So-net無料ブログ作成
テモテへの手紙 一 ブログトップ

第2258日目 〈テモテへの手紙・一第5章&第6章:〈教会の人々に対して〉、〈大きな利得〉他with「一テモ」読了の挨拶。〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第5章と第6章です。

 一テモ5:1-6:2 1/2〈教会の人々に対して〉
 老人を叱るなら相手を自分の父親と思うて諭しなさい。
 同じように、相手が若い男なら兄弟と、年配の婦人なら母親と、若い女性なら清らかな心で以て姉妹と、それぞれ思うて諭しなさい。
 身寄りのない寡婦を大事にしなさい。もし寡婦に子や孫がいれば、その者たちに家族を大事にし、親に尽くして孝行するよう教えるべきです(自分の血縁者、特に家族の世話をしない者は信仰を棄てたも同じで、信仰のない人に劣ります)。神はそれを喜びます。身寄りのない寡婦は神に希望を置いて昼夜問わず一心に祈り、願いをささげますが、放埒な生活をして暮らす寡婦は生ける屍も同然です。
 寡婦として登録できるのは、なによりも1人の男の妻であった人、善い行いで評判の人でなくてはなりません。あらゆる善い業に励んだ人でなくてはならないのです。年若い寡婦を登録してはいけない。なぜならば彼女たちは一時の情欲に流されて信仰から離れ、相手との結婚を望むようになるからです。その後の彼女たちは堕落し続けます。「だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。」(一テモ5:14-15)
 信徒をよく指導している、御言葉と教えのために労苦している長老たちには、倍の報酬が与えられて然るべきです。イエスの言葉にもあるように、働く者が報酬を受けるのは当然至極のこと。また、「申命記」にも、脱穀している牛に口籠をはめてはならない、とあります。
 これも「申命記」にあることですが、長老を訴えるならば2人、乃至は3人の証人が必要です。証人が揃っていない訴えを受理してはならない。棄却しなさい。
 罪を犯した者あらば皆の前で咎めよ。そうすれば皆が恐れを抱くようになるから。
 或る種の人々の罪はすぐ明るみに出て裁かれますが、なかなかそうはならない者もいます。実は善き行いも同じで、すくなくとも隠れたままということはありません。
 何事を行うにも偏見を持ってはならない。依怙贔屓をしてもいけない。誰かに手を置くのに性急になってはならない。犯罪に加担してはいけない。あなたは、「いつも潔白でいなさい。」(一テモ5:22)
 奴隷は自分の主人をじゅうぶん尊敬するようにしなさい。神の御名とわれらの教えが冒瀆されないようにするために。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。」(一テモ6:2)

 一テモ6:2 2/2-10〈大きな利得〉
 われらと異なる教えを説くのに熱心な者らがいます。かれらは信心に基づく教えやキリストの言葉に従わない者どもであります。かれらは一様に高慢で、一知半解どころか無知蒙昧の輩、加えて虚しい議論や口論に取り憑かれています。
 そこから妬みや中傷、邪推といったものが生まれるのですが、その背景にあるのは、精神の腐敗や真理への背反、信心を利得の手段とする考えであります。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(一テモ6:6)
 というのも、われらはなに一つ持つことなくこの世に生まれ、なに一つ携えることなくこの世を去るからです。生きている間は衣食住が事足りていれば良い。そうではないでしょうか。
 金持ちになりたい。そう願う者もあるでしょう。気持ちはわからないでもないのですが、金持ちを目指す者は誘惑や罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。お金への欲は諸悪の根源。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れるのです──。

 一テモ6:11-21〈信仰の戦い〉
 テモテよ、わたしが述べてきた避けるべきことを避けなさい。
 正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
 信仰の戦いを立派に戦い抜いて、永遠の命を手に入れなさい。
 キリストの再臨まで落ち度がなく、非難されることのないよう掟を守りなさい。神は定められた時にキリストを遣わしてくれます。
 この世の富者に命じなさい。高慢になるな、増えてもいつなくなるか知れない富に望みを置くな、と。われらすべての者を豊かにしてくれる神に望みを置くように、と。
 「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(一テモ6:18-19)
 あなたへ委ねられたものを守れ。無駄話や虚言、知識と呼ばれる反対論を避けよ。知識に溺れて信仰の道を踏み外した者もいるのだから。
 ──恵みあれ。

