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第2029日目 〈ヨハネによる福音書第21章:〈イエス、七人の弟子に現れる〉、〈イエスとペトロ〉&〈イエスとその愛する弟子〉with「ヨハネ伝」読了の挨拶と感慨〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第21章です。

 ヨハ21:1-14〈イエス、七人の弟子に現れる〉
 その後、イエスが弟子たちの前に現れたのは、ガリラヤ地方のティベリアス湖(ガリラヤ湖)の畔であった。それに接した弟子は7人。シモン・ペトロ、トマスとナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、他2人である。
 かれらはペトロと共に湖に出て漁をしたが、その夜の釣果はゼロだった。夜明け近くになって、かれらはイエスが湖畔に立っているのを見た。初めは誰もイエスと気附かなかったが、イエスの指示によって網を湖に打ったところ夥しい量の魚が獲れたのを契機に改めて見ると、イエスが愛した弟子が気附いて傍らのシモン・ペトロに、主です、と伝えたのである。
 それを聞いたペトロは着物を脱いで裸になり、湖に飛びこんで岸へと泳いでいった。他の者たちはそれ程の距離でもなかったから舟を漕いで岸へ戻った。
 かれらが「陸に上がってみると、炭火が起こしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(ヨハ21:9)
 最早誰もイエスが主であると信じて疑わなかった。弟子たちは、イエスから分け与えられた魚とパンで朝食を摂った。
 ──イエスが復活して弟子たちの前に姿を現したのは、これが3度目である。

 ヨハ21:15-19〈イエスとペトロ〉
 食事を摂り終えたシモン・ペトロにイエスが訊いた。誰よりもわたしを愛しているか。ペトロは、主よ、それはあなたがご存知です、と答えた。するとイエスはいった。わたしの小羊を飼いなさい。
 再びペトロにイエスが訊いた。わたしを愛しているか。ペトロは、主よ、あなたはご存知のはずです、と答えた。するとイエスはいった。わたしの小羊を世話しなさい。
 三度目、イエスがペトロに訊ねた。わたしを愛しているか。
 シモン・ペトロはたまらず悲しくなって、主よ、あなたはなにもかもご存知でしょう、わたしはあなたを愛しています、と告白した。
 イエスがいった、──
 「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(ヨハ21:17-19)
 わたしに従いなさい、とイエスがいった。

 ヨハ21:20-25〈イエスとその愛する弟子〉
 シモン・ペトロのあとから、イエスが愛した弟子がついてきた。かれを指して、ペトロはイエスに、あなたにいちばん愛されたかれはこのあとどうなるのでしょう、と訊いた。
 イエスがいった。わたしの時が来るまでかれが生きているのをわたしが望んだとして、それがあなたにいったいなんの関係があるだろうか。シモンよ、あなたはわたしに従いなさい。
 そこからこの弟子はけっして死なないという噂が生まれた。が、イエスがいうたのは弟子の不死ではない。わたしの時が来るまでかれが生きているのをわたしが望んだとしても、それがあなたにどんな関係があるのか──そう質しただけである。
 「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハ21:24-25)

 本章はシモン・ペトロの、改めての信仰告白である。舟から湖に飛びこんで誰よりも先に岸へ辿り着いたのも、3度にわたってイエスへの愛を表明して信徒(わたしの小羊)を託されたのも、皆、シモン・ペトロの敬虔を証すものといえよう。
 ところで3度にわたってイエスへの愛を表明した件りは、かつてのペトロの否認を想起させ、またそれと対を成すもののようだ。否認の埋め合わせ、といえば聞こえは悪いが、一度は失われかけたイエスへの信仰が復活し、それが確固たる信念、まさしく<岩>の如き堅固なものへと変わったのである(ex;マタ16:18)。
 愛の表明は否認の埋め合わせ、と述べた。イエスはペトロの愛を確かめるごとに、わたしの小羊を飼いなさい、わたしの小羊を世話しなさい、と伝える。集めて飼うのみならず世話も任せるというのは一種のレヴェル・アップだ。それはシモンの自分への愛が確かめられたたびに、信徒をゆだねる権限を拡大していったに等しい。共観福音書にてイエスがペトロにいうた言葉──あなたは人間をとる(漁る)漁師となる──はここに結実した。
 否、それのみならず、ペトロについてこれまでイエスが口にしてきた諸々がここに綜合されて、シモン・ペトロの新生が江湖に宣言された箇所が、本章である。
 追記すればヨハ21:18のイエスの言葉は、シモン・ペトロが皇帝ネロ時代のローマにて逆さ磔刑されて殉教することを予告している。
 一方でやはりどうしても、イエスが愛した弟子について短くとも触れておかねばなるまい。この弟子が「ヨハネによる福音書」の原著者となる。これが使徒ヨハネである前提で申せば、12使徒のうちこのヨハネだけが唯一殉教を免れて天寿を全うした由。



 いざそのときを迎えてみると用意していた言葉は実を失い、粉々になって消え、あとには虚脱感と形容し難い淋しさばかりが自分のなかに残ってる。「ヨハネによる福音書」を読了したいまの気持ちだ。
 達成感も満足感も、読了後の手応えの大きさ、その他諸々、親愛(深愛?)は定家卿における『拾遺和歌集』の如し。……新約聖書に入って初めての一つの大きな区切りを迎えたことが、わたくしをここまで虚けにしてしまったのかもしれぬ。ゆえの妄言か。許されよ。
 が、なにはともあれ本日を以て「ヨハネによる福音書」読了。読者諸兄よ、ありがとう。あなた方はいつだってわたくしを見捨てず常に共に在ってくださる。サンキー・サイ。
 次の伝ルカ著「使徒言行録」は来月7日あたりからの読書開始を予定している。◆

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第2028日目 〈ヨハネによる福音書第20章:〈復活する〉、〈本書の目的〉他with岩下壮一の著作を前にして思うこと。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第20章です。

 ヨハ20:1-10〈復活する〉
 週の初めの日、即ちニサンの月の15日、日曜日のことである。まだ夜の明けきらぬ刻、マグダラのマリアはイエスの墓へ行った。すると、入り口を塞いでいた石が動かされていた。彼女は急いでシモン・ペトロと、イエスが愛した弟子の許へ走って行き、そのことを伝えた。
 ペトロたちはイエスの墓へ走った。先に到着した弟子がなかを覗くと、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてある。ペトロは墓へ入り、そこに亜麻布があるのを見附けた。また、イエスの頭を包んでいた覆いは亜麻布から離れたところにあった。イエスが愛した弟子はペトロのあとから墓に入ったがそこに置かれた亜麻布と覆いを見て、信じた。
 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ20:9)
 そのあと2人は自分の家に帰った。

 ヨハ20:11-18〈イエス、マグダラのマリアに現れる〉
 シモン・ペトロとイエスが愛した弟子が自分の家に帰ったあと、マグダラのマリアが来て、墓の前でずっと泣いていた。そうしてふと墓のなかを見ると、イエスの遺体のあったあたりに天使が2人、立っているのが見えた。
 婦人よ、なぜ泣いているのか。天使たちが訊いた。わたしの主が取り除かれたのです、と彼女はいった。どこにあの方(の遺体)が置かれているのか、わからないのです、とも。
 そうしてマグダラのマリアは後ろを振り返った。そこにはイエスが立っていたが、彼女はそれとわからず園丁だと思いこんでいた。が、やがて彼女は気附いて、ラボニ、とイエスに呼び掛けた。「ラボニ」とはヘブライ語で「先生」という意味である。
 イエスが彼女にこういった、──
 行って、わたしの兄弟に伝えなさい。わが父にしてあなた方の父、わが神にしてあなた方の神の許へわたしは上る。
 ……マグダラのマリアは使徒たちのところへ行き、イエスのこの言葉を伝え、わたしは主を見ました、といった。

 ヨハ20:19-23〈イエス、弟子たちに現れる〉
 その日の夕方、使徒たちはユダヤ人たちを恐れて一軒の家に集まり、扉にはなかから鍵を掛けて息を潜めていた。そこへイエスがどこからともなく現れ、使徒たちに自分であることの証しとして、釘の跡が残る手を見せ、槍で突かれた脇腹を示した。かれらはたしかにそこにいるのがイエスであることがわかって、喜んだ。
 イエスが使徒たちに息を吹きかけて、いった、──
 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハ20:22-23)

 ヨハ20:24-29〈イエスとトマス〉
 イエスが使徒たちの前に姿を見せたとき、その場に居合わせなかった使徒がいた。ディディモと呼ばれるトマスである。われらは主を見た、というかれらに対してトマスはいった、わたしはあの方の手に釘の跡があるのを見、あの方の脇腹の傷に指を入れてみるまでは信じない、と。
 それから8日が経っても使徒たちはトマスも含めてその家にいた。そこへイエスが現れた。トマスはイエスのいうに従って釘の跡が残る手を見、槍に突かれた傷跡に指を入れて確かめ、そうして信じた。
 トマスはいった、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハ20:28)と。
 イエスがいった。お前は見たから信じたのか。見ずしてわたしを信じる者は幸いである。

 ヨハ20:30-31〈本書の目的〉
 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハ20:30-31)

 ──斯くしてイエスは復活した。それだけでじゅうぶんな気もするが、やはり一言、二言、述べておく。
 マグダラのマリアの報告を承けて、シモン・ペトロとイエスが愛した弟子は墓へと駆けつけた。ヨハ20:8「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」に基づけば、イエスに愛された弟子は亜麻布と覆いを見て、イエスの復活の可能性を信じた。が、この「信じた」は字義通りに捉えるべきではないだろう。というのも続くヨハ20:9に拠れば、この弟子もペトロと同じくイエスの復活については「理解」していなかったからだ。あくまで、どちらかといえばペトロよりはこのイエスに愛された弟子の方が、復活の可能性を信じていた、という比率の面から捉えた方が良いだろうと思う。
 ──イエス捕縛と処刑、それに伴う皺寄せという難を逃れた11人の使徒たちは、そう易々とはイエスの復活を信じなかった。なかでも本福音書にてクローズアップされるのは、トマスとシモン・ペトロである。本章では前者だ。ペトロについては次章で触れられる。
 トマスは他の使徒よりも慎重なのか懐疑的なのか、或いは仲間外れにでもあったような気分になったのか、わたしは自分で確かめるまでは信じない、と宣言した。他の使徒たちは内心、やれやれ、と頭を振って嘆息したかもしれない。そうして8日後、再び現れたイエスを見て、その復活を信じるに至った。イエスの台詞ではないが、まさしく、見ないと信じないのか、である。
 イエスに直接従った12使徒の共通項は(裏切りのユダも含めて)、簡単にはイエスの言葉や業を信じられない鈍さである。何事も現実的なレヴェルで解釈しようというその即物ぶりだ。もしくは、気附きの遅さである。
 親しう接した人が偉大であればある程、傍らに侍る者は相手の本質を見失い、見誤り、過小評価に走る傾向が見受けられる。むしろ対象から距離を置いた人、時間を隔てた人々の指摘によって、かれらは自分たちの過ちを知ることになる。「使徒言行録」を読んでゆくと、残された使徒たちの変化は一目瞭然である。が、それは当初信じていなかったものを或るきっかけによって信じるようになることの実例だ。これがいちばん強くて逞しい、揺らぐことなき信心を生む。11人の使徒然り、パウロ然り。
 わたしの主、わたしの神、とトマスはいった。これはこのあと使徒たちが礎を築き、時代を経てこの星に隈無く浸透した教会の信条となった言葉である由。



 先日購入した岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫)と『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫)を摘まみ読みしているが、これがなかなか難しい。他にも読んでいる本があるので、腰を据えて読むのは聖書読了後と決めているのだが、机の上にあってiMacの横に置いてあるため、家にいるときは折節手にして開いたページの前後を読むようになる。
 わたくしの理解度はまだ岩下の著書を読む程には至っていないのは承知している。背伸びかもしれない。が、伝記と併せて岩下の著作はわたくしにとって早くも宝物と化し、これを読み倒すのが(聖書読了を別として)当面最も大きな読書の目標となっている。曖昧なものに対する憧憬といえばいえなくもないが、『信仰の遺産』にせよ『カトリックの信仰』にせよ、ふしぎと関心をそそられる書物だ。このふしぎさを解明する意味でも、じっくりとこの2冊を読み耽る日の訪れを待ちわびている。その前に済ませなくてはならぬ読書は山程あるのだけれど……。
 ところで、渡部昇一の著書によってその名を知らずとも、或いはプロテスタントの婚約者が生きていて家庭を持っていたとしても、わたくしは『信仰の遺産』と『カトリックの信仰』を手にして読む意欲を持ったであろうか? 正直なところ、確定されていない過去に基づく未来を知ることは、わたくしにはできない。◆

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第2027日目 〈ヨハネによる福音書第18章2/2&第19章:〈死刑の判決を受ける〉、〈十字架につけられる〉他with直前で公開を中止した2日分の原稿について。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第18章2/2と第19章です。

 ヨハ18:38b-19:16a〈死刑の判決を受ける〉
 イエスを尋問したピラトは総督官邸の外にいるユダヤ人たちの前に出、自分はお前たちが引き出したあの男になんの罪も見出せない、といった。が、ユダヤ人たちはそれでは納得しなかった。この時期恩赦として釈放される囚人にかれらが望んだのは、強盗バラバであった。イエスではなく。
 ピラトはイエスを鞭打たせた。兵士たちはイエスの頭に茨の冠を載せ、紫衣を着せ、ユダヤ人の王万歳、というて平手打ちした。そうしてピラトは再びユダヤ人たちの前に出て、イエスに罪を見出せないことを告げた。が、ユダヤ人たちの狂騒は激しさを増し、かれイエスを十字架に付けろ、とピラトへ要求するのだった。
 「ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』」(ヨハ19:6-7)
 これにピラトは恐れ、もう一度イエスを尋問した。その末にイエスはいった。わたしをあなたに引き渡した者の罪は重い。
 ピラトは三度、ユダヤ人たちの前に出、イエスに罪を見出すことができない旨告げた。ユダヤ人たちはローマ皇帝の名を楯に取り、ピラトに抗った。
 ──最早ピラトに術はなかった。ピラトはイエスを裁判にかけた。ユダヤ人たちはこぞってイエスの死刑を要求した。
 「ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。」(ヨハ19:15)
 斯くしてイエスはユダヤ人たちの手に引き渡され、ゴルゴタへの道を歩くのだった。

 ヨハ19:16b-27〈十字架につけられる〉
 ユダヤ人たちはイエスに十字架を背負わせ、ゴルゴタ(されこうべの場所)でかれを十字架に掛けた。その左右には忌むべき罪を犯した2人の罪人が、同様に十字架に掛けられている。
 ピラトが書いたイエスの罪状書──「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書いてある──が、かれの十字架の上に貼られた。ゴルゴタはエルサレムのすぐ外にあったので、イエス処刑を望む以外のユダヤ人たちも多くがこれを読んだ。
 「ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください』と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。」(ヨハ19:21-22)
 兵士たちはイエスの衣服を分け合い、下着はくじ引きで受け取り手を決めた。これによって聖書の言葉が実現した。
 ところでイエスの十字架のそばにはかれの母マリアとその姉妹、マグダラのマリアたちがいた。イエスは母とその傍らに立つ自身の愛した弟子を見た。かれは母に弟子を示して、あなたの子です、といい、弟子に母を示して、あなたの母です、といった。この弟子はイエスの言葉を承けて、この日この時からイエスの母マリアを自分の家に引き取り、傅(かしず)いた。

 ヨハ19:28-30〈イエスの死〉
 イエスはこの時、すべてが成し遂げられたことを悟り、渇く、といった。これにより聖書の言葉が実現した。
 イエスはヒソプに付けた酸いぶどう酒を含んだ海綿を口に受けると、成し遂げられた、といった。そうしてイエスは息を引き取った。

 ヨハ19:31-37〈イエスの脇腹を槍で突く〉
 イエスが死んだのは過越祭の準備の日で、即ちニサンの月の13日、金曜日であった。その日のうちに十字架上の3人の遺体を降ろす必要があった。
 イエスがたしかに死んでいるのを確認するために、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」(ヨハ19:34-35)こうして聖書の言葉が実現した。
 また聖書の他の箇所には、かれらは自分たちが突き刺した者を見る、という文言がある。

 ヨハ19:38-42〈墓に葬られる〉
 イエスの遺体を十字架から降ろさせてほしい、とピラトに頼んだのはアリマタヤ出身のヨセフである。かれはイエスを信じる者でありながら、ユダヤ人たちを恐れ、そうとはいい出せずにいた。ヨセフがイエスの遺体を十字架から取り降ろしたのである。
 そこへ、かつてイエスに教えを乞うたことのあるファリサイ派のニコデモが合流した。かれは最高法院の議員でもあり、ファリサイ派の人々や祭司長たちがイエスの罪を咎めていたとき、公正の立場に立ってイエスを擁護した唯一の人である。かれは遺体に塗るための没薬と沈香を調合したものを100リトラ(約33キログラム)、持ってきていた。
 ヨセフとニコデモはイエスの遺体を亜麻布で包(くる)み、ゴルゴタから程近い園にある、まだ誰にも使われたことのない墓に納めたのだった。

