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第2200日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第6章:〈信仰に基づいた助け合い〉&〈結びの言葉〉with読了の挨拶〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第6章です。

 ガラ6:1-10〈信仰に基づいた助け合い〉
 万一、あなた方の誰かが不注意にも罪に陥ることがあったならば、“霊”に導かれて生きているあなた方はかれらを、柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。その際はあなた方までが誘惑に囚われないよう気をつけなさい。
 実際は何者でもないのに、自分をひとかどの人物と思う人がいます。その人は自分を欺いている。各々、己の行為を顧みて吟味すれば、誰もが、自分自身には誇れても他人には誇れるところがないことに気が付くでしょう。
 「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう。」(ガラ6:9-10)

 ガラ6:11-18〈結びの言葉〉
 わたしはこんなに大きな字で手紙を書いています。肉に於いて人から好く思われたがっている連衆がキリストの十字架ゆえの迫害を避けたいがために、あなた方を巻きこんでなかば強制的に割礼を受けさせようとしています。実際のところ、かれらは律法を守っていませんが、あなた方の肉について誇りたいがためにあなた方へ割礼を受けさせようと躍起になっているのです。
 このように、かれらはあなた方に対して誇るものがある。が、わたしにはなに一つ誇るものがあってはいけない。世はわたしに対して、わたしは世に対して、十字架にはり付けられているのです。大切なのは割礼の有無ではなく、新しく創造されることです。
 今後は誰もわたしを煩わせないでほしい。正しい信仰によって義となり、正しい福音によってキリスト者となり、全うに歩みなさい。わたしはイエスの焼き印を持たされた者なのです。
 ガラテヤの兄弟たちよ、われらが主イエス・キリストの恵みがあなた方の誰かの霊と共にあらんことを。

 道を踏み誤った人を、パウロは「不注意にも何かの罪に陥ったなら」(ガラ6:1)という。そうした人々に対して“霊”の人は柔和な心を持って正しい道を示してそこへ立ち帰らせよ、と呼びかける。
 柔和な心とは如何なるものか。それはけっして優しく、なに一つ咎め立てることなく、という意味ではない。そんな甘っちょろい話であってたまるか。むしろそれは厳格さを併せ持った献身的なものであります。混同する向きが多いやもしれぬが、「優しい」と「献身的」とな別物であります。
 かれが犯した/陥った罪を悔い、自らを責めるならば、柔和な心の持ち主の出番であります。その告白を聞き、慰撫して正しい道を示し、そこへ立ち帰ることができるよう尽力する。それが、柔和な心を持つ“霊”の授かり手の役目である──斯様にパウロはいうているように思うのであります。
 己をひとかどの人物なりと自負するものは云々という箇所を、わたくしは頭を垂れて読みたい。誰しも自分を欠くべからざる者でありたい、と願う。斯く強烈に自負する者も、一方でいる。が、果たして後者は真実それだけの人物であるのか。よくよく点検してゆけば、世間に、他人に、誇るところのある者がどれだけいることだろうか。勿論、客観的に見ても主観的に見ても、じゅうぶん誇るところのある人はたくさんいる。
 ただパウロがここでいわんとしているのは、汝驕るなかれ、という一点に尽きる。そこは勘違いしてはいけないでしょう。
 ガラ6:11「わたしは今こんなに大きい字で、自分の手であなたがたに書いています」だが、冷静に読んで立ち止まってしまうと悩んでしまう箇所であります。──どうしてわざわざ、自分で書いている、と述べるのか。この点を指して、ガラ6:10まではパウロの口述筆記なのであろう、と推測が可能だし、事実、その方向で註釈を付す乃至は解説する本もある。
 また、前半を指して、比喩表現としての「大きい字」であり、意味するところは「特筆大書」とほぼ同義だろう、と考える向きもある。
 が、パウロは眼病を患っていた、という話が本当なら、「こんなに大きい字で」云々は違う意味を持ってくるでしょう。病がどの程度だったかは不明だが、こうした書き方をする以上はあたかも白内障の如きで視界は霞み、誰に頼らないで手紙の筆を執るなら自ずと字は大きくなり、そうして、自分の手で書いている旨言い足すのも宜なるかな、と考えます。換言すれば、パウロは文字の不揃いや乱れを承知しつつ手紙の〆の部分だけでも、そうして全体の結論を成す部分だけでも、自分の手で書いておきたかったのだろうなぁ。
 ──ここを読んだ拍子に、わたくしは晩年の藤原定家を思い出した。かれも患った眼病ゆえに『明月記』や古典の写本の文字が往年に較べて乱れて大きめになっていたのではなかったかな。今度、倉庫に眠る『冷泉家時雨亭叢書』の定家自筆の影印本を引っ張り出して、眺めてみよう。もしかすると、パウロの手紙について思うところも生まれるかもしれない。



