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第2654日目 〈マカバイ記・一第5章3/3:〈エフロンでの破壊〉、〈ヨセフとアザリアの敗北〉他with抵抗、祈り、そして……〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第5章3/3です。

 一マカ5:46-54〈エフロンでの破壊〉
 カルナイムをあとにしたユダ軍は南下して街道沿いの町、エフロンのそばまで来た。が、道はそのまま町中を突っ切ったものしかなく、ほかに迂回路はなかった。
 マカバイはエフロンの人々に町を通過する許可を求めた。が、住民は街道を封鎖することでこれに応えたのである。諦めて迂回する考えは、ユダ軍になかった。突破して前に進むことを選んだのだ。
 然るにマカバイは命じて郊外に陣を敷き、そのあと一昼夜にわたってエフロンの町を攻撃した。斯くしてエフロン、陥落。
 「」彼らは男子をことごとく剣にかけて殺し、町を跡形なく破壊し、戦利品を奪って、敵の屍を踏み越えて、町を通過した。」(一マカ5:51)
 ──ヨルダン川を渡って西岸地域に戻ったユダ軍は、ベト・シャン(ベト・シェアンか?)の町の手前に広がる平原を経て、更に南下する。険しい山道をかれらは、落伍しそうになる者を助け励ましながら、前に進んだ。
 そうしてユダ軍とギレアドの解放民は歓びを胸にシオンの山を登り、けっきょく1人の脱落者を出すことなくエルサレムへ帰還した。帰るとマカバイたちは感謝のため、聖所にて焼き尽くす献げ物をささげた。

 一マカ5:55-64〈ヨセフとアザリアの敗北〉
 まだエルサレムにシモンもマカバイも帰ってきていない時分のことである。
 エルサレムの留守を任されたヨセフとアザリアは、功名心と高慢さからマカバイの諫めを破り、異邦人の一部隊に無謀なる戦いを挑んでいった。
 戦場はヤムニア、敵将はかつてアマウス戦でマカバイに裏をかかれたゴルギアス。案の定、ヨセフとアザリアは敗北した。異邦人たちはユダヤの国境までかれらを追撃した。
 ヤムニアの戦い、それは敗北するべくして敗北した、ぶざまで思慮に欠いた戦闘だった。この、必要のなかった戦闘で2,000人のユダヤ人兵士が犠牲になった。
 「」(一マカ5:61-62)
 イスラエルを救う役目をその手にゆだねられていたのは、手段や行状に多少の問題ありと雖もやはり、ユダ・マカバイとその兄妹たちだったのである。此度の戦はその証しというてよい。

 一マカ5:65-68〈ユダ、南部と異国の地を撃つ〉
 ユダ・マカバイとその兄弟たちは、まだまだ戦い続けた。
 南に下ってエサウの子孫と戦い、ヘブロン他の町や村を襲い、その砦を破壊した。
 異国に侵攻してマリサという町を落としたその日、従軍していた祭司たちが、先のヨセフたちと同じように功名心と驕りから戦場に出てゆき、戦死した。分別をわきまえぬ愚行である。
 ユダ軍は異国の町アゾトを攻め、異教の祭壇を引き倒した。異郷の神の像を焼いた。略奪行為に勤しんだ。そうしてユダ軍は揚々と引き揚げていった。

 言いつけを守らない留守番とか職能を忘れて戦場に行ってしまう祭司とか、まるでユダ軍は統率の取れていない<ならず者集団>にしか思えてならぬ、本日の読書範囲。トップに問題あると、やはり下に従く人材も似るようだ。
 たとい最初はそうでなくても、その集団へ所属しているうちに段々と感化されてくる。さして殺し合いを好まぬ人でも、マカバイの下にいて日々戦闘に明け暮れる日々を送るようになると感覚は麻痺して、やがてそこに楽しみと歓びを見出すように、なってしまうのかもしれない。均質化、といえば言葉は良い(かもしれない)が……。
 マカバイは或る方面に於いては非常に有能だが、それ以外のことに関してはからっきし無能である。無能てふ言葉が過ぎたものなら、信頼を置くに値しない、と言い換えてもよい。21世紀の日本にユダ・マカバイがいたならば、ブラック企業のボスとして勇躍名を天下へ轟かせていたに相違ない。
 「マカバイ記 一」、殊マカバイについて触れた部分は組織論やリーダー論に通じるところがあって、ちかごろ面白く読んでいることを告白しておきます。もしわたくしがその種の本を書くとしたら、反面教師なリーダー、或いは組織運営の一例として、本書を引き合いに出すことになるでしょうね。



 非常に遅まきながら人生再構築を始めた矢先、それをあざ笑い、ぶっ壊すような現実に直面して、打ちのめされる。
 あと15年、いや、10年で良い、いまの生活を営ませてほしい。その間にかならず結果を出し、しあわせな日々を送ってもらうようにするから。
 約束する。
 だから、まだ奪わないで。連れてゆかないで。早いよ……。◆
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第2653日目 〈マカバイ記・一第5章2/3:〈シモンとユダ、同胞を救出〉withブログ開設10年。これからのこと、あれやこれや。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第5章2/3です。

 一マカ5:21-45〈シモンとユダ、同胞を救出〉
 ガリラヤのシモン、ギレアドのユダ・マカバイ。共に軍を率いてそれぞれ善く戦った。
 シモンはガリラヤにはびこる悪なる敵を一掃し、敗走する敵をプトレマイスの門まで追撃した。ガリラヤ地方とアルバタ地方の同胞たちを、家族の誰1人欠けることなく、またその財産も一緒に取り戻し、意気揚々と、ユダヤへ凱旋したのである。
 ユダ・マカバイと弟ヨナタンの軍はヨルダン川東岸に渡った。その古、出エジプトを果たしたイスラエルの民が“乳と蜜の流れる地”カナンを完全に平定して、12部族へ嗣業の地として分配されたとき、ガドゾクトルベン族、マナセの半部族に与えられたのが、いまマカバイたちが行こうとしているギレアドである。
 ユダ軍はヨルダン渡河の後、荒れ野を3日間進んだ。その途中でナバタイ人から、この地方に住まうユダヤ人の惨状を知る。どこの地でもユダヤ人は攻撃の対象、暴力の犠牲だった。
 マカバイらは転進してナバタイ人の話に出てきた町──同胞が虐げられている町──を目指す。即ちギレアド地方のボソラ、アレマのボツル、カスフォ、マケド、である。ユダ・マカバイと弟ヨナタンの軍勢はいずれの町でも敵に勝利して、同胞を救出した。
 ユダ軍のギレアド進攻を阻止できず連敗を喫したことから<敗戦の将>のレッテルを貼られてしまったシリアのティモテオスは、退いた地で軍を再編し、ヨルダン川へ注ぐ渓流沿いの町ラフォンへ陣を敷いた。ユダヤ人を快く思わない異邦人或いはアラビア人たちが傭兵に合流したことで、ティモテオスの軍はいつしか大所帯になっていた。
 渓流は折からの雪解けもあって水かさを増していた。そうして水勢も、強い。ティモテオスは、マカバイが自軍を率いて渓流へ近附くのを見て、部下の指揮官たちにいった。曰く、「敵の方が先に川を渡って来るなら、わが軍は太刀打ちできない。彼らの方が優位に立つことになるからだ。だがもし敵がちゅうちょして対岸に陣を敷くなら、そのときはこちらから川を渡り、敵を打ち負かそう」(一マカ5:40-41)と。
 一方、マカバイは渓流のほとりへ着くと、そこに民の律法学者を立たせて、こう命じた。一兵たりとも宿営に残してはならぬ、残ろうとする者あらば駆りたてよ、全員を戦闘に出すのだ。
 然る後、マカバイは先陣を切って渓流を渡った。それを見た兵士たちも鬨の声をあげながら渓流を渡り、マカバイに続く。敵陣へ斬りこんだユダ軍は異邦人たちをすくませ、怖じけさせ、背中を向けて逃げ去らせる程の勢いである。戦場から離脱したシリアの敗走兵たちは這々の体で、カルナイムの町の神域へ逃げこんだ
 カルナイムはギレアドの奥の方にある町。神域へ逃げこんだ異邦人たちは、どうかマカバイの兵に見附かったりしませんように、生きて寿命を全うできますように、と祈った──かどうかはわからぬが、それはけっきょく無駄に終わったのである。
 追ってきたユダ軍は町を占領すると、無情にも神域へ火を放ち、異邦人たちを皆殺しにした。斯くしてカルナイムは陥落し、ユダ・マカバイに抵抗する者もいなくなった。
 ギレアドのイスラエル人を迫害から解放したマカバイは、身分や職業、性別等にかかわらずかれらを連れてユダヤの地目指して出発した。

 高地であるヨルダン川東岸地域(トランス・ヨルダン)──ヨルダン川に注ぐ渓流(われらに馴染み深い言葉を使えば、それは“支流”の意味である)の1つに、ガリラヤ湖に近いヤルムク川がある。どこの国でも事情は同じでむかしは河川が土地の境界を示していた。ヤルムク川も然りで北のバシャンと南のギレアドの境界であった。ではギレアド地方の南端はどこかというと、そこから約60キロばかり南下したところでヨルダン川に注ぎこむヤボク川である。
 むろん、これは旧約聖書の時代の話で、ユダ・マカバイの時代になると、ヤルムク川の北もヤボク川の南も多くの場所がギレアド地方と呼ばれていた様子だ。そうしてヤルムク川とヤボク川の間にもたくさんの支流があって、ヨルダン川に流れこむ。
 ここで疑問に思うたのが、ティモテオス以下のシリア軍とマカバイ率いるユダ軍が相対することとなる「渓流の向こう側にあるラフォン」(一マカ5:37)とはどこか、という点だ。この地の戦闘で敗れたシリア軍は(全員ではないにしろ)カルナイムの町へ逃げこんだが、このカルナイムが位置するのは、ダマスコ(ダマスカス)からマオンを経由してアカバ湾沿岸の都市エイラト(エツヨン・ゲベル)をつなぐ<王の道>と呼ばれるトランス・ヨルダンの街道沿い。敗走兵が逃げこんだ以上、カルナイムが戦場から遠く離れた町とは考え難い。そうしてこのカルナイム、ヤルムク川北方にあって、西へ目を転じればそこにはガリラヤ湖がある。
 おそらくラフォンはヤルムク川沿いにあり、かつカルナイムからそれ程離れていない場所にある土地の呼称であったのだろう。そうわたくしは結論する。正か否か、識者の指摘を乞いたい。



 なんとまぁ、昨2018年10月06日で本ブログ開設から10年が経っていたことに気が付く。4ヶ月以上まるで気附かずにいたのはどうしてだろう、と考えたけれど、それだけブログ運営に執心することもなくなっていたのかな、とかなり反省しております。聖書を毎日読んでいた頃からは想像もつきませんな、この無頓着ぶりは。
 いろいろあってもう当時のような更新ペースを、なにがなんでも維持することはできなくなってしまったけれど、それでもここがわたくしにとって大切な場所、還るべき場所であるのに変わりはない。大事な意見発表のステージでもあります。
 この10年のわたくしはしあわせだった。これまでにお披露目してきた2600余の原稿はどれもこれも、その時期に能う限りの力を注ぎこんだ、と自負できます。クオリティにムラがあるのは、なんとも無念なことではありますけれど……。
 本ブログは第0001日目、出エジプト記第18章から始まった。「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読を済ませたあともいろいろ思うところ、日常雑記、本や映画、音楽の感想など定期的に更新して、そうね、まず第3000日目の達成を目指そう。そのあとは第4000日目、第4500日目、第5000日目を視野に入れて、日々書いてゆく。
 その間、わたくしを取り巻く環境は大きく変わることだろう。哀しみと無念と後悔に圧し潰されるときもあれば、喜びに足が宙を浮き、天を舞い、<ラ・ヴィアン・ローズ>を謳歌するときもあるだろう。無聊をかこち、砂を噛み、地団駄踏み、また、小さな幸運に浮かれ舞い、出逢いや出会い、成長、来し方を顧みて感謝をささげるときもあるだろう。でも、それでいい。
 本ブログがなにかしらの事情で永遠に更新が途絶えたあとで顧みたとき、そこにはなにが残り、読む人たちになにを伝えるのだろう? never more.◆
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第2652日目 〈マカバイ記・一第5章1/3:〈ギレアドとガリラヤ在住のユダヤ人の危機〉他withシューベルトの交響曲第5番/思い出に別れを?〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第5章1/3です。

