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第2606日目 〈横溝正史「堕ちたる天女」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 トラックの荷台から落ちた石膏像のなかから美女の死体が! 淋しい場所にある謎めくアトリエでは妖しき犯罪がうごめいている! ……まるで乱歩だ、『地獄の道化師』だ……。そんな連想の働くのもやむない横溝正史「堕ちたる天女」が、本日の感想文の俎上に上せられた作品である。
 交通量の多い交差点での荷物の落下事故から、本編は幕を開ける。果たしてその荷物はトラックの借り主たる彫刻家が造った石膏像で、その女像の芯となっていたのは浅草のストリップ劇場のトップスター、リリー木下だった。彼女は筋金入りのレズビアンと評判で、愛する相手もある身だったがちかごろは異性によろめき、かつての愛人とはすっかりご無沙汰であるという。捜査に乗り出した等々力警部にくっついて金田一耕助もかかわってくるが、やがて事件は同性愛者の愛苦を背景にした保険金絡みのそれに変貌してゆくのだった……。
 寡聞にしてわたくしは横溝正史に同性愛者を主要登場人物に据えた作品のあることを知らない。が、すくなくともこれまで読んできた20数編のなかに斯様な人物は見当たらなかったと記憶する。むろん、古今東西、文学に現れたる同性愛は男女問わず多くあり続けて、いまもやや趣を変えて生み出されているが、たとえば近代文学に目を向ければ未だ知られざる山崎俊夫がいるし、横溝と同じミステリ作家では江戸川乱歩という先達があった。
 ただ、やはり時代を感じさせるのは、犯人として終始疑われてなかなか網に掛からぬ杉浦陽太郎がホモになった経緯だ。戦時中、杉浦は戦地で上官や朋輩の慰み者にされ、結果、復員して後も男相手にしか性愛の情欲の抱けぬ心身となってしまった。こうした戦場での異常体験は帰還兵が多く報告乃至証言を残しているが、作中ではこのような性癖を「ソドミア」と呼んでいる。いまは死語だがかつては蔑みと差別の言葉であったのだ。
 今日のようにその性癖が江湖に知られ、国によっては同性婚さえ認められるようになった時代であれば、リリー木下も杉浦陽太郎も救われたことであったろうに、と21世紀の世界の寛容を顧みて思うのである。
 ──杉浦のこうした性癖を更に哀しくさせているのは、真犯人によって巧みにそれを利用され、濡れ衣を着せられた挙げ句、殺されて人目につくこと稀な所へ棄てられたことだろう。同性愛が世間の理解を得られぬ、蛇蝎の如く厭われていたような時代、その性癖を知られることはおそらくいま以上に悲劇的かつ絶望的、見えない檻に囚われて一切の希望も自由も失われたに等しいことだったかも知れない。
 同性愛という要素をかりに取り払ったとしても杉浦と真犯人の力関係を思うとき、嗚呼、組織てふ透明の檻に囲まれて唯々諾々と日々を過ごす一人であるゆえにわたくしはそれを、訴えるに訴えられぬ類のパワー・ハラスメントに置き換えてしまうのだ。そうして瞳が潤み、憤りのようなものが腹の底で生まれるのを禁じ得ぬのである……。
 長口舌を揮うたが、なにも杉浦に限ったことではない、第一の被害者であるリリー木下も同じで彼女もまた愛を信じた相手に裏切られて殺されたのである。永い春がもたらしたマンネリな関係に刺激を与えてみましょうよ、なんて愛人の提案が、まさか自分を死に至らしめる周到かつ狡猾な罠だったとは知る由もなく。男装した相手を新たな恋人と周囲に吹聴して、これまで経験したことがないような日々の終わりに待つのが自分の殺人計画であるとは、露とも知らず、彼女は愛に生き、愛に殺された。
 然り、真犯人は共謀して哀しき同性愛者を脅し、騙し、欲望成就のマリオネットとしか扱わなかった卑劣漢である。かれらはリリー木下を殺して彼女に掛けられていた保険金をせしめ、口封じに杉浦のみならず2人の女性までも毒牙に掛けてその命を奪った。過去に犯した保険金殺人だけでは満足できないお金に飢えたかれらは、戦争を挟んで此度もまた同じような殺人事件を計画して実行した。その非道ぶり、その冷酷残忍なる様、作中結びの一章にて金田一耕助が、「鬼畜も三舎を避ける」(P357)と評し、終いには「ぼく……ぼく……こんな凶悪な犯罪のカップル、見たことがない。あいつらは悪事を享楽しているんです。気持ちが悪い。吐きそうです」(P357)とまで言い捨てるのだ。こんな名探偵、珍しい。
 かれらの失敗はそこに金田一耕助がいたこと、それに尽きよう。金田一あったればこそ戦前に岡山県であったお宮入りした保険金殺人とのつながりが見え、一挙に2つの事件が落着するに至ったわけだから。これがどういうことかといえば、本作に於いて東の等々力警部と西の磯川警部が初共演し、がっちり握手を交わすのである。
 同性愛を物語の核に持ってきたこと、扱う事件が21世紀の今日も折節報道される保険金殺人であることのみならず、金田一がそんな仮借ない台詞を吐いたという一事だけでも「堕ちたる天女」は、これからも読み継がれてゆくに足る佳編と結論してよいだろう。
 初出は『面白倶楽部』(光文社)昭和29/1954年6月号。◆
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第2605日目 〈横溝正史「貸しボート十三号」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 以前はミステリ小説を読みながら「犯人当て」に挑んだものだった。それが最高潮に達していたのはちょうど1年前だが、ちかごろはそんな意欲もまるでなく、物語に心をゆだねるだけでじゅうぶんと思うている。
 探偵がトリックやアリバイ崩しに能弁垂らすのを傾聴し、犯人を指摘する件りに「ほう」と多少の驚きを表明し、大団円を迎えた物語に満足を覚えて本を閉じる……この間の気持ちをかんたんに述べるなら、「そのうち探偵が真相に気附いて犯人を名指しし、トリックやらなにやらについて解説してくれるンだろうな」と……或る意味、ミステリの読者としていちばん理想的かついちばんお呼びでない読者であるやもしれぬ。
 その代わり、というのでは勿論ないが、この頃ずっと読み耽っている横溝正史については「探偵小説の醍醐味を味わう」というより作中に描かれた時代風俗や地理に興味を惹かれることがたびたびで。たとえば此度の「貸しボート十三号」も然りで、隅田川にまつわる幾つかの関心に囚われて、作品の感想等とそれらを同居させるのに頭を悩ませていたのだが、もうこうなっては開き直って今回は、作品よりもそちらの話題に終始させていただこう。えっへん。
 ──というておきながらさっそく私事になるのだが、現在わたくしは本作と非常に縁ある土地へ仕事に来ている。そのビルからはちょうど首都高速都心環状線を見おろすことができる。関東大震災で甚大な被害を被った東京市の復興──そのシンボルとして立案されたプランの1つが「震災復興橋梁」である。大正期という時代性を反映してか、そのデザインや様式は今日でも新しさを感じさせるが、残念ながら今日では姿を消した橋梁が多く、往年を偲ぶのは難しい。戦災復興と高度経済成長を承けて河川が埋め立てられ、同時に空襲による被災を免れた橋梁も撤去・解体が行われたからである。
 が、幸いなことに21世紀のいまも往年の姿を留める橋梁は現存している。そのうちの1つがビルから見おろす都心環状線に掛かる采女橋や万年橋だ。かつて築地一帯には堀割が縦横に走ってそこに水の流れがあったこと、時が経て<再開発>の名の下に埋め立てられて道路に変貌したこと、それらを知る端緒が横溝正史の「貸しボート十三号」だったのだ。
 なお本作は、これもいまは姿を消した汐留川の貸しボート場からそこまで舵を漕いできたアベックが、浜離宮恩賜公園の沖合で漂うボートの上に生首が半分切られた男女の死体を発見する場面から始まる。このボートが所轄の築地書へ曳航されるルートを、すこしばかり省略されていると雖も既述されているので、ここにそれを書き写しておきたい。曰く件のボートは浜離宮恩賜公園沖から隅田川水域に入るとすぐに築地川東支川へ折れ、現在の築地市場内にあった海幸橋をくぐり、そのまま遡上して市場橋、北門橋、采女橋を頭上に見あげ、築地川奔流にぶつかると右手に舳先を向けて万年橋、祝橋の下を通って川縁の築地書に曳航された。
 今日、本作で描かれた東京の景観は殆ど失われてしまった。「貸しボート十三号」が執筆されたのは折しもモータリゼーションの黎明期、古き都の面影が駆逐されてゆくのは避けられぬ時代を迎えつつあったのだ。
