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第1262日目 〈エゼキエル書第47,48章:〈嗣業の割り当て〉with「ダニエル書」、近日公開予定。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第47-48章です。

 エゼ47:13-23〈嗣業の割り当て〉1/2
 イスラエルの12部族に割り当てる嗣業の地と、イスラエルの国境について述べる。あなたたちはその日、その時に至ったら、わたしの指示を順守して配分せよ。
 まず、国境である。
 西境は大海の海岸線にあり、北端は旧フェニキアの某地、南端は「エジプトの川」の河口に置かれる。
 北境は旧フェニキアの某地を起点に東へ、レボ・ハマト、ツェダド、ハツァル、ティコンを結ぶ線で区切られる。
 東境はハウランとダマスコの間からキネレト湖、ヨルダン川、塩の海(東の海)に置かれる。
 南境はタマル、メリバを経て「エジプトの川」を結ぶ線で区切られる。
 ──あなたたちは二倍になった国土を各部族へ割り当てねばならない。
 また、あなたたちのなかに在って寄留し、配偶者など縁者になった外国人にも、嗣業としてイスラエルの土地を分け与えよ。寄留する部族の土地に、かれらの場所を嗣業として与えよ。

 エゼ48:1-35〈嗣業の割り当て〉2/2
 12部族へ与える土地は、北から南へ順番に、以下の通りである。即ち、──
 ・ダン族
 ・アシェル族
 ・ナフタリ族
 ・マナセ族
 ・エフライム族
 ・ルベン族
 ・ユダ族
 (献納地/聖域/エルサレム;エゼ45:1-9)
 ・ベニヤミン族
 ・シメオン族
 ・イサカル族
 ・ゼブルン族
 ・ガド族
 献納地について。「この最良の土地を譲り渡してはならない。それは主に属する聖なるものだからである。」(エゼ48:14)
 都の出口は四方向に三ヶ所ずつあり、いずれも長さは4,500アンマ。一つ一つの門は12部族の名に従って呼ばれる。北にはルベン、ユダ、レビの門が、東にはヨセフ、ベニヤミン、ダンの門が、南にはシメオン、イサカル、ゼブルンの門が、西にはガド、アシェル、ナフタリの門が、それぞれある。都は周囲18,000アンマ、都はその日から<主がそこにおられる>と呼ばれる。

 献納地を南北から挟む形で、ユダ族とベニヤミン族に土地が与えられます。かつての南王国ユダを構成する部族が斯様に聖域を擁す土地を守るようにして配されるのは、果たして主の意思が働いた結果か、それとも単なる偶然の所産か。面白い、と思うた。徳川時代の大名の配置にも似た周到さを、わたくしはここに感じます。外様大名のそばに譜代大名を置いて睨みを利かせ、要所とその守りに息のかかった者を置く。統治者の采配としては極めて理に適っております。洋の東西を問わず常套手段といえましょうか。
 「エゼキエル書」終盤に至って新しい神殿を幻に見せて測量へ同行させたり、「レビ記」で述べられた律法が再規定され、また、最後には「ヨシュア記」で見た土地の配分が(今度は外国人にもやや寛容になって)指示されました。これは、70年後エルサレムへ帰還するのがバビロンへ連行されて生き延びた捕囚たち、或いはその次の世代の人々だからであり、唯一人エゼキエルのみがかれらへ主の言葉(指示/律法)を伝えることが可能な立場にあるからです。
 かれが伝える神なる主の言葉は、やがて確実に実現する帰還へ向けての地均しだった。そうしてそれは、希望であり、約束である。──仄かにあたたかな光射す未来をそこへ見るのは、いったい間違っているでありましょうか?

 前々回の「エレミヤ書」とは意味合いが異なりますが、安堵と疲労の溜め息が洩れるのを禁じ得ません。
 長かった「エゼキエル書」は本日、本章を以て終わりです。ご愛読ありがとうございました。



 夕飯にオムレツを作ったのだけれど、タマネギ切りすぎちゃってね。どうしようか、と考えて、ブイヨン・ベースのスープを作りました。うん? そう、それだけの話です。
 「ダニエル書」はさほど日を開けずに開始する予定です。まだ途中までしか読めていませんが、この黙示文学、なかなか面白いですよ。そうか、預言書の流れのなかにあるから間違えやすいけれど、ダニエルって(イザヤ、エレミヤ、エゼキエルのような)預言者じゃなくて<幻視者>というた方が正しいのか。◆

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第1261日目 〈エゼキエル書第47章1/2:〈命の水〉with「エゼキエル書」ノート完了にあたって。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第47章1/2です。

 エゼ47:1-12〈命の水〉
 神殿に戻ったわたくしは、敷居の下から水があふれているのを目にした。それは神殿の南壁沿いに東の門から外へと、一つの流れを作っている。わたくしたちはそれに沿って東へ歩いた。わたくしは青銅の人にいわれて、1,000アンマごとに流れのなかへ体を浸してみた。水量が多くなるにつれて水深は深くなった。初めは踝までだったのが、終いには泳がなくてはならないぐらい程に。
 ようよう川岸へ連れ戻されたわたくしの目に、たくさんの樹木が川の両岸に生えている光景が映った。青銅の人曰く、この水は東の地域へと流れていって汚れた海へ注ぐ、すると水は綺麗になり海よりも多くの魚が住み、かつ、そこに集うあらゆる生き物を潤す、と。また曰く、漁師たちは投網して魚を捕ったり干したり、エン・ゲディからエン・エグライムへ至る塩の海西岸に於ける民の暮らしは豊かになる、と。が、沢と沼は綺麗にならず、塩が採れるばかりである、とも。
 「川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」(エゼ47:12)

 エン・エグライムは死海(塩の海)の北西沿岸にあった、とされ、現在のアイン・フェシュカがそれである由。
 エン・ゲディはそこから岸沿いに南へ約30キロ弱の位置にあり、荒れ野の続く付近一帯のオアシスであった、といわれています。ヨシュ15:62〈ユダ族の町〉にユダ族に与えられた土地の、荒れ野にある町の一つとして、また、サム上24:1〈エン・ゲディにおけるダビデとサウル〉ではサウルに追われるダビデが潜伏した町として、洞窟の外でサウルとダビデが邂逅した町として登場しておりました。それぞれ、第0199日目と第0294日目を併せてお読みいただけたら、嬉しいです。えへ。
 大いなる喜びにあふれた挿話ではありませんか。本章が、ティンデル『エゼキエル書』の著者J.B.テーラーが当該箇所で述べる「聖所における神の臨在から、土地の他の地域へと流れ出るであろう祝福を表現する象徴の、はっきりした実例」であり、「神の豊かな祝福の理想を表している」(P294)という言に、わたくしは一も二もなく賛成する者であります。他人の思考におんぶするようで恥ずかしく思いますが、ご勘弁ください。



 「エゼキエル書」の読書ノートは本挿話を以て完了しました。順番としては、嗣業地の分配が残っているけれど、こちらのノートは〈命の水〉以前に済ませてあるので、わたくしにとっての「エゼキエル書」読書は事実上、本挿話にて終わっておるわけであります。
 ようやく終わらせられた、という安堵があります。いやぁ、ここに至るまで、本当にとっても長かった!◆

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第1260日目 〈エゼキエル書第46章:〈祭りと献げ物〉2/2with三國連太郎さん逝去。この人のような、……〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第46章です。

 エゼ46:1-24〈祭りと献げ物〉2/2
 内庭の東の門について。仕事をする6日間は門を閉ざしておくこと。安息日と新月の日にこれを開け。そうして夕方まで開門しておく。この日、国の民は門の入り口で主へ礼拝せよ。定められた祝日に礼拝へ来たかれらは、北の門から入ったら南の門より出、南の門から入ったら北の門より出なくてはならない。
 君主は門の廊から入り、そこから出る。随意の献げ物があるとき、かれはいつの日であっても、神殿へ出入りできる。焼き尽くす献げ物、和解の献げ物の別なく、かれはそれを随意の献げ物としてささげることができる。君主は、祭司がそれを主へささげている間、門柱の傍らに立っていなくてはならない。かれがそこにいる間、東の門は開けておく。
 折々の献げ物については、――
 安息日には、焼き尽くす献げ物として無傷の小羊6匹と無傷の雄羊1匹を。穀物の献げ物として雄羊1匹につき麦粉1エファ、小羊についてはかれが望むだけの分量の麦粉を。麦粉1エファにつき油1ヒンを忘れずに。
 新月の日には、焼き尽くす献げ物として、いずれも無傷の雄牛の子1頭と小羊6匹、雄羊1匹を。穀物の献げ物として雄牛の子1頭、雄羊1頭につき、麦粉1エファ、小羊についてはそのとき可能なだけの分量を。麦粉1エファにつき油1ヒンを忘れずに。
 巡礼の祭りと定められた祝日には、穀物の献げ物として雄牛1頭、雄羊1匹につき麦粉1エファ、小羊についてはかれが望むだけの分量を。麦粉1エファにつき油1ヒンを忘れずに。
 朝ごとの献げ物には、焼き尽くす献げ物として無傷の1歳の小羊1匹と、穀物の献げ物として上等の小麦粉1/6エファと油1/3ヒンを。「これは、主にささげる穀物の献げ物であり、変わることのない永遠の掟である。(中略)これは、変わることのない朝ごとの焼き尽くす献げ物である。」(エゼ46:14-15)
――以上である。
 君主は自分の土地子供へ譲ることができる。それは子供の嗣業となる。家臣へ譲ることもできる。が、家臣は退職したら速やかに、その土地を返納しなくてはならない。君主の土地は代々にわたって君主とその子供のものである。
 神域に面した北向きの部屋(ex;エゼ42:13)の西隅には、祭司たちが賠償の献げ物と贖罪の献げ物を煮たり、穀物の献げ物を焼く場所がある。また、外庭の四隅は石壁で囲われ、そのなかに石垣で四囲を廻らされた場所がある。そこで神殿にて奉仕する者たちが民からささげられたいけにえを煮る。

 来たる回復の時代に向けた、律法の再規定そうして徹底。新しいエルサレムに於ける民の生活は、<主への揺るぎなき信頼>と<主の目に正しいと映ること>を中心に営まれる。
 非才ながら一言させていただければ、わたくしは、「エゼキエル書」の真の主題は第40章から始まる一連の律法の口伝にある、と思うております。



 遅れ馳せながら。三國連太郎さんが逝去されました。大好きな俳優であり、意識を新たにしてくれる著作家でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。ご自宅のある静岡沼津市はわたくしが幼少期を過ごした土地。それも、惚れこませる理由の一つであったか。
 俳優として惹かれ、文章に魅せられ、来し方に畏れ、出演作を可能な限りで視聴し、著書を探し求めては耽読し、すっかりこの人に惚れてしまった。かれ(って書いてしまって良いのかな)程イノセンスとルサンチマンが混濁し、人間の業を見据えようとする覚悟を決めた人物を、わたくしは見たことがない。
 児玉清氏のときは逝去の報に接してもすぐに著作を手にし、読み返すことができたのに、三國連太郎さんの場合はそれがまったくできずに今日まで至っている。いま、わたくしの机には『出逢いの哲学』と沖浦和光との対談『「芸能と差別」の真相』があるのだが……。◆

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第1259日目 〈エゼキエル書第45章2/2:〈祭りと献げ物〉1/2withファイナル・カウント・ダウン――『CSI:MI』F.Sリピート放送に寄せて。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第45章2/2です。

 エゼ45:10-25〈祭りと献げ物〉1/2
 献げ物を量るに使う升は計量の正確なものを用いよ。天秤、エファ升、バト升のことである。エファ升とバト升には同じ容量が入らなくてはならない。
 固体の容量の単位、1エファは1ホメルの1/10。液体の容量の単位、1バトは1ホメルの1/10。1シェケルは20ゲラの1/20。1マネ=20シェケル+25シェケル+15シェケル。
 あなたたちレビ人がささげるべき献げ物は、以下の通りである、――
 ・小麦;1ホメルにつき1/6エファ。
 ・大麦;同上。
 ・油 ;バト升を用いて、1コルから1/10バト。
 ・羊 ;イスラエルの牧羊地から200匹の群れにつき、一匹。
――以上を穀物の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物とする。イスラエルの家の贖いとなる。君主はこれらを安息日と祭りの日、すべての祝日に、献げ物としてささげよ。
 1月1日、無傷の雄羊1頭を屠れ。贖罪の献げ物である。以て聖所を清めよ。レビ人がこれを行う。その血を神殿の門柱、祭壇を安置する段の四隅に塗れ。祭司がこれを行う。
 1月7日、過失で罪を犯した者、知らず罪を犯した者たちのゆえに、神殿を清めよ。
 1月14日、過越祭を祝え。期間は7日間。この日、民は酵母なしのパンを食べる。この日、君主は自分のため、国の民のため、贖罪の献げ物として雄牛をささげよ。この間、無傷の雄牛7頭と雄羊7匹を焼き尽くす献げ物として、雄山羊を贖罪の献げ物としてささげなくてはならない。また同じ期間、雄牛1頭につき1エファの、雄羊1匹につき1エファの穀物の献げ物をささげる。1エファにつき1ヒンの油を添えることを忘れずに。
 7月15日、祭りの日。過越祭と同じく7日間にわたって、焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物、穀物の献げ物と油をささげよ。

 単位の説明をします。
 ・エファ;固体の容量、約23リットル。
 ・バト;液体の容量、約23リットル。
 ・シェケル;重さ。約11.4グラム。
 ・ホメル;固体の容量、約230リットル。
 ・マネ;1シェケルの60倍、約684グラム
 ・ヒン;液体の容量、1バトの1/6,約3.8リットル。
 ・コル;液体の容量、約230リットル。
 1ホメルと1コルは同量、1エファと1バトは同量。参考までに言い添えると、固体;1エファ×10=1ホメル、液体;1バト×10=1コル、となります。
 ややこしいけれど、わかってみると単純です。但し、換算には若干の異なりがあります。



 WOWOWにて『CSI:マイアミファイナルシーズン連続放送中。仕事から帰ったあと夜中に観ている。嗚呼、ホレイショ様劇場の終演まであと何日……。◆

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第1258日目 〈エゼキエル書第45章1/2:〈聖域〉with決意はしたが、……(つぶやき・なう)〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第45章1/2です。

