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第2362日目 〈ヨハネの黙示録第15章:〈最後の七つの災い〉with『閃光スクランブル』は読了に至らず。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第15章です。

 黙15:1-8〈最後の七つの災い〉
 わたしは視た、驚くべき大きな1つのしるしが天に現れるのを。最後の7つの災いを7人の天使が携えていたのである。「これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。」(黙15:1)
 わたしは視た、火が混じるガラスの海と、獣やその像、その数字が刻印された者らに打ち勝った人々の姿を。かれらは神の竪琴を手にして、火が混じるガラスの海の岸の汀に立ち、モーセの歌と子羊の歌をうたっている。
 更にわたしは視た、天にある証しの幕屋の神殿が開かれて、7つの災いを携えた7人の天使がそこから出てくるのを。輝かんばかりに清い亜麻布の衣、腰には金の帯を締め。4つの生き物のうちの1つによって、神の怒りが盛られた7つの金の鉢が7人の天使に渡された。
 神殿は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされていた。何人と雖も神殿の中に立ち入ることはできない、7人の天使の7つの災いが終わるまでは。

 ここからが「ヨハネの黙示録」のクライマックスであります。このあとそれぞれの災いがそれぞれに降され、大淫婦即ちローマが裁かれ、主による千年王国の実現とサタンの最終戦争、そうしてすべての浄化として新しい天と新しい地、新しいエルサレムの訪れに至るのです。
 既に黙3:6に出、本章第2節にも出たのですが、「ガラスの海のようなもの」とはなんだろう。前者では「水晶に似た」とあり、後者では「火が混じった」とある。本章に於けるそれが黙3同様神の玉座の前にあったか、わたくしにはわかりかねる。そも「海のようなもの」と曖昧にいうておきながら、「海の岸」と断定しているのも謎だ。それが水の集まった場所を示すとしたら、「海のようなもの」はとても大きな湖、たとえば死海や黒海のような場所をいうのか。「のようなもの」に「岸」があるならば、直後に出る「海の岸」という表現は矛盾するように思えるのだけれど……。どの日本語訳を見てもこの点は大同小異なので、ヘブライ語やギリシア語などでも同様なブレがあると考えてよさそうであります。
 ──上記は1つ所ばかりを見て全体を俯瞰していないためのわが妄言かもしれない。が、わたくしにはどうもその点が引っ掛かって仕方がないのです。
 黙15:5「証しの幕屋の神殿」とは出38:21「掟の幕屋」、出40:34「臨在の幕屋」など様々な呼ばれ方をするけれど、つまり「幕屋」のことであります。聖書では殊に顕著ですが古代の書物を読むにあたっては、固有名詞は必ずしも1つだけとは限らず、同じものをいうていながら時と場所、話者が代われば呼び方など幾らでも変化することを念頭に置き、またそれを弁えている必要があるでしょう。……前述の「ガラスの海」問題も結局はここに帰着するのかなぁ。

 ──残り7章、あと7日! しかし周囲が激しく動く7日間! 気を引き締めてゆこう!

 本日の旧約聖書は黙15:3aと出15:1-18、黙15:3c-4とエレ10:7、黙15:5と出38:21他。
 黙15:3b(子羊の歌)は黙5:9-10及び12。



 ……加藤シゲアキ『閃光スクランブル』は半分も読み進められないうちに放り投げることと相成りました。ページを繰る気になれず、その先まで読んでゆくのに努力を要したことから、もう本当に辛かった。心血注いで書きあげたであろう著者には心の底から申し訳ない気持ちでいっぱい。『ピンクとグレー』はまだ興味本位で最後まで読み通せたけれど、それでもどうにかこうにか一念発起して、という程度。
 どうしてだろう、と考えてみた。実はそのあと、今日から読み始めたのが宮部みゆき『淋しい狩人』(新潮文庫)という連作短編集なのだけれど、最初の1編を読み終えて、なぜ加藤の小説を読み通すのが辛かったのか、朧ろ気ながらわかったように思うのだ。
 一言でいって、加藤の小説には余裕がないのだ。話がどこまで進もうともそこにあるのは閉塞感ばかりで、そこにはわずかながらの潤いも余裕(余白というて良いやもしれぬ)も与えられないことから、段々と気が滅入ってくる。内容に関係なく、読んでいて気持ちが殺伐としてくる。これ以上読むのは時間の無駄、とは過ぎたる発言であろうが、実際の所そうとしか言い様がないから始末が悪い。
 ──違うときに読んでいたら印象は異なっていただろう。すくなくとも読み終えることはできたはずだ。今回は単に呼吸が合わなかっただけ、と思いたい。そのとき処分することなくまだ棚に残っていたらば、再読してみるのも良いかもしれない──でも果たしてその日は訪れるだろうか?◆

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