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第0904日目 〈箴言第31章:〈レムエルの言葉〉&〈有能な妻(アルファベットによる詩)〉with暗闇を抜けて、〉 [箴言]

 箴言第31章です。

 箴31:1-9〈レムエルの言葉〉
 レムエルはマサの王。これは、彼が母から授けられた諭しの言葉である。
 ━━深酒を戒め、正義の執行を促す章だ。
 強い酒に溺れるのは君主には相応しくない。飲めば王の義務が疎かになり、審議の目が曇って貧しい人の訴えを曲げるから。そうした酒は没落した者、苦い思いを抱え憂さを溜めこむ者へ与えよ。彼らは深酒によって浮世の労苦を一時ながら忘れるのだから。
 王の裁きは公正であらねばならない。「詩編」に曰く、━━
 「神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。/王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人を裁きますように。/(中略)/王が民を、この貧しい人を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。」(詩72:1-2,4)
 斯様に王は無力と恐怖で物言えなくなっている人の、虐げられている人の、貧しい人の、乏しい人の訴えを、自らの口を開いて弁護し、正しく裁かなくてはならない。

 箴31:10-31〈有能な妻(アルファベットによる詩)〉
 真珠よりはるかに貴い、有能な妻を見出すのは誰なのか?
 彼女は傷の癒し手、魂の救い手。家庭を守り、舵取りをし、子らを良く育てる。糸を紡いで錘を操り、一族が寒さに凍えないように真綿を作る。子らは母を幸いとし、夫は妻を讃える。
 「力と気品をまとい、未来にほほえみかける。」(箴31:25)
 「あでやかさは欺き、美しさは空しい。/主を畏れる女こそ、たたえられる。/彼女にその手の実りを報いよ。/その業を町の城門でたたえよ。」(箴31:30-31)

 ○箴30の「マサ」は人名でしたが、箴31に出る「マサ」は地名であろう。もしレムエルの治めるマサが、出エジプトを果たしたイスラエルの民がモーセに水を求めた一件で名を留めるのと同じマサであれば(出17)、それはシナイ山で十戒を授けられる前であるからいずれにせよ南アラビア地方にあった、と考えるのが妥当だ。
 このあたりを支配した王がいて、その王が母から聞いたという格言が「箴言」にあるのは、内容的にソロモン王の格言と通じる内容があるので、それを補強する━━或いは外国にまでソロモン王の格言は浸透しているのだ、というナショナリズムに基づく編纂であるのかもしれない。……そんな風に、キリスト者でないわたくしは考える。
 ハーレイはレムエルがソロモン王の別名かもしれない、と書くが、根拠のある話かどうかは知らない。



 ようやっと「箴言」を今日で終えた。長い旅をしたような気がしてならない。おそらく、わたくしの周囲で様々な変転があったからであろう。大きな天災も起こった。CMで誰かサッカー選手がいうていたが、われらは<日本>という一つのチームである。挫けず、前に進もう。われらはいつまでもここにいて、手をつないでこの大地の上に立っている。◆

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第0903日目 〈箴言第30章:〈アグルの言葉〉with読書の桃源郷を夢想して。或いは、俺って暇?〉 [箴言]

 箴言第30章です。

 箴30:1-33〈アグルの言葉〉
 ――これはヤケの子アグルの言葉である。
 アグルはその名が示すように不信心な者であった。或るとき、かれは神なる主にこういった、私は疲れた、と。疲れ果ててしまった、と。ここにアグルは告白して罪を捨て、憐れみを受けようとしたのだろう(ex;箴28:13)。
 誰よりも粗野で、人間としての分別もなく、知恵を教えられたことも、父から諭しを授けられたことも、聖なる方/即ち主を知ることもできなかったアグル。かれはここに告白して罪を捨てる。
 神よ、とアグルは訴える。私はあなたへ2つのことを乞い願います、どうかわたしが死ぬまでそれを拒んだりしないでください、と。
 1;「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。」(箴30:8)
 2;「貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。」(同)
――憐れみを!
 ……第15節以下、飽くことを知らぬ者(15-16)、知り得ぬこと(18-20)、耐え得ぬこと(21-23)、小さき知恵者の知恵(24-28)、堂々と歩く者(29-31)、について、アグルは述べる。「父を嘲笑い、母への従順を侮る者の目は/谷の烏がえぐり出し、鷲の雛がついばむ」(箴30:17)のだ。

 「神の言われることはすべて清い。/身を寄せればそれは盾となる。/御言葉に付け加えようとするな。/責められて/偽る者と断罪されることのないように。」(箴30:5-6)

 「増長して恥知らずになり/悪だくみをしているなら、手で口を覆え。/乳脂を絞るとバターが出てくる。/鼻を絞ると血が出てくる。/怒りを絞ると争いが出てくる。」(箴30:32-33)
 →これは自らへの戒めの言葉であろう。今日のわれらにも通用する言葉だ。

 ○本文中に挿入できなかった文章をここに書きます。
 アグルの父ヤケはイシュマエルの子マサの子孫とされ、その子孫は北アラビア地方に住まった、という。ヤケとは「聡明な」、「用心深い」の意味。その子アグルの名には「金で雇われた者」、「集める者」という意味がある。「箴言」で散々悪くいわれてきた、神に逆らう者やその道を正しく歩まぬ者の類だ。
 一方、「マサ」を普通名詞として訳すと「託宣」になる。箴30:1にて「託宣」と補記されるのは斯様な理由であろうか。
 ――これまで読んできた箴言のどの章にも優って理解と共感を抱く章である。それはおそらくアグルが悔い改めた者だからか。日本人ならではの判官贔屓、というてしまえば身も蓋もないけれど、この罪の告白と悔い改めの言葉、悔悛の決意にはとても清らかな思いを感じる。「貧しくもせず、金持ちにもせず」云々なんて、人生の仕切り直しを本気で固めた者でないと、そう易々とは口に出せない言葉ですよ。



 WOWOWのドラマW『幻夜』と今年公開された『白夜行』に触発されて、数年ぶりに東野圭吾の小説をたっぷり楽しんでいました。たぶん、これだけ集中的に読んだのは約10年ぶりでないか。でも、もうこれ以後読むことはないだろうな。
 『むかし僕が死んだ家』などで感心したトリッキーな作品よりも、一つの事件を媒介として様々に展開してゆく人間模様に主眼を置いた作品へ移行してきているな、というのが今回の読書を終えての印象。もっとも、帯に踊る<堀北真希さん激賞!>の惹句にやられた『白銀ジャック』などは昔通りの東野作品だなぁ、そう感じつつページを繰ったのですがね。勿論、トリッキーな作品であっても人間描写は上手いのですが、後者ではそれがより深化している、と言い添えておきたいのです。
 これを契機にいままで読んでこなかった作家、或いは特定の小説を読み倒したくなった――いまぐらいの季節になると発症する持病である――。昨日書いた乙一もその一人。『ハイドゥナン』に感動したあとに刊行されたものの、発売当時はさすがに手が出せず(ちょっと金銭的な問題でね)機会を逸していた藤崎慎吾の『鯨の王』や、WOWOWで放送中の『CO 移植コーディネーター』の小説を書いた秦建日子の『推理小説』シリーズなどを休みの今日、商店街の本屋と古本屋で買ってきて陽の当たる縁側で読み耽ることを夢想している。読書の桃源郷という表現は、いくらなんでも大袈裟かね?
 ドストエフスキー? だいじょうぶ、ちゃんと読んでいるよ。蝸牛の歩みだが『悪霊』はしっかり前に進んでいる。ド氏って面白いよな!◆

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第0902日目 〈箴言第29章:〈懲らしめられることが多いと人は頑固になる。〉withブックオフでCDを買うときは……&乙一を読んでみた。他、夜の街の明るさについて。〉 [箴言]

 箴言第29章です。

 箴29:1-27〈懲らしめられることが多いと人は頑固になる。〉
 懲らしめられてばかりだと人は意固地になり頑固になる、そうして突然打ち砕かれた彼を癒すことはもうできない。われらはその事例を━━顛末は異なると雖も、既にヨブに見た。また、サウル王にも、創世記のエサウやカインにも。
 不遜な者、悪を企み謀る者は町に諍いの種を蒔き、騒ぎを引き起こす。正しい人、知恵ある人は神に逆らう者の怒りを鎮め、彼らに虐げられる人の命を救う。「貧しい人と虐げる者とが出会う。/主はどちらの目にも光を与えておられる。」(箴29:13)
 神に従う人は完全な道を正しく歩む人。その人が高められると民は歓喜する。悪事を謀る者を憎み、自らの罠に陥った姿に喜びの叫びをあげる。
 神に逆らう者は曲がった道を破滅へ向かって歩く者。彼が為政者となれば民は嘆く。彼らは正しく道を歩む人を憎み、無垢なる者を憎み、罠に陥れて血を流させようと画策する。
 「神に逆らう者が多くなると罪も増す。/神に従う人は彼らの滅びる様を見るであろう。」(箴29:16)

 「あなたの子を諭すなら、安心していられる。/彼はあなたの魂に楽しみを与える。」(箴29:17)

 ○「懲らしめる」という表現よりも今日の読者には、「叱られてばかり」とか「あれこれ指図されてばかり」という方がわかりやすいかもしれない。いずれにせよ、切実に理解できる部分がある。
 箴29を読んでいて頻りと、スティーヴン・キングの小説の登場人物を思い出していた。ジャック・トランスと、リーランド・ゴーント或いはランドル・フラッグ。ジャックの場合、キングの小説というよりもスタンリー・キューブリックの映画、というた方が正確かもしれない。<かがやき>に恵まれた人ならお察しであろう、「勉強ばかりで遊べない。ジャックはじきに気が狂う」である……ぷぷ。頑固になった方がまだマシ、か。
 今日のノートを作る上で久しぶりに、過去に読んだ諸書(の一部)へ目を通した。ヨブとサウル王は箴29を読んでいて自然に思い浮かんだ人たちだが、創世記の方はカインをぼんやりと覚えている程度であった。そうか、エサウ(エドム)もこうした一人であったのだな、と思ったのは、ぱらぱらページを繰っていたときである……そろそろちゃんと創世記を読み直す時期なのかもしれない。



 ブック・オフでCDを購入する際に気を付けねばならぬのは、中身が合っているかだけでなく、帯が捨てられたり袋に入れ忘れられたりしないよう、店員の一挙一動を鵜の目鷹の目で監視することだ。奴らの行動を信用するな。奴らの逆ギレに注意しろ。気をつけて連中を扱え。だが奴らの給料がわれらから出ているのを忘れさせるな。
 それはともかく。
 成海璃子主演の映画をDVDで観ることになった。折角なので、これまで手にすることがなかった乙一の小説を読んでみることにした。取り敢えず『夏と花火と私の死体』と『きみにしか聞こえない』を買ってきて読んでいますが、少なくとも映画の原作になった短編「Calling You」は良いですな。切なさが伝わってくる作品だった。ちょっと他の作品も読んでみようかな、という気にはなった。あと2,3冊、ブで買ってこようか?
 さて、それじゃあWOWOWで放送されて録画しておいた『攻殻機動隊S.A.C 2nd GIG』を観てくるか(移動先;リビング)。これってサイコーの作品だよな!