 エゼ45:1-9〈聖域〉
 後にあなたたちが国を嗣業として割り当てる際、その土地の一部を聖なる献げ物、献納地としなくてはならない。献納地は縦/東西に25,000アンマ、横/南北に20,000アンマである。この区域は周囲全体にわたって神聖である。
 献納地のなかに500アンマ四方の区域を設けよ。そこは聖所の境内となる。そのまわりには幅50アンマの放牧地を設けよ。
 上述の区域から長さ25,000アンマ、幅10,000アンマを測量せよ。そこには最も聖なる聖所、即ち至聖所が置かれる。神殿に仕える祭司たちは、この至聖所を擁す区域に住む。また、祭司以外のレビ人はその区域の北方に、踵を接するような形で、長さ25,000アンマ、幅10,000アンマの土地を持って、そこに暮らす。
 至聖所を擁す区域の南、長さ25,000アンマ、幅5,000アンマの区域はイスラエルの家全体の所有である。ここは都が所有して、かれらの町となる。
 北から、レビ人に割り当てられた区域、至聖所を擁す区域、イスラエルの家の町が作られる区域。これを東西両方から挟みこむような形で、君主の領地がある。西は大海(地中海)、東はヨルダン川に接する。君主がイスラエルにおいて所有するのは、これら二ヶ所の土地だけである。
 わたしによって立てられたかれら君主は、もはや自分の民を虐げず、正義と恵みの業を行う。かれらは献納地以外の土地を、イスラエルの家とその部族へ委ねる。

 「アンマ」は長さを示す尺度です。1アンマは約45センチ。但し「エゼキエル書」では「大アンマ」というて通常の1アンマに1トファを加えた長さ、即ち約50センチ強の尺度が適用されます。1トファは1アンマの1/6の長さです。神殿測量のときから青銅の人がこの大アンマを用いて、あちこちの採寸を取っておりました。読書ノート並びに本ブログでは初お目見え(久しぶりの、だったかな)なので、ここで註記しておきます。
 聖なる献納地の割り当てが説明されますが、これは本書幕切れの第47-49章への導入役を担う章でもある。カナン入植後の土地の分配同様に、件の章に於いてもイスラエル12部族への嗣業の土地の割り当てがされます。その記述はここで取り挙げた聖なる献納地を中心にして記述されてゆく。だから、というわけではありませんが、できれば、ああそういえば数日前に土地の割り当てのことでなにか書いてあったな、ぐらいに覚えておいていただけると嬉しいです。えへ。
 ――聖書本文をご覧いただけるとわかりますが、殆ど引き写し同然のノートになってしまいました。謹んでお詫びすると共に、己の力不足とどうにも制御しかねる気分の波にながされがちな心弱さを深謝いたします。
 なお、「エゼキエル書」は今週末に終了予定です。長かった……。



 読まない本の処分を決意、が、これがまた難しい。◆

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第1257日目 〈エゼキエル書第44章2/2:〈祭司の務め〉with日曜日は料理当番、こんなメニューでした。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第44章2/2です。

 エゼ44:4-31〈祭司の務め〉
 そのあと、わたくしは青銅の人と一緒に北の門を通って、神殿の前に移動した。神殿のなかが主の栄光で満たされているのを見て、わたくしはひれ伏した。主がいった。これからわたしが語る神殿についてのあらゆること、すべての掟とすべての律法へ心を留めて、自分の目で見、自分の耳で聞きなさい。
 神殿に入ることが許されるのはイスラエルの家だけである。
 聖所から排除されるべきは体にも心にも割礼を受けていない外国人である。
 反逆する者、イスラエルの家が犯した罪は既に数多ある。自分たちの務めを蔑ろにして、それを外国人に委ねた。心にも体にも割礼を受けていない外国人は聖所に入ること能わず、そうして聖所の務めを果たすことについても然り。
 イスラエルが立ち迷ったとき、レビ族は偶像に迷い、従った。その罪は如何程か。かれらは聖所での奉仕のみならず、神殿の雑務も引き受けねばならない。民からの献げ物を屠って民の前に仕えねばならない。イスラエルの家を迷わせたのはお前たちである。自分の罪を背負え。祭司として仕えることなもなく、神殿の聖なるものへ触れることもできないお前たちは。
 神殿で祭司としてわたしに奉仕し、聖所にて務めを果たせるのは、レビ人のツァドクの子孫だけである。
 内庭の門に入るときは亜麻布の衣を着ること。内庭の門と神殿で仕えるときは羊毛を身に付けてはならない。亜麻布のターバンを頭に巻き、亜麻布の短いズボンを履かなくてはならない。民のいる外庭へ出るときはそれまで着ていた衣服を脱ぎ、神聖な部屋へ置いて、別の衣服を着なくてはならない。仕えたときの衣服で民と触れあい、相手に神聖さを移したりしないようにである。
 祭司は頭髪を剃ってはいけない。長髪もダメ。いつもきちんと、こざっぱりした髪型でなくてはならない。お務め前の飲酒は厳禁。結婚しても良いけれど、イスラエル出身の初婚で処女の女性が相手でなくてはならない。但し、夫が祭司であったならば、未亡人であっても構わない。
 死人の家に入ってはならない。が、縁者の場合は別である。かれが復職する際は身を清めて7日を待ち、聖所の内庭に入る日に贖罪の献げ物をささげなくてはならない。
 かれらは民からささげられた献げ物を食べることができる。が、鳥であれ獣であれ、死に至った理由の如何にかかわらず、既に死んでいたものを口にしてはならない。民は初物の麦粉で作ったものを祭司に与えなくてはならない。その者の家に祝福をもたらすためである。

 「彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。争いのあるとき、彼らが裁く者として臨み、わたしの裁きによって裁かねばならない。彼らは、わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなくてはならない。」(エゼ43:23-24)
 「彼らは嗣業を持たない。わたしが彼らの嗣業である。あなたたちはイスラエルにおいて彼らに財産を与えてはならない。わたしが彼らの財産である。」(エゼ43:28)

 帰還後、レビ人は神殿に職を得るが、奉仕と雑事がその仕事である。祭司として聖所で神なる主に奉仕するはただツァドクの子孫のみ。ツァドクの子孫が祭司の職に就いたらば、彼らに対する掟と律法はこうである――というのが、本章の胆であります。
 概ね「出エジプト記」や「レビ記」で格闘してきた内容なので、当時よりお読みいただいている読者諸兄には一種の懐かしさを覚える件りかも。レビ21と同22が本章と重複する内容を持った章であります。
 ノートを終わらせたあと、該当箇所を探すことも兼ねて前二書(「出」はシナイ山到着以後)に加えて、「民数記」、「申命記」、「サムエル記・下」と「列王記・上」を読み返してみました。或る程度まで聖書読書が進んでいる、という理由もありますが、こうした過去に読んできた書物を改めて繙くと、かつてはわからなかった箇所、理解できなかった箇所が漠とながらわかるようになっていたり、読んでも見えていなかったことを発見できたり、という経験ができます。聖書が何度も読み返すに足る古典であることの証しといえる、と思います。
 ちなみに、レビ26:3-45は読書が預言書に至ったいまだからこそ再読するに相応しい章です。というのも、レビ26が、やがて到来する時代の予見となっているから。その到来する時代とは、イスラエル・ユダの崩壊/バビロン捕囚/エルサレム帰還であります。



 鉄板料理、というべきものが誰にしもあるだろう。腕に自信というよりも、まず間違いない料理、なにを作ろうかと迷ったとき頭に浮かぶこなれた料理が、所謂鉄板料理の定義。
 さんさんかにもありますよ。果たして料理というて良いのか迷う程のありふれたものですが。つまり、ショウガ焼きとパスタと母親譲りのオムレツなんだけれど。これに焼き魚と煮魚を加えれば、うーん、たぶん、なにも考えないで作れる料理は出揃ってしまう。サラダは料理に含めません(小学校の遠足みたいな言い方だな)。
 日曜日はさんさんかが料理当番。だいたいお分かりだろうけれど、今日(昨日ですか)はショウガ焼きを作った。なんの変哲もない、でもショウガはちゃんとすり下ろした、いつもながらのショウガ焼き。これをキャベツざくざく刻んで載せた皿の上に盛ってね。
 で、今回はそこに新メニューを加えた。某酒場にて食して感動した、季節限定メニューの内にあった一品。即ちサヤエンドウとジャガイモのガーリック・ソテーである。たまたま野菜室にサヤエンドウがごろごろしていたので、よし、じゃぁ、あれ作ってみるか、と一念発起した次第で。
 ニンニク切ってオリーブオイルで炒めて、香ばしい匂いがしてきたら茹でておいたサヤエンドウ(皮は剥いてね!)を入れ、終いに一口大にしたジャガイモを投入。ちゃっちゃかちゃっちゃか調理して、お皿に盛ったらバジルかなんかをしゃらしゃら振りかけ、テーブルへ。お店程ではないけれど、うむ、それなりに満足。
 よかったら作ってみてください。◆

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第1256日目 〈エゼキエル書第43-44章1/2:〈主の顕現〉withモチベーションについて考える〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第43章と第44章1/2です。

 エゼ43:1-44:3〈主の顕現〉
 測量が終わった青銅の人と一緒に東の門へ行ったわたくしは、そこで東方より来たった主の顕現した姿と出会った。それはもうずっと昔、ケバル河の河畔で出会ったときと同じ姿をしている(エゼ1:4-28〈エゼキエルの召命〉 第1207日目)。
 主はわれらの目の前で東の門から神殿へ入り、そこを栄光で満たした。そうして、主はいった、――ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏が置かれるべき場所だ、ここ、イスラエルの家の間に、わたしは永久に住む、と。
 「人の子よ、あなたはイスラエルの家にこの神殿を示しなさい。それは彼らが自分の罪を恥じ、神殿のあるべき姿を測るためである。もし彼らが行ってきたすべてのことを恥じたならば、神殿の計画と施設と出入り口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに知らせなさい。それを彼らの目の前で書き記し、そのすべての計画と掟に従って施工させなさい。」(エゼ43:10-11)わたしはあなたに、山の頂の神殿についての律法を与える。周囲と隔絶されたこの領域は、すべてに於いて最も神聖な場所である。
 それから青銅の人は、祭壇と祭壇廻りの備品を採寸し、造作を指示した。
 次いで主は献げ物について語った。曰く、――
 ツァドク直系のレビ人の祭司のみがわたしに近附き、献げ物をささげることができる。人の子よ、あなたはかれらに贖罪の献げ物として、若い雄牛を与えよ。その血を取り、祭壇の4つの角と土台の四隅、周囲の縁に注いで、清めて贖え。贖罪の献げ物である若い雄牛を連れて外へ出て、聖所の外の神殿の定められた場所で焼け。それが、焼き尽くす献げ物についての決まり事、律法である。
 焼き尽くす献げ物をささげた翌日、無傷の雄山羊を贖罪の献げ物としてささげ、焼き尽くす献げ物と同じようにして祭壇を清めて贖え。それが終わったらば、無傷の若い雄牛と無傷の若い雄羊をささげよ。祭司たちがそれをわたしの前に、焼き尽くす献げ物としてささげる。これを7日間、繰り返す。
 8日目以後、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物が祭壇にささげられる。それを以てわたしはあなたたちを受け入れる。
――と、主は献げ物について斯く語った。
 青銅の人は聖所の東側に面した、いまは閉じられている門の外へ、わたくしを連れ戻した。そうして、いった。この門は閉じられたままにしておく、なぜならば、イスラエルの神、主がここから神殿へ入ったからである。何人もこの門を開けたり、君主一人を除いてはここを通ったりしてはならない。但し君主と雖も直接入るは罷り通らず。門の廊から入り、門の廊から出なくてはならない。

 献げ物については「レビ記」の該当章、もしくは注釈書や辞書の類を参照頂きたく存じます。献げ物についてわずか9節のみ触れられているのは、過去に律法として規定された事柄であるせいでありましょう。
 献げ物についてのみならず、主の坐す場所についての描写も然りですが、論旨がとても明快で、簡潔で豊かであります。それでいて奥が、ぐっ、と深い。わたくしは本章をとても楽しく読みました。



 「職場に好きな人がいないと、仕事のモチベーション上げられないタイプでしょ?」そう曰った方がいらっしゃる。「そんなんじゃ駄目だよ」
 わたくしはその方をとても尊敬しておる。もう二度と会うこと叶わぬ方だけれど、すべてに於いて心服できる方であった。その方が仰ったこと。
 が、と、わたくしはささやかに抵抗する。それが駄目ならこの世は闇だぜ、と。皆が腹の底で企んでおられた通りに退職へ追いこめたのだから、なべて世は事もなし、じゃない?
 また、ご存知のように、本ブログは一昨年から昨年に掛けて、丸一年、休載を余儀なくされた。原因はこちらの怠慢にある。辛うじて11月後半から再開し、数度の心衝(=心傷)により数日程度のお休みもしたが、なんとか続けてこられた。
 が、と、わたくしはささやかに反省する。休載以前のようなモチベーションが取り戻せない、と。ノートを見ても充実度の低下は目立ち、掲載用の原稿を書いても今一つ不完全燃焼であるのは否定できず。更新が終わったあとも、心のすっきり晴れた例しはあまりない。
 むろん、一切の手抜きはしていない、とだけは申し上げておく。以前同様、読んで読んで読んで、考えて感じて、そうして調べて、ようやくノートを取り/下書きの筆を執り、を繰り返す日々。もっとも、ときどき<酒とバラの日々>になるのが玉に瑕だが……。
 近頃不眠症気味なのも、もしかしたら、こんなモチベーションに起因しているのかも、と思うたりする。◆

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第1255日目 〈エゼキエル書第40,41,42章:〈新しい神殿の幻〉withキング『ビッグ・ドライバー』を買ったは良いけれど、……。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第40-42章です。

 エゼ40:1-42:20〈新しい神殿の幻〉
 第25年1月10日、エルサレム陥落から14年後のその日、主の手が頭上へ臨んだ。わたくしは〈幻〉を見た。主の手に導かれた先は、未来のエルサレムであった。そこでわたくしは一人の青銅に輝く人と出会った。かれの手には測り竿と麻縄があった。
 かれはわたくしにいった、これからわたしのやること、話すことを心に、目に留めなさい、それを、バビロニアの同胞たちへ伝えなさい、と。
 向かった先には、見たこともない神殿があった。が、それは間違いなく、エルサレムの神殿であった。
 青銅の人は、門の入り口、脇柱や廊、格子窓、個々の部屋(たとえば控えの間や祭司の間etc)、焼き尽くす献げ物に用いる聖卓、拝殿や別殿、木製の祭壇、外壁や内壁など、神殿の内部や周囲を、東から南、西、北へと順番に廻り、あちこちをくまなく採寸した。棗椰子とケルビムの意匠が施されている部分が、とても多かった。至聖所は拝殿にあった。

 エゼキエルは主により測量作業に同行する幻を見た。「エゼキエル書」ならではの挿話と思います。イザヤやエレミヤには絶対に語れなかったこと、決して見ることのできなかった事柄。それは、解放された捕囚民がエルサレムへ帰還したあと、新しく建設することになる神殿、即ち第二神殿の作業指示であります。「エズラ記」で建設作業を進める帰還民は、エゼキエルが遺した指示に従ったことでありましょうか。
 神なる主は再三に渡って、ユダへ残る者に希望はない、希望はバビロンへ捕囚としていった人々のなかにある、といいました。ユダ残留民は様々な事情により姿を消してゆく。かれらに希望はない。仮にあっても、かれらには希望に応える体力も資力も、労力もない。
 すべて見越した上で、神なる主はあらかじめ定められた未来に従うよう、ユダの人々へ訴えてきました。が、それには攻めのぼってきた敵、新バビロニア帝国に屈して、かれらの国へ捕囚として連行されてゆくより他はなく。
 その恥辱に耐えながら信仰を回復させてゆき(詩86:11「主よ、あなたの道をお教えください。/わたしはあなたのまことの中を歩みます。/御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。」また、詩137〈バビロンの流れのほとりに座り〉を思い出せ)、70年の歳月を過ごした者にこそ希望は託される。
 希望! エゼキエルにはわかっていた、バビロン在住の捕囚民にこそ未来の希望がある、と。主がそれを望んでいる、と。第二神殿の幻は、希望を託すべきかれらと生活を共にしているエゼキエルにしか見ることのできない、また伝えることのできない内容であった。その点が、明確にイザヤやエレミヤと異なる点であります。かれは希望を伝えたのです。
 3章まとめて原稿にしたのは、手抜きではありませんからね?



