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テモテへの手紙 二 ブログトップ

第2262日目 〈テモテへの手紙・二第3章2/2&第4章:〈最後の勧め〉、〈結びの言葉〉他with「テモテへの手紙 二」読了の挨拶〉 [テモテへの手紙 二]

 テモテへの手紙・二第3章2/2と第4章です。

 二テモ3:10-4:8〈最後の勧め〉
 あなたはわたしに倣って、どんな迫害にも屈しなかった。キリストの福音を宣べ伝える者は、また、キリストに結ばれて信心深く生きようとする者は、皆、迫害を受けます。が、主はわれらを迫害から救い出してくれます。
 あなたは自分が学んで確信したことから離れてはならない。あなたは幼い日から読んできた聖書から、それを学びました。聖書はキリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵をあなたへ与えてくれます。聖書はすべての神の霊の導きの下に書かれました。聖書は人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえで有益です。これらのことによって神に仕える人は様々な善き業を行う準備が整うのです。
 わたしパウロは神と主の御前でその国の出現を思いつつ、あなたに厳と命じます。これはあなたへの最後の奨めでもあります。即ち、──
 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(二テモ4:2-5)
 ところで、「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(二テモ4:6-8)
 義の栄冠。それは正しい審判者である主が、わたしだけでなく主の日の訪れを待ち望むすべての人々に授けられるのであります。

 二テモ4:9-18〈個人的指示〉
 デマスはこの世を愛することに執着し、わたしから離れてゆきました。
 クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに、ティキコはエフェソに行っています。
 わたしの傍にはルカがいるだけです。テモテよ、わたしによく仕えてくれていたマルコをこちらへ寄越してくれませんか。
 あなたもわたしのところへ来てください。
 その際はトロアスのカルポのところに忘れてきた外套と、書物と羊皮紙を持ってきてください。
 それともう1つ。わたしから離れて真の信仰を失った後も苦しめてくる銅細工師アレクサンドロに注意するように。いつの日か、主によりかれは報復を被ることでしょう。
 「わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(二テモ4:16-18)

 二テモ4:19-22〈結びの言葉〉
 テモテよ、冬になる前にこちらへ来てください。
 プリスカとアキラ夫妻、オネシフィロの家族に宜しくお伝えください。
 エウブロ、プデンス、リノス、クラウディア、その他こちらにいるすべての兄弟たちからあなたに宜しくとのこと。
 ──主があなたの霊と共にいてくれますように。恵みがあなたと共にありますように。

 テトスが行った先とされているダルマティアについては次回、〈「テトスへの手紙」前夜〉にて述べることに致しましょう。
 二テモ3:12「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人々は皆、迫害を受けます」てふ文言に触れて、わたくしは思わず、どきっ、としました。単純な言葉のように思えるかもしれません。が、これはパウロでないと発言できないものであります。わたくしが「パウロ名言集」など編む機会あれば、この文言はいの一番に候補に挙げて然るべき位置に配列します。
 これは迫害する側と迫害される側、両方を経験した人物、つまりパウロだからこそ吐き出せた述懐であります。所謂名言としては二流かもしれませんが、その背景に血が流れる程の痛みと悲しみが塗りこまれていることを感じさせる言葉は、「使徒言行録」や〈パウロ書簡〉にそう多くはないと思います。いまのわたくしにはパウロの気持ちがよくわかります。



 本日を以て「テモテへの手紙 二」が読了となります。「一テモ」から続けての読書となったため、読書と執筆に少々惰性の気味がありましたが、どうにかこうにかここへ辿り着くことができました。誰か1人でも本ブログを楽しみにしてくれているのかもしれない、と考えると、疲れた脳味噌と体に鞭打ってでも更新作業に取り掛かる責務を感じます。でも、そうした<枷>がないとこの怠け者は動きませんから(呵々)。
 が、しかしわたくしがこうまでするのはあくまで本ブログを純粋な楽しみとしてくれている人たちへの感謝ゆえであり、本ブログに書かれたことを材料にしてわたくしを誹謗中傷したり攻撃したりするネタを仕入れようなんて浅ましい魂胆の持ち主のためでないことは、改めてここに表明しておく必要がありますね。後者について胸に覚えのある方は3人程いらっしゃるでしょう。幸いはかれらと直接関わりを持たずに済んでいること。いまのわたくしにはパウロの気持ちがよくわかりますよ。
 まぁ、そんな連衆は蚊帳の外へ追いやるとして、新旧取り混ぜて読者諸兄よ、いつも見守ってくださり、ありがとうございます。わたくしはあなた方のために書いてきた。そうして<悠久の希望>なるモナミよ、わたくしはあなたのために書いてきた。これからもそれは変わらない。
 明日からは「テトスへの手紙」を読みます。◆

