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第1187日目 〈哀歌第5章:〈第五の歌〉with明日はMET/ヴェルディ《仮面舞踏会》を観に行けるかなぁ。〉 [哀歌]

 哀歌第5章です。

 哀5:1-22〈第五の歌〉
 主よ、と、ユダの生き残りは自分たちが忘れかけていた神に語りかけ、祈る。主よ、わたしたちを立ち帰らせてください、あなたの御許へ。わたしたちに降りかかったこの災難へ目を留め、わたしたちへの嘲りに心を留めてください。
 われらの嗣業は他国民の嗣業となり、われらの家は他人の住居となった。親兄弟や伴侶も子もないユダの生き残りは、あてどなく遠近を彷徨う。以前は自分たちのものであった水や作物、資材も、いまでは相応の代価を支払わねばならなくなった。いまやわれらは行動を束縛された。休みなく労働が繰り返される。
 われらの父祖はその昔、自らの分を弁えずエジプトへ、アッシリアへ、その手を伸ばして驕った。いま子孫のわれらはその咎を負う。かつての奴隷がいまわれらを奴隷として使役する。処女や人妻は犯され、子供や若者はきつい肉体労働を課される。日々の暮らしからは楽しみが奪われ、若者の音楽は絶えた。踊りは喪の嘆きに取って代わった。
 「いかに災いなことか。/わたしたちは罪を犯したのだ。/それゆえ、心は病み/この有様に目はかすんでゆく。」(哀5:16-17)

 「主よ、御もとに立ち帰らせてください。/わたしたちは立ち帰ります。/わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」(哀5:21)

 いつまで、わたしたちを忘れていらっしゃるのですか?
 いつまで、斯様に果てなく見捨てておかれるのですか?

 沈鬱、悲痛な雰囲気のなかで「哀歌」は幕を閉じる。
 正直なところを申せば、この「哀歌」ほどノートを作り難かったものはない。先にも述べたように、「哀歌」は一種の変奏曲だ。一つの主題が技巧を駆使して変奏されてゆく。
 ――主よ、わたしたちを見舞ったこの災難に目を留め、わたしたちを救ってください。わたしたちはあなたに立ち帰ります。もうあなたを忘れません。そうしてわれらを苦しめるこの国に(われらのとき同様)災難を与えてください――
 これが巧みに表現を変えて5章にわたって繰り返される。劇的、といえば聞こえは良いけれど、それは裏を返せば、単調、という揶揄にもつながろう。
 わたくしの場合、クラシック音楽とのつながりから比較的退屈は感じなかったけれど、それでもあまりの一本調子にときどき溜め息を吐いた。一日一章という原則を放棄して、「哀歌」という書物だけでノートを構成させるべきであったかな、と嗟嘆したこともあった。いまだからこそいえますが、「哀歌」開始直前まで本気でそう考えていたのです。
 この書物への親近さという点で、キリスト者とそうでない者では想像以上に乖離したものがあるように思われてなりません。
 「哀歌」はタリスらの音楽あってこそ文学性とその悲劇的なる性格を保持できる、と、わたくしは信じて疑わぬ者であります。



 一晩経過して、風邪も少しばかり良くなってきたみたい。すこぶる安心。この調子なら明日は予定通り、先月METで上演されたヴェルディ《仮面舞踏会》の映画を観に行けそうだ。明日で上映終わりなんですよね。行けるかなぁ……。
 明後日からは同じくMETの《アイーダ》が上映予定。まったくもう、ヴェルディ・イヤーだからってさぁ。困っちゃうな、もう。序にいえば、2週間ほど上映してもらえると社会人には幸いなのですがね。
 いや、それにしても風邪気味のとき寝床で読むマッケンはなかなかの迫力ですね。夢にも見て魘されちゃいましたよ。読んだのは、平井呈一のマッケン集成で「生活の欠片」と「緑地帯」の二編。いや、腕が疲れたね。これを、シューベルトのD.960ピアノ・ソナタ第21番(遺作)とD.911、即ち《冬の旅》を繰り返し聴きながら、読んでいました。◆

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第1186日目 〈哀歌第4章:〈第四の歌〉with鋼のような神経を持つ俺?;墓参の帰り、村上春樹『国境の南、太陽の西』を読んでいて。〉 [哀歌]

