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第1770日目 〈シラ書第51章:〈シラの子イエススの祈り〉&〈知恵を追い求めて〉with「シラ書」読了の挨拶。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第51章です。

 シラ51:1-12〈シラの子イエススの祈り〉
 シラの子イエススが主よ、あなたを讃える。王である主よ、あなたはわたしの守り手。いと高き方よ、あなたはわたしの助け手。
 主よ、あなたはわたしを救い出してくれました。誹謗中傷の罠から、偽善者の唇から。命を狙う者の手から。耐えていた苦しみから。息もできないような炎から。自分が熾したわけでもない火から。主よ、あなたはわたしを救い出してくれました。
 「わたしの魂は死に近づき、/わたしの命は陰府の近くまで下りました。/わたしは四方から取り囲まれたが、/助けてくれる人はいませんでした。/人々の助けを求めたが、得られなかったのです。/主よ、わたしはあなたの慈しみと、/昔からのよき御業を思い出しました。/あなたは、あなたを待ち望む者を助け上げ、/悪人どもの手から救い出してくださいます。/わたしは地上から嘆願の声をあげ、/死からの救いを祈り求めました。/わたしは、わが主の父である/主を呼び求めました。/苦しみの日々に、高慢な者どもが力を振るうとき、/孤立無援なわたしを見捨てないでください。」(シラ51:6-10)
 主よ、わたしはあなたを絶ゆることなく讃美します。
 主よ、わたしはあなたへ永久の感謝をささげます。
 あなたはわたしを滅びから救いあげ、苦難のとき助け出してくれたからです。

 シラ51:13-30〈知恵を追い求めて〉
 「わたしは知恵の道を実践しようと心に決め、/善を求めた。それは裏切られることはない。」(シラ51:18)
 知恵を求める人々よ、わたしの許へ来い。どうしてためらうのか。「なぜ、いつまでもそのままの状態でいるのか。/お前たちの魂は激しく渇いているのに。」(シラ51:24)
 知るがよい。知恵は諸君の身近にあることを。
 主の慈しみを喜ぶ心を持て。主を讃美することを恥じるな。為すべきことを早めに為せ。──定められた時、主は報いてくれる。

 「シラ書」を読んできて初めて、「これは是非暗記したいな」と思わせられる箇所に、今日出会った。長い引用になったが、シラ51:6-10がそれである。この祈りの言葉を暗誦し、ひたぶるに<それ>を想うことができたらば、どれだけ佳いことであろうか。
 これは、<死>を目の当たりにした者の魂の奥底から絞り出された、まことの言葉である。ここにはわずかな瑕疵もなければ、一点の曇りも影も落ちていない。最後の最後でこのような言葉に会っただけでも、これまで「シラ書」を読んできた甲斐がある、というものだ。
 本章は全体の結びとなるだけに、これまで語られてきた<主に祈りをささげること>、<知恵の尊さ、偉大さ>、<知恵を求める姿勢>、<知恵ある者の人生の豊かさ>を総括した章となっている。確かに「シラ書」は全体の構成に然程こだわっていないように捉えられるところが多いが、巻尾に「まとめ」というてよい本章を置いたことで、辛うじて結構の整った書物となっているように思える。



 本日を以て「シラ書」を読了した。読者諸兄よ、見捨てないでくれてありがとう。
 途中、私情により更新できなかった時期もあるが、なんとか最後の章まで辿り着くことができた。このように今回予定を大幅に過ぎてしまったことで、もしかすると、今年中の旧約聖書続編の読了は果たせないかもしれない。
 しかしいまは、スケジュールを組み直して、分量の大幅減や質を明らかに落とすなどしてまで年内読了をむりやり達成するのではなく、敢えてこれまでのペースを維持して読み進め、着実に残りを消化してゆくのが大事だろう。もっとも、書物巻をつなぐエッセイについては減らす必要が出て来るだろうけれど。
 近頃は再来年のイースターの季節までに「ヨハネの黙示録」を読了できればいいかな、と考え直す日々が続いている。
 次の「バラク書」は11月中旬から始めましょう。◆

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第1769日目 〈シラ書第50章:〈大祭司シモン〉、〈シラの子イエススの知恵〉他〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第50章です。

 シラ50:1-21〈大祭司シモン〉
 そうしてわれらの時代になり、オニアス2世の子、大祭司シモンが現れる。シモンは荒廃した都エルサレムの再建に着手した。主の家を修復し、聖所を補強した。聖所の中庭に高い石垣を巡らし、神殿の境内に高い壁を築いた。また、広い貯水池を造った。民が敵の剣によって滅びぬよう、包囲攻撃に備えて町の防備を固めた。
 ああ、シモンが「聖所の前を歩むその姿/主の家の垂れ幕を出て来る姿は、/なんと栄光に満ちていたことか。」(シラ50:5)
 たとえていうなら、かれは雲間に見える明けの明星、祭りの日の空に浮かぶ月、聖所に輝く太陽、きらめく雲に照り映える虹の如し。季節に咲く花、香炉にくべられた乳香、金器の如し。
 シモンが祭儀を執り行う。全能なるいと高き方にいけにえをささげ、供え物をささげる。やがてアロン子らが銀のラッパを斉奏し、会衆は地にひれ伏して主へ祈りをささげる。──祭儀が終わると、シモンは会衆の前に降りてきて、かれらの頭上に両手をかざし、自らの唇から主の祝福を与え、誇らかに主の御名を唱えた。民はシモンを通して、聖なる方の祝福を受ける。

 シラ50:22-24〈勧めと祝福〉
 主を誉め讃えよ。慈しみを以て主はわれらを恵む。
 われらの存命中、イスラエルに平和がもたらされ、続きますように。
 「わたしたちへの主の慈しみが確かなものとされ、/まだ生きている間にわたしたちを/主が救ってくださるように。」(シラ50:24)

 シラ50:25-26〈忌み嫌われる国々〉
 わたしイエススの魂は、エドム人とペリシテ人を忌む。シケムの愚者どもを嫌う。シケムの連衆は最早「民」とはいえない。

 シラ50:27-29〈シラの子イエススの知恵〉
 この、知識と知恵と悟りの教訓の書物を著したるは、シラ・エレアザルの子イエスス。エルサレムの人。
 かれは、知恵をその心から注ぎだして、一巻にまとめた。かれの知恵の言葉に従って歩む者は幸いである。というのも、それを行えば、すべてに対して力を得るからだ。
 主を畏れることこそかれイエスが歩む道である。主は信仰の深い人に知恵を与えたのだ──。

 本書の著者イエススは大祭司シモンと同時代を生きる人物であった。同時代の人物であらば斯様に礼賛するのも道理だろう。シモンの時代はおそらくマカバイ戦争(前167-142年 「マカバイ記」参照)以前と考えられる。
 エルサレムが破壊された形跡が、シラ50:1-4には記されている。その様子は、セレコウス朝シリア(アンティオコス3世)とプトレマイオス朝エジプト(プトレマイオス5世)との間に勃発した第5次シリア戦争(前202-200年)に基づくものだろう。これの勝利により、セレコウス朝はコイレ・シリア(シリア地方南部)の覇権を築いてこの地を領土とした。その後、前198年にはエルサレムへ侵攻、征服を果たしている。◆

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第1768日目 〈シラ書第49章:〈ヨシヤ〉、〈ユダの最後の王たちとエレミヤ〉〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第49章です。

 シラ49:1-3〈ヨシヤ〉
 イスラエル滅びて後は南王国ユダのみがこの地に残った。そのユダを治めた王の1人にヨシヤがいる。かれは完全に正しい道を歩んだ。民の間で流布していた忌むべき行為を一掃し、民を悔い改めさせた。
 「彼は心をまっすぐに主に向け/不法のはびこる時代にひたすら神を敬った。」(シラ49:3)

 シラ49:4-7〈ユダの最後の王たちとエレミヤ〉
 統一王国イスラエル。分裂して後は北王国イスラエルと南王国ユダ。多くの王が国を治めた。が、ダビデとヒゼキヤ、ヨシヤを除いた他の王たちは、ことごとく罪に罪を重ねて生きた。民の間で行われていた忌むべき習慣や道具の全廃が出来なかったからである。斯くして南王国ユダも、北のあとを追うようにして滅びて消えた。
 南王国はその歴史の後半、バビロニア帝国の脅威に曝され、王都エルサレムも幾度となく攻撃を受けた。──それを時の予言者エレミヤは事前に民へ告げていた。が、かれらは預言者の言葉に耳を傾けなかった。エレミヤは、バビロニアの侵攻は神が計画を実現させるための手段と捉え、ゆえに親バビロニアの態度を一貫して持ち続けていたからである。
 「このエレミヤは/抜き取り、苦しめ、滅ぼすために、/しかしまた、建て、植えるためにも、/母の胎にいるときから預言者として/聖別されていた」(シラ49:7)人物だった。

 シラ49:8-9〈エゼキエル〉
 南王国ユダが滅び、国の指導者たちはバビロニアへ連行された。所謂<バビロン捕囚>である。エゼキエルは捕囚時代の帝都バビロンに現れて活動した預言者だった。
 かれはカルデアの地ケバル川の河畔で主の栄光の顕現を見た。また、バビロニア第6年6月5日、主の栄光が神殿を去る様子を見た。それは皆、ケルビムの車輪の上に現れた。
 エゼキエルは、諸国への裁きの言葉を残した。後の時代に再建されるエルサレムの第二神殿についての幻を、詳細に残した(エゼ43:10-11)。
 「エゼキエル書」はかれの事績と預言活動、その言葉を伝える。

 シラ49:10〈十二預言者〉
 北と南、両方の王国にそれぞれ預言者が現れた。かれらは民に悔い改めを説き、主の裁きのあることを語った。
 かれらの骨が再び花咲かせますように。かれらはヤコブの民を治め、希望にあふれた信仰で以て民を救ったのだから。

 シラ49:11-12〈ゼルバベルとイエシュア〉
 バビロニア滅びて後、ペルシアがオリエントの覇者となった。時の王キュロスはかつての捕囚民の解放を宣言した。
 望む者はゼルベバルとイエシュアに引率されて荒れたユダの地へ、廃都エルサレムへ帰還して、神殿再建に着手した。
 ユダヤ人を快く思わぬ者から妨害も受けたけれど、かれらは挫けなかった。

 シラ49:13〈ネヘミヤ〉
 再建途上のエルサレムへ赴任したネヘミヤも、偉大な業績を残した人物である。
 ペルシアの王都スサに在ったかれは、帰還した同胞からもたらされるエルサレムの惨状を聞き、主に祈り、時の王アルタクセルクセス王の命によって、ユダヤ/エルサレムへ赴任した。さっそく都の周囲を検分して城壁や門の修復に取り掛かり、これを完成させた。

 シラ49:14-〈エノク〉
 地上に現れた人のなかでエノクに並ぶ者はいない。かれは生きたまま、地から天に移されたのだから。

 シラ49:15〈ヨセフ〉
 アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の血を受け継ぐヨセフも大した人物であった。かれは兄弟を導き、民の拠り所となった。
 ヨセフの遺骨は出エジプト時に持ち出され、カナンの地に丁重に埋葬された。

 シラ49:16〈アダムとその子孫〉
 アダムの子セムとノアの子セトは人々の間で崇められた。セトはアブラハムの先祖である。
 「だがアダムこそ、/造られたすべての生ける者の上に立つ者。」(シラ49:16)

 ヨシヤの事績は王下22:1-23:30に載る。
 エレミヤの事績は「エレミヤ書」に載る。
 エゼキエルの事績は「エゼキエル書」に載る。
 ゼルバベルの事績は代上3:17-19、エズ2:2、同3:2及び8、同4:1-5、同5:1-2に載る。
 イエシュアの事績はエズ3:2及び8-9、ネヘ8:7-9に載る。
 ネヘミヤの事績は「ネヘミヤ記」に載る。
 エノクの事績は創5:21-24に載る。
 ヨセフの事績は創35:24、同37:2-36、同39:1-50:26に載る。
 アダムの事績は創2:7-8、同2:15-3:24に載る。
 12小預言者の名は旧約聖書へ収まる順に、ホセア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼファニヤ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキである。
 ユダの最後の王たちとはヒゼキヤ以後のユダ王をいう(ヨシヤを除く)。かれらは主の目に正しいと映ることはせず、罪を犯して祝福されなかった。アサ、ヨシャファト、ヨアシュ、アマツヤ、アザルヤ(ウジヤ)、ヨタムは主の目に正しいと映ることを行い、また主の道を正しく歩んだ王たちですが、なにかしら瑕疵のある人生を過ごした。
 たとえばまだ北王国健在だった頃に南王国を治めたアサ王、──
 「アサは、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い、神殿男娼をその地から追放し、先祖たちの造った偶像をすべて取り除いた。また彼は、母マアカがアシェラの憎むべき像を造ったので、彼女を太后の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、キドロンの谷で焼き捨てた。聖なる高台は取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった。」(王上15:11-14)
 一方でこのようにも伝えられている、──
 「アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。彼は異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を壊し、アシェラ像を砕き、ユダの人々に先祖の神、主を求め、律法と戒めを実行するように命じた。アサはまたユダのすべての町から聖なる高台と香炉台を取り除いた。こうして彼の統治の下で国は平穏であった。主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争がなかった。そこで彼は、ユダに砦の町を次々と築いた。」(代下14:1-5)
 「そのとき、先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った。『あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった。それゆえ、アラムの王の軍隊はあなたの支配を離れる。クシュ人とリビア人は非常に多くの戦車と騎兵を有する大きな軍隊であったが、あなたが主を頼みとしたので、主は彼らをあなたの手に渡されたではないか。主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く。』アサは先見者のこの言葉を聞いて怒り、彼を獄に投じた。この事で彼に対して激しく怒ったからである。またアサはそのとき、民の中のある者たちを虐待した。アサの事績は、初期のことも後期のことも、『ユダとイスラエルの列王の書』に記されている。
 アサはその治世第三十九年に足の病にかかり、その病は極めて重かった。その病の中にあっても、彼は主を求めず、医者に頼った。アサはその治世第四十一年に先祖と共に眠りにつき、死んだ。」(代下16:7-13)
 王上では聖なる高台を取り除かなかったこと、代下では戦争に於いて主を頼みとせず他国の王に頼ったことが、アサがダビデやヒゼキヤ、ヨシヤと並んで名が載らなかった理由である。ユダの最後の王たちについても然りだ。
 ゼルバベルとイエシュア。かれらはペルシア王キュロスによる捕囚解放を承けて、希望するユダヤ人を連れてエルサレムへ帰還した。ゼルバベルは代下36:6でバビロニアへ連行されたヨヤキム王の子孫で、行政面での指導者である。イエシュアはレビ人で、祭司として帰還民の宗教面での指導者となった。かれらは共に神殿再建に励み、帰還したユダヤ人が再び父祖の地に根付く礎を造った。なお、イエシュアは第二神殿の完成と城壁の修復が完了したあと、第7の月の1日に律法を朗読、その意味を民に説明した。◆

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第1767日目 〈シラ書第48章:〈エリヤ〉、〈エリシャ〉、〈ヒゼキヤとイザヤ〉〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第48章です。

 シラ48:1-11〈エリヤ〉
 預言者エリヤはヨルダン川東岸、ギレアド地方ティシュベの人。かれは北王国の王のうちで最悪な者の一人、アハブ王の御代に登場し、次のアハズヤ王の御代に天へ召された。弟子エリシャの見守る前で、突然来たった日の戦車によって嵐のなかを天へのぼっていったのである(王下2:11)。
 エリヤは干ばつと飢饉によって民を苦しめ、寄留した先の家の死者をよみがえらせ、偽りの預言者を退けた。シナイ山で主の非難の言葉を聞き、ホレブの山で裁きの宣告を受けた。アラム人ハザエルに油を注いで対イスラエルの頭とし、ニムシの子イエフに油を注いで北王国の王とした。また、アベル・メホラに暮らす者ファトの子エリシャに油を自分の後継者とした。互いに報復させるためである。
 ああ、エリヤよ。あなたは書き記されているとおり、<定められた時に備える者>。神の怒りが激しくなる前に声を鎮め、父なる主の心をわれら神の子へ向けさせ、ヤコブの12部族を立て直してくれる者。
 「あなたを見る者、/また愛のうちに眠りについた者は幸いである。/確かに、わたしたちも生きるであろう。」(シラ48:11)

 シラ48:12-16〈エリシャ〉
 火の馬に引かれた火の戦車によって、エリヤは嵐のなか天へのぼっていった。それを、かれによって頭へ油注がれたエリシャが見届けた。エリシャはエリヤの霊に満たされた。
 かれは生涯、どのような権力にも、どんな支配者にも屈しなかった。かれにとって手に余ることはなにもなく、死後も力を失うことなく預言を行った。かれのふしぎな業は実に死後にまで及んだ。
 が、斯様な尽力にもかかわらず、民が罪から離れることはなかった。それゆえにこそ、北王国に住まう者は皆、祖国から連れ去られてゆき、地の至る所へ散らされたのである。
 以後、かつてカナンと呼ばれた嗣業の地に住むのはダビデ王朝の血脈を伝える王たちとその臣下、その民草、即ち南王国ユダの者たちだけとなった。ダビデの家の支配者たちのなかには、主の目に正しいと映ることを行う者もいたが、それ以上に罪を重ねる者が多かった。

 シラ48:17-25〈ヒゼキヤとイザヤ〉
 南王国ユダの王ヒゼキヤは前王アハズの子。王都エルサレムに於いて29年間、王位に在った。
 かれは父祖ダビデが行ったような、主の目にかなう正しいことをことごとく失った。都の防衛を固め、水道を敷き、用水路を整備した。国内にあった異教の神の礼拝物を排除した。また、聖なる高台やモーセの作った青銅の蛇であっても、異教の神の礼拝に使われたものは、すべて打ち壊した。
 やがてユダはアッシリアの脅威に曝された。アッシリアの王センナケリブはラブサケ(ラブ・シャケ)を派遣、心胆寒からしむる言葉をユダに向かって吐き、その臣民を震えおののかせた。ユダの民は皆、主に祈って助けを求めた。そうして、──
 「聖なる方は天から直ちにその願いを聞き入れ、/イザヤの手によって彼らを救い出された。」(シラ48:20)
──斯くしてアッシリアは撤退したのである。
 ヒゼキヤ王の歩んだ良き道は、まことイザヤが預言したとおりだった。預言者イザヤは受けた啓示に忠実な、偉大な人である。
 「イザヤは大いなる霊によって終末の時を見つめ、/嘆き悲しむシオンの人々を励ました。/かれは永遠に及ぶ未来のこと、/隠された事を、それが起こる前に示した。」(シラ48:24-25)

