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〈ペトロの手紙・一第5章:〈長老たちへの勧め〉&〈結びの言葉〉with「ペトロの手紙 一」読了の挨拶。〉 [ペトロの手紙・一]

 ペトロの手紙・一第5章です。

 ペト一5:1-11〈長老たちへの勧め〉
 わたしペトロは長老の1人として、キリストの受難を目撃した証人として、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなた方のなかにいる長老たちへ勧告します。あなた方は神に従い、自ら率先して、あなた方にゆだねられた神の羊の群れを牧しなさい。卑しく利益を求めてではなく献身的に。権威を振り回すことなく、人々の模範になるよう努めなさい。そんな風に振る舞い、行動しておれば、あなたは大牧者であるイエス・キリストからしぼむことのない栄冠を授けられるでしょう。
 若者たちよ、長老たちに従いなさい。謙遜を身に付けなさい。神の御手の下、頭を垂れて身を低くしていなさい。かの時が訪れた際には高めてもらえますから。もし思い煩うことあれば、なにもかも神に任せてしまいなさい。神はあなたのことを心にかけてくれていますから。
 身を慎んで目を覚ましていなさい。悪魔が誰かを喰い尽くそう、罪を担わせよう、と徘徊しています。信仰に踏み留まって、悪魔の誘惑から自分を守りなさい。この世の信仰を同じうする兄弟も、同種の苦しみや誘いに遭って抵抗しています。
 「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(ペト一5:10)

 ペト一5:12-14〈結びの言葉〉
 わたしは、わが忠実なる兄弟シルワノを代筆者として、この手紙をあなた方へ送ります。これは勧告の手紙です。神のまことの恵みであることを証すものです。この恵みにしっかり踏み留まりなさい。
 共に選ばれてバビロンにいる人々と、弟子マルコから、どうぞ宜しく、とのこと。
 愛の接吻によって互いに挨拶を交わしなさい。
 キリストと結ばれたあなた方全員に平和がありますように。

 長老への勧めはペトロが自分の仕事を通して体得、実感してきた事柄を述べたもので牧者の務めを説いた内容であると共に、一種の仕事論でもあります。一方で若者への勧めはイエスのそばにあった時代の自分を念頭に置いて斯く述べたものかもしれませんね。
 〈前夜〉では特に触れることはなかったようなので、ここで補足を。シルワノ(シラス)はエルサレム教会の一員で使徒会議の決議をシリアのアンティオキアへ伝えたり、パウロの第2回宣教旅行の随伴者となった。2つの「テサロニケの信徒への手紙」ではパウロの共著者として挙げられています(一テサ1:1とテサ二1:1)。初出は使15:22。
 マルコは福音書著者でパウロの第1回宣教旅行の随伴者、「バビロン」とは帝都ローマを指すこと、既に述べた通りであります。
 本書簡の執筆時期と場所を重ねて考えて、バビロン/ローマにいる人々がペトロと「共に選ばれて」(ペト一5:13)いることに悲劇的なものを感じてしまうのは、一人わたくしのみでありましょうか。ペトロはこのあと殉教するのです……。

 本日の旧約聖書はペト一5:5と箴3:34(但し70人訳ギリシア語聖書)。



 無事「ペトロの手紙 一」の読了も果たすことができました。息切れを覚えること久しい今日、たとい少ない章数の手紙でも最後まで読めるかな、と不安になることがしばしばで、更新に関しては更に更に。
 でも、こうして遅滞なく読了できているのはなによりの幸い事といえましょう。これも読者諸兄が開闢の日からこの方静かに見守り、閲覧してくださっているからこそ。このような感謝もあと数回となりますが、最後の日までどうぞご贔屓とご愛顧の程、宜しくお願い申しあげます。サンキー・サイ。
 残る手紙はあと5つ。どれも章数が5章以下と短いものなので〈前夜〉を含めても7月中には終わらせられるはずですが……。なにぶん本ブログの管理者にして執筆者であるわたくしは怠惰で鳴らした不届き者。それでも聖書読書ノートとしての本ブログは2016年9月末を目処に大団円を迎えられそうであります。
 次の「ペトロの手紙 二」は明後日か明明後日からの読書を予定しております。読者諸兄のまたのお越しをわたくしは心待ちにする者であります。◆