 哀歌第4章です。

 哀4:1-22〈第四の歌(アルファベットによる詩)〉
 かつて輝いていた黄金はいまや光を失い、土の器と揶揄されるまでに堕ちた。都のあちこちには聖所の礎であった石が打ち棄てられている。
 敵の剣にかからず辛うじて生き延びた者は、身分の上下にかかわらず飢えに街を彷徨う。痩せ衰えたかれらの皮膚には皺が寄り、肉は殆ど失われて骨に付き、その姿はあたかも枯れ木の如く。飢饉が街を襲う以前は思慮深く、愛情深かった母親も、いまではわが子を煮炊きして食べるようになった。
 げに主の怒りは凄まじかった。怒りの炎は激しく燃え盛り、都の礎までも舐め尽くした。われらの敵が都の城門から堂々と入ってくるなど、いったい何人が想像したであろう?
 「剣に貫かれて死んだ者は/飢えに貫かれた者より幸いだ。」(哀4:9)
 われらが斯様に苦しめられるのは、エルサレムの預言者たちの罪、祭司たちの悪ゆえだ。エルサレム市中に正しく人々の血を流させたからだ。見よ、かれらが街のあちこちを彷徨っている。人々はかれらを指して罵倒する。国々はかれらを疎んじて忌み嫌う。嗚呼、主はその御顔をわれらから背け、再び目を留めようとしない。
 「町の広場を歩こうとしても/一歩一歩をうかがうものがある。/終わりの時が近づき、/わたしたちの日は落ちる。/まさに、終わりの時が来たのだ。/わたしたちに追い迫る者は/空を飛ぶ鷲よりも速く/山々にわたしたちを追い回し/荒れ野に待ち伏せる。」(哀4:18-19)
 ――エドムの地に住む者らよ、われらが落剥を見て喜び、祝うがよい。やがては汝らもわれらと同じ目に遭うだろう。「おとめシオンよ、悪事の赦されるときが来る。/再び捕囚となることはない。/娘エドムよ、罪の罰せられるときが来る。/お前の罪はことごとく暴かれる。」(哀4:22)

 「主の油注がれた者、わたしたちの命の息吹/その人が彼らの罠に捕らえられた。/異国民の中にあるときも、その人の影で/生き抜こうと頼みにした、その人が。」(哀4:20)

 ティンデル『エレミヤ書/哀歌』の著者R.K.ハリソンはゼデキヤ王を「悪王」と断じる。が、エレミヤ書を読んできたわたくしの目に映るゼデキヤは、むしろ、〈本音〉と〈建前〉の板挟みになった王だ。官僚の独走を抑えきれず、やむなく抗バビロニア政策を断行せざるを得なかった人物、歴史の流れと神の意向に添うことが出来なかった人物、と映るのだ。
 或るときは主からエレミヤを通じて、バビロンへ連れてゆかれても最期は讃えられて逝くことができる、と預言されたゼデキヤ(エレ34:4-5 第1147日目)。結局は正反対の末路を辿ることになるが、それでも捕囚としてかの地へ連行されたユダの民にとって、かれの存在は〈希望〉である。たとえ後世の歴史家、聖書学者がゼデキヤに負の評価を与えても、あの時代を生きたユダの人々にとってゼデキヤは自分たちの国を統治した、紛うことなき〈王〉だ。ダビデの血を受け継いで、黄昏のユダ王国の玉座に在った人物である。
 そんなゼデキヤを、見ず知らずの土地へ強制的に連れてゆかれたユダの人々がかれの存在を頼みとして生きてゆこう、と縋るのは、理にかなた心情ではあるまいか?
 さんさんかは、そう思うてならぬのであります……。
 明日の更新を以て「哀歌」は終わります。



