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第2348日目 〈ヨハネの黙示録第1章:〈序文と挨拶〉&〈天上におられるキリストの姿〉with米澤穂信『リカーシブル』の表面的第一印象〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第1章です。

 黙1:1-8〈序文と挨拶〉
 これはイエス・キリストによる黙示である。間もなく起こるであろうはずのことを僕に伝えるため、神がキリストに与え、キリストが天使を派遣して僕ヨハネ、即ちわたしへ伝えたものである。わたしはそれをすべて、ここに記録した。
 「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」(黙1:3)
 アジア州の7つの教会へ、イエス・キリストの愛と恵みと平和が与えられますように。
 われらへの愛ゆえ自身の血によってわれらを罪から解放してくれた方へ。われらを王とし、御父である神に仕える祭司としてくれた方へ。栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
 神である主、かつていて、いまもいて、これからもいる方、全能者がこういった、わたしはアルファでありオメガである、と。

 黙1:9-20〈天上におられるキリストの姿〉
 わたしはヨハネ。イエス・キリストに結ばれ、その苦難、支配、忍耐にあずかる者。また神の言葉とイエスの証しゆえにここパトモス島へつながれている者。
 或る年の主の日のこと。その日、“霊”に満たされていたわたしは、背後でラッパのように響く大きな声を聞いた。その声曰く、あなたの視ていることを巻物に記し、7つの教会に書き送れ、と。その教会とはエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアである。
 わたしは声の主を確かめようと振り返ってみた。すると、7つの金の燭台が見えた。その中央には人の子らしき姿があり、足許まで届く衣を着、胸には金の帯を締めている。その頭、その髪は白い羊毛に似ており、雪のように白い。目はまるで燃え盛る炎で、足は炉で精錬された真鍮の如くに輝いていた。口からは鋭い両刃の剣が出、顔は強烈な輝きを放つ太陽のよう。右手には7つの星を持っている。
 見るやわたしはその方の足許に倒れこんで、死んだようになった。するとその方はわたしの頭に右手を置き、恐れるな、といった。続けて、──
 わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持つ。「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」(黙1:19)
 あなたはわたしの右の手に7つの星を見、また7つの金の燭台を見た。その秘められた意味とはこうだ。7つの星は7つの教会の天使たち、7つの金の燭台は7つの教会である。

 「主の日」とは安息日に当たりますが、普通の安息日ではない。福音書に拠ればイエスはニサンの月の13日金曜日に処刑されて、3日目の同月15日日曜日に復活した。「主の日」とはまさにこの復活の日のことであり、キリスト教や信徒にとって最重要な安息日なのであります。この日にヨハネがイエス・キリストの声を聞き、それに導かれて黙示の幻を視たのは、とても意味深いもののように思えてなりません。
 黙示文学に於いて未来に起きる出来事やそれをあらかじめ伝える存在の描写は、時に擬人化され、時に譬喩で武装してされることがあります。擬人化ということでは「ダニエル書」がそうでしたし、譬喩ということでは本日の黙1:13-16や預言書なれど「エゼキエル書」がありました。これを読み解くのはなかなか困難を伴うことがあるけれど、一種のレトリックだと考えれば比較的取り付きやすく、またわかりやすいと思います。
 黙1:11にてエフェソ以下7つの地名が挙げられておりますが、個々については明日明後日の当該章にて位置や特記事項など述べるつもりでおります。

 本日の旧約聖書は黙1:7とダニ7:13及びゼカ12:10。



 順調に2016年下半期の小説読書マラソンは予定を消化中……といいたいところですが、米澤穂信『リカーシブル』(新潮文庫)に取り掛かってからはややペース・ダウンした。理由は幾らでも思い浮かぶ(取って付けられる)けれど、主たる理由はただ一つ。
 一言でいってしまえば、『リカーシブル』の世界に没頭できないのだ。これまで読んできた米澤作品との勝手の違いに戸惑いを感じ、抵抗を覚えるのだ。なんというても10代、しかも中学生になったばかりの女の子の一人称である。これまで読んだなかにも女性の一人称はあった。が、それは太刀洗万智という大人の女性、しかもジャーナリストの一人称である。その語り口の渇き具合に戸惑うたり、抵抗を感じることはなかった。が、『リカーシブル』は……。
 ようやく後半1/5に差し掛かったところで物語は一気に加速し、語り口も拙さと幼さを脱して来たが、正直、そこに至るまでは読書がきつかった。そのうちにこちらを裏切るように物語は面白くなるはず、と信じてページを繰るのだが、それもけっこうきつく感じる日が多く……読書を始めてから約10日、本を開かなかった日は幾日あるだろう。
 とはいえ、上記は本稿初稿執筆時にはまだ物語が劇的に動き始める直前まで抱いていた、作品への表面的第一印象に過ぎぬ。読み返していただければおわかりのはずだ、内容についてはただの一歩も踏みこんでいないことに。これがなにを意味するか、賢明なる読者諸兄はおわかりだろう。そうしてこんな台詞がどのような結末を辿るかも。呵々。◆

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