 本日を以て「ガラテヤの信徒への手紙」を終わる。1週間以内に読了する書物は新約聖書に入ってからは初めて、実際は旧約聖書続編の「ダニエル書・補遺」以来、約1年2ヶ月ぶり。これまでは1ヶ月近くを費やすことが多かったので、却って落ち着かない気分を味わっている、といえば、可笑しな告白と思われるでしょうか。
 しかしながら特筆すべき程の障りがないまま、パウロ書簡に於ける<4大書簡>の読了を迎えられたことに心底安堵しています。先月末から──本格的には今月に入ってから所謂残業が日常的に発生し、それでも1時間程度なのだから世人にいわせればなに程のものでもないし、不動産会社にいたときに較べれば物の数ではないが、退勤時間が遅うなったことで原稿を書く時間は相対的に減り、毎日毎日青息吐息の繰り返しとなれば、たとえ章数は少なくとも無事読了の日を迎えられたことを喜ばしく思うのであります。
 ──そう、なにはともあれ、「ガラテヤの信徒への手紙」は終わりました。読者諸兄あってこそのこの報告、この喜び。皆様へ感謝を。サンキー・サイ。
 次は<獄中書簡>の最初を飾る「エフェソの信徒への手紙」であります。読書開始は……そうですね、せっかく今年は4年に1度の閏年なのですから、今月末2月29日午前2時からとしたいですね。予定でしかないけれど、再開のときはどうぞまた宜しく。◆

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第2199日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第5章2/2:〈キリスト者の自由〉&〈霊の実と肉の実〉with感想が書けない、とはどういうことだ?〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第5章2/2です。

 ガラ5:2-15〈キリスト者の自由〉
 もし割礼を受けるならばキリストはなんの役にも立たないでしょう。律法によって義とされたいならば、あなた方は誰であれキリストとは縁も所縁もない輩です。
 「あたしたちは、義とされたものの希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラ5:5-6)
 果たしていったい誰があなた方の邪魔をして、真理の実践を妨げているのでしょう。こうした誘惑はあなた方を召し出す方からのものではありません。あなた方を惑わす者は、誰であれ裁かれます。
 ガラテヤの兄弟たちよ、よく考えてみてください。わたしが割礼を宣べ伝えていたならば、どうしてこれ程の迫害を受ける必要があるでしょう。もし割礼を宣べ伝えていたらば、十字架の躓きもなくなっていたはず。あなた方を惑わし、かき乱す者らはいっそ全員で去勢してしまえばいいのですよ。
 ──あなた方は自由を得るために召し出された。が、この自由を肉に与えて罪を犯させるようなことがあってはなりません。愛により互いに仕えよ。というのも、「隣人を自分の如く愛せ」という掟が律法全体を要約しているからです。もし相争うているならば、互いに滅ぼされないようにしなさい。

 ガラ5:16-26〈霊の実と肉の実〉
 霊の導きによって歩め。そうするならば、けっして肉の欲望が満足することはない。霊の望むところは肉の望みに反し、肉の望むところは霊の望みに反す。あなた方が自分のしたいことができないでいるのは、零と肉、両方に支配されているからです。が、霊に導かれているならば、あなた方は律法の下にはいない。
 肉の業を行い、耽る者は神の国を受け継がない。受け継げない、というた方が正確でしょう。肉の業とはつまり、姦淫や好色、偶像礼拝や魔術、敵意や争い事、怒り、不和、利己心、妬みそねみ、その他諸々。
 反対に、霊が結ぶ実は愛であります。そうして、喜びや平和、善意や誠実、親切、柔和、節制などであります。これらを禁じる掟など、どこにもありはしません。というのも、キリストに結ばれた人々は肉の業を欲望などと一緒に十字架に掛けてきてしまっているからです。
 「わたしたちは、霊の導きによって生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラ5:25-26)

 本日の旧約聖書はガラ5:14とレビ19:18。



 どうしたわけか、昨日、今日の原稿に於いて感想が書けずにいて困っている。思うところがなにもない、というのではなく、泡沫の如くに消えていってしまうのだ。由々しき事態とはこのことを指す。結局、この2日については迷い、悩んだ挙げ句、感想なしという悲惨な為体を曝すことになった……。これまでエッセイを書けなくても感想を書けない、という事態をこうも深刻に思うことはなかったように思う。
 スティーヴン・キングは1980年代後半に陥ったライターズ・ブロックを振り返って、なにかを書こうとしてまるでなにも書けないのは、指の隙間から濡れたティッシュが崩れ落ちて行くようだった、と述懐する。いまのわたくしも似たようなもの……というたらば、きっと中身の入った缶詰でも投げられてしまうだろう。ご存知か知らぬが、これが頭に当たるとその瞬間のみならず数時間経っても頭蓋骨レヴェルで痛みが持続して、まるでこの世の終わりかと嘆きたくなる程の錯乱に悩まされるのだ。これは本当の話である。読者諸兄よ、心して聞いておいてもらいたい。
 無理にでも感想を書こうとして、もがけばもがくだけ、読むに足るレヴェルとは程遠い壁の落書きにも等しい代物ができあがる。時間は無為に経過して、費やした時間と労力に見合う収穫は得られない。どうしてだろう。きっとわたくしは……。
 薄まった執念と献身を取り戻せば、長短の別はあっても再び以前のように感想の筆を執れるだろうか。これを小休止と、わたくしは考えてはならない。◆

