が好きなんだ!!
 実(ゲ)ニ落涙ヲ禁ジ得ズ、件ノくまノ情(ココロ)ニ中テラレ、彼ノ御方ヲ想フテ袖ヲ濡ラス也。◆

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第0663日目 〈ヨブ記第41章:〈主なる神の言葉〉4/5〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第41章です。

 ヨブ41:1-26〈主なる神の言葉〉4/5
 ━━神はレビヤタンについて、なおも語る。即ち、
 (レビヤタンの)体の各部にはわずかの隙間もなく何人も剣を立てることかなわず、一挙一動が天下を揺るがし神々さえも逃げ惑わせる。
 主なる神、万軍の王はいう、レビヤタンを手懐けて支配できるのは、わたしだけだ。「この地上に、彼を支配する者はいない。/彼はおののきを知らぬものとして造られている。/驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している。」(ヨブ41:25-26)

 敢えてレビヤタンを挑発する者がいたら、わたしの前に立て。褒美をくれてやる。
 だが忘れるな。(レビヤタンとベヘモットを含めて)
 「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。」(ヨブ41:3)



 関根正雄訳『ヨブ記』を折りにつけて参照している、と以前申し上げました。その関根訳、実は前章と本章に於いて文章の入れ替えを行っております。斯く為さしめた推論については同書P215-16にありますが、それについて学なく知なく信なき我には、ちょっとやりすぎのように思えます。
 (個人的には)余程のことがない限り同じ章、つまりヨブ41のなかで処理すべきと考えます。ゆえ、わたくしは同41:1-3を同41:26のあとへ移す程度に留め、その処理に基づいてノートを作成してみました。悪くはない、と思います。関根訳の改変は研究者にはよいかもしれませんが、一般読者には甚だ混乱を招くばかりではないでしょうか。もっとも、最初から岩波文庫へ手を伸ばす一般読者も、そう多くはないでしょうけれど。



 星座の名前を覚えよう、と、真剣に思うた。季節ごとにどの位置になんという星座があるのか、を知りたいと、切に願うた。帰り道で見あげた夜空に、嗚呼、と魂を奪われた今宵。◆

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第0662日目 〈ヨブ記第40章:〈主なる神の言葉〉3/5〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第40章です。

 ヨブ40:1-32〈主なる神の言葉〉3/5
 神はいった、━━
 「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。/神を責めたてる者よ、答えるがいい。」(ヨブ40:2)
 ヨブが答えた、━━
 「どうしてあなたに反論などできましょう。/わたしはこの口に手を置きます。」(ヨブ40:4)
 もう主張しない、繰り返さない、と誓ったヨブに、主なる神はなおも畳みかけた。主はこういった、━━

 お前はわたしを否定し、罪ある者とさえするのか。お前に神の力と威厳があるというのか。栄光や権力を備えているというのか。あれば見せよ。驕り高ぶる者を挫き、逆らう者を討ち倒し、一人残らず闇に葬り墓穴へ投げこめ。
 「そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。/お前が自分の右の手で/勝利を得たことになるのだから。」(ヨブ40:14)

 お前の造り手たるわたしは陸の怪獣ベヘモットをも造った。これぞ神の傑作、神以外の誰も剣を突き立てることができない。
 牛のように草を食むベヘモットは山々から食べ物を与えられ、野にいるすべての獣と戯れ、伏せればソテツの影によって体を覆われ、川べりの柳に包まれる。川の勢いが押し流そうとしても、ヨルダンの川水が口腔へ入ろうとも、ベヘモットは動じない。
 「まともに捕らえたり/罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか。」(ヨブ40:24)

 またわたしは海の怪獣レビヤタン(ラハブ)をも造った。奴(こいつ)を縄で捕らえて留め置き、屈服させ、手懐けることが、お前にできるとでもいうのか。お前が奴(レビヤタン)を弄び、商品のように扱うことができるのか。
 そんなお前にレビヤタンが憐れみを乞うとでも思っているのか。主人に対する従者の如くあって、お前に丁重に口を聞くとでも妄想していたのか。「彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。」(ヨブ40:28)
 「彼の上に手を置いてみよ。/戦うなどとは二度と言わぬがよい。」(ヨブ40:32)



 クライマックスとあって、神の怒りと戒めが最高潮に達しているのを、諸兄には感じていただけるでしょうか。特に冒頭で引用したヨブ40:2は、一言「凄い」と身震いまでしてしまった句でした。
 ベヘモットについては岩波版旧約聖書4「諸書」P430註4を、レビヤタンについては同P315註18を参照ください。お茶を濁すようで相済みません。
 併せて大切な指摘がされている同書P429註5もお読みください。神は6日目に動物を造り7日目に人間を造った、双方を同じ日に造ることはなかった、また怪獣を造ったことは一度も触れられていないが人間の破壊力と表裏一体の存在である、と指摘されています。



 久々に星空を見あげたような気がする。上空を吹く風になぎ払われた雲は、ちぎれて北の方へと流れてゆく。空気も澄んで、瞬く星群がはっきり見えた。いつの間にか夏の星座になっていたのだ。
 ネオン輝く都心でも10分程目を凝らしていれば、空の星が目にできるという。そこで星座が確認できるかはともかくとして、まだ一応首都圏の故郷で、斯様に星座が幾つも確認できるというのは、なんとうれしいことだろう。
 あれは何座だろう、と、しばし知っている名前を片っ端から探ってみるが、わからない。でも、星の配列は記憶した。もしかすると複数の星座をひとかたまりにしてしまったかもしれない。帰宅して星座の物語の本を調べてみたら、すぐにわかった。ああ、あれが牛飼い座というものであったか。これまで知らなかったことを知った、それはとても楽しいことだ。
 帰宅する直前の数分間、こうして夜空を見あげて虚空に身を彷徨わせることなくば、ぼくはもう潰されていたかもしれない。宇宙の広がりや星の生命に較べれば、いまの人生なんてどうってことないんだよな。そう考えて気持ちをリセットして、家に帰る。◆

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第0661日目 〈ヨブ記第39章:〈主なる神の言葉〉2/5〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第39章です。

 ヨブ39:1-30〈主なる神の言葉〉2/5
 牝鹿が立ったまま出産する際の苦しみを、お前は知るのか。
 野生のロバはお前でなくわたしによって、自由を与えられ不毛の荒れ野を住み処とした。
 野牛がお前の指図に従って土地を開墾し、収穫物をお前に与えるとでもいうのか。
 分別も知恵も与えられなかった駝鳥だが、それでも走るときは誇らしくあり、馬と乗り手を見下す。
 その馬は戦場に於いて興奮して大地を蹴り、角笛を聞くや怯まず怖じけず戦士と共に進む。
 鷹が南の空へ飛び、鷲が岩場に住むのは、お前がそう教えたからか。
 空と海、地に住まうあらゆる動物の生の営みに、お前はどれだけ関与しているというのか。答えよ。



 「(鷲の)雛は血を飲むことを求め/死骸の傍らには必ずいる。」(ヨブ39:30)
 「箙(えびら)」(ヨブ39:23)とは、武士が背中に担いで弓矢を入れる筒のことであります。
 天地についての質問に続けて、今度は命の誕生から動物の生態や摂理にまつわる質問が出される。あんがい、こんなあたりに後の科学の誕生と発展の因子があったのかもしれません。
 砂嵐のなかからの神の言葉は、明日でクライマックスを迎えることになります。レビヤタン(ラハブ)とベヘモット。



 太宰治『惜別』を読了。最後の十頁程で恩師を思い出しました。一度お手紙して以来、ご無沙汰している。それが若き魯迅と藤野先生の姿に重なったのだ。昨日、録画しておいた狂言を観たのも原因しているかもしれない。
 次の休みに、必ず筆を執って無沙汰を詫びて観た狂言や能のことなど、久々に拙くもご報告しよう。
 明日からは『右大将実朝』です。◆

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第0660日目 〈ヨブ記第38章:〈主なる神の言葉〉1/5〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第38章です。

 ヨブ38:1-41〈主なる神の言葉〉1/5
 吹きすさぶ砂嵐の中から、主なる神がヨブにいった、━━
 無知蒙昧の者よ、言葉を無駄に連ねて何事をいうか。ならば答えよ。

