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第1827日目 〈エズラ記(ラテン語)第16章〈付録の諸預言〉2/2:〈エズラの哀歌〉、〈終末への主の僕の準備〉with嘘!? いますぐ本屋さんに行かなくちゃ!〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第16章〈付録の諸預言〉2/2です。

 エズ・ラ16:1-35〈エズラの哀歌〉
 バビロンとアジアよ、お前は不幸だ。エジプトとシリアよ、お前は不幸だ。お前たちは粗布をまとい、息子たちのため嘆き悲しむがよい。お前たちの苦しみが近づいたからである。
 お前たちには剣が突きつけられている。だれがそれを避けることができようか。
 お前たちに対して火が放たれた。だれがそれを消すことができようか。
 お前たちに災いが臨んでいる。だれがそれを払いのけることができようか。
 森の飢えた獅子を、だれが追い払うことができようか。
 燃えついた敷きわらを消すことができようか。
 力強い射手の放った矢を、跳ね返すことができようか。
 神である主が、災いを送られるのだ。だれがこれを跳ね返すことができようか。
 火は神の怒りから発せられるのだ。だれがこれを消すことができようか。
 稲妻がひらめく。だれが恐れずにいられようか。
 雷鳴がとどろく。だれがおびえずにいられようか。
 主が威嚇されるのだ。だれがその御前で打ち砕かれずに済むだろうか。
 大地とその基は震え、海は深みから波立ち、波も魚も主の御前で、主の御力の威光に騒ぎ立つ。弓を引く方の栄光は力強く、放たれる矢は鋭く、地の果てまで届かずにはおかない。
 見よ、災いが送られる。それは、地上に達せずに戻ることはない。火が放たれる。火は地の実りを焼き尽くすまで消えることはない。強力な射手によって放たれた矢が引き返すことがないように、地上に送られた災いも引き返すことはない。
 わたしはもうだめだ。もうだめだ。だれがその日にわたしを救ってくれるだろうか。嘆きが始まり、多くの人があえぎ苦しむ。飢えが始まり、多くの人が滅びる。戦いが始まり、権力者たちが恐れる。災いが始まり、人々はそれにおののく。災いが襲うとき、どうすればよいのか。
 見よ、飢えの打撃が襲って来る。その苦しみは鞭のようだ。それは戒めのための懲らしめ。それにもかかわらず、人々は不正を改めず、これらの懲らしめにもかかわらず、その懲らしめを永久に思い起こすことはない。
 見よ、地上では、しばらくの間穀物の値が下がり、平和が身近に迫ったと感じられるようになるだろう。しかし、そのときこそ、災いが地上に咲き乱れる。それは剣と飢えと大混乱である。飢えが、地上に住む多くの人々を滅ぼし、剣が、飢えを免れて生き残った人々を追い散らす。死体は糞土のごとく投げ捨てられ、人々を慰める者もいない。地は荒れるにまかされ、町々は崩壊していく。地を耕し、種を蒔く農夫は一人も残されないだろう。木々は実をつけたとしても、だれがそれを刈り取るだろうか。ぶどうは収穫をもたらしたとしても、だれがそれを搾るだろうか。どこも荒れほうだいになるであろう。
 人は人を見たいと望み、人の声をぜひ聞きたいと望む。しかし町には十人、田舎には二人しか残らず、しかも彼らは、森や岩の裂け目に身を隠しているであろう。それはちょうどオリーブ山のそれぞれの木に、三つか四つのオリーブの実が残っているようなものであり、取り入れの終わったぶどう畑に、ぶどうを懸命に探す人たちからも見落とされて、幾つかのぶどうの房が残っているようなものである。
 その日には、剣を持って家を探し回る者の手から生き残る者が三、四人いるだろう。地は荒れるにまかされ、畑は固くなり、道も小道もみな、茨を茂らせ、羊もそこを通らなくなる。おとめたちは結婚相手を失って嘆き、女たちは夫を亡くして嘆き、その娘たちは保護者を失って嘆く。婚約者たちは戦いで殺され、夫たちは飢えのために滅びるのである。

 エズ・ラ16:36-78〈終末への主の僕の準備〉
 主の僕たちよ、これに耳を傾け、よく理解せよ。見よ、これは主の言葉である。これを受け入れて、主が言われることを疑ってはならない。
 「見よ、災いが迫っており、遅れることはない。子を宿して九か月になる女が、出産の時が近づいて、その二、三時間前に陣痛を起こしてうめき、胎から赤子が出るのに一瞬たりとも遅れないように、災いも遅れることなく地上に出て来る。そして世は己を取り巻く痛みにうめく。
 わたしの民よ、わたしの言葉を聞くがよい。戦いに備えよ。地上にあっては寄留者のようになりなさい。すなわち、売る人は逃げ出す人のように、買う人はそれをすぐに失ってしまう人のように、商いをする人は利益を得ない人のように、家を建てる人はそこには住まない人のようになるがよい。種蒔く人は収穫を期待しないかのように、ぶどうの枝を刈り込む人は取り入れをしないかのように、結婚する人は子をもうけないかのように、結婚しない人はやもめであるかのように生きるがよい。
 労苦する人は理由もなく労苦することになる。彼らの実を他国の者が刈り取り、彼らの財産を奪い、家を壊し、彼らの子を捕らえて連れ去るだろう。捕囚と飢えのさなかで彼らが子供を産んでも、その子らは誘拐されて売買されるだけだからである。彼らが町々や家や財産やわが身を飾れば飾るほど、彼らの罪のためわたしの怒りは激しくなる。」
 主は言われる。売春婦が純潔で善良な婦人を激しく憤らせるように、正義は、不正が自分を飾るとき、激しく憤る。そして、地上のあらゆる罪を吟味する正義を擁護する方が来られるとき、正義は、面と向かって不正を告発する。だから不正も、その業もまねてはならない。なぜなら、見よ、間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。罪人は、自分が罪を犯さなかったと言ってはならない。「わたしは神とその栄光の前に罪を犯しませんでした」と言う者の頭の上には炭火が燃えるからである。
 見よ、主は、人のすべての業と計画と思いと心とをご存じである。主が、「地は成れ」と言われると地が造られ、「天は成れ」と言われると天が造られた。主の言葉によって星の位置が定められた。主は星の数をご存じであり、深淵とその中の宝とをくまなく調べられ、海とその中のものを量っておられる。主は、御言葉によって水の領域に海を閉じ込められ、地を水の上につるされた。主は天を丸天井のように広げて、その基を水の上に置かれた。主は荒れ野に泉を置かれ、山の頂に湖を置いて、高い所から川を流れさせて、地を潤すようにされた。主は人を造って、体の真ん中に心を置き、それに霊と命と知性と全能の神の息吹を送り込まれた。主はすべてを造られ、隠れた所の隠れたものをくまなく調べられる。
 確かに主は、あなたたちの計画とあなたたちが心に思うことをすべて、ご存じである。罪を犯し罪を隠そうとする者は不幸である。確かに主は、彼らのすべての業をくまなくお調べになり、あなたたち皆を引き出されるからである。あなたたちの罪が人々の前に並べられるとき、あなたたちは、慌てふためくであろう。その日には不正の数々が告発者として立つであろう。
 主とその栄光の前に、あなたたちに何ができるというのか。どのように自分の罪を隠すことができるというのか。見よ、神は裁き手である。神を恐れるがよい。あなたたちは罪と縁を切り、永久に不正を行わないようにするがよい。そうすれば、神はあなたたちを導き、すべての苦しみから救い出してくださる。
 見よ、あなたたちの上に、多くの群衆の憤りが火となって燃え上がり、彼らはあなたたちの中のある人々を捕らえて、偶像に献げるために屠られたものの肉を食べさせるだろう。そして、これに同意した者たちは、彼らに嘲笑、愚ろうされ、踏みつけられる。至るところで、また、近隣の町々で、神を畏れる人々に対して、多くの反対が起こる。反対者たちは気でも狂ったように、主をまだ敬う人々から強奪して彼らを打ちのめし、一人も容赦しないだろう。その人々を打ちのめして、財産を強奪し、その人々を家から追い払うであろう。
 そのとき、金が火によって試されるように、わたしの選んだ人々が試みられて、正しい者と証明されるであろう。主は言われる。「わたしが選んだ人たちよ、聞け。見よ、苦しみの日々が近づいている。しかし、わたしはあなたたちをその苦しみから救おう。恐れてはならない。疑ってはならない。神があなたたちの指導者であられるからである。」神である主は言われる。「あなたたちはわたしの戒めと掟とを守ったのであるから、罪があなたたちに重くのしかかり、不正があなたたちをしのぐようなことがあってはならない。
 自分の罪に圧倒され、自分の不正に覆われてしまう者は不幸である。それはちょうど畑がやぶにふさがれ、小道が茨に覆われて、人が通れなくなるようなものである。その畑は囲いを巡らして火が放たれ、火で焼き尽くされるだけである。」

 終末とはいま在るこの世が崩壊することだ。社会の秩序も道徳も、あらゆる善もあらゆる悪も、人間の営みもなにもかも、根こそぎ足許を浚われてすべてが滅びることを、<終末>という。というのも、斯様な黙示的世界を経たあとに訪れる、神による永遠統治の時代が幕を開けるから──。その日の訪れに向けて、人よ、準備せよ。神の意志に従って、その計画の実行される日に備えて、生きよ。
 それが本書最終章の要旨である。わたくしは昨日、「サラティエルの黙示録」なる書物がキリスト教化されるにあたって、前後各2章が増補されて現在のような「エズラ記(ラテン語)」になった旨述べた。また、増補された章をまとめて1つの書物の如くに読むと、これぞ黙示文学とでもいいたいような、圧し潰されるような読後感に襲われる、とも。その最強のクライマックス、圧倒的大コーダを築くのが、今日読む第16章であった。本書「前夜」に於いても後半になるに従って切迫した調子が募ってゆくと書いたのも、専ら本章を意識に置いての話である。
 なんだか暗い気持ちのまま「エズラ記(ラテン語)」は終わるが、このあとには、暗闇のなかにわずかに灯った希望の光が見える。それが明日と明後日に読む「マナセの祈り」だ。マナセとは南王国ユダの王で、主の目に正しいと映ることをせず、ユダとエルサレムを惑わした王として「列王記」や「歴代誌」に名を残す。マナセ王については明日の「マナセの祈り・前夜」でちゃんと述べることにして、いまはここで筆を擱く。
 こちらの準備不足が祟って節を汚すような行いに及んだ「エズラ記(ラテン語)」であったが、どうにかこうにか今日、いま読者諸兄にお読みいただいたように終わりの章節へまで辿り着くことができた。ひとえに皆様の声なき支持があったからこそのゴールである。サンキー・サイ。



 いろいろ書こうと思うていることはあったけれど、いま別件でインターネットしていたら、「嘘!?」と叫んでしまうような記事に遭遇。
 この原稿をさっさと予約投稿して、本屋に走ろう。某コンビニのCMに使われた森高千里風に♪本屋さんに行かなくちゃ! わたくしはいま発売中の『Rolling Stones』誌日本語版を手に入れなくてはならぬ。TSUTAYAで流れているジバニャンのアナウンスを真似すれば、『Rolling Stones』誌をゲットするんだニャン!
 そうしてそのあと、黒ビールをしこたま飲みながら<わが神>なる<王>の言葉に触れるのだ。◆

第1826日目 〈エズラ記(ラテン語)第15章〈付録の諸預言〉1/2:〈近づく災難〉、〈恐るべき幻〉他with「エズラ記(ラテン語)」の舞台裏その3〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第15章〈付録の諸預言〉1/2です。

 エズ・ラ15:1-27〈近づく災難〉
 主は言われる。「さあ、わたしがあなたの口に送り込む預言の言葉を、わたしの民の耳に語りなさい。そして彼らにそれを書き取らせなさい。その言葉は真実で、信頼できるからである。あなたに対する悪だくみを恐れてはならない。あなたに敵対する人々の不信仰に動揺してはならない。不信仰な人々は皆、不信仰のゆえに滅びるからである。」
 主は言われる。「見よ、わたしは地に災いを、剣と飢えと死と滅びとをもたらす。不正が全地を覆い、彼らの行いが行き着くところまで来てしまっているからである。」
 主は言われる。「それゆえ、彼らが行う不敬虔に対して、わたしはもう黙ってはいない。わたしは、彼らの不正なふるまいを忍耐しないだろう。見よ、潔白で正しい者の血が、わたしに向かって叫んでいる。正しい人々の魂が、絶え間なく叫び続けている。」
 主は言われる。「わたしは確かに不敬虔な者たちに報復しよう。そして彼らの中のすべての潔白な人々の血を、わたしのところに受け入れよう。見よ、わたしの民は家畜のように、屠殺場に引かれていく。わたしはもはや彼らが、エジプトの地に住むことに耐えられない。わたしは、力ある手、伸ばした腕をもって民を救い出そう。そして、かつてのように災難でエジプトを打ち、彼らの地をすべて滅ぼそう。エジプトは嘆き悲しむがよい。主が引き起こされる災難によってその大地の基が打ちたたかれるのだ。地を耕す農夫たちは嘆き悲しむがよい。彼らの種は尽き、木々は熱風と雹と恐るべき嵐によって荒らされるのだから。世と世に住む人々は不幸である。まもなく、彼らは剣で滅ぼされるのだから。民族は民族に対して、手に剣を取って戦いに立ち上がる。人々は自分たちの力を頼みにし、互いに相手を圧倒しようとして、王や位の高い指導者たちなど気にもとめない。人は、町に入ろうとしても、入ることはできない。町は人々の傲慢のために乱され、家はつぶされ、人々は恐れおののくからである。人は隣人を憐れまず、家に剣を持って押し入り、持ち物を奪うであろう。パンに飢え、苦しみが多いからである。」
 主は言われる。「見よ、わたしは地のすべての王たちを北から、南から、東から、東南東から呼び集め、彼らが自らに立ち帰って、与えられていたものを返すように命じる。わたしの選んだ人々に対して彼らが今日に至るまで行ってきたように、わたしも行い、彼らにそれを突き返す。」
 主なる神はこう言われる。「わたしの右手は、罪を行う者たちを赦さず、剣は、地上で罪なき人々の血を流した者たちを、見逃しはしない。火が主の怒りから出て、地の基と罪人たちとを、燃えるわらのように焼き尽くす。罪を犯し、わたしの戒めを守らない者は不幸である。」
 主は言われる。「わたしは彼らを赦さない。主に背いた者たちよ、立ち去れ。わたしの聖所を汚してはならない。」
 神は御自身に対して罪を犯す者を知っておられる。だからこそ、神は、彼らを死と殺害に渡されるのである。災いは既に地上に来ており、人々の中に居座るだろう。しかし神はお前たちを救われない。お前たちが神に対して罪を犯したからである。

 エズ・ラ15:28-45〈恐るべき幻〉
 見よ、恐るべき幻が東から現れる。アラビアの竜の民が多くの戦車に乗って襲って来る。彼らのどよめきは、その出陣の日から地に鳴り渡り、これを聞く者は皆、恐れおののく。カルモニア人は怒り狂って、森から出、大きな力をもって彼らを迎え撃ち、そのきばでアッシリアの一部を荒らす。その結果、竜は自分の本性を発揮して、更に勢力を増し加え、その大いなる力をもってカルモニア人に襲いかかる。すると彼らは混乱して、竜の力の前に沈黙し、くびすを返して敗走する。すると、アッシリアの地の伏兵が彼らを待ち伏せて、彼らのうちの一人を殺すであろう。すると軍勢は恐れおののき、以後彼らの国には動乱が絶えぬであろう。
 見よ、雲が東と北から南まで広がり、その様は非常に恐ろしく、怒りと嵐をはらんでいる。この雲は互いにぶつかり合い、すさまじい嵐を地上に降り注ぎ、剣によって流された血は、馬の腹、人の腿、らくだのひざにまで及ぶ。地上では大いなる恐れとおののきとがある。その怒りを見る者は震え上がり、おののきにとらえられる。
 その後、大きな嵐が、南と北から、またあるものは西からもやって来る。東からの風が強まり、怒りの中に巻き起こった雲を押さえつける。滅びをもたらそうとしていた嵐は、東風によって南と西に激しく追いやられる。
 そして、怒りをはらんだ大きくて強力な雲と嵐は、地とそこに住む人々を滅ぼそうとしてわき上がり、高く優れたあらゆるものに向かって、恐るべき嵐と、火と雹と飛ぶ剣と豪雨を降り注ぐ。そうして、あらゆる野と川はこのあふれる水で覆われる。町と城壁と山と丘、森の木と牧場の草と穀物は滅ぼされる。
 その雲と嵐はバビロンにまで移動を続け、バビロンをも滅ぼし尽くす。それらは、この町に押し寄せて取り囲み、嵐と怒りの限りをこの町に降り注ぐであろう。こうして、砂塵と煙は天にまで達し、周囲の人々は皆、この町のため嘆く。生き残った者たちは、町を滅ぼした者たちの奴隷となる。

 エズ・ラ15:46-63〈アジアに対して〉
 「アジアよ、お前はバビロンの美しさとその威厳ある輝きにあずかっている。お前は不幸だ、惨めな者よ。お前はバビロンのまねをして、お前の娘たちを売春婦のように着飾らせ、お前と姦淫しようといつも望んでいる愛人たちに気に入られ、褒めてもらおうとしている。お前は憎むべき者のすべての行いとふるまいをまねしたのである。」
 それゆえ神は言われる。「わたしはお前に災いを送ろう。やもめ暮らしと貧困、飢えと剣と疫病とを送ってお前の家を荒らし、破壊と死をもたらそう。お前の力ある栄光は、お前に送られた熱気が立ち上ると、花のようにしおれるだろう。お前は、打ちひしがれてみじめな女となり、深い傷を負って弱り、お前が頼りにしている者たち、愛人たちを受け入れることができないようになる。」
 主は言われる。「わたしが、これほどまでお前を憎むのは、お前が、わたしの選んだ人々をいつも殺害したからではないのか。お前は酔いしれて、手をたたいて喜び、彼らのしかばねをののしった。『お前の顔を美しく装うがよい』と。売春婦への報酬は、お前のふところにある。それゆえお前は報いを受ける。」
 主は言われる。「お前がわたしの選んだ者に対してするように、神もお前に対して行い、お前を災いに引き渡すであろう。お前の子供たちは、飢えで死に、お前は剣で滅びる。お前の町々は破壊され、お前に属する者たちも皆、戦場で剣に倒れる。山にいる者たちは飢えで滅び、パンに飢えて自分の肉を食べ、水を渇き求めて血を飲む。お前はさきの災難のため惨めになったが、更に災いを受ける。
 バビロンを滅ぼした者たちはそこから帰るとき、その道すがら、憎まれた町を打ち、お前の領土と栄華の一部を破壊する。お前は敷きわらのように踏み砕かれ、災いは、お前にとって火となるだろう。これらのものたちはみな、お前と町々とお前の領土と山を食い、お前のすべての森と実のなる木とを火で焼き尽くす。そして、お前の子供たちを捕らえて連れ去り、お前の富を剥奪し、お前の顔の輝きを台なしにする。」

  最初の方で申しあげたように、「エズラ記(ラテン語)」の最初と最後の2章は、後2-3世紀にキリスト教会によって追記・増補された箇所である由。著者をサラティエルことエズラとする<第四エズラ書>を挟みこむようにしてあるのは、その内容をキリスト教化するための作業であった。それゆえ、この第15章と第16章を第14章から続けて読んでくると、瞬間的な混乱を経験することになるやも知れぬ。ここで名の出るエジプトやアッシリア、バビロンが歴史に存在したかの国々であるのかは不明である。後1世紀のオリエント社会を支配していたローマ帝国の滅びを希求、預言するのであれば、いずれもなんらかに仮託した表記であることも考えられよう。
 が、ここではそれに拘泥するのを避けたい。それに関して様々考えるのは、本書のノートを執り直すときで良い、と考えるからだ。
 あらかじめ本書へ何度か目を通してからノートに取り組み、項目乃至は章に分けて該当章節の転記という節を汚す行為を自ら選択したわけだが、それであっても今日の第15章と明日の第16章は分かりづらい。難しく考えたり、穿った読み方を無意識にしようとしているためなのか。正直なところ、「サラティエルの黙示録」とも呼ばれる「エズラ記(ラテン語)」の最初と最後に置かれた各2章さえ存在しなければ、本書も実にすっきりとした読み方のできる<黙示文学>となっていただろう。読みやすく、わかりやすい<黙示文学>というのも変な気がするが、すくなくともわたくしにはキリスト教会の行った加筆・増補作業は余計な一手間のようにしか思えない。
 そこまでして、本書をキリスト教化しなくてはならなかった理由はなにか。盤石な基盤を未だ持たぬキリスト教会が自らの権威附けのために、旧約聖書としてまとめられていない様々な書物のなかから、教会の意向、思惑、思想にかなったものを選んでゆく過程で「サラティエルの黙示録」が発見され、キリスト教化するためにいま見るような加筆と増補が行われたのかもしれぬ。こうしたことは中世の日本でもあったことで、それは専ら特定の芸事に携わる家が自分たちの優位性、正統性、権威附けを行うたりして、いわゆる偽書が氾濫したのとよく似ている。
 この第1-2章と第15-16章は、一つにまとめた上で外典なり偽典なりとして存在してくれた方がよかった。既に決定された歴史に刃向かうような乱暴な物言いだが、偽りも汚れもない本音だ。そんな風に考えたのは、この4章を一緒に読んでみたら、これぞ<黙示文学>と思わせられたからであった。疑問を持たれる向きは、是非この4つの章をいちどに読んでみてほしい。結構強烈な読後感がもたらされると思う。まるで全編がクライマックス、息継ぐ暇もない、という形容が相応しい<幻の黙示文学>が立ち現れるはずだ。これを行った読者が、わたくしと同じような経験をしてくださることを祈る。
 最後にもう一つ。
 エズ・ラ15:2「それを書き取らせなさい。その言葉は真実で、信頼できるから」だが、これは勿論、書かれた言葉は舌から出た言葉よりも信頼が置かれ、真実をあまねく語るゆえに、この言葉を書き取らせるのである、という意味。物書きならば、聖書に現れた数々の言葉のうち、肝に銘じたい言葉の一つではないだろうか。