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〈ペトロの手紙・一第4章:〈神の恵みの善い管理者〉&〈キリスト者として苦しみを受ける〉with米澤穂信『さよなら妖精』読了。〉 [ペトロの手紙・一]

 ペトロの手紙・一第4章です。

 ペト一4:1-11〈神の恵みの善い管理者〉
 あなた方のうちで誰であれ、肉に苦しみを受けた人は即ち罪との関わりを断った人に他なりません。その人は最早神の良心に従って肉に於ける残りの生涯を生きるようになるのです。
 かつてあなた方はあらゆる肉の欲望に忠実で、偶像崇拝にも耽っていました。それらを一緒になって行っていた連衆は、或る日或る時を境にそれらのことから遠ざかったあなた方のことを訝り、嫉みました。しかし、それで良いのです。練習は遅かれ早かれ、生者と死者を裁く方へ弁明せねばならないのですから。
 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、人間の物差しで計れば肉ゆえに裁かれたようでも、その実、神との関係に於いては霊として生きるためでなのでした。
 皆さん、万物の終わりが迫っています。だから思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。「なによりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(ペト一4:8)
 あなた方はそれぞれ賜物を授かっている。神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を立派に活用して互いに仕えなさい。語る者は神の言葉を語るに相応しく語り、奉仕する人は神より与えられた力に応じて奉仕しなさい。すべてはキリストを通して神が栄光を受けるためなのです。
 世々限りなく栄光と力が神にありますように。アーメン。

 ペト一4:12-19〈キリスト者として苦しみを受ける〉
 愛する人たちよ、わが身に突然降りかかった災難というか試練に、驚いたり慌てたり怪しんではならない。
 「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」(ペト一4:15)
 キリストの名のために非難されるならば幸いです。栄光の霊(神の霊)があなた方の上に留まっているでのすから。そうして、キリスト者として苦しめられることをけっして恥じてはなりません。むしろキリスト者の名で呼ばれることを誇り、斯く呼ばれることで神を崇めなさい。
 いまこそ神の家から裁きが始まります。ところで、まず(キリスト者である)われらから裁かれるのだとしたら、神の福音に従わぬ者らの行く末はいったいどんなものでしょうか。正しい人がようやっと救われるとすれば、不信心な者、罪深い者、欲深い者は、果たしてどうなるのでしょう?
 われらはかれらを反面教師としなくてはなりません。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(ペト一4:19)

 キリスト者としてあるべき行動を取り、為すべきことを果たしておればよい。そのためにも罪との関わりを断ち、神の恵みの善き管理者として生き、キリストゆえの迫害に誇りを持って耐えよ。──本章を煎じ詰めればそんなメッセージが浮かびあがりましょうか。
 本章まで読み進めてきて今日ふと思うたのは、、「ペトロの手紙 一」は窮極的な意味で共観福音書のエッセンスではないか、ということ。ノートを綴りながら折に触れ福音書のなかのイエスを巡る挿話、イエスの教えや台詞が思い起こされたのは、それゆえかもしれません。このことについてはもう少し腰を据えて考えてみたく存じます。

 本日の旧約聖書はペト一4:18と箴11:31(但し70人訳ギリシア語聖書)。今回は新共同訳聖書「箴言」の該当箇所を参考として引いておきます、──
 「神に従う人がこの地上で報われるというなら/神に逆らう者、罪を犯す者が/報いを受けるのは当然だ。」