 気になるのは「知識と呼ばれる反対論」のこと。知識に足許を掬われて信仰から離れた者もいる、なる一節。これが初期キリスト教に於けるゾロアスター教の影響というのでしょうか。パウロ存命中にはユダヤ人や異邦人の間にゾロアスター教は入りこんできたといいますから、ここでパウロは暗にゾロアスター教を警戒せよ、キリストの福音を信じる者たちをそこから遠ざけて守りなさい、とテモテへ伝えているように読めてくるのであります。一度、そろそろゾロアスター教について概略なりとも調べてエッセイにしておく必要がありそうですね。
 牧者としての資格を語った後は、その立場に在る者が教会へ集う人々と如何に接するべきか、そのためのアドヴァイスが綴られる。特に寡婦への接し方については細やかな指示が下されています。パウロは寡婦を庇護するのに熱心であったのか、それともテモテが派遣されたエフェソの町には寡婦の信徒が多かったのでしょうか。もっと単純に、若い男であるテモテよ、寡婦に絡め取られて身を持ち崩すな、と遠回しに語っているのでしょうか。
 この点については勿論不明としか言い様がありませんけれど、万民に対してぶれることなき態度を取るように、というパウロのメッセージはしっかりと感じられますね。
 本日の箇所を読んで、非キリスト者であるわたくしのなかにずっしりと残ったのは、お金への欲望は人を破滅へ導き陥れる、という一テモ6:9の言葉。そうして、それ以上に、──
 「いつも潔白でいなさい。」(一テモ5:22)
 誤解され、謂われなき糾弾の対象となること偶さかあるわたくしは、この言葉を信じたいのであります。

 本日の旧約聖書は一テモ5:18aと申25:4、一テモ5:19と申17:6。
 参考として一テモ5:18bとマタ10:10、殊ルカ10:7。



 今夜の飲み会を愉しく、憂いなく過ごすため、休日の午前中を使って2章分のノートを書きました。ちょっとがんばったよ! えへ。
 さて。
 本日を以て「テモテへの手紙 一」を読み終わります。途中、平成28年熊本地震が発生、被災地へのメッセージで2日程中断しましたが、どうにかこの日を迎えられました。時間を割いて本ブログを読み、支えてくださっている読者諸兄に感謝します。
 なんの支障もなければ、そうしてわたくし側の事情がなければ、明日から「テモテへの手紙 二」を読み始めようと思います。この予定を実行できれば今月中に〈パウロ書簡〉はすべて読み終わることができそうであります。実現させたいなぁ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2257日目 〈テモテへの手紙・一第3章2/2&第4章:〈信心の秘められた真理〉、〈背教の予告〉他with有川浩『シアター!』を読みました。〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第3章2/2と第4章です。

 一テモ3:14-16〈信心の秘められた真理〉
 間もなくあなたのところへ行けると思うのですが、もしなかなか行けないようであれば、人々が神の家でどのように生活すべきか、について知っておいてほしい。
 信仰の、或いは信心の秘められた真理は確かに偉大であります。ではこれがどういうことかというと、──
 キリストは肉となって現れ“霊”により義とされ、その人のことは教え共々異邦人の間で宣べ伝えられるようになり、全地の人々に知られて信じられ、栄光のうちに天へ上げられた、ということ。

 一テモ4:1-5〈背教の予告〉
 “霊”は次のように、明確に伝えています。「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。」(一テモ4:1-2)
 偽りを語る者たちは、良心に焼き印を押されており、また婚姻を禁じ、或る種の食物に限って摂ることを禁じてきます。その食物は神によって造られた良いものであり神の言葉と祈りによって聖なるものとされています。

 一テモ4:6-16〈キリスト・イエスの立派な奉仕者〉
 以上、ここまで述べてきた事柄を兄弟たちに語り、教えるならば、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われてあなたは、キリスト・イエスの奉仕者に相応しい人物となるでしょう
 どうかあなたよ、俗悪で愚にもつかぬ作り話を努めて退けなさい。
 併せて、「信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(一テモ4:7-9)
 年若だからとて怯懦となるな。信仰、愛、純潔、言葉、行動の点で、あなたは信徒の模範となれ。わたしが行くまでは聖書の朗読と勧めと教えとに専念していなさい。あなたのうちにある恵みの賜物を軽んじるな。それは長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたのです。
 ──これらのことに務めて、離れないようにしなさい。そうすればあなたの成長は誰の目にも明らかとなるでしょう自分自身と教えとに気を配っていなさい。そうすることであなたは自分自身とあなたを信じる人々を救うことになるのです。

 パウロの、テモテを思う愛情と信頼が窺える章であります。かれのエフェソ派遣は修行の一環であったようにさえ思える……修行? 然様、パウロの代理人に相応しい者になるための、協会の監督や奉仕者として誰の目にも非の打ち所なき者となるための。どうだろう?



