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第2369日目 〈ヨハネの黙示録第22章:〈新しいエルサレム〉2/2&〈キリストの再臨〉with終わりの言葉、感謝の言葉、いつものエッセイ。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第22章です。

 黙22:1-5〈新しいエルサレム〉2/2
 わたしは視た、神と小羊の玉座から水晶のように輝く命の水の川が流れ出るのを。天使がわたしにそれを視させたのである。
 その川は都の大通りの真ん中を流れ、両岸に命の木が植えられていた。命の木は年に12回、実を結ぶ。毎月、実がみのる。命の木の葉は諸国民の病を治す。
 「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」(黙22:3-4)
 ──いまや夜も昼もなく、月も太陽もない。灯し火も不要である。神なる主がわれら僕を照らし、世々限りなく統治するからだ。

 黙22:6-21〈キリストの再臨〉
 天使がいった、──
 「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」(黙22:6-7)
 これらを視て、これらを聞いたのは、わたしヨハネである。わたしはこれらのことを示した天使にひれ伏そうとした。が、天使はそれを留めた。自分もあなた方同様、仕える者なのだから、とて。
 天使がいった、──
 この書物の預言の言葉を秘密にしていてはならない。時は迫っているからだ。不正を行う者、汚れたる者は、更に不正を重ね、また汚れよ。正しい者は更に正しいことを行い、聖なる者はなお聖なる者となるよう努めよ。
 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」(黙22:12)──わたしはアルファでありオメガである、最初の者にして最後の者である、初めであり終わりである。
 おお、命の木に対する権利を与えられ、門をくぐって都へ入ることができるよう自分の衣を洗い、清める者は幸いである。かれらのように出来ない衆は都の外にいるしかない。
 わたしイエスは天使を派遣し、諸教会のために以上の諸々のことをあなたに証しした。わたしはイエス、ダビデのひこばえにしてその一族の者、そうして明けの明星である。
──天使、否、イエスはわたしにそういった。
 「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙22:18-19)
 すべてを証しする方がいう、わたしはすぐに来る、と。アーメン、どうぞすぐに来てください、主イエスよ。
 「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(黙22:21)

 使徒ヨハネに幻視させ、また語りかけていたのは、そうか、イエスであったのか。どこからイエスの語りかけであったのか、定かでないけれど、個人的にはそれゆえにすべてが符合、すべてに納得。
 〈キリストの再臨〉まで読んだことで確信できたのは、「ヨハネの黙示録」が実際はこれ以上は恃むべくもない「希望」の書物である、ということでした。ホロコーストは世界の新生──永遠の神の国の訪れと小羊が照らす世界が出現するための通過儀礼なのでした(勿論、現実にそれを行う者あらば困った事態になりますが)。
 そんな視点で改めて聖書を読み返すと、旧約・新約の別なく、聖書は<一時的な希望>と<窮極的な希望>、双方を物語ってきたことに気附かされます。一時的な希望とは状況の変化を望むことをいいます。そうして窮極的な希望とは、本章で感動的に予告された〈キリストの再臨〉、就中黙22:20「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」を指すことになります。

 本日を以て「ヨハネの黙示録」、新約聖書、聖書全巻の読書を終わります。
 読者諸兄よ、今日までの閲読、愛顧、支持に感謝致します。ありがとうございました。
 あなた方に愛と平安あれ。微笑みあれ。



 昨日、宮部みゆきの『あやし』を読んでいる、と書きながら、未読の山が消化されたら改めてこの人の小説を10数冊ばかり読み耽ってみよう、と考えていました。自分の文章に影響されちゃった? ああ、多少なりともね。
 本稿はこの1週間、すっかりご無沙汰になってしまった、先週までは頻繁に通っていた市内某所のスターバックスに約5時間ばかり居坐って(申し訳ない。この間、コーヒー4杯とシフォンケーキ、ドーナツを消化……)モレスキンで書き、MacBookAirで清書しておりますが、これの予約投稿が済んだらブックオフ2軒を回って、気になった宮部みゆきの文庫を買いこんでこようと思います。
 中居正広が紹介したことで今更ながら歌野晶午や東野圭吾も読みたいしね。嗚呼、なんてこったい、どんどんスティーヴン・キングからは遠離るではないか……!?
 ──なんだか聖書読了の日にそぐわない、いつも通りのエッセイですな。◆



 追伸
 友らよ、グラウンドゼロに散った友垣よ。
 15年目のこの日に読み終えた。それをあなたに報告しよう。

 妻よ、妻となるはずだった人よ。
 ようやくこの日を迎えられた。わがポラリスにこれをささげよう。□

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第2368日目 〈ヨハネの黙示録第21章:〈新しいエルサレム〉1/2with宮部みゆき『あやし』を読んでいます。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第21章です。

 黙21:1-27〈新しいエルサレム〉1/2
 最後の7つの災い──神の怒りが盛られた7つの鉢を携えた7人の天使のうちの1人がわたしに近附いてきて、ここへ来よ、小羊の妻である花嫁を見せてあげよう、といった。
 「この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。」(黙21:10-11)
 花嫁エルサレムの都を件の天使が測量してみせた、手にした金の物差しを用いて。都は正方形で、長さと幅は等しい。測ると都の外側は12,000スタディオン、つまり約2,220,000メートルあった。長さと幅と高さは等しい。次に城壁を測ると144ペキス、つまり6,480メートルあった。天使が用いた物差しの尺度は、人間が使う物差しのそれと一緒である。
 城壁には12の門があり、それぞれに12人の天使がいる。門には天使1人1人の名が刻まれていて、それはイスラエルの12部族と同じだった。なお、門は東西南北、各方角に3箇所ずつ設けられている。
 城壁それ自体は碧玉で作られている。そこには12の土台石が築かれており、それぞれに小羊の12使徒の名が刻まれてあった。土台石はそれぞれが異なる宝石で作られていた。第一の土台石から順番に、碧玉、サファイア、めのう、エメラルド、赤縞めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉、ひすい、青玉、紫水晶、である。序にいうと、城壁の12の門のそれぞれは1個の真珠で作られていた。
 都と、都の大通りは透き通ったガラスのような純金で出来ていた……。
 わたしは視なかった、都のなかに神殿があるのを。それは当然のことで、いまや最初のものはなく、神なる主と小羊とが都の神殿だからである。都を照らす太陽も明かりもいまや必要ではない。小羊が都の明かりだからだ。諸国民はその都の光のなかを歩き、地上の王たちは自分たちの栄光を携えて、ここに来る。12ある門は外へ向かって開けられていて、閉ざされることがない。いまや夜さえ存在しないからだ。
 人々は来る、諸国民の栄光と誉れを携えて、この都へ。が、汚れた者、忌むべき行いに耽った者、偽りを行う者が都に入ることはできない、誰1人として。例外はない。
 新しいエルサレムには、「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」(黙21:27)

 「エゼキエル書」に基づく新しいエルサレムの描写には悩まされました。唸りながらどうにか形こそ為したものの、結果は自分としても可不可の判断を下し難いもので……読者諸兄の判定を待つとしましょう。
 新しく出現した世界はまさしく<神の国>というに相応しい態を成している様子。すべては、(神とキリストの現出によって)それ自体が神殿と化したエルサレムを中心とし、全世界を照らす小羊即ちキリストの光のなかで運営されてゆくのです。
 城壁の土台石の1つを作る「かんらん石」は、鉄とマグネシウムを含むケイ酸塩鉱物。鉄かんらん石やマンガンかんらん石(テフロ石)など幾つかの種類があるけれど、黄緑色で短柱状な苦どかんらん石のなかでも特に純度が高く美しいものは、「ペリペット」という宝石名で親しまれている。これは8月の誕生石であります。

 本日の旧約聖書は黙21:6とイザ55:1、黙21:19-20と出28:17-20及び同39:10-13、黙21:23とイザ60:1-2。



 過去に読んだ覚えがある宮部みゆきの作品は極めて少ない。なにかの偶然によって先日から再び読むようになったのだけれど、当時はどうしてこの面白さ、この軽みに囚われなかったのかな、ふしぎに思い、小首を傾げている。
 彼女の時代物を読むのは今回が初めてだと思うのだけれど、人の心の機微というのをとても上手に書く人だったんだなぁ、と今更ながらに感嘆してしまった。いまは『あやし』(角川文庫)を読んでいる途中だが、現時点では全9篇のなかでは「影牢」と「安達家の鬼」がベストだ。時代小説と怪奇小説の今日的ハイブリッドとして、自分が小説を書くにあたっての手本としたいぐらいである。
 本書については後日、必ず感想文を書こう。そうしていつになるかはわからぬが、必ず本ブログにてお披露目しよう。
 次に読む<三島屋>シリーズも『あやし』のように楽しめればいいな。◆

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第2367日目 〈ヨハネの黙示録第20章:〈千年間の支配〉、〈サタンの敗北〉&〈最後の裁き〉with読了日を目前にして。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第20章です。

 黙20:1-6〈千年間の支配〉
 わたしは視た、底無しの淵の鍵と大きな鎖を手にした1人の天使が天から降って来るのを。この天使はかつてサタン、悪魔、年を経た蛇、様々に呼ばれた竜を捕らえて縛り、底無しの淵へ投げこんで鍵を掛け、封印し、1,000年の時が満ちるまで閉じこめた者である。天使はその1,000年が終わるまで、諸国民の上に災いが及ばないように、と竜を閉じこめたのであったが、1,000年が過ぎると竜は解放されることになっていた……。
 わたしは視た、裁くことを許された者たちが坐る多くの座を。また、イエスの証しと神の言葉のために死に追いやられた人々の魂も視た。かれらは獣を拝むこともその像を拝むことも、獣の刻印を押されることもなかった。かれらは生き返ってキリストと共に1,000年の間、統治することになる。これなん第一の復活といふ。
 「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」(黙20:6)

 黙20:7-10〈サタンの敗北〉
 さて、前述の1,000年が経ったので竜は──サタンは底無しの淵から解放された。サタンは諸国の民、ゴグとマゴグを誑かして集めた。集められた者らは軍勢となって地上の広い場所へ進み、聖なる者たちの陣営とかれらが愛した都を包囲、攻撃した。すると、天から火が落ちてきてサタンが集めた軍勢を焼き尽くし、滅ぼした。
 悪魔/サタンは獣や偽預言者同様、火と硫黄の池に投げこまれた。火と硫黄の池に投げこまれた者どもよ、夜となく昼となく、世々限りなく責め苛まされよ。

 黙20:11-15〈最後の裁き〉
 わたしは視た、大きな白い玉座とそこへ坐す方を。その御前からは天も地も逃げ出した。行方は杳として知れぬ。
 わたしは視た、大きな者も小さな者も玉座の前に立っている光景を。幾つかの書物が開かれた。それとは別に1つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちはこれら書物に記録された行いによって裁かれるのだった。
 海は自分のなかの死者を玉座の前に差し出した。「死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」(黙20:13-14)
 ……命の書に名のなき者は皆等しく火の池に投げこまれた。

 いわゆる<最後の審判>である。それは斯く始められ、斯く終わりとなった。もっと凄惨な場面、怖気を震わされる誘う描写を(期待半分に)思うていた方々、お生憎様。極めてヘヴィーなことは極めてシンプルに語られると知れ。これを指してアンチ・クライマックスと不平を洩らす衆よ、これが作劇術である。知恵と想像力を持って諸人よ、「ヨハネの黙示録」読書に励め。
 〈最後の裁き〉に於いて天と地は最早なく、やがて死も陰府も消えてしまう。残った海も黙21:1で「なくなった」と報告される。それまであった天と地が玉座、言い換えれば神の御前から既に消えているというのは、新しい天と新しい地が代わって世に現れるためであります(黙21:1)。と同時に「創世記」に於ける天地創造劇の逆再生を見る思いもするのだ、とここに告白しておきます。
 黙20:8に出るゴグとマゴグはエゼ38:2以下に基づく。マゴグはカスピ海と黒海の間、コーカサス地方の一部にあった国、もしくはこの地域の部族連合だろうか、と第1253日目の記事に書きました。いまから3年以上前に書いた記事です。そうして、ゴグ。それは、「メシェクとトバルの総首長」(エゼ38:2)とされる。メシェクとトバルはキリキア地方の国だ。「ヨハネの黙示録」で両者はサタンによって地上の四方から集められた、神への対抗勢力として登場するのは本章をお読みになればおわかりいただけるでしょう。つまりそれは「エゼキエル書」の描写に則って神に抗う勢力として描かれているのであります。

 本日の旧約聖書は黙20:8-9とエゼ38:2-16。



 15年目の9月11日に聖書全冊の読書が終わることを宣言する。明後日のことだから「宣言」というも空しいことだが。
 7年目の9月11日を前に覚えた胸騒ぎを鎮めるのが通読のきっかけだったわけだから、やはり9月11日を読了日とするのが道理だろう。──そうか、もうそんなに歳月は流れていたのか……。
 これまでに出会った人々は、いまいったいどうしているのだろう?◆

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第2366日目 〈ヨハネの黙示録第19章2/2:〈小羊の婚宴〉&〈白馬の騎手〉withお帰り、iPhone6S。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第19章2/2です。

 黙19:-10〈小羊の婚宴〉
 わたしは聞いた、玉座からの声を。神を畏れよ、神を讃えよ、大きな者も小さな者も等しくわれらが神を讃えよ。
 わたしは聞いた、群衆の和した叫び声のようなもの、多量の水の轟きや激しい雷のようなものがこういうのを。曰く、──
 ハレルヤ、全能者にしてわれらの神なる主が王になった。神の栄光を讃えよう。歌おう、喜びを! 「小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。/花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。/この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」(黙19:7-8)
 天使がわたしにいった、書き記せ、小羊の婚宴に招かれている者は幸いである、これは神の真実なる言葉である、と。
 わたしは思わず天使にひれ伏そうとした。が、天使はそれを留めた。あなたがひれ伏し、礼拝するべきは神のみである。わたしはあなた方イエスの証しを守る人々と同じで、仕える者なのだから。「神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(黙19:10)

 黙19:11-21〈白馬の騎手〉
 わたしは視た、天が開かれているのを。白い馬が現れた。乗り手は誰か、どのような者か。それは「誠実」と呼ばれ、「真実」と呼ばれる。正義を以て裁き、戦う。乗り手の目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴く。乗り手には、自分の他は誰も知り得ぬ名が記されている。纏う衣は血に染まっており。かの乗り手は「神の言葉」と呼ばれた。これに従うは白い馬に乗り、白く清い麻の布を纏った天の軍勢である。
 白の乗り手の口からは鋭い剣が出ていて、これで諸国の民を討ち倒す。白の乗り手は自ら鉄の杖を振るって諸国民を統治する。また、白の乗り手は自らぶどう酒の搾り桶を踏むけれど、そこで作られたぶどう酒には神の、凄まじく激しい怒りが詰まっている。白の乗り手、この方の衣と腿のあたりには「主の主、王の王」てふ名が記されていることを知れ。
 わたしは視た、太陽のなかに1人の天使が立つのを。わたしは聞いた、この天使が空を飛ぶすべての鳥にこう呼び掛けるのを。曰く、──
 「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」(黙19:17-18)
 わたしは視た、底無しの淵から這いあがってきたあの獣と、地上の王とその軍勢から成る連合軍が、白の乗り手とその軍勢に立ち向かうために集結しているのを。が、獣は捕らえられた。獣の前でしるしを行った偽預言者も捕らえられた。獣の刻印を押されたり、獣の像を拝んでいた者らは惑わされていたのだ、他ならぬこの偽預言者が行っていたしるしにより。
 「獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。」(黙19:20-21)