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第2198日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第4章2/2&第5章1/2:〈キリストがあなたのうちに形づくられるまで〉&〈二人の女のたとえ〉with有川浩エッセイ集購入。〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第4章2/2と第5章1/2です。

 ガラ4:8-20〈キリストがあなたのうちに形づくられるまで〉
 以前は神でもない神々に奴隷として仕えていたあなた方も、いまは神を知っている。だのに、いま再びあなた方は無力で頼りにならない、支配するだけの諸霊の下へ戻り、自ら奴隷の身分に落ちようとしている。どうしてだ、わたしがあなた方のためにと力を尽くした事柄はことごとく無駄になってしまったのか。
 あなた方はかつてそちらで病気になって体を動かせないわたしをよく介抱してくれました。それがきっかけとなってわたしは福音を、あなた方へ告げ知らせたのです。あなた方はこのわたしを──受け入れることで様々な試練をあなた方へ強いたにもかかわらず──まるで神の遣いのように、あたかもキリスト・イエスその人であるかのように、扱って迎えてくれました。そのときに味わっていた幸福はどこへ消えてしまったのだろう。
 覚えておいてください。間違った教えを吹きこむあの連衆があなた方に熱心なのは、けっして善意ゆえのことではなく、自分たちへ熱心になることで却ってあなた方をわたしから引き離したいからなのです。また、そちらへわたしがいない間もあなた方がわたしを慕ってくれるなら、こんなにうれしいことはありません。
 「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」(ガラ4:19-20)

 ガラ4:21-5:1〈二人の女のたとえ〉
 律法の下にいることを望みながら、律法の言葉、律法の語りかけに耳を貸そうとしないのはなぜですか。
 アブラハムには2人の息子がいました。が、出自は異なります。1人は奴隷の女から産まれ、1人は自由な身の女から産まれました。女奴隷を母に持つ息子は肉によって生まれたのであり、自由な身の女を母に持つ息子は約束によって生まれたのです。
 実はこのことにはもう1つ、別の意味が隠されています。2人の女とは2つの契約を現している。奴隷の身分で子を設けたハガルは、シナイ山に由来する契約を意味します。そうしてそれはいまやエルサレムを指している。というのも今日のエルサレムはその子供たちと一緒に、奴隷の身分に身をやつしているからだ。一方の天のエルサレムは自由な身分の女であり、われらの母です。このことは預言者イザヤの言葉にもある通りです。
 あなた方はイサクのような約束の子です。今も昔も肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた人々を迫害しています。聖書にはこのように書かれています、奴隷とその子供を追放せよ、と。なぜならば奴隷の子は相続人たり得ないからだ、と。……要するにわれらは奴隷の子ではなく、自由な身の女の胎から出た子なのです。
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛にもう二度とつながれてはなりません。」(ガラ5:1)

 本日の旧約聖書はガラ4:22aと創16:1-2及び15、ガラ4:22b並びにガラ4:28と創18:10-14及び同21:1-2、ガラ4:27とイザ54:1、ガラ4:30と創21:10。



 本屋に行ったとき、好きな作家の新刊が偶然発売されている場面に出喰わすと、うれしい。思わず財布の紐が緩んでレジへ運び、カフェなりバーなりへといそいそと足を運んで、買ったばかりのその本を、頬をゆるめてうっとりしながら読み耽る、それはまさしく至上の喜び……。
 つい先日、有川浩の初エッセイ集『倒れるときは前のめり』(角川書店)を購入したときの自分が、まさしく上記のような状態であった。読みながらパブで2時間近くを過ごした。黒ビールと美食のお陰もあって、ただ読んでいるだけとはチト質の異なる、頗る付きで楽しい読書時間を過ごさせてもらった。
 実は有川浩のエッセイを読むのはほぼ初めてなのだけれど、小説作品と変わることなき面白さと深さを堪能した。小説とエッセイ、両方を読んで心の底から楽しめる作家って、本音をいえばあまりいない。有川浩はその数少ない存在だ。
 感想は別の機会に認めることになるが、本稿は有川浩好きのと或る女の子にささげる、いわば「読んだけど面白かったよ、読んでよかった! だからあなたもこれを読むべし!!」という報告というか押し売りというか、そうした類の文章である。
 美酒美食の傍らに良き本あれば、人生はそれだけでじゅうぶん価値がある。◆

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第2196日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第3章&第4章1/2:〈律法によるか、信仰によるか〉、〈律法と約束〉他withカラヤンのバロック音楽が好きだ!〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第3章と第4章1/2です。