 米澤穂信の出世作『さよなら妖精』(創元推理文庫)を休日の昼に読了。これまで読んだ作品すべてにも共通していえることだけれど、やはり今回も安易なエンディングは用意されていなかったね。好い加減馴れろよ、という声には「いやはやなんとも」と頭を掻くより他なく。
 あなたの故郷へ自分も行きたい、だから一緒に連れて行ってほしい。主人公、守屋路行はクライマックスに於いて異邦からの友、マーヤに斯く願い出る。が、観光に来るにはまだ早過ぎる、と彼女はわずかな微笑を交えて一蹴した。故郷ユーゴスラヴィアが折しも内戦に突入し、事態が長期化・泥沼化することを予見していたためだ。守屋は自分が見聞したことのない世界にマーヤを通じて触れ、これまで自発的に行動を起こしてなにかに没頭したことのない自分でもなにかアクションを起こせるのではないか、とかすかな望みを抱いた。しかし観光目的で来るには時期が悪い、と諭されるのだ。マーヤは守屋の真意に気附いていたにもかかわらず(P298)。
 そうして、マーヤは連絡先を知らせることなく去った。守屋と、マーヤの日本での寄宿先を提供した白川いずるは1年後の夏、彼女が帰国した先がユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国/ユーゴスラヴィア連邦共和国を構成する6つの共和国と2つの自治州のうちのどこであったか、当時の日記や報道等を資料に推理する。一応の結論を出したその日の夜、守屋はマーヤのその後を知らされる。
 ──1990年代前半のユーゴ内戦を報道で知るならば、それは辿り着いて然るべきエンディングなのだろうけれど……。「民族自決」とか「民族独立」などいろいろな言葉でこの内戦の大義が当時は語られた覚えがある。しかしその大義の下で行われるのはとどのつまり、無差別の大量虐殺でしかない。ジェノサイドの前に生きとし生けるものの命はあっけなく、儚く、ちっぽけで顧みるに足らざるものなのか。なにやら脳天をハンマーで3発ばかり、ガツン、と叩かれた思いだ。
 読了翌日から本作の10年後のネパールを舞台に、『さよなら妖精』の登場人物の1人、大刀洗万智が活躍する<ベルーフ>シリーズの第1作『王とサーカス』(東京創元社)を読み始めている。◆

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〈ペトロの手紙・一第3章:〈妻と夫〉&〈正しいことのために苦しむ〉withちかごろ聴くのはボサノヴァばかり。〉 [ペトロの手紙・一]

 ペトロの手紙・一第3章です。

 ペト一3:1-7〈妻と夫〉
 「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」(ペト一3:1-2)
 妻たちの装いとして相応しいのは、柔和でしとやかな気立てという朽ちることなきもので飾られた、内面的な人柄です。派手な衣装や宝飾品の類ではありません。その昔、神に望みを託した聖なる女性たちも、神の御前で誠に価値あるその装いで夫に仕えたのです。アブラハムの妻サラもそうでした。
 「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」(ペト一3:7)

 ペト一3:8-22〈正しいことのために苦しむ〉
 「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。」(ペト一3:8-9)あなた方はこの祝福を受け継ぐために召されたのですから。このことは詩篇に於いても言葉を尽くして語られています。
 善いことに熱心であるならば、何人もあなた方へ危害を加えることはないでしょう。義のために苦しみを受けるなら幸いです。信徒の本懐というべきでしょう。どうか人々を恐れたり、心を乱すことがないように。
 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(ペト一3:15-16)
 神の御心によるのであれば、善を行って苦しみを受ける方がずっと良い。キリストは自身なにも悪いことはしていない正しい方なのに、正しくない者のために苦しめられ、罪人となって苦しんだ──それはあなた方を正しい神の御許へ導くためだったのです。
 「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(ペト一3:18-19)
 ノアの時代の洪水からは方舟に乗りこんだ8人だけが助かりました。言い換えればかれらは水のなかを通って救われたのです。この洪水で示されていた洗礼は、いまやキリストの復活によってあなた方をも救うのです。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることで。」(ペト一3:21)
 ──キリストは天に上って神の右に在りますが、天使や精霊、現世の権威や勢力は例外なくキリストの支配に服しているのです。

