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第2692日目 〈遂にやります、私家版《新潮文庫の100冊》!〉2/2 [日々の思い・独り言]

赤川次郎 : さすらい
芥川龍之介 : 羅生門・鼻
有川浩 : レインツリーの国
有島武郎 : 或る女
池上彰 : 記者になりたい!
石上三登志 : SF映画の冒険
石坂洋次郎 : 青い山脈
石原慎太郎 : 太陽の季節
伊藤信吉 : 現代名詞選(全3巻)
犬養道子 : 新約聖書物語(上下)
井上靖 : あすなろ物語
井伏鱒二 : 山椒魚
上田敏 : 海潮音
江戸川乱歩 : 江戸川乱歩傑作選
円地文子 : なまみこ物語
小川国夫 : 或る聖書
荻原井泉水 : 奥の細道ノート
小野不由美 : 残穢
恩田陸 : 六番目の小夜子
梶井基次郎 : 檸檬
亀井勝一郎 : 大和古寺風物誌
川端康成 : 眠れる美女
北村薫 : 月の砂漠をさばさばと
国木田独歩 : 武蔵野
倉橋由美子 : 聖少女
源氏鶏太 : 三等重役
児玉数夫 : ホラー映画の怪物たち
三光長治 : ワーグナー(カラー版作曲家の生涯)
塩野七生 : わが友マキアヴェッリ(全3巻)
島崎藤村 : 千曲川のスケッチ
庄司薫 : 赤ずきんちゃん気をつけて(シリーズ全4巻)
須賀敦子 : トリエステの坂道
太宰治 : 惜別
立原正秋 : 春の鐘
田辺秀樹 : モーツァルト(カラー版作曲家の生涯)
谷崎潤一郎 : 細雪(全3巻)
田山花袋 : 田舎教師
土田英三郎 : ブルックナー(カラー版作曲家の生涯)
遠山一行 : ショパン(カラー版作曲家の生涯)
永井一郎 : 朗読のススメ
梨木香歩 : エストニア紀行
夏目漱石 : 硝子戸の中
樋口隆一 : バッハ(カラー版作曲家の生涯)
ひのまどか : モーツァルト 作曲家の物語
平野昭 : ベートーヴェン(カラー版作曲家の生涯)
船山隆 : マーラー(カラー版作曲家の生涯)
堀辰雄 : 大和路・信濃路
前田昭 : シューベルト(カラー版作曲家の生涯)
丸谷才一 : 新々百人一首(上下)
三浦綾子 : この土の器をも──道ありき第二部 結婚編
三浦哲朗 : モーツァルト荘
三島由紀夫 : 花ざかりの森・憂国
水上勉 : 櫻守
三宅幸夫 : ブラームス(カラー版作曲家の生涯)
宮沢賢治 : 新編 風の又三郎
武者小路実篤 : 愛と死
村上春樹 : ねじまき鳥クロニクル(全3巻)
森田稔 : チャイコフスキイ(カラー版作曲家の生涯)
森見登美彦 : きつねのはなし
諸井三郎 : ベートーベン──不滅の芸術と楽聖の生涯
安岡章太郎 : 質屋の女房
山口瞳 : 礼儀作法入門
淀川長治 : 私の映画教室
米澤穂信 : 儚い羊たちの饗宴
N・H・クラインバウム : いまを生きる
O・ヘンリー : O・ヘンリー短編集(全3巻 大久保康雄・訳)
アーネスト・ヘミングウェイ : ヘミングウェイ全短編(全3巻 高見浩・訳)
アレクサンドル・ソルジェニーツィン : イワン・デニーソヴィチの一日
アントン・チェーホフ : 桜の園
ウィーダ(ルイズ・ド・ラ・ラメー) : フランダースの犬
ヴィクトル・ユゴー : レ・ミゼラブル(全5巻)
ウィリアム・シェイクスピア : リア王
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー : 音と言葉
エーリヒ・パウル・レマルク : 西部戦線異状なし
エドウィン・フィッシャー : 音楽を愛する友へ
ギョーム・アポリネール : アポリネール詩集
コナン・ドイル : バスカヴィル家の犬
サイモン・シン : フェルマーの最終定理
ジェイ・マキナニー : ブライト・ライツ、ビッグ・シティ
シャルル・ボードレール : 悪の華
シャルル=ルイ・フィリップ : 若き日の手紙
ジュール・ヴェルヌ : 海底二万里(上下 松村潔・訳)
ジョン・スタインベック : ハツカネズミと人間
ジルベール・セブロン : 死んでいったひとりの若い女性への公開状
スティーヴン・キング : アトランティスのこころ
ダフネ・デュ・モーリア : レベッカ(上下)
チャールズ & メアリー・ラム : シェイクスピア物語
テオドール・シュトルム : みずうみ
トーマス・マン : 魔の山(上下)
トマス・ハーディ : 呪われた腕
トルーマン・カポーティ : 草の竪琴
ハーマン・メルヴィル : 白鯨
フィリップ・K・ディック : 悪夢機械
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー : 死の家の記録
フランソワーズ・サガン : ブラームスはお好き?
ヘルマン・ヘッセ : 郷愁──ペーター・カーメンチント
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ : ファウスト(上下)
ルーシー・モード・モンゴメリ : 赤毛のアン ※《アン・ブックス》を代表して。
レフ・トルストイ : クロイツェル・ソナタ
ロマン・ロラン : ジャン・クリストフ(全4巻)

以上全100冊、もとい全100作。
 こうして見直してみると、定番・王道がずいぶんと並んでしまいましたね。あまり自分の色が出せず、ちょっぴり残念です。◆
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第2691日目 〈遂にやります、私家版《新潮文庫の100冊》!〉1/2 [日々の思い・独り言]