 かつて様々な書物のなかで予告されていた神なる主による裁き、顧みられることのなかった隅の親石即ちキリストが地上の王権に対して勝利を収めることが、つるべ打ちのように提示され、かつ具体化してきています。
 そうしてこれまでに読んだいろいろな場面や表現が、本章にて頻出するのにも気附かされます。黙19:15aと同1:16及び2:12(口から鋭い剣が出ている)、黙19:15bと黙同2:27(鉄の杖で治める)、黙19:15cと同14:19-20(ぶどう酒の搾り桶)がそうです。この傾向はまだ続き、こうした点からも本書が最後のコーダを築きつつあることを実感させられることであります。
 ただ記憶の残滓となっているだけあり、ずいぶんと探してしまいました。数日前に読んだ記憶が実は「ヨハネの黙示録」読み始めの頃であったり、少し前に読んだと思うたらつい2、3日前であったり、と、成る程、記憶とはまったく以て頼りにならぬ場合があるようです。
 ──花嫁として描かれるのがキリストなのは勿論ですが、〈白馬の騎手〉に出る白の乗り手もまたキリストのことでありましょうか。そうであってなんら矛盾するところはないと思います。
 引用した黙19:17-18は「エゼキエル書」に基づく表現であります。しかしながら意味するところは正反対でございまして、「エゼキエル書」で鳥が食べるのは神の民、意味するところは迫害であります。一方本書では獣に従う人々が鳥に食べられる、即ち裁きとなります。「ヨハネの黙示録」の著者が旧約聖書に精通しているとは何度もいうてきたことですが、この箇所を読んでいると精通しているばかりでなく、余程の文章の得手でないと斯様な視点の置き換えはできないだろう、と、その才に感服するのでありました。

 本日の旧約聖書は黙19:15bと詩2:8-9、黙19:5cとゼカ14:2-5及びヨエ4:2並びに同12、黙19:17-18とエゼ39:17-20。



 わがiPhone6Sに災い発生。昼休憩時、財布と文庫とスマホを持って外へ出た。EVホールにてスリープ状態を解除しようとしても、iPhone6Sはうんともすんとも答えない。どうしたことか。すはAppleタイマーの発動か。充電が切れたとは考えられない。もしそうならば、画面は沈黙したままではないはずだ。ホーム・ボタンを長押ししてもスリープ・ボタンを押し続けても、やはりいっこう反応はなく。カバンをロッカーにしまう際気附かぬうちに衝撃を与えてしまっていたか──否、同じくカバンに収まるMBAは正常に動作している……。
 研修が続くなか、iPhone6S本体がどうなったか、というよりも、なかのデータがどうなっているのかについての不安が高まり、胸の内を占めてきた。心配なのは連絡帳と写真とLINEだ。昨日はバックアップが取る時間を割けなかったのだ、わたくし側の一方的事情により。よりによってその翌日にこのトラブルだ。仕事は仕事と割り切ってみても、どうしても気に掛かってしまう。あなたの写真が消えてしまうのは身を切られるよりも辛い。そうなったらいったいわたくしはどうしたらいいんだい、モナミ?
 そうして定時になるやわたくしはいつものようにいそいそと退勤し、通勤で使うのとは別な地下鉄に乗って有楽町/銀座を目指した。この途中で行く手を阻む様々な出来事があったのだけれど、それらについての詳述は省こう。わたくしは無駄話が嫌いなのだ。呵々。
 ──ぴん、と来た方もおられよう、駈け込み訴えの先はApple Store銀座店。初めての聖地巡礼がこうした形で実現するとは思いもよらなんだ。
 汗たらたらの姿で店内に突入したわたくしは、勝手知ったる様子で1階の人混みを突破して、人待ち顔なEVを華麗にスルー。隅っこに設けられた階段で一気に4階、ジーニアス・バーへ。
 そこで修理の受付待ちの列に並ばされること約1分弱、一部が囓られたリンゴを控えめにあしらったネイビーブルーのTシャツを着た髭面好青年が近寄って来て曰く、どうしました? と。かくかくしかじかなのじゃ、とわたくしは伝える。すると青年はわがiPhone6Sを手にし、ホーム・ボタンとスリープ・ボタンを同時に長押しし始めた。それから約1分。それやったよ、と心のなかで呟きかけたわたくしの目前で、真っ黒だった画面に白いリンゴマークが誇らしげに浮かびあがったではないか!? ハレルヤ、奇跡は起こったのである。青年曰く、急激なシャットダウンがされた場合に起こりがちな症状であるらしいが、うむ、すまん、わたくしにはよくわからぬ。
 理由はともあれ、しかしわがiPhone6Sは治った。復活したのだ。よもやこれが日本時間午前2時からアメリカで開催されるイヴェントでのiPhone7発表に併せた、かれなりの抗議運動であったとは思えぬ。もしそうならば、このiPhoneはAIよりも遥かに人間に近く、また人間臭いといえるのではあるまいか。ファティマみたい? 嗚呼、残念ながらあすこまで優秀ではないし、自身愛情も寄せられぬ。
 ともあれ、お帰り、iPhone6S。データ消滅を免れたことに喜びを。そうして感謝を──Apple Store銀座店の青年、ジャック・バウアー似の貴男へ。かれの手はマジック・ハンド。かれはハンド・パワーの持ち主じゃ。◆

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第2365日目 〈ヨハネの黙示録第18章&第19章1/2:〈バビロンの滅亡〉with未だここでお披露目されざるエッセイ群について。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第18章と第19章1/2です。

 黙18:1-19:4〈バビロンの滅亡〉
 わたしは視た、大きな権威を有する別な天使が天から降ってくるのを。その栄光によって地上は輝いたのだった。その天使が叫んで曰く、──
 倒れた、大バビロンが倒れた。そこはあらゆる汚れた獣の巣窟。すべての国の民は彼女の供するぶどう酒に甘え、すべての国の王は彼女と淫らな行いに耽り、すべての国の商人は彼女の供する贅沢によって富を築いた。
 わが民、わが民、聞け、わが民。その災いに巻きこまれたりしないように。彼女の罪は積もり積もって天にまで届いている。神がその不義を覚えているからだ。彼女があなたにしたのと同じ罰を以て彼女に報いよ、報いる際は倍返しで臨め。彼女が心のなかでどれだけ自分を正当化しようと無駄である。
 「それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、/死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。/また、彼女は火で焼かれる。/彼女を裁く神は、/力ある主だからである。」(黙18:8)
 彼女と淫らな行いに耽って楽しんだ王たちが、彼女の大盤振る舞いによって財を築いた商人たちが、彼女のために嘆き悲しんだ。また、遠くに立って彼女が焼かれる様を見た海の男たちが、頭に塵や灰をかぶりながら、彼女の不幸を泣き悲しんだ。
 「天よ、この都のゆえに喜べ。/聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。/神は、あなたがたのために/この都を裁かれたからである。」(黙18:20)
 わたしは聞いた、ある力強い天使が大きな挽き臼のような石を海に投げこんでこういったのを。曰く、──
 バビロンよ、お前が顧みられることはもはやない。いま海へ荒々しく投げ入れたあの石のように、ゆめ人の目に映ることはない。お前のなかでは二度と楽の音が響くことも、手に職ある者たちの掛け声が聞かれることも、ない。灯し火の輝きがお前を照らすことはない。花婿や花嫁のしあわせな声が、お前バビロンの街角を賑わせることもない。──けっして! 二度と!!
 「なぜなら、お前の商人たちが/地上の権力者となったからであり、/また、お前の魔術によって/すべての国の民が惑わされ、/預言者たちと聖なる者たちの血、/地上で殺されたすべての者の血が、/この都で流されたからである。」(黙18:23-24)
 その後にわたしは聞いた、天からの唱和を。曰く、──
 ハレルヤ、主を讃えよ。救いと栄光と力、それはわれらが神のもの。その裁きは常に真実で正しい。全地を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちが流した血の復讐を彼女に対して果たしたからである。ハレルヤ、主を讃えよ。「大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙19:3)
 ──24人の長老と4つの生き物がひれ伏して、玉座に坐す神を礼拝して、いった。アーメン、ハレルヤ。

 はた、と頭を抱えました。本書にはいったい何人の天使/御使いが登場するのか、と。ラッパを吹く。最後の災いを携える。神の怒りが盛られた鉢を持つ。7人の天使がそれを行う。この7人はすべて同一なのか、すべてまったく別なのか。まずここで考えこむ。また、別の天使が幻視者に働きかける場面も複数ある。これらもすべて同一なのか、否か、不明である。
 数えあげる余裕はないけれど、すべて別の天使だとしたら30人近くの天使/御使いが「ヨハネの黙示録」には跋扈することになる計算だ。もう跋扈としか表現しようのない、天使の大盤振る舞いだ。それだけの人数に一々口伝した神もご苦労さんなら、幻視してごまかすことなく対面してみせた使徒ヨハネもご苦労さんである。むろん、ヨハネにしてみれば、いつまで接待しなくてはならんのだろうか、と先の見えなさ加減にうんざりしていたかもしれないけれど。
 さて。バビロンは滅びた。それを嘆く者は多い。嘆く者は肉の生活に於いてローマの名の下でささやかな生活を営んでいた者たちでもある。キリスト者の神は裁きによってそれを奪った。視点を変えればローマの臣民にとってキリスト者の神こそ<サタン>と呼ぶに相応しかろう。

 本日の旧約聖書は黙18:6-7aと同罪刑法についてはレビ24:17-20及び詩137:8並びにエレ50:29、倍返しについては黙18:6-7aと出22:3及び同6並びに同8更にエレ16:18、黙19:3とイザ34:10。



 長くなってしまったエッセイ、まとまりの付かなくなってしまったエッセイ、予告しながら未だ手付かずのエッセイ。ノートにも心中にも、そんなのがたくさんある。
 基本的に本ブログに載るエッセイは数10分から精々が2時間弱で、すくなくとも第一稿は一気呵成に書いているから、どうしても上手くまとまってくれなかったり、或いは手に負えなくなってしまったものもあるのだ。そうしたものについては聖書読書が終わったあと、時間を作って推敲したりして、機を見てここに披露目したいね。
 いまはまだ予告だけのエッセイも聖書読書が終わったあとで過去記事を点検して、当時語らんとしていた話題を洗い出した上で、小説完結後にのんびりと、紫煙くゆらせながら、ひなたぼっこして書いてゆきたいものである。──そんな日は来るの? と訊かれたら、心のなかにZ旗掲げて鋭意努力します、と応じよう。対応の準備だけは万全である。◆

共通テーマ:日記・雑感

第2364日目 〈ヨハネの黙示録第17章:〈大淫婦が裁かれる〉with通勤中の読書がはかどります!〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第17章です。

 黙17:1-18〈大淫婦が裁かれる〉
 7つの鉢を持った7人の天使の1人がわたしに話しかけた。こちらへ来て、多くの水の上に坐る大淫婦が裁かれる様を見よ、と。地上の人々はあの女の供する淫らな行いにあふれたぶどう酒に酔ってしまった。
 “霊”に満たされたわたしは天使に連れられて荒れ野に行った。そこには赤い獣に跨がる女がいた。獣は7つの頭と10本の角を持ち、全身の至る所が神を冒瀆する数多の名で覆われている。
 女はといえば、紫と赤の衣を着て、金と銀と真珠で飾り立てている。忌まわしいものや己の淫行による汚れで満たされた金の杯を手にしている。女の額には秘められた意味の名が記されている;大バビロン、淫らな女や地上の汚れた者どもの母。
 わたしはこの大淫婦が聖なる者たちの血、イエスの証人たちの血に酔い痴れているのを見た。驚くわたしに件の天使がいった。この女と、10本の角と7つの頭を持つ獣の秘められた意味を教えよう。「あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。」(黙17:8)
 ここに知恵ある考えが必要である、と天使がいった、──
 ここで知恵のある考えが必要となる。獣の7つの頭とはこの女が坐る7つの丘のことだ。ここに7人の王がいる。内5人はもう倒れた。いまは1人が位に就き、もう1人はこれから現れる(但し在位は短い)。
 以前はいたがいまはいない獣は第8の者であるが、それは7人の王のなかの1人である。かれは現れるが、やがて滅びる。
 獣の10本の角とは10人の王である。かれらはいまは国を治めていないが、遅かれ早かれ獣と共に、一時の間とはいえ、王の権威を授かることになろう。かれらは心を1つにして、自分たちの権威と力を獣に委ねる。
 かれらは小羊と戦う。が、小羊は主の主、王の王だから、かれらに到底勝ち目はない。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者も同じように勝利を収める。
 続けて天使がいった、──さっきあなたが見た水、彼女が坐る場所は即ち、民族も種族も言葉も違う諸国民のことである、と。「また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう。神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。」(黙17:16-17)
 あなたが見たかの女、それはつまり地上の王たちを支配しているあの大きな都のことであると知れ。

 まずは整理を。黙17:3「女」=同5「大バビロン」=同15「淫婦」=同18「地上の王たちを支配しているあの大きな都」、即ち大淫婦/帝都ローマとなる。再三繰り返してきたことだけれど、ちょうど好い機会であるので改めて触れた次第。これが最後です。
 黙17:3及び同9「七つの頭」とは7人のローマ皇帝をいうのが一般的だが、ヘンリー・H・ハーレイは意見を異にし、共和政ローマと帝政ローマを含めた、過去に現れた7つの世界帝国を指すのだ、という。またハーレイは黙17:9「七つの丘」はローマの町が築かれた実際の7つの丘である、と著書で述べている(『新聖書ハンドブック』P954 いのちのことば社)。
 黙17:3及び同12「十本のつの」はローマ帝国に従属する国の10人の王のことだ。
 引用した黙17:8は自殺したネロ帝がドミティアヌス帝となって甦った、という第13章で紹介した故事に倣った記述でありましょう。



 今日から(昨日からですか)通勤時間が約2.5倍、それに伴い交通費も約3倍になったみくらさんさんかです。ああ、給料日前に異動の辞令など拝するべからず。呵々。まぁね、交通費が全額支給でなかったら、わざわざ多摩川越えて東京くんだりまで働きに出たりはしませんよ。この諧謔、わかってほしい!
 それはさておき。
 朝のラッシュから外れていると、比較的空いた電車のなかではたいがい坐れもする。幸いなるかな、善き人よ。混雑もやや収まった時間帯の、長くなった通勤にメリットがあるとすれば、この坐れる可能性の圧倒的高さに加えて、やはり本を読む時間が飛躍的に多くなった点でありましょう。
 いや、まったくズイズイと読めるのです。この分でゆくと、宮部みゆきの短編集『淋しい狩人』(新潮文庫)も明日の往路で読了してしまうかな。どういうことかといえば、読むものがなくなった帰路に備えて新しい本も鞄のなかに潜ませておかねばならない、ということであります。<涼宮ハルヒ>シリーズをすっ飛ばして宮部みゆきに走った理由は簡単だ、そのタイミングに合わせて東京に異動と相成ったからに過ぎぬ。嗚呼、溜め息。次に待機しているのは……同じ著者の『あやし』(角川文庫)であったかな。
 このペースが維持できていれば、例の未読本の山も年末には1/3を残すばかりとなりそうです。が、未来とは皆様ご承知のように未確定であります。はてさて、その結末や如何に……?◆

