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第2658日目 〈ときめきを感じない本なら捨てられるの? 否。そんなこと、あるわけがない。〉 [日々の思い・独り言]

 本を処分して、まったく割に合わぬ買取金額に憤然としつつも納得し、すこしだけ広くなった(と錯覚される)書棚と部屋を眺めながら、つらつらと考えた。処分できる本とできない本を分かつ基準は、なにか?
 片づけ術のオーソリティとして、いまや世界的に知られる存在となった石原麻里子が提唱するのは、<ときめきを感じるか、否か>である。成る程な、と思う一方で、いやちょっと待ってくれ、と声を荒げてしまうのだ。洋服や生活用品については、それで或る程度までは割り切れる部分もあろう。
 が、本はどうか? 彼女の架蔵する本がどこにでも転がっているような、或いは処分しても某新古書店を覗けば棚差しされているような、そんな程度の本ばかりなら、斯様に無責任かつ乱暴な発言も許されようけれど、……蔵書家の立場に立って<片づけ術>を提唱できるような人材は、この世界には存在しないのであろうか。嗚呼! もっとも、そんな人がいてもけっして参考にならぬ意見ばかりが飛び出すような予感しかしないけれど、ね。
 ときめきを覚えなくても手許に置いておきたい本というものが、一定程度以上の蔵書を抱える人には絶対にあるに相違ない。わたくしにも、ある。辞書辞典、地図に始まり各種レファレンス類。のみならず、過去にわたくしのなかを通って血肉となり、いまはもう退役していると雖も書架にあって暗に存在を感じさせる本というのが、確かにある。
 そのなかには思い出やときめきとはまるで異なる次元の執着や情念がこびりついた本も、存在しているのだ。中学生の時分から買い集めて耽読し、火事をくぐり抜けて手許に残った幻想文学というジャンルの書籍は、まさしく思い出と共に執着や情念が塗りこまれた本なのである。日本の古典文学に関しては最近、再び自分のなかで燃えあがってきたジャンルなので、いまはここから除外しておく。
 けっきょく、処分できる本と処分できない本の間に、線引きできるようなものはなに一つとしてないのだ。ゆえに本の処分や片付けは、あらゆる片付けや収納についての指南書やアドバイザーが避けて通るのだろう。ブックオフに売りなさい? 倉庫に預けなさい? ヤフオクやメルカリを利用しましょう? 阿呆か。そんなことで済むなら、蔵書家は誰も苦労しない。
 厄介かつ哀しい作業だよね、本の処分って。CDのほうがまだ割り切れる(個人の意見です)。
 でも、いつまで生きていられるか、わからない。人生は有限である。本はあの世に持ってゆけないのだ。残された者に苦労をさせてはならない。──為、いまのうちから断腸の思いを退けて鬼神と化して、「これも捨てる! あれも持ってゆけ!」とばかりに震える手で快刀を振るうよりないのだろうなぁ。
 紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)に記された、著者の想いが近頃よくわかるようになってきた。日本を代表する知識人がこれまで蓄蔵した数々の蔵書、災害等を避けるために中国地方へ書庫附き戸建を購入して移住したにもかかわらず、寄る年波に抗うこと能わずシニア向けマンションへ入居するため、蔵書の過半を(殆どすべて、という方が正解なのか……)処分する顛末など、涙なくして読めるものではない。
 いつか自分にもその日が訪れるやもしれぬ。そう考えたら、尻の下がむずむずしてきて、一刻も早く視界に入る多くの本を処分したくてならなくなる……のだが、自分にそんな勇断をくだして決行するなんてことが、果たしてできるのだろうか。そう思うと決意はたちまち萎えてゆく……。
 子供の頃から親しんだ本を処分できる日の訪れよりも、架蔵する本をしまう書庫と捨てられない本の避難所を兼ねて、家族で住まう新しい家を建てることの方が、よっぽど現実的なんだけれどな。◆

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