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第2629日目 〈グレン・グールド・プレイズ・フレデリック・ショパン〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 ちかごろはショパンのピアノ・ソナタ、就中第3番を聴く機会が多いのですが、ついでとばかりに自分の架蔵する音盤を検めたら、意外とこのポーランドの作曲家のCDが手薄なのに気附いた。
 おそらくはイディル・ビレットがNAXOSに録音した全集で満足できてしまっていたからでしょう。この全集には当時の自分の思い出がこびり付いていることも手伝って、ずっと座右にあってただの一度もその地位を陥落したことがない、稀有の音盤となっております。
 たしかずっと以前にこのあたりのことはエッセイに書いた覚えがあるので、今日はどうしてショパンのピアノ・ソナタを聴くに至ったのか、ちょっとその辺を短くも書いてみようと思います。
 すべてはシャンパンならぬグレン・グールドのせいなのです。
 じつは今夏に至るまで、グールドにショパンの録音があることを知らなかった。バッハとブラームス、シェーンベルクとヒンデミット、リヒャルト・シュトラウスぐらいでしたからね、購っては聴き、そうして処分することなく残り、CD棚の隅っこでいまも再び聴かれる機会を待っているのは。それにかれの著作や彼について書かれた本でも、グールドのショパン嫌いは触れられている。たしかにグールドとショパンの相性は悪そうだな、自分から探し求めて聴く機会を得ようとは思わないだろうな、というのが当時から抱いていた正直な気持ち。
 にもかかわらず、わたくしがちかごろショパンのピアノ・ソナタを専ら聴いているのは、これすべてグールド氏のせいなのである。
 なんとTSUTAYA某店にてそのアルバムを発見したのだ。もういちど、いいますね。TSUTAYAでグールド弾くショパンのアルバムを見附けたんです。そう、あのTSUTAYAです。これまでどのTSUTAYAでも見たことがなかったグレン・グールド・プレイズ・フレデリック・ショパンが、いやぁまさか……。
 もっとも、このTSUTAYA、他に較べてやたらジャズの在庫が充実しており、クラシックもどうしたわけかベートーヴェンの交響曲全集が3種類あって(全集だけでも事件なのに、それが3種類も!)、今夏以来週一で通い詰めています。まぁ、借りるのは殆どジャズなんですけれどね。あとはときどきボカロとアニメ、洋楽を。
 さて、こんな風に書いているのだから、お前はきっとグールドのショパンをもう借りたんだろう、ですって? 借りてiTunesに取りこんで、折に触れて聴いているんだろう、とな? 滅相もないですぜ、旦那(だれだ?)。気持ちはいつだって動いた。借りちゃおうかな、借りちゃえ! 殊最後の1枚がなかなか決まらないときは、安全パイの選択肢として手を伸ばしてカウンターまで運びかけたことも、実際に数回あった。が、結局わたくしはたいして悩みもせずにそれを手放し、他のCDを選んでセルフ・レジに足を向けたのだ。
 なぜか? きっとそのうちに自分の架蔵品として欲しくなるに相違ない、なる予感があったからだ。実際のところ、TSUTAYAを始めとするレンタル店であれ図書館であれ、これまで借りたCDの何枚かについては後日自分用に買い求めたことがあったのである。先日のヘンデル《メサイア》然り、ペーター・マークと都響のドヴォルザーク然り、ハービー・ハンコックの《ヘッド・ハンターズ》然り、ジェリー・マリガンのアルバム各種然り……。
 そうして時は流れて今日(昨日ですか)12月30日。庭の掃除と神棚の浄めを済ませ、お焚きあげのお札等を神社へ持ってゆき、松飾りを飾ったあと、夕方に差し掛かった時分だったが個人的なお出掛けをした途中で寄った某新古書店にて、数日前に見附けて買うを悩んでいたグールド弾くショパン:ピアノ・ソナタ第3番のCDを購入したのである。ついでにコルトーとルービンシュタイン、ポリーニのロ短調ソナタのCDも買ってきた(ルービンシュタインはアファナシエフのブラームス2枚と一緒に音盤連盟にて)。
 本稿を書きながらのBGMは、勿論あまり世評の芳しくないこのグールドのショパン。これを聴く前の耳均しに例のビレットとコルトー、ルービンシュタインを選び、いよいよ……。
 このときの感想は後日に譲るとしてグールドのショパン、偽りなくいえばさしたる異形のショパン、おぞましいショパンではなかった。グールドの個性が煌めくショパンであるのは間違いないが、これはこれでじゅうぶん「アリ」な演奏ではないのか……?
 名盤と呼ぶには異端かもしれない。言葉を連ねていえば──或るとき妙に聴きたくなって仕方がなくなる……記憶の底で眠っていたのがなにかの拍子に突然うごめき始め、すぐに欲求が満たされないと途端、落ち着きをなくしていても立ってもいられなくなる、そんな中毒症状を来す類の演奏だ。──モーツァルトやベートーヴェンも(わたくしにとっては)そうですが、今回の経験を踏まえるとショパンはそれ以上に中毒性の高い演奏だったのであります。
 こうなると、グールドにショパンの録音が他にないのが残念でなりません。ソナタ第2番《埋葬》やポロネーズあたりは「ぴったり」とはいわないまでも、化学反応を起こして面白い演奏になったと思うのだけれどなぁ。◆

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第2628日目 〈アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』に誤植(或いは誤訳)はないか?〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 「『カササギ殺人事件』の担当編集者TKです。2018年9月の刊行以来ご高評をいただいていました『カササギ殺人事件』が、上記の年末ミステリランキングすべてで1位に選出されました。」とは東京創元社のウェブマガジン「Webミステリーズ!」に寄せられた、当該書目の担当編集者による感謝の文章の冒頭部分(http://www.webmysteries.jp/archives/14221574.html)。
 わたくしもこの作品は実に愉しく読ませていただいた。クリスティ・ファン必読とかいう事前の触れこみも効いて、書店に並ぶや上下巻一緒に買い求めて数日後から読み始めた。朝の通勤電車はかならず寝ることとしているにもかかわらず、そのときばかりはバッチリ目を覚まして『カササギ殺人事件』を読み耽った。
 まだ上下巻の構成など知らずに読んでいたから(ネットの情報は意図して遠ざけて、目に触れぬようにしていたのだ)、上巻冒頭の現代に於ける「私」のモノローグと、アティカス・ピュントの活躍がどうリンクするのか、さっぱりわからぬうちに到着した上巻ラスト。そ、その続きはどうなるのか……!? と言葉にならぬ混乱を鎮めるため、あらかじめ持ち歩いていた下巻を開き、……またまた困惑……肝心のラストは「私」こと担当編集者の手許にも届けられていなかったのだ。
 そうして読了、とっても素晴らしいミステリを読んだ、という満足を胸に再び横溝正史読書マラソンを差異化したのだった……が!
 下巻に誤訳と思しき箇所がありませんか? この点が気に掛かり、当該ページ以後は物語に没入することがそう簡単ではなくなってしまったのだ。
 実はこの誤訳と思しき箇所について、わたくしの思い違いか、読みこみ不足ゆえかを確かめるべく、東京創元社の問合せフォームから質問のメールを送ったぐらいである。普段は重い腰をあげるのも面倒臭くてこうしたことは打っちゃっておくのだが、好きな作品でもあったのでどうしても疑問を解決しておきたかったのだ。こんなこと、『時計館の殺人』以来だ。
 ──
 『カササギ殺人事件』下巻P259の5-6行目、「(読み進めてゆくと)ふと気がつくと、左手側のページの方が右より少なくなっている」だが、ここで語り手であるスーザンが手にしているのは、原稿やゲラではなく刊行された書籍で、少なくなっている左手側のページは未読のページと考えられる。しかしながら、この訳文は誤りではないか──英国では日本と逆に書籍は活字横組みのため、左開きとなり、読み進めてゆくと既読ページは左手側に、未読ページは右手側にある。訳文通りのことが起きるのは、活字が縦に組まれる日本の場合だ。
 活字が横組みされた書籍を最初から読み進めていったとき、左手側のページは右より少なくなっているのではなく、逆に増えていなければ、おかしい。本作を原書にあたって確認したわけではないから、実際にこの訳文通りの原文となっていたら恥ずかしさに穴があったら入りたい気分。が、第7刷の時点で引用したままの文章ということは、おそらく誰も指摘されないまま今日に至っているのだろう。もしかして、わたくしの壮大なる読み間違い、認識違いなのだろうか? 訳者或いは担当編集者の側に、日本の読者が「左と右」で混乱したりしないように書き直しておきましょう、なる優しさに気附けなかったわたくしの愚かさなのだろうか──?
 問合せから1週間以上が経過して、担当編集者に確認する旨返信があったが、いまに至るまでなんの音沙汰もないので、おそらく出版社はマジメに対応する必要はない、とご判断されたと思しい。おそらく年が明けても、また何年経とうと担当編集者氏や翻訳者からの返信を、わたくしが拝受することはあるまい。
 というわけで、わたくしは本ブログの一編として、自分の疑問を文章にまとめて表明しておきたい。何年か経った頃に識者が丁寧にコメントを寄せてくださることを期待しつつ。むろん、東京創元社からのご返信があった場合は、本稿は読んだ時点から168時間以内に公開取りやめとすることをお約束する。既に差し替え原稿の用意は、できている。◆

