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第2565日目 〈『ザ・ライジング』エピローグ 1/1〉 [小説 ザ・ライジング]

 二〇〇三年十二月二十五日、午後一時二十三分。
 室内は閑散として実際以上に広く見えた。昨夜目が覚めたときにそばにいた看護婦に訊くと、ここは自宅から一キロばかり離れた市道町の千本病院だという。真南に面しているため、冬のやわらかな陽射しが差しこみ、暖房を入れる必要を感じないぐらいだった。眼下には子持川がさざ波をきらめかせて流れている。本来は二人部屋なのだが、いまは希美一人ということもあって、室内を仕切るカーテンは取り外されている。空いていたベッドやテレビも、ロッカーさえも運び出されていた。実際以上に部屋は広く見える。沼津署の計らいということだったが、大げさだな、とそれを聞かされたとき、希美は苦笑しながら思った。この部屋のある病棟の看護婦達からは、どうやら警察の関係者であると思われているらしい。ベッドで眠る希美を訝しげに見る看護婦の視線から、重要人物待遇で慮られているのがよくわかった。さすがに面と向かってはいわないけれど、「あなた、いったい何者なんです?」と問いたげな看護婦の視線がときどき感じられた。
 いま、病室には彼女の他は誰もいない。静かだった。希美は広げていた新聞をたたんで、テーブルに置いた。同じように四分の一の大きさにたたまれた新聞が何紙か、既に積み重ねられている。どれも目覚めてすぐ、看護婦に頼んで揃えてもらったものだ。目的は白井正樹の死亡記事。どの新聞もほぼ似たような扱いでその記事を載せていた。通り一遍の事実だけが綴られ、テレヴィで知った以上の情報はまったく得られなかった。それは即ち、希美が求める情報は欠落していることを意味していた。池本先生はなんで私の大切な人の命を奪ったのだろう。そこに痴情のもつれがあったのか、それとも、たまたま白井がその場に居合わせてしまったのか……。それを希美は知りたがっていた。池本玲子は逮捕されてから何一つ喋ろうとしていないらしい。
 深く長い溜め息がもれた。視線が新聞の山から窓外に向けられた。
 一生忘れられないクリスマスになっちゃったな……。なんだかふしぎ。この半年で両親と死別し、将来を誓った男性と出逢い、永別した。いったい今年ってなんていう年なんだろう。
 扉をノックする音が聞こえた。「はあい?」と返事すると、細く開けられた隙間から美緒が顔を出した。前髪が目にかかり、唇が薄く開いて心配そうな顔つきだった。扉を後ろ手に閉めて所在なげに立つ美緒に、希美は坐るよう促した。小走りに示された丸椅子へ移動する美緒を見て、希美はやすらかであたたかな気持ちを胸の底に覚えた。と、それと共に、なにごとかを隠している表情でもあるのが、気にかかった。しかし、それはあまりいまは気にならなかった。美緒がここにいるというだけで幸せだったからだ。
 「もう起きてるんだね。よかった……」
 「いろいろ心配かけちゃってごめんね」毛布の上で両掌を合わせて希美はいった。「でも、うれしかった。みんなが来てくれて……真里ちゃんや田部井さんまで」
 頷きながら美緒は「みんな、希美ちゃんが好きなんだよ」といった。「警察や消防署の人がたくさんいて、びっくりしちゃった」と笑顔で付け加え。
 それからしばらく二人の間に沈黙が訪れた。が、決して居心地の悪い沈黙ではなかった。むしろ幸せさえ感じられる沈黙だった。彩織や藤葉、真里のときとは異なるそれだった。――沈黙は美緒の「そうだ」という小さな声で破られた。
 「希美ちゃんに渡すものがあったんだ」そういいながら美緒はトートバッグの中を漁った。「それで一人で来たんだよね……」
 「渡すもの?」おおよそ察しはついたが、そうか、あれを美緒ちゃんに渡していたんだっけ……。
 「うん、そう。――あ、これだ。はい」と美緒が差し出したのはA4大の茶封筒だった。中身は死のうと決めた直後に電気のつかない自分の部屋で綴った日記帳だ。美緒ちゃんへ送っておけば安全だ。そう思って封筒に宛名を書いたのは、果たして本当の出来事だったようだ。記憶が混濁していないことに、感謝。
 「日記だね」
 「今朝届いたの」美緒がいった。「ごめんね、――最後の日の日記だけだけど、読んじゃった」
 「謝らくていいよ。読んでもらうつもりで送ったんだから」封筒を受け取りながら希美はいった。
 「希美ちゃん……」美緒は涙のあふれてきた顔を両手で覆いながら、丸椅子からベッドの縁に腰を動かした。そのとき、美緒の頭の片隅を、赤塚さんのことは黙っていよう、という思いがよぎった。それは、また別の機会のお話だ。ややあって、すすり泣く声が病室に響いた。
 「ふーちゃんを責めないでね。私が内緒にして、って頼んだんだから」希美は手を伸ばして優しく美緒を抱き寄せた。気のせいか、泣き声はほんの少しながらやんだような気がする。胸元がやけに熱く感じられる。そういえば、この前は逆だったっけ。希美は数日前をふと思い出した。
 それから何分かして美緒が希美から離れた。涙で濡れた顔をハンカチで拭いた。照れ笑いを浮かべる美緒をこんなに愛しく思ったことはなかった。
 ……ふいに欠伸が出た。時計を見ると――誰かが買ってきてくれたのかしら、この時計?――起きてからもう二時間が経とうとしている。まだ体力が回復したわけでもなく、日常生活を支障なくこなせるレベルではないよ、お金は心配しなくていいから、今年は病院で検査とリハビリに専念しなさい、とさっき検診に来た河井医師がいっていたのを思い出した。長時間起きているのは体に負担をかけるだけ、ってことか。静岡の叔父さんは海外出張中で連絡がつかない、ともいっていたっけ。
 「もう帰るね。希美ちゃん、疲れているみたいだし」そういって美緒は立ちあがった。希美は美緒の気遣いに感謝して、敢えて引き留めようとしなかった。「明日の面会時間にみんなで来るね。……若菜さんも一緒の方がいい?」
 「うーん……」と希美は腕組みをして何秒か考えこんだ。「じゃあ、お願い。着替えを用意しなくちゃならないから」
 美緒は頷いて「それじゃあ」というと、手を振って病室を出て行った。
 希美はそれを見送ると、そのままベッドへ倒れこみ、毛布を顎の下まで引っ張りあげた。天井を仰いでなにとはなしに、来し方へ思いを馳せた。
 ――。
 深町希美は一時間後に寝に就いた。そうして夢を見た。それは大きな海原を望む砂浜を、自分よりも背の高い誰かと一緒になって歩いている夢だった。◆
『ザ・ライジング』完


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第2564日目 〈『ザ・ライジング』第5章 24/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 美緒が行ってしまうと、希美と藤葉だけがその場に残された。二人には友人と救急隊員達のやりとりが、ずっと離れた世界でのさざめきのように、そして、現実の外側の世界から聞こえてくるように感じられた。自分の体を支える藤葉を気遣って、希美は「もう大丈夫だよ」といった。
 「もう死のうなんて思わない、って約束して」と藤葉がいった。途端、涙があふれてき、希美の顔に何粒か降りかかった。「ののちゃんがいなくなったら、私、私……」
 「安心して、ふーちゃん。――私はもうここにいる。ね?」と希美。てへてへといつもの笑みを浮かべながら。そして、「でも、私の台詞じゃないよね」と付け加えた。
 救急隊員らがようやく立ちあがって担架を持ち直し、再び走り始めた。陣頭指揮を執っているのは彩織だった。
 それを背中越しに眺めていた藤葉に、希美は心配げな表情で声をかけた。
 「ふーちゃん――あのことは……部室でのこと……」
 「うん。誰にも話してない――約束したじゃない」と藤葉は答えた。「話すかどうかはののちゃんが決めることだと思ったから……」
 そうだね、とか細い声でいいながら希美は頷いた。「ごめんね。心配かけて」
 視界の端に三体の、光に包まれた人影が現れた。何気なしにそちらへ目を向けた希美は、あっ、と小さな声をあげた。それきり黙りこくってしまった。藤葉がそれを耳にした様子はない。救急隊員達に「早く!」とせかしていた。希美の視線の先には両親と白井正樹が立っている。三人とも打ち解けた様子で談笑していた。本当の親子を思わせる親密さだった。三人はそれぞれに希美を見つめた。もうなにも語りかけてこないが、彼等の瞳は彼女を想う気持ちに満ちあふれている。――あなたに希望を託して死んでいった人々の想いを裏切らないで。それはもしかすると成長した私じゃなくて、パパやママ、正樹さんからの言葉だったのかもしれない、と希美は少しずつ意識の遠のいてゆく中で呟いてみた。もう弱音なんかいわないよ、――ありがとう。ありがとう。
 ――頼りない騎兵隊が到着した。〈旅の仲間〉の三人プラス真里に声をかけられながら、希美は自分が担架に乗せられ、毛布を掛けられ運ばれてゆくのを感じた。体力の消耗と疲れは極みに達していた。そのせいもあってだろう、そのまま深い眠りの淵へすべりこんでいった。◆

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第2563日目 〈『ザ・ライジング』第5章 23/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 ぼやけていた視界が時間を経るにつれて焦点を結んでゆく。声はすれども姿は見えず。暗闇の中で置き去りにされて声の聞こえる方向へ足をそろりそろりと踏み出す。そんな感覚が心をかすめていった。十数センチしか離れていないところに〈旅の仲間〉の他の面々が揃って自分を取り囲んでいる。激しくむせて意識がはっきりと現実へ戻ってきたときから、それはわかっていた。なのに視界は真っ暗なまま。失明したのかな、と思わないでもなかったが、それにしては、近いところでゆらゆらと光の影がゆらめいていた。一つではなく、幾つも。初めは、幻かしら、目が見えなくなったからこそ見えるもう一つの世界かしら、と思いもしたが、だんだんとそれは寄り集まって大きくなり横に広がり……元いた世界の光景が視界に映りこんでくるようになった。夜の世界にも色彩はある。そう希美が知ったのは、このときだった。ほんの少し眼球を動かすと、藤葉と目が合った。髪ばかりか全身がびしょ濡れだった。白井と決別した刹那の後に聞こえたのは、藤葉の声だったのだ、と合点した。泳いで私を助けに来てくれたんだ、と希美は思った。
 「ののちゃん……よかった……」藤葉が顔をほころばせた。
 「のの……のの……」しゃくり声をあげながら、彩織。
 美緒は涙をぼろぼろ流しながら、必死に笑顔を作ろうとした。
 「ずっと一緒にいてあげればよかった。でも、無事で安心したよ」と真里がいった。
 希美は四人を見あげた。「ごめんね、みんな……。ありがとう……」
 耳をすますと防波堤の方から十数人の男のさんざめく声が聞こえてきた。防波堤のすぐ向こうの空が毒々しいまでの赤色に染まっている。とても慌ただしい雰囲気が、否が応でも伝わってきた。滅多に感じることのない空気だった。無線で駆り出されて取るものも取り敢えず、救急車やパトカーが事故や火災の現場へ集中したときに発生する、緊張で張りつめて落ち着きを失いがちな、あのせわしくも独特な空気。え、これってもしかして――
 「そこの派出所に田部井さんがおったからな。声かけて連絡してもろたんや」と鼻の下をこすりながら彩織がいった。
 「――それにしてもずいぶん来たなあ」防波堤のスロープを降りてくる警官や担架を持った救急隊員達を眺めた真里が、半分呆れた顔でいった。その手はずっと希美の手を握りしめている。そして「よかった……」と呟いた。それは折から吹いてきた風のいたずらで誰の耳にも届かなかった。
 沼津署の面々の先頭には田部井が立っていた。後ろの救急隊員達に希美のいる場所を指で示し、せかしている。こうして見ていると、刑事だった頃の片鱗を窺えるようで面白いな、と束の間、希美は思った。濡れた砂浜に足を取られながらも、数人が近づいてくるのがわかる。と、後ろの一人が足許をよろめかせてうつ伏せに転んだ。わずかの間を置いて、他の三人も砂浜へ倒れこんだ。
 彩織が額をぺちんと叩き、あちゃあ、と呻き、真里と共に救急隊員らの傍らへ走り寄った。まだ新人なのか、砂浜での行動は不馴れのようだった。女二人では難儀しそうだ、と判断したか、美緒もそちらへ足を向けた。立ちあがったとき、ちら、と窺うような眼差しで美緒がこちらを見やるのに気づくと、希美はやわらかな笑みを見せて、ゆっくりと頷いた。□

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第2562日目 〈『ザ・ライジング』第5章 22/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 どうにかして足の届くあたりまでくると、藤葉は片膝をついて立つと、波の来ない場所まで希美を引きずっていった。雨に濡れて湿り気の増した砂浜に、自分の足跡と希美の踵がつける二本の筋が残った。ジーンズや厚手のシャツが肌にぴったり貼りついていたが、重く感じただけで他に寒さや気持ち悪さなどは湧いてこなかった。
 「のの! ふーちゃん!」と叫びながら彩織が寄ってき、希美の両足首を握り持って、藤葉と一緒に、彼女と自分が脱いだコートを重ねて広げた場所まで運んでいった。
 「息は! 呼吸はしてるの!?」真里が訊いた。
 藤葉はぴくりとも動かぬ親友の顔を見つめたまま、「たぶん……。でも、反応がないの」と答えた。
 「ふーちゃん、人工呼吸できたよね? できる、いま?」美緒が不安な表情を向けた。見れば美緒のみならず他の二人の視線も、まるで射すように藤葉へ注がれている。「救急の人達が来るのなんて、待っていられないよ」と美緒。
 「――やってみる」藤葉はいった。希美の双房の間に両掌を重ねて置き、タイミングを計ってぐいと押した。二度繰り返す。屈んで鼻をつまみ、希美の唇に自分を重ねた。必死になって空気を送りこもうとするが、親友の命を助けられるかどうか、まったく自信がなかった。それでも藤葉は憑かれたように人工呼吸を行った。それを傍らにいて、押し潰されそうな気持ちを抱えた美緒が見ていることなぞ、いまの藤葉には構っていられぬ問題だった。
 実際以上の時間が流れたようだった。人工呼吸を始めた希美が最初の反応を見せたのは、きっかり五〇秒後だった。ごほっ、と短くであったけれど、希美がむせるように咳きこんだのだ。三人は歓声をあげた。藤葉はなおもそれを続けた。
 すると希美は体を時折くの字に曲げ、断続的に激しく咳きこむようになった。しばらく続いてやや収まった頃、希美がうっすらと、だが確かに両目を開けた。藤葉は自分の目から涙がこぼれるのを我慢できなかった。□

