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第1798日目 〈バルク書第4章2/2&第5章:〈エルサレムへの励まし〉with新しいCDラジカセを買おうと思うのだけれど、……。〉 [バルク書]

 バルク書第4章2/2と第5章です。

 バル4:4-5:9〈エルサレムへの励まし〉
 イスラエルが敵の手に渡されたのは、神の怒りに触れたがためである。滅びのためではない。イスラエルよ、お前たちは主なる神に規定の献げ物をささげず、代わりに悪霊即ち異教の神に献げ物をささげた。育て主である神を忘れて養い手であるエルサレムを悲しませた。それゆえ、神の怒りが下ったのである。
 そのエルサレムはいう、──
 神が遠くから一つの民族を差し向け、愛する息子たちを連れ去り、娘たちを奪って、わたしを独りぼっちにした。わたしはわが子の罪ゆえに孤独となりました。
 わたしは平和の衣を脱ぎ、祈願のための粗布をまといます。わたしは命ある限り、永遠の神に向かって叫びます。子らよ、あなたたちも声の限りに叫びなさい。きっと圧政から解放されましょう。わたしは信じています。
 「わたしは悲嘆のうちに/あなたたちを送り出しましたが、/神はあなたたちを歓喜のうちに/永久に返してくださるでしょう。」(バル4:23)
 子らよ、いまはただ、神の下した怒りに耐え、忍ぶのです。が、あなたたちをわたしの許から連れ去った方は、あなたたちのことを忘れたりしていません。覚えてくださっています。
 「あなたたちはかつて神からの/離反をたくらみました。/回心して、/今度は十倍の熱心さで神を求めなさい。/あなたたちに災いをもたらされた方が/あなたたちを救い、/永遠の喜びを与えてくださいます。」(バル4:28-29)
──と。
 エルサレムよ、東を見よ。かつてお前が嘆きと悲しみのうちに送り出した息子、娘が帰ってくる。お前はこれを喜びを以て迎えよ。東からも西からも、離散した民がお前を目指して帰ってくる。「聖なる者の言葉によって集められ、/神の栄光に浴して喜びつつ帰ってくる。」(バル4:37)
 さあ、エルサレムよ。悲しみの衣を脱げ。不幸の衣を脱げ。代わってお前が身にまとうべきは、義。そうして頭には、永遠なる栄光の衣を戴け。お前は神から<義の平和、敬神の栄光>と呼ばれ、その名を永遠のものとする。
 ──神は帰還する民のため、山に、丘に、谷に命じる。低くなり、埋まって平地になれ、と。神は帰還する民のため、森に、香り高いすべての木に命じる。エルサレムの息子たち、娘たちのために木陰を作れ、と。
 「神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、/喜びのうちにイスラエルを導かれる。」(バル5:9)

 前半と後半の対比が著しく感じられる章であります。悲嘆から希望、栄光へ。エルサレムの悲しみが深ければ深い程、希望から生じた喜びが大きければ大きい程、「バルク書」は圧倒的推進力を持って歓喜に満ちた、交響曲の大コーダにも喩うべき高揚感に包まれて終わる。希望の曙光。これがもたらす感動は、「歴代誌・下」や「ヨブ記」或いは「ルツ記」とも共通する。
 この「バルク書」は短いながらも勇気と希望にあふれた、まさしく「励ましの書物」といえるだろう。──となれば、やはり続く「エレミヤの手紙」はバル6ではなく、独立した書物として扱うのが自然か。

 「バルク書」は本日を以て読了となります。ちょっと駆け足になってしまったので文章が粗かったり、読みが浅かったりするかもしれませんが、わたくし自身にとって、非常に満足して擱筆できた書物であります。
 すこしずつ、旧約聖書続編を読み終えるその日が具体的に姿を現し始めたように思います。このまま、気を緩めず一歩ずつ足を前に進めてゆきましょう。



