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第2615日目 〈横溝正史「蜃気楼島の情熱」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「蜃気楼島の情熱」は資産目当ての殺人としてはその残酷さ、冷血ぶりの際だった一品として、記憶から消し去りがたき読後感を残す短編だ。
 1度ならず2度までも、妻を殺された男がいる。単に「死んだ」というなら青ひげ公だが、その死について青ひげ公の容疑はいつだって限りなく黒に近い灰色だ。が、件の男は正真正銘、他者に愛する妻を殺されたのだった。はじめはアメリカで、つぎは瀬戸内の沖の小島、通称<蜃気楼島>にて。
 男の名前は志賀泰三。アメリカで財を成して帰国するとかの島を買うて、統一感のまるでない邸を建てた。落成からしばらく後、志賀は滞米中に知己の仲となった久保銀三を招く。その久保は友人、金田一耕助を誘って志賀の招きに応じた。久保銀三と金田一耕助、『本陣殺人事件』以来のランデヴーである(くすくす)。
 物語はこの久保と金田一がランチで蜃気楼島へ向かう場面で幕を開ける。そうして予想通りその晩、志賀の細君、静子(妊娠中)が独り休んでいる寝室で殺された。死因は絞殺、果たして何人が彼女を──卑しい身の上から島の女王と称される地位にまで出世した彼女を手に掛けたのか? 疑いの目はその日、志賀家の客になっていた樋上四郎へ向けられた。樋上はアメリカ時代に志賀の前妻を殺した犯人である。が、樋上は頑迷に己の犯行を否定した。しかも犯行時刻と思しき時間、自分は30分程寝室にいたが静子はどこへいったものか、そこにはおらず、結局会えずに自室へ戻ったのだ、と主張してやまぬ。斯くして金田一耕助は捜査に乗り出し、邪悪としかいいようのない犯罪の全貌へ迫ってゆく──。
 果たして真相は醜悪にして唾棄されるべきそれであった。有り体にいえば、志賀泰三の財産に目がくらんだ親戚、村松一家による家族ぐるみの犯行だったのだ。静子夫人が凶刃に倒れたのは志賀の許へ輿入れした彼女への嫉妬と、相続人となる初子の懐妊が招いた危機感から。
 村松家の人間たちが張りめぐらした、周到にして狡猾な罠が志賀を否応なく犯人に仕立てあげ、自分たちはかれが失墜した後その財産を分捕るために、真綿で包むが如くじわじわと、だが確実に、追い詰めてゆく。
 ゆえに故村松滋の葬儀の席上にてその父、恒は志賀にそれとなく仄めかした──静子夫人と滋が不義の関係を結んでいたことを。夫人のお腹の子が滋の胤である可能性の示唆と、静子夫人の死が志賀の犯行と参列者に思いこませるお膳立ても、併せて忘れずに。
 おまけに村松家の女どもは揃いも揃って性悪である。利己心に長けて、他人の神経を逆撫ですることにかけては天下一品、他の金田一作品を見廻しても、金銀財宝に目がくらんで容赦なく親族を陥れることに躊躇いも良心の呵責も感じさせない連衆は、なかなかいなかった。
 作中にてはっきりと描写されないものの、金田一にとって思い出すだけでも胸くその悪くなる──一片の思念すら覚えることのできぬ犯人だったのではないか。曰く、──
 「この事件の動機はなかなか複雑だと思うんです。成功者にたいする羨望、看護婦から島の女王に出世した婦人にたいする嫉妬、そういうもやもやとした感情が、……爆発したんですね。ですけれど、ぼくはやはりこれを貪欲の犯罪だと思いますよ」(P288-89)
 そんな犯罪計画と実行のダークぶりに思わずこちらも気持ちが暗くなるが、じつは、本作にはそれをわずかかもしれないが軽減させる要素がある。それが、蜃気楼島を中心に据えた秋の夕暮れの光景だ。就中志賀の情熱の結晶たる館を浮かびあがらせる、宵闇迫る黄昏刻の描写である。そうしてそれは、いびつな夢の終わりを予感させもして──。
 『悪魔の手鞠唄』では雨に煙る須磨の、薄墨で輪郭をぼかした描写が印象的だった。「蜃気楼島の情熱」でも夕暮れ、殊<秋の夕暮>てふ物寂しさと終末を予感させる、或る意味で日本人の(DNAに組みこまれた)情緒に訴えかける最強クラスの描写が効果的に、要所要所で折りこまれているのだ。
 黄昏刻の、逢魔が時の、静かに表情を移してゆく空の色、風の気配、海の色の深まりといった島を巡る情景の一々が、わずかな描写で読者の心を囚えて、折口信夫いうところの<ほう、とした想い>を抱かせるのだ。