 S.キング『ビッグ・ドライバー』購入。もう何冊も未読の作品が溜まったろう。そろそろ本格的に消化作業を始めないとならない。『リーシーの物語』以後は短編集しか読んでないんですよね。あ、石も缶も投げるのヤメテクレ。◆

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第1254日目 〈エゼキエル書第39章:〈マゴグのゴグに対して〉2/2with溜め息吐いちゃうよ。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第39章です。

 エゼ39:1-29〈マゴグのゴグに対して〉2/2
 マゴグの地の長、メシェクとトバルの総首長、ゴグよ。わたしはお前を翻心させ、イスラエルの山々へ来させる。そこでお前のすべての武器を奪う。お前の軍勢は、行動を共にする民も含めて皆、山にて倒れ、あらゆる猛禽類と野の獣の餌となる。また、わたしはマゴグの地とその一帯の海岸地方で安穏と暮らす者たちへ、火を送って焼き尽くす。そのとき、かれらはわたしが主であることを知り、わが民イスラエルにわたしの聖なる名を知らせる。「このことは到来し、実現する、と主なる神は言われる。それは、わたしが語った日である。」(エゼ39:8)
 わたしがマゴグから奪った武器をイスラエルの民は手に取る。そうしてそれを火に燃べる。かれらは以後7年にわたって燃べる用の木ッ端や薪を調達する必要はない。
 わたしは倒れたマゴグの衆のため、墓地となる場所を提供しよう。そこはイスラエルのなかでよく知られた所である。そこは、海の東の旅人の谷である。その地勢ゆえに旅人は遠回りしなくてはならない。イスラエルよ、マゴグの衆の骸で谷を埋め尽くせ。また、その作業に専念して従事する者を選び、かれらに、地に倒れて草生す屍となったままのマゴグの衆を探させよ。見附けた屍の傍らに、かれらは旗を立てる。埋める者の目印となるようにだ。それは7ヶ月の清めが終わるまで続けられる。谷はゴグの軍勢の谷と呼ばれるが、やがては「軍勢」という意味のハモナという町ができる。
 あらゆる猛禽類と野の獣よ、人がまだ探し出していないマゴグの衆の死体を存分に味わえ。お前たちのために屠ったものだ、肉も血もすべてお前のものだ。飽きるまで脂肪を喰らい、酔うまで血を啜れ。
 斯くしてマゴグが滅びた後、イスラエルの家はわたしがかれらの神であり、主であることを知るようになる。諸国民はイスラエルの家が行った数々の背信行為に則って、わたしがかれらを敵の手に渡して捕囚としたことを知る。

 主なる神はいう、――
 「わたしは、彼らの汚れと罪に応じて行い、わたしの顔を隠した。
 それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの家の繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐようになる。」(エゼ39:24-29)

 マゴグは預言の成就のみならず、主が自らの偉大さ、聖性を内外へあまねく知らしめるための当て馬にされた、という思いが強いのですが、如何でしょう?



 独り呑みはときどき無性に哀しくなるね。独りのカウンターがやけに広く見えるよ。
 このまま塩辛い液体に浸かってどこかへ行ってしまいたい。そんな気分の、春の寒い日。

 ――今月、購入する本は村上春樹とスティーヴン・キングだけだ、と思っていた。なのに! 竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』第6巻と有川浩『県庁おもてなし課』まで揃い踏みしちゃうのは、いったいどうしたことなのか? まあ、『ダ・ビンチ』の新刊情報をちゃんと読んでいない方が悪いのかもしれないけれど、さ。
 いや、つくづく溜め息吐いちゃいますぜ。◆

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第1253日目 〈エゼキエル書第38章:〈マゴグのゴグに対して〉1/2with夢を見よう、下世話な話もしよう。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第38章です。

 エゼ38:1-23〈マゴグのゴグに対して〉1/2
 マゴグの地の長、メシェクとトバルの総首長、ゴグよ。お前は大きな山脈の向こうからやって来て、やすらかに暮らすイスラエルを攻めようとする。クシュやプト、ペルシア、ゴメル即ちキンメリア、北の果てのベト・トガルマと武力連合して、静かに生活するイスラエルを撃とうと進んで来る。わたしがお前を呼び寄せる。
 お前の進撃にシェバ(シバ)やデダン、タルシシュは非難の声をあげる。が、マゴグよ、お前は意に介さず山脈を越えて、パレスチナの平原を縦断してイスラエルに迫る。
 人の子よ、エゼキエル、ゴグに預言して語れ。それは終わりの日の出来事。わたしがお前を、イスラエルへ呼び寄せる。わたしが聖なるものである、と、お前を通して諸国民に知らしめるためだ。わたしはお前の到来を、遠い昔に預言者たちへ語っていた……。
 マゴグよ、お前がイスラエルの地を襲うとき、わたしの憤りがお前の頭上に注ぐ。そのとき、大地は凄まじい地震に見舞われて、生きとし生けるものすべてがわたしの前に震える。山は裂け、崖は崩れ、城壁は倒れる。わたしは疫病と流血を以てお前を裁く。マゴグとその連合軍、すべての兵士、すべての軍勢の上に、大雨と雹、火と硫黄を注ぐ。
 「わたしは自らの偉大さと聖とを多くの国々の前に示す。」(エゼ38:23)

 北からの敵がイスラエルへ迫る。エレミヤやエゼキエルに主は幾度か語ってきました。マゴグの接近を預言する本章に於いて成就する話題であったのか、と思えば長いゴールを見たような気にもなりますが、でも今一つ釈然としない自分がいるのも事実。ふぅむ……。
 では久々な、地名についての補註です。
 ・マゴグ;カスピ海と黒海の間、コーカサス地方の一部にあった国、或いは部族連合か。
 ・メシェク、トバル;キリキア地域の国。エゼ32:26には単一国のような表記がある。
 ・キリキア地方;小アジア南東沿岸地帯。地中海東端はシリア、レバノンの海岸線にぶつかるが、北のトルコ側の海岸線は入江のように内陸へ凹んでいる。タウロス山脈(トロス/ダウルス山脈とも)を北方に望む平地、都市アダナのあたりが、キリキアと呼ばれた地域とされる。
 ・クシュ;エジプト南端と国境を接する。現在のエチオピア。
 ・プト;リビア。
 ・ゴメル;キンメリア
 ・ベト・トガルマ;南アラビア乃至ウラルトゥ地方にあった国。
――マゴグ連合軍として名の挙がった国について、簡単に註釈を加えました。



 退屈な日曜日、処分するCDを箱詰めしていました。約10,000枚を段階的に処分するのを続けて6年程、いまは500枚弱が部屋にある。処分を決めた休みの今日、いそいそと箱詰めしていたわけだが、さすがに先が見えてきたかな。今回の目玉は、稀少盤も混ざったイタリア・オペラ。この子たちが幾ら稼いでくれるだろうか、と少々夢を見つつ、珍しく下世話な話題となったことをお詫び申しあげます。◆

 なんだか今夜は寒いね? 布団のなかであなたと丸くなりたい。(13/04/11 01:30追記)□

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第1252日目 〈エゼキエル書第37章:〈枯れた骨の復活〉&〈一つとなる神の民〉withこんな夢を見た(その4);和菓子屋で働く女の子の夢なのだけれど、……〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第37章です。

 エゼ37:1-14〈枯れた骨の復活〉
 主の手がわたくしの上に臨み、主の霊によってわたくしは或る谷の真ん中へと連れ出された。そこは一面、甚だしく枯れた骨で埋め尽くされている、谷の四囲もまた同様で。
 主が問うた、これらの骨は生き返るだろうか、と。わたくしは答えた、あなたのみがご存知です、と。主がいった、これらの骨に語れ、と。わたしはこれらの骨に霊気を吹きこむ。骨にはやがて筋が置かれて肉が付く。肉は皮膚で覆われ、それぞれに霊が吹きこまれる。かれらは生き返る。そうしてかれらはわたしが主であることを知る。
 わたくしはその通りに預言した。すると、主の言葉のままに枯れた骨は肉体を得て生き返った。霊が四方より来たってかれらのなかに入った。かれらはとても大きな集団となった。
 これらの骨はイスラエルの全家である、と主はいった。かれらは嘆いている、骨は枯れ、望みは失せ、滅びを待つ、と。否、とわたしはいう。エゼキエルよ、かれらに語れ、――
 「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れてゆく。(中略)また、わたしがお前たちのなかに霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。」(エゼ37:12,14)

 エゼ37:15-28〈一つとなる神の民〉
 主の言葉、――
 エゼキエルよ、一本の木を取れ。その上に<ユダ及びそれと結ばれたイスラエルの子らのために>と書け。
 エゼキエルよ、それとは別の木を取れ。その上に<エフライムの木であるヨセフ及びそれと結ばれたイスラエルの全家のために>と書け。
 民がその意味を問うとき、斯く答えよ。主なる神はこういう、と。
 ユダの木とヨセフの木はわたしのなかで一本の樹木となる。わたしは諸国に散ったすべてのイスラエルをかれらの土地に連れてゆく。そこはかつて、わが僕ヤコブ(イスラエル)へ与えた土地である。その地には一つの王国が誕生する。もう決して分裂することのない王国が。わが僕ダビデが牧者として、君主として、永遠の統治者として、これを治める。王国の民は、自分たちや父祖が犯した数々の罪、過ちや背きによって汚されることは、二度とない。
 「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」(エゼ37:26-28)

 小見出しが複数ある章って、なんだか久しぶりです。ささやかな気分転換になりますね。ならない? あ、そう……。
 閑話休題。
 感動的な一章です。落涙を禁じ得ず、と定家卿みたく大仰なことは申しませんが、深々と心の奥の方へ染みこんでくる静けさがあります。小見出しに囚われず、枯れた骨の挿話もユダとヨセフの木の挿話も、別々のものとして読むのではなく、いわば「全にして一」といった具合に読んでみるのが最良かと存じます。
 本音をいえば、こんなノートになんて頼らず是非本文にあたってほしい、と祈念してやみません。なお心を揺さぶるものがある、と、信じてやみません。
 蛇足な一言を加えますと、枯れた骨とはバビロン捕囚や離散民の回復の比喩といいます。しかし、わたくしにはむしろ、民族としてのアイデンティティの復活、永遠の平和と繁栄と揺るぎなき信仰の約束、という風に読めることであります。読者諸兄は如何ですか?