 ここ数日、当該章の感想はMac内のメモ・アプリを使って書いている。どうしてこのアプリで書こうという気になったのか、まったく記憶がないが、馴れてきたこともあるが結構快適である。個人的にはテキストエディットよりも使い勝手がよい。
 一つ一つのメモにテキストエディットやPagesのような題名を付けられないのが不便であると雖も、それは工夫次第でなんとでもなる。むしろ、最初の行の文章が反映される方が、便利かもしれない。いたずらに題名を付けることでそれがなにについて書かれたものであるか失念する恐れがある。仕事や箇条書き程度のメモ、ログであればそうした事故も避けられようが、創作に携わる者には考え抜いた題名が却って仇となるから……。ならば、題名を付けて保存する手間が最初から存在しないメモ・アプリの方が、失念などという事態は避けられて便利というものだろう。
 が、それは逆に考えればデメリットでもある。いまのところ、聖書読書ノートの感想でしか使っていないが、一つ一つのメモへ題名を付けられないという事実ゆえに本ブログに即していえばエッセイに、執筆という全体で考えれば小説に、これを使うのは両刃の剣となる。使いやすさは保存しづらさと背中合わせだ。創作に使うのであれば、冒頭の文章名で保存されるよりも、題名を付けてしまった方が便利なことが多いのである。いい方は悪いが、メモはメモなんだよな……。
 このメモ・アプリについてはもうちょっと試行錯誤してみないと、これを執筆のサポート・アプリとして依存するに足るかどうかの判断はできない。とはいえ、旧約聖書続編の読書ブログは間もなく終わりの日を迎える。本稿を含めてあと4日。でも、本書「エズラ記(ラテン語)」のように全章全節の転記という方法を採らなかったら、メモ・アプリを使うことがなかったであろうことも事実なのである。◆

第1825日目 〈エズラ記(ラテン語)第14章〈第七の幻〉:〈序文〉、〈啓示の記録について〉他withもう再開発などしてくれるな。〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第14章〈第七の幻〉です。

 エズ・ラ14:1−17〈序文〉
 三日目に、わたしは樫の木の下に座っていた。すると、見よ、灌木の茂みからわたしに向かって、「エズラ、エズラ」という声がした。わたしは、「主よ、ここにおります」と言って立ち上がった。
 主は言われた。「わたしの民がエジプトで奴隷だったとき、わたしは灌木の茂みの中で自らを啓示して、モーセに語った。そして彼を遣わして、わたしの民をエジプトから導き出した。そして彼をシナイ山の上に連れて行き、何日もの間、わたしのもとに引き止めておいた。そこで彼に多くの不思議な業を語り、時の秘密と時の終わりとを示した。そしてわたしは彼に命じた。『この言葉は公にし、また、この言葉は秘密にしておきなさい』と。
 今あなたに言う。わたしが示したしるしと、あなたが見た夢、また、あなたが聞いた解き明かしを心に秘めておきなさい。あなたは人々の中から挙げられて、わたしの子と、あなたのような人々と共に、時が終わるまで暮らす。世は既に若さを失い、時は老年期に近づいている。この世は十二の時期に分かれ、既に九つの時期と、更に第十の時期の半分が過ぎている。残っているのは、第十の時期の半分と、あと二つの時期だけである。
 だから今、あなたの家を整え、あなたの民を戒めなさい。卑しめられている人々を慰め、既に腐り切った生活を返上しなさい。はかない考えを追い払い、人間的な重荷を捨て、弱い本性を脱ぎ捨てなさい。そして、あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。
 あなたは今、いろいろな災いが起こるのを見たが、これよりももっと悪いことが起こるだろう。この世が年老いて弱くなればなるほど、世に住む人々の上に悪が増し加わる。真理はますます遠ざかり、偽りが近づいている。あなたが幻で見た鷲が、既に急いでやって来つつあるからである。」

 エズ・ラ14:18−47〈啓示の記録について〉
 わたしは言った。「主よ、言うべきことは申し上げました。確かに、お命じになったとおり、わたしは行って今生きている民を戒めましょう。しかし、後に生まれて来る人々には、だれが警告するのでしょうか。この世は暗闇の中にあり、世に住む人々には光がありません。あなたの律法が焼かれたので、あなたが既になさったことも、どんな御業が始まるのかも知る人はいないからです。もしわたしが御好意にあずかっているのでしたら、わたしの中に聖なる霊をお送りください。初めから世に起こったことすべてと、あなたの律法に記されていたこととを書きましょう。そうすることによって、人々は道を見いだすことができ、生命を望む人は終わりの時に生きるのです。」
 主はわたしに言われた。「行って民を集め、四十日間はあなたを捜してはいけないと言いなさい。あなたは多くの書き板を用意して、サレア、ダブリア、セレミア、エタヌス、アシエルを連れて来なさい。この五人は速記のできる人々です。そしてここに来なさい。わたしは、あなたが書き始めたものが終わるまで、消えることのない知恵の火をあなたの心にともそう。出来上がったら、あるものは公にし、あるものは知恵ある者たちにひそかに渡しなさい。明日のこの時間に書き始めなさい。」
 わたしは、命じられたとおりに出かけて行き、民を皆集めて言った。「イスラエルよ、この言葉を聞きなさい。わたしたちの祖先は、初めエジプトに寄留していたが、そこから救い出された。彼らは命の律法を受けたが、それを守らず、後のあなたたちも、それに違反した。また、シオンの地にあなたたちの分け前として土地が与えられた。しかし、あなたたちも祖先も不正を行い、いと高き方が命じられた道を守らなかった。神は正しい裁判官なので、時が来ると、お与えになっていたものを、あなたたちから取り上げられた。
 あなたたちは今、ここにいる。そしてあなたたちの兄弟は、あなたたちの内にいる。もし、あなたたちが知性を制御し心を培うならば、あなたたちは生きている間、守られ、死後も、憐れみを受けるであろう。死後、生き返るときに裁きが来るからである。そのとき、正しい人々の名が明らかにされ、不敬虔な人々の行いも、あらわになるであろう。しかし、今はだれもわたしに近づいてはならない。また、四十日たつまで、わたしを捜してはならない。」
 そしてわたしは、命じられたとおり五人を連れて野原に出て行き、そこにとどまった。
 翌日になって、わたしを呼ぶ声がした。「エズラ、口を開き、わたしがあなたに飲ませるものを飲みなさい」と。わたしは口を開いた。すると、なみなみとつがれた杯が差し出された。それは水のようなものでいっぱいであったが、その色は火のようであった。わたしは、それを受け取って飲んだ。
 飲んだとき、心に悟りが与えられ、胸には知恵がみなぎった。わたしの霊は記憶を保っており、わたしの口は開き、とめどなく語り続けた。
 いと高き方は、五人の者に悟る力を与えられた。彼らは、それまで知らなかった文字で、次から次へと語られたことを書き取った。彼らは四十日の間、座りどおしだった。昼間は書き続け、夜に食事をした。わたしは昼間は語り、夜も黙ることはなかった。
 こうして四十日の間に、九十四巻の書物が書かれたのである。四十日が過ぎると、いと高き方は言われた。「あなたが初めに書いたものを公にして、ふさわしい者にもふさわしくない者にも読ませなさい。しかし、後の七十巻は保存しておいて、民の中で知恵ある者たちに渡すようにしなさい。これらの書物の中には、悟りの源と知恵の泉と知識の川があるからである。」
 わたしはそのとおり実行した。

 恥ずかしながらここに至るまで、わたくしは本書のエズラが前6世紀のエズラなのか、後1世紀のエズラなのか、自分でも判然とさせることができなかった。しかし、エズ・ラ14:13-14(「だから今、あなたの家を整え、あなたの民を戒めなさい。卑しめられている人々を慰め、既に腐り切った生活を返上しなさい。はかない考えを追い払い、人間的な重荷を捨て、弱い本性を脱ぎ捨てなさい。そして、あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。」)を読んで、未だ朧ろ気なりと雖も、本書のエズラがやはり前6世紀に生きて神殿再建・エルサレム再建を促し、ユダヤ人の雑婚を禁じ、律法を朗読した、ペルシアから派遣されてきたあのエズラではあるまいか、と考えるようになった。
 それに専ら基づき、本節について私見を述べれば、本節は民族再興を促す言葉であり命令である。と同時に、領土を持たぬ民族共同体の導き手、率い手としてのエズラの召命である。「あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。」(エズラ14:14)──なんともはや指導者の背負う重みを言外に語る言葉ではないか。
 天使はエズラに、これまで語ったことを記して後に伝えよ、という。エズラは天使にいわれたように五人の速記者を雇って、自分の言葉を記録させた。エズ・ラ14:42-43に拠れば、エズラは昼夜を問わず、黙することなく、ただ語り続けた。斯くして40日後に94巻の書物が書きあげられる。
 はじめに書かれたものは開示して民に読ませよ、しかしあとの70巻は秘して然るべき者へ渡して読ませよ。そう天使はいった。あとの70巻は民のなかの知恵ある者にのみ読ませるように。なんとなればそれは「悟りの源と知恵の泉と知識の川があるからである」(エズラ14:47)と。いったいここで語られる書物が、或いはその一部が、われらが読んできている「エズラ記(ラテン語)」なのであろうか。それとも、これはまったく別の書物の存在を示唆しているのだろうか。こんなことを考えると頭が悩ましくなるけれど、こうした作業はとっても楽しくて仕方がない。
 五人の速記者がエズラの言葉を口述筆記で書き留めてゆく場面に出る些細な一点に、わたくしの妄想は触発されて、刺激されて、際限なくその背後の物語を作ってゆく。ここで、エズラは夜も黙することなく、語り続けて、その間に速記者は食事をしていた。速記者たちは昼は書き夜は食事した、とエズ・ラ14:42-43にある。
 五人一斉に食事の時間を摂ったのか。ならば、その間、エズラは1人滔々と虚空の闇に向かって自分の見た幻を途切れることなく、蚕が糸を吐くように語り続けたのか。或いは、ここには書かれていないけれど、速記者たちは交代制で食事を摂り、誰彼かが必ず1人はエズラの話を書き取っていたのであろうか。となると、エズラは昼も夜も疲れを見せることなく、わずかの仮眠ぐらいは取っただろうがそれを別として、幻の記憶が薄れぬうちにひたすら口を動かし、脳をフル回転させ、見た幻と天使による幻の解き明かしの言葉をかれらに伝えることに専念していたのだろう。こんな小さな記述が、一歩異なればユーモアを孕んだ物語の誕生と成長のきっかけとなることもある。
 ──こんなことはさておくとしても、実は本章は、「エズラ記(ラテン語)」が黙示文学であることを否応なく思い出させる文言をも含んでいる。それが、「わたしが示したしるしと、あなたが見た夢、また、あなたが聞いた解き明かしを心に秘めておきなさい。あなたは人々の中から挙げられて、わたしの子と、あなたのような人々と共に、時が終わるまで暮らす。世は既に若さを失い、時は老年期に近づいている。この世は十二の時期に分かれ、既に九つの時期と、更に第十の時期の半分が過ぎている。残っているのは、第十の時期の半分と、あと二つの時期だけである。」(エズ・ラ14:8-12)である。ここは黙示文学としての「エズラ記(ラテン語)」の真骨頂とも思う箇所である。唐突な思い出しで恐縮だが、この一節、わたくしにはなにやらダンセイニ卿の豊饒にして冷徹な神話的物語群を想起させるにじゅうぶんであった。ダンセイニ卿描くところの物語はたしかに豊饒にして冷徹だが、時折ひょいと顔を覗かせるなんとも形容しがたいユーモアがある。そんなところも、「エズラ記(ラテン語)」第14章に共通した肌合いかな、と思うたりするのだ。
 なお、天使はエズ・ラ14:17にて「真理はますます遠ざかり、偽りが近づいている。あなたが幻で見た鷲が、既に急いでやって来つつある」と、エズラに警告する。この鷲とは〈第五の幻〉(エズ・ラ11:1-12:3 1/2)にて登場した鷲であり、むろんやがて来たるローマ帝国の台頭をいうている。●



 故郷が再び再開発の波に曝されようとしている。某大手自動車企業の本社施設が一斉に移転したことで売り地になった広大な土地を、旧財閥系不動産が引き受けて大規模マンションを建築中だ。それはほぼ即日完売で、完成・引き渡しの第一陣を待つ状態である由。
 それだけならまだしも、創立130年超の小学校が大規模マンションに近接した場所へ移り、その跡地はやはりマンションが建てられる、という。この小学校はわたくしのみでなく、兄や叔父・叔母までもが通った小学校である。地域の中心にあってコミュニティとしての機能を果たしてきた場所でもあった。
 その小学校が移転する、というのだ。当初は新しいマンションの方に分校を造って、分割する形で地域の教育に当たる、とのことだったのに、どうしてこのような事態になってしまったのか。耐震補強も行い、教室増、バリアフリー化も図ったばかりなのに、どうしてか。
 小学校が移転することは児童の通学に支障が生じ得る、ということだ。小中学校には校区というものが厳として存在する。この小学校の場合、校区の1/4弱が学校の横を走る道路の向こうにあり、その道路のこちら側、即ち小学校のある方に校区の3/4が存在する。道路を隔てるのは幅1メートル程度の歩道橋と、少し離れたところにある押しボタン式の横断歩道があるのみだ。正直、通勤する人たちの動線にも影響してくる。他に通学路となり得る道などはない。小学校がある側の校区にはマンションが幾つもあってそこから通う児童が殆どだ。つまり、結構な数になる、ということ。たぶん、数百人の数になるのではないか。それだけの児童が毎朝集団登校して、狭い通学路を安全に移動することなどできる、と考えているのだろうか。
 頼むから、もうこれ以上故郷を壊すのをやめてくれ。マンションが乱立すればいいというものではないのだ。街には街の個性や歴史、そうして秩序が存在する。土地に縁も所縁もない開発業者たちに<町>を破壊されて、先に住んでいた住民が消えてゆくのを見るのは身を切られるように辛く、憤りを覚えるものだ。いちど失われた景観や歴史はけっして元に戻らないことを知れ。◆

第1824日目 〈エズラ記(ラテン語)第13章〈第六の幻〉:〈海から昇る人〉、〈幻の説明〉&〈結び〉他with本ブログ改稿の教師となるは、やはりあの方のみ──S.K!〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第13章〈第六の幻〉です。

 エズ・ラ13:1−13〈海から昇る人〉
 七日の後、夜わたしは夢を見た。
 見よ、海から風が起こり、潮の流れが逆巻いていた。わたしが見ていると、見よ、人が天の雲とともに飛んでいた。
 彼が顔を向けて見つめると、見つめられたものは皆、震え上がった。彼の口から声が出ると、どこでもその声を耳にした人は皆、蝋が火に触れて熔けるように燃え上がった。
 その後、わたしが見ていると、見よ、無数の人々の群れが天の四方から集まって来て、海から昇って来た人と戦おうとしていた。更に見ていると、見よ、その人は自分のために大きな山を刻み出し、その上に飛び上がった。わたしは、山が刻み出された地方または場所を見ようとしたが、できなかった。
 その後、更に見ていると、彼と戦おうとして、集まって来た人々は皆、ひどく恐怖にかられたが、それでもあえて戦い始めた。すると、見よ、彼は群衆の襲撃を見ても手を上げず、投げ槍も取らず、何の武器も取らなかった。ただわたしが目にしたのは、彼が口から火の流れのようなものを、唇から炎の息を、舌からは稲妻の嵐を発している有様だった。そして、火の流れと炎の息と大嵐はすべて、同時に混ざり合った。それは、戦おうとして襲って来た群衆の上に落ち、すべての者を焼き尽くした。すると、たちまち無数の群衆は見えなくなり、灰の粉と煙のにおいだけになってしまった。わたしはこれを見て驚いた。
 この後、わたしは、この人が山から下りて、別の平和な群衆を自分のもとに招いているのを見た。彼のもとに、様々な顔の人々が近づいて来た。喜んでいる者もいれば、悲しんでいる者もいた。ある者は縛られており、ある者は差し出すべく捕虜を引き連れていた。
 わたしは非常に恐ろしくなって、目を覚まし、いと高き方に祈った。

 エズ・ラ13:14−56〈幻の説明〉
 「あなたは初めから、僕にこれらの不思議を示され、わたしを認めて願いを受け入れるにふさわしい者とされました。今、また、わたしにこの夢の解き明かしをしてください。わたしが思いますには、その日まで残された人々は不幸ですが、残されなかった人々はもっと不幸です。残されなかった人々は、終わりの日に備えられているものを知りながら、それに達しえないと分かって悲しみを味わうからです。
 しかし残された人々も、不幸なのです。というのも、この夢が示しているように、大きな危険と多くの苦しみに遭うのですから。それでも、雲のようにこの世から去って行き、終わりの日に起こることを見ないよりは、危険に遭いながらも、終わりの日に至る方が、まだましです。」
 主はお答えになった。「幻の解き明かしをしよう。また、あなたが話したことについても明らかにしよう。あなたは残された人々と、残されなかった人々について語ったが、それを解き明かせばこのようになる。その時に危険をもたらす方こそ、危険に陥る人々を守り、彼らは全能者のために働き、信仰を保つ者となるだろう。だから、死んだ人々より、残された人々の方が、はるかに幸せであることを知るがよい。幻を解き明かせば、このようになる。
 あなたは、海の中から人が上がって来るのを見たが、この人こそいと高き方が長い間取って置かれた人である。この人は自分で自分の被造物を解放し、残された人々の運命を定めるであろう。あなたは、彼の口から風と火と嵐が出るのを見た。彼は、投げ槍も武器も持たずに、自分を倒そうとして来た群衆の襲撃を粉砕した。これを解き明かせばこのようになる。
 見よ、いと高き方が地上にいる人々を救う日が来る。そして、地に住む人々は正気を失うであろう。町は町に、地方は地方に、民は民に、国は国に対して、互いに戦いを企てる。これらのことが起こり、わたしがさきにあなたに示したしるしが現れるとき、そのとき、わたしの子が登場する。わたしの子とは、海から昇るのをあなたが見た人のことである。
 すべての民は彼の声を聞くと、おのおの、自分の国を捨て、互いに戦うのすらやめて、一つに集結し、無数の群衆となって、あなたが見たとおり、彼に戦いを挑むであろう。しかし彼は、シオンの山の頂に立つ。あなたは山が手によらずに刻み出されるのを見たが、シオンは整えられ、建てられた姿で到来し、すべての人々に現れる。そこで、わたしの子は、立ち向かって来た民に対して、その不敬虔を論証する。これが嵐にたとえられているのである。そして、彼らの前で、その邪悪な思いをとがめ、彼らをさいなむ懲らしめを与える。これが炎にたとえられている。そして、彼らを律法によって難なく滅ぼす。これが火にたとえられているのである。
 あなたは、彼が別の平和な群衆を自分のもとに集めるのを見た。これはかの九つの部族のことである。彼らはかつてヨシヤ王の時代に、捕囚となって祖国から連れ出された民である。アッシリア王シャルマナサルは彼らを捕虜として連行し、川の向こうに移し、彼らはこうして他国に移されたのである。
 しかし彼らは、多くの異邦の民を離れて、人がまだだれも住んだことのないほかの地方に行こうと決心した。彼らは、それまでいた地方では守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである。彼らはユーフラテス川の狭い支流を通って入って行った。その時、いと高き方は彼らにしるしを行い、彼らが渡るまで、川の流れをせき止められた。その地方を通り過ぎる道のりは長く、一年半に及んだ。その地方は、アルザルと呼ばれている。彼らは、最近までそこに住んでいたのである。
 そして今、彼らは再び帰国の途につき、いと高き方は彼らが渡れるようにと、川の流れを再びせき止められた。あなたが、平和のうちに集まった群衆を見たのはこのことだったのである。しかしあなたの民の中で残されて、わたしの聖地に見いだされる人々も同様である。そこでわたしの子は、集まった諸国の民の群れを滅ぼすとき、残された民を守る。その時、彼は、おびただしい奇跡を彼らに示す。」
 わたしは言った。「統べ治められる方、主よ、このことを教えてください。なぜわたしは、海の中から人が昇って来るのを見たのですか。」
 主は言われた。「海の深みに何があるかを、だれも調べたり、知ったりすることができないように、地上のだれも、その日まで、わたしの子や、彼と共にいる人々を見ることはできない。これが、あなたの見た夢の解き明かしである。しかも、これは、あなただけに明かされたのである。あなたは、自分のことを捨てて、わたしのことに専念し、わたしの律法を追い求めたからである。あなたは、自分の人生を知恵に従って整え、あなたの知性を母と呼んだ。それゆえ、わたしは、いと高き方からの報いとしてこのことを示したのである。
 三日後には、更に別のことを話し、大切な驚くべきことを説明しよう。」

 エズ・ラ13:57−58〈結び〉
 わたしは、野原へ出て行き、時に応じて行われた奇跡のゆえにいと高き方を大いにほめたたえた。いと高き方は、時と、時の中で生じることを支配されるからである。わたしは三日間そこにとどまった。