 先日、有川浩『シアター!』既刊3冊を読了しました。この作者の小説は概ね好きです。婚約者亡きあとただ1人、自分から告白して1ヶ月の猶予期間の後あえなく振られた手ひどくも清らかな失恋の最中に読んでいた『図書館戦争』シリーズや、いまなお、そうしてこれまでもずっとエバーグリーンであり続けるであろう『レインツリーの国』、個人的には『海の底』を頂点とする<自衛隊3部作>とそのスピンオフ・エピソードを集めた短編集、加えて<自衛隊物>と総称してよい系統にある作品群など、どれもこれも思い入れがあって「ベストを選ぶとしたらどの作品ですか?」なんて訊ねられると、考えこんで却って困ってしまうぐらいに。
 が、今回読んだ『シアター!』はそれらを遥かに凌駕するぐらいの圧倒的な読後感を植え付けたのであります。これ程自分のなかに突き刺さるような、打ちのめされたような思いを味わったことは、すくなくとも有川作品ではこれまでなかったなぁ……。どういうことかというと、──
 好きという一言で括れる程度に楽しめるだけならよかった。けれども『シアター!』の場合はむしろ嫉妬に狂わされたんだ。キーッ、って地団駄を踏んだよ。理由は、自分でも嫌になる程わかっている。描写や感情、台詞の一々が自分の心に直球で響いてきたからだ、と。なんというかね、匕首でぶっ刺されたような思いなのだ。これまで読んだ、或いはこれから読む有川作品でもこのシリーズは別格中の別格。完結巻と噂される第3巻が早く読みたいよ!
 読み終えて後、冷静になった頃を見計らって、改めて理由について考えてみた。これ程までに打ちのめされたのは、なぜなのだろう。自分も演劇の熱に中てられて小劇団に参加、その活動に片足を突っ込み、そちらの世界へ進もうと本気で考え、学校に求人のあった某大手劇団の舞台監督助手に応募までした。時期を同じうして、わたくしは演劇を離れた。それで食ってゆくことの難しさ、不安定さ、将来のヴィジョンが描けないことに不安を感じて。時代はバブルがはじけてアルバイトの口を探すことさえ大変だった1990年代前半……。
 中途半端な気持ちで演劇への気持ちを封印しただけに、作中で<鉄血宰相>春川司が放つ台詞、「なにかを諦めるための必要な条件、それは全力で尽くして力及ばず折れること」てふは、崩れ落ちた気持ちを慰撫することも不可能なぐらいの破壊力を孕んでいた。古傷を抉られたような気分、とは言葉が非道いけれど、うぅむ、全力で否定することもできません。後ろめたさとやましさが同居した気持ちが頭をもたげるからね。sigh.
 演劇はたしかに挫折した。が、せめて物書きとしては最期までこの職能を全うして死んでゆきたい。挫折して筆を折る(捨てるという方が遥かに正確なのだけれど)日が来たとしても、そのときには<鉄血宰相>の件の台詞に力強く頷けるだけの潔さを身に付けていたいものであります。わが魂は怯懦ではない、と敢然と言い放ってね。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2256日目 〈テモテへの手紙・一第2章&第3章1/2:〈祈りに関する教え〉他withジェイムズ・ティプトリー・Jr『あまたの星、宝冠のごとく』を読みたくて。〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第2章と第3章1/2です。

