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第2289日目 〈ヘブライ人への手紙第13章:〈神に喜ばれる奉仕〉&〈結びの言葉〉with「ヘブライ人への手紙」読了の挨拶。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第13章です。

 ヘブ13:1-19〈神に喜ばれる奉仕〉
 兄弟たちはいつも愛し合いなさい。
 旅人をもてなしなさい。或る人たちは旅人と思うてもてなしたところ、実は天使相手にもてなしていたこともありました。
 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らえられている人を思いやりなさい。
 虐待されている人を思いやりなさい。あなた方も自分の肉体を持っているのですから。
 すべての人にとって結婚は神聖なものであるべきです。ゆえ夫婦の間は汚れたり、犯されたりしてはならないのです。互いの間に不和や不信、猜疑や欺きなどあってはなりません。神は淫らな者や姦淫する者を裁くのですから。
 金銭に執着することなく暮らし、いまあるもので満足しなさい。
 ──「申命記」にある神の言葉;わたしはあなたから決して離れず、あなたを決して置き去りにはしない。この言葉にわれらは心強くさせられ、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。/人間がわたしに何をなしえよう」(詩118:6)と唱えることができるのです。
 兄弟たちよ、世に様々ある異なった教えに惑わされてはなりません。あなたはキリストの福音にあずかる人であります。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブ13:8)
 善い行いと施しを忘れないでください。
 「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。」(ヘブ13:18-19)

 ヘブ13:20-25〈結びの言葉〉
 どうか平和の神が御心に適うことをキリストを通じてわれらに行わせてくれますように。
 その御旨を行うために必要なすべての良いものをあなたに備えてくれますように。
 どうか兄弟たちよ、以上の勧めの言葉を受け入れ給え。
 ──われらの兄弟テモテが無事釈放されたことを報告しておきます。テモテがこちらへ着くのが早ければ、わたしはかれと一緒にあなた方と会うことができるでしょう。
 あなた方のなかのすべての指導者と聖なる者たちに、宜しくお伝えください。
 こちらにいるイタリア出身の人々が、あなた方にどうぞ宜しくといっています。
 キリストの恵みがあなたにありますように(May the Force be with you.)。

 勿論、誰も”May the Force be with you”なんて書いていません。言ってもいません。わたくしのお遊びです。目くじら立てる人がいたら、ガチの原理主義者でしょうね、きっと。
 本書簡の掉尾を飾る第13章は、いうなれば「追補編」。実際の生活に密となる事柄についての追補であります。永遠の大祭司であるイエスについて語り、それに付随する事共を語り、それらを踏まえて1人1人のキリスト者は日々をどう暮らせば良いか、それについて手紙の著者は最後に申し添えているのです。
 ここでも重きをなすのは「申命記」の神の言葉とそれへのレスポンスである詩編第118篇の一節であります。そうして引用もしたヘブ13:18-19となりましょう。そこをきちんと読みさえすれば、本章に於ける著者の言わんとしていることはだいたいわかるのではないか、と思います。
 「ヘブライ人への手紙」は一時期〈パウロ書簡〉の一と考えられていた、とたしか〈前夜〉で触れたことがあったように記憶しております。その根拠の一つは、テモテの釈放を知らせる一節(ヘブ13:23)にあるのではないか。事実未詳といいようがありませんけれど、無関係では勿論ないでしょう。テモテの釈放についてはまた改めて触れるつもりであります。

 本日の旧約聖書はヘブ13:5と申31:6及び8、ヘブ13:6と詩118:6(但し70人訳ギリシア語聖書)。なお詩118は「マタイ伝」や「マルコ伝」といった福音書にも引かれ、また〈パウロ書簡〉などでも引用されることしばしばなものであります。なにを今更、とかいわないで。



 終わりました。みくらさんさんか、疲弊しております。
 とまれ「ヘブライ人への手紙」をこうして読了し得たのは、日々本ブログを閲覧してくださっている読者諸兄あればこそ。常のことながら、感謝の言葉を;サンキー・サイ。
 あなたの存在はいつだって力強く心強く、励ましであり慰めであり癒やしである。あと少しの歳月を、共に過ごしてほしい。自分がなにを求めているか、じゅうぶんにわかっている。
 ──次の「ヤコブの手紙」から〈公同書簡〉が始まる。それのノートがお披露目される日の訪れまで、しばしお待ちいただきたい。それまではいつもながらのエッセイを──。◆

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第2288日目 〈ヘブライ人への手紙第12章2/2:〈キリスト者にふさわしい生活の勧告〉with"If this is it"──今日はとっても良い日。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第12章2/2です。

 ヘブ12:14-29〈キリスト者にふさわしい生活の勧告〉
 あなた方はすべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。それ抜きでは何人も主を見ることはかないません、あなた方のなかに主に背く者が現れてもそれに悩まされたり、汚されたりしないよう気を付けなさい。また一杯の食べ物のために調子の権利も祝福も奪い取られてしまったエサウの如く俗悪であったり淫らな者とはならないように、気を付けていなさい。
 「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブ12:22-24)
 あなた方は語っている方を拒むことのないよう気を付けていなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが罰から逃れられなかったとすれば、天から御旨を告げる方へ背を向けているわれらは尚更ではありませんか。
 神はかつて御声で地を揺り動かしたのですが、いまはこう約束しています。わたしはもう一度地を揺り動かし、天をも揺り動かそう、と。もう一度、というのは、地を揺り動かしても不動のものがその後も存続するように、そうして揺れ動いたものが造られたものとして取り除かれるように、ということからであります。
 このようにわれらは揺り動かされることのない御国を受けているのです。感謝の念を抱き、畏れ敬いつつ、神に喜ばれるよう生きてゆきましょう。仕えてゆきましょう。「実にわれらの神は焼き尽くす火です。」(ヘブ12:29)

 ヘブ12:25「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか」は見過ごし難い一説です。──天から御旨を告げる方即ちキリストに背を向けているわれらも罰から逃れられない、とはどんな背景が、或いは土壌というてもいいかもしれませんが、あっての言葉なのでしょう。
 これが単なる注意喚起、自戒の言葉ならまだ良いのですが、「苦い根があなたを悩まし」(ヘブ12:15)云々も視野に含めれば、宛先となった地のヘブライ人社会でアンチ・キリストやそれに類することを宗旨とする集団が幅を効かせて、その主張が社会に蔓延っていたのかもしれない。むろん穿った見方でしかないかもしれませんが、気に掛かる一節であるのは事実なので、これについては(時間は要すでしょうが)もう少し考えてみようと思います。

 本日の旧約聖書はヘブ12:16-17と創27:9-10及び14-17並びに31-36、ヘブ12:20と出19:12-13、ヘブ12:21と申9:19、ヘブ12:26とハガ2:6(但し70人訳ギリシア語聖書)。



 絵に描いたような<スタバでMac>しているわたくしであります。テラス席を設けたスタバは多くあれど、大概は喫煙用で、ここのような店外のテーブル席にもかかわらず禁煙マークが描かれた緑色のプレートが真ん中に貼られたテーブルがある店舗は、珍しいように思います(注;感じ方には個人差があります)。ここに陣取ってキーボードを叩く手を休め、曇天の朝の空を見上げて、ふと、──
 私的なことではありますが、今日はとても良い日。早起きしててくてくここまで来た甲斐があった。結果は出ていないけれど、報われた。自分の行動に非を唱える者はいるかもしれない。おいおい、と呆れる人がいるかもしれない。ちょっと待ってよオールド・スポート、と救い難いな、とばかりに頭を振る人も出て来るかもしれない。
 が、現在考え得る限りで最善の選択を下し、最良の行動を取った、と思うのだ。後世の歴史家(呵々)がこの一連の行為について如何な鉄槌を下すことになろうとも、わたくしは構わない。ただ一人を守るために、わたくしは動いた。それだけのこと。
 さて、<スタバでMac>に戻るが、こんな原稿書きのシチュエーションも悪くない。耳に聞こえてくるのが船の汽笛と風の動く音、そうしてヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの音楽であれば、この世になんの憂い事があろうか──? 会社に行く前にこんなことができれば良いのだけれど、それは流石に無理だ。そのまま時間を忘れて文章を書くことに夢中になり、始業時間を疾うに過ぎて青ざめる光景を想像するのは容易いことだからだ。
 If this is it.まったく以てその通りなんだ。なにかご意見は?◆

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第2287日目 〈ヘブライ人への手紙第12章1/2:〈主による鍛錬〉with哀れ、『クドリャフカの順番』〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第12章1/2です。