 一マカ5:1-8〈隣接諸民族との戦い〉
 ユダヤの民がエルサレム神殿を再建して聖所を清め、奉献した、という報は、周囲の異邦人を激怒させるにじゅうぶんだった。なかでも特にユダヤ人に対して怨恨や不快の念を抱く連衆は、自分たちのなかで暮らすユダヤ人を虐げ、殺め、根絶やしにこれ務めた。
 勿論、マカバイたちは黙っていない。かれらは異邦人との戦いに赴き、遠近の地にて相争うた。──ユダヤを包囲したイドマヤのエサウの子孫に対してはアクラバタにて戦い、「路上に待ち伏せて、民に対する罠とつまずきとなっていた」(一マカ5:4)バイアンの子孫を塔に閉じこめて呪いをかけ、塔へ火を放って焼き殺した。
 また、アンモンの子孫とも戦ったが、かれらは数も多く手強かった。アンモンの司令官はティモテオスであった。かれは後にギレアドのユダヤ人を苦しめ、またマカバイとの再戦も、ヨルダン川の渓流に面したフォンにて控えている。
などユダヤに隣接する諸民族との戦いに明け暮れた。
 時に苦戦し、圧されることもあったが、マカバイ以下のユダヤ軍は敵を蹴散らし、殺し、退け、最後には敗走させたのだった。

 一マカ5:9-20〈ギレアドとガリラヤ在住のユダヤ人の危機〉
 異邦人によるユダヤ人弾圧は北部のガリラヤとヨルダン川東岸のギレアドでも行われていた。
 ギレアド地方の異邦人はティモテオスを司令官にいただき、その下に結集、イスラエル/ユダヤ人を攻撃した。たくさんのユダヤ人が犠牲になった。
 が、どうにか死を免れた人々はダマテの砦へ逃げこんだ。かれらはエルサレムのマカバイに宛てて、自分たちを見舞った危機と救援を希う書状を認め、使者に託して送り出した。
 マカバイがその書状を読んでいるまさにそのとき、今度はガリラヤからの救援要請が届けられた。その使者の曰く、プトレマイス、ティルス、シドンの異邦人が連合して、わたしたちガリラヤ地方のユダヤ人を根絶やしにしようと行動しています、と。
 これを聞いたマカバイは民や兵を集めて、かつてない艱難のなかにある同胞たちのためになにを為すべきか、協議を重ねた。その結果、ガリラヤ地方にはユダの兄シモンが3,000の兵を率いて、ギレアド地方にはマカバイが8,000の兵を引き連れて、同胞救出のため遠征することになった。マカバイは弟ヨナタンを伴うことにした。
 マカバイやシモン不在のエルサレムならびにユダヤ防衛は、ザカリヤの子ヨセフと民の指導者アザリアにゆだねられた。マカバイはかれら二人にいった、民をよく統率せよ、われらが帰るまでけっして敵と戦うな、と。
 斯くしてシモンの軍勢とマカバイの軍勢はそれぞれ、かの地へ向けて出撃したのである。

 バイアンについては未詳でありますが、文脈から判断して街道沿いに幅を効かせた1部族で、街道を行くユダヤ人に対して悪行を働いていた様子であります。かれらを閉じこめた塔というのもおそらくは、街道沿いに作られた物見塔、守備塔の1つだったのでしょう。ゆめ
 ティモテオスはこのあと、本章2/3にてマカバイと相対する敵将ですが、どうにもやられ役としか言い様のない人物と、わたくしの目には映ります。裏返していえば、マカバイの強さを印象づける引き立て役でしかありません。
 エルサレムの留守を任された1人、民の指導者アザリアは「マカバイ記・二」で「エレアザル」(二マカ8:23)や「エスドリス」(二マカ12:36)と呼ばれる人物と同一である、という(ハンス・シュモルト『レクラム版聖書人名小辞典』P14 高島市子・訳 創元社 2014年9月)。
 が、ちょっと待て。
 「マカバイ記・二」でエレアザルが登場するのは、マカバイがニカノルとの戦いに備えて兵を奮い立たせ、兄弟たちに軍隊を分割して与えた、その文脈に於いてだ。マカバイはエレアザルに聖なる巻物を朗読させている。マカバイ家/ハスモン家は王朝樹立に前後してその資格を欠くにもかかわらず、祭司職に就いた。エレアザルの朗読はその前哨のような記述であり、甚だ不可解なところがあるが、それはともかく。
 同一人物であればアザリアはマカバイの兄弟の1人である。さりながら本書第2章にてマタティアの5人の息子のなかに、アザリアの名前はない。「アワランと呼ばれるエレアザル」ならいるけれど……(一マカ2:5)。
 アザリアもまたアワラン同様、エレアザルの別の呼び名であるのか。その典拠となる文言は、どこにあるのか。外部資料ならば、それはなにか。納得できる材料は1つもない。「民の指導者」の一語を以て斯く曰うなら、牽強付会の誹りも免れぬのではあるまいか……?
 アザリア絡みの話題を、もう1つ。どうしてマカバイはエルサレムに残すアザリアとヨセフに、敵と戦うな、とわざわざ言い置いていったのか。
 ユダヤ/エルサレムに残していった「残りの兵」(一マカ5:18)がどの程度のそれであったか不明だが、<主力部隊>と称すべきはやはりマカバイとシモンが引き連れていった軍隊であったろう。これまで数多の戦いを経験してきたマカバイには敵の力がどれだけのものか、じゅうぶんわかっていたことだろう。互角かそれ以上の戦力をギレアドとガリラヤに差し向けていることは想像に難くないところだ。裏返していえば、ユダヤ/エルサレムに残した兵力で敵と戦うことは困難である、と判断したに等しい。かりに戦闘が始まったとしてもシモンや自分がかの地から戻ってくるまで持ち堪えられればいい、ぐらいには思うていたかもしれない。おそらくそこに残された戦力は、あくまで防衛に徹するに必要最低限なライン数だったのだろう。
 もっともユダ・マカバイ、さらに腹の底ではヨセフとアザリアを、一軍を率いて戦い抜く胆力も能力も、洞察力も統率力もない、資質を欠いた、その方面にまるで向かない人物、てふ評価を下していたのかもしれぬ。
 もしそうならば、マカバイの評価は正しかったことが、本章の最後で判明する。ヨセフとアザリアは「自分たちだって戦えるんだ」という焦りやマカバイへの自己プレゼンに彩られた、浮き足だった功名心からシリア軍に戦いを挑んで、みじめな負け戦を演じることになるのだから。ちなみにこのときの敵将は、かつてアマウスの戦いでマカバイに敗北を喫したゴルギアスでありました(一マカ4:26-35)。



 琥珀色の液体を喉の奥へ流しこんだあと、本稿の筆を執っております。シューベルトの交響曲でなにが好きか、と訊かれたら、《ザ・グレイト》は別格扱い、他の曲から、とお願いした上で、第5番ですね、と答える。
 バイロイト室内管弦楽団の演奏で聴いてから、すっかりこの曲のトリコだ。モーツァルトよりもさらに天真爛漫。あちらではふとした瞬間に覗く<闇>の顔が、ここにはない。どこまでも明るく、無邪気で、みずみずしさと快活さ、優雅さに彩られた、交響曲らしからぬ愛すべき佳品だ。
 とてもベートーヴェンが既に第8番まで交響曲を仕上げ、弦楽四重奏曲とピアノ・ソナタがいよいよ後期の孤峰へ踏みこんでゆこうとしている時代に同じ国の人によって書かれたとは思えぬような一曲、ともいえるか。
 前述のバイロイト室内管による、ひなびちゃいるがフレンドリーであたたかい空気に満ちたPLATZ盤がいちばん好きだが、じつはもっとも頻繁に耳を傾けているのはカール・ベーム=ベルリン・フィルのDG盤である。どうして? うぅん、どうしてなんでしょうね(くすっ)。
 ──シューベルトの作品は10年前の思い出と密接に結び付く。わたくしはそろそろその思い出と「さようなら」するべきなのかもしれない。しかしそれでも心は<悠久の希望>に搦め捕られたまま……。嗚呼!?◆
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第2651日目 〈マカバイ記・一第4章2/2〈聖所の清め〉&ハヌカについてwithやっぱり文章は毎日書かないと、ダメだなぁ。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第4章2/2です。

 一マカ4:36-61〈聖所の清め〉
 シリア軍の撤退を見届けたマカバイは、シオンの山へ続く道を進み、エルサレムに入った。
 そこは荒れ果てていた。かつての面影は消え失せていた。聖所は廃れ、祭壇は汚されていた。祭司部屋は崩落し、門は焼け落ち、中庭はどこの山奥かと見紛うばかりに草生している。マカバイや兄妹たち、また民はその様子を見て大いに嘆き、悲しんだ。
 マカバイは兵たちに、聖所の清めが終わるまで要塞に巣喰う者らと戦うよう命じた。聖所を清める作業が連衆に妨害されないように、である。
 聖所を清める作業にあたって祭司の任命が行われた。選ばれた祭司たちは皆律法に忠実で、誰からも咎められたり疑われることのない人々である。かれらは清めの作業の先頭に立ち、人々に指示を下していった。
 まず、汚れの原因となった石を不浄の場所へ移した。続いてかれらは、汚されてしまった祭壇について話し合ったが、その結果、<憎むべき破壊者>の像は引き倒して粉砕するがよかろう、ということになった。異教徒が置いた像によって祭壇が汚されてしまったのだから、ユダヤ人である自分たちがそれを取り払うことになんの咎があろうか、との思いからである。また、取り除かなかったことで人々から非難を浴びるのをあらかじめ避ける目的も、あった。
 粉砕された<憎むべき破壊者>の石ころは神殿の隅に捨て置かれた。やがて現れる預言者が良いように処置してくれるだろう、と期待してのことだった。
 聖所を清める作業は、順調に進んだ。
 聖所と、神殿の内部の一部が修復された。朽ちていた中庭はいまやすっかり丹精されて、往時も斯くやとばかりに清められた。律法の指示に従って、新しい祭具類が造り直され、神殿へ次々搬入された。燭台には火が灯されて、神殿のなかを明るく照らした。祭壇には香が焚かれて、神殿はかぐわしい香りに満たされた。机には供えのパンが置かれた。神殿内にはかつてのように垂れ幕がさがり、修復作業はひとつの到達点に至った。
 「かくしてなすべきことはすべてなし終えた。」(一マカ4:51)
 ──ギリシア人の王朝の第148年、というから、前164年、その第9の月──キスレウの月の25日。
 遂にこの日が訪れた。朝から喜びにあふれた日だ。
 その日、民は朝早い時間に床を離れて、それぞれに行動を始めた。
 新しく造られた焼き尽くす献げ物のための祭壇に、いけにえがささげられた。この祭壇は律法に従って人手が加わっていない、自然なままの石で造られており、細々とした部分は以前の祭壇に倣って習って細工された。
 キスレウの月の25日、それは3年前に異教徒が祭壇へ忌むべき献げ物をささげて、ユダヤ人の宗教生活を根底から揺るがした、忘れるに忘れられぬ日であった。マカバイたちはその月、その日を選んで、新たに祭壇を奉献したのである。
 民は自分たちを正しく導いてくれた<方>を、天に向かって讃えた。
 奉献は8日間にわたって祝われた。焼き尽くす献げ物がささげられ、和解の献げ物と感謝の献げ物のためのいけにえを、それぞれ屠った。神殿の飾り付けを済ませ、祭司部屋を新しくし、門が新しく取り付けられた。民の心は喜びに満ち、顔には深い感動の色が浮かんでいた。こうして人々はひとつの信仰の下に結ばれ直したのである。
 「異邦人から受けた恥辱は取り除かれたのである。」(一マカ4:58)
 ──ユダ・マカバイを始めとするイスラエルの全会衆は、この奉献の日を代々にわたって祝い、その意味が記憶から消えぬようにしたい、と願った。ゆえにそれから毎年、キスレウの月の25日に始まる8日間を、「喜びと楽しみをもって」(一マカ4:59)祝うようになったのである。これが21世紀の今日まで続く、<ハヌカ>というユダヤ教の祭りの起源となった。
 ……民が奉献に浮かれている一方でマカバイはシオンの山の周囲に城壁を巡らし、塔を築いて守りを固めた。ゆめシオンが異邦人、異教徒に踏みにじられることがないように、である。また同じ目的で南の要衝、ベトツルも強化された。これはユダヤの南西に広がるイドマヤ地方への睨みとなった。