 わたしがこの世界を創世したその日のことを、お前が知るのか。先の言葉が真実なら覚えているはずだ。さあ、答えよ。
 朝に命令し、曙に指示をしたことがあるなら、そういえ。朝陽に、神へ逆らう者をことごとく払い落とせ、と命じることが、お前にできるのか。
 お前は海の源を訪ね、深淵の底を行き、死の闇の門を見たことがあるのか。勿論、できているはずだ、お前は創世の日から生きているのだからな。

 災いや戦争があったときに備えてわたしが蓄えている、雪や霰の倉へ足を踏みこんだことがあるか。
 光が射すのはどの方向か。東風の吹く道はどこにあるか。乾いた大地を潤す雨が通り、青草が生えるようにするのは、いったい誰の業か。
 天体の法則を知り、それを支配し地上へ及ぼすのは、お前の役割ではない。



 主なる神は有限の命を持つヨブに、決して答えられない質問を立て続けに投げかける。まるで嘲笑うかのように。岩波版旧約聖書では一部を指して「神のジョーク」と註を加える(「諸書」P421)が、当該箇所も含めてジョークという言葉で済ますことは到底できない。言葉の意味と用途を誤った、極めて乱暴な処置といえよう。
 ところでヨブ38:39-41は、動物界の神の支配について語る次章に回した方が自然なように映るのですが、これを古今東西の研究者や教会、聖書刊行会を含めたキリスト者たちはなんの疑問に思ったりしていないのでしょうか? この点を知る方あれば、ご教示願いたく存じます。
 さて。今日のヨブ38。何度も挫折し、目をしょぼつかせ、書いたノートを幾度も消している内、消しゴムが1/2程に減って紙面がざらつき、頭の片隅で<本日おやすみ>のお詫び文のスケッチを始めたぐらい、追い詰められて認めたノートであります。ブログとしてこれまで通りに公開しますが、せめてこの章だけは、意に満つものでないだけに折を見て訂正の筆を加える予定でおります。



 みなとみらい花火大会。押し寄せるのはいいが、いるのはレジャーでこの港町にやってきた諸君ばかりでない、と理解せよ。よく考えて行動をお願いしたい。分別を持ってくれ!◆

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第0659日目 〈ヨブ記第37章:〈エリフの言葉〉6/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第37章です。

 ヨブ37:1-24〈エリフの言葉〉6/6
 神は雲、殊に雨雲という形で、われらの前に顕現する。モーセが造った臨在の幕屋に現れたときからそうだった。雨雲は稲妻を放ち、雷鳴を轟かせる。それは、神の声の響き。かの雨雲は雨と雪を降らせ、暴風(あらし)を送り出す。「懲らしめのためにも、大地のためにも/そして恵みを与えるためにも/神はこれを行わせられる。」(ヨブ37:13)

 神を前にしたわれらになにができようか。暗黒を前にしたわれらがどう申し立てできようか。神の前では、われらの言葉も言葉とならず、どう論戦したところで神に勝つことはできぬだろう。
 「今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。/やがて風が吹き、雲を払うと/北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。
 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。/神は優れた力をもって治められる。/憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。/それゆえ、人は神を畏れ敬う。/人の知恵はすべて顧みるに値しない。」(ヨブ37:21-24)



 正直なところを告白しますと、今回のものは、これまで自分が自身のために作成してきたノート、それに伴い手を加えて公開してきたブログのなかで、いちばん自信なく、出来映えを不満に思う一つ、否、内でも最右翼というてよい程であります。手直しをしようとも、さて、どこに手を着けたらよいのかわからず、さりながら一応は形になっておりますゆえ、予定通り公開する次第です。
 世人がどういおうと、少なくともわたくしは、これの出来の前では恥ずかしくて顔をあげられぬ気持ちでいることも、一緒に述べておきたく思います。もっとも、テクストの読みこみがじゅうぶんでなかったからだ、と誹られれば返す言葉もないのですが。
 なお、倩読んでいて、引用したヨブ37:21-22で脳裏に響いた音楽は、ワーグナー《ラインの黄金》からヴァルハラへの神々の入城の音楽でした。うむ、単純な連想ですな。
 追伸めきますが、順調に進めば「ヨブ記」は来週いっぱいで読了する。できれば終わってからもう一度、最初から一気に読み直してみたいとさえ望んでおります。無論、それがブログ上にて再度反映される、というわけではございませんが。いずれにせよ、しばし間を置いてから、聖書読書ノートはいよいよ「詩編」へ入ります。おそらく9月頃でしょう。



 太宰の『惜別』もラストに近い。いま時点で感想をまとめるのは困難だが、どうにものめり込めぬ久々の太宰作品である。少なくとも読書の酩酊を堪能させるものではない。でも、藤野先生の描かれ方はなんだか好きだな。◆

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第0658日目 〈ヨブ記第36章:〈エリフの言葉〉5/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第36章です。

 ヨブ36:1-33〈エリフの言葉〉5/6
 もう少しだけ、語らせてほしい。
 神は全能で公平である。己に逆らう者を容赦なく討ち、従う者には正しい裁きを行う。諭しの言葉へ耳を傾け従うならば、残りの生涯を幸いのうちに過ごし、恵みを享受することになろう。耳を傾けることも従うこともないのなら、その者は愚か者のまま生涯を終え、命は死の川を渡ることになる。神の前に出ることはない。
 注意せよ、ヨブ、あなたはいま試されている。人々がその場で消え去らねばならぬ夜を求めるな。悪い行いへ顔を向けて暗黒面に引きずりこまれぬよう自らを戒めよ。あなたがいま試されているのは、自らこの苦難を克服せんとする気持ちを抱かせるためだ。なにものにも惑わされてはならない。

 「世の人は神の御業に讃美の歌をうたう。/あなたも心して、ほめたたえよ。」(ヨブ36:24)



 これまでの要約ともいえる章です。エリフはただヨブに、<自ら滅ぼされることを望むな>と伝えているのです。ヨブ36:15-21はエリフの弁論全6回のうちで中核を占めるメッセージといって差し支えないと思います。



 今日はちょっと趣向を変えて、ヨブ36からこの一節を。
 「苦難を経なければ、どんなに叫んでも/力を尽くしても、それは役に立たない。」(ヨブ36:19)
 これってどんな仕事でも、どんな生涯でも、当て嵌めることができると思う。心に留めておきたい句の一つです。
 苦難、か。逢えない歳月も<苦難>なのかな。この歳月を経れば、逢うことも夢もかなうのかな。◆

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第0657日目 〈ヨブ記第35章:〈エリフの言葉〉4/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第35章です。

 ヨブ35:1-16〈エリフの言葉〉4/6
 ヨブ、あなたはこういった、自分があやまちを犯したからとて神になんの利益があり自分にどれだけ得があるのか、と。これについて俺はあなた方4人にこういいたい。
 人間が犯した過ちなど、神にはなに程のものでない。度々裏切りが謀られたとしても、神にとってそれが何だというのか。逆も然りだ。ヨブ、あなたがどれだけ正しくあっても、それが即ち神になにかを与えたりすることにはならない。それらはみな、あなたの正しさも含めて、人間にのみかかわってくるのだ。異を唱え得ようや?

 人は抑えられれば抑えられる程、叫び声をあげて助けを求める。が、神は答えない。その声は偽りの声、顧みるに値しないからだ。
 ヨブ、あなたはこういった、自分には神が見えない、と。が、あなたの訴えは既に神の前にある。いまは怒りのときでない。ただ、神を待て。



 それは神でなく人間にのみかかわってくるのだ、というエリフの言葉は単純明快、それでいて見落としがちな(あまりに大きすぎる)事実、と思えます。成る程、そりゃ確かにそうだよな。でもだからこそ、ただ神を待て、という言葉も強い説得力を持ってくるのでありましょうね。



 酒を飲むこと深更に至り終電にて帰宅した今日。いまは明け方。午前06時24分。
 起きてこれから出勤する人、もう出勤途中の人、或いは仕事から帰ってこれから就寝しようとする人。一人で時間を過ごしている人、二人で一緒にいて同じ時間を過ごしている人。様々なのだろう。彼らは今日、仕事が終わったあとどう過ごすのだろう?
 ぼくはこれから寝る。あの人の夢が見られたらいい。夢のなかでしか再会できないのなら、せめてしあわせな時間をそこで過ごしたい。ウトウトしている折、顔の横にあった、おぐゆーさんの写真を見て、真剣にそう思う。
 昼前に目を覚ましたら、『LOST』と『ブラジルから来た少年』を観よう。もう今日は、どこに出掛ける気も起きないや。◆