 一テモ2:1-3:1 1/2〈祈りに関する教え〉
 わたしはまず皆さんに奨めます。王たちや高官たちも含めたすべての人々のため、願いと祈りと執り成しと感謝をささげなさい。「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(一テモ2:2)
 男は怒らず、争うたり諍いなどしないで、清い手をあげて祈りなさい。
 婦人は慎みと貞淑を以て身を飾りなさい。髪を編んだり結わったり、金や宝石、高価な着物を身に着けるのは控えなさい。むしろ質素な身なりでよいのです。善い業で身を飾る方が、神を敬うと公言する婦人には相応しいのですよ。
 婦人は物静かであれかし。従順であれかし。婦人が男の上に立つこと、人に教えること、わたしはそれを許しません。なぜならば神が先に造ったのはアダム(男)であり、エバ(女)ではないからです。
 アダムは誘惑されず、騙されなかった。が、エバはそうではありませんでした。彼女は罪を犯してしまいました。──しかし、とわたしはいいます。しかし、婦人は信仰と愛と清さを保ち続け、かつ貞淑であるならば、男の妻になり子供を産むことで救われます。この言葉は真実です。

 一テモ3:1 2/2-7〈監督の資格〉
 監督の職を求める人は良い仕事をするのを望んでいる、といえるでしょう。
 監督となるに相応しいのは、以下に挙げるような資格を持つ人物です。即ち、──
 ・非の打ち所のない人
 ・1人の女性の配偶者であること(1人の妻の夫であること)
 ・節制できる人
 ・分別のある人
 ・礼儀正しい人
 ・客をよくもてなせる人
 ・酒は飲んでも溺れない人
 ・暴力に訴えない人
 ・何事につけ寛容な人
 ・争いや諍いを好まない人、できれば無縁な人
 ・金銭に執着しない人
 ・自分の家庭をよく治めている人
 ・常に品位を保ち、子供たちを従順な者に育てている人
 (自分の家庭も治められない人がどうして神の教会を監督できると思いますか?)
 ・信仰生活に入って長い人
 (短い人は監督に相応しくない。高慢になり、悪魔と同じ裁きを受けかねないから)
 ・教会以外の人々からも良い評判を得ている人
 (そうでなければ中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです)

 一テモ3:8-14〈奉仕者の資格〉
 では次に、奉仕者たる人の資格について述べましょう。
 わたしはこう考えます、──
 ・品位のある人
 ・二枚舌でない人
 ・大酒飲みでない人
 ・やたら利益ばかりを求めないこと
 ・清い良心のなかに信仰の秘めたる真理を持っている人
 ・他人を中傷しないこと
 ・節制できる人
 ・あらゆる点で忠実である人
 ・1人の女性の配偶者であること(1人の妻の夫であること)
 ・子供たちと自分の家庭をよく治めている人
 ……奉仕者になるのを望んでいる人々もそのための審査を受けるべきです。その結果、特に恥ずべきこと、沙汰されることがなければ、その人を奉仕者の役目に就ければいいでしょう。婦人の奉仕者についても然りであります。
 「奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得る」(一テモ3:13)のです。

 監督、奉仕者の資格が縷々述べられますが、こうして読み、書き出してみると、それらがいずれも皆、どんな職業であれ管理職に就く者へ求められる資格であると感じました。これらについて特に忖度するつもりはございません。
 引用はしませんでしたが一テモ2:14-15、エバの原罪ゆえに婦人は、敬虔であり続け、かつ子供を産むことで救われる云々。この文言に関しては、やれやれこのパウロって奴ァは……と、(『涼宮ハルヒ』のキョンのように)頭を振り振り嗟嘆してしまいます。これが当時の、キリスト者の女性観と承知はしつつも、あまりにストレートな物言いっぷりに考えさせられてしまうことであります。
 パウロが今日の社会を窺って男女の有様を目撃したら、卒倒してしまうかもしれませんね。



 ジェイムズ・ティプトリー・Jrの最後の短編集『あまたの星、宝冠のごとく』(ハヤカワ文庫SF)を読みたい一心で、今日は仕事が終わったあとどこにも寄り道せずに(快挙!)帰宅。が、却ってそれが祟ったか、机の前に坐ったら途端に体が横に傾きうつらうつらとし始めて、夕飯と風呂を済ませて本稿を綴る前にベッドに横になったらやっぱり転た寝。
 通勤の折節に読むようでないと、いまの自分に趣味の読書はできないようだ。ならば1ヶ月後にはこの短編集を会社の行き帰りの電車のなかで、カフェで、それ以外の場所で、生活の合間合間に読むことができる、という算段になる。これを機会にジェイムズ・ティプトリー・Jrの短編集すべて読み返そうかしらん。そうしたらきっと、またぞろSFへの情熱が復活して本を買い漁って読み耽る日が帰ってくるのだろうなぁ。でも、それが高校生のときに理想として思い描いた、大人になった自分の読書環境でもあったのだよな。
 さて、では本日最後のチャレンジ。本稿を予約投稿後、『あまたの星、宝冠のごとく』を携えて布団に入り、1編なりとも読み果せられるようにしよう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2254日目 〈テモテへの手紙・一第1章:〈挨拶〉、〈異なる教えについての警告〉&〈神の憐れみに対する感謝〉withFacebook断ちをしている!〉 [テモテへの手紙 一]