 この、秋の夕暮れが作品全体を支配するわけだが、志賀夫妻の行く末までも暗示していることは、敢えてわたくしなどが指摘するまでもないだろう。
 ──登場人物の相関関係、犯人の邪悪さ狡猾さ、情景描写の深まり具合、財産家の哀しみと名探偵の憤り、幕切れでそっと示される一縷の希望。そんな様々な因子が響き合い、絡み合い、調和して読者の心へ訴えかけてくる小さな交響曲……わたくしはこの「蜃気楼島の情熱」をそんな風に捉えて鍾愛している。◆

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第2614日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『赤毛のレドメイン家』を読んでいるとその悠然とした情景描写、細かな心理描写、微に入り細を穿つ人物描写に陶然となる。黄金時代本格ミステリの名作を読んでいる、というよりも、19世紀から20世紀初頭に書かれて親近してきたイギリス文学のメインストリームへ接しているような、そんな既視感に襲われることもしばしばあった。
 イーデン・フィルボッツ(1862〜1960)は生前トマス・ハーディと人気を二分した田園小説の大家で、1927年には20巻から成る全集が刊行されるぐらいの文壇の重鎮であった。そんな人物がミステリの筆を執った。日本風にいえば還暦すこし前からミステリ小説を刊行しているとのことだが、仄聞するところでは若い頃より推理や怪奇の味わいのある作品を発表していた由。『赤毛のレドメイン家』は1922年、フィルボッツ60歳の作品である。
 もともとイギリスという国は純文学作家でも生涯に何作かのミステリや怪奇小説を書くような伝統があって、しかもそれがジャンルのマスターピースになっていることが多いから、フィルボッツが公然と本格ミステリ小説を還暦間際に刊行して、以後も秀作を発表し続けたことになんら不思議はない。というよりも、イギリス文学そのものがミステリ小説のスタイルをまとっていることが多いのだから、フィルボッツのような経歴の作家がミステリ市場に顔を出すのも当然といえば当然であろう。
 『赤毛のレドメイン家』の舞台は前半がイギリス・ダートムア、後半はイタリア・コモ湖。フィルボッツの筆はダートムアを描いてドイルの『バスカヴィル家の犬』とはまた違った陰鬱寂々の光景を読者の心胆を寒からしめ、コモ湖一帯を描いて前半とは打って変わった草木一本に至るまで太陽に照らし出された楽園のような光景を現出させる。
 ダークネスなダートムアを背景に展開するのは美しき未亡人を巡るロンドン警視庁の警部とイタリア人男性の恋の鞘当て、シャイニーなコモ湖ほとりの明媚な場所で着実に遂行されてゆくのは残忍な犯人と名探偵の頭脳戦。言葉を費やし筆を尽くして舞台となる地が描かれているからこそ、登場人物も血が通い肉を備えた生身の人物となり得るのだ。
 同時代に書かれたミステリ小説を見渡しても(もちろん、翻訳されているもののなかで、という前提になってしまうのだが)、『赤毛のレドメイン家』ぐらい人物と心理、或いは情景の描写が細かくされている作品はないように思う。このような点がおそらく現代の読者に敬遠されて、鈍重・退屈・冗長などと拒まれているのかもしれない。
 が、小説は常に時代の風潮を反映する。『赤毛のレドメイン家』が発表された1920年代イギリス文学のトレンドはジョイスやエリオットに代表されるモダニズムであったけれど、ディケンズやサッカレーが活躍したヴィクトリア朝の文学様式がいっせいになりを潜めたわけでは当然、ない。時代の旗手的役割は他へ譲ったと雖も、まだまだ往時の作家はじゅうぶん健筆を揮っていた。
 フィルボッツの場合はたまたま田園小説よりもミステリで、殊日本では知られるようになったから、かれが現役であった時代の小説のスタイルや特徴など背景にじゅうぶんな注意を払う作業を怠った連衆が、己の一知半解を棚にあげて槍玉に挙げているだけのように思えるのだ。ジャンル小説一辺倒の読者が陥りやすい弊害といえようか。
