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第1351日目 〈ミカ書第7章2/2:〈新しい約束〉withもうすぐ参議院選ですね;誇りあるニッポンを取り戻そう。〉 [ミカ書]

 ミカ書第7章2/2です。

 ミカ7:8-20〈新しい約束〉
 われらユダの民は自らの行いによって堕ちる。が、敵よ、それをゆめ喜ぶな。斯様なことがあったとしても、主はわが光なのだ。われらは罪を犯した。主の怒りを被らねばなるまい。主がわれらの訴えを取り上げて求めを実現するまでの間。
 主はわたくしを光に導く。わたくしも敵も主の恵みの御業を見る。敵はそれによって恥に覆われ、わたくしはその様子を目撃する。敵は路上の泥のように踏みつけられる。
 やがて城壁は再建され、版図が拡大する日が来る。それはアッシリアからエジプトまでであり、エジプトからユーフラテスまでである。しかし、その大地は荒涼としている。かつてそこに住まった人々が主に対して行った数々の背徳行為の結果、そうなったのだった。
 ――主よ、あなたの杖でわれらを牧してください。あなたの嗣業である羊の群れを、あなたの杖で牧してください。豊かな牧場(まきば)の森でなにものにも脅かされることなく、守られて暮らすことができるように、あなたの民を牧してください。ずっと遠い昔のように、バシャンとギレアドの間に在って、安心して、明日を憂うことなく今日の草を食(は)むことができるよう、かれらを牧してください。
 あなたの恵みの御業を目の当たりにした敵なる諸国民は、自らを恥じて口を閉ざす。沈黙するばかりか聴力を失くし、蛇のように地を這って塵を舐める。かれらは身震いしながら砦から出て来て、主の御前におののく。そうして、あなたを畏れ敬うことだろう。
 「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。/神はご自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。/主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。/どうかヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、われらの父祖にお誓いになったように。」(ミカ7:18-20)

 イスラエルの回復を約束する言葉でたいていの預言書は〆括られている。「ミカ書」も例顔ではないのですが、主を讃仰する言葉の純粋さ、真摯さ、直球振りは、12小預言書のなかでも際立っているように感じます。
 ミカはエルサレムから離れた故郷とその周辺の町や村で預言した。聞かせる対象は高位の者ではなく、むしろそうした町や村に住まう農民や商人といった人々であった。となれば、ミカの語りも雲を摑むような言い回しは避け、ずっと素朴な言葉でされた、と考えるのが自然であろう。それゆえの、<純粋さ、真摯さ、直球振り>なのかも、と思います。
 「ミカ書」は今日で終わります。12小預言書も前半部分を終了しました。読んでくださいましてありがとうございました。後半の幕開け、「ナホム書」の読書ノートは数日後から始めます。



 参議院選の投票日が迫ってきました。日曜日に用事があるならばかならず期日前投票を。
 有権者よ、ご自分の意思は固まったであろうか。知名度やタレント性、周囲の風聞に惑わされず、信じる者へあなたの一票を託そう。◆

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第1350日目 〈ミカ書第7章1/2:〈民の腐敗〉with「プーシキン美術館展」を観てきました。〉 [ミカ書]

 ミカ書第7章1/2です。

 ミカ7:1-7〈民の腐敗〉
 <終わり>を想起させる夏の果物を集める者のように、収穫期も過ぎたぶどうを探して摘む者のようになってしまった。食べられるぶどうなど、もう残っていないのに。大好きな初生りのいちじくも、どこへ行っても実っていない。嗚呼、なんと悲しいことだろう。
 いまや主の慈しみに生きる者はこの国にいない。主の前に正しい人などいなくなってしまった。皆、互いを疑惑の目で見、相手に猜疑の念を抱くようになった。悪事を企み、私腹を肥やすことに精を出すようになってしまった。しかもかれらは自分の欲望や謀り事を隠し持っている。
 最善の者ですら茨の如し、正しい者は茨の垣に劣る。お前を見張っていた者が告げる、お前の刑罰の日の訪れを。そうしてお前のなかにいるかれらは大混乱に陥る。
 「隣人を信じてはならない。/親しい者にも信頼するな。/お前のふところに安らう女にも/お前の口の扉を守れ。/息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。/人の敵はその家の者だ。」(ミカ7:5-6)
 ――いまや主の慈しみに生きる者はこの国にいない。主の前に正しい人などいなくなってしまった。が、まったくいなくなってしまったわけではない。ここにいる。主の慈しみに生き、主の前に正しくあらんとする者が、ここにいる。わたくしだ。だから、わたくしはこういう、「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。/わが神は、わたしの願いを聞かれる」(ミカ7:7)のだ、と。