 われらはかつて「エステル記」を読んだ際、<プリム>という祭りがユダヤ教にあり、またその起源について知りました。ユダヤ教の3大祭り(<過越祭>、<仮庵祭>、<五旬祭>)や<除酵祭>に続く、かれらの大切にする祭りとの出遭いでした。そうして旧約聖書続編にはもう1つ、ユダヤ教で祝われる祭りの起源を語る箇所がある。それが一マカ4:59で触れられる<ハヌカ>であります。
 ハヌカは「宮清めの祭り」とも「奉献の祭り」とも、また「光の祭り」とも呼ばれます。前2者は神殿を清めて奉献した意味ですが、「光の祭り」とはこれ如何に? ここはちょっと補足が必要らしい。
 〈聖所の清め〉で「光」にまつわる文言といえば、「燭台には火をともして神殿内部を照らした」(一マカ4:50)ぐらいしか見当たりません。これではとてもじゃありませんが、祭りに発展する要素は皆無に等しい。ハヌカを「光の祭り」と呼ぶ裏付けとなる根拠はユダヤ教の聖典の1つ、『タルムード』のなかに求められるのでした。
 ただ、最初に言い訳しておきますがこの『タルムード』、非常に広範かつ大部な書物で大きな図書館でも架蔵していないことがある。わたくしも白状すれば本稿を書いている時点で、『タルムード』をひもといてハヌカに触れた箇所を一読してきたわけではございません。よって<ユダヤ教入門>や<ユダヤ教のお祭り>の類の書物から拾い読みして、ここに書き綴っている者であることをあらかじめご承知いただきたい、と、そう思う次第です。
 『タルムード』にはこのような記述がある由。曰く、神殿奉献にあたって調べたところ、シリア軍がことごとく神殿内を荒らし、破壊していったため、奉献に使える油の入った壺はたった1つしかなく、そこに残った油もわずか1日、ロウソクを灯せれば良しという程度の量だった。しかし1日であっても「燭台のロウソクに火が灯り、神殿を輝かせられるのであれば」という想いから、件の油壺から火を点けてみると、1日どころからその後8日間燃え尽きることなくロウソクに火を灯し続けたのでした。これが、<光の祭り>てふ名称の由来。
 8日間燃え続けた、という故事に倣ってハヌカで用いられる燭台は合計9本の枝──中央に種火用のロウソクを立てる1本と左右に4本ずつの枝──を持つ、「ハヌキヤ」というハヌカのための特別な燭台となっております。なお、ユダヤ教の派によっては1日にロウソク1本ずつ火を灯してゆくところもあれば、初日にすべてのロウソクに火を灯すところもあると云々。注記すればイスラエル国の紋章にもなっている燭台「メノラー」は「ハヌキヤ」よりも枝が2本少ない燭台であります。
 さてこのハヌカ、ユダヤ教の祭りですから当然ユダヤ暦で祝われることになる。その時期はキリスト教のクリスマスに近い。キスレウの月はユダヤ教第9番目の月ですが、今日のグレゴリオ暦では11月から12月に相当。その「25日からの8日間」は年によってまちまちですが、概ね12月上旬から25日前後で毎年祝われているようであります。
 同じ時期に(ユダヤ教から派生した)キリスト教がクリスマスを祝うため、ハヌカも同様の祭りと勘違いしがちですが、その意味するところはまるで違うことを、われらは認識する必要がある。ハヌカは或る意味でユダヤ民族の精神的再統一を確認し、外圧を退け自立と信仰を回復させた喜びと誇りを記憶する祭りでありました。
 一方のクリスマスはキリスト教が他の宗教の祭り──ペルシア由来のミトラ教が太陽信仰の宗教であったことから、1年でいちばん日の短くなる冬至(12月25日)を「太陽神ミトラスが誕生した日」とし、ローマ帝国内で広く祝われていた由。帝国内でミトラ教はキリスト教にとって最大の障壁だった──を吸収してキリスト・イエスの降誕に結び付け、それを12月25日と定めた。見ようによっては<換骨奪胎>の祭りといえましょう。ハヌカとクリスマスの混同と誤解は、キリスト教が世界宗教となるに伴って発生した弊害というてよかろう、とわたくしは考えております。
 ……ハヌカについて述べて参りました。これについて調べていたがなかなか図書館に出掛けることのできない用事が週末ごとに出来したことが、或る意味で本ブログの定期更新を妨げる要因の1つであったのかもしれない……と、改めて言い訳してみる。
 創始者としてのユダ・マカバイはハヌカの続けられる限り、ユダヤ人のなかへ残り続けることでしょうね。



 ここでお披露目予定だったエッセイを先行公開してしまったものだから、頭をどう捻ってみても書くことが思い浮かばず困っています。一時的なネタ切れ、枯渇であると信じよう。
 ちかごろ夙に思うのは、やはり文章は絶えず書き続けないとフンドシがゆるかったり、支離滅裂曖昧模糊としたものができあがったり、或いは鋒が鈍ったりなまくらだったりして、読むに眉間に皺寄せる類のものばかりが濫造されて、駄目ですね。やはり短いものでも毎日、不特定多数の世人の目に触れる文章を書かなくては、と気持ちを新たにさせられているところであります。
 井戸を汲み続ければ最初は濁っていた水もやがては澄み、美味いと唸らせるお茶やコーヒーを供することができる。その水で研いだお米はさぞかし美味しかろう。そんな文章は一発芸のようにはゆめ生まれない。毎日の繰り返しの果てにクオリティの高い、奇跡の如き神品が生まれるのです。
 そんな文章を書けるように、怠けることなく忙しさに流されることなく、今日も明日も明後日も、1年後も5年後も10年後も、思い考え感じて、見て読んで記憶して、ノートを開きMacとDellを起動させ、筆を走らせ指を動かそう。そうすればいつかそのうち1編ぐらいは、読者諸兄のみならずそれまで一度もみくらさんさんかの作物を読んだことのない人にも「ああ、あの文章ね」と思い出してもらえるような、良い原稿を書きたいなぁ。◆
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第2650日目 〈みくらさんさんか、つまみ喰い読書を実践する。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 ゑいや、と思い立って部屋の片附けを始めてみたら、パソコン環境が壊滅的に非道くなった。しばらく机に向かうこともネットに繋ぐことも不可能な散らかりよう。
 え、MBA? いや、これを置くスペースすら机の上にはなかったんだ。スタバでドヤ顔Macしろ? 仕事帰りは自動的に自宅へまっすぐ帰宅しているようプログラミングされているんでね、それは無茶な相談だ。
 休日? すまん、先月と今月の週末祝日は新しいアパートの引渡や内見、入居者募集なんかで大わらわ、とてもじゃないが落ち着くことなんてできませんでしたよ。充実はしていたけれど、ね。
 さて、「ああ言えばこう言う」な問答はここまでとしていつも通りに真面目な話へ移ろう。真面目な話なんてしていたっけ。そう疑問に思うのは構わないが、くれぐれも過去記事を覗いて回ったりなさらぬが賢明だ。なんというても今宵は<オカルト・フライデー>なのだから。あ、もうフライデーじゃないか……まぁそんな細かいことは気にしない、気にしない。go ahead.
 横溝正史を1冊読み終えたとき、続けて他の作品へ手を伸ばすときもあれば、気分転換というかちょっとつまみ喰いのような感じで他の作家の長短編に浮気することもある。
 後者については昨夏の<海外ミステリの古典を読んでみよう>マラソンに発展したし、その〆括りに当時話題になっていまも売れまくっている様子のアンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』を読んで、大いに英国ミステリの最前線を堪能しもした。が、長編ではいつ横溝に戻ってこられるかわからない、という懸念というか不安が常に付きまとう。
 嗚呼、これは既に実証済みなのだよ、ヘンリック。わたくしはかつてアガサ・クリスティで、太宰治で、ドストエフスキーで、同じ轍を踏んでいる。そうして困ったことにわたくしは失敗からなにも学ばず、かりに教訓を得たとしてもそれを活かす能力を欠いていたらしく……。いやはや、困ったもんだね、オッペケペッポーペッポーポー。
 が、それはもはや過去の話だ。
 長編では本来の路線に戻るに時間は掛かろうが、短編ならば……殺人よりも容易だ! ちょうど読みたい短編も、あった。文芸誌に掲載された新人小説家の作品だが、すぐにでも読みたいのにそうするのがちょっと怖くて読むのを躊躇っていた作品が。
 いえ、『小説すばる』2018年11月号に掲載された松井玲奈の「拭っても、拭っても」なのですけれどね。結局今週の月曜日かな、帰りの車内で読み終わらず地元のドトールにて深い満足感を以て読了した。
 そのとき思いましたよ、いやぁたまには現代作家の、ジャンル小説以外の作品を読むのも良いものだ、とね。感想はメモしてあるので後日、本ブログにて感想文をお披露目する可能性は否定できない。
 横溝正史読書マラソンが終わるまで他の作家・他のジャンルに心を移さない。過去の失敗を今度こそ、わたくしは繰り返さない。そのためにも──ガス抜きと気分転換を目的に──つまみ喰いのようにして、他の作家・他のジャンルの1冊或いは1編に手を伸ばし、次の横溝作品を読む活力を得る。
 わたくしは過去の失敗を分析して、心を強くして、つまみ喰い読書を採用した。すべてはまだまだ続く横溝正史作品の山脈を踏破せんが為である。金田一耕助ものは1/3を残すばかりとなったとはいえ、由利先生やノンシリーズ、時代物はまったく手着かずだ。そのくせエッセイは存分に読み耽っているというね。
 わたくしは過去の失敗を分析して、心を強くして、つまみ喰い読書を採用した。自分を知る者は幸いである、なぜならば不断に自分を鍛え、律してゆくことができるからだ……と思うているんだけどなぁ。◆
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第2649日目 〈マカバイ記・一第4章1/2:〈アマウスの勝利〉&〈リシアスとの戦い〉withインフルエンザまがいの風邪のなかで見る夢。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第4章です。

 一マカ4:1-25〈アマウスの勝利〉
 夜更けのことである。シリアの将軍ゴルギアスはユダ軍を夜襲するため、6,000人の兵を率いてアマウスを出発。一方アマウスの南方に陣を敷くマカバイはゴルギアス不在の敵陣を攻撃するため、軍を動かした。
 ──ゴルギアスはユダ軍の駐屯する場所に来たが、もぬけの殻だ。事前に動きが察知されて逃げられたのだ、と思うたゴルギアスは、命じて付近を捜索させた──。
 夜明けである。ユダ軍はアマウスを見晴るかす平野に姿を現した。シリア軍の布陣に挫けそうになったユダ軍だが、マカバイに励まされて、鬨の声をあげながら敵陣へ斬りこんでいった。
 戦場にラッパが高らかに鳴らされた。ユダ軍とシリア軍が剣刃を交えるたび、兵は1人また1人と傷附き、倒れ或いは前進した。遠近で兵のあげる勲しの声、武具がかち鳴る音、兵馬のいななき、馬の蹄や兵の軍靴の響きで戦場は揺れた。大地は震え、血が流れた。
 やがて数を誇るシリア軍は信念の下にひとつとなったユダ軍に徐々ながら圧され始め、遂に総崩れとなり、まだ命ある者はユダ軍の追撃を受けながらゲゼルやイドマヤの地、或いは地中海から遠くない内陸の町ヤムニア、旧約聖書の時代にはアシュドドと呼ばれたアゾトにまで逃げていった。マカバイの追撃は容赦がない。
 マカバイが追撃から戦場へ戻ってくると、ちょうど民が倒れた敵兵から戦利品を略奪している場面である。かれは諫めて、むしろ周囲の警戒にこれ務めるよう命じた。
 まさにその時、山から戦場の様子を覗きこむ敵の残党がいた。かれらは立ちのぼる煙や倒れたる友軍兵の姿を見て状況を察し、またユダ軍が陣営を再編している様子に恐れをなし、ことごとく異国へと逃げていったのだった。
 ここに至ってようやくマカバイは戦利品の略奪を許可し、自分も多くの富を奪った。
 「こうして、この日イスラエルに大いなる救いがもたらされたのだった。」(一マカ4:25)

 一マカ4:26-35〈リシアスとの戦い〉
 リシアスは嗟嘆した。ユダヤ掃討が思うような成果をあげられていないからである。
 とはいえ、嘆息してばかりはいられない。アマウスの戦いの翌る年(前164年)、リシアスはみずから軍を編成、アンティオキアを発つとイドマヤ地方のマリサを経て、エルサレム南西ベトツルに陣を敷いた。ベトツルは南からエルサレムに上る街道沿いの町にして軍事上の要衝である。
 マカバイはリシアス軍の接近を知るやベトツルへ進軍、シリア軍に相対して陣を敷く。が、敵の強固な陣営を前に刹那たじろいだが、こう祈って自分たちの萎えそうになる心を立て直した。曰く、──
 古代より苦境のイスラエルを勝利に導いてくれたイスラエルの救い主よ、「どうかあの陣営をあなたの民イスラエルの手によって封じ込め、彼らの兵と騎兵とを辱めてください。彼らに恐れを抱かせ、彼らの強い自信を揺るがせ、彼らを粉砕して破滅に導いてください。あなたを愛する者たちの剣で彼らをなぎ倒させてください。あなたの御名を知る者すべてが、賛美をもってあなたをたたえるようにしてください。」(一マカ4:31-33)
 ……そうしてマカバイ率いるユダ軍とリシアス率いるシリア軍は激突し、剣刃を交えて戦った。ユダ軍は自分たちが優勢になるのを知るたびに士気を高めて悠希、逆にシリア兵は自軍の劣勢なることを感じ取って闘志を鈍らせてゆく。──ユダ軍はみずからの生死にかかわらず命を賭して、雄々しく戦った。
 リシアスは損耗が激しくなるばかりの戦いに勝機なしと判断した。そうしてシリア軍全兵の撤退を命じた。
 ──が、この撤退はユダヤ討伐の断念ではない。リシアスは更なる対ユダヤ戦の準備を、王都アンティオキアにて進めたのである。