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第2261日目 〈テモテへの手紙・二第2章&第3章1/2:〈適格者と認められた働き手〉、〈終わりの時の人々の有り様〉他withこのあと、なに読もうかな?〉 [テモテへの手紙 二]

 テモテへの手紙・二第2章と第3章1/2です。

 二テモ2:1-13〈キリスト・イエスの兵士として〉
 テモテよ、あなたはキリスト・イエスに於ける恵みによって強くなりなさい。多くの証人を前にして、わたしから聞いたことを他の人々へ伝えることのできる忠実な者たちへ委ねなさい。キリストの兵士となってわたしと共に多くのことについて忍びなさい。
 イエス・キリストを思い起こしなさい。わたしはこの人に由来する福音ゆえに現在、鎖につながれています。「しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」(二テモ2:9-10)

 二テモ2:14-26〈適格者と認められた働き手〉
 テモテよ、あなたは適格者──キリストの真実なる言葉を伝えるに相応しい者となりなさい。適格者と認められ、神の御前に立つ者、恥じるところなき働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるよう努めなさい。
 俗悪な無駄話を避けなさい。妄言を避けなさい。鵜呑みにするな、信じるな。それらは人の口から口へ連鎖し、際限なく広まってゆきます。残念ながら、ヒメナイとフィレトはそうした話を広めるのに熱心な連衆の1人でした。かれらは復活はもう果たされた、と触れて回り、或る人々の信仰を覆しています。
 「しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。」(二テモ2:19)
 わたしはこう奨めます。若い頃からの情欲を退け、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。諍いの原因になるような、愚かで無知蒙昧な議論を避けなさい。
 「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」(二テモ2:24-26)

 二テモ3:1-9〈終わりの時の人々の有り様〉
 ですがテモテよ、終焉の時が来たら人々は乱れます。自己中心的になり、利害第一に考え、善に背いて悪と結び、快楽に耽り、信心を装いながら実際は信心の力を否定する。努めてかれらのような輩を避けなさい。かれらは他人の家に入りこみ、愚かで罪に満ちた女どもとつながり淫行に走る。
 このような連衆はけっして真理の認識に辿り着くことができないでしょう。かつてモーセに逆らったヤンネとヤンブレがよい例です。「彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。」(二テモ3:8)
 が、こうしたことが今後蔓延ることはないでしょう。ヤンネとヤンブレがそうであったように、多くの人々の前でかれらの無知が暴露される(白日の下に曝される)からです。

 精神の腐った人間で、信仰の失格者というのは、全地に住まう人間の過半を指す言葉であろうと感じられます。だからこそ、適格者として相応しい人物となってキリストの福音を、恥じることなく、怯むことなく伝えてゆけ、というのでありましょう。
 二テモ3:8にはモーセに逆らった者としてヤンネとヤンブレの名が出る。が、モーセ五書はおろか旧約聖書にかれらの名は出ません。一説では出7:11エジプト(ファラオ)の魔術師がこのヤンネ(騒ぐ)とヤンブレ(泡の癒やし手)であるといいます。

 本日の旧約聖書は二テモ2:19と民16:5。



 読書生活はただいま<有川浩祭り>絶賛開催中なのだが、これが終わったらどうしようか、と考えこんでいます。いま読んでいる『キャロリング』のあとは『植物図鑑』しかない用意がないものなぁ。しかも文庫版を入手したのを契機とした再読だし。次は誰の小説を読もうかな、と思案に暮れる、悩ましくも楽しい時期に差しかかっているのです。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの最後の短編集は勿論読むけど、それは別としてですよ、うん。
 さて……。現時点で確定しているのは、ド氏の『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』はしばらく読むのを控えよう、ということ。なんだか最近ド氏を読むとろくでもない出来事が出来するんだよね。双方に因果関係はないと思いたいが、それでも用心を期すにしくはない。
 作家読みの可能性があるならば、南木佳士と葉室麟ぐらいかな。実はこの2人、未読作が溜まっている好きな日本人作家の双璧なのである(なにやら矛盾した物言いだけれど)。他に誰がいるだろう。村上春樹の紀行とエッセイは読むものが一時的にもなくなったときのため取っておいてあるのだが、これらに手を着けるときがそろそろ近付いているとは、あまり思いたくないのだがなぁ。
 読もうと思うている小説はある。しかしそれらは作家買いしたものではなく、あくまで書店で何気なく手にしたら気に入ってしまった、いわば自分的単発作家だ。むろん、その1冊が新たな作家買いのきっかけになるかもしれないけれど、それはさておく。
 それともこれは、未読の太宰作品を消化していよいよスティーヴン・キングの世界へ帰還をせよ、という啓示なのかしらん。勿論、それはいちばん幸福な選択肢である。呵々。◆