 和菓子屋さんを舞台にした国産ミステリが売れてますけれど。
 けっしてそれに便乗するつもりは、まるでないのですけれど。
 なにをいってもあとの祭り、って重々承知もしているけれど。
 だって、こんな夢を見ちゃったんだから仕方がないじゃない。
 ――と前置きしておいて。
 部屋を片附けていたら、一枚のメモを発見。なんじゃろうな、と目を通して、思わず背中が仰け反った。昨秋に見た夢の走り書きだった。ほぼ半年前ですな。嗚呼、思えば遠くに来たものだ……。
 脱力するような内容な上に、どこぞの国営放送の朝ドラに似たものがあったな、ってデジャヴを起こしてみたり。
 では、(ほぼそのまま)お披露目。――
 女の子が和菓子屋に就職する。短大卒で元芸人。売り子のバイトではなく、作り手即ち職人として就職したんだ。実家や親類が和菓子屋とか、父が和菓子職人だった、ではない。
 当然上手くなんかなく、半年ぐらい経ってもあまり上達は見られず。先輩(年下含む)から怒られたり、陰口を囁かれたりする日々。それでもなんとかやっているのは、意地と愉悦か。
 或る日の閉店後、いつものように一人で練習している。女の子は餡をこねるのが下手。横っちょでさり気なく見ていた親方(?)から、「スジは良いんやね」といわれ、「でも、こねるのが下手で」と答える。「腰が入っていないんや」と親方(?)いう。
 女の子は、腰が入っていない、という意味がよくわからず、試行錯誤してただひたすら餡をこねまくる。それを遠くから見て感動の涙を流している、かつての相方でいまは売れっ子になっている(らしい)〈弱虫セレブ〉。主人公の女の子はさしずめ、〈俄然強めの薄幸ボンビー・ガール〉か? じゃあ、イメージは亀井絵里だな。(2012/11/20)
 ――チャンチャラ可笑しくって、腰が砕けちゃいそうな夢の記録だ。むろん、寝ぼけ眼で走り書きしたから、意味も流れも通っていない。果たしてなんのことやら、と小首を傾げたくなるが、如何せんそんな状況下の作物ゆえ、ご寛恕願いたい。
 しかし……肉附けしたらそれなりに読めるものとな理想な期待もしている。今秋から聖書読書ノートはしばらくお休みだから、その間に検討してみましょうか。ふむ。◆

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第1251日目 〈エゼキエル書第36章:〈イスラエルの山々に向かって〉withミステイク?〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第36章です。

 エゼ36:1-38〈イスラエルの山々に向かって〉
 イスラエルの山々へ預言して語れ、と、主の言葉。
 敵たる諸外国がお前を蔑み、噂している。イスラエルの家が嗣業として与えられたお前の上で数々の過ちを犯したからだ。かれら即ちイスラエルの家はわたしの前で、お前の上で、無用の血を流し、偶像を崇めた。それにより、わたしはかれらの上へ憤りを注ぐに留まらず、諸外国へ追い散らしたのである。諸国民はそんなイスラエルの家を見て、かれらは犯した罪ゆえに自分たちの土地から追い払われてきたのだ、という。
 以てわたしは斯く語る。イスラエルの山々へ、熱情を傾けて斯く語る。わたしは誓う、「必ず、お前の周囲の国々は恥を負う。しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近だ」(エゼ36:7-8)と。――お前を所有するのはかれらであり、かれらはお前の嗣業となる。お前はかれらを、かれらの子らを、二度と失うことはない。周囲の恥辱や侮蔑の声がかれらの耳へ入ることもなくなり、また、それゆえにかれらが躓くこともなくなる。
 「イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ36:22-23)
 わたしはイスラエルの家を集め、お前たちの土地へ導き入れる。わたしはお前の上に清い水を振りかける。そうしてお前の罪は浄化される。わたしはお前たちから石の心を取り除き、肉の心を与える。わたしの霊をお前たちのなかへ入れて、わが掟に従って歩ませわが裁きを守り行わせようとする。すべての汚れからお前を救う。もう決して饑餓に遭うことはなく、諸国から辱められたり嘲られることもない。
 斯くしてお前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる。
 「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。(中略)自分の歩みを恥ずかしく思え。」(エゼ36:31-32)

 「わたしは再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う。」(エゼ36:37)

〈浄化〉という単語がこの文脈、この文意に相応しいのか、と、未だ迷っています……。
 イスラエルの山々(大地)への慰めが語られる。かつてその地に住まった民はいろいろ悪さをしでかして罪を負うたけれど、捕囚の地、逃れの地から集まり来たったかれらはわが嗣業の民として生き直す。かれらに回復を約束したように、山々へも回復が約束される。
 語りの対象が変化するせいで混乱しがちだけれど、実は前半と後半が密接にリンクした一章であります。

 言い訳めくけれど、ちょっと一言させてください。足掛け3日を掛けて読んだ第36章であります。が、まったく集中できなかった第36章でもある。なぜ? 汝、訊ねるなかれ。我、語るなかれ。真実は闇のなかに眠る。世の中には知らない方が良いこともあるのだ。ちゃらけていえば、〈太陽のせい〉、〈シャンパンのせい〉、〈春の陽気/妖気のせい〉、か。
 このノートがいまの自分にできる精一杯。折を見て改稿を、と望めども、そんな機会はもうないのだろうな、と諦めている。なべて斯くなるより他ないのだ、ドリス・デイの歌のタイトルのように。〈ケ・セラ・セラ〉。で、まあ、ときどき〈アズ・タイム・ゴーズ・バイ〉なんて気取ってみたりして? ……〈〉のなかをわかる人、どれだけいるのかな。



 ここにいるはずのない人がなぜここにいるのか?◆

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第1250日目 〈エゼキエル書第35章:〈エドムに対して〉with『マジカルラジオ3』最終回、おお、この世は闇さ。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第35章です。

 エゼ35:1-15〈エドムに対して〉
 エドム/セイル山に預言して語れ、と、主の言葉。
 わたしはお前に向けて手を伸ばし、荒れ果てた廃墟とする。セイル山を往来する者はなくなり、お前たちの血が山や丘、谷間に流れ、剣に倒れた者たちで埋まる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
 お前が二つの国、即ちイスラエルとユダをわがものと思い、占領する、といったので、エドムは永久の荒れ地、久遠の廃墟となる。というのも、お前が「果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである。」(エゼ35:5)
 ならば、「お前が彼らを憎んで行った怒りをねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。そしてお前は、主であるわたしがお前のもろもろの嘲りを聞いたことを知るようになる。」(エゼ35:11-12)
 セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。全世界がそれを喜ぶ。わたしがイスラエルの家に与えた嗣業の土地が荒れ果てたのを見てお前が喜んだのと同じように、エドムの全地が荒れ果てるのを見た全世界は喜ぶ。

 エドムへの裁き、再び。そうした感のある章であります。
 なにゆえにエドムが斯くも目立って主の憤りの対象となるのか? これは煎じ詰めれば二つの点に分けられると思います。
 第一に、エドムはかつてイスラエルと同じ血を分かった同胞であった。為にイスラエルに対する裏切り、攻撃の罪は他より一層重い、ということになるのです。
 ――自身のためにも復習すれば、創25:25でアブラハムの息子の一人(長子)として誕生したエサウが即ちエドムであり、かれは弟ヤコブの抜け駆けによって本来受けるべきであった祝福を奪われ、妻を娶ってからはセイル山のある死海南東のセイルの地、エドムへ移り、エサウの子孫はエドムの地を所有するようになりました(ex;創27:1-40,創36)。
 第二の理由ですが、エドムという土地が山岳地帯であったので、より肥沃な土地であるイスラエルを虎視眈々と狙い続けたのだ、といわれます。かの地を所有するにはユダの弱体化を待つ他なく、それがためにエドムはたびたびユダを攻めたのでありました。また、そのときの感情の澱みは、ユダ王国が崩壊してユダヤ人の離散が始まるとかれらの排斥と嘲笑という形で表面化しました。……なんだか現代にも似たようなケースがありますね?
 本章を読んでいて、ふと、思うたのですが、ここでいう「全世界」とは旧約聖書で語られた諸外国(シバなども含めて)、預言書で預言の対象となった国々――むろん、エドムは除きますが――をいうのでありましょうか。



 『マジカル・ラジオ3』が最終回を迎えました。嗚呼……。この「……」にすべての感慨がこめられている、と察してほしい。小木曽汐莉や矢神久美がもうSKE48にいないんだよ? 一人でも欠いちゃぁこの世は闇よ。希望は茉夏と奈和か――。
 それにしても来週からなにを楽しみにして生きてきゃいいんだい、と嘆く言葉も乾かぬうちから、今夜の『SMAP×SMAP』を待ち望んでいるさんさんかなのですけれどね?◆

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第1249日目 〈エゼキエル書第34章:〈イスラエルの牧者〉with〈となり〉にいてほしい人は、〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第34章です。

 エゼ34:1-31〈イスラエルの牧者〉
 イスラエルの牧者たちに預言し、語れ、と、主の言葉。
 務めを忘れて自分自身を養うばかりの牧者たちの口から、わたしは群れを救い出してかれらの世話をする。
 牧者たちよ、お前たちの務めは弱き群れを見守り、世話して養うことだ。野の獣の餌食にならないようにし、傷附いた者を優しく包み、追われた者を連れ戻し、失われた者を捜すことが、牧者たる者の務め。守り手たること、導き手たること。それが牧者の役割。
 しかし、お前は自らの責務を怠った。自分たちの群れを蔑ろにし、却って力ずくで、苛酷に群れを支配した。迷った群れを捜すこともせず、群れを養うこともなく、ただ自分たちを養うばかりだ。
 わたしはお前の口からかれらを救い出す。わたしがかれらを養う。あの日、雲と密雲の日に散らされた群れを捜し求めて、すべての場所からこれを救い出す。そうやって諸国から集めた群れを、かれらの土地へ導く。イスラエルの牧場、イスラエルの山々。その地でかれらを養う。
 「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼ34:16)
 かれらのために一人の牧者を起こして養わせよう。わが僕ダビデがそれである。主であるわたしはかれらの神となり、その真ん中に君主としてダビデを置く。
 わたしはかれらと平和の契約を結ぶ。わたしはかれらの土地とその周辺に祝福を与え、祝福の雨を降らせ、かれらがその土地でやすらぎを得られるようにする。かれらはその土地で、略奪とも凶作とも、恥辱とも嘲笑とも無縁のまま、やすらかに暮らす。
 斯くしてかれらは、わたしがかれらと共にいる主なる神であり、かれらは自分たちが神の民イスラエルの家である、と知るようになる。
 「お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である。」(エゼ34:31)

 課せられた本来の職務を蔑ろにして私利私欲に耽る牧者たち、即ち王や祭司への裁きの言葉が語られる本章で、いちばん印象的なのは、君主ダビデを一人の牧者として立てる、という主の宣言でありましょう。
 これは勿論、既にわれらが読んできてその生涯の事績や挿話について様々知る、統一王国イスラエルの2代目国王としてのダビデではありません。ここでのかれは、理想化された牧者としての存在。否、牧者というよりも“君主”としてのダビデであります。いうなれば、永遠の統治者としてのダビデなのであります。
 ティンデル『エゼキエル書』の著者J.B.テーラーもいうように、ダビデの復活や王家の血筋にある人間の王を指すのではない(P237 いのちのことば社)。なぜならば、主の理想に適った統治者、君主、牧者こそダビデに他ならなかったからです。それは、「サムエル記」などを読み返してみると浮かびあがってくることであります。
 かれがサムエルとサウルに見いだされる前、羊飼い(牧者!)であったのも、忘れてはならない点であると思います。また、無関係ではないと思います。



 「さよなら」はできない。少なくとも、まだ。

 〈となり〉にいてほしい人は、誰ですか?
 気持ちがすれ違うことがあったとしても、
 たがいの過去や現在がどうであろうとも、
 求めるひとは、この世にたった一人だけ。
 〈となり〉にいてほしい人はあなたです。◆

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第1248日目 〈エゼキエル書第33章:〈見張りの務め〉withF.シナトラ「ONE FOR MY BABY(AND ONE MORE FOR THE ROAD)」〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第33章です。

 エゼ33:1-33〈見張りの務め〉
 わが同胞イスラエルへ、主の言葉。
 わたしが或る国へ向けて剣をかざそうとするとき、その国は一人の見張りを立てる。剣が実際に臨むのを見た見張りは、警告の角笛を吹き鳴らす。それを聞いたにもかかわらず無視した者がいて、剣に倒れて血が流れたら、責任は警告を無視した者にある。剣が実際に臨むのを見たにもかかわらず、その見張りが角笛を吹き鳴らさなかったら、どうか。剣にかかって民が死に、かれらが自分の犯した悪ゆえに死んだとしたも、責任は警告の角笛を吹き鳴らさなかった見張りに帰せられる。
 イスラエルの家に於ける見張りこそ、エゼキエル、あなたである。わたしの言葉をあなたは伝える。イスラエルの家に、それを伝える。あなたが悪人に死を警告しても、かれに悪の道から離れるよう諭さなかったとしたら、自分の罪ゆえにかれが死んだとしても責任はあなたにある。わたしはあなたに血の責任を求める。逆に、あなたが悪人に死を警告し、悪の道から離れるよう諭したにもかかわらず、かれが死んだのなら、血の責任はかれ自身にあり、あなたは自分の命を救うことになる。
 「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が、その道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼ33:10-11)

 どれだけ正しい人であっても、背けば自分を救うことはできない。善行を積み、正義を旨としてきた人でも、わずかな悪、わずかな背きによって人生を棒に振り、人々からその正しさゆえに思い起こされることはない。
 悪人であっても自分の過ちを反省して立ち帰れば、かれは生きることができる。立ち帰ったかれが正義と恵みの業を行い、命の掟に従って歩くならば、かれは生きることができる。かれがかつて犯した過ちを人々が思い起こすことはない。「正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。」(エゼ33:16)
 「正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は生きる。それなのに、お前たちは言っている。『主の道は正しくない』と。イスラエルの家よ、わたしは人をそれぞれの道に従って裁く。」(エゼ33:18-20)

 第12年10月5日、バビロニア軍の攻撃から逃れ来たった人が、捕囚の地のわれらにエルサレム陥落を知らせた。その前の晩、主の手がわたくしの上に置かれて、わたくしの口を開いた。もはやわたくしは黙していなかった。
 イスラエル/ユダの地に残留する者たちへ、主の言葉、――
 お前たちはこの土地を所有する資格や権利があるというのか。掟に背き、律法に背いてばかりのお前たちに?
 わたしはいう、廃墟に残る者たちは剣に倒れる。野にいる者たちは獣の餌食となり、砦と洞穴にいる者たちは疫病の犠牲となる。わたしはかつてカナンと呼ばれたこの地を荒れさせ、この地で揮われた力を根こそぎ絶つ。すべてはかれらの行った忌まわしい所業のゆえだ。そのとき、かれらはわたしが主であると知る。
 人の子よ、人々があなたのことを噂し、話を聞こうとやって来る。あなたの口から、どんな主の言葉が語られるのかを聞こうとして。あなたはかれらに、わたしの言葉を伝える。が、かれらはわたしの言葉に従わない。「彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。」(エゼ33:31)
 「しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」(エゼ33:33)

 前半の、正しい人でもただ一つの過ちゆえに死んで思い起こされることはない、悪い人でも過ちを反省して立ち帰れば生きることができる、とは旧約聖書独特のレトリックか。以前にも同じロジックで語られた章がありました。たとえばエゼ3:16-21〈預言者の務め〉です(第1210日目)。また、表現は若干違えども、第18章もここに挙げて良いと思います。〈各人の責任〉、第1227日目が本ブログの該当箇所になります。余談ながら、さんさんかはエゼ18:27-28に朱線を引きました。それは既に当該章にて言及済み、ここではこれ以上を語るのは止めておきます。
 後半では預言者たちが主の言葉として語ってきた事柄が繰り返されます。つまり、バビロン捕囚にこそイスラエルの再建、イスラエルの回復が期待されるのであり、ユダに残ってあらゆる危難に身を曝している人たちには、滅びの前途しか用意されていない。これも、いままで繰り返し語られてきた。まったくブレていません。
 第12年10月は前587年末。エルサレム陥落は同年初秋とされます(岩波9 P140脚注)。
 最後に引用したなかにある「そのとき」とはいつを、また、なにを指すのか。エルサレム陥落は既に起こっているので、イスラエルの回復かな、と単純に思うておるのですが、どうなのだろう? 文脈上、そうとしか読めないんだけれどな……。

 エゼ33:31「彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている」、真理ですね!