 だんだんと聖書の記述を基にした歴史物語に傾きつつあることを、敬虔なるキリスト者、ユダヤ教徒、研究者とその他諸々の諸面々へお詫び申しあげます。
 しかしながら意見を述べれば、歴史書のダイジェストなど原則としてあり得ない。実行すればそれはほぼ間違いなく、編年体のスタイルを取ることになるのではないでしょうか。編年体というても『春秋』やや『日本書紀』のようなものではなく、むしろ歴史の教科書の巻末でおなじみの年表スタイルにイメージは近いかな。
 年代の特定に時間は要すが、それができるなら事は単純で、「マカバイ記 一」のノートなど2、3日あれば事足りるでしょう。ですがそれではあまりに無味乾燥で、しかもわたくしが本ブログにてノートする必要などまるで、ない。却って<歴史を語る>面白さを損なうだけであります。
 自分ではダイジェストというてもそれがほぼ再話に等しく、書物によって物語的潤色を加えているのは、否めない。補足の域を超えてしまっている場合があることも、認めるところであります。
 ではなぜ敢えて、聖書の記述を基に想像を交えた文章をこしらえるのか。
 読んでもらうならすこしでも面白く感じていただきたい、予備情報があるならそれを交えて補いたい、これを契機に古代オリエント史に興味を持っていただきたい、というところでありましょうか。そうしてなによりも、<書いているわたくしが、聖書で語られる歴史物語の一々を面白く思うているから、どんどん書きこみたくなる>のであります。まぁ、こちらの方が強いかな。
 さて、えぇと、ベトツルですが、本文中で補ったようにエルサレムの南西約40キロにある町で、文字通り海抜760メートル超のエルサレムに登る街道の途中にある。ここには砦が置かれており、エルサレム南方の防衛の要。逆にここを落とせば誰であろうとエルサレムへ入城するのは容易であった、というてよいのかもしれない。事実、マカバイはリシアスとの戦いの後、ベトツルの防御をさらに固めてその後の戦いに備えた。
 第4章は残り1項にていよいよ、シリアに汚された聖所の清めを語ることになる──。to be continued.



 この時期になると、かならずインフルエンザまがいの風邪を引く。今年も例外ではなく、会社を2日続けて欠勤。熱が38.0度を下回らないのは、どうしたわけか。病院に行っても解熱剤やらの風邪薬一式を渡されるだけで、理由については「さてねぇ……」と小首を傾げるばかり。
 けっきょくおとなしく家にこもって、床に横になっているより他ないのだが、いやぁ、こういうときはいけませんね、妄想が果てしなく広がってゆき、とめどがない。その妄想の続きを夢に見るに至っては、「いやはやなんとも」と呵々しつつ嗟嘆するしかない。
 こんなときはふしぎと時間の流れ方がおかしいことになり、長かったり短かったり、ねじれたりまっすぐだったり、自在に伸び縮みしたり行ったり来たり、で、起きていても「本当にいま、自分は目覚めているのかな?」と疑問に感じてしまう……こんなこと、ありませんか?
 だから夢のなかの出来事が目覚めて起きたあとも自分のまわりで継続されているように思うときが、ときどきある。現実と妄想(幻覚?)が互いの領域を侵犯し合って、わたくしを引き裂こうとしているようで正気を保つに相当の努力を強いられることも、たびたびある。
 <そこ>は、安息の場所。<そこ>でわたくしを待つのは、逢うことのかなわぬ人たち。或る人はいるべき場所に帰るよう叱責し、或る人は留まることを望んでいる。どちらも選べぬ自分はやがて、<神>の声に気附いていつもの世界へ帰還を果たす。おお<神>よ感謝します、と嘯きながら。
 その<神>の名は、──スマホのアラーム機能。◆
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第2648日目 〈マカバイ記・一第3章2/2:〈ニカノルとゴルギアスの出陣〉&〈ミツパの戦い〉with奥の院級のフランク《交響曲ニ短調》。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第3章2/2です。

 一マカ3:38-45〈ニカノルとゴルギアスの出陣〉
 国事を託されたリシアスは、ニカノルとゴルギアス、ドリメネスの子プトレマイオスの3人を将軍に抜擢し、歩兵40,000、騎兵7,000を擁した軍隊を与えた。ユダヤ掃討のための軍隊である。かれらはアンティオキアを発ち、進路を南に取り、ユダヤへ迫る……。
 シリアの大軍近附く──マカバイはその報に接すると兄弟たちを集め、敬虔なユダヤ人と聖所のために戦うことを誓いあった。

 一マカ3:46-60〈ミツパの戦い〉
 マカバイ軍はエルサレム北部にある町、ミツパに向かった。むかしからイスラエル/ユダヤの人々はミツパにて祈りをささげることが多かったからである。マカバイたちはミツパで律法の巻物を開き、祈りをささげ、天に慈悲と憐れみを請うた。
 終わるとマカバイは千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長を選出して指揮官に任命した。また、律法の定めるところに従って以下の者に、戦列から離れて帰還するよう命じた。即ち、──
 ・家を建てている者、
 ・婚約している男、
 ・ぶどうの種付けを行っている者、
 ・心怯んでいる者、
──である。
 そうしてマカバイ軍はミツパを発って、敵が陣を敷いているというアマウス目指して進んだ。
 「わが民族と聖所に加えられる災いを目にするくらいなら、戦場で死ぬ方がましではないか。万事は天の御旨のままになるであろう。」(一マカ3:59-60)

 シリアの3人に将軍がどのような人なのか、「マカバイ記 一」が述べることはほぼ皆無であります。が、「マカバイ記 二」がかれらの出自や履歴を伝えているので、ご紹介しておきます。
 第38-45節のタイトルロールを務めるニカノルはアンティオコス4世の、いちばんの親友パトロクロスの子。ゴルギアスは実戦経験が豊富な将軍、プトレマイオスはコイレ・シリアの総督、として、それぞれ素描されています(二マカ8:8-9)。
 実戦経験が豊かで、従ってこの3人のなかでは最もマカバイ軍に打撃を加え得ると想定、期待されていたであろうゴルギアスが、次の第4章にてまさか裏をかかれることになろうとは、きっと誰も考えていなかったことでありましょう。
 もっともその第4章の当該項、どうも記述(というより日本語訳)が曖昧で、なんど読み直しても解釈が一定しない。他の訳を読んでも大同小異ゆえに、本ブログではわずかの補記を余儀なくされたわけですが、それは第4章を読む際にご確認いただければ幸いです。
 ところでマカバイはミツパの地で一部の者に帰還を命じた。律法に従って、というので、では律法のどこに該当して対象者になったのか、調べてみましょう。
 <家を建てている者>は申20:5「新しい家を建てて、まだ奉献式を済ませていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が奉献式をするようなことにならないように」に該当。
 他3つの兵役免除の要件も同じ「申命記」第20章〈戦争について〉に規定がありまして、<婚約している男>は同7「婚約しただけで、まだ結婚していない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が彼女と結婚するようなことにならないように」、<ぶどうの種付けを行っている者>は同6「ぶどう畑を作り、まだ最初の収穫をしていない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が最初の収穫をするようなことにならないように」、そうして最後の<心怯んでいる者>は同8「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから」と。これらのことは出征にあたって兵士たちに、役人が勧める事柄となっております。
 ……「エズラ記(ラテン語)」が終わって各書物の<前夜>の改訂が終わったら、「レビ記」以下の律法や幾つかの書物の読み直しが必要かなぁ……。
 コイレ・シリアは聖書を読んで調べ事をする際、たびたび登場する地域名であります。「コイレ」はギリシア語で「くぼんだ」を意味する。レバノン山脈と、現在のシリア・アラブ共和国とレバノン王国の国境アンチレバノン山脈の間に横たわるベッカー高原を指しますが、聖書の時代はもう少し広く取ってユダヤやフェニキア地方を含めた今日のシリア南部、国境が接するヨルダンとレバノン、イスラエル全域を指す、特にディアドコイ戦争後はプトレマイオス朝とセレコウス朝が領土争いの舞台となることが多々ありました。そりゃぁこれだけ広大で交通と通商の要を担う地であれば、双方、どれだけの犠牲を払ってでも喉から手が出る程欲しかったでしょうね。
 ミツパはかつてのベニヤミン族にあてがわれた土地にある町で、エルサレムの北に位置する。かつてサムエルはイスラエルのなかにある異教の神々を取り除いたあと、ミツパに民を集めて異教の神々を崇めた罪を告白させ、然る後に主への信仰へ立ち帰らせる宗教改革を断行した(サム上7:3-6)。また、サムエルはこの地でやはり民を集めさせた後、ベニヤミン族はキシュの息子サウルへ油注いで統一王国イスラエルの初代王に任命した(サム上10:17-26)。
 斯様にミツパの地はイスラエルユダヤがなにごとか大事あらんときは集まって、祈りをささげたりする場となっていた。おそらくマカバイはそれに従ったのでしょう。
 シリア軍の集結地となったアマウスは、どうも他で名の挙がる様子がない地名であります。但しこのアマウス、新約聖書では「アマオ」てふ名で知られる村らしい。「ルカによる福音書」第24章第13-35節にて、エマオへ向かう弟子クレオパ他1名に復活したイエスが近附き、会話しております。
 旧約聖書続編に限らず聖書に登場する地名は、今日では別の名前で呼ばれていたり遺構が残っているならまだマシで、どこにあった場所なのか想定するより他ない、或いは候補が幾つもあって同定できない、というパターンがけっこう多い。調べるのは大好きで特に負担でもないのですが、この結論が出ない、という症状は本当に疲労感たっぷりで抜け殻のようになります。まぁ、ものの数分で回復するんですけれどね。



 初めてフランクの交響曲ニ短調は、フルトヴェングラー=VPOの廉価版LPだった。〔ロンドン1,000〕っていうシリーズ。池袋の開店したばかりの中古レコード店のエサ箱から発掘したんだよね。21歳頃かな?
 どうやらわたくしが夢中になるフランクの演奏は、中古店で見出され、しかも廉価版シリーズに入るものであるらしい。
 閉店する中古CDショップで見附けたバルビローリ=チェコ・フィルによるフランクの交響曲ニ短調。一期一会ということを別にしても、演奏から伝わってくる熱気と興奮、歌の美しさと優しさ、厳めしさと祈りなどなど、わたくしにとってこれは、フルトヴェングラー盤に肩を並べる奥の院級の演奏でした。
 だけど唯一の不満はバルビローリ客演のいきさつや反響などが、ライナーノーツに一言も触れられていなかったこと。資料など執筆者の手許にはなかったのかな。それとも廉価版CDのシリーズへのライナーだから省いて構わない、と判断されたのかな。◆
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第2647日目 〈マカバイ記 一・第3章1/2:〈ユダ・マカバイ〉、〈ペルシアおよびユダヤへの王の遠征計画〉他with窮屈になってゆく日本語のなかで。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第3章です。

 一マカ3:1-12〈ユダ・マカバイ〉
 マタティアが死んで、その息子の一人ユダが立った。信仰を同じうして律法への情熱を燃やす者たちの指導者、指揮官として、ユダ・マカバイは立った。兄弟たちはかれを助けてイスラエルのための戦いに明け暮れることになる。
 マカバイは大いなる栄光を天から授かる運命にあった。破竹の勢いでユダヤの各地を駆け巡り、律法を尊ぶユダヤ人を迫害から助けた。律法に従わない者を探し出しては追いつめ、民を惑わす者あらばこれを殺したのである。
 ユダ・マカバイの名は広くユダヤ全土に知れ渡り、シリア王の弾圧に滅びを待つばかりで心を弱くしていた敬虔なユダヤ人にとっては、救いの灯し火となった。かれらはいった、「我々の道は彼の手で開かれた」(一マカ3:6)と。
 ──さて、ここにアポロニウスてふ者ありき。セレコウス朝シリアに於けるサマリア地方の司令官(総督というべきか)を務める人。アポロニウスは大きな部隊を編成してマカバイ討伐に向かったが、あえなく戦場に散華した。そのときアポロニウスが握っていた剣はマカバイの手にわたり、以後その剣はマカバイとともに戦場で敵の肉を斬り切り血を吸うことになる。マカバイとアポロニウスの戦い、それは前165年のことだった。