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第2627日目 〈仕事納めです! 横溝正史『死仮面』を読んでいます。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 今日でようやく仕事納め。いやぁ、この1年は長かった。いろいろな別れに彩られた2018(平成30)年だったけれど、だいじょうぶ、来年はきっと再生とよみがえりに象徴される1年となるだろう。期待ではなく、実現のためにわたくしは力を尽くそう。進むべき道は、あるはずなのだ。
 と、厳粛なる雰囲気で始めた本稿だが、当然のことながら最後までこの調子でゆくつもりは、ない。自分を知る者は幸いである、どのような事態になろうとも、まぁきっとなんとかなるだろう、と楽観していられるから。
 ──さて、顧みるまでもなく今年は明けても暮れても横溝正史を読む日々が続いた。もっとも、中弛みして秋風の吹く頃からは海外のミステリに浮気して、古典と新作、双方の傑作に触れて驚喜しつつも横溝正史へ立ち帰るタイミングを模索していた。と、先日翻訳ミステリの大きな賞を受賞したアンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』を喜びと疑問のうちに読了したその瞬間だ、いまこそ立ち帰るに相応しい時、と心が大きく叫んだのは。
 そうしてわたくしは帰還した……ふしぎと飽きることのない横溝正史の探偵小説の世界に。現在は曰くある角川文庫版『死仮面』。再開第2弾の読書である(第1弾の栄を担ったのは短編集『金田一耕助の冒険』全2巻)。発表年代順に読みたいな、と思うていたらこの順番になったのだ。
 曰く、とは、戦後間もない時分に発表されたこの長編小説が久方ぶりに発掘されるも、しかし残念ながら連載第4回目がどこをどう捜索しても発見されず、仕方なく角川文庫版横溝正史シリーズの監修役を務めていた中島河太郎によって補筆・発売されたのが、他ならぬいまわたくしが読むヴァージョンだからだ。
 更なる説明を加えると、本作は後年発掘された連載第4回目を復元した完全版が、春陽文庫から発売された。当然絶版。それゆえもあり古本屋やネットオークション、どこであっても高値が付いていて、ちょっとわたくしの手に負えない金額となっている。
 そんなヴァージョンの話はさておき、この『死仮面』。帰りの電車のなかでしか読めない状況だったが、どうにか先も見えてきた。大掃除や追加の年賀状書きなどなどいろいろあるから確約はできぬが、明後日あたりで読了できるはず。
 古谷一行主演の<名探偵・金田一耕助>シリーズのなかでドラマ化されたのを観た記憶はあるが、どこまで原作に寄り添って製作されていたか、読書しながら記憶をすくいあげんと務めてみても、その成果ははかばかしくない。地下室や胸像の台座、複雑因果な家族関係、そんなあたりは覚えていても、その他の点はまるでさっぱり……。
 次の年の暮れ……今日から367日後と迫った大晦日までに果たして何冊の横溝正史を読むことができるだろう。幸いなのは、すくなくとも角川文庫から発売されたシリーズはその殆どすべてを蒐集し終えており、残すは行き付けの古本屋やネットオークションでいつでも全点が転がっているジュブナイル物を除けば、ほんの3,4冊だ。けっしてキキメに等しい書目でなく、可能な限り美本に近いものが欲しいから手に入っていないだけの話。稀覯に属する未入手本といえば『シナリオ・悪霊島』だが、正直な話、特に欲しいと思えぬ本の最右翼。著者自選の人形佐七シリーズ全3巻も綺麗な状態のものを、なんと1,000円に満たない金額で揃えられたしな……。
 まだまだ横溝正史読書マラソンは続く。聖書としばらくは並行して、続く。それをおそらく読者諸兄は気が向いたようにお披露目される読書感想文にて、知ることとなるだろう。◆

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第2626日目 〈よかった、どうやら間に合ったみたい。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 だいじょうぶかな? この第2626日目、更新できている……?
 眠くて眠くてたまらないから、今日はブログの更新を休みますね──とツイートしたのがだいたい20時間ぐらい前のこと。あれから朝になって会社に行って、ぽやぽや仕事して定時過ぎに帰宅して、いま……ふと思うた。短い原稿でも、中身のない原稿でも構わないので、これから書いて更新すればいいのじゃないか、と。その通りだった、午前2時更新に拘泥していたから、こうも簡単なことに気が付かなかったんだね。いやはやなんとも。
 この数日、会社帰りに最寄りのスターバックスへ寄って、「マカバイ記 一」のノートを書いています。まだ第3章の途中だけれど、なんとなく以前の<カン>やらなにやら、文章の運び方も含めて思い出してきた。じつはここに至るまで試行錯誤、書いては棄て、嗟嘆の溜息ばかりが出てしまい、正直なところ、リヴェンジは叶わないのではないか、と諦めていたのだ。覚悟を決めて重い腰をあげ、自分を追いこんでみたら、あら不思議、いつの間にやら毎日読んで書いて更新していたあの頃の感覚が甦ってきているではありませんか。
 現時点で書きあがっている「一マカ」の原稿は──未だモレスキンのページに書かれた第一稿と雖も──、まず<前夜>。続けて第1章と第2章、第3章の半分。聖書ダイジェスト(んんん? 汝、“ダイジェスト”なる言葉を定義してみよ)のあとにあった註釈やわたくしの感想、疑問点など書き連ねた部分は、いまの時点では箇条書きに過ぎないけれど、分量はともかくあまり労せずして書きあげられる予感しかしていない。「予感しかしていない」とはなんともポジティヴ、言葉を悪くすれば「脳天気」な発言だけれど、これぐらいの態度がいちばん間違いない気がしています。
 おそらくこの調子ならば、年明けすぐに旧約聖書続編唯一の歴史文学、「マカバイ記 一」を読み始めることができるに相違ありません。
 問題はそれまでどうするか、で……帰りの電車のなかでもこの点、倩考えていたのだが、明日28日は本稿と同じ調子の文章がお披露目されるだろう。が、幸いにして明日を以て仕事納めとなる(殆どの民間企業がそうじゃない?)。
 なにを意味するか? 多少夜更かししても支障はない、ということだ。これを更にいい換えれば、「マカバイ記 一」に先立って読んだ「ダニエル書」の内容のメモを書き改めた後、レジュメとして3日程に分けて公にする企みを実現できそうだ、ということ。他にあともう1編、福音書に登場する或る女性にまつわるエッセイも用意できている。
 ──明日をどうにか乗り越えれば、年明け早々に<前夜>さえお披露目できてしまえば、あとはひたすら1日1章の原則で機械的な、判で押したようなスケジュールを消化してゆけばいいだけの話だ。
 明日もこれぐらいの時間に更新できるように努めよう。◆