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第0656日目 〈ヨブ記第34章:〈エリフの言葉〉3/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第34章です。

 ヨブ34:1-37〈エリフの言葉〉3/6
 分別ある者、知恵ある者、知識ある者、みなみな俺の言葉へ耳を傾けられよ。
 自分は正しいのに虐げられ、傷つけられている、とヨブはわが身を嘆いている。彼は神をさげすんでいるのだ。誠、ヨブの如きが他にあろうか、悪を行う者に与し、神に逆らう輩と共に歩む者なぞが。
 覚えよ、神は正義を為し罪を犯さぬ、と。神は人間の行いによって報い、人間の歩みに見合ったものを与えるのだ。
 「もし神が御自分にのみ、御心を留め/その霊と息吹を御自分に集められるなら/生きとし生けるものは直ちに息絶え/人間も塵に返るだろう。」(ヨブ34:14-15)

 理解しようとして俺の言葉を聞け。
 神は身分や職業の貴賎、財産の多少、貧富の差にかかわらず、われらを平等に扱っている。神に背き正義を憎む者は討たれ、見せしめとされる。彼らが神に従わず、その道を歩むこともなかったからだ。が、そのときこそ弱き者の叫びは神に届き、貧しき者の叫びは聞かれるようになる。
 「神が黙っておられるのに/罪に定めうる者があろうか。/神が顔を背けられるのに/目を注ぐ者があろうか。/国に対してであれ人間に対してであれ。」(ヨブ34:29)

 罪を告白し救いを求める人へ、あなたは如何に報いるというのか。ヨブよ、態度を決めよ。あなたは神を軽んじている。
 人々はいうだろう、ヨブは暗黒面に囚われている、彼を徹底的に試すときだ、と。



 虚心に耳を傾けるべき、と感じます。エリフの言葉としてはおそらくいちばん強い感情と論理で構築された部分ではないでしょうか。ノートとしても、「ヨブ記」全体で最も手応えを感じた、とすなおに告白しておきます。
 なお、本章には「士師記」や「サムエル記」、就中「列王記」と「歴代誌」で描かれた諸人・諸王の末路を想起させる文章があります。なぜだか、妙に気に入ってしまったその文章を、引用して今日は終わりにしましょう。曰く、━━
 「(神は)数知れない権力者を打ち倒し/彼らに代えて他の人々を立てられる。/(中略)神は、神を無視する者が王となり/民を罠にかけることがないようにされる。」(ヨブ34:24,30)



 今日の『CSI:マイアミ』、ラストのホレイショ様がちょー怖いんだ。「お仕置きだ」◆

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第0655日目 〈ヨブ記第33章:〈エリフの言葉〉2/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第33章です。

 ヨブ33:1-33〈エリフの言葉〉2/6
 「ヨブよ、耳を傾けて/わたしの言うことを聞け。/沈黙せよ、わたしに語らせよ。/わたしに答えて言うことがあるのなら、語れ。/正しい主張を聞くことがわたしの望みだ。/言うことがなければ、耳を傾けよ。/沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。」(ヨブ33:31-33)
 さりとて、俺はあなたを押さえつける者ではない。

 俺はじっと聞いていた、あなたの言葉を。あなたは主張して譲らなかった、自分は清くかつ潔白である、と。何度も、何度も、そういい続けた。
 が、俺はそれに「否」の一言を叩きつける。眠っているときに見る夢のなかで、また夜の幻のなかで、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を人間(ひと)のなかへ封じ込める。われらが行いを改め、あやまちを犯さないようにさせるのだ。それゆえ魂は滅亡を逃れ、命は死の川を渡らずに済んでいるのである。

 例えばここに、苦痛に責められ横たわる人がいた、とする。彼は衰え、弱く、もはやその命は風前の灯火というてよい。
 そこへ、千人に一人かもしれぬが、彼を憐れむ者が現れて彼のために救いを乞うたならば、かの苦しむ人は健やかになる。かつて苦しんだ人は神に祈ることで受け入れられ、歓びの内に御顔を仰ぐようになり、神はこの人を正しき人と認められる。
 「まことに神はこのようになさる。/人間のために、二度でも三度でも。/その魂を滅亡から呼び戻し/命の光に輝かせてくださる。」(ヨブ33:29-30)

 リフレイン/エコー)
 「ヨブよ、耳を傾けて/わたしの言うことを聞け。/沈黙せよ、わたしに語らせよ。/わたしに答えて言うことがあるのなら、語れ。/正しい主張を聞くことがわたしの望みだ。/言うことがなければ、耳を傾けよ。/沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。」(ヨブ33:31-33)



 舞台裏を申せば、エリフの人称に悩んでいました。昨日は腑に落ちぬものを感じつつも「自分」としました。が、思い至ったのです……エリフの人称は「俺」以外にあり得ない、と。年齢差・世代差を差し引いても、ヨブに強く意見するエリフの姿にふさわしい人称は、「俺」の他に考えつきませんでした。
 ━━神が人間に注ぐ愛。ヨブ33の主眼はそれであります。神の愛に適ったものは必ず受け入れられ、正しい人と見なされる。これは、出エジプト記にあった文言を、さんさんかに思い出させます。曰く、━━
 「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」(出33:19)



 今日(昨日ですか)、仲間が一人去った。殆ど業務上の関わりはなかった人だが、飲み会などで親しくさせていただいていた人。……、……。やっぱり仲間が去るというのは淋しいね。◆

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第0654日目 〈ヨブ記第32章:〈エリフの言葉〉1/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第32章です。

 ヨブ32:1-22〈エリフの言葉〉1/6
 3人の友は口を閉ざした。どれだけ反駁を試みても、ヨブに翻意を促すのは不可能だ、と悟ったからであった。
 代わってエリフが現れ、口を開いた。彼はいままで後ろへ控えて、4人の議論に耳を傾けていた。が、ビルダドらが沈黙してしまったのに遂にしびれを切らし、表舞台へ進み出ることとしたのである。
 エリフはまず、ヨブの見舞いに来て翻意を試み挫折した3人に怒りの言葉をぶつけた。
 ━━年長者ゆえの経験と知恵と分別を尊び、自分はこれまで発言を控えてきた。自分が出る幕はない、と思っていたからだ。
 しかし、実際はどうか。なにもできなかったではないか。相手をますます頑なにしただけだ。相手の言葉を否定し、神の道へ立ち帰らせるだけの論拠がなかったせいで。
 あなた方は「気を挫かれて、答えようとせず/言うべき言葉を失っている。」(ヨブ32:15)それゆえに自分は自らの言葉の言い分を述べよう。己の言葉と論法でヨブに語りかけ、翻意を計ろう。いうべきことは多くあり、腹の内で霊が自分を駆り立てている。
 「いや、わたしはだれの顔を立てようともしない。/人間にへつらうことはしたくない。/気づかずにへつらうようなことを言ったら/どうか造り主が/直ちにわたしを退けてくださるように。」(ヨブ32:21-22)



 突然登場したエリフは「ブズ出身でラム族のバラクエルの子」(ヨブ32:2)。ブズはアブラハムの弟ナホルの次男。ラムはヤコブ/イスラエルの12人の息子の一人ユダの息子ペレツの孫、ラムの系図を辿るとボアズ(ルツの夫)を経てダビデ王へ至る。エリフはアブラハムとイスラエルに縁ある者、という情報がここでは与えられている。が、このエリフ登場があまりに唐突ゆえ、この箇所が後代の差し込みである、との論もあるそうだ。
 ヨブ32にてエリフは、エリファズやビルダド、ツォファルを厳しく詰る。結局、<年の功より亀の甲>というわけか。ふむ。



 まだドストエフスキーには戻れない。熱中症にならないようにするためには、しばし太宰の世界に身を浸しておくより他はないのかもしれません。
 というわけで、現在は日本留学時代の魯迅を描いた中編「惜別」(新潮文庫『惜別』所収)を暇のまにまに読み進めている。こちらから手を着けたのは、同書所収の「右大臣実朝」はあとの楽しみにしたのと、魯迅『野草』(岩波文庫)を昨夜読んだせいです。
 仲秋あたりにはドストエフスキーに戻り、年明けには『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』を消化しておきたいなぁ。そのあとは、トルストイとショーロホフだ!◆

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第0652日目 〈ヨブ記第31章:〈ヨブの嘆き〉3/3〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第31章です。