 一日で済ますつもりがわけあって2回に分載した。「ミカ書」は明日で終わりです。嘘をアナウンスしてしまい、申し訳ありませんでした。
 <民の腐敗>は「ミカ書」を読んだときから、いちばん好きなところでした。最も現実的なるがゆえに最も恐ろしい箇所と思うたせいでもあります。前半はともかく、引用もした後半、第5-6節などは殊に感じる方もおられるのではないでしょうか。荒んだものを感じます。
 裏切り、密告、不信、不実、礼節の崩壊。
 まるで<魔女狩り>が日常化していた中世ヨーロッパ、17世紀後半のアメリカを、20世紀前半のナチスによる<ユダヤ人狩り>、それに伴う<ホロコースト>を、1980年代のチャウシェスク独裁時代のルーマニアを、思わせます。日本に似た時代がなかった、とはいい切れません。軍部が暴走した時代は赤新聞も非道な振る舞いを市民に対して行っていた、といいます。そうして、紀元前のイスラエルでも斯様な出来事は横行していた。
 もしかすると<民の腐敗>はなんらかの形で国家が滅びる前兆なのかもしれません。
 もしわれらが今後、そうした時代に生きることになったとしても、心のなかに、何人と雖も除いたり汚したり、蔑むことも罵ることもできない、いつまでも信じて想い続けられる<愛>を持っていよう。



 横浜美術館に「プーシキン美術館展」を観てきました。すばらしかった。これ程の<美>と出会えたことに幸福を覚えます。17世紀前半のプッサンに始まり20世紀後半のレジェに終わる、まさしくフランス絵画の300年の重み、しっかりと肌と目で心で感じてきましたよ。――おお、月並みにして紋切り型の表現で申し訳ない。
 CMでお馴染みになったルノワール「ジャンヌ・サマリーの肖像」は勿論ですが、個人的にはプッサン「アモリ人を打ち破るヨシュア」、ロラン「アポロとマルシュアスのいる風景」、ランクレ「けちな女の愛人は詐欺師」、ボワイー「プレリュード」、ロベール「ピラミッドと神殿」、アングル「聖杯の前の聖母」、フロマンタン「ナイルの渡し船を待ちながら」、ミレー「薪を集める女たち」、ゴッホ「医師レーの肖像」、シモン「突風」、マティス「青い水差し」、ピカソ「マジョルカ島の女」と「扇子を持つ女」、シャガール「ノクターン」、レジェ「建設労働者たち」が良かった。
 美術館を出てから8時間近く経ついまでも、これらの絵画をわたくしはありありと思い出すことができる。が、明日になったらおそらく鮮明な記憶は殆ど失われてしまうだろう。この不完全な記憶力がなんとも恨めしく思う刹那。これらを観て、心を動かされた事実は、忘れることはあろうけれど失われることはない。その補助として本日のブログが機能すれば「ラッキー」というべきであろう。
 観たなかで自分なりのベスト3を挙げるなら、うぅん、フロマンタン「ナイルの渡し船を待ちながら」、レジェ「建設労働者たち」、アングル「聖杯の前の聖母」かなぁ。目録もポストカードも買っていないので図版として挙げられればいいのだろうけれど、残念、本ブログは一切の図版の挿入を行わない方針でいますので、何卒ご容赦の程を……。
 本展は09月16日まで。会期中にもう一度出掛けるつもりです。◆

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第1349日目 〈ミカ書第6章:〈主の告発〉with日々を大過なく過ごせることに感謝しよう。〉 [ミカ書]

 ミカ書第6章です。

 ミカ6:1-16〈主の告発〉
 山々よ、永遠の地の基よ、主の告発を聞け。主が自分の民を告発し、イスラエルと争う。
 主がいう、――わたしがお前に対してなにをしたというのか、なにを以てお前を疲れさせたのか、と。
 わたしはお前をエジプトから導き、奴隷の家から贖った。モーセとアロン、ミリアムを遣わしてエジプトからシナイを経てカナンへ導いた。ヨシュアに率いられたお前はシティムを発ってヨルダン川を渡った。そこでわたしの御業を目の当たりにして、ギルガルに12個の記念の石を置いたのではなかったか。
 お前はわが恵みの御業を弁えよ。
――主がそういった。

 なにを持って主の前に出て、そうして額附くべきであろうか。どのような献げ物を差し出せば、主は喜ぶだろうか。自分の咎を償うために長子を? 自分の罪を償うために胎の実を?
 否! 主がなにを求めているか、なにが善であるか、既に定められ、告げられている。即ち、――
 「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)

 エルサレムよ、わたしはいつまで耐え忍ばぬばならぬのか。わたしに背く者に、不正に貯えられた富に、容量の足りない升に。不正な天秤、偽りの重り石の袋を、どうして認められようか。都の金持ちは法を退け、住民は偽りを語る。かれらは欺く舌を持っている。
 エルサレムよ、わたしはお前を撃ち、罪のゆえに滅ぼす。欲望も生活もけっして満たされることがない。わたしの目に悪と映ることを行って名を馳せた北のオムリとアハブと同じ道を行くか。「そのため、わたしはお前を荒れるにまかせ/都の住民を嘲りの的とした。/お前たちはわが民の恥を負わねばならぬ。」(ミカ6:16)