 最近は街が落ち着いていていいよね。「街、暗いよね」「お店の閉まる時間、早いよね」といわれても同意はできぬ。だってこれが当たり前の暗さで、デパートの終わる時間だって夜8時とかが普通だったんだもん。不便は感じないよ?◆

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第0901日目 〈箴言第28章:〈神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。〉with新年度を迎えるあなたに。〉 [箴言]

 箴言第28章です。

 箴28:1-28〈神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。〉
 国が乱れれば首領になろうとする者が割拠し、ひとたび分別ある人がその地位に就けばたちまち国は安定する。神に逆らい悪を行う者は必ず衰えて滅びる。神の教えに耳を塞ぐ者にとって、祈りの声すらも忌むべき声に聞こえる。神に従う人を罠に陥れれば、報いを受けて自らが掘った穴に落ちる。━━これをわれらはかつて北王国イスラエルの滅亡に見、南王国ユダへ降った怒りに見た。
 貧乏でも神の教え、父の諭しに従う人は完全な道を歩む人。二筋の曲がった道を歩く金持ちより幸いである。完全な道を歩む人はその行為ゆえに救われる、曲がった道を歩く者はその行為ゆえに倒れる。曲がった道を歩く者は、絶えず見えない影が後ろから迫ってくると怯え、完全な道を歩む人は知恵や分別を備えているので、その足取りも態度も、心のなかも自信にあふれている。
 忠実であれ。偏見を持つな。貧しい人には与えよ。罪を犯したならば告白して憐れみを受けよ。

 「自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。/空(くう)を追う者は乏しさに飽き足りる。」(箴28:19)

 ○ここまで来ると、まさしくダメ押しですよね。
 「これだけ言って聞かせているんだから、ぼくの言葉を守って正しく、力強く生きていきなさいよ。道から外れる行為をしたら、一生後ろ指指されて、影で囁かれて生きてゆくしかないんだからね」
 そんな声が聞こえてきそうです。
 この「箴言」は人を、殊に若者を諭し、導くための格言を集めた書物。ソロモン王(に仮託された人々)の声を聞き従い、その英知の一端に触れよ、という書物でもある。「詩編」と共に広く読まれるべき一巻です。



 気附けば今日から新年度か。早いものだな、まったく。
 <新年度>という言葉が、わが身に殆ど無縁と思うようになったのはいつからだったのだろう? フレッシュな気持ちなんていつまでも持てるものではないけれど、自分を取り巻く森羅万象、人間関係、機微と感情に対して、けっして鈍感にはならないようにしよう。
 入社3年目のあなたにはまだ遠いお話かもしれない。でも、ずっと会社/組織のなかに組みこまれていると、知らない内に感性が摩耗し、感覚が麻痺するときがあるんだ。それに備えておく心構えはしておいて良い。
 Carpe Diem.<いまを生きよ>。この言葉だけでも、あなたのちっちゃな胸の奥に刻んでおいてください。これがわたくしの遺言です。
 They follow the pattem on the wind,ya' see/'Cause they got no place to be/Tha's why I'm starting with me.(人々は風の吹くまま飛ばされる/行くあてもないからさ/だから自分から始めよう;小倉ゆう子・訳)━━Micheal Jackson"MAN IN THE MIRROR"

 昨日、マイケル・J・フォックスの新著『贈る言葉 未来へ踏みだす君に、伝えたいこと』(早川書房)を買いました。不屈の人が膝を屈めてわれらに語りかける、人生のすばらしさと困難に立ち向かう勇気を。
 実は「買ってよかった!」と思える本と出会うことはそう滅多にあるものではない。この一冊は、そんな稀有の出会いを果たした本。◆

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第0900日目 〈箴言第27章:〈明日のことを誇るな。〉with映画『ばらの騎士』を観たあとの独白。〉 [箴言]

 箴言第27章です。

 箴27:1-27〈明日のことを誇るな。〉
 明日を頼りとせず、まずは今日一日を生きよ。明日という日になにが起こるか、今日という日になにが起こるか、知る人は誰もいないのだから。震災!
 自画自賛をするな、それは空虚だ。誉める言葉は他人の唇から聞くのがよい。一方で、人は賞讃によってその価値が計られる、とも知れ。
 いさかい好きな妻を制した夫は、香油を以て右の手の力と呼ぶ。香油は心を楽しませる、香油は女心をなだめて従わせる。ゆえに夫は香油を以て右の手の力と呼ぶのだ。
 友人の優しさは自分の考えに優り、人は友人によって磨かれる。自分の友人、父の友人を捨ててはならない。が、隣人は遠くの友に優る;遠くの親戚よりも近くの他人、という場合もある。
 覚えておくがよい、心は人を映す鏡である、と。

 「あなたの羊の様子をよく知っておけ。/群れに心を向けよ。/財産はとこしえに永らえるものではなく/冠も代々に伝わるものではない。/草は刈り取られ、また青草が現れ/山々の牧草は集められる。/羊はあなたの着物となり/雄山羊は畑の代価となる。/雄山羊の乳はあなたのパン、一家のパンとなり/あなたに仕える少女らを養う。」(箴27:23-27)

 ○聖書には一読してよく理解できる部分と、そうでない部分とがあります。後者は預言書や黙示文学に分類される諸書が過半を占めるでしょう。「箴言」もどちらかといえば後者に振りわけられそうな書物と感じます。時により空しさ、無為が読書という行為に宿るのですね。おそらく『論語』や『パンセ』についても、読み進めてゆくならば遅かれ早かれ同じような無為に襲われるときがあるのでは、と思います。こうした格言集に特有な全体の散漫さ、その寄せ集め的な性格が災いするのでしょうか。が、それだけに却って読み解(ほぐ)してゆく楽しみがある。
 読み解す楽しみ━━たとえば、「愛する人の与える傷は忠実さのしるし/憎む人は数多くの接吻を与える」(箴27:6)とはどういうことなのか?
 妙に心に引っ掛かる文言です。しかし、ここに立ち止まったままでは答えのヒントは出ません。こういうとき、われらは過去に読んだ章へ戻るべきなのです。そうすれば、まず後半は箴1:11-14(※)を背景にした警句であることがわかり、同様に前半も、神なる主と神に従う人の関係を説くそれぞれの章句を探せば、自ずと意味がわかるようになります。
 聖書に限らず本を読むとき、一冊のなかで前後に戻りながら関係性を見つけてゆき、それらを綜合して言わんとすることを導き出す行為も必要になります。そうした作業を経てこそ、その本が自分にとって大切な一冊へ深化するのではないでしょうか。聖書の場合はそうした前後のレファレンスが頻繁に行われることが多い、ということです。今回偶然にも、箴27にてそれを確認することができました。
 読書って愉しいですよね。

※「彼らはこう言うだろう。『一緒に来い。/待ち伏せして、血を流してやろう。/罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち/陰府のように、生きながらひと呑みにし/丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。/金目の物は何ひとつ見落とさず/奪った物で家をいっぱいにしよう。/我々と運命を共にせよ。/財布もひとつにしようではないか。』」



 オペラ映画『ばらの騎士』を観てきました。うっとり……。熱い溜め息が洩れる……。嗚呼、この最愛のオペラをこれまでわたくしは何度聴き、何度観たことであろう?
 今回の映画はティーレマンがバーデン・バーデン祝祭劇場で指揮した際のライヴ映画なのだけれど、あまりにそれがすばらしい舞台であったせいでか、却って気持ちがゆるみきってしまった。
 否、法悦に呑みこまれてその呪縛から解放されなかった、というた方が正確だ。事実、帰りに感想でも認めようか、と思って筆を執っても文章の体を成さず、結局メモ程度にしかならなかった。
 でも、映像も音楽も鮮明に記憶に残っている。雰囲気もまだ体のなかに染みついている。<酔う>とはこういう感覚かもしれない。この酔いが覚めきらぬ内に第一稿を仕上げてしまおう。
 ついでに、今回の『ばらの騎士』ではこれまでにない思いを弄びつつ鑑賞した、ということも付け加えておこう。
 ……Ich muss jetzt was reden,und mir verschlagt's die Red'.(わたしは物をいわなくてはならないのに、そのための言葉が出てこない)~《ばらの騎士》第3幕より。◆

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第0899日目 〈箴言第26章:〈夏の雪、刈り入れ時の雨のように〉with4月、WOWOWにて放送される『カティンの森』について、いま述べておきたいこと。〉 [箴言]

 箴言第26章です。

 箴26:1-28〈夏の雪、刈り入れ時の雨のように〉
 世にはびこる怠け者、愚か者の所行について述べ立てられ、彼らと如何に接し、どうあしらえば良いかのヒントが提供される章。
 愚か者に名誉を与えることは、人が服に着られて歩いているようなものだ。愚か者が口にすることわざは薬にもならない。怠け者は詭弁を弄し、厄介事には首を突っこみたがるが自分がその巻き添えを喰らうのは嫌がる。
 外見と心は裏腹だ。美しく着飾っても心は暗く、唇の言葉は清らかでも心の内では執念が蜷局を巻く。が、どれだけ思っている事、考えている事を慎重に隠蔽しても、それはやがて必ずや公衆の面前で露見する。
 「陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く。」(箴26:22)そうして、「うそをつく舌は憎んで人を砕き/滑らかな舌はつまずきを作る」(箴26:28)のだ。

 「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。/彼よりも愚か者の方がまだ希望が持てる。」(箴26:12)
 「怠け者は自分を賢者だと思い込む/聡明な答えのできる人七人にもまさって。」(箴26:16)

 「上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。」(箴26:25)

 ○みな様がどうかは知らないけれど、読んでいると、ふと、過去に出会った誰彼、或いは現在出会っている誰彼の顔や言動を思い起こすときがある。もしくは自身の過去であったりね。箴26もそんな一つだ。
 「箴言」の場合、基本的に自分の琴線へ引っかかった文言に着目するよりないので、本来のテーマから逸れるケースもあったりするけれど、却ってそれが「箴言」の言葉の一つ一つに歩を休めて目を注ぎ、結果的に「箴言」を(一応きちんと)読ませる事になっているのであろう。この数日静かに考えて、そう思う事にした。
 経験からいえば、そんな風にして自分の側へ引き寄せたり重ねたりして読んだときの方が、ノートはすっきりとまとまるような気がする。後から読み返すとふしぎとそういうときのノートの方が、思った事をストレートな形で言葉に移し替えられているようなのだ。……今日のノートもそうだといいな、と思うております。



 <カティン事件>。大戦初期、旧ソ連軍が不可侵条約を結んだナチス・ドイツと共にポーランドへ侵攻。捕虜となったポーランド軍将校たちをソ連領内のカティンという街の郊外に広がる森で秘かに虐殺された事件である。この事件をポーランドの名匠アンジェイ・ワイダ監督が映画化(2007)、日本でも『カティンの森』と題されてミニシアター系列で順次公開された(2009)。
 この『カティンの森』が来月、WOWOWで放送される。実はさんさんか、これを未見なのである。原作本を読んで「絶対観に行こう!」と意気込んでいたにもかかわらず、岩波ホールへ足を運ぶ事もままならぬ状況ゆえ観ることは適わなかった。取り挙げるブログも少ないことだろうから、敢えてここで書いているのだが、映画専門チャンネルでもなかなか放送の機会のないこの作品がWOWOWで観られるのは、わたくしのような映画ファンには僥倖である。
 原作小説の作者はアンジェイ・ムラルチク、訳者は工藤幸雄/久山宏一(集英社文庫)。申し添えれば、長くポーランド文学を訳してきた工藤にとって本書が最後の翻訳となった。読んだときの印象を思い起こせば、漂う厳粛な空気のなかで紡がれる、堅実な人間描写としっとりした会話が非常に魅力的であった。
 これについては良い機会であるから、「箴言」が終わったあとで書評を起こすつもりでいるが、史実を基にした作品だからとていたずらに資料に立脚するのでもなく、一個の生きた歴史小説として━━ほぼ生まれたてのやや文学味のかったエンタテインメント小説として、たっぷりと楽しめる内容になっている。このあたりの呼吸は作者がシナリオ・ライターであることもじゅうぶん関係しているのであろう。少なくともわたくしは、これを真剣かつ興奮しつつ、深い満足を持って読了した者である。
 原作を読み、映画を観た後で、なにかを考えてくれればいい、わずか数秒であっても。慌ただしい日常のなか、ちょっと立ち止まって過去について思いを巡らす時間を作るのって、とても大切なことだと思う。<カティン事件>は決して対岸の火事でも、自分たちとは無縁な外国で起こった昔の話ではない。◆

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第0898日目 〈箴言第25章:〈ソロモンの箴言(補遺)〉with LOVE&PIECE!〉 [箴言]

 箴言第25章です。

 箴25:1-28〈ソロモンの箴言(補遺)〉
 箴29まで補遺。これらはソロモン王没して約200年後に即位した南王国ユダの王ヒゼキヤの周辺にいる人々によって筆写された由。ヒゼキヤ王は偶像崇拝の蔓延した国内を清め、主への信仰を回復した人である。御代の記録は列下18-20、代下29-32にあり、また「イザヤ書」は王の傍にいた預言者イザヤの預言書で、ここにもヒゼキヤの御代の記録がある。

 時宜にかなって語られる言葉は金のリンゴに等しく、聞き分けられる耳へ与えられる賢い懲らしめは純金の飾りに等しい。渇いた喉を潤す冷たい水や遠い地からもたらされる良き便りはうれしいものだ。
 何事も過ぎれば苦しみでしかなく、栄華を求める心が過ぎればそのゆえに栄華は失われる。それがこの世の理(ことわり)。

 「自分のことについて友人と争うのはよいが/他人の秘密を漏らしてはならない。/それを聞いた人があなたを恥に落とし/あなたの悪評は去らないであろう。」(箴25:9-10)

 「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。/渇いているなら水を飲ませよ。/こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。/そして主があなたに報いられる。」(箴25:21-22)

