So-net無料ブログ作成
検索選択
コリントの信徒への手紙 一 ブログトップ

第2144日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第16章:〈エルサレム教会の信徒のための募金〉、〈結びの言葉〉他with北原白秋「空に真赤な」が心に浮かび、〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第16章です。

 一コリ16:1-4〈エルサレム教会の信徒のための募金〉
 既にガリラヤの諸教会には指示を出してあるのですが、あなたにも貧しき聖なる者たちへの募金をお願いしたく存じます。各々の収入に応じて週の初日に募金用のお金を別にしておき、それを提供してください。
 わたしがそちらへ着いたら、あなた方の承認を受けた人物に手紙を持たせ、その募金をエルサレム教会へ運ばせましょう。もしわたしが同行した方がよいというなら、そうします。

 一コリ16:5-12〈旅行の計画〉
 わたしはいまエフェソにいます。このあとマケドニアを経由してコリントに行きます。あなた方のところに滞在して、場合によってはそこで冬を越すことになるでしょう。わたしは旅の序でにあなた方と遇うのではなく、あなた方へ会うためコリントに行くのです。ただ残念ながら、いますぐに、というわけにはいきません。こちらでは門が開かれている一方で、反対者も多くいるからです。五旬節まではエフェソに滞在していることでしょう。
 わたしはマケドニアへ随伴者テモテを派遣しました。かれがそちらへ行ったら、どうぞもてなしてください。そうして無事に出発してわたしの許に戻ってこられるよう取り計らってください。
 兄弟アポロですが、かれはまだエフェソにいます。他の兄弟たちと一緒にコリントへ行くよう奨めたのですが、なかなか腰を上げようとしません。そちらへ行く意思はまったくないようです。とはいえ、機が熟したら行くでしょう。

 一コリ16:13-24〈結びの言葉〉
 兄弟たちよ。(コリントがある)アカイア州の初穂となったステファナの一家や、かれらと一緒に働いて共に労苦した人々に従ってください。敬虔なる人々を大切にし、重んじてください。
 アジア州の諸教会からあなた方に、よろしくどうぞ、とのことです。アキラとプリスカ(プリスキラ)、そうしてかれらの家に集まる教会の人々があなた方に、よろしくどうぞ、と挨拶しています。すべての兄弟からもあなた方に、よろしくどうぞ、とのことです。だからあなた方も聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしてください。
 最後にわたしパウロからあなた方コリントの信徒たちへ、──
 「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」(一コリ16:22-24)

 「目を覚ましてなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事にも愛をもって行いなさい。」(一コリ16:13-14)

 エルサレム教会への募金については、ロマ15:26と未読なれども二コリ8-9を併読していただけばよいでしょう。
 <前夜>でも記したように、パウロは本書簡をアジア州エフェソで書いた、とする考えが濃厚です。その根拠が今日読んだなかにある一コリ16:8。ゆえにここでいう「反対者」は、たとえばアルテミス神殿の模型造りに従事して生計を立てていた職人たちなどを指しているのでありましょう。
 兄弟アポロは、第2回宣教旅行でパウロがエフェソから去るのと入れ違いでこの町に来て、「イエスのことについて熱心に語り、正確に教えた」(使18:25)人。しかし、エフェソへ移って来ていたアキラとプリスカ夫妻によって正しい主の道を教えられ、かねての希望通り(コリントのある)アカイア州に渡り、聖書に基づいてイエスがメシアであることを公然と立証した。かれについては使18:24-28が触れております。

 予定より2日乃至は3日遅れで「コリントの信徒への手紙 一」を読了することができました。顧みれば一時の箸休めが風邪を招き、そのまま聖書へ向かう意欲を奪ったのでありますが、まぁ、空白日があるのは事実であります。
 遅延が生じないよう以後も読み進めて参ります。読者諸兄には今後ともどうぞよろしくご贔屓の程を願いたく存じます。



 12月27日、会社の廊下から県北西部の連峰を見たら、真っ赤な夕陽に稜線がくっきりと浮かびあがっていた。ほう、という溜め息のあと、なんだか淋しくなって目頭が熱くなり、──
 ふっ、と学生時代に読んだ北原白秋の詩が心へ浮かびました。パンの会のために書かれた「空に真赤な」という詩。
 ──
 空に真赤な雲のいろ。
 玻璃に真赤な酒の色。
 なんでこの身が悲しかろ。
 空に真赤な雲のいろ。   ──詩集『邪宗門』より◆

共通テーマ:日記・雑感

第2143日目 〈コリントの信徒への手紙・一  第15章:〈キリストの復活〉、〈死者の復活〉&〈復活の体〉withBlu-ray初視聴記の執筆とお披露目、順延となる。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第15章です。

 一コリ15:1-11〈キリストの復活〉
 兄弟たちよ、わたしがどんな言葉で福音を告げ知らせたか、覚えていますか。わたしが伝えた福音とは即ち、キリストがわれらの罪を贖うために死んだこと、葬られて3日後に復活したこと、ケファことペトロの前に現れ12使徒の前に現れたことでありました。その後多くの人の前に現れ、バルナバのような使徒たちの前に現れ、そうして最後にわたしの前に現れたのです。
 「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」(一コリ15:9)
 いまのわたしがあるのは神の恵みのお陰。わたしは自分に与えられた神の恵みを無駄にすることなく、他の人たちよりも多く働きました。が、実のところ働いていたのはわたしというよりも神の恵みである、という方が正解だったしょう。

 一コリ15:12-34〈死者の復活〉
 キリストは死者のなかから復活しました。そう宣べ伝えられているのに、あなた方のなかにそれを信じない者がいるのはどうしたことでしょう。
 死者の復活なくしてキリストの復活はない。キリストが復活しなかったなら、われらの宣教は無駄でしかなく、あなた方の信仰も無駄になります。序でにいえば、われらは皆、神に偽りの証言を行いました。復活してもいない人を指して、復活した、と偽りの証言を申し立てたのだから。
 改めていいます。死者の復活なくしてキリストの復活なし。キリストが復活していないなら、あなた方の信仰は虚しく、いまなお罪のなかに生きていることになります。キリストを信じて眠りに就いた人々は復活することなく滅びます。そうしてキリストの復活を信じて生きるわれらは全地で最も惨めな者であります。──これもすべてキリストは人々の罪を贖うため十字架に掛かって死んだのだ、という希望が失われたためなのです。
 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(一コリ15:20-22)
 ですが、来るのにも順番があります。まずはキリスト、次いでキリストが復活したときにキリストへ属していた者、最後に世の終わりが来る。世の終わりが訪れたとき、キリストはあらゆる権威、あらゆる支配、あらゆる勢力を滅ぼして、すべての敵を自分の足下に置き、最後に死をも滅ぼしてから、父である神に国を引き渡す。すべてが御子の下に服従したとき、それらと共に御子自身も、すべてを自分に服従させてくれた方即ち神へ服従する。神が<すべてに於いてすべて>となるのです。
 そう考えると、ですよ。われらが洗礼を受けるのはなんのためなのでしょう。死からの復活がなければ洗礼も無意味ではありませんか。もし死者が復活しないとしたら、預言者イザヤの書のなかにあるように、飲めや食べろやどうで明日は死ぬ身なのだ、ということになりましょう。メナンドロスというギリシアの作家は《タイス》のなかで、悪しき交際は良き習慣を台無しにする、というております。さあ、正気になって身を正し、福音を信じるのです。
 兄弟たちよ、罪を犯すなかれ。
 わたしはあなた方を恥じ入らせるために、こういっているのです。

 一コリ15:35-58〈復活の体〉
 あなた方の誰かから、こんな質問が出そうです。曰く、どんな風に死者は復活するのか、どんな体で来るのか、と。なんとも愚かしい質問だと思います。
 あなたが蒔くものは死ななくては命を得ないものです。ただの種粒でしかありません。それに体を与えるのは、神です。神が御心のままに、1つ1つへ体を与えるのですよ。その体にも実は地上の体と天上の体があり、それぞれに輝きが異なっています。
 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(一コリ15:42-44)
 自然の命の体、つまり最初の人は地に属し、霊の体、つまり第二の人は天に属す。
 土からできたすべての者は土から出たその人に等しく、姿も似ている。天に属するすべての者は天に属するその人に等しく、やはり姿も似ている。
 兄弟たちよ、伝えておこう。肉と血は神の国を受け継ぐことができず、朽ちる者は朽ちることなきものを受け継ぐことはできないのだ、と。
 「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(一コリ15:51-53)
 そのとき、預言者イザヤとホセアの言葉が成就するのです。即ちイザヤの言葉として「死は勝利にのみ込まれた」、ホセアの言葉として「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか/死よ、おまえの棘はどこにあるのか」
 死の棘は罪、罪の力は律法です。主イエスによってわれらに勝利を賜った神に感謝しよう。
 兄弟たちよ、なににも動じることなく、しっかりと立ちなさい。そうしていつでも主の業に励むようになさい。主に結ばれている限り、自分たちの苦労がゆめ無駄にはならないことを、あなた方はじゅうぶんご存知のはずです。

 復活はパウロの神学の核となる思想です。それもあって第15章は筆に勢いがあり、論旨は明確。章としては本書最長ながらその実最も読みやすくなっているのは、逆にいえばパウロが復活思想をじゅうぶんに育て上げており、それを既に他の人に向かって説いていた経験のあることを思わせます。わたくしもそれに倣って平明明快な文章を心掛けたつもりですが、読者諸兄はどのように思われるでしょうか。
 ──死者の復活なくしてキリストの復活なし。とても力強く希望にあふれた言葉で、わたくしも書いていて気分が高揚したのでありますが、この文言、順番が逆なのでは、と疑問を抱く方もありそうです。キリストが復活するから他の死者も復活するんだろ、ならば、キリストの復活なくして死者の復活なしというべきではないのか、と。
 確かにその方がわかりやすいですね。が、実際はそうではなく、ここでパウロがいうておるのは、死者の復活という希望、福音がキリストの復活によってもたらされるのだ、ということと、キリスト自らが復活することで福音が本当であることを知らしめるのだ、ということなのであります(すくなくともわたくしはそう考える者であります)。為に<死者の復活なくしてキリストの復活はない>とパウロは主張してやまぬのです。
 ちょっとわかりにくい書き方になってしまったけれど、〈復活の体〉で触れた<土からできたその人/最初の人/自然の命の体>はアダムを指し、<天に属するその人/第二の人/霊の人>は復活後のイエスを示しています。
 かつてイエスは公生涯に於いて、信じる者は救われる、と説きました。これは脈々と信徒のなかに受け継がれて、パウロにとっては復活思想の最大級のバックボーンとなったのでありました。これがパウロの励ましとなり、思想の育つ養分となり、また拠り所となったというてよいでしょう。
 なお、ギリシアの作家メナンドロス(前342-291年)の作品『タイス』からの一節をパウロは引用しますが、日本流にこれをいい直せば「朱に交われば赤くなる」となります。

 本日の旧約聖書は一コリ15:21-22と創3:19、一コリ15:27と詩8:7、一コリ15:32とイザ22:13、一コリ15:45と創2:7、一コリ15:54とイザ25:8、一コリ15:55とホセ13:14。



 Amazonのカスタマーレビュー、鵜呑みにするべからず。購入したBlu-rayの外付けドライブはやはりWindowsでしか動作しないことが判明、さっそく返品の手続きを取り、新たにちゃんとMac用と謳われているドライブを購入した。
 今日(昨日ですか)到着するはずなのに、待てども待てども宅配業者のトラックはやって来ない。確認の連絡を取ろうとして注文時のメールを見てみたら、あれ、今日はまだ土曜日じゃん、配送は明日日曜日じゃん、とクールに苦笑いし、片手に持ったiPhoneを置いた。わたくしは配送希望日を1日、間違えてしまっていたのだ。そりゃあ届くはずがないよね。届いたら逆に可笑しいわい。
 というわけで、わがBlu-rayの初視聴記はいましばらくお披露目されない事実が浮上した。『ブレードランナー』のソフトを購入したのだけれど、未だ松井玲奈の卒業公演コンサートの映像を明日明後日にでも購入してしまいたい欲望からは解放されないでいる。いやはやなんとも。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2142日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第14章:〈異言と預言〉&〈教会の秩序〉with初めて観るBlu-rayは何にしようか?〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第14章です。