 描写は密である。敢えて「ルカによる福音書」と比較してもその事実は変わらぬ。最早典拠とした資料の差異というより、本福音書の著者の構成力や描写力、その文才を讃えるべきだろう。
 ピラトがユダヤ人たちの狂騒に遂に屈し、イエスをかれらへ引き渡す場面があった。ピラト;お前たちの王を十字架に掛けるのか。ユダヤ人たち;われらの王はローマ皇帝ただ1人!(ヨハ19:15-16)
 ここを読んでふと思い出したるは、生田耕作先生が雑誌のインタヴューで語ったことである。先生は戦時中、学徒動員によって中国戦線に狩り出された。そこで見た旧帝国陸軍の一風景──上官が兵士を殴ろうとする。と、その兵士は機転を利かせて隊列から一歩前に出、天皇陛下万歳、と三唱。いやしくも天皇陛下の名を口にする者を殴る挙は犯せない。よって上官は拳を引っこめ、兵士は難を逃れる、という寸法だ。
 ピラトにとってローマ皇帝の名は、戦中のこの上官にとっての天皇陛下と変わるところはないのではないか。皇帝の名を口にする者たちのに対してなにもできなかった、というのは、生田先生の回想と重なるところがありはしないか。ユダヤ人たちに策略があったかは知らぬが、結果として錦の御旗を持ったことになる。なお、時のローマ皇帝は2代目のティベリウスだった。

 本日の旧約聖書はヨハ19:7とレビ24:26、ヨハ19:24と詩22:19、ヨハ19:28と詩22:16、ヨハ19:36と出12:46並びに民9:12、ヨハ19:37とゼカ12:10(ex;黙1:17)。



 故ありお披露目寸前に公開を取り消した2日分については、休日にもうちょっと推敲して良い原稿を作ったあとで再公開させていただきます。
 殊に第18章1/2は事情あって1時間弱で第一稿を書かねばならなかったから、どれだけ手を入れても、取り敢えず満足できるレヴェルにすらなかなか達しない代物である。以前にも難渋したものはあったけれど、今度のはチト性質(たち)が悪い。
 とにもかくにも、「ヨハネによる福音書」読了まであと2日──。◆

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第2024日目 〈ヨハネによる福音書第16章2/2:〈聖霊の働き〉、〈悲しみが喜びに変わる〉&〈イエスは既に勝っている〉with村上春樹『村上さんのところ』を買いました。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第16章2/2です。

 ヨハ16:4b-15〈聖霊の働き〉
 わたしがこれらのことを話したので、いまあなた方の心は悲しみに暮れている。が、わたしが去るのはあなた方のためにもなるのである。というのも、わたしが父の許へ行かなければ弁護者はあなた方のところへ来られないからだ。
 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」(ヨハ16:8-11)
 いうておかねばならぬことはまだ他にもたくさんあるが、いまのあなた方にそれを理解することはできない。
 しかし弁護者、即ち真理の霊があなた方を導いて、真理をことごとく悟らせてくれる。その方は自分から語ろうとはせず、聞いて悟り、これから起こることをあなた方へ知らせる。わが父が持つものはすべてわたしのものであり、真理の霊はわたしのものを受けてあなた方へ告げるのである。

 ヨハ16:16-24〈悲しみが喜びに変わる〉
 しばらくするとあなた方はわたしを見なくなるが、またしばらくすると再びわたしを見るようになる。
 ああ、あなた方よ、わたしのこの言葉について論じ合うな。あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。出産に臨んだ女性は産みの苦しみを経験するが、生まれたわが子を抱くときは喜びに満たされ、あの苦痛を忘れてしまう。あなた方もそれと同じだ。
 「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」(ヨハ16:22-23)
 これまであなた方はわが名によって、父へ何事かを願うことはなかった。はっきりいう。わが名によって父へ何事かを願うなら、あなた方には与えられる。あなた方には喜びが与えられる。

 ヨハ16:25-33〈イエスは既に勝っている〉
 わたしはこれらのことを喩えを用いて話してきたが、最早それを用いずしてわが父のことを知らせるときが来る。その日、あなた方はわたしの名によって願う。
 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(ヨハ16:28)
 ──これらのイエスの言葉を聞いて、使徒たちは、かれが神のもとから来た独り子であるのを信じた。
 イエスはいった、──
 「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ16:31-33)

 いま世界には夜の帳が降り、闇に包まれている。が、巷間よくいうように、明けない夜はない。そうして曙光が夜の帳を裂いて射し初め、やがて太陽が昇り始めてそれまでとは違った世界を出現させる。
 本章のイエスの言葉の数々は<夜明け>を知らせるものだ。ここに至って使徒たちがイエスを信じ、恭順の意思を示したのも、それを承けてイエスが、苦難を克復して平和を得ることと自分が世に対して勝利していることを宣言するのも、その夜明けの訪れを予告するものに他ならない。
 これを<福音>と呼ばずになんというのか。
 わたくしはこれまで約半年、誹謗中傷に立ち向かい、孤軍奮闘してきた。失われたエデンを蛮族から奪還するための闘い。そのため誰が味方か、敵は誰か、本丸というべきは誰か。周囲の誰彼に対して疑心暗鬼の目を向け、努めて人間関係を希薄にしようとしてきた。それが失われてしまったとき、自分がその状況へすばやく適応できるように、という事前の対策かもしれない。
 が、正直なところ、もう好い加減疲れてしまった。憎しみは相手を討ち、そのままわたくしに返ってきた。そろそろそれも限界かな、と思うていた矢先の今日、読んだ第16章でわたくしはイエスの「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」(ヨハ16:33)という言葉に触れた。
 もうチト若かったら、その若さゆえの情熱で極端に突っ走ってキリスト教へ改宗していたかもしれない。それ程までに<力>を持った言葉だったのである。
 とはいえ、わたくしはこのヨハ16:33によって、ここ半年ばかり自分を圧し潰しそうとしていた<鬱ぎの虫>を、すべてではないにしても駆逐することができたように思う。誰に相談できるでもなく、誰に打ち明けたら良いのかも、皆目見当が付かぬ。なんらのアクションを起こすこともできないまま、わたくしは今日(昨日ですか)第16章を読んだ。そうしてこの言葉に出会った。わずかなりとも塞いでいた気持ちを軽くすることができたことに、感謝。



 村上春樹『村上さんのところ』(新潮社)が発売されました。同名のHPへ読者が寄せたメールに著者がコメントを返した数千万通からセレクトした五百余編を収録。毎日閲覧することが適わなかったため、今回書籍の形になって初めて読むメールの方が圧倒的に多い。
 かつて同じ新潮社からは『少年カフカ』なるB5判型の質疑応答本が、朝日新聞社からも『そうだ、村上さんに聞いてみよう』シリーズ全3巻が過去に出たけれど、今回の『村上さんのところ』がそれらと大きく異なるのは(そうしてこれが唯一残念と思うところなのだけれども)、期間中HPへ掲載された村上春樹の何編かのエッセイがまったく収録されていない点か。おそらくこれは同時に発売される電子書籍版へ収められているのであろう、と期待する。そろそろKindleを購入する時期かなぁ。
 ご存知のように読むのが非常にゆっくりしたペースのため、本書を読み終えるのがいつになるのか、自分でもよくわからない。朝夕の通勤電車のなかで数編ずつ読み進んでゆくのが、もう煩わしくて仕方のない世事の合間の安息の時間となっている。
 今日は「買った」という報告のみで、感想などは改めて別の機会としよう。

 進むべき道はない、が、進まなくてはならない。これ以上に人生の難しさ、辛さを象徴した言葉があるのだろうか。◆

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第2023日目 〈ヨハネによる福音書第15章&第16章1/2:〈イエスはまことのぶどうの木〉&〈迫害の予告〉with実話な怪談:迷惑している。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第15章と第16章1/2です。

 ヨハ15:1-17〈イエスはまことのぶどうの木〉
 わたしはまことのぶどうの木である。わが父は農夫である。わたしにつながっていながら実を付けぬ者は父が刈り取る。わたしにつながって実を結ぶ者は皆、更に豊かな実を父の手入れによって結ぶことになる。
 あなた方よ、わたしにつながり、良き実を結べ。「」(ヨハ15:5)
 あなた方よ、わたしの愛に留まりなさい。わたしが父に対してそうであったように、あなた方もわたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていられるのだから。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハ15:12-15)
 あなた方はわたしによって選ばれた人。今後あなた方が、出掛けた先で実を結んでその実が残るように、あなた方がわたしの名によって父へ願うことが与えられるように、わたしはあなた方を任命した。
 忘れないで。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 ヨハ15:18-16:4a〈迫害の予告〉
 世があなた方を憎むなら、まず世がわたしを憎んでいたことを思い出せ。わたしがあなた方を世から選び出し、結果、あなた方は世に属すことがなくなった。もしわたしに選ばれていなかったなら、あなた方は世に属し、結果、世に愛されていたことであろう。
 人々がわたしを迫害するなら、あなた方も人々から迫害される。もし人々がわたしの言葉を守ったなら、かれらはあなた方の言葉をも守ったに違いない。
 世は、人々は、あなた方をわたしゆえに迫害するようになる。世は、かれらは、わが父なる神を知らないからだ。わたしは人々に自分の罪を思い起こさせ、弁解の余地を与えなかった。わたしがかれらに話したからである。これまで誰も行ってみせなかった業をわたしはかれらへ見せたが、これによってかれらはわたしのみでなくわが父をまで憎むようになった。
 が、これらのことは、かれらの律法に書いてある言葉が実現されなくてはならないために行われるのである。
 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(ヨハ15:26-27)
 人々はあなた方を弾劾し、迫害し、会堂から追放するだろう。「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」(ヨハ16:2-3)
 そのときが来た時にあなた方が思い出すように、と、わたしはいまこのことを話している。

 イエスの昇天後、世に残された使徒たちは師の名ゆえに社会から迫害される。が、かれらはイエスへつながり続けたゆえに良い実を結び、更に良き実を結んだ。──使徒による初期キリスト教の布教とそれに伴うかれらの殉教をイエスは予告するのだ。
 「ヨハネによる福音書」が書かれた時代、イエスに直接従った使徒たちの活動は終わっていたか、或いは終盤にさしかかる頃だったろう。それは別のいい方をすれば、イエスと、生前のかれに従った11人の使徒たちの意思を汲み、会うたこともないイエス・キリストの教えを伝えてゆくことを選んだパウロやマルコ、ルカ、ステファノのような人々が登場して活動する時代の訪れでもあった。
 本福音書の著者はかれらの活動を直接間接に知っていたことであろう。いったい本章の筆を執る著者の胸には、どんな思いが去来していたことであろう。「使徒言行録」やパウロ書簡、公同書簡を読み終えてから、この第15章を読み返した時、わたくしはいったいなにを思うだろう。どんな感慨を胸のなかに覚えることだろう。その日は、いつ?
 それにしてもヨハ15:9「わたしの愛にとどまりなさい」とは、まこと心の奥底へまで響いてくる言葉であるなぁ。

 本日の旧約聖書はヨハ15:25と詩35:19並びに同69:5。



 わたくしも怪談実話<っぽい>ものを書いてみようと思うた。
 ──
 ガラス製の机にiMacを置いて、この原稿を書いている。当然足やら床やらが天板から透けて見える。最初にこの机を買ったときは、上にiMacを置くのですら戦々恐々とし、ちょっと厚めの辞書や地図を傍らへ載せて開くたび、耐荷重には程遠い重量にしかならぬのに割れたりしないかなぁ、そのうち或る日突然天板のガラスが粉々に砕けてiMacは破片ごと落下してわたくしの足を直撃、壊れてしまうんじゃないか、と疑心暗鬼になるった。が、馴れとは怖いものでいつの間にやら机の上にはそれなりに嵩のある資料が山積みとなり、山の下の方から資料を引っ張り出しては上に積み重ね、を繰り返している。そうね、天板の下が透けて見えた違和感やめまいを起こしそうな浮遊感も、いつの間にやら克服できていた。
 話は変わるが、「呪いのビデオ」シリーズに代表される心霊動画の番組が好きで昼夜を問わず楽しく観ている。が、登場する霊の登場パターンがあまりに類型化していることだけが気に喰わぬ。もしかすると異界には、生者のヴィデオ・カメラへ映りこむいちばん効果的かつ基本的な方法、なんていうマニュアルが存在し、それをテキストとして採用した講義でもあるのではないか、とさえ疑ってしまう程にパターン化されているのだ。たとえば、窓の外の足場もないような所から半身をせり出して室内を恨みがましい目つきで覗きこんでいたり、部屋の奥の方の家具の陰から顔1/4を見せたあと一旦消えて数秒後には画面左下から唐突に現れて焦点の定まらぬ目をこちらに向けてみせたり、屋外でカメラを偶然向けた先に立っていたり追いかけてきたり、とか、エトセトラエトセトラ。実に飽き飽きしている。
 そうした映像を観るたび、コイツら暇なんだな、とか、重度の構ってチャンに違いない、とか思うてしまう。そうして自分も<視える>ものだから夜分にお墓参りへ行くと(この時間帯になってしまう然るべき理由があるのだ)、そこに居着く、わたくしとは縁も所縁もない霊どもがわたくしの前にやって来たりする。生きている人間を驚かせたいのか、伝えたいこと/訴えたいことでもあるのか、霊の世界でもボッチなものだからせめてSNSの如く生者と「つながり」を持ちたいとでも考えたのか、それともまったく別に事情や理由があるのか、さっぱりわからぬ。せめてその辺はきちんといってくれなければ、こちらも対処のしようがない。どうであれ、断言できるのは、どうしてその類い稀なる、生者には真似できないようなレヴェルの自己PR、セルフ・プレゼンの能力を生きているうちに発揮しなかったのか、ということ。まったくもう、ぷんぷんしたくなるよ。
 iMacを置いたガラス机に向かって、溜め息交じり・鼻歌交じりにこの原稿を書いている。冒頭で述べた通りだ。机の下を這うケーブル類が見える。ジーンズを履いて裸足なわが2本の足も見える。傷付き防止マットを敷いたフローリングの床も見える。お近附きになった覚えのない女の亡霊の顔も、両足の親指の間に見える。首から下はない。口はムンクのようにアルファベット大文字の“O”の形に開き、目は白眼で瞳はない。もしかすると閉じた目蓋を白のポスターカラーで塗り潰しているのかもしれない。こいつはいまのように机の下からばかりでなく、時には視界の外から前触れなしに出現して、わたくしとiMacの間の空間に割りこんで執筆の邪魔をする。だからコイツらは重度の構ってチャン、或いは左巻きなどと揶揄されるのだ。
 わたくしは迷惑している。どんな事情が連衆にあるのか知らぬが、生きている人間、しかも無縁の人間の気に障るようなことはしないでいただきたい。そんな奴は嫌いだ。成仏することに失敗したなら、せめて成仏できるように徳を積み、生まれ変わったら真っ当に太陽の下を歩けるような人生を送ろう、と建設的な未来を想像していればよい(もしかすると生きている人間を不快にさせ、怖がらせ、驚かせ、かつカメラに映ることが成仏するための条件なのか!?)。それもできぬなら、ウナギやアナゴのように土管のなかで肩寄せ合って暮らしておれ。調理しても美味くはないだろうがな。
 今度出てきたら、おいお前、小便かけたるからな。◆

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第2022日目 〈ヨハネによる福音書第14章:〈イエスは父に至る道〉&〈聖霊を与える約束〉withあと何ヶ月ぐらいで読み終わるんだろう?〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第14章です。

 ヨハ14:1-14〈イエスは父に至る道〉
 イエスはいった、──
 心を騒がすのはやめて、ひたぶるに神を信じ、わたしを信じなさい。父の家には住まう場所がたくさんある。もしなければわたしが先に行って、その場所を用意して、戻ってきてあなた方を迎えよう。わたしがいるところにあなた方もいるとは、こういうことである。
 あなた方はわたしの行く所、そこへの道も知っている。トマスよ、お前はそれを知らないというのか。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らねば何人も父の許へは行けぬ。
 あなた方がわたしを知るなら即ち父をも知る。否、あなた方はもう父を見ている。フィリポよ、これだけ長く一緒にいたのに、お前は父の姿を見ていないのか。わたしを見る者は父の姿も見るのだ。
 わたしの言葉は父の業から生まれる。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハ14:11)
 わたしを信じる者はわたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うことになる。わたしが父の許へ行くからだ。わたしの名によってなにかを願うなら、わたしがそれをかなえてあげよう。