 一マカ3:13-26〈ユダ、セロンを撃つ〉
 同じ前165年。シリア軍の指令セロンはマカバイとその軍勢の評判を耳にし、大いに功名心に駆られ、発憤した。セロンの言、「王国一の栄誉はおれのものだ」(一マカ3:14)と。ただちに出陣したセロン軍には多くの不敬虔なユダヤ人が合流した。
 ベト・ホロンの登り坂にさしかかったセロン軍を、マカバイの急襲部隊は捉えた。1人の兵がセロン軍の威勢を前におののき、弱音を吐いた。一戦交えるには不利である。
 が、マカバイは、否、といった。少人数で多勢を破ることもできるのだ、と怖じ気づく兵を鼓舞すると、続けて曰く、「敵はおごり高ぶり、不法の限りを尽くして我々を妻子ともども討ち滅ぼし、我々から略奪しようとやって来ている。しかし、我々は命と律法を守るために戦うのだ。天が我々の目の前で敵を粉砕してくださる。彼らごときにひるむことはない」(一マカ3:20-22)と。
 そうしてマカバイの急襲部隊は、未だこちらに気附かぬセロン軍に不意打ちを喰らわせて雪崩れこみ、ベト・ホロンの坂からシリア勢を追い払った。残党はユダヤに隣接するペリシテ地方へ逃げこんだ。
 ──これらのことによって、「ユダとその兄弟に対する恐怖の念が広まり、恐怖が周囲の異邦人たちを震え上がらせた。その名は王の耳にまで達し、ユダの戦いぶりが異邦人の間でも語りぐさになった」(一マカ3:25-26)のだった。

 一マカ3:27-37〈ペルシアおよびユダヤへの王の遠征計画〉
 マカバイの勇名はアンティオコス4世エピファネスの耳に達した。これに激怒した王は国内の全軍を動員して、マカバイ家とその親派の殲滅に乗り出した。
 が、それは王の心中に1つの憂慮を生むことにもなった。兵に与える俸給や報奨金、その財源に難があったのだ。王国の財政は逼迫していた。度重なる紛争にかかる経費が膨大なものとなり、また天災に見舞われた際の復興財源も貧窮しつつあり、加えて頼みの収入源である地方からの租税も減少する一方であったからだ。
 版図拡大、領内のヘレニズム化の徹底と抵抗分子の鎮圧、或いは諸々の政策を実行するためにもいまやアンティオコス4世は、目を東に向けてペルシア遠征の青写真を描いて敢行するより他ない、と、そう断を下したのである。みずからが出向いてペルシア諸地方から租税を徴収し、国庫の補填に中てようというのだった。
 王は自分が不在する間、いっさいの国事と王子アンティオコス(後のアンティオコス5世エウパトル)の教育を腹心、リシアスに委ねてペルシア遠征に出発した。そのとき、アンティオコス4世はリシアスにこういい置いていった、──
 エルサレムにわずかの情けもかけてはならない。連衆を一掃して、根絶やしにせよ。かれらを思い出させるものはなんだろうと地上から消し去って、かれらのいた土地には異民族の入植を推奨せよ。
 ギリシア人の王朝の第147年、というから前165年、王都アンティオキアを発ったアンティオコス4世とその軍隊は、ユーフラテス川を渡り、その向こうに広がる地へと進んでいった。

 ユダ・マカバイの獅子奮迅の活躍が本章から始まり、それはかれの死ぬ第9章まで休むことなく描かれてゆきます。
 正直なところ、わたくしはこのユダ・マカバイ(ノートでは民族の「ユダ」「ユダヤ」と区別するため、「マカバイ」としております)が好きになれぬ。血に飢えた狂犬、という印象が先に立ち、<義のための戦士>や<憂国の英雄>という肖像がかすれてしまうのです。
 次章以後を読み進めても、この捉え方に変化が生じることはなかった。前回も、今回も。いったいユダ・マカバイの好戦とアンティオコス4世の蛮行に違いはありましょうか? 同じであります。視点を変えればアンティオコス4世も讃えられるべき為政者であります。
 さりながら旧約聖書からずっと読み続けてここに至りマカバイを知ると、律法から離れた同胞を容赦なく殺してゆくその様子に、何者かの影をかれの上に感じるのであります。それは誰か? ほかならぬ旧約聖書の神──戦争と虐殺を是とする旧約聖書の神であります。マカバイの英雄化はイスラエル/ユダヤの信じる神の具現(現人神とまで述べる気は、勿論ない)であったのかもしれません。
 アンティオコス4世は制圧下にあるペルシアへの遠征を、財源確保のために実行した。資力確保や資源欲しさのための遠征や戦争は、いつの時代にも、どの国でもあったようですね。人間は本質を変えることのできない生物のようであります。
 次回お披露目は第2647日目、第3章2/2。01月26日午前2時の予定。



 横溝正史を読んで今日では校閲対象・削除/検閲対象となる差別語、或いはいまやすっかり死語となった言葉を知る。
 どうしてこれが差別語認定されたのか、疑問に思い、またいまも生き残って場面によっては普通に使う(差別語と知らぬままに)言葉のなんと多いことか。あまり目くじらを立てていると、或いは過敏になってしまうと、どんどん日本語は貧弱で窮屈な言語になってしまう。
 不謹慎を承知で、良識が許すギリギリの範囲で、そうした言葉を駆使して一編のエッセイを織りあげてみたい、と思うている。◆
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第2646日目 〈マカバイ記 一・第2章:〈マタティアとその子ら〉、〈安息日の惨劇〉withそれは、誰のせいなのか? [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第2章です。

 一マカ2:1−28〈マタティアとその子ら〉
 さて、舞台はいったんエルサレムから離れる。その北西約30キロあたりにモデインという町へ、われらは視点を移そう。
 この町で祭司の職に在ったマタティアは、シリアの迫害を避けてエルサレムから逃れ来たった人。かれには5人の息子がいるが、うち3人は後のユダヤの歴史に名を刻むこととなった。即ちタシと呼ばれるシモン、マカバイと呼ばれるユダ、アフスと呼ばれるヨナタンである。
 息子たちを前にしてマタティアの嘆きの言葉は尽きなかった。わが同胞と聖なる都が滅びるのを見届けるために今日までわたしは生きてきたのだろうか、都も聖所も敵の手に落ちてしまったというのにわれらはなにもできずただ坐して嘆くだけなのか……「我らにまだ生きる望みがあるのだろうか。」(一マカ2:13)
 マタティアたちは憂い嘆き、憤り、慟哭した。
 ──或るとき、背教を強いる王の役人がモデインを訪れ、マタティアに率先して王の命令、つまり先祖の宗教を棄てて従うよう促した。それに応えてマタティアの曰く、否、と。続けて、たとい他がどうであろうとわれらはわれらの先祖の契約を守って歩むのだ、と。
 「律法と掟を捨てるなど、論外です。わたしたちの宗教を離れて右や左に行けという王の命令に、従うつもりはありません。」(一マカ2:21)
 そのとき、事件が起こった。集まった人々のなかから男が1人、進み出て、王の命令に従って異教の祭壇へいけにえをささげようとしたのだ。マタティアはこれを見て義憤に駆られ、律法への情熱に駆りたてられるまま剣を抜き、男を斬殺。それのみならず、シリアの役人も同じように斬り捨てて、件の祭壇を引き倒した。
 それらのことのあと、マタティアは息子たちを連れて付近の山岳地帯(丘陵地帯、という語の方が適切か?)に逃れた。律法に情熱を燃やす者、聖なる契約を守らんとする者は、われらに続け、てふ台詞を残して。

 一マカ2:29−38〈安息日の惨劇〉
 時を同じうして、悲しむべきこと、忌むべきことが、別の場所で起こった。やはり王の背教の命令に従うことのできない一派が荒れ野へ逃れ、シリア軍の追撃を受けたのである──その日は安息日であった。
 シリア軍は荒れ野のユダヤ人たちに投降を促した。が、安息日を汚せという王の命令には従うことはできない、とユダヤ人らはこれを拒絶したのである。
 これを聞いたシリア軍は攻撃を開始した。かれらに、ユダヤの習慣も決まり事も無縁だ。ゆえに安息日だからとて容赦はしなかった。そうして当然のようにユダヤ人たちもいっさい抵抗することなく、ただ討たれ、傷附き、血を流し、倒れ、死んでゆくに任せたのだった。
 「お前たちが我々を不当に殺したことを大地が証言してくれよう。」(一マカ2:37)
 この日、犠牲者は1,000人に及んだ、という。

 一マカ2:39−48〈抵抗の始まり〉
 安息日の惨劇の報は、マタティア父子の耳にも届いた。心からの哀悼をささげた後、かれらは話し合い。たとい安息日と雖もわれらを脅かす者あらば躊躇することなく戦おう、と決めた。“われわれは戦わずして、滅びはしない。われわれは勝利し、生存し続ける”──なんてカッコ良くて胸震わせるスピーチを行ったかどうか、そんなことは知らないけれどね。
 この頃、マタティアのグループにイスラエル屈強とされるハシダイの一軍が合流した。迫害から逃れてきた人々も、マタティアたちのことを知ってやって来て、グループに加わった。次第次第に力を蓄えて強くなっていったかれらは、律法から離れて罪にまみれた同胞らを見附けるとこれを成敗し、各地にある異教の祭壇を片っ端から引き倒した。また、割礼を施されていないユダヤ人男子があればただちに割礼を施したのだった。
 「こうして彼らは不遜な者どもを追撃し、勝利への道を着々と手にして、異邦人や、王たちの手から律法を奪回し、勝利の角笛を罪人に渡すことはなかった。」(一マカ2:47−48)

 一マカ2:49−70〈マタティアの遺言〉
 マタティアに死期が迫った。息子たちを枕頭に呼び、遺言して曰く、──
 「今は高慢とさげすみのはびこる、破滅と憤りの世だ。お前たちは律法に情熱を傾け、我らの先祖の契約に命をかけよ。我らの先祖がそれぞれの時代になした業を思い起こせ。そうすればお前たちは、大いなる栄光と永遠の名を受け継ぐことになる。」(一マカ2:49−51)
 「お前たちは、律法を実践する者全員を集め、民のために徹底的に復讐することを忘れるな。異邦人たちには徹底的に仕返しし、律法の定めを固く守れ。」(一マカ2:67−68)
 そうしてマタティアは息子ユダ・マカバイを抵抗軍の指揮官に任命した。
 かれはギリシア人の王朝の第146年、というから前166年に死んだ。遺体はマカバイ家の町、モデインの先祖の墓に葬られた。
 全イスラエルはマタティア逝去を知ると、深い悲しみに暮れた。そうして心から彼の死を悼んだ。
 ここに1つの命の火が消えた。しかし、勝利と独立の灯はたしかに点り、まだ薄暗い未来をほの照らしたのである。

 モデインの町にて某ユダヤ人は進んで異教の甘受を行おうとした。マタティアはそれを背教と追従がさせた行為と受け取ったようだ。律法を尊んで為政者の命令へ逆らう者たちにとって、異教の祭壇に献げ物をささげるなんて以ての外だ。それはじゅうぶん理解できる。
 が、果たして律法から離れて異邦人の習慣に従うばかりが、かの某ユダヤ人の考えであったろうか。好意的な見方であるのは承知の上で意見を述べれ、もしかするとそれは町の住民の安全と存続を第一に考えた結果の行動であった、と、わずかばかりの可能性を検討できないだろうか。
 正直なところ、マタティアは──ひいてはマカバイ家の面々全員引っくるめて──とても視野が狭く、石頭で、自分の考えこそが正しく唯一絶対である、と思いこんでいるような、いちばんリーダーに向かないタイプの人間であります。そこに血の気が多い、戦闘的、猪突猛進、というキーワードが加われば、まさしく最悪というてよい。こんなリーダー、今日なら誰にも従われませんよ。
 モデインの住民であればマタティアのこんな気性は承知でありましょうから、シリアの役人が来て「あなた、町では有力者なんだから王様の命令を聞いて、とにかくユダヤの神様への献げ物や掟を守ったりするの、やめてもらえませんか? どうですかね、そのあたり?」といったら、どんな言動をしでかすか、容易に想像はついたでしょう。
 下手すると、モデインの町そのものの存続が危ぶまれ、住民の命も危険にさらされる。そう賢くも判断した某ユダヤ人が2人の会談に割って入り、「まぁまぁ、見ての通りあなた方のいうとおりにしますから、ご安心くださいよ」なんてなだめる役目を自らに課したのかもしれない──が、逆上したマタティアに殺されちゃった。たまったものじゃぁありません。
 とりあえずは恭順した振りをして、去ったら元の生活に戻る。そんな考えはマタティアの頭にはなかっただろうし、あったとしても片隅に押しやって思い着かなかったことにしたでしょう。勿論、時代はそんなオチャラケタ誤魔化しを求めてはいなかったでしょうけれどね。
 まぁ義憤を胸に自分の正しいと信じる道を進むマタティアと、権力者への追従に奔走して自らの安泰を確保しようとする某ユダヤ人。どちらにも首肯できてしまうのです……なにとはなしに自分がこれからしようとしているところに重なる部分が、多々ありますものですから。