 高校生の頃は新潮文庫が開催する《新潮文庫の100冊》が、読書の格好の手引きとなっていたことを覚えています。1980年代後半の100冊の内訳は、流石にもう覚えていません。が、2019年の目録に載る本と較べると、やはり、ずいぶん様変わりしたように感じます。
 あの頃はこんなにたくさん、現役作家の本が入っていたかしら。日本文学に則していえば、もっと近代から昭和なかば──三島と川端あたりを下限としたラインナップだったのでは、なかったかな。現役作家では赤川次郎と阿刀田高、遠藤周作や三浦綾子、その他数人が名を連ねるが精々で、どちらかというと隅っこで小さくなっていた印象を失礼ながら、抱いているのだが。
 ──以前から私的に100冊をリストアップして、まとめてみたいと思うていました。現在も流通しているか、そこには拘泥せず、これまで自分が読んで糧となった新潮文庫、刺激を受けた新潮文庫、繰り返し読み耽ってボロボロになってしまった新潮文庫、火事の煤煙を丁寧に払っていまも架蔵する大切な新潮文庫。そんなのを、品切れとか流通しているとかまるで気にせず、自由にリスト化してみたかったのです。
 取り掛かった当初は、その時点で最新の文庫目録に載るものだけで100冊を構成するつもりでした。が、一読、それは無理だと判断した。かつて親しんだ本が殆ど姿を消してしまっているのは仕方ないにしても、それに代わるだけの本を見附けることが、まったくできなかったのです。
 ほんとうに信じられない書目が姿を消していました。その筆頭が、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』だったのですがその他、丸谷才一の本や海外文学の古典が多く消えてしまっている事実に、腰を抜かしそうになりました。ちょっと大げさかもしれませんが、それぐらいびっくりしたのです。それらも電子書籍では読めるようですが、紙の本を読みなよ、と、いまさらながら槙島聖護の名言を呟いて嗟嘆してしまうのであります。
 そんな次第で、明日お披露目する私的《新潮文庫の100冊》は絶版・品切れ本も含んだリストです。正直なところ、一部の作家については作品選別に、若干の迷いがある。でもまぁ、こういうリストとかベストというのは、或る程度その場の勢いも手伝って選ぶ側面がありますから。
 いったんはリスト入りしたものの理由あって削るに至った作家も、何人かいます。代表格は泉鏡花と永井荷風。この2人については新潮文庫の品揃えはあまりにお粗末なので、充実したラインナップを持つ岩波文庫で私的100冊を選ぶ際にご参加願うことにしております。
 その反対に諸般の事情で、リスト入りさせられなかった作家もいる。芹沢光治良や山本有三、サガン、スタンダール、モーパッサン、ユゴー、スタインベック、デュ・モーリアなどです。芹沢光治良は『人間の運命』を加えたかったのですが、流石に全7巻は長すぎます。もっともここに挙げた作家たちについては後日、リストを改訂する際に席を用意するつもりでおります(※)。
 最後に1つだけ、お断りを。「カラー版作曲家の生涯」という全10巻のシリーズが、かつて新潮文庫にはありました。これもいまではすべて品切れの様子。古本屋を丹念に回れば苦労せずに集められるはずですが、それでも一部の巻は見附けるに時間を要すのでは。
 これはじつに重宝するシリーズでした。作曲家の生涯を俯瞰するに必要なカラー図版に加えて、演奏家や評論家のコメントまでが載った、かれらの音楽を鑑賞するのに最強かつ最良の水先案内人となる本だったのです。これを全点取り挙げる、というのが今回のリストで目的としたことでした。斯様に素晴らしいシリーズを品切れさせて安穏としていられる新潮文庫への、ささやかな抗議であります。
 明日のリストは文字通り、作者と署名を列挙したものなので、特にコメントなどは伏しませんが、折を見てTwitterにて紹介や感想などお伝えできたらいいな、と考えております。◆

※2019年08月21日21時15分に「私家版《新潮文庫の100冊》」最終改訂版ができあがりました。
 ここに名の挙がったなかからはアナイス・ニンとヘンリー・ミラー、サン=テグジュペリ、エミリ・ブロンテを削ってサガンとスタインベック、ユゴー、デュ・モーリアをそれぞれ加えました。
 また赤川次郎と夏目漱石の作品を当初のものと差し替えています。具体的には赤川次郎は『女学生』から、夏目漱石は『草枕』から、リスト掲出作品に変更しました。□
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第2690日目 〈「小川国夫の本が読みたいぜっ!」旋風、すさまじく吹き荒れし夏!!〉 [日々の思い・独り言]

 小川国夫の著作──単行本をぽつりぽつり集め始めたのはいつ頃からか、覚えていない。が、きっかけなら覚えている。車谷長吉『文士の魂・文士の生魑魅』(新潮文庫)に小川国夫『或る聖書』の紹介があり、興味を惹かれてのことだ。
 読みたしと思えどすぐに出向ける範囲内の古本屋、新刊書店、いずこにもその著書はなかった。仕方なく図書館で借りるも、その帰り道、現代文学全集の端本を古本屋の棚に見附けて買いこみ、そのまま図書館へと回れ右をした……。
 端本とは、新潮社が1979年から87年にかけて刊行していた《新潮現代文学》全80巻の1冊。小川国夫へ割り当てられたのは、1985年9月発行の第65巻である(第52回配本)。
 ──話は横道に逸れるが(いつものことですネ)高校の帰り、ほぼ日参していた駅ビル内の書店には、この全集がだいたい40冊ぐらい、いつも並んでいた(※)。高校2年生の秋に第69巻、倉橋由美子の作品を集めた1冊をなぜだかドギマギしながらレジへ運んだのは、良い思い出です。顧みるにこの全集、読書の幅を広げるに功あり、わが現代文学の趣味を形成した、或る意味で罪作りな全集でありましたな。ああ、甘酸っぱくて刺激的な読書の日々だったなぁ……。
 さて、小川国夫だが経歴についてもこれまでの著作についても無知であったわたくしに、《新潮現代文学》の1巻は、この作家が如何なる軌跡を経ていまに至るか、これまでどのような著作を発表してきたか、次になにを読むべきか、を水先案内する役目を果たすのだが、──
 小川国夫という作家が気になったのはもう1つ、簡単な著者来歴にて静岡県藤枝市出身で、いまもそこに住まうている、と知ったからだ。なぜなら、わたくしも静岡県民であった時期があり、定年退職して再雇用期間が終わったら子供時代を過ごした伊豆半島の付け根の街に帰りなんいざ、と思うていたがゆえの、なにかしら共通点を見出したような喜びに、その感情は基づく。
 もう一つ、親近する<鍵>があったとすれば、小川国夫がキリスト者であったこと、か。聖書に材を取った作品のあるを知って、或いは聖書自体を語った単行本があると知り、捜し歩き回りましたね。後者は資料を借りに通っていた市の中央図書館の、キリスト教の棚にあったものだから、これまででいちばん手に取り読む回数多かった本、ということになる。
 小説については恥ずかしながら、特定の作品ばかりを繰り返す読むばかりで、それ以上の進展は見られぬまま、歳月は降り積もってゆき。しかも繰り返し読む、というのは愛読ばかりでなく、よくわからなかったから何度も読んでいた、なる側面もある。が、あのゴツゴツとして簡素な、乾いた文章は、まさしく聖書の世界に通じるものがあることは、ほかの指摘を待つまでもなかった。
 そうして今日に至るのだが、『悲しみの港』を小学館P+D BOOKSの上下巻で読み、すっかり小川文学のトリコに、今度こそほんとうになった。岡松和夫や南木佳士と同じように鍾愛握玩する作家になった、瞬間である。
 本作は著者の半自伝的作品という。東京から故郷の藤枝市に帰郷してきた小説家の、文学者たらんとする克己と婚約者ある女性との仄かな恋情を描いた、ロマンティックな長編小説。新聞連載という出自のためか非常に読みやすく、何度も何度も読み返してその都度、羨望と憧憬の溜め息を洩らしたことである。
 ときどき、わたくしのなかで「小川国夫の本を読みたいぜっ!!」旋風が吹き荒れる。先日、秋葉原のスターバックスで早朝、「申命記」前夜を書き、その足で病院に寄った帰り、神保町の古書街を久しぶりにブイブイいわせていたら(ん、この表現は数日前に使った覚えがあるな……えへ)、現代文学者の単行本が破格の値段で売られている現場に遭遇した。さして期待せず平台を眺めて回っていたら、小川国夫の著作が幾つも目についた。もう脳味噌は沸騰し、いまを逃せばこのような機会に恵まれること非じ、財布の紐を堅くせねばてふ誓いも空しく、5冊をサルヴェージ。重い荷物によたよたふらつきながら、故郷の港町へ帰還したことでありますよ。
 幸いというべきか、現在のわたくしは療養のため会社を辞めて、読書と家事と散歩の日々である。買い溜めた本がたくさんあってどれから切り崩すか、思案しているのだが、このたび小川国夫の著作がまとまった架蔵の運びに至ったことだから、まずはここから読んでゆこうか。むろん太宰治はこの切り崩し読書の対象とならぬこと、改めて申しあげる必要なきことである。◆