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第2561日目 〈『ザ・ライジング』第5章 21/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美の手を摑んだとき、藤葉は思わず恐怖を覚えた。凍りついたような冷たさが掌から伝わってきたからだ。一瞬ではあったものの、死体みたい、という思いが頭をよぎった。霊安室に眠る妹の死体が脳裏に浮かんだ。天井からの蛍光灯の明かりが妙に寒々しかった。ドラマに出てくる作り物の霊安室や棺と異なって、すべてが白日の下に曝されて白っぽい印象が残っている。とはいえ、病院の地下にある霊安室とそこにいる自分達(両親と祖父の他に美緒がいた。美緒は木之下若菜が息を引き取る少し前からずっと藤葉に付き添っていた)が精密に作られた舞台セットのように感じられたのも事実だった。その霊安室で触れた妹の冷たくなった体を、希美の手を摑んだ拍子に彼女は思い出し、ぞっとしたのだ。
 ののちゃん、死なないで。藤葉はそれだけを願いながら、希美の脇の下から肩へ手をまわして、岸へと泳いでいった。藤葉の視線がなんの反応も示さずぐったりしたままの希美と、こちらを見て希美と自分の名前を連呼する彩織と美緒、真里の間でしきりと動いた。防波堤の向こう側で赤いランプが点灯している。ぐるぐると夜空に円を描いて点滅していた。それは一つではなく、時間が経つにつれて数を増してきている。空の一部が赤い光に染まって、広げられてゆく。時間が経つにつれて続々と、パトカーや救急車が到着してきたらしい。防波堤のスロープをえっちらおっちらと走ってのぼってゆく田部井の姿が見てとれた。足の届くところまで、あと数メートル……。
 「ののちゃん、しっかりして。もうすぐみんなのところに着くからね!」
 そも希美を見つけたのは美緒だった。突然に現れて天空を染めた光の帯が海をも照らし、そこにゆらゆらと揺れる影法師を見たのだ。「ふーちゃん、あれ……」と促され、指さす方向をたどると、重なり合った二人の人影が藤葉の目にも映った。それが希美と、彼女に別れを告げる白井の姿だ、と藤葉は直感した。やがて片方が消え、片方は崩れるようにして海面へ倒れた。美緒が波打ち際まで走り寄って海に入ろうとした。藤葉はそれを視界の端で捉え、真里と共に制止した。それでもなお海に向かおうとする美緒の肩を摑んで、「あんた、ろくに泳げないじゃない。私が連れてくるから、美緒は彩織や若菜さんとここにいな!」と一喝すると、コートとトレーナーとスニーカーを脱ぎ捨て、波打ち際に歩を進めた。なおもぐずる美緒に藤葉は踵を返してなにかいおうとしたが、彩織に「美緒ちゃんのことはええから、ふーちゃん、早う行ってえな!」とせかした。彩織が美緒の手を引っ張って波打ち際から遠ざけようとしているのを見て、藤葉はじゃぶじゃぶと水をかき分けて海の中へ入っていった。……。□

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第2560日目 〈『ザ・ライジング』第5章 20/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 黒い衣の男は去った。消えたのだ。もう姿を現して冥土に手招くこともないだろう。私が死を望まない限りは決して――。
 澄みきった空を見あげると、無数の星が瞬いていた。いまにも降ってきそうでそら恐ろしい気分さえする。希美は己を岸へ寄せてゆこうとする波に身を委ね、虚空に向かって「ありがとう」と呟いた。開かれた目から涙がこぼれた。真珠の輝きに似た大粒の涙が頬を伝い、海へぽちゃりと落ちた。あの人は……正樹さんは身を挺して(っていうのかな。間違えている気がしないでもないけれど)私を助けてくれた。死んでしまってもなお、婚約者の危機に駆けつけてくれた。西部劇の騎兵隊みたいに……ありがとう。死者も愛するってパパがいってたけれど、それってこういうことなんだね。そうなんでしょ、あなた?
 闇の中から「そうだよ、もちろんさ」と白井が応えた。「ついでにいえばね、死者も歌うんだよ」
 希美は声のした方へ視線を流した。少し離れた海上に白濁した光の筒が伸びていた。その中心に黒い粒子が集まって、影法師になってゆく。それは人間の姿になり、容姿を整えていった。光の筒はそれに反比例して薄くなりはじめた。白井正樹の上半身だけが波の上にあった。彼は生前となんら変わらぬ眼差しで希美を見つめている。
 「正樹さん」と希美はいった。一昨日の宵、緑町の自宅のそばで別れたのが、もう何十年も前の出来事に思えた。最後に逢ったときの姿ではあったが、印象はずいぶんと異なった。まるでセピア色にあせた一葉の写真を眺めるような奇異を感じた。私の夫になるはずだった愛しい男性。「あなたの奥さんになりたかったな……」
 白井の手がすっと伸びて、希美の掌を包んだ。この掌を握ることはもうないんだ、と希美は思った。嗚咽が喉までこみあげてきた。涙をこらえるように唇を噛んだ。目頭が熱くなり、涙に視界が曇った。泣かないで、と白井が語りかけてきた。僕まで泣きたくなっちゃうよ。希美は小さく、うん、うん、と頷いて、白井の掌を握り返した。彼は腕に力をこめて希美を立ちあがらせた。そっと肩に手を寄せた。
 そのとき、希美は気がついた。夜空が表情を変え始めたのを。わずかにちぎれて浮かんでいた雲がすごい勢いで南の空の彼方へ移動してゆく。闇の統べる空は黄金色に照り輝き、刹那の後に再び闇へ色を譲り、空には神秘的な彩りを纏った光の帯が現れ、緑色を基調として、ゆらめいて形を変化させた。いつしか光の帯は渦を巻き、奔流となって、空を覆いつくさんばかりの絨毯となって広がっていった。
 光の帯の舞踏はいつしか数千の粒子となって海面へ降り注いだ。幾つかが二人のまわりに音もなく落ちてきた。光に照らされた自分と白井の姿が影となって海上へ伸びてゆくのを、希美は視界の端で捉えた。
 刹那の後、希美はそっと抱き寄せられた。これまでのどの抱擁よりも官能的で居心地のよいそれだった。白井の胸に頬を寄せ、掌をあてた。ともすれば心臓の鼓動も聞こえてきそうだ。結婚したら、と希美は頭の片隅で考えた。ほとんど毎晩、私はここで眠りに就くことになっていたのかもしれない。開いた掌を拳固にし、体を硬くした。これが最後なら、正樹さん、せめて――
 希美は白井の腕から離れ、彼の首に手を回すと、自分から荒々しく唇を重ねた。互いの唇が何度となくぶつかり合い、相手を激しく求め合った。彼がどんな姿だろうと知ったことか。いまキスしている相手は他の誰でもない、私が生涯で初めて本当に愛した男性なのだから。唇を重ねていたのは途方もなく長い時間に感じられた。だが、どんな幸福もいつかは終わりの時が訪れる。希美は唇を離した。唇に残る火照りとときめきと涙の味を、私は一生忘れないだろう。
 お別れだ、と希美ははっきりと悟った。こうして逢うことはもうない。
 「金輪際、死のうなんて思わないよ。もうなにがあってもへっちゃら」と、体が透け始めた白井にいった。気のせいか、白井の顔が安心したようにほころんだ。
 「あなたの分まで生きるから。いつまでも――パパとママと一緒に、正樹さんも見守っていてね」
 白井がにこやかな顔で頷くのを認めると、希美は、てへてへ、と笑いながら手の甲で涙を拭った。力強く、思い切り。
 白井正樹の姿は見えなくなった。周囲には夜半の海の景色が戻ってきている。
 さよなら、と希美は口の中で呟いた。
 それからややあってのことだった。波間に漂う希美が、「ののちゃん!」と叫びながらこちらへ泳いでくる藤葉に気がついたのは。だが、希美にそれへ応えるだけの体力はなかった。□

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第2559日目 〈『ザ・ライジング』第5章 19/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 隣に誰かの気配を感じた。未知の人ではなく、自分のよく知っている人だった。美緒ちゃんかな、それとも、ふーちゃん? いや、醸し出される雰囲気は母にとてもよく似ている。
 希美はゆっくりとそちらを見やった。視線がほんの少し上から感じられた。服装を見るまでもなく、すぐに女性とわかっていた。そして、徐々に希美にもわかってきていた。――隣に立ってこちらを見ているのが、ほんの少し先の時代の自分だということが。
 視線が合った。二十代の希美の後ろから強烈な光が放たれており、その姿はシルエットになっている。まぶしかった。目をすがめて未来の自分の顔を覗きこもうとしたが、できなかった。全身が鳥肌立ち、畏怖を覚えた。
 やがて二十代の希美が口を開いた。「なにがあろうとも生きなさい。死ぬなんて絶対許さないからね」と有無をいわさぬ厳しい口調だった。希美は息をするのも忘れるぐらいに呆然と、相手の視線に曝されていた。「あなたに希望を託して死んでいった人々の想いを裏切らないで」
 途端、夢の中の光景は色を失って消滅し、海の中の世界があたりに戻ってきた。
 溜め息をついて海面を見あげた。目蓋の裏に熱いものが感じられたが、涙はこぼれてくる様子がない。もしかするともう流れているのかもしれなかったが、波に濡れていてはそれすら定かではない
 あなたに希望を託して死んでいった人々の想いを裏切らないで。
 そうだね……生きよう。そのためにも帰ろう。希美は再び形を取り始めた月を見あげて呟いた。さあ、立ちあがろう。まだ泳げるだけの体力は残っているだろう。そう思って体の向きを変え、手足を動かしてみた。が、筋肉が強張っているせいでなかなか思うようにはいかない。ふーちゃんにあのとき、水泳教えてもらっとけばよかったなあ、と後悔しているときであった――
 目の前に黒い衣の男が現れた。いい加減しつこいなあ、と思わないでもなかったが、出てきてしまったものは仕方ない。はっきりいってやりたかった。なんで私なんかにこだわるのよ!? あんた、ひょっとしてストーカー? でも、口は固く閉ざされてどうやっても開く気配を見せない。黒い衣の男が両腕を大きく広げて、希美を囲いこもうと迫ってきた。その様子に思わず、昨日の午後、自分にのしかかってきた上野宏一の姿を重ねあわせてしまった。希美は反射的に身を縮めて、心の中で叫んだ。――っ助けてッ!!
 それへ応えるように、求めてやまない声が囁いた。「大丈夫だよ、希美ちゃん。僕が必ず君を守るから」
 正樹さんがそばにいる。そう思うだけでずいぶん心強い。希美は腕をやたらと動かした。刹那、大きくてあたたかな掌が触れた。それはほんの少しの間だけだったが希美の手を握り、すぐにほどかれて、離れていった。希美は「ありがとう」と呟き、目蓋を閉じた。両親の姿や思い出が、婚約者の笑顔と思い出が、脳裏を過ぎ去っていった。遠くの方で黒い衣の男の断末魔の悲鳴が轟き、海が揺れて波が逆巻き……やがてそれは徐々に収まっていった。希美は急に体が軽くなったような気がした。豊かな黒髪をあたりに散らした希美を、海は優しく浜辺へ誘った。月が情け深い眼差しでその様を見守っていった。
 砂浜では藤葉と合流した彩織と美緒が、田部井と共に希美の名前を叫び、探していた。□

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第2558日目 〈『ザ・ライジング』第5章 18/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 青白い月が見えた。寒々とした印象を与える色だった。月影はときどき歪み、ゆがんだ。薄紗を敷かれたように白濁して映る。幾何学的な形状へ分断されて破裂し、宙を舞い、そうして散ってゆき。万華鏡のきらめきを彼女は連想した。月はもはや無数の欠片となって空中を漂い、ふわふわと落ちてき、海の雪となって、沈みゆく希美の体のまわりを輪舞した。肌に触れたそれは小さくぷつん、という音をたてて弾けた。それを耳にしながら自然と口許がほころんだ。青白く輝いていた月の欠片はやがて希美を包みこみ、彼女の心から恐怖という感情を根こそぎ払いのけて安堵させた。眼球を動かしてきょろきょろと左右を見渡してみた。深い闇を湛えた海がまわりにあるだけだった。有限の命を持つ者の姿はどこにもない。黒い衣の男の姿も見えない。安心したせいか、急に眠気が襲ってきた。眠っちゃ駄目だ。自分にそういい聞かせてみても、本能の要求には逆らえそうもなかった。ゆっくり目蓋が閉じられていった。
 いつしか希美は緑町の自宅の前にいた。これが夢の中だというのはわかっている。そしてこれが、過去でも現在でもなく、他ならぬ未来の光景だということも。子供の手を引いた真里が家の前にいる。明らかに希美が出てくるのを待っている風だ。何度となく視線が希美の家の玄関に注がれている。子供がなにごとかを母に喋り、真里は腰を屈めて耳を傾けた。男の子なのか女の子なのか、ここからはわからないけれど、四歳ぐらいかしら、と希美は思った。真里ちゃんも何歳なのか知らないけれど、相変わらず背がちっちゃいなあ。あれじゃいつかそのうち、子供に身長追い抜かれちゃうね。そう希美は独りごちて微笑した。傍らをセダン型の車が一台通り抜け、二メートルぐらい離れたところで停まった。いまよりも髪が伸びて落ち着いた雰囲気を纏った彩織が、開いたドアの陰から現れた。彩織は手を振りながら真里達に近づき、二言三言を交わすと、希美宅の門扉のノブに手をかけた。そのときだった、玄関の扉が、がちゃっ、と開かれたのは。
 希美はそこから出てきた人の姿を見て、思わず息を呑み、その場に立ち尽くした。玄関から姿を現したのは二十代後半ぐらいの青年と、その手をしっかりと握った幼稚園にあがるかあがらないかぐらいの年齢の女の子だった。一瞬、希美はその青年が白井正樹だと思った。もしかするとこれは、あり得たはずの未来の光景ではないのか、とそう考えてしまった。だが、青年は愛して殺された男性ではなかった。面立ちはどちらかといえば父に似ている。丸顔で穏和な、ぬーぼーとした感じの青年だった。だが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。青年は真里親子と彩織に挨拶すると、女の子の手を引き、アプローチの階段をおりて門扉を開けて道路へ出てきた。女の子はにこにこと笑顔をこぼしながら彩織に近寄ってまとわりついた。ちょっとおぼつかない足取りだった。彩織も女の子の頭を撫でてしゃがみこみ、額をくっつけて笑いあっている。青年は優しげな表情で、女の子を「朱美」と呼んだ。「彩織おばさんが困ってるよ」と続けていった。それを聞いた彩織が「ひどいなあ、ウチ、まだおばさんやないよお。(そういいながら、真里に彩織は目をやった)真里ちゃんはもうオバハンやけど」といっているのが、希美の耳にも届いた。真里から脳天に拳固を喰らって、彩織は大げさに顔をしかめて見せ、周囲の笑いを誘った。ずうっと変わらないものもあるんだなあ、と希美は思った。それにしても、子供は女の子で、名前は「朱美」っていうんだ、三代続けて「美」の字をつけているんだね。くすり、と笑いながら、あれ、彩織はまだ独身なのかな、と疑問に感じたとき――□