 一コリ14:1-25〈異言と預言〉
 異言は神に向かって語られ、預言は人に向かって語られます。ゆえに預言は人を造り、励まし、慰めるのです。(かつて世に現れた預言者たちを見よ。)預言する者は教会を造りあげるが、そうするには異言を語る者よりも預言する者の方がふさわしいのです。
 たとえばわたしがあなた方の許へ行って異言を語ったとします。が、あなた方にはなにをいっているのか理解できないでしょう。異言を解釈するには霊的な賜物が必要です。異言を語る者、聞く者にそれがなければ、互いに外国人を前にしているに等しい。その霊的賜物を熱心に求めるならば、祈りなさい。異言を解釈するために、祈りなさい。
 わたしパウロが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っていることになるのですが、理性は実を結ばない。では、どうしたらいいだろう。──霊で祈り、理性で祈ればよいのです。両方で祈ればいいのです。霊と理性で讃美すればよいのです。さもないと、かりにあなたが霊で讃美の祈りを唱えたとしても、教会に馴染み薄い人はあなた方の神への感謝の言葉を聞いても、「アーメン」と返すことはありません。
 わたしは自分が誰よりも多くの異言を語れることに感謝します。が、他人を教えるに異言で1万の言葉を用いるよりも、理性で5つの言葉を語る方を選びます。
 預言者イザヤの言葉にもあるように、異言は信じていない者のための徴であります。教会に馴染み薄い人が教会に来て、皆が異言を語る場面に遭遇したら、きっと左巻きの集団に思われるがオチでしょう。が、教会に馴染み薄い人が教会に来て、皆から非を悟らされ、罪を指摘され、心のなかに隠していたことが明るみに曝されたならば、結局は神の前にひれ伏し、皆の内に神がいることを口にして認めることでしょう。

 一コリ14:26-40〈教会の秩序〉
 さて、それではどうしたらよいでしょう。
 異言を語る場合、2人か3人が順番に語り、1人に解釈させる。解釈する者なければ教会では黙っていて、自分自身と神について語りなさい。
 預言する場合は、2人か3人が語って残りの者はそれを検討しなさい。坐っている人に啓示が与えられたら、それまで語っていた者は口を閉じなさい。皆が共に学び、励まされるように、1人1人が預言できるようになりなさい。「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(一コリ14:33)
 婦人は教会では黙っていなさい。婦人には教会で発言する権利はおろか資格もありません。律法にもあるように、婦人は従うべき存在です。なにかについて知りたくば夫に訊きなさい。
 ──自分が預言する者だとか霊の人であるとか思うている人あらば、わたしがここに書いたことはいずれも主の命令である、と認めなさい。認めない者は自身も認められないでしょう。
 「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」(一コリ14:39-40)

 異言を語る者の内にはそのための霊的賜物があり、本章では明言されていないけれど、預言する者の内にはそのための霊的賜物が備わっている。旧約聖書に登場した預言者たちは誰も彼もが神の召命を受けて、任務にあたった。その召命がパウロのいう(祈りによって)霊的賜物を受ける、ということなのかな、と思います。
 ただ、以前に霊的賜物についての章(第12章)を読んだときにふしぎに思い、また今日もふしぎに思うたのでありますが、この霊的賜物なる代物、1人につき1つだけしか与えられないのでしょうか? 一コリ12:8-10に拠れば、同じ“霊”によって知識や信仰、異言や預言を語るなどの力が与えられる由。“霊”は望むままにその力を1人1人に分け与えてくれる、といいます(同12)。
 これを本章に重ね合わせて考えれば、1人が預言する力も異言を語る力も、霊的賜物として授かっても一向ふしぎではないように思うのであります。一方通行な能力が双方向へ向けた能力として機能すれば、これは或る意味で鬼に金棒であります。まぁ、バイリンガルの誕生ですね。
 が、それができるのは限られた──選ばれた存在だけなのかもしれません。モーセやダビデやイエスのような。裏返していえば、1人の内に霊的賜物が2つも3つも入りこむのは、どれだけ危険なことかを示しているようにも読めます。「天は二物を与えず」といいますが、案外とこの言葉の背景には、ここでパウロが語っているようなことがあるかもしれませんね。

 本日の旧約聖書は一コリ14:21とイザ28:11-12。ただ「律法には」とパウロは書いておりますので、機を改めて該当箇所を探してみようと思います。



 いよいよわたくしの部屋にもBlu-rayが来たのである、否、その途中である。外付けドライブは注文してさっそく届いたのだが、再生ソフトの代金の振込が遅くなってしまったので、途中といわざるを得なかったのだ。
 環境が整うたとなれば、最初に鑑賞する(購入する)ソフトはなににしようか、という話になるのだが、いろいろ考えても結論が出ぬ。この前もタワーレコードに別件で出掛けた際、映像ソフトの棚を一通り物色してみたのだが、これが欲しい、と強く思わせられる作品には出会えなかった。DVDで所有する作品を買い直すのは、この段階ですべきことではないように思う……。
 数週間前にSKE48についての未定稿を認めたのだが、お披露目するだけのレヴェルでは未だないためお蔵入り状態となっている。その原稿を書きながら、これを仕上げるためには過去にリリースされた映像作品に今一度目を通しておく必要があるな、と痛感したのが一因である。就中ドキュメンタリー『アイドルの涙』とコンサート映像ソフトの計4作は。──幸いと内2作はBlu-rayがあるので、これを契機と気を大きくし、大義名分を得た気分で購入の手筈を整えた。
 が……ラキシスと名附けたわがiMacで初めて観るBlu-rayにSKE48は不似合いだ、という気持ちもどこかにある。やっぱり映画かクラシックだよなぁ、という思いを伴って。となれば、『ブレードランナー』或いは(及び?)《ニーベルングの指環》全曲か。が、《指環》の全曲Blu-ray(可能ならば日本語字幕附き)で満足できる、わたくしの欲求を満たしてくれるような映像は、残念ながらないらしい。嗚呼! セカンドチョイスとして、アバドのベートーヴェン交響曲全集や以前映画館で観たティーレマンの《ばらの騎士》あたりにするか──でも、それもナニカガ違フ気ガスルヨ。『ブレードランナー』とSKE48を買って、映画を先に観れば面目は立つかなぁ……。sigh.
 んんん、きっとこれが<迷っているうちが花>というものなのでしょうね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2141日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第13章:〈愛〉with聖夜に「愛」は語れない、そうして、佐々木邦『苦心の学友』を読んで、考えてみたこと。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第13章です。

 一コリ13:1-13〈愛〉
 わたしはあなた方へ最高の道をお教えしましょう。それは愛についてです。
 あなた方が人々や天使の異言を語っても、完全な信仰を持ち合わせていても、愛がなければ無意味です。
 あなた方がかりに預言する賜物を持ち、森羅万象に通暁していたとしても、愛がなければ無意味です。
 あなた方が全財産を貧者への施しに抛ち、また誉れのためわが身を死へ引き渡そうとしても、愛がなければ無意味です。
 人間が誇るものはいつか廃れ、滅びます。が、なかには滅びることなく残るものもあります。その1つが、愛です。
 「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(一コリ13:7-8)
 「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(一コリ13:13)

 本章は「愛の讃歌」として夙に知られ、古来愛読されてまいりました。就中引用した一コリ13:13は江湖に知られた部分でありまして、わたくしも古今の文学作品に於いて接した覚えのある箇所であります。比較的マイナーな作品ながら心に静かに残る映画吉祥寺の朝比奈君』及びその原作小説でもライトモティーフのように使われていた一節でした。
 ここについては特になにも申しません。わたくしよりも連れ添う者ある読者諸兄の方が、ずっとこの言葉の真実なること、偽りなき言葉であることをご存知のはずですから。
 最後の一節が強力すぎて他を霞ませてしまうのは仕方ありませんが、正直なところ、わたくしにはパウロが己の理念とキリストへの想い、この2点のみを以て本章を書きあげたようには、思えないのであります。下司の勘繰りと揶揄されるかもしれませんが、パウロ自身がこの時期、他人との間に<愛>にまつわる体験をしてその折の諸々が本章に反映したようにも思うのです。当時のパウロには心に住まう、或いは傍らに侍るような異性があったのかもしれませんね(同性だったらチト嫌ですが)。
 そんな風に思い思いしながら読んでゆくと、わたくしは一コリ13:10-12の件りに違和感を覚えるのです。<愛>という話題に絡めて、いったいなにを伝えようとしてこの文章を書いたのか、ようわからぬのであります。まあ、筆が走った、というのが真相ならばそれで構わんのですが……。唯本章を読む毎に件の箇所は、<愛>についてパウロが語るときわれらが特に注目して理解/解釈の鍵としなくてはならない、手掛かりのような言葉に思えてならないのであります。
 最後に、その一コリ13:10-12を引いておきます、──
 「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

 ……よりによって愛を讃えて留まるところなき第13章を、愛と無縁で永劫にそれを断ったアルベリヒたるわたくしが読むことの悪しき巡り合わせ、そうしてこの虚しさよっ!



 聖夜に「愛」なんて語らない。語る資格なき者に語るべきことなぞ何一つないのだ。第13章は傷口にすりこめられた塩──。
 昨日佐々木邦を読み始めたと書いたのに 実は今日は佐々木邦を読み終えたという報告をしなくてはならぬ。むろん、『苦心の学友』についての話である。
 自分が佐々木邦を読むのは本書が初めてであるけれど、これを少年時代に読むことのできた戦前の子供らが羨ましく思う。時代背景など思えば単純にそんなこといえないけれど、すくなくとも佐々木邦の小説をリアルタイムで読めた幸福に関しては、すこぶる羨望を禁じ得ないのだ。亡き父などもこの作家の作物を子供の頃読んだのだろうか、いまとなっては直接訊くこともかなわないけれど、あの世に行っての話のタネが1つできたことにちょっぴり喜びを感じている。
 佐々木邦は戦前の日本には珍しい、随一のユーモア作家だった。とかく暗いイメージで捉えてしまいがちな戦前の生活だが、かえってそんな目で過去を見ているから佐々木邦の小説の明るさ、朗らかさ、正直さに心打たれ、この作家を握玩するようになるのかもしれない。渡部昇一が語り、荒俣宏が記したように、戦前日本の生活はあの時代なりに明朗で屈託のないものだったようだ。佐々木邦の小説はそんな時代の空気を作中に封じこめた、あの時代の証人というてよいやもしれぬ。
 なにしろ読み終えたばかりの小説であるから、感想を書くだけの材料はまだ整理できていない状況だ。たとえば「コリントの信徒への手紙 一」が済んだあとで感想文などお披露目するかもしれない。が、それは希望であって決定ではなく、これまでを顧みれば感想文は諸兄の目に触れない可能性だってじゅうぶんにある。ただ、今日から(昨日ですか)『ガラマサどん』を読み始め、その次には『凡人伝』が控えている。その間には昨夏に出版された松井和男著『朗らかに笑え』(講談社)という佐々木邦の伝記にも目を通しているだろうから、それらを基にして一編のエッセイを認めることは企んでおる。
 もっともっと読んでみたい。講談社は文芸文庫でよいから、佐々木邦の著作をどんどん復刊してくれぬものか。安部一強政治が日本を黒雲で覆わんとしている今日こそ、国民は佐々木邦の小説に触れてともすれば暗くなりがちな心に自ら灯を点すことが必要なのではないか、と四角四面なことまで考えてしまうのは、わたくしや下手な物書きの定番な文章の〆方といえよう。でもね、いまのような時代にはウッドハウスや源氏鶏太、そうして佐々木邦のようなユーモア小説が必要ですよ。ホント、そう思います。
 ──それにしても、聖夜に「愛」を目の当たりにするのは、なかなか辛いものがありますナ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2140日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第12章:〈霊的な賜物〉&〈一つの体、多くの部分〉with12月10日は馬車道スタバの日&佐々木邦読書開始記念日。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第12章です。