 ノートも少し長くなりました。本音をいうと、2日に分けることも考えた。が、流れを断ち切るとこの素晴らしい一章の印象が散漫になりそうなので、あえてこのままお披露目しました。これをノートするためにいつものスターバックスに居坐ること、約3時間。飲んだコーヒー3杯(340円+お代わり100円+340円+α。さて、幾ら?)。いつものこととはいえ、申し訳ありません。



 ベスト盤だが久しぶりにシナトラを聴きました。いま、最終トラックの「ONE FOR MY BABY(AND ONE MORE FOR THE ROAD)」。シナトラの数ある歌のなかでこれがいちばん好きです。たっぷりとした思い入れがあるのだ。バー・ラジオカクテルやS.キングの短編に同様、或いは類似のタイトルがありますね。◆

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第1247日目 〈エゼキエル書第32章:〈ファラオに対する嘆きの歌〉with「私の声が聞こえますか?」〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第32章です。

 エゼ32:1-32〈ファラオに対する嘆きの歌〉
 第12年12月1日、主の言葉。ファラオに向けての嘆きの歌、――
 滅びに定められた者、汝ファラオよ。お前はナイル川に生息する鰐のようだ。多くの民がお前に網を投げ、引きあげる。わたしはお前を大地に投げ出し、野に捨て、鳥と獣の食料とする。お前の血はエジプトの地に注がれる。
 汝ファラオよ、お前が倒れるとき、わたしは空のすべての光を暗くし、地を闇で覆う。剣を振り下ろしてお前が倒れるとき、諸国民は命に不安を感じて絶え間なく震える。
 諸国のうちで最も暴虐なるものをわたしは差し向ける。その名はバビロニア。かれらはエジプトの誇りを踏みにじる。お前の軍隊を滅ぼし、民を散らし、エジプトの地からは生きとし生けるものの姿がなくなる。ナイルの流れは清らかに澄み、静穏となる。
 「わたしはエジプトの地を荒廃させ/その地を満たしているものを荒れるにまかせる。/わたしがそこに住むすべての者を撃つとき/彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ32:15)
 ――これは嘆きの歌である。

 第12年12月15日、主の言葉。
 剣に倒れたエジプト/ファラオとその軍勢は、地の最も低い所、即ち陰府の世界へ下ってゆく。永遠の死者を道連れに、下ってゆく。陰府の暗闇のなかから、エジプトとその同盟者(国)へ語りかける者がある。その者はいう、男でありながら戦士ではない男と剣に倒れた者は等しくこの場所に横たわれ、と。
 陰府にはアシェルとその仲間たちがいる。(バビロニア勃興以前の)生ける者の地で最も恐れられたアッシリアは、陰府のいちばん深い場所に墓がある。また、そこにはエラムとそのすべての軍勢、メシェクとトバルの軍勢、エドムの王と君候たちがいる。北のすべての君主とシドンのすべての人々も然り。かれらは辱められ、男でありながら戦士でない男たち、剣に倒れた者たちと横たわっている。――ファラオはかれらを見て、失った軍勢について慰められる。
 まこと、わたしは生ける者の地に恐怖を置いた、と主はいう。

 第25章から始まった諸国への預言は本章を以て終了。エルサレムの経済的弱体化を喜ぶティルスの次に、主の憤りの矛先はエジプトに向けられた。全体を通じて、王権の弱体化と国力の衰退が語られる。本章にてファラオは陰府で、かつて自分たち同様イスラエルを苦しめた諸国の顛末を知って安堵した。
 ――斯くして円環は閉じられるのであります。
 ハーレイ他に拠れば、前585年3月、エルサレム陥落8ヶ月後の記事。


 あなたにわたくしの声は聞こえているだろうか。姿を見ることができないなら、せめて声だけでも届けたい。あなたが道に迷わないように、あなたが孤絶しないように、あなたが誰かを排斥しないように、見守ってゆきたい。◆

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第1246日目 〈エゼキエル書第31章:〈エジプトに対する裁き〉2/2with Proud of you.〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第31章です。

 エゼ31:1-18〈エジプトに対する裁き〉2/2
 第11年3月1日、主の言葉。ファラオとその軍勢に、――
 誰をお前の偉大さと較べられようか。あなたは大きく豊かなレバノンの糸杉。その丈は高く梢は雲間に達し、淵からの流れが杉のまわりを潤して、あなたを果てなく育てた。人々は大樹の陰にやすらいで集落を作り、伴侶を得て子供を設け、家族を作ってその血は代々に伝わった。やがてそれはファラオを戴く国家となった。あなたの美しさは神の園エデンのすべての木が羨む程だった。
 しかし、とイスラエルの万軍の主はいう。
 あなた/お前の意気は昂ぶり、心は驕った。その美しさ、その豊かさ、その強さのゆえに。加えてお前は万古の昔、イスラエルを奴隷にして使役し、ダビデとソロモンの後はたびたびこれを侵そうとした。わたしはお前を打つ。諸国民のうちで最も強く、暴虐な者とその軍勢を遣わして、お前を打つ。かれらは糸杉を切り倒し、山々の上に捨てる。枝は落ちて谷という谷を埋める。木陰でやすらいでいた人々はかれらを前に逃げ惑う。
 わたしイスラエルの万軍の主はいう、「彼の倒された幹には、空のすべての鳥が住み/若枝のもとには、野のすべての獣がやどる」(エゼ31:13)と。もはや糸杉がかつてのような威容を誇ることはない。
 かれらは一人残らず死に渡され、永遠の死者と共に冥府へ、地の深き所に赴く。かれが倒れる音に諸国民は揺り動かされる。
 「そのとき地の深き所で、エデンのすべての木も、レバノンのえり抜きの美しい木も、水に潤うすべての木も、再び慰められる。彼らも、彼と共に冥府に、剣で倒れた者たちのところに下って行った。かつて諸国民の間で、彼の陰に宿っていた仲間たちも共に。」(エゼ31:16-17)
 ファラオよ、そのすべての軍勢よ。お前たちは地の深い所へ落ち、割礼を受けていない者の間で、剣によって倒れた者たちと一緒にそこに住む。
 ファラオよ、そのすべての軍勢よ。これがお前たちを待ち構える運命である。

 偉大ゆえの高慢、権勢ゆえの慢心――それがエジプトを破滅させる。掌中にした権力に胡座をかいて自身を錯覚し、滅びの道を自ら準備したのは、古代エジプトばかりではありません。フランス第一帝政や大日本帝国も同じ道を辿った。歴史は繰り返されるのです。
 〈ティルスへの預言〉にも出てきたけれど(エゼ26:20など)、「穴に下る者と共に地の深き所へ行き、廃墟のようなその場所に永遠に住まわせる」とは、何度読み直してみても凄まじい。背筋に寒気が走ります。如何にも「エゼキエル書」らしい表現であります。
 ハーレイ他に拠れば、前587年6月、エルサレム陥落13ヶ月前の記事。



 who is it?
 Give me a piece of your heart,open your heart and let the love come in.
 I'm proud of you.◆

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第1245日目 〈エゼキエル書第30章:〈エジプトに対する裁き〉1/2with最高に楽しい真剣勝負〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第30章です。

 エゼ30:1-26〈エジプトに対する裁き〉1/2
 裁きの日は近い。それは災いの日、諸国民の裁きの時。剣がエジプトに臨み、国の基は覆され、同盟諸国も倒れる。
 わたしの許から使者が発つ。かれの与える戦慄がエジプトと同盟諸国を襲う。使者の名はネブカドレツァル、バビロニアの王。地上で最も強大、かつ、凶暴な軍隊がかれに率いられて、エジプトを攻めてくる。この国は殺された者で満たされる。
 イスラエルの万軍の主なるわたしはエジプトの神々を一掃し、ファラオを断ち、この地を恐怖で満たす。エジプト領内の町という町を打ち砕き、火を放つ。エジプトに裁きが下る日は近い。
 そのとき、かれらはわたしが神なる主だと知る。
 「わたしはナイル川を干上がらせ、この国を悪しき者たちの手に売り渡し、他国の人々によって、その地とその地を満たしているものを滅ぼし尽くす。」(エゼ30:12)

 (第11年1月7日、主の言葉、――)
 わたしはファラオの腕を折った。バビロニア王の腕は強くなる。剣を手にした腕は、大きく伸ばされてファラオを打つ。バビロニア王の前ではファラオも痛みに耐えられない。
 ――バビロニア王の剣が臨むとき、また、エジプト国民が諸国に散らされるとき、かれらはわたしが主であることを知るだろう。

 驕れるエジプトに東の覇者バビロニアの恐怖が襲う。ファラオがエジプトの最高支配者の座を降りる日が訪れる。裁きの日とは、それらの日を指すのでありましょう。
 既に見たように、ネブカドレツァル率いるバビロニア軍はユーフラテス河畔のカルケミシュにてエジプト軍を撃ち破り、エジプトはそれを契機としてイスラエル/ユダを含むパレスチナ・シリア地方の覇権を失います。その後、外的には特に目立った行動もなく、自国の領土を粛々と守り、やがて台頭するペルシア帝国による完全支配を待つのでありました。つまり、主の預言は結果として現実のものとなったわけであります。
 ハーレイ他に拠れば第1-19節は(29:17-21節同様)エルサレム陥落の16年、前571年4月の記事。第20-26節(第11年1月7日、主の言葉)は前587年4月、エルサレム陥落の15ヶ月の記事である由。



 最高にスリリングな勝負である。原稿余白を活用したこの部分を如何に埋めるか。原稿用紙2枚分ぐらいのときもある。わずか数十字のこともある。最高にスリリングで、最高に頭を悩ませる、しかし最高に楽しい真剣勝負だ。
 まとまりのあることを書ければ申し分ないのだが、毎回満足できるものを書けているか、と訊かれたら、素直に「否」という他ない。週に一日でもそんな日があれば良い方かな。
 甚だ小心な思いだが、でも本ブログに於いてここがいちばん楽しみ、というてくれている人もいる。せめて、その人たちを失望させたり、見限られたりしないように、一日一日そのとき限りの力を注ぎ尽くして、一心に文章を書き綴るしかない。
 そんな所信表明をして自らを戒め、律したい、新年度の雨降りな今日である。◆

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第1244日目 〈エゼキエル書第29章:〈エジプトの王、ファラオへの預言〉&〈ネブカドレツァルの報酬〉withみくらさんさんかの「ただいまヤサグレ中」。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第29章です。

 エゼ29:1-16〈エジプトの王、ファラオへの預言〉
 第10年10月12日、主の言葉。エジプトのファラオとエジプト全土への預言、――
 ファラオ、ナイル川の真ん中に横たわる鰐よ。ナイル川はわがものであり、この川はわたしが自分のために作った、と驕るお前よ。わたしはお前を、鱗に付いた魚ごと引きずり上げ、地上に放置して野の獣、空の鳥の食料とする。これがお前の行く末だ。イスラエルに執ってお前は腰の弱い葦に過ぎず、摑むことも寄りかかることもままならない。
 わたしがお前に強大な剣を差し向ける。エジプトの地は荒れ野となり、町は廃墟となる。北はミグドル、南はセベネ、クシュとの国境まで。以後40年に渡って、その間これ以上に荒れた大地はなかった、と誰もが思う程にエジプトは荒れ果てる。民は離散して諸国に紛れる。すべてファラオよ、お前の驕りが招いた結果だ。
 40年後、わたしはエジプト人を諸国より集め、もう一度再興させ、繁栄を回復させる。それはささやかな王国となる。それはどの国よりも小さく低い国となり、もはやお前を頼りとするものはどこにもない。イスラエルもその後はお前を頼ることなく、またそれゆえにエジプトを頼りとして犯した罪の数々を思い起こす。そのときかれらイスラエルは、わたしが主なる神であることを知るようになる。

 エゼ29:17-21〈ネブカドレツァルの報酬
 第27年1月1日、主の言葉。バビロニア王ネブカドレツァルへ、――
 かつてわたしはネブカドレツァルをティルスへ差し向け、消耗多く労苦多かった戦をさせた。対ティルス戦に於いてバビロニア王はこれといった報酬を受け取ることがなかった。
 代償として、わたしはかれにエジプト全土を与える。ネブカドレツァル王とバビロニア軍がわたしに代わって、これらのことを成し遂げるからである。

 「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。」(エゼ29:21)ex;詩132:17,ルカ1:69-70(ルカ父ザカリヤの預言)

 最後に引用した一節が語るのは、一旦断絶した(?)ダビデ王朝の回復と、そこからの新たなる王の誕生の預言であります。この一節がメシア預言とされる所以であります。
 さて。イスラエルには永く最大の軛となったエジプトへ向けた、万軍の主の厳しい言葉がエゼキエルの口を通して語られてゆきます。それは壮絶なものであります。エジプトの神を一掃し、全地を滅ぼし尽くし、永遠の死者の住まう場所へ送りこむ。そんな内容がこれから4章に渡って繰り広げられます。
 ハーレイ他に拠れば第1-16節は前587年1月、エルサレム陥落18ヶ月の記事。第17-21節は前571年4月、エルサレム陥落16年の記事。
 ちなみに本章と第32章冒頭に於いてファラオはナイル川の鰐にたとえられます。



 噂は本当なの? と思うことはある。態の良い口上なのか、と疑心暗鬼になりもする。そこまでしなくてはならない理由が? しかし、わたくしはあなたを信じています。◆

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第1243日目 〈エゼキエル書第28章2/2:〈シドンへの預言〉withサティを聴きながら原稿を浄書する。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第28章2/2です。

 エゼ28:20-26〈シドンへの預言〉
 人の子よ、シドンへ顔を向けて預言せよ。わたしはこういう、――
 シドンよ、イスラエルの万軍の主がお前に立ち向かう。お前の真ん中でわたしの栄光が現される。そこでわたしは裁きを行い、自分の聖なることを示す。
 町には疫病が流行り、人々が倒れてゆく。剣が周囲から迫り来たって、町中にて人々が倒れる。死屍累々、シドンの町はそうなる。
 そのとき、かれらはわたしが主であることを知るようになる。
 もはやイスラエルを苦しめる茨も棘も臨むことはない。
 わたしはイスラエルを離散した先の国々から呼び集める。「彼らは、わたしがわたしの僕ヤコブに与えた土地に住む。彼らはそこに安らかに住み、家を建てぶどう園を植え、安らかに住み着く。彼らを侮辱する周囲のすべての人々に、わたしが裁きを行うからである。」(エゼ28:25-26)