 エリヤの事績は王上17:1-19:21,同21:17-24、王下1:15-17,2:1-11に載る。
 エリシャの事績は王上19:19-21,王下2:1-25,3,11-19,同4:1-8,15,同13:14-21に載る。
 ヒゼキヤの事績は王下18:1-20:21、代下29-32に載る。
 イザヤ(第一イザヤ)の事績は王下19:2-7,20-34,同20:1-11,14-19に載る。預言者イザヤの事績については「イザヤ書」も参照のこと。
 旧約聖書最大の預言者ともいわれるエリヤはアハブ王の御代に生きた。両者がかかわるなかでいちばん有名なエピソードは、いわゆる<ナボトのぶどう畑>であろう(王下21)。
 アハブ王は宮殿近くにあるナボトのぶどう畑を欲したが、断られた。それを知った王妃イザベルが奸計を巡らせてナボトの謀殺に成功した。妻から、ナボトは死んだからいまこそ畑を自分のものにして来い、と促されて意気揚々と畑へ向かう。そのとき、エリヤに主の言葉が臨み、王に滅びの預言を伝えた。イザベル妃はイズレエルの城壁のなかで野犬の餌食となり、王の子らもろくな死に方はしない、王よあなたは勿論である、と。アハブ王はこれを聞いて悔いて主の前にへりくだり、それゆえかれ自身に災いが降されることはなくなった(王下21:17-29)。しかし、王はアラムとの戦いのなかで戦死した(王下22:1-40)。
 とりわけ、この挿話のなかで印象的なのは王と預言者が出会ったときの会話──アハブはいう、「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか」と。エリヤは答える、「そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねたからだ」と。……斯様に緊迫感のある台詞、聖書を通読していてもなかなか出喰わせるものではない。
 エリヤの件りで一つ気にかかるのは、イエススが「あなたは書き記されているとおり、/定められた時に備える者」(シラ48:10)と書く点である。これは12小預言書の一つ、「マラキ書」第3章第23節の記述に対応する。これ以外の根拠はなにもないが、イエススはなんらかの形で「マラキ書」の内容に接していたのかもしれない。エリヤが旧約聖書最大の預言者とされるのは、旧約聖書のみならずこの続編、新約聖書の諸書にまでその名を留め、再来を期待される者なるがゆえであろう。◆

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第1766日目 〈シラ書第47章:〈ダビデ〉、〈ソロモン〉他〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第47章です。

 シラ47:1〈ナタン〉
 ナタンはダビデ王の御代に預言者として活動。ウリヤの妻バト・シェバを奸計を以て強奪したことについて王を叱責したり、ギホンの地でソロモンに王位継承の油を注ぐ場面に立ち会ったりした。

 シラ47:2-11〈ダビデ〉
 羊飼いエッサウの末子ダビデはサムエルによって見出され、秘かに油注がれて時の王サウルの後継として表に出た。
 かれは子山羊と戯れるかのように獅子と戯れ、子羊と戯れるように熊と戯れた。ペリシテ軍とイスラエルが戦ったときは怪力の巨人ゴリアテを組み伏し、また数多の敵を倒したことで民から称賛され、栄光の冠を授けられた。
 ダビデは聖なるいと高き方を讃える歌をうたい、自分の創造主を愛した。祭壇の詠唱者について取り決め、歌手たちは美しい声で毎日賛美歌をうたった。
 このような事績により、ダビデは自分の犯した罪を主に赦された。そうして、──
 「その勢力を永遠に続くものとして高め、/彼に王国の契約と/イスラエルにおける栄光の座を与えられた。」(シラ47:11)

 シラ47:12-22〈ソロモン〉
 ダビデ王の崩御後、王位継承の諍いが息子たちの間で起こった。結局、ダビデとバト・シェバの子ソロモンが王位に就いた。統一王国イスラエル3代目の王、そうして最後の王である。ソロモンは聡明で、知恵の優れた人だった。
 ソロモンの御代、イスラエル王国は平和と繁栄を謳歌した。かれの御代に神殿が建設され、完成した。
 わたしイエススはソロモン王よ、あなたの知恵を讃える。曰く、──
 「ソロモンよ、あなたは若いころ、なんと知恵に満ち、/大河のように洞察に富んでいたことか。/地はあなたの精神で覆われ、/あなたはなぞに富むたとえで地を満たした。/あなたの名声は遠い島々にまで達し、/平和のゆえにあなたは愛された。/あなたの歌、格言、たとえのゆえに、/あなたが与えた解釈のゆえに世界は驚嘆した。」(シラ47:14-17)
 が、ソロモンは異教の女を妻とし、その肉体、その肉欲の虜となった。かれは自らの行いによって自分の栄光に泥を塗ってしまった。それは、子孫を汚してかれらの上に神の怒りを降らせる結果を招き、かれらを苦しませることになった。
 とはいえ、主はソロモンを愛したので、かれの存命中は特筆すべき不幸も他には起こらなかった。「主は選ばれた者の子孫を滅ぼし尽くすことなく、/御自分を愛した者の子孫を取り除かれなかった。/すなわち、ヤコブに後継者を与え、/ダビデに彼から伸び続ける根を与えられたのだ。」(シラ47:22)

 シラ47:23-25〈レハブアムとヤロブアム〉
 サウル、ダビデ、ソロモンの3代によって統治されたイスラエル王国だったが、ソロモン王の崩御後は北と南の王国に分裂した。かつて主がシロの預言者アヒヤへ告げた通りに事は起こった。
 ヤロブアムはティルツァとサマリアを擁す北王国イスラエルの、レハブアムはエルサレムを擁す南王国ユダの、それぞれ初代王である。かれらは共に、主の目に正しいと映ることをせず、国諸共罪の道を歩んだ。
 「人々はますます罪を重ね、/そのため、彼らは自分の地から移された。/彼らはあらゆる悪を追い求め、/ついには彼らの上に罰が下ったのである。」(シラ47:24-25)
 後の、アッシリアとバビロニアによる両王国滅亡への歴史が始まったのだ。

 ナタンの事績はサム下7:2-17,同12:1-15,王上1:11-38に載る。
 ダビデの事績はサム上16:11-王上2:11に載る。
 ソロモンの事績はサム下12:24-25,王上1:10-11:43に載る。
 レハブアムの事績は王上12:1-19,21-24,同14:21-31に載る。
 ヤロブアムの事績は王上11:26-40,同12:2,4,20,25-33,同13:1-10,33-34,同14:1-20に載る。
 ウリヤの妻バト・シェバを強奪したことはダビデの生涯で殆ど唯一の汚点であった。水浴びをしていた彼女にすっかり心奪われ、なんとしてでも自分のものにしてしまいたい、と欲した王は側近を呼んで女の素性を調べさせ、夫のあることを知るや戦場へ送りこみ、指揮官らにウリヤを敵地へ残して後退するよう命じた。斯くしてウリヤは無念の戦死を遂げ、王は誰に憚ることなくバト・シェバを妻としたのだった(サム下11)。それを知った預言者ナタンが王を叱責する場面は、サム下12にある。
 ダビデ王朝の血統を後まで伝えたのは南王国ユダの王家である。レハブアムを指して「シラ書」は愚者と扱うが、これに異を唱える者などあるまい。かれは長老の助言を無視して自分と親しい若衆の言葉に耳を傾け、これに則って行動した。ゆえに知恵を讃美する著者はかれを愚かと称すのである。
 レハブアムのあと何代も続くダビデ王朝には、主の目に正しいと映ることを行う王が何人も現れた。が、徹底した行動を起こした者としては、わずかに2人の王があるだけであった。レハブアムのみならず南王国の王については、「歴代誌」の各章も参考に読まれると良い。
 北王国イスラエルの王ヤロブアム(1世)は異教徒の慣習に染まり、金の仔牛象をダンとベテルの地に置いたことで、「イスラエルに罪を犯させ、/エフライムに罪の道をたどらせた」(「シラ書」47:23)のであった。王上にもこの一件を指して、「この事は罪の源となった」(王上12:30)と述べる。
 なお、あらかじめ主は王国の分裂をシロの預言者アヒヤへ告げていた。それは王上11:29-39にて読むことができる。
 ──ノートを終え、清書していてふと感じたことであるが、イエススは知恵の信奉者であった。それゆえにか、記述はダビデよりもソロモンの方が濃厚で、親ソロモンを自ら任じているかのような書きぶりである。このあたり、著者らしさという者が垣間見える気がして、面白い。◆

共通テーマ:日記・雑感

第1765日目 〈シラ書第46章:〈ヨシュア〉、〈士師たち〉他〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第46章です。

 シラ46:1-6〈ヨシュア〉
 モーセ亡きあとはヌンの子ヨシュアが、指導者としても預言者としても後継となった。
 戦いに於いて勇敢だったヨシュアは、かつて主がアブラハムに約束したカナンの地へイスラエルを到達させ、12部族へ土地をそれぞれ分配した。かれこそ主の戦いの指揮官である。その姿は栄光に満ちて、雄々しかった。
 四方から敵が襲い来たったとき、ヨシュアは主に祈り、求めた。主はヨシュアが敬虔なるがゆえにこれへ応え、敵陣へ激しく雹を降らせたのである。──ヨシュアは諸国民を戦いで圧倒し、滅ぼした。敵はこれらのことにより、自分たちがイスラエルの神を相手に戦っているのだ、と知った。
 「誠にヨシュアは力ある主に従っていたのだ。」(シラ46:6)

 シラ46:7-10〈カレブ〉
 カレブはユダ族エフネ(エフンネ)の子である。
 モーセの時代、カレブはヨシュアらと共にカナン偵察の任を引き受け、戻ってからは強くカナン侵攻を進言した。
 その後、荒れ野を彷徨うことに疲れた民がモーセとアロンの兄弟に反抗するようになった。カレブはヨシュアと共に衣を裂いて民に訴え、カナン侵攻の是を叫んだ。
 一方でカレブと一緒にカナン偵察に参加したものは、ヨシュアを除いて皆、カナンについて悪い噂や誤った情報を共同体内へ広めた。主はこれを知り、疫病で彼らを殺めた。カレブとヨシュアだけがこの難を免れた。
 主はまたカレブに体力を与え、子孫はそれを遺産として受け継いだ。
 「こうしてすべてのイスラエルの子らは理解した。/主に従って歩むのは良いことであると。」(シラ46:10)

 シラ46:11-12〈士師たち〉
 ヨシュアの時代とサムエルの時代の間に士師たちの時代があった。かれらは流行りの偶像崇拝に陥ることなく、ただ主のみを崇めた。
 どうか、士師たちの名が永く祝福され、人々に記憶されますように。
 かれらの骨が墓から再び花を咲かせ、その名が世々にわたって記憶されて語る草となりますように。

 シラ46:13-20〈サムエル〉
 サムエルはレビ族エルカナの子で、祭司エリによって育てられた。
 「サムエルは主に愛され、主の預言者として王の位を立て、/御民を治める者たちに油を注いだ。/彼は主の律法によって会衆を裁き、主はヤコブを顧みられた。/彼は忠実さのゆえに真の預言者と見なされ、/その言葉によって忠実な先見者として認められた。」(シラ46:13-15)
 ──イスラエルが敵に襲われたとき、かれはいけにえをささげて主の助けを得て、ペリシテを退けた。臨終前には民の前で己が人生にやましいことは一つとしてなかった、と述懐。これに異を唱える者は、会衆のなかにいなかった。
 また、サムエルはサウルに油を注いで、イスラエルの王としたことを悔いた。死後も王の夢に現れて、かれの最期を予見し、民の不法を取り除くよう告げたのである。

 ヨシュアの事績は申31:7-8,23,ヨシュ1:1-24:30に載る。
 カレブの事績は民13:6,30,同14:6,ヨシュ14:6-15,15:13-19に載る。
 士師たちの事績は「士師記」に載る。
 サムエルの事績はサム上1:20-25:1に載る。
 ヨシュアが世を去り、統一王国イスラエルが誕生する以前、カナンのイスラエル人を治めるため、士師が各時代に登場して民を導き、裁き、敵を退けた。「士師記」に現れた士師は全部で12人。その名を登場順に下へ記す、──
 ・オトニエル(士3:7-11)
 ・エフド(士3:12-30)
 ・シャムガル(士3:31)
 ・デボラ(士4:1-5:31)
 ・ギデオン(士6:1-8:35)
 ・トラ(士10:1-2)
 ・ヤイル(士10:3-5)
 ・エフタ(士11:1-12:7)
 ・イブツァン(士12:8-10)
 ・エロン(士12:11-12)
 ・アブドン(士12:13-15)
 ・サムソン(士13:1-16:31)
 このうち、外敵からの攻撃に立ち向かった者を<大士師>といい、オトニエル、エフド、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンの6人を指してそういう。また、内政に従事して裁判や仲裁に励んだ者を<小士師>といい、シャムガル、トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドンの6人を指して斯く呼ぶ。
 かれらのなかでデボラにはナフタリ人指揮官バラクとのエピソードがあり、旧約聖書最古の歌とされる「デボラの歌」を残す(5:2-31)。なお、「士師記」第1章から第3章第6節まで士師が登場する時代背景が述べられている。◆

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第1764日目 〈シラ書第44章2/2&第45章:〈モーセ〉、〈アロン〉&〈ピネハス〉withフィリップ・K・ディックをネタにした独り言。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第44章2/2と第45章です。

 シラ44:23-45:5〈モーセ〉
 主は、エジプト寄留中のイスラエルから1人の慈悲深き人を選んだ。その人は主と民に愛された。モーセがその人の名である。「モーセの忠実と柔和のゆえに神は彼を聖別し、/すべての人の中から彼を選び出された。」(シラ45:4)
 モーセは主によりその栄光の一端を示され、イスラエルからは尊敬を集め、エジプトからは恐怖の眼差しで見られた。モーセはその執り成しの言葉によって主の御業をエジプトの前に披瀝し、それは専ら災いとなってエジプトの上に降った。
 モーセは主の言葉に従って民を率い、カナンへの旅路を辿った。その過程でイスラエルは主のふしぎな御業を幾つも経験した。
 「神はモーセに御声を聞かせ、/黒雲の中に彼を導き、/顔と顔を合わせて掟を与えられた。/それは、命と知識をもたらす律法であり、/ヤコブに契約を、/イスラエルに御自分の定めを、/教えるものであった。」(シラ45:5)

 シラ45:6-22〈アロン〉
 アロンはレビ族の出身、モーセの兄である。かれは主により最初の祭司となった。輝かしい祭服をまとい、権威の象徴として冠をかぶった。きらびやかな装身具を着けた。アロン以前にこのような姿になった者はなかった。その後はかれの子孫で祭司とななる者だけが、このような姿になった。
 モーセは聖なる油を両手に満たし、兄アロンの頭に注いだ。それは、アロンとその子孫に対して、天の在る限り続く永遠の契約となった。斯くしてかれは主の祭祀を司り、祭司の務めを果たす者となったのである。
 「神は彼をすべての生ける者の中から選ばれた。/それは、主に供え物と/かぐわしい香りを記念として献げ、/民の贖いの儀式を行わせるためであった。/神はアロンに掟を託し、/律法を解釈する権限をお与えになった。/それはヤコブに主の御旨を伝え、/イスラエルを律法の光で照らすためであった。」(シラ45:16-17)
 ──主はアロンへ栄誉を増し加えていった。かれは主への献げ物としてささげられたいけにえを食糧として分け与えられた。が、目指すカナンにアロンとその子孫が受け継ぐべき土地はない。主自身がかれらの分け前であり、受け継ぐべき<もの>だからだ。

 シラ45:23-26〈ピネハス〉
 ピネハスはアロンの孫、エルアザルの子である。かれも同様に祭司であり、主の栄光を担う第三の人物でだった。
 熱心に主を畏れ敬うピネハスは、不敬虔な同胞と異教の女を槍で殺め、イスラエルのために罪の赦しを得た。「それゆえ、主は彼と平和の契約を結び、/彼を聖所と民の頭とされた。こうして彼とその子孫は、永遠に大祭司の職を継ぐ者となった。」(シラ45:24)
 ──アロンの遺産はその子孫全体に及んだ。

 「願わくば、主がお前たちの心に知恵を授け、/正義をもって主の民を裁かせてくださるように。/そうすれば民の繁栄がいつまでも続き、/その栄光は代々に輝く。」(シラ45:26)

 モーセの事績は出2:1-申34:8に載る。
 アロンの事績は出4:14,6:20,6:28-民20:29に載る。
 ピネハスの事績は出6:25,民25:1-18に載る。
 モーセとアロンは覚えている。ピネハスって誰だっけ? ──そう思うた方はどれだけいるだろう。自分がまさに「これ、誰?」と一瞬考えこんだ者なので、同じように小首を傾げる方が一人でも多いことを望むのである。
 ピネハスは、民25に詳しい言行が記録される。シナイを経ってカナンへ向かうイスラエルの一行がシティムに滞在している。その折り、イスラエルの男たちは地元モアブの娘と通じて背信行為を始めていた。ピネハスはこれについてモーセ、イスラエルの共同体の人々と一緒に、これを臨在の幕屋に集まり嘆いていた。そこへ1人のイスラエル人が異教の女、即ちミディアンの娘を伴って臨在の幕屋へ入ってきた。その様子を見て激昂したピネハスが槍を手にしてかれらを突き殺したのである。これゆえに、イスラエルを襲った災害は収まり、しかしこれによって24,000人が死に至らしめられた。主はピネハスを讃え、平和の契約を授けたのだった。
 ……そうそう、こんな話があった。ここを読んだときはまだ聖書という書物や時代背景についていま以上に知るところ少なく、それでもピネハスの情熱に身震いし、殺められた2人の名と出自が記されている(民25:14-15)ことに奇異の感を覚えたものだった。



 『サンリオSF文庫総解説』の感想を、2日に分けてお披露目します。その作業の過程で倩考えた──やっぱり『SFマガジン』2014年10月号の<いまこそ、PKD。>特集の感想も書いた方がよいだろうか。
 過日はずいぶんと前に売り払った『小さな場所で大騒ぎ』(晶文社)も古本屋で買い直したし、これまで買い控えていたディックの短編集を数冊まとめ買いしたりして、何年かに一回のフィル・ディック・ムーヴメントが自分を襲っているのを感じる。この流れのなかで雑誌と雖も触れぬはなにやら坐りが悪い気分だ。
 景気づけに早川書房オンラインでディックTシャツを買って、それ着て執筆に励むか。ピンク色のビームがわたくしに言葉を送りこんでくれるような気がしてならないのだが……。
 そういえば、『アンドロ羊』のTシャツはもう頒布されないのかなぁ……。ついでに早川書房/ディック絡みでいえば、果たしてわたくしは期間中に<ブレラン酒場>へ行くことができるか? 「火星のミートボール」とか食べてみたいよね。えへ。◆

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第1763日目 〈シラ書第44章1/2:〈先祖たちへの賛歌〉、〈エノク〉、〈ノア〉他with三上延・倉田英之『読書狂の冒険は終わらない!』を読みました。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第44章1/2です。

 シラ44:1-15〈先祖たちへの賛歌〉
 われらユダヤ人の先祖を讃えよう。「先祖たちは皆、その時代に誉れを受け、/生涯にわたって、人々の誇りであった。」(シラ44:7)
 ──勿論、始祖の人以来われらへ至るまでは多くの先祖たちがいたのだから、なかには既に忘れられた人々も、その子孫を含めて、いる。「しかし、慈悲深い先祖たちの/正しい行いは忘れ去られることがなかった。」(シラ44:10)
 かれらとかれらの子孫は主との契約を守り、血脈は延々と続き、幾世代にも渡って主の栄光が頭上に輝くこととなった。讃えられるべき父祖の亡骸は、丁重に、やすらかに葬られ、父祖の名は久遠に残る。
 諸国民もわれらの父祖の名を、その知恵と共に語り継ぎ、誉め讃えてゆく。

 シラ44:16〈エノク〉
 イエレドの子、メトシェラの父エノクは365年行き、子が生まれた後の300年を神とと共に歩んだ。
 エノクは主に喜ばれたので、生きたまま天へ移された。かれは後世の人々にとって悔い改めの模範となった人である。

 シラ44:17-18〈ノア〉
 メトシェラの子であるレメクの子ノアは完全なる義の人であった。ノアは「慰め」という意味である(創5:29)。
 ノアの時代、主は全地にはびこる悪を断つため、40日40夜にわたる大洪水を引き起こした。ノアは主により大洪水後の世界を生きることを許されていた。
 主とノアの間には永遠の契約が結ばれていた。すべての命あるものを洪水によって、二度と洪水によって滅ぼしたりはしない、という契約が。

