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〈ユダの手紙:〈偽教師についての警告〉、〈警告と励まし〉他with「ユダ」そうして書簡群読了の挨拶。〉 [ユダの手紙]

 ユダの手紙です。

 ユダ1-2〈挨拶〉
 イエス・キリストの僕にしてヤコブの兄弟ユダから、キリストに守られ召されたあなた方へ。憐れみと平和と愛のあらんことを。

 ユダ3-16〈偽教師についての警告〉
 わたしはあなた方に、聖なる者たちへいちど伝えられた信仰のために戦いなさい、と奨めます。むかしから出現が噂されていた不信心者どもがいまやあなた方のなかへ紛れこみ、あなた方の生活や信仰をその基から揺さぶり、かき乱そうと画策している。「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え」(ユダ4)て、かつキリストを否定しています。
 いまいちど思い出してほしい。神は自分の民をエジプトから救い出したが、民のうちで自分を信じない者を滅ぼしました。己の領分を守らなかった天使たちを永遠の鎖で縛り、大いなる裁きの日のため暗闇のなかに幽閉しました。ソドムとゴモラ、その周辺の町々は淫らな行いに耽り、ふしだらで自堕落な肉の欲を求めた結果、永遠の火の刑罰によって消滅し、その名はいまも見せしめとしてあり続けています。
 あなた方のなかに紛れこんだ夢想家たち──偽教師たちも以上のような連衆と同じく、身を汚し、権威を認めず、栄光ある人々を嘲ります。「この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。」(ユダ10)
 かれらは不幸です。<カインの道>を辿り、金銭を求めて<バラムの迷い>に陥り、<コラの反逆>によって滅びてゆくのですから。
 「こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。」(ユダ12-13)
 アダムから数えて7代目にあたるエノクも、不信心者に対する主の裁きについて述べています。
 わたしはあなた方にいいます、──
 「こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。」(ユダ16)

 ユダ17-23〈警告と励まし〉
 どうか愛する人たちよ、前以てキリストの使徒たちが語ったことを思い出してほしい。かれらはいいました、終わりの時には信仰ある人を嘲る者らが現れて不信心に基づく欲望のままに行動する、と。
 件の夢想家/偽教師どもはあなた方のなかに紛れこんで、あなた方の結束を見出し、煽動と分裂に奔走する、悪意と邪心に漲った、霊を持たない連衆です。あなた方はかれらを、異端分子を、1人残さず排除すべきです。そうしなくてはなりません。
 どうか愛する人たちよ、「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」(ユダ20-21)
 疑いを抱く人たちを憐れみなさい。じゅうぶん用心しながら他人を憐れみなさい。肉によって汚れた者らの下着にすら手を触れてはなりません。それを忌み嫌え。

 ユダ24-25〈賛美の祈り〉
 われらが救い主たる唯一の神にわれらが主イエス・キリストを通して、栄光と威厳、力と権威が、いついつまでもあり続けますように。永遠のむかしから現在に至るまで、そうして遙かなる永遠の未来まで。アーメン。

 引用したユダ12-13は、割と手厳しい調子の目立つ本書簡のなかでも際立ったもので、凄まじき罵りの言葉に思わず身震いしてしまいます。お前なんざゴミ以下だ、アメーバ以下だ、バクテリア同然だ、って感じでね。同じぐらいに「!」としか申しあげるより他ないのが末尾ユダ23であります。下着にすら、とは……思春期の娘が父親の洗濯物を箸でつまむわけでもあるまいに……。
 コラは荒れ野を彷徨うなかモーセとアロンに反逆した1人で、裂けた大地に家族諸元呑みこまれて落命した人であります。
 ──ところで、外典と偽典について私見をまとめておきたく思います。
 まず、正典がある。旧約聖書に収められる39の書物、新約聖書に収まる27の書物が正典。これらがいつ、どのような過程で正典として認められ、<聖書>の名の下に綜合されたかについては、機を改めて本ブログにてお伝えしましょう。
 外典とは、正典とは認められないがそれに準ずる位置を占めるもので、旧約聖書続編としてまとめられる13の書物のうちギリシア語とラテン語それぞれによる「エズラ記」と「マナセの祈り」を除いた10の文書をカトリック教会では第二正典とし、2つの「エズラ記」と「マナセの祈り」を外典と呼ぶ。続編の書物群についてプロテスタント教会では価値を認めて外典として扱うところもあれば、価値を認めず無視するところもあるという。なお、フランシスコ会訳聖書では旧約聖書続編に収められる各書物を旧約聖書正典のなかに交えて載せております。
 一方、偽典とは旧約聖書の正典とも外典とも扱われない、しかし聖書にかかわる宗教的文書を指す。本書簡に即していえば『モーセの昇天』と『第一エノク書』が相当します。が、時代や風潮によって外典と偽典の境界や概念は変化する。これらはあくまで私見であることを忘れないでいただきたい。I think so.
 ユダ9と同14-15はこの2つの偽典を典拠とした箇所です。前者は『モーセの昇天』から、後者は『第一エノク書』から。
 『モーセの昇天』は1世紀後半に成立したとされ、元はアラム語かヘブライ語で書かれていたようですが、現存するのはギリシア語から重訳したラテン語写本のみとぞ。旧約聖書偽典の1つで黙示文学に属します。内容はモーセが後継者ヨシュア相手に話すイスラエル民族の未来史であり、バビロン捕囚やハスモン王朝の誕生、ヘロデ王の暴虐、ローマによる支配などを経て神の国到来まで述べられたところで筆が擱かれる。
 『第一エノク書』は『エチオピア語エノク書』とも呼ばれ、前2-1世紀に成立したとされる。これも旧約聖書偽典の1つ。初期キリスト教会、牧者や信徒たちの間では広く読まれた様子で、聖書を読みながら参考文献を繙いているとその名を目にすることの多い書物だ。ユダ14-15は『第一エノク書』第60章第1節と第1章第9節に拠っているそうだが、惜しくも未見未読、こんど図書館にこもって確認してきます。
 また、ユダ6にある鎖につながれて幽閉された天使たちの挿話は、この『第一エノク書』に詳しく載る由。
 以上、感想の場を借りて外典と偽典について備忘として記した。以前より機会を得て書いておきたい、と願うていた話題であったので、簡単ながら筆を執ることのできたことを感謝します。

