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第2012日目 〈ヨハネによる福音書第6章:〈イエスは命のパン〉、〈永遠の命の言葉〉他〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第6章です。

 ヨハ6:1-15〈五千人に食べ物を与える〉
 イエスは自分に敵意と殺意を抱くユダヤ人たちに述べたあと、ティベリアス湖の別称を持つガリラヤ湖の対岸へ舟で渡り、そこの山へ登った。群衆もそれに付いていった。折しも過越祭を迎えようという時期だった。
 弟子の1人フィリポにイエスは訊いた。自分に付いて来た人々に食べさせるパンを、いったいどこで買えばいいだろう。これはフィリポを試みるための質問だった。このときのフィリポの答えは、たとい200デナリオンあったとしてもかれら全員にパンを与えることはできないでしょう、というものだった。
 また、12使徒の1人、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、ここに5個の大麦のパンと2匹の魚がありますが、これもかれらの腹を満たすには足りないでしょうね、といった。
 イエスは弟子たちに命じて人々を坐らせるとパンを取り、感謝の祈りを唱えてからパンを割いて人々に分け与えた。魚についても同じようにした。
 人々が満腹になったあと、イエスは残ったパン屑を集めるよう命じた。そうして与えられたパン屑は、実に籠12杯分にもなったのである。
 群衆はイエスの行った徴を見て、かれこそこの世に来た預言者だ、と信じ、かれをイスラエルの王に祀りあげようと考えた。が、イエスはそれを察して、人々の許から去って再び山へこもったのだった。

 ヨハ6:16-21〈湖の上を歩く〉
 その日の夕方、弟子たちはカファルナウムへ戻ろうとガリラヤ湖に舟を出した。やがて湖上に強風が吹き始め、嵐となった。逆巻く風、荒ぶる波に舟は立ち往生した。
 岸を離れて5キロ前後進んだあたりで、弟子たちは湖の上をこちらに向かって歩いてくるイエスを見た。かれらは恐怖して震えた。とてもではないが人間にできる業とは思えなかったからだ。
 かれらに近附いてイエスはいった。わたしだ、恐れたりするな。
 イエスが舟に乗りこむと、風はやみ、波は静かになった。舟は無事、カファルナウムに到着した。

 ヨハ6:22-59〈イエスは命のパン〉
 翌る日、人々はイエスがいないのに気附き、捜し求めてカファルナウムへ戻った。その地で見附けたイエスにかれらは、ラビよ、いつここへ戻ったのですか、と訊ねた(「ラビ」とは「先生」の意味である)。
 かれらにイエスはいった。あなた方がわたしを捜し求めたのは、徴を見たからではない。分け与えたパンを食べて満腹になったからに過ぎない。あなた方はあわよくば再びそれにあやかろうとしている。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハ6:27)
 また、イエスはこうもいった。荒れ野を彷徨うイスラエルにわが父が天からマナを降らせて与えた。これはモーセが与えたのでは、けっしてない。神のパンは天から降り、世に命を与える。あなた方は知りなさい、「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハ6:35)
 父がわたしに与える者は皆、わたしのところへ来る。その人たちをわたしはけっして追い出さない。わが父の御心を行うためにわたしは来た。わが父の御心とは、わたしに与えた者を1人も失うことなく終わりの日に復活させることだ。わが父の御心とは、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」(ヨハ6:40)である。
 ──わたしは天から降(くだ)ってきた、わたしは命のパンである、というイエスの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは訝った。この人はナザレの出身で、大工のヨセフの子だ。母はマリアだ。われらはこの人のことも、この人の両親のことも知っている。なのにどうして、自分は天から降ってきた者だ、などというのだろう。かれらは斯く訝しみ、呟き、囁き交わした。
 それを聞いたイエスはユダヤ人たちを制した。わが父が引き寄せてくれなければ、誰もわたしのところへ来ることはできない。わたしはその人を、終わりの日に復活させる。「預言者の書に『彼らは皆神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(ヨハ6:45-46)
 わたしイエスは命のパンである。わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べる人は永遠に生きる。わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉のことである。
 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハ6:53-58)
 (これはイエスがカファルナウムの会堂で常より教えていたのと同じであった)

 ヨハ6:60-71〈永遠の命の言葉〉
 ──が、弟子たちの多くはイエスの言葉を聞いて憤慨した。実に非道い話だ、こんな話を聞いていられるものか、というて。
 あなた方はこの程度のことでつまずくのか。イエスはいった。命を与えるのは“霊”であり、肉はなんの役にも立たない。あなた方のなかにはこのことを信じない者がいる。
 イエスは自分を裏切る者を知っていたので、こういったのである。
 かれは続けてこういった、──わが父が引き寄せてくれなければ、わが父の許しがなければ、何人もわたしのところへ来ることができない、といったのはこういう理由からである、と。
 ──これを聞いて殆どすべての弟子がイエスから離れ、去り、二度とかれのところへ戻らなかった。
 イエスは残った12人にいった。あなた方も去るのか。
 シモン・ペトロが、誰のところへ行きましょうか、主よ、あなたは永遠の言葉を持つ方、われらはあなたこそ神の聖者と信じます、と答えた。
 イエスはそれを承けて、こういった。あなた方12人を選んだのはわたしである。が、そのうちの1人は悪魔だ。
 イスカリオテのユダがやがて自分を裏切ることになるのをイエスは既に知っていた。

 ユダについていうと、これは最初の裏切りの予告というてよい。ユダがこれを実行に移すのはもう少し先の話にあるが(ヨハ6:13:27,30)だが、果たしてこのときユダの心に裏切りの計画はあったかどうか。裏切りの動機はあっただろうか。ユダが師を敵に売り渡す動機とされるベタニアの香油の一件もしばらく先の話である(ヨハ12:1-8)。
 ユダ本人はまだ与り知らぬところであっても、かれの裏切りは既に決定されていたのかもしれない。イエスにはその確定した未来が見えていたのか。すくなくともいまいえるのは、本章の当該節がイエス逮捕-裁判-磔刑-復活というクライマックスの事実上の幕開けとなっていることであろう。
 本音を告白すれば、〈イエスは命のパン〉と〈永遠の命の言葉〉は本章の中心を成すものであり、「ヨハネによる福音書」で語られるイエスの教えのなかでも殊に重要な位置を占めるものと思うがためにこそ、わたくしはここにわずかな自分の言葉を付けることに難しいものを感じている。短いなかで同じ内容が表現を変えて繰り返され、また一部については「どうしてここで、わざわざ話をぶった切ってまでこの一文を挿入するのかなぁ」と小首を傾げてしまう点がある。そうしてこの2つの挿話自体、ちょっぴりわかりにくかったりもする。が、相も変わらず何遍も読み返していると、だんだん意味がわかってくるのも事実。従って要約すればここは、「父の引き寄せによってわたしのところへ来た者は終わりの日に復活し、永遠の命を得る」ということが語られているわけである。これを灯台の光として読めば本章にてつまずくことはないであろう(自惚れですか? すみません)。

 本日の旧約聖書はヨハ6:31aと出16:4及び15,ヨハ6:31bと詩78:24並びに知16:20,ヨハ6:45とイザ54:13a。◆