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第2625日目 〈「ダニエル書」が書かれたのって、いつ頃なんだろう?〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 旧約聖書<預言書>のパートに収録される第27の書物、「ダニエル書」。他の書物が概ね1種のカテゴリーへ分類されるのに対して、「ダニエル書」全12章は前半6章が歴史物語、後半6章が黙示文学という一風変わったスタイルを持つ。
 まぁ歴史物語はあまり固有名詞や史実、年代に拘泥することなく書かれた内容を愉しめばそれでよいのだけれど、黙示文学のパートはいろいろ含蓄多く調べること多く考えこまされるところ多く……つまり一筋縄ではいかないのである。
 読むのに難渋することがあるのは「ダニエル書」に限らず黙示文学の常だけれど(特に「エズラ記(ラテン語)」な)、いちばん大きな関心を寄せてしまうのが成立年代にまつわる事柄だ。毎日毎日、聖書読書ブログを書いていた頃からそうだったけれど、わたくしは書物の成立時期や著者、書かれた(編纂された)場所などについての揣摩臆測を巡らせるのが好きらしい。「ダニエル書」に即してそのあたりを述べてゆくと、⎯⎯
 作中のダニエルが生きるのはバビロン捕囚期、所はバビロニアやメディア、アケメネス朝ぺルシアの王宮内である。が、わたくしは先程あまり固有名詞や史実、年代にとらわれずに読むが宜しかろ、と記した。ベルシャツァルをバビロニア王(ダニ5:1他)とするのは、かれが新バビロニア帝国最後の王ナボニドスの王子と雖も摂政として帝国の国政を司り、第3の王と呼ばれたこともあるから言葉の綾の範囲で収められようが、たとえばメディア王ダレイオス(ダニ6:1)とは誰であるか? それはバビロニアを倒してオリエントの覇権国家となったペルシアの王の名である……が、ダレイオス1世の登場は捕囚解放を宣言したキュロス1世よりも3代あとの為政者なのだった。
 むろん、すべての記述が時系列で進むとは決まっていないのだから、そのあたり、シャッフルされて編纂・編集されても別段問題はない。逆にいえばそれはダニエルの活躍期間の長さを必然的に物語ることとなり、想像を逞しうすればエルサレム帰還団の面々や後にかの地へ派遣されるエズラやネヘミヤとの面識ありやなしや、なんて考えてしまうのだね。
 それはともかく。
 そも実際のところ、ダニエルなる捕囚民が実在したかすら定かでない。それでもその名を冠した一風風変わりな書物は書かれ、編まれ、収められ、伝わった。──そうしてそこに「ダニエル書」の成立時期を示唆するヒントがある。
 「ダニエル書」はその後半、黙示文学のパートで数々の幻による未来予見を綴った。それはバビロニアが滅びてメディアが興り、ペルシアが覇権を握ってギリシアの前に倒れ、そのギリシアも分裂してそこからオリエントを揺るがす卑しむべき王が出現する、という内容だ(ダニ7-12)。
 卑しむべき王(卑劣な王、という方がより正しいように思われる)こそセレコウス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスだが、「ダニエル書」はその最後にかれの出現と暴虐をそれまでは見られなかった密度で精細に描いてみせる。第11-12章で描かれるのはセレコウス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの小競り合い、そうして汚される<麗しの地>エルサレムの様子……。つまりマカバイ戦争前夜の緊張した空気と防ぎようもない悪の侵攻が塗りこまれているのだ。
 ここで着目すべき点は、アンティオコス4世の数々の所業こそ記されているものの、その死については微塵も描写されていないことだろう。アンティオコス4世エピファネスの到来と所業はたしかに「ダニエル書」で予告されている。それらは「卑しむべき者」(ダニ11:21)と罵られるシリア王がしでかした数々の行いでもあるのだけれど、じつは「ダニエル書」のどこをどう読んでもアンティオコス4世の死は描かれていない。もし本書がシリア王の死後に書かれ、成立したならば、ダニエルが視た幻にそれはあったはずだ。
 人々──学者はそれゆえに本書の成立年代を斯く想定し、それは概ね受け入れられているようである……「ダニエル書」は前164年に成立した書物であったろう、と(加藤隆『旧約聖書の誕生』〔ちくま学芸文庫〕など)。第11-12章の出来事、そうしてそれ以前の第7-10章でダニエルが視た幻とその解読は、これから起こる出来事にまつわるものではなく、とってもちかい過去と現在進行形の出来事をむかしの人の幻に仮託して綴ったものだったのだ。現実と幻が重なり合う様子も至極もっともなお話だよね、うん。
 前164年……
 まず、アンティオコス4世が軍資確保のためペルシア遠征を決め、セレコウス朝の国事と王子の養育をリシウスに任せて出発した。リシウスは軍勢をまとめてユダ・マカバイ軍とイドマヤの地で激突したが、撤退を余儀なくされた。
 シリア軍がアンティオキアまで退いて体勢を立て直している間、ユダ・マカバイは兄弟や同志たちとエルサレムへ。かれらは荒廃した都と神殿、祭壇を見て嘆き、奮起し、汚辱にまみれた聖所/神殿を修繕して清め、焼き尽くす献げ物をささげて祭壇を新たに奉献した。「民の間には大きな喜びがあふれた。こうして異邦人から受けた恥辱は取り除かれたのである。」(一マカ4:58)
 神殿奉献と時を同じうしてユダたちは都に堅固な砦を高い城壁を築き、敵からの攻撃に備えた。遠征先でそれを聞いたアンティオコス4世エピファネスは種々の心労もあって倒れて寝こみ、回復することなくそのまま崩御した(一マカ6:16)。
 これらが前164年の出来事。シリア王の死がこの年のいつだったか伝えられてないけれど、「マカバイ記 一」の記述を信じれば、エルサレムで神殿奉献がされて以後、その年が暮れるまでのわずか数日のことだろう。「ダニエル書」がアンティオコス4世の所業について斯くも的確に述べてながらその死を暗示させる文言が、どこにも見当たらない事実。これぞ「ダニエル書」を前164年頃の成立と仮定させる、そうしてもっとも有力な説の背景である。
 ──「ダニエル書」内のエピソードの数々が捕囚時代の事どもとしながら実際は<現在>、just nowの出来事を語っていると知れば、「黙示文学」と呼ぶことに疑問を抱き、ささやかな抵抗を感じてしまうこと、なきにしもあらず。が、黙示文学が未来の予告と救済約束・信仰堅持を促すジャンルであるのを考え合わせれば、シリアの暴政・圧虐を伝えるのに加えて同朋への抗戦を求め訴え、やがて来たるべき勝利と民族の復権という希望を封じこめ、喧伝する──まさにプロパガンダだ──本書もまた、一種の「黙示文学」と呼んでよいだろうか。
 ちなみにユダたちによる神殿奉献は第148年第9の月、──キスレウの月──25日に行われた。つまり前164年12月25日である。そうして、「ユダとその兄弟たち、およびイスラエルの全会衆はこの祭壇奉献の日を、以後毎年同じ時期、キスレウの月の二十五日から八日間、喜びと楽しみをもって祝うことにした」由(一マカ4:59)。これがユダヤ教の「ハヌカ祭」の謂われである。◆

