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第2616日目 〈横溝正史「不死蝶」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 事の起こりはこうだった、──
 金田一耕助ははやる気持ちを抑えて信州へ向かう列車のなかにいた。ふだんは断る身元調査を今回に限って承けたのは、東京の事務所に舞いこんだ脅迫状に俄然闘志を奮い立たせられたからだった。と同時に目的地である信州射水が鍾乳洞で知られた土地だったせいもある。然り、このとき金田一の脳裏に浮かんだのは、『八つ墓村』の事件であった。元を正せば今回の依頼も『八つ墓村』事件を知る警察関係者の仲介があった由。
 さてその射水の町には来日中のブラジルのコーヒー王の養女、鮎川マリが母親と使用人を伴って滞在していた。金田一をこの地へ招いたのは町の素封家矢部家の当主、杢衛である。かれ曰く、鮎川マリの母、君枝は23年前にこの町で起こった殺人事件(現場はやっぱり鍾乳洞!)の最重要容疑者で事件直後に姿を消して消息不明な玉造朋子に相違ない云々。玉造家は矢部家と並ぶ町の素封家で、今日なお栄えている名家。
 かつて矢部家の男と玉造家の女が相思相愛の仲になった。が、如何せん『ロメオとジュリエット』を地で行くような両家のいがみ合いは、かれらの恋愛を到底許さなかった。ゆえにかれらは人目を避けてもっぱら鍾乳洞にて逢い引きを重ねるようになるが(ああ、これも『八つ墓村』ですね)、遂に現場を押さえられてしまった。洞内の<底無し>といわれる井戸の傍らですったもんだが演じられた挙げ句に殺人が勃発。その日を境に玉造朋子は失踪して行方は杳として知られなかったのであった。
 そうして<時>は流れて現在。鮎川マリが町の有力者たちを招いてパーティーを催していた晩、鍾乳洞のなかの件の井戸のそばで再び人が殺された。被害者は金田一の依頼人であった矢部杢衛。帰郷する気でいたかれだったが、矢部家の人々から引き留められて杢衛老人の事件の捜査を依頼されたことで、射水の町に留まることにした。
 しかしながら当然、事件はこれで終わらない。惨劇はなおも繰り返されたのだった。
 誰が凶行に手を染めているのか、動機はなにか。鮎川君枝と玉造朋子は果たして、町民の囁き交わすように同一人物なのか。やがて金田一耕助は呆然とするような事実に辿り着き、真犯人と対峙して痛烈な一言を浴びせるのだった、──
 ──タネを明かせば、人々の予感は当たっていた。やはりかの人物は23年前の失踪者と同一人だったのだ。身も蓋もないことをいうてしまえば、ミステリ小説には素直に騙される=探偵と一緒に犯人捜しに参加しないことを信条としている(……んんん、ん?)わたくしでさえ、このみずぼらしい一人二役のトリックを見破れてしまいましたよ、もう! はじめの1/4程度の箇所、具体的にいえば上述のパーティーの場面ですな。なんだかね、「さぁ皆さん、ここでトリックをばらしちゃいますよ、必然的に犯人の見当もついちゃいますよ」と作者に予告されているみたいな描き方でね……。いやはやまったくもう。
 トリックは割れて、犯人の目星もついた。となれば関心の矛先は否応なく、<いつ暴露されるのか>、<それまで如何に欺くか(欺こうと悪あがきするか)>に向けられる。さりながらもはや既にトリックは割れて犯人の目星もついており、この先とんでもないドンデン返しがない限り胸に兆した確信が木っ端微塵に砕かれることはないだろう──となれば、必死になって真相をひた隠してその場を取り繕おうと懸命な犯人サイドの行動が哀れを通り越して滑稽でしかなくなってくるのも、致し方ないところであるまいか。もうバレバレっすよ、マリさんと先生……。
 「不死蝶」は鮎川家がオールスター・キャストで臨んだ公演の記録である。お粗末で穴だらけの台本、詰めの甘いトリックと漏水気味なアリバイ工作、アドリブの効かない、そのくせ演技過剰な役者たち。話が進めば進むだけ虚しさと退屈さがこちらの心身を蝕んでゆくこの田舎芝居を、わたくしは金田一探偵や射水の人々の後ろから見物してどうにも欠伸を抑えることができなかった。
 世評がどうあれ、わたくしは「不死蝶」を出来の良い作品とは思わない。控えめにいうても「下の上」だ。
 が!
 しかし、である。
 本作の真のクライマックス──事件解決からしばらく経って季節が変わり、そろそろ鮎川マリ一行がブラジルへ帰国しようという頃、東京で金田一がマリに対峙して事件の真相をゆっくり紐解いてゆく件りだけは読んでいる間中、心の底からぞくぞくさせられたな。興奮と驚愕の釣瓶打ちでね……まさしくだったんだ。  加えてマリの、合理的かつ即物的な考え方と行動に珍しく憤りを抑えられずにいた金田一がくだす、冷徹にして激越な鉄槌がとっても印象に深いのである。21世紀の今日とは価値観が異なろうけれど、外国人のザッハリッヒなところと日本人の情感がぶつかり合った、短くも鮮やかなこの場面がなかったらば、おそらくわたくしは「不死蝶」てふ作品を顧みることはなかっただろう……。  ──ところで。今回読書に用いたのは昭和50(1975)年4月初版、同51(1976)年8月9版の角川文庫だが、本文用紙がいつもの酸性紙(?)ではなく、ツルツルピカピカ光沢ばっちりな上質紙(? コーティング紙?)になっている。やはり昭和51年8月7版の『鬼火』も用紙については同じである。これで話が済めば問題ないのだが、困ったことに同じ時期に印刷された角川文庫でも本文用紙が光沢紙なものと酸性紙なもの両方が混じっているのだ。数年前に日本を襲ったオイル・ショックの影響なのか。それぞれで印刷会社が異なるためなのか。もしそうならば、折しも到来した<横溝ブーム>により複数の印刷会社を稼働させて増刷に増刷を重ねた結果なのだろうか。  まぁ特に不満というべきはないんだけど、そうね、あえて挙げれば本全体が重いことと、用紙に光が反射して目が痛くなることか。おまけにシャープペンや鉛筆で読了日或いはメモを残しづらいことも、挙げておこう。  刊行当時の世界情勢や国内消費、流行など種々の背景がこの文庫1冊に詰まっているかと思うと、偶然古書店で手にして購ったものであるにもかかわらず、にわかに時代の証言者の輝きを放ち始めるのだから、ふしぎだ。こういう点を切り口にして、出版史・印刷史の深い森に分け入ってゆくことができるんだな、きっと。もしかするとこのあたりを説明している本が、紀田順一郎や他の人にあるかもしれない。ちょっと書庫にこもって探してこよう、っと。◆
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第2615日目 〈横溝正史「蜃気楼島の情熱」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「蜃気楼島の情熱」は資産目当ての殺人としてはその残酷さ、冷血ぶりの際だった一品として、記憶から消し去りがたき読後感を残す短編だ。
 1度ならず2度までも、妻を殺された男がいる。単に「死んだ」というなら青ひげ公だが、その死について青ひげ公の容疑はいつだって限りなく黒に近い灰色だ。が、件の男は正真正銘、他者に愛する妻を殺されたのだった。はじめはアメリカで、つぎは瀬戸内の沖の小島、通称<蜃気楼島>にて。
 男の名前は志賀泰三。アメリカで財を成して帰国するとかの島を買うて、統一感のまるでない邸を建てた。落成からしばらく後、志賀は滞米中に知己の仲となった久保銀三を招く。その久保は友人、金田一耕助を誘って志賀の招きに応じた。久保銀三と金田一耕助、『本陣殺人事件』以来のランデヴーである(くすくす)。
 物語はこの久保と金田一がランチで蜃気楼島へ向かう場面で幕を開ける。そうして予想通りその晩、志賀の細君、静子(妊娠中)が独り休んでいる寝室で殺された。死因は絞殺、果たして何人が彼女を──卑しい身の上から島の女王と称される地位にまで出世した彼女を手に掛けたのか? 疑いの目はその日、志賀家の客になっていた樋上四郎へ向けられた。樋上はアメリカ時代に志賀の前妻を殺した犯人である。が、樋上は頑迷に己の犯行を否定した。しかも犯行時刻と思しき時間、自分は30分程寝室にいたが静子はどこへいったものか、そこにはおらず、結局会えずに自室へ戻ったのだ、と主張してやまぬ。斯くして金田一耕助は捜査に乗り出し、邪悪としかいいようのない犯罪の全貌へ迫ってゆく──。
 果たして真相は醜悪にして唾棄されるべきそれであった。有り体にいえば、志賀泰三の財産に目がくらんだ親戚、村松一家による家族ぐるみの犯行だったのだ。静子夫人が凶刃に倒れたのは志賀の許へ輿入れした彼女への嫉妬と、相続人となる初子の懐妊が招いた危機感から。
 村松家の人間たちが張りめぐらした、周到にして狡猾な罠が志賀を否応なく犯人に仕立てあげ、自分たちはかれが失墜した後その財産を分捕るために、真綿で包むが如くじわじわと、だが確実に、追い詰めてゆく。
 ゆえに故村松滋の葬儀の席上にてその父、恒は志賀にそれとなく仄めかした──静子夫人と滋が不義の関係を結んでいたことを。夫人のお腹の子が滋の胤である可能性の示唆と、静子夫人の死が志賀の犯行と参列者に思いこませるお膳立ても、併せて忘れずに。
 おまけに村松家の女どもは揃いも揃って性悪である。利己心に長けて、他人の神経を逆撫ですることにかけては天下一品、他の金田一作品を見廻しても、金銀財宝に目がくらんで容赦なく親族を陥れることに躊躇いも良心の呵責も感じさせない連衆は、なかなかいなかった。
 作中にてはっきりと描写されないものの、金田一にとって思い出すだけでも胸くその悪くなる──一片の思念すら覚えることのできぬ犯人だったのではないか。曰く、──
 「この事件の動機はなかなか複雑だと思うんです。成功者にたいする羨望、看護婦から島の女王に出世した婦人にたいする嫉妬、そういうもやもやとした感情が、……爆発したんですね。ですけれど、ぼくはやはりこれを貪欲の犯罪だと思いますよ」(P288-89)
 そんな犯罪計画と実行のダークぶりに思わずこちらも気持ちが暗くなるが、じつは、本作にはそれをわずかかもしれないが軽減させる要素がある。それが、蜃気楼島を中心に据えた秋の夕暮れの光景だ。就中志賀の情熱の結晶たる館を浮かびあがらせる、宵闇迫る黄昏刻の描写である。そうしてそれは、いびつな夢の終わりを予感させもして──。
 『悪魔の手鞠唄』では雨に煙る須磨の、薄墨で輪郭をぼかした描写が印象的だった。「蜃気楼島の情熱」でも夕暮れ、殊<秋の夕暮>てふ物寂しさと終末を予感させる、或る意味で日本人の(DNAに組みこまれた)情緒に訴えかける最強クラスの描写が効果的に、要所要所で折りこまれているのだ。
 黄昏刻の、逢魔が時の、静かに表情を移してゆく空の色、風の気配、海の色の深まりといった島を巡る情景の一々が、わずかな描写で読者の心を囚えて、折口信夫いうところの<ほう、とした想い>を抱かせるのだ。
 この、秋の夕暮れが作品全体を支配するわけだが、志賀夫妻の行く末までも暗示していることは、敢えてわたくしなどが指摘するまでもないだろう。
 ──登場人物の相関関係、犯人の邪悪さ狡猾さ、情景描写の深まり具合、財産家の哀しみと名探偵の憤り、幕切れでそっと示される一縷の希望。そんな様々な因子が響き合い、絡み合い、調和して読者の心へ訴えかけてくる小さな交響曲……わたくしはこの「蜃気楼島の情熱」をそんな風に捉えて鍾愛している。◆