 今日は自身の備忘録も兼ねて復習をしましょう。よろしくお付き合いください。
 モアブの王バラクとベオルの子バラムの名が出た(ミカ6:5)。モーセに率いられたイスラエルがヨルダン川畔のモアブに宿営する。かれらはその直前にオグ王らアラム人を征服してきた。その強さに恐れを覚えたモアブ王バラクは占い師バラムに命じて、イスラエルを調伏しようとした。が、イスラエルの神が介入したことで、バラムは3度にわたってイスラエルを祝福する託宣を行った。(民22-24)
 バラムは自分を詰るバラク王にいった、「主の言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろ、わたしの心のままにすることはできません。わたしは、主が告げられることを告げるだけです」(民24:13)と。
 シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえよ(ミカ6:5)。シティムはヨシュア率いるイスラエルがヨルダン渡河の直前に宿営した地。民25:1と同33:48-49、ヨシュ2:1と同3:1にある。ギルガルはヨルダン渡河のあと、イスラエルが最初に宿営した地だった。無事にヨルダン川を渡り、カナンへ入れたことを感謝する記念の12個の石が置かれた(ヨシュ4:20)。シティムもギルガルもイスラエル民族にとって忘れ難い、記憶にも記録にも残る特別な場所であった。
 ヨシュアはギルガルにて民にいった、12個の石が置かれた理由を子供たちに問われたら、「イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。(中略)それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、わたしたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである」(ヨシュ4:22-24)と。
 オムリの定めたこと、アハブの家のならわし(ミカ6:16)とはなにか。かれらは北王国の王であり、共に主の目に悪と映ることをことごとく行った。殊にアハブは極悪であった。まず、オムリはクーデターによって前王ジムリの王朝を倒して権力を簒奪し、新たにオムリ王朝を立てた。また、王都をそれまでのティルツァからサマリアへ遷都した。「オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前のだれよりも悪いことを行った。彼は、ネバトの子ヤロブアムのすべての道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返して、空しい偶像によってイスラエルの神、主の怒りを招いた。」(王上16:25-26)
 一方でオムリ王の子アハブは父王のあとを承けて王に就いたあと、「ネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」(王上16:31-33)
 ミカ6:16で記される「定めたこと、ならわし」とは、おそらくかれらが北王国イスラエルにバアル信仰を広め、異教徒の娘を妻としたことが根幹にあるのは間違いないでしょう。主の道から外れて偶像を崇めるよう定めたこと、異教徒/カナン原住民との血の混交を奨励すること、どうやらこの2点がもっとも悪い行いであった、と考えるのが自然であると思います。
 ――本章はイスラエルの歴史と先行する預言者たちの主張が集約された章。歴史については以上述べた通りでありますが、預言者たちの主張については、「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)がこれにあたります。正義はアモスの、愛はホセアの、そうしてへりくだって神と共に歩むことはイザヤの思想の中核を成す主張でありました。「ミカ書」はこうした先行する預言書の内容/思想を細切れに含んでいます。
 長くなりました。
 明日で「ミカ書」は終わります。



 騒ぐ程のトラブルもなく、時間はゆっくりおだやかに流れて、定時になって退社。こんな日は久しぶりだ。平和である。安寧である。そうしてわずかの不安が残る。
 毎日の仕事が充実しているわけではないけれど、こうして働かせてもらえて日々を大過なく過ごせることが、人生3番目のしあわせ。
 明日は代休。横浜美術館で開催中の「プーシキン美術館展」に行く。今年になって初めてのような気がする、こうして展覧会に行くのは。◆

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第1348日目 〈ミカ書第5章:〈終わりの日の約束〉2/2with早朝の草刈り〉 [ミカ書]

 ミカ書第5章です。

 ミカ5:1-14〈終わりの日の約束〉2/2
 「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さきもの。/お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。/彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ5:1)
 「彼は立って、群れを養う。/主の力、神である主の御名の威厳をもって。/彼らは安らかに住まう。/今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。/彼こそまさしく平和である。」(ミカ5:3-4)

 ――アッシリアが来襲して国土を荒らし、町を壊し、城郭を踏みにじろうとしても、われらイスラエルは立ち向かってこれに抗う。そうして7人の牧者、8人の王が立てられる。かれらは剣でアッシリアを、ニムロドの国を牧す。外敵来たると雖もかれらによってわれらは救われる。
 ヤコブは獅子、羊の群れのなかにいる若獅子のよう。進めば相手を踏みつぶし、引き裂けば相手は助からない。敵へ手をあげれば、すべて倒れる。

その日が来たら、と主はいう。イスラエルのなかから軍馬と戦車を滅ぼし、町と砦を撃ち壊す。一切の偶像崇拝と異教信仰がイスラエルから絶たれる。祭壇も祭具も皆一様に。
 それを主が行う。斯くしてイスラエルは清らかとなり、回復する。

