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ペトロの手紙・二 ブログトップ

〈ペトロの手紙・二第3章:〈主の来臨の約束〉withプロコの《ロメ・ジュリ》を聴きながら、「ペト二」読了の挨拶。〉 [ペトロの手紙・二]

 ペトロの手紙・二第3章です。

 ペト二3:1-18〈主の来臨の約束〉
 わたしはあなた方宛の2度目の手紙を書いています。なぜならば、聖なる預言者たちがかつて民へ語った言葉と、使徒たちが伝えた救い主キリストの掟を思い出してほしいからです。
 待てど暮らせど予告されている主の再臨が実現しないことについて、肉の欲望の赴くままに生活する口さがない者らが嘲っています。が、かれらは認めようとしないだけなのです。天は太古の頃より存在したことを。地は水を元として造られましたが当時の世界は洪水で滅びたこと、現在あるこの世界に於いて天と地は、御言葉によって終末の日に不道徳な者らが裁かれるときまで維持されるのです。
 主の許では1日は1,000日に等しく、主の許では1,000年は1日に等しい。再臨について、「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペト二3:9)
 すべてのものは滅び去る、と決められています。終末の日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽きて熔け去ることでしょう。なのであなた方は聖なる者として信心深い生活をしなくてはなりません。われらは義の宿る新しい天と新しい地を神から約束されていて、それを待ち望んでいるのです。
 兄弟たちよ。なんの瑕疵もなく、平和に過ごしていると神に認めてもらえるよう励みなさい。われらが主キリストの忍耐強さと救いを考えなさい。
 パウロが諸方へ書き送った手紙のなかにはちょっと難しくて、これはどういうことなのだろう、と小首を傾げてしまうところが散見されます。心の定まらない人はそうした箇所を聖書の他の部分同様に曲解し、自らの滅びを招いてしまっている。
 「愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。」(ペト二3:17)
 主キリストの恵みと知識によって成長してください。
 キリストに栄光あれかし。アーメン。

 再臨は遅れているけれど必ずそれは実現する。だからあなた方は信徒として為すべきを為し、努めるべきを努め、心身を清らかにしてその日を待っていなさい。──信仰の維持と待ち望む励ましの呼びかけを以て本書簡は擱筆されました。
 〈前夜〉で書き洩らしたのですが、〈パウロ書簡〉に触れた箇所。本書簡の著者の手許にパウロが書いた手紙が集まっていたのは事実の様子。が、それは新約聖書に収まる〈パウロ書簡〉すべてであったのか、それともその一部か、もしくは〈パウロ書簡〉に収まる手紙と散逸した手紙双方を著者は入手していたのだろうか。定かではありません。
 加えて、〈パウロ書簡〉が旧約聖書のように神に啓示を受けて書かれたものとして扱われているフシがあります。実はこの〈パウロ書簡〉の扱い方が、本書簡の執筆年代を、ペトロ殉教後の1世紀後半から2世紀初頭と考える所以なのであります。ペトロ存命中にパウロの手紙が聖書と同等に扱われるだろうか? そんな疑問の発生から、本書簡がペトロ殉教した後に所謂ペトロ派の誰彼がその名を借りて、キリスト再臨の遅延と偽預言者が出現した際の警告を柱とする本書簡を認めたのだ、と考えられたのであります。
 ああ、わたくしが生きている間にタイムマシンが発明・実用化されたら、そうして運用の安全が確認されたらば、ナザレのイエスの生涯をつぶさに見、その復活の真なるか否か、そうして使徒たちの行く末を観察すると共に、新約聖書に収まる書物群の著者や執筆年代と場所を知りたいものであります。