 ヨブ31:1-40〈ヨブの嘆き〉3/3
 何度だって繰り返していうが、私は神に背き、道から外れ、裁かれねばならぬ罪を犯したことは一度もない。どんな些細なことであってもだ。
 わたしはこれまで律法に定められたことを守り、奴隷であれ貧者であれ、また、旅人であれ寄宿者(いそうろう)であれ、誰一人拒んだことはなく隔たりなく等しく接して、彼らから不平の言葉が洩れる類のことを行ったことがない。またアダムの如く自分の罪を隠し、それへの咎を胸奥に秘めることもなかった。

 「どうか、わたしの言うことを聞いてください。/見よ、わたしはここに署名する。/全能者よ、答えてください。/わたしと争う者が書いた告訴状を/わたしはしかと肩に担い/冠のようにして頭に結び付けよう。/わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し/君主のように彼と対決しよう。」(ヨブ31:35-37)

 斯くして、長く続いたヨブの弁論は終わった。



 「わたしは裁かれるべき行いをしたことがない。もしあるというならば、相応の報いを被ってもよい。が、そんな行いをしたことは、わたしはない」
 上記を素材に様々な編曲を施したのがこのヨブ31であります。弁論の終わりを締め括るだけに、あらゆるテクニックを用いて彼は自分の潔白を(これまで以上に)主張する。読んでも書いてもずしりと手応えのある章でした。
 ここで味わうエッセンスをどこまでノート/ブログへ落としこめたか、正直申して甚だ自信がない。黙して俯き、ひたすら諸兄の忌憚なき叱咤を待つのみであります。



 太宰治『パンドラの匣』を読了。ぐいぐいと引っ張られるままに読み耽る。書簡体小説に付きものな冗漫がなく、すっきりとした身なりの好ましき一編であった。◆

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第0651日目 〈ヨブ記第30章:〈ヨブの嘆き〉2/3〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第30章です。

 ヨブ30:1-31〈ヨブの嘆き〉2/3
 だが、わたしが不幸に襲われ、かつ、らい病にかかるや、彼らは私を中傷するようになり、事ある毎にせせら笑うようになった。彼らは餓え衰えた者なれど、哀れも情けもかけるに値しない者。<彼ら>は世にいう<浮浪者(ふらもの)>であった。
 いまや私は彼らに後ろ指を指されるまでになった。かつて首長の座を占め軍勢の王の如きであった義人(わたし/ヨブ)は、いまや彼ら浮浪者(このアウトサイダーたち)に唾棄され忌み嫌われる側となってしまった。おお、私はなにゆえに転落したのか。
 「彼らは生意気にもわたしの右に立ち/わたしを追い出し、災いの道を行かせ/逃げ道を断ち、滅びに追いやろうとする。/それを止めてくれる者はない。」(ヨブ30:12-13)

 神は私を無視している。冷たくなったものだ。こうしてあなたの前に立って叫んでいるのに。これまで私は多くの迷える衆、苦しむ者、思い悩む人のそばにあり、手を差し伸べてきた。
 だのに、その一方であなたは私に手の業を降し、幸いを望んできた私に災いを実現した。「わたしの胸は沸き返り/静まろうとしない。/苦しみの日々がわたしに襲いかかってくる。/光を見ることなく、嘆きつつ歩き/人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。」(ヨブ30:27-28)



 1/3が過去の自讃とすれば、今日読んだ〈ヨブの嘆き〉2/3は災いに見舞われたあとのヨブの独白。これまで3人の友へ語った内容に付け加える点はありませんが、表現や言葉の裏にこめられた感情はいっそう激烈になっているように思えます。その点を考慮して、ノートを作成しました。
 なお、詩編第94編にヨブの心情・本音を代弁してかのような部分を発見しました。是非とも読んでいただきたいので、(フライング気味とはなりますが)以下に引用します。
「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。
 主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。/彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。」(詩94:1-4)



 給料日=休み、この公式が成立すること多いさんさんかです。2ヶ月溜まっていた携帯料金を払い(メール・電話、いまでは通じます)、公園で水筒片手にオスカーワイルド『幸福な王子』(新潮文庫)を読みました。同期で同僚の画家に「これの教訓ってなんだと思う?」と突然訊かれて、返答に窮したのがきっかけ。で、その教訓はどうあれ、ささくれた心にこの物語は痛すぎるね。おいら、本当に泣いちゃうから駄目なんだよ~。◆

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第0650日目 〈ヨブ記第29章:〈ヨブの嘆き〉1/3〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第29章です。

 ヨブ29:1-25〈ヨブの嘆き〉1/3
 あの、神の栄光に守られた日々を返してほしい。と、ヨブがいった。
 神は私の行く道を照らし、全能者は私と共にいて、そう、祝福してくれていた。私は富める者貧しき者の区別なくみなを導き、力を与え、みなの拠り所となった。正義と公平が信条であった、あの日々。
 「わたしは見えない人々の目となり/歩けない人の足となった。/(中略)不正を行う者の牙を砕き/その歯にかかった人々を奪い返した。」(ヨブ29:15,17)

 「人々は黙して待ち望み/わたしの勧めに耳を傾けた。/わたしが語れば言い返す者はなく/わたしの言葉は彼らを潤した。/雨を待つように/春の雨に向かって口を開くように/彼らはわたしを待ち望んだ。」(ヨブ29:21-23)



 実はわれらは災難に見舞われる前のヨブを殆ど知りませんでした。ここに至ってようやく本人の口から過去が語られ、われらも耳傾けられたわけですが、いくらか差し引きせねばならぬ部分はあるにせよ、ここでヨブがウツの地(とその周辺地域)にてどれだけの存在であったか、共同体のなかでどれだけ敬われ慕われた人物であったか、を窺い知ることができるようになっています。
 こうした(特に)語られなかった過去をチラ見させる点が、文学としての「ヨブ記」の特質の一つというてよいと思うのであります。



 児童夏休みになる前に、われら大人は済まさねばならぬことが山程ある。その一つがジブリ映画を劇場に鑑賞しに行くことです。
 というわけで、『借りぐらしのアリエッティ』を観てきました。思ったよりは空いていたかな。前評判をあまり気にせず出掛けたせいか、ひたすら楽しんで観られました。
 純粋なもの。◆

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第0649日目 〈ヨブ記第28章:〈神の知恵の賛美〉〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第28章です。

 ヨブ28:1-28〈神の知恵の賛美〉
 ヨブの台詞、━━知恵と分別の在り処について、ヨブは自らに問い自らに答える。

 知恵と分別について、人間は誰あろうと在り処を見出すことができない。生きとし生ける物の地にそれは存在しないからだ。深淵も大海も知恵と分別の在り処を聞いたことがない。ただ滅びの国と死が辛うじて仄聞するのみだ。
 また、知恵と分別は値千金にて取引されるようなものではない。金や銀をどれだけ積んでも価値は定められず、サファイアや縞瑪瑙(めのう)がどれだけあろうと得られるものではない。

 では、知恵と分別について知るのは誰か。神である。神がその道を知り、その場所を知っている。神は地の果て、天(あめ)の下まですべてを見渡している。
 「神は知恵を見、それを計り/それを確かめ、吟味し/そして、人間に言われた。/『主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。』」(ヨブ28:27-28)



 ヨブ28:28「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別」!! なんとも破壊力バツグンの文言ではありませんか。ここを読んだとき、思わず唸ってしまいました。この箇所を読んだとき、思わず仰け反ってしまいました。「ヨブ記」にはこんなシンプルかつストレートで心に響いてそのまま染みこんでくる文言が、これを含めて幾つもあります。
 なお、ヨブ28:1-11は冗長になりかねぬので敢えてカットしたこと、みな様に申告しておきます。



 これでよかったのだ。惑わされず生きる、それが肝心。
 そうした後にひたすら願うは、たゞあなたの心にかなうことなのです。
 If I could tear down these walls that keep you ando I apart
 I know I could claim your heart and our perfect love will start
 But girl you just won't approve of the things that I do
 When all I do is for but still you say it ain't cool.
 (from MICHAEL JACKSON "INVINCIBLE")◆

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第0648日目 〈ヨブ記第27章:〈ヨブと三人の友の議論 三〉6/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第27章です。

 ヨブ27:1-23〈ヨブと三人の友の議論 三〉6/6
 神にかけて私は誓う。全能者にかけて私は誓おう、とヨブがいった。わがうちに生命(いのち)の灯(ともしび)ある限り、即ち死に至るその瞬間(とき)まで私は自分の潔白を主張する。
 「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。/一日たりとも心に恥じるところはない。」(ヨブ27:6)
 むしろ私を否とし諭さんとする者こそ罪を被るべき者。斯様に神を無視して自らの思うところを滔々と述べ立てる者たちに、いったいどんな望みがあるというのか。

 全能者の手の業を語り得るのは私の方だ。遠方より来たるわが3人の友ではない。神に逆らう者、暴虐者が神から与えられる嗣業には、ことごとく惨めで虚しい結果が待ち構えている(ヨブ27:14-20)。
 「寝るときには豊かであっても、それが最後/目を開けば、もう何ひとつない。/破滅が洪水のように彼を襲い/つむじ風が夜の間にさらう。」(ヨブ27:19-20)



 「私は正しい、あなたは間違っている」━━「ヨブ記」を読んできてもはやお馴染みとなったテーゼであります。
 とどのつまり、3人の友の弁論もヨブの反駁もこれをベースとした変奏曲だのですが、ただ互いにテーゼの根拠が乏しいために机上の空論と思えること度々なのは、当方の気のせいでありましょうか?