 行政単位としての町や砦は、もはや神の前になんの意味も持たない。先日の繰り返しになりますが、ただ主により統治される永遠の神の国があるだけだ、と、預言者ミカは主張するのであります。かれの主張が当時の人々にとってどれだけ耳を傾ける価値があったか知る術はありません。が、アモスやエゼキエルのような激烈さを欠く分、エレミヤのような嗚咽と湿っぽさを孕んでいない分、それを聞く土地の人々にはわかりやすく、却って信じられるものを感じたかもしれない、と思うのであります。
 ベツレヘムに関して少々。エフラタはベツレヘムの旧名か、或いは近郊にあった町だが伝承が進むにつれて2つは同一視されるようになった、とされます。引用もしたミカ1:1はメシア預言であるのはお読みいただけばわかりますが、メシアがベツレヘムで生まれる、と記すのは「ミカ書」だけであります。その人は永遠の昔に存在した王の再来である。即ちメシアは第2のダビデ王である。ミカの故郷からそれ程遠くない村ベツレヘムに生まれるその人は、名をイエスをいいます。
 ニムロドの国とはどこか? この文脈にあれば、アッシリアの神ニムルタである、とする考え方が自然でありましょう。その上で「ニムロドの国」を「神ニムルタを崇めるアッシリア」と判断して文章を作りました。また、アッシリアとの並記によりこれをバビロニアの神ヌ・マラドとする考えもあるらしい。ミカの時代、バビロニアはアッシリア領であったから、その後の歴史展開を視野に入れれば頷けなくもないが、あまりに史実へ引き寄せた穿った見方のように思えます。
 ミカ5:4にある「7人の牧者、8人の王」がなにを指すのか、わかりませんでした。メシアの僕とか、そんなあたりをいうのかな、と思うのですが……。

 「ヤコブの残りの者は/多くの民のただ中にいて/主から降りる露のよう/草の上に降る雨のようだ。/彼らは人の力に望みをおかず/人の子らを頼りとしない。」(ミカ5:6)



 梅雨の間にすっかり背丈を伸ばして、天に向かってぐんぐん育ってゆく草、草、草。別称を雑草と総括される植物の群れ。膝丈ぐらいまである。ジャングルのミニチュアです、といっても通るのではないか、と危惧する一角に早朝から、鎌を片手に足を踏み入れて、しゃがみ、根っこから絶やさんと殆ど土をほじくり返すにも似た作業を開始した。なにやら気分は土地の造成、開発業者。
 朝5時半頃から始めて朝日を存分に浴びながらの作業は、滴り落ちる汗には参ったけれど、とっても清々しくて、草に触れて土とまみれている喜びが全身を満たしてゆく。
 心が洗われるようだ、とまでは流石にいわないけれど、やはり人間は土と触れ合って生きるべき生物なのかな、とは考えさせられた。コンクリートと同胞、異邦人に囲まれた街中で生きる空虚さを思うと、土の臭いと草の臭いにまみれているこの短な時間がなによりも貴重に思えてくる。
 刈った草はその場に寝かせて枯れさせてからゴミ袋へ入れる。草を刈ったその場所にさっきまで射していた朝陽はもうない。天頂を目指す太陽はだいぶ高いところにいた。その場所には柿と梅の木が残る。どちらもわたくしが生まれる前からここにあり、祖父母が両親が大切にしてきた木だ。青くて小さい柿が6つ生っている。秋になったら熟した柿が、今年は幾つ食べられるかな……。
 一時はここでバラを育てようか、と真剣に考えたりしたものだが、その思いは未だ諦められない。柿と梅の木を取り巻くように育ち、咲くバラ。なかなかオツではありませんか?
 そういえばバラを愛する女の子と留学帰りの男子、その元カノの三角関係を描いた久美沙織『薔薇の冠、銀の庭』(集英社コバルト文庫)という小説がありました。好きだったなぁ。またヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』(草思社文庫)も良かったな。◆

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第1347日目 〈ミカ書第4章:〈終わりの日の約束〉1/2with内輪の恥をどうして曝す?〉 [ミカ書]

 ミカ書第4章です。

 ミカ4:1-14〈終わりの日の約束〉1/2
 終わりの日、主の山は他より一際高く聳え、諸国民の旅の道しるべとなる。かれらはいう、ヤコブの神の家に行こう、と。ヤコブの神が示す道はわれらが歩む道。まこと、教えはシオンから出て、言葉はエルサレムから出る(ミカ4:2)。
 ヤコブの神は諸国民を裁き、はるか遠くの強い国々までも戒める。かつての列強国は剣を打ち直して鋤に、槍を打ち直して鎌とする。国と国が争うことはもはやなくなり、戦争は放棄される。すべての民はそれぞれ自分のぶどうの木、いちじくの木の下に憩い、なにものにも脅かされない平和を味わう。
 かれらがそれぞれ自分の神の名によって歩むように、さあ、われらもイスラエルの神の御名によって永遠に歩こう。その日が来たら、と主はいう、――わたしは足の萎えた者と追いやられた者を集める。足の萎えた者は残りの民として労り、遠くへ連行された者を強くする。これより先は久遠に主がシオンの山に在ってかれらの王となろう。王権は再び返ってくる。
 娘シオンよ、辛くても泣き叫ぶな。町を出て野を行くことになろうとも、バビロンへ辿り着けば、かの地で救われる。そこでお前は主により敵から贖われる。