 ヘブ12:1-13〈主による鍛錬〉
 前述したように、われらはおびただしい数の証人に囲まれています。だから、あらゆる重荷やわが身わが心にからみつく罪をかなぐり捨てて、自分に課せられた競争を忍耐強く走り抜き、完走しようではありませんか。そのとき、われらは信仰の完成者であり導き手であるイエスを常に視野に据え、見つめていましょう。イエスは自分に対する罪人たちの抵抗──反抗、というべきでしょうか──を耐え忍びました。あなた方は気力をなくして疲れてしまう前にこのイエスのことをよく考えなさい。
 「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブ12:4)
 主の鍛錬に忍耐しなさい。神はあなた方をわが子として扱っています。もしこの鍛錬を受けていないならば、あなた方は庶子です。嫡子ではありません。われらは生ある間は肉の父によって鍛えられ、為に肉の父を尊敬しています。ならば神についても同じではありませんか。肉の父は子を、自分の思うところに従って鍛えますが、神は実の子をかれらの益となるよう、自分の聖性にあずからせるため鍛えるのです。
 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ12:11)
 だからあなた方は萎えた手と弱った膝をまっすぐにしなさい。足の不自由な人が道を踏み外して迷子になったりしないように、むしろ癒やされるように、あなた方はまっすぐな道を造りなさい。

 ──ヘブ12:12-13はちょっとわかりにくい文言かもしれません。いったいなにをいわんとしているのでしょう。他訳の聖書や注釈書など読みますと、だいたい以下のようになるのではないでしょうか。つまり、神の懲らしめと鍛錬は命ある限り続くので厳しく、また時に悲しいものと感じられるけれど、怠惰と我儘と無気力を振り捨てて、勤勉と自制心(自律心)と活力を取り戻して、まっすぐに道を歩きなさい、ということです。
 わかりにくい、というのを一概に新共同訳の責に帰すことは勿論できませんが、現在進行中のあたらしい共同訳ではそうした不分明な箇所が(一掃とはいわずとも)少しでもゼロに近附いてくれるのを望みます。いっそのこと、文芸方面の実績ある翻訳家や或いは小説家もチームに参加させれば良かったのにね。

 本日の旧約聖書はヘブ12:2と詩110:1、ヘブ12:5-6と箴3:11-12(但し70人訳ギリシア語聖書)。



 <古典部>シリーズの読書は米澤穂信(直木賞ノミネート!)『クドリャフカの順番』になってからだいぶペースを落としたが、それが単純に読み応えあるからとは考えない。本書がつまらないわけでもない。では、なぜ? 一時的な情熱の薄れ? もしそうならば、対象が本であれ人であれなんであれ、よくある話だ。わたくしを語るに不可欠な一過性の怠惰に見舞われているだけであろう。そうだと信じたい。
 その『クドリャフカの順番』を悲劇が見舞った。昨夜に突然降り来たった大雨のせいだ。リュックのオープンポケットに入れたままな『クドリャフカの順番』は水を吸ってページの隅にシミとシワが出て、掛けていた書店のカバーの色が移ってしまった。古本屋へ売りに行ったら即座に弾かれて可燃ゴミとして選り分けられること必定な状態である。
 でも、これをそのまま処分するつもりはない。買い換えるつもりもない。本屋に行って代替品を買ってきて途中から読み始めても、それは最早わたくしが機を得て買い集めた<古典部>シリーズの1冊ではないのだ。見てくれは一緒でも、購入した当座のわたくしのときめきはそこに一欠片もない。半分程読み進んできたことから生まれた愛着も、ある。加えていえば、買い換える程のダメージとは思えない。煤に塗れた本よりはずっとマシだだろう。
 雨に濡れてベコベコでシワシワになった本を持つのはこれが初めてではない。高校時代から始まって幾つもある。でも、『クドリャフカの順番』は記録にも記憶にも留めるに値する、稀なるダメージを被った本であるように思う。帰宅してリュックから真っ先に取り出し、想定外な状態に接したときは、うわぁ……、としか言い様がなかった。にもかかわらず、買い換えよう、だとか、捨てようだとか、微塵も感じなかったのは前述の通り。
 「十文字事件」は壁新聞部の知るところとなり、漫研騒動もピークを迎えた。今週末には読了するはずだ。読み始めたときとは姿を幾許か変容させた『クドリャフカの順番』を楽しむのもあと数日──。◆

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第2286日目 〈ヘブライ人への手紙第11章:〈信仰〉withアニメ『迷家』全12話、AKB48G選抜総選挙&My Own Worst Enemy〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第11章です。

 ヘブ11:1-40〈信仰〉
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブ11:1)
 信仰によってわれらはこの世界が神の言葉(「光あれ」)により創造され、目に映るものは見えているものからできたのではない、とわかるのです。
 信仰により、アベルはカインよりも優れたいけにえをささげて、正しい者と証明されました。信仰により、エノクは死を経験することなく天に移されました。それ以前からエノクは神に喜ばれる存在だった。信仰なくして神に喜ばれることはありません。
 信仰によりノアは、神の勧告に従って自分の家族を救うため方舟を建造しました。ノアは信仰によってそれまでの世界を罪に定め、信仰に基づく義を受け継ぐ者になりました。
 信仰によりアブラハムは他国に宿るように約束の地に入ってそこに住み、信仰によりかれの妻サラはもう望めなかった子を授かりました。イサクがそうです。死んだも同然の人から系譜は広がり、空に見える数えきれない星のように、海辺の無数の砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」(ヘブ11:13-14)
 彼らは故郷に戻ろうと思えばできたのに、そうしませんでした。かれらは地上の故郷よりも優った天の故郷を望んだからです。神は、自分がかれらの神と呼ばれることを恥としない。だから神はかれらのため、天に強固な都を準備しています。
 信仰により、アブラハムはイサクをささげようとしました。アブラハムは神が死のなかから人を甦らせることができる、と信じていたからです。そうしてイサクはアブラハムの許へ返されました。信仰により、イサクは息子ヤコブとエサウのため祝福あれと祈りました。信仰により、ヤコブはエジプトで再会したヨセフの息子たち(つまりかれからすれば孫ですが)1人1人のため祝福を祈り、杖に寄りかかって神を礼拝しました。信仰により、ヨセフは臨終にあたってイスラエルの民の出エジプトを語り、自分の遺骨について指示を遺しました。
 信仰によりモーセは、生まれてから3ヶ月間隠され、成人してはファラオの一族と見做されるよりも同胞と共にあって虐待されることを選びました。信仰によってモーセは王の怒りを恐れることなく、過越の食事のあと、神の民にして同胞イスラエルを率いてエジプトを立ち去って、紅海(葦の海)を割って渡り、約束の地、“乳と蜜の流れる地”カナンを目指したのです。
 信仰によりエリコの城壁は7日目に崩れ落ち、信仰により娼婦ラハブは殺されずに済みました。
 ──果たしてこれに続く人々について、いったいなにを語るべきでしょう。士師ギデオンやサムエル、王ダビデ、エフタ他の預言者たちについて話そうとすると、とてもではありませんが紙幅が足りません。
 「信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。」(ヘブ11:33-35)
 さりながらこの人たちはいずれも約束されたものを手に入れることはできませんでした。その信仰ゆえに神に認められていたにもかかわらず、です。というのも神は、われらのために更に優ったものを計画していたので、かれらを完全な状態にはしなかったのであります。

 本書簡に於いてわたくしがいちばん好む章、そうして新約聖書を通して好きな文言のベスト・スリーに入る言葉のある章。その言葉は引用もしたヘブ11:1であります。
 第11章を読んでいると、信仰が歴史を紡いでゆく様子がよくわかります。そうして視点で改めて「創世記」や「出エジプト記」、「サムエル記」や「歴代誌」、或いは「エレミヤ書」など読んでみると、これまで見過ごしていた風景が見えてきそうで面白いと思います。
 なお、ヘブ11:40「更にまさったものを計画」とは即ちイエス来臨と神の国へ入ることをいうております。



 WOWOWで放送されていたアニメ『迷家』全12話を試聴。柳田国男『遠野物語』にある挿話(報告?)を源泉としているのだろうが、わたくしには『LOST』を相当意識した挙げ句紛い物の域を出られずに終わった作品、と映った。一部の謎を除けば概ね予測の範囲内であったしなぁ。もしかすると来月下旬に予定されている全話一挙リピート放送で際試聴すれば、印象もどうにか変わるのかも知れないが──。
 しかし、これ程に登場人物の誰一人にも感情移入できなかった、また不完全燃焼でありながらふしぎと気に掛かるアニメを観るのも、ずいぶんと久しぶりであった。