 ○かつてヒゼキヤ王は、ユダを再び主の求めに叶った国家とするため、事績で語られたように信仰を回復させた。その御代に「箴言」が筆写された、ということは既にソロモン王の語った格言/箴言が一書にまとめられていたが、度重なる主の目に悪と映る行為に走る諸王の政策のなかで散逸しつつあったのかもしれません。
 事実はどうかわかりませんが、曾孫にあたるヨシヤ王の御代に律法が発見されて民の前で朗読された、という出来事を併せると、そんな推測も現実味を伴ってくる気が致します。「ヒゼキヤはユダの全土にこのように行い、自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った。彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。」(代下31:20-21)



 社会人の2ヶ月って短いな。さんさんかは昨日を以て急遽ヘルプで担当した職場を去りました。来月から新しいクライアントへ移ります。
 波多野睦美(Ms)=つのだたかし(Lute)による英国ルネサンス歌曲集を聴きながら、ぼんやり過ごす休日。ダウランドやパーセルの音楽に出会わなかったら、この素敵なCDへ耳を傾けながらおぐゆーさんのことを思い出したりはしていないだろう。あれで良かったのかな。然り、良かったのだ。進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。
 LOVE&PIECE!◆

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第0896日目 〈箴言第23章:〈支配者と共に食卓に着いたなら〉with常に例外は存在する。〉 [箴言]

 箴言第23章です。

 箴23:1-35〈支配者と共に食卓に着いたなら〉
 自分の欲に忠実な者には、どんな諭しの言葉も正しい行いも無用の長物である。だから、若者を諭すのに手を控えてはならない。酒に溺れず女に靡かず、父があなたのゆえに楽しみを得られ、母があなたのゆえに喜び躍るように努めよ。
 「酒を見つめるな。/酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが/後になると、それは蛇のようにかみ/蝮の毒のように広がる。/目は異様なものを見/心に暴言をはき始める。/海の真ん中に横たわっているかのように/綱の端にぶら下がっているかのようになる。/『打たれたが痛くもない。/たたかれたが感じもしない。/酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。』」(箴23:31-35)
 ……これって、酒飲みへの戒め?

 ○━━箴23、この一言が心を奥まで抉る。曰く、
 「確かに未来はある/あなたの希望が断たれることはない。」(箴23:18)
 本当に、誰に対してもそうであれば良いのにね。
 まあ、わたくしは例外か。希望に背を向けられ、愛の一欠片もこの手に掬い取れぬ者。
 ……想い、希望は踏み潰されるんだもの!◆

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第0895日目 〈箴言第24章:〈悪者のことに心を燃やすな〉&〈賢人の言葉(二)〉with最初に受けた感動は永遠〉 [箴言]

 箴言第24章です。

 箴24:1-22〈悪者のことに心を燃やすな〉
 悪者が知恵や知識、英知、分別を求めぬ者を心にかけるな。奴らが倒れたり、つまずいたりしても「やった!」と思うてはならない。主は見ている、敵が倒れることを喜ぶあなたの心のなかを。神なる主の怒りは翻り、あなたへ及ぶ。
 何事であれ、報いはその人の行いに応じて返される。苦境に陥って先の展望も状況を打破する意欲も失(な)くしてしまったり、<死>の影に拿捕されて死神の姿を垣間見ている仲間を見棄てようとしていたりしても、それらについて弁解の言葉を連ねても無駄だ。あなたの心へ眼差しを注ぎ、審判する方はすべてを知っている。あなたの行いに応じて報いは返されるのだ。

 「魂にとって知恵は美味だと知れ。/それを見いだすなら、確かに未来はある。/あなたの希望が絶たれることはない。」(箴24:14)

 箴24:23-34〈賢人の言葉(二)〉
 別の賢人の曰く、━━
 正義を為せ、その上にぞ祝福の来たる。「外ではあなたの仕事を準備し、畑を整え/それから家を築くがよい。」(箴24:27)
 この賢人は或るとき、怠け者のぶどう畑のそばを通りかかった。そうして、観察した。そのぶどう畑は荒れ果てて薊(あざみ)によって覆い尽くされていた。石垣も崩れ果てている。観察の末、かの賢人は諭しを得た。即ち、「貧乏は盗賊のように/欠乏は盾を取る者のように襲う」(箴24:34)と。

 ○〈賢人の言葉(二)〉は〈賢人の言葉(一)〉の補遺、或いはそれを補強する役割を持った箇所です。補遺、補強の役割を担うがために、賢人の観察した結果が述べられる。言葉でどれだけ諭しても、一事が万事、百聞は一見に如かず、ということでしょうか。
 一方で箴24:1-22は因果応報を述べた箇所、弱者を切り捨てた者はやがて裁かれる、ということを端的に述べた箇所であります。わたくしなぞはこのあたりの物言いに非道く肝胆寒からしむるものを感じるのですが、読者諸兄は如何でありましょうか。
 自分の犯した責められるべき行為にどれだけ言い訳をしようとも、人目を避けて道に背く行いを成そうとしていても、見るべき者はちゃんと見ているのです。これは、実社会でも同じことがいえると思います。



 10代に読んでおくべき海外小説(長編部門・英米編)はなにか? 先日の酒の席での話だったが、アルコールが残った頭でそれなりに真面目に考えた結果、以下のような暫定的なベスト8が出た。もっとも、ベストとはいうものの、どれもこれもほぼ同率1位の作品のためにあまり意味がないベストではあるのですけれど、まぁ、取り敢えず、━━
 1:『グレート・ギャツビー』(F.スコット・フィッツジェラルド)
 2:『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー)
 3:『嵐が丘』(エミリ・ブロンテ)
 4:『指輪物語』(J.R.R.トールキン)
 5:『夢の丘』(アーサー・マッケン)
 6:『日の名残り』(カズオ・イシグロ)
 7:『そして誰もいなくなった』(アガサ・クリスティ)
 8:『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』(J.マキナニー)
 このリストを顧みて思うのは、結局、(カズオ・イシグロを除いて)自分が10代のときに読んで以来、ずっと心のなかにあり続けていまなおその魅力を失うことなく存在している、現在でもときどき読み返すことのある作品が並んだな、という事実。やはり、あの時分に読んだもの、自分のなかに養分として取りこんだものは永遠に残る、ということなのかもしれません。最初に受けた感動は永遠のもの、とはよくいうたものであります。
 みなさんも暇な折など、こんなベストを作ってみることをお奨めします。◆

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第0894日目 〈箴言第22章:〈名誉は多くの富よりも望ましく〉&〈賢人の言葉(一)〉withラヴクラフト『狂気の山脈にて』映画化? マジで??〉 [箴言]

 箴言第22章です。

 箴22:1-26〈名誉は多くの富よりも望ましく〉
 弱い者に施しを与え、悪を自分の道から遠ざける人は祝福を授けられた人。その人の唇から出る言葉には品位がある。品位と名誉は如何なる財産よりも価値があり、また、主を畏れて身を低くする人には自ずと富みも名誉も、命さえも従(つ)いてくる。茨と罠が前を塞ぐ曲がった道には近寄ることがなく、それがために自分の魂をも守るのだ。
 「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。/年老いてもそこからそれることがないであろう。」(箴22:6)
 「若者の心には無知がつきもの。/これを遠ざけるのは諭しの無知。」(箴22:15)

 箴22:17-29〈賢人の言葉(一)〉
 諸人よ、わが言葉を聞き、その腹へ納めて唇に備えよ。やがて、あなたが主に信頼を置く者となるように。
 悪に染まった者とはわずかの関わりも持つな。奴らとの結び付きは身を滅ぼす原因となるから。先祖からの嗣業を変更したり、踏みにじったりしてはならない。誰かの負債の保証もしてはならない。その行いは道の果ての滅びに至るから。
 「弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして。/貧しい人を城門で踏みにじってはならない。/主は彼らに代わって争い/彼らの命を奪う者の命を、奪われるであろう。」(箴22:22-23)
 ※ここから箴24:22まで〈賢人の言葉(一)〉。

 ○前章、箴21と対を成す章。神に逆らう者や悪へ欲望を注ぐ者、欺く者や怠け者の姿を、言葉を連ねて執拗に炙り出した箴21に対して、神に従い悪から離れて道を歩む者、正直で勤勉、慈善に励む人の姿が、言葉を重ねて書き連ねられている箴22である。(箴10から始まった)「ソロモンの格言集」第二巻もいよいよ終着に近附いてきたことを予感させる章でもあろう。
 読んでいて非常に心清められる。まずはここだけ読んでいてもじゅうぶんに足りるだけの内容に満つ、と述べてよいと思う。
 一方で箴22:17から始まる〈賢人の言葉〉は、これまで「ソロモンの格言集」で語られた箴言を踏まえて展開される内容、という感想を持っている。もう少し言葉は明快であろうか。明日から2日間、〈賢人の言葉〉を読んでゆこう。



 余談ながら、H.P.ラヴクラフトの長編『狂気の山脈にて』が映画化されるらしい。昨日、スタバで雨宿りする前に寄った書店に平積みされていた、これの新訳(!?)・単行本の帯でその一報を知った。
 なんでも、ジェームズ・キャメロンが製作に関与しているとか……やれやれ、どんな腐抜けた映画になることやら。間違っても3Dをウリにするような勘違い映画にはしてくれるなよ?◆

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第0893日目 〈箴言第21章:〈主の御手にあって王の心は水路のよう。〉with雨宿りしたスタバで『悪霊』を読む。〉 [箴言]

 箴言第21章です。

 箴21:1-31〈主の御手にあって王の心は水路のよう。〉
 神の目に悪と映る行いに励み、その道を踏み外している者について、多くの諫めの言葉が費やされる。「目覚めへの道から迷い出た者は死霊の集いに入る。」(箴21:16)
 その言葉は手を変え品を変えて、神に逆らう者や悪へ欲望を注ぐ者、欺く者や怠け者の姿を炙り出してゆく。これらは概ね過去にも触れられてきた事柄だが、改めて彼らに対する言葉がこうして列記されたのを読むと、イスラエルの神、旧約聖書の神が、如何なる出自であろうとも、そこへ正邪の境界を明確に引いており、その視座から公正に扱っているのがわかってくる。うーむ、ブレがないから却って清々しいな!
 ただ、そのなかにあって、次に引く文言はわずかなりとも救われた気分と安堵の気分をわれら読者にもたらしてくれるのではないか。曰く、━━
 「歩む道が曲がったりそれたりしても/清く正しい行いをする人がある。」(箴21:8)

 「怠け者は自分の欲望に殺される。/彼の手が働くことを拒むからだ。/欲望は絶えることなく欲し続ける。」(箴21:25-26)

 ○<曲がった道を歩む者=父の諭しに耳を傾けず、人を欺き、神に逆らう者=やがて滅びに至ることを決められた者>という公式がこれまではあった。むしろ、それがお馴染みの展開であり、お約束にもなっていた。
 が、実はそうではないらしい、と昨日、遅まきながら気附いたのである。これまでもそれを窺わせる文言はあったにもかかわらず。え、これまでもあった、だって? 然り、あったのである。たとえば、「人間の心は自分の道を計画する。/主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴16:9)━━昨日読んだ「人の一歩一歩を定めるのは主である」(箴20:24)というのと非常に近しいメッセージではないか。
 神なる主の教え、或いは父の教えから逸脱するような行いをする者のなかにも神の目に正しいと映ることをする者がいる、という一種の福音が伝えられるのは、必ずしも善でばかりはいられない人間にとって救いといわずしてなんというのか。
 それはきっと、一見道を踏み外して悪行を尽くすように見える者にも善の心はあり、父や母を蔑ろにすることの後ろめたさや人を欺くことに幾許かと雖も躊躇いを感じるだけの人間らしい心を持っているのだ、という証しであろう。こうした人間は最後、裁かれるのかな、それとも、贖われるのかな……。ぼくは一体どちらなんだろう?