 先日の大雪は神奈川県西部にその爪痕を残さなかったらしい。今日(昨日ですか)、母方の墓参に従って行って、そうと知った。倉庫在籍中にきちんとした転職先(否、就職先、というべきなのか)が見附かったこと、そこに骨を埋める覚悟も出来そうな良き企業であること、など、様々感謝の気持ちを伝えに行ったのです。
 大切ですよね、ご先祖様あってこそ、いまのわれらが――この汚濁末法の時代とはいえ――こうして生きていられる。父祖を蔑ろにする輩と知り合うにつけ、この人たちの神経はどうなっているんだろう、とつくづく疑念を感じてならぬさんさんかです。こうしたことをきちんと出来る伴侶を得られたら良いよね?
 山一つ越えたところにかの人の住まう町がある(いまでもそうなのかは知らないけれどネ)。そんなときに、村上春樹『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)を読んでいる、しかも、いちばん、ぐさり、と抉られる部分を読んでいる。想いはいろいろ去来し、諸々ほじくり返される記憶とどうにか折り合いをつけながら、じっと、風邪気味なのにさっさと帰宅すればいいのに、常連っぽクナっているらしいスターバックス2軒をハシゴして読んでいたのだから、いや、まったく神経が図太いものであります(「クナ」を片仮名とした点に、そのときiPodで聴いていた音楽をご想像いただきたい!)。
 なお、そのとき〈行きつけ・その6〉のSBで読んでいたのは、文庫でいえば下巻P229-262,第14章。家族も仕事もすべて捨てて、わたしを選ぶことが出来るの? わたしのすべてを、あなたの知らないわたしをすべて受け止めて一緒になる覚悟が、あなたにはあるの? ……そうして主人公と幼馴染みは箱根で窮極の一夜を共にして――朝の訪れが見事なまでの喪失がもたらす。そこから先は、ごめん、まだ読んでない。
 おお、わたくしの心情を、読者諸兄よ、お察しあれっ!!
 馴染みのクラブの、前田敦子似の女の子に一度いわれたことがあるんだけれど、傷口に塩を塗られる事態に直面していても超絶ベタ甘な小説や相思相愛の官能シーンを、嫌であっても巻を閉じることなく読み進めることの出来るのだから、いやぁ、おいらはけっこう鋼のような心を持っているのかもしれない、と、ふと思い出して倩納得することでありますよ。うむ。

 ――これを書きながら、坂本九を聴いていた。ぐしゅん、と泣けてきた。鼻水じゅるじゅる出るから、もう寝るわ。なんだか頭も朦朧としてきたし(風邪薬服用済み)。
 ぷん。◆

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第1185日目 〈哀歌第3章:〈第三の歌〉withTSUTAYAで借りたジャズが3枚、あったでな〉 [哀歌]

  哀歌第3章です。

 哀3:1-66〈第三の歌(アルファベットによる詩)〉
 異国バビロンの民のなかにあって、イスラエルは自分たちの神の信仰へ立ち帰る旨を表明する。それは宣言ではなく、吐露だ。捕囚の地でかれらは悔悛した。バビロンの川の畔でうたわれた歌と同じで、望郷と思慕、悔恨と信心の復活が思わず言葉となって唇をついて出たような、虚飾なき真実の想いであったか。
 望みなき敵地にて頼るものなきかれらの心に、主への畏怖、依り頼む想いが改めて起こり、より強きものへと新生するのは必然である。かれらの神はそれを見越していた。嗣業の民の共同体を、バビロニアを遣わして一旦は破壊させ、かの地へ捕囚となさしめたのは、神を敬い畏れてその道から外れないよう歩ませるための計画であった。
 「わたしの魂は平和を失い、/幸福を忘れた。/わたしは言う/『わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう』と。/苦渋と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを/決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈みこんでいても/再び心を励まし、なお待ち望む。/主の慈しみは決して絶えない。/主の憐れみは決して尽きない。/それは朝ごとに新たになる。/『あなたの真実はそれほど深い。/主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。/主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。」(哀3:17-25)
 「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。/主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。/人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。」(哀3:31-33)
 ――が、それでもかれらは、自分たちの神にバビロニア滅亡を願ってやまない……(哀3:58-66)。

 本文中にも記したように、これは捕囚となってバビロンへ連行、そこに住むこととなったユダの民が悔悛を謳った章です。それは「哀歌」にしては比較的長くなった引用箇所からも明らかでありましょう。
 わたしはあなたを想って、昼も夜も川のように涙を流しています。休むことなくその瞳から石のような涙を流しています。わたしの思いを、あなたを望む心を、どうか信じてください。わたしはあなたを待ち望みます。だから、わたしのところへ来てください。わたしはあなたに偽りなき愛を、代々にわたって捧げます。あなたの御心をわたしは信じます。
 読んでいて、詩137〈バビロンの流れのほとりに座り〉を想起させる一章でもありました。シオンを想ってわたしは泣いた、かれらはわたしにシオンの歌をうたえという、しかしなぜそんなことが出来ようか、異教の地で主のための歌をうたうなど?
 「鋼のように固く、絹のようにやわらかな信仰は、捕囚を経験することでより強く、信念に満ちたものとなった。逆境のときに抱く信仰程、心をたくましくするものはない。それが哀しみに裏打ちされたものであるなら尚更だ。」(第0839日目〈詩編第137篇:〈バビロンの流れのほとりに座り〉より)