 本日の旧約聖書はペト二3:5と創1:1及び9、ペト二3:6と創7:21-23。



 クラウディオ・アバド=ベルリン・フィルによるプロコフィエフのバレエ組曲《ロメオとジュリエット》を聴きながら本稿擱筆。このあとは同コンビによる最後のコンサート、メンデルスゾーン《真夏の夜の夢》とベルリオーズ《幻想交響曲》を聴きます。
 いやぁ、しかし。新約聖書の読書もここまで来ると、もはや一書が読了するごとに新たに湧いてくる感慨なんて殆どないんだよねぇ、というのが本音です。そのたびごとに胸を占める思いはあるのですが、いまはひたすら前進。
 が、それでも──
 読者諸兄よ、常と変わることなき支援と閲読をありがとうございます。姿も名も知らないあなた方のお陰で、わたくしは日々文章を書き、本ブログの更新を続けられている。こんなに幸せなことはない。読者なくしてなんの読み物でしょう?
 残り数ヶ月となりますが、これからもどうぞ宜しくお願い致します。◆

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〈ペトロの手紙・二第2章:〈偽教師についての警告〉with毎日更新のホントの裏事情。〉 [ペトロの手紙・二]

 ペトロの手紙・二第2章です。

 ペト二2:1-22〈偽教師についての警告〉
 かつて民のなかに偽預言者がいたように、やがてあなた方のなかに偽教師が現れるでしょう。かれらは滅びをもたらす異端を密かに持ちこみ、贖い主キリストを拒絶します。そうして多くの人がかれらの淫らな生活を模倣し、自分たちの内にある真理の道をゆがめてしまうのです。欲深なかれらはあなた方を喰い物にしようとしているのであります。が、ご安心ください。偽教師への裁きは遅滞なく実行されますから。
 神は公正な裁きを行います。ノアの時代の洪水では不信心で不道徳な者らを滅ぼして義の人ノアとその家族のみを生かしました。ソドムに暮らす罪深く、ふしだらな生活を送る者どもを町ごと硫黄の火で滅ぼして、そのなかに在って正しく生きたロトを助けました。
 「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」(ペト二2:9-10)
 不義を行う者はそれに相応しい裁きを受けます。偽教師たちは心の弱い人を巧みに誘惑してゆきます。かれらの心は強欲に溺れています。かれらは呪いの子なのです。正しい道から離れて彷徨い歩くかれらは、モアブの預言者バラムと同じ末路を辿るのです。
 かれらはキリスト者を信仰から引き剥がして、肉の欲や淫らな楽しみで誘惑する。自分たちが滅亡の奴隷である、とわかっているのでしょうかね。
 キリスト者となって罪を清められ、せっかく信仰篤くなって世の汚れから逃れられたと雖も、偽教師たちによって以前の状態に戻ってしまうなら、事態は更に非道いものとなります。「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(ペト二2:21)

 本章を読んでいると、偽教師による誘惑に打ち勝つのはなかなか困難なようだ、との印象を受けます。一旦は信徒になりながらも屈して以前の生活、否、それよりも悪い生活へ戻ってしまう人がいることに、納得、納得。大変な思いをして<上>に至っても転落するのは簡単だ、ということでしょうか。ペト二2:22で引用された2つの諺はそれを雄弁に語っております。
 「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」
 「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」

 本日の旧約聖書はペト二2:5と創6:9及び11-13並びに同7:6-24、ペト二2:6-8と創13:12-13及び同19:全節、ペト二2:15-16と民22:4-35、ペト二2:22と箴26:11。
 モアブの預言者バラムの挿話は民22-24章に及ぶ。



 暑さにめげず、疲労を友に、一時怠けがちだった本ブログの原稿書きと毎日更新を一所懸命に行っている。直接わたくしを知る知己の人々は「また頑張り始めたね」と声をかけてくれる──ありがたい限り。
 どうしてまた頑張り始めたのか、その真意を知る人は、ところでどれだけいるのか。つまりは1日も早い完結目指して、疲れた体と脳みそに鞭打っている結果だ。前にも述べたが、今秋の完結が視界に入った以上は、<その日>の訪れを実現させるため一層の奮闘に努めるのは当然だろう。
 が、実は片手で数えられる程の人しか知らない。今秋、おそらくは9月──15年目の“9.11”に間に合えばいいけれど、それは難しいかな──の本ブログ完結後、わたくしがどこへ行こうとしているのか、を。
 知りたい? じゃあ、教えてあげる。では、有効期限内、無記入のジャンボ宝くじ1等の当選券3枚を(無条件で)わたくしにください。モナミ、なにかためらうことでも?◆