 ルターは新約聖書を翻訳する際、一部については言葉を補うこともしたそうです。「人は信仰によって義とされる」とある箇所を、かれは敢えて自身のそれまでの理解と解釈に基づき「人は信仰によってのみ義とされる」と限定詞を補った由。
 その判断の是非はともかくとして、わたくしは本章を読んでまずルター訳のこの一節を想起したのであります。
 ──かりに善行を施したことで周囲から迫害を受けて苦しめられたとしても、それが信仰に基づくものであれば神の御心にかなう義を体現したことになるのだ。そうわたくしは受け止めております。この考えに果たして誤りはあるでしょうか。識者に是非ご教示を仰ぎたく存じます。
 そうして──なんとノアの方舟の挿話で有名なかの洪水──40日40夜にわたって降り続いた雨がもたらして悪と罪のはびこる世界を一掃して浄化させた洪水は世界規模で行われた一石二鳥の「洗礼」であった! 凄まじいスケールの洗礼が既に旧約聖書の「創世記」開巻間もない時点で語られていたのですね!? これをまぁ揶揄していえば、「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」ということか。最早、さようですか、と頭を掻いて呟き、ぼやきの溜め息を吐くしかないですね。

 本日の旧約聖書はペト一3:10-12と詩34:13-17、ペト一3:20と創6:11-12及び同7:13並びに同21-22。



 作業中のBGMについて特に考えたことは最近ないのだが、ちかごろの実感としてはもうオペラを聴きながら書くことに集中はできそうもありません。筋を知っていれば、何度も聴いたことのある盤ならば、適当に無視することもできるでしょう? それができたら苦労はしないぜ。
 ワーグナーやショスタコーヴィチでそれを痛感したものだから、じゃぁこんどは古典派やバロック・オペラで、と思うて試したら、モーツァルトもヘンデルも、グルックもヴィヴァルディも駄目でした。玉砕。気が取られてしまうんだよね。そちらに意識が向いてしまって脳みそは労働を拒み、筆を執る手もキーボードを叩く手もまったく動かないのですよ。
 それでも作業中のBGMが必要になるときはある。カフェで書き物しているとどうしても、誰であってもシャットアウト不可能な騒音の塊に出喰わす。幸いそんな事態に遭遇しなかったとしても音楽を耳に入れたい気分のときもある。医者には1日1時間程度なら構わない、っていわれているからその時間内でのイヤフォン使用だけれどね。自宅にあっては情けなくもiMacがオーディオ代わりゆえ内蔵スピーカーで聴きながら、ということになるけれど。
 いずれにせよ、最早オペラは作業中のBGMにはならない。では、なにが? 夏の時期ならかつてはクラシックではサティやケクランのピアノ曲が専らだった。紆余曲折を経て現在は……実はボサノヴァであります。サロン・ミュージックやピアノ・トリオも良いのだけれど、最近TSUTAYAで借りるCD、タワーレコードで物色してレジへ運ぶCDはボサノヴァが中心になっている。意識の襞に引っ掛かりそうで引っ掛からない、引っ掛からなさそうで引っ掛かる、というそんな絶妙な感じが気に入っております。
 事実、これを書いているいま聴いているのは作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンの自作自演アルバム『The Composer of Desafinado, Plays』。これなら1日4、5回聴いても食傷気味とならずに済みそう、という程にすばらしい一枚であります。なんてひどい紹介の仕方だ、とはわたくし自身思うていることなので、読者諸兄にはお目こぼし願いたい。
 これから秋が来るまでボサノヴァ中心の音楽生活になるかなぁ。◆

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〈ペトロの手紙・一第2章:〈生きた石、聖なる国民〉、〈神の僕として生きよ〉他with群衆のなかのロビンソン・クルーソー、斯く独白せり。〉 [ペトロの手紙・一]