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第2624日目 〈ヴィンス・ガラルディ『スヌーピーのクリスマス』“A CHARLIE BROWN CHRISTMAS”を聴きました。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 アニメ『ピーナッツ』の音楽にジャズが使われていた。日本でも国内盤として3種か4種のアルバムが出ているが、うち1995年にリリースされた『スヌーピーのクリスマス』“A CHARLIE BROWN CHRISTMAS”は1965年、アメリカで初めて『ピーナッツ』がアニメ化された際のオリジナル・サウンド・トラックである。作曲は、西海岸で活躍していたピアニスト、ヴィンス・ガラルディ。
 ガラルディを起用したのは番組プロデューサーのリー・メンデルスンだった。父親譲りのジャズ・ファンだったメンデルスンは或る日、ラジオでガラルディの曲を聴いて、コミックとジャズの結婚という奇異にして卓越したアイディアを思いつき、……幸いにしてそのアイディアは成功し、番組の視聴層に大人まで取りこむ結果となった。
 『スヌーピーのクリスマス』に収まる12曲は、ガラルディのオリジナルに留まらず、民謡やクラシックの編曲(1曲のみオリジナル)で構成されている。マイ・フェイヴァリット、そうしてオススメは②〈ホワット・チャイルド・イズ・ジス(グリーンスリーヴス)〉と⑦〈スケーティング〉だ。
 〈ホワット・チャイルド・イズ・ジス(グリーンスリーヴス)〉はイギリス民謡、というよりもむしろレイフ・ヴォーン=ウィリアムズの管弦楽編曲で知られる“あの”〈グリーンスリーヴス〉をガラルディが、ピアノ・トリオ用に編曲したもの。原曲の持つ惻惻とした感じを残しながら、しっとりとして落ち着きのある、奥深い内容に仕上がっている。流れるように音を紡ぐピアノ、ピアノへ寄り添った繊細なタッチのドラム、屋台骨に徹したベース──元々ガラルディのこのトリオは個々の楽器が自己主張ではなく調和を専らとしたトリオのようで、そんな性格が〈ホワット・チャイルド・イズ・ジス(グリーンスリーヴス)〉を斯くも上品な演奏を実現させたのだろう。なおアルバムの最後にはアレンジをやや違くした〈グリーンスリーヴス〉が収められている。こちらも滋味のある演奏で、好ましい。
 コミックの『ピーナッツ』では冬になると、子供たちがスケートに興じる場面がしばしば登場する。〈スケーティング〉はその様子を音化したら斯くありなむ、てふ印象の曲だ。短いながら、聴き終えたときには心が喜びで満たされているような、そんな小品である。
 他にも①〈もみの木〉や⑪〈ザ・クリスマス・ソング〉などなど佳曲が目白押しなのだけれど、ガラルディのソロが存分に味わえる⑩〈エリーゼのために〉もなかなか良い演奏だ。ちょっと線を崩した、ロマンティックな香気を漂わせたにあふれた〈エリーゼのために〉、わたくしは好きだ。
 世にクリスマス・アルバムは沢山あるが、静かな一刻を過ごすに流したいとなれば、個人的には筆頭候補の1枚。◆

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第2623日目 〈ヘンデル《メサイア》;初めて出会った音盤が、最上の演奏であった……。/A.デイヴィス=トロント交響楽団による旧盤を聴いて。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 クリスマスに聴く機会の多い合唱曲の最右翼が、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》。タイトルからお察しいただけるように、イエス・キリストの生涯を描いた作品であります。でもけっしてクリスマスに所以のある曲でもない。
 実はこの曲、わたくしをクラシック音楽に開眼させた作品の1つで、あとはホルストの《惑星》とワーグナーの《ヴァルキューレ》、ベートーヴェンの《第九》とシュトラウス一家のワルツ、と、ちょっと脈絡がありません。なかでもヘンデルは特異というてよい出会い方をしており、近所のレンタル店で偶然見附けて、わけもわからず借りて来て、強烈に印象に残った音盤だったのであります。
 演奏はアンドルー・デイヴィス=トロント交響楽団、キャスリーン・バトル(ソプラノ)、フローレンス・クィアー(アルト)、ジョン・エイラー(テノール)、サミュエル・ライミー(バリトン)、トロント・メンデルスゾーン合唱団、という布陣の2枚組CD、国内盤(EMI)。1986年12月22〜23日にカナダはオンタリオ市で録音された……時期的にライヴレコーディングかと思うたら、特になんの記述もない。カセットテープに録音してヘビーローテーション、たぶんいまでもそれはどこかにあるはずだが、見当たらない。
 見当たらないといえばつい先年に購入した、ずっと捜し歩いていた国内盤の全曲CDも、見附からない。筆を執るまでずっとCD棚を漁っていたのだが、不思議なことに行方不明。心当たりのある場所も捜索してみたけれど、捜し物は見附からない。捜し物はなんですか、見附けにくいものですか、と斉藤由貴の歌の一節が脳裏を過ぎることしばしばだったが、その度「そうだよ!」と合いの手を入れてみたりね。
 けっきょく国内盤の探索は諦めて、その数年前に購入していた輸入盤全曲を引っ張り出してきて、聴いています。
 《メサイア》には幾つかのヴァージョンがあって、そのどれもが最近では音として聴ける便利な時代になった。デイヴィス盤は作曲家ユージン・グーセンスがトーマス・ビーチャムに依頼されて編曲したヴァージョンを採用している由。さりながらこのデイヴィスの旧盤、グーセンス版へ全面的に依拠した演奏でもないらしい。
 でも、正直なところどんなヴァージョンの楽譜を用いていようと、あまり大した問題ではないのです。肝心なのは、デイヴィスによるこの演奏がすばらしく感動的で、他の録音を聴いてもここに立ち帰ってくるという事実。わたくしにとって《メサイア》演奏のマスターピースである、という動かしがたい事実なのであります。
 たまたま学生生活を御茶ノ水・神保町界隈で過ごしたせいで、講義のないときは中古レコード屋に日参、安いLPレコードを購っておりましたが、ベートーヴェンの交響曲やワーグナーのオペラ、ビル・エヴァンスとソニー・ロリンズ、ウィンダム・ヒルのアルバムと並んで、《メサイア》のLPも余程の価格でなければ時偶買いこんでいました。
 そんなことから《メサイア》をいろいろな人の指揮で、オーケストラで、ソリストと合唱団で、今日に至るまで聴いてきました。が、初めて聴く音盤に出会うと決まってドキドキワクワクするけれど、それはたいてい期待値が高すぎたがゆえの不完全燃焼で終わる。なかなかデイヴィス盤の感動を上書きする程の演奏とは、出会えないんですよね。
 わたくしが《メサイア》でいちばん好きなのは、第1部第12曲「ひとりのみどりごがわれらのために生まれた For unto us a Child is born…」という、「イザヤ書」第9章第5節(*)を基にした合唱なのですが、デイヴィス盤が軽やかななかにも優雅さと清らかさを湛えているのに対し、他の有名指揮者による<名盤>とされている演奏からこの曲を聴いてもなんだかなおざりな演奏で、惚れ惚れするような想いを抱くことができた試しがない。法悦をまるで感じない演奏の目白押しなのだ。ここさえ納得できる演奏であれば、それだけで一段上の遇し方をするのだが……つまり腰を据えて第1部第1曲から第3部第8曲まで通しで何度も聴いてみるのだが……大概は1度切りの通し視聴で終わる……われながら不幸な聴き方をしているな、と思うが時間は有限なのだ、すべての音楽に深々と淫してばかりはいられない。
 それにしても、有名な〈ハレルヤ〉ですが、1743年ロンドン公演時、時の国王ジョージ2世が途中で起立して観客もそれに倣い、爾来慣習となったてふ。史実でないというのが大勢とのことですが、さもありなん、と首肯させてしまう説得力を持った合唱であります。
 しかしながら、極東の島国である日本、人口のうちキリスト者の占める割合の多くないこの日本で、やはり同じように〈ハレルヤ〉コーラスになると、待ってました、とばかりに全員立ちあがるのはどうかと思いますな。同じ阿呆なら踊らにゃ損損、参加することに意義がある、とでもいわんばかりの勢いで総勢が立ちあがる光景は、まったく以て異様であります。節操がないというべきか、柔軟性が高いというべきか……或いはイヴェントとして愉しもうというのか……本来の趣旨からずれた慣習になんの疑問もなく迎合してしまえるのは、やはりクリスマスの魔力なのでしょうか。
 先祖の神を捨ててバビロニアやシリアの悪しき慣習を迎え入れることに抵抗なかったイスラエル/ユダヤの民と日本人は、あんがいと通じあうところがあるのかもしれませんね。
 ヘンデルは作曲の筆がなかなか進まないとき、部屋の天井の片隅を何時間も見あげていた。そんなエピソードを、図書館から借りた渡部恵一郎『大音楽家・人と作品15 ヘンデル』(音楽之友社)で読んだ記憶があります。それが事実であったか、確かめるためにも今度は自分のために古本屋で探し購い、これを頼りに《メサイア》以外は《水上の音楽》と《王宮の花火の音楽》、《合奏協奏曲》しか聴いたことのなかったヘンデル作品の録音を、しばらく追っ掛けてみようかな、併せて今回取り挙げた音盤のライナーノーツに載る英語歌詞はどの英語訳聖書に拠っているのか調べてみよう、と企てているクリスマス・イヴなのでした。◆