 ヨハ14:15-31〈聖霊を与える約束〉
 あなた方はわたしを愛し、わたしの掟を守る。わたしは父に願おう。すると父はあなた方の許へ別の弁護者を使わし、永遠にあなた方と一緒にいられるようにしてくれる。この弁護者とは即ち真理の霊である。世はこれを見ようとも知ろうともしないが、あなた方はこの霊を知っている。あなた方の内に在って、これからもあなた方の内に留まるからだ。
 わたしはあなた方を孤児にはしない。かならず戻ってくる。しばらくすると、世はわたしをもう見なくなるが、あなた方はわたしを見る。わたしが生きているのであなた方も生きる。かの日になれば、わたしが父の内に、あなた方がわたしの内に、わたしがあなた方の内にあることが、あなた方にもわかるようになる。
 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハ14:23)
 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハ14:26)
 わたしはあなた方に平和を残し、わたしの平和を与える。
 心を騒がせるな、怯えるな。わたしは去るがまた戻ってくる。わたしのこの言葉をあなた方は聞いた。わたしを愛するなら、わたしが父の許へ行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大だからである。
 わたしはこのことを、事が起こる前に語っておく。事が起こったときにあなた方が思い出し、わたしを信じるようにである。
 さあ、もうすぐ世の支配者が来る。が、かれはなにもできない。世はわたしの父への愛、わたしが父に命じられて行うことを知るべきである。──諸君、立て、出掛けよう。

 第14章は難しかった。「ヨハネによる福音書」自体が一筋縄ではゆかぬ書物だから、こうして手こずるところがあるのは当然なのだが、いや、それにしても読書中何度頭を抱え、心を曇らせ、嗟嘆し、どう逃げの一手を打とうか、と考えたことであったろう。
 いちばん引っ掛かったのは、第16節「(別の)弁護者」と第17節「真理の霊」だ。正直に申せば、わたくしがいつも持ち歩いているフランシスコ会訳の註釈もわかったような、わからないような、であり、架蔵する、質も量もお粗末な関連書を繙いてみても雲を摑むような説明で、筆を抛ちたくなる。こうした事態に直面するに至ってようやく、来月のお給料で岩波訳の新約聖書1巻を購おうかな、と真剣に考え始めるわたくし。
 ──本章は実に難物だ、という感想を今日は認めている。同時に第14章でのイエスの台詞は、単純、簡明な言葉ばかりでありながら技巧が凝らされた、レトリックの見本とでもいいたいような文章である。もっともギリシア語原文など外国語を点検したわけでないから、あくまで日本語訳のみを対象とした意見だが。
 従ってきちんと文章をたどってゆけば初歩的理解は可能だ。ただ単語の意味を検討し、思想として捉えようと足を踏みこむと、途端に呆然自失してしまうのだ。手も足も出ない、とはこうしたことをいうに相違ない。
 新共同訳の余白に書きこんだメモを最後に紹介させていただく(原文ママ)──ヨハ14:15-31は一寸わかるのに困難である。が、殊更難しく考えたり、学問的に考えたりしようとするとわたくしのような読者は痛い目に遭うことだろう。又、ここから先、一歩も読み進めなくなるだろう。一読者としてそのままに読み進めよ。



 ざっと計算してみると、未読の新約聖書の章数は170程であった。
 つまり、ほぼ半年、毎日読んで読了するだけの分量が、この先に控えているわけだ。ここにエッセイの期間が合計約3ヶ月強加わるから、余裕を持たせてあと10ヶ月ぐらいで新約聖書の、延いては聖書読書が完了する計算となる。
 10ヶ月……わたくしが怠惰に襲われることなく、日常にかまけてサボったりすることさえなければ、2016(平成28)年5月中にはかの日を迎えることとなる。
 んんん、遅くとも梅雨入り前には全巻読了、原稿擱筆と相成りたいものだなぁ、と希望しております。◆

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第2021日目 〈ヨハネによる福音書第13章:〈弟子の足を洗う〉、〈裏切りの予告〉他with見たいものは見ることができない。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第13章です。

 ヨハ13:1-20〈弟子の足を洗う〉
 過越祭の前日になった。既に悪魔はイスカリオテのユダに裏切りの考えを抱かせていた。
 イエスはいよいよ自分がこの世から父の許へ移る時が来たのを悟ってすべての弟子たちを愛し抜き、また、父がすべてを自分にゆだねたこと、自分が神の許から来てそこへ帰ろうとしていることを悟り、晩餐の途中で弟子たちの足を洗い始めたのである。イエスはいった。なぜ自分がこのようなことをしているのか、あとになってわかるようになる。
 「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』」(ヨハ13:8-10)
 イエスは再び席に着いて、いった。わたしはあなた方に模範を示した。わたしがあなた方の足を洗ったように、あなた方も互いの足を洗うようにしなさい。「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」(ヨハ13:16-17)
 が、わたしはあなた方皆についていっているのではない。わたしのパンを食べる者がわたしを裏切る、という聖書の言葉(詩41:10)は実行されなくてはならない。事が起こる前にわたしはいっておく。事が起こったとき、わたしはある、ということをあなた方が信じるようにである。

 ヨハ13:21-30〈裏切りの予告〉
 続けてイエスは心を騒がせ、こう断言した。あなた方のうちの1人がわたしを裏切る。
 シモン・ペトロがイエスの隣に坐る、イエスの愛した弟子に、裏切るのは誰か訊け、と合図した。イエスに愛された弟子はイエスに訊ね、イエスは答えた、──。
 わたしがパン切れを(ぶどう酒に)浸して渡す相手である。その者がわたしを裏切る。
 イエスは「パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」(ヨハ13:26-27)
 為さんと欲することをただちに為せ。イエスはイスカリオテのユダにそういった。ユダはパン切れを受け取ると、そのままそこから出て行った。

 ヨハ13:31-35〈新しい掟〉
 ユダが去ったあと、イエスはそこに残った11人の弟子たちに向かって、いった。
 いま、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光を受けた。人の子によって神が栄光を受けたなら、神も人の子へ栄光を与える。あなた方よ、わたしはいましばらくあなた方と共に在る。あなた方はわたしを捜すだろうが、既にユダヤ人たちへいうておいたように、あなた方はわたしのいるところへは来られない。
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ13:34)
 互いに愛し合うなら、あなた方は自分がわたしの弟子であることを知るようになる。

 ヨハ13:36-38〈ペトロの離反を予告する〉
 あなた方はわたしのところへ来ることができない。イエスのこの言葉を聞いてシモン・ペトロが、どうしてあなたのいるところへ行けないのですか、あなたへ付いてゆけるならわたしは命を捨てます、といった。
 イエスはペトロの告白をやんわりと否定して、こういった。鶏が鳴くまでに3度、あなたはわたしを知らないという。

 ルカ22:3でもユダの裏切りにはサタンが関与したことが記されている。そのことをヨハ13:2及び27はもっと踏みこんだ記述で触れている。「創世記」の頃からサタンは多くの人の心を惑わし、翻弄させたが(アダムとエバ、ヨブなど)、その1つの完成形、終着点ともいえるのが、ユダによるイエス裏切り/処刑とするのは至極当然か。また本福音書に於いてサタンがイエスを誘惑する場面はなかった。その代わりにユダを背かせ、人の子の地上での生涯に引導を渡した。やはりサタンはイエスの敵対者であり、イエスの活動の軛役となる存在のようだ。
 共感福音書でイエスはファリサイ派の人と、律法でいちばん大事な掟はなにか、について問答を交わした。それは2つあって、そのうちの1つが、レビ19:18にある「隣人を自分の如く愛せ」であった。これをイエスは最後の晩餐に於いて新しい掟として(ユダを除く)11人の弟子たちへ与えた。どれだけ様々のことを宣べ伝えてもイエスの教えの中核を成すのが、互いに愛し合え、という、極めてシンプルかつ最も実現の難しいことであるのを改めて実感。信じる者は救われる、それは神の前に平等であるがため。その根幹を成すのが、新しい掟としてイエスが弟子たちに説いた<博愛>である。
 互いに愛し合いなさい—隣人を自分の如く愛せ、とは、汝の敵を自分の如く愛せ、というのとなんら変わるところはない。こうした平等と博愛の精神を是とする教えが浸透した世界は、なんとすばらしく、なんと肩身の狭い思いをすることだろう。

 本日の旧約聖書はヨハ13:18と詩41:10、ヨハ13:34とレビ19:18。



 某所のスターバックスにて本稿執筆中。壁一面がガラス張りになっている。床上10数センチのところから約6、7メートル上の天上のほぼ際まで、厚さ3センチばかりの強度あるガラスが嵌めこまれている。そこに面したカウンター席のいちばん端で、本稿の筆を執っている。
 時刻は間もなく21時。店内の照明は明るい。細かい活字を読むにもさしたる支障はない程に。カウンターの上にはスポット照明が吊されている。ふと目を正面にやれば、ガラスには自分の姿が映り、隣席の人、店内を歩く人の姿が映し出されていた。
 いつしか頭に白いものが混じって目立つようになり、メタボの1、2歩手前の図体をした自分が映るガラスの向こう側は、中心に人工のせせらぎが流れ、それに沿ってベンチが置かれ樹木が植えられた、散歩するにはもってこいの遊歩道だ。やや強めの風が吹いて、木の枝を揺らしている。そこを、絶え間なく人が行き交う。時刻は21時00分──。
 ガラス壁は店内の人々と外を歩く人々の姿を重ねて映し、時には見分けがつかないぐらいの光景を眼前に示す。が、そこに知った人の姿はない。恋い焦がれる人の顔は、そこにはない。余計なものばかりが見えて、肝心要のものはなにも見えない。消えろ、消えろ、現れよ、すは。姿がないのは不信のゆえか、君よ。疑わずとも心は1つ所へしか向いていないのに。わたくしのアルウェン、わたくしのラキシス。約束の地へ行けるのは、いつ?◆

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第2020日目 〈ヨハネによる福音書第12章:〈ベタニアで香油をそそがれる〉、〈ラザロに対する陰謀〉他〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第12章です。

 ヨハ12:1-8〈ベタニアで香油をそそがれる〉
 過越祭の6日前。ベタニアの町ではイエスのための夕食が用意されていた。人々と共に死からよみがえったラザロもその席にいた。
 途中、ラザロの姉妹マリアが席を立ち、壺を抱えて戻ってきた。中身は非常に高価で純粋なナルドの油、約1リトラ(約326ℓ)だ。彼女はそれをイエスの足に塗り、自分の髪でそれを拭った。家中が香油の芳香に満たされた。
 これをイスカリオテのユダが見咎め、マリアに、どうしてそれを300デナリオンで売って貧しい人々へ施さないのか、いった。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」(ヨハ12:6)
 そんなユダをイエスは制した。この人はわたしの葬りの日のために油を取っておいたのだ。貧しい人はあなた方と共にいるが、わたしはいつまでも一緒にはいられない。

 ヨハ12:9-11〈ラザロに対する陰謀〉
 祭司長たちはラザロのことゆえにこれまで以上に多くのユダヤ人が離れてイエスを信じるようになったのを承け、イエスばかりかラザロをも殺そうと謀った。

 ヨハ12:12-19〈エルサレムに迎えられる〉
 イエス、来たる。──過越祭の5日前、エルサレムへ来ていたユダヤ人たちはそれを聞くと、ナツメヤシの枝を持ってかれを出迎えに行った。詩篇の一節を引いた讃美の言葉で、かれらはイエスを出迎えた。ホサナ。
 イエスはロバに乗って、エルサレムへ入った。12預言者の1人ゼカリヤがあらかじめ告げていたようにである。
 弟子たちははじめこれらのことがわからなかった。イエスが栄光を受けたあとでようやく、詩篇も預言者もイエスのことを語っていたのだ、と知ったのである。
 ラザロのよみがえりを目撃した人々はその証しをしていた。エルサレムのユダヤ人たちが歓喜してイエスを迎えたのも、ベタニアでのラザロの一件を伝え聞いて、知っていたからである。
 ──この様子を見てファリサイ派の人々は頭を振った。かれらは互いに、もうなにをしても無駄だ、世をあげてあの男に従いていったではないか、といった。

 ヨハ12:20-26〈ギリシア人、イエスに会いに来る〉
 過越祭のためにエルサレムへ上ってきたのはユダヤ人ばかりではない。イエスの許を訪ねてきたギリシア人数人はユダヤ教に改宗したため、この時期、エルサレムにいたのである。
 ギリシア人たちはまず12使徒の1人でガリラヤ出身のフィリポに、どうかイエスに会わせてください、と頼んだ。フィリポはアンデレに相談して、一緒にイエスのところへ行き、ギリシア人が面会を求めている旨伝えた。それを聞いてイエスはいった、人の子が栄光を受けるときが来た、と。続けて、──
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハ12:24-25)
 われに仕えんと欲する者はわれに従え。それ即ちわが在る処に従う者ありきなり。われに仕え従う者を父は大切にする。

 ヨハ12:27-36a〈人の子は上げられる〉
 父よ、御名の栄光を現してください。イエスはいった。すると天から声が聞こえた。曰く、わたしは既に栄光を現した、再び栄光を現そう、と。これが聞こえたのは人々がそれを聞くことができるように、理解することができるように、である。
 イエスはいった、──
 「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハ12:31-32)
 人々は、律法に拠ればメシアは永遠にいるとのことですが、あなたが自分が「上げられる」といった、なぜですか、また人の子とは誰のことですか、と訊いた。
 イエスはいった、──
 「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」(ヨハ12:35)
 光のあるうちに光を信じなさい。

 ヨハ12:36b-43〈イエスを信じない者たち〉
 そうしてイエスは去った。が、人々はイエスの起こした業、徴を目撃しながらもかれを信用しなかったのである。実はこれらのことは既に、預言者イザヤによって告げられていたことだったのだ。即ち、──
 「(人々がイエスを信じなかったのは、)預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。』彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。/こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。/わたしは彼らをいやさない。』イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」(ヨハ12:38-41)
 最高法院の議員たちのなかにもイエスを信じる者は多くいた。が、それを公に述べることはしなかった。会堂から追放されるのを恐れ、それ以上に神の誉れよりも人から受ける誉れを好んだからだった。

 ヨハ12:44-50〈イエスの言葉による裁き〉
 わたしを信じる者はわたしを遣わした方を信じるのである。わたしを信じるのではない。
 わたしを見る者はわたしを遣わした方を信じるのである。わたしを信じるのではない。
 わたしは光としてこの世に来た。わたしを信じる者が1人として暗闇のなかに取り残されることがないようにである。
 わたしの言葉を聞いても守らない者がいる。わたしはその者を裁かない。裁き手は他にいる。終わりの日にかれらを裁くのはわたしの言葉だ。
 わたしは自分勝手に語るのではない、わたしを遣わした父が語るよう命じた言葉を世の人へ伝えているのだ。即ちかれらを裁くのは父の言葉である。
 わたしは世を裁くために来たのではない。世を救うために来たのである。父の命令は永遠の命であると知れ。

 世の人々──ユダヤ人、異邦人、信じる者、疑う者、忌む者らにイエスが示した最後の言行である。このあとは弟子たちと、最高法院の議員や大祭司など敵対者に示すのみだ。表面をなぞるのは簡単だが、本章は立ち止まってじっくり読まねばならない。読む程に深みとあたたかさの伝わってくる箇所だ。わたくしも「ヨハネによる福音書」読書ノートが終わったら、改めて本章から以後を読み返してみるつもりである。
 イエスが神の子、この世に現れた神の代理人、中継役であることを雄弁に語った本章を経て、「ヨハネによる福音書」は明日から最後の晩餐の席上に於けるイエスの信仰告白(confession of faith)となる。読者諸兄よ、クライマックスはもうこの第12章から始まっているのだ。

 本日の旧約聖書はヨハ12:13と詩118:25-26、ヨハ12:15とゼカ9:9、ヨハ12:38とイザ53:1、ヨハ12:40とイザ6:10、ヨハ12:41とイザ6:1-3。◆

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第2019日目 〈ヨハネによる福音書第11章:〈ラザロの死〉、〈イエス、ラザロを生き返らせる〉他withやっとnoteの使い途が決まりました。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第11章です。

 ヨハ11:1-16〈ラザロの死〉
 エルサレム南東、オリーブ山の東麓にあるベタニアの町からマルタという女がイエスの許に遣いを寄越した。彼女(とマリア)の兄弟ラザロが死の床に就いている、というのだ。
 イエスはこれを聞いて、いった。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハ11:4)
 が、イエスはそれから2日間、ベタニアへ赴こうとはせずヨルダン川東岸に留まった。それから後、かれは弟子たちにベタニアへ行く旨告げて、対岸の土地へ渡った。そこはイエス殺害を目論む人々の地である。
 12使徒の1人でディディモとも呼ばれるトマスが音頭を取って、弟子たちもイエスに従いベタニアの町へ向かった。わたしたちも一緒に行って死のう、とトマスはそのときいった。

 ヨハ11:17-27〈イエスは復活と命〉
 ベタニアへ到着したのは、ラザロが逝って4日目のことだった。イエス到着を聞いたマルタは町の入り口まで行くと、かれの前で、もう少し早く来てくれていればラザロも死なずに済んだでしょうに、といった。また、あなたが神に願うことはどんなことであっても神は聞き届けてかなえてくれるのをわたしは知っています、とも。
 「イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。
 イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』
 マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」(ヨハ11:23-27)