 天使はエズラに、むかしアッシリア王シャルマナサルによってアッシリア捕囚となったイスラエルの民について語る(エズ・ラ13:40)。時の北王国の王はホシェア。ここでいうシャルマナセルは5世、実際にサマリア陥落/北王国イスラエル滅亡を遂行したのはサルゴン2世であった。それは年号でいえば前722年、南王国がヒゼキヤ王第6年のことである(王下17:1、王下18:9-12)。
 ソロモン王の崩御後南北に分裂してダビデ王朝の系譜を継ぐことのなかった北王国イスラエルは、北から迫り来たった強大な敵アッシリアの侵攻によって前722年に王都サマリアが陥落したことで、王国は滅亡した。以後、旧北王国領には指導者を連行された王国民とバビロニアからの移住者などが暮らす地となった。北王国イスラエルには10部族が住まっていたが、アッシリア捕囚と異郷民の入植によって次第に姿を消してゆき、やがてこの地上からイスラエルの10部族は消え果てた。
 エズ・ラ13:40で語られる「九つの民」は北王国にいた10部族のことを指すのであろうか。数字は必ずしも正確な値を示すものとは限らない。それが概数であったりすれば、北王国にいた10部族をここではなんらかの理由あって「九つの部族」と呼ぶのだろう。なお、統一王国イスラエルから分裂して北王国イスラエルを形成するに至ったのは、以下の部族である。即ち、──
 ・エフライム
 ・ルベン
 ・マナセ
 ・ガド
 ・イサカル
 ・ゼブルン
 ・ナフタリ
 ・ダン
 ・アシェル
 ・シメオン
である(順不同)。
 ただし、10部族のすべての者がアッシリア捕囚となったわけではないし、残された者もその場に留まり異郷民との交配・雑婚を経て同化、歴史の表舞台から消えたわけではない。捕囚として連行されなかった者たちの多くはユダ王国に移り住んで、そのまま南王国の一員として生きたのである。また、アシェル族については北王国滅亡後に書かれた文献に拠れば、後にユダヤ教に改宗したという。
 となれば、エズ・ラ13:42「彼らは、それまでいた地方では守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである」は旧北王国の残された民による信仰回帰であり、エズ・ラ13:48「あなたの民の中で残されて、わたしの聖地に見いだされる人々」はバビロン捕囚となった旧南王国の民のうちエルサレムへ帰還して先祖の信仰を取り戻した者たちを指すのか。いずれにせよ、といういい方は好きでないが、これらは幻のなかで示されたユダヤ人の信仰が回復することを謳ったものであろう。
 なお、「アルザル」なる地名であるが、そもこれが固有名詞であるかどうかも不明だ。『ムー』的想像を巡らすのが好きな向きにはアルザルは地底文明、或いは地底王国の名称として有名なようで、「エズラ記(ラテン語)」の当該節を引いて(エズ・ラ13:41−46)、「あの旧約聖書続編に記述があるんですよ!」とはしゃいでいる様子が見受けられるが、この人たちが本当に「エズラ記(ラテン語)」全編、旧約聖書続編、旧約聖書を読んでいるのか、甚だ疑問である。そもいくら勘のいい人であっても掲載書の限られる「エズラ記(ラテン語)」をその分野の基礎教養として読んでいるものなのか。
 一部冷静さを欠いた人々のはしゃぎぶりは、自分にとって都合の良い箇所を都合良く解釈するだけの、ものみの塔となんら変わるところはない。ロマンあふれる発想であるのは否定しないし、個人的にはそれに失われた部族が地底の王国に逃れていまもその血脈を保っている、なんて聞くと胸がときめいて、知らずワクワクしてくるけれど、聖書読者としてアルザルを検討するのとファンタジーや伝承を好んでアルザルを想像するのは、まったく別次元の話である。
 つまり、本ブログに於いてはこの名詞について不詳と判断する。



 本ブログ就中「エズラ記(ラテン語)」を改稿する祭、わたくしが参考とすべきなのは過去に「GIGAZINE」へ掲載された<スティーヴン・キングが語る「小説家として成功するために知るべきすべてのこと」>である。これを教師に、また「わが神」キングが著した『小説作法』(アーティストハウス 『書くということ』小学館文庫)をこれまで同様に座右へ置いて、いずれ訪れるであろう改稿作業に取り組んでゆく。
 本来なら毎日キングを範としてブログの文章も書いてゆければ良いのだけれど、毎日定時更新を宣言して日々その日の原稿に追われる身となればなかなかそれもかなわぬ望みであるのが、残念である。◆

第1823日目1/2 〈エズラ記(ラテン語)第10章2/2−12章〈第五の幻〉:〈鷲の幻〉、〈幻の説明〉他with正月休みの読書候補に荒俣宏・編纂『怪奇文学大山脈』第3巻が浮上したこと。〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第10章2/2,11,12章〈第五の幻〉です。

 エズ・ラ10:60−12:3 1/2〈鷲の幻〉
 わたしは言われたとおり、その夜も次の夜もそこで眠った。二日目の夜、わたしは夢を見た。
 見よ、一羽の鷲が海から昇って来た。その鷲には羽の生えた翼が十二と頭が三つあった。わたしが見ていると、見よ、鷲は翼を全地の上に広げた。そして天の風はすべて、鷲に向かって吹き、雲が鷲の周りに集まった。更に見ていると、羽の間から逆毛の羽が生えて来たが、それらは小さくて貧弱な羽となった。鷲の頭はいずれも不動のままであった。真ん中の頭は他の頭より大きかったが、それも他の頭と一緒にじっと動かなかった。
 更に見ていると、見よ、鷲はその羽を使って飛び、地とそこに住む人々を支配した。わたしは、天の下のものすべてが、鷲に従っている有様を見た。だれも、地上にある被造物のうち一つとしてこれに逆らうものがなかった。
 更に見ていると、見よ、鷲はつめをたてて立ち上がり、羽に向かって声を発して言った。「皆が同時に見張りをするな。めいめいが自分のところで眠り、順に見張りをするがよい。頭は最後に用立てる」と。見よ、その声が出ているのは頭からではなく、体の真ん中からであった。
 わたしは逆毛の羽を数えたが、それは八つあった。
 更に見ていると、右側から一つの羽が起き上がり、全地を支配した。その羽は支配していたけれども、終わりが来て消えうせ、その在りかすら見えなくなった。そして次の羽が起き上がって支配し、その時代は長く続いた。しかしこの羽も支配しているうちに終わりが来て、前の羽と同様に姿を消そうとしていた。
 すると、見よ、声が聞こえてきて、その羽に言った。「長い間地を支配していた羽よ、聞くがよい。お前が消えうせる前に、言っておくことがある。お前の後だれも、お前ほど長い間、いや、その半分すらも支配する者はいないだろう。」
 そして三番目の羽が起き上がり、前の二つの羽のように主権を握ったが、これも消えうせた。このように、すべての翼は代わる代わる主権を行使していったが、再び現れることは決してなかった。更に見ていると、見よ、時が来て、次の羽が自分たちも主権を握ろうとして右側から起き上がった。これらの中には、支配したものもあったが、すぐに消えうせた。またあるものは起き上がったが、主権を握るに至らなかった。この後更に見ていると、見よ、十二の羽と二つの小さな羽が消えうせた。そして、鷲の体には、じっとしている三つの頭と六つの小さな羽以外には、何も残らなかった。
 更に見ていると、六つの小さな羽から二つが離れて、右側の頭の下にとどまった。四つの小さな羽はそのまま元の場所にとどまっていた。
 見ていると、見よ、この四つの下の羽は立ち上がって主権を握ろうと企てていた。更に見ていると、その一つが立ち上がった。しかし、すぐ消えうせた。それから第二のものが立ち上がったが、これは、第一のものより早く消えうせた。更に見ていると、残った二つの羽は、自分たちも支配しようと企てていた。
 彼らがこのようなことを考えていたとき、見よ、じっとしていた頭のうちの一つで、真ん中のものが目を覚ました。これは他の二つよりも大きかった。見ていると、この頭は、他の二つを味方に引き入れた。この頭は、味方にした他の頭と一緒に振り向き、支配しようと企てていた下の二つの羽を食べてしまった。
 この頭は全地を制圧し、地に住む人々を支配して大いに苦しめた。そして、それまでのどの翼よりも大きな権力を全世界に振るった。この後、更に見ていると、真ん中の頭が、翼のときと同じように、突然消えうせた。
 さて、二つの頭が残った。この二つの頭も同様に、地とそこに住む人々を、支配した。更に見ていると、見よ、右側の頭が左側の頭を食べてしまった。
 わたしに話しかける声が聞こえてきた。「目の前をよく見て、見えるものについて考えなさい」と。
 わたしは見た。すると、森から獅子のようなものがほえながら起き上がって出て来た。そして、それが鷲に向かって人の声を発して言うのが聞こえた。
 「聞け、お前に言うことがある。いと高き方はお前にこう言われる。『お前は、わたしが世を支配させ、わたしの時の終わりを来させるために造った四つの獣の生き残りではないか』と。
 お前は四番目にやって来て、それまでの獣をすべて征服し、権力を振るって世を大いに震え上がらせ、全世界をひどく苦しめ、またこれほど長い間、世に住み着いて欺いた。お前は地を裁いたが、真理によってではなかった。お前は柔和な人を苦しめ、黙している人を傷つけ、真実を語る人を憎み、うそつきを愛し、栄える者の住居を壊し、お前に何の害も及ぼさなかった人の城壁を打ち倒した。お前の非道はいと高き方に、お前の傲慢は力ある者に達した。
 そこでいと高き方は、御自分の定めた時を顧みられた。すると、時は終わり、世は完了していた。それゆえ、鷲よ、お前は消えうせるのだ。お前の恐ろしい翼も、最も邪悪な小さな羽も、悪意に満ちたお前の頭も、最も邪悪なつめも、むなしいお前の体全体も消えうせるのだ。そうすれば、全地は、お前の暴力から解放されて力を取り戻し、地を造られた方の裁きと憐れみを待ち望むことができるであろう。」
 獅子が、この言葉を鷲に話していたとき、わたしが見ていると、見よ、生き残っていた頭は消えうせ、その頭のところに移っていた二つの翼が立ち上がって支配した。その治世は、短く、騒乱が絶えなかった。更に見ていると、二つの翼も消えうせて、鷲の体全体が燃えだした。そして地は恐れおののいた。

 エズ・ラ12:3 2/2−40 1/2〈幻の説明〉
 わたしは心がひどく乱れて、強い恐れにかられて目を覚ました。そしてわたしの霊に向かって言った。
 「見よ、お前がいと高き者の道を探り出そうとするので、こういうことになったのだ。見よ、わたしの心は疲れ、わたしの霊は弱りきっている。今夜、わたしが受けた恐怖があまりに大きかったので、わたしの中にはわずかな力もなくなっている。だから今、最後までわたしを強めてくださるようにいと高き方に祈ろう。」
 そしてわたしは祈った。「統べ治められる方、主よ、もし御好意にあずかっているのでしたら、そしてもし、わたしが多くの人々にまさって御前で正しい者とされ、また、わたしの願いが御顔の前に届きますなら、わたしを強めてください。あなたの僕であるわたしに、この恐ろしい幻のはっきりとした解き明かしをして、わたしの魂を十分に慰めてください。あなたはわたしを、時の終わりと終末のことを示すのに、ふさわしい者と見なしてくださったからです。」
 主は言われた。「あなたの見た幻を解き明かせばこのようになる。海から昇って来るのが見えたあの鷲は、あなたの兄弟ダニエルの幻に現れた第四の王国である。しかし、彼にはわたしが今、あなたに解き明かしているように、あるいは既に解き明かしたようには、明らかにされていなかった。
 見よ、時が来て、地上に一つの王国が興る。その王国は、それまでにあったどんな王国よりも、恐ろしいものである。そこでは、十二人の王が次から次へと支配するであろう。第二の王は、支配し始めると十二人の中のだれよりも長く治めることになる。これがあなたの見た十二の翼の解き明かしである。
 あなたは、声が鷲の頭からでなく、体の真ん中から出て来て話すのを聞いた。それを解き明かせばこうである。この王国の時代の後半に、小さくはない争いが生じて、王国は滅亡の危機に瀕する。しかし、その時には倒れず、再び力を取り戻す。
 また、あなたは翼に八つの下翼がついているのを見たが、それを解き明かせばこうである。その王国に八人の王が立つが、彼らの時代は短く、その年はすぐに終わってしまう。その中の二人は、時半ばにして滅びてしまう。しかし四人は、王国の終わりの時が近づくまで残るが、最後まで残るのは二人だけとなる。
 あなたはまた、動かないでいる三つの頭を見たが、それを解き明かせばこうである。その王国の終わりの時に、いと高き方は三つの王国を興す。彼はそこで多くのことを新たにする。王たちは地を支配し、そこに住む人々を、以前のどの王たちよりも大きな苦しみを味わいつつ支配する。このため、彼らは鷲の頭と呼ばれたのである。彼らこそ不敬虔を繰り返し、世の終末をもたらす者である。
 あなたは大きな頭が消えうせるのを見た。それは、彼らの中の一人が寝床で死ぬが、しかし苦しみながら死ぬということである。さて残った二人については、剣が彼らを食い尽くすのである。一人の剣が、一緒にいるもう一人を食い尽くす。しかし、彼自身も最後は剣に倒れるのである。
 あなたは、二つの下の翼が右の頭に移るのを見たが、それを解き明かせばこうである。彼らは、いと高き方が終わりの時まで取って置かれた者たちで、彼らの治世は短く、騒乱が絶えないであろう。あなたの見たとおりである。
 あなたは、獅子が森の中からほえながら、起き上がって出て来るのを見た。その獅子は鷲に話しかけ、言葉の限りを尽くして、鷲の不正な業を非難していた。これはあなたが耳にしたとおりである。
 この獅子とは、いと高き方が王たちとその不敬虔のために、終わりまで取って置かれたメシアである。彼は、王たちの不正を論証し、王たちの前に、その侮辱に満ちた行いを指摘する。メシアはまず、彼らを生きたまま裁きの座に立たせ、彼らの非を論証してから滅ぼす。彼は、残ったわたしの民を憐れみをもって解放する。彼らはわたしの領土で救われた者であり、メシアは終末、すなわち、裁きの日が来るまで、彼らに喜びを味わわせるであろう。裁きの日のことは、初めにあなたに話しておいた。これがあなたの見た夢とその解き明かしである。
 いと高き方のこの秘密を知るのにふさわしいのはあなただけであった。だから、あなたが見たことをみな、本に書き、隠れた場所にしまいなさい。そして民の中の賢い人々、すなわち、この秘密を理解し、守る心があるとあなたが思う人々に、これを教えなさい。しかしあなたは、あと七日間ここにとどまりなさい。そうすれば、いと高き方があなたに示そうと考えられることは何でも、あなたに示される。」
 そして、彼はわたしから去った。

 エズ・ラ12:40 2/2−51〈結び〉
 さて、七日間過ぎても、わたしが都に戻らなかったので、人々は、身分の低い者から高い者まで皆集まって、わたしのもとにやって来た。そしてわたしに言った。
 「わたしたちがあなたに対して、どのような罪を犯し、どのような不正をしたというのですか。なぜわたしたちを見捨ててここに座っておられるのですか。すべての預言者の中で、わたしたちに残されたのはあなただけなのです。あなたは、刈り入れで残った一房のぶどう、暗闇の中の明かり、嵐から逃れた船のための港のような方です。わたしたちにふりかかった災難がまだ足りないというのですか。あなたに見捨てられるくらいなら、シオンの大火で、わたしたちも焼かれてしまった方が、どれほどよかったことでしょう。あの大火で死んだ人々よりも、わたしたちの方がましだということはないのですから。」
 そして、彼らは大声で泣いた。
 わたしは彼らに言った。「イスラエルよ、信頼しなさい。ヤコブの家よ、悲しんではならない。いと高き方はあなたたちのことを覚え、力ある方は戦いの中にあるあなたたちを忘れられることはないのだ。わたしは、あなたたちを見捨てたわけでもなく、あなたたちから離れたわけでもない。わたしがここに来たのは、シオンの荒廃の赦しを願い、また、あなたたちの聖所がさげすまれたことへの憐れみを求めるためなのです。だから今、おのおの家に帰りなさい。わたしも定められた日数がたったら、あなたたちのところへ戻ろう。」
 そこで民は、わたしの言葉に従って都へ立ち去った。
 わたしは命じられたとおり、七日間、野原に座って、野の花だけを食べた。この期間、草花がわたしの食物であった。

 われらがかつて読んだ「ダニエル書」を繙こう。今回の〈第五の幻〉はダニエルが見た幻を基とし、これをいわば更新した内容──〈幻〉となる。
 ダニ7:19−25が、ダニエルの見た第四の獣の幻である。引用は控えるが、鉄の歯と青銅の爪を持ち、頭には10本の角を持つが内1本が強大なものとなり、また主に敵対していと高き方の聖者を悩ます存在が、この第四の獣の幻であった。エズ・ラ11:1−35で触れられる<海から昇ってきた一羽の鷲>もダニエルが見た第四の獣と同じで、いずれの場合も或る国家を暗喩する。即ちローマ帝国がこれだ。
 「エズラ記(ラテン語)」の場合、この幻については具体的に語られる。更にこの幻をダニエルが見たそれの更新というのは、鷲を滅ぼす存在として一頭の獅子が登場する点だ。獅子は鷲に向かって表面上は諭しとも取れる言葉を投げかける──が、実際のところ、それは鷲に手向けた滅びの宣告であった。つまり、帝政ローマが滅亡した後は神なる主によって全地の永遠統治の時代が訪れることが宣言されているのだ。
 それは後の世界史を俯瞰すると、たしかに<キリスト教>という形を取って全地を覆い尽くそうとしているように見える。が、それがここで語られるような永遠統治の実現であるかといえば、それは大いに疑問であるし、さなざまな要因をあれこれ浮かべて「否」といわざるを得ないであろう。歴史は一つの宗教の神によって規定されるものでも押し付けられるものでもないから、まぁ、或る意味で実現していないというのは至極当然なことであるし、異教徒からすれば大きなお世話でさえある。しかし、神なる主による永遠統治を待望し、それを終末のイメージのなかに組みこむ懐の深さ、広さ、そうして節操の無さについては、ちょっとだけ羨ましくなったりするのだ。
 ──エズ・ラ12:31−34に現れたる処の<メシア預言>、「この獅子とは、いと高き方が王たちとその不敬虔のために、終わりまで取って置かれたメシアである。彼は、王たちの不正を論証し、王たちの前に、その侮辱に満ちた行いを指摘する。メシアはまず、彼らを生きたまま裁きの座に立たせ、彼らの非を論証してから滅ぼす。彼は、残ったわたしの民を憐れみをもって解放する。彼らはわたしの領土で救われた者であり、メシアは終末、すなわち、裁きの日が来るまで、彼らに喜びを味わわせるであろう。」を読むと、そんな風に思う。
 ダニエルが見た4番目の獣が本章でいう「鷲」であり、鷲は帝政ローマの象徴であることを述べた。では、ここからは、エズ・ラ12:13以後について、可能な限り人物の推理・特定をしてゆこう。
 まず「12」。本書が成立したとされる後100年頃までに在位した、帝政ローマの皇帝の数とされるが、正確に12人の皇帝を指すというわけでもないだろう。キリのいい数字として「12」と表記された可能性も否定はできない。
 「エズラ記(ラテン語)」が成立したとされる時代間に在位したローマ皇帝だが、まず「ユリウス・クラウディウス朝」のアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、「四皇帝」と称されるガルバ、オト、ウィテッリウス、ウェスパシアヌス、「フラティウス朝」のウェスパシアヌス(4皇帝の最後だが同時にフラティウス朝最初の皇帝でもあった)、ティトゥス、ドミティアヌス、「ネルウァ=アントニヌス朝」のネルウァ。ここまでで12人である。
 わたくしは先程、正確に12人の皇帝を指すかは未詳というた。どういうことかといえば、お話は一旦エズ・ラ3:1、サラティエルことエズラは都陥落から30年後の年バビロンにいた、という記述に立ち帰ることになる。もし本書の外題役エズラが前六世紀を生きたかのエズラでなく、後一世紀を生きたエズラという名を持つサラティエルだとした場合、第一次ユダヤ戦争でエルサレムがローマ軍によって陥落したのは後70年のことであるから、それから30年後は後100年前後となることを既に他で述べた。ローマ皇帝はこの時期に短期間で交代しているので、ネルウァから数代は「12」という数字の許容範囲として捉えるべきかもしれぬ。となれば、そのあとに続く、「ネルウァ=アントニヌス朝」のトラヤヌスまではここに治めて良いであろう、と考える。
 エズ・ラ12:15「第二の王は、支配し始めると十二人の中のだれよりも長く治めることになる。」これは、後14年9月18日から37年3月16日までという帝政ローマ前期の内でも最長在位期間を誇った第2代皇帝ティベリウスを指すのだろう。ちなみにティベリウスといえば、アーサー・マッケンの『怪奇クラブ』(『三人の詐欺師』)で重要な小道具として出たティベリウス銀貨の由来する人物であります。
 エズラ12:26「彼らの中の一人が寝床で死ぬが、しかし苦しみながら死ぬ」この人物を特定するのはわたくしには難しいが、おそらく暗殺された皇帝のうちの誰かであろう。また、同27−28「残った二人については、剣が彼らを食い尽くすのである。一人の剣が、一緒にいるもう一人を食い尽くす。しかし、彼自身も最後は剣に倒れる」は、戦で敗れて自死したオトと別の戦で敗死したウィテッリウスあたりであろうか、と思う。こうしたあたりはまたローマ史を勉強し直し、後日再点検と検証を行ってより事実に近附けてみたい。──古代ローマに憧憬の念を抱いていたH.P.ラヴクラフトであれば、事程さように悩むこともなかったのであろうが、まぁ、人には向き不向きがありますからね。歴史の好むところもそれぞれである、と詭弁を弄して本日の感想、幕を下ろさせていただこう。えへ。