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第2363日目 〈ヨハネの黙示録第16章:〈神の怒りを盛った七つの鉢〉withカラヤン=BPO《指輪》iTunesに登場、が、けっして良い感情は持っていない。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第16章です。

 黙16:1-21〈神の怒りを盛った七つの鉢〉
 わたしは聞いた、神殿から大きな声がして、7人の天使に、行って7つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注げ、というのを。
 それを承けて──
 第1の天使が鉢の中身を地上に注いだ。すると、獣の数字を刻印された者、獣の像を礼拝する者に、悪性の腫瘍が生じた。
 第2の天使が鉢の中身を海に注いだ。すると、海は血のようになって、そこで生きるものすべてが死んだ。
 第3の天使が鉢の中身を川とその源に注いだ。すると、水は血になった。そのときわたしは聞いた、水を司る天使が神の裁きを肯定し、祭壇もそれに同調するのを。
 第4の天使が鉢の中身を太陽に注いだ。すると地上の人間は太陽の熱で焼かれ、太陽を司る神の名を冒瀆した。かれらが悔い改めることはなかった。
 第5の天使が鉢の中身を獣の王座に注いだ。すると、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみ悶えた末に舌を噛み、神を冒瀆した。かれらが悔い改めることはなかった。
 第6の天使が鉢の中身を大河ユーフラテスに注いだ。すると川の水は干上がり、東の方向から来る王とその軍勢のための道が出来上がった。
 「わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」(黙16:13-14)──汚れた霊どもは、ヘブライ語で<ハルマゲドン>と呼ばれる地に王たちを集めた。
 第7の天使が鉢の中身を空中に注いだ。すると、事は成就せり、と宣う大きな声が神殿から聞こえたのだった。稲妻が光り、様々な音が轟き、雷が鳴り、そうして大きな地震が起こった。「それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。」(黙16:18)
 その地震によってあの大きな都、つまりローマは3つに引き裂かれ、諸国の町々が倒れた。神は大バビロンの淫業を思い起こして、自分の激しい怒りが含まれたぶどう酒の杯を与えた。
 1タラントン程の重さがある大粒の雹が地上に降った。地上の人々はその雹害の凄まじさゆえに神を罵り、冒瀆した。

 人間の世界は神の怒りによって八方塞がりの様子を呈し、徐々に終末の色を濃くしてゆきます。そんな状況のなかにあってさえ、神をも主をも畏れぬ衆は悔い改めることがない。却って神の名をみだりに唱え、冒瀆するばかりでありました。加えて大淫婦と称される大バビロンも滅びの時を迎えつつあり──。これまで何度となくいろいろな書物で予告されてきた裁きの日、終末の時が世界を無秩序と壊乱に追いこんでゆく様を、われらは本章にて目撃することになります。
 そんな最中、神や主、その御使い、教会や信徒たちへ敵対する者らに向けて、竜と獣と偽預言者の口から蛙のような汚れた3つの霊が出て号令を掛け、一ツ所へその軍勢を集結させます(黙16:14)。ハルマゲドンがその場所。ヘブライ語で「ハル・メギド」と発音され、意味は「メギドの山(丘)」となる。元は地名であり、本書の内容から転じて神とサタンの最終決戦そのものを指すようになったことは〈前夜〉で触れた通りであります。
 メギドは旧約聖書に既出の地名で、王下23:29-30、アッシリア救援のため北上してユーフラテス川を目指すファラオ・ネコ率いるエジプト軍を迎え撃たんと出陣した南王国ユダの王ヨシヤが討たれるなど、イスラエル史ではしばしば古戦場として名が挙がります。古戦場としてのメギドはカルメル山南東約30キロ強の場所にあり、新約聖書時代はサマリアに属していました。が、一部ではメギドを戦場として象徴的に用いたのであって具体的な場所を想定したものではない、という意見もあるそうです。
 1タラントンは約25キロ(約35キロとも)。



 本日のびっくり。
 久々にiTunesを見ました。オーディオ・ブックやPodcastで面白そうなものはないかなぁ、と物色するためにね。探してみたけれど食指の動くものがなかったので、なんの気なく「ミュージック」に移り、クラシック音楽のページを見ておりました。
 ダニエル・ハーディング=スウェーデン放送響のベルリオーズ、ニュージーランド弦楽四重奏団のブラームス:弦楽四重奏曲第1番、視聴しておりましたところ、どこかで見覚えのあるカバーデザインが「新着ミュージック」にありました。よもや、いやまさか……クリック……やっぱり!
 カラヤン=ベルリン・フィル他によるワーグナー《ニーベルングの指輪》全曲がダウンロード販売されていました。嗚呼、遂にここまで音楽はお手頃に、お気軽に、消費される代物となったのか、と慨嘆しましたよ。CDになって後も1枚1枚大切に、じっくりと耳を傾けたオペラが……。なんだか世も末であります。とっくに末っているという声もあるけれど、目の前のこの現実、まったく以てやりきれない。
 頒価6,000円。これだけの金額を支払って約15時間になんなんとする怪物オペラをモバイル・オーディオで聴き通せる人が、さて、いったいどれだけの数いるんだろうね。アルバム購入のみでしか入手不可能なデジタル・ブックレットには日本語対訳や解説などLP/CD時代同様、きちんと載っているんだよね?◆

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第2362日目 〈ヨハネの黙示録第15章:〈最後の七つの災い〉with『閃光スクランブル』は読了に至らず。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第15章です。

 黙15:1-8〈最後の七つの災い〉
 わたしは視た、驚くべき大きな1つのしるしが天に現れるのを。最後の7つの災いを7人の天使が携えていたのである。「これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。」(黙15:1)
 わたしは視た、火が混じるガラスの海と、獣やその像、その数字が刻印された者らに打ち勝った人々の姿を。かれらは神の竪琴を手にして、火が混じるガラスの海の岸の汀に立ち、モーセの歌と子羊の歌をうたっている。
 更にわたしは視た、天にある証しの幕屋の神殿が開かれて、7つの災いを携えた7人の天使がそこから出てくるのを。輝かんばかりに清い亜麻布の衣、腰には金の帯を締め。4つの生き物のうちの1つによって、神の怒りが盛られた7つの金の鉢が7人の天使に渡された。
 神殿は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされていた。何人と雖も神殿の中に立ち入ることはできない、7人の天使の7つの災いが終わるまでは。

 ここからが「ヨハネの黙示録」のクライマックスであります。このあとそれぞれの災いがそれぞれに降され、大淫婦即ちローマが裁かれ、主による千年王国の実現とサタンの最終戦争、そうしてすべての浄化として新しい天と新しい地、新しいエルサレムの訪れに至るのです。
 既に黙3:6に出、本章第2節にも出たのですが、「ガラスの海のようなもの」とはなんだろう。前者では「水晶に似た」とあり、後者では「火が混じった」とある。本章に於けるそれが黙3同様神の玉座の前にあったか、わたくしにはわかりかねる。そも「海のようなもの」と曖昧にいうておきながら、「海の岸」と断定しているのも謎だ。それが水の集まった場所を示すとしたら、「海のようなもの」はとても大きな湖、たとえば死海や黒海のような場所をいうのか。「のようなもの」に「岸」があるならば、直後に出る「海の岸」という表現は矛盾するように思えるのだけれど……。どの日本語訳を見てもこの点は大同小異なので、ヘブライ語やギリシア語などでも同様なブレがあると考えてよさそうであります。
 ──上記は1つ所ばかりを見て全体を俯瞰していないためのわが妄言かもしれない。が、わたくしにはどうもその点が引っ掛かって仕方がないのです。
 黙15:5「証しの幕屋の神殿」とは出38:21「掟の幕屋」、出40:34「臨在の幕屋」など様々な呼ばれ方をするけれど、つまり「幕屋」のことであります。聖書では殊に顕著ですが古代の書物を読むにあたっては、固有名詞は必ずしも1つだけとは限らず、同じものをいうていながら時と場所、話者が代われば呼び方など幾らでも変化することを念頭に置き、またそれを弁えている必要があるでしょう。……前述の「ガラスの海」問題も結局はここに帰着するのかなぁ。

 ──残り7章、あと7日! しかし周囲が激しく動く7日間! 気を引き締めてゆこう!

 本日の旧約聖書は黙15:3aと出15:1-18、黙15:3c-4とエレ10:7、黙15:5と出38:21他。
 黙15:3b(子羊の歌)は黙5:9-10及び12。



 ……加藤シゲアキ『閃光スクランブル』は半分も読み進められないうちに放り投げることと相成りました。ページを繰る気になれず、その先まで読んでゆくのに努力を要したことから、もう本当に辛かった。心血注いで書きあげたであろう著者には心の底から申し訳ない気持ちでいっぱい。『ピンクとグレー』はまだ興味本位で最後まで読み通せたけれど、それでもどうにかこうにか一念発起して、という程度。
 どうしてだろう、と考えてみた。実はそのあと、今日から読み始めたのが宮部みゆき『淋しい狩人』(新潮文庫)という連作短編集なのだけれど、最初の1編を読み終えて、なぜ加藤の小説を読み通すのが辛かったのか、朧ろ気ながらわかったように思うのだ。
 一言でいって、加藤の小説には余裕がないのだ。話がどこまで進もうともそこにあるのは閉塞感ばかりで、そこにはわずかながらの潤いも余裕(余白というて良いやもしれぬ)も与えられないことから、段々と気が滅入ってくる。内容に関係なく、読んでいて気持ちが殺伐としてくる。これ以上読むのは時間の無駄、とは過ぎたる発言であろうが、実際の所そうとしか言い様がないから始末が悪い。
 ──違うときに読んでいたら印象は異なっていただろう。すくなくとも読み終えることはできたはずだ。今回は単に呼吸が合わなかっただけ、と思いたい。そのとき処分することなくまだ棚に残っていたらば、再読してみるのも良いかもしれない──でも果たしてその日は訪れるだろうか?◆

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第2361日目 〈ヨハネの黙示録第14章:〈十四万四千人の歌〉、〈鎌が地に投げ入れられる〉他with映画のベスト10リストを作るつもりだけれど、〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第14章です。

 黙14:1-5〈十四万四千人の歌〉
 わたしは視た、シオンの山に小羊が立っているのを。小羊の名と小羊の父の名を額に記した144,000人の者が小羊と共にいるのを。わたしは聞いた、多量の水が轟くような音、激しい雷のような音を。が、それらはわたしの耳には竪琴を奏でるように聞こえた。144,000人は神の御前で、長老と4つの生き物の前の前で、声を1つにして新しい歌をうたった。それはかれらにしか覚えられないような歌だった。
 この144,000人は地上から贖われた者で、まだ女によって身を汚したことのない、所謂童貞である。かれらは小羊の行く所どこにでも付き従ってゆく。かれらは、神と小羊にささげられた初穂。かれらは、人々のなかから贖われた者たち。かれらはその口に偽りがなく、咎められるところなき人たち。

 黙14:6-13〈三人の天使の言葉〉
 わたしは視た、別の天使が空を飛び来たったのを。その天使はあらゆる種族、あらゆる民族、あらゆる言語を異にする人々、そうしてあらゆる国民へ告げ知らせるため、永遠の福音を携えてきた。
 その天使がいった。神を畏れよ、神を讃えよ。裁きの時は来たれり。創造主を礼拝せよ。
 続けて第2の天使が来て、いった。大バビロンが倒れた、(神の)怒りを招く淫らな酒を諸国民にたらふく飲ませた大バビロンが!
 続けて第3の天使が来て、いった。獣とその像を拝み、獣の数字の刻印を押された者は、押した者諸共神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、聖なる者たちと小羊の前で火と硫黄で苦しめられることになる。苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、獣とその像を拝み、獣の数字の刻印を押された者は、昼も夜もただの一刻さえ安らぐことはできない。
 「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。」(黙14:12)
 わたしは聞いた、天から聞こえる声がこういうのを。曰く、書き記せ、いまから後主に結ばれて死ぬ者は幸いである、と。
 また、“霊”がこういうのも聞いた。曰く、然り、かれらは労苦を解かれて平安を得る。その行いが報われるからである、と。

 黙14:14-20〈鎌が地に投げ入れられる〉
 わたしは視た、人の子のような方が白い雲に乗っているのを。その方は頭に金の冠を戴き、手に鋭い鎌を持っている。天使が神殿から出て来て、刈り入れの季節になりました、地上の穀物をその鎌で刈り取ってください、いまや機は熟しましたので、とその方にいった。その方は地上に鎌を投げ入れた。斯くして地上では刈り入れが始まった。
 わたしは視た、やはり鋭い鎌を手にした別の天使が神殿から出て来たのを。また、祭壇のところから火を司る別の天使が出て来て、鎌を手にした天使にいった。その鎌を地上へ投げ入れて全地のぶどうを刈り入れよ、既にぶどうの実は熟している、と。天使は地上へ、手にしていた鎌を投げ入れた。斯くしてぶどうの房の刈り入れが始まった。
 ──収穫されたぶどうは神の怒りの大きな搾り桶に投げこまれ、都の郊外で踏まれた。すると血が搾り桶から流れ出た。それは大地にあふれて馬のくつわに届く程の量となり、1,600スタディオン(約300キロ)にわたって広がった。地は血であふれた。

 鎌によって刈り入れられたものが踏まれて搾り場にあふれる、というのはヨエ4:13に基づく表現であります。これは同時に裁きの日が近附いていることを示しており、引用した黙14:12の文言と見事に呼応します。
 偶然でしかないかもしれませんが、本章は神の栄光や讃美といった輝かしい内容から徐々に暗がりの色を湛えた内容へと、あたかもグラデーションを描くように推移してゆく。そのターニング・ポイントというべきは黙14:8(また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」)であり、殊に次の〈鎌が地に投げ入れられる〉を読んで、それが大義名分を掲げた一方的な<ジェノサイド>を暗喩するとわかれば、途端に身震いするというものであります。
 単位について、一言添えます。1スタディオンは約185メートル。1,600スタディオンは本文の通り約300キロとなりますが、4の倍数であることから東西南北四方をも意味する。全方位、全世界の暗喩でありますね。
 ──ここでいう「童貞」とは今日のわれらが思うような肉体的・性的なそれでは勿論、ありません。本章に於いてそれは愚像崇拝に代表されるような神の道から外れた行いに耽るなど、肉体も心もキリスト者として身を慎んで生きた者のことであり、清らかな信仰心を抱く者のことであります。……はい、勘違いした者、正直に、挙手!