 めっきり集中力が落ちたのか、それとも冬にしか出番のないアイツの魔力ゆえか、1本の映画は当然、1時間ちょっとの海外ドラマすら最後まで鑑賞することができません。
 イギリスBBCの『そして誰もいなくなった』中編を観ていたのだが、途中からすっかり目蓋が重くなり、遠のく意識のなかで登場人物たちの台詞がさざ波のように聞こえるばかりでした。やたらと長い中編だなぁ、前に観たときもこんなに長かったかしら、と刹那目覚めたときに小首を傾げてみたら案の定いつの間にやら後編に突入していて、びっくり仰天。
 さすがに寝よう、と決めていまに至っているわけですが、果たしてどうなのでしょう、これはわたくしの集中力に欠如が原因なのでしょうか、それとも、やっぱり冬にしか出番のない四角くていちど入ると抜け出すことを難しくさせるアイツの仕業なのでしょうか……?◆
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第2645日目 〈更新日変更のお知らせです。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 詳細は追ってご連絡しますが、本書の更新は「1日1章ずつ」から「1週間に2日、1章ずつ」と変更させていただきます。更新タイミングは火曜日と土曜日の、午前2時となります。
 開始早々の変更で申し訳ありませんが、勤務地の関係で毎日の時間を捻出することが困難と判断したため、余裕を持って上記の如くとさせていただくこと、断腸の思いで決定いたしました。
 楽しみにしてくださっている読者諸兄には、まことに相済まなく思うております。ご寛恕くださいませ。
 ──それでは次回更新となる01月19日(土)午前2時に、「マカバイ記 一」第2章でお目に掛かりましょう。◆
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第2644日目 〈マカバイ記 一・第1章:〈アレキサンドロスとその後継者〉、〈アンティオコス・エピファネスの登場〉他with「YouTubeで懐かしの洋楽を聴こう!」の話。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第1章です。

 一マカ1:1−9〈アレキサンドロスとその後継者〉
 ペルシア帝国の庇護下にあってユダヤは平穏の時を享受していた。たといそれが、はかなくもろい、見せかけだけの平和だったとしても。
 が、オリエント地域とそれを取り巻く世界は、何度目かの大きな転換期を迎えようとしていた。西のギリシアに強大な王が立ち、武力を以て瞬く間に周辺諸国を併合したのだ。王の名はアレキサンドロス、後世ではアレキサンダー大王の名で覚えられる人。
 向かうところ敵なしであった王は、軍を東に、さらに東へ進める。そのたび、版図は拡大していった。ペルシア帝国もギリシアの刃の下に倒れた。アレクサンドロス王の支配は統制の結果、現在のインドにまで及んだが、王はふたたびギリシアの土を踏むことなく異郷の地で没した。
 ギリシア王国は王の跡目争いによって、4つに分裂した。即ち、カッサンドロス朝マケドニアとリュシマコス朝トラキア、プトレマイオス朝エジプト、セレコウス朝シリア、である。うちトラキアは短命に終わり、マケドニアはマカバイ時代のユダヤと交渉と持たない。
 そうして、「地には悪がはびこる」(一マカ1:9)ようになった。

 一マカ1:10−15〈アンティオコス・エピファネスの登場〉
 この時代に最も悪逆な王が現れて、オリエントに暗い影を落とすようになった。民はその王ゆえに恐怖した。
 セレコウス朝シリアの王、アンティオコス4世エピファネス。
 父は先王、アンティオコス3世。元々ローマに人質となっていたのだが、いろいろな経緯があってシリアに帰還し、その後ギリシア人の王朝の第137年、というから前175年にセレコウス朝の新王として即位した。
 この王の御代──実際はそれ以前からであったが、ユダヤの民のなかから律法を離れて近隣の異邦人と積極的に交渉を持つ者たちが現れて、目立ち始めた。かれらは自分たちの考えを、同胞に説いてまわった。その結果、人々はこれを受け容れた。或る者は王の許へ出掛けて行き、異邦人の慣習を採用する許可をもらってきた。
 かれらユダヤの民は異邦人と軛を共にした。割礼の跡を消し、聖なる民から離れ、──悪に自分たちを引き渡したのである。愚かな……。

 一マカ1:16−28〈アンティオコスの遠征と神殿略奪〉
 自国シリアを完全に掌握したと判断するや、アンティオコス4世は次の目標をエジプトに定めた。戦車と象を擁する大部隊と大艦隊を以て陸と海から、エジプト攻略に乗り出したのである。
 エジプトは抵抗した。が、洪水のようにあとからあとから押し寄せて絶えることのないシリアの攻撃の前に、エジプトは無力だった。プトレマイオス朝の王は這々の体で逃げ出し、多くの戦闘員が傷附き、地に倒れた。セレコウス朝の軍隊はエジプト各地の要塞都市をつぎつぎ攻め落とし、欲しいままに略奪を繰り返した。
 エジプトは沈黙した……。
 アンティオコス4世と王の軍隊はイスラエルに転じて、エルサレム入りした。第二神殿にて王は、神殿内外を装飾する数々の品──入り口の金のプレートや垂れ幕、香炉や祭壇など──、数々の貴重な祭具類、隠されていた宝物類を、容赦なく奪った。このようなことの後、王はシリアの王都アンティオキアへ帰っていった。
 ──エルサレムは荒らされ、イスラエルの遠近で嘆きの歌が聞かれるようになった。「花婿は皆、哀歌を口にし/花嫁は婚姻の床で悲嘆に暮れた。/大地もその地に住む者を悼んで揺れ動き/ヤコブの全家は恥辱を身にまとった。」(一マカ1:27−28)

 一マカ1:29−35〈エルサレム再び汚される〉
 あれから2年。アンティオコス4世はふたたびユダヤに目を向け、かの地へ徴税官を派遣した。徴税官が語る、王の欺瞞に満ちた社交的な言葉をユダヤの民はなんの疑いも抱くことなく受け容れられた。ユダヤの民はアンティオコス4世を信頼したのである。
 と、途端に王は本性を剥き出し、エルサレムを襲撃した。多くの民がこのとき、シリア兵の剣の犠牲になり、命を奪われ、辛うじて生き残った者は家族を失くした。そうして家々から略奪が始まり、繰り返された。
 それらが一通り済むと王は、エルサレム全域に火を放ち、逃げ延びた者あらば捕虜とした。またネヘミヤの時代に完成した城壁を徹底的に破壊したあと、堅固な塔を幾つも備えた巨大で強固な城壁を巡らせたのだった。その塔には「罪深い異邦人と律法に背く者どもを配置し」(一マカ1:34)、そこにはたくさんの食糧や武器が備蓄された。かれらの存在はユダヤ人にとって「大いなる罠」(一マカ1:35)になった──「要塞は、聖所に対する罠となり、/イスラエルに対する邪悪な敵となった。」(一マカ1:38)

 一マカ1:36−40〈都を嘆く歌〉
 ……聖所は汚され、都の住人は殺され、或いは逃げ……「かつての栄光に代わって、不名誉が満ちあふれ、/エルサレムの尊厳は、悲しみに変わった。」(一マカ1:40)

 一マカ1:41−64〈アンティオコスのユダヤ教迫害〉
 シリア領内の諸民族は自分たちの慣習を捨てて、1つの共同体とならねばならない──アンティオコス4世の勅令に、ユダヤの民のうち多くの者が従った。そのためかれらは自ら律法を汚す者となった。
 続いて発布された王の、ユダヤ地方のユダヤ人に対する、無理強いとも取れる勅令の内容は、以下のようなものだった。曰く、──
 一、他国人の慣習に従い、聖所での焼き尽くす献げ物やいけにえ、ぶどう酒の献げ物はすべて廃止せよ。
 一、異教の祭壇を築き、神域や像を造り、律法が禁じる不浄な動物を献げ物としてささげよ。
 一、聖所と聖なる人々を犯し、安息日を汚せ。
 一、これまで男児に施していた割礼を今後行うことを、いっさい禁ずる。
 一、ありとあらゆる不浄で身も心も汚して、自らを忌むべき者とせよ。
──要するに、ユダヤの民が律法から離れることを奨励したのだ。否、律法から離れて二度とイスラエルの神の目に正しいと映ることのない罪を自ら犯して不浄の者となれ、というのである。そうしてそれに違反した者は、ことごとく処刑されることも決められており。
 いまやユダヤ人は王の勅令に背く者がいないか、互いに互いを監視し合うようになった。また、ユダヤ各地にシリアの監督官が送りこまれて、勅命の履行が徹底させられた。
 ギリシア人の王朝の第145年、というから前168年のキスレウの月の15日。アンティオコス4世は築かれた異教の祭壇の上に、<憎むべき破壊者>の像を立てた。エルサレム周辺の町でも異教の祭壇がその日は築かれ、家々の戸口や大路では香が焚かれた。また律法の巻物は破られ裂かれて、火にくべられた。
 同じ月の25日、主の祭壇の上に築かれた異教の祭壇では律法によって禁じられている献げ物が、ささげられたのであった。
 律法から離れたユダヤ人も多いなかで、しかし律法に定められた生活と慣習を守る人々もいた。が、かれらの暮らしは常に不安や怯えと背中合わせだった(異文:しかしかれらは常に不安と怯えを抱えて生きていた)。
 息子に割礼を施した母親は殺され、子供は母親の首から吊された。のみならず母親の親族郎党に至るまでこれことごとく殺されたのだった。
 また契約の書を隠し持っていること、律法に適った生活や慣習を守っていることがバレると、裁かれて殺された。
 ……敬虔なユダヤ人にとって、生きにくい時代になった。かれらは隠れ場を見附けるとそこへ身を隠し、先祖の神の目に正しいと映ることをして暮らした。
 悪なる同胞が正しい同胞を罪人として告発する時代だった。が、敬虔なユダヤ人は律法に背くことを良しとしなかった。そのために殺されるならば、潔く死を選んだのである。
 多くのユダヤ人が悪に染まり、道から外れる行為に耽った。「こうしてイスラエルは神の大いなる激しい怒りの下に置かれたのである。」(一マカ1:64)

 マカバイ戦争は独立戦争でした。セレコウス朝シリアの圧政、それは民族のアイデンティティを根こそぎ奪うものだったがゆえに却ってナショナリズムの高揚とユダヤ人の結束を生み、そのうねりがひとつの波となってシリアに「否」を叩きつけた。それが、マカバイ戦争であります。
 アレキサンドロス王の東征がシリア・パレスティナ、総じてオリエント社会の均衡を崩して静穏を崩した。中央集権国家であったギリシアが王を失ったあと分裂するのは自明の理。その結果、エジプトとシリアという2強が互いに覇をなお競いながら、一方で周辺国家を滅ぼして併合した。
 正直なところ、「マカバイ記 一」や諸資料を読んでみてもアンティオコス4世がユダヤに固執した本心が見えてこないのですけれど、おそらくは対エジプトを視野に入れた際の地理的軍事的要衝であり、かつユダヤの一神教と宗教生活を規定する律法の存在を理解できなかったから、まるで目の上のタンコブを取り除くにも似た行動に出たのかな、と考えております。人は自分の理解できないものを本能的に排除する傾向がありますからね、洋の東西、時間の古今を問わずに。
 そんなアンティオコスの締めつけがだんだんと厳しくなるに従って、敬虔なるユダヤ人の信仰は頑なになっていったのではないでしょうか──迫害が信仰と想いを強くするのは、隠れキリシタンの例でも明らかであります──。
 迫害がどれだけ強くなろうとも、父祖の信仰は捨てない。こうした想いが醸造されていって臨界を迎えたとき、時流に乗ってマカバイ家がいちばん大きく反シリアの狼煙をあげた。どこにも記録や報告の残らない反シリアの運動は、ユダヤの各地にあったのでは? そのなかでマカバイ家が特にクローズアップされたのは歴史の結果(ハスモン朝の樹立=ユダヤ独立)ゆえで巣が、きっと名も伝えられぬ小さな<マカバイ家>は多くあったはず。どの家が立ちあがったとしても、きっとこの時代には宗主国に対する独立戦争は起こっていたことでありましょうね。



 いまLos Del Río「Macarena (Bayside Boys Remix)」を聴いているんだけれど、ここしばらく「YouTubeで懐かしの洋楽を聴こう!」シリーズを更新していないことを思い出した。最後にお披露目したのは、Bryan Ferryだったかな、それともDavid Bowie? まぁ、いいや(え!?)。
 ネタはあるのに、腰をあげないのは常なれど、こうも間隔が開くとさすがに気懸かりになってくる。ブックマークしているページは多数あるから、その気に“さえ”なればさっさと書けるはずなんだけど……そうはいかないのが世の常、人の常、いわゆる身に染みついた怠惰って奴ダヨネッ!
 しかしながら中途で放り出した原稿も2つか3つはあるから、それだけはなんとか仕上げておかないとな。ちなみにGO-GO’SとTHE Beach Boysなんだけれどね。さて、これらのお披露目は実際の話、いつになるんでしょうね……と、他人事のように嘯いてみたところで本稿、お開き。◆
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第2643日目 〈「マカバイ記 一」前夜〉 [マカバイ記・一(再)]