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第2260日目 〈テモテへの手紙・二第1章:〈挨拶〉&〈ゆだねられているものを守る〉withいつの日か、書きたいもの。〉 [テモテへの手紙 二]

 テモテへの手紙・二第1章です。

 二テモ1:1-2〈挨拶〉
 使徒パウロから愛する霊による子テモテへ。キリスト・イエスの命の約束を宣べ伝えるために、この手紙を送ります。父なる神と主により、キリストの恵みと憐れみと平和がありますように。

 二テモ2:3-18〈ゆだねられているものを守る〉
 わたしはいつも祈りのなかであなたを思い起こしています。あなたの抱く純真な信仰も併せて思い起こしています。その信仰はあなたの祖母ロイスに宿り、あなたの母エウニケに宿りました。あなたにも宿っていることでしょう、2人に宿ったのと同じ信仰が。
 その信仰ゆえ、あなたに洗礼を施したときあなたへ与えられた神の賜物を再び燃えあがらせることを奨めます。
 神がわれらに与えてくれたのは、臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊。為にあなたはわたしが主の囚人であるのを恥じてはならない。むしろ神の力を支えとし、福音のためにわたしと共にこの苦しみを忍んでください。
 キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくれました。わたしはこの福音のために宣教者となり、教師となり、使徒となった。それゆえに非道い苦しみを味わったのですが、特段それを恥じてはいません。というのも、──
 「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(二テモ1:12-14)
 ──テモテ、あなたの知っているようにアジア州の人たちはわたしから離れてゆきました。そのなかにはフィゲロとヘルモゲネスもいます。そんななか、エフェソでわたしにとてもよく仕えてくれたオネシフォロは離れるどころか、わたしをしばしば励ましてくれました。また、わたしが囚人の身であることを恥ともせず、ローマに到着したのを知ると方々を捜し歩いて会いに来てくれたのでした。ああ、どうか主の日にオネシフィロが主により憐れみを授けられますように。そうして今日、主がかれの家族を憐れんでくれますように。

 他の書物、書簡には名前の出ない、出たとしても記憶を刺激されることのないぐらいの人物が幾人も出てまいります。内、例外と申せるのはテモテの母エウニケでありましょう。なんとなくギリシア風の名前ですが、彼女は使16:1に出る「信者のユダヤ婦人」であります。しばしば2つの名前を持つ人物が新約聖書には登場しますが、テモテの母も同じだったのかもしれません。もう1つ、ユダヤ人としての、それらしい名前を持っていたのかもしれない、ということです。
 テモテの祖母ロイス、アジア州の民でパウロから離れた者として特記されるフィゲロ、ヘルモゲネス。かれらがどのような人物であったのか、手掛かりは欠片1つも提供されません。
 が、やはりここにしか名前は出ませんが、オネシフィロについてはパウロとの関わりなど或る程度まで想像することができます。かれはパウロが宣教旅行の途次立ち寄ったエフェソにて献身的に尽くし、1回目の監禁か2回目の監禁かわからないけれど、囚われのパウロを熱心に捜して見附け出した程、パウロを思うた人でありました。さりながら本書簡が執筆された頃、オネシフィロはこの世の人ではなかった様子であります。といいますのも、パウロは本書簡の結びの一節のなかで、オネシフィロの家族に宜しく伝えてほしい、と書いているからであります。事実かどうか不明ですが、そんな憶測の余地を残す文言であることに違いはない、と思います。
 引用したテモテ1:13-14については既に〈前夜〉にて述べました。