 『赤毛のレドメイン家』の場合、情景描写と人物描写に力が注がれていたけれど、『闇からの声』(1925)になると犯人の心理描写に重点が置かれていることから、フィルボッツはこれまでの田園小説では描くことが難しかった人物を創造することに関心を向けた様子である。
 『赤毛のレドメイン家』の犯人もなかなか狡猾で残忍・無情な悪党であったけれど、『闇からの声』の犯人はそれを上回る存在として登場する。が、いずれも人物描写/キャラクター造形の確かさがあるからどれだけ卑劣なことをやってのけても、抗いがたい強い魅力を備えた人物として、探偵役よりも深い印象を残すのだった。
 ──イギリスのミステリ作家のなかでキャラクター造形がうまいのは誰か、と問われたらアガサ・クリスティの名はいっとう最初にあげられるだろう。そのクリスティにはデビュー前のちょっと知られた逸話がある。小説家を志していた少女の時分、隣の家に住んでいたずうっと年上の、文壇の長老格であった人物に創作のアドヴァイスを請うた。その後、彼女は夢を実現させて1920年に『スタイルズ荘の怪事件』でデビュー、以来半世紀になんなんとするキャリアの第一歩を踏み出した。が、流行作家になってもデビュー前に受けた恩情を忘れることはなかったようだ。彼女は『エンド・ハウスの怪事件』(1932)を件の大先輩にささげて感謝を表している。その先輩作家こそ、『赤毛のレドメイン家』の作者イーデン・フィルボッツであった。◆

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第2613日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 ここ1.5ヶ月ほど昨年末からゆるゆる続けてきた横溝正史読書マラソンを中断し、<この際だから海外ミステリの古典を──買い溜めしている分だけでも──読んじゃおうプロジェクト>パート1に取り組んでいる。
 そうして8月15日、終戦記念日のあたりからは都合3冊目となるイーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』(宇野利泰・訳 創元推理文庫)を読み始め、作業はいまも鋭意進行中だ。間もなく1週間になろうとしているけれど、今日でようやく半分ぐらいを消化。満を持して名探偵登場の第11章がいまである。
 じつは名探偵登場までのつなぎ役でしかないと判明するに至った前半パートでの捜査担当、ふしぎにも「探偵」と訳語のあてられているロンドン警視庁のマーク・ブレンドン警部は、読者からすれば愚鈍の人である。とんだヘマをしでかしてそれに気がついていない/気がつこうとしていない、優秀な警官であると説明されても、なんだかなぁ……とその能力に疑心暗鬼な思いを抱かざるを得ない人。自分の思いこみを後生大事にするのはいいが、それを絶対的なものとして捜査の第一歩から誤った方向へ突き進んでゆくのは、危険である。被害者側からすれば、トンデモ警官でしかない。
 おーい、そっちじゃないよ、君の行くべき道は。目の前の人物が自分に見せる媚態や言葉を、あまり真に受けちゃあ駄目だよ。そんな風に忠告したい場面は、多々ある。
 でも、警官としての能力はさておき(=あまり評価していない)、被害者遺族なかでも未亡人となった女性に寄せるブレンドン警部の気持ちは、頷けるところが多いのです。恋愛と職務を天秤にかけたり、相手の心変わりが必ずしも本心からではないと自分を納得させようと努めるあたりね。一歩を踏み出すべきところで踏み出す勇気のないスコットランド・ヤードのミスター・マーク・ブレンドンが、そんなときたまらなく自分に似ていて好きになっちまうのですよ。なんだかこの恋(……?)の顛末もそっくりで──いやいや、それはともかく。もっともおいらの場合、その感情は<恋>ではなく<蔑み>/<憎しみ>/<恨み>でしたが、まぁそれはどうでもいい。思い出すたび心の荒れ狂う過去あっての、幸福で満ち足りた現在なのだから。
 おそらくミステリに於いて「恋は盲目」の実例を1人挙げよ、なんて設問があったら即座に名前の挙がる筆頭候補でありましょう。そのくせこの人、終盤になるとそれをちょっぴり否定してみせたり、あげくに苦い経験を味わってイギリスへ帰郷するのですから……盲目がもたらした癒えぬ悔恨ここに極まれり、という感が致します。