 未来へ前進するには過去を埋葬する行為が、どうしても伴ってしまう。だがしかし……と、そんなディレムマを抱えながら、横溝正史がこの短編を発表した昔と同じ雄姿を構える2径アーチ石造り橋梁の采女橋や万年橋にたたずみ、眼下の都心環状線を見おろして途切れることなく行き交う車の列を、或いはふと視線をあげた先にあるビル群の向こうに見える東京スカイツリーを眺めていると、時代遅れのノスタルジーに苦笑しつつも豊かになるのと引き替えになくしてしまった<なにか>に心がチクリ、と痛むのである。
 そうしてそんな思いを心の隅で弄びながら、いまの自分が最も親しみと愛着を感じる東銀座・築地界隈の様子を横溝正史が書き留めてくれたことに感謝し、金田一耕助と等々力警部がこの地を振り出しにして捜査に東奔西走した事件のあったことを忘れられずにいるのだ。◆

 追記
 咨、紙幅が限られているとは話題を絞らざるを得ぬことを意味する。つまり書き足りないことがまだまだあるのだ、この「貸しボート十三号」には。ライスカレーが無性に食べたくなったことや珍しく青春小説の趣を兼ね備えた作品であること、或いは浜離宮恩賜公園と東京湾を隔てる2つの水門の話や事件現場から死体発見地点までのルートの疑問、エトセトラエトセトラ……あれやこれやと……。
 でも、これは別稿として後日、好き勝手お喋りさせていただくこう。では、ちゃお!□
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第2604日目 〈横溝正史「湖泥」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 五木寛之の『古寺巡礼・奈良編』を読む手が止まった。「唐招提寺」の章、その一節にふと去来するものを感じたのだ。その節に曰く、「(敗戦後、大陸から引き揚げてくると)こんどは「引揚者」という肩書きがついた。一転して、祖国の人たちから「引揚者」として差別されるような立場になったのである」(P111)と。
 この思いがはたして、五木寛之の感受性がもたらしたものか、当時の内地民の多くが抱いていたものか、知る由もないけれど、そのときわたくしの手を止めたのは刹那の間、数日前に読んだ横溝正史「湖泥」の犯人が五木と同じく引揚者で、かつ落ち着いた先で虐げられる存在だったからだ。
 虐げられていた、とは、ここでは迫害や村八分を意味するのでない。いみじくも金田一耕助がかれを評したように<インヴィジブル・マン>、即ち<見えて見えざる人>として、虐げられていた、というのである。体はたしかにそこにあるのに、コミュニティの一員と見なされていない。なにか事が起こらぬ限り、誰もかれの存在を気に留めないし、その動向に注意を払わない。現実に体験したら地獄だけれど、殊探偵小説に於いては、犯人役の人物に願ったり叶ったりの立場であろう。
 犯人はその立場を巧みに利用した。村人からは無能白痴と思われていたようだけれど、とんでもない。実に周到、狡猾で、自分を<見えて見えざる人>扱いした村人への復讐を果たしてゆく。が、その犯行の根っこには病で苦しむ妻を見殺しにした村人たちへの怨みつらみがあった。
 満州から引き揚げて村へ漂着したとき、かれの妻は梅毒に冒されていた。村人からは忌避され、医者からは診察を拒まれた。やがて妻は逝った。その恨み忘れ難く、時経るに従いますます憎しみは募る。いつの日か……、と思い思いしていたところに同じ引き揚げ者で、いまは村長夫人となった女の不義を知るとそれを利用して、積年の恨みを晴らさんと手を血に染めた。旧習と因縁に魂を囚われた閉鎖的な共同体に、図らずも紛れこんでしまった<異類>による復讐劇がこの「湖泥」なのだ。
 その背景を思うてぞっとさせられるのは村人の、犯人への接し方だろう。村八分ならまだマシだ。しかしながら村人は、あたかもかれを生殺しとするかの如く接してきた。すれ違えば声は掛けるし、事件があった際も証人として遇し、隣村の祭りで会えば酒を飲むような間柄なのだ。にもかかわらず──<引揚者である=土着民ではない>ことからたぶん、村人は自分でもそれと意識しないまま、犯人を引揚者として差別していたんじゃないのかな……。

 「湖泥」は、およそ多くの人が金田一耕助の探偵譚に抱くイメージをずらり揃えた作品だ。都会から離れた地方の僻村を舞台とし、そこには旧習と因縁に魂を囚われた人々が生活し、村を代表する2つの旧家がいがみあっており、それが高じて陰惨な連続殺人が勃発する、という、そんなイメージ──。
 が、短編という性格上こちらの方がより濃密に、それらの要素が凝縮されていて読み応えがある。地方物では一頭地を抜く仕上がりを誇る一方で、田舎で起こる犯罪について磯川警部と金田一耕助、それぞれの台詞がとても印象に残る短編。蛇足を承知で、最後にそれを引けば、──
 「(田舎は)何代も何代もおなじ場所に定着しているから、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまもなおヴィヴィッドに生きている。いや、当人同士は忘れようとしても、周囲のもんが忘れさせないんですな。話題の少ない田舎では、ちょっとした事件でも、伝説としてながく語りつがれる」(P6 / 磯川警部)
 「(都会よりも田舎の方が、或る種の犯罪の危険性をずっと多く内蔵している、という警部の発言を承けて)……実際、そのとおりなんですよ。しかし、それはあくまで内蔵しているだけであって、ある種の刺激がなければ、こんどのような陰惨な事件となって爆発しなかったろうと思うんです。では、その刺激とはなにか……やはり都会人の狡知ですね。(中略)だからぼくのいいたいのは、農村へ都会のかすがはいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね」(P107-8/ 金田一耕助)◆
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第2603日目 〈メタボは敵だ! ──文章の長ったらしいことについての短な反省。〉 [日々の思い・独り言]

 読者諸兄皆さまへ、謹んで申しあげたい。
 公開の数日後、第2602日目を読んでみてわれながら「ちと長くなりすぎたわい(テヘペロ)」と深く、真摯に反省すること頻りである。
 ゆえ以後はかつてのように──聖書読書ブログであった当時のように……「え?」とかいうな──、400字詰め原稿用紙4〜5枚程度を目処とした分量で、すくなくとも読書感想文に関しては綴ってゆくことにした。
 原点回帰? まぁ言葉が立派に過ぎるけど、うん、そ、そんなところだ……ね。
 既に続く第2604日目はダイエットにダイエットを重ねて、それでも未だ肉付きの良すぎる部分なきしにもあらずだけれど、上述の分量に留めることができた(安堵!)。
 然り、書けばいい、というものではない。メタボは「敵」である。◆
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第2602日目 〈横溝正史「トランプ台上の首」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 きっと、と思うのである。CSにて古谷一行の<名探偵・金田一耕助シリーズ>全32作が放送されなければ、そうしてそれを録画・視聴していなければ、「トランプ台上の首」なる作品が横溝正史にあるのを知るのはもっとずっと先のことであったろう。加えて視聴前に「黒猫亭事件」を読んでいなければ、ドラマ『トランプ台上の首』を観て引っ繰り返ることもなかったであろう。
 余計なことをいわせていただければ『トランプ台上の首』は同名短編の映像化ではない。<名探偵・金田一耕助シリーズ>の第28作『トランプ台上の首』は実質「黒猫亭事件」のドラマ化である。どこにも「トランプ台上の首」の要素がない、とまではいわないが……まぁ正直なところ、この短編と「黒猫亭事件」を合わせて1本の映像作品に仕立てる必要はあったのかな、と小首を傾げ続けているのだ。ドラマはドラマで面白かったんだけれどね。
 それでは気を取り直して、──
 岡本綺堂が小説や随筆で江戸の風俗を活写し、永井荷風がやはり小説や随筆で浅草や東京の景観を録したと同じように、横溝正史も東京を舞台にした探偵小説で街並みや風俗を描いて戦後復興期の様子を今日に伝えている。