 本日の旧約聖書は黙14:15とイザ17:5及び27:12、黙14:18とイザ63:1-3及びエレ25:30、黙14:20とゼカ14:2-5及びヨエ4:2並びに同12。



 9月になって秋風も吹き始めた頃でありますが、同時に天候不順な日も続くようになりました。この時期になるとわたくしのなかに到来する1つの思い、それは……まぁ、実際はいろいろあるんだけれどさ、今年観た映画のベスト10のリストでも作り始めるかぁ、ということ。勿論、まだ3ヶ月残っている。が、叩き台となるリストは作っておくべきだ。残り3ヶ月でリストを改定してゆけばいいだけの話である。
 わたくしのこのリストでは今年ロードショー公開された映画とは限定しないから、選ぼうとするとまず「今年観た映画のリスト」を作るところから始まるわけだが、これがとっても難儀な作業で映画館やTV、レンタル(オンデマンドはここに含める。ご意見無用)、CS放送も含めることになるから、雑多かつ無節操なリストが出来上がることになる。その上でベストを選出するわけだから、これはもう一人アカデミー賞審査員状態ですよ(われながら意味わからん)。
 洋画・邦画の別なく選ぶこともあれば、それぞれに分けて選ぶこともある。年によってまちまちなのだが、今年はどうやら双方一緒のリストになりそうだ。なぜならば、今年は洋画ベスト10、邦画ベスト10と分ける程の良作に出会った気がしないからである。たぶん、洋邦併せてベスト15ぐらいまでは簡単に絞りこめるね。そもそもぶっちぎりの、文句なしの第1位という作品がない。『さらば、あぶない刑事』や『シン・ゴジラ』を以てさえも、だ。これはモナミ、困った事態なのですよ。実に、実に、困った事態なのですよ、おわかりですか、ヘイスティングス? ホット・チョコレート飲んでも灰色の脳細胞は動いてくれそうにありません。
 とまれ、年末にはこのリスト、お披露目できればいいですね。これまで作っておきながら公開してこなかったのは、単にタイミングを逸していたからに他なりません。他にどのような理由があるというのです?◆

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第2360日目 〈ヨハネの黙示録第13章:〈二匹の獣〉with加藤某のあとは宮部みゆきだよ!〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第13章です。

 黙13:1-18〈二匹の獣〉
 わたしは視た、一匹の獣が海中から出現するのを。獣は10本の角と7つの頭を持ち、10本の角には10の冠を戴いている。頭には地上のあらゆる言語で神を冒瀆する言葉が書かれていた。
 竜はこの獣に、自分の力と王座と強大な権力を与えた。
 獣の頭は傷附けられていて、誰もが死んだと思いこんでいた。が、その致命的な傷は治って再び全地の諸国民の前に現れた。人々はすっかり驚いてしまい、皆々これに服従した。竜が獣に自分の権威を与えていたので、人々はこの獣を拝んだのである。そうして人々はこの獣に比肩し得る者のありやなしやを囁き交わした。
 獣には大言壮語と冒瀆の言葉を吐く口が与えられていた。また、42ヶ月にわたって活動する権威も与えられていた。獣は口を開いて神を、神の名を、神の幕屋を、天に住む者たちを冒瀆し尽くした。獣は聖なる者たちと戦ってこれに勝利する力を与えられていた。あらゆる種族、あらゆる民族、あらゆる言語を異にする民、あらゆる国民を支配する権威も与えられていた。
 「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。/耳ある者は、聞け。/捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。/剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。/ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」(黙13:8-10)
 ──これをわれらは第一の獣と呼ぼう。──
 わたしは視た、一匹の獣が地中から出現するのを。小羊に似た2本の角を持ち、竜のように物をいっていた。
 この獣は第一の獣が有していたあらゆる権威を、第一の獣の前で揮い、かつ致命的な傷の治った第一の獣を全地の諸国民に拝ませた。大きなしるしを行って天から火を落とし、人々の前で燃えあがらせた。第一の獣の前で行うのを許されていたしるしによって、地上の人々を惑わし、剣によって傷を負ったもののなお生きている先の獣の像を造るよう命じたのである。この第二の獣は件の像に息を吹きこみ、喋れるようにした。獣の像を拝まぬ者あらば容赦なく殺した。
 この第二の獣は、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しき者にも、奴隷にもそうでない者にも、およそすべての者に右手か額に或る刻印を押させた。その刻印なき者は物を売ることも買うこともできなかった。
 刻印について述べよう、──
 「この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(黙13:17-18)

 本章がローマ帝国によるキリスト教弾圧、信徒迫害を語っているのは明白であります。ほんの少しの歴史的事実さえ承知していれば、あとはジグソーパズルの空白を埋めるが如し。勿論常に自制して牽強付会に陥らぬよう努める必要はありますが。いずれにせよ、露骨といえばあまりに露骨な章ではございます。
 〈前夜〉にて綴ったことの繰り返しになりますが、これの背景となるのは皇帝を神として礼拝せよ(ドミティアヌス帝)、死したる皇帝をも神として礼拝せよ(トラヤヌス帝)、という勅命(黙13:3-4及び12)。もう1つは、ネロ帝のローマ大火(黙13:13)であります。また、黙13:3はネロ帝にまつわる伝説を踏まえている、といいます。ネロ帝が生まれ変わってドミティアヌス帝となり、キリスト教、教会、信徒たちへ前後に例なき最大級の弾圧/迫害を行った、という伝説。
 そうして刻印の数字、666はヘブライ語でネロ帝の名を綴り、その子音をそれぞれ数字に変換した際の和とされる。この数字についてはいろいろ解釈や想像を生む余地があるから意見の完全一致は難しいのかもしれませんが、「666=ネロ帝」とするのがいちばん有力かつ妥当であるのだろうな、とわたくしなどは思うのであります。この数字をオカルト的意味合いで不吉な数字というイメージを、キリスト教と縁なき者にまで植え付け、周知・定着させたのは疑うべくもなくかの映画『オーメン』でありましょうな……。

 本日の旧約聖書は黙13:10とエレ15:2及び43:11。



 先日加藤某の小説を中途で閉じ、別な作家の小説を読むことにした旨お伝えしました(してるよね?)。
 あれから次は誰を読もうか、と未読の山を眺めて考えていたのですが、やはりここは宮部みゆきしかいないだろう、と決めるに至りました。──本物のプロフェッショナルの小説を読みたいのだ!!
 未読の山にある文庫は『淋しい狩人』(新潮文庫)と『あやし』、そうして『宮部みゆきの江戸怪談散歩』(新人物往来社文庫)でした。単行本では<三島屋>シリーズの『おそろし』(角川書店)、『あんじゅう』(中央公論新社)と『泣き童子』(文藝春秋)であります。
 通勤時間もこれからは長くなることだし、どうしたわけかこれまで縁の薄かった作家をがんがん集中的に攻めてゆこうか、と思うております。このあとには横溝正史『獄門島』と江戸川乱歩『孤島の鬼』(創元推理文庫)と新潮文庫から出ている2冊の短編集が控えておるのじゃ。
 できれば宮部みゆきと『獄門島』の間に、横溝の『本陣殺人事件』と『殺人鬼』を読んでおきたいのだけれど、これはわれながら難しいなぁ、と諦めております。なぜなら古本屋を回る時間がそれまではまったく取れそうもないから。まぁ、現実とは常にそのようなものであります。◆

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第2359日目 〈ヨハネの黙示録第12章:〈女と蛇〉with加藤シゲアキの小説を読むのは諦めます。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第12章です。

 黙12:1-17〈女と蛇〉
 天に2つのしるしが現れた。1つは大きく、太陽を纏った女が月を足の下にして立ち、12の星の冠を頭上に戴いている。彼女は身籠もっており、産みの痛みに苦しんでいた。もう1つのしるしは、7つの頭を10本の角を持つ赤い竜だった。7つの頭には7つの冠。尾で天の星を掃き寄せて、地上へ投げ続けている。竜は女の前に立ちはだかって、どかなかった。生まれた子供を喰らうつもりでいるからである。
 やがて女は男の子を産んだ。鉄の杖ですべての国民を統治することになっている男の子を。子供は神の許へ、その玉座へ引きあげられた。
 一方、女は荒れ野へ逃れた。そこには神が彼女のために用意した場所があり、1,260日の間、女は神によって養われることになっている。
 ──天で戦いが起こった。大天使ミカエルとその御使いたちが竜に戦いを挑んだのだった。それに味方する者は破れ、天に居場所がなくなった彼らは地上へ投げ落とされた。
 天から大きな声が聞こえてきて、こういっていた。曰く、われらの神の救いと力と支配が現れた、神のメシアの権威が現れた、われらの兄弟のことを神の御前で告発する者が地上へ投げ落とされたからである、と。声は〈告発者〉に打ち勝った兄弟たちを讃え、最後にこういった、──
 「地と海とは不幸である。/悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。/残された時が少ないのを知ったからである。」(黙12:12)
 ──地に落とされた竜は、かの男の子を産んだ女を追った。女が一対の鷲の羽を与えられていて、それらを使って飛ぶが如くに逃げるので、竜は女に追いつけなかった。女が目指すのは荒れ野にある自分の場所、彼女はそこで向こう3年の間蛇から逃れ、神によって養われるのである。蛇は口から水を吐き出して女を後ろから押し流そうとしたものの、大地が口を開けてその水を呑みこんで、都度彼女を助けた。
 「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。」(黙12:17-18)

 女を狙う竜は節、というか場面によって呼ばれ方を変えます。黙12:9に拠ればこの巨大な竜は年を経た蛇であり、悪魔ともサタンとも呼ばれる存在で、全人類を惑わすものであります。ノートにこの旨反映させられませんでしたが、所によって「竜」と書いたり「蛇」と書いたりしたのはそうした次第であります。
 申すまでもないかもしれませんが、出産を控え、男の子を産んだ女は聖母マリア、その息子で鉄の杖を用いて諸国民すべてを治める男の子はイエスであります。「ヨハネの黙示録」著者は女/マリアの出産前を描写して、「子を産む痛みと苦しみのために叫んでいた」と記しますが、これが知恵の実を食べて罪を犯したエバに神が与えた因果であるのも、最早説明不要でしょう。
 なお、堕天使の記述はイザ14:12-15に見られます。本章ではサタンが地上に落とされた理由が天使ミカエルとその軍勢に戦いを挑んで敗れたためだ、と語られます。

 本日の旧約聖書は黙12:1及び5とイザ7:10-16、黙12:4とダニ8:9-12。



 加藤シゲアキの小説、2冊目を読んでいる、と申しましたが、正直なところ最早限界です。1冊目は興味だけが先行してなんとか読み進めたものの、いまの2冊目は「最後まで読む必要ないか」と見放す気分。おそらく一両日中には巻を閉じて他の作家の小説を手に取ることでしょう。
 どんな作家のどんな作品でも楽しく読むことができます、という人が果たしてどれだけいるのだろう。そのような人物は皆無に等しいだろう、とわたくしは申しあげたい。
 加藤シゲアキの小説を途中で読むのをやめてしまうのは、まずもって相性としか言い様がないのだけれど、実はここ10年、そうした小説と遭遇したことがなかったのだから単に相性というて片附けるのは、やや乱暴なことかもしれぬ。
 では、相性というだけでないならば、なにがわたくしを加藤から遠ざけるのか──。
 作品に於ける緩急の欠落とはいえるかもしれぬ。どの場面になっても物語は均一な質を維持したまま進んでゆき、そこにはいささかの緊密も緩慢もない。読み進めてゆくと、息苦しささえ感じるのだ。
 息継ぎする場所がどこにもない長編小説。致命的ではないか。余白を残した場所がまるでなく、画用紙の隅々までごってりと、まんべんなく色彩が敷かれた長編小説。そこから疲労以外のなにを与えられるのか。
 ジャニタレというブランドがどれだけ売り上げに貢献しているか不明だが、かれに物語を紡ぐ能力は与えられていると思うのだ。それが先天的なものか、後付けなものかは別としても、だ。この作家がたくさんのことを吸収して、血反吐吐くぐらいに物語を紡ぎ、語ることに執念を持てば、やがてアイドル出身の作家なんて色眼鏡の評価と訣別して、50本の指には入るエンタメ作家として世間に認知されることだろう。
 あと5年後ぐらいに、加藤シゲアキの新作小説を楽しんで読めるようになっていれば嬉しいな、と思う。◆

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第2358日目 〈ヨハネの黙示録第11章:〈二人の証人〉with今年最後の3ヶ月で部屋の模様替えとかしよう!〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第11章です。

 黙11:1-14〈二人の証人〉
 わたしは杖のような物差しを与えられた。声がわたしにいった、その物差しで神殿と祭壇を測、礼拝する者の数を数えよ。但し神殿の外庭は測らなくてもよい、そこは異邦人に開放されているからだ。声曰く、異邦人は42ヶ月にわたって聖都を蹂躙するからである、と。
 声は、2人の証人を立てて1,260日の間預言させよう、といった。それは地上の主の御前に立つ2本のオリーブの木であり、2つの金の燭台である。証人は預言の最中は天を閉じて雨が降らないようにする力があり、またかれらに害を及ぼそうとする者に対してはことごとく殺めて倒す力もあった。
 かれらが預言を終えると、1匹の獣が底無しの淵から這いあがってきて戦い、獣が勝利を収める。証人の死体は、たとえばソドムやエジプトと呼ばれる町の目抜き通りに曝され、全地の人間がそれを眺めに集まってくる。3日半の間、それはそこに曝され、ゆえに埋葬することを許されないだろう。「地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。」(黙11:10)
 3日半が経過した後、命の息が神から出て、2人の証人の体に入る。すると証人は再び立ちあがった。死体を眺めていた者らはどよめき、驚き、そうして恐れた。2人の証人はそのとき聞こえた天からの声に従って、雲に乗り、天に上がった。誰もが──かれらの敵さえもそれを見た。かれらが天に上ると、地上には大きな地震が起こり、都の1/10が倒れ、7,000人が死に、辛うじて生き残った者らはこのことに畏怖を抱いて、天の神の栄光を讃えた。
 ──第二の災いが過ぎ去り、この後更に第三の災いが速やかにやって来る。──