 借りていたCDラジカセの調子が悪くなってきました。だいぶ酷使したり、時にはずっと放置していたから、そろそろ寿命というべきなのかもしれない。修理すれば使えるだろうけれど、修理代よりも新しい機種を購入する方が安くつくかもしれませんしね。後ろ髪引かれる思いを断って、新しいものを買おうと思う。
 実はすこぶる様子がおかしくなってきた頃から家電量販店を覗いて回っているのだけれど、ちかごろは売り場にラジカセが占める面積が狭くなってまいりましたな。別にラジカセじゃなくてミニコンポでも構わないのだけれど、それを置くスペースを部屋に確保しなくてはならないので、ミニコンポの実現性はちょっと低い。そうなるとラジカセという選択肢に戻るわけだが、今度は検討できる機種がたちまち減ってしまうのが難点。
 勿論、CDは必要である。ラジオも必要である。MDはいらない、無用の長物。そうしてどうしても必要なのが、懐かしのカセットなのだ。中学生の頃から社会人になる頃までにエアチェックした数々のカセットが、いまでもわたくしの部屋の棚には眠っている。同好の士から譲ってもらったクラシックの名演奏家たちのライヴ録音が、カセットの磁気テープに記録されている。レンタルレコード店で借りたレコード、友達の持つレコードを録音したテープが、残っている。これらを聴きたいのだ。デジタル音声化する手段もあるけれど、やはりカセットテープという媒体で鑑賞したいのだ。
 となると、選択肢はとても少ない。殆どない、というてよいぐらいだ。然るべき場所へ赴けばぐっと増えるのかもしれないけれど、いまのわたくしは多摩川の向こうに行って再び電気街の地を踏む気分にはなれないでいる。インターネットで調べてみても、所詮は帯に短し襷に長し、だ。選択肢の少なさゆえに溜め息を吐いてしまうとは思わなんだ。
 ゆっくり探すつもりでいるが、その間に徐々に機種が減って悠希はしまいか、残るのは自分の用に供さぬ物ばかりとなるのではないか。そんな不安も心の片隅で飼っている。◆

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第1797日目 〈バルク書第3章2/2&第4章1/2:〈知恵の賛美〉with6年目にして初体験──「バルク書」読書の進捗について。〉 [バルク書]

 バルク書第3章2/2と第4章1/2です。

 バル3:9-4:4〈知恵の賛美〉
 イスラエルよ、どうしてお前は敵のなかに散らされているのか。どうしてそこで齢を重ね、死者と汚れを共にし、陰府へ下る者のなかに数えられるのか。
 イスラエルよ、どうしてお前は知恵の泉を捨てたのか。全地にただ一人、お前だけがそれを与えられたというのに。もしお前が神なる主の定めた道を誤ることなく歩んでいたなら、永遠の平和の裡に過ごすことができただろうに。
 イスラエルよ、学べ。悟りと知恵の在処を。そうして、知れ。長寿と命の在処、目の輝きと平和の在処を。
 地に住まう者は何人も知恵の在処を知ることができなかった。誰も、知識の道を知らず、知恵の小道を悟らず、知恵を得ることができなかった。それは箴言を語る人々、悟りを求める人々も例外ではない。
 果たしてこれまでに、天へ昇って知恵を捕らえようとしたり、海の彼方へ行って知恵を見出そうと試みた者がいるか。否。知恵の道を知る者はなかった。知恵の小道について思いを巡らせようとする者もなかった。
 ──すべてを知る方、即ち主のみが知恵を知り、自分の力でそれを悟り、見出したのである。この方が知識を僕ヤコブと愛するイスラエルへ与えた。「その後、知恵は地上に現れ、人々のなかに住んだ。」(バル3:38)
 イスラエルよ、いまお前たちのなかに知恵はない。主の定めた道に背いたからである。ヤコブよ、主なる神に立ち帰ってこれを摑め。その輝きに向かって歩むようにせよ。ヤコブよ、あなたに与えられた栄光を、特権を、諸国民に譲ることなかれ。
 イスラエルよ、われらは幸いである。神の御心にかなうことを知っているのだから。

 「知恵は神の命令の書、永遠に続く律法である。/これを保つ者は皆生き、これを捨てる者は死ぬ。」(バル4:1)