 ヨハ11:28-37〈イエス、涙を流す〉
 マルタからイエスが来ていることを聞いたマリアは、家を出て未だ町の入り口に留まるイエスの許へ走っていった。そうしてマルタと同じ台詞でイエスに嘆いた。
 マリアは泣いた。彼女を追ってきたユダヤ人たちも泣いた。
 イエスは憤り、興奮して、ラザロの埋葬場所を訊ねた。ユダヤ人たちが、主よ、こちらです、とイエスをその場所へ案内した。
 イエスはラザロのことで涙を流した。それを見たユダヤ人たちは、イエスのラザロへの愛の深さを想い、また、盲人の目を開いて見えるようにしたこの人でもラザロの死は避けられなかったのか、と囁き合った。

 ヨハ11:38-44〈イエス、ラザロを生き返らせる〉
 ラザロの墓所へ赴いたイエスは、入り口を塞いでいる石を取り除けさせた。
 マルタが、もう死んでから4日も経っていますから死体の腐臭がします、とイエスに告げた。イエスはマルタに曰く、信じるなら神の栄光が見られるといったはずだ。
 そうしてイエスは天を仰いで父なる神へ感謝を捧げ、わが願いを見物人たちのためにも聞き届けよ、と訴えた。然る後、イエスはいった、──
 ラザロよ、出て来なさい。
 ……すると、死せるラザロが埋葬されたときの姿で奥津城から還ってきた。
 イエスはラザロの手足に巻かれた布や顔を覆う包みを取ってやるよう、人々に命じた。

 ヨハ11:45-57〈イエスを殺す計画〉
 ラザロのよみがえりを目撃したユダヤ人たちの多くがイエスを信じるようになった。が、そうでない一部の人はファリサイ派の人々のところへ行き、ベタニアの町でイエスが行ったことを報告した。
 「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』
 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」(ヨハ11:47-50)
 即ちカイアファはイエスが国民のために死ぬこと、否、そればかりか、離散する神の子たちを一ツ所へ集めるためにも死ぬことを、この年の大祭司として預言したのである。
 ファリサイ派の人々はこの日からイエス殺害を企んだ。これを察してイエスもその日を境に公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなくなり、荒れ野に近い町エフライムに弟子たちと共に滞在したのである。
 ──過越祭の時季になろうとしていた。たくさんのユダヤ人がエルサレムに集まってきた。人々はイエスについて噂し合った、イエスはこの祭りに来るだろうか、と。というのも、「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」(ヨハ11:57)

 生前のイエスが起こした奇跡の最右翼というべきは、このラザロのよみがえりではあるまいか。たしか〈前夜〉にてわたくしは、ラザロはイエスが死からよみがえらせた数少ない者のなかで唯一名の出る存在ではないか、と指摘した。あれから必要あって4福音書を点検する機会があったのだけれど、やはりこの指摘は間違っていなかったようだ。
 どうしてラザロのみ名が与えられた、或いは名が伝わったか、を考えたいのだけれど、イエスにとってこのラザロ、マルタ、マリア兄妹が特別な存在としてあったのだろう、とまずは思い着く。
 マルタとマリア姉妹の名はルカ10:38-39にあった。ラザロの名は記されないし、彼女らの住む村の名も同じだ。が、イエスが姉妹に会ったのは、ガリラヤからエルサレムへ上る途上のことだ。ガリラヤ出発から間もない時分に現れる挿話なので、それはユダヤ地方ではなくヨルダン川東岸ペレア地方にあるベタニアであったかもしれない。或いはもっと北──ガリラヤに近い地域であったかもしれない。というのも先を読んでゆくと、エリコ近郊で盲人を治した挿話に出喰わすからだ。マルタとマリアが住む村がユダヤのベタニアと仮定すると、イエス一行はそのあとエルサレムにはまっすぐ向かわず、一旦離れて更に北東のエリコへ行ったことになる。約3キロの位置にあるエルサレムではなく、その3倍強も離れた場所であるエリコへ!
 平安時代、国司となった貴族は任地へ向かう際、或いは京都へ帰る際、街道をまっすぐ目的地へ行くのではなく占違えなどに従って、いわば寄り道めいたことをしながら目的地へ行き、またそこへ入る際も昼は避けて夜を選んだ、という(『更級日記』など)。イエスのエルサレム行のルートもそれと大差ないのかな。ここには書かれていないけれど、なんらかの事情あってエルサレムへすぐに向かうのではなく、他の町/村へ寄ることが必要だったのだろうか。興味を引かれることである。
 福音書が複数の資料を用い、数次にわたって執筆、編纂されたことを踏まえるならば、この程度の錯誤は許容範囲というべきなのかもしれない。況んや他の福音書においてをや。ただマルタとマリア姉妹とその居住地について、「ルカによる福音書」と「ヨハネによる福音書」どちらが事実に近いかといえば、これはもう外国語も含めて諸資料を博捜、研究せねばなるまいが、わたくしは「ヨハネ」の方に軍配を挙げたい。学術的な理由からではなく、物語の書き手の側に立った際の直感と好み、そうして全体の整合性ゆえそう判断する。
 さて、イエスにとってかれらが特別な存在であったのではないか、という件だが、これは古来ラザロがイエスの親友とされ、その不幸に際してただ一人涙を見せた相手というところから類推できる話だ。敢えてラザロの死とよみがえりについて1章を割いて取り挙げたことこそ、イエスにとって、また福音書記者にとってラザロとの結びつきの深さ、強さを証してあまりあるものではなかっただろうか。甚だ単純だが、わたくしには斯く思えてならぬのだ。
 このラザロの挿話が最も印象的に扱われた文学は、個人の趣味に基づくチョイスで恐縮だが、ドストエフスキーの『罪と罰』とスティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』である。……Lazarus,come forth.



 1年程前か、noteのアカウントをなにかの必要があって取得してこの方、今日に至るまで放置している。どう使ってゆけばよいのか、ブログやFacebookと如何に棲み分けてゆくか、など考え倦ねた結果として、放置が続いている次第だ。が、noteの使い途について、昨日のクリエイターズ・ユニオンのプレ・パーティーに参加して、わずかながらも方向性が見出せたように思うている。
 つまり、noteでは原則として小説を公開してゆこうと考えている。本ブログでも他SNSでも、某web文芸誌にさえ発表しなかった作品は幾つもあるので、それを中心にして皆様の目に触れさせたい、あわよくば「スキ」をいただいたり、コメントをいただいたりしたいが、如何せん新参者であるし、はぐれ者となること常なのでそのあたりは特段期待しないが(イコールそれらを実際にいただけたなら、天にも昇るようなハッピーな気持ちになる、ということ)、それ以上に過去執筆した作品を陽の下に連れ出してあげたい。それがかなえば作者たるわたくしはひとまず満足である。
 然るにむかし本ブログにてぶっつけ本番の連載を行い、改訂の筆を執ってそのまま棚上げした短編『人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)』も改めてnoteで公開される日も来るであろう。
 もしかすると新しい舞台を用意して、いちばんスポットライトを浴びさせたいのは、この短編かもしれぬ。
 ──という次第で、夏が終わるかどうかの時期から、noteにて自作小説のお披露目を始めさせていただきたい。
 わたくしを決断させてくれた、クリエイターズ・ユニオンのプレ・パーティー参加者の皆様に、感謝。◆

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第2018日目 〈富岡ハルクさん&ひびきはじめさん「二人怪談会」に行ってきました。〉 [ヨハネによる福音書]

 本日は予定を変更して、先日お話しした<2人怪談会>の報告。話者は富岡ハルクさんとひびきはじめさん。わたくしは昼の部と夕方の部に参加させていただいたのですが、これが実に心に残るすてきな会であったのです。
 話者がいて聴衆がいる怪談会というと、会場の照明を暗くしたり、墓場や廃屋のセットがしつらえられていたり、またBGMもそれっぽいのを流して雰囲気を高めたりするのですが、今日の<2人怪談会>はそれとは真逆の会場。
 つまり、陽光は燦々(さんさん)と射し、セットなんてなにもなく貸切のバーの内装そのまま、BGMは昼の部、夕方の部それぞれが始まる際の低弦によるファンファーレ、時折話の合間にわずかな喧噪と笑い声、誰かが息を呑む音がきこえるぐらいでした。
 それは本当に怪談会なのか。そんな疑問を持たれる方も居られよう。然り、怪談会なのである。話者のお2人が語る実話怪談はそうした雰囲気の場所であってこそ、その怖さがわかる話であります。ムードたっぷりの会場でお話ししたら、怖い、と思うても、その怖さは雰囲気に呑みこまれて抱いた怖さなのか、本当に聞き手の心がその話に恐怖を感じたのか、わからないでしょう。
 わたくしも怪談実話は平井呈一翁の遺した文章に触発され、また江戸時代の実録などをきっかけにして興味を持った口でありますが、富岡ハルクさんとひびきはじめさんの淡々とした、それでも不意とした拍子に話のキモへ迫っていた話術には思わず身を乗り出して聞いたものばかりでありました。
 個人的な好みは、富岡ハルクさんの話のなかでは五寸釘の話と神社の白装束の女性の話、ひびきはじめさんの話のなかでは故郷へ帰った女性の話と、琵琶湖で水泳授業を行う生徒たちに先生がかけた一声。
 あれこれ迷って本日のベストを2つずつ挙げさせていただいたが、いずれも後者の話が正直なところ、いちばんゾッとした。思い出せば思い出す程恐怖は鮮明になり、心に浮かぶ光景は現実に近付いてゆく……いや、なんていうものを聞いてしまったのかな、自分は、という気持ちであります。
 夕方の部では神山三平太さんもサプライズで登場。一席披露されたのだが、これもまた震える話でしたね。裏社会の方宅への届け物にまつわる怪談ですが、これにもまたゾクリ、とさせられました。神山三平太さんは富岡ハルクさんとひびきはじめさんの先輩にあたる方だそうだだが、この3人の怪談を生で、間近で聞くことができることの幸運を、話を聞いて怖いと感じる一方で噛みしめたことであります。
 ──怪談会が終わったあとは、同じ会場でnote発のクリエイターズ・ユニオンのプレ・パーティーが行われた。わたくしは当然周囲に知った方はなく、孤立しかけていたのだけれど、と或る男性が話しかけてくださったのを機に、ひびきはじめさんや司会の女性、Twitterでこの会を教えてくださった女性、会の実現に向けて奔走してくださった男性らと歓談することができました。出された料理はどれも美味しくて、これだけのためにパーティー代以外のお金も支払っていいとまで思うぐらいだったのですが、なかでもキーマカレーとタマネギのオリーブ揚げ、お肉や卵他の煮物は絶品!
 そのあと2次会も催されたのだが、驚くなかれ、このわたくしはそちらにも参加したのだ。初対面の方々とどれだけ話せたのか、周囲は既に見知っているなかに自分がどれだけ入ってゆくことができたのか、正直なところ怪しいものだけれど、とても楽しかったことに変わりはありません。
 市内のホテルに宿泊するひびきはじめさんともう1人の女性を横浜駅まで見送ったあと、つい先程わたくしは帰宅した。即ち興奮まださめやらぬ頃、なのである。いま諸兄がお読みいただいている文章は暫定稿として、少しく時間を割いて後日更なる改稿を施そうと検討している。
 ますは本日の報告まで。◆

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第2017日目 〈ヨハネによる福音書第10章:〈「羊の囲い」のたとえ〉、〈イエスは良い羊飼い〉&〈ユダヤ人、イエスを拒絶する〉with岩下壮一『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫)他を買いました。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第10章です。

 ヨハ10:1-6〈「羊の囲い」のたとえ〉
 イエスはファリサイ派の人々にいった──、
 羊の囲いへの門を通らずして入る者は盗人だ。羊の囲いへの門を通って入る人は羊飼いである。門番はかれのために門を開け、羊は羊飼いの声を聞き分ける。
 羊飼いは羊の群れの先頭に立って歩き、その声を知る羊たちはあとに従って歩く。が、羊飼い以外の者に羊はついて行かない。その者の声を羊たちは知らないからである。
 ──ファリサイ派の人々はイエスがなにについて話しているか、わからなかった。

 ヨハ10:7-21〈イエスは良い羊飼い〉
 続けてイエスはいった、──
 わたしは羊の門である。わたしよりも前に来た者は皆泥棒であり、罪人だ。為に羊はかれらの言葉へ耳を傾けなかった。
 わたしは羊飼いである。わたしの声を聞き分け、ついて来ようとする羊たちを、先頭に立って導く。わたしを通って入る人は救われる。その人は門を通って牧草を見附ける。わたしは羊が豊かな命を得るために来た。
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ10:11)
 わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは囲いに入っていない羊をも導かなくてはならない。その羊はわたしの声を聞き分ける。斯様にして羊は1人の羊飼いに導かれ、1つの大きな群れとなる。
 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハ10:17-18)
 ──ユダヤ人たちはこれを聞いて、再びイエスについて議論を交わし、その意見は二分された。即ち、かれを悪霊に取り憑かれた者として忌む側と、それを否定してイエスに与する側とに。

 ユダ10:22-42〈ユダヤ人、イエスを拒絶する〉
 冬、於エルサレム、神殿奉献記念祭の時。
 神殿の境内のソロモンの回廊を歩くイエスをユダヤ人の集団が取り巻いた。お前が本当にメシアなら、はっきりとこの場でそういえ、と。
 イエスは答えた。わたしの言葉をあなた方は信じない。わたしが父の名で行う業をあなた方は信じない。その業がわたしを証ししているというのに……。というのも、あなた方はわたしが導く羊ではないからだ。わたしの羊はわたしの声を聞き分け、わたしを知っているがゆえにわたしへ従う。
 「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハ10:28)
 「わたしと父は一つである。」(ヨハ10:30)
 ユダヤ人たちはイエスを殺そうと腰をかがめて石を取った。
 それを見てイエスはいった。わたしがこれまで父の名で行った業のうち、その業のことでわたしを殺そうというのか。
 ユダヤ人たちは、どの業のことでもない、お前が神を冒瀆したから殺すのだ、といった。
 それについてイエスはいった、──
 あなた方の律法では神の言葉を受けた人が「神」と呼ばれる。そうして聖書が廃れることはない。ならばどうして父から聖なる者として遣わされたわたしが、神のこと自称したからとてあなた方に殺されなくてはならないのか。
 「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(ヨハ10:37-38)
 ユダヤ人たちはまずイエスを捕らえようとしたが、イエスは飄然と去ってかれらの前から消えた。
 ──イエスは再びヨルダン川の東岸、洗礼者ヨハネが初めに洗礼活動を行った場所へ赴き、人々に洗礼を授けた。多くの人が来て、かれから洗礼を受け、洗礼者ヨハネがイエスについて語った言葉を本当と思い、イエスを信じるようになったのである。

 聖書に於ける羊飼い(牧者)の系譜は創世記にさかのぼる。アダムとエバの次男アベルが羊飼いとなったのが最初である(創4:3)──かれの奉献物たる羊にのみ神が目を留めたことで兄カインが嫉妬し、ここに人類史上初の殺人が行われた──。その後も羊飼い、牧者は多く聖書に登場するが、やはりいちばん目立つのはダビデ王であろう。他にもアブラハムや預言者アモスらが羊飼いとして聖書に記録されている。
 イスラエル/ユダヤ人と牧羊は密接な関わりを持ち、また羊は迷いやすい動物であるため常に牧者を必要とした。ここに、聖書に於ける羊と羊飼いの喩えの根拠が見出せよう。『新エッセンシャル聖書辞典』に拠れば、「旧新約聖書に、羊を信者や国民にたとえた箇所は非常に多くあるが、最も代表的な箇所は、旧約では詩23篇、新約ではヨハ10章だろう」(P813)とある。
 が、──
 ヨハ10:11にて、わたしは良い羊飼いだ、とイエスはいう。これは「エゼキエル書」第34章第11-16節に基づく台詞である。これはとても印象深いところであるから、下に当該箇所を全文引用する。曰く、──
 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼ34:11-16)
 また、「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」(エゼ34:23)ともいう。ここでいう<わが僕ダビデ>が統一王国イスラエルの第2代王ではなく、やがて現れるダビデ的人物即ちイエスを指しているのは申しあげるまでもないであろう。
 神殿奉献記念祭とは、セレコウス朝シリアの暴虐王アンティオコス・エピファネス4世によって神殿が汚された神殿を、「アンティオコス4世が不遜にも聖所に入り込み、汚したその日からちょうど3年後、即ち前164年(第148年)の第9の月(キスレウの月)の25日」にユダ・マカバイが清めて奉献したことを祝う祭りである。マカ1:4:36-59にこのときの模様が記されている。本ブログでも第1616日目2/2としてお披露目済み。
 ヨハ10:16でイエスは囲いに入ってない羊をも自分は導かなくてならない、という。これはまだイエスを信じていないユダヤ人や或いは異邦人を指す。かれらは自分の声を聞き分けることであろう、そうしてわたしを通って良い牧草を見附けることだろう、とかれはいう。
 教えが着実にシリア・パレスティナを越えて伝播することを確信しているこの言葉に胸を打たれる。が、そのためには自分が死ななければならないこともこのとき既に予告しているのだから(ヨハ10:17-18)、それは自分の命と交換にして訪れる決定された未来であることがわかるだろう。ふと、生前の誹り・死後の誉れという言葉を思い出すことである。──咨!