*「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。/ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。/権威が彼の肩にある。/その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(イザ9:5 新共同訳)
 Wikipediaは《メサイア》構成の項で第1部第12曲の出典を『イザヤ書』9:6とする。どの聖書に拠った記述であろうか? 手持ちの聖書を軒並み点検したが、ここを第9章第6節とするものは見つからなかった。当該項目を執筆した方がこれをお読みであれば、是非ご教示いただきたいのである。■

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第2622日目 〈気附きと夢見;<前夜>、を巡るエピソード〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 畏き明仁天皇の御代に於ける終の秋、みくらさんさんかはプーさんのぬいぐるみにしがみつかれて寝苦しい夜を過ごしていた。一刻、幻が浮かんで或る夢を見た。朝になってその夢を記録することとし、以下の如く書き起こした、──
 その夜、わたくしは幻を見た。夢のなかのわたくしは、とても大変なことに気附いた様子だった。聖書読書ノートブログにまつわる気附きである。傍観者のわたくしは夢のなかのわたくしに入りこんで、すべての思考と感情その他を共有した。そうしてそれが、実のところさして思案に暮れるまでもない懸念事項なのを知って腰が砕けた。
 かつては新しい書物を開くにあたり、水先案内というか誘いのような文章を<前夜>と題してお披露目していた。分量こそまちまちだったが、その主たる柱は、件の書物の(大雑把な)概略と特徴、著者と執筆年代・場所の4つで付随するようになにかしらの記述を添えたことであった。
 早い段階でこのスタイルは確立していたように思うのだが、ふとした拍子に検めてみたところ、分量や内容にまつわる不備、瑕疵を孕んだ<前夜>はなんと、旧約聖書の過半を占めていた。
 われらは頭を抱え、嗟嘆し、そうして対応を検討した。旧約読了後にブログ欠損部分を埋めるため読み直した「創世記」と「出エジプト記」、<前夜>を欠いていた「レビ記」を除けば、《預言書》へ至るまでの19の書物に、不備や瑕疵を見出すことになったのだから。
 われらは本ブログを愛している。大切にしている。慈しんでいる。誇りにしている。何人たりとも不可侵の領域である。なによりもここは、われら/わたくしの拠り所であり逃れ場であり、魂鎮める場所であり、墓標である。気が付いたとき、目に付いたときには修繕や改良を施す、ワーク・イン・プログレス(現在進行形の仕事)である。けっして完結することなき、……。
 それゆえにこそ、他との整合性を期す目的もあって、《モーセ五書》の「民数記」から「コヘレトの言葉」に至る各書、加えて「哀歌」について、<前夜>の補筆改訂──事実上の新稿執筆となるものもあるであろう──することを、検討の結果採択したのだった。
 そうすると次に浮上するのは、いつ書くか、いつお披露目するか、なのだが……なんの予定もなければ明日からだって構わない。が、喜ばしいことに予定はあるのだ。<前夜>の執筆とお披露目は、その予定をすべて消化したあとのお話。ゆえに、──
 「マカバイ記・一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読・再ノートが終わったあとで旧約聖書各書の<前夜>に力を注ごう。「ダニエル書」に触発されて書いてみたいエッセイも4つあるから、具体的に<前夜>のお披露目時期はお答えしかねるが、今年度中にメドはつけたいものである。
 ……斯くしてわたくしはわたくしから離れて傍観者に戻った。
 件の夢にわたくしは憂い、悩み、発憤した。夢の記録を読み返し、夢のなかのわたくしの思考を改めてなぞって、補ってみた。そうしてこれは或る未来の予告であることを思い知ったのである。この文章を結ぶにあたり、最後にそれを書き添えておこう。わたくし曰く、──
 年内には「マカバイ記・一」前夜をお披露目できそうです。実現したらば、では、またそのときに。
 「こうして彼らはローマへ出向いていった。それはまことに長い道のりであった。」(一マカ8:19)
 「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。」(ダニ12:13)◆

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第2621日目 〈かくて我、聖書読書へ立ち戻りけり。〉2/2 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 実は今年5月に第2619日目の原稿を、同10月に第2620日目の原稿を、それぞれ書いたのだけれど(※1)、そちらで吐露した種々の思い──「マカバイ記・一」と「エズラ記(ラテン語)」へ取り組む意思と「ダニエル書」への執着にいささかの変化もないことに、正直なところ自分でも意外と思うている。
 かつて「一マカ」に取り組んでいた時分、読書中か読了後だったか忘れてしまったけれど、その第1章の余白にわたくしはこう指示のメモを残したのだった。曰く、「マカバイ記読む前に「ダニエル書」、ハーレイP508-9(エジプトの、シリアの支配下、3独立の1世紀)へ目を通しておくこと」(ママ)と。
 もしかすると、「ダニエル書」を読み終えたあとになにかの資料で「マカバイ記・一」との関連を知り、あらかじめ斯く書き付けておいたのかもしれぬが、いまとなってはもはや確かめる術なぞどこにもない。
 註記しておくと、ハーレイとはヘンリー・H・ハーレイ著『聖書ハンドブック』(いのちのことば社)を指す。S.ヘルマン&W.クライバー『聖書ガイドブック』や岩波訳聖書、ティンデルの各巻他と一緒に繙く機会の多かった1冊である。中学生の頃から通っていまは閉店してしまうた古本屋の、いちばん上の棚に本書のむかしの版を見出して逡巡の挙げ句、翌週の日曜日、買いに行った思い出も併せてよみがえる1冊である。
 そのハーレイの著書のなかにある、ディアドコイ戦争後のパレスティナを巡る項目を読んでおけ、とメモはいうのだ。
 しかし残念ながら指示は──「ダニエル書」読後のものだとしたら──あまりその目的を果たさなかったようだ。もしその指示にちゃんと従っていたならば、「一マカ」のノートは矛盾や疑問点を内包したまま終わったりしなかっただろう。
 「ダニエル書」と「マカバイ記・一」はすこぶる密な関係性を持つ。「ダニエル書」の後半、第7章以下が黙示文学の領域に踏みこんだ、これから起こるであろう出来事の啓示になっていること、既に当該書の<前夜>に於いて触れているが、第11-12章はまさにマカバイ戦争前史ともいうべき内容なのだ。即ち、新バビロニアとペルシア両帝国の滅亡とアレキサンダー大王率いるギリシア王国の版図拡大、その拡大政策が王の崩御を以て事実上破綻、その後に勃発した後継者戦争とプトレマイオス朝エジプト/セレコウス朝シリアの盛衰、アンティオコス4世によるエルサレム占領と神殿冒瀆が、そこでは予告されている。
 ゆえにわたくしは「一マカ」第1章余白に斯く指示を残したのだった……。
 「一マカ」再読にあたって、では「ダニ」を如何に遇すべきか? むろん、それを読んでおくのはあらかじめ定められたことであるからともかくとして、問題となるのは、(かつてのような)「ダニ」のノートをこの度も作成するか否か──たといそれが後半、黙示文学の部分のみであったとしても──、なのだ。もうレジュメはモレスキンのなかにあるから、整理・推敲すればお披露目できるのだよなぁ。しかし、それって本当に必要なのかしらん。
 いずれにしても、「マカバイ記・一」に集中できるようになるのは「ダニエル書」に目を通したあとだ。では、本ブログが聖書読書ノートブログとして復活するのは、いつのことだろうか?
 希望的観測でしかないけれど、リハビリ期間も含めて今年中にはなんとか再びの第一歩を踏み出すことを目指したい。<前夜>さえお披露目してしまえば、あとは一瀉千里。
 晴れて聖書読書ノートブログが再開したその暁には、BGMとして、そうね、シベリウスの《伝説(エン・サガ)》Op.9を鳴り響かせようか、と考えている(※2)。読者諸兄よ、もう少し待っていて欲しい。◆