 いつの日か、「人間の悪意について」書いてみたいと思います。これは昨年の夏ぐらいからずっと意識に上っては消え、を繰り返して執拗にわたくしのなかで澱のように存在しているテーマであります。
 倒れる前に、命運尽きる前に必ず……。◆

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第2259日目 〈「テモテへの手紙 二」前夜〉 [テモテへの手紙 二]

 64年、帝都ローマは大火に見舞われました。時の皇帝ネロはその様子を皇宮のテラスに立って眺めながら、トロイア陥落を詠った詩を吟じていた、と伝えられています。帝都を焼き尽くした大火がどのようにして出たのか、出火の原因は? 故意によるものなら首謀者は誰か? いったいなんの目的で? 真相は歴史のカーテンのずっと奥に隠されていて、定かではありません。諸説ある、というのが精々であります。
 その様々の説のなかに、そうして有力視されてほぼ定見となっているものに、首謀者ネロ説があります。理由はわかりませんが、建築マニアだったそうですから、旧来のローマの街並みを一掃して自分の理想とする帝都ローマを再構築したかったのかもしれません。ただわれらがこの大火について確実に知るのは、これが皇帝への従順を潔しとしない、当時異端視されていたキリスト教を信奉する人々によって引き起こされた、一種の謀反であったこと、そうして、これを契機に史上初のキリスト者の弾圧が開始されたことであります。いわばキリスト者はスケープゴートとされたのでありました。
 パウロは最晩年をローマにて囚人として過ごした。やがて殉教へつながる監禁なわけですが、かれの死は67年頃とされるのが今日の大勢であります。パウロがいつ頃捕まって2回目のローマ監禁生活を送るようになったのか、報告する資料はありません。
 が、「テモテへの手紙 二」はまさにこの(2回目の)監禁中に書かれたのであります。二テモ2:9や同4:6などがそれを示唆しております。従って本書簡はパウロの死の直前、66-67年頃、ローマにて書かれた、と考えるべきでありましょう。おそらくは本書簡が〈パウロ書簡〉のなかで最も新しい時期に書かれた手紙、言い換えれば現存する/新約聖書に収められる〈パウロ書簡〉のうち最後の手紙なのでありましょう。
 なおパウロ殉教の前年、即ち66年、シリア・パレスティナ地方のユダヤ人がローマからの独立を叫んで一斉蜂起しました。これはすぐさまローマ帝国との戦争にまで発展し、ユダヤ人は相応に奮闘したようですが、圧倒的武力を擁すローマ軍を打ち倒せるはずもなく、善戦空しく70年にはエルサレムが、73年には最後の砦であったマサダが、それぞれ陥落したことで独立戦争はユダヤ側の敗北で幕を閉じました。以後、ユダヤ人は、シリア・パレスティナ地方は、ローマのより厳しい監督を受けることになります。これが第一次ユダヤ戦争であります。「テモテへの手紙 二」が書かれたパウロの最晩年は、このような時代であったのです……。
 この手紙が書かれた当時、パウロは孤独でありました。監禁されているから当たり前ではないか、という勿れ。ローマ市民の肩書きが効いたのか、そうした身であっても傍らにあって世話してくれる人物はいたようです。パウロ自身述べるところによれば、それはルカでした。「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を著した、とされる医者ルカでした。が、他の兄弟たちはかれの傍にはいなかった。ローマ帝国によるキリスト教/キリスト者弾圧に由来するのか断定はできませんが、結果としてそれを理由に離れてしまった人は多くいた、と推測されます。ルカ以外に侍る者のないパウロが、もう1人自分の傍にいてほしい、と願ったのはマルコでありました。これは「マルコによる福音書」の著者と伝えられるマルコだったでしょうか。そうしてかつての宣教旅行にて袂を分かち、バルナバと一緒にキプロス宣教へ赴いたマルコであったでしょうか。
 パウロ最後の手紙というフィルターが掛かるとすべてがそんな風に見えてきてしまう、という弊害はありますが、その内容の一々が諦観の極みのように読めてくるから、思いこみとはふしぎなものであります。これを最後の聖訓として読むならば、本書簡でいちばん重きを置くべきは、そうしてパウロの涙にあふれた言葉は、二テモ1:13-14、同4:1-5である、とわたくしは思います。最後にこれらを引用して本稿を終わります。
 「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(二テモ1:13-14)
 「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(二テモ4:1-5)
 それでは明日から1日1章の原則で、「テモテへの手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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