 ──この感想の第一稿を綴っている8月後半、『赤毛のレドメイン家』はいよいよ舞台をイギリス・ダートムア(バスカヴィル家!)からイタリア・コモ湖へ移し、名探偵ピーター・ガンズ氏が読者の前に姿を現そうという章へさしかかった。物語はようやっといちばん大きな転換点を迎える。そうして清書しているいま9月半ば、再び物語は大きな転換点を通過してガンズ氏がイギリス帰郷の車中にて謎解きをしてみせている。
 もはや疑いもなく来週中に読み終われること必至だ。為、はじめの予定通りに読了の感想は9月終わりか10月初めにはお披露目できそうである。ちょっと安堵。第一稿では〆の言葉、「どうか読者諸兄よ、期待しないで……否、期待していてほしい……かな。うん」という不安を抱かせる終わり方であったが、明るいニュースをお届けできてとってもうれしい。さて、では途中途中で記していたメモを動員して、そろそろ読了の感想を認める準備を始めようか……。その前になんだかお腹減ったな。◆

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第2612日目 〈ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 サスペンス小説の傑作、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』をようやく読了。台風12号による濡れからの回復を待ってのこの日となった。
 「ようやく」には2つの意味がこめられている。1つは通勤電車(もっぱら帰り)のなかを始めとする日々の細切れになった時間での読書ゆえ、どうしても読み終えるまで日にちがかかってしまったこと。もう1つは題名も著訳者も表紙カバーも粗筋も乱歩の挿話も昔から知っていたにもかかわらず読む機会を作ろうとしなかったため、人生の折り返し点をとうに過ぎたいまになって読んだのだ、ということ。
 ──妻殺しの濡れ衣を着せられた男、スコット・ヘンダースン。かれには妻が殺害された時刻の完璧なアリバイがあった。が、無実を証明できる女の存在を認める者は誰もいない。いえ、あなたはお一人でしたよ。万策尽きたスコットは親友ジョン・ロンバートに<幻の女>探しを依頼、斯くしてロンバートは女の手掛かりを求めてニューヨークの街を彷徨い歩く。探索行の果てにやがてあきらかとなった衝撃の事実とは──?
 スリルを盛りあげサスペンスをあおるには、センスがいる。そのセンスとやらを如何なる方法で料理するか。ここがシェフたる作者の腕の見せ所だけれど、アイリッシュはそれを章見出しでやってのけた。あっさりと、あざやかに。「死刑執行前 ◌◌日」……今日ではさして目新しくもないやり方だが、発表当時としては結構斬新だったろう。1942年の作品なのだ、この『幻の女』は!
 冒頭の有名な一文からして多くの作家へ影響を影響を与えた作品だけにプロットのみならずシチュエーション、犯人、トリックやアリバイなど、読み手によってはデジャ・ヴを覚えるかもしれないが、やはり時の流れに耐えて今日なお読まれる名作である。後続の作品群ではあまりお目にかかれぬ風格と破壊力を備えている。乱歩の評言はそれから70年以上を経たいまもなお、じゅうぶん通用するものであろう。いや、それにしても終盤であかされた<幻の女>の正体と、スコットと別れたあとの顛末には、ぎょっ、とさせられたよ。ちょっと薄ら寒くなったね。
 この古典的名作を今日巷にあふれる有象無象のミステリ小説を読みちらした目で読むと、センチメンタル過多な雰囲気に抵抗を感じ、省略を利かせた文章にしばし憶測を重ね、たまに冗長と映る描写に退屈を覚えたりもして、残りのページを指の腹でぱらぱら目繰って道通しの感を深めることたびたびであった。
 が、その一方で、経年劣化こそ否めぬものの時の波へ抗って常に版を重ねて読み継がれてきた要因に、上であげた点のあることも本当のところなのだ。ドライでありながら非情に徹しきれぬ甘くて優しい空気感が全編に垂れこめ、冗長な描写と思うたのは端役に至るまでその場限りの紙人形となるのを避けんがためのテクニックであり、物語に深みと制裁を加えるスパイスであった。