 シラ44:19-23〈アブラハム、イサク、ヤコブ〉
 諸国民の偉大なる父とはアブラハムのことである。その名声には一点の曇りもない。かれは主の律法を守り、主はかれと契約した。アブラハムの信仰は、主により試されたときも揺らぐことがなかった(イサク奉献)。それゆえ、かれの子孫は浜の真砂のように数を増してゆき、「海から海に至り、/川から地の果てに及ぶ地を、/かれらは代々受け継ぐようになる。」(シラ44:21)
 主は、アブラハムの子イサクに対しても、かれの父同様に約束した。
 主は、ヤコブの上に祝福を置いた。ヤコブはイサクの子でエサウの弟、ヨセフの父。かれはベヌエルの地で神と格闘して、以来イスラエルを名乗った。主なる神は幾つもの祝福を以てかれを承認、受け継ぐべき地を示して12の部族それぞれへ分割譲渡するよう指示した。その地の名は、カナンという(創35:12)。

 エノクの事績は創5:21-24に載る。
 ノアの事績は創6:9-9:29に載る。
 アブラハムの事績は創11:31-25:8に載る。
 イサクの事績は創21:3-28:5、35:27-29に載る。
 ヤコブの事績は創25:26-34,27:1(18)-35:29、37:32-35、46:1-30と48:1-13に載る。
 いずれも「創世記」に名が記されて主役級のエピソードを持つ人たちである。エノクの場合は、と問われようが、<生きたまま>神に抜き取られてこの世から消えた人物はエノクただ一人。かれの篤き信心ゆえに斯く為されたのだ、という。エノクの名は、後の世の人々にとって悔い改めと敬虔の模範となったことで、聖書の各書物──新約聖書の「ヘブライ人への手紙」にも──に折節記されるのみでなく、おそらく神なる主への信仰を持つ人であれば胸に刻まれた存在だったのではないか、と考える。そういえば、旧約聖書外典の一つとして、かれの名を冠した「エノク書」というのがあるが、未読であるな。
 祝福は元来長子に授けられるものであった。が、ヤコブはそれに従わなかった。兄エサウに授けられるはずだった祝福を、弟は父イサクから騙し取った。それが妬みややっかみ、或いは私憤から生じたのか、それとも主からの啓示があって行ったのか、「創世記」はなにも伝えない。こうした間隙を想像して一編の物語に仕立てあげる人もありそうだが、どうやら知る限りではまだないようである。



 『ビブリア古書堂の事件手帖』(メディアワークス文庫)の著者三上延と『R.O.D』(スーパーダッシュ文庫)の著者倉田英之が、読書をテーマに対談した新書を読んだ。題を『読書狂の冒険は終わらない!』という。集英社新書。
 読書をテーマにした対談本というと、どうしても渡部昇一と谷沢永一による『読書朋友』と『読書連弾』を想起する者だが、対談本にかぎらず読書をテーマにした著作とは偏にマニアックに傾いて、その筋の読者でないとわずかなりとも楽しむことのできぬ類の内容に仕上がることが多い。
 それらに較べれば、『読書狂の冒険は終わらない!』はずっと軽い、肩肘張らずに楽しめる内容。が、わたくし自身はどうにもこの本を楽しむことができなかった。スティーヴン・キング始めモダンホラーについて巻頭で語られ、赤川次郎についても肯定的意見に満ちた一冊であるのに、どうしてわたくし自身は本書について楽しむことができなかったのか。
 理由は簡単だ。なにも得るところがなかったから──これ以外にない。帯には「稀代の読書狂が繰り出す名作・傑作・奇本・珍本の数々!」とあるが、語られる内容から<稀代の読書狂>の姿が浮かびあがることは終ぞなかった。まぁ、帯のコピーを鵜呑みにしてレジへ運ぶ人も、(それが好きな作家のものでない限り)そうそういないだろうけれど。
 江戸川乱歩・横溝正史・山田風太郎について語った章は門外漢ゆえ発言を差し控えるが、モダンホラーに関してはずいぶんと浅い内容だなぁ、と思わずにはいられなかったし、赤川次郎について語った箇所に関してはやや呆れてしまった。
 話者の一人が未だ赤川作品としては異色の部類に入る『プロメテウスの乙女』(角川文庫)の存在を知らず、心底驚いた様子で「えー!?」とたまげている。『プロメテウスの乙女』といえば或る程度の紙幅を取った赤川次郎作品ガイドの類であれば、たいていの場合紹介されてきた長編小説と思うのだが、これはわたくしの思いこみかもしれぬ。
 想像だが、三上延も倉田英之も1980年代の作品で赤川次郎を読むのをやめてしまい、近年の作品については殆ど読んでいないのではないか。──正直に言わせてもらうが、この程度の対談なら自分にだってできるし、この程度の赤川作品についての語りならわたくしの方がまだマシな内容を提供できる。
 わたくしとしては、三上延に読書ガイドのようなものを書いてほしい。或いは文学や映画について語った本を出してほしい。小山清や坂口安吾、太宰治や夏目漱石らについて存分に語ってほしい。『ビブリア古書堂の事件手帖』で取り挙げられた作品やその周縁部の作家や作品について、思い入れたっぷりの本を書いてほしい。必ずしも『ビブリア古書堂の事件手帖』で触れられた作品や作家の皆が皆、三上延の好みとは限らぬだろうが、取り挙げられる作品や作家の一々に自分と近しい読書履歴と好みを感じるのだ。それゆえの希望。
 『読書狂の冒険は終わらない!』は残念ながら、数回読み返して処分を決めた。申し訳ないが買った本のすべてを蓄積できるだけの部屋でも住居でもないのだ。◆

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第1762日目 〈シラ書第42章2/2&第43章:〈恥じる必要のない事柄〉、〈主の栄光〉他with『レクラム版聖書人名小辞典』を購入しました。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第42章2/2と第43章です。

 シラ42:1 1/2-8〈恥じる必要のない事柄〉
 恥じよ、とわたしイエススはいった。が、下記のことについては恥じる必要はない。たとえば、──
 主の律法と契約について。不信仰な者へ降される正しい裁きについて。きちんとした態度で商売に臨むことについて。子どもを厳しく躾けることについて。その他。
 妻の素行を疑って家の物に鍵をすることについて。物分かりの悪い者をたしなめることについて。みだらに振る舞う年寄りや愚か者に注意することについて。など。
 これらについて、あなたは恥と思うことはない。
 あなたは真に教訓を身に付けた者となりなさい。

 シラ42:9-11〈父親と娘〉
 何歳になろうとも、娘は父親の心配の種。
 また、独身のときは婚期を逃して行き遅れたり、行かず後家になったりしないか。
 辱めを受けたり乱交に加わったりして、素性の知れぬ男の子供を宿しはしないだろうか。
 縁に恵まれ結婚したらしたで、夫や夫の家族に嫌われたりしないだろうか。
 夫ある身でありながら不貞を働き、夫以外の男と床を共にしたりしないだろうか。
 ──嗚呼、娘が何歳になろうとも、彼女は男親にとって、誰に話すこともできない不眠の原因である。

 シラ42:12-14〈女に気をつけよ〉
 「女からは女の邪悪も出てくる。/男の悪行は、女の善行よりましだ。」(シラ42:13-14)

 シラ42:15-25〈主の業〉
 わたしは、と著者イエススはいう。「わたしはいま、主の業を思い浮かべ、/わたしの見たところを詳しく語ろう。」(シラ42:15)
 主の言葉によって御業は為され、それは栄光に充ち満ちている。主は自分の業については天使にすら語ることを禁じた。主の御がそれを語り得る。万物の基を主は揺るぎなく据え、万物を主は栄光で満たして固めた。
 主は、地下の海についても人の心についても究め尽くし、その仕組みについて種々知り尽くしている。主はすべてに精通し、時の徴に目を留める。過去と未来を主は知る。隠された思いは見逃されず、人の一言半句も聞き漏らさぬ。
 主は、自身の知恵に基づき壮大な業を秩序立てる。そうして、永遠に変わることなき存在。
 「主には、付け加える者も取り去る者もなく/主はいかなる助言者も必要とされない。」(シラ42:21)

 「主のすべての業はなんと見事なものであろうか。/目に映る小さな火花に至るまで。/これらすべてのものは永遠に活動を続け、/すべての必要を満たし、すべてに応じる。/すべてのものは対をなし、一方は他に対応する。/主は不完全なものを何一つ造られなかった。/一方は他の長所を更に強める。/誰が主の栄光を見て飽き足りたといえようか。」(シラ42:22-25)

 シラ43:1-33〈主の栄光〉
 天地のすべてが主により創造された。力を尽くして主を崇め、言葉の限りに主を讃えよ。
 太陽;真昼ともなれば大地を干上がらせ、山々を焦がすもの。その光線は人の目をくらませる。主の命令によって太陽は、その定められた道を行く。
 月;日々満ち欠けして姿を変え、時を示して季節を知らせるもの。その明かりは周期が終わるにつれて弱まる。月光、それは天の軍勢の合図の光だ。
 星;主の命令により天の見張りを務めるもの。夜空にあってそれは美しき装い。いと高き方の命令で、それらは毎季定められた位置に身を置く。
 虹;専ら雨上がりの清らかな空に現れた、天の栄光の弧。諸人はこぞってその輝く様を見て、一際の美しさに主を誉め讃える。
 気象;稲妻。つむじ風と北風。雪と霜。氷。「しかし、雨雲はすべてを速やかにいやし、/露は熱風を追い散らし、気分をさわやかにする。」(シラ43:22)
 海;かつて地下の大海は沈められ、島々が新たに据えられた──主の計らいにより。船乗りは海の危険を語り、聞く者は驚く。海には主により創造された生物や怪物が住まう。
 ──
 「主の使いは、主の力によって務めを果たし、/主の言葉によって万物は秩序立てられている。」(シラ43:26)
 「主の栄光をたたえる力をどこに見いだせよう。/主は御自分のすべての御業にまさって偉大だから」(シラ43:28)
 ──
 「以上のことよりまだ多くの偉大な秘儀がある。/我々は、御業のほんの一部を見たに過ぎない。」(シラ43:32)

 第42章〈主の業〉と第43章〈主の栄光〉は一度に読んでしまった方が良いものである。わたくしは別々の日にこれを読み、原稿を書いて失敗した、と思うている。その反省からブログも一日にまとめた。
 仔細に読めば首肯できることも書いてあろうが、「シラ書」は後半になるにつれて、著者の発言や教えに以前読んだものと重なる部分が出てくる。繰り返しによって読書態度が身を入れたものからは程遠くなるのは、或る意味に於いて必定か。
 斯様にだれてしまった結果か、本日の原稿の出来映えについてはまるで自信がない。推敲も何度かした上でこの有様である。主の御業とか主の栄光とか、読んでいる分には特に問題もないけれど、いざ原稿にしようとすると途端に萎えてしまう。まとめようがないのだ。
 手に余る、というのではない。他の話題以上に内容を咀嚼しかねる、という方が事実に近いか。預言書のときも同様に悩まされたが、こうしたあたりが信徒にあらざる聖書読者の限界なのかもしれぬことを、つくづく痛感する。
 ──「シラ書」は明日から終幕のコーダに入る。即ち、天地創造以来ユダヤ人の歴史のなかに現れた賢人たちへの讃辞と、おわりの祈りである。



 創元社からハンス・シュモルト著『レクラム版聖書人名小辞典』が発売されました。訳者は高島市子。2014年9月刊。
 書店の棚で見附けて立ち読みしたその日から何日か逡巡した後、意を決して購入しました。明日から本ブログも、イスラエル民族の歴史に登場した語るに足る人物たちの記述に入ってゆくので、このようなレファレンス文献は持っていた方がよいのです。厚さも新共同訳聖書の約2/3なのが救い。
 ぱらぱら目繰って記憶にある或る人物の記述を読む。そこから他の人物の項目へ移って、そこを読んでゆく。そのあとは芋蔓式に、限りある時間を食い潰すようにしてあっちこっちへページとページの間を行き来する。楽しい読み物、有益な資料。──どうして旧約聖書を読んでいた昨年にこれの翻訳が出てくれなかったのか。
 これはおそらく、わたくしがこれまで享受を承けてきた幾つかの同種の出版物のなかで、最も便利で情報豊かな聖書人名辞典。仕事帰りに寄り道して、読んで書く、という生活をしている身に、このコンパクトさでまずは満足できる内容が備わっているとあれば、普段の荷物へ新顔として加わるも当然か。
 本書がやがて手擦れしたり、ページの端が折れたり、小口が汚れたりする日は、いったいいつ来るだろう。◆

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第1761日目 〈シラ書第41章&第42章1/2:〈死〉、〈不信仰な者〉他with悩みと迷いは深まるばかりである。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第41章と第42章1/2です。

 シラ41:1-4〈死〉
 日々に憂いなく心穏やかに生活する人にとって、死は苦悩である。
 生活に困窮して明日の頼りもなき者にとって、死は祝福に等しい。
 「死の宣告を恐れるな。/先に死んだ人と、後から来る人のことを考えよ。」(シラ41:3)
 生きとし生けるもの皆に対して死の宣告はなされる。誰から? ──主から!
 いと高き方の御旨に抗うな。お前が地上で何千年もの長寿に恵まれたとしても、陰府では寿命の長さなどどれほどのものでもないのだから。

 シラ41:5-10〈不信仰な者〉
 主の律法を捨てたがため不信仰となった者どもよ、お前たちの子孫は、お前たちゆえに世間の非難を浴びている。
 お前たちの子孫は滅びるために生まれた。そうしてお前たち自身は、呪われるために母の胎から出、呪いを受けたがために死ぬのだ。
 「不信仰な者たちは、呪いから滅びへと至る。」(シラ41:10)

 シラ41:11-16〈名前〉
 人よ、善き名前を残せるよう努めよ。罪に塗れた名は抹殺される。「名を重んじよ。それは後々まで残り、/金の詰まった幾千の大きな宝箱にもまさる。」(シラ41:12)
 たとえ幸せな日々には限りがあっていつかは終わると雖も、名は永遠に残る。
 穏やかな心で教訓を守れ。隠しておく知恵に価値があると思うな。知恵を隠すぐらいなら、自分の愚かさを隠しておく方が、ずっと賢く、ずっと良い。
 ──読者よ、わたしイエススの忠告に耳を傾けよ。

 シラ41:17-42:1 1/2〈恥ずべき事柄〉
 恥じよ、自分の不道徳な行いの数々について、然るべき人らの前で。
 娼婦にみだらな目を向け、人妻に恋慕するな。彼女たちと寝床を共にするな。
 施しを行った後で愚痴ったり、小言をいうな。
 「耳にしたことをそのまま口にしたり、/秘密を漏らしたりすることを恥じよ。/そうすれば、真に恥を知る者となり、/人望を集めるであろう。」(シラ42:1)

 思わず、成る程、と膝を叩いてしまうような文言が、本章にはあった。シラ41:4「お前が十年、百年、または千年生きたとしても、/陰府では、寿命の長さは問題とされない」が、それ。読んで膝を打ち、考えこんだ。ならば天寿とか寿命というものにいったいどれだけの意味があるだろう。そこに果たしてどんな価値が?
 生命の有限なること、霊魂の永続性。人間がどんな叡智や科学を動員してみても、あきらかな解明のできぬ事柄だろう。これらについてわたくしは、深く深く考えて想いを巡らせてしまうのである。
 勿論、極めて積極的な意味合いでではなく、幾分かはやさぐれ気味に、厭世的に、である。
 あちら側へ足を踏み入れることへの仄かな憧憬と、向こうの世界にいて待ってくれている人への熱烈なる、抑え難き思慕。……いったいいつになったらわたくしは、あのこと再び逢い、冥土で久遠の誓いと契りを結ぶことができるのだろう。死の宣告を恐れるな──それを告げられる日の訪れを、わたくしは待ち望んでいる。
 シラ42:1について。管理職に在る者のみならず、人の上に立つ者、或いは良き対人関係を築く者、それを望む者は引用したこの一節を、しっかりと胸に刻んで実行すべきであろう。
 そういえば、イエススにはお得意の話題があるようだ、と昨日申しあげた。が、それと同じく決め台詞めいた一言というのもあったようだ。われながらお気に入りの一言であったのか、と考え直してみてもよい。それがつまり、「自分の知恵を隠す人よりは、/自分の愚かさを隠す人の方がましだ」(シラ41:15)である。これは既に、シラ20:31にも見た。もう一カ所ぐらいあったか、と思うが、探し切れていない。
 ──名前についてわたくしが望むことはただ一つ。生前の誹り、死後の誉れ。



 ちかごろはiPadの話題が多くて大変恐縮です。今日も同じような話題。勘弁してね?
 来月、わたくしは旅に出る。さすらいの旅……心だけは芭蕉か西行か。はたまたブルース・チャトウィンか。冗談はともかく、来月、わたくしは旅行に出る。東北へ行ってみる。行く先は出たとこ勝負、あっちへふらふら、こっちへふらふら、夜の宿はその日の晩に決めよう。
 無計画? いえいえ、そんなことはない。しっかり、余裕を持った計画を立ててある。こう見えてみくらさんさんか、血液型はA型なのだ。
 旅のお伴はiPad。国内では使用用途も限られるけれど、これがあれば(充電の問題はチト脇に置くとして)いったいどんな困ったことに遭遇しようと、切り抜けられもするだろう。iPad片手に旅路を行き、そうして背中のリュックにはMBA。
 まずは旅先でどれだけiPadが有能かを試してみたい。機動性と機能性、操作性とか、その他諸々。画面サイズは大きい方がいいけれど、軽い方がずっと良い。iPad miniを未だ検討対象から外せていないのは、旅先での利用を専ら考えてのことなのだ。
 ふむ、悩みと迷いは深まるばかりじゃ。深まる? うん、秋だけにな。って、……え?◆

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第1760日目 〈シラ書第40章:〈人間に共通する惨めさ〉、〈いずれにもまさるもの〉他with秋の食欲にまさるもの。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第40章です。

 シラ40:1-11〈人間に共通する惨めさ〉
 人間にとって辛い労苦は避けることかなわぬものである。エデンの一件以来悠久に渡ってアダムの子孫には重い軛がのしかかってきたからだ。労苦はゆりかごから墓場まで続く。
 生ある間、人間の心は、遅かれ早かれ訪れる死について悩み、恐れる。それは身分の貴賤、仕事の貴賤、人品の貴賤にかかわらず、悩みの種となる。床のなかで眠っているときは夢のなかでそれに怯え、追われてうなされる。遂に死の捕縛にかかったまさにその瞬間、悲鳴をあげて飛び起きて、あたりを見回して、ああ夢で良かった、と胸を撫でおろす。が、かれの心はすぐにまた死に悩み、それを恐れることになる。まだかれにとって死が現実のものではないからだ。汝、死を忘るゝなかれ。
 死と流血。争いと剣。災難と飢饉。破滅と鞭打ち。これらはいずれも、不法者どものために用意された。
 「土から出たものはすべて土に帰り、/水から出たものはすべて水に帰る。」(シラ40:11)

 シラ40:12-17〈悪のもたらす結果〉
 信実な行為は永遠に続く。施しは永遠に残る。慈しみは祝福に満ちた楽園の如し。
 「施しをする人は喜びに包まれ、/掟に背く者は滅びに終わる。」(シラ40:14)

 シラ40:18-27〈いずれにもまさるもの〉
 良き妻、久遠に添い遂げてくれる妻。楽しい会話と知恵を愛すること。施しと良き助言。それらはいずれも、なににもましてすばらしい。それらは希望にあふれている。
 が、なによりも優るものは主を畏れること。それさえあれば、何物にも事欠かず、他に救済を求める必要がない。主を畏れることは祝福に満ちた楽園の如し。なににもまして、その人を覆い守る。