 2人の証人/預言者とは2本のオリーブの木であり、2つの金の燭台である。これはゼカ4:1-3を踏まえた表現であるが、具体的に誰と誰を指すのか、定かではない。
 本章では過去に読んだ書物の場面を連想させるところが3ヶ所あります。杖のような物差しを与えられて神殿や祭壇を計測せよ、とは「エゼキエル書」を思い出させます。バビロンにいた預言者エゼキエルは或るとき幻のなかでエルサレムに戻り、神のみ使いがエルサレム各所の測量を行うのに同行します。黙11:1を読んで、わたくしはそれを思い起こしたのでありました。本章にてこの計測の指示が幻視者に与えられたのは、エルサレム陥落を暗に伝え、瓦礫からの復興もしくは新たなる聖都造営に備えてのことなのかもしれません。
 そうして黙11:7-13。ここについては2つに分けます。1匹の獣によって2人の証人が殺され、死体が曝され、それを見物に来た衆がいて、地震に襲われる:これをゴルゴタの丘に於けるイエスの処刑と直後町を襲った地震を思わずに読み流すのは不可能事ではないでしょうか。1匹の獣がローマを指すのか、或いはもっと大雑把に反キリスト勢力を指すのか、はっきりとしたことはわかりません。
また、3日と半日後に2人の証人は神の命の息を吹きこまれて立ちあがり、やがて天に上った:これを3日後に実現したイエスの復活と昇天を思い出さずに読める人がどれだけいるのでしょう。疑問です。
 「ヨハネの黙示録」著者は旧約聖書に精通し、イエスに親しく接した人物であろう、とは既に述べました。それが使徒ヨハネならば、すくなくともゴルゴタの丘での磔刑から皆の前での昇天までを具に目撃しているわけですから、それを書物に綴る際自在にパラフレーズすることは十分可能でありましょう。
勿論、幻視した事柄を書いたものが本書「ヨハネの黙示録」でありますが、幻視した光景のすべてを正確に文字へ移し替えることができたとは到底考え難い。──物書きの端くれとして疑を呈す、そんなことが完璧に出来るものか、と──。視た光景をあとから思い出して書こうとしたとき、描写の補強材料になるのは<それ>にまつわる自身の記憶だけではありませんか。そう考えるのであります、いまは。



 ブログが終わったらぜったい部屋の大掃除と模様替えに手を着けるんだ。床から隆起した本の山脈を切り崩し、Macがあるに相応しい部屋にするんだ。なによりも探している本や書類の類がすぐに見附けられる部屋にするんだ。
 そのためには不要なものはヤフオクに出品したり、処分できないけれど部屋に常置する程でもないものについては、(むかしのように)レンタル倉庫も活用していかないとね。10月頃から少しずつ手を着けて、年末年始には新装できれば良いな。◆

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第2357日目 〈ヨハネの黙示録第10章:〈天使が小さな巻物を渡す〉withジャズ……聴きたい時が聴き時。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第10章です。

 黙10:1-11〈天使が小さな巻物を渡す〉
 わたしは視た、天からもう1人、力強い天使が雲を纏って降りて来るのを。右足で海を、左足で地を踏みしめた天使、その手には封の開かれた小さな巻物。獅子の咆吼を思わせる大きな声で叫ぶと、呼応したかのように7つの雷がそれぞれの言葉で語った。わたしはそれを書き留めようとしたけれど、天からの声がそれを制止した。
 が、しかし──わたしは視た、そのとき、海と地を踏みしめて立つ天使が右手を高く掲げ、世々限りなく生きる方にかけて誓うのを。地と空と海を創造し、そこに暮らす生きとし生けるものを創造した方にかけて、かの天使は誓った、──
 「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」(黙10:6-7)
 再び天からの声が聞こえた。それはわたしにこういった。天使から巻物を受け取れ、と。わたしは、どうかその巻物を自分に下さい、とお願いしてそれを受け取った。すると三度、天からの声が聞こえた。その巻物を食べよ、あなたの腹には苦いが口には密のように甘い、と。わたしはそうした。天からの声がいったように、口には甘かったが腹には(確かに)苦かった。
 すると、わたしにこう語りかける声があった。あなたは多くの国の民、民族、言語を異にする民、また王たちに関して再び預言しなくてはならない。声はわたしにそういった。

 黙10:3「七つの雷」はなにを意味するのだろう。例によって譬喩であったり、象徴であったりするのか。或いは、そんなものとは無縁で、意味あるものの描写がここまで続いた流れで「七つ」てふ数詞を付しただけなのかも。
 果たして真相は奈辺にあるか。わたくしには不明である。どなたか、ご教示を乞う。
 巻物を食べよ、というのは、食べることによってその内容──神の秘められた計画をわが身を以て知れ、という命令。「わたし」にとって、それは使命。口には甘く、腹には苦い、というのはキリスト者にとって預言は甘美なものだが、そうでない者には裁きを伴う苦々しいものでしかないことを意味しております。

 本日の旧約聖書は黙10:5-6とダニ12:7。



 TSUTAYAの返却日に間に合わず、延滞料金がずいぶんな額になるなぁ……とうなだれていたけれど、電話したら明日の営業時間までにポストへ返却すれば延滞料金は発生しないとのこと。まずはほっと一息、安堵の溜め息。延滞未経験ゆえ不安でならず、どうなることかと思うたけれど、どうにかなったことに感謝します。そうか、TSUTAYAの返却日/時間とはそのように設定されていたのですね。
 今回は無性にジャズが聴きたくなり、じゃぁ買いこんでくれば良いじゃん、なる散財を推奨する悪魔の囁きになんとか屈することなく、普段利用するTSUTAYAにてCD10枚1,000円のキャンペーンを利用して、名盤とされるものばかりを借りてきました。
 ジャズを聴き始めてから20年近くになるけれど、系統立てて聴いたことは一度もない。常に手当たり次第、目に付き次第。ジャケットやら誰彼のエッセイや小説に触れて、聴いてみようかな、と思うが精々。名盤中の名盤と呼ばれるものが昔から何度となく再発されてきていて、それが非常に安価で入手可能な時代にあってなお、わたくしはこれまで腰を据えてジャズを聴こうという気になったことはなかった。今後はそれを改善してゆく──わたくしの音楽面に於けるいまのところ唯一の楽しみである。
 レンタルと購入を組み合わせてゆくことになるわけだが、このたび延滞の不安など抱きもしなかった1週間前、盟友たる同僚と此度の人事異動について途切れる会話を酒飲みながら交わして別れた帰り、TSUTAYAに寄るため途中下車して、流れる汗を拭き拭き棚からカゴへ移してセルフレジへ持っていったジャズ・アルバムは、──
 マイルズ・デイヴィスを2枚、ビル・エヴァンスを2枚、ゲッツ&ジルベルトを1枚、セロニアス・モンクを3枚、アート・ペッパーを1枚、という布陣。タイトルは伏せるけれど、どれもこれも名盤、定盤として歴史へ刻まれたアルバムである。読む人によっては今更感もある内容だけれど、聴きたいと思うたときがその人にとって最良のタイミング。名声に惑わされて知らぬうちから手を出すと却って訳がわからず、ジャンルから遠ざかるきっかけになりかねないのだから、然様、「聴きたい時が聴き時」なのだ。
 iTunesに取りこんだこれらのアルバムに、これからじっくり耳を傾けてゆきます。
 ──レンタル枚数とアーティストのアルバム合計数が合わない? ん〜、気のせいではないでしょうか。けっして『ラブライブ!』のベスト・アルバムを借りたわけでは、な、ないんだからね! ど、動揺させないでよ! ぷん。◆

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第2356日目 〈ヨハネの黙示録第9章:〈天使のラッパと災い〉2/2withいつもの悩み、終わらぬ悩み。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第9章です。

 黙9:1-21〈天使のラッパと災い〉2/2
 第5の天使がラッパを吹くと、一つの星が天から地上に落ちてきた。その星には底無しの淵へ至る穴を開く鍵が与えられた。開かれた穴からは煙が立ちのぼり、空や太陽を暗くした。
 煙のなかからイナゴの大群が出現して、額に神の刻印を押されていない者らを襲った。地上の草花や作物に害を加えてはならない代わりに、神の刻印のない者を襲うよう命じられていたのだった。
 とはいえ、イナゴは人を殺めることを許されていなかった。5ヶ月の間、襲った者らを苦しめることはできたと雖も。「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。」(黙9:6)
 イナゴの主人は底無しの淵の使者。その名はヘブライ語でアバドン(滅びイ)、ギリシア語でアポリオン(滅ぼす者イ)という。
 ──第一の災いが過ぎ去り、このあと更に2つの災いがやって来る。──
 第6の天使がラッパを吹くと、神の御前の金の祭壇の4本の角から1つの声が聞こえた。声は第6の天使にこういった、大河ユーフラテスの畔に縛られている4人の天使を解放せよ、と。
 斯くして4人の天使は解き放たれた。かれらはまさしくその年、その月、その日、その時間のために大河の畔で縛られていたのである。4人の天使が率いる騎兵の数は万の2万倍、即ち2億。
 わたしが視た馬の姿はこうである。頭部は獅子の頭の如し、口からは火と煙と硫黄を吐いていた。火と煙と硫黄、この3つの災いによって人間の1/3が命を奪われた。馬の力は口と尾にあった。尾は蛇に似て、先端に頭がある。この頭で害を加えるのだった。また、馬の乗り手は炎のような赤、ヒアシンスのような青紫、硫黄のような黄色で彩られた胸当てを付けていた。
 ……斯様な災いを免れてなお、救い難き悔い改めぬ者らがいた。かれらは悪霊を崇め、偶像を拝み、殺人や呪術、淫行に耽り、盗みを働き続けた。

 キリスト者にあらざる者はことごとく滅びる。では、どのようにして? 本章はその答えを提示する。キリスト者にあらざる者らは斯く滅びるべし。むろん、それはほんの一端。序の口に過ぎないのだけれど。「ヨハネの黙示録」という書物に相応しい超弩級の滅びの歌劇を堪能しましょう。
 それだけではなんなので、註釈めいたものを2つ。
 イナゴが人に害を加える期間として記される「5ヶ月」はイナゴの生育期間でもあります。生きている間は思う存分人を襲い、死を望んでも死ぬことのできない程の苦しみを与えよ、ということでしょうか。なかなか背筋を寒くさせられることであります。そうそう、イナゴによる災いということで、出エジプトの挿話を思い起こす読者もおられるかもしれませんね(出10:1-20)。
 黙9:14「ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使」。ユーフラテスは勿論古代文明を育んだ母なる川の1つですが、イスラエルにとってそれは神がアブラハムに与える約束の地の東境(創15:18)であり、同時に滅びを伴う(列強の)侵入の譬えでもあります。これはユーフラテスの向こう岸でアッシリアや新旧バビロニア、メディアやペルシアといった古代オリエントの支配国家が繰り返し勃興したからでしょう。そうなると、4人の天使はイスラエルを脅かして国家と民を揺るがした、上述の列強諸国の比喩であることはいうまでもありません。
 いやぁ、それにしても引用した黙9:6、死を望んでも死ぬことができない、とはなによりも恐ろしいことでありますね。



 毎度のことだが、ブログ原稿の清書部分は2、3時間あれば自然と書けるのだが、日々付属するエッセイについてはいつも頭を悩ませる。聖書部分をPCで入力する段になっても、なにを書くか、まだ決めあぐねている。一つ、二つのアウトラインでもあれば前に進むことができるのだけれど……。なにも思い浮かばない間はひたすら苦痛ですね。
 どうしてこのスタイルを採用したのか、と後悔することはないけれど、書くことが決まらない以上、最悪の場合、今日は安息日にしちゃおうかな、と逃げの一手を講じたくなることもある。幸いと実行したことがまだないのは、ささやかな自慢といえようか。◆

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第2355日目 〈ヨハネの黙示録第8章:〈第七の封印が開かれる〉&〈天使のラッパと災い〉1/2with加藤シゲアキ『ピンクとグレー』を読みました。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第8章です。

 黙8:1-5〈第七の封印が開かれる〉
 小羊が第7の封印を開くと、半時間程だが天は沈黙に包まれた。神の御前に7人の天使が立つのを、わたしは視た。かれらに7つのラッパが与えられた。
 いずこからか、別の天使が来た。手には金の香炉を持っている。その天使は祭壇のそばに立ち、多くの香を受け取った。というのも、すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前の金の祭壇に供え、ささげるためである。香の煙が立ちのぼり、聖なる者たちの祈りと共に神の御前にそれは届いた。
 天使が香炉を取ると、それに祭壇の火を満たして地上へ投げた。すると地上では、雷が轟き、稲妻が光り、様々な音が全地に響き、大きな地震が起こった。

 黙8:6-13〈天使のラッパと災い〉1/2
 それぞれラッパを渡された7人の天使は、構えて吹く用意をした。
 第1の天使がラッパを吹くと、血の混ざった雹と火が生じて地上へ投げ入れられた。地上の1/3、木々の1/3が焼かれて滅び、すべての青草も焼き尽くされた。
 第2の天使がラッパを吹くと、燃え盛る大きな山のようなものが海に投げ入れられた。すると、海の1/3が血に変わった。血の色に染まったのではない。血に変わったのである。また、神の被造物のうち海に住む生き物の1/3が死に、船という船の1/3がことごとく壊された。
 第3の天使がラッパを吹くと、松明のように明るく燃える大きな星が天から落ちてきて、川という川の1/3と水源に落下した。星が落ちたところの水は例外なく苦かった。毒にも等しい苦さだったので、それを口に含んだ者は皆死んだ。天から落ちてきたその星の名が「ニガヨモギ」というたからである。
 ──一連の様子を空から見ていた鷲が、こういった。地上に住む者らよ、お前たちは不幸だ、まだこれから3人の天使がラッパを吹こうとしているのだから。不幸だ、不幸だ、不幸だ、……。

 特段添えるべき補注やお話はないのですが、それでも敢えて1つだけ。
 1986年4月、旧ソヴィエト連邦のウクライナ・ソビエト社会主義共和国にてチェルノブイリ原子力発電所が炉心溶融を起こして世界最大級、レベル7という事故につながりました。概要や原因、経緯等についてはWikipediaに詳細がありますが、図書館などでそれについて書かれた紙資料も博捜して、この事故について知りたい方は事実に近附いてほしく思います。
 さて。当時高校生であったわたくしはその後降った雨に放射能が含まれており、傘をささずにそれを浴び続けると髪の毛が抜けてしまうぞ、と脅された覚えのある者ですが、ところで「チェルノブイリ」とはどのような意味かご存知ですか?
 それはウクライナ語で「ニガヨモギ」を意味するそう。然り、本日読んだ第3の天使が吹いたラッパに呼応して天から落ちてきた星が「チェルノブイリ」なのであります。
 原発事故が起こった際は勿論、今日に至るまでチェルノブイリ原発事故と「ヨハネの黙示録」の相似が指摘され、事故はあらかじめ聖書のなかで予告されていた、と騒ぐ向きがありました。本当に予言であったのか、ただの偶然の一致なのか、それはわかりかねますが、容易に重ね合わせられることだけに頷かされるのであります。
 わたくし? わたくしは……もしかしたらそうなのかもしれないね、というぐらいの思いです。勿論、これは小説に使えるな、と考えはしましたけれどね。



 加藤シゲアキ『ピンクとグレー』(角川文庫)を読了。荒削りな部分もあるけれど、才能は確かにある人だ、と偉そうにもそう感じました。最終章のカット割りに当初はこんがらかってしまったけれど、これはたぶんわたくしが読書に意識を集中できなかった証拠。改めて読み返しましょう。
 さりながら本作は実に疾走感と喪失感に満ちた、痛々しい心の記録。こんな小説を物し得た加藤シゲアキにもはやジャニタレ作家なんて肩書きは失礼であろう。斯くも切れ味鋭い小説を書いたかれに思わず、嫉妬。
 この人の小説がもっともっと読みたいか? 正直なところ、まだ判断できません。好きか苦手か、それさえも、また。処女作の本書1冊だけで判断できようはずもない。明日からは2作目の小説である『閃光スクランブル』(同)を読みますが、それを読み終えたとき抱いた気持ちに従ってこの作家を追いかけるか否か、じっくり検討したく思います。◆