 「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。/敵は我々を包囲した。/彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。」(ミカ4:14)

 本章を読んでいると、ちらちらと、記憶の片隅に残滓の如く残っている文言に出会します。それらがすぐに、何の何章何節だ、とわかり、当該ページを開くことができればよいのでしょうが、残念ながらそんな芸当はできないでいる。
 確かに覚えている、あの頃に読んだのだからこの書物あたりであろう、と、大まかなアタリを付けてページを開くも、それに類するような言葉すらまったく見当たらない。そんな隔靴掻痒を感じることがしばしばあります。
 「ミカ書」は後半になるに従って先行する預言書に登場した文言が散りばめられている、或いはそれを想起させるケースが目立つ。本章に於いても例外ではなく、たとえばミカ4:1-3とイザ2:2-4、ミカ4:12とエレ51:33とホセ13:3、といった具合であります。前者などはそっくりそのまま引用されているところから、「ミカ書」と「イザヤ書」の関係、2人の預言者の互いの認知といった点その他について、いろいろと考えさせられるところでありましょう。
 ――それにしても、「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」(ミカ4:2)とは良い言葉ですね。



 ブックオフはだいじょうぶでしょうか?
 昨日、某店舗にてあった出来事ですが、出張買取の案内アナウンスにかぶせて複数人の計算待ち客の呼び出しがされ、その上から更にセール案内のアナウンスが畳みかけられた。
 常より店舗スタッフの非常識ぶりには呆れるを通り越して感心しているのだが、さすがに今回は非道すぎた。というのも件のアナウンス・タイミングのことで、スタッフ同士がインカムや対面で口論・罵倒する光景を目撃したから。しかも客が十数人いる前で、カウンターや通路にて堂々と。
 ――元よりそうだが近頃は頓に、商品知識や接客マナーの欠落に加えて、ほんのわずかの礼儀や常識すらも弁えぬ愚衆が雁首揃えるようになってきたらしい。
 恥ずかしい。
 内輪の恥を、なぜお客様に曝すのか。もし自分が客ならどう思うか。まずはそれを考えよう。◆

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第1346日目 〈ミカ書第3章〈指導者たちの罪〉with村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第2部読了〉 [ミカ書]

 ミカ書第3章です。

 ミカ3:1-12〈指導者たちの罪〉
 ――イスラエルの家の指導者たちと、イスラエルを迷わす偽りの預言者たちへ。
 正義を知るべき指導者たちは、悪を愛して善を憎む。欲に駆られて民から搾取を繰り返す(ミカ3:2)。何事かあれば主の名を呼び、助けを訴える。が、主はお前たちを顧みない。主は顔を隠す。お前たちの行いが悪いからだ。
 満腹のときには平和を、空腹だったり飢えているときは戦争を触れて廻る、無能無才なる預言者たち。主により召命されてもいないお前たちには、夜が臨んでも幻はなく、暗闇が臨んでも託宣は与えられない。恥をかき、口を覆う。主が答えないからだ。
 ――しかし、とわたくしミカはいう。「わたしは力と主の霊/正義と勇気に満ち/ヤコブに咎を/イスラエルに罪を告げる。」(ミカ3:8)

 ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。聞け。正義を蔑ろにして悪と不法を尊び、流血を以てシオンを、不正を以てエルサレムを建てる者たちよ。聞け。そのようにしていながらなお主を頼り、自分たちは守られ、愛でられている、と錯覚する者たちよ。聞け。
 「それゆえ、お前たちのゆえに/シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」(ミカ3:12)

 サマリア同様、エルサレムも完全なる廃都となる。復興はあり得ない。それは、或る意味で絶望的な宣告かもしれない。しかしこの先の章で、やがて第二のダビデ――イスラエルの新たにして真の統治者がベツレヘムから現れ(ミカ5:1/メシア預言)、万軍の神なる主が嗣業の民を光へと導いて恵みの御業を実現する(ミカ7:9)ことが予告されます。
 メシア預言は何度か出て来ましたが、「ミカ書」のそれが他と決定的に異なるのは、メシアがベツレヘムから現れることが本書に於いてのみ言及されているため。町や国ではなく、ただ主の統べる永遠の国があるだけだ――「ミカ書」はそう語るかのようであります。
 ミカ3:12は「エレミヤ書」26:18にありました。神殿にて主の言葉を語るエレミヤを祭司と他の預言者たちが捕縛しようとした矢先、かれを擁護する長老たちが集まっていたすべての会衆に向けて発した言葉です。曰く、――
 「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての人に預言して言った。/『万軍の主はこう言われる。/シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。/ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている」と。
 <遠くの言葉のなかに近くの出来事が現れる>を示す場面でもあります。