※1:本稿の第一稿は10月02日。
※2:ネーメ・ヤルヴィ=イェーデボリ交響楽団による演奏が、現時点での筆頭候補。□

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第2620日目 〈かくて我、聖書読書へ立ち戻りけり。〉1/2 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 今年になってから本ブログはもっぱら横溝正史の読書感想文をお披露目する場となり、しかし後半になると姿を消してゆき、とちゅうからは海外ミステリの感想文がいくつかそれに取って代わり、2ヶ月の断絶期間を経ていまに至る──。が、ここは本来、再三申したててきたように聖書読書ノートブログであったはず。加えて読書もノートも中途半端で終わってしまった「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」は後日の再挑戦を宣言し、面目躍如を期すつもりでいたはずだ。それらはご承知のように、未だ実現していない……。
 実現していない理由は単にこちらの怠惰ゆえ。聖書全巻を足掛け8年、実質7年を費やして読み終えて2年3ヶ月の歳月が経過してしまうと、気持ちは若干なりとも聖書から離れてしまうたがためそう易々とかつての如き姿勢で読書すること、資料を調べて下書きすること、こうしてMacに向かって原稿を書くこと、それら諸々を難儀に思うているのは否めぬ事実である。偶さか「一マカ」や「エズ・ラ」の再読書を行うとても資料や註釈書、研究書へ目を通しても記憶の薄欠に基づく理解不足や一知半解があるために、すぐに読書を中断して閉じた聖書を視界の外に押しやることも、実はよくあったことで。
 が、そろそろこの膠着状態を打破しなくてはならない<時>が近付いているのを、わたくしはこの身この心にひしひしと感じるようになっている(外圧、とまではいわないけれど、うん、まぁ似たような感じだね)。
 そのきっかけはなんだったろう──そうだ、第一手は今年1月に日本聖書協会の『旧約聖書続編スタディ版 新共同訳』を購入したことだった。昨年暮れにインターネットでこれのあることを知り、休み明けに電車に乗って現在では閉店してしまった書店で購い求めたのだった(読書に使っていた新共同訳聖書も同じ書店で、いまから約10年前に買ったんだよね)。
 また9月頃に神保町は駿河台下の大型新刊書店にて同じ日に引照附き/旧約聖書続編附き新共同訳と新改訳2017を購入したことや、その後図書館で秦剛平のユダヤ史の著作(捕囚解放からマカバイ戦争までの解説書)と聖書ブログ執筆中に多大な恩恵を賜ったS.ヘルマン&W.クライバーの別著を見附けて即座に借り出し読み耽ったこと、大きな要因は斯様なところだが、小さなところまで視野を広げればもっと多くの事柄が絡み合ってくるだろうが、とにかく種々様々な因子が相互に影響し合い、わたくしに作用し続け……遂に堰は破れたのだ。斯くしてみくらさんさんか、聖書読書に立ち戻りけり。
 でもそこに、実は落とし穴があった。「一マカ」の前に「ダニエル書」を読んでおく必要がある。すくなくともかつてのわたくしはその必要性を重く感じて、「ダニエル書」開巻の余白にその指示を書き付けた──のだが、「一マカ」へ実際に取り組む際は簡単に目を通すぐらいで「ダニエル書」を<読み返す>、<読み直す>ことはしなかった。面倒くさかった? 否、先へ進む気持ちが強すぎて、それを蔑ろにしてしまったのだ。おまけに「マカバイ記・一」、「エズラ記」や「ネヘミヤ記」以来の歴史書とあって興奮していたのだ……。いまになってかつての自分が書き付けた指示の意味をとく感じている次第である。
 ──と、ここでお知らせ。本日のエッセイは2部構成の予定であったが、諸般の事情により後半は明日のお披露目と相成った。どうか読者諸兄よ、ご寛恕の程を。◆

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第2619日目 〈前538年、捕囚のイスラエルは解放されて、“乳と蜜の流れる地”カナンへ帰還する。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 更新停滞の本ブログのテコ入れを検討し、時に新稿披露を果たしてみるも、常に心の底で澱となって残り、なにかの拍子に表面へふわあっ、と浮かんできてしまうのは、「マカバイ記・一」と「エズラ記(ラテン語)」である。
 読解不十分、ノートに瑕疵頻出──足掛け8年に及ぶ聖書読書ノートのうち、旧約聖書続編に属す2書についてはかねてより再読書・再ノートを決意し、その旨ここで表明していた。が、ほぼ毎日続いた(ということに、ここではしておこう)読書ノートが恙なく終わった安堵か虚脱感か、とまれ一旦腰をおろしてしまうては、再びよっこらしょ、と立ちあがるのはちと難儀でな……。
 その状況に好転の兆候が見えたのは、今年になってからのこと。正月休みに『旧約聖書続編・スタディ版 新共同訳』(日本聖書協会)を購い、仕事や趣味の読書の合間合間に読んできた。この読書体験が積もり重なって、ちかごろは「一マカ」並びに「エズ・ラ」へ再び取り組む意欲が日毎に自分のなかで高まっているのを、わたくしは認めざるを得ないでいる。
 顧みれば旧約聖書続編を読んでいた当時、旧約・新約聖書のように幾つもの註釈書や参考文献を自分の周囲で見出すことはすこぶる難しく、ゆえに手探り状態で資料を探し、情報をつなぎ合わせ、思考を巡らせ推理を組み立て、解答という名の推論を導くより仕方ない部分が、多分にあった。旧約聖書続編のノートをぶじに終わらせられたのが、いまでもふしぎなくらいである。
 いやまったく、参考文献の殆ど皆無な点については本当に悩まされたな……。フランシスコ会訳に続編の書物が旧約聖書に組みこまれ、加えて簡単な補注が付されているなんてこと、当時は知らなかったもの。
 「マカバイ記」のような歴史書ならギリシア・ローマ或いはオリエント地方の資料をあたれば事足りたとはいえ、如何せん聖書に即した内容とは必ずしもいい難かったから隔靴搔痒の感は否めなかった。「エズラ記(ラテン語)」に至ってはもはやそれどころの話ではなく……。そうした意味で、件のスタディ版の登場は(個人的には)ちょっと遅きに失したのではないか、と嗟嘆してしまうのだ。むろん、勝手な言い草であるのはじゅうぶん承知。
 心残りを抱いているがそれと向き合うには及び腰であった、そろそろなんらかの結論を出さねばならない、と、そう思い思いしていた時分にスタディ版が登場、書店へ足を運んで瞥見し、わずかの逡巡を経て後購入へ踏み切り、浄机の上に開いて黙読してゆくうち、ふつふつと胸の底から期待と希望が頭をもたげてくるのを、いったいどうしてねじ伏せられよう……。
 ──いまはただ1日も早く読者諸兄の許へ「一マカ」と「エズ・ラ」の再読書ノートをお届けできるよう、これ努めたい。……まぁ、半信半疑で待っていてもらえると、うれしいです。◆