 テモテへの手紙・一第1章です。

 一テモ1:1-2〈挨拶〉
 使徒パウロから信仰によるわが子テモテへ。父なる神とわれらが主キリスト・イエスからの恵みと憐れみ、平和がありますように。

 一テモ1:3-11〈異なる教えについての警告〉
 あなたはエフェソに留まりなさい。その地で或る人々に命じなさい。異なる教えを説くな、と。作り話や切りのない系図に心奪われるな、と。それは無意味な詮索を生み出すだけだから、と。
 「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」(一テモ1:5)
 あなたが相手にする或る人々は、これらのことから外れて道を踏み迷い、無益な議論の渦中に巻きこまれます。かれらは自分がいっていることも主張していることもよくわかっていないのに、いっぱしの律法教師になるのを望んでいるのです。
 が、われらは律法の正しい使い方を知っている。律法はかれらのように道を踏み外した者のためにある。一方で、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられてもいるのです。
 上述のことは神の福音と一致しており、わたしはその福音を委ねられている者。

 一テモ1:12-20〈神の憐れみに対する感謝〉
 わたしが主キリスト・イエスに感謝するのは、罪人のなかの罪人であったわたしを召して務めに就かせてくれたからです。勿論、それゆえばかりではありませんが……。
 以前のわたしは神を冒瀆していました。そうして迫害する者、暴力を振るう者でした。が、これらのことは信じていない時分の所業だったので、わたしは憐れみを受けたのです。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(一テモ1:16)
 テモテよ、わたしは以前、あなたについて預言を受けました。いま、その預言に従って命じます。即ち、その預言に力づけられ、信仰と正しい良心を持って、雄々しく戦いなさい、と。
 あなたが相手にする或る人々はこの正しい良心を捨ててしまったために、せっかくの信仰を挫折させてしまいました。ヒメナイとアレクサンドロはそのうちの1人です。わたしはかれらをサタンに引き渡しました、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため。

 テモテが相手にしなくてはならない「或る人々」とはどのような人たちか。それはエフェソの信徒たちを惑わせたり、不安にさせる事柄を吹聴して回る人たちのことです。吹聴の内容がなにかといえば、二テモ2:18にある如く、キリストの復活はもう起きてしまった、というものであります。かれらは正しい良心を捨て、その信仰が挫けてしまったので、斯く喧伝して信徒たちの信仰心を覆そうとした。
 パウロはテモテに、そのような連衆と対峙してエフェソの人々の信心を回復させよ、と命じたのです──困難な課題ですが、逆にそれだけパウロがテモテを信頼し、その能力を評価していた証しでありましょう。
 「正しい良心を捨て、その信仰は挫折して」(一テモ1:19)しまった者として名の挙がるヒメナイとアレクサンドロ。その名からギリシア系と想像されますが、かれらは「テモテへの手紙 二」にも登場します。ヒメナイは二テモ2:17、アレクサンドロは同4:14にて。かれらについてはその際に改めて述べるとしましょう。本稿ではキリストの福音に背を向けた人たちというに留めておきます。
 しかしまぁ、エフェソとは問題(話題?)てんこ盛りの町でありますね。感心してしまいます。
 また、備忘として書けば、二テモ1:7「彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています」をわたくしは本業に於ける自戒の言葉として刻みたく思います。