 実はシドンにさしたる罪はなく、ティルスのとばっちりを受けただけ、というのが、正直な感想であります。イスラエルに対してシドンがなんらかの行いをした、という記述は果たしてあっただろうか。
 イスラエルの神なる主の怒り、憤りがティルスだけでは収まらず、同じフェニキア人の町、同じ交易都市というだけでとばっちりを蒙ったシドン。旧約聖書に登場する町という町のなかで最も冗談では済まされない扱いを受けた町、として記憶されるに相応しく、迷惑千万な八つ当たりをされた町、ということで、読者の胸に残る町となるでしょう。
 そのくせ、最後でイスラエルの回復と安寧を語っちゃうのですから、もはや何をか況や、という心境であります。やれやれ。わがままな神様だこと。



 最近、本ブログの原稿を書いているときは(PC浄書時)、エリック・サティを流していることが多い。次いで掛けることが多いのはラッススやヴィクトリアあたり。
 サティは一時期iPodに入れるか悩みました。ピアノ曲は案外と鼓膜を刺激して、むしろ落ち着かない気分になったり、苛立たせられたりしたので(感じ方には個人差があります)断念。借りてきたCDラジカセで夜な夜な聴いている次第です。
 〈家具音楽〉を提唱したサティ。それらは所謂BGMの先鞭でもあった。書きながら聴いていると、すこしも作業の邪魔をしない点に今更ながら感嘆させられます。でもこれが、作曲家の望んだ聴き方なのだろうな、と伝記や文集を読んでいると思わせられたり。
 聴覚はたしかにサティを認識しているが、意識が引きずられることはない。それゆえ(?)ずっと突っこんだ聴き方もできる。摩訶不思議な音楽/作曲家。空気のような存在感を持つ、20世紀らしい音楽といえましょう(ビル・クウィスト:『エリック・サティ・ピアノ作品集』BVCW25010)。
 原稿浄書の折はサティの音楽にお出まし願うことが多くなりそうです。◆

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第1242日目 〈エゼキエル書第28章1/2:〈ティルスへの預言〉3/3with竹内政明『「編集手帳」の文章術』を読みました。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第28章1/2です。

 エゼ28:1-19〈ティルスへの預言〉3/3
 エゼキエルよ、ティルスの統治者にいえ。お前は諸国との交易によってもたらされた富ゆえに高慢になり、自分を(あろうことか)神になぞらえた。お前は知恵と悟りを駆使して富を築き、それがためにお前の心は高慢になったのだ。
 わたしは周辺諸国のうちで最も暴虐な外国人をお前に立ち向かわせる。お前の栄華を汚し、お前を陰府へ、冥界へ突き落とす。抗うな、お前は人であって神ではない。ティルスの統治者よ、わたしはお前を、未だ割礼を受けていない者、即ち男でありながら戦士ではない男として、外国人の剣にかかって死ぬ。

 ティルスへの嘆きの歌/哀歌(一部略)
 「お前はあるべき姿を印章としたものであり/知恵に満ち、美しさの極みである。/お前は神の園であるエデンにいた。/あらゆる宝石がお前を包んでいた。/(中略)(お前は交易がもたらした富でより美しくなった。)お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。/わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした。/お前たちは悪行を重ね、不正な取り引きを行って/自分の聖所を汚した。/それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ/お前を焼き尽くさせた。/わたしは見ている者すべての前で/お前を地上の灰にした。/諸国の民の中で、お前を知っていた者は皆/お前のゆえにぼう然とする。/お前は人々に恐怖を引き起こし/とこしえに消え失せる。」(エゼ28:12-13,17-19)

 人間は誰しも権力を掌中にすると己を神、或いはそれに準じた存在になぞらえたくなるらしい。それが愚かな所行と果たして言い得るか? 権力者にしかわからない情というものもあるのだろうが……。
 が、いずれにせよ、必ずしっぺ返しは喰らう。このティルスの統治者ばかりではない。洋の東西を問わず、歴史を繙けば容易に例となる人々を、現代のわれらは見出すことができる。自分はそうならない、とは誰にもいえまい。どれだけ小さな組織でも、斯様な人物を生み出すことはできるから――。



 家にこもって本ばかり読んでいる。小説はたった一冊。他は新書に文庫、実用書の類だ。必要あっての読書でなく、ただ興味にまかせての雑食読書。なんでもござれ……とは聞こえもいいが、そのうち消化不良を起こして寝こむんじゃないか。いまから気を揉んでいる。
 読売新聞を購読し始めてどれぐらいになるだろう。訊けば、生まれるずっと前から、と親は答える。ざっと半世紀以上はお世話になっている計算だ。一面の左端に掲載されるコラムを熱心に読むようになったのがいつ頃か、これも記憶にないが、記事と一緒にコラムを読んで出勤する日が続くうち、書き方に関心がゆくようになったのは物書きの習性かも。
 雑多に各紙を読み散らすこと多いわれなれど、読売新聞の「編集手帳」にいちばん安心と信頼を感じる。そのコラムの書き手、竹内政明氏の新著『「編集手帳」の文章術』が出た(文春新書)。ジャンルが違えども文章の書き手は虚心坦懐に読んでみるといい。頷くところ多々あり、文章を書く意識に変化も生じよう。わたくしはこの一冊を机上に、辞書などと一緒に並べることに決めた。
 ほぼ定期的に中公新書ラクレから刊行される「編集手帳」と併せて読んでみるのもオススメである。◆

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第1241日目 〈エゼキエル書第27章:〈ティルスへの預言〉2/3with遍歴……遍歴?;SMAP「退屈な日曜日」を枕にして。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第27章です。

 エゼ27:1-36〈ティルスへの預言〉2/3
 装い麗しきティルスよ、汝は美しい。その美しさはお前を要と思うた者たちの仕業。お前の国境は海の真ん中にある。海の出入り口を支配し、多くの島々を廻って諸国民と取り引きを行ってきた。その成果として、いまのお前の美しさがある。
 アラブ諸国、ダマスコ、アラム、エデン、ラマ、アシェル、タルシシュ。そうして、イスラエルとユダ。その他の国々。これらがお前の交易相手国だ。かれらはお前を豊かにし、お前はかれらを豊かにした。
 が、あるとき、お前の乗った船が真ん中で東からの受けて難破して、沈んだ。滅びの日の訪れだ。人々はお前のために泣き、頭から塵をかぶり、灰のなかを転げ回る。かれらは頭髪を剃り、粗布をまとって、悲痛な叫びをあげる。そうして挽歌がうたわれる;他でもない、ティルスよ、お前のために。果たしてどこにティルスと同じような目に遭った経験のある者がいるだろう?
 「今、お前は海で難破し、水中深く沈んだ。/お前の積み荷とすべての乗組員は沈んだ。/海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き/王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。/諸国の民の商人は/口笛を吹いて、お前を嘲る。/お前は人々に恐怖を引き起こし/とこしえに消え失せる。」(エゼ27:34-36)

 覚えておいででしょうか。ティルス(新改訳では「ツロ」ですが)はかつて、イスラエルが建国された際、ダビデ王に王宮建築に必要なレバノン杉や数多の職人を提供し、また、ソロモン王の御代には神殿建築にやはり同様に資材を多く提供し、かつ青銅の鋳造技術までも提供しました。
 斯様にティルスという町はイスラエルとの結びつき強く、裏を返せば如何にこの町が当時より繁栄を極め、聖書本文にも本ブログにも書いた如く周辺諸国への影響力が大きかったかを窺わせるにじゅうぶんと申せましょう。ざっと思い返してみても、ティルス程商業盛んな町という意味で旧約聖書に取り挙げられた町があるのを知りませんし、また、交易相手諸国がその内容含めてこうして列記された例があることも知りません。
 ではティルスという町が旧約聖書、就中イスラエルにとって如何なる存在であったか? 既に述べたましたが、イスラエル建国と国家の礎が築かれるのに果たした役割の大きさは無視できません。ティルスは多くの資材と人力をイスラエルへ送りこみ、王宮と神殿というイスラエルのアイデンティティを成す建築物の建立に大きく貢献しました。それぞれの記述を読む限りではこれらの事業はとてもでないが、イスラエル単独で果たし得たとは思い難い。
 即ちそれはティルスの資力が他国にとって無視できぬ程のものであったことを物語っているように思うのであります。だからこそ、上述したイスラエル以外の国々、たとえばアラブ諸国やダマスコ、タルシシュなどとの交易が成立したのであろう、と考えるのであります。



 SMAP「退屈な日曜日」を聴いていて、改めて仰け反った。ぼくの休みは日曜日できみの休みは水曜日、だからデートはいつもトワイライト・タイム。そんな一節がある。互いが社会人で、しかも同じ会社に勤めているのではないとしたら、こんなことはいつだってあり得よう。
 わかるなぁ、と思うのは過去にそんな経験があるからだ。バスガイド然り、元喫茶店主(正確には違うけれど)然り。みんな休みは不定期か、平日で、たとえわたくしが平日休みであっても曜日が合わなくてはあまり意味がない。デートはいつだってトワイライト・タイムだった。
 が、そんなことが通用するのは始まりの頃だけ。やがて軋轢が生まれる。それなりに無理して時間を算段して、待ち合わせ場所まで趣くことに無為を感じるようになる。物理的には近距離なのに、心は極めつけの遠距離だ。物理的意味合いでの遠距離恋愛の方が順調に愛を育むことができるのではないか。そんな疑問を抱いたことは、一度や二度じゃあ到底済まない。
 たぶんお互いに無理を感じていたのではないかな。やがてわれらは別々の道を歩くことになり、彼女らは旬日経ぬうちに勤め先で相手を見附けて、少なくともバスガイドは震災の困難を乗り越えてしあわせに暮らしておる。
 元喫茶店主はどうだか知らぬが、別れ際の一言、あの捨て台詞は明瞭に覚えている。曰く、「わたしが休みの日にずっと一緒にいられない人は嫌なんです」と。なんだかお気に入りの台詞なんだよな、これ。そういえばこの人にはもう一つ、名台詞があった、「しょっぱい仕事のあとはビールが美味いぜ」っていう奴。あれもこれも、いつか小説で使おうと思うている。
 さて。その後は特に付き合う相手もなく現在に至る。その時々で片想いの相手はできたけれど、ああ、いつまでも尾を引く程に心へ深く残り、いつまでも変わることなく想い続けられて、せめて心臓の鼓動が停まるその瞬間まで一緒にいたいと願えたのは、亡き婚約者だけだったな。
 が、フリーランスも3年続くと、淋しいを通り越して諦念すら覚える。……ってハンス・ザックスか、俺は。
 SMAP「退屈な日曜日」;アルバムSAMPLE BANG!』所収(2005年)。◆

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第1240日目 〈エゼキエル書第26章:〈ティルスへの預言〉1/3with押し寄せる現実を拒むように〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第26章です。

 エゼ26:1-21〈ティルスへの預言〉1/3
 第11年某月11日、主の言葉。ティルスへの預言、――
 地中海を臨む商港都市ティルス。かれらはエルサレムの陥落を喜んだ(※)。曰く、わたしは富み、お前は廃れた、と。
 わたしは諸国を用いてお前に立ち向かう。お前は攻撃されて占領されて、略奪される。また、わたしはバビロニア王ネブカドレツァルにお前の命運を委ねる。かれはかれのやり方で、かれの論理と正義を以てティルスを打つ。荒廃した町、汝、即ちティルスが再建されることはない。
 バビロニアの剣の下に町が一つ、一つ、と消えてゆく。倒れた響きが遠近に轟き、海の支配者たちを怯えさせ、かつ、呆れさせる――ティルスの傲慢ゆえに。かれらはティルスのために嘆きの歌をうたう。
 わたしはお前を大水で覆う。穴/冥界へ下る衆と一緒に〈古の民〉即ち永遠の使者たちの仲間入りをさせる(エゼ26:20)。
 「お前を穴に下る者たちと共に、永遠の昔からの廃墟のような深い地に住まわせ、お前が生ける者の地で栄誉をもって住むことができないようにする。わたしはお前を恐怖に落とす。それゆえ、お前は無に帰する。人が探し求めても、お前は永久に見いだされることがない」(エゼ26:20-21)、と主はいった。

 ※エルサレムはティルス同様の通商都市でありました。北と南を結び、東と西をつなぐ交易路の十字路に位置していたエルサレム。ティルスがエルサレム陥落を知って大喜びしたのは、商売敵が倒れて再起不能に陥ったからに他なりません。イコール、富が自分(ティルス)の懐へ一極集中し、結果、他に比肩するものない程のお金持ちになった。だから、いまや見る陰もなくなったエルサレムを呵々大笑したのであります。
 こういうところ、現代でもありますよね。今も昔も変わらないのは富への執着、お金への妄執でありましょうか。溜め息吐きたいけれど、うむ、さんさんかもやはりお金の魅力には抗いきれぬ俗物であります。そこまで達観できないし、さ?