 旧約聖書の時代はネヘミヤとエズラの時代、即ち前400年頃を以て終わりを告げました。新約聖書の時代はヘロデ大王の御代、ガリラヤ地方の小さな恋人たちを見舞った奇蹟から始まっています。その間に横たわるのは、約360年という長い長い時間の隔たり。
 ……約360年……これが旧約聖書と新約聖書を分かつ<空白の時間>。<空白>ではあってもペルシア帝国の庇護下でユダヤの人々の営みは常に代わること続き、喜怒哀楽のなかで歴史は次の世代に引き継がれていった。
 が、シリア・パレスティナの外で世界は大きく変貌していました。ユダヤもその動きと無縁でいることはできなかった。そんな外圧をまともに浴びたとき、ユダヤはどのように揺れ、民はどのように立ち振る舞ったか──旧約聖書続編に収まる「マカバイ記 一」が語るのは、ユダヤが地中海世界の群雄割拠に呑みこまれたとき、ユダヤ人がどのような信念の下に邪知暴虐の為政者に戦いを挑み、民族独立を果たしたのか、であります。
 先走りすぎたようです、落ち着きましょう。
 ──捕囚解放されて荒廃したユダの地、廃都エルサレムへ帰還した者たちは、ゼルバベルやイエシュア、ネヘミヤやエズラの指導の下、周囲の異邦人からのちょっかいを退けながら、町を整備し生活を建て直し、城壁を修理して神殿を再建した。
 父祖の地での暮らしは、平穏に営まれて日は過ぎてゆく。が、庇護者たるペルシア帝国は東征を図るマケドニア王の前にあえなく滅び、その後はマケドニアの後継国家が代わってユダヤを支配した。セレコウス朝シリア──そこから悪の元凶、アンティオコス4世エピファネスが立ってユダヤ人の宗教を汚し、ヘレニズム化を強行したのでした。
 その邪知暴虐に抗う勢力のうち最大にして敵方に最も恐れられたのが、マカバイ家(ハスモン家)であります。エルサレム北西約30キロの位置にある町モデイン出身のかれらは、反セレコウス朝の狼煙をあげて破竹の勢いでシリア軍を撃破、苦しむ同胞を解放して、遂にエルサレム奪還を果たしてソロモンの第二神殿を奉献。その後もユダ・マカバイを指導者/司令官としてユダヤ全土の勢力を結集、時にローマやスパルタと結んでシリアと戦い続けてこれを退けたのでした。
 マカバイ家4人目の指導者シモンの代で、ユダヤは完全に外国の支配下から脱する。じつに南王国ユダの滅亡(前587年乃至は586年)から約145年後、ユダヤ人国家ハスモン朝として独立したのであります。そうして前142年、セレコウス朝シリアのデメトリオス2世はユダヤの独立を承認。斯くしてシモンはハスモン朝最初の王位に就き、同時に大祭司職に就いたのです(一マカ13:41、14:35、同38)。
 「マカバイ記 一」はギリシア人の王朝の第177年、ハスモン朝シモンの第7年、即ち前134年の記事で終わる。その年、ユダヤ人アブボスの子プトレマイオスがマカバイ家4人目の指導者シモンを謀殺し、またシモンの子ヨハネの殺害未遂という大きな事件がありました。このヨハネ(・ヒルカノス)の御代の概略がとても素っ気なく述べられて、「マカバイ記 一」大尾。
 本書は民族解放の物語であり、また抵抗の記録でもありますが、一方でプロパガンダ文書の性格を持つともいわれます。それはおそらく、シモンの王位就任と大祭司職への任命に疑問の声が絶えなかったことも起因していましょう。
 といいますのも、王位に就くのはダビデの家系、大祭司職に就くのはレビ族アロンの家系、てふ暗黙の了解──共通認識、というてよいかも──があったからです。大祭司職にかんしては律法が定めるところでもありました。マタティアの家系は所詮地方の、よくて一豪族に過ぎません。脳筋ならぬ戦筋であります。
 ダビデの家系にもレビ族アロンの家系にも属さぬマカバイ家の高位職就任に、本道を知る民が不適格と思うのも無理からぬことでありました。誰の目にも不満と映ったことでありましょう。独立運動の勇士であるのは認めるけれど、だからというて国家の最重要職に就いて良いわけではない、というところであります。
 「マカバイ記 一」はそんな不平分子の声を平らげるためにも、プロパガンダの性質を備える必要のあった書物のようにも、わたくしには読めるのです。就中第14章、イスラエルの自由が取り戻された記念にシオンの丘へ建てられた石碑の文面、その一節には注目してよいように思います、──
 「『民であれ祭司であれ、何人といえどもこれらのうちのいずれかを拒否したり、シモンの命令に反抗したり、彼の許可なしに国内で集会を催したり、紫の衣をまとったり、黄金の留め金をつけたりすることは、許されない。これらに違反したり、そのいずれかを拒否したりする者は罰せられる。』/民全体は、これらの決議に従って、シモンに権限を与えることをよしとした。シモンはこれに同意し、大祭司職に就くこと、また総司令官となって、祭司たちを含むユダヤ民族の統治者となり、陣頭に立つことを快く承諾した。」(一マカ14:44−47)
 ハスモン家の、民の不満の声の塗り潰しに奔走して右往左往する様が透かし見えて、滑稽ですらあります。
 シモンの在位は前143−134年、ヨハネ・ヒルカノスの在位は前134−104年──ヨハネの御代の出来事の記事がないに等しいこと、また、かれの事績の統括がない点から、本書の成立を前100年前後とする説が今日では、有力なようであります。
 著者の手掛かりは皆無というてよいが、本書を通じてマカバイ家/ハスモン家の人々の事績(王と祭司職への就任という、これまでのイスラエル/ユダヤではあり得ぬ暴挙に出ていながらなお)について好意的なことから、サドカイ派もしくはそこに近い人々のなかに著者を求められるように思えます。一方でこの人物(著者と想定できる人物)はユダヤの地理やシリア・パレスティナを中心とするオリエント・地中海世界の動向に比較的明るいことから、得られた情報を検討・分析してまとめあげられる立場にいるか、そうした人物に近いところにいる存在であることも、併せて想像できるのであります。
 その執筆地は、まるで見当が付かない。エルサレムなのか、シリアの首都アンティオキアなのか、地中海を臨む大都市アレキサンドリアなのか、或いは小アジアなのかギリシアなのか、はたまたローマなのか……未詳である。
 ──それでは明日から1日1章の原則(変更の予定、大いにあり)で、「マカバイ記 一」をふたたび読んでゆきましょう。いやぁ、それにしてもあれから何年も経っているのにまた、この一文が書けるなんてね!?◆
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第2642日目 〈サロメとヨカナーンについて語るとき、文オタ・オペ好き・非キリスト者のぼくが語ること。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 「ヨカナーンの首を欲しうございます」と、王女サロメはいった──。
 ご存知、戯曲『サロメ』のクライマックスであります。捕らえられたヨカナーンに心奪われたサロメ。想いを拒まれた彼女が父王へねだった贈り物、それが洗礼者ヨハネの首でありました。
 『サロメ』の作者はオスカー・ワイルド。イギリス世紀末のデカダンを代表する文学者です。暖色に耽って投獄されたり、貴族のような面立ちも手伝って巷間を騒がせることたびたびな人物でしたが、著した作品は幅広いジャンルにわたり、その多くがいまでも読み継がれていることは、おそらく読者諸兄にも周知の事実でありましょう。
 たとえば、小説だと『ウィンダミア卿夫人の扇』や『ドリアン・グレイの肖像』、戯曲にはこの『サロメ』以外にも『真面目が肝心』、童話はおなじみ『幸福な王子』や『漁師とその魂』などがあります。日本では古くから多くの人によって翻訳されてきました。21世紀の現在でも新たな翻訳が生まれています。ワイルド作品はこんにちでも──やや偏りがあることは否めませんが──新刊書店の棚の定番であり、また古本屋の棚でも常連然としております。
 閑話休題。
 ワイルドは『サロメ』をフランス語で執筆しました。これを英語に訳したのがイギリス/イングランド出身の詩人・作家でワイルドの同性の恋人だったアルフレッド・ダグラス卿。もっとも、この英訳にワイルド自身は不満を覚えていたようで、後に自ら修正の筆を入れております。
 『サロメ』の翻訳にはもう1つ、極めて有名なものがある。それが当時のドイツ、現在のポーランドに生まれた詩人・翻訳家のヘートヴィヒ・ラハマンによるドイツ語版。どうして「極めて有名」と申しあげたかというと、ワイルドの戯曲よりもはるかに江湖に知られ、かつ舞台で上演される回数の圧倒的に多い、と或る舞台芸術作品の生まれる原動力となったからなのです。
 それがドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウスの楽劇《サロメ》であります。
 管弦楽書法に於いてワーグナーの後継を恃むシュトラウスは最初、オーストリアはウィーンの詩人、アントン・リントナーから台本を手供されていたが、どうにも曲を付ける気にならない。そこでワイルドの原作をいじくったリントンの台本ではなく、原作のドイツ語訳を台本に用いて(一部削った箇所もあるとはいえ)作曲の筆を進める。斯くして一幕物のオペラとして産声をあげた《サロメ》は1905年、シュトラウス作品にゆかりあるドレスデンにて初演されました。評判は上々──というよりも、背徳的かつ退廃的、そうして原作自体が持つ拭いがたきエロスゆえに一大センセーションを巻き起こしたとのことです。たぶんこのエロティシズム絡みの話題は、単独で演奏されることも多い終幕の〈7つのヴェールの踊り〉に拠ると思うのですが、どうだったのでしょう。〈7つのヴェールの踊り〉は録音を聴くだけでも濃厚で官能的な、或る面で《サロメ》という作品の特質を象徴する音楽でもありますから、初演当時これに接した人々は果たしてどのような想いを抱き、考え、論じ、肯定否定それぞれに別れたのでありましょう? つくづくタイム・マシンのない時代に生まれたことを残念に思うことであります。
 《サロメ》の録音は数多く存在するけれど、やはりわたくしにはシノーポリ=ベルリン・ドイツ・オペラ=シェリル・ステューダー盤とカラヤン=ベルリン・フィル=ヒルデガルト・ベーレンス盤の2種類の録音が双璧だ。前者が理知的で冷徹な《サロメ》としたら、後者は激情と叙情と官能が巧みに調和したそれであります。どちらも甲乙付け難い、いまなお最強の《サロメ》。生きているうちにこれらを完全に払拭させて、CD棚の奥に定年退職願うまでにさせるレコードが現れるのかなぁ……。
 さて、今度はサロメの話をしましょう。『サロメ』でも《サロメ》でもなく、サロメの話。ワイルド描くサロメ王女の典拠のお話です。
 サロメもヨカナーンもワイルドの創造物にあらず。また、本稿冒頭のサロメの台詞もワイルドの天才がゼロから書かせたものではない、というてよいかもしれません。サロメもヨカナーンも、そこにいる──どこか? 新約聖書のなかに、共観福音書のなかに、かれらはいる。サロメはヘロデ王の娘として、ヨカナーンは洗礼者(バプテスマ)ヨハネとして、共観福音書のなかにいた。
 ナザレのイエスが弟子を集めて伝道を始める前、既にガリラヤ地方には「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ3:2)と宣べ伝える者がありました。それが洗礼者ヨハネであります。かれは人々に水で洗礼を施していましたが、常に自分は地均し的存在でしかない、というておりました。「マタイによる福音書」に曰く、──
 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタ3:11)
 この直後にイエスがふらり、とやって来て、ヨハネと洗礼問答をするのですが、ここでは省きます。
 イエスとヨハネの邂逅はこのとき1度きりだった様子。というのもその後ヨハネは、ヘロデ大王の子でガリラヤとペレアの領主、ヘロデ・アンティバスに捕らえられて死海東岸の要塞マカエロス(マケロス)へ幽閉されたから(マタ4:12)。もっとも、幽閉中であっても自分の弟子を通じてイエスとの間接的接触はあったようです(マタ11:2-6、ルカ7:18-23)。
 そもヨハネが捕らえられたのは、ヘロデ・アンティバスが自分の兄妹の妻ヘロディアを娶ったことを批判したため、といわれております。それは律法が許していることではない、というのが、ヨハネの言い分でした(マコ6:17-18、マタ14:3-4)。これに夫婦ともども立腹したことが、ヨハネ逮捕・幽閉につながってゆく。そうして結局ヨハネは、ふたたび外の世界を歩くことなく、剣の下に露となって果てたのでありました。
 サロメがヨハネの首を所望するエピソードは、共観福音書のうちマタ14:6-11とマコ6:21-28に記されています。
 ヘロデ・アンティバスは自分の誕生日の余興で立派な踊りをおどったヘロディアの連れ子、サロメに褒美を与えようといいました。そのとき彼女が求めたものこそ、洗礼者ヨハネの首だったのであります。たいそう心を痛めながらもヘロデは臣下へ命じてヨハネを斬首に処し、この狂気の贈り物をサロメに渡しました。
 ──ワイルドの戯曲、シュトラウスのオペラにはこのあと、サロメがヨハネ(ヨカナーン)の唇に口づけして倒錯した恋心を語り、その様子に恐慌を来したヘロデがサロメ殺害を命令するのですが、共観福音書にそんな記述は勿論、ありません。こここそがワイルドの天才が存分に発揮された部分である、とわたくしは信じて疑いません。
 このヨハネ処刑は紀元28年頃(イエス磔刑の2年前)の出来事とされます(佐藤研『聖書時代史 新訳編』P39 岩波現代文庫)。
 ここで注目すべきは、福音書に於けるヨハネ処刑の経緯が、回想形式をとっていることでありましょう。即ちイエスの活動・奇蹟の数々が耳に入ってくるようになると、ヘロデ・アンティバスは自分がかつて斬首を命じたヨハネが生き返ったのだ、とそう思うてしまったわけです(マタ14:1-2、マコ6:14-16、ルカ9:7-9)。はい、回想スタート(以下略)。
 が、実際のところはそうでなかったようだ。ヘロデにヨハネを思い出させたのはイエスの評判ではなく、しかも死したるヨハネをヘロデに結び付けたのは、紀元36年頃にあった対ナバテア王国戦での敗北だったといいます(佐藤前掲書P23、P56)。
 戦争の陰に女あり、で、当時既に妻帯していたヘロデ・アンティバスだが兄妹の嫁ヘロディアをわが妻とせんがため、それまでの妻を離縁しました。が、その離縁させられた女の実家が実家だけに、この欲望だらけの行為はヘロデ王に手酷い代償を支払わせる結果となりました。
 ヘロデが離縁した女の実家は隣国ナバテア──聖書でナバテア人はアラビア人とも書かれる。ナバテアは死海の東と南に広がる国だ──にあった。そうして父親は、王アレタス4世(在前9〜後39年)だった。この、ナバテア国との間に勃発した戦争については、わたくしもいつか短いエッセイを書きたいと思うております。
 新約聖書の時代を考えるに必須な文献の1つが、フラティウス・ヨセフスが著した『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』であります。ヨセフスはエルサレムの祭司の家系に生まれた、マカバイ家・ハスモン王朝の流れを汲む人。生年は37年頃と伝えられる。第1次ユダヤ戦争ではユダヤ軍の指揮艦で会ったがローマ軍に投稿して、エルサレム陥落を目の当たりにした。その後は帝政ローマの幕僚として生き、前述の2大著を書きあげて100年頃に没したといわれます。
 ヘロデとナバテアの戦争はヨセフスが生まれて間もない時分の出来事、そうして共観福音書の成立(諸説あれどだいたい60年代後半から100年までの間に成立)とヨセフスの後半生はほぼ重なるというのが面白い。このヨセフスが報告するところですが、ヘロデ敗北を多くのユダヤ人が洗礼者ヨハネの処刑と結び付けて考えていたようです(佐藤前掲書P56)。
 また、共観福音書にヨハネの首を所望した王女の名前は、じつは記されていない。にもかかわらずこれをサロメとするのは、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第18章5節の記述に基づいている。そこではヨセフ処刑はヘロデ王自身の判断とされるが、王の妻子について書かれた部分にサロメの名前が登場する。『ユダヤ古代誌』に於けるサロメと共観福音書が伝える王女の記事に一致点が見られることから、かの王女をサロメという名で後世は伝えたのでありました。
 ──西洋の文芸作品の、汲めども尽きぬ創造の源泉の1つが聖書であることは間違いありません。今回のワイルドとシュトラウスについても、例外ではありませんでした。
 共観福音書の記事だけでもじゅうぶんにドラマティックなものを、ワイルドの天才はさらに深みを加えて劇的なものとし、いちど知ったらもう忘れることのできないような強烈なキャラクターと台詞を紙の上に叩きつけて、後の世のわれらに残してくれました。サンキー・サイ。
 もしかすると、ワイルドの『サロメ』/シュトラウスの《サロメ》は、バッハの受難曲やカンタータと同じぐらい、聖書の世界へ皆さんをお招きするのに格好の作品といえるかもしれません。よろしければワイルドの『サロメ』/シュトラウスの《サロメ》に触れてみてください。きっと或る種の法悦を感じ取っていただけると思います。◆