 銀行で用を済ませて中古レコード店を覗いた帰り、遂に訪れたじゃんじゃん降りの雨を避けてスターバックスへ避難。奥の席でコーヒーを飲みながら、ドストエフスキー『悪霊』を読む。前回とは異なって、ぐいぐい引きずりこまれてゆく。ページを繰る手が止まらなくなる、さりながら時間の都合で今日はここまで。それがなんと勇気のいることか!◆

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第0892日目 〈箴言第20章:〈酒は不遜、強い酒は騒ぎ。〉withもう暗闇のなかに独りぼっちはいやなのだ。〉 [箴言]

 箴言第20章です。

 箴20:1-30〈酒は不遜、強い酒は騒ぎ。〉
 これまで幾度となく、主の教え/言葉に従う人は完全で正しい道を歩む、と「箴言」はわれらに諭してきた。それこそが、自らが備えた知恵や分別によってもたらされた、自分で選んだ正しい行いである、と。
 が、実はそういうことでは(必ずしも)なかったらしい。箴20:24はそんな、一種の思い違いに冷水を浴びせかける。曰く、━━
 「人の一歩一歩を定めるのは主である。/人は自らの道について何を理解していようか。」(前掲)
━━と。これは諫めか、戒めか。思いあがるな、わが嗣業の民の者たちよ、という?
 公正なる裁きを行う王とて主の僕、主の慈しみとまことが王を守り、その玉座をも守るのだ。「賢い王は神に逆らう者を選び出し/彼らの上に車輪を引き回す。」(箴20:26)
 ……旧約聖書の神は残酷である。また、残酷であるがゆえに自分の選んだ者は相手が背かない限り、いつまでも愛で続ける。最近はチト忘れがちであった聖書の神、主の本性を思い出させる章、ともいえようか、この箴20は。

 「思い計らいは人の心の中の深い水。/英知ある人はそれをくみ出す。」(箴20:5)

 「眠りを愛するな、貧しくならぬために。/目を見開いていれば、パンに飽き足りる。」(箴20:13)

 「力は若者の栄光。/白髪は老人の尊厳。」(箴20:29)

 ○昨日の最後にちょっと匂わせたのは、こういうことなのです。
 道は正しくあろうとも、根本にあるのは主への信仰。子は父の諭しに従い、その言葉に耳を傾け、知恵を獲得し、分別を身に付けた。父のことも母のことも蔑ろにしない。あとは知恵と分別、諭しを胸に刻んで、正しい道を━━悪の誘いに心奪われて歩んできた道を外れないようにせよ。が、それはすべて主が定めたことなのである━━正しい道を行くか否か、主が計らって然るべき一歩を歩ませる。ゆえに「人は自らの道について何を理解していよう」という言葉がここで現れるのだ、とさんさんかは考えております。
 最後まで引用するかを迷って切り捨てた文言に、こういうのがありました。曰く、「親友と呼ぶ相手は多いが/信用できる相手を誰が見出せよう」(箴20:6)と。隣り近所だけでなく学校でも会社でも上辺だけの付き合いが横行して、中身のなにもない人間関係が幅を利かせる歪な時代にこそ相応しい言葉のように、思えませんか?


 外出も挫けさせる重苦しい雨が降っている。小説を書く手を休めて外を眺める。聖誕祭の夜の別れが想像から現実へと一気に魂を引き戻す。もう暗闇のなかに独りきりは耐えられないんだ。◆

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第0891日目 〈箴言第19章:〈貧乏でも、完全なる道を歩む人は〉withあなたに囁いてほしい、わたしはここにいる、と。〉 [箴言]

 箴言第19章です。

 箴19:1-29〈貧乏でも、完全なる道を歩む人は〉
 ━━マタ5:3に於いて、イエスは自分に従う弟子を前にして斯く説教する、所謂<山上の説教>であるが、そこに曰く、「心の貧しい人は幸いである、/天の国はその人たちのものである」と。非常に有名な言葉であるが、その源は箴19:1であろうか。箴19では貧しくとも正しい道を迷うことなく歩み、偽りとも無縁である人が讃えられている。まさしく、「心を得た人は自分の魂を愛する」(箴19:8)のだ。
 併せて、欲望が身を滅ぼしかつ恥の原因になる、と警告する。それゆえに貧しい人は欲望に忠実で欺く者よりはるかに幸せである、というのだ。「主を畏れれば命を得る。/満ち足りて眠りにつき/災難に襲われることはない。」(箴19:23)……真、真。

 「成功する人は忍耐する人。/背きを赦すことは人に輝きをそえる。」(箴19:11)

 「怠惰は人を深い眠りに落とす。/怠けていれば飢える。/戒めを守る人は魂を守る。/自分の道を侮る者は死ぬ。
 弱者を憐れむ人は主に貸す人。/その行いは必ず報いられる。」(箴19:15-17)

 「父に暴力を振るい、母を追い出す者は/辱めと嘲りをもたらす子。/(中略)/不遜な者に対しては罰が準備され/愚か者の背には鞭打ちが待っている。」(箴19:26,29)



 ○読んでいて、ビシビシ、と自分の胸に突き刺さる章でした。ああ、こういうことってあるよな、ここで語られることってわが身に覚えもあるし、こんなことをすればここに書かれているとおりに世間様から後ろ指を指されて陰で非道くいわれるんだろうな、と思いあたる節が、結構ある。
 「箴言」って、実は怖い。ふだん意識しないようにしていること、隠しておきたいことを、短な言葉で白日の下に曝された気分になる(ときどき)。が、それは即ち普遍の事柄であり、古来から洋の東西を問わずに人間が社会生活を営む上で経験してきた、避けようのない思いであり、経験であった、ということだ。
 ちょっと感受性の強い、或いは自意識過剰な人が読むと、「箴言」の言葉は自分に宛てられた言葉のように感じられるときがある。まるでダザイの小説のように? うーん、まぁ、そうかもしれないね。……でも、予想外に深く突き刺さって思わずわが身の振り、わが思考を顧みさせるだけの影響はあるかもしれない。人の振り見て我が振り直せ、っていう諺を想起させるのだが、これはわたくしさんさんかだけかな?
 「箴言」の言葉を読んで少しでも感じるところが持ち、あめ玉を転がすようにその言葉を口のなかで転がして、折に触れてその言葉について体験と自戒をこめて考え直してみたら、心根の正しい人に一歩でも近附けるのかな、と最近は考えておるのであります。難しいかもしれないけれど……。
 さて。ノートの最初で、正しい道を歩む人が讃えられる、と書きました。何度も語られてきたことです。次の箴20では、それについて少し違った角度から捉えた言葉が、わたくしたちの目を引きます。が、これについてはまた明日のお話と致しましょう。



 想いはまだ生きている、息を続けている。
 まだ、生きている。
 囁いてほしい、わたしはここにいる、と。◆

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第0890日目 〈箴言第18章:〈離反する者は自分の欲望のみ追求する者〉with “We're livin' in the future.”〉 [箴言]

 箴言第18章です。

 箴18:1-24〈離反する者は自分の欲望のみ追求する者〉
 愚か者の唇が良い方へ実を結ぶことはない。それは暴力を招き、罠を巡らせ、破滅へ誘う。愚か者の魂は自らの言葉が張り巡らせた罠に自身を堕としめる。心の驕りが破滅を招き寄せるのだ。
 主の御名は力の塔、主は堅固な岩。神に従う人はみな走り寄る。そうして、高みへ掲げられる。
 「人の霊は病にも耐える力があるが/沈みこんだ霊を誰が支えることができよう。」(箴18:14)
 聡明な心は知識を獲得し、知恵ある耳は知識を求めて止まない。賄賂の意味合いを含まぬ贈り物をする人の前途は開け、貴人の前に列せられる。
 「人の口の言葉は深い水。/知恵の源から大河のように流れ出る。」(箴18:4)

 「死も生も舌の力に支配される。/舌を愛する者はその実りを食らう。」(箴18:21)

 「妻を得るものは恵みを得る。/主に喜び迎えられる。」(箴18:22)

 ○自らの言葉が破滅を招く━━これを実感し得ぬ人がどれだけいるでしょう。少なくとも、社会生活を営む経験をしている人であれば、老若男女が身に覚えあり、首肯するところ大きいはずです。この箴18はそれを改めてわれらの前に突きつけてくる章であります。
 些細な言葉の行き違い、誤解が良好であった人間関係にひびを入れることがある。それが修復不可能なまま永劫の別れを迎える、そんな悲劇を果たして誰が求めましょう? ほんのわずかなきっかけさえ得ようとしても得られない。それを求める感情があまりに過ぎると、態度もぎこちなくなり、却って余計な火種を蒔きかねない。
 言葉は人間関係を作り、支え、つなげる唯一のツールだ。これを欠いた人間関係、もっと拡大していうならこの社会全体は、どれだけ殺伐とし、荒涼としたものになるのであろう。ささくれだってやさぐれた、殺意と敵意に満ちた世界になるのだろう。━━だからこそ、言葉の恐ろしさ、不完全さをわれらは肝に銘じておくべきかもしれない。
 これを書きながら、さっきからずっとたった一人の人物の顔が思い浮かんでいる。もうなにも喋ることがないまま別れの日を迎えることになるのだろうか?
 言葉は希望、想いは信仰。カードの裏と表。明日へつながるこの、すぐに儚く消えてゆく瞬間の果てにあるたったひとつの縁(よすが)。希望と未来を託そう、再び<そのとき>が訪れる、と。



 わたくしはいまからそれ程昔でもない時代、自宅での火事を経験しました。そのとき、一瞬にしてそれまであった日常が、脆く崩れ落ちて永劫に失われたのを知りました。二度と立ち直れないような心想いに捕らわれました。それでも立ちあがらなければならなかった。ブルース・スプリングスティーンの『ザ・ライジング』をいうアルバムを聴いて勇気をもらった。
 東北高校が春の選抜のために甲子園へ出発、さっそく練習を開始した。被災地の方々が東北高校、否、自分の県の代表校の活躍を観戦して、復興のための勇気と力をもらってくれればいい、と願ってやまない。かつてのわたくしがそうであったように、自分を奮い立たせる希望は、必ず与えられる。
 Don't worry Darlin',
 now baby don't you fret
 We're livin' in the future.
 (心配するな、ダーリン、/いいかい、ベイビー、思い悩むな/俺たちは未来に住んでいる。)
 ━━from Bruce Springsteen“Livin' In The Future”◆

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第0889日目 〈箴言第17章:〈乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば〉withサリンジャー『ライ麦畑』再読志望。〉 [箴言]

 箴言第17章です。

 箴17:1-28〈乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば〉
 正直であれ、偽りを求めるな。正直であることは祝福、偽りは滅び。「悪をもって善に報いるなら/家から災難は絶えない。」(箴17:13)
 神に逆らう人は悪の唇、偽りの言葉にしか耳を傾けることがなく、やがては友情を裂き、他人(ひと)から賄賂を贈られて断らずに仕舞いこみ、遂には公正なる裁きをねじ曲げる。当座はそれでもよいだろう、が、それは必ず破れを招き、滅びへ導く。
 正直で知恵ある者は口数を費やさない。沈黙は金。とはいえ、無知かつ愚かな者も黙っていれば賢く、聡明に思われる場合がある。

 「どのようなときにも、友を愛すれば/苦難のときの兄弟が生まれる。」(箴17:17)

 「喜びを抱く心はからだを養うが/霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」(箴17:22)

 ○本章では<心>について語られます。言葉は心の思いが形になったもの。多弁は労多くして実をもたらさない。それゆえ愚か者も過大評価されるときがあるけれど、口を開けば馬脚を現す。いまの社会にもいますよね、たくさん。職業や年齢を問わず。
 それにしても、箴17:1「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば」とは、心をあたたかくさせてくれる、優しい言葉ですね。こんな言葉に出会うと、ほっ、とします。



 いまよりずっと若い年齢のときに読んで、ずっしりと心の奥底に居坐ってそれを意識させる作品がある。一方で当然のことながら、読んだけれどさっぱり記憶から内容が抜け落ちてしまっている作品もある。近頃は、読んだことだけ覚えていて他はなにも記憶にない作品の再読を志したい、と、よく考える。
 J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』もその一つ。再読にも相応の時期がある。それは承知だ。サリンジャーはその最右翼である。が、この再読作業を通じて、自分の心のなかにまだ『ライ麦畑』をダイレクトに受け止められる感性があるか、なによりそれを確かめたい。勢いに任せて読み落としたり、あまり考えの行き届かなかった部分について、眼差しを注いでみたいのだ。別のいい方をすれば、それらにいまの自分が気附けるか、という一種の挑戦でもある。
 サリンジャーについては以前挙げた『ナイン・ストーリーズ』とこの『ライ麦畑』だけで充分だと思うている。だからこそ、いま再びの読書を志すのだ。◆

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第0888日目 〈箴言第16章:〈人間は心構えをする。〉with芸能人のブログの訴求力について……でも、こっちだって負けないもん。〉 [箴言]