 年末年始の休みに読む本は──かねて予告した──A.E.コッパードの短編集であろうけれど、昨日購入した素敵な1冊がそこに加わる(か、取って代わるか定かでないが、)可能性が急浮上してきた。荒俣宏・編纂『怪奇文学大山脈』第3巻(東京創元社)がそれである。副題は「西洋近代名作選【諸雑誌氾濫篇】」。
 20世紀に登場した諸雑誌──英米独の雑誌に発表されて今日まで紹介の機会を逃していた怪奇短編小説、また20世紀初頭から半ばに至までのフランスにて一世を風靡した煽情的かつ残虐リアリズムに彩られたグラン・ギニョル劇の作品を中心に、編者が精選して一堂に集まったのが本書である。既刊2巻同様、巻頭に編者入魂の「前書き」を置き、巻末には充実の作者案内がある。これを読むだけで、ああ荒俣宏がこの分野に帰ってきてくれた、と安堵と喜びを覚えるのは、果たしてわたくし一人のみではないはずだ。さよう、わたくしの世代、わたくしよりも少し上の世代にとって荒俣宏とは、怪奇・幻想文学の紹介者であり、アンソロジスとであり、いわば里程標的役割を担った人物であったはずだ──加えていえば、『世界大博物学図鑑』に代表される博物学の復興者としての、身持ちを崩してでも書物を購入するブック・コレクターとしての、存在であったはずだ。断じて今日のような、TV番組の雑学番組やらなにやらに顔を出し、司会者芸人に弄られたりする<ちょっと得体の知れない博学なおじさん>ではないのである。
 話が横道へ逸れかけたが、全3巻から成るこの『怪奇文学大山脈』は荒俣宏が原点回帰を果たして、本人いうところの「これが西欧の怪奇小説史について真摯に語る最後の機会となると思われる」(P75)仕事である。かれが恩師紀田順一郎と企画、編纂した〈世界幻想文学大系〉や古本で入手した〈怪奇幻想の文学〉や雑誌〈幻想と怪奇〉を読んで10−20代を過ごして好みや知識の土台を形成された者にとって、本叢書は待望の、そうして幾許かの寂しさも同時に感じさせるシリーズである。
 称揚されるべきはいずれの作品も本邦初訳であること。今回の第3巻に即していえば、個人的目玉はカール・ハンス・シュトローブル「舞踏会の夜」とメアリ・エリザベス・カウンセルマン「七子」であった。
 前者は高校生の時分に読んだ河出文庫の『ドイツ怪談集』に収められた「死の舞踏」の作者ということで、その後もシュトローブルの作品は目に付くたびに(その数は微々たるものであるが)読んできたし、自分が大学で第二外国語にドイツ語を選んだ理由もシュトローブルの作品を読んでみたいと望んだがゆえだ。また、カウンセルマンについては、その作品を読んだことはあってもどの本でどの作品を読んだのかも覚えていないけれど、ラヴクラフトの書簡集で彼女宛の書簡の内容にひどく心惹かれるものを感じていたことから、実際のその作品を読む前から妙に親近感を抱いていた人物であったのだ。そんな所以で、本書の目次を一瞥したときに胸の最奥から湧き起こってきた<歓び>は、ちょっと筆舌に尽くしがたい程のものがあったね。
 本書『怪奇文学大山脈』第3巻は全556ページ、21の作品を収める。小説に限らず戯曲もある。参考資料として、野尻抱影のエッセイも載せる。正直なところを申して、本書を正月休みにのんびりと読み耽り、読了できるとはまったく思うていない。コッパードの短編集にしても然りだ。そのヴォリュームがため、という理由もあるし、なんとその正月休みが元日を除いて吹っ飛ぶ可能性も濃くなってきたからである。文語訳の新約聖書にも目を通しておきたいしなぁ……。
 実際がどうなるかまだ話すことはできないけれど、そのときになったらここで報告できるかもしれない。◆

第1822日目 〈エズラ記(ラテン語)第9章2/2−10章1/2〈第四の幻〉:エズラの祈り〉、〈泣く女の幻〉他with誰かスイッチを押してくれ、これまでのようなエッセイを書くために!〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第9章2/2−10章1/2〈第四の幻〉です。

 エズ・ラ9:26−37〈エズラの祈り〉
 わたしは天使が言ったように、アルダトと呼ばれる野原に行き、そこで花の中に座り、野原の草を食べた。わたしは満腹するまで食べた。
 七日の後、草の上に横になっていたとき、わたしの心が前と同じように再び乱れてきた。わたしは口を開き、いと高き方の御前に語り始めた。
 「ああ主よ、あなたは、わたしたちの中で、わたしたちの祖先に御自身を現されました。それは、わたしたちの祖先がエジプトから出て、人が足を踏み入れない不毛の荒れ野を進んでいたときのことでした。あなたはこう言われたのです。『イスラエルよ、聞け。ヤコブの子孫よ、わたしの言葉に耳を傾けなさい。見よ、わたしはあなたたちの中に、わたしの律法を蒔く。それはあなたたちの中で実を結び、それによってあなたたちは、永久にたたえられるだろう。』
 しかしわたしたちの祖先は、律法を受けながらもそれを守らず、掟を守りませんでした。ところが、律法の実は滅びませんでした。滅びるはずがありませんでした。それは、あなたの律法だったからです。律法を受けた人々の方は、滅びました。自分の中に蒔かれたものを守らなかったからです。
 世のきまりでは、大地が種を受けるとき、あるいは海が舟を、器が食べ物や飲み物を受けるとき、蒔かれたもの、浮かべられたもの、器に入ったものがなくなっても、器はそのまま残ります。しかしわたしたちの場合はそうではありませんでした。
 律法を受けたわたしたちの方が、罪を犯しているので滅び、律法を受けたわたしたちの心の方が滅びるのです。律法は滅びることなく、その栄光を保ち続けるのです。」

 エズラ9:38−10:24〈泣く女の幻〉
 心の中でこう言って、目を上げると、右手の方に一人の女が見えた。この女は悲しんで大声で泣いており、深く心を痛めていた。その衣は引き裂かれ、頭に灰をかぶっていた。
 わたしは思い巡らすのをやめて、彼女に向かって言った。「なぜ泣いているのか。何に心を悩ませているのか。」
 女は言った。「主よ、私に構わないでください。泣かせてください。悲しくてしかたがないのです。私の心はひどく痛み、私はひどく卑しめられました。」
 わたしは言った。「何をされたのか。言ってみなさい。」
 そこで女はわたしに言った。
 「あなたのはしため、私は、うまずめで三十年の間、夫と暮らしましたが子どもが生まれませんでした。私はこの三十年間、毎日、毎時間、夜も昼もいと高き方にお願いしておりました。
 三十年の後、神はあなたのはしため、私の願いを聞き入れられ、私の惨めな様を御覧になり、私の苦しみに心を留めてくださり、男の子を授けてくださいました。私も夫も町の人たちも皆、この子のことをとても喜び、私たちは、力ある方を大いにほめたたえました。私はこの子を大変苦労して育てました。
 この子が成長したとき、私は息子のために嫁を迎えに行き、婚礼の日取りも決めました。ところが息子は婚姻の寝室に入ったとき、倒れて死んでしまったのです。私たちは皆、明かりを消しました。町の人々は皆、私を慰めに来てくれました。私は、次の日の夜まで気持を抑えていました。しかし、私を落ち着かせようと慰めてくれた人々が皆寝静まったので、私は夜起きて、御覧のとおり、この野原に逃げ出して来たのです。もう町には帰らず、ここにとどまっていようと思います。食べることも飲むこともしません。死ぬまで絶えず嘆き続けて断食をするつもりです。」
 わたしは、ここまで話を聞いて、それを遮り、怒って彼女に答えた。「愚か者、あなたは女の中で最も愚かだ。あなたにはわたしたちの嘆きや、わたしたちに起こったことが見えないのか。わたしたち皆の母シオンは悲しみに打ちひしがれ、ひどく卑しめられているのだ。このため大いに嘆きなさい。わたしたち皆の嘆きと悲しみを共にして、あなたも嘆くべきだ。ところがあなたは、たった一人の息子のために悲しんでいる。大地に尋ねてみよ。そうすれば大地は言うだろう。『生まれて来るこれほど多くの者たちのために嘆かなければならないのは自分なのだ』と。初めからすべての者は大地から生じ、これからも更に生ずるであろう。
 しかし、見よ、ほとんどすべての者は、滅びに向かって歩み、多くの者が滅びる。そうすると、どちらの方が深く悲しまねばならないのだろうか。一人のために嘆いているあなたよりも、このように多くの人々を失った大地ではないのか。あなたは言うであろう。『わたしの悲しみは大地のとは違います。わたしは自分の胎の実を失ったのです。わたしは、陣痛の中で、もだえ苦しみながら産んだ子を失ったのです。大地は大地の法則に従っただけのことです。大地の多くの人々は、来たときのように行ってしまったのです』と。
 しかし、それならわたしは言おう。あなたが苦しみながら子を産んだように、大地もそのようにして、初めからその実である人間を、大地の創造者のために産んだのだ。それゆえ今、あなたの嘆きを自分の中に納めて、あなたにふりかかった災いを力強く受け止めなさい。もしあなたが、神の定めを正しいと認めるなら、やがて時が来て再び子を与えられ、あなたは女の中でたたえられることになるだろう。
 さあ、町へ戻り、夫のもとに帰りなさい。」
 女は言った。「いいえ。町には戻らず、ここで死にます。」
 わたしは更に言った。「そんなことを言うものではない。シオンの失墜がどのようなものであるか、わたしの言うことを聞き分け、エルサレムの痛みを思って自分の慰めとしなさい。あなたも見ているように、わたしたちの至聖所は荒らされ、祭壇は打ち壊され、神殿は破壊された。わたしたちの竪琴の音は消え、賛美の歌はやみ、わたしたちの喜びはなくなった。燭台の明かりは消され、契約の箱は奪われ、聖なる器は汚された。わたしたちに授けられた名も全く冒涜され、わたしたちの指導者たちは侮辱を受け、祭司は焼き殺され、レビ人は捕虜として連れ去られた。おとめたちは汚され、わたしたちの妻は暴行を受け、義人たちは連れ去られ、幼子は捨てられ、若者は奴隷になり、力のある者たちは弱くなった。
 そして最悪なのは、シオンの証印のことである。神の印を押されていたシオンのかつての栄光は取り消され、わたしたちを憎む者どもの手に渡されたのだ。それゆえ、あなたは自分自身の大きな悲しみを振り払い、多くの苦悩を捨て去りなさい。そうすれば、力ある方が再びあなたを憐れみ、いと高き方があなたに安らぎを与えて、苦労をねぎらってくださる。」

 エズラ10:25−59〈幻の説明〉
 わたしが女に話していたとき、驚いたことに、突然彼女の顔が強烈な光を放ち、その姿は稲妻のようにひらめいた。わたしは彼女に対して恐れを抱き、これはいったいどういうことなのだろうと思った。すると突然女は恐ろしい大きな声をとどろかせた。大地がその音で揺れ動いたほどだった。わたしは目を上げた。すると、どうしたことだろう、もう女の姿は見えず、そこには都が建てられつつあり、大きな土台が見えた。
 わたしは恐ろしくなり、大声で叫んで言った。「初めにわたしのところに来られた天使ウリエルは、どこにおられますか。あの方が、わたしの心をこんなに耐え難いほどに乱されたのですから。わたしの望みは打ち砕かれ、わたしの祈りはかえってむなしくなりました。」
 わたしがこのように言っていると、見よ、初めにわたしのところに来た天使がやって来て、わたしを見た。そのときわたしは死人のように横たわっており、考える力がなくなっていた。
 天使はわたしの右手を取り、わたしを力づけ、立ち上がらせて言った。「どうしたというのだ。なぜ取り乱しているのか。なぜ知性も心の思いも乱しているのか。」
 わたしは言った。「あなたがわたしのことを見捨てられたからです。わたしは実際、あなたの言われたとおりに野原に出ました。すると、どうでしょう。何とも言いようのないものをわたしは見たのです。いや、今も見ているのです。」
 天使は言った。「男らしく立ちなさい。教えてあげよう。」
 わたしは言った。「主よ、お話しください。わたしが無益に死ぬことのないように、わたしを見捨てることだけはしないでください。わたしは未知のことを見、未知のことを聞いているのですから。それとも、わたしの心が欺かれ、わたしの魂が夢を見ているのでしょうか。どうかお願いします。僕にこの幻を解き明かしてください。」
 天使は答えた。「よく聞きなさい。あなたが恐れているものについて説明しよう。いと高き方はあなたに多くの奥義を示されたのだ。いと高き方はあなたがまっすぐに歩んでいるのを御覧になった。あなたが絶えず民のために悲しみ、シオンのために大いに嘆いたからである。
 幻の意味はこうである。少し前にあなたに現れた女のことであるが、あなたは、その女が泣いているのを見て、慰めようとした。しかし女の姿は今はもう見えず、建設中の都が現れた。彼女は息子の身に起こった不幸についてあなたに話したが、その解き明かしはこうである。すなわち、あなたが見たあの女はシオンであり、あなたが今眺めているのは都として建てられたシオンの姿である。女は三十年の間うまずめだったと、あなたに言ったが、これはシオンにまだ犠牲が献げられていなかった期間が三千年間あったということである。それから三年後にソロモンは都を建て、犠牲を献げた。うまずめが子を産んだというのは、この時のことである。女が息子を苦労して育てたと言ったのは、エルサレムに人が住んでいたときのことである。女は、息子が婚姻の寝室に入ったときに死んで、自分に災難が襲ったことを語ったが、これは、エルサレムの滅亡のことである。
 さあ、あなたは、シオンがその子のことをどんなに嘆いているかというたとえを見て、起こったことについて彼女を慰めようとしたのである。これがあなたに明らかにされねばならなかったことである。今、いと高き方は、あなたがシオンのために心から悲しみ、心の底から苦しんでいるのを御覧になって、あなたにシオンの輝かしい栄光と、端麗な美しさを示されたのである。家の建てられたことのない野原にとどまるようにと、わたしが言ったのはこのためである。
 わたしは、いと高き方があなたにこれを示そうとされていたことを知っていた。だからこそ、わたしはあなたに、建物の土台のない野原に来るよう言ったのである。いと高き方の都が示されようとしている所には、人間の手になる建物があってはならないからである。それゆえ恐れてはならない。心を騒がしてはならない。それよりも、建物の中に入って、あなたの目で見ることができるかぎり、その輝かしく壮大なる様を眺めなさい。その後で、あなたは耳で聞くことができるかぎりのことを聞きなさい。
 あなたは多くの人よりも幸いである。あなたはいと高き方のもとに呼ばれているが、これはごくわずかの人にしかないことである。明日の夜まで、ここにとどまっていなさい。そうすればいと高き方は、終わりの時に地上に住む人々になさろうとしていることを、夢の中の幻であなたに示されるであろう。」

 本書については常の順番を踏まず<編集者>に徹しているわけだが、読書ノートの筆を執る以上に長い時間を「エズラ記(ラテン語)」の本文を読まねばならぬ事実に、今更ながら気が付いている。むろん、それはいつもの作業に於いて本文を読み流していたり、とく把握せぬまま原稿執筆に掛かっていることを意味するのではない。駄弁を重ねる者は自ずと疑惑を招くことであるから、わたくしも先例に倣ってこれ以上この点については敢えて触れぬようにする。しかし、先日も申したように編集をするにあたって章節の表示を削除、新共同訳の本文とは必ずしも同じでない適宜改行──読みやすさの優先──を施したり、ということを行うには、いつも以上にちゃんと読まなくてはならないのだ、ということを、このたびの作業を通じて身に染みるようになったのである。
 実はその過程で副産物があり、これは実際にモレスキンのノートを用いて読書ノートを書いているときと変わらないけれど、編集作業中に気が付いたことは<コメント>機能を使って箇条書きに出来るのだ。なにを当たり前な……と、君よ、呆れるなかれ。わたくしはこれまでこの機能をパソコンでの執筆に積極的に採用することがなかったのだ。実際にペンを使って原稿を書きながらだと考える速度と筆の進み具合が比例しないことはままある。が、パソコンだとそれが可能だ。どうして可能になるかというと、Pagesにある<コメント>機能がアプリ起動させている限り可視化されているから。可視化されていれば、使ってみよう、という気にもなるものではありませんか?
 そこで今回の副産物の結果だが──
 ・エズ・ラ9:31−37でエズラが祈りのなかで述べる「律法の不滅」。これは旧約聖書/旧約聖書続編の歴史的記述、人々の行いのすべてを端的に、しかもこれ以上ないぐらい明確に現した箇所である。その真理は、律法を受ける側に咎あれば滅びる、しかし授けられた律法そのものは滅びることがない、というものだ。ちょっと冗談めかしていうと、<律法・イズ・ネヴァー・ダイ>。が、これ以上の真実、これ以外の事実はないのである。
 ・「なぜ泣いているのか。何に心を悩ませているのか。」(エズ・ラ9:40 エズラ)、「どうしたというのだ。なぜ取り乱しているのか。なぜ知性も心の思いも乱しているのか。」(エズラ10:31 天使)──この2つの、エズラと天使の台詞は読み手の側に痛く、深く突き刺さる。これらは、病める21世紀人に投げつけられる根本的疑念の言葉、時によってそれが癒やしとはならぬ言葉でもある。われらはこの<どうしてか?>という問いから自由になることはできないのかもしれない。況んや回答/解答をや。
 ・「女は三十年の間うまずめだったと、あなたに言ったが、これはシオンにまだ犠牲が献げられていなかった期間が三千年間あったということである。それから三年後にソロモンは都を建て、犠牲を献げた」(エズ・ラ10:45−46 天使)……「3,000年」の起点はいつだろう。いつからいつまでを指して「3,000年」というか。勿論、これが明確な時間幅を指しているのであれば、という前提でのお話である。「長い期間」の比喩として「3,000年」なる数字が用いることもあり得るし、本書に於いてキーワードのように繰り返される「30年」との対比であっても不自然ではないけれど、それをいうてしまうと考える楽しみが奪われるので、ここでは気に留めぬこととする。
 斯くして私見──これは、エルサレムがエブス人によって建てられてから第一神殿の建立までの期間をいうか。出エジプトを果たしたイスラエルがカナン入植(侵攻)してから神殿建立までの期間とするには、3,000年はあまりに長すぎる期間である。ゆえにわたくしは斯く考えるのだ。
 ──これが今回、編集中に心に浮かんだ由なしことを<コメント>機能を用いてメモした事柄である。今後もこんなことができるぐらいの時間的・精神的余裕を持ちたいと思う。その分、1日分の分量は常よりもずっと長くなるけれど、まぁ、駄弁をお楽しみいただければ幸甚、幸甚。



 他人目には殆ど手抜きに映る、と仄聞する「エズラ記(ラテン語)」読書に入って早7日。心のなかに抱えていたわだかまりも解けてなくなり、「後日、改稿してそれまで通りのノートと同じ体裁に仕立て直すから、別に誹謗中傷されたって痛くも痒くもないもん」とうそぶきながら、本ブログについて突き刺さる棘を人目に曝さないよう隠して、そこから滲む血のことはへらへら笑ってしらばっくれながら、ずいぶん久しぶりと感じるあたたかな今日、日曜日を会社で過ごしていた。
 仕事帰りに<最後の砦>と秘かに命名したカフェへこもって、明日以後の原稿を作成する傍ら、心を過ぎってゆく由なしことのうちで過ぎるたび引っ掛かってしばしそれについて思いを巡らせることがあるとすれば、それはこの時期にエッセイなり小説なりを書き溜めておくことも出来るのではないかなぁ、ということだ。初めのうちこそ、そんなこと割と簡単じゃね? なんて考えていたのだけれど、いざそのときを前に迎えてみると、たちまちそれがさもしい計画であり、また難事であるかを思い知っている。
 もうちょっと才気煥発しているときのわたくしなら、意外と難なくこのエッセイ群の執筆をこなしたかもしれない。ペンを執っていろいろ書いていたら興に乗ってしまって分量が質を伴いながら成長して悠希、やむなく複数回に分載することになっていたかもしれぬ。それはそれでじゅうぶんあり得たはずの未来である。しかし──現在のわたくしにこれまでのような分量と内容と質のエッセイを書くことはできぬ。というのも、非常に情けない話で恐縮だが、仕事に全力を注いでいるという自負と結果を残すと退勤後はほとほと疲れ果てて、あまりまとまったことが書けないようなのだ(現状はそうである、ということだ)。
 勿論、この「書けない」というのが一過性のものであることを、わたくし自身は良ぉく知っている。そうでないならば、どうしてこれまで足掛け6年強に渡って本ブログを継続させてこられたものか。ただ、現在はやや燃費が悪くてちょっとの遠出も尻込みするような状態なのである。ひとたびそれなりの分量と内容と質を伴うエッセイを「エズラ記(ラテン語)」ノート継続中に書いたなら、そのまま上昇気流に乗るような気もしているのだが……。そうしてその勢いを駆って「マナセの祈り」を前夜含めて2日分を悠然と終わらせ、年明けの新約聖書の読書に供え、一人恍惚とした表情を面に浮かべてワーグナーの音塊に心を沈めるのだ。ちょっとそれに飽きたら、ウッドハウスを読んだりしてね。ああ、書きたいなぁ。なにかスイッチが入れば、読者の困惑も不興も顧みることなく以前通りのエッセイ(と称す文章)を釣瓶落としの如くにweb上へ送りこむのだけれどな──。
 「エズラ記(ラテン語)」読書ノートブログに於けるエッセイ、果たしてこれが続いている間に昔日の栄光はよみがえるのだろうか?◆

第1821日目 〈エズラ記(ラテン語)第7章2/2-9章1/2〈第三の幻〉2/2:〈死後の霊のたどる道〉他with「エズラ記(ラテン語)」舞台裏その2 "climbing Jacob's ladde"〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第7章2/2-9章1/2です〈第三の幻〉2/2です。