 録画しておいたAKB48G選抜総選挙を流し観したが、つまらなかったね。票数はともかく顔触れはなんとなく想像できたし、期待していた番狂わせもなかった。面白かったといえば精々が須田亜香里の神7入りぐらいか。<神7>と称されて調子に乗って天狗になるような真似だけはしてくれるな。
 が、教祖さまも総大将もいない総選挙は淋しいね。というよりも、まったくこのイヴェントに関心がなくなる。

 わたくしは視界の外の敵に注意しなくてはならない。迎撃せよ、粉砕せよ。なべて心せよ、味方以外はすべて敵である、と。◆

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第2285日目 〈ヘブライ人への手紙第10章2/2:〈奨励と勧告〉with書くならば、まずはトレーニングから。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第10章2/2です。

 ヘブ10:19-39〈奨励と勧告〉
 イエスの血によってわれらは聖所に入ることができる、と確信しています。なぜならば、イエスは(聖所の)垂れ幕、つまり自分の肉を通り、新しい生きた道をわれらのために用いてくれたからです。
 兄弟たちよ、われらには神の家を支配する偉大な祭司がいます。われらは清められており、良心の咎めはなくなっていても、体は清らかな水で洗われている。全幅の信頼を置いて、真心から神に近附こうではありませんか。
 われらに約束してくれたのは真実の方、イエスです。公に表明した希望をしっかりと、揺るがぬよう保ち続けましょう。お互い愛と善行に励むよう心掛けようではありませんか。かの日の訪れが近附いているのを知るあなた方は、なお一層励まし合うのがよいでしょう。
 「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」(ヘブ10:26-29)
 兄弟たちよ、思い出してください。光に照らされたあとで、苦しい大きな戦いによく耐えた初めの頃のことを。様々な侮蔑や嘲笑に見舞われ、好奇の目に曝されました。また、自分たちと同じような苦しみに遭っている人々の仲間になったこともありました。しかしあなた方は、いつの日か自分たちがもっと素晴らしい、いつまでも残るものを持っている、と信じているので、たとい財産をすべて奪われたとしても喜んで耐え忍ぶことができたのです。
 だから、確信を捨てたりしてはなりません。確信を持ち続けること、そこには大きな報いがあるからです。神の御心を行って約束されたものを受け取るには、忍耐が要求されるのです。
 ずっとむかし、或る預言者がいいました。神の目に正しいと映ることをした者は信仰によって生き、怯む者あればそれは神の御心に適わない者である、と。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブ10:39)

 なんともまとめにくい本日の章でしたが、辛うじてなんとか。
 イエスと父なる神への信仰と希望を揺らがぬよう保ち、イエスによって開かれた道を通って聖所(=神の国)へ入るてふ確信を捨てることなく生きよ。約束されたものを受け取るには忍耐が必要とされるが、忘れるなかれ、われらは信仰によって命の救いに至る者である。──第10章2/2をやや乱暴に要約すれば、以上の如くとなりましょうか。
 ヘブは明日の第11章からいよいよ大詰め、所謂総括、コーダに突入します。

 本日の旧約聖書はヘブ10:30と申32:35-36、ヘブ10:37-38とハバ2:3-4(但し70人訳ギリシア語聖書)。



 1ヶ月あたり6冊の読書というのはけっして早いほうではありますまい。単にそれぐらいのペースで読み終えられる小説が続いたのだ。加えて、本来ならばがっつり読むに値する近現代文学の幾つかが総じて再読であったのも、件の目録には影響していよう。
 実はかの目録を瞥見した知人からの問い合わせに答えて曰く、なる目論見から本稿を執筆している。質問;これら数十冊の小説の一々について感想文を書いているのか、或いは書く心づもりでいるのか、たとい分量は短かろうと長かろうと? 解答;否、断じて「否」である。
 もし本ブログが書評ブログであったなら、そうした原稿を書いてもいるだろう。というよりも殆ど義務となり、ルーチンワーク化しているであろう。が、生憎とこちらは聖書読書ノートブログであってノンジャンル専ら小説系の書評ブログではないのだ。またそれらの感想を看板としたブログでもない。そうして正直、そんなことはしたくない、という気持ちもある。ご理解いただきたい。
 聖書の読書とノートが終わったら、かねて予告していたとおり長編小説『ザ・ライジング』の連載と、並行して旧約聖書続編に収まる「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」のノートを改稿する。書評に主軸を置くとすればそのあとだ。つまり、……2017/平成29年晩秋以後、か。うむ。
 わたくしが好んで小説やその他のジャンルの本の感想を認めていたのは、もうずいぶんと前のことになる。いまはすっかり勘が鈍り、さてどうやって書いていたんだったかな、とかつての自分がそうしたものを書いていただなんてわれながら信じられなくて、いけない。
 もし書評や感想を書くならば、まずはトレーニングから始めよう。◆

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第2282日目 〈ヘブライ人への手紙第9章2/2&第10章1/2:〈罪を贖う唯一のいけにえ〉with『残穢』読了の報告と余談、そうしてお知らせ。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第9章2/2と第10章1/2です。

 ヘブ9:23-10:18〈罪を贖う唯一のいけにえ〉
 斯くして天にあるものの写しは契約の血によって清められるのですが、天にあるもの自体はそれよりも優ったいけにえによって清められなくてはなりません。それはキリストです。キリストは人の手によって造られた聖所ではなく天そのものに入り、われらのため神の御前に現れてくれた。どういうことかというと、「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れて」(ヘブ9:28)くれたのです。
 律法にはやがて訪れる良いことの兆しはあっても実体はありません。為に律法は何人をも完全な者とすることができない。だからキリストは肉を備えて世に来たとき、神よ御心を行うためにわたしは来ました、といったのです。新しいものを立てるために旧いものを破棄するのです。この御心に基づいてキリストはただ一度、自身の体をささげて多くの人々の罪を負い、そうして取り去り、延いてはわれらを聖なる者としたのです。
 祭司は日々礼拝を行い、けっして罪を除くことのできないいけにえを毎日、律法に従ってささげています。われらがキリストはどうでしょうか、──
 「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」(ヘブ10:12-14)

 「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」(ヘブ10:18)

 「ヘブライ人への手紙」の著者はトピックとなる話題の、しかも核心となる点に触れるとき、簡潔な文章と直接的な表現を用いて明晰な論旨を展開し、キリストの慈しみにあふれた神学を説いております。
 今日読んだ箇所もその例に漏れず、人間の罪を一身に背負って十字架上に死に、ただ一度だけ、自らを献げ物/いけにえとしてささげたキリストについて、非キリスト者であるわたくしなども一読合点し、首肯できた程であります。本書簡にはやや難解なところもあるにはありますが、全体としてみれば比較的わかりやすいものであります。新約聖書に於けるキリストとはどのような存在かを知るにあたって、或いはキリスト教入門に際して、本書簡はまたとない入門編であると信じます。福音書と「使徒言行録」に次いで読んでおいていいだろう、とわたくしは思うのです。

 本日の旧約聖書はヘブ10:5-7と詩40:7-9、ヘブ10:16とエレ31:33-34。



 寝る前にちょっとずつ読み進めていた小野不由美『残穢』(新潮文庫)を読了。面白かったぁ。和製ホラーの理想型ではないかしら、これは。あ、ホラーというよりは怪談っていうた方がいいですね。
 どこまでも、いつまでも付いてくる/憑いてくる因縁話。聞いても話しても祟られる、最凶クラスの怨念の連鎖。こういう話を読みたかったんだよ、『リング』や『呪怨』のような瞬間的な恐怖に頼ったものではなく、『残穢』のような日本人の感性と情緒に働きかけていつまでも記憶の残滓として内にあり続ける禍々しい怪異譚を。
 どれだけ自分がこの作品(と併せて映画版も)を気に入ったかといえば、単行本まで買ってきて書架へ収める前に部屋の片隅で体育館座りになってしばし耽読したぐらい。映画版のBlu-rayも無事に注文を済ませ、あとはコンビニに到着したというメールを待つだけの状態。どんだけ愛してるんだ、『残穢』を。
 『鬼譚百景』(角川文庫。そういえばこれも映像化されているんですよね)とセットで改めて寝しなに読み耽ろう。そうして闇の奥から聞こえてくる声に耳を傾け、仄見える景色に目をこらそう。
 ──しかしこの稿を書きながら聴く音楽がメンデルスゾーンの劇付随音楽《真夏の夜の夢》であり、しかも偶然とはいえ〈結婚行進曲〉であるとはなんともミスマッチで、その落差に思わず笑ってしまいます。クラウディオ・アバド=ベルリン・フィル最後の顔合わせとなったコンサートのライヴ録音、ブルーレイ・オーディオであります。
 余談だけれど、「真夏」が「真夏」でなく「茉夏」と一発変換されたときはのけ反りましたよ。ちゃお!◆