 ガラ3:1-14〈律法によるか、信仰によるか〉
 物分かりの悪いガラテヤの信徒への手紙の人々、あなた方を惑わせたのは誰だ。考えてみるがよい、自分たちが“霊”を受けたのは、律法によるのか、信仰によるのか、を。あなた方は“霊”によって始めたことを肉によって仕上げようとするのか。嗚呼、なんたる愚! あなた方へ“霊”を授け、あなた方の間で奇跡を行う方は、あなた方が律法を行ったためにそうするであろうか。それとも、福音を聞いて信じたからか。どちらであるか、よく考えよ。
 「創世記」にあります、アブラハムは神を信じたことで義とされた、と。ゆえ、信仰に従って生きる人々こそアブラハムの子であると弁えよ。聖書は既に異邦人が信仰によって義とされることを見越していました。疾うにアブラハムへ告げられていたのです、あなたのゆえに異邦人は皆祝福される、と。
 律法に頼る者は皆呪われている。律法によっては何人と雖も神の御前で義とされることはありません。。律法は信仰を拠り所としていないからです。──キリストはわれらのために呪いとなり、われらを律法の呪いから贖い出してくれました。木に掛けられた者は皆呪われている、と「申命記」にありますが、それは、アブラハムへ与えられた福音がキリストによって異邦人へと及ぶためでした。一方で、われらが、われらに約束された“霊”を信仰によって授かるためだったのです。

 ガラ3:15-20〈律法と約束〉
 もうちょっとわかりやすく説明しましょうか。法的に有効とされた遺言は、無効にすることも変更することも追加することもできません。
 アブラハムとその子孫に対して、神は約束として告げました。その際、かれに続く多くの人を指して、「その子孫たち」というたりしないで、そのうちのただ1人を指して「あなたの子孫とに」と表現した。神はアブラハムの時代、既にキリスト、即ちナザレのイエスのみを指名していたのです。
 神によってあらかじめ有効とされていた契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、反故にすることはできません。相続が律法に由来するならば、もはやそれは約束に由来するものではない。が、神は約束によってアブラハムへ恵みを与えたのです。
 では、律法とはいったいなんでしょう。それは約束された件の子孫が現れるまで、天使を通して仲介者の手により制定されたもの。1人で行うならば仲介者は不要です。約束についていえば、神は仲介者なしで事を運んだのです。

 ガラ3:21-4:7〈奴隷ではなく神の子である〉
 ──では、律法は神の約束に反するものなのか。先祖に与えられたのが、人を生かす律法であるならば、人は律法によって義とされたでしょう。が、聖書はすべての者を罪の支配下に留めた。神の約束がキリストへの信仰によってそれを信じる人々へ与えられるようにするためです。
 信仰がわれらの上に現れるまでは、律法の監視下にあった。信仰が現れるまでの間、それはわれらを閉じこめる檻だったのです。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラ3:24-25)
 ガラテヤの人々よ、あなた方はいずれもキリストによって結ばれて神の子となったのです。もはや人種も身分も関係なく、あなた方はキリストによって結ばれて一つになったのです。あなた方は、もしキリストのものであるならば、なにはさておきアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
 相続人と雖も未成年であるうちは全財産の所有者でありながらそれを自由にすることはできず、父親が定めた期日になるまで管理人や後見人の監視下に置かれます。実はわれらも同じで、未成年であるうちは世を支配する諸霊に奴隷の如く仕えていました。
 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ4:4-5)
 ──あなたはもはや奴隷ではない。子です。子であることは神によって立てられた相続人でもあるのです。

 パウロは全編にわたって律法と信仰の関係について検討します。そうして、キリスト者は信仰に入るまでは律法に搦め捕られているけれど、ひとたびキリストへの信仰により神と結ばれ信じるようになった後はもはや律法からは自由であり、かつて神とアブラハムの間に結ばれた約束の相続人となったのだ、という、思わず膝を打ってしまいたくなる結論に至る。
 パウロが熟考と苦心を重ねた末に導き出した律法と信仰の関係についての見解を、何度も読み返してわれらは自分の糧とすべきかもしれません。ルターの<信仰義認論>を強化する根拠にもなった章であります。

 本日の旧約聖書はガラ3:6と創15:6、ガラ3:8と創12:3及び同18:18、ガラ3:10と申27:26、ガラ3:11とハバ2:4、ガラ3:12とレビ18:5、ガラ3:13と申21:23、ガラ3:16と創12:9、ガラ3:17と出12:40-41。