 エズ・ラ7:78-101〈死後の霊のたどる道〉
 「さて、死についての話をしよう。ある人が死ぬという最終決定をいと高き方が下されるとき、霊が体から出て、自分をお与えになった方のもとに、再び帰って行く。まず、いと高き方の栄光をたたえるためである。しかし、もしその霊が、いと高き方の道を軽んじて、それを守らなかった者、律法を軽蔑した者、神を畏れ敬う人々を憎んだ者の霊であった場合、その霊は安らぎの場所に落ち着くことができず、以後苦しみの中で常に嘆き悲しみながら、七つの道をさまよい歩くだろう。
 第一の道は、人がいと高き方の律法を軽んじたゆえに備えられた道である。
 第二の道は、生きるために良い悔い改めをもはや行うことができない道である。
 第三の道では、いと高き方の契約に忠実であった人々に蓄えられた報いを見せつけられる。
 第四の道では、終わりの時のために自分に用意されている懲らしめを思い浮かべる。
 第五の道では、他の人々の住まいが天使たちによって守られて深い静けさに包まれているのを見せつけられる。
 第六の道では、彼らの中のだれかが苦しみの中へと移って行くのを見る。
 第七の道は、以上のどの道よりもつらい道である。この道では、いと高き者の栄光を見て、うろたえながら衰えてゆき、恥ずかしい思いをしてやつれ果て、恐ろしさのあまりしおれてしまう。彼らは生きていたときには、この方の前で罪を犯したのであり、終わりの時には、この方の前で裁かれるのである。
 さて、いと高き方の道を守った人々の霊が、朽ちる体の器から離れるときの次第はこうである。彼らはその器の中にいたとき、いと高き方に苦労して仕え、立法者の律法を完全に守ろうと、絶えず危険を冒した。だから、彼らに対する言葉はこうである。まず彼らは、自分たちを受け入れてくださったお方の栄光を見て大いに喜び、七つの段階を通って、安らぎを得ることになる。
 第一段階は、人が自分たちと共に造られた悪い思いによって生から死へと誘われないように、それに打ち勝つため、大いに苦労して闘ったゆえに備えられている。
 第二段階では、不敬虔な人々の魂がさまよう有様を見、彼らを待ち受けている罰を眺める。
 第三段階では、生前、信仰をもって受け取った律法を彼らが守ったという造り主の証言が承認されるのを見る。
 第四段階では、陰府の部屋の中で、天使たちに守られて、深い静けさの中に集まって味わう安らぎと、終わりの時に自分たちを待ち受けている栄光とを知る。
 第五段階では、今や自分たちが朽ちるべきものから逃れたこと、やがて相続財産を受け継ぐことを喜び、更に、自分たちが窮屈で労苦に満ちた世から救い出されたことを見、今や、不死となって喜びながら、ゆとりを得る。
 第六段階では、彼らの顔が太陽のように輝き、また、彼ら自身が、星の光のようになっているのが示される。彼らはもはや朽ちるべきものではない。
 第七段階は、以上のどの段階よりも偉大である。ここでは、人は安心して喜び、信頼して迷うことなく、恐れることなく喜びを味わう。彼らは、生前に仕えた方、やがてその栄光にあずかり、報いをいただくその方の御顔を見に急ぐ。
 これが、やがて告げ知らされる義人の魂の段階であり、さきに述べたことは、律法をないがしろにした人々がやがて受ける苦しみの道である。」
 わたしは言った。「それでは魂には、体から離れた後、今言われたことを見る時間が与えられるのですね。」
 天使は言った。「彼らには七日間の余裕が与えられ、さきに語ったことをその七日間で見て、その後、自分たちの住まいに集められるだろう。」

 エズ・ラ7:102-115〈代願の不可能なこと〉
 そこでわたしは言った。「もし御好意にあずかっているのでしたら、更に僕にお教えください。裁きの日に、義人たちは、不敬虔な人たちのために執り成しをしたり、彼らのためにいと高き方にお願いしたりすることができるでしょうか。父が子のために、子が両親のために、兄弟が兄弟のために、親族が身内のために、友がその愛する人のためにそうすることができるでしょうか。」
 天使は答えた。「あなたはわたしの好意を受けたのだから、このことも教えよう。裁きの日は厳かなもので、すべての人に真理の印を示すのである。今でも、父が子に代わり、子が父に代わり、主人が僕に代わり、親友が大切な人に代わって悟ったり、眠ったり、食べたり、病気を治してもらったりすることができない。それと同様に、だれも他人のために赦しを願うことは決してない。人は皆おのおの自分の不正な行い、あるいは正しい行いの責任を負うのである。」
 そこでわたしは言った。「それでは、どうなのでしょうか。まずアブラハムはソドムの人たちのため、モーセは荒れ野で罪を犯した父祖たちのために祈りました。モーセの後を継いだヨシュアはアカンの時代にイスラエルのため、サムエルはサウルの時代にイスラエルのために祈りました。またダビデは災害のゆえに民のため、ソロモンは聖所にいる人々のために祈りました。エリヤは雨を待つ人々のために、また死人のため生き返るように祈りました。ヒゼキヤはセンナケリブの時代に民のために祈り、またその他の多くの人たちが、多くの人々のために祈ったではありませんか。ですから、滅びる者がはびこり、不正が増し加わっている今、義人たちが不敬虔な人たちのため祈っているのに、どうしてあの裁きの日には、それができないのでしょうか。」
 天使は答えた。「今の世は到達点ではないのだ。神の栄光は、今の世に常にとどまるものではない。それゆえ力のある者は弱い者のため祈ったのである。裁きの日はこの世の終わりであり、来るべき不死の時代の始まりとなる。その時には、腐敗はもはやなくなる。放縦は解消し、不信仰は断たれ、正義が成長し、真理が現れる。だからその時、だれも、裁きに敗れた者を憐れむことはないし、勝った者を滅ぼすこともできないのである。」

 エズ・ラ7:116-8:14〈救われる者は少ない〉
 わたしは言った。「これは、最初にして最後の言葉です。大地はアダムを産み出さない方がよかったのです。あるいは、産み出したとしても、彼が罪を犯さないように引き留めればよかったのです。今の世では、生きていても悲しむほかなく、死んでからも刑罰しか待ち望めないとしたら、すべての人に何のよいことがありましょう。
 ああ、アダムよ、あなたはいったい何ということをしたのか。あなたが罪を犯したとき、あなただけが堕落したのではなく、あなたから生まれたわたしたちも堕落したのである。わたしたちに不死の世が約束されていても、いったい何の役に立つでしょう。わたしたちが死をもたらす悪行をしているのですから。永遠の希望が約束されているとしても、わたしたちは最悪なことに、むなしい存在になっているではありませんか。また、快適で安全な住まいが用意されているとしても、わたしたちは悪い方に傾いているではありませんか。また、いと高き方の栄光が清く生きる人たちを守るとしても、わたしたちは最も邪悪な道を歩んでしまったではありませんか。更に、楽園が示されて、そこでは実が腐ることなく実り続け、満足といやしとをもたらしてくれるとしても、わたしたちは忘恩の地で暮らしてきたので、そこに行くことができないではありませんか。あるいはそこでは節制を守った人たちの顔が星よりも輝くとしても、わたしたちの顔は闇よりも暗いではありませんか。この世に生きて不正を行っていたときわたしたちは、死後にどのような苦しみを受けるかなどと、考えてもみませんでした。」
 天使は言った。「地上に人間として生まれた者は人生の戦いについて、次のことを考えておくべきである。戦いに負ける者はあなたが言った苦しみを受け、勝つ者はわたしの言っている報いを受けるであろう。なぜなら、これこそモーセが存命中、民に教えた道だからである。彼は言った。『あなたは命を選びなさい。そうすれば生きる』と。しかし彼らは、モーセもモーセの後に来た預言者たちも、彼らに語ったわたしをも信じなかった。彼らが滅んでもだれも悲しまないであろう。救いを確実に受ける人々のことで喜びがあるであろう。」
 わたしは言った。「主よ、わたしは知っています。いと高き方は、今、憐れみ深い方と呼ばれています。それは、まだこの世に生まれて来ない人々を憐れまれるからです。また、情け深い方と呼ばれています。それは、悔い改めてあなたの律法に立ち帰る人々に情けをかけられるからです。また忍耐強い方と呼ばれています。それは、罪を犯した人々を御自分の作品として耐え忍ばれるからです。雅量に富んだ方と呼ばれています。それは求めることよりも与えることを望まれるからです。また、憐れみに富む方と呼ばれています。それは、今の人にも、過去の人にも、将来の人にも憐れみを増し加えられるからです。もし憐れみを増し加えてくださらなければ、この世もそこに住む人々も、生かされることはないでしょう。また赦すお方と呼ばれています。それは、もし不正を犯した人たちをその不正から助け出して慈しみ深く赦してくださるのでなければ、人々の一万分の一も生かされることはないからです。そして、裁き主と呼ばれています。もし、御言葉によって造られた人々を赦さず、多くの罪を消してくださらなかったら、恐らく、数えきれないほどの人の群れの中で、ごくわずかの人々しか生き残れないでしょう。」
 天使は言った。「いと高き方はこの世を多くの人のために造られた。しかし、来るべき世は、わずかな人のために造られている。エズラよ、たとえを話そう。あなたが大地に尋ねると、大地は答えるだろう。『器を造る粘土は多くできるが、金を産み出す土はわずかしかできない』と。この世の有様もそうである。確かに造られた者は多いが、救われる者は少ない。」
 わたしは言った。「わたしの魂よ、知識を飲み、知ったことをむさぼり食え。お前は欲せずしてこの世に生まれ、望まずに世を去る。お前は、ごくわずかの間しか生きられないのだ。
 ああ、わたしたちの上におられる主よ、僕が御前で祈ることを許していただけますなら、どうか、わたしたちに心の種を与え、そしてわたしたちの知性を耕して実を結ばせてください。そうすれば、朽ちるべきすべての者が人としての場を得て、生きることができるでしょう。
 あなたは唯一の方であり、わたしたちは、あなたが語られたとおり御手によって造られたものの一つです。あなたは今、母胎の中に体を形づくってこれに命を与え、器官を与えられると、この被造物は火と水の中で守られます。そしてあなたが造られた母胎は、あなたがその中に造られた子を、九か月間宿します。そして守るものも、守られるものも、共にあなたの守りによって守られます。
 母胎が、自分の中に育ったものを外に返す時には、器官そのものから、すなわち、乳房からその実である乳を与えるようにと、あなたは命じられたのです。形づくられた子は、それによって一定の期間育てられます。その後あなたは、その子に憐れみをかけ、あなたの正しさではぐくみ、あなたの律法で教育し、あなたの知恵で戒められました。それをあなたは、御自分が造られたものであるがゆえに死なせたり、御自分の作品であるがゆえに生かしたりされるのです。
 あなたの命令に従い、これほどの苦労によって形づくられたものを、簡単なひと言で滅ぼされるなら、何のためにそれをお造りになったのでしょうか。」

 エズ・ラ8:15-36〈エズラの祈り〉
 「今こそ、申し上げます。人類一般のことをあなたはよくご存じです。しかし、わたしはあなたの民のことで心を痛め、あなたの世継ぎのことで泣き、イスラエルのことで悲しい思いをし、ヤコブの子孫のことで心を乱しているのです。ですから、わたしは、自分のため、また彼らのために御前に祈りましょう。わたしは地上に住むわたしたちの堕落を見、また、来るべき裁きが速やかにやって来ると聞いているからです。どうか、わたしの声に耳を傾け、わたしの言葉を理解してください。わたしは御前で語ります。」
 天に上げられる前のエズラの祈りの初め。
 彼は言った。「永遠に生きられる主よ、あなたの目は天の高みにあり、あなたの玉座は比類なく、栄光は計り知れません。天使の軍団はおののきつつあなたに仕え、御命令に従って、風にでも火にでも変わります。御言葉は真実で、語られたことが変えられることはありません。あなたの命令は力があり、あなたの定めは恐るべきものです。あなたが見据えると深淵は乾き、あなたが怒られると山々は熔け、あなたの真理は証しされます。主よ、この僕の祈りを聞き入れてください。あなたがお造りになった者の祈りに耳を傾け、わたしの言葉に御心を向けてください。わたしは生きるかぎりあなたに語り、わたしに分かるかぎりお答えします。御民のとがに目を向けず、真実をもってあなたに仕えている人々を御覧ください。不敬虔な業を行う者のたくらみではなく、苦しみながらもあなたの契約を守った人々に注意を向けてください。あなたの御前で、道を踏み外した者のことを思わず、畏れることを心から認めた人々のことを思い出してください。家畜のような生き方をした者を滅ぼそうとはなさらずに、律法を立派に教えた人々を顧みてください。獣にも劣ると見なされた者のことをお怒りにならず、常にあなたの栄光に信頼した人々を慈しんでください。
 わたしたちもわたしたちの父祖たちも死をもたらす生き方をしてきましたが、あなたは、罪人であるわたしたちのゆえに憐れみ深い方と呼ばれるのです。もし、あなたがわたしたちを憐れむことを望まれるのでしたら、正しい業を行わないわたしたちを憐れんでこそ、あなたは憐れみ深い方と呼ばれるでしょう。正しい人たちは、あなたのもとにたくさんの業を蓄えており、自分たちの業のゆえに報いを受けるからです。
 人とはいったい何ものですか。なぜ、あなたは怒られるのですか。朽ちるべきものゆえに、あなたはこれを厳しくあしらわれるのですか。実際には、生まれてきた人の中で不敬虔なふるまいをしなかった者は一人もいません。信仰を告白する人の中にさえ、罪を犯さなかった人はいません。主よ、よい業を蓄えていない人々をあなたが憐れまれてこそ、あなたの正しさと善良さとが、宣べ伝えられるでしょう。」

 エズラ8:37-9:13〈終末について〉
 天使は言った。「あなたの言ったことはある程度正しい。あなたの言葉どおりになるだろう。確かに、罪を犯した者たちについて、彼らを創造したことも、その死も裁きも滅びも気にしないことにしよう。むしろわたしは、義人について、彼らを創造したことと彼らの人生の旅と救いと、彼らが報いを受けることを喜ぼう。それゆえわたしが語ったとおりになる。農夫が地に多くの種を蒔き、多くの苗を植えるが、時が来ても、蒔かれたものがすべて無事に芽を出すわけでなく、植えられたものがすべて根づくわけでもない。それと同じく、この世に蒔かれた人々がすべて救われるわけではない。」
 わたしは言った。「もし許していただけるなら、申し上げたいことがあります。農夫の種は、もし適当なときに雨が降らず芽を出さなかったとき、また、雨が多すぎて腐ってしまったとき、死んでしまいます。しかし人はあなたの手によって造られ、あなたの似姿ゆえに特に名付けられ、すべてのものは人のために造られたのです。それにもかかわらずあなたは、人を農夫の種と同じに扱われたのです。わたしたちではなく、あなたの民を惜しみ、あなたの世継ぎの民を憐れんでください。あなたは御自分の造られたものを憐れまれるからです。」
 天使は答えた。「今在るものは、今いる人たちのためであり、将来のものは、将来の人たちのためにある。わたしにまさってわたしの被造物を愛することなど、あなたには到底できない。
 ところであなたはしばしば自分を不正な人々の仲間扱いするが、そんなことをしてはならない。もっともこの点でも、あなたはいと高き方の前で褒められるだろう。あなたは自分にふさわしくへりくだって、自分を正しい人々の中に数えなかったからである。このことで、あなたはもっと栄光を受けるだろう。
 この世に住む人々は、おごり高ぶって歩んでいたので、終わりの時には、多くの悲惨な目に遭うであろう。しかしあなたは自分のことをよく考え、自分と同じような人々の受ける栄光について思い巡らしなさい。あなたたちには楽園が開かれており、生命の木が植えられ、来るべき時が備えられて、豊かな富が用意されており、都が建てられ、安らぎが保障されており、恵みが全きものとなり、完全な知恵が与えられる。悪の根は、あなたたちに近づかないように封じられ、病は消え去り、死は姿を隠し、地獄は遠ざかり、腐敗は忘れ去られる。悲しみは過ぎ去って、最後に不滅の宝が示される。
 それゆえ、滅びる者が多いことについて尋ねるのは、もうやめなさい。彼らは自由を与えられていながら、いと高き方を侮り、律法を軽蔑し、その道を捨てたのである。その上、彼らは義人を踏みにじった。そして心の中で、神はいないと言った。こんなことをすれば死ぬと知っていながらである。前もって話しておいたことがあなたたちを待ち受けているように、彼らには、用意された渇きと懲らしめが待ち構えている。
 いと高き方が人の滅びを望まれたのではなく、造られた人々自らが、自分たちをお造りになった方の名を汚し、今の命を与えてくださった方の恩を忘れたのである。それゆえ、わたしの裁きは間近い。わたしはこのことをすべての人に示すのではなく、あなたとあなたと同じようなわずかの人々にだけ示したのである。」
 わたしは答えた。「主よ、確かに今、あなたは終わりの時になさろうとする多くのしるしを示してくださいました。でもそれがいつかということは示してくださいませんでした。」
 天使は答えて言った。「自分でよく推し量ってみなさい。わたしがあらかじめ語ったしるしが幾らかでも起こるのを見たならば、そのときこそ、いと高き方が自ら造られた世を訪れる時であると悟りなさい。この世に地震、人々の騒乱、諸国民のはかりごと、指導者たちの不安定、君主たちの動揺などが現れてきたら、そのとき、これこそいと高き方が前々から、初めのときから言われてきたことであると悟りなさい。
 この世の出来事はすべて、始まりは終わりによって明らかになり、終わりがすべてを明らかにするが、いと高き方の時もこれと同じであって、その始まりは前兆と力ある業において明らかにされ、終わりは行いとしるしにおいて明らかになる。そのときには、救われた者、自分の業または誠実な信仰によって怒りから逃れることのできた者は皆、わたしがあらかじめ語った危険を免れて生き残り、永遠の昔から聖別しておいたわたしの地と領域で救いを見るだろう。
 そのときわたしの道を悪用した者は驚き、わたしの道をさげすんで捨てた者は、懲らしめの中にとどまるだろう。生きていたとき、わたしの恩恵を受けていながら、わたしを認めなかった者、まだ自由を持っていながら、律法をさげすんだ者、悔い改めの余地がまだあったにもかかわらず、悟ろうとせずに軽んじた者はすべて、死後、懲らしめを受けながらそれを認めねばならないのである。
 あなたは、不敬虔な人々がどのように懲らしめを受けるかということに好奇心を起こしたりせず、むしろ義人がどのように救われるのか、来るべき世はだれのもので、だれのためか、それはいつ来るのかを尋ねなさい。」

 エズラ9:14-25〈結び〉
 わたしは言った。「わたしが前に申し上げたことですが、今また申し上げ、今後も言い続けます。滅びる者の方が、救われる者よりも多いのです。それは、流れる水が滴よりも多いのと同じです。」
 天使は答えた。「種は畑しだい、色は花しだい、出来ぐあいは仕事しだい、脱穀は農夫しだいである。この世には時があり、わたしが、この世のまだ造られぬ前、今生きている人たちのために準備をしていたときには、だれもわたしに逆らわなかった。そのときは、だれもいなかったからである。
 しかし、この世界に人間が造られたとき、そこには不足することのない食卓と究め難い法則とが備えられていたのに、彼らの生活は堕落した。わたしはわたしの世に思いを向けてみた。するとどうだろう、それは滅びていた。わたしの世界に思いを向けてみた。しかし、そこに生まれて来た者たちのはかりごとのために、それは危険にさらされていた。わたしはそれを見て、ある人たちをかろうじて救った。
 わたしはぶどうの房から一粒の実を、大きな森から一本の木を救ったのである。だから、理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよいのだ。わたしが大変な苦労をしてこれを完成させたのであるから。あなたは更に七日間待ち、その間は断食をしないで、 家が建てられたことのない花咲く野原に行き、野の花だけを食べなさい。肉を食べず、ぶどう酒も飲まず、ただ花だけを食べなさい。そして絶えずいと高き方に祈りなさい。そうすれば、わたしは来て、あなたと語ろう。」

 「理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよいのだ。わたしが大変な苦労をしてこれを完成させたのであるから」(エズ・ラ9:22)──これは思えば思う程、空恐ろしくなる言葉である。
 これに限らず、本章──殊に今日読む後半部分は終末的色合いが濃くて、読んでいるうちにだんだん圧し潰されてゆきそうな息苦しさが充満している。実は、といえば言い訳めくが、本書の読書ノートの執筆を当座は断念し、現在の方法でいまを乗り切ろうと決めたのは、〈第三の幻〉後半部分の読書に差し掛かってからだった。というのも、この救いようのない言葉の絨毯爆撃に気持ちが折れたせいだ。これまでに経験したことがない事態だから、後ろめたさと挫折感が綯い交ぜになったもやもやを抱えて過ごすことになる。そう、わたくしは本章が内包している、どれだけ密閉してみても外へ滲み出てくる瘴気にあてられて(蝕まれて)、挫折したのだ。舞台裏とも言い訳ともつかぬ事実を、ついでに告白しておく。
 しかしながら、エズ・ラ7:78-101〈死後の霊のたどる道〉で語られる神に背き律法を破った者と、神に敬虔であり律法を守った者の7つの点での対比についてだが、これ程双方が明暗を分けて説明された所が過去にあったことをわたくしは思い出せない。双方の間に、詩88:10や15をはさめば、まるで舞台劇のような様相を呈してくる──とは、わたくしの好みへあまりに引き寄せた感慨であろうか。



