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第2651日目 〈マカバイ記・一第4章2/2〈聖所の清め〉&ハヌカについてwithやっぱり文章は毎日書かないと、ダメだなぁ。〉 [マカバイ記・一(再)]

 マカバイ記・一第4章2/2です。

 一マカ4:36-61〈聖所の清め〉
 シリア軍の撤退を見届けたマカバイは、シオンの山へ続く道を進み、エルサレムに入った。
 そこは荒れ果てていた。かつての面影は消え失せていた。聖所は廃れ、祭壇は汚されていた。祭司部屋は崩落し、門は焼け落ち、中庭はどこの山奥かと見紛うばかりに草生している。マカバイや兄妹たち、また民はその様子を見て大いに嘆き、悲しんだ。
 マカバイは兵たちに、聖所の清めが終わるまで要塞に巣喰う者らと戦うよう命じた。聖所を清める作業が連衆に妨害されないように、である。
 聖所を清める作業にあたって祭司の任命が行われた。選ばれた祭司たちは皆律法に忠実で、誰からも咎められたり疑われることのない人々である。かれらは清めの作業の先頭に立ち、人々に指示を下していった。
 まず、汚れの原因となった石を不浄の場所へ移した。続いてかれらは、汚されてしまった祭壇について話し合ったが、その結果、<憎むべき破壊者>の像は引き倒して粉砕するがよかろう、ということになった。異教徒が置いた像によって祭壇が汚されてしまったのだから、ユダヤ人である自分たちがそれを取り払うことになんの咎があろうか、との思いからである。また、取り除かなかったことで人々から非難を浴びるのをあらかじめ避ける目的も、あった。
 粉砕された<憎むべき破壊者>の石ころは神殿の隅に捨て置かれた。やがて現れる預言者が良いように処置してくれるだろう、と期待してのことだった。
 聖所を清める作業は、順調に進んだ。
 聖所と、神殿の内部の一部が修復された。朽ちていた中庭はいまやすっかり丹精されて、往時も斯くやとばかりに清められた。律法の指示に従って、新しい祭具類が造り直され、神殿へ次々搬入された。燭台には火が灯されて、神殿のなかを明るく照らした。祭壇には香が焚かれて、神殿はかぐわしい香りに満たされた。机には供えのパンが置かれた。神殿内にはかつてのように垂れ幕がさがり、修復作業はひとつの到達点に至った。
 「かくしてなすべきことはすべてなし終えた。」(一マカ4:51)
 ──ギリシア人の王朝の第148年、というから、前164年、その第9の月──キスレウの月の25日。
 遂にこの日が訪れた。朝から喜びにあふれた日だ。
 その日、民は朝早い時間に床を離れて、それぞれに行動を始めた。
 新しく造られた焼き尽くす献げ物のための祭壇に、いけにえがささげられた。この祭壇は律法に従って人手が加わっていない、自然なままの石で造られており、細々とした部分は以前の祭壇に倣って習って細工された。
 キスレウの月の25日、それは3年前に異教徒が祭壇へ忌むべき献げ物をささげて、ユダヤ人の宗教生活を根底から揺るがした、忘れるに忘れられぬ日であった。マカバイたちはその月、その日を選んで、新たに祭壇を奉献したのである。
 民は自分たちを正しく導いてくれた<方>を、天に向かって讃えた。
 奉献は8日間にわたって祝われた。焼き尽くす献げ物がささげられ、和解の献げ物と感謝の献げ物のためのいけにえを、それぞれ屠った。神殿の飾り付けを済ませ、祭司部屋を新しくし、門が新しく取り付けられた。民の心は喜びに満ち、顔には深い感動の色が浮かんでいた。こうして人々はひとつの信仰の下に結ばれ直したのである。
 「異邦人から受けた恥辱は取り除かれたのである。」(一マカ4:58)
 ──ユダ・マカバイを始めとするイスラエルの全会衆は、この奉献の日を代々にわたって祝い、その意味が記憶から消えぬようにしたい、と願った。ゆえにそれから毎年、キスレウの月の25日に始まる8日間を、「喜びと楽しみをもって」(一マカ4:59)祝うようになったのである。これが21世紀の今日まで続く、<ハヌカ>というユダヤ教の祭りの起源となった。
 ……民が奉献に浮かれている一方でマカバイはシオンの山の周囲に城壁を巡らし、塔を築いて守りを固めた。ゆめシオンが異邦人、異教徒に踏みにじられることがないように、である。また同じ目的で南の要衝、ベトツルも強化された。これはユダヤの南西に広がるイドマヤ地方への睨みとなった。