 本日の旧約聖書はヨハ10:11とエゼ34:11-16及び23、ヨハ10:34と詩82:6。



 『ダ・ヴィンチ』誌の新刊文庫の発売表は毎月チェックしているのですが、それでもどうしたって見落としをいうのは発生するようであります。この際、ど忘れという現象は考えないこととします。
 昨日(一昨日ですか)新刊書店を歩いていたら、ちくま学芸文庫の新刊として岩下壮一『カトリックの信仰』が並んでいるではありませんか!? アメージングかつエクセレントな出来事の到来です。古書店やオークションにて高値の付く講談社学術文庫版を指をくわえて眺める日々はもう終わりだ。ちくま学芸文庫版も消費税別で2100円と溜め息を洩らしたくなる価格ですが、こちらはお給料日直後で可処分余剰金の算出は既に終わっている。というわけで、岩波文庫から出ている同じ岩下神父の『信仰の遺産』(岩波文庫)と『文語訳 旧約聖書・律法』を一緒にレジへ運び、この原稿を書く合間を縫って拾い読みしていたところであります。
 わたくしが岩下壮一を知ったきっかけ、読書の感想については日を改めて報告させていただきましょう。明日は早い、もう寝なきゃ。◆

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第2016日目 〈ヨハネによる福音書第9章:〈生まれつきの盲人をいやす〉、〈ファリサイ派の人々、事情を調べる〉&〈ファリサイ派の人々の罪〉〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第9章です。

 ヨハ9:1-12〈生まれつきの盲人をいやす〉
 神殿をあとにしたイエスは1人の盲人と行き会った。弟子たちがかれを指して、この人の目が見えないのはかれか両親かが罪を犯したからでしょうか、と訊いたのでイエスは答えた。誰の罪によるものではない、神の業がこの人に現れるためだ。イエスは続けた、──
 「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(ヨハ9:4-5)
 そうしてイエスはその場にしゃがみこむと、地面に唾し、唾した土をこねるとそれを盲人の目に塗った。シロアムの池に行って目を洗いなさい。そうイエスがいったので、かれはその通りにした。すると、目が見えるようになった。
 ──かれの目が見えないことを知っている人々が、どうして目が見えるようになったのか、と訊いたので、かれはイエスが自分に行い、いったことを教えた。人々はイエスの居場所を知りたがったが、かれは知らなかった。

 ヨハ9:13-34〈ファリサイ派の人々、事情を調べる〉
 このことを聞いたファリサイ派の人々は、さっそくその人を連れて来させて事情を調べた。
 ──イエスがこのことを行ったのは安息日であった──
 ファリサイ派の人々がかれに、お前はその者を何物と思うか、と問うた。かつての盲人はイエスを指して、預言者です、と答えた。
 一方でファリサイ派の人々はかれの両親をも呼び出して、お前の息子は生まれつき目が見えなかったのか、どうしていまは見えるようになっているのか事情を知っているか、と問うた。両親は目が見えないのは生まれつきだが、どうしていま目が見えているのかまでは知りません、息子もいい大人なのですから本人に訊いてみてください、と答えた。というのも、この頃既にユダヤ人たちは、イエスはメシアだ、と公言する者は会堂から追放する(共同体からの除名/排除と同義)ことを決めていたからだ。両親はそれゆえ息子に訊いてほしい、というたのだった。
 そこでファリサイ派の人々はもう一度、かれらの息子を呼び出して、神の前で正直に答えよ、われらはあの者が罪人だと知っている、といった。かつての盲人は答えた、──
 「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(ヨハ9:25)
 ファリサイ派の人々がイエスについて再び問うと、かれは、それについては既に答えました、どうしてそんなに知りたがるのです、あなた方もあの方の弟子になりたいのですか、と逆に訊ねた。ファリサイ派の人々が憤り、われらはモーセの弟子だ、われらはあの者がどこから来たのか知らない、というと、このかつての盲人は答えて曰く、──
 「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(ヨハ9:30-33)
 ……ファリサイ派の人々は呆れ、かつ更に憤って、かれを罪ある者と呼んで外へ追い出した。

 ヨハ9:35-41〈ファリサイ派の人々の罪〉
 ──かつての盲人とイエスは再び会った。その折、イエスは訊いた。あなたは人の子を信じるか。
 かつての盲人は首肯し、主よ、その人はどういう人でしょう、わたしはその人を信じたいのです、といった。
 イエスは答えた。あなたはもう人の子を見ている。わたしである。
 主よ、わたしはあなたを信じます、とかつての盲人は跪いた。
 イエスはいった。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハ9:39)
 ──ファリサイ派の人々がそれを聞いて、ではわれらも見えないのか、とイエスに問うた。
 イエスはいった、──
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハ9:41)

 イエスについての問答の主役は、結局はイエスを信じぬ、単なるトリック・スタートしか見ぬユダヤ人とイエス本人から、ファリサイ派とイエスの癒やしの業を経験してかれを信じるようになった一ユダヤ人に移った。
 やはり揺らがぬ想いの強さを感じる。どれ程相手が高圧的になろうとも信心と信念のある者はそこから一歩も退かない。本章は通読する限り、十字架の場面を除けば最も緊迫感のあるところと思う。両者の信じるところが一歩も退くことなくぶつかり合ったためであろう。
 ヨハ9:30、あなた方(ファリサイ派)があの方を知らないとはふしぎです、とかつての盲人がいうのは、勿論皮肉である。あれだけ聖書を読んでいるにもかかわらず、メシアとして預言されてきて、いま現実にこの世にいるあの方の存在を知らないのですか、あなた方ファリサイ派はいったい聖書のなにを読んでいるのですか、という皮肉と揶揄。
 いや、厳しい、厳しい。イエス以外の者がここまでファリサイ派を嘲笑した場面があるというだけでも、本章は記憶し、語るに値する章だ。

 本日の旧約聖書続編はヨハ9:6とトビ11:12-13。◆

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第2015日目 〈ヨハネによる福音書第8章2/2:〈真理はあなたたちを自由にする〉、〈アブラハムが生まれる前から「わたしはある」〉他withちかごろの本の購入事情〉 [ヨハネによる福音書]

  ヨハネによる福音書第8章2/2です。

 ヨハ:31-38〈真理はあなたたちを自由にする〉
 イエスは自分を信じたユダヤ人たちを前に、こういった、──
 わたしの言葉に留まるならば、あなた方はわたしの本当の弟子である。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハ8:32)(真理とは神の啓示であり、神の啓示を伝えるイエスをも指す)
 するとユダヤ人たちは、われらはアブラハムの子孫で誰の奴隷になったこともない、あなたはいったい誰からわれらを自由にするのか、と訊ねた。
 イエスはいった。あなた方は罪の奴隷である。罪を犯す者は誰しも罪の奴隷なのだ。あなた方がアブラハムの子孫であるのは知っているが、しかしあなた方はわたしを殺そうとしている。というのも、わたしの言葉を受け入れようとしないからだ。
 「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」(ヨハ8:38)

 ヨハ8:39-47〈反対者たちの父〉
 これを聞いてユダヤ人たちが、われらの父はアブラハムです、といった。
 それを承けてイエスはいった。ならばどうしてアブラハムと同じ業を行わないのか。あなた方はわたしを殺そうとしているが、かれはそんなことを思うたことはなかった。聞け、あなた方は自分の父と同じことをしている。
 われらは姦淫によって生まれたのではない、われらの父は神ただ一人だ、とユダヤ人たちが抗弁した。
 それを聞いてイエスはいった、──
 あなた方の父が本当に神ならば、あなた方はわたしを愛すはずだ。が、あなた方はわたしを殺そうとしている。わたしは神の許から来て、いまこうしてここにいる。わたしは神から遣わされたのだ。あなた方よ、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」(ヨハ8:43)
 あなた方は自分の父が神だという。否。あなた方の父は悪魔であり、その欲望を満たしたいと思うている。悪魔は本性から偽りをいい、わたしは真理を語る。「あなたたちのうち、いったい誰がわたしに罪があると責めることができるのか。」(ヨハ8:46)
 神に属する者は神の言葉を聴くが、神に属さぬあなた方はそれを聞かない。
──と。

 ヨハ8:48-59〈アブラハムが生まれる前から「わたしはある」〉
 ユダヤ人たちが口々に、あなたはサマリア人で悪霊に取り憑かれている、とわれらがいうのも当たり前ではないか、悪霊に取り憑かれているからあなたはそんな妄言を吐くのだ、とイエスにいった。
 イエスはそれを否定した上で、いった。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(ヨハ8:51)
 これを聞いてユダヤ人たちがどよめいた。いまお前が悪霊に取り憑かれていることがはっきりした、と。アブラハムは死んだ、預言者たちも死んだ、お前はわれらが父アブラハムよりも偉大なのか、お前はいったい何様か、とかれらがいった。
 イエスはいった。わたしは自分自身のために栄光を求めるなどと空しいことはしない。わたしに栄光を与えるのはわが父のみであり、あなた方はわが父を(自分たちの)神と呼ぶ。あなた方は神を知らないが、わたしは知っている。わたしは自分の父を知らないといえば、わたしもあなた方同様偽りをいう者である。が、わたしはわが父、神を知っており、その言葉を守っている。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」(ヨハ8:56)
 これを聞いたユダヤ人たちがますます憤って曰く、お前はまだ50歳にもなっていないのにアブラハムを見たというのか、と。
 イエスはいった。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』。」(ヨハ8:58)
 ──人々は石を手にしてイエスに投げつけようとした。が、イエスは飄然と神殿の外へ去った。

 「わたしはある」については昨日に述べた。なおこの箇所、文語訳では「私は在りて有る者なり」となる。
 真理はあなた方を自由にする、とは話者と対象を変えて、昔から各方面で使い古された表現である。その源流はどうやら本福音書にあったようである。キリスト教社会でずっと伝えられてきたこの言葉は、おそらく如何様にも解釈できるが、ここでいう真理とは神の啓示であり、またそれを説くイエスをも指す、と、フランシスコ会訳聖書で教えられた。
 が、この言葉自体は状況などに応じて様々の言い換えが可能であろう。「真理」を「知恵」や「知識」に置き換えれば尚更だ。本来の意図はともかくとして、福音書の読書中に見掛けた言葉のなかでも好きな言葉の一つである。
 ──昨日今日と読んできた第8章は、イエスがユダヤ人社会(共同体)から拒絶され、孤立を余儀なくされたところとして記憶しておくのがよい。

 本日の旧約聖書はヨハ8:56と創17:19及び21-6-8、ヨハ8:59aとレビ24:11-16。



 アウグスティヌス『告白』(中公文庫)全3巻を買おうとしたのだけれど、第1巻しか棚になくて購入を見送りました。文庫の場合、数巻で完結するものについては1軒の書店で全巻が揃わない限り、買うのを先延ばしにして、挙げ句に買わないまま今日へ至るケースがとっても多い。
 否。ちかごろはシリーズ物でなくても、1軒の書店で買い物を概ねすべて済ませてしまいたい気持ちがとても強い。以前なら、今日はこの本屋で買い、ここで買えなかったら明日明後日、他の本屋を回って探してみよう、なんてことは当たり前だったのにね。んんん、出不精になったのかなぁ。それとも1箇所で済ませたいのは無意識に買い物欲をセーブしているからなのかなぁ……。
 嫌だな、って思います。でも、今月は下旬に村上春樹の新刊も出るから、あまり思い切った買い物は本に限らずできないのだ、という事情もあるのですね。だって本音をいえば、昨夜発表されたiPod touch第6世代、欲しいもん。◆

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第2014日目 〈ヨハネによる福音書第8章1/2:〈わたしもあなたを罪に定めない〉、〈わたしの行く所にあなたたちは来ることができない〉他渡部昇一『青春の読書』読進中。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第8章1/2です。

 ヨハ8:1-11〈わたしもあなたを罪に定めない〉
 朝早い時刻。オリーブ山の寝所からエルサレムへ来たイエスは、神殿の境内で人々が1人の女を取り巻いているのを見た。ユダヤ人たちがさっそくイエスを見附けて、その女の処遇について意見を求めた。かれらがいうには、この女は不倫をしており、情夫と交わるその現場を見られて身柄を押さえられた由。
 イエスはかれらの台詞を聞きながらしゃがみこみ、地面に指でなにか書きつけていた。ユダヤ人たちが重ねてイエスに問うた、この女をどうすればよいか意見を聞かせてください、モーセの律法では姦通する女は石で打ち殺せ、とあります、と。かれらはイエスを試そうと斯く問うていたのである。
 そうしてイエスは立ちあがり、こういった、──
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハ8:7)
 すると女を取り巻いていたユダヤ人は年長者から順に、1人、また1人と、女に石を投げることなくその場を去った。件の女とイエス以外、誰もいなくなった(then there were none)。
 イエスは女にいった。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯すことのないように。

 ヨハ8:12-20〈イエスは世の光〉
 イエスは再び人々にいった。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇のなかを歩かず、命の光を持つ。」(ヨハ8:12)
 そのあとファリサイ派の人々とのやり取りを経て、かれはこういった。わたしは自分が何者であり、どこから来てどこへ行くのか、知っている。が、あなた方はわたしについて知ることがない。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。」(ヨハ8:15-17)
 ファリサイ派の人々が、では、あなたの父はどこにいるのか、と訊ねた。
 イエスは答えた、──
 「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」(ヨハ8:19)
 これらのことをイエスは神殿の境内の宝物殿のそばで話した。イエスを捕らえようとする者があったけれど、誰もこれを果たし得なかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

 ヨハ8:21-30〈わたしの行く所にあなたたちは来ることができない〉
 わたしは去る。あなた方はわたしを捜す。が、わたしの行くところへあなた方は来ることができない。そうイエスはいった。
 人々はイエスの言葉に引っ掛かるものを感じた。われらはかれを捜せない、われらはかれの行くところへ行くことができない、とはどのような意味だろう、この人はどこかで自殺でもするつもりなのか、と、かれらは囁き交わした。
 イエスはいった、──
 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(ヨハ8:23-24)
 人々はイエスに、あなたはいったいどなたですか、と問うた。
 イエスはいった、──
 それについては初めから話している。
 続けて曰く、──
 「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」(ヨハ8:28-29)
 これを聞いた多くのユダヤ人がイエスを信じるようになった。

 ここまで読んできて思うたことだが、イエスは自分について証しする際、自らの言葉で、自発的に語っていることがない。すべては人々の問答のなかで触れられ、或いはそれを承けてイエス自身が述べている。これも「ヨハネによる福音書」に露わなことで、逆に共観福音書ではお目に掛かること稀な点に数えられよう。
 著者はルカに匹敵するぐらいの文才の持ち主である、というてよい。誤解を恐れずしていえば、「ヨハネによる福音書」の著者は、作家としてはルカと同等、史家としてはやや劣り、思想家としては卓越している。こうした能力を備えているからこそ、直接的な描写はせずとも意図するところへ正確に読者を導き、描写を複層化させることによってイエスの言葉、思想が立体的に読者の前に立ち現れるわけだ。
 本章は未だ前半ながら、読んでいて「浮かびあがる」という言葉をキーワードにして斯様な感想を抱いたのである。
 ところで、これまでにも再三出て来た「わたしはある」とは、どのような意味なのだろう。
 まだしばらく先の読書になるが、ヨハ17:5と同24が解答のヒントとなる。イエスは族長時代以前から──それこそ天地創造のときから既に<言>として存在しており、神なる主と共にあった。ヨハ17:5「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」はそれを暗に示す。
 また、読み返して確かめてみたところ、聖書全巻を通じて「わたしはある」の初出は、出3:14──ミディアンの地にてモーセが神の召命を受けた場面である。エジプトへ戻ってカナン帰還を民へ伝える際、それを命じた神の名を問われたらどう答えればいいのでしょうか、というモーセの訊ねに答えてアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が明かした名が「わたしはある」であった……。
 即ち、「わたしはある」は神なる主の別称だ。イエスはそれを自身の称としても用いている。
 ──「わたしはある」については本来なら本章後半戦の明日、述べるべきであったかもしれぬが(ex;ヨハ8:58)、話題が新鮮なうちにお披露目させていただいた。ご了承願う。