 箴言第16章です。

 箴16:1-33〈人間は心構えをする。〉
 正しい道を選び、歩む者は主に喜ばれ、祝福される。主に喜ばれる道を歩む人は主により敵と和解することが出来る。主を畏れれば悪を避けられる。
 王━━就中、上に立つ者の唇は正しいことを語り、裁きに於いても主により与えられた公正な天秤と袋の錘(おもり)石のゆえに誤ることはない。王の怒りは死の使い、それをなだめるのは知恵ある人、分別のある人(ex;ダビデ王と預言者ナタン。サム下11-12)。王の顔の輝きは命を輝かせる。
 知恵と分別を得ることは金銀を得るにも優る。心に知恵ある人は聡明な人であり、知恵ある言葉は他への説得力を増す。何事にも目覚めている人は恵みを得られる。
 また、ならず者は災いの炉であり、その口から出る言葉は燃えさかり、悪行を果たす。それによって友なる人をも惑わして、正しく歩んできた道を踏み外させる。
 正しい人の頭を飾る白髪は冠である。長き人生によって培われた忍耐は暴力にも優る。己が心を自制する力は、戦によって一つの街を占領するにも匹敵する。

 「正しい人の道は悪を避けて通っている。/魂を守る者はその道を守る。」(箴16:17)

 「貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り品を分け合うよりよい。」(箴16:19)

 「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となる。」(箴16:25)

 ○正しい人とそうでない者。それを分ける基準として<知恵>と<分別>がこれまで挙げられてきました。が、ここに至って思うのです、貧しい人々(弱者に分類される人々、支援を必要とする人々)とどれだけ歩を共にして心を添わせられるか、という点にこそ、その基準を求められるのではないか、と。それを示唆するのが引用した箴16:19である。
 悪の側にいる者は搾取する側にある者。むろんそう単純な話ではありませんが、概ねそう分類できると思います。いずれにせよ、彼らが貧なる者と共にいて彼らの心に添うて行動できるとは俄に想像しがたい。<貧しい人々>に歩調を合わせ、手を差し伸べ、共にいることを約束できるのは、いうなれば、神の目に正しいと映ることを、その道を踏み外すことなく歩く人々のみでありましょう。そんな風に、わたくしは考えるのであります。
 「人間は心構えをする」(箴16:1)……そう、そうなんですよね!



 (一部の)芸能人って凄いな、と思う。ブログの一言、ブログの更新が読者に勇気と希望を与える。確実にそのブログを読む人が何百人といるからこその訴求力だ。
 でも、一般人のブログだって、かの地にいる人たちの支えになることが出来る。そう信じて、わたくしはこのブログを毎日更新し続けます。◆

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第0887日目 〈箴言第15章:〈柔らかな応答は憤りを静め〉withもし、タイム・トラヴェルが出来たなら……〉 [箴言]

 箴言第15章です。

 箴15:1-33〈柔らかな応答は憤りを静め〉
 心をほがらかにし、喜ばせるのは、正しい人の唇から零れ落ちる言葉である。それは憤りを鎮め、癒しをもたらす。彼/彼女には知恵がある。英知がある。それによって歩みを正し、道を求めて道を見出す。彼/彼女の前に道は開かれている。
 が、愚か者の道は塞がれている、茨によって。愚か者は諭しを厭うて道を捨てる。彼/彼女の心は定まることがなく、その口からは怒りや恨みを買う言葉が吐かれる。彼/彼女の一生は貧しく、煩いに満ち、喜びの光は一条も照り注がない。
 「諭しをなおざりにするものは魂を無視する者。/懲らしめに聞き従う人は心を得る。」(箴15:32)

 「心に喜びを抱けば顔は明るくなり/心に痛みがあれば霊は沈みこむ。」(箴15:13)

 ○ここで書き記したこと、また引用した文言すべてにいえることですが、特に箴15:13で述べられることは、誰にしも覚えがあるのではないか。喜びがあるとき、憂いがあるとき、人間ってふしぎとそうなるんですよね。こんな小さなところに真実と思える言葉、極東の島国に住むわれらにも無条件で理解できる/共感できる/身に覚えのある言葉が潜んでいるから、「箴言」を読むのは面白い。
 さすがにここまで格言が並べ立てられると、わたくしのように毎日1章ずつ、一行ずつ読み進める方法を採っている身からすればときには砂を噛むような思いを抱くこともありますが、これはあくまで聖書を初めて読み通そうと企てた者が絶対通らねばならぬ(茨の?)道。いまこの通読作業、ノートを取る作業が終われば、後日、或いは何年後かに再び「箴言」を読むときに非常にスムーズに読書も理解も進むはず。そのときのために、いまこうして毎日読んでいます。
 そんな最中に、斯様な言葉をふとした拍子に発見し、下線を引いたりノートに書き写したりするのは、とても楽しくて魂の内奥で沸々と、静かに感じる歓喜を覚える瞬間です。



 タイム・トラヴェルを扱った小説、或いはそれについて思いを馳せるとき、自分がいま時間旅行者となれたなら、いつの時代にいちばん行ってみたいか、と考えることがある。自分ならいつの時代を選ぶか? 個人的な思いに囚われず趣味にまつわる範囲で考えるなら、なにはさておいてもカラヤンの演奏会に行ってみたい。殊に1989年4月、生前最後の演奏会となったVPOとのブルックナー交響曲第7番を聴きたい。
 これを実際に自分の耳で聞くことが叶ったなら、大袈裟な物言いで毎度済まないが、もう自分の人生、このあとは余生に等しい。その日、ムジークフェライン・ザールで鳴り響いた崇高ともいうべきブルックナーをこの衰えつつある耳で聴き、潤いを欠きつつあるこの心で感じられたなら、他になにをこの人生に━━少なくとも音楽に関して求めることがあるというのか?◆

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第0886日目 〈箴言第14章:〈知恵ある女は家庭を築く。〉with『悪霊』の再読を仕切り直そう、という建設的計画について、端的に述べるのだ。〉 [箴言]

 箴言第14章です。

 箴14:1-35〈知恵ある女は家庭を築く。〉
 知恵ある人はそれによって自分を守り、自分の道を見分ける。貧しい人を憐れみ、悪を避ける。
 神に逆らう者の家は断絶し、正しい人の天幕は繁栄する。主を畏れれば頼るべき砦が得られ、子孫のための避けどころを得る。
 愚か者の無知は欺き、欺きは裏切り。罪を耕せば必ず迷い、善人の前に悪人は身を低くする。
 「真実の証人は魂を救い/欺きの発言をする者は裏切る。」(箴14:25)

 「知恵ある女は家庭を築く。/無知な女は自分の手でそれを壊す。」(箴14:1)

 「魂の苦しみを知るのは自分の心。/その喜びにも他人はあずからない。」(箴14:10)

 「笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終わることもある。」(箴14:13)

 「穏やかな心は肉体を生かし/激情は骨を腐らせる。」(箴14:30)

 「神に逆らう者は災いのときに退けられる。/神に従う人は死のときにも避けどころを得る。」(箴14:32)

 ○心の琴線に触れるような文言と出会うと、心が震えます。それが例えすぐには理解できないものであっても、なんだか気になって何度も読み返したり、胸のなかで転がしていると、或るとき、ふっ、と理解が及ぶ場合もある。━━引用もした箴14:10と13はその好例。なんとなく、だが来し方を回想して、そういえばわが身、わが思いに思い当たる節はあるなぁ、と考えるのです。
 喜びが悲しみに終わる(箴14:13)、なんて、まさしく<恋の始まり>と<恋の終わり>ですよね。昨年はしあわせだったのに、請われて戻った途端の冷戦状態はなんなのだ……?
 それに箴14:10もなにやら、さんさんかという人物を端的に表現しているような文言で、思わず溜め息を吐(つ)いちゃいます。苦しみや悩みがあっても、それをいうのに憚りを感じてなにもいえずにいる性格の人って、いるんですよね。ほら、ここに。ね? 厄介ですよ、こんな性格の主がこの世を渡ってゆくのは。だからこそ、誰かそばに一緒にいてくれる人が必要なんだ。



 勇んで再読を始めたドストエフスキー『悪霊』。が、てんやわんやで読み進めずにいる。仕方ないから機を見て仕切り直しを計るつもりです。憂い事を抱えていても、前に進むのだ。放棄なんて、しないからね?◆

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第0885日目 〈箴言第13章:〈子は父の諭しによって知恵を得る。〉with“come on,rise up”〉 [箴言]

 箴言第13章です。

 箴13:1-25〈子は父の諭しによって知恵を得る。〉
 思慮分別によって自分の言葉を慎む者は自分の命を守る者でもある。それは諭しと戒めを受け入れたことによる祝福だ。一方で、諭しをなおざりにし、戒めの言葉に背を向けて欺く者は自ずと貧しくなり、災いに遭い、そうして滅びる。
 財産について。それは時により自分へ課せられる身代金となる。第11節にいう、財産は吐く息よりもはやく減ってゆくが、手を以て集めれば増やすことができる、と。斯くして善人は子々孫々に至るまで嗣業を残す。一方で、罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。

 「怠け者は欲望をもっても何も得られず/勤勉な人は望めば豊かに満たされる。」(箴13:4)

 「(希望を)待ち続けるだけでは心が病む。/かなえられた望みは命の木。」(箴13:12)

 「言葉を侮る者は滅ぼされ/戒めを敬う者は報われる。」(箴13:13)

 「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。/子を愛する人は熱心に諭しを与える。」(箴13:24)

 ○本ブログが「箴言」に入って2週間になります。ノートを取っていて、さすがにその散漫さに空しさを感じてときどき、この作業を放棄しようか、とか、いっそのこと全文を引いてお茶を濁そうか、など、そんな考えが脳裏を過ぎることがあります。それをしないのは、そうすると他の聖書関連の一部のブログと同じものでしかなくなり、「箴言」を読んでいて自分の心のド真ん中に投げこまれたような文言と出会うことができるから。
 とはいえ、文句なしなストライク・ボール級の文言と遭遇するのは稀です。そんななか、箴13と次の箴14はそうした<言葉>と出会えた章でもあった。他の章を霞ませる程ではないけれど、自分の来し方と現在(いま)を見直させるにはじゅうぶんな内容でした。
 特に引用もした箴13:12(「〔希望を〕待ち続けるだけでは心が病む。/かなえられた望みは命の木。」)は、深い溜め息をつくと同時に大きく首肯するのであります。
 待ち続けるだけでは駄目なんだ、行動を起こそう。でも、最初の一歩がどうしても踏み出せない……。sigh.



 いつの日か再び音楽を楽しめるようになりますように。
 いつの日か再び物語を楽しめるようになりますように。
 いつの日か必ずあの人と再会できますように。
 いつの日か必ず結ばれますように。
 いつの日かきっと同じ思いを共有できるようになりますように。
 いつの日かきっと再び立ち上がれるようになりますように。
 さあ、前に進もう。◆

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第0884日目 〈箴言第12章:〈諭しを愛する人は知識を愛する。〉with心からの「ありがとう」を捧げます!〉 [箴言]

 箴言第12章です。

 箴12:1-28〈諭しを愛する人は知識を愛する。〉
 善き人は主へ忠実を尽くし、正義を旨としてその根は揺るがず、苦難から救い出される。そうでない者は心がいじけており、虚言を吐く唇を厭われ、その生涯は怠惰と災難に満ちている。
 「悪を耕す者の心には裏切りがある。/平和を勧める人の心には喜びがある。」(箴12:20)
 有能で聡明な妻は夫の誇り、勤勉な人は人類の貴い財産、また、思慮深い人は軽蔑されても隠して耐える。

 「人は手の働きに応じて報いられる。」(箴12:14)

 「真実を語る唇はいつまでも確かなもの。/うそをつく舌は一瞬。」(箴12:19)

 ○有能で聡明な妻! 嗚呼、ぼくもこういう人とめぐり逢いたかった!! このあたり、『枕草子』を思い出しますね。清少納言もそうであったであろうけれど、確か彼女自身、この随筆のなかで同じように有能で聡明な奥さんを家庭に置いておける旦那さんは絶対尊敬される、なんていうのがあったように記憶します。家庭に置いておける、とはいっても、これ、あくまで平安時代の話ですからね? 申すまでもありませんが、念のためにお断りしておきます。
 だけれど、軽蔑されても耐える、なんて、社会人なら当たり前ですよね、思慮深くなくてもさ。それも出来ないでいきなりプッツンしたり暴れたり叫き散らすのは、そもそも人間としてどうか、と思います。品格とかいうレヴェルでなく、人間の質としてね。もっとも、言うだけ無駄な人、というのもこの世には確かにいますから……ふう、難しいね。