 われらはかつて「エステル記」を読んだ際、<プリム>という祭りがユダヤ教にあり、またその起源について知りました。ユダヤ教の3大祭り(<過越祭>、<仮庵祭>、<五旬祭>)や<除酵祭>に続く、かれらの大切にする祭りとの出遭いでした。そうして旧約聖書続編にはもう1つ、ユダヤ教で祝われる祭りの起源を語る箇所がある。それが一マカ4:59で触れられる<ハヌカ>であります。
 ハヌカは「宮清めの祭り」とも「奉献の祭り」とも、また「光の祭り」とも呼ばれます。前2者は神殿を清めて奉献した意味ですが、「光の祭り」とはこれ如何に? ここはちょっと補足が必要らしい。
 〈聖所の清め〉で「光」にまつわる文言といえば、「燭台には火をともして神殿内部を照らした」(一マカ4:50)ぐらいしか見当たりません。これではとてもじゃありませんが、祭りに発展する要素は皆無に等しい。ハヌカを「光の祭り」と呼ぶ裏付けとなる根拠はユダヤ教の聖典の1つ、『タルムード』のなかに求められるのでした。
 ただ、最初に言い訳しておきますがこの『タルムード』、非常に広範かつ大部な書物で大きな図書館でも架蔵していないことがある。わたくしも白状すれば本稿を書いている時点で、『タルムード』をひもといてハヌカに触れた箇所を一読してきたわけではございません。よって<ユダヤ教入門>や<ユダヤ教のお祭り>の類の書物から拾い読みして、ここに書き綴っている者であることをあらかじめご承知いただきたい、と、そう思う次第です。
 『タルムード』にはこのような記述がある由。曰く、神殿奉献にあたって調べたところ、シリア軍がことごとく神殿内を荒らし、破壊していったため、奉献に使える油の入った壺はたった1つしかなく、そこに残った油もわずか1日、ロウソクを灯せれば良しという程度の量だった。しかし1日であっても「燭台のロウソクに火が灯り、神殿を輝かせられるのであれば」という想いから、件の油壺から火を点けてみると、1日どころからその後8日間燃え尽きることなくロウソクに火を灯し続けたのでした。これが、<光の祭り>てふ名称の由来。
 8日間燃え続けた、という故事に倣ってハヌカで用いられる燭台は合計9本の枝──中央に種火用のロウソクを立てる1本と左右に4本ずつの枝──を持つ、「ハヌキヤ」というハヌカのための特別な燭台となっております。なお、ユダヤ教の派によっては1日にロウソク1本ずつ火を灯してゆくところもあれば、初日にすべてのロウソクに火を灯すところもあると云々。注記すればイスラエル国の紋章にもなっている燭台「メノラー」は「ハヌキヤ」よりも枝が2本少ない燭台であります。
 さてこのハヌカ、ユダヤ教の祭りですから当然ユダヤ暦で祝われることになる。その時期はキリスト教のクリスマスに近い。キスレウの月はユダヤ教第9番目の月ですが、今日のグレゴリオ暦では11月から12月に相当。その「25日からの8日間」は年によってまちまちですが、概ね12月上旬から25日前後で毎年祝われているようであります。
 同じ時期に(ユダヤ教から派生した)キリスト教がクリスマスを祝うため、ハヌカも同様の祭りと勘違いしがちですが、その意味するところはまるで違うことを、われらは認識する必要がある。ハヌカは或る意味でユダヤ民族の精神的再統一を確認し、外圧を退け自立と信仰を回復させた喜びと誇りを記憶する祭りでありました。
 一方のクリスマスはキリスト教が他の宗教の祭り──ペルシア由来のミトラ教が太陽信仰の宗教であったことから、1年でいちばん日の短くなる冬至(12月25日)を「太陽神ミトラスが誕生した日」とし、ローマ帝国内で広く祝われていた由。帝国内でミトラ教はキリスト教にとって最大の障壁だった──を吸収してキリスト・イエスの降誕に結び付け、それを12月25日と定めた。見ようによっては<換骨奪胎>の祭りといえましょう。ハヌカとクリスマスの混同と誤解は、キリスト教が世界宗教となるに伴って発生した弊害というてよかろう、とわたくしは考えております。
 ……ハヌカについて述べて参りました。これについて調べていたがなかなか図書館に出掛けることのできない用事が週末ごとに出来したことが、或る意味で本ブログの定期更新を妨げる要因の1つであったのかもしれない……と、改めて言い訳してみる。
 創始者としてのユダ・マカバイはハヌカの続けられる限り、ユダヤ人のなかへ残り続けることでしょうね。



 ここでお披露目予定だったエッセイを先行公開してしまったものだから、頭をどう捻ってみても書くことが思い浮かばず困っています。一時的なネタ切れ、枯渇であると信じよう。
 ちかごろ夙に思うのは、やはり文章は絶えず書き続けないとフンドシがゆるかったり、支離滅裂曖昧模糊としたものができあがったり、或いは鋒が鈍ったりなまくらだったりして、読むに眉間に皺寄せる類のものばかりが濫造されて、駄目ですね。やはり短いものでも毎日、不特定多数の世人の目に触れる文章を書かなくては、と気持ちを新たにさせられているところであります。
 井戸を汲み続ければ最初は濁っていた水もやがては澄み、美味いと唸らせるお茶やコーヒーを供することができる。その水で研いだお米はさぞかし美味しかろう。そんな文章は一発芸のようにはゆめ生まれない。毎日の繰り返しの果てにクオリティの高い、奇跡の如き神品が生まれるのです。
 そんな文章を書けるように、怠けることなく忙しさに流されることなく、今日も明日も明後日も、1年後も5年後も10年後も、思い考え感じて、見て読んで記憶して、ノートを開きMacとDellを起動させ、筆を走らせ指を動かそう。そうすればいつかそのうち1編ぐらいは、読者諸兄のみならずそれまで一度もみくらさんさんかの作物を読んだことのない人にも「ああ、あの文章ね」と思い出してもらえるような、良い原稿を書きたいなぁ。◆

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