 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第2部読了。まだ読んでいたのですよ。様々あって3ヶ月かかりましたけれどね。
 まだ第3部が残るけれど、自分にとって『ねじまき鳥クロニクル』は第2部で終わっている、という意見があるのは承知で、また、それを否定したりしない。が、物語は続いてゆく。けっして死なない。その声が途切れることはない。それを知る者ならば、第3部の登場は必然的な出来事であるし、また第3部あってこその『ねじまき鳥クロニクル』である、と首肯できるのではないでしょうか。
 感想を端的に述べよ? そう、それは濃厚な読書体験でしたね。底なしの深さをじゅうぶんに堪能した。それと同時に、心の底から冷え冷えとするものを感じた。圧倒的な重々しさと息苦しさを味わいましたよ。
 こんな風に思う村上作品が果たしてこれ以前にあったかな、と考えるが、どうも思い付きませんね。精々が『羊をめぐる冒険』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、短編「沈黙」ぐらいでしょうか。
 第3部を読み終えるのはまだしばらく先になる。最後のページを終え、巻を閉じたら、またここでお知らせいたします。◆

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第1345日目 〈ミカ書第2章2/2:〈ユダの混乱〉&〈復興の預言〉with10年後の7月11日。みくらさんさんか、詫びる。〉 [ミカ書]

 ミカ書第2章2/2です。

 ミカ2:16-11〈ユダの混乱〉
 お前の預言など戯言(たわごと)でしかない、と、或る預言者の集団がいった。かれらがわたくしを非難するには、――
 ヤコブの家が呪われている、とか、それゆえに滅びる、などとお前はいうが、果たしてそれが主の御業なのか、ハハハ、主がそんなに気短であるわけがないだろう、と。
 わたくしの言葉はどうやら民の益にはならぬらしい。昨日まで同胞であった連衆がいまや敵となった。奴らは抵抗できぬ者から衣服を剥ぎ取り、女たちを家から追い出し、子供から誉れを永久に奪う。
 平和なる人たちよ、立ってここを去るがよい。もはやここは安住の地ではなくなった。「この地は汚れのゆえに滅びる。/その滅びは悲惨である。」(ミカ2:10)
 預言者を自称する輩があたりをほっつき歩き、主の言葉を騙って廻る。行き合った人に、ぶどう酒と濃い酒を飲みながら主の言葉を語って聞かせてやろう、と強いる。これが、預言者を騙る痴れ者である。

 ミカ2:12-13〈復興の預言〉
 ヤコブよ、と主がいった。わたしはイスラエルの残りの者を一つ所へ集める。牧場へ導いて一つにしよう。皆は歓びの声をあげる。
 囚われの場所から出るとき、門を打ち破る者が先に立ち、人々がこれに続いて外に出る。かれらの王が人々のいちばん前におり、わたし主が先頭にあってこれを導く。

 本当に「ミカ書」は難しい。本文の損傷が甚だしい、となにかの本で読みましたが、それが原因の一つなのかもしれない。完全ではない本文しか伝わらなかったために、翻訳も不完全な本文に拠る他なく所々で意味が明瞭でない表現に出会す。12小預言書のうち「ミカ書」が難儀とされるのもそうしたあたりに理由の一端を求められるのかもしれない、と、自分の理解不足は脇に除(の)け、疑を呈してみました。
 ミカ2:6「『たわごとをいうな』と言いながら/彼らは自ら戯言を言い」はそれぞれの聖書によって訳が異なります。<ユダの混乱>を読むにあたって、わたくしはまずここで躓きました。読み流すだけなら引っ掛かるところはありませんが、本ブログに於いてはそういうわけにもいかない。新共同訳を始め新改訳や口語訳、文語訳、関根訳、岩波訳は勿論、本文を含める注解書など読んでみた。二日程悩んだ末にお読みいただいたような文章を物すに至ったわけですが、如何でしょうか。一つの時代に預言者は一人というわけでなく、かつ正しく主の言葉を預かる者ばかりが<預言者>ではなかった、という事実を踏まえれば、斯様な文章が生まれるのも道理かな、とわたくし自身は思うのであります。
 ミカ2:10「立て、行くがよい。/ここは安住の地ではない。/この地は汚れのゆえに滅びる。/その滅びは悲惨である。」後半は引用した部分でもありますが、今日のわたくしたち日本人がよく噛みしめて理解しなくてはならない箇所だと思います。こうならぬよう、われらは貴い犠牲の上に勝ち得た主権を断固として守らねばなりません。



 火事から10年が経ち、±0よりややマイナスが優る歳月が過ぎた。家族を守って逝った父を想う、あれから10年後の7月11日。ごめん、嫁と孫を墓前に連れてゆく望みは叶いそうにない。ごめんなさい。◆

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第1344日目 〈ミカ書第1章&第2章1/2:〈神の審判〉withヘッセが読みたい、でも、なぜか小説が1冊もない……。〉 [ミカ書]

 ミカ書第1章と第2章1/2です。

 ミカ1:1-2:5〈神の審判〉
 モレシェトの人、預言者ミカが、サマリアとエルサレムについて見た幻。

 諸国民は皆聞け。大地とそれを満たすものは耳を傾けよ。お前たちの行いの証人は主なる神。審判を降そうと主は神殿から出て、聖なる高台を踏みつぶす。その足の下で山は溶け、平野は裂ける。まるで火にかざされた蠟(ろう)のように。斜地をくだる水のように。滅びの日の訪れがこうして来る。