 相変わらず知恵について書かれた箇所をノートするのは難しい。時折雲を摑むような部分に出喰わすと、はて、これは……、と煩悶する。しかし、これまで読んできたなかで知恵について触れられたところと比べると、格段にわかりやすい箇所であるのも事実。論理そのものは至極単純明快であるからだ。
 ──神から授けられた知恵を顧みなかったからイスラエルは裁かれて敵地に散らされた、ヤコブよ立ち帰って再びこれをわが物として取り戻せ、そうすれば再びお前たちは生きることだろう。
 これが、今日語られた知恵の主旨。これ程わかりやすい箇所は顧みてもあまり出会った覚えがないのだが。
 天の上、海の彼方に出掛けて知恵を捕らえたり、見出そうとした者が果たしてあったか、という箇所(バル3:29-30)。これに触れて、わたくしは昔読んだこんな小説を思い出す、──霧に覆われた孤峰の頂へ集うとされる神々の姿を一目見んとて禁忌を犯す男を描くHPLの短編「蕃神」The Other Godsや、或いはダンセイニ卿の霧に閉ざされた神渺な世界を綴った作品の数々を(就中『ペガーナの神々』ハヤカワ文庫FT/『時と神々の物語』河出文庫)。
 これらは最後に読んでだいぶになるのに、いまでもなにかの拍子に内容や雰囲気をちゃんと思い出すことのできる幾つかの小説の一つだ。自讃めくが、偏読、耽読の賜物か、と思うている。



 前代未聞の出来事ではないか。われながら変な気分だ。もっと細切れにした方がいつも通りでいいのかな、と内心、小首を傾げたりする。
 お察しの方もいるやも知れぬが、「バルク書」については1日1章の読書に向かぬ書物である。単に小見出しが複数章に跨がっているだけの話だが、それが全体にわたって行われているとなれば、小見出しに引きずられて読んでゆくのが賢明であり、自然の理であろう。こんなこと、おそらく本書が初めてではないか。しかし、「バルク書」に関しては章単位ではなく、小見出し単位の読書が適している、と判断したらこのような結果になったのだった。ご理解を乞う。
 ゆえに「バルク書」に関しては章の数よりも短い日数で読了することになる。ちなみに、読了予定は明日。これは揺らぎようなき事実だ。原稿も先程書きあげたばかりだから、わが身に何事か起きぬ限りこの約束は果たされるはずである。
 単純に考えて、これで日程は2日短縮された。亜空間ゲートに頼らずとも生まれたこの貯金を最大限に活かして、旧約聖書続編の読了に拍車をかけたい気持ちである。……まぁ、こんな頑張りもゴールがはっきり見えてきたからこそかもしれないけれど。
 あと1ヶ月弱の読書、怠けず着実に進めてゆきましょう。◆

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第1796日目 〈バルク書第1章2/2、第2章&第3章1/2:〈エルサレムへの手紙──悔い改めの勧め──〉with婚約者の墓参りの日に覚えた感情について──遊ぶな、敬意を払え。〉 [バルク書]