 バビロニア王ネブカドレツァルのティルス包囲は約13年に渡った、といいます。かれはユダ王国滅亡/エルサレム陥落を果たすと、次いでティルス制圧に専心しました。バビロニア軍によるティルス包囲は前587-574年とされ、地中海を臨むこの商港都市が落ちたのは――正確な年代は不明ですが――前575年頃、といわれております。
 この後にペルシア王朝が勃興すると、ティルスは必然的にペルシア領となり、更にはアレクサンドロス大王に征服されました。エゼキエルは主の言葉として、ティルス再建は決して行われない、と明言しましたが、それは成就されたのでありました。



 昔働いていた不動産会社から、戻ってこないか、と誘われました。正直、とっても嬉しい。理由あって退職してかれこれ10年近くになろうとしているのに、こうして誘ってくれるなんてまずあり得ない話だからだ。
 むろん、これまでまったく疎遠だったわけではない。即かず離れず不動産業界とは接してきたし、住宅ローンについての本も一冊書き下ろした。会員誌に掲載される記事も結構書いてきた。それが縁で半年に一回ぐらいは元同僚・上司と酒を酌み交わす機会もあり。
 わたくしの退職を知って、それとなく声をかけてくれた当時の直属上司に感謝。それを後援してくれている現在は本社勤務の上長に感謝。なによりも当時のチームメンバ、並びに同期に感謝。
 でも、わたくしはたぶん戻れない。この10年弱で大きく変わった。あとから勉強しても追いつかないぐらいの変化に思える。これからもなんらかの形で住宅や不動産というものに関わってゆきたいけれど、営業として現場に出て商談、なんて、どうにもいまのわたくしの役目ではない。でも、斯様に辞めたいまでも気にかけてくれる人たちがたくさんいることをありがたく、幸せに思うのです。あの会社で働いていて良かったなぁ……。◆

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第1239日目 〈エゼキエル書第25章:〈アンモン人への預言〉、〈モアブへの預言〉他with遅ればせながら、ブログのタイトルを変更しましたよ、ってお知らせさせていただきますね?〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第25章です。

 エゼ25:1-7〈アンモン人への預言〉
 (主による諸国への預言。アンモン人へ、――)
 お前はわたしの聖所が汚されるのを見、イスラエルの地が荒らされてゆくのを見、ユダの人々が捕囚となって連れてゆかれるのを見た、お前はいずれのときも、あはは、と笑い転げた。それゆえにわたしはお前を東の人々の手に渡す。お前たちの土地はかれらのものとなり、都ラバは牧草地のようになる。
 アンモン人はユダの没落を嘲笑した。ユダの没落を大いに喜んだ。
 わたしはお前を裁き、侵略者たちの為すがままに任せ、アンモン人を諸国民のなかから絶つ。わたしはお前を決して、そう、決して許さない。諸国から滅ぼし尽くしてこの地から断つ。今後、地上の誰彼がアンモン人を思い起こすことはない。
 そのときだ、お前たちがわたしを主であると知るのは。

 エゼ25:8-11〈モアブへの預言〉
 (主による諸国への預言。モアブへ、――)
 モアブとセイルは一緒になってユダの末路について、まるでこうなると知っていたかのように、したり顔で発言した。ゆえ、わたしはモアブの脇腹を突き、モアブの町という町、モアブ全土を慈悲も例外もなく滅ぼし尽くす。
 アンモン人同様、モアブも東の人々の手に渡し、所有させる。わたしがモアブを裁く。そのとき、かれらはわたしが主であることを知るだろう。

 エゼ25:12-14〈エドムへの預言〉
 (主による諸国への預言。エドムへ、――)
 エドムはユダに反旗を翻し、復讐するに及んだ。復讐は大いなる罪である。ゆえにわたしは手を伸ばし、エドムの地から生きとし生けるものすべてを断ち、荒れ地とする。わたしはイスラエルを用いてエドムへ制裁を加える。かれらはわたしの復讐を知るだろう。

 エゼ25:15-17〈ペリシテへの預言〉
 (主による諸国への預言。ペリシテへ、――)
 ペリシテはこれまで何度となくイスラエルと衝突し、憎しみゆえにイスラエルを滅ぼそうとしてきた。わたしはペリシテへ手を伸ばし、クレタ人を断って海辺の民をこの世から一掃する。わたしはかれらに、大いなる憤りを以て復讐する。そのときかれらはわたしがイスラエルの神なる主であると知ることだろう。

 一連のエルサレム滅亡に関する預言が一段落したあとでエゼキエル書が言及するのは、イスラエル/ユダの周辺諸国への預言の数々であります。
 まずは手始めにたびたびイスラエルへちょっかいを出してきたアンモン、エドム、ペリシテなどへの預言。次章以後、ティルス、エジプトというイスラエルにとってゆめ看過できぬ国々に対しての預言が続きます。
 イザヤ書でもエレミヤ書でも同様の預言はされてきましたが、どうにも読んでいる限り、いちばん激烈なのはこのエゼキエル書である、と思います。



 既にお気附きと思いますが、ブログのタイトルを変更しました。たしか、今月18日だったかな。これで当面は落ち着きそうです。
 エゼキエル書が終わったあとにするんじゃなかったっけ? そんな諫め言が聞こえてきそうですが、なに、気にしない、気にしない。予定は未定にして決定に非ず、とはさんさんかが大好きな言葉の一つであります。◆

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第1236日目 〈エゼキエル書第24章:〈火の上の鍋〉&〈エゼキエルの妻の死〉withもうわれらは日陰の身ではない;永野護『The Five Star Stories』連載再開〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第24章です。

 エゼ24:1-14〈火の上の鍋〉
 わたくしエゼキエルが捕囚としてこの地へ来てから9年目の10月10日。バビロニア王ネブカドネツァルがわが故国ユダの都エルサレムへの攻撃を開始した。同じ日、主の言葉が臨み、反逆の家イスラエルに“火の上の鍋”の喩えを用いてエルサレム攻撃を語れ、といった。わたくしはそうした。
 お前の不貞をわたしは清めようとしたが、無理だった。だからわたしはお前の汚れはわたしの憤りが収まるまで清められることはない。主であるわたしがこれを語り、実行する。惜しむことも憐れむこともなく、お前の背きに従ってわたしがそれを裁く。

 エゼ24:15-27〈エゼキエルの妻の死〉
 主がいった、エゼキエルよ、わたしはお前の目から喜びを奪う。代わりに、悲しみと、哀惜と、慟哭を与える。嘆いたり、泣いたりしてはならない。涙流すことなく、声あげることなく、悲しめ。喪に服したり、口髭を覆ったり、嘆きのパンを食べたりしてはならない。
 ――翌る朝、わたくしの妻が逝った。わたくしは主が告げた通りにした。すると人々が寄り来たって、あなたの行動がわれらにどんな意味を持つのか教えてほしい、と訊いた。わたくしは次のように、主の言葉をかれらに教えた。曰く、――
 「わたしは、わたしの聖所を汚す。それはお前たちの誇る砦であり、目の喜び、心の慕うものであった。お前たちが残してきた息子、娘たちは、剣によって滅びる。わたしがしたように、お前もするようになる。(中略)お前たちは自分の罪ゆえに衰え、互いに嘆くようになる。エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。すべて彼が行ったように、お前たちもするであろう。すべてが実現したとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(エゼ24:21-22,23-24)

 「人の子よ、わたしが彼らから、その砦、栄光の喜び、目の喜び、心の望みであるもの、息子、娘たちを取り去る日、その日、逃れて来た者が来てあなたの耳に告げる。その日に、あなたは逃れて来た者に向かって口を開いて語り、もはや黙しているな。あなたは彼らに対してしるしとなり、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ24:25-27)

 配偶者の死を悲しむことも大っぴらに、極普通の人のようには出来ない。陰でこっそり、涙流さず声あげず、ひっそりその死を悼め。それはそれで格好いいのかも知れないし、一種のダンディズムなのかも知れないけれど、ちょっとな……、と、やり切れぬ気持ちになるのも事実であります。
 このときの主の言葉、残酷ですよね。男は涙を見せぬもの、なんてガンダムからの引用は時期的にも気分的にもしたくない/できないのだが、そうはいっても現実と理想は別物なんだよな……。男たる者、常にハードボイルドに生きるわけにはいかないのだ。この御時世、男はとかく肩身が狭く、生きづらいんだよな。だからこそ、また密かにチャンドラーが売れ、ハメットやロス・マクが読まれ、なによりもホレイショ・ケイン様の生きざま・言動に憧れ、羨望の溜め息をわれらは吐くのだ……。
 閑話休題。
 預言者という公の立場にある以上、私情は捨てて公務に徹しよ、ということか。成る程。そうか、召命されてこれを受けるというのは、すべてを抛って主と民の間に立ち、無私の精神で両者を結び付ける、就中堕落した民の矯正と荒ぶる主の憤りを鎮めるのが職務の専らであるわけか。それによってのみ生きよ、というわけか。……やってられませんわ。いや、おいらの意見なんて、イスラエルの神なる主にはどうでもいい話だろうし、申し訳ないが、わたくし自身もそれを望んでおる。えへ。



 どうやら約束は果たされるらしい。永野護『The Five Star Stories』連載再開の件である。
 長かった、と嘆息するどころの話ではない。嘆息してみたって洩れる息もないぐらいの歳月、われらは待たされたのだ。21世紀になって今年で13年、連載期間と休載期間を比較すれば後者の方がはるかに長い(「現在の」休載は6年に及ぶ。それ以前にも合計2年分ぐらいの休載があったように記憶するが……?)のは、事情を知らぬ方が見れば驚天動地、まさしく噴飯ものであろう。連載開始から4半世紀経つのに単行本12巻(『リブート』7巻)というのには、或る意味呆れ返る。だが、――
 だが、われらはひたすら待った、待つよりなかったのだ、他の物語に浮気しようなんて気持ちは起きなかった、なぜならこれ以上にスペクタクルでファンタスティックかつエゴイストな漫画など、世界のどこを求めても存在しないだろうからだ。われらはやがてもたらされるであろう朗報を信じて――その実、アテにすることなくなかば諦め半分で、それでも作者の言葉を信じて待ち侘びたのだ。ときどき発売される関係図書をお布施代わりに購入し、読み終わればまたすぐに読み返し、解説やイラストを細部まで検分し、来たる魔導大戦の再開に備えてきたのだ。これを信者といわずになんというのか?
 しかし、作者は宣言通り、映画『ゴティックメード』完成後時間を置くことなく、あのなんでもありな稀有なる神話/お伽噺『F.S.S』の執筆を再開し、われらをさっそく裏切ってくれる気満々な、25年前と変わらぬこの人そのままな挑発的かつ信念に満ちたメッセージを新刊『F.S.S トレーサーEx.2』に寄せてくれた。
 もうわれらは日陰の身ではない。徒党を組んで、叫ぼう、“VIVE LA,F.S.S!”と。
 だが、われらはこの喜びに浮かれて用心するのを怠ってはならない、鳴り物入りで再開した『F.S.S』がいつまた先の目処が立たぬ休載に突入するかわからないからだ。
 ところで、『リブート』購入者の何人がMHのフィギュア注文したのかなぁ……?◆

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第1235日目 〈エゼキエル書第23章:〈オホラとオホリバ〉2/2with未だ流れ続ける血を止める方法〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第23章です。

 エゼ23:36-49〈オホラとオホリバ〉2/2
 人の子よ、オホラとオホリバに告げるがよい、と、主がわたくしにいった。彼女らは姦淫を繰り返し、偶像を作ってそれを崇めた。それだけに留まらず、聖所を汚し、安息日を汚した。それも自分の息子、娘を偶像にいけにえとしてささげたその日に。これが行われたのは、わたしの家のなかである。
 オホラとオホリバは遠方の地より男らを招いた。男たちはあたかも遊び女の許へ通うかのようにオホラとオホリバを訪ねた。二人の姉妹はかれらのために 宴を張り、淫行がされた。
 「正しい人々は、姦淫の女の裁きと血を流す者の裁きに従って、彼女たちを裁く。彼女たちが姦淫の女であり、その手が血に染まっているからである。」(エゼ23:45)
 エゼキエルよ、と主がわたくしにいった。会衆を召集せよ、オホラとオホリバに裁きを与えるために。会衆の前で彼女たちを恐怖と略奪の的とせよ。そうすることで会衆はこの姉妹を石で打ち、剣で殺す。二人の子供たちもまた殺され、家は焼かれる。斯様にしてこの地の不貞は終わりを迎える。
 「すべての女たちはこれに学び、お前たちの不貞に従うことはない。お前たちの不貞の報いはお前たちに帰し、お前たちは偶像による過ちの責めを負わねばならない。そのとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(エゼ23:48-49)

 個人的にエゼキエル書のピークこそ本章と思うています。読み応えあり、胸奥にずどん、と落ちる具合も他を圧していて、おまけに印象が鮮やかに何日も残る。これまで本書を読んできて斯く書く思わしめる章、挿話はなかったように記憶します。精々が神の顕現と出喰わした冒頭部分ぐらいか。……いま聖書をぱらぱら捲ってみたが、そうだ、細かい部分で記憶にある箇所は幾つもあるが、一章丸々ということになるとこの第23章だけであった。

 以下、昨日保留にしたさんさんかのコメントです。

 サマリアとエルサレムが並べて述べられるのは大概、両方甚だしく悪いことをしたけれど、それでもエルサレムの罪に較べればサマリアの方がましだった、という具合のものでありました。
 本章(1/2,2/2いずれも)がちょっと面白く感じたのは、サマリア(オホラ)とオホリバ(エルサレム)が常に同列にあって批難の対象となっている点です。どちらも同じぐらい悪い。“悪い”という事実が重要なのであって、その内容、その精査、その質の軽重に拘ることはありません。――これはおそらく言い換えれば、神の前に万人は平等である、ということでしょう。神の降す怒り、神がかざす正義、神が示す愛と慈しみに、所謂〈格差〉はない。これなん博愛主義といふ、か……。
 ここでわたくしは或る本で読んだことを思い出します。たしか山村修の本であったように思うが、新約聖書のなかの挿話に触れた箇所である。マタ20:1-16〈「ぶどう園の労働者たち」のたとえ〉。
 朝からずっと働いていた者も、夕暮れ前の一時間だけ来て働いた者も、報酬は等しく一デナリオン(デナリ)であった。朝からいた者たちは監督に訴えた。かれはこういった、何時間働いていようと一日の報酬は等しく一デナリオンという契約である、と。これこそキリスト教社会の基盤を成す博愛主義の芽生えであり、西洋人は聖書のこんな挿話を繰り返し繰り返し聞いてきたから、優れた社会保障制度ができあがったのだ、とその著者はいう。むろん、昨今はそうした制度にもヒビが入り、機能しなくなってきている部分もあるそうだが、それでも破綻しないのは、やはり西洋社会がこれまでに蓄積してきた経験によるものだろう。――ふと、そんなことを思い出して書いてみたのであります。



 悔恨ばかりが胸に残る。
 自らの咎により抉られた傷からは、留まることなく赤い血が迸り出ている。足許には、歩いてきた道には、黒々とした血の跡が残っている。
 未だ血は流れ落ちるのを止めようとしない。もうたっぷりと涙同様に流したはずなのに、……。
 血を止める方法を、たったひとつだけ知っている。◆

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第1234日目 〈エゼキエル書第23章:〈オホラとオホリバ〉1/2with4月の楽しみ;スティーヴン・キング&村上春樹〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第23章です。