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第2614日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『赤毛のレドメイン家』を読んでいるとその悠然とした情景描写、細かな心理描写、微に入り細を穿つ人物描写に陶然となる。黄金時代本格ミステリの名作を読んでいる、というよりも、19世紀から20世紀初頭に書かれて親近してきたイギリス文学のメインストリームへ接しているような、そんな既視感に襲われることもしばしばあった。
 イーデン・フィルボッツ(1862〜1960)は生前トマス・ハーディと人気を二分した田園小説の大家で、1927年には20巻から成る全集が刊行されるぐらいの文壇の重鎮であった。そんな人物がミステリの筆を執った。日本風にいえば還暦すこし前からミステリ小説を刊行しているとのことだが、仄聞するところでは若い頃より推理や怪奇の味わいのある作品を発表していた由。『赤毛のレドメイン家』は1922年、フィルボッツ60歳の作品である。
 もともとイギリスという国は純文学作家でも生涯に何作かのミステリや怪奇小説を書くような伝統があって、しかもそれがジャンルのマスターピースになっていることが多いから、フィルボッツが公然と本格ミステリ小説を還暦間際に刊行して、以後も秀作を発表し続けたことになんら不思議はない。というよりも、イギリス文学そのものがミステリ小説のスタイルをまとっていることが多いのだから、フィルボッツのような経歴の作家がミステリ市場に顔を出すのも当然といえば当然であろう。
 『赤毛のレドメイン家』の舞台は前半がイギリス・ダートムア、後半はイタリア・コモ湖。フィルボッツの筆はダートムアを描いてドイルの『バスカヴィル家の犬』とはまた違った陰鬱寂々の光景を読者の心胆を寒からしめ、コモ湖一帯を描いて前半とは打って変わった草木一本に至るまで太陽に照らし出された楽園のような光景を現出させる。
 ダークネスなダートムアを背景に展開するのは美しき未亡人を巡るロンドン警視庁の警部とイタリア人男性の恋の鞘当て、シャイニーなコモ湖ほとりの明媚な場所で着実に遂行されてゆくのは残忍な犯人と名探偵の頭脳戦。言葉を費やし筆を尽くして舞台となる地が描かれているからこそ、登場人物も血が通い肉を備えた生身の人物となり得るのだ。
 同時代に書かれたミステリ小説を見渡しても(もちろん、翻訳されているもののなかで、という前提になってしまうのだが)、『赤毛のレドメイン家』ぐらい人物と心理、或いは情景の描写が細かくされている作品はないように思う。このような点がおそらく現代の読者に敬遠されて、鈍重・退屈・冗長などと拒まれているのかもしれない。
 が、小説は常に時代の風潮を反映する。『赤毛のレドメイン家』が発表された1920年代イギリス文学のトレンドはジョイスやエリオットに代表されるモダニズムであったけれど、ディケンズやサッカレーが活躍したヴィクトリア朝の文学様式がいっせいになりを潜めたわけでは当然、ない。時代の旗手的役割は他へ譲ったと雖も、まだまだ往時の作家はじゅうぶん健筆を揮っていた。
 フィルボッツの場合はたまたま田園小説よりもミステリで、殊日本では知られるようになったから、かれが現役であった時代の小説のスタイルや特徴など背景にじゅうぶんな注意を払う作業を怠った連衆が、己の一知半解を棚にあげて槍玉に挙げているだけのように思えるのだ。ジャンル小説一辺倒の読者が陥りやすい弊害といえようか。
 『赤毛のレドメイン家』の場合、情景描写と人物描写に力が注がれていたけれど、『闇からの声』(1925)になると犯人の心理描写に重点が置かれていることから、フィルボッツはこれまでの田園小説では描くことが難しかった人物を創造することに関心を向けた様子である。
 『赤毛のレドメイン家』の犯人もなかなか狡猾で残忍・無情な悪党であったけれど、『闇からの声』の犯人はそれを上回る存在として登場する。が、いずれも人物描写/キャラクター造形の確かさがあるからどれだけ卑劣なことをやってのけても、抗いがたい強い魅力を備えた人物として、探偵役よりも深い印象を残すのだった。
 ──イギリスのミステリ作家のなかでキャラクター造形がうまいのは誰か、と問われたらアガサ・クリスティの名はいっとう最初にあげられるだろう。そのクリスティにはデビュー前のちょっと知られた逸話がある。小説家を志していた少女の時分、隣の家に住んでいたずうっと年上の、文壇の長老格であった人物に創作のアドヴァイスを請うた。その後、彼女は夢を実現させて1920年に『スタイルズ荘の怪事件』でデビュー、以来半世紀になんなんとするキャリアの第一歩を踏み出した。が、流行作家になってもデビュー前に受けた恩情を忘れることはなかったようだ。彼女は『エンド・ハウスの怪事件』(1932)を件の大先輩にささげて感謝を表している。その先輩作家こそ、『赤毛のレドメイン家』の作者イーデン・フィルボッツであった。◆