 バルク書第1章2/2と第2章、並びに第3章1/2です。

 バル1:10-3:8〈エルサレムへの手紙──悔い改めの勧め──〉
 お金を送る際、バビロンの捕囚民は手紙を添えた。それに曰く、──
 このお金で神殿に備える種々の献げ物と香料を買い、主の祭壇へ然るべき献げ物をささげてください。そうしてバビロニア王ネブカドネツァルとその子ベルシャツァルの健康と長寿を祈ってください。それはこの地で暮らすわれらのためにもなるのです。われらの上には未だ主の怒りと憤りがのし掛かっているのですから。
 われらの主は栄光に満ち、正しいのに、われらの顔は恥で覆われている。いまを生きる者のみでなく、先祖たちまでも、主の御声に聞き従わず、悪いこと、罪とされること、恥とされることばかり行ってきた報いです。この事は既にモーセが出エジプトを果たしたその日、主から告げられていたとおりなのでした。数々の災いと呪い。モーセを通して民へ宣告されていたにもかかわらず、われらはそれを無視して思うままに振る舞いました。
 それがため、主はあらかじめ士師や預言者たちへ語ってきた警告を実行したのです。律法に記されたことがエルサレムを舞台に実行されたのでした。このようなことは天の下、どこでも行われたことはありません。「わたしたちは自分の息子や娘の肉を食べたのです。」(バル2:3 ex;レビ26:29)──主はわれらへ絶望を味わわせ、他に支配される側としたのです。
 エルサレムを舞台に計画は実行されました。その後もわれらの顔は恥辱に覆われています。われらは一部を除いて皆、カルデア人の国へ連れてこられ、その地に散らされたのでした。
 主よ、あなたへ祈ります。あなたの掟に従わず、背き、不敬虔なことばかりして、義を行いませんでした。主よ、あなたの怒りを去らせてください。離散の目に遭ったわれらを救い出し、恵みを与えてください。あなたの民を顧み、心に留めてほしい。
 「陰府におり、息を肉体から取り去られた者は、主に栄光と義を帰することができません。ただ、人を押しつぶし弱らせる大きな苦しみに遭って嘆き悲しむ魂と、視力の衰えた目、飢えた魂が、主よ、あなたに栄光と義を帰するのです。」(バル2:17-18)
 主よ、あなたはエレミヤを通して預言したことを実行し、われらに怒りと憤りを下しました。──バビロニア王ネブカドネツァルに従え。従うならばこのまま父祖の地に留まれよう。従わぬなら、お前たちは父祖の地から引き離される。喜びと悲しみの声、花婿と花嫁の声は絶え、ここは住む者なき荒れ地となろう──その預言にわれらは耳を傾けることがありませんでした。
 そうして、いまや見よ。先祖と王の墓から取り出された骨は、昼は暑さに、夜は霜に曝されている。犯し続けた罪ゆえの罰なのです。
 われらはあなたの言葉通り、国を去ってかの地へ植え付けられました。が、あなたはかつてモーセに、今回のような事態が起こったときに備えて、限りない寛容と深い憐れみを示してくれていました。曰く、「しかしお前たちは、捕らわれの地で本心に立ち帰り、わたしがお前たちの神なる主であることを悟る。わたしは心と聞く耳とを与える。こうしてお前たちは、捕らわれの地でわたしを賛美し、わたしの名を思い起こし、かたくなさと悪行から立ち帰る。主の前に罪を犯した先祖の歩いた道を思い起こすからである。わたしは、お前たちの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地にお前たちを連れ帰る。お前たちはその地を治めるだろう。わたしはお前たちの数を増やし、その数を決して減らすことはない。わたしはお前たちと永遠の契約を結び、わたしはお前たちの神となり、お前たちはわたしの民となる。わたしはもはやわたしの民イスラエルを、その与えた地から去らせることはない。」(バル2:30-35)
 主よ、われらは困難と悩みのなかであなたに叫びます。どうか憐れみを。あなたに罪を犯し続けた者たちの子孫の声に耳を傾けてください。先祖の罪を思い起こさず、いまはあなたの名と力を思い起こしてください。われらはあなたを讃えます。
 あなたは自分の御名を呼び求めるように、と、われらの心にあなたへの恐れを与えました。あなたに対して犯され続けた先祖の罪をすべて、われらは心から捨て去りました。
 「御覧ください。わたしたちは今捕らわれの身です。神なる主から離れ去った先祖のありとあらゆる罪のゆえに、あなたはこの地にわたしたちを散らし、恥辱と呪いにさらして罰を降されたのです。」(バル3:8)

 ベルシャツァルについては既に昨日触れたから、ここで改めて取り挙げることはしない。「なんのこと?」と仰る方はお手数だが、〈「バルク書」前夜〉と「ダニエル書」の該当箇所をお読みいただきたく思う。
 ここでは併読いただきたい箇所を記すに留める。曰く、──
 バル2:21-23の対応箇所はエレ25:9-14〈神の僕ネブカドネツァル〉、バル2:29-35の対応箇所はレビ26:3-45〈祝福と呪い〉となる。「エレミヤ書」と「レビ記」の内容を踏まえた記述が「バルク書」でされている以上、旧約聖書に収められた2つの書物の併読をなるべくならお願いしたいと考えるのだ。