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〈ペトロの手紙・二第1章:〈挨拶〉、〈神のすばらしい約束〉&〈キリストの栄光、預言の言葉〉with本の話と機械的な日々。〉 [ペトロの手紙・二]

 ペトロの手紙・二第1章です。

 ペト二1:1-2〈挨拶〉
 われらが神と主キリストの義によってわれらと同じ尊い信仰を受け入れたあなた方へ、イエス・キリストの僕にして使徒であるわたしシメオン・ペトロが手紙を書き送ります。
 どうぞあなた方に平和と恵みが豊かに与えられますように。

 ペト二1:3-15〈神のすばらしい約束〉
 主イエスは命と信心にかかわるすべてのものを与えてくれました。というのも、栄光と力ある業とで召し出してくれた方を認識させるためです。この栄光と力ある業とによって、神はわれらへ素晴らしい約束を与えました。神の本性にあずからせるためです。
 信仰。徳。知識。自制。忍耐。信心。兄弟愛。そうして、愛。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなた方は怠惰な生活に染まることなく主キリストを知るようになるでしょう。
 逆にこれらを備えていない者は視力を失っているも同然です。地殻の者が見えず、以前の罪が清められたことを忘れた者たち……。
 ああ、兄弟たちよ。選ばれたこと、召されたことを誇りに思いなさい。それを確固たるものとするよう励みなさい。上に述べた事柄を実践すれば、罪に陥ることなどゆめありません。斯くしてわれらは救い主キリストが滑る永遠の御国へ入ることができるのです。
 わたしの望みは、以上のことをあなた方が思い出してくれること、それによって奮起してくれることです。それが、この体をこの世の仮の宿としている間に果たすべき役目である、と思うています、──
 「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。」(ペト二1:14-15)

 ペト二1:16-21〈キリストの栄光、預言の言葉〉
 われらはキリストの栄光を伝えるために話を創作したことはありません。そんな必要があったでしょうか、われらはキリストの栄光の目撃者なのに?
 かつてわたしペトロはヤコブとその兄弟ヨハネと一緒に主に伴われて、聖なる山へ登りました。そこでわれらは荘厳なる栄光のなかから「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が響くのを聞きました。そのとき主は父なる神から栄光と誉れを受けたのです。
 「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(ペト二1:19-21)

 昨日、本書簡の執筆年代についてペトロ真筆ならば64年頃、と記しました。本書簡のなかにその根拠を求めれば、ペト二1:14「この仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」なる一文がそれとなる。一旦は離れたローマへ戻って逮捕されたあと、手紙を認める余裕があったとは思えません。
 パウロはローマへ護送されたあと丸2年にわたって軟禁状態となっており、その間伝道に努めた旨「使徒言行録」にありますが(使28:30-31)そうですが、当時のパウロとこのときのペトロとでは置かれた状況が随分と異なります。
 為、本書簡はローマを離れる直前のペトロが逮捕の不安に怯えつつ、命の危険を感じつつ、筆を執って、要点を絞って書いたものなのでありましょう。ペトロの最後の聖訓、と捉えてよいと思います。
 後半でペトロが回顧する、イエスに連れられて聖なる山に登り、そこで声を聞いたという件。これは共観福音書にある挿話で、マタ17:5-6、マコ9:7-8、ルカ9:34-36に記載があります。なお、ここでいう「聖なる山」(ペト二1:18)とはタボル山もしくはヘルモン山と考えられています。