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第2354日目 〈ヨハネの黙示録第7章:〈刻印を押されたイスラエルの子ら〉&〈白い衣を着た大群衆〉with新しいブログ開設を視野に入れる。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第7章です。

 黙7:1-8〈刻印を押されたイスラエルの子ら〉
 わたしは視た、大地の四隅に4人の天使が立っているのを。かれらは四隅からの風を押さえつけ、大地にも木にも海にも吹きつけないようにしていた。また、もう1人の天使が現れるのも視た。その天使は手に神の刻印を持っている。かれは太陽の昇る方角から現れた。
 最後の天使が先の4人の天使にいった。神の僕たちすべての額に刻印を押し終えるまで、大地にも木にも海にも害を加えてはならない、と。4人の天使たちは大地と木と海に害を加える力を与えられていたからである。
 そうしてわたしはヨハネは神の刻印を押される人々の数を聞いた。その数は144,000人。イスラエルの12部族から選ばれた12,000人ずつが額に刻印を押された。ユダ族から、ルベン族から、ガド族から、アシェル族から、ナフタリ族から、マナセ族から、シメオン族から、レビ族から、イサカル族から、ゼブルン族から、ヨセフ族から、ベニヤミン族から、選ばれた12,000人ずつが額に刻印を押されたのである。

 黙7:9-17〈白い衣を着た大群衆〉
 その後、更にわたしは視た。あらゆる国民、あらゆる民族、あらゆる種族、あらゆる言語の使用者が、全地の民のなかから集い来たったのを。かれらは皆白い衣を着、手にはナツメヤシの枝を持っていた。かれらは玉座の前と子羊の前に立ち、大きな声で、救いは玉座に坐る神と子羊のものである、といった。
 また、4人の天使は玉座と長老たちと4頭の生き物を囲むようにして立っていた。かれらは玉座の前にひれ伏して、そこに坐る神を礼拝した。讃美と感謝、栄光と力、知恵と誉れ、威力が世々限りなくわれらが神にありますように。アーメン。
 それを視、聞くわたしに長老の1人が話しかけた。この白い衣を着た者らがどこから来たか、知っているか。わたしは、それはあなたの方がご存知です、と答えた。すると、長老はこういった、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙7:14)と。
 続けて、──かれらは玉座の前にいて、夜となく昼となく神殿で神に仕えるものである。かれらはもはや飢えることも渇くこともない。なにものもかれらを襲わない。
 「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」(黙7:17)

 イスラエルの12部族すべてを列記するのは何年振りでしょう。錆びついた記憶を鞭打ってみても思い出すことかなわず、それは無駄な努力と諦めました。そうして気附いたのは、嗣業の地を分割した当初は後の南王国の領内に自分たちの土地を得たものの事情あって北方へ移ったダン族(ヨシュ19:40-48)の名が見当たらぬことであります。部族を半分に分かたれていたマナセ族、嗣業の地をその職能ゆえに相続せぬレビ族は当然のようにこのリストへは載るにもかかわらず、ダン族はなぜ?
 思うに北方へ第2の嗣業の地を得たダン族はその規模、その場所からアラムを初めとする異民族の偶像崇拝に抵抗する力弱く、段々と染まってしまったのではあるまいか。神の道を正しく歩むことも神の目に正しいと映ることも継続できず、次第次第に本来の信仰をなくしていったのではあるまいか(わたくしにはそんな風に思えてなりません)。──となれば、「ヨハネの黙示録」に於いて神の刻印を額に押される部族のリストから外されている理由もわかる、というものです。
 ダン族を除く12部族の選ばれた者が144,000人というのは、部族を示す12に2乗して1,000を掛けた積であります。実際の人数というよりも、「無数」を示す象徴的数字と考えるのがよいでしょう。聖書を読んでいると象徴としての数字にしばしば出喰わします。聖書読書もあと数週間で終わることですし、そのあと落ち着いたら機を見て数字についてのエッセイを1編、認めてみましょうか。聖書読書が終わったあとにやりたいこと、書きたいことがたくさんありすぎて、どれだけ実現するかわからないけれど、数字のエッセイは400字詰め原稿用紙2枚程度の短いものになったとしても、書いてみたいなぁ、と思うております。
 黙7:14「大きな苦難」とはローマ帝国に於けるキリスト教弾圧、キリスト者迫害を指します。ローマ時代のそれについては既に本書〈前夜〉にて述べました。そちらをご参照いただければ幸いであります。

 本日の旧約聖書は黙7:3とエゼ9:4、黙7:16とイザ49:10、黙7:17aとエゼ34:23、黙7:17bと詩23:2、黙7:17cとイザ25:8。



 もう1つ、ブログを新たに立ちあげる(この表現は正しいか?)つもりでいます。
 来月からはこれまでのように雑駁な話が、相手と顔を合わせてできなくなるであろう環境へ飛びこむことになる。今後、かれらに紹介できるような、かれらが訪問してくれるようなブログを作っておきたいのです。
 今回の環境の変化はあらゆる意味で、<吉>と出るか<凶>と出るかわからないので、たとえいまの場所を離れても自分史上最強の仲間たちとつながり続けていたいのですよ。そのためのツールとの1つとして、新しいブログというわけです。
 さて、実際に立ちあげるとして、どんなブログにしようかな……。◆

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第2353日目 〈ヨハネの黙示録第6章:〈六つの封印が開かれる〉with最近、日付が付いてないよね、と質問してきたあなたに。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第6章です。

 黙6:1-17〈六つの封印が開かれる〉
 わたしが視る幻のなかで──
 小羊が第1の封印を開くと、4頭の生き物のうち第1の生き物が雷のような声で「出て来い」といった。すると、白い馬が現れた。乗り手は手に弓を持っていた。乗り手は冠を与えられると、勝利の上に更なる勝利を重ねようと出て行った。
 小羊が第2の封印を開くと、第2の生き物が「出て来い」といった。すると、火のように赤い馬が現れた。その乗り手には、地上から平和をことごとく奪って殺し合いをさせる力と、大きな剣が与えられた。
 小羊が第3の封印を開くと、第3の生き物が「出て来い」といった。すると、手に秤を持つ乗り手が黒い馬を駆って現れた。4頭の生き物の間から、小麦1コイニクスで1デナリオン、大麦3コイニクスで1デナリオン、オリーブ油とぶどう酒を忘れるな、と唱える声のようなものが聞こえた。
 小羊が第4の封印を開くと、第4の生き物が「出て来い」といった。すると、「死」と呼ばれる乗り手が駆る黒い馬が現れた。それには「陰府」が付き従っている。「彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。」(黙6:8)
 小羊が第5の封印を開いたとき、わたしは祭壇の下に、殉教した人々の魂が群れる様を目にした。かれらは主に向かって、どうしていつまで経っても裁きを行おうとしないのか、われらを死に至らしめた者らに血の復讐を行わないのか、と叫び、訴えた。主は1人1人に白い衣を与えた。そうして、殉教者の数が満ちるまでなおしばらく静かに待っておれ、といった。
 小羊が第6の封印を開くと、──
 「そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。」(黙6:12-14)
 身分や職業に関係なく全知の人々は洞穴や山の岩間に隠れ、それらが自分たちの上から覆いかぶさって、玉座に坐る方の顔と小羊の怒りからわれらを守れ、と訴え、願った。
 ……神と小羊の怒りの大いなる日が訪れた。誰がそれに耐え得よう。……

 封印が開かれる毎に終末の色は濃くなってゆく。われらが思い描く黙示録の役者と舞台が着々と揃い、整いつつある。そんな感が致します。緊張感と切迫感、事態の急転と深刻、悲愴と混迷と絶望を読み手に抱かせる、短くも充実した背景を持つ一章といえましょう。
 尊崇の念から馬を駆る者──騎士は、どうしても「乗り手」としたかった。勿論「黒の乗り手」即ちナズグルのイメージをそれらへ重ねておりますゆえに。
 久々に登場した単位のことを。1コイニクスは容量の単位で約1.1リットル。1デナリオンはローマの通貨単位で1日の労働で支払われる金額──今日風にいえば時給1000円の仕事に8時間従事しての日当、と考えればよいでしょうか。

 本日の旧約聖書は黙6:4とゼカ1:8及び同6:2、黙6:8とエゼ5:17及び14:21、黙6:12とイザ13:10及び同34:4並びにエゼ32:7-8又ヨエ2:10及び同3:4と同4:15(ex;マタ24:29)。黙6:13-14とイザ34:4、黙6:15とイザ2:19及び同21、黙6:17とヨエ2:11及びマラ3:2。



 皆様からのご質問に答えてみようか、と思います(たまにはね)。
 近頃いちばん多いのは、「どうして最近はタイトルに日付を記さないんですか?」という内容でした。やっぱり気になりますよねぇ。わたくしも実は気になっている、どうしてなんだろうね。……すみません、ボケてみました。
 ではマジメに。
 ところで皆様、新約聖書の目次と本ブログの「マイカテゴリー」を較べて、然るべき位置に「ヤコブの手紙」がないことをご存知でしょうか。いちばん下にそれはあるのですが、然るべき位置では断じてない。これが日付を付けていない最大にして唯一無二の理由であります。
 「ヤコブの手紙」のノートはすべて完了しております。前後の原稿調整も予定は立っております。ただわたくしに粘り強さと勤勉さ、そうしてかつてのような使命感が欠けてしまっているために、空白の日々が生まれ、日付を持たぬ記事が絶賛量産中な次第。
 先日、どうにか日付を持つ〈「ヤコブの手紙」前夜〉はアップしたものの、以後はすっかり当該書簡のノートはお披露目できず終い。現在は「ヨハネの黙示録」読了をのみ目指して毎日を過ごしています。為、「ヤコブの手紙」は前後のエッセイと併せて後回しになっており……。
 おそらく、「ヨハネの黙示録」が終わるまで過去記事に日付を付すことはできないと思います。聖書読書完了から『ザ・ライジング』連載開始まで、1週間ばかり本ブログはお休みをいただくことを予定しているので、その間に一念発起して日付を付すだけの単純作業に勤しみたいものです。
 納得いただけるような、いただけないような、まぁいつもながらのお話ですが、上記を以てご質問への回答とさせていただきたく──。
 そのうち他のご質問に答える新たな機会があれば良いな、と思います。◆

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第2352日目 〈ヨハネの黙示録第5章:〈小羊こそ巻物を開くにふさわしい〉with映画『REC』シリーズを再鑑賞して気附いた悔しさ。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第5章です。

 黙5:1-11〈小羊こそ巻物を開くにふさわしい〉
 わたしは視た、玉座に坐る方の右の手に1つの巻物があるのを。それは表も裏も字で埋め尽くされており、7つの封印で閉じられていた。わたしは聞いた、1人の力強い天使が、この巻物の封を解いて開くことのできる者、見ることのできる者のありやなしや、と問うのを。その声に答える者は誰もなかった、天にも地にも地の下にも。
 わたしは号泣した。そんなわたしに1人の長老が話しかけた。曰く、泣くな、見よ、ユダ族の獅子にしてダビデのひこばえ、かれが勝利を得たのであの巻物を開いて読むことができる、と。
 わたしは視た、玉座と4頭の生き物と長老たちの間に屠られた小羊が立っているのを。小羊は7つの角と7つの目を持っていた。小羊は玉座の方へ進み出て、そこに坐る方の右の手からかの巻物を受け取った。
 そのとき、4頭の生き物と24人の長老は、竪琴と、香がたっぷり入った金の鉢とを手に持ち、小羊の前にひれ伏した。そうしてかれらは新しい歌をうたった。あなたは巻物を受け取って封印を解くのに相応しい方、と。続けて、──
 「あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、/彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。/彼らは地上を統治します。」(黙5:9-10)
 わたしは視て、聞いた。万の数万倍、千の数千倍になんなんとする数の天使たち、天と地と地の下と海にいるすべての被造物とそこにいるあらゆるものが、口を揃えて異口同音に、それぞれ屠られた小羊を讃えるのを。

 屠られた小羊とは「イザヤ書」にてメシア即ちキリストを表現した語であります。神が持つ巻物──神の秘められた計画が書き綴られた巻物を開封する資格、読む資格、ここでは書かれておりませんが実行する資格を持つのは、屠られた小羊のみなのだ、というのが本章の主旨。後半は専らキリストを讃える場面なので、そう脂汗垂れ流して読解に懸命となる必要はないでしょう。
 この屠られた小羊が持つ7本の角は王権を、7つの目は全知を、それぞれ意味します。これはわれらがいままでの新約聖書読書に於いて培ってきたキリストのイメージ或いは権能と、ぴたり、と重なり合いますね。
 なお、黙5:5「ダビデのひこばえ」の「ひこばえ」。これは木の切り株から生える若芽のこと。ヤコブによって獅子と称されたユダ族の者ダビデの家系からイエスが誕生して、人類の罪を己が血によって贖い、神の右に坐ることを許されたメシアとして信徒の前に立つことを、たった一語で説明し得た表現であります。

 本日の旧約聖書は黙5:5と創49:9、黙5:6とイザ53:7。



 CSにて『REC』シリーズ全4作の一挙放送があったので、迷わず録画した……といいたいのだが、「3」と「4」についてはさる事情あり後日別々に録画することとなり、いまは帰宅してから寝るまでの間になんとか時間を捻出して鑑賞中である。
 まだ「2」も公開されていない頃に「1」を観て、あんまり……など残念な発言を本ブログにて、した。数年を経て再び鑑賞してみて、以前よりは面白く観たのだけれど、感想やら採点やらが180度変化する事態とはならず、本シリーズに対する自分の包容力の限界を痛感させられただけであった。
 おそらく、わたくしが『REC』シリーズを評価できないのは悔しさゆえだ。映画監督を夢見た10代の時分、に作りたい、と望んだホラー映画のスタイルを実現させられてしまったから。シリーズを通して徐々に謎が解明されてゆくパニック劇を小説として書いてみたい、と企んでいたのが、あっさりと実現されてしまったから(『LOST』では悔しさとか嫉妬とか感じなかったね……。こういうものを作るは自分の手に余る、と自覚させられたから!)。
 愛憎相半ばする? うん、そうかもね。しかし、プロであれアマであれ、フィクションを作り出す者は誰でもこんなジレンマを抱えるのではないか。あ、ちくしょう、俺がやりたかったことをこいつ、やりやがった! こんなことなら俺が、出来は未熟でもさっさと手掛けておくんだった! そんな悔しさと嫉妬を、フィクションの作り手ならば生涯に何度となく抱えて身悶えるのではないか。
 それにしても「2」のラスト、最上階での継承シーンはなんだかえげつないですね。で、これが実は「4」への伏線となっており……あはぁ……。◆

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第2351日目 〈ヨハネの黙示録第4章:〈天上の礼拝〉with新共同訳聖書の引用一覧に抱く疑問。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第4章です。