 宰相菅さん総スカン、とでも銘打って、12日に行われた福島原発への視察と視察終了までの作業中断要請、一時中断の影響によるのか第一原発の爆発について、とか、13日と14日(おそらく15日も?)の東京電力の情報錯綜と勇み足━━「明日の停電実施せず」と速報を流した直後に、各グループの停電実施予定時間をwebやTVで公開するのやめてくれ!━━について書こうか、と思うたのだが、やめておくことにした。
 どれも頭の悪くなる話で、こんな救いがたい程情けない人たち(枝野官房長官を除く。倒れないようにがんばって)について書くと、東北の地にあってこの困難を乗り切ろうと努力されている方々━━被災者のなかに読者がいた! とくろーさん、携帯からの「奇跡のような」コメントをありがとうございました!!━━を暗くさせるだけなので。怒りは或る程度の復興が果たされたあとに、かの居直り宰相にぶつけたって遅くない。
 地震発生の夜から、本ブログのエッセイ欄を使って被災地のみな様へ、わたくしなりにメッセージを発信してきました。が、これ以上の言葉は却って空々しくなるかもしれないし、これを読む人たちの心を知らずに逆撫でするかもしれない。なによりも、普通に、毎日更新してゆくことが、かの地に読者をもつこのブログの作者である自分に、いまできることかもしれない。そう考えて、明日から特段なんの変哲もない、いつもの内容に戻ります。くだらなかったり、箸にも棒にも引っかからないようなものだけど、こんなブログで一時の苦しみを忘れていただければ幸いです。
 でも、その前にこれだけいわせてください。被災地に赴いて作業に携わるすべてのボランティアの方々(特に大学生!)に、支援の手を差し伸べてくださっているすべての国の方々に、心からの「ありがとう」を!◆

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第0883日目 〈箴言第11章:〈偽りの天秤を主はいとい〉with輪番停電、明日実施。〉 [箴言]

 箴言第11章です。

 箴11:1-31〈偽りの天秤を主はいとい〉
 前半は、慈善について対比しつつ述べる。即ち、事前は神の道を正しく歩む者の行為であり、それは人を死から救い、苦難から助け出してくれる。神に逆らう者はその恩恵を被ることはなく、それに相応しい扱いを受ける。
 「正しい人は慈善によって自分を救い/裏切り者は自分の欲望の罠にかかる。/(中略)/神に従う人は苦難に陥っても助け出され/神に逆らう者が代わってそこに落とされる。」(箴11:6,8)
 後半は、それをもう少し敷衍した内容を語る。慈善と知恵は一体である。慈善を施す者は祝福され、また自ずと潤う。愚か者は知恵ある人に隷属し、悪が訪れてやがて倒れる。むろん、ここでいう慈善が無償にして無垢な行いであるのは断るまでもない。
 「神に従う人の望みは常に良い。/神に逆らう者の期待は怒りに終わる。」(箴11:23)
 「神に従う人がこの地上で報われるというなら/神に逆らう者、罪を犯す者が/報いを受けるのは当然だ。」(箴11:31)

 ○慈善とは即ち、<ノーブル・オブリージュ>であり、神に従う人の務め、義務である、というわけだ。
 多弁を費やすのは控えますが、地震の翌日にここを読んでいると、深く突き刺さって動かされるものがありますね。
 昨日一昨日と、被災地の方々宛ての文章を書きましたが、遅ればせながら、そうして改めて、みな様にお見舞い申しあげます。



 輪番停電が明日(今日ですか)、実行される由。神奈川県ではエリア毎に分けて、ほぼ3時間毎の停電となるそうだ。
 昼のみならず夜の時間帯にかけても行われるので生活に支障を来すのは事実だが、いまは非常事態である、われらは一時の不便を忍んで、こんなささやかな協力が東北の人たちの不安と寒さを解消できる一助になるよう祈ろう。
 どうだろう、われらは暗闇のなかでジュンパ・ラヒリの小説みたいに、ロウソクをはさんでこれまで心の底に秘めていた秘密について、語り合わないか?◆

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第0882日目 〈箴言第10章:〈ソロモンの格言集。〉with静かな故郷の街の丘で耳をそばだてる。〉 [箴言]

 箴言第10章です。

 箴10:1-32〈ソロモンの格言集。〉
 小見出しなし。箴10-24まで「ソロモンの格言集」第二巻。

 知恵ある者は分別を知り、人生の道を過たない。それは父の喜び。神から祝福を授けられる者。
 愚か者は罪を知り罰を受け、人生の道を誤ったことに気附かない。それは母の嘆き。神により破滅を授けられる者。
 神に従う人は勤勉で飢えず、正しい行いによって富を蓄え、慈善を施し、愛ゆえにすべての罪が覆われる。神に逆らう人は怠惰で意志が弱く、悪口をいい暴言に親しみ、地に住まいを得ず、つむじ風のように地上から消える。
 「完全な道を歩む人は安らかに歩む。/道を曲げれば知られずには済まない。」(箴10:9)
 「主を畏れれば長寿を得る。/主に逆らう者の人生は短い。/神に従う人は待ち望んで喜びを得る。/神に逆らう者は期待しても裏切られる。」(箴10:27-28)

 ○引用はしませんでしたが、「憎しみはいさかいを引き起こす。/愛はすべての罪を覆う。」(箴10:12)はよい文言だな、と感心しました。これって、とってもよいですよね。問答無用の真実であるな。
 他にもここにはノートの流れ上、引用できなかったものが幾つかあります。特別に許しを乞うて、3つ程ご紹介したいと思います。それらに曰く、━━
 「夏のうちに集めるのは成功をもたらす子。/刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子。」(箴10:5)
 「神に従う人の収入は生活を支えるため/神に逆らう者の稼ぎは罪のため。」(箴10:16)
 「人間を豊かにするのは主の祝福である。/人間が労苦しても何も加えることはできない。」(箴10:22)
━━こんなところであります。
 対比、というか、並行法を用いて、(イスラエルの神の徒である)人間の行動について簡潔な言葉で規定してゆくのが、この第二巻の特徴。読んでいて心地よいけれど、するするっ、と読み下せてしまうだけに、いま自分がなにを読んでいるのか、どこを読んでいるのか、わからなくなってしまう場合もある。だからこそ、丹念に読むことが必要なんだ。間違っているかな?



 街は静かだった。
 あれだけの惨事を目の当たりにしたら、勢い外へ出る気も削がれる、ということか。明日になれば状況も幾分か改善されるのだろうけれど、今日、故郷の街に人気はない。あってもまばらだ。
 MM地区は無人に等しく、ほぼゴーストタウン化している。IMは人足が絶えないけれど、ここだけがふだんとなんら変わらぬ世界を見せている。NGの丘にいまいるけれど、休館の決まった図書館の前にいて耳に届くのは、烏と鳩の鳴き声。腐敗と平和を告げる鳥類の鳴き声。それから、救急車のサイレン音、車のエンジン音。
 <荒廃した僕の街>“My City of Ruins”。現実になったらそんな文句ではとうていそれどころでは済まないだろう。東北の惨状を見て、そう思う。これはカウント・ダウンの始まりかもしれない、警告ではなく。
 しかし、国民がこのような形で意志と心が一つの方向を向き、アクションを起こすことは、滅多にない。斯様な形でそれが実現したのは皮肉かもしれないけど、これは或る意味に於いて希望である。われわれ日本国民はまだ壊れていない、国家という船に乗った呉越同舟の徒ではない。いまこそ、萎えた心を奮い立たせ、疲れた体を抱え起こして、隣の人と手を繋いで互いを勇気づけよう。いまこそ、人のぬくもりが必要なんだ。
 恐怖と不安の夜は過ぎた。希望と再生への朝が訪れた。みんなで第一歩を踏み出そう。爆発したのが原子炉の格納容器でなかったことが幸いだが、そうは雖も福島の原発の恐怖は拭えない。それに千葉の爆発事故もある。けれども、世界は既にスリーマイルとチェルノブイリを経験し、日本も東海村を経験している。そこから学び取ったノウハウを元手に、ぼくらは社会の再建を目指そう。前に進もう。それより道はない。◆

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第0880日目 〈箴言第9章:〈知恵の勧め(四)〉、〈格言集(二)〉&〈愚かな女〉with近所にある高台の公園で(一行俳話)。〉 [箴言]

 箴言第9章です。

 箴9:1-6〈知恵の勧め(四)〉
 <知恵>は家を建て、食卓を整え、賤女の口を借りて、<分別>と縁なき者を呼びこむ。食卓に並べられたのは、パンと酒。彼らが浅はかさを捨て、分別の道を歩み、まことの命を得るための、パンと酒。

 箴9:7-12〈格言集(二)〉
 不遜な者を諭したり、神に逆らう者を諫めても、求める結果は得られない。却って憎まれ、侮られるだけだ。
 ならば、知恵ある者をあなたは叱り、諫めよ。それによって彼は自分の知恵を増し、自分の言葉に説得力が増すのを知り、それゆえにあなたを愛すだろう。命ある日々も増え、その年月もまた同様に。
 「あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。/不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ。」(箴9:12)

 箴9:13-18〈愚かな女〉
 はした女がいる、騒々しいばかりで無知な、しかし男心をくすぐり誘惑する術にだけは長けた愚かな女が。彼奴は自分の道をまっすぐに歩む人に声をかけ、自分の家へ立ち寄るよう甘い声で囁く。そうして、手練手管を弄して、足を停めた意志の弱い男を奈落へ導く。
 「そこに死霊がいることを知る者はない。/彼女に招かれたものは深い陰府に落ちる。」(箴9:18)

 ○〈格言集(二)〉を読んでいて、ああ、これはなんとなく思い当たる節があるな、と以前の職場で出会うた誰彼の顔が、あれやこれやの特定の場面が、記憶の奥底から浮かびあがってきて、また消えました。
 誰でもこんな経験、ありますよね。地域であれ学校であれ会社であれ、集団生活を営んで自分とは育った環境もなにもかもが異なる第三者と付き合う以上(そうしてそのなかにいて出逢った異性と最も個人的な関係を築く以上)、多少の齟齬は避けられません。そんな人間関係を如何に穏便に、波風立てず、嫌われることも誤解されることもなく、過ごすことができればいちばんいいのでしょうけれど……。しかし実はさんさんか、それにまつわる憂いが多く━━いやいや、戯け者の繰り言になるのでやめておきましょう。
 また、〈知恵の勧め(四)〉では<知恵>の呼びこみ役を担った女が、〈愚かな女〉で再び登場する。が、それは<知恵>に使われることもなく、それと出会うことなく、無軌道かつ自堕落に生きる女としての登場だ。どれだけの玉を内に秘めていても、良き導き手と出会わなければ<俗>から<聖>への昇華は難しい、と暗に物語っているようである。箴7にて具体的に語られたことについての最終的な助言が、最後の〈愚かな女〉でされます。



 高台の公園で故郷の街の臨海部を眺めた。心の騒ぐ春。◆

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第0879日目 〈箴言第7章:〈父の諭し(九)〉with『悪霊』再読開始、ドストエフスキー作品の新訳について。〉 [箴言]

 箴言第7章です。

 箴7:1-27〈父の諭し(九)〉
 繰り返す、わが子よ、わたしの言葉を守り、戒めを心から離すな。それを心のなかの石板に刻んでおけ。知恵と分別に呼びかけよ。それがあなたを悪しき女から守ってくれる手段だ。
 ━━或る晩のこと、ぼんやり外を眺めていたら、路の向こうの家の玄関扉が開かれて、明るい光がその矩形から洩れた。そこへ見るからに意志の弱そうな男が現れて、ふらふらと、まるで光に吸い寄せられる蛾のように、ふらふらとその光の源へ歩み寄ってゆく。開かれた扉から一人の美しい女が姿を見せて彼を迎えるのが、わたしの目に映った。
 彼女は夫のある身だったが、その留守に乗じて彼を招いたのだった。淫靡と悪徳に彩られた夜、不義密通の夜、十戒で禁じられた禁忌が破られる夜(もとよりこの人妻に禁忌は無縁だ。われらが主の言葉と教えに背くことに馴れた女だから)。
 一時の肉の快楽の誘惑へ抗うこともできず、その意志の弱そうな男は、人妻の艶めく唇に誘われて、家のなかに姿を消した。路の向こうの家の玄関扉は閉じられた。彼はまるで屠殺場へ連れて行かれる雄牛のようだった。そうして彼自身は「自分の欲望の罠にかかったことを知らない。」(箴7:23)
 ━━繰り返す、わが子らよ、わたしの言葉を守り、戒めを心から離すな。それがあなたを悪しき女から守ってくれる手段なのだから。

 「あなたの心を彼女の道に通わすな。/彼女の道に迷い込むな。/彼女は数多くの男を傷つけ倒し/殺された男の数はおびただしい。/彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る。」(箴7:25-27)