 省略の利いた文体とはハメットやチャンドラーのようなハードボイルド小説でお馴染みだけれど、アイリッシュのこの作品についてはちょっと事情が違うようだ。簡単にいえばハメットたちの文章が意識して作られたものであるのに対し、アイリッシュのそれは意識することなくふとした拍子に体のなかから自然と湧き出た文章に思えるのだ。
 新訳版の訳者、黒原俊行は一例として、妻の死体が運び出されるのをスコット・ヘンダースンが見つめる場面を挙げるが、件の文章テクニックに呑まれてうっかり読み流したことに気附き、急いで立ち止まって「この場面で起こっている(行われている)けれど描かれていないことはなにか」と考えこむ羽目に陥ることしばしばなのである。
 わたくしの印象ではこの現象、2人以上の人物が同じ場面に出ていて、皆等しくそれぞれの役をこなしている箇所にて顕著なようで、ここから転じて、もしかするとこのあたりにアイリッシュの弱点があるのではないか──多くの登場人物が一堂に会したときの各々の書き分けに苦手意識を持っていたのではあるまいか、アガサ・クリスティやスティーヴン・キングと違って、と邪推してしまうのだった。さりながらこの文体がサスペンス小説でも効果的なのは第12章、若い女がバーテンを追いつめてゆく、殆どこの2人だけで進められてゆく一連の場面を読むと納得なのである。
 1つの結婚生活の終わりから始まる犯罪──夫婦のどちらに原因があろうとも、激情に駆られて家を飛び出すや行きずりの女と夜の一時を過ごしたり、相手の誠意を弄んで嘲笑するなどわざわざ恨みを買って自分の命を危うくしたり、一方通行な愛情で相手を縛って夢想の計画の主要登場人物に仕立てたり、なんていう愚は犯したくないものであります。

 『幻の女』はハヤカワ・ミステリ文庫から3種のヴァージョンが、これまでに出ている。初めは1979年8月に稲葉明雄・訳で。次は1994年初夏(?)、改版を機に稲葉が訳文へ手を入れたヴァージョン。そうして2015年12月の、前述の黒原による新訳版だ。本邦初訳は最初の文庫化に先立つこと四半世紀以上も前の1950年、『宝石』5月号に一挙訳載された黒沼健・訳。
 黒沼訳はその後ハヤカワ・ポケット・ミステリ、通称ポケミスに収められたが(第183番 1967年10月)、早川書房は1972年9月から刊行開始した≪世界ミステリ全集≫の第4巻収録分から稲葉明雄・訳に差し替えて、1979年のハヤカワ・ミステリ文庫を経て2015年の黒原・新訳版へ至る。
 この機会だから、有名すぎる冒頭の一文を3人の翻訳者がどのように日本語へ置き換えたか、以下に引いて鑑賞してみよう。
 「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といったところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた」(黒沼健)
 「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・旧版)
 「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・改版、黒原俊行)
 稲葉改版の訳と黒原訳が同じなのは、黒原俊行がさんざん検討を重ねた結果、これ以外にないと判断して稲葉の遺族に了解を取った上での結果であることは、新訳版の訳者解説にある通りだ。新訳版からこの部分を引用する際は「稲葉訳」であることを明記してほしい、とは黒原の言だが、本稿ではそれでもあえて上のように処理させていただいた。ご寛恕を願いたい。
 今回わたくしが読書に用いたのは旧版だが、冒頭のみに限ればこの版を断然支援する。冒頭のみ、というのは如何せん翻訳が昭和40年代なかばであるため、今日では固有名詞はもちろん会話や叙述の一部に時流にそぐわない部分が目立ってしまい、読書の流れを刹那途絶えさせることが一度ならずあったからだ。まぁ仕方ない。これから『幻の女』を読む人は新訳版がやっぱり良いのかな。新刊書店で買えるしね。
 顧みて思うのはこの手の小説は細切れに読むものじゃぁないな。自身に則していえば、せめて帰りのみでなく行きの通勤電車のなかでじっくり読み耽ることができていたなら、と溜め息交じりに後悔している。◆

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