 「トランプ台上の首」に限った話ではない。やがて感想をお披露目するであろう「貸しボート13号」に於いてわれらは東銀座周辺の首都高速湾岸線がかつて築地川の本流であり、湾岸線に今日も掛かる采女橋から築地市場方面へ向かう道路はその支流で、各所に掛けられていた橋の名残が交差点の名称に留められているなど、横溝正史の小説を読まずしてどうして調べたりする気になったであろうか。探偵小説は時代を映し出す鏡でもあるのだ。それはおそらくジャンル小説ならではの特徴だろうが、それは後日の話題とし、いまは「トランプ台上の首」に戻ろう。
 ──「トランプ台上の首」を読み始めるやわれらは、あたかもタイムスリップしたかのような思いに陥る。それが錯覚であるとわかると今度は戦後間もない隅田川上にかつて水上総菜売りなる商売があったことに「ほう」とし、多くの常連顧客とそこそこの儲けがあることに「へえ」と感心させられることだろう。
 勿論この商売、横溝正史の創作ではなく江戸時代からあった商売の末裔というてよく、敗戦の痛手から立ち直って高度経済成長期に突入した頃まで隅田川にいた水上生活者相手の物売り稼業で、宇野の場合、水上生活者のみならず川縁に住む人たちにまで顧客を持っていた。
 この宇野宇之助、当初は当たり前の総菜を積んで売り歩いて(?)いたが、事件現場となったマンションの女性たちから「今風の物も売らなきゃ駄目よ」、「もっと身だしなみに気を遣わなくちゃ駄目よ」と教育されて以後、扱う総菜はひじきに油揚げ、里芋の煮ころがしやうずら豆の甘辛煮といった昔ながらのものに加えてオムレツやトンカツ、コロッケなど洋風のおかずが加わり、装いも印半纏に捻り鉢巻きから清潔な割烹着にコック帽、と小洒落たものへ変貌した。ちなみに船も和船からモーターボートに代わった……。
 戦後復興期の職業事情という切り口から「トランプ台上の首」を読んでみると、またちょっと違った楽しみ方ができるかも知れない。
 昭和30年代、既に夫婦共働きの世帯が普通になってきており、食事の支度もままならぬぐらいに忙しい日々を送っているというのは即ち、日本が高度経済成長期に突入しており神武景気が一段落して間もなく岩戸景気を迎えんとしていた時代の物語であることを、われらに伝えてくれる。また、件のマンションに住む独身女性のなかにはいわゆる<二号さん>がちらほら見受けられて、しかも稼ぎが相応に良いことに触れて昭和32/1957年4月に施工された売春防止法(作中では「売春取締法」)の適用の難しさを指摘していたりもする(いずれもP178)。
 ちなみに最初の被害者(と目される)女性はストリッパーを生業とし、そのパトロンは表向き自動車のブローカーだが実際はヘロインなど麻薬の密輸を専らとする人物(P207-8,247,288)であった……。
 第一の被害者の殺害現場となった今戸河岸(隅田川縁で今戸神社を擁し、現在は台東区リバーサイドスポーツセンターがあり、桜橋水上バス乗り場がある、桜橋で対岸と結ばれている。ここをすこしく下流へ行くと、東京大空襲戦災犠牲者追悼碑や言問橋、東武線浅草駅がある)にあるガレージの地下室だが、そこの「コンクリートの壁が、せんだっての地震のとき、一間ほどくずれおちた」ために犯人は自ら補修を買って出て壁から「床まできれいに塗りなおした」(P303)と金田一耕助は指摘した(一間は約1.82メートル)。
 この地震とは、小説内時間から推測すると昭和32/1957年11月10日未明に発生した伊豆諸島は新島近海の群発地震をいうていると考えられる。新島の南沖約5キロの地点を震央とする、震源の深さ13キロ、マグニチュード6.2の地震であった。数日前から活動は活発であったがこの日、遂にそれは頂点に達して、近くの式根島では未明の本震の際、全半壊した家屋が合計4棟、石垣が崩れたり亀裂が走ったりなどの被害が50箇所近い場所で生じた由。また、崖崩れも2箇所で報告されている。なお、千葉県勝浦町では震度3、隅田川河口付近を含む東京は震度2の揺れが観測されたという。
 さて。この震度2、じっとしている状態であれば人体でもじゅうぶん認められるものだが、では果たしてその程度の揺れでガレージの壁が一間ばかしとはいえ崩れたりするものだろうか。元不動産屋のみくらさんさんかは、少しく小首を傾げつつこの点を考えてみた。
 東京大空襲の際、隅田川一帯は一面が焼け野原になって建物などなにも残らなかったような印象をどうしても抱くのだが、実際は一部の建築物は被害の程度は別にして焼夷弾の雨を逃れて焼け残ったようである。写真で確認できるのは東武線浅草駅の入る松屋や雷門前の仲見世などであるが、もしかすると殺害現場となった建物もこうした空襲を免れた建築物の1つであったのかもしれない。
 とはいえ空襲に伴う火災こそ避けられてもその衝撃と無関係でいられたとは思えない。爆弾破裂の衝撃を吸収し続けた結果、コンクリートが脆くなってかの地震に於いて一部が剥落したということもあり得よう。幾ら戦後の復興期の建築物とて震度2程度の微震でコンクリート建築の一部が剥落するなどとは思えないのだ。杜撰で手抜きな工事、資材の強度を下げるような工事を行っていなければ……もっとも、これは今日でもよくある話であるが……。
 旧耐震基準を含む建築基準法が制定されたのは昭和25/1950年で、このときに構造基準も規定された。ちなみに今日の基準で旧耐震基準時代に建てられた木造建築の評点は倒壊する可能性が高いことを示す0.7をずっと下回る0.50、倒壊可能性は高いということだ。これをコンクリート建築にそのまま適用することは勿論できないけれど、すこし大きな揺れで相応の被害が出ることはほぼ間違いないというてよいだろう。
 ──横溝正史の東京物は岡山物に較べて幾分評判が悪いけれど、見方を変えればそれらの多くが職業小説、地理(地誌)小説、風俗小説の側面を持つ。そんな要素を汲みあげて読む愉しみもあるということを、申しあげたかった。
 もっとも、こんなことをいえるのはおそらく日常的に東京のど真ん中へ通勤して、かつては大嫌いだった東京という街に親しみを持つようになり、その歴史、その変貌、その雑多ぶりに面白みを感じるようになったからだろう。その流れで講談・落語に浸り、池波正太郎や久生十蘭を筆頭とする時代小説を漁り読むようになって初めて、そこで描かれた町の遺構、行楽の名残がいまもあって、それらのすぐそばを普段から歩いていることに気附かされた。21世紀の東京と近世期の江戸は薄い膜一枚を隔てて隣り合っていたのだ。
 ……と、浜離宮までを含む銀座界隈で昼間を過ごすわたくしは、横溝正史の東京物をそんな風に読んで愉しんでいる。それゆえに正直、さして面白いと感じられない「びっくり箱殺人事件」もどうにか読み進められているわけで。
 それにしても、と物語本編についてなにも触れていないことに今更ながら気が付いて、顔を青くしながら述懐するのである。犯人に狙撃されながらも九死に一生を得た金田一耕助のことや、被害者と加害者が双子だったってことまだこの時代には通用していたトリックなのかと慨嘆したりしたことをね。でもそれらについて、本稿で筆を費やすつもりはありません。もう他の誰彼がきちんと書いていらっしゃいますからね。わが輩の出る幕では、ない。◆
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第2601日目 〈横溝正史「鴉」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 磯川警部も人が悪い。どこぞへ金田一耕助を湯治に誘うときは、そこが未解決事件の現場であることが専らで、あわよくばかれの推理を頼りに落着を見たい、と企んでいるフシが見え隠れしている。──とは流石に言葉が過ぎるか。しかしねぇ、『悪魔の手毬唄』という動かしがたい前例があり、いままた短編「鴉」という事件に出喰わしてしまった以上、そう邪推してしまうのも無理からぬところではあるまいか。そうして、嗚呼、2度あることは3度あるという……。
 その「鴉」の粗筋はこうだ、──
 昭和21年11月、新婚間もない蓮池貞之助が家人の眼前から姿を消した。3年後に戻ってくる、という書き置きを残して。実際それから3年後にかれは戻ってきたが、再び家人の前から、今度は決して戻らぬと残して、行方をくらませてしまった。この失踪事件は果たして真実か、狂言か、金田一耕助は考える。その土地で神様の使いとされる鴉がなぜ、おこもり堂で死骸となり、床に血を滴らせていたのか、金田一耕助は考える。貞之助を取り囲む人々の証言と状況証拠から金田一耕助が明らかにして見せた2回にわたる失踪劇、その全容とは──?
