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第2022日目 〈ヨハネによる福音書第14章:〈イエスは父に至る道〉&〈聖霊を与える約束〉withあと何ヶ月ぐらいで読み終わるんだろう?〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第14章です。

 ヨハ14:1-14〈イエスは父に至る道〉
 イエスはいった、──
 心を騒がすのはやめて、ひたぶるに神を信じ、わたしを信じなさい。父の家には住まう場所がたくさんある。もしなければわたしが先に行って、その場所を用意して、戻ってきてあなた方を迎えよう。わたしがいるところにあなた方もいるとは、こういうことである。
 あなた方はわたしの行く所、そこへの道も知っている。トマスよ、お前はそれを知らないというのか。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らねば何人も父の許へは行けぬ。
 あなた方がわたしを知るなら即ち父をも知る。否、あなた方はもう父を見ている。フィリポよ、これだけ長く一緒にいたのに、お前は父の姿を見ていないのか。わたしを見る者は父の姿も見るのだ。
 わたしの言葉は父の業から生まれる。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハ14:11)
 わたしを信じる者はわたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うことになる。わたしが父の許へ行くからだ。わたしの名によってなにかを願うなら、わたしがそれをかなえてあげよう。

 ヨハ14:15-31〈聖霊を与える約束〉
 あなた方はわたしを愛し、わたしの掟を守る。わたしは父に願おう。すると父はあなた方の許へ別の弁護者を使わし、永遠にあなた方と一緒にいられるようにしてくれる。この弁護者とは即ち真理の霊である。世はこれを見ようとも知ろうともしないが、あなた方はこの霊を知っている。あなた方の内に在って、これからもあなた方の内に留まるからだ。
 わたしはあなた方を孤児にはしない。かならず戻ってくる。しばらくすると、世はわたしをもう見なくなるが、あなた方はわたしを見る。わたしが生きているのであなた方も生きる。かの日になれば、わたしが父の内に、あなた方がわたしの内に、わたしがあなた方の内にあることが、あなた方にもわかるようになる。
 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハ14:23)
 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハ14:26)
 わたしはあなた方に平和を残し、わたしの平和を与える。
 心を騒がせるな、怯えるな。わたしは去るがまた戻ってくる。わたしのこの言葉をあなた方は聞いた。わたしを愛するなら、わたしが父の許へ行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大だからである。
 わたしはこのことを、事が起こる前に語っておく。事が起こったときにあなた方が思い出し、わたしを信じるようにである。
 さあ、もうすぐ世の支配者が来る。が、かれはなにもできない。世はわたしの父への愛、わたしが父に命じられて行うことを知るべきである。──諸君、立て、出掛けよう。

 第14章は難しかった。「ヨハネによる福音書」自体が一筋縄ではゆかぬ書物だから、こうして手こずるところがあるのは当然なのだが、いや、それにしても読書中何度頭を抱え、心を曇らせ、嗟嘆し、どう逃げの一手を打とうか、と考えたことであったろう。
 いちばん引っ掛かったのは、第16節「(別の)弁護者」と第17節「真理の霊」だ。正直に申せば、わたくしがいつも持ち歩いているフランシスコ会訳の註釈もわかったような、わからないような、であり、架蔵する、質も量もお粗末な関連書を繙いてみても雲を摑むような説明で、筆を抛ちたくなる。こうした事態に直面するに至ってようやく、来月のお給料で岩波訳の新約聖書1巻を購おうかな、と真剣に考え始めるわたくし。
 ──本章は実に難物だ、という感想を今日は認めている。同時に第14章でのイエスの台詞は、単純、簡明な言葉ばかりでありながら技巧が凝らされた、レトリックの見本とでもいいたいような文章である。もっともギリシア語原文など外国語を点検したわけでないから、あくまで日本語訳のみを対象とした意見だが。
 従ってきちんと文章をたどってゆけば初歩的理解は可能だ。ただ単語の意味を検討し、思想として捉えようと足を踏みこむと、途端に呆然自失してしまうのだ。手も足も出ない、とはこうしたことをいうに相違ない。
 新共同訳の余白に書きこんだメモを最後に紹介させていただく(原文ママ)──ヨハ14:15-31は一寸わかるのに困難である。が、殊更難しく考えたり、学問的に考えたりしようとするとわたくしのような読者は痛い目に遭うことだろう。又、ここから先、一歩も読み進めなくなるだろう。一読者としてそのままに読み進めよ。



 ざっと計算してみると、未読の新約聖書の章数は170程であった。
 つまり、ほぼ半年、毎日読んで読了するだけの分量が、この先に控えているわけだ。ここにエッセイの期間が合計約3ヶ月強加わるから、余裕を持たせてあと10ヶ月ぐらいで新約聖書の、延いては聖書読書が完了する計算となる。
 10ヶ月……わたくしが怠惰に襲われることなく、日常にかまけてサボったりすることさえなければ、2016(平成28)年5月中にはかの日を迎えることとなる。
 んんん、遅くとも梅雨入り前には全巻読了、原稿擱筆と相成りたいものだなぁ、と希望しております。◆

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