※隣には、同じ新潮社の《純文学特別書き下ろし作品》が何冊か、置かれいたっけ。いうまでもなく、村上春樹の初期に於ける代表作にしていまに至るも村上文学の高峰に位置する『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を、初めて世に出したシリーズである。□
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第2689日目 〈マジックマウスが動作不安定で、困っています。〉 [日々の思い・独り言]

 現在使っているMacのマジックマウスは、乾電池を使うタイプのものなのですが、そろそろ見切りをつけようと考えています。
 電池を交換するとしばらくは動作が不安定になり、接続が切れたり、またつながったりする。心理的にすごいストレスだ。そうして、時に苛々がつのり、罵詈雑言を呟いて三行半を叩きつけたくなる。
 いまAppleのサイトで販売中のMagic Mouse 2も試してみたが、充電中のぶざまな格好はともかく、やはりこちらも充電完了後の動作不安定は変わらない。
 Appleのマウスが元からそうなのか、或いはワイヤレス・タイプのマウスは皆、そうなのか。ちょっとよくわからないけれど、ワイヤレスのマウスにやや不信感を抱いているのは事実である。
 サードパーティーのマウスを導入することを検討するのは、こんな理由からだ。Amazonやヨドバシドットコムでサーフィンしていろいろ見てまわるが、どれもこれも帯に短し襷に長し。今一つ、決定打がないのだな。
 これまで使い馴れていたことからワイヤレスのマウスに惹かれてしまうのだが既に乾電池交換後、充電後の動作不安定に悩まされて怒りさえ覚えること一度や二度ではなかったからた、どうしても「有線、最強」の思いが強く、ワイヤレスには相当不審と疑問の眼差しを向けてしまうのだ。
 Appleがねぇ、有線式のマウスも並行して販売してくれるか、サードパーティーの商品を公式サイトで通販できるようにしてくれるのがいちばん良い解決策だと思うのだが、Appleにもそれなりの意地とポリシーがあるようで、それはかなわぬ夢となっている。
 ──その後さまざま検討を重ね、売り場にも足を運んだりして、7月の初め、遂に有線式のマウスを購入しました。ELECOMの「EX-6」が、それ。操作性と握り具合の点でこれ以上望ましいMac対応マウスがあるとは思えない。それ程快適なのです。もっとも、敏感すぎるのか、思うようにポインタが任意の場所へ運べないのだが、これは使ってゆくうちに克服される問題でありましょう。
 ただ、どうしてもAppleのマジックマウスに軍配を挙げたくなる場面も、ある。1本指ダブルタップでのズームや、1本指スワイプでWebページの移動ができたりとか、そうしたジェスチャができる点は、やはりMacを便利と思う特徴なのだな。画面スクロールする際の指の動きも、上下逆だしね。もう5年近くMacを使っていると、そのあたりの便利さからはもう離れられないし、忘れられない。となると、純正マウスを使うしか──ない?
 充電後の動作不安定さえなければ、サードパーティーのマウスも必要ないのだが……いまはMagic Mouse 2の採用に踏みきって、ELECOMのマウスは有事の際の備品としていつでも使える状態で待機させておくのが最善か。
 ああ、悩ましい。◆
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第2688日目 〈このたびようやく、新改訳聖書第3版を購入したのです。〉 [日々の思い・独り言]