 本日の旧約聖書はヨハ8:5とレビ20:10及び申22:22。



 帰宅後のわずかな時間を縫って少しずつだが渡部昇一『青春の読書』を読み進めています。読書を中心にした自分史を読んでいるに等しいのですが、これがまた溜め息をつくような内容で、氏の幸運と切磋琢磨、揺るぎなき向上心に感服する思いであります。
 わたくしも高三の春休みに『知的生活の方法』正続を読み耽って学問に志したのに、どうしていまのわたくしはここにいて文学研究とも大学とも知的生活とも縁のない時間を過ごしているのだろう。現在が自分にとっていちばん幸せで、これ以上は望むべくもない幸福に浸っていることを否定する気持ちはまったくない。が、10代後半の向上心と知的欲望、先師を仰ぎ見て斯くあらんと欲す想いなどは、どこかへ行ってしまっている。
 こんなことをふと思い出させられて少々心が痛い読書でもあるのだが、それは抜きにしても師の語る豊饒の読書経験、知が満ちてゆく喜びを羨ましく思い、氏の尋常でない量の仕事の源泉を真に発見した気持ちでいる。
 各所に収められた書影、書斎と稀覯本にあふれたカラー写真に、ほう、と讃嘆の溜め息を洩らしつつ、今日も今日とて寝しなの10数分を本書を読んで楽しみ、健やかな眠りを得ようと思う。◆

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第2013日目 〈ヨハネによる福音書第7章:〈イエスの兄弟たちの不信仰〉、〈仮庵祭でのイエス〉他with富園ハルク氏とひびきはじめ氏の「二人怪談会」に行ってきます!〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第7章です。

 ヨハ7:1-9〈イエスの兄弟たちの不信仰〉
 ガリラヤ地方を巡回してばかりで、決してユダヤ地方へ行こうとしないイエスにかれの兄弟がいった(イエスがそちらへ行かないのはユダヤ人が自分の命を狙っているからだった)。ユダヤ地方へ悠希、かれらにあなたの業を見せつけてやれ、と兄弟たちはいうたのである。実は兄弟もイエスを信じていなかったのだ。
 ──折しも仮庵祭の時期になろうとしていた。
 まだわたしの時は来ていない。イエスはそういった。が、兄弟よ、あなた方の時はいつも備えられている。「世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」(ヨハ7:6-7)
 あなたがたはエルサレムへ上れ。わたしは行かない。わたしの時は来ていないからだ。

 ヨハ7:10-24〈仮庵祭でのイエス〉
 が、イエスはこっそりとエルサレムへ上り、祭りの間そこにいたのである。仮庵祭も中葉を過ぎて、イエスは神殿の境内で教えるようになった。この人は聖書を学び、研究しているわけではないのに、どうしてこんなに聖書に精しいのだろう、というユダヤ人たちの言葉を耳にしたイエスは、こういった、──
 「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」(ヨハ7:16-19)
 これを聞いたユダヤ人たちは、それはあなたの妄想だ、あなたには悪霊が憑いている、誰があなたを殺そうと企てているというのか、と訊いた。
 イエスは答えた。わたしが1つの業を行ったことで、あなた方は驚いている。安息日に割礼をしても気に留めぬ者が、わたしが安息日に行った業のことで腹を立てている。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(ヨハ7:24)

 ヨハ7:25-31〈この人はメシアか〉
 エルサレムの人々は説教するイエスを見て、ふしぎに思った。曰く、この人は命を狙われているのではなかったか、もしかすると議員たちはこの人をメシアと認めたのか、だからあんな風に公然と姿を見せ教えているのだろうか、と。また、われらはかれの出自を知っているが、メシアがどこから来るのかは知らない、とも。
 これを聞いてイエスは答えた、──
 あなた方はわたしのことを知っている。が、わたしは自分で勝手に来たのではない。わたしは、わたしを遣わした真実の方のところから来たのであり、その方がわたしを遣わしたのである。
 ──
 人々はイエスを捕らえようとしたが、実際に手を掛ける勇気のある者はなかった。
 群衆の間でイエスの評判は二分されていた。良い人だ、という人もあれば、かれは民を惑わしている、という者もいた。しかし誰一人として、そのことを公に口にする者はなかった。イエス殺害を計画するユダヤ人を恐れてのことである。
 が、イエスを信じる人が多くいたのも事実である。かれらは、メシアが来たとしても、この人(イエス)より多くの徴を行うであろうか、というていた。

 ヨハ7:32-36〈下役たち、イエスの逮捕に向かう〉
 イエスを厄介に思うファリサイ派の人々と祭司長たちは、何人かの下役たちに命じてイエス逮捕に向かわせた。
 イエスはやって来た下役たちにいった。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハ7:33-34)
 ユダヤ人たちの下役たちは小首を傾げた。イエスがギリシア人の間に散ったユダヤ人たちを訪ねて、その地で教えるつもりなのだろうか、と思うたのである。探しても見附けられない、とはどういう意味だろう、とかれらは訝った。

 ヨハ7:37-39〈生きた水の流れ〉
 仮庵祭の最終日、即ち第7日目。イエスはいった。
 渇いている人はわたしのところへ来よ。わたしを信じる者は聖書にもあるように、その人の内側から生きた水が川となって流れ出るようになる。
 イエスは自分を信じる人々が受け入れる“霊”について語った。このとき、イエスはまだ栄光を承けていなかったので、“霊”は降っていなかった。

 ヨハ7:40-44〈群衆の間に対立が生じる〉
 ……イエスのこの言葉を聞いて、ユダヤ人たちの間で対立が生じた。イエスをメシアと信じる人と、イエスをメシアと信じぬ者とに二分されたのだ。
 後者は主張する;ガリラヤからメシアが出るのか、メシアが出るのはダビデの町ユダヤ地方のベツレヘムではなかったのか、メシアはダビデの子孫ではなかったのか、と。
 なかにはイエスを捕らえようとする者もいたが、実際に手を掛ける者はいなかった。

 ヨハ7:45-52〈ユダヤ人指導者たちの不信仰〉
 さて、戻ってきた下役たちを、ファリサイ派の人々と祭司長たちは詰った。下役たちがすっかりイエスを信じる者となって戻ってきたからである。果たしてファリサイ派や議員のなかであの男を信じる者があるのか、あるならその者は呪われている、と、かれらはいった。
 そこへ以前イエスを訪ねたことのある最高法院の議員でファリサイ派のユダヤ人、ニコデモが来て、いった。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(ヨハ7:51)と。
 ニコデモ以外のファリサイ派の人々と、祭司長たちは呆れ、口を揃えてかれにいった。お前もイエス同様ガリラヤの出身なのかい、調べてみよ、あすこからメシアなど出ようはずのないことがわかるから。

 ルツの子孫はダビデ王である。ダビデ王の子孫がイエスである。「ルツ記」と「マタイによる福音書」の系図がそれを示し、「サムエル記・下」と「詩編」がそれを語る。
 メシアはベツレヘムで生まれる。預言者ミカの書がそれを伝う。「マタイ」と「ルカによる福音書」はイエス生誕地をユダヤ地方ベツレヘムとするための工夫を行った。が、イエスはガリラヤの小村ナザレの出身である。
 ガリラヤからメシアが出るのか、という疑問はここを突くのだ。結局この問題は、福音書のなかでは解決されていないはずなのだが、当時の人々にとってこれは至極当然の矛盾であり、論う点ともなったのだった。かれらの糾弾の前にニコデモの弁明と擁護は不発に終わったようである……。
 本章は昨日の第6章の、別の角度からのアプローチと思う。わかりやすさでは断然こちらに軍配が上がるだろうね。
 ──ここで唐突に申しあげるようで恐縮だが、正直なところ、わたくしは自分をイエスに準えたくなるときがあるのだ。なにも自分がメシアである、とか痛い話をするのではなく、<迫害>という一点においてのみ斯く思うのだ。
 イエスには12人の弟子がいた。皆が皆、人徳優れたる者ではなかった様子だが、かれらはユダという例外を除いて全員師たるイエスへ従い、その高徳と教えを<迫害>の逆風にめげることなく辛抱強く、だが着実に広めていった。また、名のない数多の人々がイエスを信じ、かれをメシアと思うた。が、かれらを足して倍しても足りぬぐらいの数の、敵対者/迫害者がいた。
 これ、実はいまのわたくしが置かれた状況に極めて似るのだ。わたくしを守ってくれる、いつもと違わず接してくれる、信じてくれる、励ましてくれる、大切な人々がいる。が、それを倍しても足りぬぐらいの敵がいる。それは潜水艦の如き眼下の敵、水面下の敵、高性能なレーダーを以てしても探知できるか不明の敵。
 陰で巧妙に何事かを策謀し、表面ではなにもないかのように笑顔を見せる衆がいる。かれらは無言の迫害と無言の封じこめ/追いこみを専らとする。味方は誰か、真なる味方は果たして誰か。敵は何処にいるのか。誰が真なる敵なのか。
 わたくしはわずかな友を頼りにここで生きる。敵は視界の外へ。こんなことゆえにわたくしは、今日読んだ挿話の幾つか、たとえばヨハ7:25-31〈この人はメシアか〉の人々のイエス観に、わたくしは自分を重ねてしまったのだ。がイエスの迫害/受難に自分を重ねてようやく精神を振るわせて立ちあがろうとする者は、これまでも果たして何万人となくあったはずである。そこへ自分を列しようというのだ。後ろ指指されることも、冷笑されることも、況んや中傷と嘲笑を浴びる謂われなどまったくない。それを敢えて行おうとする輩たちよ、あなた方に「人を呪わば穴二つ」という真実なる諺を進呈しよう。
 イエスに自分を擬えるとは、なんと浅薄であろうか、と思う。が、今日も「ヨハネによる福音書」を読んでいてイエスに現在の自分を重ね合わせたのである。これについて、誰が呵々大笑なぞできようか。わが真なる癒しの者は何方に? 悠久の希望は絶えてしまったのか──。

 本日の旧約聖書はヨハ7:22と創17:10-14及び21:4並びにレビ12:3、ヨハ7:42aとサム下7:12-16並びに詩89:4-5、ヨハ7:42bとミカ5:1。



 TwitterでフォローしているMacブロガーのゆこびんさんから、富園ハルク氏とひびきはじめ氏の二人怪談会のツイートが流れてきました。
 数日迷いましたが、ほぼ2ヶ月ぶりの連休という幸運も手伝って、このみくらさんさんかが重い腰をあげて会場へ顔を出す予定です。
 わたくしの顔を知っている人など居らぬだろうが、後日感想を本ブログにてお披露目したとき、もしかしてあの人なのかなぁ……、と思えてもらえたら、ちょっとうれしい。◆

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第2012日目 〈ヨハネによる福音書第6章:〈イエスは命のパン〉、〈永遠の命の言葉〉他〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第6章です。

 ヨハ6:1-15〈五千人に食べ物を与える〉
 イエスは自分に敵意と殺意を抱くユダヤ人たちに述べたあと、ティベリアス湖の別称を持つガリラヤ湖の対岸へ舟で渡り、そこの山へ登った。群衆もそれに付いていった。折しも過越祭を迎えようという時期だった。
 弟子の1人フィリポにイエスは訊いた。自分に付いて来た人々に食べさせるパンを、いったいどこで買えばいいだろう。これはフィリポを試みるための質問だった。このときのフィリポの答えは、たとい200デナリオンあったとしてもかれら全員にパンを与えることはできないでしょう、というものだった。
 また、12使徒の1人、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、ここに5個の大麦のパンと2匹の魚がありますが、これもかれらの腹を満たすには足りないでしょうね、といった。
 イエスは弟子たちに命じて人々を坐らせるとパンを取り、感謝の祈りを唱えてからパンを割いて人々に分け与えた。魚についても同じようにした。
 人々が満腹になったあと、イエスは残ったパン屑を集めるよう命じた。そうして与えられたパン屑は、実に籠12杯分にもなったのである。
 群衆はイエスの行った徴を見て、かれこそこの世に来た預言者だ、と信じ、かれをイスラエルの王に祀りあげようと考えた。が、イエスはそれを察して、人々の許から去って再び山へこもったのだった。

 ヨハ6:16-21〈湖の上を歩く〉
 その日の夕方、弟子たちはカファルナウムへ戻ろうとガリラヤ湖に舟を出した。やがて湖上に強風が吹き始め、嵐となった。逆巻く風、荒ぶる波に舟は立ち往生した。
 岸を離れて5キロ前後進んだあたりで、弟子たちは湖の上をこちらに向かって歩いてくるイエスを見た。かれらは恐怖して震えた。とてもではないが人間にできる業とは思えなかったからだ。
 かれらに近附いてイエスはいった。わたしだ、恐れたりするな。
 イエスが舟に乗りこむと、風はやみ、波は静かになった。舟は無事、カファルナウムに到着した。

 ヨハ6:22-59〈イエスは命のパン〉
 翌る日、人々はイエスがいないのに気附き、捜し求めてカファルナウムへ戻った。その地で見附けたイエスにかれらは、ラビよ、いつここへ戻ったのですか、と訊ねた(「ラビ」とは「先生」の意味である)。
 かれらにイエスはいった。あなた方がわたしを捜し求めたのは、徴を見たからではない。分け与えたパンを食べて満腹になったからに過ぎない。あなた方はあわよくば再びそれにあやかろうとしている。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハ6:27)
 また、イエスはこうもいった。荒れ野を彷徨うイスラエルにわが父が天からマナを降らせて与えた。これはモーセが与えたのでは、けっしてない。神のパンは天から降り、世に命を与える。あなた方は知りなさい、「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハ6:35)
 父がわたしに与える者は皆、わたしのところへ来る。その人たちをわたしはけっして追い出さない。わが父の御心を行うためにわたしは来た。わが父の御心とは、わたしに与えた者を1人も失うことなく終わりの日に復活させることだ。わが父の御心とは、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」(ヨハ6:40)である。
 ──わたしは天から降(くだ)ってきた、わたしは命のパンである、というイエスの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは訝った。この人はナザレの出身で、大工のヨセフの子だ。母はマリアだ。われらはこの人のことも、この人の両親のことも知っている。なのにどうして、自分は天から降ってきた者だ、などというのだろう。かれらは斯く訝しみ、呟き、囁き交わした。
 それを聞いたイエスはユダヤ人たちを制した。わが父が引き寄せてくれなければ、誰もわたしのところへ来ることはできない。わたしはその人を、終わりの日に復活させる。「預言者の書に『彼らは皆神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(ヨハ6:45-46)
 わたしイエスは命のパンである。わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べる人は永遠に生きる。わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉のことである。
 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハ6:53-58)
 (これはイエスがカファルナウムの会堂で常より教えていたのと同じであった)

 ヨハ6:60-71〈永遠の命の言葉〉
 ──が、弟子たちの多くはイエスの言葉を聞いて憤慨した。実に非道い話だ、こんな話を聞いていられるものか、というて。
 あなた方はこの程度のことでつまずくのか。イエスはいった。命を与えるのは“霊”であり、肉はなんの役にも立たない。あなた方のなかにはこのことを信じない者がいる。
 イエスは自分を裏切る者を知っていたので、こういったのである。
 かれは続けてこういった、──わが父が引き寄せてくれなければ、わが父の許しがなければ、何人もわたしのところへ来ることができない、といったのはこういう理由からである、と。
 ──これを聞いて殆どすべての弟子がイエスから離れ、去り、二度とかれのところへ戻らなかった。
 イエスは残った12人にいった。あなた方も去るのか。
 シモン・ペトロが、誰のところへ行きましょうか、主よ、あなたは永遠の言葉を持つ方、われらはあなたこそ神の聖者と信じます、と答えた。
 イエスはそれを承けて、こういった。あなた方12人を選んだのはわたしである。が、そのうちの1人は悪魔だ。
 イスカリオテのユダがやがて自分を裏切ることになるのをイエスは既に知っていた。

 ユダについていうと、これは最初の裏切りの予告というてよい。ユダがこれを実行に移すのはもう少し先の話にあるが(ヨハ6:13:27,30)だが、果たしてこのときユダの心に裏切りの計画はあったかどうか。裏切りの動機はあっただろうか。ユダが師を敵に売り渡す動機とされるベタニアの香油の一件もしばらく先の話である(ヨハ12:1-8)。
 ユダ本人はまだ与り知らぬところであっても、かれの裏切りは既に決定されていたのかもしれない。イエスにはその確定した未来が見えていたのか。すくなくともいまいえるのは、本章の当該節がイエス逮捕-裁判-磔刑-復活というクライマックスの事実上の幕開けとなっていることであろう。
 本音を告白すれば、〈イエスは命のパン〉と〈永遠の命の言葉〉は本章の中心を成すものであり、「ヨハネによる福音書」で語られるイエスの教えのなかでも殊に重要な位置を占めるものと思うがためにこそ、わたくしはここにわずかな自分の言葉を付けることに難しいものを感じている。短いなかで同じ内容が表現を変えて繰り返され、また一部については「どうしてここで、わざわざ話をぶった切ってまでこの一文を挿入するのかなぁ」と小首を傾げてしまう点がある。そうしてこの2つの挿話自体、ちょっぴりわかりにくかったりもする。が、相も変わらず何遍も読み返していると、だんだん意味がわかってくるのも事実。従って要約すればここは、「父の引き寄せによってわたしのところへ来た者は終わりの日に復活し、永遠の命を得る」ということが語られているわけである。これを灯台の光として読めば本章にてつまずくことはないであろう(自惚れですか? すみません)。