 黙4:1-11〈天上の礼拝〉
 幻視は続いた。開かれた門が天にあった。最初に聞いた声がわたしをそこへ導き、このあと必ず起こることを見せる、といった。すると、わたしはたちまち“霊”に満たされた。
 ──天には玉座があって、そこに坐る方があった。その姿は碧玉や赤めのうのように輝いている。玉座からは稲妻や轟音や雷鳴が絶え間なく鳴り響き、その前には神の7つの霊を示す7つの灯し火があった。玉座の前は水晶に似たガラスの海のようである。そうして、玉座のまわりには虹が架かっていた。
 さて。玉座のまわりに24の座が設けられていたが、そこには白い衣を纏って金の冠をかぶった24人の長老が座っていた。
 また、玉座の中央とそのまわりには4頭の生き物がいる。第一の生き物はまるで獅子のよう。第二の生き物は若い雄牛のよう。第三の生き物は人間のような顔を持つ。第四の生き物は空飛ぶ鷲のよう。生き物の体には前にも後ろにも、目がびっしりと付いていた。それぞれに6枚ずつある翼にも、周囲と内側にびっしりと目が付いていた。
 かれらは夜となく昼となく、神と主キリストを讃える言葉をいっていた。曰く、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、と。こうやって4頭の生き物は、玉座に坐る、世々限りなく生きる方の栄光と誉れを讃える感謝をささげている。
 それを承けて、今度は24人の長老たちが玉座の前にひれ伏し、世々限りなく生きる方を礼拝し、冠を玉座の前に投げ出して、いった。曰く、──
 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。/あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」(黙4:11)

 本章から「黙示録」の「黙示録」たる譬喩や象徴的表現など用いた記述が始まります。正直なところを告白すれば、読んでも書いても迷い、悩み、頭を抱えました。書き直しを試みて出来上がったのは、やはりというべきか、やや表現をアレンジしたに過ぎぬものでしかなく……これからを思うと嘆息してしまうのでありました。右往左往の末、公開が常の時間より遅くなったことをお詫び致します。
 黙4:4「二十四人の長老」とはイスラエルの12部族の長プラスキリストの12使徒を指しております。そこまで踏みこんで特定していながら、或る考えではイスラエルの12部族の長を以て旧イスラエル(旧約聖書の時代)を代表させ、残り12人の長老を以て新イスラエル(新約聖書の時代)を代表させる、という。新イスラエルの代表が12使徒をいうのか否か、調べても明確な根拠は見出せなかったのだけれど、わたくし個人はキリストの玉座に侍る者として12使徒をあてるのは頗る自然なことと思うのであります。もっとも、そうなると最初の殉教者であるステファノやキリストの福音を異邦人の地にまで広げて回ったパウロはどうなる、という話になりますが……。
 黙4:7に出る「四つの生き物」は「エゼキエル書」や「ダニエル書」に極似の描写のされた生き物が登場しています。世界のすべてを、隅々まで見渡す目を持っています。わたくしは最初、「獣」としてノートを進めましたが、違和感を覚えて先の章を読んだり、「ダニエル書」など読み返して結局「生き物」に戻しました。これら象徴的存在はおそらく「ケルビム」なのでしょう。ケルビムは契約の箱の装飾になっている、エデンの園の命の木の守り役として創3:24にあるのが初出。数いる神の使いのなかでも上位にある存在であります。但し、「ダニエル書」にて描かれる4頭はあくまで「獣」です。これから地上に現れる4人の王を暗喩したものでありました。黙19:4にてかれらが再び、24人の長老とともに神と主キリストを讃えている光景にわれらは出会う。

 本日の旧約聖書は黙4:7-8とエゼ1:5-7及び同10並びにエゼ10:12及び14そうしてダニ7:3-7、黙4:8とイザ6:3。



 「ヨハネの黙示録」の著者は旧約聖書に精通した人物だ、という。それゆえに旧約聖書を踏まえた描写も多い、と。読んでみて納得しているところだが、釈然としない点が実はある。というても「ヨハネの黙示録」そのものについてではない。
 新共同訳聖書の巻末には「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」というのがある。マタ27:46は詩22:2が引用されている、という具合に。この一覧は「ペトロの手紙 二」で終わっていて、そのあとは一切ない。まるで旧約聖書を引用した文章は以後登場しない、とでもいうかのように。
 この一覧があくまで引用であり、踏まえたものを対象としていないのはじゅうぶん承知だ。が、「黙示録」に於いても一覧に載るのと同じ意味合いで旧約聖書の引用はある。イゼベル(黙2:20)や4頭の生き物(黙4:6-8)などがそうだ。4頭の生き物による讃美も然り。
 どうして「ヨハネの手紙 一」以後の引用箇所を新共同訳は切り捨てるのか。直接的な引用ではないから、といわれればそれまでだが、どうにも釈然としない。回答を求める気はないが示唆だけでも欲しい。たといわたくしの一知半解ぶりを嘲笑われ、蔑まれる結果となろうとも。
 引照箇所が載る新共同訳聖書を遣えばよい、なんて声は勿論受け付けられない。聞きたくもない。だってそれが窮極的に正解だもの。◆

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第2350日目 〈ヨハネの黙示録第3章:〈サルディスにある教会にあてた手紙〉、〈フィラデルフィアにある教会にあてた手紙〉他withS.キング『ミスター・メルセデス』を買いました。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第3章です。

 黙3:1-6〈サルディスにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、サルディス教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。生きているとは名ばかりで実は死んでいることを知っている。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを叱咤し、強めよ。あなたは自分たちの行いが神の前に完全である、と主張する。わたしは認めない。あなたは死にかけているのだ。目を覚まして悔い改めよ。「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」(黙3:3)
 が、幸いなことにサルディスには衣を汚さずに済んでいる者が少なからず存在する。かれらは白い衣を着てわたしと共に歩くだろう。かれらはそうするに相応しい。
 勝利者にこの白い衣を着させよう。かれの名が命の書から抹消されることはない。わたしはかれの名を、父の前で公然といい表す。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 黙3:7-13〈フィラデルフィアにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、フィラデルフィア教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。弱かったあなたがわたしの言葉を守り、わが名を知らないと偽証することもなく、よくわたしの教えに従ったことを知っている。
 サタンの集いに属する人々のなかにはユダヤ人を自称する者がいる。しかし、それは偽称である。わたしは、あなた方の足下にかれらをひれ伏させよう。そこまでしてようやくかれらは、わたしの愛があなた方に注がれていることを知るだろう。
 「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(黙3:10)
 わたしはすぐに来る。だからそれまで自分に与えられたものを固く守っていなさい。
 勝利者をわが神の神殿の柱としよう。かれがそこから立ち去ることはもうない。わたしはその上にわたしの神の都、即ち新しいエルサレムの名を、わたしの新しい名と共に書き記そう。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 黙3:14-22〈ラオディキアにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、フィラデルフィア教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたが熱くもなく冷たくもないことを知っている。あなたがあまりに生温いので、吐き出してしまいたい程だ。どちらかであってくれればいいものを。
 あなたは自分が金持ちであることを誇る。自分は満ち足りていて、改めて必要なものなどなに一つない、と豪語する。あなたは自分がわかっていないようだ。あなたは惨めで哀れで、貧しく、盲目で、裸である。わたしはあなたに、火で精錬された金をわたしから買うよう奨める。裕福になるように。わたしはあなたに、裸の恥を隠すための白い衣や見えない目に塗る薬を買うよう奨める。
 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(黙3:19)
 わたしは戸口に立って扉を叩く。その音を聞いて扉を開ける者と一緒にわたしは食事を取ろう。わたしは勝利者を自分と同じ座に坐らせてあげよう。かつてわたしが御父と共にその玉座に坐ったのと同じように。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 昨日のエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ各教会宛の手紙を読むと、個々の教会がどのような障害に見舞われているのか、或いはその教会がどのような状況にあるのか、推察することができました。
 対して本日のサルディス、フィラデルフィア、ラオディキア各教会宛の手紙では、それぞれの教会が(手紙が書かれた当時は)どのような体質を持っていたのか、よりはっきりと記されております。即ちサルディス教会はもはや「死に体」同然で、フィラデルフィア教会は篤信家が集い、ラオディキア教会はどっちつかずの態度を示しているのです。
 主キリストの言葉を額面通り信じるならば、向けられた言葉の激しいのは最後のラオディキア教会へのそれであります。信仰のあるやなしや、どっちつかずのあなた方の態度にわたしはもう反吐が出そうだ、どちらかに態度を決めろ、と主は迫る。
 そのなかに出る「火で精錬された金」(黙3:18)はキリストに従う者への霊的なまことの賜物である、とフランシスコ会訳の註釈はいう(P697)。これがあることで人は真の意味で、神が求めるのと同じ意味で富者となるのであります。
 黙3:18は一読、神を信じるかどうしようか、心を決めかねている者を信徒にせんが為の買収のように見える文章ですが、勿論そうではない。教会の構成員であり、信徒であるならば態度を決めかねているということ自体があり得ぬ話なのです。神の目に正しいと映ることを行い、神の道をまっすぐ歩くならば、霊的賜物を約束通り与えもするし真の意味での富者にもなれる、そうして「白い衣」(黙3:4及び18)即ち弱い人間が持っている惨めさを覆い隠す神の恵みの象徴(フランシスコ会訳 P697)を与えて、あなた方を癒やそう、というのであります。
 黙3:12に出る「わたしの新しい名」ですが、終末の時にキリストが勝利者に与える栄光に満ちた、永遠不変の名前である、とされているそう。一方ではキリスト再臨の時に信徒のみが知ることができるキリストの新しい名である、とも。これについてはわたくしからどちらかの説を支持することはやめておきます。わたくし自身、どちらに与する意見を持っているのか、しかと考えてはいないからであります。

 本日の旧約聖書は黙3:7とイザ22:22、黙3:12とイザ62:2。



 また未読の海外小説が溜まってしまいました。スティーヴン・キング『ミスター・メルセデス』上下(文藝春秋)を会社帰りに買ってきたのです。お陰で本日の聖書読書はまったくこなすことができず、明日から自転車操業の日々が始まるのは必至。
 でも、構いません。「ヨハネの黙示録」が終わるまでは脇目も振らずにその読書と執筆に勤しもう、と決めてはいても、キングの小説を発売日に買うことはそれに優先されるべき事項なのですから。まぁ、購入しても未読のキング本の山に積むことしかいまはできないのですが……。
 9月中旬に「ヨハネの黙示録」を読み終え、未読の小説の山を片附けた後、憂うことなくまだ読んでいないキングの小説群に溺れることと致しましょう。その日の訪れがいまは唯一の生きる希望。大袈裟ではない、本心からの思いである。笑うな。◆

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第2349日目 〈ヨハネの黙示録第2章:〈エフェソにある教会にあてた手紙〉、〈スミルナにある教会にあてた手紙〉他with加藤シゲアキ『ピンクとグレー』を読み始めました。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第2章です。

 黙2:1-7〈エフェソにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、エフェソ教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたの行いと忍耐と労苦をわたしは知っている。自らを使徒と偽証する者どもを徹底的に調べあげ、その嘘を見抜いたことを知っている。わたしの名のために我慢し、疲れ果てたりすることなく、よく忍耐したことを知っている。
 が、あなたへいうておかねばならぬことがある。それは、あなたが初めの愛から離れてしまったことだ。顧みて反省し、悔い改めなさい。初めの頃の行いに立ち戻りなさい。悔い改める様子がなければわたしはあなたのところへ行き、あなたの燭台を取りあげる。
 一方、あなたには取り柄もある。それはニコライ派に与さず、わたし同様憎んでいることだ。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。勝利者には神の楽園にある命の木の実を食べさせてあげよう。

 黙2:8-11〈スミルナにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、スミルナ教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたの苦難や貧しさをわたしは知っている(だがしかし、あなたは本当は豊かなのだ)。自称ユダヤ人があなたを非難していることを知っている。が、かれらはユダヤ人ではない。サタンの集いに属する連衆である。
 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」(黙2:10)
 悪魔があなたの何人かを捕らえて牢に入れようとしている。それはあなたを試すためだ。あなたは10日間、それゆえに苦しめられるだろう。
 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙2:10)
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。勝利者は第二の死からけっして害を受けることがない。

 黙2:12-17〈ペルガモンにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、ペルガモン教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたが住む所がどのような場所か知っている。そこにはサタンの王座がある。そこではわたしの忠実な証人アンティパスが殺された。が、そのようなときでもあなたはわたしに対する信仰を捨てなかった。
 が、少しばかりあなたにいうておかねばならぬことがある。ペルガモンにはバラクの教えの信奉者がいる。同じく、ニコライ派の教えの信奉者もいる。悔い改めよ、かれらゆえに。その様子がなければわたしはあなたのところへ行き、わたしの口の剣をかざしてかれらと戦おう。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。勝利者には隠されていたマンナと白い小石を与える。白い小石には受取り手以外は知ることのできない新しい名前が記されている。

 黙2:18-29〈ティアティラにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、ティアティラ教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたの行いと奉仕、愛と信仰、忍耐を知っている。更に、近頃のあなたの行いが以前の行いに優っていることを知っている。
 が、あなたへいうておかねばならぬことがある。あなたはイゼベルというあの女の振る舞いを大目に見ているが、それはよくない。彼女は預言者と自ら称してわれらが僕たる人々に偶像へ供えた肉を食べさせたり、淫らな行いに耽らせたりするなど、誤ったことを教えている。悔い改めの機会を与えても無駄だった。為にわたしはこの女を床に伏せさせる。また、悔い改めないならば彼女に惑わされて淫らな行いに興じた者を非道い苦しみに遭わせ、彼女の教えを受け入れて従った衆を打ち殺そう。──斯くしてすべての教会はわたしこそが正しいことを悟る。
 ティアティラの人々のなかでイゼベルの教えに耳を傾けず、サタンの奥深い秘密へ触れていないあなた方に、わたしはこういおう。けっして別の重荷を背負わせたりはしない、と。わたしが行くときまでいま持っているものを固く守れ、と。
 勝利者に、わたしの業を最後まで守り続ける者に、諸国民の上に立つ権威を与えよう。わたしも父から同じ権威を授けられたのだ。
 「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」(黙2:28)
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 ニコライ派とは信仰がありさえすれば偶像崇拝をしても、淫行に耽っても構わない、現世の快楽享受を肯定する、当時小アジアで流行ったキリスト教の一派であります。使6:5アンティオキア出身の改宗者ニコラオに従う人々をニコライ派と呼ぶ。
 ニコラオが新約聖書に当該箇所以外に登場することはないので、かれが実際にどのようなことを宣べ伝えていたのか定かでないけれど、もしニコライ派が本当にニコラオに起因する一派であるならば、かの時代に小アジアで拡大していたグノーシス派の教えと融合して一派を成し、それが本章にて「警戒せよ」といわれるまでに成長していったのかもしれません。
 黙2:20のイゼベルは人名というよりもあだ名と捉えた方がよさそうです。或る属性の女性に関せられる形容詞にも似たあだ名。つまり、民を異教崇拝、もしくは背教に導く役として、ティアティラ教会の信徒たちの切り崩しを図った女性がいた。それがまるで北王国イスラエルの王アハブの后イゼベルを思わせるものであったので、確証せられた、というのは実情だったのではないでしょうか。
 「マカバイ記 二」に南王国ユダの預言者エレミヤについて触れた場面がありました。晩年のエレミヤが契約の箱と幕屋を携えて、ネボ山とされる山へ出掛けた、という場面であります(二マカ2:4-8)。黙2:17「隠されたマンナ」はエレミヤが山中の洞穴に運んだ契約の箱のなかに収められた、といわれます。これは終末の時に契約の箱と共に見出されるとされ、永遠の命を示している、と考えられている由。
 なお、本来なら昨日も申しあげたように、手紙が宛てられた7つの教会がある町について場所や来歴、特記事項など述べるつもりでおりましたが、検討してみるに分量的にも体力的にも時間的にも今日明日の原稿に組みこむのは難しい、と判断致しました。為、この件に関してはなるべく早いうちに、たとえば1日2回更新の日を設けて、「ヨハネの黙示録」が佳境に入る前に消化することと致します。ご寛恕願いたく──。