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第2618日目 〈蔵書処分への道〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 はい、みなさん、こんにちは。ちかごろすっかり筆無精になっている、本ブログの管理人──というかブログ主、みくらさんさんかです。聖書読書ブログがいちおうの完結を見てからこの方、Macを立ちあげるのも面倒臭くってねぇ、いやぁやんなっちゃいますよ……なんてポーズばかりのぼやきは脇に置いて。でも、聖書を読み終えてブログの更新が間遠になり始めて早……2年か、もう!
 本を読むのも映画(ドラマやアニメ含む)を観るのもすっかりペースが落ちた。ブログの毎日更新・毎週更新から離れた現在、それまで原稿書きに費やしていた退勤後の時間を、ではなにに使っているかといえば、どこへ寄り道することもなく帰宅して、家族団らんや独りの時間はもっぱら不動産投資の勉強とそちらのサイトを巡回していると、もう寝る時間である。
 不動産投資についてはこれをネタにまたエッセイ(らしきもの)を2、3編書くであろうからここでは触れないけれど、これに絡んで1つだけ私事を述べさせてもらえば、恥をさらしてでもいわれなき陰の糾弾を浴びてもそれでもなお会社に踏み留まっているのは、家族あることを別にすれば銀行の評価を上げるのと属性を綺麗にすることを第一として励んでいるからなのだ、というてあながち間違いではない。
 ところで今日は、つい先程遭遇した愕然とするような出来事について報告したいのだ。
 地元神奈川県に根を張る某大手書店の本店文具売り場で来年2019年の手帳を購入(毎年使っているメーカーの手帳だ)、それをリュックの、買い物した品物を入れておく用のポケットへ仕舞ったのね。そのときはなんに違和感もなかった。そうしてそのあと、ぷらぷら、毎度お馴染みなスターバックスに足を伸ばして、リュックのなかをごそごそ漁っていたのさ。そうしたらポケットのいちばん下、奥まったところに、買い物した覚えのないブックオフの袋が出てきた。
 おかしいな、たしかに今日ブで本は買ったけど、袋には入れてもらってないし、そも袋のなかの本はどう触っても文庫本だ。厚みはそれなりにあるけれど、1冊ものではない、何冊かそこには入っている。なんやねんこれ、って開けてみたら、目を疑う光景がそこにはあった……おお、ナイアーラソテップ! 這い寄る混沌!!
 ……ビニール袋のなかから背表紙を覗かせたのは、五木寛之『百寺巡礼 第一巻 奈良編』(講談社文庫)と江戸川乱歩他による合作小説『五階の窓』と『江川蘭子』(春陽堂文庫)だったのだ。お値段、〆て316円也……なんとまぁ。
 なんとまぁ、といえば、これらを購入したのはちょうど1週間前だ。買ったのは覚えているけれど、まさかリュックのなかで保管されていたとは、さすがに思いもよらなかったよ。されど否み難きこの事実には反省せざるを得ぬ。しかも五木寛之の本は既に同じ巻を所有し、端っことはいえいまも机にちゃんと載っているのだ
 そこでわたくし、みくらさんさんかは溜め息交じりに考えた。今後二度とこのような事件が再発せぬよう対策を講じるべきだ、と。自分がなにを持っているのか把握しよう、と。これはなにも本にのみ適用される話ではない。CDに於いても、服に於いても然りだ。把握すべきは「なにを持っているか」だけではない、「それがどこにあるのか」もわかっていなくてはならない。
 余談だが10年近く前か、その頃に書いた掌編小説(事実上、現時点でわたくしが書いて完成させた最後の小説)、題して『美しき図書館司書の失踪事件』の原稿がいつの間にやら行方不明になっており、いまも捜索中だが発掘発見される様子はない。どこかに紛れこんでいるはずなのだが……。
 閑話休題。
 そうした意味では、「それがどこにあるのか」を把握する方が喫緊の課題かもしれません。
 しかし、把握するためにはまずなにから手を着ければよいか。勿論考えるまでもなく不要品の選別と処分である。が、言うは易く行うは難し、という言葉が古来よりこの国にはある。選別、処分、いずれについてもその言葉がずしり、と肩に、気持ちにのしかかり、始める前からわたくしに溜め息をつかせる。やれやれ。思うようには進まぬ作業なんだよ。
 ああ、本、本、本……。それは生涯の友であり、同時に不倶戴天の敵。愛惜一入ながら憎々しいことこの上ない──或る意味でこれらの形容と本はきっと同義語なのだろう。
 処分する? 残しておく? その基準は極めて曖昧だ。なによりも1冊1冊にこめられた想いは様々なのだから。未読で溜まっている本ばかりなら幾らか負担も少なかろう。選別だって考えこむことはあれど迷いに惑わされて決着がつかぬことは殆どなく、古本屋行きのダンボール箱に本を移すその手も比較的軽やかで、作業はすいすい進むことだろうから(経験に基づく)。
 が、やはり厄介なのは既読の本、愛着ある本、研究や資料として集まってきた本、加えてレア本である。これらは1冊ごとに読んだてふ想いが、記憶が、思い出が、痕跡が、拭いがたいぐらいに刻みこまれているのだから。それだけに、残すか否か、の裁判は長期化し、膠着状態に陥り、なかば放り出すようになかば投げやりに、おそらくは残す方の山に重ねられて、そうして再び無間地獄の如き修羅道を果てしなく歩くことになるわけだ。こうなった身に<断捨離>も<ミニマル生活>も、もはや無縁。<ときめかないモノは棄てましょう>に至っては世迷い言の極北である。え、言い過ぎ? うん、そうかもね。
 話は横道にそれたが、結局は愛着ある本は残し、愛好する作家・ジャンルは残し、研究・理解の名目で集まってきた本は概ね残す、という、ちゃぶ台を引っ繰り返してまた元に戻すような羽目になる。これを<元の木阿弥>っていうのかなん。いったい作業の意味はあったのか、と自問したくなりますよ。それで答えが返ってくることはまずない、っていうね。
 だってねぇ……。(しかたないじゃん、という台詞をみくらさんさんかはどうにかこうにか吞みこんだ)好きな本からは、刺激されたり慰められたり、ヒントを与えられたり回答/解答を得たりしたいもの。だから捨てられないんだよ。スティーヴン・キングや怪奇幻想のジャンルを処分する? 冗談ではない、それは絶対に無理だ。断言したっていい。過去に1度、愚かにも実行して深く深く、途轍もなく大きく後悔して悲しみに暮れた挙げ句にその後、処分したうち9割8分の本は買い戻してきたもの。そんな経験があるから、絶対に捨てられない。
 トールキン、リチャード・アダムス、C.S.ルイス、ローリング、スタインベック。かれらの本も捨てられない。火事後の自分を慰め、支え、励ましてくれたのだから。あのときの、「こんなことになってしまって、これからいったいどうやって生きてゆけばいいんだろう?」という気持ち、それまで当たり前のようにあってこれからも当然のようにあり続けると思うていた現実──生活や人が、その日を境に永久に奪われてしまった哀しみや嘆き、そのあとに襲い来たった虚しさと鉛の衣をかぶったような重苦しさetc,etc.そんな日々をどうにか生き抜くことができたのは、踏み外すことなく道に留まったまま前へ歩き続けることができたのは、人々の献身と優しさに救われたのみならず、わずかに現実を忘れて立ち帰る強さを与えてくれたこれらの本のお陰なのだ。回復とは取り戻すこと、曇りのない視野を取り戻すことである、とはトールキンのエッセイの一節である。これを本当の言葉と知ったのは、火事後の読書であったことを言い添えておきたい。
 架蔵する英国古典ミステリ──特にドイルとクリスティ、セイヤーズ──と米国はロストジェネレーションの作家たち──特にヘミングウェイとスコット=フィッツジェラルド──、長短濃淡の差違こそあれ愛読してきた近代以後の日本の作家たち──リストが長くなること必至のため割愛──も、やはり同様に。
 また、生田耕作先生や平井呈一の著訳書。これらは糧に等しいので謝って処分されるようなことあらばきっとわたくしはどうかしてしまうだろう。
 作品のみ、シリーズのみとなればここへ加えるべきものは膨大となり、即ち残す本のリストは肥大の一途を辿るばかりだ。いやはやなんとも、頭を振るよりない顛末ダネ! なんのための処分蔵書の検討やねん。呵々。
 ……いや、呵々ではない。自嘲している場合じゃないのだ。されど解決策として見出したプランはいずれも帯に短し襷に長し。望みをかなえてくれる解決法など、そう滅多にあるものではない、とは勿論百も承知なのだが……。
 まずは書籍購入を控えに控え(抑えに抑え、とも)、蔵書数がこれ以上増えないうちに<残す本>を選別し、<所蔵先>を検討するが急務。もう人生も折り返し点を過ぎたのだ。わたくしに渡部昇一のような真似はできない。新たに読める本も、読み返す(読み返せる)本も、けっして多くはない。荷物が沢山だと身動きが鈍くなり、あとに遺された者が苦労する。もうわたくしは自分が持っている多くのモノを捨ててゆかなくてはならない年齢なのだ。
 斯く嘆息して窓外を見れば、街はもうクリスマスの景色である。恋人、夫婦、家族が、街路を往来している。もうそんな季節なのだ。いろいろな人が、いろいろな光景が、いろいろな想いが、現れては消えてゆく……嗚呼!
 しかしわたくしは進まなくてはならない。前に、前に、進むべき道を切り拓いて。
 今年中には収益物件購入と蔵書処分のメドは付けたいなぁ。◆