 相も変わらず米澤穂信を読んでいる。『さよなら妖精』を読了したいまは『王とサーカス』(東京創元社)。『さよなら妖精』に登場した太刀洗万智が主人公の長編小説で、ようやく物語が本格的に始動してきたところだからなんとも判定しかねるが、なかなか面白くて短い時間のなかページを繰る手が止まらなくて、困る。
 渡部昇一だったかな、恩師に流行りの小説を貸したところ、こういう面白い本は寝不足になってよくないね、と著書で綴っていたのは。昨今この言葉をこうも実感させる小説と出会うたことはない。そんな意味では僥倖ともいえる1冊。
 なんだかね、本を読んでいるときとこうして文章を書いているときだけが安堵できる、救いの時間なんだ。あとの時間はずっと煉獄の炎で焼かれている気分ですよ、はい。
 顧みればわたくしのちかごろの行動は判で押したように穏やかで、機械的だ。本音をいえばあまりの刺激のなさに溜め息吐いてしまう。が、わたくしには<ピース>を欠いた人生しかないのである。腫れ物に触るような感じで扱われ、終には「こんなはずではなかった」と呟きながらこの世を去るのだろうね。まぁ、どうでもいい話なのだけれど。誰しも望んだ人生を謳歌できるわけでもないから、仕様がないか。
 暗い話はここまで。というて、明るい話が始まるわけでもない。それよりなにより、もうすぐ終わる。
 いま読んでいる本について触れた。待機中の米澤穂信は他に3冊ある。冊数が膨れあがったことは想定外、ゆえに予定も大きく遅れが生じているわけだが、これについて特に沙汰する気はない。喜ばしき時代が出来した、と思えばそれで良いのです。更なる想定外として特記することがあるとすれば、宮部みゆきの時代怪談が4冊ばかり加わったことかしらん。んんん、ゴールとして用意した畑野智美『海の見える街』(講談社文庫)に辿り着くのは、いったいいつのことなのだろうね、モナミ? 今年の読書予定リストには明日明後日中に有川浩の新刊『アンマーとぼくら』(講談社)が追加されるというのに……。
 さて、朝から降っていた雨があがった。現在21時23分(注:本稿入力時点では22時01分)。<スタバでMac>してから家路に着くか──。◆

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〈「ペトロの手紙 二」前夜〉 [ペトロの手紙・二]