 信じる宗教が何であっても死んでしまえば結局は先祖代々のお墓に入るのだな。今年、最後から2番目の大切な日を済ませて、本ブログの原稿をパソコンで作成しながら、そんな風に思うたのであります。
 本日は婚約者の命日。東京は終日、雨が降っていた。こんな日の霊園は雰囲気がありすぎますね。人気がまったくないのは勿論として(いちおう、今日は平日なのですよね)、親しい人のお墓の前へ立つのにこの天候は、あまりになにかを期待させずにはおかない状況です。たまにはわたくしの前に姿を現しておくれよ、ただ一人の人。
 ──そこは心霊スポットとして名高く、その類の番組で投稿映像と称するものが紹介されることしばしばな場所なのだが、それらを観るたびどうしてそんなに愚かなことをしたいのか、さっぱり理解できない。霊障や霊体の撮影や目撃を目当てに死者の静かな眠りを妨げることはしないでほしいのだ。斯様な連衆が物好きでやってくるから、そこに自縛する霊はかれらに牙を剥く。
 軽はずみで行った行為ゆえに、取り憑かれた、とか、精神的におかしくなった、とかほざくのは勝手だ。が、それは自業自得。死者と、かれらが眠る場所へ敬意を払うことのできない連衆が斯様な症例に見舞われたとしても、かれらへ寄せる慰めの言葉なんてありませんな。あるはずもない。連衆は被害者ではない、加害者である。その程度の自覚もないのだろうか?
 死者とその眠る場所に敬意を払え。そこは遊び場ではない。
 実は今日、婚約者の墓参りでそこへいる間、ハンディ・サイズのヴィデオ・カメラを持った集団を一組、目撃した。それを見て、心のなかに怒りと憤りと哀しみが湧きあがるのを感じた。どこへも持ってゆきようのない、そうして文章を書く以外の扱いがしかねる感情であった。それを鎮めるための本稿となったことを深謝する次第である。◆

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第1795日目 〈バルク書第1章1/2:〈序言〉withまた一つ、読んでいたマンガが完結した……。〉 [バルク書]

 バルク書第1章1/2です。

 バル1:1-9〈序言〉
 前586年、新バビロニア帝国がユダに最後の侵攻を行った。南王国ユダの最後の王ゼデキヤと高官、役人、富者といった有力者たちと職人たちが敗都エルサレムから引き離され、遠く敵国の帝都バビロンへ、捕囚として連行されてゆく。
 それから5年後、かの月の7日のことである。かつて預言者エレミヤの友にして書記を務めた人、バルクはバビロンを流れるスド川のほとりにて、その地に住む同胞を前にして一巻の巻物を朗読した。集まってきたユダヤ人のなかにはユダ滅亡よりも前に捕囚となっていたエコンヤ(ヨヤキン)王の姿もあった。
 バルクがこれを読むと、かれらは一様に涙し、断食して主なる神へ祈った。そうして各々の分に応じてお金を出しあい、いまは荒廃したエルサレムに残る同胞へそれを送り届けた。当時そこに残っていたのは、大祭司ヨヤキムとその他の祭司たち、それに特に貧しい民らであった。
 このとき既にバルクは、神殿から略奪された銀製の祭具を取り戻していた。これらはエコンヤ王たちがバビロニアへ連行されていったあと、ゼデキヤ王によって作られたものである。

