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第2351日目 〈ヨハネの黙示録第4章:〈天上の礼拝〉with新共同訳聖書の引用一覧に抱く疑問。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第4章です。

 黙4:1-11〈天上の礼拝〉
 幻視は続いた。開かれた門が天にあった。最初に聞いた声がわたしをそこへ導き、このあと必ず起こることを見せる、といった。すると、わたしはたちまち“霊”に満たされた。
 ──天には玉座があって、そこに坐る方があった。その姿は碧玉や赤めのうのように輝いている。玉座からは稲妻や轟音や雷鳴が絶え間なく鳴り響き、その前には神の7つの霊を示す7つの灯し火があった。玉座の前は水晶に似たガラスの海のようである。そうして、玉座のまわりには虹が架かっていた。
 さて。玉座のまわりに24の座が設けられていたが、そこには白い衣を纏って金の冠をかぶった24人の長老が座っていた。
 また、玉座の中央とそのまわりには4頭の生き物がいる。第一の生き物はまるで獅子のよう。第二の生き物は若い雄牛のよう。第三の生き物は人間のような顔を持つ。第四の生き物は空飛ぶ鷲のよう。生き物の体には前にも後ろにも、目がびっしりと付いていた。それぞれに6枚ずつある翼にも、周囲と内側にびっしりと目が付いていた。
 かれらは夜となく昼となく、神と主キリストを讃える言葉をいっていた。曰く、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、と。こうやって4頭の生き物は、玉座に坐る、世々限りなく生きる方の栄光と誉れを讃える感謝をささげている。
 それを承けて、今度は24人の長老たちが玉座の前にひれ伏し、世々限りなく生きる方を礼拝し、冠を玉座の前に投げ出して、いった。曰く、──
 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。/あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」(黙4:11)

 本章から「黙示録」の「黙示録」たる譬喩や象徴的表現など用いた記述が始まります。正直なところを告白すれば、読んでも書いても迷い、悩み、頭を抱えました。書き直しを試みて出来上がったのは、やはりというべきか、やや表現をアレンジしたに過ぎぬものでしかなく……これからを思うと嘆息してしまうのでありました。右往左往の末、公開が常の時間より遅くなったことをお詫び致します。
 黙4:4「二十四人の長老」とはイスラエルの12部族の長プラスキリストの12使徒を指しております。そこまで踏みこんで特定していながら、或る考えではイスラエルの12部族の長を以て旧イスラエル(旧約聖書の時代)を代表させ、残り12人の長老を以て新イスラエル(新約聖書の時代)を代表させる、という。新イスラエルの代表が12使徒をいうのか否か、調べても明確な根拠は見出せなかったのだけれど、わたくし個人はキリストの玉座に侍る者として12使徒をあてるのは頗る自然なことと思うのであります。もっとも、そうなると最初の殉教者であるステファノやキリストの福音を異邦人の地にまで広げて回ったパウロはどうなる、という話になりますが……。
 黙4:7に出る「四つの生き物」は「エゼキエル書」や「ダニエル書」に極似の描写のされた生き物が登場しています。世界のすべてを、隅々まで見渡す目を持っています。わたくしは最初、「獣」としてノートを進めましたが、違和感を覚えて先の章を読んだり、「ダニエル書」など読み返して結局「生き物」に戻しました。これら象徴的存在はおそらく「ケルビム」なのでしょう。ケルビムは契約の箱の装飾になっている、エデンの園の命の木の守り役として創3:24にあるのが初出。数いる神の使いのなかでも上位にある存在であります。但し、「ダニエル書」にて描かれる4頭はあくまで「獣」です。これから地上に現れる4人の王を暗喩したものでありました。黙19:4にてかれらが再び、24人の長老とともに神と主キリストを讃えている光景にわれらは出会う。

 本日の旧約聖書は黙4:7-8とエゼ1:5-7及び同10並びにエゼ10:12及び14そうしてダニ7:3-7、黙4:8とイザ6:3。



 「ヨハネの黙示録」の著者は旧約聖書に精通した人物だ、という。それゆえに旧約聖書を踏まえた描写も多い、と。読んでみて納得しているところだが、釈然としない点が実はある。というても「ヨハネの黙示録」そのものについてではない。
 新共同訳聖書の巻末には「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」というのがある。マタ27:46は詩22:2が引用されている、という具合に。この一覧は「ペトロの手紙 二」で終わっていて、そのあとは一切ない。まるで旧約聖書を引用した文章は以後登場しない、とでもいうかのように。
 この一覧があくまで引用であり、踏まえたものを対象としていないのはじゅうぶん承知だ。が、「黙示録」に於いても一覧に載るのと同じ意味合いで旧約聖書の引用はある。イゼベル(黙2:20)や4頭の生き物(黙4:6-8)などがそうだ。4頭の生き物による讃美も然り。
 どうして「ヨハネの手紙 一」以後の引用箇所を新共同訳は切り捨てるのか。直接的な引用ではないから、といわれればそれまでだが、どうにも釈然としない。回答を求める気はないが示唆だけでも欲しい。たといわたくしの一知半解ぶりを嘲笑われ、蔑まれる結果となろうとも。
 引照箇所が載る新共同訳聖書を遣えばよい、なんて声は勿論受け付けられない。聞きたくもない。だってそれが窮極的に正解だもの。◆

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