 一コリ12:1-11〈霊的な賜物〉
 ここでわたしが伝えておきたいのは、神の霊によって語る人は誰も、イエスは神から見捨てられよ、とはいわない、ということです。また、誰であろうと聖霊に拠らなくては、イエスは主である、ともいえないのです。
 賜物と一口にいうても様々あります。個人個人によって霊の果たす役割は様々です。或る人には霊によって知恵の言葉が与えられます。また或る人々には同じ霊によって知識の言葉が、信仰が、病気を癒やす力が、奇跡を行う力が、預言する力が、霊を見分ける力が、種々の異言を語る力が、種々の異言を解釈する力が、それぞれに与えられます。
 「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(一コリ12:11)

 一コリ12:12-31〈一つの体、多くの部分〉
 体(肉体イ)は多くの部分から成って機能し、他を補っています。それでも体は一つです。実はキリストも同じなのです。
 「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」(一コリ12:13)
 一つの部分が苦しめばすべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶのです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分なのです。」(一コリ12:27)
 教会にはたくさんの人たちがいます。神は教会にいろいろな人を立てました。第一に使徒、次いで預言者、教師、奇跡を行う人、病気を癒やす賜物を持つ人、援助する人、管理する人、異言を語る人、等々。皆が同じ役割を果たすのではなく、皆がそれぞれの役目を果たし、それでいてなおかつキリストの教会を構成するのです。
 もっと大きな賜物が受けられるよう、あなた方は熱心に努めなさい。

 肉体同様キリストも教会も<全にして一、一にして全>の存在であります。一つの部分として機能する一方、全体として機能し、役割を果たす──これはわたくしのような非キリスト者にもよくわかる概念であります。もっとも、これはキリスト教に限った話ではなく、どの世界でも同じことがいえると思いますが。
 人々へ賜物を分け与え給うは唯一の霊。人はその霊的賜物にあやかって自らの役目を自覚して健やかに生きよ。教会へ集う者はそれぞれに役割を持っているのだから、相互扶助の心を抱いて信仰しなさい。そうしてあなた方はより大きな賜物が授けられるよう努めるのです。
 一読しておわかりいただけるように、パウロの主張がシンプルであるため、本書簡のなかでも屈指のわかりやすさ、読みやすさを誇る章と申せましょう。



 本稿を書いているのは12月10日(木)宵刻、雨の降りみ降らずみてふ日。この日、横浜馬車道のスターバックスは開店から16周年を迎えました。それを記念して19-20時までの間、店内照明を落として<ディライト・イン・ザ・ナイト>なるイヴェントが催された……小振りの紙カップに入ったロウソク型ミニ電灯が各テーブルに配られ(空席にも、外のテーブルにも)、クリスマスブレンドとカットされて包み紙に入ったシュトレーゼが振る舞われ……相応に雰囲気ある一刻のはずなのですが、──
 そんなことがあってもわたくしの日常は変わらない。揺るぎなき信念と神秘的なまでの惰性に支配された日々! ブラヴォー!! これだからわたくしはクリスマスもお正月も孤独に耐えて過ごすことができるのです。ブレのない人生、先の見通しが立つ人生設計、と御託を並べれば格好良さそうだけれど、その実態は単なる孤独癖、変化を求めぬ本性なのであります。
 そんな12月10日からようやっとわたくしは念願の佐々木邦を読み始めました。まずはいちばん最初に購入したそれから10年以上(どうした謂われか)放置していた『苦心の学友』(講談社少年倶楽部文庫)から。舌なめずりするような心持ちで、掌中に包んで大切に読んでいます。通勤電車のなかで読んでいるときなんかは、折節頬がゆるむのを堪えながらね。これが存外に難しい。文句なしに面白く、上質のユーモアと正義感に漲っているからだ。
 『苦心の学友』が終わっても、まだ『ガラマサどん』(講談社大衆文学館〔文庫〕)と『凡人伝』(講談社文芸文庫)が書架には控えている。佐々木邦の小説を読みながら年越しするのも、独り身をかこつ者にしてはなかなかステキでオツな方法ではないでしょうか。ああ、モナミ、返答は不要ですよ。
 正直なところ、講談社から出版されていた全15巻の佐々木邦全集(詳細目次を見ると小説しか収録していない様子だけれど)を買っちゃおうかな、と思うこともあり……いや、しませんけれどね。わたくしが佐々木邦を知ったのは渡部昇一の著作に拠るのだけれども、かれの『随筆家列伝』では佐々木邦が取り挙げられている。となれば、小説だけでなく、随筆も読みたいのだけれど……こちらは初刊本を蒐集するしか読む手立てはないのかなぁ。
 でも佐々木邦と源氏鶏太って時代を別にして現れた近似性ある作家ですよね。ここに現代作家を加えるならば、やはり赤川次郎かな。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2139日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第11章2/2:〈礼拝でのかぶり物〉、〈主の晩餐についての指示〉他with計5日も休んでしまったことの詫び状。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第11章2/2です。

 一コリ11:2-16〈礼拝でのかぶり物〉
 コリントの兄弟たちよ、あなた方がわたしを思い出し、わたしの伝えた教えを守ってくれているのはとても嬉しく、またあなた方の態度は立派と思います。そこで是非この機会に知っておいていただきたいのは、──
 すべての女の親分は男であり、男の親分はキリストであり、キリストの親分は神である、ということであります。
 男は誰しも祈るとき、預言するときなど、頭に被り物するならキリストを侮辱したことになります。男は神の似姿、神の栄光を映す者。ゆえ頭に被り物などすべきではないのです。
 一方女性は誰しも祈るとき、預言するときなど、頭に被り物しないなら男を侮辱したことになる。ということはつまり、キリストを侮辱したことにもなるわけです。被り物せず祈ったり預言したりして男を、キリストを侮辱したことは、女性の元来の被り物である長い髪の毛を剃り落としたことにも等しい。わたしは敢えていいたい、女性よ、被り物して祈ったりしたいならその髪の毛を切ってしまえ、と。髪を切ること、髪を剃り落とすことが恥ずかしいなら、被り物をするのです。
 女性は男の栄光を映す存在です。女性は男から出、女性は男のために造られた。アダムとエバの例を持ち出すまでもないでしょう。──主キリストには男なしに女性なく、女性なしに男はないのです。女性が男から出たように、男も女性から出、すべては神から出たからであります。
 どうぞ女性たちよ、自分たちで判断しなさい。あなた方が神に祈る際、頭になにも被らずにいるのが正しいことなのかどうか、を。「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。」(一コリ11:14-15)
 ──この件についてかりに異論ある者ありと雖も、斯様な習慣はわたしも教会も持っていないので、お相手することはできません。

 一コリ11:17-22〈主の晩餐についての指示〉
 仄聞するところでは、あなたがたの教会は良い結果より悪い結果の方を多く出しているようです。まあ、兄弟たちの間で分裂などしているようでは、リーダーを決めるに一悶着あったってふしぎではありませんけれどね。
 が、それでは皆が一堂に会して主の晩餐に与ることはできません。というのも各々が勝手に飲み食いしてしまい、たらふく腹に収めた者もあれば、空きっ腹を抱えるばかりの者だっているからです。
 いったいあなた方には家がないのか。或いは、神の教会を見くびり、貧しき人びとに恥をかかせたいのですか。
 あなた方へかけるべき言葉が見附かりません。他のことで誉めるべき事柄があったとしても、嗚呼、この点だけは誉めるわけにはいかないのです。

 一コリ11:23-26〈主の晩餐の制定〉
 かつて主イエスは12人の使徒と共に晩餐の席に着いたとき、感謝の祈りをささげたあとパンを裂いて、これはあなたたちのためのわが肉である、といい、食後に杯を取って、これはわが血によって立てられる新しい契約である、といいました。
 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(一コリ11:26)

 一コリ11:27-34〈主の晩餐にあずかるには〉
 「(キリスト者として)ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。誰でも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」(一コリ11:27-28)
 「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることのないようにするための、主の懲らしめなのです。」(一コリ11:31-32)
 ──わが兄弟たちよ、食事のために集まるときは互いに待ち合わせなさい。空腹の人は家で食事しなさい。主の裁きを受けるために、のこのこ集まってくるなど、以ての外であります。
 その他の話題や事柄については、わたしがそちらへ行ったとき、じっくりと話し合うことにしましょう。

 自分の無理解、浅学を棚に上げるようですが、どの書物にも難所というものがあると思うのですが、さしずめ本章もその難所の1つというて良いのでないでしょうか。舞台裏を衒いなく明かすようで恐縮だが、三読四読してなお内容を把握しがたく、また咀嚼できかねる場合は、適度に言葉を換え、表現をアレンジしてなるたけ原意を崩さぬ範囲で意訳して本文を作ってゆく他ないと思うております。本章に限って(ん?)やや砕けた、フランクな調子となっているのは、斯様な判断に基づくわたくしの<逃げ>であります。
 ですが、これはなんでもそうだと思うのですが、モレスキンのノートに書いた第一稿を叩き台にしてMBAのワープロソフトを用いて推敲、諸兄の読む文章を練りあげてゆく/作りあげてゆく過程で、それまでは雲を摑むような内容でただ聖書本文を引き写していただけの状態から、ほんのちょっぴりではあっても視界の晴れたような心持ちになって、「なんとなくわかるな」という程度まで話題の中心に迫ることができた喜びは、時として他の何ものにも代え難いものがあります。まぁ、第一稿から推敲という思考の整理期間を経て決定稿ができあがるまでの間に、内容についての思考の発展や深化がすこしは見られるのかな、と……。
 事の序でに申しあげたいが、主の晩餐については新共同訳の小見出しに振り回されてはならない。すくなくとも、囚われないよう注意する必要はあると思います。一コリ11:17-34、本章の後半がそれに相当しますが、この部分については虚心にパウロの言葉に耳傾けよ、とわたくしは読者諸兄に促したい。というよりも、小見出しに限らずここは新共同訳に頼るよりは気分転換も兼ねてたとえばフランシスコ会訳の方が文意と内容は摑みやすいのではないか、と考えます。この17節に関して新共同訳にも優れた箇所ありと雖もそれは部分的なお話であって、或る意味重箱の隅をつつくようなお話です。全体を見通せない翻訳は、聖書であれば尚更ダメだと思います。
 話の流れで前半部分に於ける<かぶり物(被り物)>について。聖書本文にあたるとここは読書するのに紛らわしい箇所でもあるのですが、Headを意味する「頭(あたま)」とBossを意味する「頭(かしら)」という同じ語が一つの文章のなかに重複します。本稿では無用の混乱を避けるため、またプロバイダの性質上振り仮名が使えないことも手伝い、Headを意味する「頭(あたま)」はそのままに、Bossを意味する「頭(かしら)」は本稿では敢えて「親分」としてみました。代替語の選択に意図するところはまったくありません。ちょっと遊んでみたくなっただけです。
 では、その被り物について、以下に補記──。
 男性は頭に被り物をすることで神の似姿を損なうことになるため、礼拝時に被り物は禁止。
 女性の場合、ヴェールのような装飾品としての被り物と、自然の被り物と謳われる長い髪の毛とに分けられる。パウロはまず、礼拝のときはヴェールなど装飾品としての被り物を被って頭髪を隠せ、という。頭髪を包み隠すことは親分である男、延いては神への恭順を示すからだ。即ち男や神を侮蔑する気持ちはないということである。源実朝の歌ではありませんが、君に二心わがあらめやも、なのであります。なんだか日本の角隠しに似ていますね。
 その一方で女性が被り物なしで礼拝に臨むならば、いっそのこと頭髪も剃り落としてしまえ、なんとなれば被り物をしていないならば頭髪などあってもなくても同じなのだから。それが自然の被り物と謳われる長い髪の毛に対するパウロの主張であります。かれの過剰な発言にはすっかり馴れたつもりですが、さすがにこれはパウロの肩に手をかけて「おい、ちょっと待てよ。幾らなんでもそれはいい過ぎではないですかね」とツッコミを入れたくなるのであります。
 「主の晩餐」という表現はこのとき初めてパウロが用いた由。懐かしい気持ちで福音書の当該章を読んでみるのもいいかもしれません。