 ペトロの手紙・一第2章です。

 ペト一2:1-10〈生きた石、聖なる国民〉
 慕い求めた純度100%の霊の乳を飲むことで、あなた方は乳飲み子から成長し、救われるようになりました。
 また、その乳によってあなた方は主が恵み深い存在であることを味わった。皆、この主の許へ来なさい。
 「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(ペト一2:4)
 あなた方自身も生きた石となり、霊的な家が造り上げられる際の部材となるようになさい。「イザヤ書」に於いて神は、選ばれた尊い要石をシオンに置き、それを信じる者はけっして失望することがない、といいました。
 その要石は信じる人には代わるものなき唯一無二のものですが、信じない者にはまったく以て取るに足らない無価値なものなのです──詩篇ではその要石は家を建てる者が捨てた石、と表現されています。が、それは信じる者にとって「隅の親石」となったのでした。一方で、神が選んだ尊い要石は、それに価値もなにも見出さぬ者には「つまずきの石/妨げの石」(イザ8:14)となったのです。御言葉を信じない者がつまずくのは以前から定められていたことなのでした。
 「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペト一2:9)
 あなた方はかつては神の民ではなかった。憐れみを受けてもいなかった。が、いまやあなた方は神の民であり、憐れみを受けています。

 ペト一2:11-17〈神の僕として生きよ〉
 魂に戦いを挑むような肉の欲を避けなさい。
 異教徒の社会にあっても立派に生きなさい。為すべきを為し、敬うべきを敬い、信ずべきを信じ、愛すべきを愛しなさい。異邦異教の民のなかに暮らしていてもキリスト者としてきちんと生活していれば、「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(ペト一2:12)
 主のためにも人間が定めた制度には従いなさい。皇帝であれ総督であれ、上に立つ者には服従しなさい。善を行い、愚者の無知な発言を封じることは、神の御心にかなうことです。自由人として生活するのは構いませんが、その自由を悪事を隠す手段としてはなりません。あなた方は神の僕として行動し、生きなくてはならない。
 「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(ペト一2:17)

 ペト一2:18-25〈召し使いたちへの勧め〉
 召し使いの身分にある者たちよ、善良で寛大な主人ばかりでなく、無慈悲で猜疑的な主人に対しても心から敬って仕えなさい。その結果、不当な苦しみを受けることになったとしても、それが神の御旨であると思うて耐え忍ぶなら、御心にかなった生き方をしているのです。
 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(ペト一2:21)
 キリストは罪を犯したことも偽りを口にすることもありませんでした。罵りに罵りを以て返すこともなく、苦しめられても相手を脅かすことはありませんでした。そうして正しい裁きのできる方へ己をゆだね、十字架に掛かり、われらの罪を背負って死にました。これは、われらが罪に対して死に、義によって生きるためです。あなた方はキリストが受けた傷によって癒やされているのであります
 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペト一2:25)

 本章の要となるのは中間、〈神の僕として生きよ〉の部分だと思います。見渡せばどこもかしこも異邦人、異教徒だらけ。
 そんなコミュニティのなかで生活するのを余儀なくされたとしても、キリスト者として恥ずかしくない、非の打ち所のない生き方をしていれば、初めのうちこそ排斥しようと様々手段を講じてきた異教徒もやがてはかれらを認め、それどころかキリスト再臨の日には神を崇めるようになっているだろう、というのであります。これこそが理想的感化、理想的布教というべきことなのかもしれません。
 圧倒的暴力による改宗は憎悪と更なる暴力しか生まない。四面楚歌のなか、絶えることなき悪意と中傷と乱暴に遭うても凜として立ち、為すべきを為し、敬うべきを敬い、信ずべきを信じ、愛すべきを愛しておれば、異教徒と雖も見る人はそれを見ているのだから、そのコミュニティの世論は自ずと容認の方向へ傾いてゆくことだろう。
 ……これがわたくしの、それこそ現実を軽視した、蒙昧なる理想論に過ぎぬことは重々承知しております。そう、現実はそんなに単純に割り切れぬものではない。コミュニティは寛容の姿勢を打ち出しながらも、その内実は常に排斥へと舵を切ることの方が多い。「和を以て貴しと為す」とは正反対の態度へ流れるのです。今日でいえば、世界中で行われるイスラム教徒や難民に対する、わが国に於いては韓国人へのヘイトスピーチなど、例を挙げれば枚挙に暇がありません。もっと小規模のものは、昔からこの国では村八分とか仲間外れとかむごたらしい言葉を以て例を挙げられます。これに負けた者は自殺するのです。
 それが現実社会に横行して当たり前となっているのが常である、と実感しているからこそ、わたくしは本章で語られる生き方に共鳴したり、憧れたりするのでしょう。引用もしたペト一2:17はそのためのモットーとして心に刻んでおくべきかもしれません。