 MJ氏のSF《クライ》。僕はこれがいちばん好きだな。死ぬ間際に再び観たら、穏やかになれるだろう。◆

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第0647日目 〈ヨブ記第26章:〈ヨブと三人の友の議論 三〉5/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第26章です、

 ヨブ26:1-14〈ヨブと三人の友の議論 三〉5/6
 ヨブがいった、━━

 君はいったいこれまで、どれだけの善行を尽くしてきたのか。どれだけの者を助け、救ってきたというのか。どれだけの者に忠告し、解決策を与えてきたというのか。
 「誰の言葉を取り次いで語っているのか。/誰の息吹があなたを通して吹いているのか。」(ヨブ26:4)

 神が為し得る道はわれらの知るところをはるかに超え、その力と業は天地(あめつち)その下を制し、光と闇に境をもたらす。
 「だが、これらは神の道のほんの一端。/神についてわたしたちの聞き得ることは/なんと僅かなのか。」(ヨブ26:14)



 引用したヨブ26:4。ヨブの立場からすれば、3人の友みなが弁ずる言葉の一つ一つについてこう問い掛けたかったことでありましょう。この箇所、「ヨブ記」全体にかかわる反論といえそうです。
 舞台裏を告白すれば、「ヨブ記」でいちばん苦心した章でした。自分の力不足をはっきり思い知らされた、と言い替えてもよい。「難しかった」というのが正直なところ、か。それでもなんとかまとめ得た今回のノート/ブログをステップに、読者諸兄へは是非とも原典へ当たってみることをお願いいたします(これが移し替えの難しさか)。



 今日(07月19日祝日)、おれは再び過ちを犯すところだった。思わぬ形で踏み留まることができ、はっきりと訣別することができた。夜の井の頭にて奇蹟は起こった。サンキャー。
 もう思い悩むことはなにもない。唯一人の想い人。世紀の恋。かの奇蹟の先にもう一つの奇蹟があると信じる。有限の呪縛からは解放されたのだ。おぐゆーさん、いまや想いはすべてあなたのもの。
 今宵(20時頃)、新宿駅東口ロータリーにいたのは、あなた方だったであろうか。それが<われら>になることはあるだろうか? あって欲しい。いつだって、想いが本当なら、奇蹟と魔法は存在するのだから。◆

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第0646日目 〈ヨブ記第25章:〈ヨブと三人の友の議論 三〉4/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第25章です。

 ヨブ25:1-6〈ヨブと三人の友の議論 三〉4/6
 シュア人ビルダドによる第三回目の弁論、━━

 「恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ/天の最も高いところに平和を打ち立てられる。」(ヨブ25:2)

 神の前に於いて人間が正しいなんてこと、いったいあり得ようか。
 天の瞬きすら神にとっては何程のものでないのだ。ましてやわれら人間など蛆虫に等しく、所詮虫ケラにすぎぬ。



 ビルダドの3回目の弁論は、3人全員の意見の集成でもあった。遠方より来たる彼らの弁論は、事実上これを最後とする。(やがて読む)ヨブ32:1で明記されるように、ヨブが自分の正当性と潔白をひるまず主張し、友らの弁論とひたすら並行するばかりだからだ。
 代わってヨブ32以後は、第四の人物エリフが登場する。彼は、ビルダドらを上回る分量の弁論をヨブへ投げかける。が、これについては、またいずれ━━。



 太宰治『正義と微笑』(新潮文庫)読了。清々しい作品であった。芹川進の役者人生に幸あれ……といったら、彼はどんな減らず口を叩くだろう?
 『人間失格』や『斜陽』にばかり群がるのはどうだろう。疑問だ。確かに文学的に優れたものではあるが、若い人にはむしろ『正義と微笑』を先に読ませた方がよくないか? こんな明朗な小説が戦時下に書かれていたとは。しかも、それが出版までされて人々に読まれていたとは。
 明後日からは『パンドラの匣』を読む。◆

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第0645日目 〈ヨブ記第24章:〈ヨブと三人の友の議論 三〉3/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第24章です。

 ヨブ24:1-25〈ヨブと三人の友の議論 三〉3/6
 貧者は着るものさえままならず、身を寄せる家もなく、父なき乳飲み子は人質となる。貧者は富める者の下で使役させられ、しかし貧者がそれによって報われることはない。
 ━━神はそうした地上の惨状に、自分の心を留めたりしない。

 それに対して神に背く人々は安穏と日々を過ごす。
 殺人者は日中は弱者を殺めてまわり、夜ともなれば盗人へ生業を替える。姦淫者は黄昏刻に顔を隠して行動し始め、夜陰に乗じて家々を襲い非道を尽くす。
 「このような者には、朝が死の闇だ。/朝を破壊の死の闇と認めているのだ。」(ヨブ23:17)

※ヨブ24:18-25 新共同訳では台詞乃至引用を示す「」で括られている。当該箇所をナアマ人ツォファルの台詞とする論があるらしいが、本ブログ/ノートでは誰彼と特定せず、3人の内の誰かの台詞とのみ捉えることにした。
〔神の目に悪と映る行いをする人々は、この世から消え去るようにできている。彼の母の体も、陰府すらも、彼を忘れて思い出さない。
 権力を持った者もその人生は必ずしも栄光に満たされたものではない。やがては、麦の穂を刈るように容易く倒されてしまうのだ。〕

 (ヨブ)
 「だが、そうなってはいないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができようか。」(ヨブ24:25)



 神の強大な力の前にあろうと、永久の闇が眼前に広がっていようと、自分は正しく潔白である。そんなヨブの再度の意思表明が窺える章です。
 ここまで来ると、自分の正しさと正当性を信じて疑わぬヨブの心の強さと怯まぬ姿勢に、一種の感嘆をすら覚えてしまいます。この態度のブレなさ、立派です。



 いままで読んでこなかった古典を読破したい。魂が健全である内に。
 『ガリア戦記』(カエサル)と『ローマ帝国興亡史』(ギボン)、(『論語』と『大學』を除く)四書五経。上記の諸書はなかでも「これだけは!」というべき作。
 聖書が終わったら上掲書の読書ブログを書きたいです。そんな野望、もとい、希望。◆

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第0644日目 〈ヨブ記第23章:〈ヨブと三人の友の議論 三〉2/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第23章です。

 ヨブ23:1-17〈ヨブと三人の友の議論 三〉2/6
 ヨブが答える、━━

 神に従い神と和解せよ、と君はいう。
 ではどうすれば神を見出せるのか。会わねば訴えを述べることも、答えてもらうことも話しかけてもらうこともできない。神が私を顧みてくれれば、「わたしは神の前に正しいとされ/わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう。」(ヨブ23:7)

 神に従い神と和解せよ、と君はいう。
 これまで私は神に従って歩み、その道を守り離れたことがない。その言葉に背いたりすることはなく、その言葉をいつもずっと胸の奥へ納めてきたのだ。
 神が私に定めたことを翻すことは、何人にもできない。神は自身が定めたことを実行する。「それゆえ、わたしは御顔におびえ/考えれば考えるほど、恐れる。」(ヨブ23:15)

 神は私から勇気を奪い、全能者は私を怯ませる。
 「わたしは暗黒を前にし/目の前には闇が立ちこめているのに/なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか。」(ヨブ23:17)