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第2557日目 〈『ザ・ライジング』第5章 17/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 母の運転してきてくれた車が停まった。若山牧水像のある公園の前だった。彩織は「待ってて!」といい残して降りると、散在する水溜まりに街灯の明かりが映る道路を走り出した。二〇メートルほど前方に防波堤が横たわっている。手前の派出所に電気が灯っていた。誰かが詰めているのだ。――誰やろか。ああ、どうか田部井さんでありますように。田部井さんならのののお父さんも知っている、子供の頃からののを知っている。きっと二つ返事で探してくれるに違いない。彩織はおもむろに立ち止まると、勢いよく扉を開けた。途端、田部井巡査と視線が合った。彼は目をぱちくりさせて、頬を上気させた彩織を見ていた。ぽっちゃりした体を椅子から浮かせて中へ招き入れようとする田部井を制し、彩織は「ののが行方不明やねん。きっとそこの海におるんや。はよ探してえな!」と促した。そして派出所を出て、防波堤へ向かった。後ろから沼津署へ連絡を入れている田部井の声が聞こえた。
 彩織は防波堤の階段を一段おきに駆けのぼった。潮の匂いを含んだべとっとする風が襲いかかり、刹那、たたらを踏んだものの、辛うじてその場に留まった。馴れてしまえば大したものではない。いつもと同じではないか。真夜中だから普段は感じない恐怖が心に巣喰うのだ。闇の色をして彼方まで広がる、不気味な波音を轟かせる駿河湾へ目をやりながら、彩織は怖じ気づきそうになる自分にそういい聞かせた。だってののはもっと怖い思いをしているんやから。
 風に乱れて顔にかかる髪をぞんざいに払いのけ、ぐるりと四囲を見渡してみた。遊歩道の左右に目を凝らすが人っ子一人見えない。海上と砂浜を睨視するも生きとし生けるものの姿はなかった。のの、と彩織は口の中で呟いた。どこへ行っちゃったんや……。
 ふと耳をすますと、世界のずっと向こう側から混声合唱の厳かな歌声が聞こえてくる。彩織には聞き覚えのある歌詞だった。昨年の合唱コンクールで歌ったベンジャミン・ブリテンの《五つの花の歌》という合唱曲、その四曲目「月見草」だった。その可憐な花は夜露に濡れて、世捨て人のように光を避け、その美しい花を夜へ無駄に捧げる。そんな意味の歌詞だ。なんだってこんなときにこんな歌なんや……まるで今夜ののののことを歌っているみたい。もっとも、誰のであれ《レクイエム》なんて聴こえてこんだけマシかもな。
 「ののっ!」海へ叫んだ。吹きつける風が言葉を散り散りにしてしまう。それにもめげず、彩織は口のまわりを両掌で囲って、また叫んだ。「ののーっ!!」
 応える声はなかった。防波堤の突端――今年の夏、希美と二人で坐りこんで夕暮れの海を眺めながら、白井先生に告白してきたら、とけしかけてみた突端に掌をついて、彩織は息を呑んだ。すべてを呑みこんでしまうような闇を従えた海が、目の前に広がっている。知らず涙がこぼれて手の甲へ落ちた。のの……どこへ行っちゃったんや。ずっと一緒って約束したやないの。なのにウチを残してどこかへ行っちゃうなんて……。この幼馴染みの彩織ン様との約束を破るなんて、なに考えとんのや。もう、のののアホッタレ。
 そのときだった、彩織の背後から自分を呼ぶ声に気づいたのは。
 のの?
 ――いや、まさか。希美が後ろからひょっこり姿を現そうはずのないことは、彩織はじゅうぶん過ぎるほどわかっていた。
 彩織はゆっくり振り向いた。そこには、胸の前で手袋もしていない両手を合わせて自分を見つめている美緒が、うつろな表情で立っていた。「希美ちゃんは……」という美緒の眼から大粒の涙が頬を伝い落ちた。
 それを見咎めて彩織はその方を摑んで揺さぶった。
 「ののはまだ死んでない! 泣くんだったら死体見てからにせいっ!」
 目を見開いて呆然と彩織を見ていた美緒が、ややあってこっくりと頷いた。彩織は少し顔をやわらげて美緒の肩を叩くと、「ごめんね。大声出したりして」と謝った。
 頭を振った美緒の視線が一点を結んで固まっている。その様子に不審な目を向け、彩織は美緒の視線の先を追った。自転車が倒れている。見覚えがあった。「ふーちゃんのだ……」と美緒が呟くのを聞いて、彩織はあたりを改めて眺め渡した。
 見計らっていたように、砂浜から希美の名前を呼ぶ藤葉の声が聞こえてきた。彩織は美緒と顔を見合わせると互いに手を取って、防波堤から砂浜へ降りられるなだらかなスロープへ足を向けた。
 かくして〈旅の仲間〉は揃った。あと欠けているのは希美だけだった。□

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第2556日目 〈『ザ・ライジング』第5章 16/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 帰宅して彩織から電話で知らされるまで、真里は白井正樹が殺されたことを知らなかった。連絡を受けてすぐに希美の家に行ってみた。湯あがりでパジャマを着、歯も磨いていたが、それでも行ってみた。誰もいなかった。希美は既に海の中にいた時分である。真里は「自分も海に行ってみる」と彩織に連絡し、普段着に着替えて家を後にした。
 いま、真里は千本浜公園を右手に望む、緑町の住宅街の夜道にいた。この道は、希美が公園を抜けて派出所を避けて渡った、あの片側一車線の道路へ続く。幸い雨はあがっている。真里は小走りにその道を海目指した。
 今日はいろんなことがあったな、と額の汗を拭いながら思った。それも全部のの絡みだ。明け方の夢で真里は希美と元町で買い物をしていた。マンションを出てしばらく歩いたところでは希美にそっくりな少女とすれ違った。電車に乗ってぼんやりと外を眺めていても希美の顔ばかりが思い浮かんだ。自宅のそばまで来たら電柱にうずくまる希美本人と再会した。直感でレイプされたのがわかった。もっとも、一日に二度も、四人の男からとは、さすがに気がつかなかったけれど。いずれにせよ、部活の顧問というのが関わっているのは間違いない。畜生、と真里は口の中で呟いた。なんでののまで……あんな辛い出来事を背負うのは自分一人で十分なのに……なんで私の大切な妹までが。
 街灯の光によって路面へ作り出された自分の影法師を見て、彼女はなんの脈絡もなく、幼かった時代の一コマを思い出した。掌に乗るぐらい小さな焦げ茶色したクマのぬいぐるみを、いつも希美は持ち歩いていた。その日、希美は真里の家の庭で遊んでいた。もちろん、クマのぬいぐるみも一緒だ。なんの拍子だったか真里は覚えていないが、ぬいぐるみの頭の布が破れてしまった。中から粗く刻んだ黄土色のウレタンがあふれ出た。それを見た希美は一瞬の間きょとんとしていたが、次には口許が震え、近所に鳴り響くぐらいに大きな声で泣き始めてしまった。真里はすぐにぬいぐるみもろとも希美を抱きしめたが、手に負えず、なにごとかとすっ飛んできた深町恵美の腕の中で、ようやく希美が泣きやむ様を眺めていた。ののにとってあのクマのぬいぐるみは友だちという以上のなにかだったんだ。そう真里は考えた。あのときの希美の、淋しさとも哀しみとも恐怖ともつかぬ表情を、真里はいまでも忘れることができない。希美があのぬいぐるみを捨てることにひどく反対し、駄々をこねているらしいのを、真里は母から聞いた。……それから数日が経って、真里は希美の家に遊びに行った。すると、驚くなかれ、クマはいた。居間のテーブルの上にちょこんと坐って、こちらを見ている。やあ、真里ちゃん、と黒くて垂れた目は語りかけてくるようだった。希美が喜悦の表情を浮かべて真里の横に並んだ。ママがウレタンを詰め直して縫い合わせてくれたんだ、といいながら。手術は成功したのだ。以来、外に持ち歩くことはなくなったけれど、希美がそのぬいぐるみに注ぐ愛情はずっと強く、濃くなったようだ。あのぬいぐるみはまだいるのだろうか、と真里は自問した。最前の久し振りにあがった希美の家のあちらこちらを思い返してみる。玄関、居間、台所、洗面所、浴室、そして、希美の部屋。カンガルーのぬいぐるみがベッドの上で寝転がっていたのは覚えている。が、あのクマのぬいぐるみだけは思い出せない。捨てたのだろうか? 否、と即座に返事があった。そんなことは考えられない。ののがあのクマを捨てたりするはずがない。ののがあのクマを残して死ぬはずがない。――意思弱になる心を奮い立たせるため、真里は自分にそういい聞かせた。
 真里はいつしか小走りに駆け出していた。スニーカーが水溜まりを踏んで水飛沫が散った。誰もいない夜道に真里の足音と荒い息づかいが響いた。青白くさえざえと冷たい輝きを放つ月が雲間から姿を現し、下界を眺めている。あの月の下は海、海には希美がいる。
 あの片側一車線の道路に出ると、左右を横目で確かめて渡った。まっすぐ伸びる路地を進み、防波堤へ駆けあがる。海を一瞥して彼女は妹の名前を叫んだ。返事はなかった。何度叫んでみても、それは同じだった。
 彩織……お前はいま、どこにいるんだよ……お前からの電話で私はここに来た。でも、ののがどこにいるのかわからない。頼むよ、私よりも早く海に来ているのなら、一分でも一秒でも早くののを見つけだして……。
 真里はまるでなにかに突き動かされでもしたように自然と、足を原や富士の方向へ向けて、防波堤を走り始めた。□

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第2555日目 〈『ザ・ライジング』第5章 15/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 藤葉は自転車を停めた。雨で濡れている路面にタイヤが音もなく滑った。脇から水しぶきがあがった。海からは強い風が吹きつけてくる。雨もまだ降りやまぬ天候の下、小諏訪の自宅からずっと自転車を走らせてきた。防波堤の遊歩道に乗り入れた途端、バランスが崩れて倒れ、左の膝小僧をしたたかに打ちつけた。いまもその痛みと疼きを感じる。とはいえ、希美が見つかるまで傷口を見てみる気にはなれない。親友が死のうとしているときに自分の怪我なぞ構っていられるものか。
 手袋をした手で籠に押しこんだデイ・バッグから双眼鏡を摑んだ。黒革のケースから出すのももどかしく目に当てて、海上の砂浜を舐めるように見渡した。どこにも希美の姿はなかった。ののちゃんは絶対この海にいる。寝しなに電話をかけてきた彩織に、藤葉はそう叫んだ。なぜなら藤葉もうつらうつらしながら見たからだ。海の中をおだやかな表情で沈んでゆく希美の姿を。そして、遊歩道から眺める駿河湾の光景を。双眼鏡を覗いて一瞬、ここじゃなかったのかも、と不安になった。が、すぐに、そんなことはない、と思い直した。確信の根拠ははっきりとしないが、藤葉には、もし親友が自ら命を絶つとしたら、この海でしかあり得ない、とわかっていた。
 ののちゃん……。再びペダルを漕ぎ始めた藤葉は、昨年高校一年の初夏、希美と二人で右手の眼下に広がる砂浜で過ごしたときのことを思い出した。思ったより家が近いということがわかったせいもあって、以来、二人はここでとりとめのないお喋りに興ずることがあった。将来のことや恋愛のこと、互いの部活の内輪話等々。その年、冬の日の夕暮れ刻、希美は高校を卒業したら音大に進んで、警察か自衛隊の音楽隊に入りたい、といった。警察? 自衛隊? ダっさー。最初に聞いたときはそう思ったが、数ヶ月後、希美に連れられて浜松市のアクトシティ浜松で行われた海上自衛隊音楽隊の演奏会に接して、当初の印象は吹き飛んだ。それからは藤葉も誘われて都合がつけば(そんな日はほとんどなかったのだが)吹奏楽の演奏会には出掛けていったし、希望通り希美が音楽隊に入れればいいな、と考えている。
 そんな将来の夢を話す希美を横で見ていて、藤葉は中学一年の時に病気で死んだ妹を思い出し、その面影をいつの間にか親友に重ねていた。友だちという以上の奇妙な感覚を初めて会ったときから覚えていたが、いまはもういない妹の姿をだぶらせ、まるで妹へ接するような態度と情愛で希美にこれまで接していたのだ、と知ったのはそのときだった。ののちゃん、お願い、死なないで。妹の分まで生きて……。
 昨日の――何気なく腕時計を見た。もう一時三〇分を回っていた――出来事がまざまざと甦ってきた。吹奏楽部の部室で倒れている希美を発見し、陵辱者に怒りを覚えながらも彼女を介抱したときのこと。ゆっくりと歩調を合わせて隣を歩くものの、なんと声をかけていいのか迷った帰り道のこと。気詰まりな空気に包まれながら駅で別れたときのこと。希美を乗せたバスが遠ざかってゆく宵刻の光景。もしかしたら、もうこのまま会えないんじゃないか、という不安が心をよぎったこと。鳴らない電話に不安になって、希美の携帯電話に何度もかけたのに、留守電にさえつながらなかったこと。死なせてたまるものか、と藤葉は心の中で呟いた。
 彩織から電話があったとき、吹奏楽部の部室での一件を話そうか迷った。結局はいわずにいた。それだけの時間の余裕はなかったし、希美と約束したからだ。誰にも話さない、と。もし誰かに話すとすれば、それはすべて本人が判断することだ。余計なことはしでかさない方がいいというものだ。もしののちゃんが命を落としたら、上野先生、私は絶対に貴方を許さない。
 私に電話する前に美緒にかけた、と彩織はいっていた。藤葉はペダルを漕ぐ足により力をこめながら、そう口の中で呟いた。視線はときどき前方へ、もっぱら右手の砂浜と海に向けられている。彩織にとってののちゃんは家族同然の存在だ。付き合いも長い。私と美緒のそれよりも長い。でも、ののちゃんには彩織以上に付き合いの長い人がいたはずだ。藤葉も何度か顔を合わせ、〈旅の仲間〉の誰彼と一緒にどこかへ出かけたことがあった。隣に住んでいる背が小さくて元気な(ときどきやたらとハイテンションなので疲れを感じるときもあったが)あの人は、名前をなんといったっけ……。お隣のまりちゃん。彩織も希美もそう呼んで実の姉のように慕っていた女性。まり……そうだ、若菜真里さんだ。死んだ妹の名前がその女性の姓だったのが印象に残っている。
 若菜真里さん……ののちゃんが危ないんです。沼津に帰ってきているのなら海まで来てください……。藤葉はそう強く願って、遊歩道を自転車で疾駆した。□