 わたくしは本書簡、「ユダの手紙」を好む。下卑た悪意と蔑みで徒党を組み、排斥せんと欲して煽動を繰り返す衆に抗う縁として。
 ここでもまたわたくしは呟かねばならない、味方以外はすべて敵である、と。誤りはあるだろうか?

 本日の旧約聖書はユダ5と出12:51及び民14:29-33、ユダ6と創6:1-4(ex;二ペト2:4)、ユダ7と創19:1-29、ユダ11aと創4:8、ユダ11bと民22:4-35(ex;二ペト2:15-16)、ユダ11cと民16全節、ユダ14と創5:18及び同22-24。



 「ユダの手紙」を読み、考え、ノートを擱筆したことで公同書簡、そうして新約聖書の2/3弱を占める書簡群の読書は、本日を以て完了となります……が、ふしぎとなんの感情も湧いてきません。大きな区切りをぶじ迎えられた喜びも、10ヶ月ばかりを費やして読了した達成感も、なにも。あるとすればただ1つ、それは、すべてへの感謝の想い。失笑する勿れ、この感慨は真実である。
 足掛け8年、実質7年の長きにわたる聖書読書も間もなく終着点。暗黒の塔を一面の薔薇野原の向こうに聳えるのを発見したローランドにわが身をなぞらえたい気分……とは、さすがに救われない喩えか。しかし、ヒルティの言葉を借りれば斯くいえよう、わたくしの前にはただ希望のみが広がっている、と。そう、何だ彼だで残る書物はあと1つだけなのだ。
 最後の日にラッパは鳴らされるか。終末を告げるそれではなく、ゴールを高らかに喧伝する妙なる祝いの音色。そのとき、わたくしのなかを通り過ぎていった人はよみがえって微笑むか。そのとき、わたくしは涙するか。しとどに流れて頬を濡らせ、涙よ。
 新約聖書唯一の黙示文学「ヨハネの黙示録」の読書は終戦記念日をメドに始める予定であります。読者諸兄よ、そのときまで健やかであれ。◆

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〈「ユダの手紙」前夜〉 [ユダの手紙]

 今回読む「ユダの手紙」は公同書簡最後のものであると同時に、パウロ著「ローマの信徒への手紙」に始まった書簡群の掉尾を飾る手紙でもあります。
 わたくしは以前書いた〈「二ペト」前夜〉に於いて、「ペトロの手紙 二」と「ユダの手紙」では偽教師への警戒というテーマが重複しており、外典『第一エノク書』を援用した文言が見受けられる、と述べました。また、両書簡は思想の上でも近しい関係にある、とも。偽教師の出現について一言すると、「二ペト」では近い未来の出来事として語られ、「ユダ」では近過去もしくは現在の出来事として語られています。
 両書簡が内包する種々の事柄を検討すると、「二ペト」は「ユダ」よりも後の時代に、それを参考として書かれた、と考えるのが一般的であるようです。が、果たしてそうなのでしょうか。「二ペト」と「ユダ」は皆がこぞって指摘したがるような依存関係にあるのでしょうか。偽教師の出現や異端思想との接触によって揺れる教会や信徒たちへ向けて筆が執られた、というその目的と背景が共通するならば、書かれた時期や宛先が違っていたとしても、手紙で語られる内容は自ずと類似するものではないでしょうか。そうわたくしは考えるのであります。
 「ユダの手紙」は公同書簡の中でも旧約聖書の内容を踏まえた記述が目立ちます。と同時に外典からの援用もはっきりした形で見受けられます。たとえばユダ9は『モーセの昇天(ギリシア語断片)』を、ユダ14は『第一エノク書』を下敷きに書かれています。この点については本文を読む明日に改めて述べると致しましょう。
 本書簡の著者はユダとされます。使徒ユダではなく主の兄弟ユダ。ユダ1ではヤコブの兄弟と自己紹介しますが、ヤコブは「ヤコブの手紙」の著者であり、そうして主イエスの兄弟でした。必然的にユダもイエスの兄弟の1人となります。
 これが書かれたのは1世紀後半、およそ80年代であろう、とされます。ユダもエルサレム教会の一員で牧者として信徒を束ね、指導したけれど、60年代後半に勃発した第一次ユダヤ戦争によってエルサレムは第二神殿を失い、町も壊滅状態となりました(70年)。80年代は廃墟となったままですから、執筆された場所がエルサレムであるとは考えられない。この点を推理するためにはユダの生涯の伝承を知る必要がありましょうが、あいにくとまだそこまでの調査はできていないのです……。ユダが足跡を残したローマ帝国領内の町や村のどこか、としかいまはお伝えできません。
 「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」(ユダ7)──なぜこの箇所を引用したか、おわかりになりますか、ヴ(vous)?
 それでは明日、「ユダの手紙」を読んでゆきましょう。◆

 追伸
 今回はちょっと難儀しました。□

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