 今年の秋には聖書読書ノートとしての本ブログを終わらせる予定だが、それまでの間Facebookは殆ど使わないことにしました。決断。これがどれだけ原稿執筆の妨げになっているか、近頃はっきりとわかってきたからです。自分の意思でiPhoneからアプリを削除し、Macのブックマークからも削除。但し、努めて避ける間のつなぎとしてメッセンジャー・アプリだけはiPhoneに残しました。
 Facebook断ちをして今日でおそらく1週間ぐらいかな。頗る順調である、執筆ばかりか生活全般に於いて、頗る順調と報告しよう。自分にとってSNSはTwitterとLINE、noteがあればまずはじゅうぶんかもしれないなぁ、とさえ思うております。それが錯覚なのか事実なのか、いずれであるかは今秋に結論が出るでしょう。
 Facebook断ちをしてみて思うこと? そこに浸かっていた時間よ、カムバック! と叫びたいですね。いや、本当に。しばらくおいらはSNSから自由になろう。自分の為すべき事を為してからそこへ戻ればよい。その間に友達であった方々がいなくなってしまっても、それは宜なきことと諦めよう。
 さて、それでは読書と執筆に戻るとしますか。
 ──読書といえば有川浩祭りはまだまだ続いていて、今月は『シアター!』シリーズを読んでいるのだけれど、これがまためちゃくちゃ面白くて響いてくるところ大で……というのはまたの機会と致しましょう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2252日目 〈「テモテへの手紙 一」前夜〉 [テモテへの手紙 一]

 これから読む2つの「テモテへの手紙」と「テトスへの手紙」は、〈牧会書簡〉と総称されます。各地の教会で発生した諸問題について著されたいままでの手紙と違い、これらは教会運営にまつわる種々の事柄について述べたものであります。
 では牧会とはなにか。カトリックなら司祭、プロテスタントなら牧師による信徒の導きであります。その内容としては、魂の治療や回復、信徒の信仰生活の管理・指導、などが挙げられます。従ってこれらの手紙が個人に宛てた私信というよりも、広く教会運営と信仰生活にまつわる諸事を記した指導書、手引き、ガイドブックというように考えた方がよいでしょう。
 なお、当時に於ける教会とは今日われらが町中や外国で見るような、或いは遺構で見るような一個の厳然たる建築物では勿論なく、信徒の家を会場とするようなものでありました。ゆえに小さな町や村であれば一軒の家で済んだとしても、規模の大きな都市ともなれば複数の会場が必要とされたでしょう。そのためにも指導する監督は不可欠。テモテやテトスはその任に就いて教会運営を委ねられた人物なのでした。
 「テモテへの手紙 一」は協会の監督や奉仕者たる者の資格、なんのために神に祈るか、異なる教えに従ったりキリストの教えに背くことについての訓戒、聖職者の信徒たちへの関わり方、といった事柄について述べています。わたくしがいうのもなんですが、非キリスト者ならずとも首肯、納得できる部分の多い手紙だと思います。
 本書簡の宛先であるテモテはパウロの宣教旅行の随伴者として、「使徒言行録」や他書簡でもわれらにお馴染みの存在であります。改めてかれの履歴を述べると初登場は使16:1、ギリシア人の父と篤信家のユダヤ人の母の子として、既にリストラやイコニオンでは信心深い者として知られていた。パウロはかれを弟子とし、第2回、第3回の宣教旅行のお伴とし、代わって各地の教会の指導に個別に当たらせたこともあったようです。「テモテへの手紙 一」が書かれた頃、テモテはパウロの指示によりアジア州エフェソに赴き、そこに逗留して現地の信徒たちを指導しておりました。
 「使徒言行録」はパウロが帝都ローマに監禁(実際は軟禁というた方がより事実に近そうですが)されている場面でも筆が擱かれます。パウロのローマ監禁は2回に及んでおり、1回目が「使徒行伝」が報告する60年頃、2回目が殉教につながる67年頃。1回目は63年頃に釈放されたと伝えられますから、2回目の監禁までの4年間に本書簡は書かれた、と考えられています。もしかするとこの間にパウロは第4回宣教旅行として本来の希望であったイスパニア(スペイン)まで赴いていたかもしれません(ロマ15:24)。執筆地については本書簡、即ち一テモ1:3からマケドニア州とは推測できますが、どの町で、とまでは判然としません。宣教旅行で立ち寄った(どこかの)町を再訪したときかもしれませんし、或いは聖書に記されていない町であったかもしれない。われらにそれを知る術はどうやらなさそうであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「テモテへの手紙 一」を読んでゆきましょう。◆

共通テーマ:日記・雑感
テモテへの手紙 一 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。