 滅びの日の訪れはヤコブ(北王国)の罪、イスラエルの咎が原因となる。ヤコブの罪はサマリアに、イスラエルの咎はユダの聖なる高台、エルサレムにある。
 わたし主はサマリアを野原の瓦礫の山に変え、そこをぶどう畑にする。石垣を成していた石は谷底へ捨て、基礎を剥き出しにしよう。彫像はすべて砕いて、淫行の報酬は燃やしてしまおう。偶像もすべて粉砕する。それは遊女の報酬で造られたものだから、従って再び遊女の報酬となる。
 わたし主はこのことゆえに嘆き、悲しみ、そうして、泣く。サマリアが犯した罪への裁きはそこに留まらず、ユダにまで及び、わが民の門エルサレムにまで達するからだ。
 ユダの辺境の小さな町や村にまで、サマリアを見舞った災いが押し寄せる。おお、何人も終わりの日が訪れた、と心得よ。ラキシュは娘シオンの罪の初めである、そこにイスラエルの背きがあった。モレシェト・ガトに離縁を言い渡せ。征服者が来る。イスラエルの栄光はアドラムへ去る。

 夜、床のなかで悪事を計画する者は災いだ。かれらの手には権力がある。夜明けになれば、かれらは思い付いた企てをすぐに実行する。かれらは人々から畑も家も取り上げ、嗣業までも強奪する。
 主は、かれらに降すべき災いを計画する。かれらはその災いから離れることができず、頭を高くして歩くこともできないようになる、と主はいう。まさしくこれは災いのときである、とも。
 その日、持ち物を奪われた人々はかれらを嘲る歌を唄い、苦い嘆きの歌を唄う。そうして人々はかれらにいう、――主は、われらの土地をお前たちに渡した。なぜ主に背くお前たちに、われらの土地が与えられるのだ、と。
 「それゆえ、主の集会で/お前のためにくじを投げ/縄を張って土地を分け与える者は/ひとりもいなくなる。」(ミカ2:5)

 ラキシュはバビロニア軍侵攻の折、最後まで抵抗した砦の一つとしてわれらの記憶に新しいけれど、ミカ1:13にてイスラエルの罪の始まりはラキシュにあり、と明言された。どういうことか、といえば、偶像崇拝の始まりがラキシュにあって、それが全イスラエルへ伝播した、というのであります。ラキシュはもともとカナン人の町で、ヨシュアがカナン侵攻の際に通過し、その過程で陥落させてイスラエルの所有とし、12部族へ土地を分与する際はユダ族へ与えられた土地に含まれていた。カナン人の信仰する神がここで崇められていた、そうしてヨシュアはカナン人の神を完全に一掃することはできなかったがために偶像崇拝という形でイスラエルのなかに異神信仰が残ってしまった。それがイスラエルの罪の始まりである、というのです。
 イスラエルの栄光が去る先とされたアドラム。ここはかつてダビデがサウルの追っ手を逃れて隠れた洞窟を郊外に持つ町であった。そのあたりの故事に擬えての表現かと思いますが、正直なところ、ミカ1:10-15で列挙された町とそこに結び付けられる表現には悩まされます。当該箇所について申せば、イスラエルの栄光は即ち高官のことである、とする本もある(ティンデル『ミカ書』P182 ブルース・K・ウォルトキー/清水武夫 いのちのことば社 2006.10)。栄光に擬えられる存在がユダの辺境まで後退する、という意味合いなのかな、と思うのですが、これ以上はよくわかりません。
 さて。
 ミカ2:1-5でいう「かれら/お前たち」とは土地を所有する者、地主という立場にある者を指します。
 欲は満たされることがない。一つ所有すれば、もっと、もっと、と欲しがるのは道理だ。かれらは自らの欲に忠実である。しかし、それは好ましからぬことだ。夜が明けたら実行して、どんどん他人のものを奪い、力を行使して取り上げ、不当な手段で得た財産を更に増やそう/殖やそうとする。
 しかし、主が計画する災い(ミカ2:3)の実行により、かれらはもう私腹を肥やすことができなくなる。それがミカ2:5に述べられている。測り縄によって計測された土地が、少なくともお前たちに分け与えられることはない。お前たちには土地を得る権利すらも与えられない。実際のところ、この文言の裏、乃至は延長線上には、バビロニア軍の侵攻によるユダ滅亡とバビロン捕囚という、計画によってあらかじめ定められた未来の出来事が待ち構えている。もうそうなったら土地の所有なんていってはいられない。些末なことだ。
 わたくしが聖書を読み始めた頃から読んでいる本に、富岡幸一郎『聖書をひらく』(編書房)があります。聖書のメッセージを簡潔に豊かに説く一方で、文言を今日の世界情勢にも絡めて述べる、まことに教えられることの多い一冊なのでありますが、著者はこのミカ2:1-5を引いて、執筆当時のシャロン政権がパレスティナのテロ対策のため、パレスティナ入植地へ勝手に防護壁を築いていることを紹介しております。本来自分たちの土地ではない入植地にまで、つまり入植地に住まう人から勝手に土地を奪って防護壁を築いてることに触れて、ミカ書で預言されたこととなんら変わりないではないか、というのであります。むろん、ものみの塔やエホバの証人のように聖書のメッセージを曲解して自分たちに都合がいいように歪曲した考えではありません。その点を深く、しっかりと肝に銘じていただきたい、と強く希望します。
 富岡氏のこの本は機会あれば図書館や新刊書店などで手に取って読んでみると良いと思います。理解と読書が深まることは間違いありません。わたくしはこれを読んで、<遠い言葉のなかに近い時代の出来事がある>、<近い時代の出来事のなかに遠い言葉が現れる>ということを教えられた思いがしております。聖書を如何なるスタンスで読むにしろ、これは聖書を読んでゆく上で大切な姿勢の一つだと思います。