 追伸
 明日は用あって安息日とさせていただきます。
 関係者なら「明日」の意義についてわかるはず!□

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第2281日目 〈ヘブライ人への手紙第9章1/2:〈地上の聖所と天の聖所〉withヴェトナム純国産ビール「333」を何年ぶりかで飲む。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第9章1/2です。

 ヘブ9:1-22〈地上の聖所と天の聖所〉
 最初の契約でこの世に属する聖所が設けられました。燭台や机、供え物のパンが置かれる第一の幕屋と、その奥にある至聖所と呼ばれる第二の幕屋。第二の幕屋には金の香壇や金で覆われた契約の箱があり、契約の箱にはマンナが入った金の壺、芽を出したアロンの杖、割れた契約の板が収められており、その蓋には栄光の姿を象ったケルビム像が対となっており、償いの座を覆っています。これらについては、いずれも「出エジプト記」や「レビ記」に詳細が記されています。
 さて。祭司たちは礼拝を行うにあたっていつも第一の幕屋に入ります。しかし至聖所には入れません。第二の幕屋へ入るのは1人、大祭司のみであります。しかも年に1度、自らのためと民の過失のためにささげる血を携えて。「このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。」(ヘブ9:8-9)
 が、キリストの場合は然に非ず。キリストは既に実現した恵みの大祭司として来たのです。人の手に頼らず、献げ物の血によらず、自身の血によって、たった1度だけ聖所に入って永遠の贖いを成し遂げました。神にささげられたキリストの血は、われらを生きた神に仕える者とするため死をもたらす業から離れさせ、そうしてわれらの良心を清めるのであります。
 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」(ヘブ9:15)
 実は最初の契約も血を流さずに成立したのではありません。「出エジプト記」にもありますが、モーセは律法に従ってすべての掟を民の前で告げた後、水と緋色の羊毛、ヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、それを律法(の巻物)と民全体の上に振りかけ、これはあなたに対して神が定めた契約の血である、といいました。それから幕屋や祭祀で用いる器具の数々にも同じように血を振りかけました。最初の契約が成立するにあたっても血が流されたのです。
 「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(ヘブ9:22)

 まず、本日の読書と執筆には通常の新共同訳に加えて、いつも一緒に持ち歩いているフランシスコ会訳と新改訳、そうして岩波文庫の『文語訳新約聖書・詩編付き』を参照しました。いやぁ、重いね、これだけあると。どうして珍しくこれだけの聖書を運搬し、白状したかと申しますと、新共同訳の文章だけではどうにも内容の読み取りがしかねたためです。にもかかわらず、上記本文が殆ど書写に等しいものになってしまったのは恥辱としか言い様がないのですが……。
 ただわかるのは、自身の血を流して至聖所へ入ったキリストゆえに、信徒はそれに導かれて神の御前に仕える、清らかにして聖なる存在となったのだ、ということ。
 なお、お読みいただいてわかるように今日の箇所は専ら「出エジプト記」に記された幕屋(聖所)や祭具について触れており、それらについても知らないよりも知っておいた方が良いに決まっている事柄がしばしば登場した。第9章1/2〈地上の聖所と天の聖所〉のため事前に「出エジプト記」の該当箇所をきちんと読んでおくように、とは流石にいえませんけれど、あらかじめ、もしくは事後にそこへ目を通してみるのはけっして無意味な行為ではないでしょう。

 本日の旧約聖書はヘブ9:2と出25-26、ヘブ9:3と出26:31-35、ヘブ9:4(金の香壇)と出30:1-9並びにレビ16:12他、ヘブ9:4(契約の箱)と出25:10-16及び21並びに同40:20-21、ヘブ9:4(マンナ)と出16:31-34、ヘブ9:4(アロンの杖)と民17:16-25、ヘブ9:4(契約の板)と出25:16及び同21並びに申10:2他、ヘブ9:7と出30:10並びにレビ16:2と同14-15、ヘブ9:13とレビ16:3及び14-16並びに民19:9及び17-19、ヘブ9:19と出24:3-8及びレビ14:4そうして民19:6、ヘブ9:20と出24:8、ヘブ9:21とレビ8:15及び同9:8そうして同17:11。



 会社から3番目に近いスタバにこもって原稿を書いたあと、隣のコンビニに寄って缶ビールを1本、買う。飲みながら、駅まで歩く。
 そのコンビニの缶ビールの棚、コンビニとは思えぬ品揃えで行く度、今日はどれにしようかな、と迷うのだけれど、そのなかに一際輝いてわが欲望を増大させるものがある。ヴェトナムのビール、「333」だ。「333」と書いて「バーバーバー」と読む。ヴェトナムに行けばいちばん手頃に飲める純国産ビールが、この「333」である。
 果たしてヴェトナムに行ってこのビールを飲んだことがない、というドランカーがいるのかな。レストランに入れば必ずというてよい程メニューの片隅を占めているし、いまはどうだか知らないけれど道端のフォーの屋台にも常備されている光景を何度も目撃したことがある。亜熱帯の国、外で煽るように「333」を飲むのは至福の一時じゃった。
 さりながらこのビール、なかなか日本では手に入らないみたい。ヴェトナム料理店は別として、成城石井や世界各地のビールを扱っていると看板を掲げる店でも見掛けたことがない。単に、巡り合わせが悪いだけかも知れないけれど──。つまり、自分のなかでこのビールはヴェトナムでしか飲めないに等しいものと位置附けられていたのである。
 なのに、まさか職場の目と鼻の先のコンビニで売られているなんてね。何気なく入ったコンビニの棚にさも当たり前のように場所を占めている光景に接したときは、流石にわが目を疑いましたよ。感動もしたさ。勿論、迷うことなく手が伸びた。そうしてコンビニの外で、我慢しきれなくて、飲んだ。プルトップを開けて、プシュッ。ごくり、と飲んで──
 ん〜、なんか違う。憧れが過ぎたか、なんだかあちらの国で飲み慣れていたものと違う。味も喉越しも、たしかに記憶にある「333」なのだが……。で、みくらさんさんか、2本目を開けてそれを空にした後、夜道をてくてく歩きながら考えた。何度目かの信号無視の果てに思い当たった。温帯の国で飲むにはシビアな飲み物だ、これは赤道に程近い国で飲むにこそ相応しい。理屈ではなく、感覚だ。異論は様々あろうけれど、わたくしは斯く思う次第である、ということ。
 でも、ベルギー・ビールよりもわたくしにはヴェトナム・ビールの方が性に合う。好きだなぁ、これ。◆

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第2280日目 〈ヘブライ人への手紙第8章:〈新しい、優れた約束の大祭司〉〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第8章です。

 ヘブ8:1-13〈新しい、優れた約束の大祭司〉
 ここまでの要約、──
 ①われらにはイエス・キリストという永遠の大祭司が与えられている。
 ②その永遠の大祭司は神の玉座の右側に着いている。
 ③その永遠の大祭司は主が建てた聖所または真の幕屋で仕えている。
 元来律法に於いて定められる大祭司は、日毎種々の献げ物をささげ、いけにえを供えます。われらの戴く永遠の大祭司がもし地上に在れば、そのような事柄へ手を染めることはなかったでしょう。
 地上の祭司たちは結局のところ、天にあるものの写しと天にあるものの影に奉仕しているに過ぎません。「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」(ヘブ8:6)
 もし最初の契約が完全無欠のものだったなら、新しい契約など必要なかったでしょう。神はかつて南王国イスラエルが滅亡しようという時代、最初の契約に欠点があったこととイスラエルの民の不従順なことを責めて、預言者エレミヤに告げました。即ち、古に結ばれた旧い契約を破棄して新しい契約を締結することを。民が等しく主なる神に立ち帰って、主を知れ、と教え合う必要がなくなるのを望むことを。そのとき神は自分の民の不義を赦して、その罪を思い出したりはしないことを。
 ──そう、敢えて<新しい契約>と呼ぶことで最初の契約の不履行/破棄を宣言したのです。間もなく古きものは消えてゆきます。

 「新約」の意義が簡潔にそうして豊かに説かれております。論旨の明確さ、修飾を削ぎ落とした文章。いずれもパウロ書簡ではなかなかお目にかかれなかったものでありましょう。
 パウロよ、お前は気が狂っている、博学がお前を狂わせている、という総督フェストゥスの言葉(使26:24)がパウロ書簡の一側面とすれば、それと対になるような単純明快ぶり、されど深淵にして豊饒な点が「ヘブライ人への手紙」の一特徴といえるかも知れません。