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第2554日目 〈『ザ・ライジング』第5章 14/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 美緒の自宅に彩織から電話がかかってきたのは四〇分ほど前のことだった。トールキンの『シルマリルの物語』を斜め読みして、この前の日曜日に購ってそのまま棚にさしてあるスティーヴン・キングの『ドラゴンの眼』でも読もうかな、と背表紙を眺めながらつらつら考えていた矢先。フランネル生地のパジャマの上にカーディガンを重ね着してベッドへ横になり、時折やってくる眠気をどうにかこらえていた矢先。居間に置いてあるファクス兼用の電話が、静寂のしじまを破ってけたたましく鳴り響いた。こんな時間に誰だろう。そう思う間もなく、電話は三回の呼び出し音で切れた。帰宅してすぐに風呂に入ってあがったばかりの父が取ったのだ。彩織から電話だと知らされて、形容しがたい恐怖が襲ってくるのを感じた。美緒は急ぎ足で居間に向かい、保留ボタンが押された電話の前に立った。電子音で構成されたモーツァルトの《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク》第一楽章が聴こえる。受話器を手にして耳へあてがうと、「もしもし?」という一言も終わらぬうちに彩織が、取り乱してうわずった声で叫んだ。「ののが死んじゃう。美緒ちゃん、早く来てえっ!」
 そしていま、美緒は父の運転するシーマの後部座席にいる。どうかしたのか、と心配して娘の顔を覗きこんだ父は、涙をこぼしながら大切な友だちが危ない目に遭っている、とだけ聞くと、それ以上なにも訊かずに黙って車を出してくれた。雨は小降りになっている。沼津市街に向かう県道三八〇号線を行く車は一台きり。後続車も対向車の姿も見えない。彩織ちゃんのマンションの前を通る道だ、と市境を越えたところで気づいた。もう希美ちゃんに会えたかしら? その疑問に答える声はなかった。闇を車のヘッドライトが鋭利に切り裂く。光の輪の中で銀色の糸しずくが輝いていた。
 希美ちゃん、死のうとしている、ってどういうこと? 白井先生の事件がやっぱり原因なの? 母と妹の三人で夕飯を摂りながら観ていたNHKのニュースで、白井正樹が殺されたと知ったときは、同姓同名の他人だと思っていた。親友の恋人の下の名前まで一々覚えているわけでもなかった。被害者が小田原に住む聖テンプル大学の四年生で、加害者が沼津にある聖テンプル大学付属沼津女子学園の保険医某となれば、美緒でなくともようやく事件を身近に感じ正常な判断ができるようになるというものだ。白井正樹って、まさか白井先生? (これ、あんたの学校の先生? 母が焼き魚の切り身の一片をつまんだ箸を宙に浮かせたまま、長女の顔を見ながら訊いた。あらまあ、という表情だった。突然のことでどう反応していいのかわからなかったのは、美緒も妹も同じだったのだが)希美ちゃん! 美緒は藤葉に電話してみる、といって中坐し、自分の部屋へ駆け戻った。扉を開けるのと、ベッドの上に放ってあった携帯電話が鳴り始めたのは、ほぼ同時だった。ふーちゃん? まさしくその通り。藤葉も同じニュースを観ていてびっくりし、電話をかけてきたのである。とにもかくにも希美が心配だ、という結論になり、二人して親友の自宅に電話をしてみることにした。そのときにはまだ希美は帰っておらず(近所であの三人の男達に車の中で犯されている頃だった)、数時間後には電話さえ通じなくなっていた。希美が自宅の電話ケーブルを抜いていたのである。携帯電話も電源が切ってあるのか、何度かけてみても同じアナウンスが流れた。彩織からも電話がかかってきた。しかし、内容が特に更新されているわけでもなかった。白井の死が希美にどれだけ影響を与えるのか、と美緒は考えてみたけれど、経験もなく、読書によって培われた想像力だけではそこまで思いを巡らせるのはなかなか難しいことだった。ご両親に続いて未来の旦那様までこんな形で失ってしまうなんて……と美緒は思った。私は希美ちゃんになにができるだろう? ああ、私が希美ちゃんを守ってあげたい。私の大切な、愛しいひと……。
 美緒は広げていた掌を固く握りしめた。視線は窓の外へ向けられている。街はもう眠りに就いている。世界から人間が締め出される束の間の時間。だが、この瞬間にも一つの命が消えようとしている。希美ちゃん、生きていて……。涙が拳にした手の甲へ落ちた。
 希美ちゃんの家にいちばん近いのは、ふーちゃんだ。お願い、ふーちゃんだけでも間に合って……。
 車は県道三八〇号線を八幡町の信号で左に折れ、千本浜の方へ向かって走ってゆく。□

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第2553日目 〈『ザ・ライジング』第5章 13/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 美緒の自宅に彩織から電話がかかってきたのは四〇分ほど前のことだった。トールキンの『シルマリルの物語』を斜め読みして、この前の日曜日に購ってそのまま棚にさしてあるスティーヴン・キングの『ドラゴンの眼』でも読もうかな、と背表紙を眺めながらつらつら考えていた矢先。フランネル生地のパジャマの上にカーディガンを重ね着してベッドへ横になり、時折やってくる眠気をどうにかこらえていた矢先。居間に置いてあるファクス兼用の電話が、静寂のしじまを破ってけたたましく鳴り響いた。こんな時間に誰だろう。そう思う間もなく、電話は三回の呼び出し音で切れた。帰宅してすぐに風呂に入ってあがったばかりの父が取ったのだ。彩織から電話だと知らされて、形容しがたい恐怖が襲ってくるのを感じた。美緒は急ぎ足で居間に向かい、保留ボタンが押された電話の前に立った。電子音で構成されたモーツァルトの《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク》第一楽章が聴こえる。受話器を手にして耳へあてがうと、「もしもし?」という一言も終わらぬうちに彩織が、取り乱してうわずった声で叫んだ。「ののが死んじゃう。美緒ちゃん、早く来てえっ!」
 そしていま、美緒は父の運転するシーマの後部座席にいる。どうかしたのか、と心配して娘の顔を覗きこんだ父は、涙をこぼしながら大切な友だちが危ない目に遭っている、とだけ聞くと、それ以上なにも訊かずに黙って車を出してくれた。雨は小降りになっている。沼津市街に向かう県道三八〇号線を行く車は一台きり。後続車も対向車の姿も見えない。彩織ちゃんのマンションの前を通る道だ、と市境を越えたところで気づいた。もう希美ちゃんに会えたかしら? その疑問に答える声はなかった。闇を車のヘッドライトが鋭利に切り裂く。光の輪の中で銀色の糸しずくが輝いていた。
 希美ちゃん、死のうとしている、ってどういうこと? 白井先生の事件がやっぱり原因なの? 母と妹の三人で夕飯を摂りながら観ていたNHKのニュースで、白井正樹が殺されたと知ったときは、同姓同名の他人だと思っていた。親友の恋人の下の名前まで一々覚えているわけでもなかった。被害者が小田原に住む聖テンプル大学の四年生で、加害者が沼津にある聖テンプル大学付属沼津女子学園の保険医某となれば、美緒でなくともようやく事件を身近に感じ正常な判断ができるようになるというものだ。白井正樹って、まさか白井先生? (これ、あんたの学校の先生? 母が焼き魚の切り身の一片をつまんだ箸を宙に浮かせたまま、長女の顔を見ながら訊いた。あらまあ、という表情だった。突然のことでどう反応していいのかわからなかったのは、美緒も妹も同じだったのだが)希美ちゃん! 美緒は藤葉に電話してみる、といって中坐し、自分の部屋へ駆け戻った。扉を開けるのと、ベッドの上に放ってあった携帯電話が鳴り始めたのは、ほぼ同時だった。ふーちゃん? まさしくその通り。藤葉も同じニュースを観ていてびっくりし、電話をかけてきたのである。とにもかくにも希美が心配だ、という結論になり、二人して親友の自宅に電話をしてみることにした。そのときにはまだ希美は帰っておらず(近所であの三人の男達に車の中で犯されている頃だった)、数時間後には電話さえ通じなくなっていた。希美が自宅の電話ケーブルを抜いていたのである。携帯電話も電源が切ってあるのか、何度かけてみても同じアナウンスが流れた。彩織からも電話がかかってきた。しかし、内容が特に更新されているわけでもなかった。白井の死が希美にどれだけ影響を与えるのか、と美緒は考えてみたけれど、経験もなく、読書によって培われた想像力だけではそこまで思いを巡らせるのはなかなか難しいことだった。ご両親に続いて未来の旦那様までこんな形で失ってしまうなんて……と美緒は思った。私は希美ちゃんになにができるだろう? ああ、私が希美ちゃんを守ってあげたい。私の大切な、愛しいひと……。
 美緒は広げていた掌を固く握りしめた。視線は窓の外へ向けられている。街はもう眠りに就いている。世界から人間が締め出される束の間の時間。だが、この瞬間にも一つの命が消えようとしている。希美ちゃん、生きていて……。涙が拳にした手の甲へ落ちた。
 希美ちゃんの家にいちばん近いのは、ふーちゃんだ。お願い、ふーちゃんだけでも間に合って……。
 車は県道三八〇号線を八幡町の信号で左に折れ、千本浜の方へ向かって走ってゆく。□

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第2552日目 〈『ザ・ライジング』第5章 12/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 さあ、立ちあがろう。内なる《声》が囁いた。哀しみはしまって新しい一日に足を踏み出そう。ブルース・スプリングスティーンが“9/11”の十ヶ月後にリリースしたアルバム『ザ・ライジング』に、まるでキーワードのように埋めこまれて立ち現れるフレーズだ。さあ、立ちあがろう。先月、十一月中旬に白井が貸してくれた三枚のCDの中にザ・ボスのこの一枚があった(他にヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの『プランB』とタワー・オブ・パワーのライヴCDがあった)。歌詞カードに何気なく目を通してゆくうちに、そこで語られる人々の想いが、バリ島の爆弾テロ事件で両親を失った希美の想いにぴったり重なり、ブルースからのメッセージがまるで自分に向けられたメッセージに思えてきた。彼女はアルバムをMDにダビングしたが、どうしても自分用に欲しくなって二週間後に通学路の途中にあるツタヤで注文して購ったほどだった。さあ、立ちあがろう。ブルース・スプリングスティーンが語りかける。そうだ、死んでたまるものか。私は生きて生涯を全うしてみせる。さあ、立ちあがろう。さあ、立ちあがろう。さあ、……。
 ゆっくりと足をばたつかせた。短い時間とはいえ伸ばしっぱなしだったので、すぐには思うように動いてくれそうにない。やがて交互に水しぶきを高くあげられるぐらい、、強く水を蹴られるようになった。問題だった体力もどうにか波打ち際へたどり着くまでは持ちそうな気がする。なんとか自力で泳いで帰れそうだ。さあ、帰ろう……陸の上には大好きな人々が待っている。
 そう考えて大きく息を吸い、クロールの姿勢になろうとしたときだった。突然足首が痛いぐらいに強く握られた。希美は思わず息を呑んで声をあげ、後ろを見やった。あの黒い衣の男がいた。相変わらず頭巾を目深にかぶり、表情はさっぱりわからない。赤く輝く眼が二つ、闇を切り裂いてしっかりと見てとれる。視線があって、希美はまるで射すくめられるような恐怖に襲われた。希美に抵抗する気配がないと感じたのか、黒い衣の男がにたりと不気味に笑むと、海中に身を沈めると同時に手に力をこめて、希美の体を道連れに引きずりこんだ。まるで錘をくくりつけられたような気がした。希美の体はただの一秒も休むことなくひたすら海中へ落ちこんでゆく。希美の口から水泡が幾百、幾千となく海面めざして立ちのぼっていった。
 いやだ、まだ死にたくない! 意識が朦朧としてゆく中で希美は叫んだ。
 助けて! 美緒ちゃん! ふーちゃん! 真里ちゃん! 彩織! お願い、ここに来て!!□