 本日の旧約聖書はヨハ6:31aと出16:4及び15,ヨハ6:31bと詩78:24並びに知16:20,ヨハ6:45とイザ54:13a。◆

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第2009日目 〈ヨハネによる福音書第5章:〈ベトザタの池で病人をいやす〉、〈御子の権威〉&〈イエスについての証し〉with原稿のストックについて理想を述べてみる。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第5章です。

 ヨハ5:1-18〈ベトザタの池で病人をいやす〉
 或る年の過越祭にイエスはエルサレムに上った。羊の門の近くにベトザタと呼ばれる池がある。そこには5つの回廊があり、病気を患う人や体に障りのある人たちが大勢横たわっていた。
 イエスはそこを歩いていると、38年も病苦に悩まされる人と会った。その人は、池の水が動いてもわたしを池に入れてくれる人はいません、他の人が先に池のなかに入ってしまうのです、とイエスに訴えた。ベトザタの池にはときどき主の使いが降りてきて、池の水を動かし、そのとき真っ先に池に入った者は如何なる病気にかかっていようとも必ず癒やされるのだった。
 治りたいか。イエスは訊いた。起きて床を担ぎ歩きなさい。
 すると病人はたちまち良くなり、起きて床を担ぎ歩き出した。
 この間にイエスは群衆に紛れてかれの前から姿を消した。
 ──これは安息日の出来事であった。
 38年も病気で苦しんでいた人が元気に歩いているのを見て、ユダヤ人たちはかれを詰問した。立法で禁止されている安息日にお前を癒やしたのは誰なのか。が、かつての病人は答えられなかった。
 その後、イエスとその人が神殿の境内で偶会した。イエスはかれにいった。もう罪を犯すな、次はもっと悪いことが起こるかもしれない。……かれは自分を癒やした人を知り、皆に触れて回った。
 そうしてユダヤ人によるイエス迫害が始まった。
 ユダヤ人たちはイエスが安息日にこのようなことを行うのを責めた。が、イエスは答えて曰く、わが父はこの瞬間も働いている、為にわたしも働くのだ、と。
 これを聞いたユダヤ人たちは驚き、憤り、イエスの命を狙うようになった。イエスが安息日を守らぬばかりか、神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者としたからである。

 ヨハ5:19-30〈御子の権威〉
 イエスは自分に敵意と殺意を抱くかれらユダヤ人にいった、──
 父の行いを見ずして子はなにもできない。子は父の行いを手本とし、自らもそれを行う。というのも、父は子を愛し、自分のすることをすべて子に見せるからである。
 「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」(ヨハ5:20-21)
 わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を得る。また裁かれることなく死から命へ移る。
 「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハ5:25-30)

 ヨハ5:31-47〈イエスについての証し〉
 (イエスはユダヤ人たちに続けてこういった、──)
 わたしについて証しするのはわたしではない。他にいる。その方がわたしについて証しすることは真実である。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」(ヨハ5:36-37)
 あなた方は永遠の命について聖書ばかり研究しているが、そこに答えはない。聖書はわたしについて証しする物だ。なのにあなた方は永遠の命を得るためにわたしの許へ来ようとはしない……。
 あなた方のなかに神への愛がないことをわたしは知っている。誰彼からの誉れは受けるのに神の誉れは受けようとしない者に、どうして唯一の神を信じ、愛することができようか。
 あなた方を訴えるのはわたしではなく、モーセだ。モーセはわたしについて書いている。モーセを信じるならば、わたしをも信じるはずではないか。モーセが書いたことを信じない者に、どうしてわたしの語ることが信じられるというのか──。

 「ヨハネによる福音書」もいよいよ──早くも?──奥の院へ入ってきた様子である。
 イエスについての証しというのは変奏されて既に共観福音書でも述べられていた。本挿話については引用したヨハ5:36-37をしっかりと読んでいればじゅうぶんであろう。
 第5章の要となるのは、なんというても〈御子の権威〉だ。己の力不足を感じて引用が過半を占めてしまったが、ここにイエスの思想、教えの中心が完結に、明瞭に、十全に、意を尽くして表現されている、と考えてよい。
 ヨハ5:30「」とはなんとも力強く、信念に満ちた台詞ではないか。もしかするとこれは4福音書を通してイエスの名台詞ベスト5に入るかもしれない。

 本日の旧約聖書はヨハ5:29とダニ12:2,ヨハ5:46と申18:18-19。



 ノートに書き溜めておく原稿は1週間分、Macに入力済みで投稿を待つのみの原稿は5日分程度のストックがないと厳しくなってきたと思うことである。理想でしかないのが現状だけれども、それだけの手持ちがあれば有事も乗り切れるのだろうが……いざ取り掛かろうとすると難儀であるのが先に立つ。こうした状態ではヒルティの言葉も霞んでしまう。まずは取り掛かれ。が、持続されねば意味はない。Good Grief.◆

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第2008日目 〈ヨハネによる福音書第4章:〈イエスとサマリアの女〉&〈役人の息子をいやす〉withだから『LOST』はやめられない。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第4章です。

 ヨハ4:1-42〈イエスとサマリアの女〉
 ファリサイ派の人々の耳に洗礼者ヨハネよりも多くの弟子をイエスが取り、洗礼を授けている、という話が届いた。それをするとイエスはユダヤを去ってガリラヤへ行った。が、途中サマリア地方を通らなくてはならなかい。むかしからユダヤ人とサマリア人は仲が悪かった……。
 そのサマリア地方にシカルという町がある。往古ヨセフが父ヤコブから与えられた土地の近くにある町で、ヨセフの井戸があった。イエスはそこまで来ると、旅の疲れから坐りこんでしまった。かれは弟子たちを食糧の調達に出した。正午頃のことだった。
 ヨセフの井戸へ1人のサマリア女が水を汲みに来た。水を飲ませてほしい、というイエスにサマリア女は、ユダヤ人であるあなたがどうしてサマリア人のわたしに頼むのですか、と訊いた。イエスは答えた。あなたが神の賜物を知っており、飲み水を求めた相手が誰かわかっているならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたへ生きた水を与えることだろう。
 サマリア女は、どうやってその水を手に入れるのですか、あなたはわたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか、と訊いた。イエスは答えて曰く、──
 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ4:13-14)
 主よ、再た渇くことがないように、井戸へ水を汲みに来ることがないように、その水を与えてください、とサマリア女はいった。イエスは、あなたの夫をここへ連れて来なさい、とサマリア女にいったが、彼女は、自分には夫はいない、と正直に答えた。イエスは首肯して曰く、然り、あなたには5人の夫がいたが、いま一緒に暮らしているのは夫ではない、あなたは偽ることなくありのままをわたしにいった、と。
 サマリア女は、わたしたちの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたたちはエルサレムにこそ礼拝すべき場所があるといっています、といった。
 婦人よ信じなさい、とイエスはいった。続けて曰く、──
 「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ4:21-24)
 それを聞いたサマリア女は、キリストと呼ばれるメシアが来ることは知っています、その方が来てわたしたちに一切のことを知らせてくれるのです、といった。
 婦人よ、わたしである。イエスはそういった。
 ──食糧調達から戻ってきた弟子たちと入れ違うように、サマリア女は自分の町に戻り、メシアと思しき方が来ました、と宣べて回った。町の人々はこぞってヨセフの井戸にいるイエスのところへ行った。かのサマリア女の言葉ゆえにかれらはイエスを信じ、自分たちの町へ留まるよう頼んだ。そこで更に多くのサマリア人がイエスを信じた。かれらは彼女にいった、──
 「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハ4:42)

 ヨハ4:43-54〈役人の息子をいやす〉
 イエスは2日間、サマリア人の町にいて、その後ガリラヤへ向かった。いつのときであったか、イエスは、預言者は故郷では敬われない、といったことがあった。ガリラヤの人々のなかにはイエスがエルサレムで行ったことを見た者がいて、その者らが帰ってきて故郷(くに)の人たちへ触れて回っていたので、既にこの地の人々はイエスのことを知っていた。ゆえにかれらはこぞってイエスを歓迎したのである。
 そんなことがあって後、イエスはカナの町を再訪した。そこへカファルナウムから王の役人が訪ねてきた。どうかカファルナウムへ来て、死の床へ就いている息子を癒やしてください、と役人はイエスに懇願した。
 イエスはいった、──「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」(ヨハ4:48)
 重ねて役人は請うた。
 イエスはいった。帰りなさい、あなたの息子は生きる。
 イエスの言葉を信じて、役人はカファルナウムへの帰途を辿った。すると途中でカファルナウムから上がってきた僕たちに会った。僕たちがいうには、あなたの息子様は快方に向かっておられます、と。詳しく聞くと、息子の様態が良くなったのは、昨日の午後1時頃であると云々。それはイエスが役人に、帰りなさい、あなたの息子は生きる、といったのと同じ時刻の出来事であった。これゆえに役人もかれの家族もイエスを信じた。
 イエスがガリラヤにて行った2度目の徴である。

 イエスがサマリア人の女性と会い、礼拝について語ったのはあくまで偶然のことだ。が、その偶然がささやかながらも不仲であったユダヤ人とサマリア人が融和するきっかけとなり、やがてサマリア人がキリスト教に改心する遠因となったことを考えると、この挿話はすこぶる重要な地歩を占めるものといえよう。
 イエスはサマリア人の女性相手に、生きた水について語り(4:14)、礼拝について語る(4:23-24)。わたくしにはこれらが初期キリスト教会の、教会と信徒の交わりの根幹となっているように思う。うまくはいえないが、これはそのままカトリックの典礼に発展していった節がある。すくなくともここは本福音書のキモであり、新約聖書のキモともなっている箇所ではあるだろう。
 本挿話のノートについて一言。実際には弟子たちが食糧調達から戻ってきて、イエスと食べ物について会話する件りがあるのだけれど、イエスとサマリア人の女性の語らいにスポットをあてたかったので、敢えて弟子たちの部分は省いた。が、無視しても構わないのではなく、特に刈り入れを待っている畑についてのイエスの言葉(4:35-37)は他にはなかなかない美しさと喜びを備えたものである。
 ──かつてヤコブがヨセフへ与えた土地と、勿論「創世記」に由来する。その土地とはシケムで、創33:18-19と殊に48:22を併読願いたい(但しヨセフの井戸についての記述はどこにもない)。またヨシュ24:32では出エジプトの際モーセが携え、後継たるヨシュアに託されたヤコブの遺骨がシケムに埋葬された。もう死んだと思うていた息子ヨセフがエジプトにて宰相となって生きているのを他の息子たちから聞いて非常に驚き、喜んだヤコブは老体を押してカナンからエジプトへ移住し、その地で没した。カナンのシケムへの埋葬はかれの遺言だったのである……それは死後永い時間を経てヨシュ24:32にて成就された!
 ユダヤ人とサマリア人が交際しないことは、既にルカ9:53で見た。また旧約聖書では王下17:24-34,エズ4:1-5と9:1-2,ネヘ4:1-2にもある。サマリア人は、アッシリア帝国によって滅亡した旧北王国イスラエルの土地に残存したイスラエル人と入植してきた異邦人の混血である。次々と王朝が後退してイスラエルの神を顧みぬこと常でありまた蔑ろにすること甚だしかった北王国は、主なる神の前に正しく歩むことも正しいことを行わなかった王もあったとはいえダビデ王朝が存続して神殿を中心とした礼拝体制が持続した南王国とは、或る時期を除いて反目し合う間柄であった──元を正せば同じサウル-ダビデ-ソロモンを戴いた統一王国イスラエルであったのに! 両王国が緊張状態にあって不穏な間柄でもあったことを承けて、おそらくはDNAレベルでユダヤ人とサマリア人は不仲であったのかもしれない。
 そのサマリア人の女性がいう「先祖の礼拝した山」(4:20)とは、本文でも触れたがゲリジム山のことである。申11:29ではゲリジム山に祝福を、シケムを挟んで反対側にあるエバル山に呪いを置く、とある。エルサレム神殿に対抗して北王国の民がこの山に礼拝所を置いたのだった。

 本日の旧約聖書はヨハ4:5と創33:18-19及び48:22並びにヨシュ24:32、ヨハ4:20と申11:29,ヨハ4:9と王下17:24-34,エズ4:1-5及び9:1-2,ネヘ4:1-2。



 録画してDVD-Rに落としていた『LOST』をシーズン1から観直しています。日本初放送から10年が経ち、完結からも既に5年が過ぎている。
 なのに、なんだ、この色あせぬ面白さは。鑑賞を重ねる毎に湧き起こる新たな感銘は。これだから『LOST』はやめられない。
 観直すことのできるドラマって実はそうそうない。自分にとって『LOST』は数少ない例外だ。帰宅後の楽しみが1つ増えました。◆

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第2007日目 〈ヨハネによる福音書第3章:〈イエスとニコデモ〉、〈イエスと洗礼者ヨハネ〉&〈天から来られる方〉with汚濁末法の世を生き抜くために、〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第3章です。

 ヨハ3:1-21〈イエスとニコデモ〉
 最高峰院の議員でファリサイ派のユダヤ人、ニコデモという人がいた。かれは或る夜、イエスを訪れて、イエスが行った数々の徴について讃えた。それについてイエスはいった、人は新しく生まれなくては神の国を見ることはできない。
 続けてイエスはいった、──
 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハ3:5-8)
 そんなことがありましょうか、とニコデモが問うた。
 イエスは答えた。わたしは知っていることを語り、見たことを証ししている。地上のことを話しても信じない人々が、どうして天について語られることを信じられようか。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:13-15)
 そうしてイエスは言葉を続けた。神はその独り子を遣わす程にこの世を愛している。世の人々のうち、独り子を信じる者が1人として滅びることのないようにである。覚えておいてほしい、神がその独り子を遣わしたのは、御子によって世が救われるように、という想いからなのだ、と。
 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ3:18-19)
 悪を行う者が光の方ではなく闇の方を向き、そちらを好むのは、自分たちの行いが白日の下に曝されるのを恐れるからだ。翻って真理を行う人は、それが神の導きによって為されたのが明らかになるので光の方に来る。
──と、イエスはニコデモにいった。

 ヨハ3:22-30〈イエスと洗礼者ヨハネ〉
 その後イエスは弟子たちを伴ってユダヤ地方へ行き、人々へ洗礼を授けた。一方洗礼者ヨハネもヨルダン川西岸デカポリス地方の町アイノンで洗礼を授けていた。
 或るとき、ヨハネの弟子たちと1人のユダヤ人の間で清めについて論争が起こった。弟子たちはヨハネの許へ行き、かれがヨルダン川の向こう岸で見附けたイエスも同様に人々へ洗礼を授けていること、人々がヨハネではなくイエスの方へ向いてしまっていることを伝えた。
 洗礼者ヨハネは弟子たちにいった、──
 われはメシアに非ず、何者にも非ず、ただあの方の前に遣わされた者なり、とわたしはいった。これはあなた方が証ししてくれる。あの方は花嫁を迎える花婿のようなものだ。ならばわたしは花婿の介添人に過ぎない。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハ3:30)

 ヨハ3:31-36〈天から来られる方〉
 続けて洗礼者ヨハネは弟子たちにいった、──
 天から来られた方はすべてのものの上に坐す。この方は見たこと、聞いたことを証しするが、何人もこれを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
 「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ3:34-36)
──と。

 既に第1章からして本福音書が共観福音書とは指向するところの異なる書物であることが窺われた。その憶測は本章に至って決定事項となったようだ。この福音章は、専らイエスの思想や霊性にスポットをあてたものであることがはっきりするのは、他ならぬ本章で語られるイエスとニコデモの会談に於いてである。
 人と神はまず洗礼によって結び付けられ、神の国を見る(「入る」と同義)資格を得る。イエスとニコデモの語らい/質疑応答によってわかるのは以下の2項、──
 ・人は新たに霊によって生まれなくてはならない。
 ・(神の)独り子を信じる者は永遠の命を得、信じない者は裁かれる。
 これを踏まえて読み返すと、最初はちんぷんかんぷんだったヨハ3:1-21が、まさに目からウロコが落ちたようなあざやかな驚きと感銘を伴って読めるようになる。
 補足として、フランシスコ会訳の解説の一節を引く。「(「ヨハネによる福音書」にも)洗礼や聖体についての神学は存在する。洗礼によって人は神の国に属する者となり、神の子となる。イエスを信じる者は、その人の中から生ける水が流れ出る、すなわち聖霊を受ける」(P222)と。これは次章を読む際にも思い出していただきたい箇所である。
 ヨハ3:22以後の洗礼者ヨハネの言葉と併せて、本章は「ヨハネによる福音書」読解の鍵となるだろう。

 本日の旧約聖書はヨハ3:14と民21:4-9(就中民21:9)。



 裏切りや陰口、企みや陰謀があるのを感じる都度、また奈良に行って仏像を見て、長谷観音で心を平静にしたい、と願う。ひたぶるに、それを願う。◆

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第2006日目 〈ヨハネによる福音書第2章:〈カナでの婚礼〉、〈神殿から商人を追い出す〉&〈イエスは人間の心を知っておられる〉with憂うております。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第2章です。