 「これだけはどうしても、古本屋やましてやブックオフなどではなく、ちゃんと新刊書店で購入しなくっちゃな/したいな」と思うている本は、ありませんか? 懐具合の許すときにゆっくりと、多少高くても翫味して選んだ、その対象分野/作家が充実してゆくのを眺めるのが愉しみだ、というような本が?
 勿論、わたくしにはある。いまはその対象分野を、聖書としている。キリスト教ではなく? 然り、キリスト教ではなく。
 周辺資料はもう古本屋でなければ手に入らない本もあるから、仕方ない、これについては諦めましょう。むしろ積極的に取り扱う古本屋を覗き歩いて、後日の<狩り>の下見といきたい気分です。先日はウィリアム・バークレーの本を神保町で見附けた、それはずっと図書館から借りだしては愛読するを繰り返してきた1冊。そのときはチト懐が厳しかったものだから数日後に、病院の帰りに売れていないか、ハラハラしながら迎えに行ったものじゃった。
 いまの蒐集分野でなるたけ新刊書店で購入を心掛けているのは、既にお察しのことと思うが<聖書>それ自体に他ならないのです。とはいえ、コレクターというわけではありませんから、古い版本を求めて洋古書店や海外の古書店にまで探求の手を伸ばし──というわけでは、(すくなくとも現時点では)ない。いま手に入る、流通している各種日本語訳の聖書を手許に置いておきたいだけなのです。
 拙の聖書読書ノートブログが完全な意味で終わりの時を告げぬ限り、聖書は手を伸ばせば届く場所に置いておきたい本であります。或いは、椅子から離れて2歩か3歩ですぐに取り出せる場所にあってほしい本なのです。現にいま、書架の1段、その最前列を聖書が占めている。内訳はツマラヌし、至極当たり前のものばかりなので控えたい。そこにこれまで、じつは新改訳聖書だけがなかった。
 ほかの場所に置いてある、というのではなく、元々架蔵していなかったのです。買おうとしていたけれど、ずっと後回しにしていたツケが回ってきたのでしょうか。だってねぇ、聖書を備える書店に常置されてあるのは新共同訳と、この新改訳が両横綱なのですから、いつだって購入できるし、ほかの日本語訳の方が馴染みやすく、ブログを書くにあたり参照とすべき情報があまりなかった(フランシスコ会訳の脚注や本文中の地図・図版を欠き、新共同訳のような簡単な用語解説や単位の換算表などがなかった)、というのが、嗚呼、もしかすると秘めたる本音であったのかもしれません。
 加えて、過年、新改訳2017が発行されたことで新改訳の購入検討が後回しになったことは避けられず、やがて多くの書店の棚から姿を消してしまった。そうして「仕方ないかぁ」と刹那の嗟嘆のあと忘れ果て、今日に至る……。
 ここでようやく話が冒頭に戻るのだけれど、つまり昨日(一昨日ですか)、おお、よりによってブックオフでその新改訳──第3版;これが現在も版を重ねるヴァージョンである──、書きこみも折れも濡れも皺も破れもない、古書目録でいうところの状態:美本に遭遇。しばし中身を点検しながら小声で、うむむ、と逡巡した後、ほか何冊かと一緒にレジへ運んだ。その晩は、初めて己が蔵書となった新改訳をあちらこちら読み散らして、明け方まで過ごして眠い目をこすりながら仕事へ行く朝の電車のなかで寝不足解消を図ったことである。
 これまでも何度か、ブックオフで聖書が売られている様子は、目にしてきた。そのたび、手にして中身を検めてみるのだが、さすがは聖書というべきか、どこかしらに前所有者の痕跡が残り、それはあまり見ていて好ましいものではありませんでしたねぇ。ここ6,7年というもの、ブックオフ店舗に於ける販売図書の状態基準は緩むどころか、杜撰かつ怠惰を極めている(※)。そう考えると、わたくしがこのたび購入した新改訳聖書(2003年12月:第3版再刷)は奇蹟の一品、と呼ぶほかない珍品だったかもしれない。呵々。
 今回の新改訳を以て、現在流通している日本語訳聖書の基本的なところは、だいたい揃うてしまったのではないか。文語訳も岩波文庫から全冊刊行されたし、かというて某氏や某氏の個人訳を迎え入れるつもりは毛頭ない。わたくしは記述の比較や、こちらではちょっと意味がよく通らない箇所がほかの日本語訳ではどうなっているのか、といった、内容理解のためにそれらを買い集めてきたのだ。
 いまだから告白するが、聖書読書ノートブログの最中も、新共同訳だけではどうも理解が及ばず、或いは文意不明と判断してほかの訳、フランシスコ会訳と文語訳、岩波訳の助けを借りていた。
 ──斯様な文章を認めているのは、ここ数日、かねて予告していた、そうして昨日図らずもお伝えすることになった、聖書各書物の〈前夜〉を書くため、聖書本文に目を通し、資料に目を通し、スターバックスに朝からこもって昼近くまで、モレスキンの手帳にブルーブラックの水性ペンでちまちま書きこんでいるからです。
 〈前夜〉を再び、しかも読書が終わって間もなく3年になろうとしているいま、2019年の夏に書くのは結構シンドイものがあります。でも、聖書絡みの文章書くのは、愉しい。一種の法悦を覚えながら執筆している、というたら、読者諸兄は引かれてしまうでしょうか?
 それは五月雨式に、不定期間隔でお披露目されてゆくことになりますが、その執筆に際してはきっと、新改訳をも参照として筆を進めてゆくことになるに相違ありません。◆

※煙草臭のする本、書きこみのある本、破れと濡れの非道い本、などは買取こそすれ、破棄するのが常で棚に出したりはしないものだったのに。もしかすると、処分費が高騰したからお金を惜しんで、嫁さえすればいい、とばかりに方針転換、新人教育も短縮化され、古株新顔の別なく負担が減ったことで喜び万歳三唱でもしているのだろうか。□
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第2687日目 〈同人誌のお誘い。〉 [日々の思い・独り言]