 ちらり、とお話ししてしまえば、この人間消失は或る人物によるすり替わりなのだが、その動機はいとも単純にして邪である。
 他人が計画した謀り事を自分の企みの実現に利用し、願望成就ならずと知るや破綻をもたらした人物を殺めんと動くも自滅して果てる、真犯人なんて呼称も勿体ないぐらいの小悪党──期待を裏切らぬ末路を辿る件の輩にわずかの憐愍すらも抱かないけれど(自業自得とか因果応報というよりも、この人物の場合はただの「バカ」である)、翻って他の登場人物にはというと貞之助の妻、珠生に殊の外同情を覚えるのである。
 幕切れ近くで珠生の口から夫の失踪にまつわる話を聞くことができるのだが、そのきっかけはあまりに痛ましいことだった。愛が誠であったがゆえに妻は悲しみ、夫は苦しみ、そんな葛藤にお構いなく<家>の重圧がのしかかってきてかれらは更に追いこまれてゆく。
 近代文学は古来の旧習と舶来の新風のぶつかり合い、せめぎ合いをテーマの1つとした。島崎藤村を見よ、田山花袋を見よ、有島武郎を見よ、永井荷風を見よ。就中<家>を巡る作品については藤村の独断場の感があるけれど、もう少し時間を下ってジャンルも変えてみると横溝正史も地方物で繰り返しこのテーマを追求してきた一人だ。『犬神家の一族』、『八つ墓村』、『本陣殺人事件』など「犬も歩けば棒にあたる」式に該当する作品は長短編問わずに多くあるだろう。
 「鴉」もむろんその例に洩れず、貞之助・珠生夫婦は<家>がもたらす因習のやはり犠牲者というてよい。
 ただここに一言急いで添えておかねばならぬことは、そも失踪計画が立案された背景には珠生が生まれながらに「女であって、女ではない」ゆえに「夫婦のかたらいのできぬ体」(P171)だった、という事情のあったことだ。これが夫婦生活へ影を落とし、<家>の存続/継承問題に発展してゆくあたりがつながってゆくわけである。この「女であって」云々が今日でいう性同一性障害を指すのか、半陰陽の意味なのか、作者はそれ以上なにも触れていないので判然としない部分もあるのだが……。
 荒寂とした空気が重く垂れこめる下で生きる人々を描いた本作は、その読後感のもの侘しさも手伝って一際、心に深く刻みつけられた佳品であった。読後、巻を閉じて思わず天を仰いで「咨」と嘆息させられてしまう探偵小説なぞ、古今東西そう滅多にあるものではない……でしょう?
 ……さて、次は磯川警部、どんな未解決事件に金田一耕助を巧みに巻きこむつもりか。今後の読書がますます楽しみ。あのときちゃんと捜査していれば未解決事件になんかならなかったんですよ、なんて小気味よい皮肉が金田一耕助の口からまた聞けるのかな。くすくす。◆
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第2600日目 〈横溝正史「幽霊座」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 ──巻を閉じてぼんやりしながら、絵になる場面の目立つ一編であったなぁ、と述懐するのである。横溝正史の短編「幽霊座」を読んでまず胸中に去来した思いはそれだった。梨園を舞台にしたせいもあろうか。
 たとえば金田一耕助が平土間の椅子にうなだれて坐り、そこへ窓から射しこんだ光があたっているシーン。たとえば音爺いと金田一耕助が奈落の底で話し合っている最中、爺の袂から犬塚信乃のブロマイドがはらりと落ちる、そうしてそれを拾いあげるシーン。たとえば歌舞伎狂言『鯉つかみ』の上演中、水船に設けた鉄管から奈落へ抜けてきた滝窓志賀之助/鯉の精役の役者が早着替えするシーン。たとえばその『鯉つかみ』を上演する舞台上の役者たちの所作、その裏方たちの動き回る様子。いずれもほんのわずかの描写でしかなく、或いは地の文でわずかに説明乃至は描写されるに過ぎぬものだが、やたらとそれらが一枚一枚の映像となって鮮烈な印象を与えてくるのだ。
 ちと話が先走りすぎたようだ。簡単に粗筋を、ここで述べておこう。
 稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日をかれの命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助/鯉の精はかれの遺児、雷蔵が担当するはずだったが上演直前に倒れたせいで鶴之助の異母弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助と紫紅を中心とする因果な人間関係を暴くことになるのだが──。
 嗚呼、なぜ粗筋の紹介がこうも下手なのか。ホント、嫌になっちゃうね。まぁ、そんな徒し事はさておき。
 華やかに映る梨園の裏に蠢く人間関係、権謀術数、不協和音がもたらす種々の事件を描いた人といえば、真っ先に戸板康二や小泉喜美子が思い浮かぶ(栗本薫にはそうした小説があるのかしら。『変化道成寺』っていう新作歌舞伎の脚本を書き下ろしているのは知っているけれど)けれど、横溝正史が広義のショービジネスの世界を事件現場に持ってきたのは「幽霊座」以外にどれだけあるのかしら。インターネットで調べればすぐわかるだろうけれど、実際に読んでいない以上はその情報も信憑性が薄いから、ここでは殆どなかったのではないか、といわせてもらう。
 戸板康二も小泉喜美子も梨園を題材に幾つもの小説を書いた。さりながら陰惨さ、背筋の凍るような禍々しさという点では流石に横溝の本作へ軍配が挙げられよう。横溝の他作品でも陰惨で禍々しい事件はお目に掛かれるが、どうしたものか小説の舞台を梨園に据えただけでその要素は一際と濃くなり、それが読み手に働きかける効き目も倍増するのである。魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿の如き梨園に生きる人々であればそのような行動も納得できる、と妙に納得させられてしまう<なにか>が、事件の発端となった出来事に寒々しくも妙に生々しい根拠を与えてしまうのである。池の畔に立って、溺れる幼児を冷徹な眼差しで見つめるあの男の様子……そのあとの行動と併せて思えば、心胆寒からしむるとはまさにこのことか、と嘆息せざるをえない。歌舞伎役者(あ……)ならではの立ち姿の美しさが更にその思いを強く、深くして。
 もしこの作品に呆れてしまう箇所があるとすれば、それは犯人たち(2度目の、あ……)の報連相怠慢に関してであろう。きっとかれらがもう少し密に、頻に連絡を取り合っていればこの犯罪も杜撰な結果に終わることはなかったっだろうに。結局は血に飢えた鬼女/醜女の暴走が事件を発覚させたも同然だものね。きっと彼女にドニゼッティがルチアのために書いたような狂乱の音楽は相応しくない。
 なお「幽霊座」で重要な役回りを務める歌舞伎狂言『鯉つかみ』、元は尾上家の演し物で、初演は宝暦6/1756年4月に市村座(江戸)にて初代尾上菊五郎が滝窓志賀之助を演じた『梅若菜二葉曽我(うめわかなふたばそが)』であったというが、別に元文4/1739年7月、同じ市村座で二代目市川海老蔵が演じた『累解脱蓮葉(かさねげだつのはちすば)』を初演とする説もある。
 最近では昨平成29/2017年11月の歌舞伎座顔見せ公演、幕開きの演目として上演された。滝窓志賀之助/鯉の精を演じたのは七代目市川染五郎(高麗屋)。七代目として最後の舞台であった(翌平成30年1月の壽初春大歌舞伎にて十代目松本幸四郎を襲名披露)。
 本音をいえば、歌舞伎を題材にした探偵小説として読むのみならず、これをきっかけに歌舞伎に興味を持って恐る恐る歌舞伎座や新橋演舞場に出掛けて、その魅力、その魔力、その底知れぬ面白さに目覚めてどっぷりはまってくれる人が出てきたら嬉しいな、と思うておるのであります。探偵小説も面白いけれど、歌舞伎も面白いよ。◆
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第2599日目 〈横溝正史とミルンとウッドハウス。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の佳編「蝙蝠と蛞蝓」を読んでふと思うたのは、横溝正史が『新青年』誌の編集にかかわり、1年半の間編集長を務めていた時代のあったことである。