 「エレミヤ書」を読んでいたのがずいぶんと前のことに思える。さすがに記憶が曖昧になっているので、復習を兼ねて南王国ユダ滅亡/王都エルサレム陥落の年代について触れておこう。
 上記ではそれを前586年と特定したが、史料によって若干のズレが生じるのは紀元前のことゆえ仕方ないとして、一方で前587年とする説もある。「エゼキエル書」を読んでいたとき、バビロン捕囚の時期と、連行された主だった人をまとめたことがあった。曰く、──
 ○バビロン捕囚 
 前605年 第1次バビロン捕囚:ダニエル他
 前593年 第2次バビロン捕囚:ヨヤキン王、エゼキエル他
 前586年 第3次バビロン捕囚:ゼデキヤ王他 エルサレム陥落/ユダ王国滅亡
 前583年 第4次バビロン捕囚:バビロニア軍親衛隊長ネブザルアダンが745人を連行
 (第1208日目 〈エゼキエル書第2章:〈エゼキエルの召命〉2/3〉より)
 ヨヤキン王を指す「エコンヤ」という名は、新改訳聖書で馴染む表記だ。新共同訳では「列王記」、「歴代誌」いずれでも「ヨヤキン」とされるため、「バルク書」を読んで戸惑うかもしれないけれど、同一人物である。ちなみにバル1:3で「ユダの王エホヤキム」と書かれる王もいるが、これはエコンヤの父でユダ王国の前王ヨヤキムのこと。立て続けに似た名前が登場すると混乱してしまう、という好き例であろう。
 〈序言〉に名の出る3人の王ついては以下の通り、──
 エホヤキム/ヨヤキムの事績は王下23:36-7と代下36:5-8に載る。
 エコンヤ/ヨヤキンの事績は王下24:8-17、同25:27-30と代下36:9-10に載る。
 ゼデキヤの事績は王下24:18-25:7と代下36:11-21に載る。
 エコンヤ/ヨヤキンは捕囚となってから37年が経った前556年、時のバビロニア王エビル・メロダクの恩赦によって放免された。ジークフリート・ヘルマンがいうように、これは「希望の曙光」(『聖書ガイドブック』P66 教文館)であった。
 ここで一つ気になるのは、バルクが巻物を読むのを聞いたユダヤ人たちにユダの元王ヨヤキンが混じっていた、という点である。「列王記・下」にある解放の記述に従うなら、これはおかしな話だ。バルクが巻物を読んだのはエルサレム陥落から5年後、即ち前581年である。ヨヤキンが解放(出獄)されたのはかれが捕らえられて37年後のこと──計算するまでもなく、前556年となる。年代がまったく合わない。しかし、「バルク書」は史実に立脚した書物ではない。この記述は、バルクが読む手紙に真実味を加えることを目的とした潤色ではないか。
 年代については若干の異同があるが、新バビロニア帝国の王は以下の通りである、──
 1;ナポポラッサル王 前626-605年
 2;ネブカドネツァル王(2世) 前605-562年
 3;エビル・メロダク(アメル・マルドゥク)王 前562-560年 ネブカドネツァルの子
 4;ネリグリサル王 前560-556年
 5;ラバシ・マルドゥク王 前556年
 6;ナボニドゥス(ナボニドス)王 前556-539年
 7;ベルシャツァル 前539-543年 ネブカドネツァルの孫、ナボニドスの子
 最後のベルシャツァルは「ダニエル書」でその名をわれらは見た。が、かれは実際のところ、「王」ではなく「摂政」であった、という。
 バルクが読んでエルサレムへ送った手紙には、バビロンの王ネブカドネツァルとその子ベルシャツァルの長寿と健康を祈れ、とある(バル1:11-12)。これもまたおかしな話であるが、「バルク書」が史実に立脚した書物ではない、と申しあげる根拠でもある。
 バル1:8「シワンの月」とは捕囚後のユダヤ暦で3月。今日われらが用いる太陽暦では5-6月であるとのこと。ふむ、課税証明書が発行される時期であるな。
 なお、12小預言者の一人、ヨエルはおそらく陥落後のユダを舞台に活動した預言者と思う、と第1319日目にてわたくしは書いた。いちおうバルクが大祭司ヨヤキム宛へ手紙を書き送ったのと同じ時期に当のエルサレム、もしくはその周辺地域で活動していた人物、と考える。



 さと『タイムフラグ』第2巻を読みました。これを以て完結。次の巻を楽しみにするマンガがまた一つ減った。蔵石ユウ・原作/西木田景志・作画『我妻さんは俺のヨメ』も今年完結してしまったしね。残るは吉田秋生『海街diary』と石塚真一『BLUE GIANT』ぐらいか。だんだんと淋しくなってゆくなぁ。
 『タイムフラグ』については感想を書きたいですね。これは短くも感想を書くに値する作品だった。◆

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第1794日目 〈「バルク書」前夜〉 [バルク書]