 ヨハ2:1-12〈カナでの婚礼〉
 かれらが弟子となって3日目。イエスはナザレの北にある村カナへ行った。そこで行われる婚礼に母マリアが呼ばれていたからである。
 宴会の最中、マリアがイエスに、ねぇぶどう酒の在庫がなくなっちゃったの、と伝えた。イエスは返事して曰く、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハ2:4)と。が、母は息子のことを知っていたのでまわりの人々に、この子がなにかこうしてくれ、といったらその通りにしてくださいね、といい置いてその場を離れた。
 ところでそこには、水が2〜3メトレテスも入る甕があった。イエスはまわりの人々に、甕の縁まで水で満たし、宴会の世話役のところへ持ってゆくように、と指示した。人々はそうした。
 運ばれてきた甕のなかの水はぶどう酒に変わっていた。事情を知らない世話役はぶどう酒を飲むと花婿を呼んで、その知恵を賞讃したのである──こうした席では始めに質の良いぶどう酒を出してあとになるにつれ質の良くないものが供されるのに、あなたは最後の方で質の良いぶどう酒を出してきたのですね、といって。
 イエスはガリラヤ地方のカナで最初の徴を行い、その栄光を現した。それを目にして弟子たちはイエスを信じるようになった。
 カナでの婚礼のあと、イエスは母や兄弟、弟子たちを連れてカファルナウムに下り、そこで数日を暮らした。

 ヨハ2:13-22〈神殿から商人を追い出す〉
 過越祭が近附いた或る日、イエスはエルサレムに上った。神殿の境内では商人たちが牛や馬、鳩を売り、両替商が店を開けていた。イエスは縄で作った鞭でかれらを追い散らして、曰く、わが父の家を商いの場とするなかれ、と。
 この様子を見て弟子たちは、「あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしている」という聖書の文言を思い出した(詩69:10)。
 一方商人たちはイエスに、われらの商売を邪魔してここから追い出すならば、お前はどのような徴を見せるつもりなのか、と問うた。
 イエスは答えた。この神殿を壊して、3日で建て直してみせよう。──建てるのに46年もかかった神殿をお前はたった3日で建てるというのか、と、商人たちは呵々大笑した。
 が、イエスのこの言葉の本意は自分の体についてだった。後に「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じた。」(ヨハ2:22)

 ヨハ2:23-25〈イエスは人間の心を知っておられる〉
 イエスは過越祭の間エルサレムにいて、そこで幾つもの徴を行った。それを見て人々はイエスを信じた。が、イエスはかれらを信用しなかった。
 というのも、イエスはすべての人々を知っており、人々によって証しをしてもらう必要がなかったからだ。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハ2:25)

 イエスが起こした幾つものふしぎな業が紹介される際、<カナの婚礼>の一幕はしばしば目にすることである。生涯の初期に現された奇跡として看過できぬものだからだろう。
 おまけに──福音書の記事からは、イエスがこれを自分が行ったと表明した様子はない。あくまで花婿の知恵によることと、列席している人々は思うて疑わなかっただろう。イエスの業であるのを知るは母マリアと弟子たちのみ。それが自分の行為であるのを表明しなかった奥床しさ(?)、婚礼の席という福音書には珍しい<ハレ>の舞台、おめでたい席で為された善き奇跡。そうしたものが融合して、この<カナの婚礼>の挿話は語り継がれていったのかもしれない。そうだったらとても胸のあたたかくなる話だ。
 イスカリオテのユダに裏切られて逮捕されたイエスへ群衆が投げかけた言葉を、読者諸兄は覚えておられるだろうか。曰く、この男は壊れた神殿を3日で建て直してみせるといった、と。マタ26:61,マコ14:58にある。が、この根拠となる挿話は共観福音書のなかには見出せなかった。ようやく「ヨハネによる福音書」でそれがわれらの前に登場したことになる。おそらくこのとき神殿の境内にいた人々が何年後かに最高法院にてイエスを糾弾したのだろう。或いは、それを聞いた誰彼が後に糾弾者の側にまわったか。
 46年の歳月を費やして再建された神殿とは、勿論捕囚解放後に再建された当時の神殿ではなく、その後荒廃したものをヘロデ大王が自身の権威をアピール、誇示する目的もあって修復と拡張工事を経て完成した神殿を指す。即ち今日われらもエルサレムに行けば往時を偲ぶことのできる建物である。ヘロデ大王が工事に着手したのは前20-19年、それから46年後というから本挿話の舞台は後27-28年となる。イエスは30代前半の青年だった。

 本日の旧約聖書はヨハ2:17と詩69:10。



 <明日>のことを思い悩む必要のない、不安とは縁の薄い世の中になってほしいなぁ。いつからこんな歪な社会に、国になってしまったんだろう。◆

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第2005日目 〈ヨハネによる福音書第1章:〈言が肉となった〉、〈洗礼者ヨハネの証し〉他with福音書読み始めにあたっての愚痴めいたもの。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第1章です。

 ヨハ1:1-18〈言が肉となった〉
 初めにあったのは<言葉>である。それは神と共にあり、即ち言(ことば)は神であった。「この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハ1:2)よろず言によって成らなかったものはなく、なべて言によって成ったのだった。
 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ1:4-5)
 然るべき時、然るべき場所に然るべき者が現れる。ここへ神の意志により洗礼者ヨハネが地上の人となった。かれはまことの光、世のすべての人を照らす光について証しをするために来た。
 「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(ヨハ1:10)
 言は自分の民にまで拒まれた。が、幸いなことにそれを受け入れる者たちもいた。その名を信じる者も出た。ゆえに言はかれらに神の子たるの資格を与えた。
 読者よ、われらは皆、言が肉となり、われらの間に宿るのを見た。その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であり、恵みと真理に満ちていた。洗礼者ヨハネが来たのはこの方について証しするためであった。
 読者よ、われらは皆、この方の満ちあふれる豊かさのなかから恵みを受け、その上更に恵みを受けた。モーセを通して律法を与えられたように、恵みと真理はこの方即ちイエス・キリストにより与えられたのである。
 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ1:18)

 ヨハ1:19-28〈洗礼者ヨハネの証し〉
 エルサレム在住ユダヤ人たちは謀ってファリサイ派の祭司たち、レビ人らを洗礼者ヨハネの許へ行かせた。そうして、メシアでもなければエリヤでもない、預言者でもないならば、あなたはいったい何者なのか、と質問させた。
 ヨハネは自分の言葉では答えず、代わりにイザヤの言葉を引用して曰く、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である/『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハ1:23)と。
 エルサレムのユダヤ人集団から使わされたファリサイ派の祭司たち、レビ人らは、メシアに非ず、エリヤに非ず、預言者に非ず、と自分を呼ばわるあなたは、ではなぜ人々へ水で洗礼を施すのか、と問うた。
 ヨハネは答えた。あなたたちのなかには、あなたたちもまだ知らない方がいる。その方はわたしのあとから来ることになっている。わたしにはその方の履き物の紐を解く資格すらない者だ。
 ──これは当時ヨハネが洗礼を行っていたベタニアという、ヨルダン川東方にあってペレア地方にある町での出来事であった。

 ヨハ1:29-34〈神の小羊〉
 その翌日。ヨハネは自分の方へ歩いてくるイエスを見、かれを指していった。
 あの方が世の罪を取り除く神の小羊である。かつてわたくしが証しをしたのはこの方についてであった。この方がイスラエルへ現れるために、わたしは水で洗礼を授けていたのだ。
 説明しよう、わたしを遣わした方がこういうのを聞いた。曰く、霊が鳩のように降って或る人に留まる、その人こそが聖霊によって洗礼を授けるのだ、と。わたしヨハネはこの方イエスの上に霊が鳩のように降ってきて、留まるのを見た。ゆえにこの方こそが神の子である。わたし洗礼者ヨハネがこれを証す。

 ヨハ1:35-42〈最初の弟子たち〉
 その翌日。洗礼者ヨハネは2人の弟子と共に、歩いているイエスを見ていた。あの方が神の小羊である。ヨハネがそういうのを聞いた弟子たちは、ヨハネから離れてイエスへ従うようになり、かれのところに泊まった。午後4時頃のことだ。
 イエスに従った弟子2人のうち、1人はガリラヤ地方の町ベトサイダ出身のアンデレである。かれは兄弟シモン・ペトロに、自分はメシアに出会ったよ、と伝え、シモンをイエスに引き合わせた。
 シモンを見てイエスは、あなたをケファつまり「岩」と呼ぶことにしよう、といった。

 ヨハ1:43-51〈フィリポとナタナエル〉
 その翌日。ナタナエル(ガリラヤ地方カナの出身)は新しくイエスの弟子となったフィリポ(シモン、アンデレ兄弟と同じガリラヤ地方ベトサイダ出身)から、律法と預言者たちによってかねてよりその出現を予告されていたメシア、即ちイエスのことを聞かされた。かれはナザレのような寒村から良いものが出るのだろうか、といささか懐疑的であったが、フィリポの熱心な奨めもあり、とにかくイエスに会ってみることにした。
 まことのイスラエル人がこちらへ来る、かれは偽りのない人だ、とイエスに評されたナタナエルは、今日こうしてここへ来る前からイエスが自分のことを知っていたことを知ると、イエスをイスラエルの王にして神の子と讃えた。そうしてかれもイエスの弟子の1人となったのである。
 かれらにイエスはいった、──
 「もっと偉大なことをあなたがたは見ることになる。(中略)はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の湖の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(ヨハ1:50-51)
──と。

 本章冒頭<言が肉となった>を読んで、「創世記」第1章天地創造を思い出した方も多いと思います。著者がどれだけ意識していたか知りませんが、巻頭に置かれるに相応しく、また洗礼者ヨハネとイエス・キリストの為すべき事柄、果たすべき役割を端的に物語ってこれ以上は望めぬ技法を凝らした文章と思います。就中ヨハ1:1-5についてはなんだかとてつもなく凄いことが始まる予感を抱かせる点で、まさしく「創世記」の天地創造と響きあうものを持っております。
 本章では12使徒のうちでも最初の弟子集団の形成が(やや駆け足気味に)語られます。注目すべきはフィリポとナタナエルの弟子入りに触れられていること。おそらく著者が参考にした資料のなかには2人の弟子入りを報告する文書があった、或いはそれを知る口承者がいたのでありましょうね。
 共感福音書ではシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネがガリラヤ湖畔でイエスに従うようになった以外は徴税人マタイ/レビが召命される場面がある程度でした。
 フィリポが、かねてより預言されてきた人に自分は会った、その人はナザレの人イエスだ、とナタナエルに伝え、ナザレからなにか良いものが出るのだろうか、とナタナエルが疑を呈す件り、そうしてナタナエルがイエスに会ってかれをイスラエルの王と讃える件りは、他の弟子たちの召命場面を霞ませてしまう程に印象的で、記憶に残るのであります。なお、このナタナエルは12使徒の1人でフィリポと対で紹介されるバルトロマイのことか、と昔から考えられている由(ex;マタ10:3,マコ3:18,ルカ6:16)。
 洗礼者ヨハネの許を離れてイエスの弟子となった2人のうち、アンデレでない方はいったい誰なのだろう……。

 本日の旧約聖書はヨハ1:23とイザ40:3。
 事の序でに、4福音書のなかで「ヨハネによる福音書」は旧約聖書からの引用がいちばん少ない書物であることを、備忘も兼ねて報告しておきます(新共同訳聖書、引用箇所一覧表に基づく)。



 「前夜」にてわたくしは「ヨハネによる福音書」を指して「ふしぎな書物である」と申しあげた記憶があります。捉えどころのなさに最初は困惑して斯様な感慨に至るわけですけれど、それを通り越えると今度は「難しい書物だ」、「奇っ怪な書物だ」という感想を持つようになる。わたくしはそうだった、という甚だ私的なものでしかありません。
 が、改めて第1章から順番に読み進めてゆくと、共観福音書以上に何度も何度も読み返して、文意や流れの悪い箇所について考え倦ね、ようやく筋が見えてきてノートの筆を執ってもすぐに雲散霧消。仕方なく読書を最初からやり直し、同じ工程を何度も繰り返すことになる。必然的に内容を把握するのにこれまで以上に時間がかかり、ノートも三稿、四稿と推敲してゆくことになる。それでなおこの程度なのだから、われながら溜め息をつき、頭を抱え、前途に絶望してしまいます。──まぁ、ここまでは単なる愚痴であります。読書百遍意自ずから通ずる、を実践してゆく他ないですね。
 明日から休むことなく「ヨハネ伝」を読んでゆこう、っと。◆

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第2004日目 〈「ヨハネによる福音書」前夜〉 [ヨハネによる福音書]

 新約聖書に含まれる4つの福音書のうち最後に配される「ヨハネによる福音書」は、これまで読んできた共観福音書はすこぶる性格を異にするものであります。
 その理由の1つに共観福音書と重複する、いわゆる並行箇所が多くない点を挙げられましょう。また、「ヨハネによる福音書」はその公生涯最後の1週間のうち、イエスの言行やかれを取り巻く環境ではなくイエスの霊性に着目しているところが著しく目立つものでもあります。
 これまで共観福音書を読んできた目で「ヨハネ」を読むと惑わされ、差異を痛感させられることであります。「マタイ」と「マルコ」、「ルカ」に見られた挿話のうち、「ヨハネ」に共通するものは前半第12章まででわずかに7つを数えるのみ。
 個人的恣意的選択で恐縮ですが、その最右翼というべきは第11章にあるラザロの死と復活でありましょう。かれはイエスが死から復活させた極めてわずかな人の1人で、ラザロのみが名前を持つ人物ではあった、と記憶します。
 一方で第13章以後は15もの共通する挿話を「ヨハネによる福音書」は持つ。福音書最大の話題であるイエスの公生涯最後の1週間、即ち最後の晩餐とユダによる裏切り、イエスの捕縛と裁判、ゴルゴタでの磔刑と復活を扱ったものであるため、それだけの共通する挿話を持つことに奇妙と感じる理由も根拠もありません。
 では、この「ヨハネによる福音書」とは如何なる書物なのか、その内容や特異なる点、著者と執筆年代、書かれた場所について、またイエスの描かれ方について、いつも通り素描程度のものではありますが、述べてみたく思います。
 まず著者ですが、古代から最有力視されてきたのは12使徒の1人、ヨハネであります。
 読者諸兄は覚えていらっしゃるでしょうか。「マルコによる福音書」でゴルゴタの丘へ引いてゆかれるイエスの後ろにくっついていて、挙げ句に役人から追い払われる男がいたことを。かれこそが「マルコによる福音書」の著者であると考えられている旨、当該箇所にて触れました。
 実は「ヨハネによる福音書」にも似た例があります。ヨハ13:23と25,21:20で「イエスが愛した(あの)弟子」と特に形容される人物が、イエスの弟子集団のなかにいました。名前を秘せられた/伏せられたこの人物が12使徒のヨハネである、と2世紀頃から伝えられてきたのです。かれは十字架上のイエスから聖母マリアを託されました。そうしてヨハ21:24にはこの弟子が本福音書を書いた、と記録されています。
 斯様にして古代から使徒ヨハネが「ヨハネによる福音書」の著者とされてきたのだけれど、このゼベダイの子にしてヤコブの兄弟「ヨハネによる福音書」が本福音書に登場する機会は、案外に少ない。それが異論を生む温床となっているのか、「ヨハネの手紙」を著したとされる長老ヨハネを第4福音書の著者にも擬えられる説などもある由。
 使徒ヨハネと長老ヨハネを同一人物とすることも、別人とすることもできませんが、いずれにせよこの2つが著者論争の過半を占めていて、他はちょっと考えられそうにない、というのが正直なところであるのでしょう。
 とはいえ、本福音書の執筆場所と執筆年代を考えるにあたっては、やはり使徒ヨハネを著者と想定しなくてはどうにも話がまとまらないのであります。具体的には「ヨハネによる福音書」は使徒ヨハネによって1世紀後半(90年頃)から2世紀初頭にかけて、小アジアの地中海に面した町、エフェソで執筆された、と伝えられてきました。このエフェソは海の向こうにギリシアを望む、交易の盛んな通商都市であり、同時に初期キリスト教会にとって主要な町でもありました。
 「ヨハネによる福音書」の執筆年代を上述のようにするのは、12使徒のうち唯一殉教を免れたヨハネが、パトモス島流刑から解放されてエフェソの教会の司教を務めるようになったのがこの頃であったことに由来します。ヨハネの単独執筆というよりはヨハネの語る事柄を誰彼が筆記した、或いはそれを基にして何次かに渡る編纂作業を歴て、ヨハネ没後であろう2世紀初頭には、われらが今日読むのとほぼ同じ形で「ヨハネによる福音書」は成立していたことでありましょう。
 それでは明日から1日1章の原則で、「ヨハネによる福音書」を読んでゆきましょう。◆

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