 ○これまで〈父の諭し〉で述べられてきた、身持ちの良くない女と付き合うな、という警告は観念的なものでしかなかった。本章は謂わば観念を具体的な描写を交えて語られた教訓譚である。字義のまま、素直に読み進めればよい。
 ノートのために若干筆の走ったことは些か反省しているが、読み返してみて文章や表現を改める必要は感じなかった。教訓譚のダイジェストなど意味がない。苦役に等しい。ならばそれの<核>を伝えることに腐心する方がよいではないか?
 不倫すること、禁忌を犯すこと。それが、道徳に背く行為であるのは事実です。でも、世の中にはよんどころない運命の作用により、それを選ぶよりない男と女もいる。それが宿命の恋である場合だって、この世にはある。多くを語るつもりはないけれど、そんな侘びしく哀しい恋もある、とだけは知っておいていただきたいと思います。
 むろん、箴言で語られるのはそんな宿命論とは無縁の、軽々しいものであるとは指摘するまでもないでしょう。


 キングの短編「エルーリアの修道女」を読み終えた。昨日のことだ。何度目だろうね、読み返すの? そんな次第で今日(昨日か)からドストエフスキーに戻った。勿論、『悪霊』(新潮文庫)である。
 ステパン氏の為人(ひととなり)を語る数十頁だけ読んでいても、なんだか心がはじけるような読書の喜び、想像の喜びを感じます。この小説が<アンプレザントネス>な小説であると既に知っているだけに、こうしたユーモア調の描写が愛おしくてならぬのです。
 さて、これから約半年ぐらいの付き合いになるのかな、じっくりゆっくり『悪霊』の世界を彷徨うとしましょう。
 ドストエフスキー絡みの話題をもう一つ。河出文庫の『白痴』を偶然から借りられて、ちょっと読み比べたりもしてみた。感想? 判断? 河出文庫版で再挑戦しようか、と悩んだりもしましたが、迷いを捨てて架蔵の(=殆ど最後のページにたどり着くことだけを目標に毎日携えていた)新潮文庫で再読してよかったな、というのが、正直な気持ち。
 概ね、というてよいかわからぬが、ドストエフスキー作品については光文社などで出ている新訳よりも、長く江湖に親しまれ人口に膾炙してきた新潮文庫の訳文の方が読みやすい日本語になっているようだ。これは、たとえばフランス文学のジュネやバタイユでも同じことがいえる、と思います。もっとも、プルーストについては光文社古典新訳文庫の方がしっくりと馴染むのですがね。
 これらを偏に訳者と読者の相性、という一言で片附けてよいか、迷うところであります。◆

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第0878日目 〈箴言第8章:〈知恵の勧め(三)〉withドゥダメル垣間見記〉 [箴言]

 箴言第8章です。

 箴8:1-36〈知恵の勧め(三)〉
 知恵と英知は天地創造より前に主により作られ、爾来地上に留まり、人々の行き交うなかに立ち、辻のあちこちに在ってみなへ呼びかけている。わたしを探し求めよ、わたしは公平と誠を述べ、邪や不正を説きはしない、と。
 わたしの道を守る者は幸いである。諭しに聞き従って知恵を得よ。ゆめ等閑(なおざり)にするな。
 「わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。/わたしを見失う者は魂をそこなう。/わたしを憎む者は死を愛する者。」(箴8:35-36)

 ○これまで知恵について既に多くのことが語られてきましたが、たぶん、この章がいちばんそれについて言葉を重ねて淡々と、が極めて明瞭かつ力強く訴えている章である、と感じられました。だからこそ、なのか、ノートもあっさり過ぎるぐらいに簡潔にまとまってしまったのかもしれません。
 この章については長めなこともあって、ともすると読み流してしまいがちになりかねませんけれど、時間を見つけてまたじっくり、腰を据えて一語一語噛みしめるようにして読み返したい、と思うております。
 なお、箴言第7章を飛ばしたことに他意はありません。さんさんかのミスです。明日、訂正します。



 ドゥダメルの映画を観た、と先に書きました。以前から書くつもりでいたドゥダメル関連の文章のあるのが、ずっと胸の隅っこでわだかまっていた。2009年初頭には書きあげてどこかで公開しよう、と考えていたが、時機を逸して今日に至ります。
 しかしながら今回こうしてドゥダメルの映画を新宿で観、数日後にクラシカ・ジャパンで2008年ザルツブルク音楽祭の映像を観たことで、ようやくその文章を認める最後のチャンスを得たようだ。よってここに「ドゥダメル垣間見記」と題して、記憶のフィルムを鮮明に洗い流してそれを綴り直そうと思います。

 わたくしは一度だけ、ドゥダメルを生で――およそ2メートル程離れた場所で見たことがある。2008年12月、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ヴェネズエラを率いて初来日を果たした東京国際フォーラム・ホールCに於ける公演の直後であった。わたくしはその日、公演後は楽屋通用口の前に立って一般者の侵入をやんわりとお断りする役目を、殆ど唐突に言いつかっていた。
 催事担当者がスタッフのわたくしへ指示して曰く、招聘事務所の人が同行していない限り、何人たりとも楽屋口へ通してはならぬ。が、それはあくまで原則であり、厳守しなければならぬことではない。それを件の催事担当者は理解していなかったらしい。ゆえにいらぬ諍いが後に発生した。
 というのも、さしたる混乱もなく時間が過ぎ、そろそろ勤務も終わろうというとき、扉を開けて薄暗闇の待機スペースへ姿を現したのは、紛うことなくヴェネズエラ大使館員2名に伴われた……嗚呼、前日(であった、と記憶する)にベートーヴェンのトリプル・コンチェルトで共演していたマルタ・アルゲリッチと、帰国していた小澤征爾氏であったのだっ!
 大使館員はわたくしに目配せして、頷いた。わたくしは、むろん承知しておりますどうぞお通りください、とジェスチャーした。要するに、右手を楽屋通用口の方へ差し伸ばしたのである。そのときであった、まるでタイミングを計ったかのように楽屋通用口が開き、――タオルを首から下げて顔を紅潮させたドゥダメルその人がひょっこり、顔を出したのだ!! かれらはそれぞれに抱擁を交わし、そうしてそのまま扉の向こうへ消えた。暗がりのなかで対面したせいか、ドゥダメルは映像から想像していた程には身長が高くないように感じた……小澤氏についても他についても。
 偶然とはいえ、わずか数十秒の奇跡をわたくしは体験したのだ……。この経験によってすっかり、わたくしのなかにドゥダメルの名前が寸分の誤りもなく刻印されたのであった。斯くしてビッグ3+2を見送り、業務終了。件の扉は施錠された。
 まあ、催事終了後のミーティング中に催事担当者から、<招聘事務所の人が同行していない>人たちを楽屋口へ通した事実について、凄まじい剣幕で罵られたよ。
 成る程。では大使館員もアルゲリッチも小澤氏も招聘事務所の誰かがそこにやってくるまで何分でも待たせておいてよかったというのですね、ではレシーバーであなたを呼べばすぐに招聘事務所の人へ話がつながり即効でそこの人が走ってきて待たせている間に不機嫌になっているであろう各氏に謝罪してわたくしにはお咎めなしで済んだと確約してくださるのですね、あなたは相手があなたとまったく格の違う人たちであることを理解しており誰であろうと自分の定めた原則は常に絶対でありすべて自分の決めたことが正しいと揺らぎなき自信をお持ちなのですね、と反駁した。その杓子定規な指示がいつでもどこでも罷り通るとお考えなのですか? とも。
 結局、問答は決裂し、わたくしは東京国際フォーラムに入るその会社でのスタッフ登録を抹消し、そこを去ることをその瞬間に決心した、既に担当が決まっていた数日後のバレエの催事を最後に。おぐゆーさんと会えなくなろうとも、もう二度と件の狐眼鏡女子(と事務所の責任者)の下で働くを潔しとせず、おぐゆーさんと永劫の別れになるのを覚悟して、2008年12月末日を以てわたくしはそこを去った。歌おう、感電する程の喜びをっ!!
 でも、ここで働いてよかったのは、数人の良き人らと出会え、シューベルトを好きになり、ドゥダメルを知ったことだ。結果的にそれが良かったのか、といえば、長い目で見ればきっと良かった、と思えるようになるだろう、としかいまは言い様がない。
 「ドゥダメル垣間見記」がちょっと変な方向へ行ってしまった。が、どうにも両方の事件がわたくしのなかでは断ちがたく並立しているのだ。済まない。

 結果的に去ったことは良かったのか? ああ、きっと良かったのだ。軽蔑が愛情を駆逐する前で。◆
2011年03月09日 01時13分
2013/05/16 17:43改訂

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第0877日目 〈箴言第6章:〈父の諭し(七)〉、〈格言集(一)〉&〈父の諭し(八)〉with『月に囚われた男』、WOWOWに登場!!〉 [箴言]

 箴言第6章です。

 箴6:1-5〈父の諭し(七)〉
 もしあなたが友人の保証人となって、そのために被害を被ることがあったなら、あなたは自分の命を手中に握る友人を責め立てよ。「狩人の罠を逃れるかもしかのように/鳥のように、自分を救い出せ。」(箴6:5)

 箴6:6-19〈格言集(一)〉
 「怠け者よ、いつまで横になっているのか。/いつ眠りから起き上がるのか。」(箴6:9)
 蟻を見習い、その道を見て知恵を得よ。蟻は寸暇を惜しまず勤労に励む。怠け者はこれに範を仰げ。
 ならず者や陰謀を企む者、諍いを煽動する者は或る日突然、災厄に見舞われて倒れるが、奴らを慰撫する者は誰もいない。
 「主の憎まれるものが六つある。/心からいとわれるものが七つある。/驕り高ぶる目、うそをつく舌/罪もない人の血を流す手/悪だくみを耕す心、悪事へと急いで走る足/欺いて発言する者、嘘をつく証人/兄弟の間に諍いを起こさせる者。」(箴6:16-19)
 ……6つ? 7つ?

 箴6:20-35〈父の諭し(八)〉
 わが子よ、父の戒めと母の教えを守り、身に引き結んで生きてゆけ。「戒めは灯、教えは光。/懲らしめや諭しは命の道。」(箴6:23)
 父と母の訓戒は、あなたを身持ちの悪い女から遠ざけてくれる。すこやかで純粋で心にくもりのない女性と引き合わせてくれる。
 異邦の女がどれだけ美しく男を蕩かす術に長けていたとしても、慕ってはならない。これを想ってはならない。殊に人の妻なる女と通い合うのは危険だ。それは罰を受けても仕方ない好意。
 「人妻と密通する者は意志力のない男。/身の破滅を求める者。/疫病と軽蔑に遭い、恥は決してそそがれない。/夫は嫉妬と怒りにかられ/ある日、彼に報復して容赦せず/どのような償いをも受け入れず/どれほど贈り物を積んでも受け取りはすまい。」(箴6:32-35)

 ○“兄弟の間に諍いを起こさせる者”なんて、あっていいと思いますがねぇ……。この世には諍いを起こして永劫に訣別した方がよい兄弟もいる。その方がすこぶる幸福で衛生的だ。さんさんかはそんな兄弟がこの世にあることを、知っています。
 それにしても〈父の諭し(八)〉では再び容赦のない言葉が並べられていますね。ノート「父と母の訓戒」云々は深く首肯するところでありますが、人妻との密通/不倫には後ろめたい部分があるので、賛同することも異を唱えることもできません。まぁ、確かにそうなんですけれどね、というところか。あれも青春の一コマとなりましたよ、互いに。
 いずれにせよ、古今東西、変わらぬ事実は、男は女によって身持ちを崩すことがある、ということだ。むろん、女性が男によって身持ちを崩す場合がある、というのもこの世には幾らでもある。「箴言」はそれを忘れているが、男子偏重の内容、主に男子へ宛てた箴言であってはそれも宜なるかな、というところでしょうか。
 そういえば、「怠け者よ、いつまで横になっているのか。/いつ眠りから起き上がるのか。」(箴6:9)とは、たしかシュルツ氏の『ピーナツ』で目にした記憶があります。それとも、関連書籍であったかな。休みの日に、再読も兼ねて確認してみましょう。



 昨年観たSF映画で特に心に残った作品に『月に囚われた男』があった。この、マイナーなジャンル映画がなんと今月末、WOWOWに登場することが発覚! これは当然録画しておかなくてはね!
 そんなことを呟いているさんさんかは仕事が終わったらどこにも寄り道しないで、先程まで『ブレードランナー』1982年劇場公開版をじっくり鑑賞しておりましたとさ。

