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第0900日目 〈箴言第27章:〈明日のことを誇るな。〉with映画『ばらの騎士』を観たあとの独白。〉 [箴言]

 箴言第27章です。

 箴27:1-27〈明日のことを誇るな。〉
 明日を頼りとせず、まずは今日一日を生きよ。明日という日になにが起こるか、今日という日になにが起こるか、知る人は誰もいないのだから。震災!
 自画自賛をするな、それは空虚だ。誉める言葉は他人の唇から聞くのがよい。一方で、人は賞讃によってその価値が計られる、とも知れ。
 いさかい好きな妻を制した夫は、香油を以て右の手の力と呼ぶ。香油は心を楽しませる、香油は女心をなだめて従わせる。ゆえに夫は香油を以て右の手の力と呼ぶのだ。
 友人の優しさは自分の考えに優り、人は友人によって磨かれる。自分の友人、父の友人を捨ててはならない。が、隣人は遠くの友に優る;遠くの親戚よりも近くの他人、という場合もある。
 覚えておくがよい、心は人を映す鏡である、と。

 「あなたの羊の様子をよく知っておけ。/群れに心を向けよ。/財産はとこしえに永らえるものではなく/冠も代々に伝わるものではない。/草は刈り取られ、また青草が現れ/山々の牧草は集められる。/羊はあなたの着物となり/雄山羊は畑の代価となる。/雄山羊の乳はあなたのパン、一家のパンとなり/あなたに仕える少女らを養う。」(箴27:23-27)

 ○聖書には一読してよく理解できる部分と、そうでない部分とがあります。後者は預言書や黙示文学に分類される諸書が過半を占めるでしょう。「箴言」もどちらかといえば後者に振りわけられそうな書物と感じます。時により空しさ、無為が読書という行為に宿るのですね。おそらく『論語』や『パンセ』についても、読み進めてゆくならば遅かれ早かれ同じような無為に襲われるときがあるのでは、と思います。こうした格言集に特有な全体の散漫さ、その寄せ集め的な性格が災いするのでしょうか。が、それだけに却って読み解(ほぐ)してゆく楽しみがある。
 読み解す楽しみ━━たとえば、「愛する人の与える傷は忠実さのしるし/憎む人は数多くの接吻を与える」(箴27:6)とはどういうことなのか?
 妙に心に引っ掛かる文言です。しかし、ここに立ち止まったままでは答えのヒントは出ません。こういうとき、われらは過去に読んだ章へ戻るべきなのです。そうすれば、まず後半は箴1:11-14(※)を背景にした警句であることがわかり、同様に前半も、神なる主と神に従う人の関係を説くそれぞれの章句を探せば、自ずと意味がわかるようになります。
 聖書に限らず本を読むとき、一冊のなかで前後に戻りながら関係性を見つけてゆき、それらを綜合して言わんとすることを導き出す行為も必要になります。そうした作業を経てこそ、その本が自分にとって大切な一冊へ深化するのではないでしょうか。聖書の場合はそうした前後のレファレンスが頻繁に行われることが多い、ということです。今回偶然にも、箴27にてそれを確認することができました。
 読書って愉しいですよね。

※「彼らはこう言うだろう。『一緒に来い。/待ち伏せして、血を流してやろう。/罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち/陰府のように、生きながらひと呑みにし/丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。/金目の物は何ひとつ見落とさず/奪った物で家をいっぱいにしよう。/我々と運命を共にせよ。/財布もひとつにしようではないか。』」



 オペラ映画『ばらの騎士』を観てきました。うっとり……。熱い溜め息が洩れる……。嗚呼、この最愛のオペラをこれまでわたくしは何度聴き、何度観たことであろう?
 今回の映画はティーレマンがバーデン・バーデン祝祭劇場で指揮した際のライヴ映画なのだけれど、あまりにそれがすばらしい舞台であったせいでか、却って気持ちがゆるみきってしまった。
 否、法悦に呑みこまれてその呪縛から解放されなかった、というた方が正確だ。事実、帰りに感想でも認めようか、と思って筆を執っても文章の体を成さず、結局メモ程度にしかならなかった。
 でも、映像も音楽も鮮明に記憶に残っている。雰囲気もまだ体のなかに染みついている。<酔う>とはこういう感覚かもしれない。この酔いが覚めきらぬ内に第一稿を仕上げてしまおう。
 ついでに、今回の『ばらの騎士』ではこれまでにない思いを弄びつつ鑑賞した、ということも付け加えておこう。
 ……Ich muss jetzt was reden,und mir verschlagt's die Red'.(わたしは物をいわなくてはならないのに、そのための言葉が出てこない)~《ばらの騎士》第3幕より。◆

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