 引用箇所ヨブ23:17の訳について。
 岩波Ⅳ諸書では当該箇所、「しかし、暗闇を前にして、わたしは沈黙しない、/闇の覆いを目前にしても。」(P370)とある。
 なんだかこちらの方が、前節23:16からのつながりはよいと思えてならぬのですが。読者諸兄は如何でしょうか。



 そろそろ年賀状用の小説の準備をしよう。大体のイメージはあるが、肉附けには至っていない。が、2年続いた創作神話とのつながりは、今回の2011年分で完了予定です。
 本日の特記)過日、Livespireで鑑賞したオペラ映画《ドン・ジョヴァンニ》。その音楽を指揮していたサー・チャールズ・マッケラス氏が逝去した、と07月16日付朝刊で読みました。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。◆

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第0643日目 〈ヨブ記第22章:〈ヨブと三人の友の議論 三〉1/6〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第22章です。

 ヨブ22:1-30〈ヨブと三人の友の議論 三〉1/6
 テマン人エリファズによる第三回目の弁論、━━

 神の目に正しいと映るからとて、それが即ち神の利益となり、全能者の喜びとなるのだろうか。
 「あなたが神を畏れ敬っているのに/神があなたを責め/あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。/あなたは甚だしく悪を行い/限りもなく不正を行ったのではないか。」(ヨブ22:4-5)
 「だからこそ/あなたの周りには至るところに罠があり/突然の恐れにあなたはおびえる。」(ヨブ22:10)

 君はいま、暗黒に閉ざされたなかに一人でいる。だから神を罵り疑い、神の目に悪と映ることを行う者を誤解するのだ。彼らの歩む道に気をつけよ。
 君はいま、かつてのような正常にして賢明な判断力を失っている。だから自分の不幸は不当だと主張し、あまつさえ神に挑戦しようとしているのだ。

「神に従い、神と和解しないさい。/そうすれば、あなたは幸せになるだろう。/神が口ずから授ける教えを受け/その言葉を心に納めなさい。/もし、全能者のもとに立ち帰り/あなたの天幕から不正を遠ざけるなら/あなたは元通りにしていただける。」(ヨブ22:21-23)



 改めてヨブ25で記しますが、〈議論 三〉は遠方より来たる3人の友による弁論の、最後のパートとなります。そのせいか、友の言葉はこれまで以上にダイレクトな調子に変化してゆきます。これまで、「神と和解せよ」なんてそのものズバリな台詞、ありましたか?
 ここで、引用こそしませんでしたけれど、読んでたちまち好きになってしまった一節がありますので、それをここでご紹介します。こんな一節です、━━
 「あなたが決意することは成就し/歩む道には光が輝くことだろう。」(ヨブ22:28)



 『論語』に「巧言令色少なし仁」という言葉がありますが、時々、「暴飲暴食少なし仁」と冗談めかすときがあります。事実、ちょっと食べ過ぎたりして日頃節制する枠を超えてしまって、腹に鉛のような重みを感じ足取りも鈍重である際に、自戒と自嘲をこめて口のなかで呟く台詞が、「暴飲暴食少なし仁」。
 今宵もそれを口にする日。ああ、ちょっと羽目を外すとすぐにこうだ。反省だ、反省。やれやれ、何だ彼だいっても、まだまだ人生は続く。ちったぁ、身に沁みろ、俺。OK?◆

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第0642日目 〈ヨブ記第21章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉7/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第21章です。

 ヨブ21:1-34〈ヨブと三人の友の議論 二〉7/7
 ヨブは答えた、━━

 私の話を聞け、話をさせろ。然る後に嘲笑うがよい。
 私の話を聞け、話をさせろ。これを思うと慄然とし、身震いせずにはいられない。

 なぜ神に逆らう者がなんの罪もなく生き永らえるのか。
 彼は神を信じず祈らず、その道を知ろうともしない。なのに、彼は栄え、生を謳歌し、やすらかに死に迎えられる。
 神に逆らう者が、神の怒りの裁きを受けたことはあるのか。
 神はなぜ自分に背く者を放っておくのか。なぜ思い知らせてやらないのか。畜生め!

 「ある人は、死に至るまで不自由なく/安泰、平穏の一生を送る。/(中略)また、ある人は死に至るまで悩み嘆き/幸せを味わうこともない。/だが、どちらも塵に横たわれば/等しく、蛆に覆われるではないか。」(ヨブ21:23,25-25)
 「悪人が災いの日を免れ/怒りの日を逃れているのに/誰が面と向かってその歩んできた道を暴き/誰がその仕業を罰するだろうか。」(ヨブ21:30-31)

 友らよ、はっきりいおう。
 君たちの弁論は欺き以外のなにものでもない。



 昨日記したように、ヨブの怒り━━理不尽な不幸に対する嘆きと怒りは(前章と)本章で最頂点を迎えます。ここでは発言を慎みましょう。ひたすら、ヨブの言葉を嚙み締めるのみです。
 「ヨブ記」に於いてこのヨブ21程、ヴェルディレクイエム》の〈怒りの日〉が似つかわしい場面もないのではないしょうか。



 最近どうにもめげること多くて、力の出ないときがあります。「ま、今日はこんな日」と胆をくくってしまえれば楽なのですが、なかなかそうは問屋が卸しません。自分一人がこの状況だと、特につらい。
 そんなときは帰宅後、(旧約)聖書や海外小説に逃避するよりも、むしろ六代目圓生の噺に耳を傾けたり本を耽読するなりして、なんとか心の平衡を保っています。この方が、こんなときはしっくり来る。すんなり言葉と物語が自分のなかに入ってくる。まさに清涼剤。気持ちがちょっと治るのがわかります。
 週末からまたがんばろう。◆

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第0641日目 〈ヨブ記第20章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉6/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第20章です。

 ヨブ20:1-29〈ヨブと三人の友の議論 二〉6/7
 ナアマ人ツォファルによる第二回目の弁論、━━

 君の弁は僕への批難か。ならば僕は自分の思いを述べよう、様々な感情が僕を興奮させている。

 君も知っているだろうが、神に逆らい無視する者の嗣業は惨めで空しい。彼は失われた者となる。彼は幻の存在となる。彼を見る目は地上からなくなり、彼の子孫は彼の業を背負って生きる
 彼の腹は満たされることを知らない。欲望はひたすらに大きくなる。彼は豊かさの極致ですべてを失う。どこからともなく迫る火が熾り、彼のみならずその天幕までも焼き尽くす。
 彼のみならず、彼にまつわるすべてが滅ぼし尽くされる。

 「天は彼の罪を暴き/地は彼に対して立ち上がる。/神の怒りの日に洪水が起こり/大水は彼の家をぬぐい去る。/神に逆らう者が受ける分/神の命令による嗣業はこれだ。」(ヨブ20:27-29)



 エリファズ、ビルダド、ツォファルは、ヨブを改めさせるため頻繁に神に逆らう者、反逆者を例えとする。このままだと君も同じ末路を辿ることになるから、という諫めであり、われらの話を教訓とし、反面教師とし、早く神の信仰へ立ち返れ、という諭しであります。本章では反逆者の運命がこれまでになく克明に、痛烈に語られます。
 また、「洪水」という言葉を鍵として記憶をよみがえらせれば、ずっと前に読んだノアという人物の名前が浮かびあがります。ノアはヨブと同じ義人で、神の前に無垢なる人でありました。ツォファルのここでの弁は、ノアのエピソードを踏まえているのかもしれません━━が、さんさんかはこの点についてそれ以上考えを巡らし、妄想を暴走させて独り善がりの主張を並べ立てる気はありません。それって、馬鹿馬鹿しくて空しくて、聖書をねじ曲げるだけの恣意行為でありませんか?
 さて。そも、ノアの洪水はなぜ起こったか? それは地上に人々の悪が増したからでありました。主は、人間が常に悪いことばかり考えているのに心を痛め、生きとし生ける物みなを滅ぼし尽くすことを決意したのでした。但し、主は唯一人、ノアに好意を示した。ゆえにノアに主は顕現し、方舟の建造と種の保存を促したのでした。これは、創6:5-7にて読むことができる挿話です。お忘れの方、再び読んでみようと考えている方、この機会に是非どうぞ。