 ふと筆を止めたとき、本当に「エズラ記(ラテン語)」読書ノートを改稿する機会が巡ってくるのだろうか、と不安になる。予定通り旧約聖書続編を消化できていたら、いま頃は「マカバイ記・一」の改稿に取り掛かっていたはずなのに、いったいどうしてまだ続編の読書が終わっておらず、しかも「エズラ記(ラテン語)」のノートで斯様な醜態をさらしているのか? こんな忸怩たる思いを抱えてることになろうとは、今年1月の時点ではまったく考えられなかった。
 いまこんな状況に陥っているのは、なにがなんでも今年中に旧約聖書続編を読了させる、という望みに縛り付けられたからだろう。
 ──が、今更そんなことを嘆いても埒があかぬ。いまはこのまま本文の引用と感想をメモ程度に残しておき、いずれ行う改稿に備えておくより他ない。それがいつの日になるのか、正直わからない。いまの目算では、新約聖書を読了したあとかな。福音書や書簡などの読書・原稿執筆と「エズラ記(ラテン語)」のノートを並行して行うなど、自分の能力に余る。24時間354日すべてが自分の自由裁量で使えるようになったとしても、ぜったい無理。
 というわけで、ついさっきまで塞ぎこんでいたけれど、いまや迷いや恥辱とわたくしは完全に無縁である。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースに「ジェイコブズ・ラダー」という歌があるのだけれど、その歌詞通りにわたくしは、一段一段、一歩一歩、より高いところを目指して、えっちらおっちらジェイコブ(ヤコブ)の梯子を登ってゆくのである。◆

第1820日目 〈エズラ記(ラテン語)第6章2/2&第7章1/2〈第三の幻〉1/2:〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉他with今年いちばんのビッグニュースはなに?〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第6章2/2と第7章1/2〈第三の幻〉1/2です。

 エズ・ラ6:35-59〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉
 この後、わたしは泣きながら、以前と同じように七日間の断食を行った。言われたとおり三週間続けるつもりだった。ところが八日目の夜、わたしの心が再び落ち着かなくなり、わたしはいと高き方の前で話し始めた。わたしの霊は激しく燃え、魂は不安であった。
 わたしは言った。「ああ、主よ、あなたは創造の初め、第一日目に、『天と地は成れ』とお命じになり、御言葉はその業を行いました。そのとき霊が漂い、暗闇と静寂が辺りを覆った。人の声はまだ造られていませんでした。そこであなたは、御業が明らかに現れるようにと、倉の中から光が出るようにお命じになりました。
 二日目に、あなたは再び大空の霊を造られ、その霊に、水を分けて境をつけ、その一部を上に退かせ、一部を下にとどまらせるようにと命じられました。
 三日目にあなたは、水に、地の第七の部分へ集まるように命じられ、他の六つの部分は乾かして、種を蒔き耕す用地として、御自分の前に確保されました。御言葉が発せられると、直ちに御業は行われました。おびただしい数の、しかも食欲をそそる様々な味の果実や、たぐいなく美しい色の花が直ちに生え出て、究め難い香りが漂いだしました。これが、三日目に起こったことでした。
 四日目に、あなたは命令を下して、太陽が輝き、月が光るようにされ、星の位置を定められました。そして、やがて造られる人に仕えるよう、それらにお命じになりました。
 五日目にあなたは、水が集まっている第七の部分に、生き物や鳥や魚を生み出すように命じられました。すると、そのとおりになりました。声もなく、生命もない水が、お命じになった生き物を造ったのです。それは、諸国の民にあなたの不思議な業をたたえさせるためでした。それからあなたは、二つの生き物をえり分けられ、その一つをベヘモット、もう一つをレビヤタンと名付けられました。そしてあなたは、両者を互いに引き離されました。水が集まっている第七の部分に両者を置くことができなかったからです。そしてベヘモットには三日目に乾いた土地の一部を与え、そこに住むようにされました。そこは一千の山のある土地でした。レビヤタンには水のある第七の部分をお与えになりました。あなたはこの二つを保存し、あなたのお望みのとき、お望みの人々に食べさせるようにされました。
 六日目にあなたは陸にお命じになり、御前に家畜と獣と這うものを造らせ、その上にアダムを造らせました。そしてあなたは彼を、お造りになったすべての被造物の頭とされました。あなたが民としてお選びになったわたしたちは皆、このアダムから生まれ出たのです。
 主よ、わたしがあなたの前でこれらのことをすべて語ったのは、最初の創造として世をお造りになったのは、わたしたちのためだ、とあなたが言われたからです。また、あなたは、アダムから生まれたほかの諸民族は無に等しい、と言われ、彼らは唾のようなもので、その数がいかに多くても器からこぼれる一滴にすぎないと言われたのです。
 しかし、主よ、この何者でもないとされた諸民族が、今、わたしたちを支配し、呑み尽くそうとしております。わたしたちは、あなたが初子、独り子、いとしい者、最愛な者と呼ばれたあなたの民であるのに、諸民族の手に渡されています。もし、世がわたしたちのために造られたのなら、どうしてわたしたちが自分たちの世を相続できないのでしょうか。このようなことがいつまで続くのでしょうか。」

 エズ・ラ7:1-44〈天使の答え──裁きと相応の報い〉
 わたしがこれらのことを言い終えると、前の夜に遣わされた天使が再びわたしのところに遣わされて来た。
 天使は言った。「エズラ、立ちなさい。わたしがあなたに告げに来た言葉を聞きなさい。」
 わたしは言った。「わが主よ、お話しください。」
 天使は言った。「海は広い場所に置かれていて、深く限りない。しかし、その入り口は狭い場所にあって、川のようである。もしだれかが、海を見たり航海したりするために海に入ろうとしても、その狭い場所を通らなければ、どうして広い海原に行けるだろうか。たとえをもう一つ。ある町が平らな地に建てられており、そこにはあらゆる物が豊富にある。しかし、町の入り口は狭く、険しいところにあり、右に火が、左に深い淵がある。その間、すなわち水と火の間には、たった一本の道しかなく、しかもそれは一人の人がやっと通れるくらいの小道である。もしこの町が、ある人に遺産として与えられたとしても、その人が、目前の危険を乗り越えなければ、どうしてその遺産を相続できるだろうか。」
 わたしは言った。「主よ、そのとおりです。」
 天使は言った。「イスラエルの相続分もこのようなものである。わたしは彼らのために世を造った。アダムがわたしの戒めを破ったとき、被造物が裁かれた。そして、この世の出入り口は、狭く、悲しみと労苦に満ちたものとなり、またその数も少なく、状態も悪く、危険をはらみ、大きな困難を強いるものとなった。しかし大いなる世への入り口は、広く安全で、不死の実をもたらしてくれる。だから、生きている者は、この狭くむなしい所に入らなければ、備えられたものを受けることができないのである。それなのになぜあなたは、自分が朽ちるべきものだといって、心を乱すのか。なぜ、自分が死ぬべきものだといって、動揺するのか。なぜ、今あるものにだけ心を留めて将来のものに心を留めないのか。」
 わたしは答えた。「統べ治める方、主よ、あなたは、これらのものを受け継ぐのは正しい人々であり、不敬虔な人々は滅びると、律法に定められました。正しい人々は広い所を希望しつつ、狭い所に耐えています。不敬虔に生きた者は、狭さに苦しみながら、広い所をも見ることはできませんでした。」
 天使は言った。「あなたは主にまさる裁き手でもなく、いと高き方より賢くもない。人々に与えられた神の律法が軽んじられるくらいなら、今いる多くの人々が滅びる方がましである。主は、人々がこの世に生まれて来る度に、どうしたら生き永らえるか、何を守れば罰せられないで済むかを、諭された。しかし人々は言うことを聞かず、主に逆らい、自分勝手にむなしいことを考え出し、邪悪な欺きを企てた。そしていと高き方は存在しないと豪語し、その道を認めなかった。また、律法を軽んじ、契約を拒み、その戒めに忠実でなく、いと高き方の御業を行わなかった。
 このゆえに、エズラよ、むなしい者にはむなしいものが与えられ、豊かな人々には豊かなものが与えられるのである。見よ、その時がやって来る。その時には、わたしが予告したしるしが現れ、町が花嫁となって姿を見せ、今はまだ隠されている地が見えてくる。わたしが予告した悪から救われた人は皆、わたしのこの不思議な業を見る。すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ。そして世は、初めのときのように、七日間、太古の静寂に戻り、一人も生き残ってはいない。
 七日間が過ぎたとき、まだ目覚めていない世は揺り起こされて、朽ちるべき世界は滅びる。大地は地中に眠る人々を地上に返し、塵はその中に黙して住んでいる人々を戻し、陰府の部屋はそこに預けられていた魂を外に出す。
 そしていと高き方が、裁きの座に姿を現す。もはや憐れみはなく、寛大さは跡形もない。そこには裁きあるのみである。真理は立ち、信仰は力を得る。そして、裁きは執行され、報いが示される。正義は目覚め、不正は眠っていられなくなる。
 懲らしめの穴が現れ、その反対側には安息の場所がある。また、地獄のかまどが示され、その反対側には喜びの楽園が見える。そのとき、いと高き方は、揺り起こされた諸民族に告げる。『よく見て、思い知れ、あなたたちが拒んだのはだれなのか、だれに仕えなかったのか、だれの心遣いを軽んじたのかを。あちらとこちらとを見比べるがよい。こちらには喜びと安らぎがあり、あちらには火と懲らしめがある』と。これが裁きの日に彼らに告げられる主の言葉である。
 その日には、太陽も月も星もなく、雲も雷も稲妻もなく、風も水も大気もなく、闇も夕暮れも朝もない。また、夏も春も暑さもなく、冬も霜も寒さもなく、雹も雨も露もない。真昼も夜も夜明けもなく、きらめきも、明るさも、光もない。ただあるのはいと高き方の栄光の輝きのみであり、この輝きによって、人は皆、自分の目の前にあるものを見る。その期間は七年である。
 これがわたしの裁きであり、裁きの定めである。わたしはあなたにだけ、これを示したのである。」

 エズ・ラ7:45-61〈救われる人の多少について〉
 わたしは答えた。「主よ、前にも申しましたが、今また申します。今、あなたの定めを守って生きている人々は幸いです。しかし、わたしが祈った人たちはどうでしょう。今生きている人々の中で、罪を犯さなかった者がいるでしょうか。生まれて来た人々の中で、あなたの契約を破らなかった者がいるでしょうか。わたしは、今分かりました。来るべき世に喜びを受けるのはごくわずかな人々であり、多くの人々は懲らしめを受けるのです。実にわたしたちの中には悪い心が増大し、あなたの定めからわたしたちを引き離し、腐敗へと導き、また、わたしたちに死への旅路、滅びへの道を示して、わたしたちを生命から遠ざけたからです。しかもそれは少数の人ではなく、造られた人ほとんどすべてなのです。」
 天使は答えた。「よく聞きなさい。あなたに教えよう。次の事柄について誤りを正そう。まさにあなたが言った理由のゆえに、いと高き方は一つではなく、二つの世を造られたのである。正しい人は多くはなく、むしろ少数であり、その一方で不敬虔な人が増えているとあなたは言ったが、この問題の答えを聞きなさい。もしあなたが宝石をごくわずかしか持っていなかったとしたら、それを増やすためにあなたは、鉛や土をこれに加えるであろうか。」
 わたしは言った。「主よ、そんなことはできません。」
 そこで天使は言った。「更に進んで地に尋ねてみよ。答えてくれるだろう。丁重に尋ねてみれば、語ってくれるだろう。地に言いなさい。『金と銀と銅と鉄と鉛と粘土を造り出している。しかし、銀は金よりも多く、銅は銀よりも多く、鉄は銅よりも多く、鉛は鉄よりも多く、粘土は鉛よりも多い。』あなたは、たくさんあるものとわずかしかないものとで、どちらが高価で望ましいと思うか。」
 わたしは言った。「統べ治める方、主よ、ふんだんにある方は価値がなく、少ないものほど価値があります。」
 天使は答えた。「このことから引き出される結論をよく考えなさい。手に入れにくいものを持っている人は、いくらでも手に入るものを持っている人よりも大きな喜びを味わうものである。わたしも、約束した新しい創造を行うときに、わずかしかいなくとも救われる人たちのことを喜ぶだろう。彼らは今やわたしの栄光を優先させ、今やわたしの名をたたえるようになったからである。わたしは、滅びに至る多くの人々のために嘆いたりはしない。彼らは、霧のようであり、炎や煙に等しい者である。焼かれて、燃え上がり、消えてしまったのだ。」

 エズ・ラ7:62-77〈裁きの必然性〉
 わたしは言った。「ああ、大地よ、お前は何を生み出したのか。もし知性が他の被造物とおなじように塵から造られたのなら、塵そのものも生じない方がよかったであろう。そうすれば、知性が塵から生まれてくることもなかったからだ。しかし、今や知性は、わたしたちと共に成長し、このためにわたしたちは苦しめられるのだ。自分たちが滅びることを知りつつ滅びるからである。人類は嘆き、野の獣は喜ぶがよい。生まれてきた人間は皆嘆き、獣と家畜は楽しむがよい。獣の方がわたしたちよりはるかにましなのだから。獣は裁きを待つこともなく、死んだ後に約束されている苦しみや救いを知ることもないからである。懲らしめにさいなまれることになるなら、救いの約束は何の役に立つであろうか。生まれ出た人は皆、不正に染まり、罪に満ち、過ちの重荷を負っているからである。もし、わたしたちが、死んで後に裁きを受けなくてもよかったのなら、恐らくもっと幸せだったかもしれない。」
 天使は答えた。「いと高き方は、この世とアダムと、アダムから生まれたすべての人々を造られるに際して、まず、裁きと裁きにかかわることを前もって備えられたのである。さて、あなたは知性が自分たちと共に成長すると言ったが、このことから問題の解決が得られる。地に住む人たちは、懲らしめを受ける。彼らは知性を持ちながら不正な行いをし、戒めを受けながらそれを守らず、律法を与えられていながらそれをないがしろにしたからである。彼らはいったい、裁きの際に何と申し開きするだろうか。終末の時にどう答えようというのだろうか。いと高き方は、どんなに長期間、世に住む人々のことを寛大に耐えられたことだろう。それも彼らのためではなく、あらかじめ定められた時のためである。」
 わたしは答えた。「主よ、もし、御好意にあずかっているのでしたら、僕に教えてください。死んだ後でも、あるいは今でも、もし、わたしたちがおのおの自分の魂をお返ししたなら、あなたが新たに天地を創造されるときまで、わたしたちは安らぎの中でしっかりと守られることになるのでしょうか、あるいは、すぐに懲らしめを受けるのでしょうか。」
 天使は答えた。「そのことも教えよう。しかし、あなたは自分が律法をあざけった人々の一人であると思ったり、苦しみを受けるべき人々の一人であると考えたりしてはならない。あなたの行いの宝は、いと高き者のもとに蓄えられているからである。もっともその宝は、終わりの時にならなければあなたに示されることはない。」

 報告が遅くなったが、「エズラ記(ラテン語)」の本文については一般財団法人日本聖書協会HPより全文を引用させてもらっている。
 本来ならそのままコピー&ペーストして若干の編集作業を施せば済む話であるが、本書第7章の原稿を作成中、当該HPを利用するにあたっての不備ともいうべき問題に直面したので、それの報告も併せて行わせていただく。
 その残念な不備は、「エズラ記(ラテン語)」第7章の本文が別タブで表示されたときに発生する。通常ならば各章第1節から最終節まで順番にお行儀良く並んでいるのだが、本書本章に於いてはちょっと節が多い(全139節! これは「詩編」第119篇の全176節より少ないが、これまで読んできたなかでは第2位の長さである)ために監視が行き届かなかったのか、表記事故が発生するのであった。
 即ち、第7章第10節のあとに第100-109節が並び、そのあとに第11節と第110-119節、と並ぶのだ。この症例は、第12節以後第13節まで見られる。これがどのような事態を引き起こしているかというと、第99節のあとは第100節以後は表示されない、<次の20件>ボタンはなく、<前の20件>ボタンしかない。ちなみにこれを押下すると第61-99節が2ページにわたって表示され続ける無限ループの始まりだ。あ、これって本章が実は<ネヴァー・エンディング・ストーリー>ってこと? 成る程なぁ、それなら納得かな。なお、当該箇所についてはスクリーンショットも撮影、dropboxに保存してみた。
 冗談や冷やかしはさておき、これを重大な欠陥といわずしてなんといおう。いままで誰も気附かず、誰一人指摘する者がいなかったのだあろうか。或いは、システム上どうしても解決できない問題であるのだろうか。もし後者であればその旨記載するのが、当該HPの果たすべきせめてもの義務ではないか。その程度の配慮などなくても構わぬ、という方針ならば、むろん話は別だ。
 気付かぬまま引用してしまい、それが公になったあと第三者より指摘されて赤っ恥をかく人が今後出ぬことを希望するがゆえに、敢えて本ブログはこの瑕疵を指摘させていただく。



 今年いちばんのビッグニュースってなにかなぁ、と倩考えてみる季節になりました。でも、なにもないのですよね。この「なにも」って部分、いちばん重要なので、特大ポイントで表記したい気分だ。読者諸兄には是非、脳内でここを強調した読み方をしてくださるようお願いする。
 冷静に考えてみると、なにもない、というのはむろん誤りであって、いちばん記憶に残るのは今年前半のパソコンの買い換えとそれに伴うMac愛の発症、今年後半に於いては紅葉シーズンをやや過ぎて落ち着いた空気漂う東北地方への旅行であったろうか。色めいたことがなにもないことは既にお馴染みな話だが、昨年前半に勃発した出来事のような事態に陥れられなかっただけ清々しい気分でいることは事実である。
 そこで来年の目標、というか希望だが……実はあまりないんですよね。現状維持が目標といえば、あまりに志が低すぎるだろうか。しかし、いまの職場で恙なく、大過なく1年を過ごすことができ、同僚や上司とこれまで通り過ごすことができれば、それで構わぬ。
 強いて他に望みがあるとすれば、新約聖書の読書と原稿の執筆が順調に、破綻することなく進められればそれでじゅうぶんだ、ということ。無理ないスケジュールと余裕を持たせて、2015年中の読書完結がたとえできずとも、再来年のイースターまでには。
 大それたことはなにも望まぬ。
 だって過去に起こった不幸をリセットすることなんてできないのだから。亡くなった人は誰一人として帰ってくることはない。◆

第1819日目 〈エズラ記(ラテン語)第5章2/2&第6章1/2〈第二の幻〉:〈エズラの問い──選びと苦難について〉他with昨日のブログが定時更新できなかった理由。〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第5章2/2と第6章1/2〈第二の幻〉です。

 エズ・ラ5:21-30〈エズラの問い──選びと苦難について〉
 七日の後、わたしの心の思いは、わたしを再びひどく悩ました。そしてわたしの魂は、理解力を取り戻して、再びいと高き方の前で話し始めた。
 「統べ治める方、主よ、あなたは地のすべての森の中から、そのすべての木々の中から、一つのぶどうの木を選ばれました。また、世界のすべての地から一つのくぼ地を選ばれ、世界のすべての花の中から、御自分のため一本のゆりを選ばれました。また海のすべての深みから、御自分のために一つの小川を満たし、建てられたあらゆる町の中から、御自分のためシオンを聖別なさいました。
 また造られたすべての鳥の中から、一羽の鳩を御自分のものと呼び、造られたあらゆる家畜の中から、御自分のため、一匹の羊を取って置かれました。また、大きくなったあらゆる民の中から、一つの民を御自分のものとされ、お愛しになったこの民に万人に認められた律法を与えられました。
 しかし今、主よ、どうしてあなたは、この一つの民を多くの民に渡し、この一つの根を他の根よりも遠ざけ、あなたの唯一の民を多くの民の間に散らされたのですか。あなたとの約束に反対した者どもが、あなたの契約を信頼した人々を踏みにじりました。もし、あなたの民にそれほど憎悪を抱かれるのでしたら、御自分の手で懲らしめるべきでしょう。」

 エズ・ラ5:31-40〈天使の答え〉
 わたしがこう言い終えたとき、昨晩わたしのもとに来たあの天使が遣わされて、言った。「聞きなさい。わたしは教えよう。耳を傾けなさい。もっと聞かせてあげよう。」
 そこでわたしは言った。「わが主よ、お話しください。」
 天使は言った。「あなたはイスラエルのことになると、気が変になるのか。あなたは、イスラエルを造られた方以上にイスラエルを愛するというのか。」
 わたしは言った。「いいえ、主よ、悲しみのあまり申し上げたのです。いと高き方の道をとらえ、その裁きの一部でも究めようとすると、わたしの心はいつも痛むのです。」
 すると彼は、「それはあなたにはできない」と言った。
 わたしは尋ねた。「主よ、なぜですか。それではどうして、わたしは生まれて来たのです。なぜ、わたしの母の胎が、わたしの墓とならなかったのですか。そうすれば、わたしはヤコブの労苦もイスラエル民族が疲れ果てるのも見ないで済んだでしょうに。」
 そこで天使は言った。「まだこの世に来ていない人たちを数え、飛び散った滴を集め、枯れた花を元の緑にしてみなさい。陰府の閉ざされた扉を開け、中に封じられていた風を放ちなさい。あるいは、声の形を示してみなさい。そうしたら、わたしも、あなたが見たいと願う苦難の理由を示そう。」
 わたしは言った。「統べ治める方、主よ、だれがこのようなことを知りえましょうか。人と住みかを異にする方にしかできません。わたしは愚かな者です。あなたがお尋ねになるこれらのことに、どうして答えることができましょう。」
 すると天使は言った。「あなたは、わたしの言ったただ一つのこともなすことはできない。同じように、わたしの裁きや、わたしが自分の民に約束した愛の目的をも究めることはできないのだ。」