 水面下で粛々と、聖書各書物の〈前夜〉を書き直しを始めました。
 対象になる書物はなにか、どの程度まで修正の筆を入れるのか。既にプランはできている……のだが、これまではいったん離れた聖書の世界へ戻るのに相当な意思が必要で、それについて書くこと偶さかありと雖もあくまで「その気になったとき」の結果に過ぎず、かつてのプランが完成するにはだいぶ時間がかかりそうだ、と嗟嘆していたところに、1つの朗報が舞いこんだ(否、義務が生じた、というべきか)。
 手短にいえば知人から、「来年の冬コミで〈前夜〉をまとめた本、1冊出そうや!」と誘われたのだ。同人誌なんてもう15年以上作っていないし、関わることもやめた現在、これまで書き散らしてきた文章をまとめた本の刊行を提案され──しかも、よりによって聖書の!──、そうしてまさか来年の冬コミ(来年ですよ。ここ、とっても重要)への参加を誘われるなんてねぇ。夢想だにしなかったよ。
 倩顧みるに、どうしてかれが熱心に、アルコールの力も借りずに刊行を口説いてきたのか、小首を傾げても答えが出ない。そもかれに、聖書各書物の〈前夜〉書き直しをしていることなんて、話した記憶がないのだけれどな……。本ブログにてその旨書いたことは、たしかにある。覚えている。が、だからというてかれがそれを気に掛け、今日になってとつぜん提案してくるなんてことはないように思うのだが。
 さて、──以上のような次第で、自分名義としては15年以上の空白期を経てわたくしは、1冊の同人誌を発行することになった。途中でどのように計画が化け、或いは泡沫と化すか、辿り着くところは不明だが、これで目標が生まれた。うれしいことだ。
 加筆修正、新稿執筆いずれであれ、冬に刊行するならすくなくとも、秋口には全編を脱稿しておかなくては。時間はあるようで、じつはない。腰が重い上に、持久力が皆無ゆえ、目標が設定されても挫折と放棄の危険は常にある。まずは今年中に律法と歴史書、詩文の〈前夜〉は入稿可能なレヴェルに仕立てておきたいものだ。
 でも、発行を提案してくれたのはうれしく、感謝もしているが、果たして友よ、斯様な書物がいったいどれだけ売れると思うておるか。いったい誰が、買うてくれると想定しているのか。
 次に会うたときはそのあたり、も少し詳しく聞かせてもらいたい。そうね、君がニュージーランドから帰国した、その翌々日あたりに、いつもの酒場のカウンターの片隅に陣取って、悪い相談でもするかのようにコソコソと、人目を避けて、この話を煮詰める一方、頒布について君の考えを聞かせてほしい。いいよね?◆
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第2686日目 〈太宰治『お伽草子』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 太宰治『お伽草子』の諸編にはいずれも種本がある。中核を成す「新釈諸国話」は井原西鶴の浮世草子に、「お伽草子」は御伽噺を集めた物語草子、即ち『御伽草子』収録の昔話に、それぞれ典拠をあおぎ、また併載される3つの短編も中国の白話小説や実在の人物の日記に、出典を求めることができる。作品の仕上がりにムラはあるが、太宰お得意の「再話小説」として読み逃すベからざる1冊だ。
 途中で本を新潮文庫の旧版から改版された、活字の大きな同じ文庫の新版へ替えたことも原因なのか、どうも感想が稀薄でいけない。とはいえ、むろん琴線に触れた作品はある。今回はそれについて集中的にお話ししよう。「新釈諸国話」の終わりから2番目に位置する「遊興戒」である。
 西鶴没後の出版物の1つである『西鶴置土産』の1編を語り直した「遊興戒」はタイトル通り、<色遊びを戒める>お話だ。
 むかし、色遊びに打ち興じた仲間の1人を、遠く江戸の町に見附けた京都の道楽坊主たちが、かれのいまの生活と、かつては蝶よ花よを謳われてかれが身請けした名妓の果ての姿を目の当たりにして、つくづくもうこれからは遊びはやめて精々真面目に生きよう、と誓い合う、というが骨子。
 これを読んで、いやぁ、すっかりむかしの自分を見させられましたよ。独り身でふらふら遊んでいた頃はね、わたくしもまぁ一寸いろいろありましたから。身請けしたいぐらい恋い焦がれた夜の蝶がおりましたからね。
 かつての名妓を嫁に迎えて夜の営みを重ね重ねて子供もこさえ、したが一緒に生活するとなるとさまざま支障が生じて夢も理想もすべてが狂い、いまは生活も貧窮し、それでいてまだ女房への愛情はむかしのままだ、と──いったいなにが幸せか、考えさせられるのだ。無情に人の生活の上を流れる時間の残酷さについても、嗚呼と嗟嘆したくなる。時間と現実は女から色香を奪い、男から風流を奪い、その日暮らしに身をやつすが決まり事だから。
 かの夜の蝶は本を読むのが好きで、家事に長け、あの世界へ身を置く割に経済観念はしっかりしていて、うむ、可愛らしくてもう逢うたび抱きしめたくなるぐらいの名花だったのだ。とはいえ、あのまま客と蝶という関係を清算して恋人となり夫婦となり、家庭を持っていたらいったいどうなっていたか。遠からずわたくしは、「遊興戒」で名妓を身請けした風流人、利佐の如くになっていたかもしれない。
 いや、いろいろ考えさせられる短編でありましたよ。
 ──次は悩んだ末、『晩年』以前の習作を集めた『地図 初期作品集』を読みます。◆
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第2685日目 〈太宰治『地図』の途中報告。──これはほんとうに無名時代の作品なの?〉 [日々の思い・独り言]