 本日の旧約聖書はペト一2:6とイザ28:26(但し70人訳ギリシア語聖書)、ペト一2:7と詩118:2、ペト一2:8とイザ8:14、ペト一2:10とホセ2:23及び25、ペト一2:22とイザ53:9。



 社会人である以上いろいろとあるわけですよ。今日(昨日ですか)も、また。
 血の涙を流したくても流せない、群衆のなかのロビンソン・クルーソーとは誰か。
 退場のタイミングを誤ることなかれ。そのために然るべき準備を。
 わたくしに「生前の誹り、死後の誉れ」なんてあるのかな。◆

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〈ペトロの手紙・一第1章:〈挨拶〉、〈生き生きとした希望〉&〈聖なる生活をしよう〉with『さよなら妖精』ふとした拍子に生まれた疑問。〉 [ペトロの手紙・一]

 ペトロの手紙・一第1章です。

 ペト一1:1-2〈挨拶〉
 わたしはペトロ、イエス・キリストの使徒。離散しているポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに寄留する選ばれた人々へ、この手紙を送ります。選ばれた、というのは、父なる神があらかじめ立てた計画に基づき、“霊”によって聖なる者とされたあなた方が、キリストに倣い、またその血を注がれるために、であります。
 あなた方に豊かなる恵みと平和がもたらされますように。

 ペト一1:3-12〈生き生きとした希望〉
 神は、その豊かな憐れみによってわれらを新たに生まれた者としてくれました。神は死者のなかからイエス・キリストを復活させたことで、生き生きとした希望を与えてくれました。神はあなた方を、あなた方のため天に貯えられた、朽ちたり汚れたりしぼんだりすることのない財産の承継人に定めました。あなた方は終わりの時に用意されている救いを受け取るため、神の力と信仰によって守られています。
 今後しばらくの間、あなた方は試練に直面して悩んだりするかもしれない。が、あなた方の信仰は試練を経て本物となるのです。その本物の信仰がキリスト再臨の暁には称賛と栄光と誉れをあなた方へもたらすのです。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペト一1:8-9)
 かつてキリストについて語った預言者たちはキリストが経験する受難と栄光、恵みがいつ、どこで行われるのか、調べ、或る啓示を受けたのでした。それらのことは自分たちではなく後の世の人々、つまりあなた方にもたらされるのだ、と。
 それらのことは天から遣わされた聖霊の導きによって福音を宣べ伝えた人々からあなた方へ告げ知らされたのです。キリストの福音は天使たちも直接見て確かめたい、と思うている程のものなのであります。

 ペト一1:13-25〈聖なる生活をしよう〉
 いつでも心を引き締め、身を慎んでいなさい。キリスト再臨時に与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい。欲望に引きずられず、従順な子でいなさい。召し出してくださった方に倣って生活のすべての面で聖なる者でありなさい。汝ら聖者であれ我は聖者であるがゆえに、と「レビ記」に書いてあるからです。
 あなた方はこの地上に仮住まいする身。公平な裁きをする、「父」と呼ばれる神を畏れて生活しなさい。忘れてはなりません、あなた方が先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、キリストの血によるのだ、ということを。
 「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」(ペト一1:20-21)
 あなた方は真理を受け入れ、魂を清め、偽りなき兄弟愛を抱くようになりましたね。ならば、清い心で深く愛し合いなさい。
 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」(ペト一1:23)
 主の言葉は永遠不変である、と「イザヤ書」にあります。これこそがあなた方へ告げ知らされた福音の言葉なのです。