 本日の旧約聖書はヘブ8:5と出25:40、ヘブ8:8-12とエレ31:31-34。参考として後者を共に引用しておきます。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレ31:31-34)
 「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。/『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。/彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。/『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。/わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。/彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。/小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、/わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」(ヘブ8:8-12)◆

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第2279日目 〈ヘブライ人への手紙第7章:〈メルキゼデクの祭司職〉with<古典部>シリーズの新刊が出るんですってね。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第7章です。

 ヘブ7:1-28〈メルキゼデクの祭司職〉
 昨日申しあげたサレムの王、メルキゼデクは蛮族の王を倒して戻ってきたアブラハムを祝福し、アブラハムは返礼として所有物の1/10を贈りました。メルキゼデクに系図はありません。生涯の始めも命の終わりもありません。神の御子に似ています。そうしてかれも、永遠の祭司です。
 律法はレビ族の祭司制度に則って定められました。その律法に於いてレビ族の祭司は同じイスラエルの民から十分の一の捧げ物を受け取っています。しかしながらレビ族に属さぬどころかイスラエルの民でもない者が、族長アブラハムから(律法で定められる)十分の一の献げ物を贈られているのです。というのも、このメルキゼデクが永遠の祭司であったからです。
 律法が民を導いて完全な者にできるならば、なぜアロンのような有限の命持つ祭司ではなく、メルキゼデクとは別に永遠の祭司が新たに立てられる必要がありましょうか。「別の祭司」とは祭壇の奉仕にかかわることのない部族に生まれ出ました。かつてエジプトの地でヤコブが予告し、寿いだように、イエスがユダ族の出身であることは明々白々です。聖書は──神は、ユダ族が祭祀にかかわっていたなどとは一言も述べていません。新たなる永遠の祭司は肉の掟の律法に拠ってではなく、朽ちることなき命の力により立ったのでした。そうして、誓いによって祭司となったのであります。斯くしてイエスはいっそう優れた契約の保証となりました。
 イエスは常に生きていて人のために執り成し、自分を通して神へ近附こうととしている人々を完全に救うことができます。
 イエスはアロンたちのような死すべき定めの祭司たちと違って、自分の罪のために毎日、贖罪の献げ物をささげる必要がありません。なぜならば、ただ一度、いけにえとして自身をささげたことで成し遂げられたから、もはや贖罪の献げ物を毎日ささげる必要はなくなったのです。
 「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。」(ヘブ7:24)
 「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」(ヘブ7:26)
 「律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」(ヘブ7:28)

 専ら第3章から第8章まで、大祭司としてのイエスについて縷々考察して述べた一連の箇所が本書簡のヤマ場といいますか、キモである、と一昨日あたり申しあげました。その頂点というべきが今日の第7章であります。小見出しこそ〈メルキゼデクの祭司職〉とありますが、実際は〈イエスこそ永遠の大祭司〉とでもした方がより正確であるように思います。
 登場した箇所に「いと高き神の祭司」という文言のみあったがために、永遠の祭司としてのイエスの前表としてメルキゼデクは大いに昇格した存在であるように感じられます。むろん、「創世記」の当該箇所が後代の補記もしくは挿入であることもじゅうぶんに可能性はありましょうが、わたくしは自分が聖書について文献学的興味を持つことを危うく思うておりますので、この話題を深く掘り下げることはやめておきましょう。
 ただ経緯がどうあれ、このメルキゼデクも洗礼者ヨハネ同様イエスの先駆──出現の地均し役乃至は引き立て役として機能するパーツであるのは、到底看過し得ぬ事実と申せましょう。
 ここまで読んできてわたくしは大祭司としてのイエスについては本章を熟読、思索を繰り返して理解へ至るのがなによりも肝要である、と考えております。

 本日の旧約聖書はヘブ7:1-2と創14:17-20、ヘブ7:14と創49:8-10、ヘブ7:17及びヘブ7:21と詩110:4。



 昨日のエッセイの続きというか、補完。米澤穂信の<古典部>シリーズ、雑誌に掲載されたきりな短編を図書館でコピーしてこよう云々の件。
 昨日原稿を書き終えるまで知らなかったのだが、実は先月中葉、作者自身のTwitterで6年ぶりに<古典部>シリーズの新刊が出ると発表された由。刊行は今年平成28年11月予定という。上述の短編はすべて含まれるということだが、他に書き下ろしなどあるのかは不詳だ。とまれ、図書館に出向いて単行本未収録短編をコピーしてくることは実行されない。
 おそらくは此度の新刊も単行本として書店へ並ぶのだろうが、できればその際は既刊分すべてを単行本として発売し直していただき、統一感ある装丁を施してほしい、と願う。たしかシリーズ第1作『氷菓』と第2作『愚者のエンドロール』は単行本で再版はされていないはずだ。ゆえにこそ、である。
 可能ならば帯や袖、巻末の広告ページには実写化の文言も写真も盛りこむな。近頃まことしやかに囁かれているように、剛力彩芽と佐藤勝利で主演が決定するならば尚更。おお、ドラマ版『ビブリア古書堂の事件手帖』の悲劇、再び! 原作のイメージを大事にできないような実写化はこの世から駆逐されてしまえ。
 ……悪夢の如き実写版の話は脇に置くとしても、これでかねてより希望する声の高かった新しいアニメ・シリーズも始動するのだろうか。京都アニメーションが再び手掛けて、スタッフもキャストも同一ならば、大歓迎ですね。◆

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第2278日目 〈ヘブライ人への手紙第4章2/2、第5章&第6章:〈偉大な大祭司イエス〉、〈一人前のキリスト者の生活〉他with米澤穂信・私感〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第4章2/2と第5章並びに第6章です。

 ヘブ4:14-5:10〈偉大な大祭司イエス〉
 われらは偉大な大祭司イエス、神の子イエスへの信仰を公にしています。この大祭司は罪こそ犯すことがありませんでしたが、その他についてはあらゆる点でわれら同様の試練に遭ってきました。大祭司という神に仕える職に就く人は、自分自身も弱さを持っているがため、自分以外の人々、たとえば無知な人や迷っている人を思い遣ることができます。また、弱さゆえ自分の贖罪のために供物やいけにえをささげます。
 この誉れに満ちた任務は立候補や他薦によって就く/得るのではなく、かつてアロンがそうであったように神からの召しによって与えられるのです。この点についてはイエスも変わるところはなく、大祭司となる栄誉を自分で得たわけではありません。神はイエスを指して、あなたこそ永遠にメルキゼデクと同じような祭司である、といいました。
 キリストは肉に於いて生きていた時分、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方へ祈り、願いをささげました。その畏れ敬う態度ゆえにそれは聞き入れられました。
 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブ5:8-10)

 ヘブ5:11-6:12〈一人前のキリスト者の生活〉
 メルキゼデクについてもう少しお話ししても構いませんが、やめておきます。あなたの耳が鈍くなっている(別のいい方をすれば「悪くなっている」)からです。本来ならあなた方はもう福音を説く教師になっているべきはずの人なのに、未だそうではなく、誰かに神の言葉の初歩を教えてもらい、幼子の如く乳を飲んでいる。「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」(ヘブ5:13-14)
 われらはキリストの基本的な教え、即ち、──
 ・死んだ行いの悔い改め
 ・神への信仰
 ・種々の洗礼についての教え
 ・手を置く儀式
 ・死者の復活
 ・永遠の審判
などを学び直すようなことはしないで、そうしてキリストの教えの初歩を離れて、ただ完成を目指して歩みを進めてゆきましょう。
 ここで、棄教──キリストへの信仰から離れること/背くこと/棄てることについて、警告しておきましょう。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。」(ヘブ6:4-8)
 しかし、愛する人よ、「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」(ヘブ6:10)
 あなた方には最後まで希望を持ち続け、変わらぬ熱心さを保ち続けてほしい、と思います。あなた方には怠け者になったりせず、信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。

 ヘブ6:13-20〈神の確かな約束〉
 かつて神はアブラハムに、あなたを祝福して子孫の数を浜の砂程に増やす、と誓いました。それは自分以上の誓える存在がなかったがために、神は自分に対して斯く誓いを立てたのであります。神は自分の立てた計画が不変である、とはっきり示すために、誓いという形でそれを民に保証したのでした。
 「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。」(ヘブ6:18)
 ──われらの魂に、それは希望と映ります。戦隊を固定させ、安定させる錨にも似て。また、至聖所の垂れ幕の内側へ入るに等しく。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」(ヘブ6:20)

