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第2656日目 〈鮎川哲也「達也が嗤う」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 この春のはじめより暮れの頃、さはりごとありてふる里のなほおくつ方へ蟄居して過ごしたる男あり。其間手持ち無沙汰なりとてわずかのお金を握りしめ古書肆を巡り、推理小説ばかりあれやこれやと漁りて、帰りては早々に高床の万年床へ転がり、深更または明け方まで読み耽りて無聊を慰めて過ごしける。
 さて。
 この蟄居の間、と或る短編ミステリに「あっ!」と叫び、腰を抜かしてしまった。『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー』第3巻所収の鮎川哲也「薔薇荘殺人事件」てふ、犯人当て小説の古典といわれる作品だ。
 正直なところ、<読者への挑戦状>を付した小説に好い読後感は持っていなかった。「薔薇荘殺人事件」を読むのも躊躇したのだが、それでも一抹の期待を胸に読み始めたのは、おそらく綾辻と有栖川のトークの熱さに打たれたせいもあったろう。
 斯くして作者からの挑戦を承けて謎解きに取り組まんと、紙とシャープペンを用意して問題編を読み返す。だまされないぞ、ちゃんと読んで考えれば正解できるんだ、と自分にいい聞かせながら。
 手掛かりはすべて、文中に落としこまれている。ミステリは<騙しの文学>だが、それゆえ、殊三人称の記述にアンフェアな描写があっては駄目なのだ。「薔薇荘殺人事件」は三人称の小説、ルールは厳格に守られなくてはなるまい。犯人当て小説ならば、尚更だ。
 成績は惨敗だったが、「薔薇荘殺人事件」は犯人当て小説としてのみならず勿論、一編の短編ミステリとしても秀逸な切れ味と驚きを味わえる作品で、何度読んでも抜群に面白い。が、人口への膾炙という点で江湖に知られる作者の犯人当て小説は、むしろ「達也が嗤う」であるらしい。というわけで、——
 お待たせ致しました、読者諸兄よ、本題に入ろう。鮎川哲也「達也が嗤う」です。
 今日、いちばん手っ取り早く「達也が嗤う」を読むとしたら……『翳ある墓標』(光文社文庫)か『下り"はつかり" 鮎川哲也短編傑作集2』(創元推理文庫)のどちらかだろうか。されど絶版ながら実は作者には『ヴィーナスの心臓』(集英社文庫)てふ、犯人当て小説ばかりを集めた短編集がある。こちらは読者がゲームに参加しやすいように(どこまで意図されてかは不明だが)、テキストが問題編と解答編に分かれているのが特徴。幸運にも古本屋の棚で『ヴィーナスの心臓』を偶然見附けて蔵書にすることができたので、このたびの読書にはこれを用い、また本稿に於いても引用等で採用する。
 小さな声で告白すると、「達也が嗤う」は今回がようやく初読。
 粗筋はといえば、——
 舞台は元箱根のホテル、緑風荘。語り手の浦和は病気療養中の義兄を見舞いに、ここを訪れた。義兄は浦和に、保険金はお前には渡さぬことにした、という。緑風荘には先客として、かれらの他に6人の男女がいた。元陸軍中将とその妻、ジャーナリストを自称する男、アメリカ帰りの女、肥った独身男と卑しい前歴の女(緑風荘にて急遽婚約したが、かれらが結ばれることはなかった)。
 自称ジャーナリストは以前、卑しい前歴の女と出会ったときのことを皆の前で吹聴、これを厭味たっぷりに当てこする(「背に腹は変えられない」)。そうして2日目、浦和の義兄が死ぬ。自殺か他殺か? 目星も立たぬうちに、今度は自称ジャーナリストが殺される。そばにあったのは、宿泊客の私物のヴァニティケース。騒然とするなか、犯人と目されていた人物の死が告げられる——。
 以上、問題編。解決編の粗筋なんて、書けないよ。
 今回も冴えた働きは期待できぬながらも灰色の脳細胞を叱咤しつつ動かして、まずは疑いの心持て問題編の、一人称の文章を熟読。気になる箇所を洗い出して点検し、続いて伏線やミスディレクションと思しき点を紙に書き出す。斯様にして検討を重ねながら自分の推理を微調整して、1つの自殺と2つの殺人について思いを巡らせる。1つ1つの可能性を排除しつつ論理的に推理を構築してゆけば、<誰が、なぜ、どのようにして>犯行を遂行したか、白日の下に明らかとなるはずなのだ。