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第2613日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 ここ1.5ヶ月ほど昨年末からゆるゆる続けてきた横溝正史読書マラソンを中断し、<この際だから海外ミステリの古典を──買い溜めしている分だけでも──読んじゃおうプロジェクト>パート1に取り組んでいる。
 そうして8月15日、終戦記念日のあたりからは都合3冊目となるイーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』(宇野利泰・訳 創元推理文庫)を読み始め、作業はいまも鋭意進行中だ。間もなく1週間になろうとしているけれど、今日でようやく半分ぐらいを消化。満を持して名探偵登場の第11章がいまである。
 じつは名探偵登場までのつなぎ役でしかないと判明するに至った前半パートでの捜査担当、ふしぎにも「探偵」と訳語のあてられているロンドン警視庁のマーク・ブレンドン警部は、読者からすれば愚鈍の人である。とんだヘマをしでかしてそれに気がついていない/気がつこうとしていない、優秀な警官であると説明されても、なんだかなぁ……とその能力に疑心暗鬼な思いを抱かざるを得ない人。自分の思いこみを後生大事にするのはいいが、それを絶対的なものとして捜査の第一歩から誤った方向へ突き進んでゆくのは、危険である。被害者側からすれば、トンデモ警官でしかない。
 おーい、そっちじゃないよ、君の行くべき道は。目の前の人物が自分に見せる媚態や言葉を、あまり真に受けちゃあ駄目だよ。そんな風に忠告したい場面は、多々ある。
 でも、警官としての能力はさておき(=あまり評価していない)、被害者遺族なかでも未亡人となった女性に寄せるブレンドン警部の気持ちは、頷けるところが多いのです。恋愛と職務を天秤にかけたり、相手の心変わりが必ずしも本心からではないと自分を納得させようと努めるあたりね。一歩を踏み出すべきところで踏み出す勇気のないスコットランド・ヤードのミスター・マーク・ブレンドンが、そんなときたまらなく自分に似ていて好きになっちまうのですよ。なんだかこの恋(……?)の顛末もそっくりで──いやいや、それはともかく。もっともおいらの場合、その感情は<恋>ではなく<蔑み>/<憎しみ>/<恨み>でしたが、まぁそれはどうでもいい。思い出すたび心の荒れ狂う過去あっての、幸福で満ち足りた現在なのだから。
 おそらくミステリに於いて「恋は盲目」の実例を1人挙げよ、なんて設問があったら即座に名前の挙がる筆頭候補でありましょう。そのくせこの人、終盤になるとそれをちょっぴり否定してみせたり、あげくに苦い経験を味わってイギリスへ帰郷するのですから……盲目がもたらした癒えぬ悔恨ここに極まれり、という感が致します。
 ──この感想の第一稿を綴っている8月後半、『赤毛のレドメイン家』はいよいよ舞台をイギリス・ダートムア(バスカヴィル家!)からイタリア・コモ湖へ移し、名探偵ピーター・ガンズ氏が読者の前に姿を現そうという章へさしかかった。物語はようやっといちばん大きな転換点を迎える。そうして清書しているいま9月半ば、再び物語は大きな転換点を通過してガンズ氏がイギリス帰郷の車中にて謎解きをしてみせている。
 もはや疑いもなく来週中に読み終われること必至だ。為、はじめの予定通りに読了の感想は9月終わりか10月初めにはお披露目できそうである。ちょっと安堵。第一稿では〆の言葉、「どうか読者諸兄よ、期待しないで……否、期待していてほしい……かな。うん」という不安を抱かせる終わり方であったが、明るいニュースをお届けできてとってもうれしい。さて、では途中途中で記していたメモを動員して、そろそろ読了の感想を認める準備を始めようか……。その前になんだかお腹減ったな。◆

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第2612日目 〈ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 サスペンス小説の傑作、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』をようやく読了。台風12号による濡れからの回復を待ってのこの日となった。
 「ようやく」には2つの意味がこめられている。1つは通勤電車(もっぱら帰り)のなかを始めとする日々の細切れになった時間での読書ゆえ、どうしても読み終えるまで日にちがかかってしまったこと。もう1つは題名も著訳者も表紙カバーも粗筋も乱歩の挿話も昔から知っていたにもかかわらず読む機会を作ろうとしなかったため、人生の折り返し点をとうに過ぎたいまになって読んだのだ、ということ。
 ──妻殺しの濡れ衣を着せられた男、スコット・ヘンダースン。かれには妻が殺害された時刻の完璧なアリバイがあった。が、無実を証明できる女の存在を認める者は誰もいない。いえ、あなたはお一人でしたよ。万策尽きたスコットは親友ジョン・ロンバートに<幻の女>探しを依頼、斯くしてロンバートは女の手掛かりを求めてニューヨークの街を彷徨い歩く。探索行の果てにやがてあきらかとなった衝撃の事実とは──?
 スリルを盛りあげサスペンスをあおるには、センスがいる。そのセンスとやらを如何なる方法で料理するか。ここがシェフたる作者の腕の見せ所だけれど、アイリッシュはそれを章見出しでやってのけた。あっさりと、あざやかに。「死刑執行前 ◌◌日」……今日ではさして目新しくもないやり方だが、発表当時としては結構斬新だったろう。1942年の作品なのだ、この『幻の女』は!
 冒頭の有名な一文からして多くの作家へ影響を影響を与えた作品だけにプロットのみならずシチュエーション、犯人、トリックやアリバイなど、読み手によってはデジャ・ヴを覚えるかもしれないが、やはり時の流れに耐えて今日なお読まれる名作である。後続の作品群ではあまりお目にかかれぬ風格と破壊力を備えている。乱歩の評言はそれから70年以上を経たいまもなお、じゅうぶん通用するものであろう。いや、それにしても終盤であかされた<幻の女>の正体と、スコットと別れたあとの顛末には、ぎょっ、とさせられたよ。ちょっと薄ら寒くなったね。
 この古典的名作を今日巷にあふれる有象無象のミステリ小説を読みちらした目で読むと、センチメンタル過多な雰囲気に抵抗を感じ、省略を利かせた文章にしばし憶測を重ね、たまに冗長と映る描写に退屈を覚えたりもして、残りのページを指の腹でぱらぱら目繰って道通しの感を深めることたびたびであった。
 が、その一方で、経年劣化こそ否めぬものの時の波へ抗って常に版を重ねて読み継がれてきた要因に、上であげた点のあることも本当のところなのだ。ドライでありながら非情に徹しきれぬ甘くて優しい空気感が全編に垂れこめ、冗長な描写と思うたのは端役に至るまでその場限りの紙人形となるのを避けんがためのテクニックであり、物語に深みと制裁を加えるスパイスであった。
 省略の利いた文体とはハメットやチャンドラーのようなハードボイルド小説でお馴染みだけれど、アイリッシュのこの作品についてはちょっと事情が違うようだ。簡単にいえばハメットたちの文章が意識して作られたものであるのに対し、アイリッシュのそれは意識することなくふとした拍子に体のなかから自然と湧き出た文章に思えるのだ。
 新訳版の訳者、黒原俊行は一例として、妻の死体が運び出されるのをスコット・ヘンダースンが見つめる場面を挙げるが、件の文章テクニックに呑まれてうっかり読み流したことに気附き、急いで立ち止まって「この場面で起こっている(行われている)けれど描かれていないことはなにか」と考えこむ羽目に陥ることしばしばなのである。
 わたくしの印象ではこの現象、2人以上の人物が同じ場面に出ていて、皆等しくそれぞれの役をこなしている箇所にて顕著なようで、ここから転じて、もしかするとこのあたりにアイリッシュの弱点があるのではないか──多くの登場人物が一堂に会したときの各々の書き分けに苦手意識を持っていたのではあるまいか、アガサ・クリスティやスティーヴン・キングと違って、と邪推してしまうのだった。さりながらこの文体がサスペンス小説でも効果的なのは第12章、若い女がバーテンを追いつめてゆく、殆どこの2人だけで進められてゆく一連の場面を読むと納得なのである。
 1つの結婚生活の終わりから始まる犯罪──夫婦のどちらに原因があろうとも、激情に駆られて家を飛び出すや行きずりの女と夜の一時を過ごしたり、相手の誠意を弄んで嘲笑するなどわざわざ恨みを買って自分の命を危うくしたり、一方通行な愛情で相手を縛って夢想の計画の主要登場人物に仕立てたり、なんていう愚は犯したくないものであります。