 編集に参加したのが大正14/1925年から、編集長の地位に在ったのが昭和02/1927年03月号から翌昭和03/1928年09月号までということから、わたくしみくらさんさんかは推理という名の妄想を膨らませてゆく……愛してやまぬ作家の1人、P.G.ウッドハウスの作品が戦前から翻訳されており、その主舞台が他ならぬ『新青年』誌であったことを思い合わせながら。
 実は探偵小説専門誌ではなく総合娯楽雑誌であった『新青年』は、当時のモダニズムの流れを反映してちょうど横溝が編集参画する頃から、その手の作品を積極的に掲載するようになっていた。同時に誌面へはユーモア小説の類もちらほら顔を見せ始め、その一翼をウッドハウス作品は担っていた(ウオドハウス或いはウォードハウスなどと表記された)。
 それはちょうど横溝が編集に携わった時期の話である。ウッドハウス作品が紙面へ掲載されるに際してどの程度まで横溝がかかわったか不明だけれど、すくなくとも印刷所に回る前の段階で目を通したり、評判や感想など耳にする機会はあったのではないか。
 目を通す機会あったらばその過程で、おそらく鍾愛の一作であるA.A.ミルンの傑作探偵小説『赤い館の秘密』を想起させる春風駘蕩の作風に加えて、上質のユーモアと筋運びの巧みさ、文章の精妙さやそこから滲む作者の教養の豊かさに気が付いたことであろう。因みに横溝正史とミルン『赤い館の秘密』の出会いは大正15/昭和01/1926年、博文館(『新青年』発行元)入社のため上京する以前の神戸時代であった由。
 勿論横溝正史がウッドハウスに直接間接の別なく影響を受けていたか、確認する術はない。随筆集のどこを引っ繰り返してもウッドハウスの名前は見当たらなかった。横溝がミルンを好んだのは「退屈でありながら異様な魅力に満ちている点」(「私の推理小説雑感」より)であり、すべてが結末の謎解きにつながってゆくがゆえに登場人物の一挙一動、一言半句も見落とすことのできない緊張感にあった。
 翻ってわれらがウッドハウスは如何か? その作品は広義のミステリでこそあれ、ミルン始め<ミステリの黄金時代>に足跡を残した作家たちとはひと味もふた味も違う、かれらが描こうとした現実とはいささか乖離した、若干ねじの緩んだ世界を舞台にした作物であった。ウッドハウスのミステリに於ける最高傑作というてよい「ストリキニーネ・イン・ザ・スープ」(『マリナー氏の冒険譚』所収 文藝春秋)はその好例だ。勿論、悪い意味で申しあげているのではない。前面に押し出されてくるのは謎解きではなく笑劇なのだ、ウッドハウスの場合は。
 ウッドハウスもミルンと同じくミステリ小説への愛にあふれていたとはいえ、ミルンと決定的に異なったのはミルンが「現実の人たちについて探偵小説」(『赤い館の秘密』序文より)を書こうとしていたのに対し、ウッドハウスは自身のシリーズ・キャラクターとほぼ変わらぬ<ちょっと珍妙な人たち>がすったもんだする種類のミステリ小説であったのだ。つまり、ウッドハウスはちょっと浮世離れした人たちを自身のミステリ小説でも描いたのである。
 おそらく横溝がウッドハウスではなくミルンの小説を好んだ理由の一端は、こうした登場人物の描き方に由来するのだろう。『赤い館の秘密』に登場する素人探偵、アンソニー・ギリンガムが金田一耕助のモデルになったことを考え合わせると、個人的にはじゅうぶん納得できる話なのだ……。
 まだまだわたくしの横溝正史読書マラソンは始まったばかりである。「蝙蝠と蛞蝓」のようなユーモア漂う作品が他にあるのか、幸いなことにまったく知らない(全作品を読んだ方、ネタばらしのコメントは寄せないで!)。さりながらマラソンの第一コーナーを回ったあたりで、これまでとちょっと毛色の異なる愛すべき掌編に出会えたことは、きっと今後の弾みとなり励みとなるに違いない、と自分は勝手にそう思うている。◆

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第2598日目 〈横溝正史「蝙蝠と蛞蝓」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 心が塞いでいるときに読むユーモア小説程、効用の両極端なものはない。より落ちこませる場合もあれば、わずかなりとも晴れやかにさせる場合もある。これは探偵小説も同じで(いや、ジャンルに限らずなのだろうけれど)、爽快な気分にさせてくれることもあれば、登場人物の誰彼に感情移入し過ぎてやるせない気分になったり……。
 「蝙蝠と蛞蝓」を読了した際、二の次あたりに倩思うたのが、そんなことであった。本作の場合、どちらへ針が振り切れるかといえば、探偵小説に於ける前者となる。成る程、そうかい、爽快な……。
 が、今回感じた「爽快」とはたとえば名探偵の快刀乱麻を断つような推理に陶然とし、想定外の真相に思わず唸って膝を叩いちまう類のことではない。「爽快」の根っこにあるのはユーモア、否、「滑稽」だ。読書の愉悦に浸っている間は始終くすくすさせられてしまうような……。本作を一言で括るなら<笑劇>か(ルビを振るなら、コメディよりファルスの方がしっくりするかな)。
 角川文庫旧版にして27ページの短編を一息に読み終えて巻を閉じたとき、まず胸中に飛来したのは上述のような分析めいた思いの数々では当然なく(当たり前だ)、いやぁ実に愉快な小説を読んじまったぜ! てふ一種の幸福を噛みしめたのである。まぁちょっと心が塞いでやさぐれたくなることのあった数日だったものでね。閑話休題、ハイホー。
 でも正直なところ、横溝正史にこうした作風の1編があるとは知らなんだ。本編は金田一耕助と同じアパートに住む男のモノローグで進められる。かれは金田一耕助とアパートの裏手に住む誰だかの妾が大嫌いだった。悶々と過ごしていた或る日、突如警察が踏みこんできて逮捕された。アパートの裏手に住む妾が殺されたのだ。語り手が疑われたのは、件の妾を殺して金田一に濡れ衣着せる犯罪小説を、腹立ち紛れに書いていたからだ。身に覚えのない殺人事件で警察へ拘留・尋問中のかれの前に颯爽と(?)金田一耕助が現れて……、──さて、事件の真相と真犯人は?──という筋を持つ。
 語り手は裏に住む妾を「蛞蝓」と呼び、金田一耕助をその風貌、その行動、その印象から「蝙蝠」と蔑んで、2人を徹底的に嫌い抜く。その嫌いぶりが「よくもまぁそこまで……」と呆れ顔で讃えたくなるぐらい筋金入りなのである。
 これまでも金田一耕助の能力に疑問を持ったり、その存在に良くない印象を抱いた人物は多くいた。が、斯くも罵倒し、揶揄し、嘲笑し、警戒し、終いには毒気を抜かれた人物とお目に掛かったことはない。むろん未読の作品群のなかにはいるのかもしれないが、わたくしは横溝正史読書マラソンの第一コーナーをようやく回ったばかりの新参者だ。
 まぁね、昼は部屋に寝転がって死体や殺人現場の写真が載った本を読み、夜ともなればいずこともなく出掛け、加えて例の、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭に襟が茶色くなったしわくちゃな羽織袴となれば、そりゃあ素性を知らなければ警戒して然るべきだわな。いつもは人懐っこい笑顔とくたびれた風采で相手の懐にするりと入りこんでゆく金田一だが、その登場作には必ず1人2人は金田一をどうにも胡散臭い人物に見、煙たがる人物が現れる。かれらの視点で金田一耕助を活写すればこうもなるか、という格好のサンプル、その一例を「蝙蝠と蛞蝓」は提供しているといえないだろうか。
 ぼかぁこの短編、お気に入りだなぁ。好きだなぁ。
 旧版の文庫解説(中島河太郎)には未記載なので書誌データを記しておくと、本作は探偵小説誌『ロック』(筑波書林)誌昭和22/1947年9月号が初出。書籍初収録は未詳だが、春陽文庫『横溝正史長編全集 第14巻 死神の矢』(昭和50/1975年6月)であるようだ。その後、角川文庫旧版に同ラインナップで収録され、今日では改版された『人面瘡 金田一耕助事件ファイル6』(角川文庫 平成8/1996年9月)や『毒の矢』(春陽文庫 平成9/1997年5月)他で読むことが可能。横溝正史が執筆した金田一耕助ものとしては『本陣殺人事件』(昭和21/1946年)、『獄門島』(昭和22/1947年)に次いで3作目、即ち現実に於いても作中時間に於いても最初期の金田一の活躍が描かれた1編である。