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第2641日目 〈MYDY作戦、発動! ダニ第10章-第12章編with題名の由来、解答編。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 ダニエル書第10章から第12章です。

 第10章(全21節)
 ペルシア王キュロスの御代の第3年。大河ティグリスの畔にて3週間の嘆きの祈りをささげるダニを見舞った、幻と、天使の言葉。
 天使の言葉:イスラエル/ユダヤの上に降りかかるであろう種々の出来事を、幻に託してお前に見せる。について、わたしはお前に幻を見せる。よく理解せよ。
 その、人の子のような姿の者が、ともすれば恐ろしさに打ちひしがれ、萎えて崩れ落ちそうになるわたしダニエルを力づけてくれた。かれはこういったのだ、「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい」(ダニ10:19)と。
 そうしてかれは、わたくしに斯く語りかける、──

 第11章(全45節)
 遠くない時代にペルシアの前に3人の王が立ち、続く第4の王は力を恃みにギリシアへ挑む。が、かの地を統べる勇壮なる王の剣の下にあえなく潰え、代わってかの王が大海の東に広がる広漠たる大地を支配する。しかしかの王は東征中に野望なかばで病に倒れ、空しくなる。ギリシアは王亡きあと4つに分裂する。
 初めは南の王が強く、栄華を誇った。が、その間に北の王が力を蓄え、いつしか南を凌ぐ権力を揮うようになる。やがて南の国と北の国は相争うけれど、和睦して、南の王の娘が北の王に嫁いで友好を結ぶ。しかしそれも束の間。さまざまな謀略と裏切りが両国を戦争に駆りたててゆく──それは講和の糸口さえ見出すことが出来ぬまま、どんどんと泥沼化してゆく。
 すると、そこに1つの新たな勢力が立ちあがる。ダニエルよ、お前の民のなかから暴力を是とする集団が出て、平和を乱す南の国と北の国へ立ち向かうのだ。しかし、かれらは敗北する。北の王が<麗しの地>に入り、支配する。かれは自分の国と南の国の併合を目論むが失敗する。そうして北の王は死に、かれに代わって──
 代わって、卑しむべき者、忌むべき者が甘言を弄し、策を巡らせて王位に就く。かれの洪水の如き勢いと規模の軍隊に諸国の民は呑まれ、苦しむことだろう。が、しかし、契約の民のなかからこれに抗う希望が現れる、──
 「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。契約に逆らう者を甘言によって棄教させるが、自分の神を知る民は確固として行動する。民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。」(ダニ11:31-33)
 王は欲しいままに振る舞い、驕り高ぶり、どのような神にもまして自分は貴くかつ高い存在であると自惚れる。「すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、怒りの時が終わるまで栄え続ける。定められたことは実現されなければならないからである。」(ダニ11:36)
 そうして<終わりの始まり>が始まった。
 南の王が戦端を開く。北の王はこれをたやすく撃破する。北の侵攻はとどまることを知らず、遂に<麗しの地>を占領し、<聖なる山>に自らの天幕を張った。しかし、それはダニエルよ、永久に続くものではない。その行為は北の王の、<終わりの始まり>を告げるもの。この王を助ける者は、どこにもいない。

 第12章(全13節)
 北の王の終わる時が来る。そのとき、大天使ミカエルが立つ。立って、ダニエルよ、お前の民のその子らを守護する。しかし、ミカエルの立つまでお前の民の苦難は続くだろう。その苦難はおそらくこれまでお前の民が経験したことのないような、熾烈で、過酷で、絶望のすぐ手前にいるに等しい困難であろう。これまでお前の民が経験した何事よりもはるかに辛く、絶望的で、果たして救いや希望がわれらの未来にあるのだろうか、否ありようはずはない、と諦めてしまう程の困難であろう。
 が、大天使ミカエルが立つその時、お前の民イスラエル/ユダヤは救われる。
 「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。/ある者は永遠の命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。/目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」(ダニ12:2-3)
 ダニエルよ、お前はこれらのことを誰に聞かせるまでもなく、自分の内に秘めておくようにしなさい。これを知ったらきっと多くの者が、動揺するだろうから。
 ──大河ティグリスの畔でわたしダニエルは、麻の衣に金の腰帯という装いの人を見つめ続けていた。すると更に2人、ティグリスのこちらの岸とあちらの岸に立っているのを見た。
 内1人が麻の衣の人に問うた。この苦難はいつまで続くのか?
 麻の衣の人が答えて曰く、「一時期、二時期、そして半時期たって聖なる民の力が全く砕かれると、これらのことはすべて成就する」(ダニ12:7)と。
 なにがなにやらさっぱりわからぬわたしは、おそるおそる訊ねたのだった。主よ、これらのことの終わりはいったいどうなるのでしょうか?
 麻の衣の人の曰く、「ダニよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人は悟る。日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ちあがるであろう」(ダニ12:9-13)と。
 
 【ぼくから、一言】
 ○本日に限り、コメントというか感想というか、まぁそんな事は章ごとではなくまとめてお届け。そんなこと、どうでもいい、って? なに仰っているのかさっぱりわかりません(呵々)。
 ○エルサレムを擁すシリア・パレスティナ、オリエント/地中海世界に風雲急が告げられる。ダニエルが3週間にわたる嘆きの祈りをささげる間、視た(視させられた?)幻は、これまでの幻よりもずっと具体的かつ詳細で、それゆえに現実感を伴う内容だった。栄枯盛衰の果てにペルシアとギリシアはその地方の地図から消え、南の王と北の王が諍い、争い、一進一退を繰り返し、リビアとクシュは北の王の軍隊に呑まれた。<忌むべき王>を新たに戴いた北の国はシリア・パレスティナを占領して、完全なる支配下に置いた。
 ○これを即ちマカバイ戦争前史と呼ぶことに障りはあるまい。これまでの幻と異なり、現実世界の出来事はダニエルが視た幻をなぞるようにして発生してゆく。ペルシア語やアラビア語で“イスカンダル”と呼ばれるアレクサンドロス大王が版図拡大に勤しむ最中に倒れて内紛(ディアドコイ戦争)が勃発、最終的に3つの王朝が鼎立してプトレマイオス朝エジプトとセレコウス朝シリアが激しく対立。やがて現れたセレコウス朝シリアの王、アンティオコス4世エピファネスが暴虐を欲しいままにしてユダヤ民族を迫害するわけで……。マカバイ家の者たちが反乱軍を組織して抵抗を始めるのは、このあとのお話である。
 ○勿論、これは──この幻はバビロン捕囚期に呈示された未来の光景ではない。既に起こった出来事の数々を、あたかもこれから実現する事柄のように──古人が視た未来の予告に仮託して綴られたものである。
 「ダニエル書」が前164年頃、つまりマカバイ戦争が1つの転機を迎えた頃に書かれたのは、あまりに卑劣、あまりに非道な為政者への抵抗が、民族回復──ユダヤ人の生活や尊厳、信仰や祭儀などをすべて引っくるめたアイデンティティを回復させるための、理に適った必然の行動、義に満ちた行為であることを江湖に知らしめ、信じさせるためであった。為、「ダニエル書」を一種のプロパガンダ文書と呼ぶ研究者もあるが、じつに首肯させられることである。
 幻の内容が終章に近附くにつれて具体的かつ詳細になり、現実と大差ないないようになってゆくのは、「ダニエル書」の著者(たち)が自ら経験した出来事をやや曖昧にして書いているからに他ならない。
 ○前164年とは、ユダ・マカバイたちがエルサレムに入り、荒廃した神殿を奉献したその年である。そうしてアンティオコス4世の死についてなにも触れていないことから、「ダニエル書」の執筆年代が相当絞りこめるのだった。

 以上を以て「ダニエル書」レジュメ(再び。汝、レジュメの意味を定義せよ)を終わります。明日はインターヴァルとしてサロメについて触れ(この流れに特に意味はありません)、いよいよ「マカバイ記 一」の読書を始めてゆきましょう。



 題名の由来でしたね。「MYDY作戦」とはなにか──察しのよい方もおられるようだが、なんのことはない、「マカバイ記を読む前にダニエル書を読むよ!」の略。『夜は短し、歩けよ乙女』の「ナカメ作戦」に敬意を表しての命名であることは、いうまでもない。
 どうか物を投げたりなさらぬよう、お願い申しあげる。◆

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