 インフルエンザっぽくておまけにノロウィルスっぽい、でも実際はただの風邪を引いてしまい、無念にも4日、加えて昨日は同僚の個別送別会のため新たに空白を設けてしまった。
 これまでなら無理をしてでも待ちくださっている読者諸兄を思うてその日のブログ原稿は仕上げていたのだけれど、今回ばかりはダメだったなぁ。体が弱くなったのか、否、意志が弱くなったのだ。むろん、これは当初の空白4日間のことであって、昨日については後ろめたい気持ちはなに一つ持ち合わせていない。
 怠惰を覚えた体は鞭打ってもその場限りしか無理を聞き入れず、為に斯様な空白期をむざむざと設ける口実になってしまった。いまや本ブログの目標は、聖書読書の無事なる完結ではなく、日々更新の唯一事を遵守することを誓い、日々怠りなく実行してゆくことなのかもしれない。
 1日1章毎日更新の看板を守ることができなくて、相済まぬ。でも、本ブログは決して終息しない。これだけは皆様に約束することができる。一緒に行こう、道の果ての開拓地へ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2138日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第10章&第11章1/2:〈偶像への礼拝に対する警告〉&〈すべて神の栄光のために〉with図書館の蔵書で感想文を書くこと。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第10章と第11章1/2です。

 一コリ10:1-22〈偶像への礼拝に対する警告〉
 コリントの兄弟たちよ、胸に留めておいてほしい。われらの先祖は皆雲の下にいました。海のなかを抜けました。雲の下、海のなかでモーセの洗礼を受けました。荒れ野に在っては霊的な食べ物を食べ、岩から迸る霊的な水を飲みました。
 が、荒れ野を“乳と蜜の流れる地”目指して彷徨う最中、神は多くの民をそこで骸としたのでした。かれらが神の心に背いて偶像を造って崇めたとき、神はモーセを通して怒りました。民の1人が淫らな行いに耽れば23,000人もの人が倒れて死にました。キリストを試そうとした者は蛇に噛まれて死にました。
 聖書がそれらのことを知らせるのは、時の終わりに直面したわれらへの警告であります。立っている者は倒れたしないよう気を付けていなさい。
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリ10:13)
 兄弟たちよ、ゆえに偶像崇拝を努めて避けなさい。百害あって一利なしです。おわかりですか、偶像へささげられた肉は神への供物ではなく、悪霊への献げ物である、と。あなた方に悪霊の仲間となってほしくありません。何人と雖も主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできません。主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くこともできません。そんなことをする者は、主を妬ませたいか、自分は主よりも強いと錯覚しているかでありましょう。

 一コリ10:23-11:1〈すべて神の栄光のために〉
 すべては良心の問題である、と考えて行動しなさい。ここでわたしが申しあげる「良心」とは自分のではなく、他人の良心であります。なにをするにしても、すべて神の栄光を現すためにするのです。
 「あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。」(一コリ10:32)
 わたしは人々を救うために他人の益を求め、すべての点ですべての人を喜ばせようとしています。わたしがキリストに倣う者であるように、どうかあなた方もわたしに倣う者となりますように。

 キリスト教にとって旧約聖書はキリスト(メシア)出現を予告する書物である由。福音書や「使徒言行録」などこれまで読んできた新約聖書の各書物を顧みても、「詩編」や預言書からの引用が専らキリストにまつわる箇所だったのは、そうした所以でありました。
 また律法、即ち<モーセ五書>を基とする箇所も多くありますが、本章はそうしたうちの1つです。シナイの荒れ野を流離い、ホレブ山の麓にて待機中のイスラエルの民にまつわるエピソードなど、本章前半部で語られるところは「出エジプト記」と「民数記」を出典とします。
 「コリントの信徒への手紙 一」でははっきりと、「出エジプト記」や「民数記」の当該箇所で描かれるのはキリストの姿である、と述べる。加えて、そこで語られるのは紀元後のいまを生き、時の終わりに直面しているわれらへの警告である、と断言する。
 パウロ流の論法というてしまえばそれまでですが、旧約聖書に対するキリスト者のスタンスが垣間見える部分ではないでしょうか。この関係性はパウロが活動した初期キリスト教の時代から今日へ至るまで、2,000年の長きにわたって連綿と受け継がれてきている様子。主イエス・キリストの名の下、紀元後間もない時分に芽吹いた思想がやがて太い1本の幹となって命脈を保っているのは、なんとも興味深く感じられてなりません。
 引用した一コリ10:13と10:32ですが、ここなどは非キリスト者でも感慨深く味わえる箇所ではないでしょうか。真に魂を宿した言葉は普遍的な輝きを放って万人の深奥へ届いて揺るがす力を備えるのであります。

 本日の旧約聖書は一コリ10:3と出16:12-31、一コリ10:4と出17:1-7、一コリ10:6と出32:1-6、一コリ10:7と出32:6、一コリ10:8と民25:1-9、一コリ10:9と民20:6、一コリ10:26と詩24:1。



 小山清『小さな町』は無事読了した。が、感想文は未だ結語に至らず四苦八苦しておる。「コリントの信徒への手紙 一」の読書と執筆を止めて、『小さな町』の感想文に取り掛かってるのだけれども、どうにも難渋して困っている状態だ。
 まぁ、そのうち憑きが落ちたように筆を握ってノートに気持ちを叩きつけてゆくのだろうけれど、まだそれができる状態ではなさそうだ。機が熟すまでアイドリングして待つとしよう。が、問題はこれが図書館から借りた本であることだ。返却期限は間近に迫っている……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2137日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第9章:〈使徒の権利〉with奈良旅行の折、秋篠寺を訪れたこと。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第9章です。

 一コリ9:1-27〈使徒の権利〉
 わたしは使徒です。あなた方はわたしの働きの成果です。他の者らにとってわたしは歯牙にも引っ掛からぬ存在かもしれない。が、あなた方にとってわたしは使徒なのだ。主キリストを見た使徒なのです。
 批判者諸兄よ、あなた方にお訊きしたい。わたしには飲食する権利もなければ、信者なりし妻を得て伴い歩くこともできないのか。わたしとバルナバは、生活の資を得るための仕事をしてもいけないのか。
 そこにそれがあるのにそれを得ようとしない者がいるのか。
 わたしはあなた方に霊的なものを蒔きました。だからといって、わたしがあなた方から、あなた方の肉なるものを刈り取ろうとするのは、果たして過ぎたる行為なのでしょうか。
 他の者たちにこうした権利が与えられているならば、われらへは尚更その権利が与えられているべきではないのですか。「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」(一コリ9:12)
 主はいいます、福音を宣べ伝える人たちは福音によって生活の資を得るように、と。が、わたしはこの権利を用いたことがありません。用いるぐらいなら、死んだ方がマシだ、と思うているからです。
 わたしの報酬、それは「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということ」(一コリ9:18)なのです。
 誰に対してもわたしは自由ですが、同時にすべての人の奴隷でもあります。ユダヤ人、律法に支配されている人、律法を持たない人、弱い人。かれらに対してはかれらのなかの人のようになって、かれらを得ようとしました。どうぞご承知置きを。福音のためならばわたしはどんなことでもします。わたしが福音と共にあずかる者となるために──。
 やがて朽ちる冠のため、日々肉体を鍛錬する競技者のようには、わたしはなりません。わたしは朽ちることなき冠のために節制するのです。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(一コリ9:27)

 バルナバは初期キリスト教会の福音宣教師で、回心したパウロをエルサレム教会に執り成して仲間の1人として認めさせるに尽力した人(使9:27-28)。初出は使4:36。レビ族のかれも他のキリスト者と同じく自分の畑を売り払うなどして、教会──信者の共有財産として提供した、という件であります。
 パウロ回心後はかれと宣教旅行を実施しましたが(パウロの第一回宣教旅行)、次の宣教旅行では随伴者のことで意見が一致せず、パウロと別れてマルコを伴いキプロス宣教へ赴いたのでした(使15:36-39)。キプロスはバルナバの出身地でした。以後、2人が再び相見えたかどうか、不明であります。

 本日の旧約聖書は一コリ9:9と申25:4。



 わたくしは今年5月に奈良を旅行しました。家族での奈良旅行はこれが2度目になるのですが、ふしぎと今回が<初めて>という感が拭えません。が、それについて考察を加えるのは他日の機としましょう。
 このたびの奈良行きでわたくしのいちばんの目的は秋篠寺でした(長谷寺参詣は純粋な意味で旅行とは申せないので、ここでは考えないことと致します)。奈良旅行の個人的クライマックスに秋篠寺を持ってきたのは、ここに在る伎芸天の像を拝観したい、という一念から。
 伎芸天の存在を知るに至ったきっかけは覚えていませんが、遠因は学生時代、日本美術史で読んだ佐和隆研『仏像 祈りの美』(平凡社カラー新書 1974)まで辿れるのではあるまいか。そこで伎芸天は斯くの如く記述されておる、「あらゆる芸に長じ、諸芸成就、福徳円満をつかさどる芸術、芸能の神である」(P142)と。
 自分のような者でも対象になるのなら、生涯一度でいいから拝んでみたいものだ、と願ってよやく実現した次第でありますが、5月の奈良旅行で自分たちの行動ルートからやや外れる秋篠寺を組みこんだのは、堀辰雄『大和路・信濃路』所収の「大和路」に秋篠寺訪問の折のことが記されているのに接したからでありました。堀は秋篠寺を訪れて、境内の秋草のなかに寝転がってこの寺の印象を認めた(新潮文庫 P105)。清冽な文章から立ちあがってくる光景に惹かれて、この寺に自分も行ってみたい、と強く欲した記憶があります。
 そうして奈良旅行最終日の午前、近鉄大和西大寺駅前からバスに乗って小雨に濡れた秋篠寺を訪れて、生命力に漲った緑の木立、苔群す庭を見つつ本堂の薄暗がりのなか静かにたたずむ伎芸天立像と対面し、ひっそりと充足の溜め息を洩らし、落涙をこらえてそれを見つめたのでした。この奈良旅行では中宮寺でも同様の経験をしました。大仰と揶揄されましょうけれど、そのときのわたくしはまさにそんな気分だったのです。誰に否められる筋合いもありません。それはさておき。
 旅行から帰ったあとは仏像の本に手が伸びるようになりました。でもなかなか伎芸天を取り挙げたものはありません。やや観光ルートから外れた場所に寺があるせいか、この仏像がイレギュラー的存在なのか、或いはそれ以外なのか、定かでありませんが、でも、自分の内に起こった感動が決して例外的なものでないことは、前述堀辰雄の文章を再読しても明らかでしたし、立原正秋の作品などでもそれは確認することができます。
 その立原正秋なのですが、20代後半に手を出してその作為的なまでの人工美と情緒過多で嫋々たる筆致にうんざりしてその後は古本屋で見附けても手を伸ばすことさえなかったのですが、5月の奈良旅行を契機に再び読んでみようか、と思うたのでした。たぶん、立原正秋に大和路、就中この秋篠寺を舞台にした上下巻の長編小説がある、と知ったからでしょうね。でもそれはなかなか見附からなかった。あっても上巻だけで、その上巻も表紙カバーが映画化されたときのスチール写真を使っていたり、しかも秋篠寺を舞台にするのは下巻であるらしいとあっては、まぁ、購入する気なぞ起きようはずもありませんな。
 が、この3連休の初日にわたくしは思いも掛けずこれを発見したのです。タワーレコードにアバドのシューベルトを買いに行った帰り、何気なしに寄った<ブ>の108円コーナーにて。『春の鐘』、新潮文庫。躊躇いなく摑んで、状態を確認した後、レジへ運んだのはいうまでもない。ちなみに立原には『心のふるさとをゆく』という本(角川文庫)があって、ここにも秋篠寺を訪ねたときのことが書かれている。偶然にもわたくし同様、小雨の日に訪うた様子。
 此度大和路を歩いたことは自ずと読書の幅を広げた結果になりました。そこに長谷寺がある以上、わたくしは残りの人生であと何回か奈良へ旅行することがあるでしょうが、そのすべてで秋篠寺を訪ねることは不可能だと思います。なんというても奈良は広い。見るべき寺社はたくさんあり、仏像も同じだけかそれ以上にあり、記紀万葉へ親しんだ者には、九州高千穂を除けば最大級の観光スポットである。それだけに秋篠寺再訪の比率は相対的に低くなり、毎日の生活の記憶が蓄積されてゆく一方でかの奈良旅行の思い出は鮮明さを失ってゆくのでしょう。それを少しでも延命させる方法の1つが読書であります。写真は想いを深め、折々の感慨を甦らせこそすれ、しかしながらそれだけで補完は果たされません。それについて書かれた本を読むことは自分の思い出と他者の把握した情景の必然にして微妙な差異を確認して、記憶のなかの光景をより鮮明にさせることでもあります。このようにして旅行の思い出というのは、時として補正されたり取り違えられたりすることもありますが、人のなかで生き続けるようになるのではないでしょうか。
 いまわたくしには再訪を切実に望む場所が、幾つかあります。この秋篠寺は、その1つ。かなうならば今度はゆっくりと、時間をかけて、わがままをいえば小雨のなかを、秋篠寺を訪うて伎芸天や他の像に対面していたいものであります。その日までわたくしは生きていましょう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2136日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第8章:〈偶像に供えられた肉〉with〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第8章です。