 行き付けの中古CD店でカラヤン指揮ベルリン・フィル(の選抜メンバー)によるヘンデル《合奏協奏曲》作品6の全曲盤が転がっている。
 仕事が終わったらばさっさと飛んで行き、お札数枚をレジに残してその場を飄然と去り、誰も見ていないところで、ぎゅっ、と、わが胸に抱きしめたいのだが、その時間が取れなくて困っている。性格上、業後の作業を他人に押し付けることもできず、この原稿が極めて短い時間で完成稿に至ることもない。よしんばそれができたとしても、店の閉店時間に間に合うかどうか……。これなむ、ディレムマ、といふ。
 モーツァルトと並んでカラヤンのバロック音楽は全体的に評判が芳しくないらしい。が、わたくしはカラヤンの振るバロック音楽は意外と好きなのだ。特に、1980年代に録音されたバロック音楽集は長年にわたる愛聴盤である。たとえばここに収められるヨハン・パッヘルベルの《カノンとジーグ》やトマス・アルビノーニの《アダージョ》は、わたくしにとってスタンダード的演奏となり、新しくこれらの曲を聴くにしても好みかどうかは、カラヤンの演奏の上を行くか否か、という一点にかかっている。
 まぁ、録音の本拠地がフィルハーモニーへ移ったあとのバッハ《ブランデンブルグ協奏曲》だけは、やたらとこってりした演奏に胃もたれに似た具合の悪さを覚えて当初は御免被る、殆ど唯一の例外であったけれど、これとてあれから四半世紀が経過した現在はこの曲のベスト3に入る程のお気に入りである。
 オラトリオ《メサイア》をきっかけにして好きになったヘンデル。《王宮の花火の音楽》や《水上の音楽》は勿論、一時は輸入盤でしか聴けないオペラや宗教曲にまで手を伸ばした程だが、今ではすっかり関心は下火である。迎えに行く時間を捻出できたとき、まだそれがそこにいてくれるならば、《合奏協奏曲》作品6が呼び水となって再びヘンデル熱が──望むべくはバロック音楽熱が──再燃してくれることを望む。◆

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第2195日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第2章:〈使徒たち、パウロを受け入れる〉、〈ペトロ、ケファを非難する〉&〈すべての人は信仰によって義とされる〉〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第2章です。

 ガラ2:1-10〈使徒たち、パウロを受け入れる〉
 それから14年後、最初の宣教旅行を終えたわたしはバルナバとテトスと一緒に、再びエルサレムへ上りました。多くの人々と会って、話をしました。就中エルサレム教会の主立った人たちと。なにを話したか、といえば、わたしが行っている異邦人への宣教が無駄な行為でないかどうか、の確認です。しかしエルサレム教会の主立った人たちは異邦人への宣教は是である、と認め、わたしを励ましてくれました。キリストの福音を受けるに際してギリシア人のテトスに割礼を強いるでもなく。偽りの兄弟たちが人々との話し合いの場に潜り込んできていたというのに、です。
 エルサレム教会の主立った人たちはわたしに如何なる義務を負わせたりしませんでした。それどころか、──
 「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」(ガラ2:7-8)
 その主立った人たちは異邦人への宣教についてそれぞれの右手を差し出し、わたしとバルナバも自分の右手を差し出しました。こうしてわたしの役目に関しては合意を見たのです。この出来事の証しとして、わたしは異邦の地のユダヤ人、そうして異邦人たちへキリストの福音を伝えるようになった。──貧しい人たち、即ちエルサレム教会の人々のことを気に掛けて忘れるな、と忠言されましたが、むろん忘れたことはありません。

 ガラ2:11-14〈ペトロ、ケファを非難する〉
 或るとき、わたしはシリアのアンティオキアへ下ってきたペトロに、面と向かって抗議したことがあります。
 原因は、エルサレム教会のヤコブから派遣されてきた一団がアンティオキアへ到着した途端、ペトロの態度が変わり、まわりの人々も──バルナバさえもが──つられて右に倣えした点にあります。エルサレムからの派遣団が着く前はペトロも異邦人と一緒になって食事していたのです。
 わたしはそれについて抗議といいますか、ペトロを非難したのでありました。曰く、あなたはユダヤ人なのにそれらしい生き方をしないで異邦人のように暮らしている、ならばどうしてあなたは異邦人にユダヤ人らしい生き方を強要するのでしょうか、と。

 ガラ2:15-21〈すべての人は信仰によって義とされる〉
 かれらは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人の如き罪人に非ず。
 が、人はイエス・キリストへの信仰によって義とされ、ると知ったことでわれらはその信仰に入りました。律法の実行によってではなく、キリストへの信仰によって人は義とされるのです。
 かりにわれらが信仰によって義とされるよう努める罪人であるとすれば、果たしてキリストは罪に仕える者なのだろうか。否。自分が壊したものを自分で直すならば、自ら罪を犯した者、と証明することになります。わたしはこう考えます、──
 「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラ2:19-21)