 TSUTAYAで借りたジャズを聴いている。ウェザー・リポート『8:30』とチック・コリア『リターン・トゥ・フォーエヴァー』、ハービー・ハンコック『ヘッド・ハンターズ』。
 ようやく聴けた、という感慨と、教えてもらえてよかった、という感謝がわたくしの胸の奥から噴きあげる。なにを今更? ジャズについては幼稚園並みなのだから、勘弁しておくれ。
 ウェザー・リポートは雑誌に載っていた或る小説で知り、その素敵な扱われ方がまだ10代の中葉にいた自分にはとてもお洒落に思えたっけ。その小説については本ブログでずっと前に触れた覚えが……ある。いつだったっけ?
 チック・コリアとハービー・ハンコックは以前からジャケット写真は目にして記憶していたが、アーティストがわからず、そのまま何年も放置していたもの。過日にちょっと触れた牧野良幸氏の本に紹介されていたことで、ようやく(迷いなく)聴くことができた次第だ。
 この三枚、iPodに入れて、しばらくはヘヴィー・ローテーション状態になりそうです。
 そうそう、ヘヴィー・ローテーションといえば、……。◆

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第1184日目 〈哀歌第2章:〈第二の歌〉with雪の晩、風呂場で三途の川の夢を見る。〉 [哀歌]

 哀歌第2章です。

 哀2:1-22〈第二の歌(アルファベットによる詩)〉
 主はなぜ怒り、災いを与えるのか。なぜ卑しめ、辱めるのか。なぜわれらの目を頬を涙で飾るのか。それはわれらが罪をおかしたからだ。一向に反省もせず、主に立ち帰ることをしなかったからだ。
 主はむかしからの命令をここに実行した。それが容赦なき仕業であったため、われらは家も国も失ったのだ。主は「おとめシオンの天幕に/火のような怒りを注」(哀2:3)ぎ、真実の敵と化してイスラエル/ユダを圧倒、「おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深く」(哀2:5)したのだ。
 斯様にして主により導かれた敵は、主の名が置かれた町即ちエルサレムを占領した。かれら街中で勝利を叫ぶ。それは今日が、あたかもバビロニアの祭日であるかのような賑々しさであった――。
 希望は潰えた。ユダの長老は地に伏して黙し、砂塵に汚れ、粗布を纏っている。シオンの祭りは滅び、仮庵と園は荒廃し、民は安息日を忘れさせられた。幼な子は食べ物を母にねだってかなえられず、その腕のなかで息絶える。高位の者は捕囚となり、律法を説く者の声はない。われらを救い、導く預言者の声も然り。嗚呼、希望は潰えた。
 清らかなるおとめの堕落を知った者たちは、みな一様にかの女を嘲り、中傷し、囃し立てる。清らかなるおとめを襲って犯した者は、かの女を征服したことに満足し、空の下、あまねくそれを自慢する。これ見よがしに対立者へ吹聴し、見せつける。欺きに満足か?
 哀しみのおとめ、シオンよ、立つがいい。宵の入り口に、夜を徹して嘆きの声をあげるために。わたしたちの神よ、目を留めてください。あなたに背いて犯した罪のゆえ、わたしたちはこれ程までに懲らしめられています。

 「海のように深い痛手を負ったあなたを/誰が癒せよう。」(哀2:13)

 袂を分かて、ここへ来よ。こここそ、あなたにとって約束の地、安寧の地。待っている。

 哀2:14「預言者はあなたに託宣を与えたが/むなしい、偽りの言葉ばかりであった」。〈預言者〉はエレミヤではなく、かれを除く偽りの預言者たちを指している、と考えてよいように思います(ex;エレ37:19)。