 一コリ8:1−13〈偶像に供えられた肉〉
 今度は偶像に供えられた肉についてお話ししましょう。あなた方コリントの兄弟たちは知識のあることを誇っています。まぁ、知識のあるのは事実でしょうが、同時にそれはあなた方の驕りでしかありません。
 あなた方は自分が何事をも知っている、という。が、それはなにも知らない、ということでもあります。本当に知らなくてはならぬことを、あなた方はまだ知らない。真に知恵ある者とは自分が無知であるのを思い知っている者なのですよ。
 また、愛は造りあげるものであることを知ってください。それは神への愛です。神を愛する者は神に知られた者でもあります。よろしいですか、われらは神に帰り、われらは主により存在するのです。
 が、この知識を誰もが持つわけではありません。つまり、──
 「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」(一コリ8:7−8)
 知識あるあなた方のこうした自由な振る舞いが、弱い人に感化してかれらもこれに従うようになったらどうでしょう。知識が弱い人を滅ぼす、ということになりはしませんでしょうか。あなた方によって感化された弱き兄弟たちのためにもキリストは死んでくれたのです。あなた方は兄弟に対して罪を犯したことになります。かれらの持つ弱き良心を傷附けることは、キリストに対しても罪を犯すことでもあるのを知ってください。
 最後に話を元に戻しますが、もし食物のことがわれら兄弟をつまずかせる原因となるならば、わたしは金輪際、肉を口にはしません。

 偶像に供えられた肉という喩えはともかくとして、皆が知識ある者と見做す者、尊敬する者が自分の気儘に振る舞えば、弱き人にはそれが<正しいこと>であるように受け止められ、かれらも同じように振る舞うであろう、という点に、わたくしは注意を促したく思います。
 本章は会社勤めをしている人で、役職者/管理者の立場にある者は傾聴すべきでありましょう。その実体は中途半端な知識、体裁を取り繕うような対応であっても、それを上の立場の者が行えば、確かな知識や適切な対応を持ち合わせていない人の目には<正>と映ってしまい、かれらを右に倣えさせてしまう。
 これは良くない。無知の者に罪を犯させるのは知識ある者の自負、慢心、驕りである。上の者が持つ誤った知識が他の者を見当違いの方向に導き、傷附けてしまう。古今東西を通じて普遍的な見解でありましょう。わたくしも驕ることなく絶えず自分の知識を点検して、再び戦場と化しつつある職場に戻りましょう(この比喩、まさにその通りなのだ!)。



 インフルエンザと疑われても時期的には仕方のないただの風邪を引いて珍しく会社を休んだ今日、それでもやはり起きている時間はあるので、これもまた久しぶりにマイケル・ジャクソン『GHOST』を観たのですが、残念なことに風邪薬の副作用で眠くて眠くてたまらなくなってきたから、これの感想とか抱き続けている感慨についてはまた後日とさせていただきたく存じ上げ候。ちゃお!◆

共通テーマ:日記・雑感

第2135日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第7章:〈結婚について〉、〈主が定めた生き方〉&〈未婚の人たちとやもめ〉with蔵書処分に目眩する:つぶやきなう。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第7章です。

 一コリ7:1−16〈結婚について〉
 また、あなた方からの別の質問に答えるならば、男は女に触れたりしない方が良いのです。が、──
 「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。」(一コリ7:2−5)
 こういうたからとて、わたしはそうすることをあなた方へ求めているのではありません。そうしたければそうすればいいんじゃないですか、という程度の話です。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(一コリ7:7)
 未婚者、バツイチ、バツニ不問で離婚者たちへ、わたしはいいたい。皆、わたしのように独り者でいるのがいちばん良いのです。もしあなた方に相愛の相手ができて、カレ氏カノジョに情欲を覚えてもう抑えられないな、と思うたならば、まぁ結婚するがいいのです。「情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(一コリ7:9)
 夫も妻も信者である既婚者へ。離婚するな。配偶者を離縁したりしないように、これはわたしではなく、主の言葉です。
 夫婦のどちらかが信者であり、どちらかが信者でない既婚者は、わたしパウロが自分の言葉でお伝えしましょう。非キリスト者の配偶者があなたと、生活も寝食も共にしたいと願う限り、その配偶者を離縁してはなりません。というのも、非キリスト者の配偶者はキリスト者であるあなた方によって聖なる者とされているからです。為にあなた方の子供も汚れた者ではなく聖なる者であるわけです。
 さりながら由あって非キリスト者の配偶者があなたから去るならば、そのまま去るに任せておけば良い。残されたあなたは結婚に縛られることなく、平和な生活を送りなさい。それが、神があなたを召す理由です。
 夫を救える、と思うな。妻を救える、と思うな。かれらを信仰の道に入れさせられる、と思うな。どうしてそんなことができると考えるのか。

 一コリ7:17−24〈主が定めた生き方〉
 あなたは、召されたときの身分のまま、体の状態のまま、神の前に留まりなさい。
 バツイチは再婚しようとするな。未婚者は結婚しようと考えるな。割礼を受けた者はその跡を消すな。割礼を受けていない者は受けようと考えるな。
 奴隷のまま召された者は、身代金を払って買い取られた、キリストの奴隷です。人間の奴隷にななり給ひそ。
 もう一度いいます。あなた方は召されたときの身分のまま、体の状態のまま、神の前に留まるようにしなさい。

 一コリ7:25−40〈未婚の人たちとやもめ〉
 わたしは主の指示を受けているわけではないけれど、主の憐れみによって信任を得ている者なので、未婚者とやもめの人たちにいいますね。
 現状維持にこれ努めなさい。いまのままでいることを選ぶのです。男は妻を求めるな。女は夫を求めるな。
 が、かりに未婚者やバツの付いた独身者が婚姻したからとて、それは別に罪にあたりません。「ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。」(一コリ7:28)……まぁ、そういうことです。この世の有様はすぐに変わって過ぎ去ってゆくのですから。
 独身の男女は主ありきの生活を送り、主をのみ思うて生活します。が、既婚者はそうもいきません。互いに妻に、夫に心を遣い、その一方で主へも心を遣う。かれらはこの世のことにも主のことにも心を遣うので、心が2つに分かれてしまっています。──斯様に申しあげるのは、偏にあなた方を思うがゆえのことであり、束縛するためでは決してありません。品位ある生活を過ごし、ひたすら主に仕えてほしいから、こう申しあげるのですよ。
 「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。」(一コリ7:36−38)
 既婚者よ、妻が、夫が故人となったならば、再婚したって構いませんよ。但し、新たな伴侶はキリスト者でなくてはなりません。ですが、本当はそのままやもめでいる方がずぅっと良いのです。神の霊を受けているわけですからね。

 なんだかパウロの天邪鬼ぶり、へそ曲がりぶりが炸裂した一章であります。結婚したければするがいいのさ。でもわたしみたく独り者でいるのがいちばん良い方法なのだけれどね。まるで自分の選択が<たった一つの冴えたやり方>であるかのような開き直りようです。1つの意見を巧みに組み替えて論を練りあげてゆき、質問者への回答に仕立てあげるその手腕、<弁舌の人>パウロの本領を窺い知った気分であります。
 正直なところ、論旨の微妙なすり替えには唖然とさせられもするのですが、あくまでこれはわたくし個人の読み方なので、真面目なキリスト者やきちんと信仰心を持って聖書を読んでいたりする方々には気に喰わぬやもしれませんね。しかし、まだ辛うじて言論統一、思想弾圧に最後の一線を守り切れているこの国ならば、この程度の意見は呈しても問題ありますまい。が、このようにしていると、逆境のなかにあってひたすら宣教にこれ努めたパウロの気持ちもわかりかけてくるのでありますよ。
 いや、しかし本章はわたくしのような者にはツライ、辛い。暗にわが身が糾弾され、ぶった切られている気さえ致します。
 一方で、一コリ7:13「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはならない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ」云々には打ちのめされましたよ。──肉なる夫と霊なる妻にもそれは該当するのか、未だわたくしはあの子ゆえに聖なる者でいられているのか。嗚呼、妻なりし女性の命日のあとでこうしたものを読むなどまさしく拷問、残酷でありますよ。
 パウロは殉教の頃は妻帯者であった、といいます。伴侶が如何なる人なのか不明ですが、それに対する羨望はちょっと脇に置いておく。おそらく本書簡が書かれた時代はパウロも独身であった様子。<結婚したければそうしなさい、でもわたくしはそうしない方がいいと思うのです>なるハーマン・メルヴィル描く書写人バートルビーを彷彿とさせるパウロの口調には、この時分のパウロの等身大の姿が反映し、心情も投影されているように思うのであります。何だ彼だいうてもパウロとて人間ですからね……いったいあなたになにがあったのか、パウロよ!?
 ──本章と<愛>を謳った第13章に、思想の齟齬が窺えるのは気のせいなのか。忘れぬよう、ここにメモしておく。



 読みたい本だけを手元に置く、というのはやはり難事業だ、と実感。今週後半の3連休でどれだけ片附けられるか? 迷ったら貸倉庫行き、というのは処分しないに等しいから、まったく以て困るのだ。果たしてみくらさんさんかは本を処分することができるのか。乞うご期待。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2134日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第6章:〈信仰のない人々に訴え出てはならない〉&〈聖霊の住まいである体〉with今日の〆は、溜め息交じりの告白で。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第6章です。