 あらゆる試練を経験し、苦しみのなかに叫び、滂沱と涙を流しつつもなお神への信頼と畏敬と愛と希望を失うことなく持ち続けた人が、神に召されて聖なる者たちを束ねる大祭司となる──イエスを<大祭司>と称すのは斯様な理由(というか根拠)があってこそのことであります。
 昨日読んだ箇所はさっぱりでしたが、今日読んだ箇所はなんとなくながらもわかるところがある。その割にノートには引用が目立つようでありますが……。
 ヘブ6:18「二つの不変の事柄」は前節までの流れから判断すると、<神の約束、神の誓い>となります。これについて神は偽らない、信仰と希望と愛ある限り神はあなた方を忘れることがない、とはなににも優る励ましといえるのではないでしょうか。
 大祭司としてのイエスと並んで名の挙がるメルキゼデクは、創14:18-20が初出。いと高き神の祭司であったサレムの王として、ソドムの王共々アブラム(アブラハム)を迎えてかれに祝福を与えた人であります。その返礼にアブラムは自分の所有物の1/10をメルキゼデクに贈りました。ちなみにアブラムはソドムの王に対しては拒絶の態度を示しましたが、いきさつを詳しく知りたい方は是非「創世記」の当該章を繙いていただきたく思うところであります。なお、メルキゼデクについては明日の第7章にてもう少し詳しく触れられております。

 本日の旧約聖書はヘブ5:4と出28:1並びにレビ8:2及び同12、ヘブ5:5と詩2:7、ヘブ5:6と詩110:4、ヘブ6:13-14と創22:16-17。



 初めて読んだ米澤穂信は<古典部>シリーズであったが、これはアニメの追体験というのが正しいので、読んだ、と表明できる最初の作品は『ボトルネック』(新潮文庫)となる。
 金沢と福井(就中東尋坊)への旅行を目前にしていた頃手にした『ボトルネック』には夢中にさせられた。舞台となる地への憧憬もさることながら、「苦い」とか「残酷」とかいう形容も上っ面を撫でた形容でしかないような風味の物語に搦め捕られて、距離を置いて物を考える暇もないぐらいに没入して、一気呵成に読了へ至ったのである。もとより<古典部>シリーズにも苦虫を嚙み潰したような結末の短編が混じっていたけれど、『ボトルネック』はそれら諸編が陰りと苦みを全面展開して、慈しみや赦しといった救済が入りこむ隙を与えないような世界が、読み手へ提供されているのだ。
 これにすっかりやられて味をしめたわたくしは、間に他作家だが2冊の金沢を舞台にした小説を経由した後、米澤穂信の『儚い羊たちの祝宴』(新潮文庫)に手を伸ばし、現在は『氷菓』以後の<古典部>シリーズ既刊5冊(角川文庫)を再読中。これには雑誌に発表されたままな作品もあるので、第5巻『二人の距離の概算』読了したら図書館でコピーを取ってこよう、と思うている。そのあとは……米澤穂信の別の作品に進んでもう少しこの人の作品群に耽るか、或いは本来の乱読へ戻るか、正直、考えあぐね、決めかねている。
 知人はこの状況を<米澤穂信祭り>と呼んでいるようだが、否、祭りというには当たらない。この状況へ呼称を冠せるならば、フィル・ディックの普通小説のタイトルを流用するのが最適なのだ。つまり、<小さな場所で大騒ぎ>である。呵々。
 それにしても、と思う。米澤穂信ってもしかすると途轍もなく厭世的な物語の紡ぎ手なのかもしれないな、と。『さよなら妖精』(創元推理文庫)や<小市民シリーズ>(同)、<古典部>シリーズからだけでは到底計り得ぬ「闇」を描いて本領を発揮する作家なのだろうな、とも。本領はそこにあるのだろう。◆

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第2277日目 〈ヘブライ人への手紙第3章&第4章1/2:〈イエスはモーセにまさる〉&〈神の民の安息〉withもしかして、本って家出する?〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第3章と第4章1/2です。

 ヘブ3:1-6〈イエスはモーセにまさる〉
 天の召しにあずかる聖なる兄弟たちよ、われらが信仰を公にする使者にして大祭司であるイエスを思いましょう。
 神の家の僕の筆頭としてモーセはありました。イエスは自分を立てた方即ち神に忠実でした。尊ばれるのは家それ自体ではなく、家を建てた人であります。為にイエスはモーセに優り、より大きな栄光を受けるに相応しいのです。神の家を建てたのはイスラエルの民ではなく、神自身なのですから。
 「さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(ヘブ3:5-6)

 ヘブ3:7-4:13〈神の民の安息〉
 或る詩篇に曰く、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。/荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。/だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。/『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』/そのため、わたしは怒って誓った。/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」(ヘブ3:7-11)と。
 あなた方のなかに信仰なき悪心を持つ者が現れぬよう、注意していなさい。あなた方の誰一人として罪に惑って頑なになる者がいないよう、励まし合いなさい。「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(ヘブ3:14)
 前述の詩篇の一節に、今日あなた方が神の声を聞くならば神に抗ったときのように心を頑なにするな、とありました。
 神の声を聞いたのに反抗した者とは誰だったか。──モーセを指導者として出エジプトを果たしたイスラエルの民であります。
 神は誰に対して40年間、憤り怒ったのか。──戒めに従うことなく罪を重ねて死骸で荒れ野を満たしたイスラエルの者らに対してであります。
 神は誰に対して自分の安息にあずからせない、といったのか。──自分に従わなかったすべての者に対してであります。
 かれらが安息にあずかることができなかったのは、偏に不信仰だったからだ、と、おわかりになるでしょう。
 そうしたわけですから、皆さん、神の安息にあずかる約束がまだ有効であるのに、自分は取り残されてしまった、と思いこんでしまう人が自分たちのなかから出ないよう、気をつけましょう。神の民には等しく福音が伝えられているのです。が、にもかかわらず、取り残されてしまったと思っている人々に福音の言葉は役に立ちませんでした。福音の言葉とそれを聞いた人々が信仰によって結びつくことがなかったからです。逆にいえば、キリスト者となったわれらはこの安息にあずかることができるのです。
 天地創造の7日目、神はすべての業を終えて休みました。この箇所にも詩篇の一節──けっしてかれらをわたしの安息にあずからせはしない──が響いております。ここでいう<安息>とは、神の国に入って永遠の命にあずかることの同義なのです。「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」(ヘブ4:10)
 だから、われらもこの安息にあずかれるよう精進しましょう。不従順ゆえに堕落する者とならないように。といいますのも、──
 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブ4:12-13)

 〈前夜〉にて簡単に触れましたが、本書簡のキモ、核となるのは、イエスは大祭司である、ということでした。今日の第3章から第8章までが概ねそれについて触れた章でありますが、改めて読んで本稿の筆を執り、その難しさにほとほと参り、かつ手を焼きました。今後数日の間、低調気味な文章を恥ずかしくも情けなくもお披露目する結果になるやもしれませんが、それはわたくしの一知半解を示したものとしてご理解いただければ幸いであります。
 〈神の国の安息〉で語られる事柄は以下の3点に要約できると、思います。つまり、──
 ①すべてのキリストを信じる者に福音は伝えられていること。
 ②なのに安息にあずかれない者があるのは、その人と福音の言葉が信仰によって融合していない、もしくは神に不従順だからであること。
 ③最初の確信を最後まで持ち続けてキリストに連なる者となり、安息にあずかれるよう努力しよう、ということ。
 ──わたくしにわかるのはここまでで、これらについて書かれた内容を細かく読もうとすると、まるで這い寄る混沌に搦め捕られてしまったような気分になります。が、<読書百遍、意自ずから通ず>といいますので、何度も読んでいればそのうちわかってくることもあるだろう、と楽観しているのも事実なのであります。いずれにせよ、その日が来たならば今日の稿などはいの一番に書き改めなくてはならないでしょうね。
 なお、言わずもがなのことではありますが、第3章と第4章を読むにあたってはあらかじめ詩95に目を通しておいた方がいいでしょう。

 本日の旧約聖書はヘブ3:5と民12:7、ヘブ3:7-11と詩95:7-11、ヘブ3:15と詩95:7-8(但し70人訳ギリシア語聖書)、ヘブ4:3と詩95:11、ヘブ4:4と創2:2-3、ヘブ4:7と詩95:7-8(同)。