 日本列島太平洋沿岸に爆弾低気圧襲来。交通機関は午後から混乱、携帯メールには首都圏のJR・私鉄の運行情報がばんばん入ってきた。いまは01月14日19時01分、雪の降りは昼に較べれば弱くなったけれど、この強風は明日昼まで続くんだってさ。やれやれ。
 さんさんかはずっと家に籠もり、コタツでぬくぬく。ミカンの筋を剥いては頬張っていましたよ……と書きたいけれど、世界は平和を許してくれなかった。
 夕方、必要が生じてアパートの階段と廊下に積もった雪を掻きに外へ出た。時間にして約40分。凍えました。終わって戻ってきたら玄関で思考停止。立ったまましばし黙想……していたら、風呂が沸いた。
 ああ、九死に一生を得るとはこんな感じか。つらつら湯船に浸かっていろいろ妄想していたら、ほわーん、としてきて。いつの間にやら目蓋が落ちていましたよ。そうして、夢を見た、ほんのわずか数十秒の間に。それは、リアルな夢だった、――
 濃霧のなかに雪が吹きつけている。体は揺らぎ、あたりでちゃぷちゃぷ音がする。どうやらわたくしは小舟に乗っているようだ。そういえば、背後で舵を操る音がしているな。ぎーっ、ぎーごごご、と。誰かいるんだろうけれど、振り向いて確かめることは出来なかった。それは、してはいけない行為のように思えた。
 やがて小舟は濃霧の晴れた岸辺の桟橋に横附けられ。桟橋にも、岸辺にも、誰の姿も見えなかった。でも、桟橋に立ってわたくしを見詰める人がいる。気配だ、そうとしか言い様のない。誰だろう? そう問う間もなく、耳のそばで懐かしい声が囁いた、「おかえり、やっと逢えたね」と。
 ――途端、さんさんかは浴槽のなかで、ずるっ、と滑り、夢から覚めたのでした。いやぁ、三途の川を見ちゃったな!◆

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第1183日目 〈哀歌第1章:〈第一の歌〉withシューベルト・ルネサンス、再び。〉 [哀歌]

 哀歌第1章です。

 哀1:1-22〈第一の歌(アルファベットによる詩)〉
 主の怒りによってエルサレムは傷付き、倒れた。シオンのおとめは貧苦に喘いで、苦役を課された。かれらは敵に捕らわれて、遠くの国へ引き連れられてゆく。異国民のなかでシオンが慰めを、やすらぎと憩いを得るのは、最早夢物語に等しかった。
 ユダが滅びてシオンが捕囚となったのは、主の口に背いたゆえのことだ。罪に罪を重ねて、悔い改めることがなかったからだ。シオンが犯した罪は拭いがたく、甚だ重かった。それがため、主は自分の名が置かれた都へ蛮族が侵入して、跋扈するのを許した。
 シオンが助けを求めて、友らへ手を伸ばす。が、その手を取る者はいない。却ってかれらは倒れたシオンを嘲笑う、かつて天の下にあまねくその栄光を知らしめたシオンがいまやこの様か、と。シオンが愛する者へ呼びかけても、誰も応えない。みながみな、シオンを裏切ったからだ。
 哀しみのシオンは慰めを、やすらぎと憩いを、そうして報復を望む。「聞いてください、わたしの呻きを。/慰めてくれる者はありません。/敵は皆、わたしの受けた災いを耳にして/あなたの仕打ちを喜んでいます。/彼らにも定めの日を来たらせ/わたしのような目に遭わせてください。/敵の悪事が御前に届きますように。/あなたの懲らしめを受けますように。/あなたに背いたわたしが/こんなにも懲らしめられたように。/わたしはこうして呻き続け/心は病に侵されています。」(哀1:21-22)
 が、それは得られず、与えられない。イスラエルを愛した神なる主からも……。

 「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。/彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。/友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。」(哀1:2)
 ――これは聖書全編のうちでも屈指の表現といえましょう。問答無用で魂を揺さぶられます。心ある方々よ、あなたはどうですか?

 「哀歌」は基本的にどの章も性格を同じうし、また内容に進展があるわけでもない。どの章を読んでも同じように思え、読んでいると退屈だ、という声も稀に仄聞いたします。確かにその通りであります。さんさんかもその意見に異論はありません。それに汲みすることになんの躊躇いも持ちません。いうてみれば、「哀歌」は一種の変奏曲であります。
 が、この「哀歌」が万人必読の一書、と申し上げてもよいように思います。言葉を誠実に重ねてゆくことで抑制の効いた表現を作りあげた作者の理性。一つ一つの言葉、表現の外へじわじわと哀しみを吐露してゆく作者の想いの激しさ。
 いずれを取っても、古代文学としてのみならず、今日まで連綿と続く世界文学の流れのなかでも特筆すべきものを持っている。宗教の別なく頭を垂れてそこから聞こえてくる声に耳を傾けて然るべきだ、とわたくしは思うのであります。