 『幻の女』はハヤカワ・ミステリ文庫から3種のヴァージョンが、これまでに出ている。初めは1979年8月に稲葉明雄・訳で。次は1994年初夏(?)、改版を機に稲葉が訳文へ手を入れたヴァージョン。そうして2015年12月の、前述の黒原による新訳版だ。本邦初訳は最初の文庫化に先立つこと四半世紀以上も前の1950年、『宝石』5月号に一挙訳載された黒沼健・訳。
 黒沼訳はその後ハヤカワ・ポケット・ミステリ、通称ポケミスに収められたが(第183番 1967年10月)、早川書房は1972年9月から刊行開始した≪世界ミステリ全集≫の第4巻収録分から稲葉明雄・訳に差し替えて、1979年のハヤカワ・ミステリ文庫を経て2015年の黒原・新訳版へ至る。
 この機会だから、有名すぎる冒頭の一文を3人の翻訳者がどのように日本語へ置き換えたか、以下に引いて鑑賞してみよう。
 「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といったところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた」(黒沼健)
 「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・旧版)
 「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・改版、黒原俊行)
 稲葉改版の訳と黒原訳が同じなのは、黒原俊行がさんざん検討を重ねた結果、これ以外にないと判断して稲葉の遺族に了解を取った上での結果であることは、新訳版の訳者解説にある通りだ。新訳版からこの部分を引用する際は「稲葉訳」であることを明記してほしい、とは黒原の言だが、本稿ではそれでもあえて上のように処理させていただいた。ご寛恕を願いたい。
 今回わたくしが読書に用いたのは旧版だが、冒頭のみに限ればこの版を断然支援する。冒頭のみ、というのは如何せん翻訳が昭和40年代なかばであるため、今日では固有名詞はもちろん会話や叙述の一部に時流にそぐわない部分が目立ってしまい、読書の流れを刹那途絶えさせることが一度ならずあったからだ。まぁ仕方ない。これから『幻の女』を読む人は新訳版がやっぱり良いのかな。新刊書店で買えるしね。
 顧みて思うのはこの手の小説は細切れに読むものじゃぁないな。自身に則していえば、せめて帰りのみでなく行きの通勤電車のなかでじっくり読み耽ることができていたなら、と溜め息交じりに後悔している。◆

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第2611日目 〈A.Aミルン『赤い館の秘密』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 作者アラン・アレクザンダー・ミルンは初めてのミステリ小説『赤い館の秘密』を、ミステリ小説好きの父親を喜ばせんがために執筆した。父ジョンは私立学校の経営者であったが、標準的英国人らしくミステリ小説を日々の慰みのようにして、好んで読んでいたようだ。
 ジェームズ・ヒルトンのチップス先生も間借りする部屋へ置いた書棚のいちばん下の段に、廉価版のミステリ小説をぎっしり詰めこんでおり、ちょっとした隙間時間に好んで読んだという。おそらくはミルンの父君も同じように仕事と家庭の狭間の、独りに帰れる時間に読書へ没頭していたのだろう。
 『赤い館の秘密』の「献呈」に曰く、「長年お世話になったお返しに、せめてぼくにできることは、その推理小説をお父さんのために一作書くことでした。そして出来上がったのが、この作品です」(P9)と。
 父親を意識して書いたミステリ小説といえば、連城三紀彦が即座に思い出されるけれど、あちらがミステリの極北を目指してひたすら深化・純化していったのに反してミルンの方は、……
 『赤い館の秘密』はプロットもストーリーもキャラクターもトリックも、いずれを取り挙げても至極単純である。集英社文庫版に一文を寄せた赤川次郎は、犯人もトリックもすぐに見破れた、と述べているが、然り、犯人には最初から疑惑の目が向けられており、状況証拠や証言の数々から読者は早い段階で「たぶん/きっと、○○を殺害したのは○○だろう」と推理できる。
 トリックについても、睡魔等に惑わされて読み流したり、ちょっと退屈になってきたから読み流しちゃえ、なんて不届きな行為に走りさえしなければ、見破るのは容易だ。探偵やその相棒と共に行動して同じものを見、同じことを聞き、立ち止まってそれまでの収穫について検討を加え推理を巡らせ論理を組み立てるならば、かならずや疑惑が確信に変わり、事実であることが証明される瞬間の法悦を味わえることだろう。おためごかしの発言ではない。告白すればわたくしだって物語が半分ばかり進んだところで、犯人こいつだろう、動機はこれだろう、トリックはこんな風だろう、とわかってしまったのだ。
 斯様にミステリ小説としてはフンドシのゆるい『赤い館の秘密』だが、それが江湖の読者を意識して書かれた作品ではなく、専ら父親への想いが長編ミステリ小説を書くという意欲に先行して結実した作品であるのを思うと、黄金時代の傑作名作に比してやや見劣りがしてしまうのも宜なるかな、というところだろう。われらは本作を読むとき、そこに家族へ注ぐミルンのたっぷりな愛情を感じ取る必要があるのかもしれない。
 『赤い館の秘密』は上質のミステリである。が、それは謎解きの醍醐味やトリックのあざやかさ、緻密なプロットなどを取り挙げての惹句ではなく、本作に漂うユーモアや清潔さ、からっとした明るい雰囲気といった点を指してのものだ。英国人の心をくすぐるカントリーハウス物というところも、点を高くしている要素のひとつだろう。そのシンプルさ、そのひねりのなさ、その読みやすさが『赤い館の秘密』の魅力である。
 『赤い館の秘密』以後のミルンに、ミステリ小説を書き続けてゆく意欲/願望があったのか、或いは(如何なる理由にせよ)『赤い館の秘密』1作だけのつもりだったか、そのあたりは定かでない。しかしながらたった1作、しかもそのジャンルへのデビュー作でミステリ史に残るのみならずエポックメイキング的役割──素人探偵の創造、カントリーハウス物の原点、ユーモアミステリ/コージーミステリの見本、etc, etc──を果たした作品は、そう多くない。
 『赤い館の秘密』はそんな意味でも歴史と記憶に残るべき作品なのだが、もし本作に不幸があるとすれば作品それ自体にまつわることでなく、あの『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、という触れ込みで名を留めた可能性が多分にあることだ。果たして誰がそれを全面否定できようか? 『赤い館の秘密』を紹介する際いったいどれだけの人が、『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、と触れてまわったことか。疑われるならば、さぁどうぞ、グーグル先生へお訊ねになるがよい。
 どんな心づもりであったにせよ、このあとミルンは『四日間の不思議』というこれまた楽しい長編ミステリ小説を物し、幾つかの短編を残した。戯曲で腕を鳴らしたミルンのことだから、こちらの方面でもミステリ作品を書いて上演されれば斯界の評判も上々だったようである。これらのうち何作かは幸いなことに、日本語になっているので大型書店や公共図書館で手にすることが可能だ。
 ミステリの諸要素に瑕疵が目につく作品だけれど、却ってシンプルで読みやすいのも事実。まったく深刻さの影もない、ひたすらのんびりとした、<春風駘蕩>としか形容のない蕩けるような時間の流れる、綿菓子のように甘い口当たりの『赤い館の秘密』。海外ミステリ小説の入門にはぴったりな1作、このジャンルに読み疲れたときの口直しにオススメな1作である。つまり、素人にも玄人にも。◆

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第2610日目 〈スタバの裏呪文メニュー、「ちゃんみおスペシャル」に懸想する。〉 [日々の思い・独り言]