 一コリ6:1-11〈信仰のない人々に訴え出てはならない〉
 コリント教会の兄弟たちよ。あなた方の1人が仲間と諍いを起こしたらば、聖なる者たちへ訴え出るのが本道です。なのにあなた方はそうしないで、正しくない者へ訴え出る。なぜですか。
 世を裁くのは、こうした信仰のない人々の仕事ではありません。聖なる者たちの仕事です。われらには天使たちさえ裁くことができるのに、日常的な事柄、諍い事については教会が疎んじるような者たちを裁判官の席に就かせ、かれらの前に出て仲間を訴える。どうして信仰のない人々へ仲間の裁きを委ねるのですか。
 正しくない者は神の国を受け継げません。たしかにむかし、あなた方のなかにはそうした者がいました。が、いまやかれらは主イエス・キリストの名とわれらが神の霊によって洗われて聖なる者とされています。いまやかれらは義とされています。

 一コリ6:12-20〈聖霊の住まいである体〉
 わたしにはすべてのことが許されている。そうあなた方はいう。が、すべてが益になるわけではない。
 わたしにはすべてのことが許されている。そうあなた方はいう。が、わたしには何事にも支配されていない。
 あなた方の体は淫らなことを行うためにあるのではない。その体は主のためにある。主は体のためにいるのです。神は主を復活させたのと同じ力でわれらをも復活させてくれます。
 自分の体はキリストの一部であると、あなた方は知るべきです。キリストの体の一部である体を娼婦と交わることに使っていいのですか。娼婦と体を重ねて一つになったりするな。主に結びつく者は主と一つの霊となるのですから、あなた方は淫らな行いを避けるようにしなくては。人が犯す罪は体の外にあります。淫らな行いに耽る者は、己の体に対して罪を犯しているのです。
 「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、(それゆえに)あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(一コリ6:19)
 神の栄光を自分の体で現すように努めなさい。

 一コリ6:19引用文へ例外的に語を補った。先にそれをお伝えしておく。
 「わたしにはすべてのことが許されている」とはコリントの信徒(の一部)が口にする、思い上がりの言葉、台詞──一コリ10:23でこの台詞は再度引かれ、パウロも「しかし」と否定しております──であります。
 それに対してパウロは、しかし、と反論する。全部が全部、有益なわけではないし、自分は世俗の倫理の何物にも支配されたりしない、と。なんとなれば体は自分1人のものではなく、キリストの体の一部を構成するのでもあるから。自分たちの体が聖霊の宿る神殿であり、かつキリストの体の一部であり、自分が聖霊に対する祭司である以上、「すべてが許されている」わけではないのです。
 フランシスコ会訳の註釈では、律法から解放されたキリスト者の自由について本来使われた言葉だが、コリントの信徒はこれを曲解してもはやセックスに関しても乱交についてもわれらは自由で束縛するものはなにもない、と捉えていたようだ、と述べております。首肯させられるところであります。
 一コリ3:16-17「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。……あなたがたはその神殿なのです」なる文章を一歩進めて発展させたパウロの考えを、われらはここに読むのです。



 最後に恒例、溜め息交じりの告白をお許しいただきたい。
 事ある事の繰り言になりますが、殆ど一章の、少し言葉を換えただけの引き写しとなっていることに空しさを覚え、己に対して蔑みと絶望に等しい思いを抱きます。自分のしていることをまるで無意味に感じるのです。
 ゆえにいっそこのまま更新の無期限停止を宣言、断行してしまおうか、という風にも妄想するのですが、足かけ7年もの間、本ブログに費やしてきた時間と労力を思えばそんなことできようはずもなく、更新停止後になにを書けばいいのかも現時点では思い着かない。
 まぁ、正直口惜しいですよね、自分が敗北者になったみたいで。最も憤慨極まりない時期さえ本ブログを縁にくぐり抜けられたのですから。
 となれば、否が応にも現在の方法を維持・継続させるしかありません。自分の無能無才にムカついたり苛ついたり、喜んだり好調だったりしてその落差、まさに躁鬱症の如しや、と独り言ちてみます。
 <しかし、進まなくてはならない>ので、読者諸兄にはいましばらく現在の方式のままでお付き合いの程を。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2133日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第5章:〈不道徳な人々との交際〉with縁なき街、名古屋。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第5章です。

 一コリ5:1-13〈不道徳な人々との交際
 仄聞するところでは、兄弟たちよ、あなた方のなかには、異邦人たちの間でさえついぞ行われたことのないような、淫蕩な行為に耽る者らがいるそうですね。にもかかわらず、あなた方は未だ高ぶったりしているのか。なんと悲しいことだろう。あなた方は自ら高ぶるよりも先に、淫蕩な行為に耽る者らを追放すべきだったのです。
 「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」(一コリ5:3-5)
 パンを作るときのことを考えてください。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることがあるでしょう。わたしがあなた方に、自らを誇るな、とはそうしたことなのです。あなた方にはいつも新しい練り粉でいてほしい。入りこんだ古いパン種は取り除きなさい。かつてイスラエルが出エジプトを果たしたとき、神は先祖の家の前を過ぎ越して、エジプト人の家庭から初子の命を奪いました。それに因んでわれらの先祖は酵母の入っていないパンを食べるようになったのです。
 あなた方は、この酵母の入っていないパンです。キリストがわれらの過越の小羊として屠られているからであります。さあ、古いパン種や邪悪と悪意のパン種は用いたりせず、純粋にして真実のパン種で過越祭を祝おう。
 ──わたしは以前、不道徳な者とは交際するな、と手紙のなかで書きましたが、その対象となるのは世の人々ではありません。もしそうならば、あなた方がこの世から消えた方が遥かに良いでしょう。わたしがいうのは、あなた方のなかにいる不道徳な者のことです。かれらとは食事の席を一緒にせず、交わったりするな、とわたしはいうのですよ。
 世の人々、つまり外部の人々を裁くのは、わたしの役目ではありません。それは神が為すべきことです。あなた方は内部の人々、つまり教会へ集う信徒たちのなかにいる不道徳な人々をこそ裁くべきでありましょう。「申命記」に書かれています、あなた方のなかから悪い者を取り除くべし、と。

 純粋ななかから不純物を取り除け。これが通用するのは専ら信仰によって結ばれた集団に於いてでありましょう。これ即ち、原理主義の出発点であります。本章でそれは、清らかなる体と魂の持ち主の集団からアウトサイダー、不道徳な者を排除せよ、という表現、忠告に代わる。
 パウロの思想、ひいてはキリスト教神学の合理的な面をわたくしは本章に見ました。不道徳な者との交際は断て、というのは世間の人々を対象にしていうたのでは、断じてない。もしかれらを対象にして斯くいうたならば、そうしてそれを実行しようとするならば、あなた方は世の中から出て行くより他にない。
 よくわかる文言、よくわかる考えであります。そうしてパウロは実によくキリスト者と非キリスト者の相関関係をわかっている人であります。夏目漱石『草枕』ではありませんが、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい」なのであります。
 押すべきは押し、引くべきは引く。所詮、完全なる理解なんて互いにできないのだから、せめて共通目的で括られた集団のなかでは信条の純血を謀りましょう。──口は悪いが、このパウロの考え、キリスト教の神学の根底にあるのはそういうことでありましょう。換言すればソドムとゴモラを忌避し、その再現を厭うがゆえのことでもあったやもしれませんね。
 なお本章で不道徳な者の例としてパウロが掲げるのは、以下のような人々であります、──
 ・淫らな者
 ・強欲な者
 ・偶像を礼拝する者
 ・人を悪くいう者
 ・酒に溺れる者
 ・人の物を奪う者

 本日の旧約聖書は一コリ5:7-8と出12:11-15及び20、一コリ5:13と申17:7。



 結局のところ、名古屋へ行くのは断念してやさぐれた日々を過ごすみくらさんさんかであるぞ。
 なんというかね、わたくしは本当に名古屋という街と縁がない。発端が何であったかは忘れたが、1つの象徴的出来事はやはりSKE48のナゴヤドーム単独公演に行きそびれたことであろう。チケットはあったのだ。耳の不調を押して参戦するつもりであったのだ。両耳の完全失調も覚悟でコンサートに行くつもりだったのだ。
 が、行かなかったのである。行けなかった、というのが正確だ。私事ゆえ説明を差し控えるが、このときは本当に口惜しかったな! 憤激極まって公演DVDは持っていても未だ再生どころか開封すらしていない程である。
 さほど斯様にわたくしは名古屋と縁がない。通過駅、乗換駅でしかないならそれでもよいさ。いまはそのときではない、ということだからね。しかし<そのとき>がいつなのか、そもそんな機会が巡ってくるのかすらも、不信心なわたくしにはわからないのだよ、バートルビー。
 源氏物語絵巻の全点展示は、待てばいずれ再びそのときも訪れよう。嗚呼、妻よ、せめてその機会に浴す日までわれを召すなかれ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2132日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第4章:〈使徒の使命〉with隣国の友輩よ、……!〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第4章です。

 一コリ4:1-21〈使徒の使命〉
 ──宜しいでしょうか。こうした次第で世の人々はわれら使徒をキリストに仕える者、神の秘めたる計画を委ねられた管理者と考えるべきでしょう。この場合、管理者に求められるのは<忠実>であります。
 わたしは世の人々から裁かれることについて、思うところはなにもありません。自分で自分を裁くこともしません。自分にやましいところはなに一つないけれど、それを以てわたしが義であるわけでもないのです。
 兄弟たちよ、知っておいてください、──
 「わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」(一コリ4:4-5)
 ここまでわたしはアポロと自分に当て嵌めて、あなたがたのなかの分裂、分派について述べてきました。自分たちを例にしたのは、これによってあなた方に<書かれているもの以上に出ない>ことを知ってもらい、また、あなた方のうち何人と雖も尊大になったり、或いは誰かを蔑ろにしたり見下したり、差別したりしないようにしてほしいからです。
 顧みれば神はわれら使徒をまるで死刑囚の如く最後に引き渡される者とし、世界に対しても天使に対しても見世物としました。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。」(一コリ4:10)そうして、「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべての者の滓とされています。」(一コリ4:13)
 このようなことを書くのは、あなた方に恥ずかしい思いをさせるためではありません。わが愛する子らへの諭しであります。わたしは福音を通して、キリスト・イエスに於いてあなた方を設けたのであります。
 あなた方はわたしに倣いなさい。そのためにもそちらへわが協力者テモテを派遣します。かれは主に忠実です。これまで諸所の教会で教えてきたのと同様に、コリントでもキリスト・イエスに結ばれたわたしたちの生き方を、あなた方のなかへ思い起こさせることでしょう。
 あなた方の一部の人々は、もうわたしがそちらへ行くことはない、と踏んでいるようですね。が、主の御心によっていますぐにでもそちらへ行くこともできるのですよ。その際には、あなた方のなかにいる高ぶった人の力を拝見するとしましょう。かれらにとって神の国は言葉ではなく、力にあるわけですから。お手並みをその際は是非拝見したいものです。
 コリントの兄弟たちよ、あなた方がわたしに望むのはどちらですか。鞭を持っていくことですか。それとも、愛と柔和な心で訪問することでしょうか?