 「ペトロの手紙 一」は異邦のキリスト者を対象にして書かれました。異邦とは、ではどこか、といえば、昨日も触れ、本章第1節にある如く、ポントスやビティニアなど小アジア北部からアジア、ガラテヤといった中央部にかけての地域を指す。黒海に面した北部はパウロの伝道ルートから外れ、中央部についてはパウロも旅したけれどそれぞれの町や村で宣教に努めたというよりはそこを通る街道を利用した、という趣の方が強い。
 ペトロが小アジア北部から中央部にかけての諸州を実際に訪ねたのか、定かでありませんけれど、パウロとペトロの間には担当地域の不可侵協定のようなものが、暗黙の了解としてあったのかもしれない、と邪推してしまう程に両者が手紙で言及する地域があまり重なっていないことを面白く思うのです。
 まあ流石に新約聖書もここまで読み進めてくると、どこかで読んだような覚えのあるメッセージに遭遇します。為に感想として書くことが減ってくる、という弊害も発生する。が、今日ここで引用したペト一1:8-9は本当に清々しく、「喜びに満ちあふれ」た新鮮な文言である、と感じました。時折、ふとした拍子に斯様な出会いがあるから、砂を噛むような思いにさせられること多々な各書簡を読み進められもするのだな、と自分に言い聞かせるのであります。

 本日の旧約聖書はペト一16とレビ19:2、ペト一1:24-25とイザ40:6-8。

 米澤穂信『さよなら妖精』は<古典部>シリーズの一つとして当初は執筆された、という。レーベル消滅によって宙に浮いた完成原稿が人を介して東京創元社に渡り、全面改稿を経て今日見るような形になった由。
 そんな過程のあることを既に仕入れて読み始めたためか、『さよなら妖精』の登場人物と<古典部>シリーズの登場人物が時折かぶって仕方ない。<古典部>シリーズでは1人が担っていた役割を『さよなら妖精』では複数の人物に分散させていたりするので、面影を彷彿とさせる瞬間がある、というた方がより近いか。
 なんでも本作は元来、<古典部>シリーズのターニング・ポイントとなる作品として、またそのプロットはシリーズ完結編として練られたものであった、と仄聞する。『氷菓』に始まる<古典部>シリーズが当初はどのような構想下にあったのか、いまとなっては想像を逞しうするよりない。が、しかし、『さよなら妖精』が“幻の<古典部>シリーズ”と呼ばれるのを知ってしまった以上、ついわたくしは考えこんでしまうのだ、──
 果たして『愚者のエンドロール』に続くシリーズ第3作として完成していた原『さよなら妖精』はどのような姿をした小説であったのだろうか、と。◆

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〈「ペトロの手紙 一」前夜〉 [ペトロの手紙・一]