 ベートーヴェンの交響曲第5番を聴いた(今年初)。やはりすごい作品だ。5回も再聴した。手垢にまみれた、といって過言でない史上最強の通俗名曲;俗称《運命》。が、こうも人の心へダイレクトに響いてくるクラシックの曲は、そう滅多にあるものでない。◆
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第0640日目 〈ヨブ記第19章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉5/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第19章です。

 ヨブ19:1-29〈ヨブと三人の友の議論 二〉5/7
 ヨブの反駁、━━

 状況を理解せよ、と友ビルダド、君はいう。
 が、私は神により敵の手に渡された者、しかも親族郎党の誰彼からも背を向けられ、見捨てられ、かつ憎まれている身。
 そんな私に状況を悟れ、というのか。不当な辱めを受けている私に、自分たちの言葉を聞け、と強いるのか。

 どうか友らよ、
 「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ/神の手が私に触れたのだ。/あなたたちはわたしの友ではないか/なぜ、あなたたちまで神と一緒になって/わたしを追い詰めるのか。/肉を打つだけでは足りないのか。」(ヨブ19:21-22)

 わが嘆きの言葉を石板へタガネで刻み、鉛で黒く記し、碑文として残してほしい。
 いつか大地に倒れた私はそこから仰ぎ見るだろう━━塵の上に立つ方、私を贖われる方を。

 だけど友らよ、
 「この有様の根源がわたし自身にあると/あなたたちはいう。/あなたたちこそ剣を危惧せよ。/剣による罰は厳しい。/裁きのあることを知るがよい。」(ヨブ19:28-29)



 ヨブにとって弁論はこの時点で終了していたのではないだろうか。このあとのそれは、単なるパラフレーズではなかったか。
 何度か読んでいた或るとき、ふと、そんな疑問を抱きました。本章と第21章で実質的にヨブは弁論(反駁)にケリをつけ、嵐のなかから語りかける声との問答(か?)までは、弁論/思想の超絶技巧的パラフレーズが繰り出されるパートと、さんさんかには思えてきています。



 冷蔵庫を開けて、はうん、と嘆き、よよよ、と崩れ落ちた。なんてこったい、ビールがないよ、一本も。飲みたいときに飲みたいものがないと、萎える。日本酒ワインはあるが、ビールがない。今日はどう考えてもビールだろ。
 仕方ないから夜道をとぼとぼ歩いてモルツを売っているスーパーまで買いに出掛けましたよ。最近、プレミアムばっかりで普通のモルツ売るお店、少なくなってない? どうにも解せず、許せず、つまらんのだ。ぷん。
 本日の特記だが、千葉法相は落選しても続投するらしい。あほ?◆
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第0639日目 〈ヨブ記第18章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉4/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第18章です。

 ヨブ18:1-21〈ヨブと三人の友の議論 二〉4/7
 シュア人ビルダドによる第二回目の弁論、━━

 わが友ヨブ、状況を理解せよ、冷静になって話しあおう。
 聞け、神に逆らう者の運命(さだめ)は悲惨だ。光に見離されて闇を彷徨い、あらゆる破滅が四方より襲いかかる。家族も然り。やがて反逆者の記憶は人々から消え、その名は地上に留まることがない。
 「彼は光から暗黒へ追いやられ/この世から追放される。/子孫はその民の内に残らず/住んだ所には何ひとつ残らない。/未来の人々は慄然とし/過去となった人々すら/身の毛のよだつ思いをする。/ああ、これが不正を行った者の住まい/これが神を知らぬ者のいた所か、と。」(ヨブ18:18-21)



 反逆者の運命を語って明快にして強く響き、説得力に富む弁論と感じました。まさに<簡にして豊>であります。
 普通の人なら、このビルダドの言葉ひとつで悔い改める姿勢を見せたかもしれません。が、ヨブには効き目がない。有効打は、誰からも放たれていないのだ。
 ヨブの回心と信仰への立ち帰りはまだしばらく先の話。それまでわれらはこの問答劇を見物し、彼らの言葉にひたすら耳を傾けていましょう。



 午前中に選挙へ。そのあとは庭をいじって、映画を観る(今日は休みを取っていたのだ)。そして、夜。
 雌雄は決した。が、再び小沢支配は復活するだろう。自民・公明・みんなの党は連合して、いまの政権与党に無条件降伏を勧告すべき時だ。第一歩は参院から、やがて衆院へ。ねじれ国会の元凶、民主党を瓦解させ、党員みなを路頭に迷わせてしまえ。
 それにしても、である。連坊は嫌いで政治スタンスは評価できぬ。いま以てこの意見は変わらない。と雖も開票早々に当確を決めたあの強さ、抜群の知名度とそれに伴う実力には、改めて敬服せざるを得ない。天晴れである。
 それに対して、同じ民主党から出馬した谷某が早々に当確を決めたことに、一抹の絶望を感じていることは否定できない。まぁ、票集めパンダは執行部の目論見通りに機能した、というところか。哀れなるは踊らされた候補者、見識なしに投票した有権者。
 が、当選したからには責任を持って国政に参加していただきたい。国会でまでパンダに貶められぬよう、自分の言葉で意見を述べよ。あなたに対する評価はアスリートとしてのそれとは無縁の地点で確立されるのだから。
 たちあがれも改革も自ら塗ったメッキを剥がして自民党へ戻ってくればいいのにね。◆
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第0638日目 〈ヨブ記第17章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉3/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第17章です。

 ヨブ17:1-16〈ヨブと三人の友の議論 二〉3/7
 ヨブは続ける、━━

 わが人生の日は尽きようとし、暗黒に閉ざされた寝床が用意されている。神が私を敵の手に渡し、敵が私を嘲ったりしなければ、彼らが私に敵意を抱き、かの寝床が用意されることもなかったのに。
 私の保証人になってください、神よ。そうして敵を迷わせ、貶めてください。

 「どこになお、わたしの希望があるのか。/誰がわたしに希望を見せてくれるのか。/それはことごとく陰府に落ちた。/すべては塵の上に横たわっている。」(ヨブ17:15-16)



 ヨブの神に寄せる態度は曖昧です。信じるのか? そうでないのか? それはおそらく迷いなのでありましょう。最後に残された一縷の希望にすがるような印象を抱きます。
 このヨブの態度と言葉の曖昧さゆえに、ノートの作成にはほとほと手を焼くことがあります。対して、3人の友の言葉の論旨のブレなさ加減には、清々しささえ感じられます。



 そろそろ「詩編」について考えねばなりません。フォーマット(体裁)とスタイル(文体)━━これは考え始めると収まり所を知らない、実に厄介で重要な問題であります(なお「詩編」は9月になるかどうかの時分から開始予定[予定から1ヶ月遅れ])。カラヤン=BPOのベト7(PALEXA CD-0531)を聴きながら、真剣に思案中……。
 明日(今日か)は参院選。われら有権者が民主党に「否」の鉄槌を浴びせるときだ!◆
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第0637日目 〈ヨブ記第16章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉2/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第16章です。

 ヨブ16:1-22〈ヨブと三人の友の議論 二〉2/7
 ヨブは答えた、━━遠方より来たるわが3人の友よ、君たちの慰めはまやかしにすぎない。もうやめてくれ、もし逆の立場なら、わたしは君たちに偽りの慰めや励ましなど与えはしない。

 平穏に暮らしていた私を神は打ち、敵の手に渡した。彼らは私を嘲笑して侮辱し、情け容赦なく私を射て塵のなかに倒れさせる。
 なぜだ?
 なぜこんなことがわが身に降りかかるのか。「わたしの手には不法もなく/わたしの祈りは清かったのに。」(ヨブ16:17)

 大地よ、流れた血を土で覆うな(ex;創4:10)。わが叫びは逃れ場を求めるな。
 天にいる仲裁者。彼が私と神の間に立ち、私のために弁護して執り成してくれるように。
 「僅かな年月がたてば/私は帰らぬ旅路に就くのだから。」(ヨブ16:22)



 参考にしている『旧約聖書 Ⅳ・諸書』(岩波書店)の当該箇所註釈の表現を借りれば、本章では、ヨブのいう<神>が「敵なる神」と「友なる神」に分裂している(殊に16:19-21)。これはヨブの神に寄せる想いの迷いでありましょうか。
 ヨブ16:21「人とその友の間を裁くように」云々の「人」はヨブを、「その友」はヨブの神を意味します。が、実はここの新共同訳の訳文には若干の疑問があるのです。文章が前節の流れから浮いてしまい、ともすれば分断してしてしまっているような気がするのですね。参考図書の岩波書店版『ヨブ記』(前掲書含む)や岩波文庫の関根正雄訳の方が、より性格かつ自然な日本語文章と思えるのであります。