 「Starbucks Rewardsᵀᴹをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 現在お持ちのGold StarがReward eTicketと交換可能な150Starsに達しました。
 (中略)はじめてのカスタマイズを試したり、気になるFoodを楽しむなど、自分のぴったりの楽しみ方を見つけてみませんか?」
──こんなメールを受信したそのときであった、わたくしの野望がむくり、と頭を上げてほくそ笑んだのは。
 というのも……
 さる土曜日、台風12号が関東地方に最接近して「危ないから急用の人以外はぜったい外に出ないでねっ! 約束!!」と注意勧告が出されているのもわかっていながら、横浜一円に降雨はなく、空を見あげても雨雲がないどころか雲の切れ間から陽光すら射しこんでいたのを眺めて「平気だべ」と内心首肯、されど念のためと折り畳み傘が入っているのを確かめた。目指すは紅葉坂、だって本の返却日がその日までだったんだもん。
 赤い電車に乗って最寄り駅まで辿り着いた改札を出たわたくしの目に映ったのは、とんでもない土砂降り雨。弾丸と砲弾が飛び交い轟音炸裂、阿鼻叫喚の交差する戦場を目の当たりにした気分だった──と後日、わたくしは回想した──。
 凄まじかったのは雨音だけでは勿論、ない。道路に雨粒が叩きつけられたときに生まれるかの水煙、それは高さ人のくるぶし程度までしかないものの行く手をさえぎり前進を躊躇わせるにじゅうぶんな障壁──白く濁った壁というに他なかった。勇を鼓して歩道を歩く人はみな一様にたたらを踏み、荒れ狂う風に手にした傘を翻弄されてずぶ濡れに等しい姿となってなかなかな光景が駅改札前、庇の下で一歩踏み出すを恐れる人たちの前に広がっていたのだった。
 が、進むよりなかった。図書館へ行かねば、わたくしはならない。既に本ブログではお馴染みとなったかもしれぬ文句が、さぁ出番だ、とばかりにわが脳裏に響いて執拗に谺した……進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。
 雨が小降りになった瞬間を狙ってわたくしは傘を広げて街へ出た……それがきっかけであったかのように躊躇っていた人々も、それに続いた……数メートル歩いてふと顧みた駅の改札(その庇部分も含めて)、ああもしかすると古の都にあったという羅生門はこんな具合の建物だったのかもしれないな、となんて想起させられたのである。黒光りする駅改札の庇の陰から短い白髪をさかさまにして老婆がこちらを覗きこむ姿が見えそうな……そうしてわたくしの行方は、「誰も知らない」のだ。別に餓死をまぬがれんと引剥をしたわけじゃないけれどさ。
 さて、前置きはここまでだ。途中経過を省略して上述の野望まで話をすっ飛ばそう。ワープ!
 場所は変わって馬車道のスターバックス、わが籠もり場である。その窓際の丸テーブル席で気配を殺して坐り、濡れそぼった服を人目を避けて乾かしながら(脱いだわけじゃないよ!?)、雨粒が路地の向こう側のビルの壁を叩いて煙を上げる様を観察しつつ、リュックのなかが浸水して文庫本やモレスキンの手帳が水を吸っているのに悄然としているときだった。かのメールを受信して野望がむくり、と頭を上げて、にまり、とほくそ笑んだのは。
 と、ここで話は数日前に遡る(おい)。
 「面白いですよ」と同僚から奨められて、たまたまCSにてリピート放送中なのを発見した『日常』というアニメ。すっかりハマって会社から帰った深更、ビール片手に視聴するのが愉しみの一つとなった。
 『日常』とはあらいけいゐち原作のシュールな日常系ギャグマンガ、全10巻(KADOKAWA)。アニメ版は2011年4月から同年9月まで独立系UHF局にて放送された(全24話。別に全12話へ再編集された『日常 Eテレ版』もあり)。詳細についてはGoogle先生にお任せしよう。けっして責任放棄ではない。
 第2期第18話「日常の72」で主人公(の1人)長野原みおが相生祐子(ゆっこ)に誘われて、リニューアルオープンした「大工カフェ」へ寄り道する。そこはかつて街角の喫茶店「純喫茶 大工屋」であった。十字路の角に立地するゆえときどき登場人物たちが信号待ちをしている場面に映っている。
 この大工カフェは第16話「日常の64」に於いてゆっこがオーダーに苦しみ、店員とのやり取りに一々動揺、出されたドリンクを前に消沈して(「ちっちゃ……/ちょー苦げぇ……」)玉砕した、彼女にとっては因縁の場所。エスプレッソのショット、ドッピオを頼む流れは『日常』全体を通して(原作・アニメ共に)上位へ食いこむ爆笑回だ。そうなんだよね、とカフェでエスプレッソ初オーダーしたときの苦い体験を持つ身にはゆっこ挫折の回、同時に笑うに笑えぬものでもあったのだ。古傷が疼くどころではない、疼くそこへ超高濃度の塩をぐりぐり塗られている気分……。
 回は流れて第18話「日常の72」、ゆっこは親友を大工カフェに誘った。リヴェンジにして先輩風吹かせる好機だった──きっと彼女もオーダーに眼を回して四苦八苦するだろう、そうしたら自分が助け船を出してあわよくば尊敬の眼差しを承けよう、なんて目論みもあったろう。
 が、物事には常に想定外の因子が存在する。それを人は番狂わせとも、予想の右斜め上を行くともいう。絵的にいえば、あまりのびっくりに顎が外れることも往々にしてあり得るわけだ。
 その時は来た、みおがカウンターの前に立ち、店員を前にオーダーをするその時の訪れが。後ろに並ぶゆっこは早くもクスクス笑いをこらえられない様子だ。
 が、ゆっこの目論みも空しく、みおはためらうことなくつかえることなく、手慣れた風で、呪文ドリンクをオーダーした。曰く、「ホワイトチョコレートモカフラペチーノのグランデで。あっ、あとキャラメルソース、ヘーゼルナッツシロップ、チョコレートチップエキストラホイップの、エスプレッソショット一杯で」と。
 わたくしがゆっこだったらば、その瞬間プロコフィエフのバレエ曲《ロメオとジュリエット》から〈モンタギュー家とキャピトル家〉の勇ましい音楽が脳裏に再生されたことだろうなぁ、演奏はきっとクラウディオ・アバド=ベルリン・フィルで。
 みおのオーダーで察しのついた読者諸兄も居られようが大工カフェ、オーダーとメニューのモデルはあきらかにスターバックスである。
 スターバックスと来ればわたくし、みくらさんさんかだ。とはいえ恥ずかしげなく「ヘビーユーザーです」と胸を張れたのはいまや昔、本ブログが<聖書読書ブログ>として機能していた時分のこと。いや、ただほぼ毎日通っていたから斯く自称していただけなんですけれど、ね。聖書を読む場所原稿を書く場所を求めて流離い、彷徨して辿り着く先はいつだって海あるふるさとの街、もしくは異動して多摩川を越えるようになって以後は帝都のあちこちに点在するスターバックスだったのだ。坐るところがなくてたまに、更なる流離いを重ねて別の店に腰落ち着かせたこともあったけれど、それはまぁしょうがない。
 そのときかならず呑んでいたのはドリップコーヒー、ホットのトール、マグカップで、そこから浮気したのは片手の指を折って足りる程度しかない。それゆえもあろう、長野原みお嬢が立て板に水の如く呪文オーダーしたようなカスタマイズメニューのできる人に一種、憧れに似たような想いを抱いていたのは。が、それはあくまで<憧れ>に過ぎず実行に移すだけの理由はまったく持てずにいたのだった。
 そんなわけで、残念ながらみおちゃんオーダーの呪文ドリンクを賞味したことは、いちどもない。いつの日か……と思えどそんな日が来ることはない、と心の片隅で理解していた。決められたレールから外れて生きる、その勇気も決断力もなにもないのだ。あるとすれば不安と、外れることを否むために準備された詭辯だけ。
 でも、遅かれ早かれ自分でオーダーする瞬間の訪れが、実現の兆しが、唐突に、かの台風12号の猛威に負けず(いや、事実上負けたに等しいけれど、ここはまぁ言葉の綾という奴だ)到着した懐かしき馬車道はスターバックスの窓外を臨む丸テーブル席に在った夕刻、訪れたのだった。どこに? わたくしのスマホに、メールソフトに。それが、──
 「Starbucks Rewardsᵀᴹをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 現在お持ちのGold StarがReward eTicketと交換可能な150Starsに達しました。
 (中略)はじめてのカスタマイズを試したり、気になるFoodを楽しむなど、自分のぴったりの楽しみ方を見つけてみませんか?」
 (斯くしてお話はここでようやく振り出しに戻る)
 ここで特に重要なのは、「はじめてのカスタマイズを試したり」云々という件。読んだ途端に思いついたのが、ご想像の通りで誤りはない、そう、みおちゃんが頼んだかの呪文メニューを試むことだったのだ。
 聞くところによればJR秋葉原駅に併設される、幾つかのアニメやライトノベルなどに登場する駅ビル内のスタバ──スターバックスコーヒー アトレ秋葉原1店(JR総武線各駅停車千葉方面ホームを窓越しに眺められるカウンター席が、わたくしのお気に入りだ!)ではかつて上記のオーダーが、<ちゃんみおスペシャル>と称して用意されていた由。
 噂の域を出ないけれど、客が「ホワイトチョコレートモカフラペチーノのグランデで。あっあと追加でキャラメルソースヘーゼルナッツシロップチョコレートチップエキストラホイップのエスプレッソショット一杯で」と噛まないように、されど間違わずに注文できたという達成感と共にいい終わるや、「ちゃんみお、入りまーす」と簡略化されたオーダーが入るのだそうだ。がんばって最後までいえた喜びも達成感も、すべてをぶっ潰す無上な一言といえよう。
 これも噂でしかないが、オーダーの際舌を噛みそうな呪文はすっ飛ばして、単に「ちゃんみおスペシャルください」といえばちゃんと通じて、数分後にはカウンター横の赤いランプの下から「ほらよ」とばかりに渡される……らしい。また、透明カップには可愛らしいイラストと一緒に、「ちゃんみおスペシャル」の文字が躍っていたと聞く。
 なんともうらやましく、ほほえましい光景ではないか。そんな現場に遭遇したら、たといちかごろちとやさぐれ気味なわたくしでも目尻をさげて、頬をゆるめて見入ってしまうよ。
 でも「ちゃんみおスペシャル」の価格は約700円、総カロリー数は約600キロカロリー──価格はともかくカロリーについてはなかなか覚悟のいるドリンクだね(経年ゆえにいまはもう「ちゃんみおスペシャル」なる通り名も、すぐには通用しなくなっているようだ)。オーダー直前、レジの前で糖尿病とかメタボとか、そんな気掛かりな言葉と心のなかで戦う人もあると思うのだが……あ、おいらもか。◆