 まずガラ2:1にある、その14年後にエルサレムへ上った云々という件り。これは第1回宣教旅行を終えた後異邦人への伝道についての沙汰があったため、エルサレムへ上って事の次第を説明したことを指し、該当箇所は使15:2。続くエルサレム教会の主立った人たちと会談したことも、使15:5-22が伝えます。本章ではエルサレム教会が発行したアンティオキア教会宛の手紙については触れませんが、たしかに言及する必要性は感じません。
 ペトロの腰の坐らなさ、或いは日和見主義的な振る舞いは、既にわれらも福音書の読書を通じて見聞しております。あれから10数年以上を経たガラ2:11の頃でも変わらないかれの行動には驚かされます。が、わたくしはペトロはその立場上、本音と建て前を使い分ける必要があったのだろう、と考えるのです。ペトロがイエスの選んだ12使徒のリーダー的存在であったのは周知の事実。協会という組織のなかでかれが占める立場は、パウロとは著しく異なったそれである、と想像できます。エルサレム教会の目の届く範囲に身を置いているとき、もしくは教会要人として公の場にあるときは然るべく行動するが、エルサレム教会から離れて半公人として乃至は私人として過ごすときは異邦人とも存分に触れるよう務めることもある、という風に。
 すくなくともパウロ書簡に於いてペトロの性格や態度を、われらはパウロというフィルターを通してしか知ることがない。つまり、どこにも第三者の視点や意見、述懐といった客観的報告はないのであります。殊自分自身やその身近に侍って己の意を汲む者以外に対するパウロの発言は、その裏を丹念に読み解くだけの想像力や作業が必須である、とわたくしは断定してなんら憚るところのない者であります。◆

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第2194日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第1章:〈ほかの福音はない〉、〈パウロが使徒として選ばれた次第〉with閉店間際のスタバでこれを書く。〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第1章です。

 ガラ1:1-5〈挨拶〉
 キリストと神により使徒とされたわたしパウロと、一緒にいる兄弟たちからガラテヤの諸教会へ。神と主による恵みと平和があなた方のうちにありますように。

 ガラ1:6-10〈ほかの福音はない〉
 あなた方がこうも早くキリストキリストの恵みから離れて、他の福音へ乗り換えようとは思いませんでした。わたしは呆れています。
 或る人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしている。しかし、われらであれ天使であれ、われらが伝えたのとは異なる福音を告げ知らせる者あらば、誰であろうと、ことごとく呪われよ。あなた方が受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいるならば、呪われてしまうがよい。
 わたしは人に取り入ろうとしているのではない。誰彼に気に入られようとしているのでもない。そうだとすれば、わたしは最早キリストの僕ではありません。

 ガラ1:11-24〈パウロが使徒として選ばれた次第〉
 わたしが告げ知らせた福音はイエス・キリストの啓示によって示されました。
 あなた方はわたしがユダヤ教徒であった頃を知っています。わたしは誰よりも熱心なユダヤ教徒でした。いまにして思えば恐ろしいことですが、神の教会を徹底的に迫害し、滅ぼそうとしていました。が、神は主キリストを介して福音をわたしへ授けた。神は御子を示して異邦人へ福音を届ける役目をわたしに与えたのです。
 わたしはこのことについて血縁者、親族に相談することも、すぐエルサレムに上ることもしませんでした。ただ一旦アラビアに退き、再びダマスコへ戻ったのです。
 それから3年後、ケファことペトロと知り合いたいと思うてエルサレムへ上り、滞在中の15日間は使徒にして主の兄弟ヤコブを除けば、ケファ以外の人とは会いませんでした。嘘偽りを申しているのではありません。
 こうしたことがあって後、わたしはシリア及びキリキア地方へ足を運びました。そこにあるユダヤの諸会堂の人々はわたしのことを知っていますから、かつて自分たちを迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今度は福音として唱えている、と口々にいうては神を誉め讃えておりました。

 キリストの福音とは別の福音を世人へ告げ知らせる者あらば、それが自分たちであれ天使であれ呪われてしまえ。──パウロがなにを信じ、支えとして活動していたか、その信念を窺い知ることのできる台詞であります。そこには正しい福音しかこの世には存在しないのだ、という唯一無二のメッセージが込められています。
 斯様な発言がされるのは、異邦人キリスト者の信仰が簡単にぐらついてしまうことの苛立ちと自分たちの教育(と敢えて表現させていただく)の不十分なことへの悔しさがあってのことでしょう。会社で新人のOJTを担当している現在のわたくしは、その綯い交ぜとなったやるせなさに共感を抱くのでありますが、この直情ぶりについては見方を変えればパウロも若かった、ということになるのでしょうね。
 異邦のユダヤ人たちは福音を説いて回るパウロの姿に、神の偉大さ、寛容さを認めて讃えたのであり、決してパウロの回心を誉め、かれを応援したのではありません。混同してはならない。でなれけばパウロの行く先々に反パウロのユダヤ人が現れて危害を加え、暴行を加え、あまつさえ殺人を計画することはないでしょう。
 ガラ1:18「それから3年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り」云々の「3年後」とはいつを起点にしてのことであるか。使9:23に「かなりの日数がたって」とある。パウロ回心して後、エルサレムへ赴いて使徒たちと会うまでの間の出来事に触れた箇所であるが、ガラ1:18「3年」という表現は使9:23「かなりの日数がたって」に連動するもののように思われる。使9:23の時間経過を含めて「3年後」にエルサレムへ上ったのであろうから、起点とするタイミングは明瞭でないが、ダマスコへ引っこんで福音を同地の人々へ宣べ伝えている時分=ダマスコのユダヤ人たちがパウロ殺害を計画してその手から逃れた頃を起点としてよいのではないか、と思う。