 なお作中時間に於いては「蝙蝠と蛞蝓」、金田一耕助が復員して『獄門島』事件を解決した翌年、昭和22年初夏の出来事であろう由(研究サイト「金田一耕助博物館」内コンテンツ「金田一耕助事件簿編さん室」[http://www.yokomizo.to/chronicle/index.htm]に拠る。記して感謝申しあげます)。◆

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第2597日目 〈横溝正史「死神の矢」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 長編「死神の矢」は、娘の結婚相手を候補者3人から選ぶにあたって奇異な方法をその父親(職業:大学教授)が、知己の仲である金田一耕助に開陳する場面から始まる。舞台は神奈川県の片瀬海岸、そのすぐ近くに建つ館。奇異なる方法とは、海上に浮かべた的を浜辺から矢で射て見事命中させた者に娘を与える、というもの。婿候補は3人が3人ともイヤァな感じの連衆で、でもそのなかの1人が矢を的に中てて晴れて婚約者となったのだ。この出来事が発端となって候補者たちは次々に、自分たちが用いた矢で心臓を射貫かれて殺されてゆく。やがて捜査線上にボクサー崩れの男が容疑者として浮上するが、さて果たして真犯人は──? すべての殺人計画が遂行された後、ゆくりなくも明らかにされる連続殺人事件の真相とは……。
 読んでいてどうしても気になってしまうのは登場人物たち、就中大学教授の父親と3人の婿候補、2人のバレエ研修生の女性の口調である。ぞろっぺえというか演技が過ぎるというか、育ちの悪さが滲み出ているというか、どうしても馴染めぬものを感じてしまうのだけれど、横溝正史が本作を執筆した昭和30年代とは現実に斯様な話し言葉が一般的であったのだろうか。
 かれらとは「育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ」(SMAP「セロリ」)が、記録に残らぬ近過去の風俗を知る一助と捉えれば重宝するか。どうしても登場人物の口調が気になるけれど最後まで読み通すのを諦められぬ向きは、「小説は風俗描写から廃れてゆく」てふ三島由紀夫の言など無視して、たとえば現代日本人の喋り方に脳内変換すればよい。
 そういえば辻真先がかつて赤川次郎を論じたエッセイのなかで、ユーモアとは余裕である旨述べていたのを覚えている。「死神の矢」を読んでいて図らずもそれを思い出した箇所のあったことを、この際だから書き留めておきたい。最初の殺人の第一発見者がそれを金田一耕助以下その場に居合わせた人々に伝える場面だ。申しあげます、○○さんはお食事に参ることができないと思います。どうして? 紛失していた矢が見附かったのです。どこで? ○○さんの胸に刺さっていました。ああ、なんてこったい! ……このやり取りがわたくしをしてジーヴスとバーティのすっとぼけたやり取りを想起させ、それに触発されて辻の持論を思い出したのである。
 勿論第一発見者は気が動転していたからあんなピントのずれた会話になってしまったのだ、といえばその通りなのだが、英国ユーモア・ミステリの雄、コージー・ミステリのお手本というてもよいA.A.ミルンの傑作『赤い館の謎』を横溝正史が愛してやまなかったことを念頭に置けば(ついでにいえば金田一耕助のイメージは『赤い館の謎』の主人公、アンソニー・ギリンガムであった)、最初の殺人事件の第一報を伝えるこの場面を執筆するにあたって著者は、或る種のオマージュをそこに託したと想像を逞しうすることだって可能だ。更に想像を膨らませてあり得る可能性を探索すれば、……いや、これは後日の話題に譲ろう。
 金田一耕助は開巻1ページ目から読者の前に姿を現して、知己の大学教授と婿選びの方法を聞かされて新ユリシーズの挿話を思い出したりしている。つまりかれは最初から事件に巻きこまれるべくしてそこへ招かれていたのだ。
 が、例によって例の如く自分の周囲で進められてゆく殺人劇を未然に防いだり、犯行前の犯人を挙げることはしない。最早読者にはお馴染みのパターンで、或る意味に於いて安全運転を遵守する名探偵である。そのくせ人目に立つぐらいうろうろして証拠を掻き集めているのだから、クライマックスにて婿となる男が金田一の能力を疑う台詞を吐いても読者は苦笑いせざるを得ないのだ。
 然様、まるで金田一耕助という男は名探偵というより連続殺人の見届け役である。真犯人のやむにやまれぬ想いを忖度し、その計画が完遂されるまで犯人検挙に手を貸さない、とでも決めているかの如く──。むろん。真犯人の犯行動機にじゅうぶん情状酌量の余地があると判断された場合のお話だ。1つ1つの事件を点検してゆけばそんなことはないのだろうが、一読者としてはそんな印象を拭えないのである。◆

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第2596日目 〈横溝正史『迷宮の扉』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 横溝正史が執筆したジュブナイル小説はいわゆる<ヨコミゾ・ブーム>を承けて角川文庫に編入された。その際同じ作家の山村正夫によってリライトされたが、①文体を「ですます」調から「である」調に変更、②差別用語/表現等を書き換え、③章見出しの追加、④一部作品に於いて探偵役を由利先生から金田一耕助に変更、以上を大きな柱としている由。
 その後ジュブナイル小説群は角川スニーカー文庫に移籍して現在は全点絶版。うち幾つかの作品は21世紀になってポプラ・ポケット文庫で文体を「ですます」調に戻して復活したが、こちらもいまは版元品切れ状態となっている。しかしながら角川文庫のリライト版は今日でもKindleにて電子書籍版が購入可能だ。
 『悪魔の降誕祭』に続けて読んだ本書『迷宮の扉』は、そんなジュブナイル小説の角川文庫リライト版の1冊である。
 一巻の殆どを占める表題作は、遺産相続を巡る骨肉の争いに巻きこまれた金田一耕助の活躍を描く。
 粗筋を架蔵文庫の裏表紙から転記すると、──金田一耕助の行く所、必ず事件あり。三浦半島巡りを楽しんでいた金田一は、突然、嵐に遭い、竜神館という屋敷へ逃げこんだ。だがその直後、一発の銃声と共に誰かが土間に倒れこんできた。うつぶせになった男の背中の左肺部のあたりから血が噴き出していた。殺された男は、毎年この屋敷の主、東海林日奈児少年の誕生日に、カードを届け、ケーキを切りに来る黒づくめの男だった。不審に思った金田一が尚も聞き込もうとしたが、日奈児の後見人降矢木は、なぜか言葉を濁した……。/莫大な遺産をめぐる人々の葛藤をテーマに、完璧なトリックと緻密な構成で描く傑作本格推理──以上。
 んんん、なにやらわたくしのまとめた粗筋の方が良さそうな気がするが、長いから今回は割愛しておこう(←負け惜しみ)。
 その遺言状の内容や相続(予定)人を擁する家族間の相克など、かの『犬神家の一族』をわたくしは思い出してしまうのだが、こちらはそれよりもずっと軽量級。良くも悪くもこぢんまりとまとまっているのだけれど、それが却って幸いしたか、横溝正史の小説技法がぎゅっと詰まった一級品のエンタメ小説に仕上がっているのだ。かれのストーリーテラーぶり、ページターナーぶりは大人向けのミステリよりもこちら、ジュブナイル小説の方でより堪能できるというてよいだろう。
 本書は他に「片耳の男」と「動かぬ時計」という短編2作を併収する。どちらも毎年の贈り物が物語の中心となる点で共通するが、むろん内容にまったくつながりはない。前者は犯罪物、後者はファンタジーである。いい添えれば両作いずれもシリーズ・キャラクターの登場しない、ノン・シリーズ短編。読み切り短編であるのも手伝って2作には一切の夾雑物なし、寄り道なし、幕が開いたらあとはもうただひたすら結末へ向けて突っ走ってゆくのみ。言葉を選べば、勢いに満ちた作品である。
 某新古書店でなにを思うことなく購入した1冊だけれど、斯様な小説をこの度読めたことがとてもうれしい。横溝正史にこうしたジュブナイル小説があるってことを、不勉強な身ゆえについこの間まで知らなかったもの……。
 ──未読どころか本さえ手にしていないけれど、横溝のジュブナイル小説には<怪獣男爵>なる悪漢が登場するシリーズがある、と仄聞する。『迷宮の扉』でこのジャンルの愉しさを知ってしまった以上、遅かれ早かれそちらへも食指を伸ばすことだろうね。と思うてオークション・サイトを覗いてみると、やれやれ、バラで殆どの作品が出品されているではないか……! 大人向け作品と並行して、ゆっくり愉しみながら読んでゆこう。◆

