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第2023日目 〈ヨハネによる福音書第15章&第16章1/2:〈イエスはまことのぶどうの木〉&〈迫害の予告〉with実話な怪談:迷惑している。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第15章と第16章1/2です。

 ヨハ15:1-17〈イエスはまことのぶどうの木〉
 わたしはまことのぶどうの木である。わが父は農夫である。わたしにつながっていながら実を付けぬ者は父が刈り取る。わたしにつながって実を結ぶ者は皆、更に豊かな実を父の手入れによって結ぶことになる。
 あなた方よ、わたしにつながり、良き実を結べ。「」(ヨハ15:5)
 あなた方よ、わたしの愛に留まりなさい。わたしが父に対してそうであったように、あなた方もわたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていられるのだから。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハ15:12-15)
 あなた方はわたしによって選ばれた人。今後あなた方が、出掛けた先で実を結んでその実が残るように、あなた方がわたしの名によって父へ願うことが与えられるように、わたしはあなた方を任命した。
 忘れないで。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 ヨハ15:18-16:4a〈迫害の予告〉
 世があなた方を憎むなら、まず世がわたしを憎んでいたことを思い出せ。わたしがあなた方を世から選び出し、結果、あなた方は世に属すことがなくなった。もしわたしに選ばれていなかったなら、あなた方は世に属し、結果、世に愛されていたことであろう。
 人々がわたしを迫害するなら、あなた方も人々から迫害される。もし人々がわたしの言葉を守ったなら、かれらはあなた方の言葉をも守ったに違いない。
 世は、人々は、あなた方をわたしゆえに迫害するようになる。世は、かれらは、わが父なる神を知らないからだ。わたしは人々に自分の罪を思い起こさせ、弁解の余地を与えなかった。わたしがかれらに話したからである。これまで誰も行ってみせなかった業をわたしはかれらへ見せたが、これによってかれらはわたしのみでなくわが父をまで憎むようになった。
 が、これらのことは、かれらの律法に書いてある言葉が実現されなくてはならないために行われるのである。
 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(ヨハ15:26-27)
 人々はあなた方を弾劾し、迫害し、会堂から追放するだろう。「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」(ヨハ16:2-3)
 そのときが来た時にあなた方が思い出すように、と、わたしはいまこのことを話している。

 イエスの昇天後、世に残された使徒たちは師の名ゆえに社会から迫害される。が、かれらはイエスへつながり続けたゆえに良い実を結び、更に良き実を結んだ。──使徒による初期キリスト教の布教とそれに伴うかれらの殉教をイエスは予告するのだ。
 「ヨハネによる福音書」が書かれた時代、イエスに直接従った使徒たちの活動は終わっていたか、或いは終盤にさしかかる頃だったろう。それは別のいい方をすれば、イエスと、生前のかれに従った11人の使徒たちの意思を汲み、会うたこともないイエス・キリストの教えを伝えてゆくことを選んだパウロやマルコ、ルカ、ステファノのような人々が登場して活動する時代の訪れでもあった。
 本福音書の著者はかれらの活動を直接間接に知っていたことであろう。いったい本章の筆を執る著者の胸には、どんな思いが去来していたことであろう。「使徒言行録」やパウロ書簡、公同書簡を読み終えてから、この第15章を読み返した時、わたくしはいったいなにを思うだろう。どんな感慨を胸のなかに覚えることだろう。その日は、いつ?
 それにしてもヨハ15:9「わたしの愛にとどまりなさい」とは、まこと心の奥底へまで響いてくる言葉であるなぁ。