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第2551日目 〈『ザ・ライジング』第5章 11/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 だしぬけに心のずっと深いところから、幼い時分の記憶が甦ってきた。父の乗ったバスを追いかけている記憶だった。あれって何歳のときだったんだろう。希美は目を閉じながら考えた。小学校には入学していた。二年生にもなっていた。それ以後であるのは確かだった。彩織が転入してきて同じクラスになったのが、二年生になった年の五月。バスを追いかけながら、沼津署近くのマンションに入居する秋まで彩織一家が暮らしていた賃貸マンションのそばを通ったのも、よく覚えている。だとするとあれは、春の終わりから夏の終わりまでの約三ヶ月のことだったか。あのとき父はおそらく仕事の関係で東京(桜田門にある警視庁かもしれなかったが、いまに至るまで希美はそのときの父の出掛けた先を知らなかった)へ出張しようとしていたのだろう。父と一晩だけ離れて暮らすのは、このときが初めてというわけではない。もうその頃は既に、追いつめた犯人から銃に撃たれて病院に担ぎこまれ、一ヶ月ばかり病院で過ごす父を見舞ったことだってある。なのにこのときばかりは、もう二度と会えないような気がして仕方なかった。もしかするとそれは、母に手伝ってもらいながら父が出張の準備をしている場面を目撃してしまったせいかもしれない。翌朝、父が出掛けるのを見届けると、希美は母の目を盗んで家を抜け出し、バスを追いかけ始めた。お金なんて持っている年齢ではなかったから、駆け足で行くよりなかった。それまで乗っていた自転車は小さくなってしまっており、新しいのを誕生日に買ってあげるね、と約束させられていたから、それを持ち出すのは逆効果だと子供特有の知恵で希美はわかっていた。それにしても、よく子供の足で追いかけられたなあ、と父に抱きしめられながら希美は子供の頃の自分に感心した。バスが信号や停留所で停まるたびに、窓の向こうの父の姿が近づいた。私に気がついてよ、とその都度彼女は叫ぼうとしたが、口の中はからからに渇き、言葉が出てこなかった。結局、駅で切符を買おうとしているところで追いついたんだよね……。その場面を思い出して、希美は苦笑した。びっくりしていたな、パパ。どう言い訳したか覚えてないけど、パパは出張を取りやめて、西武の地下でバニラとチョコレートのミックスソフトクリームを買ってくれたっけ。家に二人して帰った途端、ママのすごく大きな雷が落ちたけど。あの後で父がなんといったか忘れてしまったが、彼は以来、稀にある出張の際は必ず駅まで妻と娘を伴うようになった(希美の学校があるときは終わるのを待って)。そうすれば娘も独断で行動を起こすこともないだろう、という両親の思惑がそこに働いていたのを希美が知ったのは、彼女が中学に進学する頃だった。閑話休題。
 希美は目を開けた。父の姿はもうない。それどころか、海面を仰向けに漂っている。父が現れ、抱かれたのは幻覚だったのだろうか。それとも、回想に耽っている間に密かに父は腕をほどいて、娘の体を海という名のベッドへ寝かせていったのか……。いま視界に映るのは嵐が過ぎ去っていった空と、あちらこちらで瞬く無数の星々、それに、空のところどころに見える刷毛で流したように描かれた雲だけであった。波の音も静かだ。刹那、目蓋を閉じてまた開くと、彼女はじっと夜空を見あげた。□

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第2550日目 〈『ザ・ライジング』第5章 10/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 少しずつであったが、父がゆっくりと希美の方へやって来た。波に自分の体が流されているせいなのか、それとも、本当に父がこちらへやって来ているのか。ぼんやりとした頭で考えてみても判然としなかったが、そうするうちにも父娘の間は徐々に縮まっていた。父が両腕を広げた。抱きしめようとする仕草だった。それがたまらなく胸に響き、希美は涙が目にじわりと浮かぶのを感じた。もう二度とそのあたたかさに出会えるはずのないと信じていた父の抱擁。父と娘の間に淡く存在した、例えようもない独特のエロス。だが、それは決して性を連想させるものではない。如何に足掻いても、父と母の間に流れて結ぶ絆に太刀打ちできるものではなかった。希美は下唇を上の前歯で噛んだ。父は、またそんな顔する、といって顔をしかめた。そこにはどこか、そんな希美を見て楽しんでいる風が窺える。
 もう会えるのはこれで最後かもしれない、っていうのに、なんだってお前は自殺なんて馬鹿げたことをしでかそうとしているんだい? 父はそう娘に質問した。
 最後なの――? もうこれっきり会えなくなっちゃう、ってこと?
 おそるおそる希美は力の入らない腕を伸ばした。海に入ってだいぶ時間が経っていたせいと、海底近くまで沈んだりしたこともあって、彼女の全身からはどんどん体力が奪われていった。いま懸命に伸ばそうとしていた腕も、指は親指以外の四本はくっついて離れず、拳はほんの少し、申し訳程度にゆるめた程度しか開かなかった。辛うじて海面に浮いていられるのがふしぎなくらいだった。するうち、希美の脳裏に一つの疑問が生まれた。このまま岸へ帰り着くことなんて出来るのかしら、という疑問が。帰れなければ、死が待っている。それぐらいはわかったし、そんなのはごめんだ、とも彼女は考えることができた。ああ、そうか、でもそうすればパパのいる世界へ行けるんだよね。そう希美は呟いた。
 希美、と父が呼びかけた。お前にはまだ生きてやらなくちゃならないことがあるんだよ。誰かと結婚して、僕らの墓前に孫を見せに連れてくることだってそうさ。それを聞いた希美は必死になって首を横に振ろうとした。それを父が制した。でもね、じきにそうなるんだよ。僕もこっちへ来て初めて知った、人の一生は生まれたときから定められている、ってね。かわいそうだけど、そういうことなんだよ。
 そういいながら自分のすぐ脇に立った深町徹の手が、力を失って海面へ落ちる直前の希美の手に触れた。その思いがけない感触とぬくもりに、彼女は思わず、どきっ、とした。だって、まるで……。
 一緒に暮らしていた頃みたいだろう? 父が笑顔でいった。そう、死者も生きているんだよ。このことを忘れないで。
 頷きながら希美は聞いた。「そっちへ行くときじゃないの?」
 笑顔を崩さずに父が頷いたのを見て、希美は無性に哀しくなった。生きてゆく、っていうのが、こんなに辛いものだとは知らなかったよ、パパ。
 「まだこっちに来ちゃいけない。あと何十年も人生の残り時間があるんだからね、お前には。さっきはあんなに強く生きたいと望んだじゃないか。あれは嘘じゃないんだろう?」
 「でも、浜辺まで戻れそうもないんだよね。それだけの体力はないみたい。なのに、私はまだ生きなくちゃならないの?」と希美はいった。声がやけに弱々しく耳に届いた。
 再び父が頷き、そうして、娘を抱きあげた。それは彼自身、妻にしたことがないぐらい、壊れ物を大切に取り扱うような抱擁だった。
 父に抱えあげられ、上半身が海上に出た。それを知って希美は、安堵の溜め息をもらした。腰のあたりで波が飛沫をあげている。肩まで垂れていまは幾つかの房にまとまった髪を、冷気が嬲ってゆく。だが、父の体のぬくもりに守られていたからか、希美はどうにか冷たさをこらえられ、そのまま胸に顔を埋めていた。そうしていて、ふと、彼女は思い当たった。白井正樹の腕の中で過ごした安寧の思いと懐かしさが、他ならぬ父親に抱きしめられているときにずっと感じてきた気持ちに、とてもよく似ていることを。そうか、私は正樹さんに父親を求めていたのかもしれない。純粋に好きだったけど、心のどこかで、パパに似た雰囲気を持った正樹さんが気になっていたのか。そう思うと途端に胸が熱くなり、懐かしさと愛おしさがこみあげてきた。と共に、いつでも自分を信じ、守ってくれた父と今度こそ本当のお別れをしなくてならないという事実に、耐え難い哀しさを彼女は覚えていた。□

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第2549日目 〈『ザ・ライジング』第5章 9/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美はずっとテューバを吹いていたいの? 夏の牧歌的な匂いのかよう風を浴びながら、連れだって歩いていた父が突然口を開いてそう訊いてきた。もうそこに自分の姿は見えない。今年の夏の夕暮れに父と散歩したときの光景が、希美の目の前で広がっていた。そのときの風の香りや波の音、防波堤を自分達と同じように闊歩する人の声が自分を取り巻いている。
 その父の質問にこっくりと頷く希美。別にプロになろうとは思わないけれど、できれば音大に進学して、吹奏楽団かオーケストラを持っている企業で働きたい。希美はそんなことをいう自分の声を聞いた。本当は警察か自衛隊の音楽隊に入りたいんだけどね、倍率が厳しいから希望しても私には無理だと思うんだ。父を見あげて、てへ、と笑いながらそういった。
 すると父は、駄目だよ、夢があるなら実現させなきゃ、と厳しくいい放った。夢があるなら実現させるために少しでも努力しなくっちゃね、とも。それはおそらく、自分と結婚したばかりに前途ある未来を放棄した、元ユーフォニアム奏者の妻への悔恨がいわせた台詞であろう。ある時の寝しなに深町徹は妻に、嘱望されていた未来を捨てたことに後悔していないか、と訊ねてしまったことがある。即答であった──否。結婚後は家庭を最優先にしたかったのでユーフォニアム奏者として歩んでいたかもしれない人生を棒に振ったことに未練も後悔もなに一つない、だからあなたはそんなことを気に病む必要はない、と。そうして娘が強要したわけでないのに自分から吹奏楽の道に進み、母親と同じ高校、同じ部活に籍を置くに至ったことに旧姓松本恵美は彼女なりに満足しているようだった。
 希美は夕陽でオレンジ色に染まった海へ目をやった。耳許でさざ波の音がしたかと思うと、それは徐々に大きくなり、波が希美の顔をさっと撫でていった。小さくむせびながらこれまでの光景がすべて幻影で、いまは真夜中の駿河湾の沖を独りぽっちで漂っていることを思い出し、疲れが全身に襲いかかり、四肢から力を奪っていってしまうような感じがした。
 生きて帰れるのかしら? 陸はどれだけ遠いのだろう?
 そんなことを考えていると、はっきりと父の声が聞こえてきた。現実味のある父の声。まるで近くに船がいて、その上から呼びかけられたようだった。
 もちろん、生きて帰れるさ。まだ生きたい、ってあんなに強く望んだじゃないか。それにね、陸はそんなに遠くない。泳いで帰れないわけじゃないから、その点は安心してくれていいよ。
 目を少し右手に動かすと、手を伸ばしてなんとか届くくらいのところに父がいた。生きていたときと同じ、穏和な笑顔でこちらを見ている。
 パパ……。希美の目がたちまち涙に曇っていった。「逢いたかったよ、パパ……」□

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第2548日目 〈『ザ・ライジング』第5章 8/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――耳の奥で管楽器群が半音階の和声を厳粛に、それでいて慄然と奏でるのが聞こえた。それに耳を傾けているといつの間にか、底無しの淵に行き当たって足許を覗きこんだときに襲われる、あの足の裏がぞわぞわし全身が鳥肌だって総毛立つ、感情が千々に乱れる思いがした。だがそれもしばらくして一定のレベルを超えると、その響きが孕む官能美に恍惚とした気分を味わえた。希美はただ一度だけ、そんな気分にさせられてしまうとても美しくて限りなく危険な音楽に出会ったことがある。リヒャルト・ワーグナーの書いた三幕からなるドラマ《トリスタンとイゾルデ》、その第一幕前奏曲がそれだ。二〇世紀があと数年で終わりを告げる年の秋、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、ロッシーニやプッチーニのオペラをこよなく愛していた父になかば無理矢理、母もろとも横浜まで連れて行かれ、折から来日中のクラウディオ・アバド=ベルリン・フィルの《トリスタン》に接し、件の前奏曲がほの暗い会場に響き渡ったとき、希美は得もいわれぬ甘美にして淫靡な香りを漂わせる音楽に全身を硬くし、その響きに忘れられないぐらいの衝撃を受けた。以来父の持つLPやCDの中に《トリスタン》を見つけても、手を伸ばすことがためらわれてならなかった。なぜならばあの夜こそが希美にとって性の目覚めであり、その契機となったのがあの前奏曲だったからだ。いま耳の奥で管楽器群が奏でる半音階の和声は、否応なしに希美に《トリスタン》を連想させた。いまでも、休日の昼さがりに好きなオペラや古楽を聴きながら、お気に入りのロッキング・チェアに腰掛けて目を瞑った父の姿を思い浮かべるのは容易だ。寝ちゃったのかな、と疑問に満ちた視線で父を見、ついで、たいてい一緒になって音楽に耳を傾けていた母を見たものだ。そのたびに母は、ううん寝ていないわよ、とか、寝ちゃったみたいね、と仕草で娘に示した。
 ふと希美は思い考えこんだ、父についてほとんどなにも知らないままだったんじゃないか、と。すれ違いだったわけでも、思春期特有の毛嫌いでもなかったのに、父のことはほとんどなにも知らずにいるのを、彼女はいまになって気がついた。ずっと一緒にいた人なのに……。希美は空を見あげながら、ジーンズのポケットに折りたたんで入れた父の写真にそっと触れた。希美の頬を再び熱い涙がこぼれ、音もなく海に落ちた。ママと二人して突然いなくなっちゃうなんて非道いよ。病気で死んだのなら、まだ諦めもつく。まったく関係のないテロに巻きこまれて死ぬなんて、こんな不条理なことがいったい許されていいの? 私もあのとき、バリに行けばよかった。そうすればこの世に残って悲しまなくても済んだのに。お願い、もう一度姿を見せてよ、パパ。そしてママといる世界へ私を連れてって。それが無理なのならせめて二人が、そしてあの人がいないこの世界で生きてゆく勇気を私に頂戴……。□