 聖書ではたびたび偽預言者、偽教師について注意が喚起されてきました。たとえば旧約では王上18:1-40やエレ14:13-16、新約ではマタ7:15やマタ24:11などがありました。これから読む「ペトロの手紙 二」(「ペト二」)が取り挙げる話題の中心となるのも偽教師への警戒を促すものです。曰く、偽教師が現れて信徒を惑わそうとしている、かれらの言葉に耳を貸すことなく信仰を純粋なまま持ち続けよ、と。
 ふしぎなことに大衆は偽者の言動を支持し、これへ右に倣えする傾向があります。なにを以て偽者というか、対象が一個人の思想や行動にかかわると一概に規定はしづらいですが、本ブログの場合それはキリストの福音や再臨を否定する者、ということになる。
 これまではかれらの存在に気を付けよ、という程度のことだったのが、本書簡と、読むのは2週間ばかり先になるけれど「ユダの手紙」ではいよいよかれらの存在が具体的になってきたようで、両書簡にて触れられる偽教師に対する警告は以前よりも微細にわたっております。逆の見方をすれば、手紙の著者が仄聞した偽教師の評判は無視できないぐらいのものとなっていて、その人心掌握術はじゅうぶん警戒に値するものだったのでしょう。
 本書簡は1章につき1つのテーマが語られているので、そうした点では非常にわかりやすく全体を俯瞰することができます。「ペト二」で語られる内容は3つに大別できる。1つは、キリストを通して与えられる神の約束。1つは、前述の偽教師への警戒。最後に、キリストの再臨。
 ここでは3つ目についてちょっと触れておきます。かつてはキリストの再臨がすぐにでも実現する、と考えられていた時代がありました。それは概ね第一次ユダヤ戦争に於ける70年のエルサレム陥落を1つの区切りとして、信じられていたようであります。が、時間が経つにつれ、時代が下るにつれ、初めは再臨を信じていた人もだんだんと疑心暗鬼になってゆき、終いにはペト二3:4のような台詞を吐くに至るのであります。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」
 この点について本書簡が述べるのは、「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(ペト二3:9)ということ。要するに「準備中」という名の「保留」であります。
 未だ実現しないキリストの再臨は、それでもやがて果たされる約束なのだから、自分たちの信仰を大切にし、その堅固な足場を失わないようにして、神に認めてもらえるよう信徒として為すべきを為して励め。──本書簡は最後にそのようなメッセージを伝えて〆括られます。
 では、本書簡はいつ、どこで、誰によって書かれたのでしょうか。実はここが問題なのです。昔から様々論じられてきましたが、概ね以下の2つの考えにまとめられるようであります。箇条書きにすれば、──
 ①「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロ」(ペト二1:1)によって64年頃、おそらくはローマで書かれた。
 ②ペトロ派の人物によって1世紀後半(70年以後)から2世紀初頭にかけて、どことは推定しかねる場所で書かれた。
 前者はともかく後者については、「ユダの手紙」が大きく関係してきます。というのも、「ペト二」と「ユダ」には偽教師への警戒というテーマが重複しており、新約聖書外典を出典とした文言があってそれが似通っているから、というのです。浅学のわたくしには原典にあたって影響関係など指摘できないのが残念でなりません。が、フランシスコ会訳の両書簡の解説をまとめると、──
 ・ペト二2-3(特に2:1-18,3:1-3)とユダは非常に似ていて、「ペト二」は「ユダ」もしくは共通の資料に依存している、と考えられる(P648)。
 ・「ペト二」と「ユダ」は近しい思想を持っており、「ユダ」には外典「エノク書」からの引用が多いので、それを踏襲した「ペト二」は「ユダ」よりも後の時代に成立。「ペト二」の著者は「ユダ」を参考にした(P681)。
 つまり「ユダ」は「ペト二」に先行し、「ペト二」は「ユダ」に依拠している(部分がある)、というわけです。
 正直なところ、なにが正しいのかはわかりません。考える程深い霧の更に奥つ方へ迷いこんでゆく思いが致します。偽教師の出現について「ペト二」は未来の出来事として語り、「ユダ」では既定の事実として語られていることを見れば、成立年時は①と見るのが妥当でありましょう。が、それだけでは片附けられない問題が潜んでいるのも事実。ただわたくしはこの件について、「ペト二」が「ユダ」に依存しているというよりは、時代と場所を隔てて偶々同じ話題が扱われただけのように思えてならないのです。
 「ある章句が極めて類似しているので、一方が他方を模倣したと考える学者もいる。だがそのように結論づける必要はない。使徒たちは常に互いの話すことを聞いていたし、ある一定の表現や聖書の例話は、キリスト者の共通の語彙の一部となっていたのである。聞くことと記憶することと非常に頼る文化においては特にそうであった」(ヘンリー・H・ハーレイ『新聖書ハンドブック』P879 いのちのことば社 2009.5)
 ……わたくしはハーレイの言葉を支持し、首肯する者であります。
 最後に本書簡の宛先ですが、「ペト一」と同じく小アジア中央部から北部一帯の教会、そうして信徒と考えてよいと思います。「わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いています」(ペト二3:1)とあるからです。
 読書に先立って本書簡から真に心へ留めておくべき文言を引用しておきます。
 「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(ペト二1:20-21)
 「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。/彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」(ペト二2:9-10)
 それでは明日から1日1章の原則で「ペトロの手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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