 偶然CSで映画ストリート・オブ・ファイヤー』を観ました。10代の時に観て感化された、ダントツで好きな映画作品。本作には影響を受けたなぁ。筋は単純明快、古くさいお姫様救出劇なんだけれど、騎士然としていないマイケル・ペレが相当カッコイイんだ。
 1980年代って、現代と較べればザラリとした手触りかもしれないけれど、とってもいい映画が揃っていた。名画座や二番館、三番館、時にはアートシアター系列の劇場を渡り歩いて、ひっそりと息を潜めてわからないながらも観ていた文芸作品、生まれる以前の名作や西部劇。
 足とカンと暇に任せて観た作品群は、大切な思い出で、宝物です。映画大好き。◆
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第0636日目 〈ヨブ記第15章:〈ヨブと三人の友の議論 二〉1/7〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第15章です。

 ヨブ15:1-35〈ヨブと三人の友の議論 二〉1/7
 テマン人エリファズによる第二回目の弁論、━━

 君(ヨブ)は原初の者(アダム)か、創世の時代から生きてきたのか。君の智慧は特別ではない。神の慰めは取るに足らず、優しい言葉は役に立たない、というのか。
 「なぜ、あなたは取り乱すのか。/なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか。/神に向かって憤りを返し/そんな言葉を口に出すとは何事か。」(ヨブ15:12-13)

 「神は聖なる人々をも信頼なさらず/天すら、神の目には清くない。/まして人間は、水を飲むように不正を飲む者/憎むべき汚れた者なのだ。」(ヨブ15:15-16)

 悪人の一生は不安と傲慢に彩られている。彼は暗闇に囚われて長く彷徨う。そうして生き永らえることはない。
 「神を無視する者の一族に子は生まれず/賄賂を好む者の天幕は火に焼き尽くされる。彼は苦しみをはらみ、災いを生む。/その腹は欺きをはぐくむ。」(ヨブ15:34-35)



 エリファズ(個人的にこの名前は好き。むかし書いたオペラ台本他に登場させたお姫様に名前が似ているせいかな?)は、一心にヨブの改心を促します。
 神に反逆する言葉を口にし続ける友人に、エリファズは神に背を向けた者の末路を語り、我々が神聖視する天や聖なる人々(祭司や預言者/先見者を指すのでしょう)さえも神の目には特別なものではない、と語りかけます。成程、そうなのか、うむうむ、と頷き納得しましたが、冷静に考えると、エリファズも相当なことをいっているような気がしてなりません。ヨブを説得する内に感情がついエスカレートして、ふと口から出てしまったのでしょうか。
 いずれにせよ、このあとも友人らの弁論にヨブは詭弁を弄し続けます(いや、まさに「詭弁だろ、それ」という場面が後々登場するのですよ)。



 昨日は大雨、ひどいお天気でした。今日は一転してからりとした晴に。今日と昨日の天気が反対だったら、織り姫様と彦星さんも天の川縁で再会できたのにね。残念。
 ああ、おいらも一年に一度でいいからおぐゆーさんと逢いたい(本音は毎日だが)。
 ハイドンの弦楽四重奏曲(Op.17-1)を聴きながら、お休みの日の午前中にこれを書きました。清らかな曲だなぁ。◆
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第0635日目 〈ヨブ記第14章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉11/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第14章です。

 ヨブ14:1-22〈ヨブと三人の友の議論 一〉11/11
 (ヨブの嘆きは続く、━━)

 「人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。/花のように咲き出ては、しおれ/影のように移ろい、永らえることはない。」(ヨブ14:1-2)
 人間とはかげろうのように儚い生の持ち主、死んで倒れれば二度と立ちあがれない。神よ、あなたが眼差しを注ぐ人間とは斯くも脆い存在なのです。あなたが眼差しを移せば、その者の命は絶える。寿命も運命もすべてあなたの手のなかにあり、あなたの決定に<否>を唱える者はいない。
 私の人生は苦役に等しい。それゆえ私は交替の時を待っています。死んでしまえばもう生きなくてよいのですから。けれども神よ、いつの日か冥府へ隠した私を思い起こし、呼んでください。「その時には、わたしの歩みを数えてください。/わたしの過ちにもはや固執することなく/わたしの罪を袋の中に封じ込め/わたしの悪を塗り隠してください。」(ヨブ14:16-17)

 が、大地がどう変転しようとも、希望はあなたによって断たれたままだ。あなたはわれら人間を絶え間なく攻め、世界の片隅へ追いやり、われらの運命に露程の関心も払わない。
 「彼はひとり、その肉の痛みに耐え/魂の嘆きを忍ぶだけだ。」(ヨブ14:22)



 ノートを取る前から「ヨブ記」は読んでいました。結果、好きな章、好きな文言、胸に突き刺さる表現、心にしっかりと根を張ってふとした拍子に浮かんでくる部分というのが、多くあります。
 本章はその一つ。ヨブなる人物の抱いている無常と嘆きと哀れが、自分のことのように思えてわが心を捕らえたのです。信徒でないから教条的なことは皆目わかりませんが、感覚として胸が張り裂けそうになるほどよく理解できた。恥ずかしながら、涙が出そうになりましたよ。確かここを読んだ直後ぐらいに、亡き婚約者の命日で墓参りにいったんじゃなかったかなぁ……。序でに申せば、それはドストエフスキーの『死の家の記録』を読んでいた時分でもありました。



 『津軽』以後の話ですが、まだ(また)太宰治を読んでいます。理由は適当に申せば、暑い夏にドストエフスキーなんて読みたくない、というところ。そんなわけで、いまは『パンドラの匣』(新潮文庫)所収の「正義と微笑」。日記体の青春小説、からっとしていて面白い。所々に出て来る投げ槍でぶっきらぼうな台詞が、太宰らしくてカッコイイ。◆
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第0634日目 〈ヨブ記第13章:〈ヨブと三人の友の議論 一〉10/11〉 [ヨブ記]

 ヨブ記第13章です。

 ヨブ13:1-28〈ヨブと三人の友の議論 一〉10/11
 (ヨブはいう、━━)

 もう私になにも語るな、君たちの言葉はいずれも偽善に満ちている。君たちの主張は灰の格言も同じだ。もう口を閉ざしてはくれまいか。これ以上の災いが降っても構わないから、私に話をさせてほしいのだ。誰に、だと? 神に、だ!
 「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。/だが、ただ待ってはいられない。/わたしの道を神の前に申し立てよう。/このわたしをこそ/神は救ってくださるべきではないか。/よく聞いてくれ、わたしの言葉を。/わたしの言い分に耳を傾けてくれ。/見よ、わたしは訴えを述べる。/わたしは知っている、わたしが正しいのだ。/わたしのために争ってくれる者たちがあれば/もはやわたしは黙って死んでよい。」(ヨブ13:15-19)

 私は神に語りかける。
 が、その前に神よ、私の上から御手を遠ざけ、御腕を以て脅かすのをやめてください。そうしてから私の名を呼んでください。或いは、私の語りかけに答えてください。
 然る後に答えてください、私にどんな罪と咎があったのか、なぜ御顔を隠して私を敵とされるのか。
 「わたしに対して苦い定めを書き記し/若い日の罪をも今なお負わされる。/わたしに足枷をはめ、行く者を見張り続け、/一歩一歩の跡を刻みつけておかれる。/このようにされれば/誰でもしみに食われた衣のようになり/朽ち果てるほかはありません。」(ヨブ13:26-28)



 濡れ衣を着せられたまま……冤罪のまま死に追い立てられるなら、直接神と語り合って自分の正当を主張しよう。
 ━━ヨブの決心がはっきり固まった瞬間として、さんさんかはここを読みました。これ以後、ヨブと3人の友の弁論は、本章を境にいちだんとトーンが暗く、重く、また激しくなっているように感じられます。



 昨夜、と或る街のと或る中華料理屋で酢豚を食べました。……これ(に入っていた酢)が悪かったようで、夜中から猛烈な腹痛に苦しめられ、挙げ句は会社を休む羽目に陥ったさんさんかです。
 せっかく成績を維持できるようになってきたのになぁ……。酢豚の、バカヤロウ。もう食べてやらないもん!◆
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