 シラ40:28-30〈物乞い〉
 物乞い稼業に身をやつすな。一生を過ごすな。それぐらいなら、死んだ方がマシではないか。
 他人の食事をアテにして日々を送るな。それは、人間の性根を腐らせるにじゅうぶんだ。餓死する方がマシではないか?
 ──物乞いは気楽で良いよな、他人のおこぼれにあずかっていればいいのだから。そう破廉恥な衆はいう。やがて、この衆の腹のなかで、滅びの火が燃えあがる。

 「シラ書」を6週間余に渡って読んできた。すると、折に触れて現れる特定の話題があることに気附く。本書のテーマである<知恵>は別として、しばしば話題にのぼるものの一つが、物乞いや空腹や食事の話題である。
 この3つは互いに関連して、あたかも変奏の如く現れては引っこみ、引っこんでは現れてきた。読んでいると、どうしてこの話題をしつこく(とは言い過ぎか?)著者イエススは取り挙げたのだろう、と小首を傾げることである。暇にあかせて倩考えていると、或る一つの推測が思い浮かぶ、──
 人生の一時期、ベン・シラ即ちイエススは食べる物に困ったことがあったのではないか。物乞い稼業に身をやつし、他人のおこぼれに頼り、施しを求めて放浪した時分があったのかもしれぬ。そうした経験が、人生の或る時点で落ち着きを取り戻したかれをして、知恵を讃仰する「シラ書」の執筆に向かわせたのかも。
 そんな風に考え、視点を変えて本書を読むと、これまでと少々異なる本書の姿が見えてきそうである。
 なお、「シラ書」40:1と同:10に於いて「創世記」にかかわる文言がある。重い軛とは、創3:19「お前は額に汗してパンを得る」を、洪水の原因となった不法な者とは、創6:5「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に計っている」を、それぞれ典拠に持つことを、いま念のために指摘しておく。
 ──わたくしは……主を畏れることよりも……良き妻、添い遂げてくれる妻、並びに、楽しい会話と良き助言、加えていえば憂いと苦悩と後悔とは縁薄き生涯の日々を、良き家族、良き友、良き仲間と良き仕事に感謝しながら過ごすことを、主を畏れることに優って、あなたへ、悠久に希望する。



 久々に、戦場で砲弾が飛び交うような趣の月曜日であった。さすがに疲れたな。どうして今日はこんなに忙しかったのだろう。明日はもう少し落ち着くことを祈りたい。
 それとは特に関係ないのだが、やはり日常のさまざまの場面に於いてiPadがあると便利だな、と思う。先日来ずっと検討してきて、使い分けについても徐々に考えがまとまってきた。
 これまでの主たる検討機種はiPad miniでしたが、いまはその地位をiPad Air 2が脅かしつつある。9.4インチのディスプレイ・サイズ、より綺麗に映るRetinaディスプレイの魅力には、どうしても抗えない。んんん、どうしようかな。iPad miniとiPad Air 2、どっちにしよう?
 おまけに、これに加えてちかごろはKindleも欲しいな、と思うている。われながら始末が悪い。秋の物欲は食欲以上に限界知らずで、留まるところを知らぬ様子であります。呵々。◆

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第1759日目 〈シラ書第39章:〈職人と学者〉2/2&〈主とその御業への賛美〉〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第39章です。

 シラ39:1-11〈職人と学者〉2/2
 職人や農夫のたゆまぬ勤労をよそ目に、主の律法を研究する人がいる。
 かれらは、古の書物を繙いて丹念に目を通し、預言者たちの書物の研究に勤しみ、言葉の一つ一つについて考えを巡らせる。かれらは、身分の高い人たちと交わり、諸国を旅して人の生き様、他人の性質について様々体験する。
 「彼は正しい判断と知識を身につけ、/主の奥義を思い巡らす。/彼は学んだ教訓を輝かし、/主の契約の律法を誇りとする。」(シラ39:7-8)
 そうしてかれの名は諸国民の知るところとなり、かれの悟りを誉めそやし、ゆえにその名はかれの知恵と共に代々に渡って語り継がれる。たといかれが天寿を全うしようと夭折しようと、その名は人々の記憶に留め置かれる。

 シラ39:12-35〈主とその御業への賛美〉
 「主が命じられると、すべて御心のままに実現し、/その救いの力を弱める者はだれもいない。」(シラ39:18)

 ──本日は極めてよんどころない事情により、シラ39前半のノートと後半の読んで心に残すべき文言の引用でご寛恕願う。後日、おそらくは「シラ書」が読了次第、この日のノートに手を入れることになるだろう。
 それまでは手抜きとも怠惰とも誹られても仕方ない、と腹をくくっている。感想もその日に改めて加筆修正を加えるので、どうかあと2週間ほどお待ちいただきたい。恒例のエッセイもそのときお披露目しよう。
 本ブログは斯様な瑕疵を残しつつも前に進む。いまは進むより他にないのだ。◆

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第1758日目 〈シラ書第38章:〈医者の薬〉、〈死者への哀悼〉&〈職人と学者〉1/2with今日は渡部昇一『ヒルティに学ぶ心術』を読んでいました。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第38章です。

 シラ38:1-15〈医者の薬〉
 あなたたちは医者を、その仕事ゆえに敬いなさい。医者の手は癒やしの手、その術は人を癒やす。癒やしの業は主からの授かり物、かれらは王から褒美を受け、高い身分を与えられる。薬は、主により大地から造られる。分別ある人は薬を軽んじたりすることはない。
 「医者は薬によって人をいやし、痛みを取り除く。/薬屋は薬を調合する。/主の業は決して終わることなく、/健康は主から全地の人々に与えられる。」(シラ38:7-8)
 子らよ、病気にならぬよう、過ちを犯すな、手を汚すな、あらゆる罪から心を清め、献げ物と供え物を御前にきちんとささげよ。子らよ、病気になったら、主に祈り求めよ。その上で医者に頼れ。かれの手により病気も治ることだろう。
 医者も人々同様、主に祈っている──自分のところへ来る病人の苦しみを和らげ、かれらの命を永らえさせられる治療を行えることを。

 シラ38:16-23〈死者への哀悼〉
 汝、愛する死者のために涙を流し、悲しみの歌をうたえ。相応しい礼を尽くし、亡骸を包んで丁重に埋葬せよ。そうして愛する死者のために喪に服し、人々の弔問を受けよ。なぜならば、あなたが己の身を律することができるように、である。
 心得よ、悲しみから死が生じ、心の悲しみが力を奪うことを。苦悩に囚われているかぎり悲しみは付き纏い、貧しい者の生活は呪いに満ちたものとなることを、心得よ。
 「忘れてはいけない。その人は戻らないのだ。」(シラ38:21)
 「死者を墓に休ませたなら、もう彼を思い出すな。/彼の霊が去ったなら、気を楽にせよ。」(シラ38:23)

 シラ38:24-34〈職人と学者〉1/2
 学者の知恵は余暇に得られる。実務や労働に煩わされない人は知恵ある者となる。
 農夫や職人は自分たちの仕事に専心し、豊かな経験と広くて深い見識と、たしかな技術を持っている。先の見通しを立てて行動し、不測の事態に対応する能力にも優れている。
 が、実務や労働に煩わされている以上、かれらが知恵ある者となることはない。
 「これらの人々は皆自分の腕に頼り、/それぞれ、自分の仕事には熟練している。/彼らなしに、町は成り立たず、/住み着く人も、行き来する人もいない。/しかし、彼らは民の会議では意見を求められず、/集会においても責任ある地位には昇れない。/裁判官の座にもつけず、/法律にかかわる決まりも理解していない。/教訓や法律を説き明かすこともできず、/格言にも精通していない。/彼らは造られたこの世界の調和を固く保つ。/彼らの願いは、仕事を全うすることにある。」(シラ38:31-34)
 ──その一方で、主の律法を研究する人もいる。

 この時代、律法に通じて主への祈りにあたらうつつを抜かす階層の人々に共通した意識だったのかわからぬが、すくなくとも著者イエススと翻訳者たるその孫は、斯くいう、──労働そのものや職人の能力を讃えることはできても、かれらに主が授ける知恵が宿ることはあるまい、と。そのくせ、社会はかれらの存在と活動なくして機能しないことも承知している。
 解せぬ考えだ。つまるところ、如何に信じて敬い、畏れる者らの前に主なる神は平等と雖も、それは建前でしかなく、実際は主の与える知恵を授かる恩恵に浴せぬ者もいる、それらは自分たちに較べて一段劣る者たちでもある、というに等しい。主を信じるふりをして実はそれに背く行為に耽る者たちを非難した著者がなにをいうのか。それとも、これを書きたいが為に、こちらを讃えてあちらを貶める、という二枚舌戦法か。噴飯物だ。常軌を逸している。
 いったいどの面さげて著者はこれを書き、孫はこれを訳したのだろう。そうして、たとえばアレキサンドリアの町に暮らすユダヤ人たちは、どんな顔をして、どんな心境で、これを聞いたことだろうか。
 職人たちをあまりに軽んじている風が鼻にかかって、わたくしにはとても嫌みったらしく思える。それとも、これは信徒衆から表面をなぞっただけの浅薄非才な読み方である、と(また)揶揄されるのか。しかし、わたくしにはこの文言は、知恵のありがたさと尊さに囚われて却ってまわりを見失った<奴隷のモラル>としか読むことができないな。呵々。
 ──なお、中盤、〈死者への哀悼〉について、わたくしはなにも語らぬこととする。引用した部分については否定の気持ちしかわかぬことでもあるし。



 今日は勇気をふるって映画やインターネットを遮断。この原稿を書き、予約投稿を済ませたあとはずっと、家にこもって本を読んでいました。渡部昇一『ヒルティに学ぶ心術』(致知出版社)は一々首肯できる内容で、学ぶところ、得るところ多々の良著。これを書架に並べられる喜びを感じます。いつか感想を書いてお披露目できたらな、とまたぞろ思うてしまいますね。◆

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第1756日目 〈シラ書第37章:〈友人〉、〈助言者〉他withフリクション・ボールについてのわが見解。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第37章です。

 シラ37:1-6〈友人〉
 あなたの友人と称す者をあなたは警戒せよ。自分の益のためにあなたと調子を合わせ、何事かあればたちまちあなたから離れてゆく輩もいるのだから。
 偽りの友を警戒せよ。同時に、真なる友をあなたは心へ留めよ。富裕なときにもかれを忘れるな。
 「仲間や友人が敵に回ってしまうのは、/死ぬほどの悲しみではなかろうか。/ああ、邪悪なおもいよ、お前はどこから紛れ込み、/大地を裏切りで覆うことになったのか。」(シラ37:2-3)

 シラ37:7-15〈助言者〉
 当たり前のことかもしれないが、助言者となった者は皆、自分の助言こそが相手の益となると思いこんでいる。しかし注意しなくてはならない。自分の利益のために相手へ助言する者だっているのだから。
 それゆえあなたは自称・助言者を警戒せよ。相手が利益として求めるところがないか見極め、かれがあなたに損害を与えないか見定めよ。──あなたは相談相手をよくよく吟味して、打ち明け話をしなさい。
 では、どのような者に相談し、どのような者から助言を受けるべきか。──あなたはなによりも、掟を守っているとあなたが考える信仰深い人と付き合いなさい。かれはあなたと気持ちを一にし、あなたが失意にあるとき共にいてくれる。
 「何よりも心に浮かんだ考えを大切にせよ。/これ以上に頼りとなるものはないのだから。/高い所から見張る七人の監視役にまさって、/人の魂は、時として、その人自身に語りかける。」(シラ37:13-14)
 とはいえ、あなたがこれら以上に求めるべき存在がある。それは主、いと高き方である。あなたは真理に満ちた正しい道を歩めるよう、主に祈り求めなさい。

 シラ37:16-26〈知恵と悟り〉
 知恵ある人は自分自身の生活を豊かにする。
 悟りは、人の体に実を結ぶ。
 知恵ある人は自分の同胞を教え導く。
 悟りは、そうしてたしかな実を結ぶ。
 「人の命の日数は数えられるが、/イスラエルの日々は限りがない。/知恵ある人は同胞から誉れを受け、/その名はいつまでも残る。」(シラ37:25-26)

 シラ37:27-31〈食い意地〉
 心得よ、この世のすべての営み、この世のすべての道理が、すべての人にとって益となるわけではないことを。
 自分自身をよく知り、己に害なすものはなにか、とく見極めよ。
 食い意地を張るな。みっともない。それは、自分が愚か者であることを吹聴して回るようなものだ。

 聖書とて一個の書物である。全章全節、全文全語が価値ある言葉なわけではない。また、それを盲目的にありがたがる必要も謂われもない。わたくしは本章の後半とはまさしくそれであり、果たしてまじめに読む必要があるかな、と疑問に思う。むしろ、前半にこそ読書のウェイトを置くべきであろう。
 あなたの友と自らを偽証して周囲に侍る輩は、いつの時代にもいる。それが害なす者か否かは別として、だれの周囲にも1人か2人はいる/いたはずだ。そんな輩は本当に疎ましく思う。広義の裏切りも日常茶飯事となれば、いったいどうして友と称す人を信用かつ信頼できようか。が、知己ばかりと雖も真なる友はとなり得る人は、かならず周囲に存在する。そうした人を見附けて、大切にせよ、というのであった。
 助言者についても同じことがいえよう。ホント、どうして誰であれ、自分の助言が相手にとって有益だと思いこめるのでしょうね。自身を省みて、ちょっと反省、そうして改めよう、と思うてみる。
 ところで、時間不足もあって調べ切れていないのだが、引用したシラ37:14「高い所から見張る七人の監視役」とはなにか? 判明したら事後報告か、こっそりこの箇所を訂正するつもり。



 フリクション・ボールで今日の原稿を書いてみた。なんだか使いにくいですね。すくなくとも、モレスキンとの相性は良くないように自分は感じる。ペン先が紙に引っ掛かるといえばいいだろうか、わずかな抵抗を感じるのだ。
 また、馴れていないことも手伝ってか、ペン軸が持ちにくいんですよね。太さはこれまで使っていて手帳に挿してあるブルーブラックのペンと同じだから、単なる違和感でしかないのだろうけれど。すこぶる使いづらさを感じているのは、しかし事実である。
 それに、これがもしかするとわたくしがいちばんフリクション・ボールに抱く嫌悪なのかもしれないが、書いた文字、文章が消せることに困っているのだ。それが特徴じゃん、と呵々されるのは承知。が、短所としか映らぬのだ。
 推敲の跡がわたくしは欲しい。間違えたら二重線を引いて見せ消ちにしたり、塗り潰したり、斜線を引いたりして、文章が生成されてゆく過程をノートに残しておきたいのである。或いは、修正テープで訂正してその上に書いていったり。
 シャープペンであれば消しゴムをかけた跡というのは或る程度までわかるから、これもまぁ良しとする。
 が、フリクション・ボールは無理だ。いただけない。生理的に受け付けられぬ。時代に逆行しているのは承知している。でも、かりに受け入れられたとしても、これを用いて契約書類や履歴書、公的文書を記入して当然という風潮に「否」を唱えるだけの良識と常識は失いたくないな。阿呆じゃないのか、こいつら、と思い続けていたい。
 今後新しくペンを購入する際は積極的にフリクション・ボールへ切り替えてゆこう。そんな気持ちにはなれぬ。あくまでこれは、従来使うペンがインク切れ等で一時的に使えなくなっているときの予備でしかない。わたくしにとっては主役になることがない文房具の最右翼。それ以上に述べるべき言葉はない。◆

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第1755日目 〈シラ書第36章:〈イスラエルのための祈り〉&〈賢い選択〉with徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』を読んでいます。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第36章です。

 シラ36:1-22〈イスラエルのための祈り〉
 主よ、われらイスラエルを憐れみ給え。主よ、全異邦人があなたを畏れるよう計らい給え。
 すべての異邦人へ向けて御手を振るい、御業の数々を降らせてください。われらにとってあなたが聖なる存在であることを、かれらへ示してくれたように、かれらにとってあなたが偉大であることを、われらへ示してください。あなたの他に神はいない、とわれらに悟らせたことを、かれらにも悟らせてください。
 敵なるかれらをあなたの力で以て滅ぼしてください。あなたは、あなたが定めた<時>があるのを思い出し、その訪れを速めてください。敵なるかれらが、あなたの御業を代々に渡って語り継いでゆくようにしてください。
 主よ、いままたあなたの民、イスラエルのすべての部族を御許へ集め、昔と同じくあなたの遺産を与えてください。主よ、あなたの長子、イスラエルを憐れんでください。主よ、あなたの聖所がある町エルサレムに、あなたの安息の場所シオンに慈しみを与えてください。神殿があなたの栄光で満たされますように。どうか。
 「初めに創造された民に、あなたの約束を果たし/御名によって語られた預言を成就してください。/あなたを待ち望む人々にふさわし報いを与え、/預言者たちの正しいことを立証してください。」(シラ36:20-21)
 主よ、慈しみによって僕たるわれらの祈りを聞き入れ給え。全地の民があなたを認めることでしょう。

 シラ36:23-31〈賢い選択〉
 「顔形の美しい女は人を喜ばせる。/これにまさって人が願い求めるものはない。/女の話しぶりが優しく、穏やかであるなら、/その夫はどんな男よりも運が良い。/妻をめとった者は財産造りを始めたのだ。/ふさわしい助け手、支えの柱を得たのである」(シラ36:28-29)
 妻なき男、独り者はあてもなく地を彷徨う放浪者である。「身一つで、町から町へと渡り歩く無頼の徒を、/だれが信用するだろうか。/ねぐらを持たず、/日が暮れたらその場所に寝るような者を。」(シラ36:31)

 所詮は、──というてよいかわからぬが、イスラエルの民が主に向かい、自分たちとエルサレムの守りと憐れみについて祈るとき、同時に敵なる衆に対して主がその御手をかざし、その御業を揮い、打ち滅ぼされることをも祈っているのではないか。
 主を畏れて改悛するか、主を無視して滅びるか。──選択肢はあってないようなものだ。他の民が主の言葉に耳を傾けたり、主の御業に恐れをなしてこれまでの行いを悔い改めることは、これまで殆ど見受けられなかったからだ。気付いたときは既になんらかの形で災いが降っている。或いは、結果として「いと高き方」への信仰を容認していたり、である。バビロニアとペルシアがそうであった。シラの時代にはギリシアも然りであった。
 いずれにせよ、「ヨナ書」にあったような、ニネベの町全体での悔い改めは稀な例であった、ということだ。
 そういえば、〈イスラエルのための祈り〉で引用したシラ36:20-21。考えてみれば、存命中に自分の預言が(一部なりとも)成就する様を目撃した預言者は、いなかったように思える。どうだろう? エレミヤとヨナはすぐに思い浮かぶけれど……今度の休みには預言書を読み返そう。
 後半、〈賢い選択〉は聖書本文を引いて諒とした。あたら自分の言葉で語り直すよりも引用することこそが「賢い選択」である、と判断するからだ。ここは筆者即ちわたくし、みくらさんさんかの思いを十全に語り尽くしたような箇所である。聖書の言葉に自分の思いを託す。わたくしも、ここでそれをやってみた。
 いうなれば前半、シラ36:28-29はかつて自分が切に望んだこと、同:31は、そうしてわたくしの行く末の素描である。
 「神の怒りはとけ──戸は開かれた──/あわれな魂は解き放たれた。/わたしの前途には限りない希望と/奇跡にみちた時とがある」と、カール・ヒルティはいう(※)。──まったく正反対だ。

