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第2600日目 〈横溝正史「幽霊座」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 ──巻を閉じてぼんやりしながら、絵になる場面の目立つ一編であったなぁ、と述懐するのである。横溝正史の短編「幽霊座」を読んでまず胸中に去来した思いはそれだった。梨園を舞台にしたせいもあろうか。
 たとえば金田一耕助が平土間の椅子にうなだれて坐り、そこへ窓から射しこんだ光があたっているシーン。たとえば音爺いと金田一耕助が奈落の底で話し合っている最中、爺の袂から犬塚信乃のブロマイドがはらりと落ちる、そうしてそれを拾いあげるシーン。たとえば歌舞伎狂言『鯉つかみ』の上演中、水船に設けた鉄管から奈落へ抜けてきた滝窓志賀之助/鯉の精役の役者が早着替えするシーン。たとえばその『鯉つかみ』を上演する舞台上の役者たちの所作、その裏方たちの動き回る様子。いずれもほんのわずかの描写でしかなく、或いは地の文でわずかに説明乃至は描写されるに過ぎぬものだが、やたらとそれらが一枚一枚の映像となって鮮烈な印象を与えてくるのだ。
 ちと話が先走りすぎたようだ。簡単に粗筋を、ここで述べておこう。
 稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日をかれの命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助/鯉の精はかれの遺児、雷蔵が担当するはずだったが上演直前に倒れたせいで鶴之助の異母弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助と紫紅を中心とする因果な人間関係を暴くことになるのだが──。
 嗚呼、なぜ粗筋の紹介がこうも下手なのか。ホント、嫌になっちゃうね。まぁ、そんな徒し事はさておき。
 華やかに映る梨園の裏に蠢く人間関係、権謀術数、不協和音がもたらす種々の事件を描いた人といえば、真っ先に戸板康二や小泉喜美子が思い浮かぶ(栗本薫にはそうした小説があるのかしら。『変化道成寺』っていう新作歌舞伎の脚本を書き下ろしているのは知っているけれど)けれど、横溝正史が広義のショービジネスの世界を事件現場に持ってきたのは「幽霊座」以外にどれだけあるのかしら。インターネットで調べればすぐわかるだろうけれど、実際に読んでいない以上はその情報も信憑性が薄いから、ここでは殆どなかったのではないか、といわせてもらう。
 戸板康二も小泉喜美子も梨園を題材に幾つもの小説を書いた。さりながら陰惨さ、背筋の凍るような禍々しさという点では流石に横溝の本作へ軍配が挙げられよう。横溝の他作品でも陰惨で禍々しい事件はお目に掛かれるが、どうしたものか小説の舞台を梨園に据えただけでその要素は一際と濃くなり、それが読み手に働きかける効き目も倍増するのである。魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿の如き梨園に生きる人々であればそのような行動も納得できる、と妙に納得させられてしまう<なにか>が、事件の発端となった出来事に寒々しくも妙に生々しい根拠を与えてしまうのである。池の畔に立って、溺れる幼児を冷徹な眼差しで見つめるあの男の様子……そのあとの行動と併せて思えば、心胆寒からしむるとはまさにこのことか、と嘆息せざるをえない。歌舞伎役者(あ……)ならではの立ち姿の美しさが更にその思いを強く、深くして。
 もしこの作品に呆れてしまう箇所があるとすれば、それは犯人たち(2度目の、あ……)の報連相怠慢に関してであろう。きっとかれらがもう少し密に、頻に連絡を取り合っていればこの犯罪も杜撰な結果に終わることはなかったっだろうに。結局は血に飢えた鬼女/醜女の暴走が事件を発覚させたも同然だものね。きっと彼女にドニゼッティがルチアのために書いたような狂乱の音楽は相応しくない。
 なお「幽霊座」で重要な役回りを務める歌舞伎狂言『鯉つかみ』、元は尾上家の演し物で、初演は宝暦6/1756年4月に市村座(江戸)にて初代尾上菊五郎が滝窓志賀之助を演じた『梅若菜二葉曽我(うめわかなふたばそが)』であったというが、別に元文4/1739年7月、同じ市村座で二代目市川海老蔵が演じた『累解脱蓮葉(かさねげだつのはちすば)』を初演とする説もある。
 最近では昨平成29/2017年11月の歌舞伎座顔見せ公演、幕開きの演目として上演された。滝窓志賀之助/鯉の精を演じたのは七代目市川染五郎(高麗屋)。七代目として最後の舞台であった(翌平成30年1月の壽初春大歌舞伎にて十代目松本幸四郎を襲名披露)。
 本音をいえば、歌舞伎を題材にした探偵小説として読むのみならず、これをきっかけに歌舞伎に興味を持って恐る恐る歌舞伎座や新橋演舞場に出掛けて、その魅力、その魔力、その底知れぬ面白さに目覚めてどっぷりはまってくれる人が出てきたら嬉しいな、と思うておるのであります。探偵小説も面白いけれど、歌舞伎も面白いよ。◆

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