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第2547日目 〈『ザ・ライジング』第5章 7/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 雷はもはや遠くへ去ったらしかった。眼球をあちらこちらへさまよわせてみても、空に稲妻の走る光景は映らなかった。海は落ち着きを取り戻していた。うねる波も荒々しい轟きも、ここにはない。自分の体に打ち寄せて砕ける波のさざめく小さな音と、大気に宿る深閑とした静寂の音だけが聞こえる。自分がいちばん愛している海が戻ってきた。母のように優しく父のように懐の深い海に、いま、私はそっと抱かれている。幸せだった。生きとし生けるものすべての故郷である海。その面にぷかりと浮かんで、十二月の凍てついて冴えきった空を見あげているうち、希美の両頬につっと涙が一条ずつ、跡を残して伝わっていった。私……生きてもう一度大地を踏みしめられるのかしら?
 知らず知らずの間に物心ついたときからの記憶が(そのほとんどが希美自身も忘れていた記憶だった)、瞬きをする間もないぐらいの速さで、脳裏を横切っては消えてゆきを繰り返し始めた。走馬燈、っていう奴なのかな、これって。だとしたら私、もう死んじゃうの? ……答える声はなかった。警告を発してくれたあの内なる《声》も。父の声も母の声も。婚約者の声も、あの黒い衣の男の声さえも。
 記憶の断片が一枚、また一枚と切り替わってゆく。映画の観客と同じ視点で、これまでの自分の生活の一コマを眺めてるのは、実に奇妙な気分だった。まるで自分が自分でないような、そんなお尻がむずむずしてくる感じだ。そんな居心地の悪さと共に面映ゆさを覚えるのも、また否定しようのない事実だった。
 そうこうしているうちに、とても懐かしい気分に満たされる記憶の一コマと遭遇し、希美は思わず「あっ……」と声をあげた。それは庭に面した小さな濡れ縁で、母にすり寄って坐っている自分の姿だった。これ……小学生のときじゃないかな。たぶん、四年生の夏。彩織と喧嘩したときだったよね。
 ……だって彩織が他の子とばっかり遊んでいるのに我慢できなかったんだもん。そう記憶の中の希美がいった。母、深町恵美はなにもいわずに、ただ愛娘の黒髪をそっと撫でていた。ずっと口を聞いてくれないんだよ。小学四年生の希美が口を尖らせた。こら、と母がたしなめる。せっかくの美人が台無しよ。ほほえみながらいう母の口許に皺が寄るのを、十七歳の希美は見逃さなかった。あんまりママって皺の目立たない人だったな。目尻の小皺は覚えているけれど、目につくようなものはあんまりなかったような気がする――皺が目立たない体質だったのかもしれない。見馴れてしまっていたからはっきり思い出せないのかも。それとも、化粧が上手だったのか……。のんちゃん、と怒りの調子の含まれた声が耳許でしたのは、気のせいだったろうか。希美は少し自分の周囲を見渡してみたが、母の姿はどこにもなく、気配も感じられなかった。空耳かな、と考えて、彼女は重くなってきた目蓋を閉じた。そうして最前浮かんだ記憶の一コマの世界へ立ち戻ろうとした。□

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第2546日目 〈『ザ・ライジング』第5章 6/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美、と自分を呼ぶ声がして、彼女は目を開けた。透明度の高い闇が四囲に垂れこめていた。ようやくいま、自分が海の中にいて、浮力を失って沈んでいるのだ、と察知するのと、急に息苦しくなって手足をばたつかせてもがき、唇から大きさの様々な水泡が無数にこぼれ出てゆき視界がふさがれたのは、ほぼ同時のことだった。浮かぼうと必死にもがいても、そう簡単に海面に出られそうもない。誰かが足首を摑んで死の淵へ引きずりこもうとしているのではないか、とそんな悪夢めいた想像さえ生まれた。しかし、希美に足許を見やる勇気はなかった。ようやく露わとなった生への執着がそれを拒んだからだ。真夜中の荒れる海の中とはいえ、目の前で踊る水泡の行く先が海面であり、その上に空気があることは否定のしようがない事実だった。まだ死んだわけじゃない――。希美は口の中でそう呟いた。いま私がいるのはあの世じゃない。生きとし生けるものが蠢いて、与えられた命を精一杯に全うしようとあがいているこの世なのだ。私は生きたい。ううん、生きるんだ。こんな死に方をして、パパやママや正樹さんに逢いたくない。それに、私にはまだ生きてやるべきことがあるはずだ。
 ――どこへ行くんだい?
 あの黒い衣の男の声が頭の中に響いた。残響の著しい、鼓膜が張り裂けんばかりの怒声だった。そこには怒りという以上のすさまじい邪気が感じられる。野獣が本能のままに轟かせたような警告は、却って希美に生への執着を強く抱かせるだけだった。
 あんたのいいなりにはならない!
 希美はあらん限りに叫んだ。私、もっと生きたいの……。またみんなに会いたい。彩織にもふーちゃんにも美緒ちゃんにも……そしていつものように四人で同じ時間を過ごしたい。真里ちゃんとだって、警察へ一緒に行く、って約束したんだもん。まだ死にたくないよ……。パパ、ママ、お願い、助けて。正樹さん……。
 だが、意識はまたしても遠ざかりつつある。閉じられた目蓋の裏に、大学生だった頃の深町徹と松本恵美の姿が、再び現れた。今度は声もはっきり聞き取れる。やがて生まれてくることになる子供の名前とその謂われを母が口にしたのを聞いたとき、希美は、自分がどれだけ両親からたっぷりと愛情を注がれ、大切に(それこそ掌中の珠と)育てられてきたかを思い知らされ、涙した。そしてさっき、自分を呼んだ声が他ならぬ母の声であったことに気がついた。女の子だったら、「のぞみ」っていう名前にしたいな。字は「希望」の「希」に「美しい」。謂われ? いつでもどんなときでも希望と美しい心を失くさない子に育ってほしい、っていう意味よ。そう松本恵美はいっていた。ママ……。
 希美のまわりから色が、音が、光が、すうっと消えてゆこうとしている。そのとき、彼女の体がゆっくりと、海面へ浮かびあがり始めた。□

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第2545日目 〈『ザ・ライジング』第5章 5/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 海の大きく優しい掌に抱かれた深町希美は、まどろみながらうたかたの夢を見ていた。それはまだ自分が生まれるずっと以前の光景だった。若かりし日の両親の姿、まだ結婚する前の深町徹と松本恵美の、仲むつまじき黄昏刻の一景。時折話しに聞いていただけの昔を、なぜこうもまざまざと眼前にできるのだろう、と意識の遠くで訝しんだが、それはそれとしても、自分が知らない両親の独身時代をこうやって垣間見るのは後ろめたさよりも好奇心が先に立つのは、致し方のないことだ。
 彼等は横浜にある聖テンプル大学の中庭にある銀杏の古樹が枝を張る下のベンチにならんで腰掛けていた。葉が黄色く染まっている。父は膝の上に広げたノートとにらめっこしていた。その隣でぼんやりと、母が澄み渡った空を見あげている。そして、溜め息が彼女の口からもれた。深町徹はそれに気づいたか、口を恋人のそばへ寄せてなにごとかを囁いた。心配げな顔をしている。松本恵美はほほえみながら首を左右に振った。将来の夫の肩に頭をそっともたれさせ、目を瞑って短い単語を二つ、口にした。父が笑みを返すのを見たとき、希美は、昔からパパの笑う顔って優しかったんだな、と思った。
 パパ、本当にママのことを愛しているんだね。二人が派手な喧嘩をする場面を、ついぞ希美は目にすることがなかった。ささいなことで口論にはなっても、すぐに仲直りしていた。ママが頬をふくらませてすねているとパパが寄ってきて、髪の毛を撫でながらごめんねといってみたり、逆にパパが口喧嘩に負けて和室や寝室でふて寝をしていると頃合いを見計らったママがやって来て、声をかけながら腕や胸に掌を這わせ最後は頬か唇にキスをして、互いにそれで解決。そういえばあの二人、よくキスをしていたな、と希美は思い出した。物心ついてからいったい何千回、その現場を目撃してきただろう。中学生の時分(二年生だったかな?)、娘の前でそんなにいちゃいちゃしないでよ、と声を荒げて数日間、父とも母とも最低限の会話しか交わさなかった頃があったけど、それが一過性の暴風のように深町家を通過するとすべては再び以前のままとなった。もっともそれ以来、両親は更に大っぴらに、唇のコミュニケーションを娘の前でするようになったのだが。
 もう少し寄ってみたら、二人がなにを話しているのか、聞こえるかもしれない。だけど、どうやったら近づけるのかな。頭の中でそう念じればいいのかしら。試してみようかな、と思った矢先、希美は視界が激しくぶれるのを感じた。無意識に腕を広げてバランスを保とうとする。ふわり、と宙に浮くような感覚だった。そして次の瞬間、希美は両親のすぐ目の前に立っていた。気配を察したのか、深町徹は顔をあげて正面を、ついで周囲を見渡したが、誰もいないのがわかると小首を傾げ、うつむいて視線を元に戻した。
 びっくりしたあ……姿が見えるのかと思っちゃった。希美は少し膝を屈めて、二人がなにか喋らないかと期待したが、それは空振りに終わった。だが、音のまったくなかったさっきにくらべて、希美の周囲には、音のある世界が戻ってきている。風の音、葉がさざめく音、中庭の向こうにある(“メモリアル・カラヤン・シアター”と呼ばれることが専らな)コンサート・ホールの階段で金管楽器が音階をさらっているのが聞こえる。その楽器がテューバであるのは考えるまでもなかった。
 懐かしいテューバの音色……テューバ! パパとママが買ってくれた大切な楽器! あのテューバを置いて死ぬなんて!
 そう物欲が強いわけでもなく、物事に執着するわけでもない希美だったが、両親から贈られて苦楽を共にしてきた楽器についてとなれば話は別である。父が住宅ローンの返済で毎月大変なのにそれでもお金を工面してくれ、母が知り合いの楽器商に頼んで娘に合うものを、と二人して骨を折って私のために買ってくれた宝物。いってみればあのテューバは希美の分身であると共に両親を偲ぶ遺愛の品でもあった。□

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第2544日目 〈『ザ・ライジング』第5章 4/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 「あいつら、って誰?」
 上野は手の甲で涙を拭いながらも、大河内の疑問に答えようとした。それはいい質問だな。この問題の核心をついている。でも、直接名前を出すと正気を失ってしまうかもしれないから、遠回しにいうことにするよ。「理事長の血縁者さ。一人は職員。教員じゃあないよ。もう一人は生徒だ」
 「いけ――」
 「もう行かなくちゃ。ロープが俺を待っているんでね。それじゃあ、……さよなら」
 そういって上野は子機の切ボタンを押した。ツーッ、ツーッ、という音が聞こえてくるより早く、彼はそれをベッドに放り投げた、
 そろそろ清算の儀式に取りかかるか。視線はじっとロープに据えられている。そこまで歩いてゆき、手をかけて、思い切り引っ張ってみた。これぐらいで解けてしまうようなら、首吊りの役には立たない。だが、ロープは上野の期待に添った。ぴんと張ったロープから反発する力が上野の腕に伝わってきた。同時に痺れも、また。
 まあ、苦心して作った甲斐はあった、というものだな。でも、まさか、自分のための首吊り用ロープを作るなんて、夢に見たこともなかったな。いまあの少年の頃に戻って、ボーイスカウトでロープの結び方を一生懸命覚えている自分にこのことを教えてやったら、果たしてガキの俺はどんな顔をして未来の自分を、大人になった自分を見るのだろう。ましてや、自殺する理由を知ったなら。まだ生まれてもいない人間を犯した罪の意識に駆られてお前は死ぬんだぞ、いいか、夢のような二十一世紀になって数年後のことだ。そんなことを聞かされたら、さて、あの頃の俺は未来を変えようと努力してくれるかな。運悪くあの学校に就職してしまっても、脅しに屈しない強い意志を持ってくれるだろうか……。
 さらばだ、思い出よ。楽しかりき日々よ、嘆きの日々よ、喜ばしき日々よ、苦渋の日々よ、さらばだ。親しい人々よ、また会おう。愛しき人よ、我が生涯の華よ、どうか健やかであれ。
 上野はロフトのはしごのいちばん下の段に足をかけた。両脇の手摺りを握りしめながら、今日一日のことを思い出そうと試みた。が、それは結局出来なかった。その代わり彼の脳裏に思い浮かぶのは、二度と戻ってこない日々の記憶の断片だった。
 短な溜め息をもらすと彼はロフトを凝視し、一段一段はしごをのぼっていった。合板とステンレスを組み合わせたはしごが、踏み板へ足をかけるたびに悲鳴をあげた。いつか段がはずれて捻挫しそうね、と笑いながら大河内がいっていたのを、彼はふと思い出した。どうでもいいが、いまだけははずれないでくれよ。もしそうなったら、苦心してロープを作った意味なんてなくなるんだからな。
 ロフトへあがると、彼は身を乗り出して下を眺めた。フローリングの床が眼下に広がっている。思わず平衡感覚を失いかけて、足許がよろけた。このまま落ちたら、首の骨を折って死んでしまうかもしれない。それは即ち、苦心して作ったこのロープが無駄になるということだ。いまここから落ちるわけにはいかないんだぞ、気をつけろよ、と上野は独りごちた。
 ロフトの縁に掌をついてしゃがみこむと、彼はロープをたぐり寄せた。このロープの端に作った輪っか――そう、これこれ――に首をかけて、ここから飛び降りる。もっとも命を絶つ可能性の高い自殺の方法なんて、これしか思いつかない。でも、これがいちばんだ。 上野は両手で捧げるように持っている輪っかに首を通した。そうして彼は床に膝をついて中腰のまま、転がり落ちるようにしてロフトから身を投げた。
 ――最前の電話で恋人の異常を察して駆けつけた大河内かなえによって、ぶらりと垂れさがる上野宏一の死体が発見されたのは、それから一時間ばかり経った頃のことだった。□