 ※『眠られぬ夜のために』第一部九月一日条 P248 草間平作/大和邦太郎・訳 岩波文庫。



 ちかごろ枕辺にあって読むものは、『ヒルティ著作集』第6巻(白水社)と徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』(教文館)であります。後者はずっと書店の棚にあって買い悩んでいたものですが、過日、仕事帰りに思い切って買ってしまいました。
 『マルチン・ルター 生涯と信仰』は、ずっと読みたかった本。亡き婚約者がプロテスタント系の女子校に通っていたこともあり、ルターには教科書で馴染む以上のものを感じ、機会あらば人となりについて、またその著作に触れてみたいと思うていたので、その第一歩として少しずつ就寝前に読み進めています。
 ヒルティはカトリックでした。ルターは、当然プロテスタントです。異なる宗派の偉人の著作を読み耽ることに、なんの実害も弊害も、障りもありません。読書の桃源郷に彷徨いこんだ心境ではありますが……。◆

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第1754日目 〈シラ書第35章:〈受け入れられるいけにえ〉&〈苦しみ悩む人への神の憐れみ〉withラジオを持ち歩く。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第35章です。

 シラ35:1-13〈受け入れられるいけにえ〉
 律法を守ることは、多くの供え物に匹敵する。掟に心を留めることは、和解の献げ物に匹敵する。他人の親切に報いることは、穀物の献げ物に匹敵する。施しをすることは、感謝の献げ物に匹敵する。
 ──まずこのことを知れ。
 あなたが主に喜ばれたいと願うなら、悪事に手を染めてはならない。あなたが主の贖いを受けたいなら、不義に手を染めてはならない。
 「正しい人のいけにえは、主に受け入れられ、/記念の供え物は忘れられることがない。」(シラ35:9)
 土地から取れる収穫物の1/10は主への献げ物として取り除いておかねばならない(ex;レビ27:30、申14:22)。あなたはその1/10の献げ物を喜びあふれる顔で、然るべき場所に奉納しなさい。あなたはいと高き方、即ち主から豊かに(収穫を)受けたのだから、感謝にあふれた心でできる限りの献げ物をささげよ。主は必ずあなたに報いる、7倍にして報いてくれる。

 シラ35:14-26〈苦しみ悩む人への神の憐れみ〉
 主は、主の目に正しく映ることを行い、主の道を外れることなく正しく歩む人の前に公正である。主は、公正なる裁き手、偏って見ることをしない。
 貧しいからとて主は贔屓せず、虐げられている人の祈りを聞き入れる。孤児の願いに耳を傾け、寡婦の訴える苦情を顧みる。寡婦の涙は頬を伝って流れ落ち、その叫びは涙を流させた者を責め、その祈りは天に届く。
 主は、無慈悲な者の腰を打ち砕く。主は、異邦の民に報復する。主は、多くの傲慢な者たちを滅ぼし尽くす。主は、不正な者たちの笏を打ち砕く。
 「主は、行いに従ってその人に報い、/思いに従ってその働きに報われる。/御自分の民のために裁きを行い、/その憐れみをもって彼らを喜びで満たされる。/主の憐れみは苦しみ悩むときに折りよく与えられ、/それは日照りが続いたときの雨雲のようである。」(シラ35:24-26)

 本章の最も力置かれる点は、引用もしたシラ35:24-26だろう。これが憐れみである。それは旱天の慈雨に等しい、という。なんとまっすぐで飾り気のない、感謝と希望にあふれた言葉なのだろう。心が震えた文言である。
 また、〈受け入れられるいけにえ〉にて、久々に10分の1の献げ物と7倍というのが出た。前者については本文に組みこめたので良しとして、前者。
 7は聖書に頻出する数字である。ここでは用例を出す他特になにも付記しないが、例を挙げれば、こうだ、──
 7日目は安息日。「カインのための復讐が7倍なら、レメクの為には77倍」とは「創世記」第4章に出る言葉だ。また、主の過越祭から7週目は刈り入れの祭り(七週祭とも)。モーセは死の前に律法を7年ごとに朗読するよう民に命じた(申31:10-13)。黙示文学である「ダニエル書」にも定めの70週というのがある。新約聖書に目を転ずれば、「マタイによる福音書」第18章第21-23節に、何回赦すべきかというペトロとイエスの問答に、7の70倍まで赦せ、とある。
 7の意味するところについて、わたくしの述べるところは控えさせていただく。読者諸兄がご自身で考えてみると宜しかろう。



 東日本大震災以来わが荷物の常連となったものに、ラジオがある。幸いにしてこれを情報源として頼るような事態は出来していないけれど、遅かれ早かれその<時>は来るだろう。
 すると殊に気を揉むのが乾電池の残量ということになる。eneloopなる利器があると雖も、わたくしの如く太古の昔(呵々)にポータブル・ラジオやラジオ付きウォークマンのお世話になった者は、乾電池の残量を気にするという週間は記憶に刷りこまれて拭えぬものとなっているのだ。──まぁ、いまと大差ない、ということでもあるが(果たして本当に文明は進歩したのか?)。
 そんな心配から乾電池の予備を持ち歩くことになるのだけれど、今秋2週続けてわが国に襲来した台風、特に先日の台風19号への備えから「ポータブル・ラジオだけじゃダメだ!」と突然思い立ち、iPhoneにradikoとNHKネットラジオ「らじる☆らじる」のアプリをダウンロード、準備万端としたのだけれど、……結局今回はこれに頼ることはなかった。
 ラジオはふだんの荷物のなかで場所ふさぎとなっている。が、それは単なる場所ふさぎではない。使わずに済むならそれに越したことはないアイテムである。
 ポータブル・ラジオにせよiPhoneへダウンロードしたアプリにせよ、いまは「いざ」に備えて眠っている。「いざ」──その<時>が来ませんように、と願うのは逆に愚かであろう。われらは既に阪神淡路大震災と東日本大震災を経験し、御嶽山の噴火を報道を通じて目撃し、台風による被害を目の当たりにした。いつ如何なるときでもラジオが使える状態にしておく必要はあるだろう。それが不要になる世界は訪れることがなさそうだ。
 そのためにも、常にバッテリは持ち歩かねばならない。荷物の重さは正しい情報と安全の確保に比例する、ということか。◆

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第1753日目 〈シラ書第34章:〈夢見ることのむなしさ〉、〈旅〉他with後ろ向きにしか生きられない:All you need is love!〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第34章です。

 シラ34:1-8〈夢見ることのむなしさ〉
 良識を欠いた者らが抱く望みは、むなしく根拠がない。夢は愚か者を空想に駆り立てる。
 「多くの人々は夢に惑わされ、/これに望みをかけては滅ぼされた。」(シラ34:7)
 主の配慮により送りこまれたのでない限り、夢に望みをかけて心を奪われるな。
 汚れたものからどうして清らかなものが、偽りからどうして真実が、取り出し得ようか。

 シラ34:9-13〈旅〉
 旅は知見を広げる。旅をした人の経験は、旅をしない人のそれに優る。旅をした人の洞察は、旅をしない人のそれより深い。
 ──わたしイエススが旅をして悟ったことは語り尽くせぬ程。旅で得た経験のお陰で、わたしはこれまで何度となく危難を免れ得た。

 シラ34:14-20〈主を畏れる人の幸い〉
 主を畏れる人の霊は生き永らえる。主を信頼しているから。
 主を畏れる人はなににも怯えることがない。主を信頼しているから。
 主を畏れる人は臆病風を吹かさない。主を信頼しているから。
 主を畏れる人の魂は幸いである。
 「彼は、だれを頼みとし、だれを支えとするのか。/主の目は、主を愛する者の上に注がれている。」(シラ34:18-19)
 「主は彼らの魂を昂揚させ、目に輝きを与え、/健やかな命と祝福を授けられる。」(シラ34:20)

 シラ34:21-31〈受け入れられないいけにえ〉
 主が受け入れることを良しとしないいけにえとは、即ち、──
 ・不正に得た献げ物、
 ・不法を行う者の献げ物、
 ・不信仰な者の献げ物、
 ・貧しい人から盗んでささげられた献げ物、
──である。それらは、いずれも汚れている。どれだけいけにえをささげたとしても、その者の罪は贖われない。
 貧しい人のパンを奪う者は冷血漢だ。隣人の生活を奪う者、日雇い労働者の賃金を奪う者は人殺しも同然だ。
 1人が祈り、1人が呪うなら、主はどちらの声に耳を傾けるだろう。屍に触れて清めた後、再び屍に触れるとは、いったい洗い清めたことになんの意味があったのか。
 かれらの祈りに、果たして誰が耳を傾けるだろう。己を卑しめることにどんな意味があるだろう。

 一つの憂いが視界のすべてを曇らせ、心を濁らせる。夢はそういう性質を、たしかに持つ。多くの人が夢によって身を滅ぼした。本来なるべき存在となることをせず、いたすらに夢なんてものにしがみついていたからだ、という。
 が、果たして夢を見ることは空しいことであろうか。夢を見る者は愚かであろうか。──わたくしは「否」を唱えたい。読んでいると、自分の来し方を省みさせられ、心の内を見透かされるような気分になる。夢は人を呪縛するものではない。かといって人を高めるものでもない。それだけ述べておく。
 この章はあまり好きではありません。



  毎度のことだが、ブログ原稿の清書部分は2、3時間あれば自然と書けるのだが、日々付属するエッセイについてはいつも頭を悩ませる。時には聖書部分をPCで入力する段になっても、なにを書くか、まだ決めあぐねている。一つ、二つのアウトラインでもあれば前に進むことができるのだけれど……。なにも思い浮かばない間はひたすら苦痛ですね。
 どうしてこのスタイルを採用したのか、と後悔することはないけれど、書くことが決まらない以上、最悪の場合、今日は安息日にしちゃおうかな、と逃げの一手を講じたくなることもある。幸いと実行したことがまだないのは、ささやかな自慢といえようか。
 前に進む、といえば、──
 英文学者、平井呈一をモデルとした岡松和夫『断弦』は、妻あれど想う人がそばにおり、むしろその人と結ばれることを望むのになかなか果たせぬ文士のお話でもある。実際平井にはそういう女性がいた。後半生はかの女性と暮らし、それを実質的な伴侶としたのである。
 顧みるまでもなく、それは現在のわたくしの姿と同じだ。事実関係はむろん異なるけれど、そばにいるのに近附けない、否、むしろ近附くことの許されない立場の人。さっきまで一緒にいたのに。すごく離れた場所にいるように感じた。果たされるまでの間、平井翁はどのような気持ちで夜を過ごしたのだろう。
 なにも知られぬまま、悟られぬまま、愉しみやしあわせと縁を切って生きる。たぶん、これは呪いだ。
 斯様な原稿を書きながら聴く《トリスタンとイゾルデ》。なにかの参考になるか?◆

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第1752日目1/2 〈シラ第33章2/2:〈財産〉&〈召し使い〉with中間作業は省略されるか?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ第33章2/2です。

 シラ33:20-24〈財産〉
 たとい相手が親しい人であったり、また妻や息子であったとしても、あなたの上に権力を振りかざすような真似を許すな。
 同じように、かれらに対して自分の財産を元気なうちに譲ったり、奪われるようなことを許すな。健康なうちに財産を譲ると、あとでかならず悔やまれて、それを取り戻したくなるからだ。
 財産を譲るべき時、それはあなたが臨終を迎えて息を引き取る時である。
 「お前の内に命があり、息があるかぎり、/だれに対しても、自分の生き方を変えるな。」(シラ33:21)

 シラ33:25-33〈召し使い〉
 人には相応の役割がある。召使いにはパンと躾と仕事を与えよ。厳しく躾けて働かせろ。
 召使いの手を休めさせると、かれらは自由を要求してくる。身の程をわきまえよ、というのはかれらの立場を知らしめることでもある。怠けたりしないようにたっぷりと仕事を与えよ。怠惰は悪行に染まる最初の一歩だ。
 が、かといって召使いを奴隷のように扱ってはならない。かれらに代わりの者はなく、あなたがかれらを躾けて仕事を与えているから、かれらは自分の仕事をこなすことができる。かれらが日々の仕事を粛々とこなしているから、あなたはなにに煩わされることなく日々を送り、自分の仕事や役割を果たすことができているのだ。
 「彼にふさわしい仕事を受け持たせよ。/命じたとおりにしないなら、足枷を重くせよ。/しかし、だれに対しても厳しくしすぎてはならない。/不当な仕打ちは決してするな。」(シラ33:30)
 あなたに召使いがいるなら、兄弟のように扱え。あなたにはかれらが必要なのだから。あなたがかれらを奴隷のように扱い、かれらが逃げ出してしまったら、あなたはいったいどこを歩いてかれらを探すつもりなのか。

 息あるうちは自分で、自分の財産を管理せよ。召使いを雇うなら飴と鞭を使い分けよ。──財産については、ふむ、と思いこそすれ、召使いについてあまり感慨を持たぬはウッドハウス他のお陰かもしれぬ。
 残念ながらわたくしは執事やメイドに傅かれて生活したことがない。執事やメイド、いわゆる召使いと称される人々の具体的な像はフィクションを通して醸造され、どうしてもそうした実態からは懸け離れた様子の<物語の登場人物>が先に思い出されてしまうのだ。もっと困るのは、かれらがとてもアクの強い人たちであること。そのイメージを拭う作業はとても困難で、はたしていつになったらそうした人たちの実像に迫ることができるのやら、と溜め息を吐いてしまう。
 が、そうしたイメージはミステリやコミック、映画で築かれたものゆえ、いま書きながら念頭にあったのも必然的に19世紀末から20世紀初頭の大英帝国のそれである。そうしていまここで話題に上すべきは紀元前、ユダヤ人社会での召使いと主人の関係性であり、かれらの間にあった契約や日々の労働である。
 聖書を読んできて、家の主人が召使いに命じて食事を用意させたとか酒宴の準備をさせたとか、そんな類の記述は多く見てきた。断片的ながら主従の関係に触れた箇所はあったかもしれない。が、それについて本章のように具体的に、実際的に説いた箇所はなかったのではないか。これは、機会を見て聖書を読み直してゆく際のポイントの一つとなりそうだ。
 ──しかし、主従の関係について説く本章を読んでいて、ウッドハウス創始するところのジーヴスを、セイヤーズ女史描くところのバンターを、或いは東山篤哉生み出すところの影山を思うて仕方なかったのは、果たして世界にわたくし一人ではない、と思うのだが……。そうして、かれらの主人たるウースターとピーター卿、宝生麗子のあまりのずっこけぶりを思い出して、くすくす笑い出してしまったのは?



 何年ぶりかでノートを作る作業を経ずに直接パソコンで原稿を作成した。要するに、Macでは初めてのこと、というわけですね。これが日常的にできれば良いのだけれど、それができれば苦労はしないさ。中身の詰まった缶詰を投げるな、これが本音なのだ。
 が、終日家にいるようなとき、このやり方は最適である。そんな日は原稿を書くのが億劫になることがある。読まねば書かねばMacせねば、と思うてもなかなか重い腰があがらない。けっして面倒臭い、というわけではないが……正直、そんな日は休みが続けば、1日や2日はある。
 ノートを執るというのはかならず必要な作業ではない。必ずしも自分はアナクロな作業を経ないとパソコンに向かえない、というわけでもない。第一、そんなことをしていたら仕事に差し支えるではないか。いったい会社にいては1日何万字を入力していると思うておるのだ。
 では、どうしてこれまでノートを執る、という中間作業を行っていたのか。そうして今後も続くと朧に思うておるのか。──一言でいうてしまえば、それは習慣でしかない。習慣とはだらだらと継続されてゆくものである。改めるべき習慣があっても、簡単に改められはしない。それができたら、この世から<悪習>と呼ばれるものは疾うに一掃されていますよ。
 まぁ、今後は必要と判断したら躊躇せずに中間作業を省略してゆくことも行ってゆきましょう。それを、前向きに検討してみましょう。……なんだか他人事みたいな言い方ですね。えへ。◆

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第1751日目 〈シラ第32章2/2&第33章1/2:〈主を畏れる人〉&〈主の裁断〉withMacに切り替えて困った唯一のこと:どうせ書くなら新作を!〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ第32章2/2と第33章1/2です。

 シラ32:14-33:6〈主を畏れる人〉
 主を畏れる人とは、どのような人か。わたしイエススが思うに、──
 ・教訓を受け容れ、知恵を求める人。
 ・早朝から主を礼拝する人。
 ・律法を窮めようとし、かつこれに習熟する人。
 ・なにが正しいかを見出す人。
 ・分別あり、思慮に欠けることのない人。
 ・よく考えて行動し、よく考えて発言する人。
──となろうか。
 「律法を頼みとする人は、掟に注意を払い、/主を信頼する人は、生活に困ることがない。」(シラ32:24)
 こうした主を畏れる人に対して、いったいどのような災難が起こるというのだろう。たとい災難が降りかかり、試練に遭ったとしても、そのたび救い出される。
 知恵ある人は律法について誠実だ。聡明な人は御言葉を信頼している。かれにとって律法と御言葉は頼りとなるものだから。
 事前の準備なくして話すな。知識と考えを整理してから答えよ。
 ──主を畏れぬ者、偽善者、罪深き者、愚か者とは、上に述べた事柄に背き、または外れた衆をいう。

 シラ33:7-19〈主の裁断〉
 或る特定の日が他の日よりも一段高いのは、主が安息日、祝祭日と平日を分けた(裁断した)からだ。主は季節と安息日、祝祭日を定めた。或る日を高めて聖なる日としたのは主である。
 人間は皆、大地の土から造られた。アダム以来ずっとそうだった。主はあり余る知識により、人間全員を違うように造り、それぞれ異なった道を歩ませた。創造主は御手のなかの人間を思うがままに裁かれる。
 善と悪、命と死、信仰深き者と罪深き者。これらのみならず、いと高き方が造ったすべてのものが一対のものとなっている。そのことを知れ。
 「わたしは目を覚ましている最後の者だった、/摘み取る者が残したぶどうを集める者のように。/わたしは、主の祝福を受けて早くそこへ着き、/摘み取る者と同じように、/搾り桶をいっぱいにした。
 知ってほしい。わたしが労苦したのは、/自分のためだけではなく、/教訓を求めるすべての人のためであったことを。/わたしの言葉を聞け。民の上に立つ者たちよ。/会衆の指導者たちよ、わたしに耳を傾けよ。」(シラ33:16-19)

 シラ33:1を読むと否応なくヨブのことを思い出す。義人でありながら突然わが身を襲った災いに、一時は主を呪う言葉を吐きながらすべてに優るものは主より他なし、と悟り、改悛して取り成しを求め、以前にもまして讃えられるようになった人、ヨブ。
 ──「シラ書」の著者イエススの時代、それを翻訳した孫の時代、「ヨブ記」はどのように読まれていたのだろう。
 それはともかくとして、時々イエススの発言が辛辣になったり毒舌になったり、思わず拍子抜けするものになる場面に出喰くわすと、ふしぎと安堵することである。読者諸兄は如何だろうか?