 本日の旧約聖書は黙2:14と民22:5及び同31:16並びに申23:4、黙2:17と出16:14-15(ex;二マカ2:4-8)、黙2:20と王上16:31及び同18:4と同章19、同21:1-16並びに王下9:7と同章30-37(イゼベル)。



 2日続けて『リカーシブル』の話題は避けようと思う。というのも昨日の原稿を書いた約1時間半後に読了、その感想を認めるか否か、思案に暮れているためである。
 『ボトルネック』に端を発して『儚い羊たちの祝宴』、『さよなら妖精』を経てようやく米澤穂信を脱した今日からは、ややテイストを変えて(というてもこれまた予定通りなのだが)加藤シゲアキ『ピンクとグレー』(角川文庫)を読み始めた。
 NEWSのメンバーが本腰入れて小説を書き、それがずいぶんと小説好きの間でも評判が高く、かつ映画化もされる程の話題作ということは、地元の書店に平積みされていることからも推察できたが、正直なところ、わたくしは殆ど関心がなかった。有川浩のエッセイ集『倒れるときは前のめり』に収録された書評を読まなければ、たぶん買って読んでみようとは思わなかったであろう1冊である。
 まだようやく第2章に差し掛かったところゆえ発言は控えるが、これはなかなかの秀作と思うた。先を読ませるだけの力はある。芸能人の書いた小説ということで色眼鏡で見ていた部分なきにしもあらず、そんな読まず嫌いの偏見が手伝って敬遠していた自分が恥ずかしくなるぐらい、この小説はアタリかもしれない、という興奮と熱狂に囚われているのだ。
 デビュー作もまだ手にしたばかり、という状態ゆえ何事かを発言することはためらわれるが、これだけはいえるだろう。『ピンクとグレー』と次に読む予定の『閃光スクランブル』(同)を読み終えたら、古本屋や新古書店を回ってまだ文庫化されていない作品を探して購い、読むことになるのだろうな、ということは。
 さて、それでは寝に就くまでのわずかな時間、この将来性たっぷりな新人作家の小説を楽しむとしよう。◆

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第2348日目 〈ヨハネの黙示録第1章:〈序文と挨拶〉&〈天上におられるキリストの姿〉with米澤穂信『リカーシブル』の表面的第一印象〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第1章です。

 黙1:1-8〈序文と挨拶〉
 これはイエス・キリストによる黙示である。間もなく起こるであろうはずのことを僕に伝えるため、神がキリストに与え、キリストが天使を派遣して僕ヨハネ、即ちわたしへ伝えたものである。わたしはそれをすべて、ここに記録した。
 「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」(黙1:3)
 アジア州の7つの教会へ、イエス・キリストの愛と恵みと平和が与えられますように。
 われらへの愛ゆえ自身の血によってわれらを罪から解放してくれた方へ。われらを王とし、御父である神に仕える祭司としてくれた方へ。栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
 神である主、かつていて、いまもいて、これからもいる方、全能者がこういった、わたしはアルファでありオメガである、と。

 黙1:9-20〈天上におられるキリストの姿〉
 わたしはヨハネ。イエス・キリストに結ばれ、その苦難、支配、忍耐にあずかる者。また神の言葉とイエスの証しゆえにここパトモス島へつながれている者。
 或る年の主の日のこと。その日、“霊”に満たされていたわたしは、背後でラッパのように響く大きな声を聞いた。その声曰く、あなたの視ていることを巻物に記し、7つの教会に書き送れ、と。その教会とはエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアである。
 わたしは声の主を確かめようと振り返ってみた。すると、7つの金の燭台が見えた。その中央には人の子らしき姿があり、足許まで届く衣を着、胸には金の帯を締めている。その頭、その髪は白い羊毛に似ており、雪のように白い。目はまるで燃え盛る炎で、足は炉で精錬された真鍮の如くに輝いていた。口からは鋭い両刃の剣が出、顔は強烈な輝きを放つ太陽のよう。右手には7つの星を持っている。
 見るやわたしはその方の足許に倒れこんで、死んだようになった。するとその方はわたしの頭に右手を置き、恐れるな、といった。続けて、──
 わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持つ。「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」(黙1:19)
 あなたはわたしの右の手に7つの星を見、また7つの金の燭台を見た。その秘められた意味とはこうだ。7つの星は7つの教会の天使たち、7つの金の燭台は7つの教会である。

 「主の日」とは安息日に当たりますが、普通の安息日ではない。福音書に拠ればイエスはニサンの月の13日金曜日に処刑されて、3日目の同月15日日曜日に復活した。「主の日」とはまさにこの復活の日のことであり、キリスト教や信徒にとって最重要な安息日なのであります。この日にヨハネがイエス・キリストの声を聞き、それに導かれて黙示の幻を視たのは、とても意味深いもののように思えてなりません。
 黙示文学に於いて未来に起きる出来事やそれをあらかじめ伝える存在の描写は、時に擬人化され、時に譬喩で武装してされることがあります。擬人化ということでは「ダニエル書」がそうでしたし、譬喩ということでは本日の黙1:13-16や預言書なれど「エゼキエル書」がありました。これを読み解くのはなかなか困難を伴うことがあるけれど、一種のレトリックだと考えれば比較的取り付きやすく、またわかりやすいと思います。
 黙1:11にてエフェソ以下7つの地名が挙げられておりますが、個々については明日明後日の当該章にて位置や特記事項など述べるつもりでおります。

 本日の旧約聖書は黙1:7とダニ7:13及びゼカ12:10。



 順調に2016年下半期の小説読書マラソンは予定を消化中……といいたいところですが、米澤穂信『リカーシブル』(新潮文庫)に取り掛かってからはややペース・ダウンした。理由は幾らでも思い浮かぶ(取って付けられる)けれど、主たる理由はただ一つ。
 一言でいってしまえば、『リカーシブル』の世界に没頭できないのだ。これまで読んできた米澤作品との勝手の違いに戸惑いを感じ、抵抗を覚えるのだ。なんというても10代、しかも中学生になったばかりの女の子の一人称である。これまで読んだなかにも女性の一人称はあった。が、それは太刀洗万智という大人の女性、しかもジャーナリストの一人称である。その語り口の渇き具合に戸惑うたり、抵抗を感じることはなかった。が、『リカーシブル』は……。
 ようやく後半1/5に差し掛かったところで物語は一気に加速し、語り口も拙さと幼さを脱して来たが、正直、そこに至るまでは読書がきつかった。そのうちにこちらを裏切るように物語は面白くなるはず、と信じてページを繰るのだが、それもけっこうきつく感じる日が多く……読書を始めてから約10日、本を開かなかった日は幾日あるだろう。
 とはいえ、上記は本稿初稿執筆時にはまだ物語が劇的に動き始める直前まで抱いていた、作品への表面的第一印象に過ぎぬ。読み返していただければおわかりのはずだ、内容についてはただの一歩も踏みこんでいないことに。これがなにを意味するか、賢明なる読者諸兄はおわかりだろう。そうしてこんな台詞がどのような結末を辿るかも。呵々。◆

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第2347日目 〈「ヨハネの黙示録」前夜〉 [ヨハネの黙示録]

 新約聖書の最後に置かれた「ヨハネの黙示録」は、新約聖書唯一の黙示文学であります。
 黙示文学とはなにか。世人から隠されていた秘儀が覆い(ヴェール)を取り除かれて明らかにされる。それが「黙示」の定義。秘儀とは神が統べ、主がいる天上に属する事柄で、この世が終末の日を迎えて新たな神の国、新たなエルサレムが代わって現れることを指す。黙示文学とはそうしたことどもを象徴的表現を用いて語ったものである。──細かいことをいいだしたらキリがないけれど、黙示とは? 黙示文学とは? と訊かれたら、まずは斯く回答しておけばよいように思います。
 付言しますと、旧新約聖書正典のうち、黙示文学に分類されるのは「ダニエル書」と本書の2書。旧約聖書続編まで視野に入れれば「エズラ記(ラテン語)」があります。が、「イザヤ書」から「マラキ書」までの15の預言書も黙示文学の性質を一端なりとも持っている、といえます。それらもまたこの世の終末について語り、神の国の到来を伝える箇所があるからです。
 ところで「ヨハネの黙示録」とはどのような書物なのでしょう。著者や執筆年代・場所といったことから筆を起こしますと、──
 イエスの母マリアの世話を託された12使徒の1人、ヨハネが本書の著者とされます。ご多分に漏れず別人説もありますが、ここではその問題について立ち入りません。イエスに付き従った12使徒のなかでヨハネはただ1人殉教を免れ、最後まで生き永らえて安寧のうちに息を引き取った、といわれます。1度はローマ兵に捕らえられて処刑が実行されますが、どんな過ちがあったのか、実際死に至ることはなく一命を取り留め、小アジア沖合のパトモス島へ流されます。その後流刑は解除され、ヨハネはアジア州エフェソへ移って庵を結び、死ぬまでそこで暮らした由。
 パトモス島にてヨハネは主キリストの言葉を聞き、それに導かれて終末にまつわる幻、ヴィジョンを視ました。が、実際に筆を執り書物として著されたのはエフェソに於いてであった、と考えられます。〈「ヨハネの手紙 一」前夜〉で述べたことの繰り返しになりますが、わたくしには幻視の地パトモス島にて「黙示録」の筆を執るだけの心的物質的余裕(余力、という方がよいか)がヨハネにあったとは俄かに信じられないし、思えもしないのであります。やはり本書は3つの書簡同様、パトモス島での流刑解除後、エフェソ移住後にその地で書かれたのでありましょう。
 となれば執筆年代は──ローマ帝国によるキリスト教弾圧がヨハネ流刑の原因となっているのは間違いないけれど、それはネロ帝よりも90年代にそれを実施したドミティアヌス帝の御代であったろう。流刑解除がドミティアヌス帝の御代が終わってからなのか、定かでないけれど、いずれにせよ世紀の変わり目前後であったろう、と推測されます。
 パトモス島でヨハネが視た幻は終末にまつわるものであったのは既述の通り。屠られた子羊によって7つの封印が開かれるのに続いて、7人の天使がそれぞれラッパを吹く毎に終わりの瞬間が近附いて来、また神の怒りが盛られた7つの鉢の中身が地上へ注がれる。大淫婦バビロン即ちローマ帝国滅亡とその後の千年王国の訪れ、サタンとの最終決戦、新しい天と新しい地と新しいエルサレムの出現、そうしてキリスト再臨。それらをヨハネは幻視した。
 こうした一連の幻は当時のキリスト者の間に漂っていた不安を反映したものでした。ゴルゴタの丘でイエスが死んで以来、キリスト者はずっと主の再臨を待ち望んでいました。それは必ず来る、近い将来に実現する、とかれらは信じ続けた。
 が、現実はどうだろう? ナザレ人イエスが十字架上で死んで半世紀以上が経つと、教会の構成員の世代交代も進み、かつての12使徒もその殆どが既に亡く、ローマ帝国による大規模なキリスト教弾圧、信徒の迫害/逮捕/処刑が日常化したような世相にあってはキリスト再臨を疑ったり、信じられなくなってしまったり、希望を捨ててしまうような人も増えたでありましょう。
 おまけにドミティアヌス帝は神なる皇帝を礼拝せよ、トラヤヌス帝は死したる皇帝をも神として礼拝せよ、と、キリスト者には棄教へつながるお触れをローマ市民に発布しました。キリスト教迫害の端緒はまさしくこの皇帝礼拝の拒絶にあったのです。
 斯様にして当時のキリスト者の抱く不安が幻視に反映し、「ヨハネの黙示録」が執筆された時代背景となったのであります。
 そう考えると、本書もまた希望と励ましの書といえるかもしれません。主の再臨は必ずある。それ一点を足掛かりにして、希望と信心の萎えた信徒を励ます側面を本書は持っているのであります。
 ──「創世記」や福音書と同じぐらい、数多の人々によって、数多の言葉によって、数多の書物によって、「ヨハネの黙示録」は語られてきました。その内容は至極真っ当なものから些か眉唾、キワ物的なものまでが千差万別なこともあって、初学者は聖書全体の最後に鎮座坐す「ヨハネの黙示録」へのアプローチをためらってしまう傾向がある。告白;わたくしとて例外ではない。読書の開始を予定より数日遅らせてしまったのも、要因の主たるところはそこにありました。腰が引けてしまったのですね。
 しかし、いまや抜錨の時。これまでに読んできた68の書物同様、本書を読むに際してもキリスト教神学がどうとか譬喩がどうとかなんていう余計な知識に振り回されることはせず──したくてもできない、というのが本当のところですが──、眼前に置かれて開かれている本書、「ヨハネの黙示録」を一つの物語として楽しみながら読むことに重きを置こうと思う。
 序にいえば、われらは既に聖書を読む前から「ヨハネの黙示録」に出る固有名詞や表現などに親しんでおります。映画『オーメン』シリーズで悪魔の数字とされた「666」は黙13:8を出典としますし、『幻魔大戦』や『デビルマン』で夙に知られる「ハルマゲドン」は黙16:16に出る地名です。また、慣用句として用いられもする「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」は黙22:13に見られます。それがわかれば少しは気構えも減るのでは?
 それでは明日から1日1章の原則で、「ヨハネの黙示録」を読んでゆきましょう。◆

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第2346日目 〈聖書読書ノートブログ再開のお知らせ〉 [ヨハネの黙示録]

 お待たせしました。聖書読書ノートとしての本ブログを明日から再開させます。
 キリスト教に於ける人類の救いの歴史の最終形態/最終段階が如何なる風に提示されるのか。「ヨハネの黙示録」が描くのはまさしくそこであり、同時に人類(=キリスト者)にもたらされる救いと新しい世界の訪れとキリスト再臨の希望であります。もう少し立ち入ったことは明日の〈「ヨハネの黙示録」前夜〉やそれ以後の各章に於いて触れてゆきましょう。
 非キリスト者にとっても手に余る感のある書物でありますが、ここが最後の正念場、堪え所、踏ん張り所。「ダニエル書」のときのように調べた結果に縛り付けられるような愚は繰り返さない。なによりも「エズラ記(ラテン語)」の轍は踏まない。
 「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙22:18-19)◆

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