 昨日そのうち谷川流〈涼宮ハルヒ〉シリーズを読むよ、というお話をしました。読むことに変わりはないのですが、久しぶりに段ボール箱から発掘してみたら(キョンもびっくりな?)驚愕の事実が発覚。──おかしい、そんなはずはないのだ! と叫びましたよ。
 どういうことかと申しますとね。第3巻『涼宮ハルヒの退屈』がどこを探してみても、ないんです。誤棄か、売ったか。はたまた待遇に嫌気がさしてこの巻のみ家出したか? 冗談はともかく、あれぇ、って小首を傾げましたよ。朝比奈さんみたく、ど?してなんですかぁ??[右斜め上]、てどこから声出してんだ、とびっくりされても仕方ないような超音波な声をお伴にね。
 その段ボール箱は勿論隅々まで探したさ。周辺地域もくまなく捜索したさ。でも、未だ発見に至っていない。うん、ホントに、ふしぎ。絶対に本って夜中に自己増殖しているに飽き足らず夜遊びしに外出していると思う。きっと『?の退屈』は夜中にコンビニに行って帰る家がわからなくなっていまもどこかで迷子になっているに違いない。捜索願い出さなくっちゃ。けれど、謝礼は出せない。な、悩ましい……。いっそ、『世界ふしぎ発見』に相談してミステリー・ハンターでも派遣してもらうか……いや、これこそ冗談である。まぁ、この冗談が許されるなら、派遣ハンターは是非松井玲奈で!
 家には本がたくさんあって足の踏み場もないよ、という諸兄よ。或いはそれに準ずる方々よ。身に覚えはありませんか、あるはずの本がどこを探しても見附からない、ってことが。
 実を申せば前述の1冊以外にも行方不明本はあるのだが、最優先はこの『涼宮ハルヒの退屈』。まじめに考えて話をすれば、これだけ他の場所に置いてあるのかなぁ……。なにかの拍子にこれだけ読むか参考とするかのため件の段ボール箱から取り出して、そのまま元の場所に仕舞うのを忘れてしまい、やがて他の本やら資料やらに埋もれてしまったのかしらん。──これはじゅうぶんに可能性のある話だなぁ、って思う。
 あまりに増えすぎた本を前に整理を思えど実行する者はこの世に誰もいない。その結果(の一端)を今回、わたくしは見た。◆

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第2276日目 〈ヘブライ人への手紙第2章2/2:〈救いの救世主〉withまさかこのシリーズを読書計画に入れ忘れるなんてね!?〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第2章2/2です。

 ヘブ2:5-18〈救いの救世主〉
 お気附きでしょうか。神はわれらに語っている来たるべき世界については天使たちに話もしなければ語らせることもなかったことに。なによりも来たるべき世界を天使たちに従わせようともしませんでした。或る詩篇ではこのように触れられています。曰く、──
 「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。/また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。/あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、/すべてのものを、その足の下に従わせられました。」(ヘブ2:6-8)
 となれば、すべては主の下にあらねばなりませんが、実際はそうではないのです。われらはすべてのものが主に従っている様子を見たことがないのですから。ただ、一時期天使たちよりも低くされていたイエスは、死の苦しみを経て栄光と栄誉の冠を授けられました。まこと、神の恵みによってイエスはすべての人のために(一度は)お隠れになったのです。
 万物の目標であり、源である方即ち神にとって、多くの子らを栄光へ導くためにはかれらの救いの創始者即ちキリストが数多の苦しみを経て完全な者となるのは予定されていたことであり、また神の目にかなう相応しい出来事だったのであります。実際のところ、人を聖なる者とする方も、聖なる者とされる人も、「一つの源」(ヘブ2:11)から出ているのです。それゆえにイエスはかれらを兄弟と呼ぶことをなんら恥とせず、集会に於いて人々と共に神の名を讃美したのです。
 聖なる者とされる人々、兄弟たち。かれらは皆血と肉を備えています。イエスも同様に血と肉を備えた存在として世に現れました。なぜならば、悪魔という死を司る存在を自分の死と引き換えに滅ぼして、死の恐怖ゆえに一生涯奴隷として使役される人々を解放するために──。イエスは天使を助けない、アブラハムの子孫を助ける。まさしく、と申せましょう。
 「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブ2:17)
 ──イエス自身、試練を受けて苦しんだからこそ、試練を受けて苦しんでいる人々を助けることができるのです。

 キリストによる救いの性質が如何なるものか、簡潔ながら的を射た指摘のされた箇所と思います。きちんと読みさえすれば、ここはとてもわかりやすい。雲を摑むような思いで読んだ昨日とは打って変わって、一語一句なべてに首肯できるのであります。
 ヘブ2:11「人を聖なる者とされる方も、聖なる者とされる人たちも」、前者がイエスで後者がキリスト者を指すことは容易にわかりましょうが、同「一つの源」がなんなのか、一致した意見はありません。神であるともアダムであるとも、はたまたアブラハムであるともいわれます。ただこれは文脈によって如何様にも解釈できる点でもあるので、無理に断定する必要はない、と思います。
 引用したヘブ2:17にてイエスは大祭司である旨述べられますが、この命題については明後日読むヘブ4:14-5:10にて改めて取り挙げられる、本書簡のメイン・トピックの1つであることは、既に〈前夜〉にて触れた通りであります。
 なお、ヘブ2:10の文章は新共同訳よりもフランシスコ会訳や新改訳で読んだ方が、とってもよく意味が汲み取れると思います。なんというかですね、新共同訳ではこの箇所がいったいなにを語ろうとしているのか、しばし小首を傾げる羽目に陥るのです。やれやれ。

 本日の旧約聖書はヘブ2:6-8と詩8:5-7(但70人訳ギリシア語)、ヘブ2:12と詩22:23、ヘブ2:13aとイザ8:17(同)、ヘブ2:13bとイザ8:18。



 先日お話しした第二次〈有川浩祭り〉以後の読書計画について、専ら備忘のために修正報告。
 始まりと終わりについて変更はない。その途中で読むものについてもご退場願うものはなにもない。が、あのときはここに1つ、肝心なものを含めるのを忘れていた。谷川流<涼宮ハルヒ>シリーズ全11巻(角川スニーカー文庫)である。
 発売される毎に読んできたこのシリーズを──第1巻『涼宮ハルヒの憂鬱』から最終巻『涼宮ハルヒの驚愕』までの全11巻を、一回で構わないから一気読みしたかったのだ。おそらくいまがそのとき。好機到来、いまを逃せば永遠に機会は巡ってこないだろう。為に此度の実行なのだ。
 では、果たしてこれがどのような影響を後々に至るまで及ぼすことになるだろうか。答えは明らかである;新潮文庫版太宰治作品集の読破とそのあとに訪れる<福音>スティーヴン・キング三昧の日がその分遠離る、ということ。なんてこったい。
 さて、他にご質問は?◆

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第2275日目 〈ヘブライ人への手紙第1章&第2章1/2:〈神は御子によって語られた〉、〈御子は天使にまさる〉&〈大いなる救い〉with読んだ小説の感想は書かない。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第1章と第2章1/2です。

 ヘブ1:1-4〈神は御子によって語られた〉
 これまでにも神は多くの手段を講じてわれらに語りかけてきました。やがて<終わりの時代>が訪れ、すると神は御子を通じてわれらに語りかけたのであります。神はこの御子を万物の相続人として定め、御子により万物を、世界を創造しました。
 「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブ1:3)
 神によって御子は天使たちよりも優れた上位の者とされ、天使たちよりも優れた名を受け継ぐこととなったのです。

 ヘブ1:5:14〈御子は天使にまさる〉
 神は天使の誰にも、あなたはわたしの子、今日わたしはあなたを生んだ、とはいいませんでいした。それは御子に対してのみの言葉なのです。
 神はその長子、即ち御子をこの世へ──汚濁にまみれたこの世へ使わすとき、天使たちにこういいました。すべての天使はかれを礼拝せよ、と。
 そうして神は御自分の御子へ、斯く語りかけました。曰く、──
 「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。/あなたは義を愛し、不法を憎んだ。/それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、/あなたに注いだ。」(ヘブ1:8-9)
 神は天使の誰にも、わたしがあなたの敵を討ってあなたの足台とするまでわたしの右に着いていなさい、といったりはしませんでした。というのも、天使は皆奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるため、遣わされた存在なのです。ゆえに天使が御子を差し置いて神の右に立つことは、断じてありません。

 ヘブ2:1-4〈大いなる救い〉
 だから、われらは注意を払わねばなりません。神が御子を通じて使徒たちに語り、わたしを始めとしてわれらのすべてに伝えられて聞いたこと諸々に、注意しておく必要があるのです。さもないと、きっと不法や不従順といった神に背く行いの数々に、たやすく押し流されてしまうことでしょう。
 「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」(ヘブ2:2-3)
 この救いは主キリストから使徒たちに伝えられ、たしかなものとしてわれらに示されました。即ちそれが福音であります。更には神も御心に従って、ふしぎな業や様々な奇跡、聖霊の賜物を分け与え、証ししているのです。