 ちょっと残業したあと、ふらふらと原稿書きのためスターバックスへ。雨が降っていて折り畳み傘を出すのが面倒臭かったせいかな、いつもの店舗ではなく、以前の職場にいたとき使っていた店舗へ行ったのだ。
 階段を昇ったいちばん奥の席に荷物を置いてレジへ行ったはいいが、普段なら季節のメニューがイラスト付きで書かれた黒板に衝撃の一言が。「みくらさんさんかさん、ご入店お断り」ではなく、「明日はビルの一斉休業のため、本日20時で閉店します」という言葉。もうちょっと目立つところに置いてほしかった……入る前に気附けば他へ行ったのに……。
 が、もはや後戻りすることはできない。不可能だったのだ。いつの間にやらわたくしの順番が来て、店員がこちらの注文を待ち構えていたゆえに。たぶん動揺していたのだろうね、いつものコーヒー・トール・ホットではなく、季節メニューの新作「さくらブロッサム&ストロベリー」なんてかわいいものを頼んでしまったのだから。そう、コーヒーより高い商品さ。嗚呼……。
 ちゅるちゅるとストローで飲みながら、内心溜め息。閉店まであと1時間10数分。そうしてわたくしは意識を切り替えた。これこそ燃えるシチュエーションではないか。顧みれば以前の職場にいたときは21時退勤で閉店である22時30分までの約1時間10数分をここで過ごして、やはりいまと同じように聖書読書ノートを綴っていたではないか。──現在と異なる作業があるとすれば、Macで原稿作成の最後の過程が存在しなかったことぐらい。「歴代誌」や「ヨブ記」、「詩編」など、このスターバックスで執筆した覚えがあるな。
 斯くしてわたくしは勇躍筆を執り、一心不乱に(ときどきFacebookを眺めながらも)意識をノートへ傾け──どうにか第一稿の筆を擱くことはできた。感想の方で一部、自宅に置いてきた資料にあたる必要のあるものがあったので、それについてはアウトラインだけ認め、エッセイも書くことだけメモしてスタバ在留中は執筆を諦めたけれど、叩き台を用意することはできた。それでじゅうぶん。そうしてわたくしは帰宅して、……本稿入力中の現在に至る。なにか問題でもあっただろうか?
 さて。ところで本日はお休みである。窓から外を眺めれば雲が一切れ、二切れ浮かんでいるが、よう晴れておる。「ガラテヤの信徒への手紙」第2章の原稿を書かねばならぬが、気もそぞろないま、書かずにふらふらお出掛けしてしまいたい気分だ。もし明日午前2時に更新されなかったら、ああやっぱり、とご納得いただければ幸甚、幸甚。◆