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第2609日目 〈更新できなくてごめんなさい、の挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 先日の火曜日は更新を怠ってしまい、申し訳ありませんでした。業務の引き継ぎが集中して疲労困憊、またその後も仕事が多忙を極めたのを良いことに、お詫びの原稿を書くことすら先延ばしにしてしまっていました。
 本日は「ごめんなさい」というだけに留めます。
 けれど来週火曜日──7日になるのかな──以後はこれまでと同じように週一のペースで更新してゆきますので、どうぞよろしくお願いいたします。既に向こう2ヶ月分の原稿は用意できております。あとは予約更新さえちゃんと設定していれば問題なくお披露目もかなうことでしょう。
 事前予告になりますが、次回のエッセイは長いです。400字詰め原稿用紙に換算して約9.5枚ぐらい……。内容は、まぁいつも通りです(横溝正史の感想文に戻るのは今月末か来月下旬かしら?)。
 本当は08月03日(金)に更新できたら良かったんだけれど……それがなんの日かすぐに思い当たる方はそんなにいないだろうな。まぁ太陽の如き人の生誕日である、とだけ、小声でお伝えしておきましょう。
 それでは今日はこの辺で。ちゃお!◆

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第2608日目 〈中弛みして息切れしているいま、為すべきことは果たしてなにか?〉 [日々の思い・独り言]

 ……横溝正史の感想文だと思った? 残念、今日はそうではない。期待を裏切り申し訳ないが。
 既に書いた記憶もあるがもう一度。わたくしは昨年末からずっと横溝正史ばかり読み耽ってきた。飽きることなく退屈すること(ほぼ)なく次から次へと、1冊が終わるや翌日から新たな1冊に乗り換えて、息つく間もなく、胸をワクワクドキドキさせながら、金田一耕助の活躍に心躍らせてきた……のだが。
 包み隠さずいってしまうと、この2ヶ月弱というもの息切れがしてきて、困っている。「困っている」というても、横溝作品の読書断念を指すのではない(※1)。中弛みしているのを承知のまま読書を続けてゆく危険を感知し、その打開策にあれこれ頭を悩ませているうち、酸素欠乏に陥ってしまうた、という次第。いやはやなんとも。
 なんとなくでもお察しいただけるとうれしいのだが、まだ金田一耕助物のみながら横溝ワールドにどっぷりハマったわたくし、みくらさんさんかは由利先生物はもちろんノンシリーズ作品、人形佐七に代表される一連の<捕物帖>諸作まで、たとい何年を費やそうと生ある限り読んでゆきたいのだ。
 ──そのために、
 質問)中弛みして息切れしているいま、為すべきことはなにか?
 解答)リフレッシュあるのみ!
 身もふたもないQ&Aだろうか。が、これ以上の真理が果たしてあるだろうか……?
 では横溝正史から一旦離れて息抜き/息継ぎに読むのは、なにが良いだろう。酷暑に白旗を掲揚して活動停止を訴える灰色の脳細胞をなだめ、おだてて、息抜き読書に取り挙げる作品の条件を検討し、条件を満たす作品の選別を行った……腕組みして天を仰ぎ、うむむ、と眉間へ皺を寄せ。
 家にいるときも、散歩に出ているときも、電車のなかにいるときも、会社で仕事をしているときも、ビールを飲んでいるときも……健やかなる我はわずかな時間もむだにすることなく考えに耽ったのだ。あらおかしいね、お暇な御仁ね、まじめが聞いて呆れらぁ、オッペケペッポーペッポッポー。
 やがて整えられた条件は本当にささいなもので、──
 1:数日、精々が7日程度で読了できること
 2:ミステリ小説であること
 3:深刻な内容でなく、読書の愉悦を味わえること
 4:どんなに面白かろうと深追いはしないで済むこと
 【4】については説明が必要か。要するに、過去の反省を踏まえたのだ。本道は誰かといえばもちろん横溝正史である、今回はあくまで息抜き/中休みに過ぎぬ。然り、浮気はいけない。わたくしだって学習する、ただ継続的実行が伴わないだけの話。呵々。……ゆえに【4】を加えた次第。
 では次に、作品の選定。やはり頭をぐるんぐるんさせながら候補を思い浮かべては棄却して、を繰り返しているうち消去法に頼らざるを得なくなり、ついに勇断をくだして「これ!」と決めた作品は、──
 A.A.ミルン『赤い館の秘密』
 架蔵している集英社文庫で、翻訳は柴田都志子。<乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10>の1冊だ。創元推理文庫版に手を出さなかったのは、架蔵していないことと訳文が好みでないこと、この2点に起因する。結果として、集英社文庫版を(ずいぶんと前のことだが)購入しておいて良かったな、と思うている。それは即ち処分しないで良かったな、と同義だ。
 そうして横溝正史は短編集『花園の悪魔』(角川文庫)読了を以てまず最初の一区切りとし、いまは上述した『赤い館の秘密』をゆっくり読み進めている……
 といえればよいのだが、もうミルンは5日ほど前に読み終えており、いまはすっかり横溝に戻っている──わけがない。1冊ばかしで息抜きになろうはずもない。
 ミルンに続く作品は流石にちと悩んだが、やや趣を異にする作品を読みたいな、と思うていたので、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワミステリ/旧訳)をチョイス。昨日の通勤電車のなかで読み始めた。
 そのうち、横溝では『花園の悪魔』と『不死蝶』の感想を認め(前者は作品単位でなく1冊まとめての感想となろう)、或いはミルン書くコージーミステリの感想を綴るけれど、それらが本ブログにてお披露目される日の訪れを読者諸兄にはどうぞお待ちいただきたい。
 アディオス、サンキー・サイ。◆

※1 じつは角川文庫で刊行された全点のうち1/3程度を読了しているのに気づいたわたくしは、クリスティや太宰という中断の前例があるのをすっかり忘れて、横溝正史作品を可能な限り読破するという無謀な企みを抱いてしまったのだ。□

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第2607日目 〈横溝正史『びっくり箱殺人事件』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 かつて平井呈一はアーサー・マッケンの佳編『生活の断片』を最初に読んだとき、なんだか勝手が違うと感じて部屋の隅に抛ったが或るとき改めてページを繰ってみたら「こんなすごい作品があったのか!?」と驚嘆、評価を一八〇度転じて握玩の一作となった旨、著作集の解説で披瀝している。
 わたくしもちかごろこのような経験を持った。横溝正史『びっくり箱殺人事件』がそれである。最初は「かったるいもの読んだぁ」と、疲労の吐息まじりに本を閉じたのだが、このたび改めて感想の筆を執るに及んで再読してみたら当初の感慨は吹き飛んで、あとには「異色ながら愛すべき佳編」てふ思いが強く残ったことである。
 大衆芸能の地口を思わせる地の文を魅力に思うのみならず、一筋縄ではとうていゆかぬ登場人物の駄弁雄弁ぶりに以前は辟易したが、いまでは両手を挙げて歓迎だ。
 どうして最初はダメで次は良かったのか、その転換するきっかけはなんだったか──これはもう話は単純で、最初はいままで読んできた金田一耕助物とは著しく異なる勝手にとまどい、次はそれに馴れたからに過ぎない。いちどは最後まで読んでしまっているから、物語の全体が把握できていたという安心感も手伝っていたことだろう。
 殊程然様に本作は、おそらく横溝正史の全著作中でも異色の一作なのではないか。たしかにそれまで読んだ作品でもたびたび、くすり、と思わず吹き出してしまう描写はあったが、それはあくまでシリアスなストーリーのなかに練りこまれた隠し味、或いは一時的な緊張緩和の施策に等しい。
 『びっくり箱殺人事件』が異色なのはプロット、トリック、アリバイ、小道具、動機など<本格ミステリ>の結構を整えているに加えて、この「くすり、とさせられる箇所」を作品全体に広げた結果、<本格>と<ユーモア>が絶妙なバランスで調和した点にある。
 これを奇跡の所産というと、一笑に付されるだろうか。その<ユーモア>が全体を彩っているのが本作に<コージーミステリ>の衣をかぶせている要因だろう、と書けば、もはや失笑レヴェルだろうか……?
 『びっくり箱殺人事件』なる作品あるがゆえに、おそらくその作者を<ユーモア>とか<コージーミステリ>という方面から捉えているのだろうが、わたくしは元より英国産ミステリのファンだからこうしたコージーミステリは大歓迎なのだが、まさか横溝正史の小説を読みすすめてゆく過程でその種の作品に出合えるなんて思いもよらなかったよ。
 本作には幾つもの要チェックな箇所が登場するけれど、ときどき作者が顔を出して物語の進行を促す、その筆捌きもその一つといえるだろう。たとえば、──
 「だが、こんなふうに書いていると、いつまでたってもこの小説は終わらんというオソレがある。なにしろ幽谷先生をはじめとして、駄弁家ぞろいの一党のことだから、いつ何時誰がまたよけいな口出しをして、いよいよますますこの小説を、長からしめる結果にならぬとも限らぬので、暫くかれら一党をことごとく黙殺して」(P76)云々
──など作品全体を損なう結果になりかねぬ、作者という全知全能の神が作品に介入する技術も、ストーリーテラー横溝の手に掛かれば斯様に物語の流れを妨げることなく作中へ埋めこむことができるイコール物語に没入している読者をふと現実に戻してしまう愚を犯さずに済む、というお手本といえるだろう。
 なにしろ『びっくり箱殺人事件』には一筋縄ではいかないような人物が勢揃いし、それぞれ機あらばその場の主役をかっさらうぐらいの勢いで喋り、動いてくれるのだ。とすると、神なる作者による介入は物語を破綻なく滞りなく運行するための、「冴えたやり方」であったか。
 ところで横溝正史は登場人物を指して、こんなふうにやや呆れ顔で、しかし愛情たっぷりに書いている、──
 「まことに春風駘蕩たるものである。幽谷先生の楽屋に集まった怪物団諸公の話しぶりを聞いていると、今宵ここで殺人事件があったなどとはとても思えない。常日頃、こういう世界に馴れている恭子さんだったが、このときばかりは呆れかえってしばらく言葉も出なかった」(P121)
 ああ、この登場人物の自由闊達ぶり、かれらのかもすのどかな空気! 良質のミステリに欠くべからざる余裕と稚気に満ちみちた本作にあって、それは潤滑剤であると同時にトリック解明の鍵でもある。
 安楽椅子へ坐ってコーヒーとドーナツを口にしながら読むにうってつけな、横溝正史版<コージーミステリ>『びっくり箱殺人事件』と出合えた幸福に、感謝。そうして感想文書きという目的があったとはいえ再読の機会が与えられたことにも、感謝。その一方で本作に金田一耕助が登場するはおろか名前だに出されぬ理由も、なんとなく理解できる──、ひとこと、そぐわないよね。
 『びっくり箱殺人事件』を読むにいちばんオススメなのは、読書のためのみの時間がたっぷり取れる日、なにものにも邪魔されないけれど適度に生活音のある環境に身を置くことだ。読書の酩酊を味わうに申し分ない環境を作り出すのは至難の業かもしれないけれど、実現すればそれは贅沢で豊潤な読書経験をもたらしてくれるに相違ない。
 ──自分の反省と経験を踏まえて、上述の如く意見具申させていただく。ちなみにわたくしが読み直したのは、京浜急行本線〜都営浅草線〜京成本線に揺られる約3時間強の遠出に於いてであった。◆