 こんなこと、ありませんでしたか? 大した期待もなく、一過性の火遊びと思うていたのがあんがい相性はぴったりで、親しみを覚えて逢うを重ねているうち、いつの間にやら馴染みの仲となり、一つ屋根の下で暮らしてるなんてこと?
 来し方を振り返れば、そんな相手のいたことも……、といいかけて慌てて口をつぐみ、あとは自粛を決めて梔子の花になりますが、たとえば文学に於いてはわたくしの場合、太宰治がそんな交際相手の典型だった。
 初めは有名作だけ読んでさっさと済ませよう、と軽い気持ちでいたあの夏。いつの間にやら太宰文学の内包する天真爛漫さと、その裏返しのような狂態にあてられてすっかりのめりこみ、「毒を食らわば皿まで」の症状に見舞われて、いまはすっかり太宰ファンになり果せた。
 <第2次太宰治読書マラソン>は読まぬ日、読めぬ日の方が多いとはいえ、ゆるゆると進行中。いまは『地図 初期作品集』(新潮文庫)、そうしてこれを読んでいるいまこの瞬間にこそ、わたくしは自分が完治不能のダザイ・ヴィールスに冒されていることを自覚した──。
 読み始めて既に2週間、さりながら全28編のうち、読了できたのはまだ1/3程度。それだけでもじゅうぶんだったよ、『晩年』でデビューするずっと以前から太宰は天性の語り部であり、どんな些細なこと、どうでもいいことを面白く語らずにはおられない人であったことを再認識するには。
 『地図』に収められたのは、いずれも学生時代に校友会誌や同人誌へ寄稿した、アマチュア時代の習作である。普通ならば、歯牙にも掛けられない、精々が全集の編まれる際に目玉の一つにもなろうか、という類の代物だ。が、相手はなにしろあの太宰である。「意外」は「当然」といい換えられるべきだったかもしれない。
 文庫版でわずか10ページに満たぬが殆どの作品など、好事家相手の珍品で結構なはずなのに、これがじつに読ませる<力>を内包した作品なのだ。
 たしかに技巧の面ではまだまだ青臭いけれど、つまらないことでも面白く語れてしまう、その恐るべき才能は、冒頭の「最後の太閤」から既に健在だ。ちなみにこれは大正14(1925)年3月、青森中学校の校友会誌に本名で発表された最初の創作である。
 そうして現時点でいちばん驚いてしまった作品が、表題にもなった「地図」だった。こちらは「最後の太閤」と同じ年、同人誌『蜃気楼』に発表されている(やはり本名で発表)。
 5年がかりで石垣島を征服した琉球王が、蘭人に見せられた世界地図に征服地はおろか自国さえ載らぬことに怒り、乱心する、というが粗筋。
 菊池寛の「忠直卿行状記」に影響されていることが夙に知られる様子だが、それでも太宰の冷静な眼差し、<井の中の蛙、大海を知らず>を地でゆく琉球王の狂乱が隈無く描写されていて、或る意味で『晩年』の諸編よりもずっとキレ味の優った逸品と感じられる。これには一読、心を摑まれてその晩に早くも再読(わたくしにはじつに珍しいケースだ)。今日も秋葉原に所用で向かう京浜東北線のなかで、読まねばならぬ資料をうっちゃって読み耽ったことである。
 そのあとも、「針医の圭樹」、「瘤」、「将軍」、「哄笑に至る」と読み進んだが、やはり後年の作品群と較べても見劣りはしないレヴェルの小品、という気持ちは強くなるばかりだ。就中「瘤」と「哄笑に至る」は双生児の如き関係にあると思い、いずれも呵々させてもらった。もっとも、その一方で「哄笑に至る」は他人事に非ざるなり、と、己に軽く戒めを課したのであるが。
 残り2/3をいつ消化し終えるか、正直なところ自分でもよくわからない。いまは平時ではないのだ。とはいえ、今月中にはいくらなんでも読み終われるよね、と自問しておる。が、答えは返ってこない。いやぁ、参ったね。
 この文庫の刊行当時、どうしてこんな無名時代の作品まで文庫化されるのだろう、やはり主要作品をすべて収録しているレーベルの意地と自負ゆえなのかな、と要らぬ勘繰りをした。が、いまなら、どうしてまとめられたのか、理解できる。太宰治ほど無名時代、アマチュア時代の作物さえ読ませてしまう作家はいないのだ。そうして『地図』所収の諸編はいずれも、ほかの有名作、代表作と同じ土俵で語ることが可能な、稀有な結晶体であることの証しだったのだ。いやぁ、すごい人に惚れこんじまったよ。文章に惚れる。作品に惚れる。顔に惚れる。そこまでさせてしまう作家がこの国に、ほかにいったい何人いるというのか。◆
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第2684日目 〈本日休載のお知らせ〉 [日々の思い・独り言]

 表題の件、以下のように申しあげます。……って、初めてまともなタイトルで「休載の告知」をしているように思います。
 いろいろ支障ございまして、本日の更新は「お休み」させていただきたく存じます。読者諸兄にはどうぞ、ご理解とご寛恕の程お願いできれば幸いです。
 じつは今、以前からつらつら考えては泡沫の如くに消えてゆき、を繰り返していた企画があるのです。それがなにか、いまはまだお話しできませんが、然るべき時期になり、準備も整いましたら、改めて本ブログにて、或いはTwitterでも併せて、お知らせ致しますね。でも、なるべく早い時期に始めないと、意味ないかなぁ。
 ──
 「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼ37:4-6)
 次の更新再開を想うわたくしの心、斯くの如し……笑われるでしょうか? でも、本心なのです。◆
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第2683日目 〈新約聖書から、結婚にまつわる言葉を取りあげてみた。〉 [日々の思い・独り言]

 「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(一コリ7:8-9)
と、パウロは「コリントの信徒への手紙 一」第7章第8-9節で書いています。これがその章冒頭の、──
 「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。」(一コリ7:2-3)
につながる言葉なのです。
 夫婦のありようについてはパウロは、また「テサロニケの信徒への手紙 一」第4章第4-5節にて、斯く述べています。曰く、──
 「おのおのの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならないのです。神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならないのです」
と。
 結婚については、イエスがヨルダン川東方ユダヤ地方にて、自分を試すファリサイ派の人にこう答えました、──
 「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」(マタ19:4-6)
と。
 今日は午前中は近所のスーパーに買い物、午後の暑い時間はリヴィングでぼんやり高校野球を観て過ごし、そのあと少しお昼寝して、夕方はずっと庭と自宅まわりを掃いて、草をむしり、夕食の仕度をして、と本を読んだりする時間がまったく取れなかった。むろん、こんな1日があるのも幸せなことです。
 さりながら、ではブログの原稿はなにを書こうか、と考えてもいっこうネタはない。だから、というわけでは勿論ないけれど、昨夜寝しなと今朝起きてしばしの時間、漠然と読んでいた新約聖書から<結婚>について、拾い出してみたのです。
 ナザレのイエスが使徒たちや説教を聞く人たちに宣べた教えはあくまで骨格であり、それは時間が経つにつれて多くの人たちによって喧伝されてゆきなかで、実をつけ花を咲かせ、やがて西洋社会の精神構造を形成してゆきました。
 西洋の社会保障制度が「マタイによる福音書」に載る「ぶどう園の労働者のたとえ」をベースに発展していった成果だ、と或るキリスト教学者は著書に書いておりますが、その伝でいうなら、西洋の夫婦制度は──実体は如何に腐敗し、もしくは形骸化していたと雖も──上述の福音書やパウロの手紙の記述を核にして、固められていったように、わたくしには感じられるのであります。
 このあたりはもう少し自分への宿題として、考えてみようと思うております。
 さりながら既に上で引いた、──
 「自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」
 「おのおのの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならない」
 「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(中略)神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」
という新約聖書の言葉は、極東の非キリスト者の心にも届く言葉だと思うのであります。◆
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第2682日目 〈実態把握のため、本の山を崩してたはいいけれど……。〉 [日々の思い・独り言]