 エズ・ラ5:41-49〈被造物の継起性と終末の裁き〉
 わたしは言った。「主よ、終わりの時に居合わせる人々にとって、あなたは主人となられるでしょう。しかし、わたしの前の人々やわたしたち自身、あるいは、わたしたちのすぐ後の人々は、どうしたらよいのでしょう。」
 天使は言った。「わたしの裁きを輪のようにしよう。最後の者たちが遅れるわけでもなく、先頭の者たちが早くなるわけでもない。」
そこでわたしは答えた。「あなたの裁きをもっと早く明らかにするために、あなたは過去の人々、今いる人々、将来生まれてくる人々を一度にお造りになることはできなかったのですか。」
 天使は答えた。「被造物は創造主の先回りをすることはできない。また、この世はそこで造られる人々すべてを一度に支えることもできはしない。」
 わたしは言った。「それではなぜ、お造りになった被造物を終わりの時、一度に生かすであろうと、僕におっしゃったのですか。もし生きる者が一度に生きて、被造世界がそれを支えるようになるのでしたら、今からでも、現在いる人々を一度に受け入れることができるはずです。」
 しかし天使は言った。「女の胎に尋ねてみよ。『十人を産むのに、なぜ順番に産むのか』と。彼女に一度に十人を産むよう求めてみなさい。」
 わたしは言った。「それはできないでしょう。それぞれの時に従わねばなりません。」
 天使は言った。「わたしも、順に種蒔かれたものに、大地の胎を与えたのである。幼子は子を産めず、既に年老いた女も子を産めない。わたしは自分で造った世界をこのように定めたのである。」

 エズ・ラ5:50-55 1/2〈老年期を迎える被造世界〉
 わたしは尋ねた。「既にわたしに道を示してくださったので、申し上げることがあります。あなたの言われたわたしたちの母とは、まだ若いのですか、あるいは老年にさしかかっているのですか。」
 天使は答えた。「子を産む女に尋ねれば、答えてくれるだろう。彼女に言いなさい。『今度産んだ子供たちは、どうして前に産んだ子供たちと違って背が低いのか』と。彼女は言うだろう。『若くて元気なときに生まれた子供たちと、年とって胎が衰えてから生まれた子供たちとは、違うものなのです』と。だから、あなたも考えてみなさい。あなたたちは、前に生まれた人たちよりも背が低いし、後に生まれる人たちは、あなたたちよりも背が低いだろう。被造物は老化して、若いときの力を失っていくからである。」

 エズ・ラ5:55 2/2-6:10〈被造世界に直接かかわる神〉
 わたしは言った。「主よ、お願いします。もし御好意にあずかっているのでしたら、この僕にお示しください。あなたはだれを用いて被造物の前に現れてくださるのですか。」
 天使は言った。「地の創造の初め、世界の門が建てられる前、風が集って吹く以前、雷鳴がとどろき稲妻がひらめく前、楽園の基がまだ固められず美しい花も見られぬ前、星の運行も定まらず数知れぬ天使の軍勢が集結される前、空の高い所はまだ引き上げられず大空の区分も名付けられぬ前、まだシオンは神の足台とされず今の年月が測られる以前、そして、今罪を犯している者たちのはかりごとがまだ退けられず、信仰の宝を積む者たちが印を受ける以前に、わたしはこれらのことを考案し、これらすべては成った。他の者によってではなく、わたしによってなされたのである。そして、終わりもまた、他の者によってではなく、わたしによって来るのである。」
 そこでわたしは答えた。「時の区分はどのようになるのですか。いつ前の時が終わり、いつ次の時が始まるのですか。」
 天使は言った。「アブラハムに始まりアブラハムで終わる。なぜなら、ヤコブもエサウも彼の子孫であり、ヤコブの手は、初めからエサウのかかとをつかんでいたのである。この時代の終わりはエサウであり、次の時代の始まりはヤコブである。実に人の終わりはかかとであり、人の初めは手である。エズラよ、手とかかとの間に、隔たりを求めるな。」

 エズ・ラ6:11-28〈終末のしるし〉
 わたしは答えた。「統べ治められる方、主よ、もし御好意にあずかっているのでしたら、あなたが先日の夜、この僕に一部示してくださったあのしるしの結末をお示しください。」
 天使は答えた。「自分の足でしっかりと立ち、鳴り渡る声を聞きなさい。あなたの立っている場所が大きく揺れ動いて言葉が下るが、恐れてはならない。それは終末についての言葉である。大地の基は、それが自分についての言葉であることを悟り、震えおののくであろう。大地の基は、終末に自分が変わらねばならぬことを知っているからである。」
 わたしはこれを聞いてから、足を踏みしめて立ち、耳を傾けた。すると、語りかける声があった。その響きは、大水の響きのようであった。その声は言った。
 「見よ、その日がやって来る。わたしが地に住む人々を訪れようと近づく時である。それは不義によって害を及ぼした者どもの追及を始める時であり、シオンの屈辱が終わる時である。そして、過ぎ去っていく世が封印されるとき、わたしは次のしるしを行おう。巻物が大空いっぱいに開かれ、すべての者が同時にこれを見るであろう。そして、一歳の幼児が自分で声を出して話し、妊婦は三、四か月の未熟児を産むが、その子たちは生きて跳ね回る。種の蒔かれた畑は、たちまちにして荒れ地となり、満ちた倉は時を経ずして空になる。ラッパが鳴り響き、人は皆これを聞いて、たちまち恐怖に襲われるであろう。そのとき、友は友を敵に回していがみ合い、大地とそこに住む人々とは共に驚き、泉の水脈は詰まり、三時間の間流れを止める。わたしがあなたに予告したこれらすべてを免れた人々は皆救われ、わたしの救いと、世の終わりとを見るだろう。そして、彼らは、生涯死を味わうことなく天に受け入れられた人々を見るだろう。そして地に住む人々の心は変えられて、新しい感覚を身に付ける。悪はぬぐい去られ、欺きは消え去るからである。そして信仰が花開き、腐敗は克服され、長い間実らなかった真理が明らかになるだろう。」

 エズ・ラ6:29-34〈結び〉
 この声がわたしに語りかけている間に、見よ、わたしが立っている場所が徐々に動きだした。天使は言った。
 「わたしが今夜あなたに示そうとして来たことはこのことである。だからもし、あなたが再び祈り、再び七日間断食を行うなら、今度は日中に更に大いなることを告げよう。あなたの声がいと高き方に確かに達したからである。力ある神は、あなたの正しさを見て、あなたが若いときから守ってきた貞節を顧みられたからである。それゆえ神はわたしを遣わしてこれらすべてをあなたに示し、こう言われるのである。『信頼せよ。恐れるな。今の時代に焦ってむなしいことを考えるな。そうすれば終末の時が来ても慌てることはない』と。」

 自分の創造物をさばく神その他について、エズラと天使ウリエルが問答する。●



 12月17日は職場の忘年会でした。その関係で昨日のブログが定時更新できず、大変申し訳なかった。
 しかし昨日の忘年会は──
 これまでに経験した忘年会のなかで最高に楽しかった! このメンバーに囲まれて仕事ができることに感謝!!◆

第1818日目 〈エズラ記(ラテン語)第3-5章1/2〈第一の幻〉:〈エズラの問い──この世の罪について〉他with「エズラ記(ラテン語)」舞台裏その1〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第3-5章1/2〈第一の幻〉です。

 エズ・ラ3:1-2〈第一の幻〉
 都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。わたしは寝床に伏していて胸騒ぎを覚え、さまざまな思いが心をよぎった。それは、シオンの荒廃とバビロンに住む人たちの豊かさを見たからである。

 エズ・ラ3:3-36〈エズラの問い──この世の罪について〉
 わたしの霊は激しく揺り動かされ、わたしはいと高き方に恐る恐る話しかけた。
 「すべてを治められる主よ、世の初めに地を形づくられたとき、──あなたのみ、これがおできになりました──あなたは塵にお命じになりました。 塵はまだ命のない体、アダムを生じました。しかしそれは、あなたの御手によって造られたものであり、あなたはそれに命の息を吹き込まれ、体はあなたの御前に命あるものとなりました。そして、陸が現れる前にあなたが力ある手でお造りになった楽園に、彼を置かれました。あなたは彼に一つの掟を与えられましたが、彼はそれに背きました。そこであなたは直ちに、彼とその子孫とに死をお定めになりました。彼からは数知れない種族や部族、民族や家族が生まれました。それぞれの種族は思いのままに歩み、御前に悪を行い、あなたの戒めを軽んじましたが、あなたはそれをとどめようとはされませんでした。しかし時が来ると、あなたは世の人々の上に洪水を送り、彼らを滅ぼされました。彼らは皆、同一の運命に遭ったのです。アダムに死が臨んだように、彼らには洪水が臨みました。
 あなたは民の中からノアとその家族だけを残されました。また、彼から生まれるすべての義人をも。地の面に住む人々が増え始め、子供たち、民族、多くの種族が増えたとき、人々は以前にも増して神に背く業を重ね始めました。彼らが御前で悪を行うと、あなたは一人の人、アブラハムを御自分のために選ばれました。あなたは彼を愛し、夜ひそかに、彼一人に時の終わりをお示しになりました。あなたは彼と永遠の契約を結び、彼の子孫を決して見捨てることはないと約束されました。そして、彼にイサクを与え、イサクにヤコブとエサウを与えられました。あなたはヤコブを選び、エサウを遠ざけられ、こうして、ヤコブは大きな民となりました。
 あなたはヤコブの子孫をエジプトから連れ出し、シナイ山に導かれました。あなたは天を傾け、地を固め、世界を揺り動かし、深淵をおののかせ、世を震え上がらせました。あなたの栄光は火と地震と風と氷の四つの門を通り過ぎ、ヤコブの子孫に律法を、イスラエルの子らに掟をお与えになりました。しかし、あなたは彼らからよこしまな心を取り除くことはせず、彼らが律法によって実を結ぶように計らわれました。よこしまな心の重荷を担う最初の人アダムは掟に背いてその心に打ち負かされましたが、彼から生まれた人々も皆同様でした。こうして弱さは永久に人々のうちにとどまり、律法もまた、悪の根を持つ人々の心とともにとどまるようになりました。こうして、善いことは消えうせ、よこしまなことが残るようになったのです。
 そして時がたち、年が過ぎて、あなたはダビデという名の僕を起こされました。あなたは彼に、御自分の御名のために都を建て、受けた賜物のうちから供え物を献げるようにと、お命じになりました。これは長年にわたって行われましたが、都に住む人々は罪を犯し、あらゆる点で、アダムとそのすべての子孫と同じことを行いました。彼らもよこしまな心を持っていたのです。そこであなたは都を敵の手に渡されました。わたしはそのとき、心の中で言いました。『バビロンに住む人たちは、わたしたちよりも善いことをしているのだろうか、それゆえ、彼らがシオンを支配するのだろうか』と。
 しかし、わたしはここに来たとき、数知れない神に背く業を見、この三十年間わたしの魂は、多くの罪人を見てきました。わたしの心はめいりました。罪を犯す彼らをどれほどあなたが耐え忍び、神に背く者たちを放任し、御民を滅ぼして御自分の敵を守っておられるかを見たからです。どのようにしてこの道を捨て去るべきかを、あなたはだれにも何も示されませんでした。いったいバビロンはシオンよりも善いことをしているのでしょうか。また、イスラエル以外に、あなたを知っている民があるのでしょうか。あるいは、どのような部族が、このヤコブの部族のように、契約に信頼したでしょうか。しかもヤコブの部族は何の報いも受けず、彼らの苦労も実を結びませんでした。わたしは諸国を経巡り、あなたの戒めを心に留めていないのに繁栄している人々を見ました。今、わたしたちの悪と世に住む人々の悪とを、秤にかけてください。そうすれば、秤がどちらに傾くかが明らかになるでしょう。地に住む人々が、御前に罪を犯さなかったことがあったでしょうか。また、あなたの戒めをこのように守った民がほかにあったでしょうか。あなたの戒めを守った人は個人としてはいるでしょう。しかし、民全体としては見つからないでしょう。」

 エズ・ラ4:1-21〈天使の答え〉
 すると、わたしのもとに遣わされたウリエルという天使が答えた。「あなたの心は、この世のことに、すっかりうろたえている。それでもあなたは、いと高き方の道を理解したいと思っているのか。」
 わたしは、「はい、わが主よ」と答えた。
 すると天使はわたしに言った。「あなたに三つの道を示し、三つのたとえを提示するためにわたしは遣わされた。あなたがもし、この中の一つでも解き明かしたなら、わたしも、あなたが見たいというその道を示し、よこしまな心とは何のことかを教えよう。」
 そこでわたしは言った。「わが主よ、おっしゃってください。」
 すると天使はわたしに言った。「行って、炎の重さを量り、吹く風の大きさを計り、あるいは過ぎ去った日を取り戻して来なさい。」
 わたしは言った。「人の世に生を受けた者のうち、いったいだれにそのようなことができるでしょう。」
 そこで天使は言った。「もしわたしが、海の底にはどれだけの住まいがあるか、地下の海の源には幾つの流れがあるか、大空の上には幾つの流れがあるか、あるいは楽園の出口はどれか、といったことを尋ねたならば、恐らくあなたは言ったであろう。『わたしは今まで、地下の海に下ったことも、陰府に降りたことも、天に昇ったことも一度もない』と。だから今、わたしは、火と風とあなたが過ごした日々についてだけ、それなしには片ときもいられないものに限って尋ねたのである。しかしあなたはこれについて何も答えられなかった。」そして天使は言った。「あなたは、生涯自分にかかわりをもつ事柄さえ知ることができないのだ。それなのにどうしてあなたの力量で、いと高き方の道を理解できよう。腐敗した世にさえ恐れおののく者が、どうして不滅なものを理解することができようか。」
 これを聞いたとき、わたしは地上に伏して、言った。「この世に生まれて神を恐れぬ人々の中に住み、苦しみを味わい、しかもこの苦しみが何なのか分からずにいるよりは、むしろ生まれなかった方がよかったのです。」
 すると天使は言った。「わたしは、野の森の中に分け入ったことがあった。そのとき、木々ははかりごとをめぐらして、言った。『さあ、行って海と戦いを交え、海を我々の前から退かせて、別の森を作ろうではないか。』ところが、海の波も同様にはかりごとをめぐらして、言った。『さあ、上って行って、野の森に戦いを挑み、そこを我々の領分にしよう』と。しかし、森のはかりごとは失敗した。火事になって森は焼き尽くされたからである。また、海の波のはかりごとも同様に失敗した。砂が隆起し、海を阻んだからである。ところで、もしあなたが両者を裁くとすれば、どちらを正しいとし、どちらを罪に定めるだろうか。」
 わたしは言った。「どちらのはかりごともむなしいことです。森には陸が与えられ、海には波を運ぶ場所がそれぞれ与えられているのですから。」
 そこで天使は言った。「その判断は正しい。ではどうして、あなた自身について同じように判断しないのか。陸が森に与えられ、海が波に与えられているように、地上に住む者は地上のことだけを理解し、天上界の者は、天上界のことを理解するのである。」

 エズ・ラ4:22-52〈人の思いと神の計画〉
 そこでわたしは答えた。「主よ、お願いです。わたしには理解力が与えられているのです。わたしは、高遠な道を尋ねているのではありません。常日ごろ、わたしたちの目の前に起こっている事柄について問いたかっただけなのです。なぜイスラエルは不名誉にも異邦人に渡されたのか、なぜあなたが愛された民を、神を恐れぬやからに渡されたのか、なぜわたしたちの先祖の律法は滅び去り、書き記された契約はうせたのか、ということなのです。わたしたちは、この世からいなごのように移り行き、わたしたちの生命は朝もやのようになりました。もはやわたしたちは、憐れみを受ける資格もありません。しかし、わたしたちに与えられた御名のために、神は何をなさろうとするのでしょうか。わたしはこのことを尋ねているのです。」
 天使はわたしに答えた。「もしあなたが生きているならば見るであろうし、生き永らえるなら、度々驚くであろう。世はたちまち過ぎ去るということを。時に適って約束されたことを、この世は実現できないであろう。それは、この世が悲しみと弱さに満ちているからである。あなたがわたしに尋ねているその悪は既に蒔かれた。しかし、その摘み取りはまだである。蒔かれたものが刈り取られ、悪の蒔かれた畑が消え去らなければ、善が蒔かれた畑は来ないであろう。悪の種が最初にアダムの心に蒔かれたために、今までどれほど多くの不信仰を実らせたことだろう。それは、脱穀の時が来るまで実らせ続けるだろう。考えてみなさい、この悪の種がどれだけ多くの不信仰を実らせたかを。数知れないもみが蒔かれた場合、どれほど大がかりな脱穀が始まるであろうか。」
 そこでわたしは言った。「それはいつ、どのようにして起こるのですか。なぜわたしたちの年月は短く、不幸なのですか。」
 天使は言った。「いと高き方を差し置いて、心をせかせてはならない。あなたは自分のために心をせかせるが、かの優れたお方は多くの人のためを考えておられるのである。このことについては、義人の魂も、陰府の住まいで尋ねたではないか。『いつまでわたしは、このように待てばよいのですか。わたしたちの報いの収穫の実は、いつ来るのですか』と。彼らに、大天使エレミエルが答えている。『あなたたちのような人の数が満ちるときである。神は世を秤で量り、時の大きさを測り、時の数を数えておられる。それゆえ、予定された升目が満たされるまで、神は動ずることも、焦られることもないのである』と。」
 そこでわたしは言った。「しかし統べ治められる方、主よ、わたしたちも皆、不信仰な者です。わたしたちのため、地上に住む者の罪のために、義人の収穫が妨げられてはいませんか。」
 すると天使は言った。「行って、身重の婦人に尋ねてみなさい。九か月が満ちたとき、胎児をなお胎の中にとどめておくことができるのか、と。」
 そこでわたしは言った。「主よ、とどめておくことはできません。」
 すると彼は言った。「陰府の魂の住まいも、女の胎と似たものである。産婦が産みの苦しみを早く終わらせようとするように、この陰府の住まいも同じで、世の初めから預けられた人たちを早く返したいのである。その時には、あなたが見たいと望んでいることが示される。」
 わたしは言った。「もし御好意にあずかっているのでしたら、またそれが可能であり、わたしがふさわしいとお思いでしたら、お示しください。これからの時は過ぎ去った時よりも長いのですか、それとも、大半の時はもう過ぎたのでしょうか。なぜなら、わたしは、既に過ぎた時のことは知っていますが、未来のことは何も知らないからです。」
 すると天使は言った。「右側に立ちなさい。あなたにたとえの意味を示そう。」
 そこでわたしは立って、見ていると、燃え盛るかまどが目の前を通り過ぎた。炎が通り過ぎた後に、幾らか煙が残ったのを見た。この後、更に水をいっぱい含んだ雲が目の前を通り過ぎ、激しい雨を降らせていった。激しい雨が通り過ぎた後、そこに滴が残った。
 そこで天使は言った。「自分で考えてみなさい。雨が滴よりも多く、炎が煙よりも多いように、過ぎ去った時の量ははるかに多い。しかし、まだ滴と煙が残っている。」
 わたしは願った。「その日まで、わたしは生き永らえるとお思いですか。その日に居合わせるのはだれでしょうか。」
 天使は答えた。「あなたが次々と尋ねるしるしについてならば、ある程度のことはあなたに言うことができる。しかし、わたしは、あなたの生命について告げるため遣わされたのではない。わたしはそれを知らないのだ。」

 エズ・ラ5:1-13〈終末のしるし〉
 「では、しるしについて語ろう。見よ、その日が来て、地上に住む人々は大いなる恐怖に捕らえられ、真理の道は隠され、国土は信仰の不毛の地となるだろう。そして不義が、あなた自身が見ている以上に、また、あなたがかつて聞いた以上に増えるだろう。
 また、あなたが今見ているその国は世界を支配しているが、やがて乱れて廃虚となり、人はそこに荒れ地を見るようになる。しかし、もしいと高き方があなたに生き残るのをお許しになるなら、三日の後に天変地異を見るであろう。
 突如として夜中に太陽が輝き、真昼に月が照る。その上、木から血が滴り落ち、石が声を発し、人々は恐慌を来し、星は軌道を脱するだろう。そして、地に住む人の望まぬ人物が支配するようになり、鳥さえもみな渡り去るだろう。ソドムの海は魚を吐き出し、夜にはえたいの知れぬ妖怪が声を発し、すべての人がその声を耳にする。方々で深淵が口を開き、そこから繰り返し炎が吹き上がる。野獣はその住みかを捨てて移り歩き、月経中の女は怪物を産むだろう。淡水に塩が混じり、友人どうしがいがみ合うようになるだろう。分別は隠れ、知性は己の住みかに引きこもって、多くの人がそれを捜すが見いだせない。地上には不義と放縦がはびこる。
 一つの国は隣の国に、『だれか公正を行う人が、あなたの所を通りましたか』と尋ねる。するとその国は『否』と答えるだろう。
 その時には、人々は望んでも得られず、働いても道は整えられない。これらのしるしを、あなたに示すことは許されている。しかし、もしあなたが更に祈り、今のように涙をもって嘆願を続け、七日間の断食を行うならば、これよりも、更に大いなることが聞ける。」

 エズ・ラ14:20〈結び〉
 わたしは目を覚ました。わたしの体はひどく震えており、魂は疲労のあまり、消え入りそうになった。すると、わたしのもとに来て語ったその天使が、わたしを力づけ、足で立たせてくれた。
 二日目の夜、民の頭ファルティエルが来て、わたしに言った。「あなたはどこにいたのですか。なぜ、悲しそうな顔をしているのですか。この強制移住の地でイスラエルの民はあなたにゆだねられていることを忘れたのですか。さあ、起きて、少しパンを食べてください。羊飼いが自分の羊を見捨てて、どう猛な狼に渡してしまうかのように、わたしたちを見捨てないでください。」
 わたしは彼に言った。「わたしから離れていなさい。七日間、わたしに近寄ってはいけない。その後で来なさい。」
 彼は、言うことを聞いて離れ去った。そして天使ウリエルが命じたように、わたしは大声で泣きながら七日間の断食を行った。