 WindowsのノートPCからiMacに切り替えて早くも8ヶ月、外での原稿執筆用他にMacBookAirを購入して5ヶ月になる。困ったことは特段、ない。最初のうちは操作についてクウェスチョン・マークが頭の上に点り、Appleのサポートセンターに何度電話したことか。しかしながら操作にも馴れて、いまはまたiPadminiを今年中に購入しようと企み、来年はiWatchかなぁ、と夢想しているのだから、すっかりアップル商品に骨抜きにされてしまっているのを自覚する日々。
 もはやWindowsPCに戻ることはできないだろうが、それでも一太郎の操作性だけはいまでも懐かしく思われ、時々Pagesと無意識に比較して、内心やりきれぬものを覚える。それに伴って、唯一困ることがあるとすれば、過去に書いた文章に手を加えて新稿/決定稿としてお披露目することができなくなってしまったことだ。一太郎で作成していたメモについても然り。
 稀に、エッセイの執筆に行き詰まることがある。未成熟な素材を出すにはまだ早く、かといって原稿のストックがあるわけでもない状態の日は、なにを書いて良いのかわからない。そんなとき、横目でWindowsPCで使っていたHDDやUSBメモリを見て、溜め息を吐く。そうして、手間は掛かるけれど、一太郎からテキストに変換した後、Macで推敲して一編のエッセイに仕立てあげようか、と考える。
 でも、たぶんそんなことはしない。手間を惜しむのではない。それなら最初から新作エッセイ(適切な表現が見附からない)を書いてしまった方が気分も良いし、後ろめたい気分とならずに済む。過去の文章に頼るのも嫌だ。いちおう物書きの端くれなので、お披露目するなら絶対新作、と思うている。なけなしのプライドを引き裂かれたみたいで後味が悪いのだ。かつて過去に書いたものをお披露目したことは、たしかにある。が、それは愛着と自負ゆえの行為。
 限られた時間のなかで蕩けた脳味噌を酷使して、毎日、本ブログ用の、お金にもならない原稿を書いている。酔狂な自分。◆

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第1750日目 〈シラ書第31章&第32章1/2:〈富について〉&〈宴会の席での心得〉with予定を微修正するかもしれない;本ブログの進捗状況を憂う。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第31章と第32章1/2です。

 シラ31:1-11〈富について〉
 朝と昼は本葉に精出し、夜は副業に励んでお金を稼ぐ。無駄遣いしなければずいぶんと貯めこめることだろう。健康は損なわれ、魂は蝕まれるだろうけれど。お前は財産が心配で不眠に悩まされる。転寝しても眠ることかなわず、莫大であろう財産はお前を悩まし続けよう。
 黄金を惜しむ者は義人にはなれない。このことを知れ。金銭を愛して無尽蔵に貯めこむ者は金銭によって身を滅ぼすことを。黄金に夢中となる者には罠が用意され、愚かにもそれに掛かってしまう。
 「金持ちは労苦して財産を蓄え、/仕事を休んでぜいたくな生活を楽しむ。/貧しい者は労苦しても、生きるのが精一杯で、/手を休めるとたちまち生活に困る。」(シラ31:3-4)
 清廉潔白なお金持ちは幸いである。会衆はかれを讃えよ。かれは黄金の誘惑になびかず、それを追い求めなかったから。法を犯すこともできたのに一線を踏み越えず、悪に手を染めることもできたのにそうしなかったのだから。かれの財産は揺るぎなきものになるだろう。

 シラ31:12-32:13〈宴会の席での心得〉
 豪勢な食事が用意された卓を前にして、下品に振る舞うべからず。舌なめずりするな。我を忘れるな。意地汚い目で見るな。片っ端から料理に手を伸ばすな。人を押しのけてまで料理を取ろうとするな。
 同席の人たちを思いやり、すべてに気を配れ。上品に、とはいわないが、ただ礼儀を守って食事せよ。音を立てたり、他人の噂や嘲笑を誘うような食べ方をするな。行儀というものをわきまえよ。誰よりも先に箸をつけるな。
 親にきちんと躾けられた者は腹八分目で満足する。食べ過ぎていないから、床に就けばぐっすり眠れ、朝の目覚めは快適だ。無理に食べさせられたり飲まされたりしたら、黙って席を外してどこかで吐いてこい。そうすれば楽になる。なににしても節度を守れ。そうすれば病気にもならない。
 わたしイエススの教えを笑う者は笑え。そうした者もやがてわが言葉、わが教えの正しいことを知るだろう。
 酒をたらふく飲んで男っぷりを見せ付けようとするな。深酒が原因で身を滅ぼした者がどれだけいたことか。
 節度を守れば、酒は良いもの。人に生気を与え、また、心を浮き立たせ、人を陽気にさせる。そも酒は楽しみのためにある。
 節度を破れば、酒は悪いもの。本性を露わにして、人と人を相争わせる。人を不快にさせ、侮蔑の原因を作る。気分を損ない、苛立ちや間違いの原因となる。
 ──宴会の幹事となったら1人だけ突出したりせず、皆と同じように振る舞え。但し、まわりへ常に目を配り、心を配れ。それが本来の役目だ。「自分の任務をことごとく果たした後に着席せよ。/そうすれば、みんなの楽しみがお前の喜びとなり、/事の運びが見事だというので誉れの冠を受ける。」(シラ32:2)
 年長者よ、語れ。但し、要点を外すな。音楽の邪魔をしたり、教養や知識をひけらかすな。喋り過ぎるな。
 若者よ、必要なときだけ口を開け。簡潔に、されど豊かに語れ。博識であっても寡黙であれ。目上の人の前で、自分を大きく見せようとするな。嘆かわしい。そんなのはただの愚か者だ。
 人望は慎み深い者に立つ。
 「潮時と見たら、席を立ち、ぐずぐずするな。/まっすぐ家へと急ぎ、道草を食ってはならない。/家では楽しく過ごせ。したいことは何でもせよ。/しかし、高慢な言葉を吐いて罪を犯すな。/これらすべてのことに加えて、/お前を造られた方、/その賜物によって歓喜に酔わせる方を賛美せよ。」(シラ32:11-13)

 お金の亡者は欲望に突き動かされるだけで、けっきょく正しい人にはなれない。使うべきお金、使った方が良いお金、使わない方が良いお金、使うべきでないお金。これらの区別をわきまえられぬ者は、どれだけ蓄財に勤しんでも、実際に富を築きあげたとしても、所詮は愚者だ。
 清廉潔白なお金持ちがどのような人か、簡単に触れられている。が、わたくしの思うに、世の道理に背くことも外れることもなく正しく生きることに加え、前段で述べた4種類のお金についてよく知り、それをわきまえることが、讃えられるべきお金持ちというのだろう。
 ──こんなお金持ちになりたい。後ろめたいことをして得たお金を投資に回せ、と説く『金持ち父さん、貧乏父さん』なんて読んで参考とする者らに、そんなものに学ぶぐらいならまず先に「シラ書」第31章を繰り返し読め、というてやりたいね。まあ、馬耳東風に終わることだろうけれど。
 宴席での心得を説いた後半部について、特に述べることはないように思う。わたくし自身には、章をまたいで綴られたイエススの文章に「否」を叫ぶところがないからだ。一々に対して首肯するのだった。宴会の席に連なる社会人はここを読み、自らの戒めとし、範とせよ。



 10月も中旬にさしかかろうとする今日、不安になってしまったのである。本ブログの進捗状況について、だ。
 旧約聖書続編読書ノートは1月に始まり、12月25日擱筆の予定で進んできた。が、先を見るにこの予定は微修正せざるを得なくなった様子。クリスマスではなく大晦日の晩に「マナセの祈り」が読めれば万々歳、というところか。
 自分が頑張れば良いのだが、オーヴァー・ワークの反動でその後数日なにも書かずに過ごしそうな、確信というてほぼ間違いなさそうな予感がしているのだ。途中のエッセイ期間を省けば予定日通りに筆を擱けるかもしれないのだが……。なんだか悩ましいな。「マカバイ記 一」の読み直しもできないか。嗚呼。
 が、続編が何月何日に読み終わるにせよ、来年1月中には新約聖書に取り掛かろう、と思うている。◆

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第1749日目 〈シラ書第30章:〈子供の養育〉、〈晴れやかな心〉他with於むかしの職場にいちばん近いスターバックスにて。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第30章です。

 シラ30:1-13〈子供の養育〉
 わが子を本当に愛し、慈しむ親ならば、厳しい態度で以て子を諫めることができるはずだ。そのようにして育てた子を、親は晩年になって誇ることだろう。子に教育を授けた親は敵に憎まれても、周囲の尊敬を集めることだろう。
 「父親がこの世を去っても、/消えてしまったわけではない。/父親そっくりの子が、後に残っているからだ。/父親は生きている間、わが子を見て喜び、/この世を去るときにも、悲しむことがない。」(シラ30:4-5)
 わが子を甘やかし、躾けることもなく育てた親は、子のわがままに泣き、生傷の手当てに明け暮れる。放任と溺愛は悪い結果を伴って親に跳ね返ってくる。そのようにして子を育てた親の心へ最後に残るのは、後悔である。子を良く育てるならば、ときには体罰も必要だ。
 「お前の子供をしつけ、子供のために苦労せよ。/さもないとその子は非行に走り、お前を困らせる。」(シラ30:13)

 シラ30:14-15〈健康〉
 裕福なのに病気がちより、貧しくとも体の丈夫な方が良い。健康はどんな富にも優る。強くて逞しい精神は莫大な財産に優る。
 健康な肉体に健全な心を宿らせよ。

 シラ30:16-20〈食べ物について〉
 健康な肉体に優る富はない。健全な心の喜びに優る愉悦はない。
 辛い生活を送るぐらいなら死んだ方が良い。長患いするぐらいなら永遠の安息の方がよい。
 そのことを踏まえていうならば、──
 食欲を喪失した者の前にご馳走を並べても、それは墓前に供えられたお供物と同じである。偶像に供え物をするのと変わるところがない。斯様な者の前にご馳走をずらり、と並べても、かれの口は溜め息を洩らすことにしか用いられない。

 シラ30:21-25〈晴れやかな心〉
 あなたよ、「悲しみに負けて気力を失うな。/あれこれ思い悩むことはない。」(シラ30:21)
 朗らかな心はあなたの顔を明るくさせる。含みのない人間関係を築かせる。人生を実り豊かなものにしてくれる。
 快活な心は食欲を旺盛にし、憂うことなく煩うことなく食事を愉しみ、食べ物の味がちゃんと分かるようにしてくれる。
 あなたの心から悲しみを遠ざけよ。多くの人が悲しみによって人生を滅ぼされた。あなたの心から悲しみを追い払うようにせよ。
 妬みや怒りは寿命を縮め、思い煩いは人を老けさせる。

 わたくしに嫡子はない。自分の手で育てるような子供はいない。為、子供の養育や躾というものはどうしても観念的なものとなり、現実的な目線を損なったものとなってしまう。精々が、自分が子供だった頃、親がどのように愛情を注ぎ、叱咤し、守って育ててくれたかを思い出しながら本章を読むぐらいだ。
 こうして顧みて、両親は正しくわたくしを育ててくれたのだな、と実感する。感謝しなくてはならぬ。もっとも、父がここへ引用したように思うてくれていたか、いま母がわたくしという息子をそれなりに誇りとしてくれているか、甚だ疑問ではあるけれど──。すくなくとも、親の心へ最後に残るのが失望や後悔の類とならぬよう、精一杯<いま>を生きてゆくより他ない。Carpe Diem.
 健やかな精神を、(いちおう)健康な肉体へ宿らせ、悲しみを遠くへ追い払った晴れやかな、朗らかな心持て、まだ続く人生を生きよう。このように生を授けてくれた両親への、殆ど唯一の恩返しである。
 親を思い、人生を曲げたりするな。
 誰もが誰かの子供である。



 むかしの職場にいちばん近いスターバックスで本稿を書いている。いまの職場からは2軒目に近いスタバでもある。これまでも本ブログにて何度かエッセイに登場したこのスターバックスで、仕事帰りに立ち寄って原稿を書いていた日々を思い出す。
 21時に終わる会社を退勤して22時30分まで営業するここへ寄り、コーヒーのお代わりをして、店のいちばん奥まった場所に坐って旧約聖書を開き、無印良品のノートを開いて、シャープペンを走らせた。当時は「ヨブ記」や「詩編」、「コヘレトの言葉」のノートを、ここで書いていたんだよね。懐かしいね。まだ数年の隔たりしかないのに、ずいぶんと違う位置に自分が来てしまったな、と思うよ。
 なかなか顧客獲得ができずに上司のお小言を喰らい、それゆえに腐ったり、落ちこんだりしたものだ。あの当時の自分にとって、本ブログはまさしく唯一の逃れ場だった。これがなかったら、行き当たりばったりな人生を歩んでいたはず。そう、いま以上に非道い人生、いま以上に惨めな人生、いま以上にすさんだ人生、いま以上に堕落した人生を経験していたことだろうなぁ……。
 かつて執筆のベースとなったこの店舗で旧約聖書続編のノートを書き、あの頃と変わらぬ時間帯にMBAで原稿を書いている。いろいろなものが変化した。時間は無情に前に進む。そのなかで変化していないものを探すのは難しい。でも、ここに来たら変化していないものが確かに存在する、と気附いた。
 むかしの職場にいちばん近いこのスターバックスは、原点回帰の場所、喪失からの回復を促す場所なのかもしれない。──閉店時間まであと10分を切ったいまこの瞬間、そんな風に思う。◆

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第1748日目 〈シラ書第29章:〈貸し付けと返済〉、〈貧しさと自尊心〉他with晴れた日を選んで、買い物に行こう;予算は〆て約12万円也。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第29章です。

 シラ29:1-7〈貸し付けと返済〉
 もし隣人がお金に困っていたら、あなたはお金を貸してあげなさい。援助の手を差し伸べるあなたは掟を守る人。あなたが隣人からお金を借りたときは、期限内にかならず返しなさい。
 あなたは、約束をちゃんと守り、相手には誠実でいなさい。そうすれば、あなたの必要はいつでも満たされる。
 斯様な人たちばかりなら良いのだが、世間の多くの人たちは借りたお金を自分のお金と勘違いする傾向がある。つまりそれは、お金を貸してくれた人たちへ迷惑をかけることでもある。
 借金する人々は、お金を貸してくれるまで相手について、おべっかとお世辞、お愛想、ごますり、おだて、訴えかけを巧みに繰り出す。が、いちどお金を手にしてしまえば、返済の期日の約束は無視し、達者な言い訳を口にし、なかなか借りたものを返そうとしない。
 たとい返済がされたとしても、それは全額ではなく精々が半分だ。貸主は自分のお金を騙し取られたも同然。一部と雖も返済がされただけで幸運だったと思うた方が、気も楽であろう。
 「多くの人が貸すことを断るのは、悪意ではない。/むざむざ奪い取られることが分かっているからだ。」(シラ29:7)

 シラ29:8-13〈施し〉
 貧者には寛容であれ。主の掟に従い、援助の手を差し伸べよ。困っている貧しい者を見捨てるな。両親と兄弟、真実友なる人のために(のみ)お金を使え。
 お金は福。福を惜しまず福を分けよ。施しは敵と戦うときの武器になる。
 「いと高き方の掟に従って、富を積め。/それは黄金よりもはるかにお前のためになる。/施しをお前の倉に蓄えておけ。/それはお前をあらゆる災難から救ってくれる。」(シラ29:11-12)

 シラ29:14-20〈保証〉
 恥知らず、恩知らずは保証人になってくれた善意の人を見捨てる。なんということだろう! 被保証人は保証人の恩を忘れてはならぬ、かれはお前のために己を賭けたのだから。
 罪深き者は保証人の財産を喰い潰す。保証人を引き受けた人の多くが没落して、世間の波に翻弄されたのは奴らのせいだ。権勢ある人が家を失い、国から国へと流浪することになったのも、奴らのせいだ。
 また逆に、罪深き者が保証人を引き受けたら、奴はかならず利益を貪ることだろう。すると奴はかならず裁きを受ける者となる。
 「お前は力に応じて隣人を援助し、/危ない目に遭わぬよう注意せよ。」(シラ29:20)

 シラ29:21-28〈貧しさと自尊心〉
 「生活に欠かせないものは、水と食物と衣類、/それに、私生活を守る家である。/貧しくとも、梁がむき出しの家で暮らすのは、/他人の家で豪華な食事をするよりましである。」(シラ29:21-22)
 他人の家へ居候する身になるな。自分を貶めるだけだ。他人から軽蔑され、侮辱され、誇りを踏みにじられるばかりだ。貧しくとも、物が少なくとも、自分の家を持て。それは、あなたを守る砦である。

 自身の生活に結び付く話題が続くだけに、このあたりの章は他にもましてじっくり読んだことである。本章に於いては〈貸し付けと返済〉と〈貧しさと自尊心〉を、特に。サミュエル・スマイルズやカール・ヒルティらの著作を読むのと同じぐらいの姿勢で読書に臨んだ──と、本当のところを告白したら、きっと一笑に付されることだろう。
 しかし、実際そうなのだ。やはり人は自分にかかわりある点については敏感に反応し、関心を示す。読書はそれがいちばん如実になる行為である。先に挙げた2項を読み得ただけでも、本章を繙いた価値があるというものだ。
 借金に苦しめられた経験を持つわたくしは、貧しくとも自分を守るための家を持て、という言葉に心の底から共鳴する。そのためのお金の活かし方も、本章は遠回しに説いている。今後、たびたび読み返すことになりそうだ。



 購入、ということについて。購入するリュックは概ね決まった。購入するタブレットはほぼ決まった。あとはお金の算段である。これらは、生活の変化が要請した買い物。ゆえにこれを散在というのは当たらない。贅沢というのも的外れ。いまのわたくしにとって、L.L.Beanのリュックも、iPad miniも、必要なのだ。
 リュックはともかく、タブレットまでが必要? そんな疑問が呈されるのが聞こえる。わたくしもそれについては何度も自問した。いまなお明らかな回答は出せないでいる。が、こうして外で原稿を書いていたり、お散歩しているときの折々に、「あ、こんな場面でタブレットが使えたら便利だな」と思うことがずいぶんとあった。MBAを取り出すまでもないが、iPhoneではチト役不足と思えるとき。そ、そんなときはiPadにご登場願うしかないでしょう? ね?
 ──斯様な次第で(ん)わたくしはリュックの他、iPad miniという名のタブレットの購入を決めた。わたくしの背中を押したのは、年内に予定している旅行である。今年の春の旅行の際も買うか迷ったのだが、結局そのときは見送った。が、今度は前回以上には本気だ。実現可能性の高い購入検討である、ということ。正直なところ、プリンタも買う必要があるのだが、現時点に於いてプライオリティはタブレットの方がやや上。これは仕方のないところである。
 間もなく新型iPadの発表も予定されているそうだが、これは今回のiPad購入検討にこれといった影響を与える様子はない。ほっと一息。
 今月後半、たっぷりもらえた休みの日のどこかで、リュックとタブレットを買いに街へ出掛けよう。晴れた日を選んで、買い物に行こう。リュックとタブレット、合計して約12万円也。ふむ。ふむ、……。◆

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第1747日目 〈シラ書第27章3/3&第28章:〈憤り〉、〈口論〉&〈舌禍〉with要求に応えるリュックを探して〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第27章3/3と第28章です。

 シラ27:30-28:7〈憤り〉
 義人にとって怒りと憤りは忌まわしい。罪人には怒りと憤りが付きまとう。
 誰かに復讐を企てる者は返り討ちに遭う。主の復讐を蒙るからだ。主はその罪を忘れない。
 あなたは隣人から受けた不正を赦さなくてはならない。あらかじめそうしておけば、主に願い出たときあなた自身が許されるから。
 互いに腹に一物抱える者が、どうして主の癒やしを期待できるだろう。隣人に憐れみをかけられぬ者が、どうして自分の罪の赦しを願い出られるだろう。
 「自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。/滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。」(シラ28:6)
 掟を忘れず守るようにせよ。隣人に怒りを抱かず、他人の欠点に寛容であれ。