 エゼ23:1-35(49)〈オホラとオホリバ〉1/2
 かつて母を同じうする二人の娘がいて、共にわたしのものとなり、それぞれに子供を設けた。姉の名をオホラ即ちサマリアといい、妹の名をオホリバ即ちエルサレムといった。彼女たちは揃って淫行に耽り、多くの男たちへ体を委ね、自らを汚した。姉は専らアッシリアの支配階級、富める者らへ身を任せた。「それゆえ、わたしは彼女をその愛人の手に、彼女が欲望を抱いたアッシリア人の手に渡した。彼らは彼女の裸をあらわにし、彼女の息子、娘たちを奪い、ついに彼女を剣で殺した。このように彼らは彼女を裁き、彼女は女たちの物笑いとなった。」(エゼ23:9-10)これが姉オホラの末路である。
 妹オホリバはどうであったか? 彼女は姉よりも非道かった。欲情は更に激しく、淫行はより放埒となった。彼女はアッシリア人のみならず、カルデア人にも目を留め、自ら使者を遣わしてかれらを呼び招いたのである。「バビロンの人々は愛の床を共にするために彼女のもとに来たり、淫行をもって彼女を汚した。彼女は彼らと共に自分を汚したが、やがてその心は彼らから離れた。彼女がこれ見よがしに姦淫を行い、裸をあらわにしたので、わたしの心は、姉から離れたように彼女からも離れた。彼女はかつてエジプトの地で淫行を行った若いころを思い起こして、淫行を重ね」(エゼ23:17-19)、「彼女はエジプトでその若い乳房を握られ、乳首を摘まれた若い日の不貞を再び味わった」(エゼ23:21)のである。
 オホリバよ、わたしはお前にこうする。お前が心を離した男たちを武装させ、立ち向かわせる。わたしがお前をかれらに委ねたので、かれらはかれらなりのやり方でお前を裁く。わたしは熱情を以てお前に向かい、かれらは憤りを以てお前をあしらう。かれらはお前の息子、娘たちを遠くへ連れてゆき、残った者は火に焼き尽くされる。連れてゆかれた者は、わたしによって不貞と淫行を止めさせられ、もはやエジプト以来のそれを思い起こすことはない。
 「わたしはお前が憎む者の手に、既にお前の心が離れてしまった者の手にお前を渡す。かれらは憎しみをもってお前をあしらい、労苦によって得たものを奪い、お前を裸にして捨てる。お前の淫行と不貞と姦淫は行い、裸にされて裁かれる。これらのことが臨むのは、お前が諸国民と姦淫を行い、彼らの偶像によって身を汚したためである。お前は姉の歩んだ道を歩んだので、わたしは彼女の杯をお前の手に渡す。」(エゼ23:28-31)
 「お前はわたしを忘れ、わたしを後ろに投げ捨てたのだから、不貞と淫行の責めを自分で負わねばならぬ。」(エゼ23:35)

 さんさんかのコメントは明日に廻します。書いてみたら意外と長くなってしまったので。
 あの。〈カルデア人〉=〈バビロンの人々〉、これはもうおわかりですよね?
 エゼ23:31他にある「杯」について僅かながら付記を。個々の文脈で若干意味合いは変わることありと雖も、杯は概ね神の裁きや主の怒り、或いは災いなどを象徴することが多い。引用箇所、また続く韻文の部分についても然りであります。ん、インディ? あれは聖杯(グラール)伝説でしょ。もうちょい先の時代のお話しだね、それは。
 うーん、韻文の部分も引いておきましょうかね、まだ時間はあるし。曰く、――「お前は嘲られ、侮られる。/杯は満ち溢れている。/お前は酔いと悲しみで満たされる。/恐れと滅びの杯/お前の姉サマリアの杯/お前はそれを飲み干して/杯のかけらまでかまねばならない。」(エゼ23:32-34)
――嗚呼、お前は酔いと悲しみで満たされる、か……。



 今月のお楽しみはプルースト『失われた時を求めて』第3巻と三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』第4巻(出たのは先月だが買ったのは今月なので、ここでカウントさせてね!)、西崎憲編訳『短編小説日和 英国異色傑作選』、永野護他『F.S.S トレーサーEX.2』であった。あ、本の話ね。
 で、来月4月はどうか、というと、これもまた数的には心細くて、段々と買いたい本が消えてゆくような淋しさと、恐ろしさと侘びしさをも覚える昨今でありますが、それでも今月を遥かに上回るビッグ・タイトルが控えている(感じ方には個人差があります)、この無常のしあわせと喜び。
 ご承知の方もあろうが、1冊は村上春樹の新刊長編『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』、もう1冊は(やっと来た!)スティーヴン・キングの中編集『Full Dark,No Stars』から後半戦『ビッグ・ドライバー』である。
 村上春樹の新刊にまつわる情報はタイトルと著者コメントのみ。故にこれ以上はなにも書くべきことを思い付かぬ。が、それでも、と想像するのは書名にタイトルが紛れこんでいるからに他ならないのだが、『国境の南、太陽の西』の如く新作でもフランツ・リストの作品、その名も《巡礼の年》全3巻がモティーフとなるのかなぁ、ということ。うん、それだけです。
 もう一つのキング作品についてですが、……これは刊行されたときにまた騒ぐとします。前半戦である『1922』は未読なんだけれどねぇ……えへ。
 でも、発売日は同じだろうな? 村上春樹の新刊は4月12日刊行が決定された。キングも同じ日ですよね、単行本と文庫の違いこそあれ共に文藝春秋社ですものね……? ばらばらに買いたくないんじゃ! それだけの話。◆

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第1233日目 〈エゼキエル書第23章:〈オホラとオホリバ〉前夜〉 [エゼキエル書]

 ちょっとこの衝撃は近年に経験したなかで特筆すべきものであるように思う。
 ――なにも三島由紀夫が生田耕作先生訳ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』を絶讃したエッセイ冒頭を茶化しての書き出しではない。病院で聖書のノートを執っていて、そんな衝撃を味わう章に遂に出喰わしたのだ。
 エゼキエル書第23章〈オホラとオホリバ〉がそれである。要するに明日読んでゆく章なのですが、かつてこれに匹敵する衝撃を経験したのはソロモンによる神殿建設の件りでなかったか。あれもいまと同じ時季のことであったように記憶するが、はて、どうであったかな。
 当該章は理由あって2分割してお披露目することになる。というのも、これが主によるイスラエル/ユダ/エルサレム/シオンへの最終宣告に等しい重みを内包しているように感じられてならないからだ。否、むろん、実際のところはそんなことではないだろう。第23章を斯く感じるというのはやはり、ここを書いている数日前、或ることがきっかけで諸々の事情が発生したため、終日病院へ籠もらねばならなかったから、という、環境的心理的な面で心の深いところまで沈んでいっていたからに相違ない。――と、自分では思っているのだが、傍から見るとどうだったのだろう。
 第23章になぜ強い衝撃を受けたのか、われながら不明であるが、異様な興奮を道連れとして一ト息にノートを認められた事実を以て、わずかなりとも説明が付くような気がしてならぬのは気のせいであろうか。でも、落ち着いてノートを見返せば瑕疵の多少は目に付くこと必至だ。おまけにわが心はあれから数時間が経ついまでも興奮が鎮まりそうにない。
 既にノートはできあがっている。
 24時間を切ったいつもの時間まで、〈時〉の訪れを平静にして待っていてください。



 不定期に隠密裡に実施しているブログ原稿の見直し・訂正作業を、昨日から行っています。一部記事に初公開時に編集が施してありますが、ご了承ください。作業終了後、速やかに新稿の公開に移ります。◆

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第1232日目 〈エゼキエル書第22章:〈流血の町〉with YouTubeでマゼール=N響《ボレロ》を観ました。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第22章です。

 エゼ22:1-31〈流血の町〉
 エルサレムは流血の都。都のなかで人々の血が流され、自ら滅びの時を招く町。あらゆる罪が横行し、あらゆる悪がはびこる町。凌辱と恥辱に満ち、不正と陰謀がうずまく町。そうして、わたしを忘れたダビデの都。
 わたしはお前のなかで流された血に対して相応の報復を行う。わたしの裁きにお前は耐えられるだろうか。お前の手の力は失せないだろうか。お前たちの神なる主がこれを語り、実行する。
 わたしはお前を諸国民の間に散らし、国々に撒き散らす。お前の罪は諸国民が知るところとなる。しかし、諸国民が知ることでお前の罪は取り除かれる。
 エルサレムよ、「お前は憤りの日に、雨も降らず清められることもない土地だ。」(エゼ22:24)
 「わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、怒りの火によってかれらを滅ぼし、彼らの行いの報いをその頭上に返す。」(エゼ22:31)

 エルサレムでされた罪の暴露。その一端を示す一章であります。内容は他とさして変わるところがないのですが、まぁ、繰り返さざるを得ない程かれらの重ねた罪と背きは重く、容易に贖われるものではない、ということなのでしょう。万軍の主も大変ですネ。



 BOSEのCDプレーヤーが約10年の活躍を終えました。うんともすんとも動かなくなってから部屋に音楽が流れることはなく、たまにiPodクラシック音楽やジャズを聴いたり、まぁ、ときにはSKE48とかね、うん、そのあたりを聴いているのですが、イヤフォンなので耳への負担が結構あって毎日毎日何時間も聴いてはいられない。
 音楽は聴きたい、でも突発性難聴を経験した耳に負担はかけたくない。そんなジレンマに悩んでいた昨日、ふと、頼りになる奴が身近にいたのを思い出した。最近招き入れた新顔ゆえ、すぐにそれを重用するのを思い付けなかったのも宜なるかな、と考えるのだが、――そう、そいつの名はi-Phone5! 部屋もWi-Fi環境にあるのだから、なぜこいつをもっと早く使わなかった!? 正直にいうと、すっかり頭から抜け落ちていたんだね。えへ。
 今日のノートは昨日(一昨日ですか)書いたのだが、その間、i-Phoneを使ってYouTubeでC.クライバー=バイエルン国立歌劇場管の《こうもり》序曲とマゼール=N響の《ボレロ》を聴いて(観て?)いました。一回、読込み中に停まったけれど、仕方ないか。
 たとえば。ぼくはマゼールという指揮者、決して好きではないし、ディスクも追っかけようなんて気にはこの先もなることないだろうけれど、この《ボレロ》はフォルムが整っていてテンポもよく、存分に楽しめましたよ。やっぱり《ボレロ》って視覚が伴っていないと駄目なのかな……?
 しばらく、YouTubeでクラシック音楽の動画検索をする回数が増えそうです。◆

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第1231日目 〈エゼキエル書第21章:〈エルサレムに向けられる剣〉with原稿を仕事のあとで書くことについての諸々を、さんさんかなりに考えてみる。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第21章です。

 エゼ21:1-37〈エルサレムに向けられる剣〉
 エゼキエルよ、と主の言葉が臨んだ。テマンとダロムに顔を向けて言葉を注ぎ出し、ネゲブの森に向かって預言せよ。
 わたしはネゲブの全土に炎を放ち、その業火で以てネゲブを焦土と化さしめる。わたしは鞘から剣を抜き、良き者もそうでない者も見境なく、容赦なく殺戮する。諸国民よ、聞け。剣がわが民へ臨み、すべてのイスラエルの君候に臨む。

 (エルサレムへ。)
 バビロン王が進んで来る。かれは道の分かれ目で立ち止まった。道は二叉になっていた。一つはアンモン人の都ラバに、もう一つは他ならぬユダの王都エルサレムに続いている。
 王は占い師を呼んだ。いずれに進むべきか? 占い師が道を示した。もはや王とその軍勢に躊躇いはなかった。かれらはその道をひた走り、攻撃の準備を整えた。かれらの行く先にあるのは、ユダ王国の首都エルサレム。
 シオンの民は自らの罪、自らの背き、自らの過ちゆえにバビロニアの捕虜となる。「悪に汚れたイスラエルの君主よ、お前の日が、終わりの刑罰の時にやって来る。」(エゼ21:30)

 アンモン人と、かれらの放つ嘲りに。
 剣はお前たちを殺戮するために抜かれて、輝かんばかりの光沢を放つ。お前たちは汚れた。

 ――エゼ21:33-37がアンモン人への主の言葉となるわけだけれど、ここは何度読んでもさっぱりわからなかった。これの清書をする傍らで改めて聖書を開き、読み返してみるも、なかなか理解は進まず、ならばいっそ、全文を引いちゃおうか、と良からぬことも企んだけれど、それはやっぱり非道すぎるよね。完璧に手抜きじゃん、と反省し、けっきょく最初のノート通り、アンモン人については短くしてしまった次第であります。
 冒頭のテマンとダロム、ネゲブについては既に何度も触れてきた。それぞれに註を加えれば、テマンはエドムの一地方で住人は古来知恵者として知られていた。ヨブの友人にテマン人がいましたね。ダロムについては不明。ネゲブはユダ南方の地域でアマレク人が住んでいたが、ダビデのイスラエル統一王朝の樹立に伴い領土編入された由。
 序ながら(ん?)アンモン人はイスラエルの近親民族でたびたび大国の後ろ盾を得たりしてイスラエル/ユダから独立を勝ち取っていました。まぁ、仲が悪い、ということですな。また、バビロン王即ちネブカドネツァルが道の分岐点にいて、エルサレムかラバかで進むのを悩んだ旨、上述してありますが、あとで読む章(エゼ25)に於いてかれはラバに進撃してこれを攻略しております。
 ちなみにハーレイの本では本章を、「剣がイスラエルとアモンに対して抜かれようとしている」(『新聖書ハンドブック』P420 いのちのことば社)とシンプルに説明しております。本ブログもこれぐらい簡単にまとめられるとよいのですが……。



 本ブログ原稿を会社帰りに書くことについて、さんさんかが考察する、――
 資料が概ね揃っている場所で書くなら問題はないが、仕事帰りの一時間半ばかりを、疲れを押して読書とノートに費やすことの不便さ、不毛さ、時間のロスを痛切に感じ始めているところであります。
 おまけに山手線某駅近くのスターバックスは、スタバ独自の(っていえばいいのかな)Wi-Fi環境であるにもかかわらず、電波の入りが非常に悪くってね。サイトを開こうとすると、NTTフレッツの広告ページに飛んじゃうんだ。辞めた同僚ご推奨のWiMAXのルーターでも買って持ち歩こうか、と真剣に悩んでいます。
 早めにモバイルPCを購入しないとなぁ……。◆

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