 部屋の片附けを始めるにあたって、まず床から積みあげられた本や資料の山脈を崩してみることにしました。いったいこの部屋にどれだけの書物が蓄蔵されているのか、その実態把握のために調査のメスが入ったわけですが……、
 ……いやぁ、2時間弱で挫折しました。崩した本の置き場が早々になくなり、それ以上山を崩して小分けしても却って全体像が見えなくなるばかり、という事態が出来したからです。
 うむむ、もはやこれは「どうにかしないといけない」というレヴェルを、はるかに超えている。危険信号がいつ点ってもおかしくない状況だ。この場合の「危険信号」とは<黄色>を指すのではなく、それを一気に飛びこえて<赤>ランプが点灯、併せてアラートがけたたましく鳴り響いて止まらない状況を、指す。
 意外なまでにダブりの少ないのがささやかな自慢であるが、目のあてられぬ惨状となった山崩れの跡を眺めていると、溜め息交じりで恨み言が口をつく。こんなに買いこんで、いったいどうしようとしていたのか、当時の自分は。
 ジャンル毎に処分、或いは残すことが決められたら幸せと思うが、どうにもわたくしの蔵書の場合はそう上手く事が運びそうにない(性格的にもね)。幻想文学とミステリとSFは密接に結びつき、日本の古典文学と歴史書は不即不離の関係にあり、中国の古典は古代文学や古代史を読む際必須の参考図書。聖書やキリスト教、西洋思想の本は処分の対象を免れる。いやはやまったく、頭が痛い。どうにかしてくれよ、キング・ジェームズ。
 こうなるとやはり、レンタル倉庫と契約するのが、最善の方法なのか。「処分するのは抵抗があるけれど、さりとて部屋に置いたままでは場所塞ぎになるだけだな」と思う本はそちらへお預けするのが、やはり現実的かつ賢明な書痴(もとい、「処置」だね。「しょち」を変換していちばん最初が「書痴」だなんて……!)なのかなぁ、と、思うておるのだ。
 が、勿論、そこにも問題はある。レンタル倉庫から届くダンボール箱をどこに置いておくか、先方が定める期間内に箱詰めを終えて配送依頼が掛けられるか。それに費やす時間が……うん、これは大丈夫、捻出できるな。
 ほかに思い浮かぶ問題があるとすれば、──預ける本と部屋に置いておく本、その冷静な判断が自分にできるか否か、だな。預けたすぐあとにそのなかの本が必要になって、けっこうきつめの言葉で注意されながら取り出した経験があるからなぁ。歴史は繰り返す、というし、嗚呼、くわばらくわばら。
 現在は8月11日(日)の22時16分。そろそろ作業は中断して、寝しなの読書と就寝の準備に入ろう。そのためには、いま目の前に広がる崩れた本をまた積みあげて原状回復させなくては……んんん、なにか可笑しくないか?◆
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第2681日目 〈今月、発売がいちばん待ち遠しい文庫は、──岩波文庫『後拾遺和歌集』です。〉 [日々の思い・独り言]

 やはり怖い話、気味の悪い話、ゾクッとする話は良いものです。いまは季節が季節ですから、本屋さんや書肆でもその類のフェアをしているのが目につきますが、こんな時季だからこそ新刊書目のうちにこの分野のものを見附けるとうれしくなって、発売日がその瞬間から待ち遠してくてたまらなくなり、ソワソワしてしまうのです。
 たとえば、先月は東雅夫編『平成怪奇小説傑作集 1』(創元推理文庫)とHPL『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』(新潮文庫)が出た。今月は『幽霊島 平井呈一翻訳集成』(創元推理文庫)や綾辻行人『深泥丘奇談・続々』が文庫化(角川文庫)、気が早いけれど来月にはHPL<新訳クトゥルー神話コレクション>第4巻、森瀬繚編訳『未知なるカダスを夢に求めて』(星海社)と東雅夫編『平成怪奇小説傑作集 2』(創元推理文庫)がお目見えする(書くまでもないだろうが、個人の好みを反映したセレクトであることをお断りしておきます)。
 うれしくて、うれしくて、たまらない。手帳を開き、カレンダーを眺めて、発売日に書店へ並ぶ光景を夢想していると、ちょっと落ち着かなくなる。今月はほかにも欲しい本がたくさんあるので、月末に一気買いする予定──なのだが、今月は或る意味それら以上に刊行を知って驚喜し、手帳に発売日を大きく書きこみ、一日千秋の思いで待ち焦がれている文庫が1冊だけ、ある。
 久保田淳・平田喜信校注『後拾遺和歌集』が、それ。岩波文庫、8月18日刊行予定(18日って、日曜日だけれど……?)。
 かつて岩波書店は昭和に刊行した《日本古典文学大系》のあとを承けた、最新の研究成果を盛りこんだ《新日本古典文学大系》を平成の前半に刊行、完結させた。久保田淳・平田喜信校注『後拾遺和歌集』も、《新日本古典文学大系》に収録の1冊。
 大きめの新刊書店へ行けば函入りの、ジャンル毎に色分けされた帯で飾られた濃緑色の上製本が棚の一角を占めていたが、最近は場所塞ぎなのと完結から大分時間が経過したこともあって、だんだんと姿を消していっているのが淋しいところ(オンデマンドに移行していますね)。
 とはいえ、その古典文学のテキストと註釈がお払い箱になっているわけでは、勿論ない。出版社は《新体系》に収録された古典を暫時、改訂などして文庫におろしているのは、なんとも心強く、喜ばしいことである。いま手許に現物がないため記憶だけで書名を挙げれば、『源氏物語』や『平家物語』がその流れで文庫化されていたはず。嚆矢となったのは『平家物語』でなかったかしら。令和改元に伴うバカ騒ぎで特定巻だけ売れて、一時版元品切れとなった『万葉集』も、そのなかに含まれる。
 古典時代の和歌、就中八代集に関していえば、岩波文庫はいまも佐伯梅友校注『古今和歌集』と佐々木信綱校注『新古今和歌集』を持つが、これは《新体系》刊行以前から入っていたものだ。そう考えると、殊八代集に関していえば、《新体系》から文庫化されるのは今回の『後拾遺和歌集』が初めて、となるわけだ。
 いま頃になってようやく文庫化、というのも正直解せぬ話ではあるが、今回の文庫化の背景に令和改元という大きな出来事があったのは、想像に難くない。新体系→文庫という流れをとった『万葉集』の売れ行きをバネに、続く八代集もこの機会に……という思惑、わたくしはあっても良いと思います。行き届いた校訂と註釈・解説が付された良きテキストが市場へ出回ることに、果たしてなんの「否」がありましょう? もっとも、どうして第1弾が三代集でもなく『新古今和歌集』でもなく『後拾遺和歌集』であったのか、そのセレクトの意味はわかりかねるのですが……。
 ──『後拾遺和歌集』は『古今和歌集』に始まる勅撰21代集のうち、4番目の勅撰和歌集。勅を下したのは白河天皇、撰者は藤原通俊、応徳3(1086)年9月成立と伝えられます。前の『拾遺和歌集』から約80年後に成立した『後拾遺和歌集』は、平安時代の文化がいちばん爛熟した時代の産物だけあり、そこに載る歌人、詞書や官位に見られる政治情勢なども、われらが中学高校の日本史で学ぶ事柄(藤原北家の台頭と、特に道長時代の全盛、『蜻蛉日記』や『更級日記』『枕草子』や『源氏物語』が書かれる、など)に結びつくものであります。
 わたくしの気持ちとしては、勅撰集を初めて、1冊通して読んでみよう、と志を立てた人は、この『後拾遺和歌集』は入り口とするに相応しいと思うのです。この前の三代集は、いわゆる<古今風>が完成してゆく過程を知るにはいいでしょうが、ちょっと取っ付きの悪い面があるのも事実ですから、尚更そんな風に思うております。
 岩波文庫には戦前、西下経一が校訂した『後拾遺和歌集』があった。神保町の古本屋でコツコツ買い集めた岩波文庫黄帯のなかに含まれた1983年11月第2刷の『後拾遺和歌集』と、八重洲ブックセンターにて購入した1994年3月第3刷のリクエスト復刊された『後拾遺和歌集』を架蔵するので、いま書架から運んできてiMacのキーボードの横に置いているが、西下校注の『後拾遺和歌集』は解題は簡にして要を得て、索引もしっかりしていて、読みやすい1冊である。脚注はあるが、こちらは底本と異本の異同を示すなどしたものだ。
 そうして今回、《新日本古典文学大系》を基にした、信頼できる校訂と註釈・解説の『後拾遺和歌集』が登場する。出版に至る過程はともかく、これを契機に岩波書店はほかの八代集の文庫化を実現させ、また読者に於かれましては『万葉集』以外の古典和歌に親しむ人たちが1人でも増えてくださることを、切に希望する次第。
 ああ、発売日が待ち遠しい。◆
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第2680日目 〈希望を語るになんの羞恥を覚えることはない。〉 [日々の思い・独り言]