 過日、ヘッセの読書にまつわる本を読んだ。その感想を夜明けの頃に書いたのですが、その後遺症かしら、この数日ヘッセの作物が読みたくてならず、手持ちの書簡集やエッセイ、詩集を読んでしまったあとは小説が1冊も書架にないのに気附いて禁断症状を起こし、今日仕事帰りに立ち寄った古本屋でルー・ウォレス『ベン・ハー』と一緒に初期の3作、即ち『春の嵐』、『車輪の下』、『郷愁』を買いこんできました(奇しくも? すべて新潮文庫)。まずはすっきり。
 今週末に、部屋の片づけ(=人生の荷物の処分市)の傍ら畳の上に、ごろん、となって読み耽ろうと考えています。◆

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第1343日目 〈「ミカ書」前夜〉 [ミカ書]

 イザヤと同じ時期にエルサレムから少し離れた町で預言したのがミカであります。かれもいつ、どのような状況下で召命され、預言者となる前はどんな仕事に就いていたのか、わからぬ人。が、出生地と活動した時代については明瞭で、ミカ1:1に記されている通りであります。かれは南王国ユダの王都エルサレムから南西に約30キロ、ペリシテとの国境ガトから東に約11キロの位置にあったモレシェト、或いはモレシェト・ガトと呼ばれる小村の生まれで、国がその王位にヨタム、アハズ、ヒゼキヤの3人を戴いていた時代に活動しました。即ち、前742-686年頃であり、3人の王の事績については代下27-32にあります。
 ミカはイザヤと同時代に生き、その活動場所もさして離れているわけではありませんでした。かれらが同じ国内にあって互いの存在を知っていたかどうか、それはわかりません。しかし面白いことに、2人は、エルサレムに対する主の審判に関して正反対のことを語りながら、エルサレムという都が果たす役割については同じメッセージを、同じ内容で語っております。「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る」を含むイザ2:3-4とミカ4:2-3が、それであります。表現に関しては後代の手が入っている可能性だって否めないため踏みこみませんが、エルサレムに対して同様なメッセージを発信している点に興味深いものを覚えます。2人の人間関係に共通の人物がいればそれを媒介として、イザヤもミカも相手の思想について知るところがあったかもしれない、と思うと、ちょっとゾクゾクしてきます。
 では、王都エルサレムに対する主の審判とはどんなものであるか。イザヤは「イザヤ書」全体を通じて、一貫してその永遠なることを語りました。一方でミカは、エルサレムが完全な廃墟となり、復興したり永続性が築かれることはない、と説きました。ミカ3:12で「シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」と語られるようにであります。この一説を以てミカをペシミスティックだ、と断を下すのはあまりに早計でしょう。が、都から離れていれば或る程度までは現実を客観視していられることもありますから、あんがいミカは冷静に事態の推移を観察し、時代の行く末を俯瞰する思いだったのかもしれません。
 ちょっとイザヤを引き合いに出しての言が多くなりましたけれど、それというのも、イザヤとミカはまるでコインの裏と表のように思いもし、イザヤはミカをプッシングボールにして、ミカはイザヤをプッシングボールとして、自分の立ち位置を明らかにし、預言者としての活動を鍛えあげていった人たちのように思いもするからであります。
 ――ミカはエルサレムと北王国の王都サマリアに対する預言を残しました。かれの預言者としての活動はサマリア滅亡の幻によって始まり、バビロニア帝国によるユダとエルサレムの蹂躙と滅び、そうしてバビロン捕囚にまで至る。『新エッセンシャル聖書辞典』巻末の年表に従えば、ちょうどミカの活動期のほぼ中間に当たる頃サマリアは陥落したことがわかります(前723/722年 P1198)。そうした意味ではかれもまた時代の変化、しかも悪い方へ、悪い方へ、と靡いてゆく空気を肌で敏感に察知していた人ともいえるでしょう。
 「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。/正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
 では明日から「ミカ書」を1日1章ずつ読んでゆきましょう。◆

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