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第2543日目 〈『ザ・ライジング』第5章 3/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 受話器のずっとあちら側で空虚な呼び出し音が響いている。上野にはそれがまるで死刑執行を宣告する前に裁判官が打ち鳴らす木槌の音のように感じられた。そうしたあとに俺は、死の天使どもに介添えられて断頭台へと足を運ぶんだ。BGM? そんなのベルリオーズに決まっているじゃないか。《幻想交響曲》、それ以外にいったいなにが?
 向こうで受話器を取った重苦しい音が聞こえ、回線は相手とつながった。「もしもし?」という大河内の眠たげな声が耳に届いた。いちばん聞き馴れた相手の声なのに、彼にはどういうわけか、それが深町希美の声のようにも、池本玲子の声のようにも聞こえた。
 「――もしもし? 宏一さんでしょ、なんで黙ったままなの?」
 彼女の少々すさんだ声で黙考から返り、「そうだよ。ごめんね、こんな時間に」と、彼はいった。ベッドの縁に腰掛けて、セーターの裾をいじくりながら、視線はあのロープに釘付けになっている。「少し話がしたいんだけど、いいかな?」
 「え、ええ。もちろん」
 そういう大河内の声に、とまどいの表情が浮かんでいる。いつもと違う様子の恋人の声にどう対処していいのかわからないようだ。
 「よかった。……かなえ、俺はとんでもないことをしちまったよ。――おっと、なにもいわないで。時間がないんでね。俺さ、今日の、いや、昨日だな、もう。昨日の放課後、部室で深町を……レイプしちゃったんだ」
 淡々とした調子の自分の声を聞きながら、彼は背筋に冷たいものが走ってゆくのがわかった。と共に、受話器の向こうで大河内が、ひゅっ、と音を立てて息を呑んだのもわかった。上野は十秒ばかりの間、彼女がなんといってくるか待っていたが、なんの反応もないので、喋りを続けることにした。
 「かなえで満足できなかったわけじゃないよ。深町の方から誘惑してきたわけでもない――そんな子じゃないのは、君だってよく知ってるよね。第一、俺が自分の意思でそんなことをするわけないっていうことも、お前ならわかってくれるよね」と上野はいった。「だって俺はかなえしか愛していないし、かなえで十分満足してるしね」
 しばらく沈黙が二人の間に降りた。上野はこれ以上なにをいっていいのかわからなかったから、黙っていた。受話器の向こうで大河内が、なにかをいおうとしてそのたびにいい澱んだ。しばらく居坐っていた沈黙は、上野の細い溜め息で亀裂が生じ、大河内の質問で去っていった。
 「こ、宏一さん。それって、あの、本当……なの?」
 小さく頷きながら、彼は「そうだよ」と呟いた。口許にはかすかにそれとわかるいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。「本当だ。嘘だったらいいんだけど……でも、あいつらに脅されていてね。そうするしかなかったんだ……」
 彼は目蓋を閉じた。恐怖に震えた眼差しで自分を見あげる希美の姿が、脳裏をよぎった。これまで我慢していた熱い涙が、上野の両眼からこぼれていった。――本当だよ。俺は許されない罪を犯してしまったんだ。いくら奴らに脅されていたからって……なんていうことを……。□

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第2542日目 〈『ザ・ライジング』第5章 2/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――いま、上野はロフトからぶらさがったロープを眺めている。ロープの先端はちょうど頭をくぐらせられるぐらいの大きさの輪っかになっており、それはとても非現実的な光景と映った。小説や映画ではお馴染みの絞首刑用のロープだが、まさかそれを自分が、自分のために作るとは思わなんだ。こんなのを使わずに済むのなら、それに越したことはない。考えてみれば、俺だって死ぬ必要はないのかもしれない。他にいくらでも罪を償う方法はあるはずだ。学園からは放り出され、かなえとの関係も終わるだろう。世間から冷たい視線を浴びて職を転々とすることになるかもしれない。でもな、それぐらいどうってことないだろう。深町の心に負わせた傷の深さを思えば、この身に下される処罰などまだ甘っちょろいもんだ。
 上野はロープを凝視した。風もないのにロープが、右へ左へ揺れている。おいで、おいで、と手招きしているようだ。
 上野は腰をあげて台所へ足を向けた。なんだか無性に水が飲みたくてたまらなかった。アルコールの誘惑が頭を過ぎったが、こんな状況で飲み始めたら、ありったけの酒を飲み干すまでやめられはしないだろう。そうこうしているうちに夜は明け、クリスマス・イヴがやってくる。つまり、自殺の決意は徐々に薄れ、朝日と共に消え果てる。まるで吸血鬼みたいじゃないか。それはさておき、明日から死ぬまでの日、俺はびくびくしながら生きてゆくことになるだろう。警察の車を見ては立ちすくみ、警官を見るたびに電柱の陰に身を忍ばせる。なによりも深町と部活のたびに(仮にどちらかが辞めたとしても、二人が学園にある限り)顔を合わせることで味わわなくてはならぬ居心地の悪さと後ろめたさと罪悪感から逃げられはしない。その都度、心を深く抉られて苦しむ羽目になる。もしかすると、あいつらは……池本と赤塚は俺のそんな姿を見たくて、あんな交換条件を付けたのかもしれないな、と上野は思った。それに、おお、俺はいったいどんな面曝してかなえと付き合っていけばいいんだ。ケ・セラ・セラ、と笑い飛ばせるものでもあるまいし。
 ステンレスのシンクに手をかけ、水切りからガラスのコップを持ちあげ、水道の蛇口をひねった。冷水が勢いよくあふれ、コップを達まち満たした。これが生涯最後の水飲みだ。上野は一気にあおるとコップをそのままシンクに置いた。カツンという鋭い音がした。口許をセーターの袖で拭うと、彼は回れ右をして部屋へ戻った。ロフトから垂らしてあるロープを手の甲で脇へ寄せた。ロープはゆらゆらとしばらく揺れ続けた。ベッドの宮台に置いた子機に目が留まった。
 ――かなえに連絡しておくかな。
 恋人にはなにもいわないつもりだった。なにもいわないことが、最良のお別れの方法だと思っていたからだ。しかし、と彼は考え直した。あまりにもひどい別れ方じゃないか、それは。あの世で再会した瞬間、横っ面を張り飛ばされるのが関の山だ。加えて、遺書を残さない以上、誰かに伝えたくてたまらないという欲求が、頭をもたげて鎮まってくれそうもない。彼にとって、胸につかえている重みを払いのけられるのは、大河内かなえを除いて他にはいなかった。それに……彼は思わず苦笑した……生涯の最後に恋人の声を聞きたい。上野は子機を摑むと、指がすっかり覚えてしまっているかなえの自宅の番号を、ゆっくりと押した。□

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第2541日目 〈『ザ・ライジング』第5章 1/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 準備は終わった。そう上野は独りごちた。生きている心地がしなかったぜ。なんたって俺は犯罪者だからな。いつ学園や警察から電話がかかってくるだろう。それを思うと顔色は、鏡を覗かずともわかるぐらいに青ざめ、足許から冷たいものが脳天まで貫いてゆき、いても立ってもいられなくなる。
 今日は帰宅してから四回、部屋の電話が鳴った。携帯電話の電源は学園を出る前からずっと切ってある。電話が鳴るたび、それが地獄の底から赤塚が自分を呼ぶ声に聞こえて仕方なかった。いや、もしかしたら死んでいなかったのかもしれない。俺がそう早とちりしただけで、実際は生きている。あのあと、むくりと起きあがり、ぺちゃっとした笑みを顔に貼りつけて、体をずるずると引きずって、俺の後を追いかけてくる途中から電話をしてきたのかもしれない。部屋に閉じこもって電話が鳴るたび、一度新聞の勧誘で男がベルを鳴らしたとき、その向こうにいつも、自分が最前殺してきた人間が、色を失い、焦点を結ばぬ眼でこちらを見、腕をだらんとこちらに伸ばしている姿が見えた。勧誘は耐えきれずに怒鳴って追い返したが、電話には出ることができない。受話器を取った途端に風の音がし、赤塚の忌まわしいだみ声が自分の名前を呼ぶような気がする。あり得ないこととわかってはいても、それを想像すると電話に出る勇気なぞ湧いてくるものではなかった。
 だが、と上野は自分を説得するように声に出し、頷いた。俺はもう二度とあいつが、深町に危害を加えられないようにしただけなんだ。それだけでも誉められるべきじゃないか。彼は部室の床に横たわっていた希美を思い浮かべた。最低のことをしてしまったな。よりによってなんで深町を。この数ヶ月で彼女はあまりに辛い経験をしたんだぞ。お前だって知らないわけじゃあるまい。それをようやく克服した矢先に、ああ、上野宏一よ、お前はとんでもない苦しみを彼女に与えたな。きっと、彼女を大切にするすべての連中に八つ裂きにされるぞ。……いや、俺は地獄に堕ちて、その業火に永遠に苦しむのだろうな。
 深町、ごめんよ。謝ってどうなるものでないのは、もちろんよくわかってるさ。でも、一言だけ謝りたかった。そうした上で、……。そう、お前の家に何度も電話したのはそのせいさ。けど、逆に怒られてしまった。あれはいったい誰だったんだ、お前の家にいたあの人は。なんだか、かなえを思い出したよ。
 自分がいま手に握っているものを見つめながら溜め息をついた。最後にお前に謝ることができて、俺もようやく安心したよ。これから俺は、あることをしようと思う。いうなれば、たった一つの冴えたやり方、ってやつだ。
 電話がまた鳴った。がなり立てるように何度も、何度も。そちらへ視線を向けることもなく、うつむいたまま、上野はそれを無視した。するうち諦めたらしく、電話は鳴りやんだ。仰向けに寝転がって天井を眺めていると、ロフトの縁に開いた縦に細長い空間へ目が向き、自然と首吊り自殺という考えが浮かんだ。それ以上長く見あげていると、ロフトから下卑た表情の赤塚が顔を出すような気がする。彼はそそくさと立ちあがり、近くのコンビニでおあつらえ向きの長さ太さのロープを買いこんで帰宅した。ボーイスカウト時代の記憶をたぐり寄せて、なんとか用を足すに十分なものが出来あがるまで、電話が二度鳴ったけれど、やはりこれも無視した。□

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第2526日目 〈『ザ・ライジング』第4章 46/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 宮木彩織はベッドから上半身を起こして、大きく伸びをした。頗る長い時間、ベッドに寝っ転がっていたせいか、背中の肉がずいぶんと張っている。そうして寝惚け眼のまま、足を床へ降ろして立ちあがり、よたよたと机に向かって歩き始めた。
 (彩織!)
 希美の声が耳の奥に響いた。
 両足から途端に力が抜け、膝をついて彩織は崩れ落ちた。周囲の光景がまるで引き潮の如く急速に自分の後ろへ引いてゆく。彩織は口を半開きにし、視線を天井へやった。知らぬ者が見たら白痴とでも思われていたかもしれない。体がゆっくりと背中から倒れていった。
 床に倒れこんで後頭部と背中をしたたかに打ちつけたとき、目の前で浮かんだ光景は彩織をしばしの間、息を呑んで、おののかせるに十分だった。希美が横たわったまま海の底へ沈んでゆく。屈折した光の輝きが美しい中、髪をたなびかせて、おだやかな面持ちで。その表情は気品にあふれ、会う者を知らずひれ伏させる威厳に満ちていた。
 (さよなら……)
 束縛が突然解かれ、彩織は上半身をはね起こした。いまの短い幻影が現実の、しかもいまこの瞬間に起こっている出来事だと確信するのに、さほどの時間はかからなかったし、根拠も必要としなかった。実際のところ、予感はあった。夜のローカル・ニュースで白井正樹殺害の方を知ってハウエルズを聴きながら漫画を読み出すまでの間、彩織は希美の家と携帯電話に五〇回以上は連絡をつけようと躍起になった。が、ただの一度もつながらなかった。藤葉や美緒にも連絡したが、やはり彼女達も電話がつながらないという。何度かは緑町の希美の家に行ってみようとしたものの、そのたびに季節外れの暴風雨が邪魔立てをした。
 「のの!」
 今度ばかりは邪魔なんてさせやしない。ののが危ないんやから――。
 彩織は机の角に掌をついて立ちあがると、(希美と二人で撮ったプリクラが二枚と、〈旅の仲間〉四人で撮ったプリクラが一枚貼られている)携帯電話を摑み、電源を入れるのももどかしく、藤葉と美緒に電話をした。パジャマを脱ぎ捨てると着替えてコートを羽織り、部屋を出ていった。◆

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第2525日目 〈『ザ・ライジング』第4章 45/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 さあ、おいで。あの黒い衣の男の声が脳裏に響いた。ためらってはいけない。こちらにはお前が望む世界があるのだから。お前が会いたがっている人たちがいるのだから。さあ、おいで。有無をいわさぬ調子の声である。しかし、四囲を見渡してみても、黒い衣の男の姿は視界に入ってこない。こちらで暮らそう、とみんなが待ってくれているよ。
 希美は知らず知らずのうちに頷き、よろよろと立ちあがった。そして、おぼつかない足取りで海へ入っていった。くるぶしが波に洗われた。少しずつ浅瀬から沖へ移動してゆくにつれ、くるぶしからふくらはぎへ、膝へ、腿へ、腰へと海面は高くなってゆく。襲いかかってくる高波に希美の体はよろめき、頭から水をかぶった。そのたびにむせて、喉の奥で塩辛い吐き気を催したが、浜辺へ引き返す気持ちはこれっぽっちも起こらなかった。
 そう、その調子だ。いいぞ、そのまま歩いておいで。怖がらなくていい。――不気味なせせら笑いが声に被さって聞こえてくる。
 (のの! 行っちゃダメや!)
 彩織の声が他の二人の声を圧して、一際はっきりと耳へ届いた。
 (ずっと一緒って約束したやんか。独りぼっちになるなんてイヤや!)
 (彩織ちゃんのいう通りじゃない?)
 落ち着いた調子の母の声が、耳許でそっと囁かれた。――ママ?
 そのとき、これまでよりも一段と高い波が、希美に襲いかかってきた。見あげるような、津波かと間違うぐらいの大きな波だ。黒い壁がぐんぐんと勢いを増して隆起してくる。巨人が血管の浮き出たたくましい腕で持ちあげているのではないか、そんな想像さえ生まれた。音ももはや塊となって耳の奥まで轟いてくる。波はスローモーションで描かれる映画の一場面のように、ゆっくりと希美に向かって倒れかかってきた。彼女には目を見開いて、恐怖に満ちた瞳でそれを見つめることしかできなかった。
 波の重さに耐えかねて、希美は海の中に倒れた。その拍子に髪が根本から逆立ち、水の中で広がるのが視界の端に移った。それはどことなく水中花のように見えた。無意識に、口を開いて呼吸しようかとも思ったが、海水が容赦なく口腔に押し込められてくるだけだった。手足をばたつかせてみても水を掻くばかりで、なかなか浮くことができない。海岸に向かう波、沖へ帰る波、それぞれの水圧もあるのだろう。が、いまの希美にそんなのは関係なかった。海岸からさほど離れたとも思えないのに、体は底へ底へと引きずりこまれてゆくような気がする。錯覚かなあ? ああ、もう本当に駄目なのかも……死んじゃう……。
 目の奥で熱いものが浮かんだ。これまでの思い出が、時間も空間も無視して断片的な映像となって駆けめぐってゆく。
 さよなら……。
 刹那、ハーモニーエンジェルスのオーディションへ一緒に応募した盟友の顔が、脳裏を過ぎった。
 ――彩織!
 それを契機としたように、意識が徐々に遠ざかり始めた。希美の体は自ら抗うことをやめ、静かに海の底へ沈んでいった。□