 いえ、まったく個人的な、本ブログにまつわる希望なのです。──聖書読書ノートブログから始まりそれが終わって以後、本ブログは迷走の時期を迎えて、いまもたぶんそのなかにいるのでしょう。
 曙光はまだ見えていません。が、それを見出すことは即ち、次のテーマが決まり、読書と執筆のための準備が着々と進んでいることを、意味する筈。場合によっては何日分かの原稿が、待機状態にあるかもしれない。
 かつては聖書が読み終わったらダンテ『神曲』、或いは『論語』を読もうかなぁ、と企んでいた。聖書読書と同様、原則1日1章(1段)で進めてゆくのか、勿論それは不明です(取り掛かっていないから、仕方ないよね)。
 でも、聖書読書で自分にとって最善のペースと、1日にこなせる分量がわかった。それに則るならば、読む対象が『神曲』であれ『論語』であれ、さして無理なく読み進めてゆけるのではないか──。
 むろん、「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」を終わらせるのが優先ですから、いまではまだ上記の事柄、夢物語の域を超えないのが、じつにむず痒いところなのですが……。
 如何にして今後、本ブログの定時更新を続けてゆくのか。ほんじつの原稿はそこから出発した内容なのですが、不安ばかりだけれど、第3000日目まではどうにか本ブログの命脈を保たせたいのです。
 それまでにお披露目される記事は、本の感想でも日常雑記でも、ルサンチマンでも社会時評でもなんでも構わない。すくなくとも長期にわたる読書ノートという大柱が確かになって、開始と継続の見通しを立てられるようになるまで、分量に長短こそあれ、質に若干の濃淡こそありと雖も、エッセイを毎日書いてゆこう、と思うのです。
 そうして、いつか本ブログでお披露目中の作物を、精選して1冊の本にまとめたいな、……なんて分不相応な願望も、最近は抱いているのです。
 ──さて、夢を語る時間は終わりだ。明日から、第3000日目を目指す。あと約1年弱である。インプットを増やし、井戸を掘り進め、体力と文章力を鍛えて、なにより仕事を頑張り、その日の訪れを実現させるために前へ進もう。ヒルティのいうように、「いまわたくしの前には希望だけが広がっている」のだから。◆
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第2679日目 〈メディア・リテラシーを養いましょうよ。〉 [日々の思い・独り言]

 昭和天皇の会見を悪質な意図から編集、原爆投下を止むなしと発言させる動画がTwitterで紹介されています。
 が、昭和天皇のお立場、戦争にまつわる数々のお言葉、等々踏まえれば件の映像がフェイクと気附くのはそう難しくないでしょう。にもかかわらず、素人目にさえずさんな編集とわかる悪質な映像に騙されて、「昭和天皇の発言許すまじ」の反応を示した人々の、なんと多いことか。
 流石にスタートダッシュの勢いは衰えつつあるが、それでも自重を求める声があがり続けていることは、幸いなことだ。
 その映像が信頼できるソースから提供されているのか、言葉と感情を呑みこんでいったん検証しようよ。胡乱なニュースさえ無批判に信じて、流れに乗るようなお調子者になってはいけない。どうして「編集された映像」であることを微塵も疑わずに、整理されていない自分の感情を吐き出すことができるのか。
 われら情報を享受する側の者はニュースの内容を額面通り、すなおに受け止めるだけでなく、「ここに書かれているのは本当のことなのかな」と、自分なりに疑問を持って考えたり、調べたりすることも、時には大切なのではあるまいか。そんな風に思うのですよね。
 われらの身の回りにあふれるツールは両刃の剣。いまは、危険な時代です。
 一瞬の感情を剥き出しのまま伝えられてしまうSNSとの付き合い方も、これを機に考え直してみたいですね。

 追伸
 投稿されたコメントへの返信は勿論、本ブログでそれを公開することは一切行いません。これまでと同じです。◆
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