 シラ28:8-12〈口論〉
 あなたは口論の輪に加わらないようにせよ。それだけ罪を犯す機会が減るからだ。
 罪深い者は友情にひびを入れ、和やかに暮らす人々に不和をもたらす。
 口論に怒りの感情は付きものだ。力ある者の怒りは凄まじく、富める者の怒りは激しい。軽率な争いは口論の火をあおり、軽はずみな口論は流血を伴う惨事につながる。
 口論をあおるのはあなたの口、口論を鎮めるのもあなたの口である。

 シラ28:13-26〈舌禍〉
 「うわさして回る者や二枚舌の者は、呪われよ。/平穏に暮らしている多くの人々を破滅させたからだ。」(シラ28:13)
 陰口は数多の人の心を乱し、かれらを国から国へ追い立てた。堅固な町を破壊し、権力者の家を破滅させた。陰口は仲睦まじき夫婦の間に漣を立て、不信の種を蒔いた。貞淑な妻を離縁に追いこみ、これまで彼女が労苦して得たものを根こそぎ奪い取った。
 陰口を気にし始めると、心穏やかに生活することはかなわなくなる。陰口が気になる生活と平穏な生活は相容れぬと知れ。
 他者の舌禍の被害にかかわることのなかった人は幸いだ。舌禍は人から平穏な暮らしと、やすらかな心を奪ってしまうからだ。
 舌がもたらす死は残酷で、陰府を彷徨う方がずっとマシである。
 とはいえ、──舌の禍いは主を信仰する人を陥れたりはできない。かれらを傷附けることも、滅ぼすこともできない。その反対に、主を捨てる者は舌の災いを存分に蒙ることになる。
 「さあ、お前たちの畑には茨で囲いを巡らせ。/お前の口には戸を立てて、かんぬきを掛けよ。/お前の金銀はしまって錠を下ろせ。/お前の言葉は秤に掛けて、慎重に用いよ。/口を滑らせないように注意せよ。/待ち構えている者の餌食になるな。」(シラ28:24aー26)

 お気附きだろうか。憤りと口論と舌禍、この3つはかんたんに人を葬ることができることを。ここに噂を加えてもいいだろう。
 人の口は恐ろしい。本人の与り知らぬところで人の口が罠を仕掛け、真綿でくるむようにじわじわとかれを追いつめる。それと知ったとき、かれの前には墓穴(はかあな)しかない。口によって人を陥れる者の本懐とするところだ。
 奸智に長けた者の口によって、いちど掻き立てられたかれへの疑いはけっして晴れない。真実がどこにあろうとも、連衆の囃し立てたことが<正>なのだ。これが、舌禍。
 連衆の口にする狂言綺語の類に感じて、己の立場や思うところを説こうと思うな。慎むべきことだ。憤りとその後に起こる口論こそ、連衆の望むところだからだ。奴らはあなたを見て嘲笑する。真実は奴らに届かない。奴らは真実を求めたりしない。
 ──人の口がもたらす災いと罠。これ程恐ろしいものはない、と、わたくしは知ってる。昨年の真冬に経験した。いまのわたくしがあるのは、そうしてこのような文章を書けているのは、そのときの理不尽な経験のお陰だ。サンキー・サイ。



 そろそろ本気で考えなくてはならない。いつまでも先送りにしていてはダメだ。生活にかかわることでもある。だからこそ本気で考え、じっくり検討して、勇断を下さねばならないのだ。
 ──そろそろ新しいリュックの購入を、真剣に考えようと思う。手帳2冊(原稿執筆用のモレスキンを含む)と函入り聖書、読んでいる単行本、筆箱、バッテリとアダプタ、折り畳み傘と予備の眼鏡、財布、入館証、そうしてMacBookAir。これらがちゃんと、整然と収められるリュックが欲しい。
 MBAとその他の荷物は別の部屋に入れたい。そうしないと、リュックの形が崩れて、椅子に立てかけても倒れてしまうのですよね。この中でいちばん重量のあるのは、本である。聖書と単行本、これだけでバッテリ2,3個分の重さになるだろう。これらを収めてなお余裕あるリュックが欲しい。
 リュックに求めるもう一つの、或る意味で最重要な条件は、会社のロッカーにしまえること! お弁当用のバッグも一緒に収めておかねばならぬから、サイズはとっても重要である。サイズと容量と価格。この3つの要素が、極めて大事だ。しかしこの3者がうまく混合したリュックは、さまざまな店舗を回っても、ネットで徘徊してみても、なかなか見附からない。帯に短し襷に長し。
 新しいリュックを探し求めることを、諦めてはいけない。切実な贅沢だからだ。これ程買い物欲を駆りたてられたことなんて、iMacを購入して以来ですよ。……この世のどこかにわたくしの求めるリュックは存在するのだろうか?◆

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第1746日目 〈シラ書第27章2/3:〈言葉と心の思い〉、〈真実〉他〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第27章2/3です。

 シラ27:4-7〈言葉と心の思い〉
 人の欠点は会話のさなかに現れる。
 話をすれば、相手がどのような人間かわかる。短所や欠点が自ずと見えてくるだろう。
 言葉。それは相手を量る試金石である。

 シラ27:8-10〈真実〉
 正しくあろうと努める者はかならず報われる。真実はそれを行う者のもとへ来る。
 罪は不正を志す者を待ち伏せる。
 信仰深い人の話のそこかしこに知恵が宿る。斯様な人とは長く一緒の時を過ごすように。

 シラ27:11-15〈愚か者の話〉
 愚か者の無駄口は聞く者に不快だ。かれらの語りはみだらで猥雑、不法な内容に満ちている。
 むやみに人を呪う者の話には身の毛がよだつ。総毛立つ。かれらの諍いには耳を覆いたい。

 シラ27:16-21〈秘密を漏らすこと〉
 誰かの抱える秘密をもたらす者は世人の信用を失う。心を許しあう友を持つこともない。
 お前は友人を愛して、かれを信じて、交わりを結べ。が、一度かれの秘密を漏らしたりしたら、もうかれの後ろを追ったり、交わり続けることをやめよ。
 「傷は包帯で手当てでき、/侮蔑には仲直りの道がある。/しかし、秘密を漏らせばもう望みはない。」(シラ27:21)

 シラ27:22-29〈偽善的行為〉
 こんな者がいる。あなたの前でお世辞をいい、大仰に感嘆してみせる者。こうした輩を信用するな。陰ではまったく別のことをいい、お前が口にした言葉を都合の良いようにつなぎ合わせ、お前を陥れようと巧妙な罠を仕掛けているからだ。
 わたしイエススはこんな奴がいちばん嫌いだ。主もまた同じであろう。
 悪事を働けば自分の身に返ってくる。が、奴はそれがなにゆえのことか、知るところがない。
 「傲慢な者は他人を軽蔑し、非難するが。/復讐が獅子のように待ち伏せる。/信仰深い人の苦境を喜ぶ者は罠にかかり、/死ぬ前に苦悩にさいなまされるであろう。」(シラ27:28-29)

 ここから先、しばらくこのような短い内容のものが続く。新たに提示される内容ではなく、これまでも断片的に語られてきた。
 「シラ書」後半では、エノクから大祭司シモンに至るまでのイスラエルの父祖たちと共にあった知恵の歴史が語られることになる。知恵の歴史に至る前に生活の諸相に於ける知恵の在処の総決算的意味合いを持つのが、本章から始まる掌編パートである。
 が、知恵とはいうても、この掌編パートを構成するどれもが、性格的には箴言に近しいものと読める。ノートも短くなりがちな予想がいまから立てられる。量と質を維持してゆくのも難しそうで、やや惰性に傾く可能性もないではないが、まぁ、ゆるゆると書いてゆこう。
 本日読んだところでは、〈秘密を漏らすこと〉と〈偽善的行為〉が自身に引き添えて考えることのできたところでしたね。



 『サンリオSF文庫総解説』の感想は書き終わった。次は『SFマガジン』ディック特集号の感想ですね。そんな風にいわれて、なんとなくその気になる。◆

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第1745日目 〈シラ書第26章&第27章1/3:〈悪妻と良妻〉2/2「良妻編」&〈不正〉withiTunesにてドミンゴを観る。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第26章と第27章1/3です。

 シラ26:1-27〈悪妻と良妻〉2/2「良妻編」
 身持ちが悪く、ふしだらな女は淫靡な眼差しで男を誘う。男であれば誰彼の見境なく体をゆだね、衣服を脱いで相手の指と舌に悶え、脚を開いて迎え入れる。そうした女は己の行為を、詭辯を弄して正当化する。自分を諫める正しい男を口で返り討ちにして傷附け、かれの心により深い悩みと苦しみを刻む。
 あなたは知るべきだ。売春婦は唾棄すべき存在であることを。浮気性な人妻は死に値する存在であることを。
 あなたは知るべきだ。あなたの心をいちばん痛めつけるのは、妻の、他の女への嫉妬であることを。嫉妬深い妻の口は周囲に災いをもたらすだけであることを。
 良い女を伴侶とした男は幸いである。かれの寿命は倍に延び、穏やかに生涯を過ごすことができるからだ。良妻は、主を畏れ敬う男への、主からの賜物。彼女は富める時も貧しい時も、心安らかで、晴れやかな顔をしている。
 夫を幸せにする妻とはどのような女か。わたしイエススが倩思うにこんな性質の女ではあるまいか。即ち、──
 一、心の優しい女。
 一、聡明な女。
 一、物静かな女。
 一、しとやかな女。
 一、慎みある女。
 一、見目麗しい女。
 一、健康な女。
 一、信仰篤い女。
 一、主を畏れる女。
 一、貞節な女。
 一、夫を尊敬して仰ぐ女。
 一、心の健全な女。
──と。加えていえば、両親にきちんと育てられた女。健康な体を備えた女は、顔も美しく性格も信心も申し分ない。
 「すべての平地を巡って、肥沃な土地を求めよ。/家を誇りとし、お前の種を蒔き続けよ。/そうすれば、お前の子孫は、末永く続き、/立派な家柄を誇って大いに繁栄する。」(シラ26:20-21)

 シラ26:28-27:3〈不正〉
 わたしイエススは、貧しさゆえに事欠く兵士に、心の痛みを覚える。
 わたしイエススは、思慮があるにもかかわらず軽んじられる者に、心の痛みを覚える。
 わたしイエススは、正しい行いを棄てて罪へ走る者に、激しい怒りを覚える。──主はこの者を死に至らしめる。
 成る程、商売人が不正と縁を切ることはおよそ無理な話だ。かれらが罪を免れるのは困難である。商売に或る程度の不正は付き物だ
 「多くの者たちは、利益を求めて罪を犯し、/裕福になろうと躍起になっている者は、/悪いことにも目をつぶる。」(シラ28:1)
 ──が、たとい商売と不正が切り離せぬ関係にあるとしても、心から畏れ敬うことなければ、その家は驚く程急速に見る影もないぐらいに落ちぶれることだろう。

 悪妻とはこういうものである、というモデルケースを提示するのは容易い。道徳や秩序から外れた者の姿を、やや誇張して描写すればいいからだ。読者はたいていの場合、そうした人物を周囲の誰彼に当てはめて、ふむふむ、と首肯する。
 が、良妻の場合はそうもいかない。著者の示すような人物像を想起することに若干の抵抗を感じるからだ。悪妻のように周囲の誰彼を思い浮かべるのが容易ではないから、という理由だけではなく、良妻とはこのような人物である、という具体的イメージの提示が観念的、抽象的なものになるからだ。だから読者はこうしたところを読むとき、想う人をフィルターをかけた眼差しで心に描くのである。──誰しも身に覚えはあるでしょう? ふふ。



 iTunesにてiTunes Festivalを観る。期間限定で視聴できるプラシド・ドミンゴのライヴ映像が目的。これは、30日間にわたって開催されたiTunes Festival Londonの最終日、2014年9月30日にクロージング・アクトとして登場した際のもの。
 この、不世出のテノール歌手の朗々たる歌声に聞き惚れる雨降りの午後! 久しぶりにドミンゴの歌声を聴いたけれど、この人の声は(容姿もだけれど)年を重ねるにつれてどんどん若くなっているような気がする。70代半ばにもかかわらす未だレパートリー拡大中という貪欲な探究心と旺盛なチャレンジ精神が、このキング・オブ・テノールを若々しく魅せているのかなぁ。
 不満があるとすれば、iTunesのページに主役であるドミンゴの名前があるのは当たり前として、共演するアーティストの情報/紹介がグルジア出身のピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリ以外になんの記載もないこと。
 検索すれば他のHPにて確認することができるけれど、調べる手間を省いてあげるのも提供する側の役目なのではないか、と思う。──この曲のタイトルはなんていうんだろう? そんな風に知的好奇心を刺激されたときに情報提供できるページが用意されていれば、それだけでクラシック音楽への筋道は用意されたと思うんですよね。期間限定で配信されているものだからこそ、他アーティストのライヴ映像を観た帰りの立ち寄り組への配慮が欲しいんだ。
 それにしても、ラストのドミンゴ父子による「Perhaps Love」は何度視聴しても微笑ましく、うっとりさせられますね。この映像がストリーミング配信ではなく、ダウンロードして保存できるものだったらなぁ……。◆

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第1744日目 〈シラ書第25章:〈称賛に値する人たち〉&〈悪妻と良妻〉1/2「悪妻編」with某新古書店がサンリオSF文庫の値札を付け替えたことについて。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第25章です。

 シラ25:1-12〈称賛に値する人たち〉
 私イエススが喜ばしく思う人。一に、仲の良い兄弟。一に、友情篤き隣人。一に、仲睦まじき夫婦。
 私イエスが嫌悪する人。一に、横柄な態度で物乞いする人。一に、嘘つきな金持ち。一に、分別をなくしたみだらで好色な老人。若い時分に知恵を身につけようとしなかった者が、どうして年老いてから知恵を訪ねてわが内へ宿そうとするだろう。
 健全な判断は年齢を重ねた者が下すにふさわしく、正しい勧告の言葉は長老が口にするのにふさわしい。理解力と忠告は尊敬されるべき年寄りにこそふさわしい。老人の冠とされるのは豊富な経験。
 私イエススがとても幸運だと思う人、9種の人たち。10種めはないわけでないが語るに及ばず。
 一、わが子を誇りに思える人。
 一、生き永らえて、敵なる者の没落を見届ける人。
 一、思慮深い妻を持つ夫。
 一、口を滑らせて失敗するところのない人。
 一、自分より劣る者に仕えずに済む人。──こうした人々は幸いである。
 一、分別を身につけている人。
 一、聞く耳を持つ人を話し相手にできる人。──こうした人々は幸いである。
 一、知恵を身につけた人。──この人は、これまでの人より偉大である。
 一、主を畏れる人。──この人は、最も偉大な人である。
 主を畏れる人に優る者は、いない。

 シラ25:13-26〈悪妻と良妻〉1/2「悪妻編」
 およそ、あらゆる傷で心の傷ほど癒やし難いものはない。
 およそ、あらゆる悪意で女の悪意以上に耐え難きはない。
 女の癇癪ほど手に負えぬものはない。
 悪妻と暮らすぐらいなら、獅子や竜と暮らす方が遥かにマシというものだ。
 悪妻は夫を打ちのめし、悪妻の知らぬところで夫は嘆く。性質の悪い妻ほど始末に負えぬ者はない。そうした意味では、悪妻も罪人と同列である。
 物静かな男、独りし思索するのを好む男が、口から先に生まれたような喧しい女と暮らすのは拷問に等しい。斯様な男にふさわしい嫁は、口も気立ても良く、慎ましく、才色兼備で知恵あり分別ある女性。夫を相手に昼は淑女で夜は娼婦な妻が良い。
 それはともかく。
 ──罪の発端は女にあり。同時に、死に至る道筋をも整えた。これは律法、就中「創世記」が語るところである。あなたの指図に妻が従わぬなら、あなたは即刻妻なる者と縁を切れ。

 著者イエススの個人的思念が炸裂した章、それはこのあとも続く。これまでの章を踏まえて読めば納得だが、ここだけピックアップして読めば言葉もなく、ただ「!?」とあるのがオチであろう。過激な発言とはちと違う。口吻激しい文言であるわけでもない。著者はここに自分の意見や教えのクライマックスを置こうとしたのではないか、とさえ思えてしまうぐらい、ストレートに心情や思考が吐露された箇所とわたくしには感じられるのだ。
 本章を読んでもう一つ感じるのは、著者イエススの容赦のなさである。悪妻も罪人も同列の存在とは……この人の妻はけっして褒められるような人物ではなかったのだろうか。かれも妻に悩まされること多い、尻に敷かれた夫だったのだろうか。「シラ書」は女性に対して求めるところの厳しい書物であるように思う。それが案外と著者自身の経験を踏まえたものであったかもしれぬ、と考えたら……まさしく環境は人を作り、思想を生み出す、というところでしょうか。
 ──お気附きかもしれぬが、一部にわたくしの意見を塗りこめもした。筆が走ったり、いたずら心を起こしたのではない。その気分のあったことに否定はしないが、真相はやや違う。では? メッセージであり、表明である。



 ようやく『サンリオSF文庫総解説』の感想を書きあげることができました。10日程前に書いた感想の後半部分が今一つな仕上がりであったため、機を見て書き改めようと考えていたのですが、まさかようやくいまになって書きあげることになろうとは。
 この後半部分、Twitterで呟いたことに手を入れるつもりだった。精々が400字程度の付け足しとなるはずだったのに、目算は大きく外れてしまった。いつものことといえばそれまでだけれど、これをiMacかMacBookAirにて入力せねばならぬのか、と思うと、ちょっと気が重い。「シラ書」が終わらぬ限りお披露目もできないけれど、まぁ、やるしかないね。
 しかしいちばん解せぬは『サンリオSF文庫総解説』刊行以来、と或る新古書店(敢えて名は出すまい)の一部店舗が、それまで108円コーナーにあったと思しきサンリオSF文庫/SFではないサンリオ文庫の値札を付け替えて、通常価格の棚に置き換えたこと。そも絶版文庫の価値に不案内な会社/店舗/店員がなにを血迷ったのか。市場の破壊者が市場価格で物を売ろうとするな。おこがましいにも程がある。
 確かわたくしがかの会社でアルバイトしていた頃は、本の価値を決めるのは、美品であるかどうかという<状態>と、比較的最近に刊行されたものであるかどうかだけだ、と社長以下幹部スタッフが豪語、スタッフ教育を徹底して、絶版であろうと価値があろうと古い本は軒並みゴミとして扱う、というのがポリシーで動いていたのではなかったか。果たしていつからこの会社はサンリオSF文庫などの絶版古書に価値を認めるような方針転換をしたのだろう?◆

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第1743日目 〈シラ書第24章:〈知恵の賛歌〉&〈知恵と律法〉with自炊する?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第24章です。

 シラ24:1-22〈知恵の賛歌〉
 知恵がいと高き方の御前での集会にて誇らかに歌う。天の万軍を前にして、知恵は誇らかに歌う。曰く、──
 わたし知恵は、いと高き方の口から出て、霧のように大地を覆った。高い天に住まい、雲の柱のなかへ座を置いた。一人して天を歩き、地下の海の深みを逍遙した。人間も、国家も、自然の営みも、そのすべてがわたしの支配下にあった。そのすべてに、わたしは自分の居場所を求めた。が、どこにも見附けられなかった。
 そのときだ、主がわたしを呼んだ。わたしを作ったいと高き方は、わたしが住むための幕屋を建てた後に呼んで、いった。曰く、ヤコブのなかに幕屋を置き、イスラエルで遺産を受けよ、と。わたしはそうした。聖なる幕屋のなかでわたしは主に仕えた。わたしは自分の居場所を見附けた。その名は、シオン。
 斯くしてわたしは主の嗣業の民イスラエルのなかへ根を下ろした。その場所でわたしは大きく育った。その場所でわたしは良く香った。その場所でわたしは、ぶどうの木のような美しい若枝を張る。そこに咲く花はやがて栄光と富の実を結ぶ。
 「わたしを心に覚えること、それは蜜よりも甘く、/わたしを遺産として受け継ぐこと、/それは蜂の巣から滴る蜜よりも甘い。」(シラ24:20)
 わたしに従う者は辱めを受けたりしない。わたしの言葉、教えを行う者は罪を犯さない。
──と。