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第2193日目 〈「ガラテヤの信徒への手紙」前夜〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 人は信仰によって義とされる。マルティン・ルターは<信仰義認論>のヒントを「ガラテヤの信徒への手紙」第2章で得て、それを基に聖書理解の一点突破を果たしました。この延長線上にドイツ語訳聖書の実現や数々の著作の執筆、そうして宗教改革があるわけです。
 本書簡の宛先となったガラテヤはどのような地なのか。そこは小アジア中部の高地であります。地図を広げていただくと、トルコ共和国の首都アンカラが目に付くでしょう。そこはアナトリア高原にありますが、その周辺地域はかつてガラテヤと呼ばれました。
 パウロの時代、ガラテヤはローマ帝国の属州の一つでしたが、遡ればガリア人、一説ではケルト人の一団が中部ヨーロッパより遠征してきて、ギリシアやマケドニア、トラキア(現:ギリシア、トルコ、ブルガリア)に侵入、その過程でアナトリア高原一帯に定住したかれらの子孫をガラテヤ人と呼び、その地方を指す名称となりました。その後、ガラテヤ人は自分たちの王国を立てましたが、前189年のシリア戦争にてローマに敗れ、その後は有為転変の末、前25年、ローマ帝国の属州になったのでありました。
 そも本書簡が書かれたのは、パウロと入れ違いでガラテヤに現れたユダヤ人キリスト者が、パウロが宣べ伝えたのとは異なる教えを説いて人々の間に広めたことに端を発します。その結果、ガラテヤの異邦人キリスト者はキリストの福音を離れて、別の福音へ向かったのです。
 別の福音、それは、律法を守らずしてキリスト者となることなし、というものでした。人々はそれを聞いて律法を受け入れ、割礼を自らへ施したのであります。──イエスは割礼なくして信仰には至らず、などと申したでありましょうか。否、でありますね。イエスはユダヤ教が信奉する律法を、或る意味で否定していたのですから。
 ガラテヤの信徒たちが別の福音を信じるようになった、ということを聞かされたパウロは、かれら宛てに手紙を書きました。おそらくそれは一気呵成に書かれたのだろう、とは最初から読んでゆくと容易に推測できることであります。
 手紙のなかでパウロは、件のユダヤ人キリスト者の説いたことが誤りであるのを伝えました。正しい信仰へ立ち帰り、自分が宣べ伝えたキリストの福音を受け容れなさい。割礼はユダヤ教の儀式であり、ユダヤ教徒として生活するには必要とされるが、それはけっしてキリストの福音ではない。況してや律法とキリストの救いとまったく無関係である。──パウロは「ガラテヤの信徒への手紙」でそう訴えました。
 「使徒言行録」に拠ればパウロは3度、つまり宣教旅行の都度ガラテヤ地方を訪れています。旅程を組むにあたり陸路を選べば自ずと通過することになる、というてしまえばそれまでですが。とまれ、「使徒言行録」を基に訪問の一覧を作れば以下の通り、──
 1;使14:1-24 45-48年頃 南ガラテヤ地方(同行者:バルナバ)(※)
 2;使16:6  50年頃   フリギヤ・ガラテヤ地方
 3;使18:23  54年頃   ガラテヤとフリギヤの地方
 ※イコニオン、リカオニア州(リストラ、デルベ)、ピンディア州
 件のユダヤ人キリスト者がいつ、そこに現れ、パウロがいつ、どこで本書簡の筆を執ったか、定かではありません。いつもながらタイムマシンが欲しいですな。
 宛先が第1回宣教旅行時に福音を説いた南ガラテヤ地方の信徒たちなのか、第2回或いは第3回宣教旅行時に訪ねた北ガラテヤ地方の信徒たちなのか、どちらなのかによって執筆年代や場所は変わります。北ガラテヤ地方の信徒たち宛てに書かれたのであれば、それは第2回目のときなのか、第3回目のときなのか、そこでまた話は変わってまいります。
 調べて知り得た範囲で申しあげますと、宛先が南ガラテヤ地方であれば48年頃、アンティオキア説があります。また、50-51年頃にコリントで書かれたという説もある。宛先を北ガラテヤ地方とすれば52-54年頃エフェソにて執筆された、という説が有力。今日では北ガラテヤの信徒に宛てられたとするのが専らである由。
 ただ──私見を慎ましく申しあげれば、第1回宣教旅行中に書かれた、という説に与したく存じます。
 パウロは南ガラテヤ地方を回り、各地にキリストの教会を建立しました。異邦人はパウロの福音に打たれて改宗したでありましょう。キリストのため、異邦人キリスト者のために教会は立てられたのであります。パウロはそこでの宣教が終わると、新たな信徒たちに見送られて次の地へ出発してゆきました。
 はっきりとはしませんが、ユダヤ人キリスト者がその地へ姿を現したのは、パウロが去って程良い時間が経った頃合いだったろう。キリストの福音が異邦人キリスト者のなかへ根附こうとしていた頃──。
 まだかれらの信仰が完全でないところへ入りこんで来て、パウロたちが説いてかれらのなかに染みこませた福音が誤りであると喧伝して、終いにはパウロの使徒としての資格さえ怪しいものだと槍玉にあげる始末、──
 あなた方の聞いた福音は偽りだ、われらの語る福音こそが正しい。なんとなれば律法を守らずしてキリスト者となることなし、だからである。パウロはその律法を守らず、自分に割礼を施してもいない。ゆえにパウロの語る福音は偽りであり、キリスト者としての資格はおろか、福音を語る使徒としての資格もない、と。
 それを聞いたガラテヤのキリスト者たちは信仰をぐらつかされ、多くが宗旨替えを実行しました。パウロの説いたキリストの福音から離れて、ユダヤ人キリスト者が喧伝する福音へ……。
 この報告を承けたパウロは失望と憤慨のうちに本書簡の筆を執り、キリストの福音を説いてそこへ立ち帰るよう促しました。時に48年頃、シリアのアンティオキアにて。
 もっとも、第2回、第3回宣教旅行後の執筆という説にも一部首肯してしまう箇所なきにしもあらずなのですが、それでもわたくしは、不安定な信仰へ一石を投じること可能な時期として、第1回宣教旅行中乃至は後の執筆に高い信憑性を感じ、現実的ではあるまいか、と思うのです。
 「ガラテヤの信徒への手紙」は「ロマ書」や「第一コリント書」、「第二コリント書」に較べて規模は小さく、章数も少ないことから短時日での読了が可能であります。とはいえ、それは価値をいちばん下へ置くことを意味するのではありません。むしろパウロの思いと信仰がストレートに書かれた、極めて肉声に近い手紙である、とわたくしはいいたいのであります。
 パウロはここで言葉を飾ることも表現に技巧を凝らすこともなく(この点、どこぞのブログとは正反対でありますな)、自分の信じる福音と信仰を、簡素に、されど豊かな文章で綴ります。等身大の言葉で語られるキリストの福音は、ガラテヤの信徒のみならず時を経るに従って多くのキリスト者の心を支えたことでありましょう。──この小さな手紙を読みながら、わたくしは斯く思うであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「ガラテヤの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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