 使徒や伝道者の熱意と信心によってナザレのイエスの教え、福音はエルサレムを中心としたシリア・パレスティナの外へ運び出され、伝播し、各地に教会を拠り所とするキリスト者の小集団、或いは社会を築くようになりました。「使徒言行録」や個々の書簡に見るとおりであります。しかし、この世に宗教はいまも昔もユダヤ教とキリスト教ばかりではない。離散ユダヤ人は小アジアやエジプト、ギリシアやローマ、スペインなどにまでさすらい、それぞれの土地に寄留するのですが、当然、そこにも土着の宗教があるのです。われらはパウロの言動を通して異邦の地でキリストの教えを広め、根附かせ、改宗させることの苦労と困難を一端なりとも知っている。離散ユダヤ人にも同じことがいえるでしょう。かれらのなかには長老も教師も伝道者もいたことであろう──すべてではないにしても、それらの役割を担う者は。
 このことについて、ヴァルター・クライバーはいう。曰く、「通常、古代社会は、異なる信仰を持つ者が国家の神々を敬い、その他の点でも同胞市民の宗教を認める意思を表明する限りは、彼らに対して非常に寛容であった。しかしながら、若い、伝道の熱意にあふれたキリスト者との衝突は、正にこの点において起こらざるを得なかったのである」(『聖書ガイドブック』P255 教文館 2000年9月)と。即ち、キリスト者が辿り着くまでは寛容という名の暗黙の了解の下、相手方の宗教/信仰が自分たちのコミュニティ内で共存し得たけれども、神とその御子を信じるキリスト者は寄留先の宗教を完全否定して自分たちの信仰こそ唯一無二と説いて改宗を迫りもしたのだ、ということ。なんだか使17:16-34で描かれた、アテネを訪れたパウロの挿話を思い出せます。
 古代ローマ、オリエント社会に於いてキリスト者迫害といえば、64年ローマ大火に端を発するネロ帝や90年代のドミティアヌス帝によるそれを連想しますが、「ペトロの手紙 一」執筆背景にある衝突はもっと小規模で、日常茶飯事的な迫害であったのです。迫害なる語が大袈裟ならば、その類語に差し替えていただいて構わぬ。
 とまれ、本書簡は寄留先でその信仰ゆえに虐げられたり、村八分に遭ったり、肩身の狭い思いを味わっているキリスト者へ宛てた励ましと慰めの手紙であります。「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません」(ペト一4:16)てふ文言は本書簡の性質を捉えて余さぬものとわたくしには思えます。当時これを読んだ人々はどんなにか救われた気持ちであったでしょう。
 本書簡は12使徒の筆頭にして初代ローマ教皇であるペトロが従者シルワノ(シラス)に、ギリシア語で書かせた、とされています。当時ペトロはシルワノとマルコ、その他の人々と共に「バビロン」にいた様子(ペト一:12-13)。バビロンとは旧約聖書の時代、ネブカドネツァル王の名と一緒に記憶される新バビロニア帝国帝都の旧跡を指すのでは、勿論ありません。「ヨハネの黙示録」にも「バビロン」は出ます。「大淫婦バビロン」とはよく知られた表現であります。本書簡(や「黙示録」)で触れられる「バビロン」とは「ローマ」を指しており、つまり暗喩なのであります。おそらくは旧約聖書を代表する強大なる敵の名を、新約時代に於ける世界の覇者ローマ帝国に仮託して与えたのでありましょう。
 この手紙はペトロ殉教の年に書かれた、とされます。それはつまりローマ大火とキリスト者の弾圧が行われた64年のこと。この年、ペトロは一端ローマを離れて他の地へ身を隠そうとしました。が、ローマを去って程なく街道を歩いていると道の向こうからこちらへ歩いてくる師イエス・キリストを見ました。そうしてペトロはかの有名な台詞、「クウォ・ヴァディス、ドミネ?」(Quo vadis, Domine?/主よ、どこへ行かれるのですか?)を口にします。イエスは再び十字架に掛かるためにローマへ行く、と答えました。そこでペトロは為すべき役目に気附き、踵を返して都へ戻ってローマ兵に捕縛され、逆さ十字架の刑に処されて殉教したのでありました。これが今日最もよく知られるペトロの最期であります。この挿話の信憑性も本書簡の執筆年代の正確なるところも未詳ですが、特に疑を呈す材料も考えもないので、長く信じられてきた「著者:ペトロ(シルワノ代筆)、時代:64年、場所:ローマ」という言説に首肯してまったく差し支えない、と考えます。
 寄留地に於ける離散ユダヤ人が被っている抑圧と排斥に対して、励ましと慰めをもたらすのが本書簡であります。その内容の主たるところを引用という形で示しましょう、──
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペト一1:8-9)
 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(ペト一3:21)
 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(ペト一4:12-14)
 ……当初は続く「ペトロの手紙 二」と併せて〈前夜〉の稿を起こすつもりだったのですが、考え直して双方の書簡に個別に〈前夜〉を付す考えに改めました。何をか況んや、というところでしょうが、つまり従来通りの方法に落ち着いた、ということであります。
 それでは明日から1日1章の原則で「ペトロの手紙 一」を読んでゆきましょう。◆

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