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第2617日目 〈おかえり、ATOK! ようやくブログを再開させられるよ!!〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 まず始めにお伝えしておきたいことがある。わたくしが日常、Macで文章を作成する際の日本語変換ソフトは、ATOK for Mac 2013であった。また、その時点でMacのOS(macOS)はMojaveである。
 と前置きして、今回のお話をさせていただこう。
 ──キーボードを叩いて任意の文章を一節、なんでもいいから入力しよう。次の作業は「変換」だ。たとえば、「グレン・グールド弾くショパンのピアノ・ソナタ第3番。」なる文章を打ったとする。たとい最初の変換時はちょいとおかしくっても、文節ごとにカーソル移動させて変換させてゆけば、或いは変換する単語の範囲を矢印キーで指定してやれば、上記のような正しい、すくなくとも意味の通じる文章には仕上げることが可能だ。
 ……が! 今回わたくしが見舞われたトラブルは、そんな程度では解決しない類のものだったのだ。のっけから「ぐれん」は「愚聯」と変換された。なんだ、その変換は!? と仰け反ること必至の誤変換。
 ATOKともあろうものが、醜態をさらすものじゃ……そう口のなかで呟きつつ、しかし「愚聯」ってどんな意味だよ、まったく、とぼやいてみる。そうして単語として認識・変換された「愚聯」を正しいものに検めるべく、スペースキーを数回叩いて「グレン」を選ぼうと……すると、それが消えた。「ぐれん」という単語そのものが目の前から、開かれたノートから、ぱっ、と消えた。
 茫然自失? どのような言葉を与えようと、目を疑ったのは事実である。いまの現象は果たしてなんだったのか──? そうして気を取り直して、キーボードに向かって文章をひねり変換するけれど、同じ現象に見舞われるだけだった。
 1つの文章を入力して、正しい文章と用字に検めて、次の文章でも同じ作業を行い、1個の作品ができあがるまで同じ作業を延々と繰り返す。そんな当たり前の作業ができない事態が、いよいよ到来したのである。幾つもある変換候補のうち、常に最初に変換された用字で正しいならばストレスもないのだが、そんなことがあるはずない。
 そんな、徐々にストレスが溜まってゆく日々が続いたがふと思い立って、ジャストシステムのHPを覗きに行って、愕然とする事実を突き付けられた──あなたの使っているATOK2013 for Macは、macOS/Mojaveでは動作対象外なのであしからず(※1)──。おお、なんてこったい!?
 遂に日本語変換ソフトを、暫定的な決定ではあるが、ATOKから他へ移さねばならない日が来たのである。ところが新たに乗り換えたソフトはATOK以上の<わろ>で、まるで使い物にならぬ。敢えて名は伏すが、日本語変換ソフトとしての能力は頭を抱えてしまうぐらいのレヴェル。その変換ソフトへは早々に三行半を叩きつけることとなり、その後も3つばかり他の日本語変換ソフトを試してみたが(勿論、すべてApp Storeで無料のアプリだ)、どれもこれも学習能力のない容量ばかり一丁前に占拠する無能の衆。
 結局ATOKに戻るのか、とジャストシステムの偉大さを実感しつつ紆余曲折の後、給料日の翌日に恙なく家電量販店にてATOK2017 for Macを購入(データ上は在庫があるのに売り場にない=入荷したばかりだったため、店員さんが取りに走ったというハプニングはあったと雖も)。
 帰宅後、iMacとMacBookAirへそれぞれインストールを完了させ、またATOK2013に辞書登録していた単語類の引き継ぎも済ませていま、こうして日曜日の夜に本稿を綴っている次第(※2)。顧みれば、macOSをアップデートしてATOKが動作対象外と判明する直前からこの方、満足に原稿を完結させたことは、ない。胸を張っていえる。
 いやぁ、しかし、いいですよ、やはり、ATOKは。日本語を熟知した会社が提供するだけのことはある。明解にして正確、かつ快適な日本語変換環境(ん、まぁそんな感じ)は他に比肩するものなき唯一無二の存在。日本語変換ソフトとして、もはやATOKは「一強」というだに相応しい。
 さて。
 斯様にして従前と同じ、否、もっと優れた環境を手にしたわたくしが為すべきは、ずっと前から言い続けて実行できていなかった、たった一つの約束を果たすこと。即ち、旧約聖書続編「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」の再読・再ノート……それ以外になにか宣言していたことって、あったかな? わたくしにはとんと覚えがないのだが……えへ。
 冗談はさておき、年明け早々にも開始する「マカバイ記・一」について、一言。これの読書を始めるにあたって自らに課していたのが、「ダニエル書」の再読だったがこちらはもう仲秋から晩秋の頃に済ませており、不完全ながらレジュメも作成済み。このレジュメをお披露目するか悩ましいところだけれど、まぁ年明けからの聖書読書ノートブログの再開はお約束できそうである。
 もしここに1つ、悩みどころがあるとすれば……そうさな……、読書に用いるのが新共同訳か、今月出版された約30年ぶりの新しい日本語訳聖書;聖書協会共同訳か、っていうあたりかな。これがなかなか頭を悩ませる問題で本稿を書いているいまも視界の端にあって折節ページを開いては「どっちで読もうかなぁ」と嘆息しているところ。多分に自分の怠慢ゆえということもあるのだが、そうして12月に刊行されると事前にわかっていたことはいえ、読書ノートブログの再開と聖書協会共同訳の出版のタイミングが重なるとはなぁ……。good grief.
 いやぁ、でもATOKを新しくしただけで斯くも最大級の懸念事項がにわかに具体的に動き始めるとは、思いもよりませんでしたよ。
 MacへのATOKの帰還、それは即ちブログ再開の目処が立ったことも意味する慶賀であった。けっして大仰な発言ではないことを、読者諸兄にはおわかりいただけることと信じる。──歌おう、感電する程の歓びをっ!!◆

※1:https://www.justsystems.com/jp/os/macosx/
※2:そうはいってもこの第2稿は月曜日の夜に書いているんですけれどね。てへ。■

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