 たしかに信仰の世界を形成するなかで、使徒はいちばん割に合わない役柄かもしれません。パウロ自身本章で告白するように、使徒は見せ物、一種の大道芸人的扱いであります。愚者にして弱者、身なりは乞食同然で虐げられ、この空の下に寄る辺なく、辛うじて日銭を稼いで生きる身の上。「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返」(一コリ4:12-13)す存在。
 が、それゆえにかれらが神から与えられた使命、果たすべき役割は頗る付きで重要でした。使徒なくしてナザレで始まったイエスの教えが広まることは不可能で、かれらこそキリスト教伝播と浸透の要だったのです。──見方を変えれば、或る面でかれらこそが<隅の親石>的存在であるのでした。いちばん顧みらることのない者が、いちばん重要な役目を果たす。キリスト教の広まりという点で使徒や福音宣教師が担った役割、その仕事ぶり、刻苦精励は、われらが思うている以上に実は大きかったのかもしれませんね。
 コリントへパウロが派遣した協力者テモテについて、改めて紹介しておきましょう。初登場は使16:1、パウロの第2回宣教旅行の折でした。小アジアはパンフィリア州リストラ出身の若者で、父はギリシア人、母は信仰篤いユダヤ人でした。テモテは「リストラとイコニオンの兄弟たちの間で評判のよい人」(使16:2)だった。パウロはかれをどうしても随伴者としたく、普段は行わない割礼の儀式をかれに対して執り行い、ユダヤ人の反発を避けて、晴れて旅の友としたのでありました。
 パウロが本書簡に認めた一節、「テモテをコリントへ派遣します」に対応するのは使19:22。このときパウロはアジア州エフェソに滞在しており、第3回宣教旅行の途中でした。また、一コリ16:10-11でも触れられております。パウロ書簡の一、「テモテへの手紙」はむろん、かれに宛てられた書簡であります。



 もちろん完全なる理解も習得も不可能事だけれど、旅行先の国の文化や言葉などを、事前に知識として仕入れておく。
 それは海外旅行のマナーだと思うておったのだが、これは万国共通でなく単に日本だけのものだったのかな。日本の常識は世界の非常識、って、この点については該当しないと思う。この認識が間違いでないことを祈る。
 隣国の友輩よ、恥を顧みよ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2131日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第3章:〈神のために力を合わせて働く〉withかの者に他者を慮る想像力はあるか?〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第3章です。

 一コリ3:1-23〈神のために力を合わせて働く〉
 コリント教会に集う兄弟たちよ、わたしはあなた方に対しては乳飲み子へ語りかけるような調子で語りかけた。つまり、霊の人に対してではなく、肉の人であるがために、ひたすら平易に語りかけるよう努めたのです。いま再びあなた方に語りかけよ、といわれれば、同じようにするでしょう。というのも、あなた方は未だ肉の人だからです。
 「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」(一コリ3:3)
 あなた方が群れなす派閥の頭に掲げるアポロとかパウロとかは、いったい何者ですか。かれらはあなた方を信仰へ導くため、主により与えられた分に応じて働いているに過ぎないのですよ。たしかにパウロが植え、アポロが水を遣りました。が、育てたのは神です。植える者と水遣りする者は同じ役割を担います。それぞれは働きに応じて神の報酬を得ます。つまり、われらは神のために力を合わせて働く者なのです。
 コリントの兄弟たちよ。あなた方は神の畑、神の建物です。わたしは神から授けられた恵みにあやかって、腕利きの建築家の如くあなた方のなかに家を建てるための基礎を造りました。あなた方はこの基礎の上に家を建てることになりますが、「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(一コリ3:12-15)
 ──あなた方は聖なる神の神殿です。神殿は都ではなく、あなた方の内に在るのです。即ち、神の霊はあなた方の内に住んでいるのです。神の神殿を内に宿すあなた方を殺傷する者あらば、神は其奴を滅ぼすことでしょう。──
 何人も自分を欺くなかれ。あなた方のなかには、自分は知恵ある者だ、と自負する人がいるかもしれません。が、それはよろしくない。本当に知恵ある者となるためには愚かな者にならなくては。なんとなれば神の前にあってはこの世の知恵なぞ意味を持たぬからであります。義の人ヨブの物語にも詩篇にも、そのことは書かれています。
 それゆえにコリント教会へ集いし兄弟たちよ、何人と雖も人間を誇るなかれ。使徒も世界も生も死も、すべてはあなた方のもの。現在の出来事も将来の出来事もあなた方のもの。
 「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(一コリ3:22-23)

 神殿はエルサレムに在るのに非ず、あなた方の内にこそ在り。
 シンプルながら心の襞の奥の奥にまで染みこんでくる、すばらしいメッセージだと思います。勇気附けられますし、あたたかく、敬虔な思いが感じられる。たしか福音書のどこかに、神は神殿に住まないなる趣旨の文言があったはずで、いまはちょっと見附けられなかったけれど、否応なくこの文言を想起させ、結び合わさせるのであります。福音書ではなく旧約聖書だったかもしれませんが、このあと探してみます。
 エルサレム神殿に神は住まない。ではどこに?あなた方の内に神殿が在り、そこに神は住む──万人が神を自分の内に持っている、義により正とされる信仰の、その源は実はあなた方自身のなかにあるのですよ。
 こんなメッセージを贈られたらほんの一時であったとしても、篤信を以て<らしく>生活しますよね。でも、コリントの信徒たちはそう一筋縄ではゆかぬ、換言すればそれ程単純ではなかったようで……。

 本日の旧約聖書は一コリ3:19とヨブ5:13、一コリ3:20と詩94:11。



 特段ガジェット好きでもなく、それのレヴュアーでもないので詳しくはないのだが、スマホのカメラ機能には少々問題があるように見受けられる。機能というよりも、レンズ周辺に難あり、というべきかな。
 どういうことかといえば、仮にカメラを起動させて撮影スタンバイの状態であっても、レンズ周辺のどこかが点灯することもなく、レンズを向けられているだけでは撮影されているのかどうか、判断しにくい、ということだ。序にいえばシャッター音だって限りなくサイレントに近い状態にすることができるのだから、尚更というべきであろう。
 今日もスタバで当事者を演じる羽目になったのだが、向かい合わせで坐ってきた小柄かつ丸顔黒縁眼鏡の薬指に指輪ありきの女輩。おもむろに肘を突き、目線の高さまでスマホを掲げおった。背面に付くレンズはわずか数分の例外を除いて常に、まっすぐわたくしへ向けられていた。
 かの女輩に写真撮影、ビデオ撮影される理由はないし、有名人になった覚えもない。また撮影されている確証とてないので、気にはなりつつも無視を続ける。
 が、実に不快である。気持ち良くもない。もし自分がレンズを向けられる側だったらどんな気持ちになるか、どうやらこのゴーゴンにはそれを忖度するような想像力はないらしい。数片なりともあれば斯様な行動は取れないと思うだが……。いったいどんな風に育てられたらこういうのが出来上がるのだろう。その生育過程を観察日記片手に実見したいものである。
 此奴首謀の<レンズ俺様に向けたまま事件>は開始から約40分後、先方の退出によって収束した。途中何度かわたくしもそちらへ目を向けたが──視線の方向に外界が見えるのだ、文章につまったり、言葉や表現を考えあぐねてそちらを見るのはいつものことだ──都度悪党は深き眼鏡のレンズの奥から不快の眼差しと表情と、舌打ちを送って寄越すばかりであった。
 ──そうそう、わたくしも試みにiPhone6Sを目線にかざして左目の痛む箇所を映してみたら、この御仁、目ン玉ひん剥いて拳でテーブルを一発ガツン、と叩きおった。周辺からの注目を一身に浴びたその方はさぞ満足そうなお顔をされていたっけなぁ。あら可笑しいね、オッペケペッポー、ペッポッポー。
 まあ囃し立てるのはさておき、想像力なき者、あっても貧困なる想像力しか持たぬ者は、公共の場でのエチケットに気を回すこと、他人の快不快に思いを馳せること、いずれにも縁なき衆なのでしょうか。だとすれば、哀れであります。かれら自身の将来がどのようなものであっても気にしないが、かれらが将来この国を支えるのだと思うと、恐怖に身震いが止まりません。何度か痛い目に遭ってパウロの如く回心の機を得られればいいのですが。
 なお、これは問題提起であって糾弾ではありません(バタイユ風にいうてみた)。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2130日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第2章:〈十字架につけられたキリストを宣べ伝える〉&〈神の霊による啓示〉with小山清『小さな町』もうすぐ読了他。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第2章です。

 一コリ2:1-5〈十字架につけられたキリストを宣べ伝える〉
 わたしが2回目の宣教旅行であなた方の町を訪れたとき、神の秘めたる計画を宣べ伝えるのに、耳に優しい言葉やさも賢そうな言葉を使ったり、或いは知恵を巡らせて語ったりはしなかったし、敢えてそれに頼ろうともしなかった。
 わたしがキリストを宣べ伝えるのに用い、頼りとしたのは“霊”と力の証明によるものでした。というのも、あなた方がキリストを信じる手段は人間の知恵でなく、神の力によってであると考えて疑わなかったからです。

 一コリ2:6-16〈神の霊による啓示〉
 が、信仰に成熟した人たち──それは即ち「十字架の知恵」という逆説的事柄を理解できる人たちのことであり、単純に信仰に篤い人ということではありません──に向かってはわれらも知恵を語ります。かれらがそうするに値する人たちだからです。けれどもその知恵は、この世に横溢する誰もが得られるような知恵ではありませんし、また滅びゆく運命の下にある支配者たちのそれでもありません。
 「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(一コリ2:7-8)
 預言者イザヤはその書のなかで、目が見ることも耳が聞かないことも、また人の心が思い浮かべることもなかったことも、神は自分を愛する者たちのために準備した旨書いております。
 われらは神の与え給うた霊によって、たしかにこのこと──神の計画、神がわれらのために準備したこと──を知りました。どうして神の霊がそれをわれらに示したかといえば、事は単純、神の霊のみが神を知るからに他なりません。
 「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」(一コリ2:12-13)
 自然の人、即ちこの世の命のみに生きる人は、神の霊を受け入れることが出来ません。なぜならば、かれらにとってそれは愚かなものであり、と同時に到底理解しがたいものであるからです。
 ──果たして誰が主の思いを知り、誰が主を教えるというのだろう、と預言者イザヤは問いかけます。が、われらはキリストの思いを抱いています。

 これまでも文中には出てきていながら、特に触れることなく過ごし、蔑ろにしてきた感なきにしもあらずな“霊”について、ちょっと述べてみたく思います。
 “霊”は聖霊の同義語と取って良いのではないでしょうか。パウロの名を冠す各書簡では様々な話題が展開されますが、聖霊にまつわる論はいつだってその中心にある。では聖霊とはなにか──簡単にまとめてしまうのは至難の技ですが、一コリ12:3が要点を掻い摘まんでいるように思うので、引用してみます、──
 「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
 聖霊は神と人、キリストと人を媒介する役で、かつ聖霊を自らの内に持つことで人はキリストと結ばれ、真の意味でキリスト者と呼ばれる、とパウロは説いております。まだわたくしはパウロ書簡を「ローマの信徒への手紙」しか読み果せておりませんし、「コリントの信徒への手紙 一」も読み終えるまでにはあと1週間必要であります。が、ここまで読んできたなかでこの程度は漠然とながらも理解できます。
 辞典や註釈書、研究書など繙けばもっと精しいこともわかりましょうが、聖霊/“霊”に関して現時点では、聖霊を自分の内に持つことはキリスト者のアイデンティティを忖度するバロメーターになっているのだな、ということがわかれば良いと思います。基本がわかっていれば応用問題にも対応できるのであります。
 本日引用した一コリ2:12-13は、以上述べた点を考える出発点となる文章ではないでしょうか。
 勿論、“霊”/聖霊は非キリスト者にとって最も馴染み薄く、把握しかね、理解の及びがたき事柄でありますから、今後の学び続ける課題として携えていよう、と思います。

 本日の旧約聖書は一コリ2:9とイザ64:3、一コリ2:16とイザ40:13。



 図書館で借りていた小山清『小さな町』をもうすぐ読了します。いまは読み始めたばかりの箇所で止まっている、最後から2編目の短編。本稿が昼日中の執筆だから、おそらく一巻を閉じるのは夜になるでしょう。感想など認めて年末頃にお披露目する予定ですが、……悩んでいます、自分用に購入するか否かを。こうまで小山清の作品にのめりこむとは想像しませんでしたからね。
 それはさておき。
 平成27年も間もなく終わるわけですが、書こうとして書けなかった文章、書くに至らなかったネタ、書く/お披露目するというておきながらそのままな話題など、ずいぶんとあるのがチト心に痛いのです。これらに関しては一編として昇華させるか、或いは破棄するかもまだ決めていないため、しばらくは悩み続ける時期が(おそらく年を越してなお)続くことになりそうです。在庫一斉処分セールでもできればいいのですけれど……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2129日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第1章:〈挨拶と感謝〉、〈一致の勧め〉&〈神の力、神の知恵であるキリスト〉with青空文庫で伊良子清白を読みました。〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 コリントの信徒への手紙・一第1章です。

