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第2017日目 〈ヨハネによる福音書第10章:〈「羊の囲い」のたとえ〉、〈イエスは良い羊飼い〉&〈ユダヤ人、イエスを拒絶する〉with岩下壮一『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫)他を買いました。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第10章です。

 ヨハ10:1-6〈「羊の囲い」のたとえ〉
 イエスはファリサイ派の人々にいった──、
 羊の囲いへの門を通らずして入る者は盗人だ。羊の囲いへの門を通って入る人は羊飼いである。門番はかれのために門を開け、羊は羊飼いの声を聞き分ける。
 羊飼いは羊の群れの先頭に立って歩き、その声を知る羊たちはあとに従って歩く。が、羊飼い以外の者に羊はついて行かない。その者の声を羊たちは知らないからである。
 ──ファリサイ派の人々はイエスがなにについて話しているか、わからなかった。

 ヨハ10:7-21〈イエスは良い羊飼い〉
 続けてイエスはいった、──
 わたしは羊の門である。わたしよりも前に来た者は皆泥棒であり、罪人だ。為に羊はかれらの言葉へ耳を傾けなかった。
 わたしは羊飼いである。わたしの声を聞き分け、ついて来ようとする羊たちを、先頭に立って導く。わたしを通って入る人は救われる。その人は門を通って牧草を見附ける。わたしは羊が豊かな命を得るために来た。
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ10:11)
 わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは囲いに入っていない羊をも導かなくてはならない。その羊はわたしの声を聞き分ける。斯様にして羊は1人の羊飼いに導かれ、1つの大きな群れとなる。
 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハ10:17-18)
 ──ユダヤ人たちはこれを聞いて、再びイエスについて議論を交わし、その意見は二分された。即ち、かれを悪霊に取り憑かれた者として忌む側と、それを否定してイエスに与する側とに。

 ユダ10:22-42〈ユダヤ人、イエスを拒絶する〉
 冬、於エルサレム、神殿奉献記念祭の時。
 神殿の境内のソロモンの回廊を歩くイエスをユダヤ人の集団が取り巻いた。お前が本当にメシアなら、はっきりとこの場でそういえ、と。
 イエスは答えた。わたしの言葉をあなた方は信じない。わたしが父の名で行う業をあなた方は信じない。その業がわたしを証ししているというのに……。というのも、あなた方はわたしが導く羊ではないからだ。わたしの羊はわたしの声を聞き分け、わたしを知っているがゆえにわたしへ従う。
 「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハ10:28)
 「わたしと父は一つである。」(ヨハ10:30)
 ユダヤ人たちはイエスを殺そうと腰をかがめて石を取った。
 それを見てイエスはいった。わたしがこれまで父の名で行った業のうち、その業のことでわたしを殺そうというのか。
 ユダヤ人たちは、どの業のことでもない、お前が神を冒瀆したから殺すのだ、といった。
 それについてイエスはいった、──
 あなた方の律法では神の言葉を受けた人が「神」と呼ばれる。そうして聖書が廃れることはない。ならばどうして父から聖なる者として遣わされたわたしが、神のこと自称したからとてあなた方に殺されなくてはならないのか。
 「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(ヨハ10:37-38)
 ユダヤ人たちはまずイエスを捕らえようとしたが、イエスは飄然と去ってかれらの前から消えた。
 ──イエスは再びヨルダン川の東岸、洗礼者ヨハネが初めに洗礼活動を行った場所へ赴き、人々に洗礼を授けた。多くの人が来て、かれから洗礼を受け、洗礼者ヨハネがイエスについて語った言葉を本当と思い、イエスを信じるようになったのである。

 聖書に於ける羊飼い(牧者)の系譜は創世記にさかのぼる。アダムとエバの次男アベルが羊飼いとなったのが最初である(創4:3)──かれの奉献物たる羊にのみ神が目を留めたことで兄カインが嫉妬し、ここに人類史上初の殺人が行われた──。その後も羊飼い、牧者は多く聖書に登場するが、やはりいちばん目立つのはダビデ王であろう。他にもアブラハムや預言者アモスらが羊飼いとして聖書に記録されている。
 イスラエル/ユダヤ人と牧羊は密接な関わりを持ち、また羊は迷いやすい動物であるため常に牧者を必要とした。ここに、聖書に於ける羊と羊飼いの喩えの根拠が見出せよう。『新エッセンシャル聖書辞典』に拠れば、「旧新約聖書に、羊を信者や国民にたとえた箇所は非常に多くあるが、最も代表的な箇所は、旧約では詩23篇、新約ではヨハ10章だろう」(P813)とある。
 が、──
 ヨハ10:11にて、わたしは良い羊飼いだ、とイエスはいう。これは「エゼキエル書」第34章第11-16節に基づく台詞である。これはとても印象深いところであるから、下に当該箇所を全文引用する。曰く、──
 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼ34:11-16)
 また、「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」(エゼ34:23)ともいう。ここでいう<わが僕ダビデ>が統一王国イスラエルの第2代王ではなく、やがて現れるダビデ的人物即ちイエスを指しているのは申しあげるまでもないであろう。
 神殿奉献記念祭とは、セレコウス朝シリアの暴虐王アンティオコス・エピファネス4世によって神殿が汚された神殿を、「アンティオコス4世が不遜にも聖所に入り込み、汚したその日からちょうど3年後、即ち前164年(第148年)の第9の月(キスレウの月)の25日」にユダ・マカバイが清めて奉献したことを祝う祭りである。マカ1:4:36-59にこのときの模様が記されている。本ブログでも第1616日目2/2としてお披露目済み。
 ヨハ10:16でイエスは囲いに入ってない羊をも自分は導かなくてならない、という。これはまだイエスを信じていないユダヤ人や或いは異邦人を指す。かれらは自分の声を聞き分けることであろう、そうしてわたしを通って良い牧草を見附けることだろう、とかれはいう。
 教えが着実にシリア・パレスティナを越えて伝播することを確信しているこの言葉に胸を打たれる。が、そのためには自分が死ななければならないこともこのとき既に予告しているのだから(ヨハ10:17-18)、それは自分の命と交換にして訪れる決定された未来であることがわかるだろう。ふと、生前の誹り・死後の誉れという言葉を思い出すことである。──咨!

 本日の旧約聖書はヨハ10:11とエゼ34:11-16及び23、ヨハ10:34と詩82:6。



 『ダ・ヴィンチ』誌の新刊文庫の発売表は毎月チェックしているのですが、それでもどうしたって見落としをいうのは発生するようであります。この際、ど忘れという現象は考えないこととします。
 昨日(一昨日ですか)新刊書店を歩いていたら、ちくま学芸文庫の新刊として岩下壮一『カトリックの信仰』が並んでいるではありませんか!? アメージングかつエクセレントな出来事の到来です。古書店やオークションにて高値の付く講談社学術文庫版を指をくわえて眺める日々はもう終わりだ。ちくま学芸文庫版も消費税別で2100円と溜め息を洩らしたくなる価格ですが、こちらはお給料日直後で可処分余剰金の算出は既に終わっている。というわけで、岩波文庫から出ている同じ岩下神父の『信仰の遺産』(岩波文庫)と『文語訳 旧約聖書・律法』を一緒にレジへ運び、この原稿を書く合間を縫って拾い読みしていたところであります。
 わたくしが岩下壮一を知ったきっかけ、読書の感想については日を改めて報告させていただきましょう。明日は早い、もう寝なきゃ。◆