 マルティン・ルターはプロテスタント会派の聖書を編纂するにあたって、この「バルク書」を正典の一つとは見做さず、外典に分類しました、真相が奈辺にあったか、わたくしはよく知りません。いまは取り敢えず、「ルターはそうした」と指摘するに留めます。翻ってカトリックはどうか、といえば、そちらでは「バルク書」を第二正典の一つとする。
 わたくしが使う聖書は新共同訳ゆえ、「バルク書」は旧約聖書続編として独立するなかに含まれています。プロテスタント系の学校や教会では、この新共同訳聖書を専ら採用しているそうですね。カトリック会派が用うる、と聞くフランシスコ会訳では「バルク書」は旧約聖書に組みこまれており、然るべき箇所──即ち「エレミヤ書」と「哀歌」のあとに置かれています。もっともこれは「バルク書」に限った話ではなく、「ユディト記」や「マカバイ記」、「シラ書」に於いても同様であります。
 わかりやすくいえば、カトリックとプロテスタントの共同翻訳である新共同訳聖書では、「トビト記」から「マナセの祈り」までの13書を<旧約聖書続編>として一括りにしますが、カトリックの方ではこれら13書のうち、最初の10書を第二正典とする。
 ちなみに、新共同訳では「バルク書」と「エレミヤの手紙」は独立した書物として収めるけれど、フランシスコ会訳では「バルク書」第6章として「エレミヤの手紙」を扱う。本ブログは新共同訳に基づいてのものになるので、両者を別々に取り挙げ、<前夜>もそれぞれに付すこととなります。
 カトリックとプロテスタントの「バルク書」の扱われ方について紙幅を取ってしまったけれど、双方ではこの書物について取り扱いを異にする、という点について触れておきました。
 そもこのバルクとは何者か? われらは既に、かれの名を旧約聖書のなかで見ている。どの書物で? 他ならぬ「エレミヤ書」で。バルクは預言者エレミヤの友人であり書記であった人だ。陰に陽に、この哀しみの預言者に付き従っていた、という印象がとても強い。
 マナフセの孫でネリヤの子であるバルク。その名の初出はエレ32:12。エレミヤはアナトトにある畑を銀17シェケルで買い取った際、慣習に従って、封印した購入証書と封印していない購入証書の写しを証人たちの前でバルクに預けた。その後もたびたびバルクは「エレミヤ書」に登場する。まるで「エレミヤ書」後半部分に於ける副主人公の如き現れ方だ。
 また、バルクは南王国ユダがヨヤキム王の御代第4年(前605年)に、エレミヤの指示により一巻の巻物を著した。その巻物には、預言者へ臨んだ主の言葉の数々が記された。かれはこれを、町々から王都へ上ってきて神殿に集まった人たちへ向けて読んで聞かせるよう、エレミヤから命じられている。かれらが主の怒りと憤りがどれ程凄まじいかを知り、かつかれらが主に憐れみを乞うて悪の道から立ち返ることを期待してのことでした(エレ36)。
 「エレミヤ書」に於いてユダがバビロニアによって滅亡した後、エレミヤに同道してエジプトへ下り(エレ43:6)、かの地で客死した、とされます。エレミヤの死ぬ様は痛みを伴うものだった、と伝えられますが、バルクはどうだったのでしょう。預言者同様にむごたらしい死を迎えたのかもしれませんが、かれの死を伝えるものはなにもないようであります。
 が、これは「エレミヤ書」でのお話。「バルク書」でバルクは、おそらく捕囚の一人として新バビロニア帝国の帝都バビロンに連れてこられ、そこに住まっている。エレミヤの死後、エジプトからバビロンへ移ってきた、と教える史的資料があるわけではありません。あくまで「バルク書」では斯く記されている、というのみであります。
 ここでバルクは荒廃したエルサレムとその周辺に残ったユダの人々へ、慰めと励ましの手紙を書き送る。章に則して言えば、悔い改めを奨め、父祖以来の知恵を讃美し、哀しみのエルサレムへの励ましがその内容。これをバビロンのなかを流れるスド川(アハワ川か)のほとりに集まった同胞の前で、バルクは読んだ。聞いた人々は涙を流した、という。断食をしてエルサレムのために祈った、という(バル1:3-5)。──わたくしもちかごろ、旅行をはさんで寝る前に1章ずつ読んでいましたが、すこぶる心震わせられたことでありました。
 では、「バルク書」の著者は果たして誰か。勿論、前6世紀を生きたバルクではない。詳しいところは聖書学者にお任せするが、書式についていえば、たとえば知恵の讃美について書かれた箇所は、前2世紀の成立とされる「シラ書」や前1世紀の成立とされる「知恵の書」などとよく似た様式であったりする、とのことで、「バルク書」も概ね前2世紀あたりに書かれたものであろうか、とされる由。旧約聖書続編に収められる書物に絡めていうなら、マカバイ戦争前夜あたりの成立ということになるか。
 著者についていえば、この時期パレスティナ地方にいた誰彼ということになろう。それは複数である可能性を、ジークフリート・ヘルマンは示唆する。かれらがどのような階層に属したか、系譜はどうか、どんな職業にあったか、などは定かでない。複数の著者によって著された断片的なものを一書にまとめた編集者が、今日われらが読むような「バルク書」の形を整えた最終的な著者であろう、と考える。
 真実を知る手段はもはや存在しないのでしょうか。
 予定よりだいぶ遅れてしまいました。それでは明日から心機一転、「バルク書」を1日1章ずつ読んでゆきましょう。◆

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