 ◌初出
 「迷宮の扉」:『高校進学』昭和33/1958年01~12月号
 「片耳の男」:『少女の友』昭和14/1939年09月号(初出時題名「七人の天女」)
 「動かぬ時計」:『少年画報』昭和02/1927年07月号
 初出誌については「TomePage」内「横溝正史小説リスト」並びに横溝正史研究サイト「横溝正史エンサイクロペディア:横溝正史ジュヴナイル作品 -リスト補遺暫定版-」を参考とさせていただいた。記して感謝申しあげます。
 殊後者はわたくし自身横溝作品を読み進めてゆくにあたり他サイトと併せて常に恩恵を被っているサイトである。□

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第2595日目 〈横溝正史「霧の山荘」を読みました。或いは、「Pホテル」とは本当に「軽井沢プリンスホテル」のことなのか?〉 [日々の思い・独り言]

 小説家は自分のよく知る土地を舞台にする。横溝正史とて例外ではない。むしろ横溝はよく知った土地を事件発生の舞台に、積極的に採用し続けた作家として最右翼に連なる人物ではないか。岡山県然り、世田谷周辺然り。そうして此度は信州を……。
 中編「霧の山荘」の舞台は戦後別荘を構えた軽井沢である。横溝正史と信州地方のつながりは古く、昭和8年の大喀血により転地療養を余儀なくされた頃に遡れる。富士見高原や上諏訪などを転々としていたことが、かれとこの地方の馴れ初めとなり、創作の上では短編「鬼火」や長編『犬神家の一族』といった憎悪劇に結実し、実生活に於いては戦後、軽井沢へ別荘を構えるに至ったが、「霧の山荘」はまさしくその軽井沢、就中別荘のある中山道(や北陸新幹線、しなの鉄道線)を跨いで広がる南原という地を舞台に据えた。
 もっと絞りこめば本作の舞台となる別荘地は中山道の南側一帯で、晴山ゴルフ場や軽井沢ゴルフ倶楽部を擁す地域。作中の記述に従えば、6万坪の敷地に40軒ばかしの別荘が建つのみの、「K高原でもちょっと別天地になって」(P222)いる場所だ。ちなみにこの界隈、現在では企業や大学の寮や保養所といった施設が集まるが、なお周囲に古くから所有されている別荘も散見される。
 さて、わたくしことみくらさんさんかはワクワクしながらこの中編を読んでいる最中、ふと疑問に思うたのだ。金田一耕助が事件の依頼を受ける前から滞在するホテルについて、である。
 金田一が泊まる「Pホテル」は軽井沢プリンスホテルであろう、というのが横溝ファン、金田一ファンの間では通説らしい。それに疑いを持つ向きはないようだ。
 プリンスホテルとは西武資本のホテル・チェーンだが、「霧の山荘」が『講談倶楽部』に発表された昭和33/1958年当時、西武資本のホテルがその名称に「プリンスホテル」と冠していたのは高輪と赤坂のみであった。
 軽井沢プリンスホテルの前身は昭和25/1950年開業の晴山ホテルといい、軽井沢プリンスホテルが開業するのは昭和48/1973年。両者が経営統合を果たすのは更に下って昭和52/1977年のことだ。その際晴山ホテルは軽井沢プリンスホテル晴山館へ改称された(現在は「軽井沢プリンスホテル ウェスト」として営業中)。
 従って本作の発表当時は「軽井沢プリンスホテル」なる名称のホテル、この地に存在しないはずなのだが、──
 されど「Pホテル」は執筆当初からの称であった。初出誌を披見する機会こそなかったものの、改稿前の原型作品を集めた『金田一耕助の新冒険』(光文社文庫)には「霧の別荘」という、「霧の山荘」のオリジナル・ヴァージョンが入っている。『講談倶楽部』昭和33年11月号初出のそれには既に金田一の滞在先として、「Pホテル」の名称がたしかに明記されており。
 となると、「Pホテル」とはやはり現在の軽井沢プリンスホテルを指すのか、それとも他に斯く記されるホテルが軽井沢には他に存在したのか。わたくしにはその点こそが本作に於ける最大級の<ミステリ>である。よって不肖わたくしも探偵に身をやつして調査し、近日中にその結果報告を別途一稿を草して読者諸兄にご報告する予定だ。それがたとい無残な結果になろうとも、……。
 ……ああ、「霧の山荘」でしたね。忘れていました(おい)。では以下、簡単に(おい!)。

 深い霧の底にへばりついたような別荘地の一角で、金田一耕助は途方に暮れていた。30年前の未解決事件について相談したいから、と招待されたサイレント時代のスター女優、紅葉照子の山荘に赴こうとしていた途中の迷子である。やがて到着した依頼人の別荘でかれは、案内役のアロハ・シャツと共に紅葉照子の刺殺体を発見する。すわ、とばかりに別荘の管理人の許へ走って戻った金田一は目を疑った。別荘のなかにあった依頼人の死体も怪我で動けなくなっていたアロハ・シャツの男の姿もそこにはなく、殺害現場となった別荘は小綺麗にされているばかりか依頼人の妹と名乗る老婦人が住んでおり。そうして翌日、別々の場所で紅葉照子とアロハ・シャツの男の死体が発見される。
 ……金田一耕助は考える、どうして紅葉照子の死体は別荘内から屋外へと移動されただけでなく着物を脱がされていたのか、紅葉照子の本当の殺害現場はどこなのか、どうしてアロハ・シャツの男まで殺されなくてはならなかったのか、30年前に紅葉照子の身辺であったという未解決事件とはなんなのか、そうして勿論、真犯人は誰か、殺害の動機と手段は、単独犯なのか共謀者があるのか……金田一耕助は例によって例の如く、スズメの巣のようなもじゃもじゃ頭を引っ掻き回しながら、等々力警部や地元警察と共に事件の真相にゆっくりと迫ってゆく。徐々に判明してゆく事件の顛末や如何に──。
 ネタバレという程のことではあるまいから書いてしまうと、金田一が目撃した紅葉照子の死体があった別荘と彼女の実妹が住んでいた別荘は別々の建物である。そのあたりは正直なところ、読んでいれば薄々察しのつく話だ。事実が判明しても、ああやっぱりね、と頷くのが関の山。むしろ問題となるのは、どうして他人の別荘で紅葉照子は殺されていなくてはならなかったのか、という点だ。
 じつはこれこそが犯人の動機や殺害方法につながる<謎>であり、同時に金田一を巻きこむきっかけとなった30年前の未解決事件の真実を探る<突破口>でもあるのだ。TBS系列で放送された本作の長編ドラマ(いわゆる2時間ドラマですな)ではこの未解決事件をクローズアップしているが、原作ではほんの添え物程度でしかないことに「霧の山荘」を読み終えた方は或る種の拍子抜けを覚えるかもしれない。
 要するにこの事件、紅葉照子の芝居っ気と茶目っ気、加えて悪戯心が引き金となって起こったのだが、子供のような彼女の虚栄心へ巧みに働きかけた犯人の才智が警察は勿論、金田一耕助の推理も狂わせてしまったのだ。
 されど悪事はかならず露見する。捜査の過程で金田一は小さな綻びを幾つか見出す。そうして或る推論の下に罠を仕掛ける。というよりも、敢えて置きっ放しにして置いた<餌>に犯人が喰らいつくのを待つ。
 当然犯人はその<餌>に引っ掛かり、見事御用となるのだが、思わずぞくりとする場面がそのあとに待っている。自白のあと共謀者のヘマを詰って詰ってまるで反省の色もなく、あたかも自分が法に触れる事件を引き起こしたとはつゆ思うていない素振りだ。21世紀の今日でもお馴染みな場面だろうが、なんだかやるせない思いに暗くなることである。と同時に本作に於いていちばん気に入っている場面であることも、備忘のように書き留めておこう。
 もし可能であるならば本作を読み終えた方は、前述した短編集に収録される原型短編や古谷一行主演の同題ドラマを鑑賞されては如何でしょう。有意義かは別にして、なにか思うところある時間は過ごせると思います。◆

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第2594日目 〈横溝正史「女怪」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 いやぁ、このタイミングで読むべきではなかったかもしれない、と猛烈な反省を自らに強いたのが、一昨日昨日と読んでいた横溝正史「女怪」であります。