 ……お陰様で犯人と動機は正解できた。が、本文中に犯人が埋めこんだ数々のフェイクには、まるで気附けなかった。解決編のあとで問題編を読み返し、そうして初めて「そういうことか……」と嘆息した次第。あすこにあったあの文章はこういう意味だったのか、とか、指示代名詞がはっきりしていないのはそういう理由からだったのか、とかね。「画竜点睛を欠く」とは、まさしくこのことですね。
 そういえば解決編にて鮎川哲也は犯人に、こんなことをいわせている。曰く、「私はただの一度もアンフェアな書き方をしていない」(P213)と。また、「率直に云わせて頂くならばあなたのアタマが悪いのであり、私を責めるのは見当違いと云うべきである」(同)とも。
 本来の文脈から切り離しての引用になったが、いわんとするところはこうだ。即ち、<事件解決のための手掛かり、登場人物にまつわる幾つものフェイクを見破るための手掛かりは、すべて提示してあります。それにかかわることで嘘は一つも書いていません。ちゃんと読んで理詰めで考えれば、犯人は指摘できます。間違えたからといって作者を責めるのは、あなたの失態でしかありません。騙されたあなたが悪いんです>、——。
 いやはやまったく、その通り。悪あがきめいた抗弁の台詞も、八つ当たりの言葉も出てこない。「ンダ、ンダ」と頷くより他はない。あるのは世界が変転してまるで違う世界の光景を読者の眼の前に出現させたことに対する驚きと、威風堂々たる騙しのテクニックの妙に対する称讃、そうしてそれらがもたらす得もいわれぬ感動だ。
 偉そうなことをいえる者ではないのだが、もしこれから「達也が嗤う」を読まれる方があって、自分も謎解きに挑戦しようとされるなら、一つだけ忠告(?)——「"木を見て森を見ず"なんて愚を犯すことなかれ。すべてを疑い、すべてを指摘せよ」
 ——わたくしは先に、本作を『ヴィーナスの心臓』で読んだ、とお話しした。わざわざ断ったのは理由があって、それは「達也が嗤う」の成立事情に由来する。そのことについて、簡単に述べておきたい。
 本作が世に出た初めは昭和31(1956)年7月、日本探偵小説クラブの例会にて朗読された。まず問題編を黒部龍二が朗読し、そのあと30分で例会出席者たちが頭をひねって犯人を誰何、そうしていよいよ解答編が朗読される、という流れだが、勿論それだけで済む話では、ない。会場での朗読にあたっては作者いうところの<立体演出>がなされるなど趣向と茶目っ気と稚気を凝らしたものとなったようである。
 説明下手で申し訳ないところだが、往事の和気藹々とした様子や正解が発表されたあとの侃々諤々の光景など、想像するにとても愉しくなってくるのは、果たしてわたくしだけであろうか。これを鮎川哲也が仕掛けた<本気の遊び>といわずして、他になんというのか、なんて気分にもなってくるのだ。
 『ヴィーナスの心臓』所収の「達也が嗤う」のテキストは、<問題編+解答編>だけで構成されており、昭和31年10月の『宝石』誌が初出。
 が、実は本作には異版と呼ぶべきものが、別に存在している。こちらこそが、いわば世界初演時の姿に近いヴァージョンなのだ。そうしてなんとも嬉しいことに、われらはそれを、綾辻行人編『贈る物語 Mystery 九つの迷宮』(光文社文庫)で読むことが可能だ。個人的にはテキストだけのヴァージョンの方がずっと純粋で好きだが、『贈る物語』所収の「達也が嗤う」ではテキストの一部改訂の他、序文や挑戦状、あとがきなどが付されているなど一編のミステリ小説を取り巻く世界をまるごと堪能できることもあり、「こちらも是非、機会あればお手にとってご一読ください」とお願いする。両方のヴァージョンを読みくらべると、作者が聴取者・読者へ向けてどれだけ<本気の遊び>を挑んできたか、想像できるのではないでしょうか。
 ——鮎川哲也の小説の面白さは、徹底した論理と巧みな文章に支えられた、水も漏らさぬ緻密な構成と、真相解明に重要な示唆を堂々と読者の目の前にぶら下げることも辞さぬ稚気にある。「達也が嗤う」はそうした点が端的に表れた好例だろう。それゆえにこそ本編は、この分野のマスターピースとして長く愛読され、また最高峰を占め続けてきたのではないだろうか。◆(一)

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