 創造に伴う罪の問題について、エズラと天使が問答する。


 「エズラ記(ラテン語)」はけっきょく全文を引用して進めてゆくことになったが、勿論わたくしが一字一字入力しているわけではない。当たり前である。そんな労力を費やすぐらいなら、常の通りにうんうん唸ってノートを作成しておりますよ。
 新共同訳聖書を出版している日本聖書協会のHPから該当章をコピペ、章節を省き適宜改行して作成しております。気のせいか、いつもの読書を行うよりもずっと長く本文に目を曝し、じっくりと目を通し、読みこんでいるように思う。が、すくなくとも最後については強烈なる錯覚であることは間違いない。呵々。
 本書に於けるこんな舞台裏を、今後もお届けしよう。◆

第1817日目 〈エズラ記(ラテン語)第1章&第2章:〈エズラの略歴〉、〈エズラの主への言葉〉他withこの汚辱は必ず!〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第1章と第2章です。

 エズ・ラ1:1−3〈エズラの略歴〉
 預言者エズラの書。
 エズラの父はセラヤ、祖父はアザルヤ、更にヒルキヤ、シャルム、ツァドク、アヒトブ、アヒヤ、ピネハス、エリ、アマルヤ、アジヤ、マリモト、アルナ、ウジア、ボリト、アビシュア、ピネハス、エルアザル、そしてレビ族アロンとさかのぼる。
 時にエズラは、ペルシア王アルタクセルクセスの治世に、メディア人の地で捕らわれの身となっていた。

 エズ・ラ1:4−2:32〈エズラの主への言葉〉
 主の言葉がわたしに下った。
 「行け。わたしの民にその悪行を告げ、彼らがわたしに対して犯した罪を、その子らに告げよ。子々孫々それを語り継がせよ。実に、彼らは先祖よりも多く罪を犯し、彼らはわたしを忘れ、他の神々にいけにえを献げたのだ。彼らを、エジプトの地、奴隷の家から導き出したのはわたしではなかったか。ところが彼らはわたしを怒らせ、わたしの戒めを軽んじた。お前は髪をかきむしり、あらゆる災いを彼らに投げつけよ。彼らがわたしの律法に従わなかったからである。彼らは諭しを受けつけぬ民だ。わたしは、いつまで耐えようか、これほど多くの恵みを与えた彼らを。わたしは彼らのために多くの王を退け、ファラオとその子らを、またその全軍を討ち滅ぼした。わたしは、彼らの前からあらゆる民族を滅ぼし、東方ではティルスとシドンの二つの州の民をけ散らして、彼らのすべての敵を殺した。
 彼らに告げよ──主は言われる──。わたしはお前たちに海を通らせ、荒れ野に備わった道をお前たちに示し、指導者としてモーセを、祭司としてアロンを与えた。わたしは火の柱によって光を与え、大いなる不思議な業をお前たちの中で行った。だが、お前たちは、わたしを忘れた。」これは主の言葉。
 全能の主はこう言われる。「わたしは奇跡としてうずらを、守りとして陣営をお前たちに与えた。それなのにお前たちは不平を言った。 敵が滅ぼされたときにわたしの名をたたえて祝うこともせず、今もなお不平を言っている。わたしが与えた恵みを忘れたのか。お前たちは、荒れ野で飢え渇いたとき、わたしに呼ばわって、『何のため、我々をこの荒れ野に導き、殺そうとするのか、こんな荒れ野で死ぬよりは、エジプト人に仕えていた方がよかったのに』と言った。そのとき、わたしはお前たちの嘆きに心を痛め、マナを食べ物として与え、お前たちは天使のパンを食べたはずだ。お前たちが渇ききったとき、わたしが岩を割って、飲み飽きるほどの水が流れ出たではないか。わたしは、暑さを避けるようにとお前たちのために木の葉を編んだ。わたしは、お前たちに肥えた土地を分け与え、カナン人、ペレツ人、ペリシテ人を、お前たちの前から追い払った。これ以上お前たちのために何をすればよいのか。」これは主の言葉。
 全能の主はこう言われる。「荒れ野で、川の水が苦く、お前たちが渇きに苦しんでわたしの名を汚したときも、わたしは、冒涜の罰として火を下すようなことはせず、川に棒を投げ入れて、甘い水に変えた。ヤコブよ、わたしはお前のために何をすればよいのか。ユダよ、お前は、わたしの言うことを聞こうとしなかった。だから、わたしはほかの民のところへ移り、彼らがわたしの戒めを守るように、わたしの名を彼らに与えよう。お前たちがわたしを捨てたので、わたしもお前たちを捨てよう。わたしに憐れみを求めても、もう憐れむまい。わたしに呼ばわっても、わたしは聞くまい。お前たちは手を血で汚し、お前たちの足は殺人を犯すことに軽やかだ。お前たちが見捨てたのは、わたしではなく、お前たち自身である。」これは主の言葉。
 全能の主は、こう言われる。「父が息子に願うように、また、母が娘に、乳母が子供に願うように、わたしはお前たちに願ったではないか。前たちがわたしの民となり、わたしがお前たちの神となることを、また、お前たちがわたしの子供となり、わたしがお前たちの父となることを。わたしは、ちょうどめんどりが雛を翼の下に集めるようにお前たちを集めた。しかし今となっては、お前たちのために何をすればよいのか。わたしはお前たちを退けよう。供え物をわたしに献げても、わたしは顔を背けよう。わたしは、お前たちの祝祭日と新月と割礼を拒んだ。わたしは、わが僕、預言者たちを、お前たちのもとに遣わしたが、お前たちは彼らを迎えて殺し、その体を切り刻んだ。わたしは彼らの血について復讐する。」これは主の言葉。
 全能の主はこう言われる。「お前たちの家は荒れ果てた。風がわらを吹き飛ばすように、わたしはお前たちを散らす。子供たちは子孫をつくれなくなる。わたしの命令を軽んじ、わたしの前に悪事を行ったからである。わたしは、やがて来る民にお前たちの家を渡す。彼らは聞かずともわたしを信じ、奇跡が与えられなくとも、わたしが命じたことを行うだろう。彼らは預言者を見たことはないが、かつて預言者たちが語ったことを心に留めるだろう。わたしは、やがて来る民への恵みを保障する。その子供たちは、喜びに小躍りし、わたしを肉眼で見ることはなくとも、わたしが語ったことを霊によって信じるだろう。民の父エズラよ、今こそ、誇りをもって目を上げ、東から来る民を見よ。わたしが彼らに与える指導者は、アブラハム、イサク、ヤコブ、それにホセア、アモス、ミカ、ヨエル、オバデヤ、ヨナ、ナホム、ハバクク、ゼファニヤ、ハガイ、ゼカリヤ、そして、主の使いとも呼ばれたマラキである。」
 主はこう言われる。「わたしはこの民を奴隷の状態から救い出し、わたしの僕、預言者たちを通して戒めを与えたが、彼らは預言者たちに聞くことを望まず、わたしの忠告を無視した。彼らを産んだ母は言う。『子供たちよ、行きなさい。わたしはやもめで、捨てられた女です。わたしは喜びをもってお前たちを育てたが、悲痛と悲嘆の中に失った。お前たちが、神である主に罪を犯し、わたしの前で悪事を行ったからです。今更、お前たちのために何をしよう。わたしはやもめで、捨てられた女です。子供たちよ、行って、主に憐れみを願いなさい』と。
 そこで、民の父エズラよ、彼らの母と共にあなたも、彼らがわたしの契約を守ろうとはしなかったことを証言せよ。あなたは彼らを当惑させ、彼らから母を奪え。こうして、彼らは子孫がつくれなくなる。彼らは異邦人の中に散らされ、その名も地上から消されてしまえばよいのだ。彼らがわたしの契約を軽んじたからである。
 災いだ、アシュル、お前は、内に悪人どもを隠している。良からぬ連中よ、わたしがソドムとゴモラに対して、どんなことを行ったか、思い出せ。その地はピッチの沼、灰の山と化している。わたしは同じことを、わたしに聞き従わない者どもにするであろう。」これは全能の主の言葉。
 主はエズラにこう言われる。「わたしの民に告げよ。わたしはイスラエルに与えるはずであったエルサレムの王国を、彼らに与える、と。わたしは、イスラエルから栄光を取り上げ、かつてイスラエルのために用意した永遠の幕屋を、彼らに与える。 そのとき命の木は、彼らを香油の香りの中に包み、彼らは苦労する必要もなく、疲れることもない。お前たちは行って王国を受けよ。わずかな日々が、更に短縮されるように願え。王国は既に、お前たちのために用意されている。目覚めていよ。お前は天を呼び、地を呼んで証人とせよ。わたしは悪を消し去り、善なるものを造った。わたしは生ける神である。」これは主の言葉。
 「母よ、お前の子供を抱き、鳩のように喜びをもって彼らを育て、その足腰を強くせよ。わたしがお前を選んだのだ。」これは主の言葉。
 「わたしは、死人をその場所からよみがえらせ、墓から引き上げる。彼らの中に、わたしの名が記されているのを認めたからである。恐れてはいけない、子供たちの母よ、わたしはお前を選んだのだ。」これは主の言葉。
 「わたしはお前のもとに、助け手としてわたしの僕イザヤとエレミヤを遣わす。わたしは彼らの預言を成就させ、お前を聖別し、いろいろな果実のたわわに実る十二の木々と、乳と蜜が流れる十二の泉、ばらとゆりの咲く七つの大きな山々を、お前のために用意した。わたしはそこで、お前の子供たちを喜びで満たそう。やもめを正しく扱い、孤児のために裁きを行い、乏しい人には与えよ。みなしごを保護し、裸の人に服を着せよ。打ちひしがれた者、弱い者の世話をし、足の不自由な者をあざけることなく、体の不自由な人を守ってやれ。盲人にわたしの光を見させよ。老人も若い者も、お前の垣の中に入れて守れ。死人を見つけたらその場で印をして、墓に納めよ。そうすれば、わたしは人々を復活させるとき、お前に第一の座を与える。
 わたしの民よ、歩みを止め、落ち着くがよい。お前の休息の時が来るからだ。
 良き乳母よ、お前の子供たちを養い、彼らの足腰を強くせよ。わたしがお前に与えた僕のうちだれ一人滅びはしないだろう。わたしはお前の民の中から彼らを選び出す。動揺してはならない。圧迫と苦難の日が来て、人々が嘆き悲しむとしても、お前は喜々として、豊かでいられる。異邦人がねたみを起こしても、お前に対しては何もできないだろう。」これは主の言葉。
 「わたしの手がお前を覆い、お前の子供たちはゲヘナを見ることはないであろう。母よ、子供らと共に喜べ。わたしがお前を救い出す。」これは主の言葉。
 「永眠したお前の子供たちを思い出せ。わたしは地の隠れ場から彼らを連れ出して、彼らに憐れみの業を行おう。わたしは憐れみ深い神。」これは全能の主の言葉。「わたしが来るまで、お前の子供たちを抱き、彼らに憐れみを告げよ。わたしの泉は絶えずわきいで、恵みは尽きることがないからである。」

 エズ・ラ2:33−41〈ホレブの山のエズラ〉
 わたしエズラは、ホレブの山で、イスラエルへ行けという命令を主から受けた。そこでわたしはイスラエルの人々のもとに行ったが、彼らはわたしを拒み、主の言いつけを軽んじた。だから、わたしは言う。
 「聞いて理解する異邦の民よ、あなたたちの牧者を待ち望みなさい。彼はあなたたちに永遠の休みを与えてくださる。世の終わりに来られるはずの牧者は、近くにおられるからである。報いとして王国を受ける準備をしなさい。やがて永遠の光が永久にあなたたちを照らすからである。この世の陰を逃れ、輝く喜びを受けなさい。わたしは救い主を公に証しする。
 主が指名された者を受け入れなさい。あなたたちを天の国に招いてくださった方に感謝して喜びなさい。起きて立ち、主の宴にあずかるべく刻印を押された人々の群れを見なさい。 彼らはこの世の陰から身を移し、主から輝く衣を受けた人々である。
 シオンよ、定められた人数を受け、主の律法を全うし、輝く白衣を身にまとう人々の名簿を閉じなさい。あなたが切に望んだ子供たちの数は満ちている。世の初めから招かれたあなたの民が、主のものとして聖別されるように、主の御国の到来を願いなさい。」

 エズ・ラ2:42−48〈シオンの山のエズラ〉
 わたしエズラは、数知れぬ大群衆を、シオンの山で見た。皆は歌をうたって主をたたえていた。その中央には丈の高い若者がいた。彼はだれよりも秀でており、一人一人の頭に冠をかぶせていた。彼はひときわぬきんでていた。
 わたしは、この光景に魅せられた。そこで、天使に、「主よ、この人たちは、だれですか」と尋ねた。天使は答えた。「この人たちは、死すべき衣を脱ぎ捨て、不死の衣をまとい、神の御名を告白した人々である。今や、冠をいただき、しゅろの葉を受ける。」
 わたしは天使に尋ねた。「彼らに冠をかぶせ、しゅろの葉を手渡しているあの若者はだれですか。」 天使は答えた。「あの方は、彼らがこの世で告白した神の子である」と。そこで、わたしは、主の御名のために雄々しく踏みとどまったその人々をたたえ始めた。そのとき天使は言った。「あなたが見た神である主の業が、いかなるもので、どれほどすばらしいかを、行って、わたしの民に告げなさい。」

 ゲヘナはエルサレムの南にあって郊外の谷である。ここには処刑された罪人が埋葬されたり、なんらかの理由からきちんと埋葬がされなかった人を埋めた、という。不浄の地である。



 がんばりたくてもがんばれないこと、って、この世にあるんだな、と痛感。恥辱に満ちた思いがします。でも、必ずいつの日か、全文引用したぶざまな本稿を一新して、本来の読書ノートを完成させるぞ!◆

第1816日目2/2 〈「第四エズラ書」読書の方向転換。〉 [エズラ記(ラテン語)]

 後悔している。安易に「エズラ記(ラテン語)」を読むことに決めたことを。粛々と読書ノートを執筆中だが、まったく歯が立たない。打ちのめされた気分だ。エズラの言葉を借りれば、「わたしの心はめいりました。」(エズ・ラ3:20)
 どのような状態になろうとも、本ブログは継続される。或る目的のため、願いの成就のため、聖書全巻の読書は継続される。どれだけ中傷や嘲笑を被ろうと、瑕疵だらけの状態でみずぼらしい姿になったとしても、歩みを止めるわけにはゆかない。
 が、如何に鋭意努力してみても、いざノートを執筆しようとすると、なにがなにやらさっぱり……、となり、己の読書力不足と本書にかかる準備不足の感は免れない。このような状況下でいかに欠日を出すことなく、旧約聖書続編の読書を終わらせるか。もはや「恙なく」というて終わらせることは不可能だ。
 はなはだ卑怯な選択で申し訳ないが、わたくしはかつて「雅歌」に於いて採用したのと同じ手法を、極めて消極的な理由から、ここにいままた採用したい。即ち、全文の引用と、それに対するわたくしの、最小限のコメント/感想である(日によってはそれがない場合もあり得る、ということだ)。直接わたくしに向けられるなら、この件についての非難、誹謗も甘んじて受けるつもりでいる。
 一種の敗北宣言と受け取っていただいて結構。そう陰で囁かれるのも仕方ない、と思うている。が、わたくしなりに考えた末の<たった一つの冴えたやり方>であることは、本稿にて釈明しておく。◆

第1816日目1/2 〈「エズラ記(ラテン語)」前夜〉 [エズラ記(ラテン語)]

 「エズラ記(ギリシア語)」は旧約聖書に収められる(ヘブライ語の)「エズラ記」をベースにして、「ネヘミヤ記」などから一部増補されたものであったゆえ、比較的読みやすい書物でありました。が、明日から読んでゆく「エズラ記(ラテン語)」は多分に勝手が異なる。ヘブライ語やギリシア語がそうであったような<歴史書>ではなく、こちらは同じエズラを外題役とする<黙示文学>となる。即ちここでのかれは、書記官でも律法の朗読者でもない、預言者としての役割を担うのであります。
 エズラという同じ名を持つ別人なら胸を撫でおろし、割り切ることもできましょうが、父はセラヤ、祖父はアザルヤ、先祖にピネハスやエルアザルを持つレビ族の祭司アロンの家系となれば、もう完全に同一人物でありますから困ってしまいます。
 ラテン語訳では、エズラが持つ幾つかの<顔>のうち、預言者としての側面が強調されている、とするのが頭を悩ませずに済む捉え方かもしれません。「エズラ記(ラテン語)」の著者の考えにも、それがいちばん近いのかもしれません。が、今一つ釈然としない部分が残るのも事実なのであります。
 おそらくは、本書に於けるエズラがいつの時代に生きた人物だったのか、というところに帰り着くお話だろうか。ふしぎな話をしたようで恐縮だが、それはこういうことだ。──鍵となるのはエズ・ラ3:1-2「都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。」という一文。
 都エルサレムの陥落とはいつの時代を指すのか。また、サラティエルとは誰なのか。
 エルサレムの陥落を示すこの一文には2つの解釈がある、という。1つは、われらがこれまで読んで何度となく接してきた、前587/6年の新バビロニア帝国侵攻に伴う王都陥落。もう1つは後70年、帝政ローマとユダヤの間に勃発した所謂<第一次ユダヤ戦争>によるエルサレム陥落。前者についてはともかく、後者を支持する考えも夙に知られている、という。詳細について本稿で語ることはしない。興味を持った読者諸兄が個々に調べて、知的欲求を満たせばそれでよいと思います。
 かりにどちらの説が事実であっても「エズラ記(ラテン語)」の本文は、エルサレム陥落から30年後であることは明記されている通り。となると、これが前6世紀を生きるエズラであれば時代は前550年代後半となり、1世紀を生きるエズラであれば時代は後100年頃となる。この件については決着のつかぬ点であるらしく、どちらも万人を納得させるだけの、すくなくとも大勢に導く程説得力にあふれたものはないようであります。
 時代について決着がついたとしても、残る問題は「わたしサラティエル、すなわちエズラ」という箇所である。サラティエルという人物が「エズラ記(ラテン語)」の著者ならば、それがエズラという人物に結びつけられたのはどうしてか。
 ここで「エズラ記(ラテン語)」のテクストにまつわる問題が浮上する。全部で16章ある本書のうち、最初と最後の2章は本書をキリスト教化する際に行われた加筆であり、<幻>について書かれた第3-14章が本来の部分である、という。わたくしは専門的なことは門外漢なのでこのあたりは文献を参照するよりないのだが、キリスト教化するにあたって書き加えられた箇所には、ユダヤ教とは異なる、あきらかにキリスト教的な要素が多々見受けられる、という。この点についてわたくしが特に感心して読んだのは秦剛平『旧約聖書続編講義』(1999,11 リトン)である。著者は「エズラ記(ラテン語)」の時代背景を後100年頃とする立場の人であります。
 じつは本書を粗読みしていて、1ヶ所だけ気になる箇所がありました。エズ・ラ7:28-29にある「わが子イエス」、「わが子キリスト」てふがそれ。前掲の秦の著書ではこれなども本書のキリスト教化の痕跡である、といいます。この点については当該日に改めて触れることができたら、と望んでおります。
 ──ここに登場するエズラの、最も近しい人物をこれまでに読んできた書物のなかから探すとすれば、ダニエルということになりましょうか。「ダニエル書」もまた<黙示文学>であるから斯く想起する、というのでなく、かれらの見た一連の<幻>に連続性、乃至は継続性を感じるからであります。ダニエルが見た幻の一つ──「4つの世界王国(帝国)の支配のあとに神の国による永遠統治が始まる」(ダニ7以後)──に刺激を受けて(?)、その幻のその後を続ける、もしくは更新する形で補完した、という意味合いでの連続性、継続性でありますが、そんなところから申しても「エズラ記(ラテン語)」は「ダニエル書」と遠く響き合う関係にある思想と内容の書物と思うのであります。
 本稿の執筆に先立ち、「エズラ記(ラテン語)」を読み返してみましたが、やはりこれは何度読んでも難しい。難解というよりも、一筋縄ではゆかない書物だ。一筋縄ではゆかぬ、精読するより他ない気むずかしい書物、という意味では、「エズラ記(ラテン語)」は、たとえば旧約聖書の「ヨブ記」、新約聖書の「ローマの信徒への手紙」や「ヨハネの黙示録」と並ぶ書物でありそうだ、と感じている。
 「エズラ記(ラテン語)」を、ざっと読んでみても感じられることでありますが、本書は終章に近附けば近附く程、切迫した調子になってゆく様子がうかがえます。全16章ある本書を一息に読むのは大変かもしれません。が、たとえば休みの日などに数時間を割いて読書してみれば、わたくしがここで申しあげることは体験してもらえる、と信じます。あくまでわたくしの感想ですが、殊<第五の幻>(エズ・ラ10:60-12:40)はそのあたりの頂点を形作るもの、と思うておるのです。
 ──これの前に読んでいた「エズラ記(ギリシア語)」に対応して、本書「エズラ記(ラテン語)」は「第二エスドラス書」(アポリクファ)、「第四エズラ書」(ヴルガタ聖書)と呼ばれます。新共同訳と本ブログでの略称は(今更ですが)「エズ・ラ」。
 規模ゆえにいつものように原則1日1章、といえぬのが残念でありますが、読了のその日を目指して(夢見て?)、挫けたりへこたれたりすることなく、がんばってゆきます。それでは明日から「エズラ記(ラテン語)」を読んでゆきましょう。◆
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