 例によって金田一耕助シリーズの一編ですが、こいつが他と較べてちょっと異色なのはこの名探偵が想いを寄せた女性が渦中の人となる、その点に於いてであります。金田一が懸想した女性はシリーズ全作を通じて僅かに2人、1人は『獄門島』の鬼頭早苗、もう1人が本作の持田虹子であります。
 どちらについても(当然)想いが報われることはありませんでしたが、それでも敢えて類推を試みれば金田一の心により深く、かつ癒やし難い思い出を残したのは、この持田虹子の方であったでしょう。
 虹子からの依頼によって彼女の身の回りに起こっている事件を捜査する金田一。その過程でかれは、これまで知ることなしに過ごしてきた現実──即ち虹子の来し方と否応なく向き合い、そこへ塗りこめられた彼女の「かなしみ」と「るさんちまん」に気附かされ、閉ざされた闇のなかから浮かびあがった真相を他ならぬ虹子本人へ報告せねばならぬ立場に置かれる。
 おそらく金田一としても、できるならば伝えずにおきたい、かりに伝えるとしても虚偽の報告を提出したい、と願うたことでしょうが、しかし金田一耕助の職業は「探偵」、白日の下に明らかとなった事実を報告する義務が課されているのでした。断腸の思いで真相を報告した金田一は折り返し届いた虹子からの手紙によって、すべてに終止符が打たれたのを知るわけですが、その際かれを襲ったであろう喪失感と後悔の思いは如何ばかりであったろう! 泉鏡花の「夜行巡査」の如く、私情に従うことままならぬ立場の者は職務と割り切る他ないとすれば、余りに惨めであります……。
 さて。冒頭にて「このタイミングで……」と呻いたのは、恋する相手の将来/幸せを願うと一歩引いて見守ることを選んでしまう金田一耕助に、事件が解決したあと人前から姿を消して放浪の旅に流離う金田一耕助に、嗚呼と嘆息してわが身になぞらえてしまうたがゆえのことでした。まぁ一言でまとめれば、生傷に塩を塗られたのみならず刃物で容赦なく抉られたような気分なのであります。ぶるぶる。
 読後にちょっと調べて知ったのですが、──いまはどうだかわからないけれど──以前はこの「女怪」という短編、どうにも評価の芳しくない作品だったようであります。というのも金田一耕助があろう事か恋をして、挙げ句に傷心旅行に出てしまう点を、どうにもお気に召さぬ愛読者たちが存在していたらしい。
 金田一耕助を女性の手から守る会、なんて組織があったとも仄聞しますので「女怪」の評価がよろしくないことも納得ですが、なんだかこうした点に、金田一耕助がシーンの最前線で活躍する現役の名探偵であった時代、どれだけの人々がかれの探偵譚に熱を上げ、それを求め、また人気を博していた、その一端を知るようでわたくしは興味深くかつ面白く思うのです。『ストランド』誌で連載されていた時分のシャーロック・ホームズ譚とそうした点ではじゅうぶん比較対象の研究材料になると思うのですが、もうこのような研究はされているのでしょうか。
 とまれ、『獄門島』と「女怪」というシリーズ初期の2作に於いて金田一耕助からは以後<恋愛>の要素は省かれましたが、その他の点で人間味をどんどん増してゆきながら、舞いこんだ数々の事件にかかわってゆき、名探偵として江湖にあまねく知られる存在となってゆくのでした。結果的に生涯独身を貫いた様子の名探偵・金田一耕助ですが、シリーズ終盤にあたる、たとえば『悪霊島』や最後の事件『病院坂の首縊りの家』の時期にもう1人ぐらい、かれに烈しい恋心を抱かせるような女性があっても良かったのではないかな、或いは鬼頭早苗とひょんなことから再会するなんてエピソードがあっても良かったのではないかな、なんて勝手な物思いから妄想が膨らみもするのですが……二次創作の領域に踏みこむことになるこの話題、袋小路に迷いこむ前に切りあげるとしましょう。
 金田一耕助の思いがけぬ姿が露わとなった「女怪」、短編のなかでは「百日紅の下にて」と同じぐらい重要な位置を占める作品ではないでしょうか。◆

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第2593日目 〈横溝正史「悪魔の降誕祭」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 どうしても出勤前に済まさねばならぬ用事のために1時間半近く家を出て途中下車、どうにかそれを片附けて再び通勤電車の乗客となった或る平日のこと。結果として40分以上も早く会社最寄り駅へ到着したのをこれ幸いとばかりに、近隣のオフィスビルに入るスターバックスに駆けこんでコーヒー飲みつつ、鞄から取り出して開いたのは読みさしの横溝正史である。短編集『悪魔の降誕祭』(角川文庫)。同題短編がちょうどクライマックスに差し掛かるところで電車から降りたので、続きが気になって気になって仕方なかったのだ。
 「悪魔の降誕祭」はもしかすると中編というた方がいいのかもしれない。が、海外の現代小説の分量に馴染んでしまった身にこの作品を中編といわれても違和感があるばかりなので、多々異見はあると承知しがらも短編とわたくしは称して譲るつもりはない。
 おっと、話が脱線したようだ。軌道に戻そう。
 読みさした箇所はまさしく真犯人が金田一耕助の策に嵌まって服毒自殺を果たした箇所であった……即ちこの名探偵による全貌と真相のお披露目はまだされていないという、そんな場面。宙ぶらりんな、もやもやした気分を抱きながら続きを読みたいがためだけに立ち寄ったスタバにて、改めて真犯人が金田一の策に陥れられたあたりから読み始め、そのまま最後の一行最後の一文字まで一気呵成に、一心不乱に読み進んだ。
 歪な情念が生んだ世にも醜悪な連続殺人の物語に翻弄されながら、興奮のまま巻を閉じたわたくしの耳に谺するのは、真犯人が口走った断末魔の捨て台詞。お前如きに捕まるものか! 怖気だつその台詞はしかしながら、極めて計算高く残忍狡猾な真犯人には打ってつけの、これ以上相応しいものはない去り際の一言といえよう。お前なんかに捕まってたまるか!
 金田一耕助シリーズに毒を呷って自殺する真犯人は幾人も登場する(クリスティ作品同様、横溝作品に於いても服毒自殺或いは毒薬を用いた殺人は相当数を占めるらしい)。『犬神家の一族』、『悪魔の手鞠唄』がすぐ思い浮かぶ例だけれど、いずれにしても真犯人が自らの進退の幕引きをするとき、毒を呷りはしても取り乱したり醜態を曝したりするのが専らであった。皆一様に、静かに、厳かに、或る種の誇りさえ抱きつつ退場していったのだ。
 翻って本作の場合は如何か。「悪魔の降誕祭」の真犯人はその系譜に列なることを作者自ら禁じたかのような、救いようのない悪党ぶりを最後に発揮して死んでいった。およそ小説を読んでいて犯罪者の自殺に快哉を叫んだりはこれまで一度もなかったわたくしだが、殊本作に於いては記憶する限り唯一の例外となったことを事の序にご報告しておこう。内なる醜悪に顔を歪めた邪念の権化──「悪魔の降誕祭」の真犯人を一言でいい表すなら、およそそんな感じか。
 そうして事件は幕を降ろし、あとは金田一耕助による真相のお披露目を残すのみとなるが、かの捨て台詞によってのみこの作品は記憶されるのでない。むしろ警察を前にした金田一が真相説明する場面の言葉の端々に塗りこめられた、真犯人への情け容赦なき批判の口吻にこそわたくしはこの一編の真骨頂を見出す。金田一にとってこの「悪魔の降誕祭」事件がどれだけ忌まわしく汚らわしく同情の余地を残さぬ事件であったか、容易に想像できようというものだ。
 真犯人があの場で毒を呷って自殺するってことをあンた本当に考えなかったのかね、と呆れ顔に問う警察に金田一がなにも答えず、おそらくにこにこしながら、或いは昏い眼を彷徨わせながら、ただ沈黙を守っている点は、誠に心胆寒からしむる。或る意味でこの件りこそが本作にていちばん背筋を寒くさせられるところだ。多言は費やさぬ。どうか読者諸兄よ、これを契機に本屋へ走り、「悪魔の降誕祭」をじっくり読み耽って同じように驚嘆かつ厳かな戦慄を味わっていただけぬだろうか……。
 未来のことを確約することはできないが、たとえば1年後にでもマイ・ベスト横溝作品を選ぶようなことがあったなら、きっと「悪魔の降誕祭」はその候補に名乗りをあげ、リストの一角を占めるに相違ない。すくなくとも本稿の第二稿を書いている現時点では好きな短編ベスト5に入っているのである。まぁしばらくはここから追い出されることはないでしょうな。◆

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