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第2524日目 〈『ザ・ライジング』第4章 44/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 目の前に、海が横たわっている。怒号に似た唸りを立てながら、海は飽くことなく波を浜辺へ押し寄せていた。白い波頭は夜目にもそれとはっきり映り、うねりゆく様も細かくわかった。
 それをうつろな眼差しで眺める希美は砂浜にたたずんで、全身の揺れるのを風に任せ、海の向こう側から荒々しく吹き寄せる風に漆黒の髪をなびかせていた。これまで何度も夜の海は見てきたが、常に畏怖や恐怖が心の底にしっかりと根を張っていた。だがいまは、目の前に茫洋と広がる光景に魅せられ、誘惑されかけている。その先で待つのは永劫の闇。愛する死者達が待つ永劫の闇によって統べられた世界。希美にとっていまや海は黄泉の国へ通じる路であった。
 いま行くよ、パパ、ママ。もうすぐだから、正樹さん。もうすぐ逢えるよ。それまで待っていてね。
 希美は一歩を踏み出した。歩くたびに足が砂にめりこみ、不安定な足許では風に誘われ砂利と小石がポルカを踊っている。あと十歩ほどで波打ち際だ。右足の爪先が流木に当たり、つんのめってバランスを崩し、膝から転んだ。両掌が砂に沈み、左の薬指がガラスの破片に触れて一直線に切れた。鮮血が滲みはじめる。顔の両側から垂れた髪で視界は半分以上ふさがれた。
 閉じた目蓋の裏に昔の光景が鮮やかに甦ってきた。希美にとって海辺は懐かしい思い出でいっぱいだ。物心ついた時分からの、またとない遊び場でもあった。〈旅の仲間〉や真里はもちろん、小学校の同級生や近所の子らと連れだって(時には誰彼の保護者付きで)ここで遊んだのは数知れない。幼稚園のときはともかく、小学生の頃は学外行事で来たこともたびたびあった。原の海岸に小型タンカーが嵐で流されて打ちあげられたときは、真里に引き連れられて彩織と三人で自転車に乗って、それを見物に出掛けたりもした。高校へ入学して知り合った藤葉や美緒に何気なくそれを話すと、なんという偶然か、二人も日を同じうしてタンカーの見物に来ていたという。「もしかするとすれ違っていたりしたかもね」と一刻、四人して盛りあがったものだ。
 ――あの日、正樹さんのことで彩織にけしかけられたのも、そういえばここだったっけ。希美の両の頬を涙が伝い落ちてゆく。それは顎まで流れて拳になった手の甲へ落ちるまでの間に、雨に紛れて涙なのかどうかもわからなくなってしまった。彩織がいなかったら片想いで終わっていたかもしれないな。そうしたら、正樹さんは死なずに済んだかも……。まあ、私がレイプされていたかどうかは別として。彩織、いままでありがとう。私のいちばんの友だち。楽しい思い出をたくさん作ったね。忘れないよ……さよなら……大好きな彩織。
 (うちらを残してどこへ行くつもり、のの?)
 幻聴だろうか。だが、ここに彩織がいるはずはない、いまのは空耳だ。それにしてはあまりにはっきりしすぎている。でも、確かに宮木彩織の声だった。風の勢いに途切れることなく、その声は希美の耳許へ届いた。希美はうなだれていた顔をあげ、口を半開きにしてあたりを見回した。幾列にも幾重にも築かれたテトラポッドのすぐ手前、希美のいるところから五メートルと離れていないところに、彩織が立っていた。こちらを見る眼はもの哀しげだ。心の奥底へ押し隠した秘密まで見透かされるような思いに囚われた。いつもの元気たっぷりな彩織からは滅多に窺えない表情に、希美は気圧される感じがした。そんな目で見ないでよ、せつなくなっちゃうじゃない。せっかく決心したっていうのに……。
 (決心って死ぬことなの、ののちゃん?)
 木之下藤葉がそういいながら、彩織の背後から姿を見せた。その目にははっきりわかるほどの怒りが宿っている。これも普段の藤葉からは想像できない表情だった。彼女の鋭い眼差しに希美は、彩織とはまた別の意味で気圧された。だが、その睨みは裏切られたことへの怒りではない。そこには――その一端には、愛情が確かに宿っている。ごめんね、ふーちゃん。でも、わかって。信頼していなかったわけじゃない。こればっかりはみんなの慰めがあっても駄目なの。私一人が考えて結論を出さなきゃいけないの……。
 (それじゃあ、希美ちゃんにとって私達はいったいなんだったの?)
 テトラポッドの陰から現れ、藤葉の隣に立った森沢美緒がそう訊ねた。両手は腹の前でしっかりと握りあわされている。涙がしとどに流れていた。思わず希美はうつむいた。美緒の情念のこもった視線を、正面から受け止められる自信がなかったからだ。みんな、大切な友だちだよ。たぶん、これ以上の友だちなんて、このまま生きていたって得られはしない。世の中の誰一人としてみんなの代わりにはなれない。けれど、正樹さんの代わりだって誰も務められないんだよ……。□

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第2523日目 〈『ザ・ライジング』第4章 43/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 十二月の凍てついた空気が肌に突き刺さってきた。公園の入り口で立ち止まり、目の前に広がる闇の世界を凝視する。闇は慈悲に満ちていた。自分達の世界の住人になると決意した少女を歓迎する慈しむ思いが、暗闇の隅々にまであふれていた。闇は恐怖の対象ではない。闇は愛惜を知っている。恐れるべきは闇を隠れ蓑にして悪事を企む、彼岸此岸の別なく住まう者に対してだろう。
 ゆっくり、ゆっくり公園の奥へ歩を進めた。夜更けの公園は予想外に明るかった。耳に聞こえてくるのは、土と傘と枝葉に打ちつける雨の音だけ。それは如何なる音楽よりも美しく、魂へ訴えかけてくる響きだった。自然に優る音楽はない。雨と闇の世界を歩きながら、これまで自分がやってきた音楽はいったいなんだったのか、そう反省させられるぐらい見事なハーモニーに、知らず知らず溜め息がもれた。
 松林を退けてぽっかりと開けた、土が剥き出しのグラウンド。松林を縦横無尽に、縫うように走る小道。植えこみの境界は松の樹皮を模した人工の木杭とロープで示され、ところどころの段差には、同じ木杭が倒されて埋めこまれている。公園が毎日の遊び場であった者の常として、希美も幼い頃、この小道で迷子になって夕暮れまで泣き腫らしていた者だった。いまそれを思い出すとなんとも恥ずかしく、なんとも照れくさく、なんとも懐かしかった。左手には、子供が四、五人乗れるぐらいの小舟の形をした鉄製の遊具と二台のシーソーが、闇夜の中で薄ぼんやりとした輪郭を浮かびあがらせていた。よく彩織や真里ちゃんと遊んだっけ……真里ちゃんは仕切り屋さんだったなあ。
 しばらく歩くと左斜め前方の小高い堤に休憩所の屋根が、重なり合った松の枝の間から見え隠れしている。自宅に防音室(聞こえはいいが、納戸として扱われる方が圧倒的に多かった)を作ってもらうまでは、テューバの練習をたいてい、公園内に数ヶ所ある休憩所で行っていた。日が陰って雨が降り始めたのも気づかずにいたため、途方に暮れてしまったことも幾度かある。他ならぬこの休憩所で、ふーちゃんと美緒ちゃんの三人で夏休みの宿題をしたこともあったっけ。別のとき、やっぱり同じ場所で美緒ちゃんとお喋りしながらおにぎりを食べていると、それまでおとなしくしていた美緒ちゃんのシベリアン・ハスキーがいきなり飛びかかってきたこともあった。あのシベリアン・ハスキー(確か雄で、セオデンなる勇猛果敢な名前だった)が死んじゃったのは、いつのことだったろう。
 なおも足は自らの意志を持つように交互に動き、希美を――彼女が無意識に選んだその場所へ連れてゆこうとしていた。落雷で真っ二つに裂け、隣の植えこみの松の幹にもたれてアーチを築くような形に倒れた松の老樹をくぐり、うねうねと曲がりくねって迷路みたく感じられる小道をたどっているうち、ふいに公園の外へ出た。
 目の前には片側一車線の道路があった。希美はそのまま道路を横切り、なまこ壁に沿って歩いた。曲がり角のポストへ封筒を投函して一、二歩歩きかけてから、思わず足を停めて、電柱の陰に身を潜めた。そして、そっと道路の反対側にある派出所を窺い見た。
 田部井さんがいたらどうしよう。もし見つかったら声をかけられて……家に連れてゆかれるのがオチだろう。田部井さんというのは、深町徹が刑事だった頃の上司である事件がきっかけで降格されいまは千本浜公園の派出所に詰めている人だ。おっとりした性格の五十男で、こんなにこにこ顔のぽっちゃりした体型の人が、本当に刑事だったのか、と思わず疑ってしまったのを覚えている。そっと派出所の方を覗いてみた。電気が灯り、人影も見えた。おそらくあれは田部井だろう。
 見つかるわけにはいかない。希美は人影が消えた瞬間にためらいなく道路を渡り、派出所の裏手に、道路を隔ててなお原や片浜の方へ広がる公園へ駆けこんだ。ちょっとしたスリルを味わったせいか、肩がぜいぜい喘いでいる。その場で息を整えてから、雨だれの音色を奏でる噴水と、若山牧水の銅像と歌碑を横目に、松林の中を移動した。一歩一歩そちらへ近づくにつれ、風が強くなってくる。傘をまっすぐ持つことも徐々に難しくなってきた。
 防波堤の階段を駆けあがると、荒々しい唸り声をあげる強風が思い切り吹きつけ、傘があおられ骨がぽきんと折れた。猪口になった傘が、風に嬲られ希美の手を離れると、空へ放りあげられ、すぐに彼女の視界から消えてしまった。刹那、希美の体が松林の方へ引き戻されかけたが、腰をおろせるぐらいの幅がある突端部に肩掌をついて、どうにかその場に踏みとどまった。
 目の前に海が横たわっていた。黒く、時化た海が。太古から人間の生活を助け、ありとあらゆる命を呑みこんできた海が。希美の成長をその両親と共に見守ってきた海が。□

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第2522日目 〈『ザ・ライジング』第4章 42/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 そうか、美緒ちゃんか。もう赤塚さんを恐れる必要はないけれど、この日記帳を託すに美緒は適役のように思われる。彩織でもなく藤葉でもなく、希美が美緒を選んだのはある意味で懸命な処置かもしれない。きっと、と希美は考えた。彩織がこれを受け取ったら誰も止められないまま暴走し、関係者に掴みかかってゆくかもしれない。藤葉はもう少し冷静でいられるだろうが、やはり彩織と同じ行動を起こすだろう。藤葉の場合、部室での一件を希美自身から聞いているだけに、普段よりも血が頭にのぼるのは早いと考えられる。ならば、日記帳を送る相手に美緒を選ぶのは、いちばんの安全策であり、穏健な処置かもしれない。もうあまり順序だって物事を考えられなくなってきているのを実感しながら、希美は日記帳を送る相手を美緒に決めた。
 油性のサインペンで美緒の住所を丁寧な字で表書きし、楽譜を送るときに使うビニール袋へ日記帳を入れて封をした。適当に八〇円切手を四枚貼って、裏には「深町希美」とだけ書き。
 椅子から立ちあがって数歩歩くと、両の足がくの字に曲がり、そのまま床へ膝をついた。燃えるような痛みが足の付け根から爪先めがけて疾駆してゆく。高熱を出したときに似て、関節という関節が万力で締めつけられ、鋭い悲鳴をあげている。立とうとしても、次の瞬間には力が抜けて前屈みに倒れこんでしまう。ベッドの端に掌をついてなんとかバランスを保ちながら、そのまま腰をおろした。体のあちらこちらが火照り、疲れがのしかかってくる。
 さあ、おいで。泥を口いっぱいに頬張って発音のはっきりしない澱んだ声が、耳許でそう囁きかけてきた。頬を冷たいものが撫でてゆく。そこからは、いたわるような感情が伝わってくる。お前が思っているほど、死というものは怖いものじゃないよ。そうさな、むしろあたたかくて優しいものだ。時に苦痛を伴って死んでくる者もあるが、連中はタイミングを誤っただけでね。もっとも、我々は誰にでも死を奨励しているわけではない。本当にそれを望む者にのみ切符を渡す。当然のことじゃないかね? そう、お前は我々によって選ばれたのだよ。さあ、おいで……。不吉な笑い声をもらしながら、黒い衣の男がいった。
 やおらパジャマを脱いでフード付きのパーカーとジーンズに着替えると、封筒を携えて蝋燭を消し、居間に行って仏壇に合掌して、両親の写真を額から出して胸に押し抱き、ジーンズのポケットに折りたたんで仕舞うと、玄関へ足を向けた。真里が壁に掛けてくれたコートへ袖を通し、写真をポケットにしまった。スニーカーを履いて傘を持つと、鍵をはずして外へ出た。防犯ライトがポーチとその周辺を煌々と照らしている。
 さっきより収まったとはいえ、まだ雨降りやまず雷の轟く音が聞こえる夜更けの街に、希美はさまよい出た。背後で人の声がした。振り返ってみると、NTTの工事車両が電柱に横付けされ、作業用クレーンが伸びて男が二人、電話線の修復にあたっていた。
 ふうん、電話線、切れちゃったんだ、と起伏のない声で呟くと、希美は千本浜公園に向かって歩き始めた。□

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