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第2606日目 〈横溝正史「堕ちたる天女」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 トラックの荷台から落ちた石膏像のなかから美女の死体が! 淋しい場所にある謎めくアトリエでは妖しき犯罪がうごめいている! ……まるで乱歩だ、『地獄の道化師』だ……。そんな連想の働くのもやむない横溝正史「堕ちたる天女」が、本日の感想文の俎上に上せられた作品である。
 交通量の多い交差点での荷物の落下事故から、本編は幕を開ける。果たしてその荷物はトラックの借り主たる彫刻家が造った石膏像で、その女像の芯となっていたのは浅草のストリップ劇場のトップスター、リリー木下だった。彼女は筋金入りのレズビアンと評判で、愛する相手もある身だったがちかごろは異性によろめき、かつての愛人とはすっかりご無沙汰であるという。捜査に乗り出した等々力警部にくっついて金田一耕助もかかわってくるが、やがて事件は同性愛者の愛苦を背景にした保険金絡みのそれに変貌してゆくのだった……。
 寡聞にしてわたくしは横溝正史に同性愛者を主要登場人物に据えた作品のあることを知らない。が、すくなくともこれまで読んできた20数編のなかに斯様な人物は見当たらなかったと記憶する。むろん、古今東西、文学に現れたる同性愛は男女問わず多くあり続けて、いまもやや趣を変えて生み出されているが、たとえば近代文学に目を向ければ未だ知られざる山崎俊夫がいるし、横溝と同じミステリ作家では江戸川乱歩という先達があった。
 ただ、やはり時代を感じさせるのは、犯人として終始疑われてなかなか網に掛からぬ杉浦陽太郎がホモになった経緯だ。戦時中、杉浦は戦地で上官や朋輩の慰み者にされ、結果、復員して後も男相手にしか性愛の情欲の抱けぬ心身となってしまった。こうした戦場での異常体験は帰還兵が多く報告乃至証言を残しているが、作中ではこのような性癖を「ソドミア」と呼んでいる。いまは死語だがかつては蔑みと差別の言葉であったのだ。
 今日のようにその性癖が江湖に知られ、国によっては同性婚さえ認められるようになった時代であれば、リリー木下も杉浦陽太郎も救われたことであったろうに、と21世紀の世界の寛容を顧みて思うのである。
 ──杉浦のこうした性癖を更に哀しくさせているのは、真犯人によって巧みにそれを利用され、濡れ衣を着せられた挙げ句、殺されて人目につくこと稀な所へ棄てられたことだろう。同性愛が世間の理解を得られぬ、蛇蝎の如く厭われていたような時代、その性癖を知られることはおそらくいま以上に悲劇的かつ絶望的、見えない檻に囚われて一切の希望も自由も失われたに等しいことだったかも知れない。
 同性愛という要素をかりに取り払ったとしても杉浦と真犯人の力関係を思うとき、嗚呼、組織てふ透明の檻に囲まれて唯々諾々と日々を過ごす一人であるゆえにわたくしはそれを、訴えるに訴えられぬ類のパワー・ハラスメントに置き換えてしまうのだ。そうして瞳が潤み、憤りのようなものが腹の底で生まれるのを禁じ得ぬのである……。
 長口舌を揮うたが、なにも杉浦に限ったことではない、第一の被害者であるリリー木下も同じで彼女もまた愛を信じた相手に裏切られて殺されたのである。永い春がもたらしたマンネリな関係に刺激を与えてみましょうよ、なんて愛人の提案が、まさか自分を死に至らしめる周到かつ狡猾な罠だったとは知る由もなく。男装した相手を新たな恋人と周囲に吹聴して、これまで経験したことがないような日々の終わりに待つのが自分の殺人計画であるとは、露とも知らず、彼女は愛に生き、愛に殺された。
 然り、真犯人は共謀して哀しき同性愛者を脅し、騙し、欲望成就のマリオネットとしか扱わなかった卑劣漢である。かれらはリリー木下を殺して彼女に掛けられていた保険金をせしめ、口封じに杉浦のみならず2人の女性までも毒牙に掛けてその命を奪った。過去に犯した保険金殺人だけでは満足できないお金に飢えたかれらは、戦争を挟んで此度もまた同じような殺人事件を計画して実行した。その非道ぶり、その冷酷残忍なる様、作中結びの一章にて金田一耕助が、「鬼畜も三舎を避ける」(P357)と評し、終いには「ぼく……ぼく……こんな凶悪な犯罪のカップル、見たことがない。あいつらは悪事を享楽しているんです。気持ちが悪い。吐きそうです」(P357)とまで言い捨てるのだ。こんな名探偵、珍しい。
 かれらの失敗はそこに金田一耕助がいたこと、それに尽きよう。金田一あったればこそ戦前に岡山県であったお宮入りした保険金殺人とのつながりが見え、一挙に2つの事件が落着するに至ったわけだから。これがどういうことかといえば、本作に於いて東の等々力警部と西の磯川警部が初共演し、がっちり握手を交わすのである。
 同性愛を物語の核に持ってきたこと、扱う事件が21世紀の今日も折節報道される保険金殺人であることのみならず、金田一がそんな仮借ない台詞を吐いたという一事だけでも「堕ちたる天女」は、これからも読み継がれてゆくに足る佳編と結論してよいだろう。
 初出は『面白倶楽部』(光文社)昭和29/1954年6月号。◆