 「この世が始まる前にわたしは造られた。/わたしは永遠に存続する。」(シラ24:9)

 シラ24:23-34〈知恵と律法〉
 これらのすべては、いと高き方、神なる主の契約の書である。往古、モーセがイスラエルの民に守るよう命じた律法であり、ヤコブの諸会堂が受け継ぐものである。
 律法はビション川やティグリス川のように知恵であふれている。律法は、ユーフラテス川のように理解力をあふれ出させる。律法は、光のように、ギホン川のように、教訓を輝かせる。
 最初に現れた人間も、最後にやって来る人間も、知恵のなんたるかを知らない。知恵の思いというのは海よりも広く、知恵の計画は地下の海よりも深い。だから、何人と雖も知恵を完全に知ることはできず、知恵を完全に突き止めることは不可能なのだ。
 わたしは教訓を曙のように輝かせ、その光をずっと遠くまで届かせよう。わたしは教えを預言のように注ぎ出し、代々に渡ってこれを残し、伝えよう。
 「わたしが苦労してこの仕事をしたのは、/自分のためだけでなく、/知恵を求めるすべての人のためでもあることを/理解してほしい。」(シラ24:34)

 これまでわれらは3週間以上にわたって「シラ書」を読んできた。心のなかに留まっている教えや表現もあることだろう。力強い語りがされたことも、さほど印象に残ることなき章もあったことだろう。すくなくともわたくしは、「シラ書」読書を振り返って、各章の思い出というのは濃淡くっきりとしている。それは概ね自分の来し方や思考にかかわるものであったけれど。ノートするにしてもその出来映えは様々で。
 シラ24は──個人的見解の相違は脇に除いておくとして──「シラ書」全体のうちで、最高峰と目されることの多い章だ。全巻の白眉と言い換えてよいかもしれぬ。その趣を損なうことなくまとめるのは、ちょっとわたくしの手に余る。ゆえ、ほぼそのままの移し替えとなったことをお許し願いたい。
 〈知恵の賛歌〉で擬人化された知恵は、イスラエルにとって恵み深き賜り物の如く取り挙げられている。これは拡大解釈せずとも即ち、知恵は主の民の(心の)なかに存在している、ということでもあろう。この点についてはいままでも縷々語られてきたところである。
 なお、〈知恵と律法〉に於いて名の出る4つの川は、いずれもエデンの園から流れ出た1つの川から別れた。知恵と理解力、教訓を教える律法は、善悪の実を付ける木のあるエデンに誕生の源を求められる、という考えにもなろうか。まあ、この点にさほど拘泥する必要はないだろう。



 自炊に興味があるけれど、抵抗もそれ以上にある。ScanSnapがあればそれだけでどうにかなるものではなく、別途裁断機が必要であるから億劫だ、とかそんな話ではない。本を解体してScanSnapにかけて読みこませて、という作業をすることに、たぶん100冊もやれば抵抗もなくなるのだろうけれど、わたくしの申しあげている抵抗とはそんな意味ではない。
 本を裁断してしまったら、古本屋に処分できないではないか。売価が二束三文でも資源ゴミを増やすよりは良いだろう。処分したあと、それが先方で如何様になろうと構いはせぬ。でも、自分の目の届く場所で裁断した本がビニール紐で括られている光景は、想像するだに哀れだ。できるならば、見たくない光景である。
 本を裁断しない非破壊的スキャンもあるというが、話を聞いていると、いろいろと手間暇がかかりそうで、不便もあると仄聞する。一長一短、帯に短し襷に長し、というところか。
 序でにいえば、裁断して読みこませて、なんて時間があるなら、処分する本の選定や他のことにその時間を使いたい、という願望もある。そちらの方がよほど時間の短縮と見切りを図ることができるだろう。一方で、自分の持っていた本がiPadやKindleで読めるようになったら、それはそれで便利なのだろうな、とも思う。まぁ、読みこませたデータが飛んだら一巻のお終いですけれどね。うぅん。、悩ましいな。◆

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第1742日目 〈シラ書第23章2/2:〈みだらな男〉&〈みだらな女〉withスターバックス・カードにまつわるみみっちい疑問がある。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第23章2/2です。

 シラ23:16-21〈みだらな男〉
 内に宿された情欲の炎はけっして消えない、燃え尽きるその瞬間まで。みだらな人間は肉欲に身をゆだね、心を律することを忘れる。放蕩は果てることを知らぬ。
 夜。女好きの男が寝床を抜け出し、人目を避けて相手の女の許へ行く。かれは口のなかでこう呟く、神なる主は俺の犯す罪などすこしも気に留めたりしない、と。俺は他人の目、他人の口だけ注意してればいいのだ、とも。
 ──否! 主はすべてを見ている。主の目は太陽の輝きに優り、人間のすべての歩みを見極め、壁や屋根、岩などで隠されたところまで見通している。創造前と完成後さえ主の目には映っているのだ。
 斯様に、主を畏れず省みず、立ち帰ることも悔い改めることもない男は、「町の大通りで処罰され、/彼が思いもかけなかった所で、捕らえられる。」(シラ23:21)

 シラ23:22-28〈みだらな女〉
 夫を捨てて、他の男の下へ走り、子供を設けた女も、町の大通りで処罰されることになる。というのも、──
 「第一に、こういう女はいと高き方の律法に背き、/第二に、夫を裏切り、/第三に、みだらにも姦淫を行い、/よその男によって子をもうけたからである。」(シラ23:23)
 彼女は公衆の面前に引きずり出され、そのみだらな行いについて沙汰される。咎は一人彼女に留まらず、子供にも及ぶ。彼女を母とする子どもたちは社会てふ大地に根附くことがない。況んや枝を張り実を付けるなど。
 ──彼女は呪われた女として人々の記憶に残り、汚名が消えることはない。斯くして罪に陥らなかった人々は悟る、「主を畏れることは、すべてにまさり、/主の戒めに従うことは何よりも麗しい」(シラ23:27)と。

 情欲に、肉欲に抗うことのできる者が果たしているのだろうか。わたくしにはそんなことのできる人の存在することがふしぎと思う。或る程度までの肉欲なくして歴史が作られるわけがない。そも人間の営みなどあるはずもない。徹底した快楽偏重ということでない限り、わたくしは情欲も肉欲も否定する気はないし、相手次第でそれに抗うつもりもない。聖人君子を気取る考えがないからだ。
 今日読んだところで情欲や肉欲が否定されるのは、かれ/彼女が神なる主を侮り、軽んずる行為に及んだがゆえだ。また、律法で定められた事柄に抵触する不貞、不義を働いたがためである。裏返せば、きちんと生活し、夫なる者、妻なる者とのみ性行し、愛しあって家庭を営む範囲では肉欲も情欲も罪ではない、ということ。──神殿娼婦や淫売婦、男娼が忌み嫌われ、咎の対象となるのもこのあたりが要因の一つといえるかもしれない。
 シラ23:24「その子どもたちにも罰が及ぶ」という文言について、一言。例によってフランシスコ会訳なのだが、その註釈によれば、「罰が及ぶ」は「取り調べられる」とも訳される。そうしてこの「取り調べる」とは、子供が不貞の女の嫡子か庶子かを調べることなのだ、という。嫡子ならそれ以上の沙汰はなし、庶子なら今後その子は律法の定めるところに従って会衆に加わる資格がない、となる。
 ……ただ、参照としてあげられる申命記第23章第2節を読んでも、庶子は云々、という文言は見当たらないのだ。会衆に加わる資格のない者として当該章では、睾丸の潰れた者、陰茎を切断されている者、混血の人、アンモン人とモアブ人、以上となる。これらを基にして庶子も会衆に加わることはできない、というか。ふむぅ、……。



 みみっちいことを申しあげる。スターバックス数店舗を流浪する身だ。財布のなかにはスターバックス・カードを忍ばせてある。手持ちの現金を減らすことなく会計することができる。
 ドリップコーヒー1杯がちかごろは精々で、お代わりを頼むことは滅多にない。たまにチョコドーナッツやサンドウィッチを一緒に買って、もそもそと無心に食すことはあるけれどね。その会計もすべてこのカードだ。給料が出て、支払うべきものをすべて支払ってしまったら、Suica同様スターバックス・カードにもチャージする。そうね、毎月1万円程は。
 さて、そのチャージが今日の話題である。疑問かな。まぁ、いいや、それは。
 最初にこのカードを、いまはなき伊勢佐木モール店で購入した際の説明によれば、チャージ額5,000円ごとにフリードリンク・チケットが1枚サービスになります、と。但し有効期限あり。だがそれは、全店舗で行われているシステムなのか甚だ疑問だ。一部店舗を除く、ということで、特定店舗にてチャージすること数回で毎回チケットなし、となれば、ああここは除かれる一部店舗になるのだな、と納得もできる。
 しかし、或る店舗でチャージしたときはなにもなかったけれど、2度目に同じ店でチャージしたときはチケットを渡される。そのときレジにいた人は別の人である。こんな状況に遭遇するたび、いったいこの基準はどこにあるのだろうか、と小首を傾げてしまう。悩ましい問題なのだ。
 果たして、5,000円のチャージごとにフリードリンク・チケット1枚サービス、というのは、スターバックスという企業が各店舗に定める業務の一環、つまり義務なのか。或いは、そのときレジに立つ人の気紛れ、客への好み、思いつきで為されるサービスなのか。既に経験しているから、特定店舗に限ってのサービスではあるまい。もっとも、この数週間で廃止されたサービスであるなら話は別だけれど。
 いずれにせよ、このあたり、きちんとしてもらいたいな。本当にみみっちいことで恐縮なのだが、一度気になるとチャージのたびにスリリングな思いを味わわされ、若干の失望諸々を抱くことにもなるのだ。毎月このカードに1万円強のチャージをしている以上、しっかりと確認したいことなのである。
 で、いったいどうなの?◆

 それにしても、みなとみらい店のスタバのスタッフって、どうして客の開いているパソコンの画面を覗きこみたがるのでしょうか。あわよくば、パスワードとか記憶してハッキングでもしようとしているのかしら? 実にサイコーなスタッフの揃う店舗ですね、とってもステキです。□

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第1741日目 〈シラ書第22章2/2&第23章1/2:〈自制を求める祈り〉、〈誓い〉&〈みだらな話〉with「今日のエッセイはお休みします」……え?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第22章2/2と第23章1/2です。

 シラ22:27-23:6〈自制を求める祈り〉
 私の口に堅く封印してくれるのは誰か。私の思いに絶えず鞭打って自制を促してくれるのは誰か。斯様にして知恵の訓練を施してくれるのは誰か。
 ──私の過ちを容赦せず、心の罪をけっして見逃さない方ならば、私はこれ以上の過ちを犯すことも罪を重ねることもない。敵対者の手に渡されることも、敵なる者に笑われることはない。
 主よ、父よ、わが命の君よ。私にみだらな目を与えないでください。情欲を遠ざけてください。恥知らずな欲望やみだらな色欲に縁なき者でいさせてください。

 シラ23:7-11〈誓い〉
 むやみと誓いの言葉を口にするな。みだりに聖なる方の御名を口にするな。罪から清められることはけっしてないのだから。やたらと誓うこと多い者の人生は不法に満ち、鞭はその家の常備品となる。偽りの誓いをすれば、それは罪である;その罪はけっして許されず、その家は苦悩で満たされる。
 「誓いに背けば、彼はその罪を背負わねばならず、/誓いを無視すれば、二重の罪を犯すのだ。」(シラ23:11)

 シラ23:12-15〈みだらな話〉
 およそヤコブの子孫とあろう者が、死と肩を並べるような話題を口にしてはならぬ。主への信心ある者はそうした話題をいっさい退け、自らを危うくしたりしない。
 下品でみだらな話をする癖をつけるな。そうした言葉を吐くこと自体が罪なのだから。
 「下品な言葉使いに慣れきっている者は、/生涯、その癖を直すことはできない。」(シラ23:15)

 意外なことに、旧約聖書で主なる神を<父>と呼ぶ場面は多くない、という。フランシスコ会訳「シラ書」の註釈にてそうと知った。
 この呼び方は旧約と新約の時代、ちょうど著者イエススの頃から徐々に使われるようになった様子である。シラ51:10にてイエススがいうている、「わが主の父である/主を呼び求めました」と。
 さして重要ではないかもしれぬが、引っ掛かるところでもあったので、書いて留める。



 今日のエッセイはお休みです。ここだけを楽しみにしているという知己の者も数人あり、なんだなかなぁ、とぼやきたくなる心持ちなのですが、今日はどうしてもエッセイの執筆に割く時間がない。思考することも集中することもできない。とっても眠いのだ。
 昨日、やけに寝苦しくて午前3時頃に飛び起き、その後なにを思ったかシャッターを開け窓を半開にし、数十分の間岡松和夫の『断弦』を寝ぼけ眼で読んでいた。
 そのツケであろうか、仕事中は眠気を感じることはまったくなかったのだが、退勤した途端気怠さと眠気を感じて、そのままどこに立ち寄ることもしないでまっすぐ帰宅した。奇異なる出来事! そうしてどうにかこうにか本日分の原稿を書きあげ、いまこうして「今日のエッセイはお休みです」という趣旨のエッセイを書いている。……ん?
 また明日からは元気に、退勤後は寄り道してカフェ等にて原稿を書き、MacBookAirで清書して投稿し、ぷらぷら故郷の港町を縫って家に帰ろう。
 ところで。
 実は初めてradikoで番組を視聴しました。局はInterFM、「JAZZ ain't Jazz」を放送中(DJの沖野修也の喋りはどうも癖があって耳に煩わしいですね)。他にもあちこち聴いていましたが、やはり雑音なしのクリアな音で聴けるのは抗い難い魅力ですね。中高生の頃夢中になってラジオを聴いていた頃、こんな音質の放送に出会えていたらどんなにか幸福だっただろう。
 これからしばらくの間、いろいろな局を聴いてみて、全国の放送局が聴けるというプレミアム会員登録をするか考えるとします。
 ──では、いつもより短めですが、本日のエッセイ、題して「今日のエッセイはお休みします」を終わります。さて、まだ23時前だけれど、寝るか。えへ。◆

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第1740日目 〈シラ書第22章1/2:〈怠け者としつけの悪い子供〉、〈始末に負えぬ愚か者〉&〈友情〉with御嶽山噴火の報に寄せて。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第22章1/2です。

 シラ22:1-8〈怠け者としつけの悪い子供〉
 怠け者は汚らわしい。怠け者は牛の糞、或いは牛の糞の付いた石である。かれに触れた人は皆、手を振って汚れを払い落とす。
 しつけの悪い子を持つのは父親の恥である。たとえば、娘。分別があれば良縁に恵まれ、恥知らずであれば父の悩みの種となる。
 鞭によるしつけはいつ如何なるときでも得策だ。
 「良い生活をして、食べ物に不自由しない子供は、/両親の家の卑しさを覆い隠す。/人々を侮り、不作法で、横柄な子供は、/自分の親戚たちの良い家柄をも汚してしまう。」(シラ22:7-8)

 シラ22:9-18〈始末に負えぬ愚か者〉
 徒労だ、愚か者に教えたり、説明したりするのは。能う限りの力を費やしても、なに一つ頭のなかに残っていない。挙げ句に、教えてもらっていない、説明されていない、と仰せになる……。
 もうね、そんな愚か者には関わりを持たなくてよい。一切は無意味だ。
 「彼を避けよ。そうすれば、お前は安らぎを得、/彼の狂気に悩まされることはない。/鉛より重い重荷は何か。/その名は『愚か者』。ほかにはない。」(シラ22:13-14)

 シラ22:19-26〈友情〉
 「友をののしると、友情は壊れる。/友に向かって剣を抜いたとしても、/望みを捨てるな。まだ和解の道はある。/友と口論をしたとしても、/心配するな。まだ仲直りの道はある。/だが、悪口、高慢、秘密の暴露、だまし討ち、こういうことをすると、友人は皆逃げてゆく。」(シラ22:20-22)
 隣人が貧しいときに信頼を勝ち取れ。隣人が逆境にあれば、ずっと傍らにいてやれ。それは必ず、あとになってあなた自身を益することになるから。
 おお、あなたよ。友を守ることを恥と思うな。かれの前から姿をくらませたりするな。友ゆえにあなたの身へ災難が降りかかれば、それを知った者は皆、その友へ手出しすることを警戒するだろう。

 勤勉かつ敬虔の人にとって愚か者は相容れぬ異形の存在。ゆえに怠け者は汚らわしい、と呼ぶのは納得できる。それにしても、牛の糞同然の扱いとは! 唖然を通り越して、腹を抱えて呵々大笑したい気分だ。
 本章を読んで、内心相槌を打ったのは〈始末に負えぬ者〉、過去を顧みて嗟嘆したのは〈友情〉の小見出しを持った節の数々であった。
 それなりの社会生活を営んできたなら、幾ら教えても万事右から左なパンプキン・ヘッドの1人や2人、遭遇してきておろう。学生であれ社会人であれ、なんらかの理由あって孤立していない限り、友と思うた人との間に亀裂が生じかねぬような出来事の1つや2つに、出喰わしているのではないか。──そんな経験というか覚えのある人なら、個々の内容についてそれぞれなりに得心、首肯するところがあるのではないか、と思うのだ。
 わたくし? もう人生の折り返し点を過ぎて黄昏刻を目指すような年齢ゆえそれなりに諸事あったし、脛に疵持つ身でもあるので、心当たりは相応にある、とだけいうておく。まあ、叩いて埃の出ない人なんているわけないしな。呵々。



 遅ればせながら、御嶽山の噴火によって亡くなった方々にお悔やみ申しあげます。病院に搬送され治療を受けている方々の回復をお祈り致します。
 突然の噴火であったらしい。TVやラジオなどの報道よりも先に、TwitterやYouTubeでこの天災を知った人も多かろう。わたくしのTwitterにもフォロワーの方々からのツイートが分刻みで入ってきている。
 当初の予想よりもずっと大きな事態に発展しているこの噴火について、なんの力も言葉も持たないわたくしが発信することは一つもない。これに巻きこまれた方々の回復を祈り、亡くなった方々の無念とご遺族の悲しみを想うばかりだ。──斯様な事態に、わたくしは無力である。冷静に事態を見つめ、考えに言葉を与えることができない。
 かつてのバイト先に登山が趣味で、御嶽山にも登ったことがある者があることを、今回の報道を見て思い出した。2人いる。死傷者の名前が発表されるたび、或いは新聞にて死傷者の名前に接するたび、かれらの名前がないか、と確認する。東日本大震災のときもそうだった、宮城に住む学生時代の知己の女性の名前が載ることはないだろうか、と。
 ──天災に終焉のときが来ることはあるのだろうか。悲しみに終焉のときが訪れることはあるのだろうか。人の心に生まれた傷が癒やされることはない。記憶から薄れてゆくことはあっても、傷が完治することは絶対にない。わたくしはそれを経験している。
 悲しみや傷は、決して癒やされることも埋められることもないけれど、それでもわたくしは御嶽山の噴火によって人生を奪われた人々、大切な誰彼を奪われた方々、御嶽山の噴火によって人生の変化を余儀なくされた人々の<想い>を想像する努力を続けたい。……何様か、と中傷されるかもしれないが、これは、傍観者にしかなれないわたくしの正直な気持ちである。◆

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