 ピヒト=アクセンフェルト弾くシューベルトのCDを購入。おお、シューベルトの季節の訪れぞ。覚えておいでか、モナミ?◆

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第1182日目 〈「哀歌」前夜with夜更けにムンクの真似をする。〉 [哀歌]

 ダビデ王朝の系譜を伝えるユダ王国は東の蛮族、カルデア人ネブカドネツァル王率いる新バビロニア帝国の前に為す術なく倒れた。ユダの街は壊滅し、エルサレムの都は陥落した。主が預言者を通じて与えたあらゆる警告を無視して、正しい道に立ち帰ることなく犯し続けた罪のゆえに。
 「哀歌」は王都滅亡を目撃した預言者エレミヤの作、といつの頃よりか伝承されてきました。そこへ込められた悲痛極まりない叫びが、〈哀しみの預言者〉エレミヤの嘆きに重なり、作者に仮託された。が、その後の研究により「哀歌」の作者はエレミヤでないことが判明しています。出自も身元も定かでない無名氏による、というのが実際のようです。
 しかし、とさんさんかは思うのであります。なによりも、古の人がこれをエレミヤ作としたところに、われらは往古の人々がそこへ託した想いを汲み、「哀歌」が孕んで後へ伝えんとした〈情(こころ)〉に想いを馳せるべきではないか、と。聖書学者でもキリスト者でもなく、ただ、聖書を一つの神話と歴史が混在する叙事詩として読み、就中この「哀歌」にしても一つの文学として読むことを希望する者として、そう思うのであります。
 「哀歌」は哀しみと悔恨の詩篇です。単純に「町が滅んだ」、「国がなくなった」というのではない。依り頼むべき存在、即ち主なる神を失ったイスラエルの嘆きが、全編を支配している。離散を経験し、自らが拠って立つところのアイデンティティを喪失したイスラエルの迷いが、怒りが、叫びが、恐れが、ここには漂っている。人心に訴えかける点では、かの「ヨブ記」に肉迫する、というてよいでしょう。
 全5章242編で構成された「哀歌」を読むと、古今の作曲家が腕によりをかけてこれに付曲した事実も、成る程宜なるかな、と納得させられることであります。タリスやパレストリーナ、ペルティなど、音盤で聴けるものは幾つもあります。「哀歌」を読んだ読者の何人かでもいい、店頭でもネットでも探して聴いていただけたら嬉しいな。さんさんかはそんな風に願っています。
 では、明日から5日間、「哀歌」を読んでゆきます。よろしくお付き合いください。



 おう、なんてこったい……。ショック・ラージ、ってこのことか、わが友よ?
 ――手持ち無沙汰になったので、iTunesのプレイリストをちょっこら弄(いじ)くっていたのね。そうしたらさ。なにかの拍子になにかをやっちゃったんだろうな、或るアーティストのファイルが半分ばかり消滅してさ。思わずムンクの「叫び」状態になっちまったぜ。デストローイ、って感じで。
 で、いまこれを書きながらディスク入れ直して読みこませて、一生懸命ファイルを復元中だ。あちこちに散らばっているCDを一箇所にまとめるいい機会なので、こんな手のかかる方法を採っている。負け惜しみ? ああ、若干な。でも、レンタルで済ませているアーティストでなくて、良かった。その点だけは胸を撫でおろしている。サンキー・サイ。
 サンキー・サイ、といえば、先日、キングの中編集『FULL DARK,NO STARS』からの翻訳第一弾、即ち『1922』が書店に並んだ(文春文庫)。収録作は、禁酒法時代のアメリカ片田舎で起こった殺人事件を回想する表題作「1922」、〈悪魔との契約〉をキング流に料理したスーパーナチュラルもの「公正な取引」の計二本。残りは追って刊行予定の由。
 一年の計はなんちゃらなんちゃら、というが、今年はキング・ファンにとって久々に翻訳ラッシュを味わえそうな幸せを感じている。そろそろケネディ暗殺を扱った長編も日本語で読めるのかな。『ダーク・タワー』シリーズの番外的長編『The Wind Through the Keyhole』の翻訳も、心待ちにしたいですね。中編よりちょい長めな同書はシリーズ第4.5作目、という位置附けになります。これは久しぶりにハードカバーで購入したキングの新刊本でした。
 嗚呼、悠長に村上春樹を読んでいる場合じゃないぜ?◆

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