 「ヨハネによる福音書」冒頭(ヨハ1:1-18)を想起させるほどの晦渋さでわたくしを困らせるヘブ1:1-4。厳めしさに腰が引けたわけではないのですが、どれだけ読み返してみても、なんだか難しいな、という印象を拭うことができずにいます。それだけに、わかった、と、漠然とではあっても手応えを感じたときは小さな喜びと自信になるのでありましょう。
 理解が困難な箇所は徹底的に難しく、逆に平易な箇所はなんの苦労もなく理解できる──それが本書簡を一度通読した際に抱いていまも変わらぬ、わたくしの正直な「ヘブライ人への手紙」感であります。
 ヘブ1:2「この終わりの時代」はキリスト出現の時を指す、とフランシスコ会訳の註釈は述べます。この表現は使2:17ペトロの説教のなかにもあり、救い主キリストが来臨してから終末に至るまでの時代を「終わりの時代」というのであります。なおこの期間は別に「教会の時代」とも呼ばれる由。

 本日の旧約聖書はヘブ1:3と詩110:1、ヘブ1:5aと詩2:7、ヘブ1:5bとサム下7:14、ヘブ1:6と申32:43(但ギリシア語70人訳)、ヘブ1:7と詩104:4(同)、ヘブ1:8-9と詩45:7-8、ヘブ1:10-12と詩102:26-28(同)、ヘブ1:13と詩110:1。



 お休み中の間は普段以上に小説を読んで過ごした記憶があります。そのなかでは特に米澤穂信『ボトルネック』と五木寛之『金沢あかり坂』がいちばん印象に残っているのですが、おそらくそれは旅先の地を舞台にした作品であったからでしょう。
 むろん、その前後にも普段よりも多く小説を読みました。タイトルや読了数を記す野暮は控えますが、国内作家ばかりで室生犀星を除けば現代小説が専らであった、とだけは自身への備忘として残しますが。
 でも、これらの感想が本ブログにて書かれることはないでしょう。「いつかそのうち書きましょう」と安請け合いすることはできますが、それが現実にはならないことをいまのわたくしはよく承知しております。ゆえに、戯れに感想めいた言葉が口の端からこぼれ落ちるのをわたくしとしても待つしかないのであります。それすらも実現されるのであろうか、と嗟嘆しつつ。
 しかし、岩波文庫で購い、復刻本で再読した犀星『性に目覚める頃』は感想を書いておきたいですね。『森崎書店の日々』の貴子ちゃんの台詞を拝借すれば、「なんていうか、グッときた」のであります。◆

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第2274日目 〈「ヘブライ人への手紙」前夜〉 [ヘブライ人への手紙]

 かつて「ヘブライ人への手紙」はパウロ筆とされて〈パウロ書簡〉の1つに数えられていました。初期キリスト教ではそう信じられておりましたが、時代が下るにつれてその信憑性に疑が呈されるようになり、宗教改革の時代マルティン・ルターが「ヘブライ人への手紙」は〈パウロ書簡〉に非ずとの見解の下にドイツ語訳(ルター訳)聖書では、今日の聖書とは順番を違えて配列されております。本書簡が〈パウロ書簡〉でないことを示すため、わざわざ離れたところに配したのであります。ルターの考えに倣ったわけではないでしょうが、現在では本書簡をパウロ筆と考える向きは(どちらかといえば)少数派であるようです。
 そうなると、今度は、では著者は誰なのか、てふ議論と詮索が始まります。本書簡がパウロの神学と相似した点はあっても種々の面で食い違う様相を見せることから「ヘブライ人への手紙」を書いたのはパウロの教えを受け、その思想、その神学を継承した人物であろう、といわれております。著者の候補として挙げられるのは、バルナバやルカ、シラスなど、宣教旅行に同行した人物です。
 が、今日一般的に支持されているのは、使18:24-28,一コリ1-4に出るアレキサンドリア出身のユダヤ人キリスト者アポロを著者とする説(提唱者はルター)。なんでも「ヘブライ人への手紙」ギリシア語本文にはアレキサンドリア学派の影響が濃厚にある由。アポロはこのアレキサンドリア学派の修辞に精通していた、といいますから、かれを著者と仮定するのも宜なるかな、という思いが致します。フランシスコ会訳新約聖書に付された解説に拠れば、「本書の著者は非常に発展した高度のキリスト論を展開している」(P605)とのこと。著者をアポロと考えれば、フランシスコ会訳新約聖書に記された上述の文言は必然的帰結なのかもしれません。
 ヘブ13:24「イタリア出身の人たちがあなたがたによろしくと言っています」とあることから、本書簡の執筆場所は帝都ローマなどイタリア以外の国に属する町と考えるのが、単純ではあっても妥当であろう、と思います。アレキサンドリアやシリアのアンティオキア、エフェソなど、ローマを含めてむかしからいろいろ詮議、検証されてきた様子ですが、未だ定説はありません。他書簡と較べても手掛かりが足りないので結着はおろか、大勢を占めるような説もないのが現状のようであります。
 著者、執筆場所と来れば次はその年代となりましょう。ヘブ13:23にてテモテが釈放された、と報告されます。つまり、テモテは投獄の身であったわけです。既に読んだ「テモテへの手紙 二」では、パウロがテモテに、早くこちらへ来てください、と要請する一文がありました(二テモ4:9)。その「二テモ」はパウロ殉教の直前に書かれた。これらを綜合すれば67-69年頃に本書簡は執筆されたであろう、という仮の答えが導き出されます。おそらくはこの時代の執筆とするのがいちばん無難であるように思える次第です。
 もっとも本書簡の執筆年代は60年代後半から90年代と広く推測されており、こちらもまた一致を見ないのが現状であります。ローマのクレメンスが1世紀末に書いた手紙には本書簡からの引用がある、といいますし、また本書簡ではエルサレム神殿は健在で日々のいけにえがささげられている、と読み取れることのできる箇所のあることから、70年のエルサレム陥落以前に書かれている、と考えることも可能なわけです。すくなくとも、ヘンリー・H・ハーレイのように神殿が破壊された70年以後に「ヘブライ人への手紙」は書かれたと考えて間違いない(『新聖書ハンドブック』P854 いのちのことば社)、と断言することはできないでしょう。
 宛先となったのは在エルサレムのユダヤ人キリスト者なのか、或いは離散したユダヤ人キリスト者なのか、定かではない。しかし本書簡を読むと、キリスト者でありながらユダヤ教の祭儀に惹かれて信仰のぐらついている人々の姿が目の前に立ちあがります。本書簡の内容が、旧約と比較しての新約の優位を説くものとなっているのは、ユダヤ人キリスト者の信仰を堅固なものにせんがためと思えるのであります(ここでいう「旧約」と「新約」が、文字通り「旧い契約」、「新しい契約」を指すのはいうまでもありません)。まぁ、律法よりもキリストの福音ですよ、ということですね。
 かつて「ユダヤ教イエス派」と呼ばれたこともあったように、キリスト教はユダヤ教を母胎とします。本書簡はユダヤ教と比較することでキリスト教に於ける「信仰とはなんぞや」の問題を明らかにし、そうして贖い主としてのキリストが如何なる存在であるかを説明しております。
 本書簡に於ける主要なトピックとして、以下の3つが挙げられます、即ち、──
 ①キリストは完全なる大祭司であり、人々の罪を贖うためにただ一度、完全なる犠牲となって自分の命を天にささげた。
 ②キリストは死と復活によってすべての人々を神の御許に導く/招くための<道>を切り開いた。
 ③神の天使たち、旧約聖書に登場する指導者や預言者の誰よりも、キリストは偉大である。
──この3つを念頭に置いて、北極星と捉えて読み進めるならば、本書簡の読書は大きな心的負担となることはないでしょう。
 なお、本書簡は第8-10章にてキリストの贖罪論を、第11章にて旧約聖書に於ける信仰の模範を扱っていて、このあたりが読書の1つのヤマ場となりそうです。
 性質上、本書簡は旧約聖書からの引用を多く含みます。如何にキリストの福音に留まって信仰を揺るぎなき堅固なものとさせるかに腐心した結果といえるでしょう。本ブログではこれまで同様、当該日に該当箇所を都度挙げてゆく予定であります。
 私見でありますが、神学の高度にして濃やかなこと、文学としての次元の高さなど「ヘブライ人への手紙」は、〈パウロ書簡〉の代表的書簡である「ローマの信徒への手紙」と双璧をなすもののように思えます。幾ら今日ではパウロ筆と認められていないからと雖も、これが〈パウロ書簡〉と〈公同書簡〉の間に位置して1つの高峰として独自の存在感を示しているのは、なにやら象徴的であります。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブ11:1)
 それでは明日から1日1章の原則で、「ヘブライ人への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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