 一コリ1:1-9〈挨拶と感謝〉
 わたし使徒パウロと兄弟ソステネから、キリスト・イエスにより聖なる者とされた、また、召されて聖なる者となったコリント教会の信徒たちへ。
 あなた方はキリストによって結ばれ、あらゆる言葉とあらゆる知識に於いて、すべての点で豊かにされています。結果、あなた方が賜物について欠けるところはなに一つ、ありはしません。主は最後まであなた方を支えてくれることでしょう。
 あなた方は真実なる神により主キリスト・イエスとの交わりへ招き入れられたのです。

 一コリ1:10-17〈一致の勧め〉
 さて実は、わたしはクロエの家の人たちからあなた方の間に或る諍いがあると聞きました。なんでもあなた方はそれぞれに分派しているそうですね。曰く、自分はパウロ派だ、アポロ派だ、ケファ(ペトロ)派だ、挙げ句にキリスト派だ、などと。
 いったいキリストは幾つにも分かれてしまったのでしょうか。わたしがいつ、あなた方のために十字架へ架けられましたか。わたしがいつあなた方のために洗礼を授けましたか。わたしはクリスポとガイオ、ステファナの家の人々以外に洗礼を授けたことはありませんよ。
 「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(一コリ1:10)
 「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」(一コリ1:17)

 一コリ1:18-31〈神の力、神の知恵であるキリスト〉
 預言者イザヤはその書のなかで、知恵ある者の知恵は滅び、賢者の賢さを無意味なものにする、てふ神の言葉を伝えています。われらのような救われる者に十字架の言葉は神の力です。が、滅びゆく者にそれは愚かしいものとしか映りません。
 果たしてこの世のどこに知恵ある者が、学者が、論客がおりましょうや。世は自分の持てる知恵で神を知ることはできなかった。ゆえに神は、宣教なぞという愚かなやり方を取って信じる者を救おうと企てたのであります。
 ご存知でしょうが、ユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を探します。が、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えて」(一コリ1:23)いるのです。それはユダヤ人にも異邦人にも障害物でしかなく、また愚かしいものでしかありません。しかしわれらは相手がユダヤ人であろうと異邦人であろうと、「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(一コリ1:24)
 コリントの兄弟たちよ。キリストにより召されて聖なる者となったときのあなた方は、けっして人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や良家の出身であったわけでもないはずです。
 神はこの世の知恵ある者、良家の者、地位ある者に恥をかかせるため、この世の無学な者、貧しき者、無力な者を選びました。卑しい者、見下される者を選びました。これは、かれらが神の前に立ったとき、自らを誇ることがないようにするためです。
 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖の贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(一コリ1:30-31)

 後半部に於いてパウロは、世のエスタブリッシュメントな人々に恥をかかせるため、いい換えればかれらの権威や出自、教養や職能を無効化するため、対極の位置にあるともいえる者たちを選んだのだ、と説きます。
 わたくしはここを読んだとき、詩118:22を出典とする<隅の親石>を思い出しました。既に共観福音書や「使徒言行録」で見たように、これはイエス・キリストのことであります。顧みられることの(殆ど)ない取るに足らぬ者が後に重要な役回りを担う、という意味合いですが、パウロはここで、やはり顧みられることが殆どない、一般的には無視されたり、軽んじられたり、蔑まされたり馬鹿にされたり、そうした人々が神によって選ばれ、この世のエスタブリッシュメントな人々、インテリ階層の人々、権威者よりも大事にされるのだ、と主張するのであります。<神の前に万人は平等>という理念を明らかにする考えと申せましょう。とてもあたたかみのあるメッセージではありませんか。
 宣教を「愚かな手段」というパウロならではの逆説的見解も、またそれについて考えるのも、本章の読み処、読書の醍醐味の一つといえましょうね。

 本日の旧約聖書は一コリ1:19とイザ29:14、一コリ1:31とエレ9:23。



 いつもリュックのなかに入れて、会社の往復時や外での原稿執筆の区切りのときに読む本があります。自宅にいる折は滅多に取り出すことはないのですが、昨夜は偶さかそれを布団のなかで読んだのです……なにがいいたいかといえば、翌る日、わたくしはそれをリュックに入れ忘れたまま出勤してしまった、ということであります。本をリュックに戻し忘れたと気附いたのは、嗚呼、ホームで電車を待っているときでありました。
 『バーナード嬢曰く』第2巻に於ける神林しおり嬢に刺激されたわけでも、能う限り最上の読書環境の構築に勤しむ彼女の姿を脳裏に描いたわけでもなんでもないが、iPhone取り出して青空文庫を開いて、ダウンロード済みの作品を瞥見した後読みかけの詩集を会社の最寄り駅に到着するまでの間、読み耽った。おまけにその朝、わたくしは坐ることができなかった。
 詩集の書名は『孔雀船』、作者は伊良子清白である。生田耕作先生偏愛の詩人の1人であった近代文学最上級の人の詩集が、まさか電子書籍で読めるなんてなぁ……。嬉しいけれど、ちょっと微妙。なお、品切れの様子だが岩波文庫にも入っているので意欲ある方はお探しになってみては如何か。
 その朝は『孔雀船』から「夏日孔雀賦」でありました。そうしてわたくしの心を貫くような一節に出会った、──
 時は滅びよ日は逝けよ/形は消えよ世は失せよ/其處に残れるものあり/限りも知らず極みなく/輝き渡る様を見む。
 詩のいうジャンルの作物は一般的に申しあげて、青空文庫など電子書籍で読むにさして支障を感じぬ、違和感なきものなのではあるまいか。程よき余白が確保できるからこそ、なおのこと、一層に。すくなくともわたくしには、散文よりも詩の方がスマホやタブレットで読むにいちばん目に負担なく、また集中して読めると実感されるのでありますよ。小説はちょっと長いものになるともうまったく以て駄目だった。ちょっと長いとはいうても実際は短編で、紙にすればページ数もさほどではないはずなのに、なんだろうね、モバイル端末で読むことの負担増は?
 この件について検証は継続されるべきだろうけれど、この思いがあまり変化することはないのではないか、と思うております。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2128日目 〈「コリントの信徒への手紙 一」前夜〉 [コリントの信徒への手紙 一]

 「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」──新約聖書のうちで、否、聖書全体を見渡してみても、いちばん好きな言葉がこれです。偏愛する邦画の5本指に入る『吉祥寺の朝比奈くん』でも印象的な使われ方をしておりました。この文言を含む書物が「コリントの信徒への手紙 一」、略せば「一コリ」であります。出典は一コリ13:13、<愛の讃歌>と呼ばれる章の一節。
 <パウロ書簡>としては2番目に位置するものの、配列が執筆順でないのは既に見た通りであります。本書簡は、第3回宣教旅行の途次、立ち寄って2年間滞在した小アジアはアジア州エフェソで執筆されたといわれ、滞在期間が53-55年頃であることから54年頃に書かれたものであろう、と考えるのが大勢であります。瞥見するところ、緒論あっても大同小異の様子。特に「否」を唱える根拠もなにもないので、本ブログも右に倣うことに致します。
 パウロの第2回宣教旅行を「使徒言行録」にて追体験しているとき、既にわれらは書名となっているコリントの町を通ってきました。ここがどのような町であったか、当該章の読書時には殆ど触れなかったはずなので、改めて見ておきましょう、──
 「ギリシア」と呼ばれることもあったマケドニア州コリントは、前2世紀頃に破壊されて荒廃していたが、ローマ帝国のユリウス・カエサルの命令で再建されてエーゲ海に面する港湾都市として復興、その後は貿易を中心に帝国経済を支えたのであります。
 コリントにはギリシア神話の女神アフロディテを祀る神殿があって、ここには数千人規模の神殿娼婦が在籍していたそうであります。嘘か誠かは存じませんが、アフロディテ神殿に於ける礼拝とは彼女たち神殿娼婦との性的交歓を指し、それゆえか礼拝時の支払いも相当高額についたらしく、そうした背景あってでしょうが、俗に金持ちでなければコリント旅行は楽しめない、などいわれたとのことです。また、神殿娼婦は夜毎町へ出て所謂売春行為など行っていたようであります。要するにコリントの町は爛れた、淫らな面を、経済的繁栄と併せて持っていたのです。「創世記」のソドムの如しとは過ぎたるいい方かもしれませんが、すくなくともよく似た部分はあったことでありましょう。
 なお、ゲーテの「コリントの花嫁(許嫁)」は物語詩としてむかしから愛されてきましたが、吸血鬼バラッドとしても良いものであります。吸血鬼を扱った詩篇としては、この分野の小さな傑作であると思います。いずれこの詩についても触れると致しましょう。
 閑話休題。
 コリントは以上のような顔を持った町でありました。ここをパウロは第2回宣教旅行のときに訪れて、キリストの福音を説きました。そうして信徒はパウロ去りし後も信仰を持ち続けました。が、町の性質は住民に影響を及ぼします。クロエの家の人々によってもたらされた内容からも明らかですが、パウロ去りし後のコリント教会は数年を経ずして早くも分裂を始め、なかには信徒に相応しからざる淫らな行いに及ぶ者もあったようであります。これにパウロは心を痛め、かれらを本道に立ち帰らせようと「コリントの信徒への手紙 一」を書いたのでした。内容が多岐にわたり、話題の展開がやや唐突に思うこともあるのは、斯様な事情が反映したせいもありましょう。
 それでは当時コリント教会が抱えていた問題とはなにか。この点についてウィリアム・バークレーは実に上手くまとめておりますので、丸写しの誹りを受けるやも知れませんが、章節と併せて以下に引いておきます(『バークレーの新約聖書案内』P66-73 高野進・訳 ヨルダン社 1985.4)。読書の際の地図ともしていただければ幸甚であります。
 ・党派心の問題 1:10-11、3:3-15
 ・知恵を誇る問題 1:17及び20-25、2:1-5及び10-16、3:18-23
 ・不道徳の問題 第5章
 ・訴訟の問題 6:1-8
 ・反律法主義の問題 6:9-20
 ・偶像に供えた肉の問題 第8-10章
 ・教会内の女性たちの問題 11:1-16及び34並びに36
 ・主の晩餐の問題 11:17-34
 ・霊の賜物の問題 第12-14章
 ・体のよみがえりの問題 第15章
なお、どういうわけかすっこ抜けている第7章は結婚生活とそれに於ける性生活の諸問題について述べております。
 上に見た如く、書簡の話題は様々でありますが、わたくしにとって本書簡でいちばん読む価値ある箇所は──パウロの主旨からは外れるだろうが──不道徳な者たちとの交際を避けよ(第5章)、結婚生活と性生活の諸問題(第7章)、そうして<愛の讃歌>(第13章)に尽きます。正直なところ、ここだけきちんと読んで丁寧にノートしておけば他は……と不埒なことを考えるのはゆめ面倒臭いからではありません。
 非キリスト者は、神のための労働や主の晩餐、霊の賜物といったよりもずっと卑近で身につまされる話題に心惹かれ、真摯に読むものなのであります。異論を申し立てる者ありやなしや。あらばことごとく却下だ。
 それでは明日から1日1章の原則で、「コリントの信徒への手紙 一」を読んでゆきましょう。◆

共通テーマ:日記・雑感
コリントの信徒への手紙 一 ブログトップ