 ねぇ、昔みたいに話そうよ?◆

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第0876日目 〈箴言第5章:〈父の諭し(六)〉with『ブレード・ランナー』全3ヴァージョン放送中……チェック!〉 [箴言]

 箴言第5章です。

 箴5:1-23〈父の諭し(六)〉
 よその女の唇はなめらかで蜜をしたたらせている。あなたはそれに心蕩けさせ、その女によろめくかもしれない。よその女とは即ち異邦の女。彼女は人生の道程について考えることもなく、自分の道を外れたことを知ることさえない。
 わが子よ、あなたは彼女に近寄ってはならぬ。「あなたの栄えを他人に/長寿を残酷なものに渡してはならない。/よその女があなたの力に飽き足りることを許すな。/異邦人の家を/あなたが労した実りで満たしてはならない。」(箴5:9-10)━━あなたが彼女へ近附いてわが身を滅ぼす前に、後悔しても取り返しの付かぬ事態に陥らない前に、あなたはわたしの言葉を刻み、従い、逸れたりしないように心身を引き締めよ。
 あなた自身の井戸から水を汲め、あなた自身の泉から湧く水を飲め、あなたの水の源は祝福されよ。
 「若いときからの妻に喜びを抱け。/彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。/いつまでもその乳房によって満ち足り/常にその愛に酔うがよい。/わが子よ/どうしてよその女に酔うことがあろう/異邦の女の胸を抱くことがあろう。」(箴5:18-20)

 「人の歩む道は主の御前にある。/その道を主はすべて計っておられる。/主に逆らう者は自分の悪の罪にかかり/自分の罪の網が彼を捕らえる。/諭しを受け入れることもなく/重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。」(箴5:21-23)

 ○箴2:16-19を参照せよ。
 ここには共感、首肯するところ大である。そのせいでか、引用箇所もふだんより多くなってしまった。まあ要するに、身持ちの正しい、心根のしっかりした女性と交際し、その女性からあなたの心を離してはなりませんよ、という内容です。
 本章は、最近いろいろと悩み、挙げ句に死者や在北欧の元カノにつらつら思いを返すこと度々なさんさんかには、溜め息混じりに来し方を嗟嘆させてくれる章でもあったのです。こちらはこんなに、ね、想っているのにさ……。ちきしょう、夢枕にも立ち現れやしない。
 でも、ここで語られるのは徹頭徹尾、誠でございますね。この章を読んでなんの引っ掛かりも感じぬ男性がいたら、それはおそらく永遠の伴侶と若いうちから巡り逢い、想いを重ねて離さずにきた男性に相違ありません。そして、その男性の想いを片時も疑うことも離れることもなくいられる女性も、本当にすばらしい方なのでありましょう。まさに<夫唱婦随>を具現した二人。……くぅ、おいらがそうなりたかったぜッ!
 でも、〈父の諭し〉って、少なくとも前半部分では女性にまつわる話題が多い。今も昔も、男と女がある限り、永劫に普遍の問題である、ということか……。



 『ブレード・ランナー』全3ヴァージョンがザ・シネマにて放送中。ソフト化済みだが、改めてチェックし、DVDに保存するとしましょう。◆

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第0875日目 〈箴言第4章:〈父の諭し(五)〉with止まらない、……が。〉 [箴言]

 箴言第4章です。

 箴4:1-27〈父の諭し(五)〉
 私の言葉は人生をしあわせに、憂いもなく暮らし、長生きして天寿を全うできる助けとなる言葉。ゆえに耳を傾けよ。私も私の父から言い聞かされてきたのだ、自分の与える言葉を忘れるな、知恵の初めとして知恵を獲得し、その知恵を捨てず分別を大切にせよ、と。
 知恵を備え、分別を保ち、誠を知るなら、あなたが正しい道から外れることはない。歩みはたじろぐことも躊躇うこともなく、躓いて転ぶこともないだろう。「諭しをとらえて放してはならない。/それを守れ、それはあなたの命だ。」(箴4:13)
 神に逆らう者、悪事を働く者の道は歩かず、避けて通れ。奴らは悪事を働かずには夜も寝られず、よろしくないパンを食べ、よろしくない酒を呑む。

 「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。/わたしの言うことに耳を向けよ。/見失うことなく、心に納めて守れ。/それらに到達する者にとって、それは命となり/全身を健康にする。/何を守るよりも、自分の心を守れ。/そこに命の源がある。/曲がった言葉をあなたの口から退け/ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。/目をまっすぐ前に注げ。/あなたに対しているものに/まなざしを正しく向けよ。/どう足を進めるかをよく計るなら/あなたの道は常に確かなものとなろう。/右にも左にも偏ってはならない。/悪から足を退けよ。」(箴4:20-27)

 ○読んで、「なんだか、いいな」と思わせられる章でした。
 なぜだかこの章を読み進み、読み返し、読み終えてノートを取るまでの間、引用した箴4:20-27の箇所を中心に、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を思い起こしていました。冒頭の一節、あの有名な語り━━ニックの父が、まだ年若く傷つきやすくもあった時分のニックに語ったというあの言葉に通ずるものがあるような気がしたからです。あれはとても短い一節でしたが、そこに内包された様々な意味や感情など考えてゆくと、箴4:20-27の言葉のようになるのではないか、と思うたのであります。
 教えて導いてくれる人、自分を律してくれる人がそばにいる人は、とてもしあわせだと思います。わたくしの場合、それは父であり祖父であり叔父であり、先輩であり友であり同じ釜の飯を食った仲間でした。いまは会うこともそれ程ない人々ですし、なかには生きて会うことのできぬ人もいますけれど、彼らと出会えて親しうさせてもらえたことに、心より感謝しております(この人たちと出会わなかったら、いま頃わたくしはどうなっていただろう。壁のなかや道の上で生活していたかもしれないよなぁ……)。
 箴4を読んで、そんな人々のこと、彼らとの思い出が、ふと、とりとめもなく記憶から甦ったのでした。



 止まらない、大好きって感情が。止まらない、キングの小説が。ところで、『悪霊』はいつから?◆

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第0874日目 〈箴言第3章:〈父の諭し(三)〉、〈知恵の勧め(二)〉&〈父の諭し(四)〉with『HAWAII FIVE-O』ってどうなんだ?〉 [箴言]

 箴言第3章です。

 箴3:1-12〈父の諭し(三)〉
 わが子よ、覚えておくとよい、知恵を知ることは主を知り初むこと。慈しみと誠をわが身、わが心から離れさせなければ、神を知る人に好意を持たれる。己の知恵に傲らず己の分別に頼らず、主の諭しを拒まず主の懲らしめを避けるな。「かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。」(箴3:12)
 「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。/わたしの戒めを心に納めよ。/そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。」(箴3:1-2)

 箴3:13-20〈知恵の勧め(二)〉
 知恵を知る人、英知を得た人はしあわせである。彼女(それ)は真珠よりも貴く如何なる財産にも優るからだ。それは長寿と平安を手に備えている。ゆめ手放すな。
 「彼女の道は喜ばしく/平和のうちにたどって行くことができる。/彼女をとらえる人には、命の木となり/保つ人は幸いを得る。」(箴3:17-18)

 箴3:21-35〈父の諭し(四)〉
 必要なのは、力と慎重さを保って見失うことのないようにすることだ。それによってあなたは確かな道を歩むことができる。恐れることも、眠られぬ夜を過ごすこともない。恐怖と破滅に怯えることもない。
 また、あなたにその力があるならば、いまを厭わずに友への善行を積め。彼に対して悪意を抱くな。あなたに対して悪事を働いていない限り、他人と理由なく争うてはならぬ。無法者と親しみ、道を共にするな。
 「主は不遜な者を嘲り/へりくだる人に恵みを賜る。/知恵ある人は名誉を嗣業として受け/愚か者は軽蔑を受ける。」(箴3:34-35)

 ○いよいよソロモン王の格言集━━「箴言」の真骨頂に、その麓へ差しかかったように思います。びんびんと、胸のうちに響いてきます。
 なんだかこれって、ホレイショ・ケインさま語録を想起させるところがある書物だな……と、考えないでもないのですね、実は。……すみません、おいらいま相当不遜な発言をしてしまいました。ごめんなさい、ホレイショさま。
 特に〈父の諭し(四)〉で語られる事柄には一々が頷けるのです。不眠症気味で夜の孤独と不安を友に過ごすことがあり、職場の同僚との距離の取り方に悩むことがあるさんさんかには。んー、まあ、どうでもいいか。



 WOWOWとAXNでホレイショさまを拝謁するたび歓喜の想いを覚える(言い過ぎですか?)わけですが、そのAXNで5月放送開始予定の『HAWAII FIVE-O』ってどうなんだ? 予告を観たり、国内外のTV雑誌で判断する限り、そこまで鳴り物入りでスタートする程ではないような気がしてねぇ……。
 なんだか『LOST』と『フラッシュフォワード』(祝、DVD化!!)が終わったあとはAXNも色褪せてしまっているよ。これから放送される新作でいま楽しみにしているのは『CSI:マイアミ』シーズン7と『Chase(仮題)』ぐらいだからね。いや、これって本音なんだよ。◆

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第0873日目 〈箴言第2章:〈父の諭し(二)〉with昨日のアカデミー賞授賞式を観て予定変更したのは、果たして正解だったようだ?〉 [箴言]

 箴言第2章です。

 箴2:1-22〈父の諭し(二)〉
 正しい人であるには、知恵と英知、分別を身に付けるのがよい。それを捜し求め、呼ばわれば、「あなたは主を畏れることを悟り/神を知ることに到達するであろう。」(箴2:5)
 知恵と英知、分別を備えていれば、あなたは悪の道に踏み入れることがなく、ならず者の奸計から自分を守ることができる。所詮、奴らはならず者、まっすぐな道を捨てて闇の道を歩む衆だ。
 ━━また同様に、分別ある者は異邦の女、身持ちの悪い女を遠くに避けられる。このふしだらな衆は本来あるべき伴侶を捨てて自分の本性に相応しい男へ走った衆、自分の神との契約を忘れ呆けた女だ。
 こんな女にあなたは引っ掛かり、喰い物にされ、腑抜けにされ、体よく扱われて放られる身分にまで自らを堕としめてはならない。分別を以て、自らを守れ。
 「彼女のもとに行く者は誰も戻って来ない。/命の道に帰りつくことはできない。」(箴2:19)

 「こうして/あなたは善人の道を行き/神に従う人の道を守ることができよう。/正しい人は地に住まいを得/無垢な人はそこに永らえる。/神に逆らう者は地から断たれ/欺く者はそこから引き抜かれる。」(箴2:20-22)

 ○ここで語られる事柄はいずれも真実であります。本章に於いて語られること、即ち心して知恵と分別を求めるならば、悪の道に染まることは決してない、ということです。
 洋の東西、今昔を問わず、<やっていいこと>と<やってはいけないこと>の線引きは明瞭であり確固としている。また、なぜ人の命を奪ってはならないのか、そんなことを改めて教えなければならない、教えても理解できない、理解できないから試してみる、という、モラル・ハザードが生み出した悪循環を時代の所為にするなど無責任にも程がある。
 善悪の区別がきちんとできるなら、どれだけ誘惑に捕らわれても、<やっていいこと>と<やってはいけないこと>のギリギリの境界線で踏み留まれるはずでありましょう。踏み留まるために必要なのが、知恵と分別なんだよ、そう第2章では教えてくれるのです。もう一つ、個人的に必要だな、と思うのは、想像力。これを除いて他にありましょうか?
 また、女性についての警告も然りであります。人は自分に相応しい異性を心より求め、伴侶とするのだ、と思います。谷崎潤一郎なら「魂の色が似ている」というでしょうか。なぜわたくしがああも激しく(と、指摘されました)斯様な女性を糾弾するかのような文章表現をしたのか、といえば、まさにそうした人と付き合った過去があるから。あれはまさしく<悪魔>であった……。いまは永劫に訣別できたことに感謝しています。



 お休み初日が雨降りとは哀しすぎる。が、昨日のアカデミー賞授賞式の様子を観ていて、予定変更したのは結果的によかったのかな……。
 実は今日、映画『英国王のスピーチ』を観に行くつもりでいたのだ。でも、既に新聞でも報道されているとおり、作品賞と脚本賞、主演男優賞と全部で4部門を制した作品である以上、映画の日である今日は殆どの映画館は混みあったことでしょうなぁ……。もう少し落ち着いたら、出掛けよう。
 まずはそれより先に、ドゥダメルだ! 朝9時過ぎからの上映なんて━━今宵は酒を断つッ!!◆

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