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第2605日目 〈横溝正史「貸しボート十三号」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 以前はミステリ小説を読みながら「犯人当て」に挑んだものだった。それが最高潮に達していたのはちょうど1年前だが、ちかごろはそんな意欲もまるでなく、物語に心をゆだねるだけでじゅうぶんと思うている。
 探偵がトリックやアリバイ崩しに能弁垂らすのを傾聴し、犯人を指摘する件りに「ほう」と多少の驚きを表明し、大団円を迎えた物語に満足を覚えて本を閉じる……この間の気持ちをかんたんに述べるなら、「そのうち探偵が真相に気附いて犯人を名指しし、トリックやらなにやらについて解説してくれるンだろうな」と……或る意味、ミステリの読者としていちばん理想的かついちばんお呼びでない読者であるやもしれぬ。
 その代わり、というのでは勿論ないが、この頃ずっと読み耽っている横溝正史については「探偵小説の醍醐味を味わう」というより作中に描かれた時代風俗や地理に興味を惹かれることがたびたびで。たとえば此度の「貸しボート十三号」も然りで、隅田川にまつわる幾つかの関心に囚われて、作品の感想等とそれらを同居させるのに頭を悩ませていたのだが、もうこうなっては開き直って今回は、作品よりもそちらの話題に終始させていただこう。えっへん。
 ──というておきながらさっそく私事になるのだが、現在わたくしは本作と非常に縁ある土地へ仕事に来ている。そのビルからはちょうど首都高速都心環状線を見おろすことができる。関東大震災で甚大な被害を被った東京市の復興──そのシンボルとして立案されたプランの1つが「震災復興橋梁」である。大正期という時代性を反映してか、そのデザインや様式は今日でも新しさを感じさせるが、残念ながら今日では姿を消した橋梁が多く、往年を偲ぶのは難しい。戦災復興と高度経済成長を承けて河川が埋め立てられ、同時に空襲による被災を免れた橋梁も撤去・解体が行われたからである。
 が、幸いなことに21世紀のいまも往年の姿を留める橋梁は現存している。そのうちの1つがビルから見おろす都心環状線に掛かる采女橋や万年橋だ。かつて築地一帯には堀割が縦横に走ってそこに水の流れがあったこと、時が経て<再開発>の名の下に埋め立てられて道路に変貌したこと、それらを知る端緒が横溝正史の「貸しボート十三号」だったのだ。
 なお本作は、これもいまは姿を消した汐留川の貸しボート場からそこまで舵を漕いできたアベックが、浜離宮恩賜公園の沖合で漂うボートの上に生首が半分切られた男女の死体を発見する場面から始まる。このボートが所轄の築地書へ曳航されるルートを、すこしばかり省略されていると雖も既述されているので、ここにそれを書き写しておきたい。曰く件のボートは浜離宮恩賜公園沖から隅田川水域に入るとすぐに築地川東支川へ折れ、現在の築地市場内にあった海幸橋をくぐり、そのまま遡上して市場橋、北門橋、采女橋を頭上に見あげ、築地川奔流にぶつかると右手に舳先を向けて万年橋、祝橋の下を通って川縁の築地書に曳航された。
 今日、本作で描かれた東京の景観は殆ど失われてしまった。「貸しボート十三号」が執筆されたのは折しもモータリゼーションの黎明期、古き都の面影が駆逐されてゆくのは避けられぬ時代を迎えつつあったのだ。
 未来へ前進するには過去を埋葬する行為が、どうしても伴ってしまう。だがしかし……と、そんなディレムマを抱えながら、横溝正史がこの短編を発表した昔と同じ雄姿を構える2径アーチ石造り橋梁の采女橋や万年橋にたたずみ、眼下の都心環状線を見おろして途切れることなく行き交う車の列を、或いはふと視線をあげた先にあるビル群の向こうに見える東京スカイツリーを眺めていると、時代遅れのノスタルジーに苦笑しつつも豊かになるのと引き替えになくしてしまった<なにか>に心がチクリ、と痛むのである。
 そうしてそんな思いを心の隅で弄びながら、いまの自分が最も親しみと愛着を感じる東銀座・築地界隈の様子を横溝正史が書き留めてくれたことに感謝し、金田一耕助と等々力警部がこの地を振り出しにして捜査に東奔西走した事件のあったことを忘れられずにいるのだ。◆

 追記
 咨、紙幅が限られているとは話題を絞らざるを得ぬことを意味する。つまり書き足りないことがまだまだあるのだ、この「貸しボート十三号」には。ライスカレーが無性に食べたくなったことや珍しく青春小説の趣を兼ね備えた作品であること、或いは浜離宮恩賜公園と東京湾を隔てる2つの水門の話や事件現場から死体発見地点までのルートの疑問、エトセトラエトセトラ……あれやこれやと……。
 でも、これは別稿として後日、好き勝手お喋りさせていただくこう。では、ちゃお!□

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第2604日目 〈横溝正史「湖泥」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 五木寛之の『古寺巡礼・奈良編』を読む手が止まった。「唐招提寺」の章、その一節にふと去来するものを感じたのだ。その節に曰く、「(敗戦後、大陸から引き揚げてくると)こんどは「引揚者」という肩書きがついた。一転して、祖国の人たちから「引揚者」として差別されるような立場になったのである」(P111)と。
 この思いがはたして、五木寛之の感受性がもたらしたものか、当時の内地民の多くが抱いていたものか、知る由もないけれど、そのときわたくしの手を止めたのは刹那の間、数日前に読んだ横溝正史「湖泥」の犯人が五木と同じく引揚者で、かつ落ち着いた先で虐げられる存在だったからだ。
 虐げられていた、とは、ここでは迫害や村八分を意味するのでない。いみじくも金田一耕助がかれを評したように<インヴィジブル・マン>、即ち<見えて見えざる人>として、虐げられていた、というのである。体はたしかにそこにあるのに、コミュニティの一員と見なされていない。なにか事が起こらぬ限り、誰もかれの存在を気に留めないし、その動向に注意を払わない。現実に体験したら地獄だけれど、殊探偵小説に於いては、犯人役の人物に願ったり叶ったりの立場であろう。
 犯人はその立場を巧みに利用した。村人からは無能白痴と思われていたようだけれど、とんでもない。実に周到、狡猾で、自分を<見えて見えざる人>扱いした村人への復讐を果たしてゆく。が、その犯行の根っこには病で苦しむ妻を見殺しにした村人たちへの怨みつらみがあった。
 満州から引き揚げて村へ漂着したとき、かれの妻は梅毒に冒されていた。村人からは忌避され、医者からは診察を拒まれた。やがて妻は逝った。その恨み忘れ難く、時経るに従いますます憎しみは募る。いつの日か……、と思い思いしていたところに同じ引き揚げ者で、いまは村長夫人となった女の不義を知るとそれを利用して、積年の恨みを晴らさんと手を血に染めた。旧習と因縁に魂を囚われた閉鎖的な共同体に、図らずも紛れこんでしまった<異類>による復讐劇がこの「湖泥」なのだ。
 その背景を思うてぞっとさせられるのは村人の、犯人への接し方だろう。村八分ならまだマシだ。しかしながら村人は、あたかもかれを生殺しとするかの如く接してきた。すれ違えば声は掛けるし、事件があった際も証人として遇し、隣村の祭りで会えば酒を飲むような間柄なのだ。にもかかわらず──<引揚者である=土着民ではない>ことからたぶん、村人は自分でもそれと意識しないまま、犯人を引揚者として差別していたんじゃないのかな……。

 「湖泥」は、およそ多くの人が金田一耕助の探偵譚に抱くイメージをずらり揃えた作品だ。都会から離れた地方の僻村を舞台とし、そこには旧習と因縁に魂を囚われた人々が生活し、村を代表する2つの旧家がいがみあっており、それが高じて陰惨な連続殺人が勃発する、という、そんなイメージ──。
 が、短編という性格上こちらの方がより濃密に、それらの要素が凝縮されていて読み応えがある。地方物では一頭地を抜く仕上がりを誇る一方で、田舎で起こる犯罪について磯川警部と金田一耕助、それぞれの台詞がとても印象に残る短編。蛇足を承知で、最後にそれを引けば、──
 「(田舎は)何代も何代もおなじ場所に定着しているから、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまもなおヴィヴィッドに生きている。いや、当人同士は忘れようとしても、周囲のもんが忘れさせないんですな。話題の少ない田舎では、ちょっとした事件でも、伝説としてながく語りつがれる」(P6 / 磯川警部)
 「(都会よりも田舎の方が、或る種の犯罪の危険性をずっと多く内蔵している、という警部の発言を承けて)……実際、そのとおりなんですよ。しかし、それはあくまで内蔵しているだけであって、ある種の刺激がなければ、こんどのような陰惨な事件となって爆発しなかったろうと思うんです。では、その刺激とはなにか……やはり都会人の狡知ですね。(中略)だからぼくのいいたいのは、農村へ都会のかすがはいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね」(P107-8/ 金田一耕助)◆

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第2603日目 〈メタボは敵だ! ──文章の長ったらしいことについての短な反省。〉 [日々の思い・独り言]

 読者諸兄皆さまへ、謹んで申しあげたい。
 公開の数日後、第2602日目を読んでみてわれながら「ちと長くなりすぎたわい(テヘペロ)」と深く、真摯に反省すること頻りである。
 ゆえ以後はかつてのように──聖書読書ブログであった当時のように……「え?」とかいうな──、400字詰め原稿用紙4〜5枚程度を目処とした分量で、すくなくとも読書感想文に関しては綴ってゆくことにした。
 原点回帰? まぁ言葉が立派に過ぎるけど、うん、そ、そんなところだ……ね。
 既に続く第2604日目はダイエットにダイエットを重ねて、それでも未だ肉付きの良すぎる部分なきしにもあらずだけれど、上述の分量に留めることができた(安堵!)。
 然り、書けばいい、というものではない。メタボは「敵」である。◆

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