 本日の旧約聖書はヨハ15:25と詩35:19並びに同69:5。



 わたくしも怪談実話<っぽい>ものを書いてみようと思うた。
 ──
 ガラス製の机にiMacを置いて、この原稿を書いている。当然足やら床やらが天板から透けて見える。最初にこの机を買ったときは、上にiMacを置くのですら戦々恐々とし、ちょっと厚めの辞書や地図を傍らへ載せて開くたび、耐荷重には程遠い重量にしかならぬのに割れたりしないかなぁ、そのうち或る日突然天板のガラスが粉々に砕けてiMacは破片ごと落下してわたくしの足を直撃、壊れてしまうんじゃないか、と疑心暗鬼になるった。が、馴れとは怖いものでいつの間にやら机の上にはそれなりに嵩のある資料が山積みとなり、山の下の方から資料を引っ張り出しては上に積み重ね、を繰り返している。そうね、天板の下が透けて見えた違和感やめまいを起こしそうな浮遊感も、いつの間にやら克服できていた。
 話は変わるが、「呪いのビデオ」シリーズに代表される心霊動画の番組が好きで昼夜を問わず楽しく観ている。が、登場する霊の登場パターンがあまりに類型化していることだけが気に喰わぬ。もしかすると異界には、生者のヴィデオ・カメラへ映りこむいちばん効果的かつ基本的な方法、なんていうマニュアルが存在し、それをテキストとして採用した講義でもあるのではないか、とさえ疑ってしまう程にパターン化されているのだ。たとえば、窓の外の足場もないような所から半身をせり出して室内を恨みがましい目つきで覗きこんでいたり、部屋の奥の方の家具の陰から顔1/4を見せたあと一旦消えて数秒後には画面左下から唐突に現れて焦点の定まらぬ目をこちらに向けてみせたり、屋外でカメラを偶然向けた先に立っていたり追いかけてきたり、とか、エトセトラエトセトラ。実に飽き飽きしている。
 そうした映像を観るたび、コイツら暇なんだな、とか、重度の構ってチャンに違いない、とか思うてしまう。そうして自分も<視える>ものだから夜分にお墓参りへ行くと(この時間帯になってしまう然るべき理由があるのだ)、そこに居着く、わたくしとは縁も所縁もない霊どもがわたくしの前にやって来たりする。生きている人間を驚かせたいのか、伝えたいこと/訴えたいことでもあるのか、霊の世界でもボッチなものだからせめてSNSの如く生者と「つながり」を持ちたいとでも考えたのか、それともまったく別に事情や理由があるのか、さっぱりわからぬ。せめてその辺はきちんといってくれなければ、こちらも対処のしようがない。どうであれ、断言できるのは、どうしてその類い稀なる、生者には真似できないようなレヴェルの自己PR、セルフ・プレゼンの能力を生きているうちに発揮しなかったのか、ということ。まったくもう、ぷんぷんしたくなるよ。
 iMacを置いたガラス机に向かって、溜め息交じり・鼻歌交じりにこの原稿を書いている。冒頭で述べた通りだ。机の下を這うケーブル類が見える。ジーンズを履いて裸足なわが2本の足も見える。傷付き防止マットを敷いたフローリングの床も見える。お近附きになった覚えのない女の亡霊の顔も、両足の親指の間に見える。首から下はない。口はムンクのようにアルファベット大文字の“O”の形に開き、目は白眼で瞳はない。もしかすると閉じた目蓋を白のポスターカラーで塗り潰しているのかもしれない。こいつはいまのように机の下からばかりでなく、時には視界の外から前触れなしに出現して、わたくしとiMacの間の空間に割りこんで執筆の邪魔をする。だからコイツらは重度の構ってチャン、或いは左巻きなどと揶揄されるのだ。
 わたくしは迷惑している。どんな事情が連衆にあるのか知らぬが、生きている人間、しかも無縁の人間の気に障るようなことはしないでいただきたい。そんな奴は嫌いだ。成仏することに失敗したなら、せめて成仏できるように徳を積み、生まれ変わったら真っ当に太陽の下を歩けるような人生を送ろう、と建設的な未来を想像していればよい(もしかすると生きている人間を不快にさせ、怖がらせ、驚かせ、かつカメラに映ることが成仏するための条件なのか!?)。それもできぬなら、ウナギやアナゴのように土管のなかで肩寄せ合って暮らしておれ。調理しても美味くはないだろうがな。
 今度出てきたら、おいお前、小便かけたるからな。◆

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