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第2686日目 〈太宰治『お伽草子』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 太宰治『お伽草子』の諸編にはいずれも種本がある。中核を成す「新釈諸国話」は井原西鶴の浮世草子に、「お伽草子」は御伽噺を集めた物語草子、即ち『御伽草子』収録の昔話に、それぞれ典拠をあおぎ、また併載される3つの短編も中国の白話小説や実在の人物の日記に、出典を求めることができる。作品の仕上がりにムラはあるが、太宰お得意の「再話小説」として読み逃すベからざる1冊だ。
 途中で本を新潮文庫の旧版から改版された、活字の大きな同じ文庫の新版へ替えたことも原因なのか、どうも感想が稀薄でいけない。とはいえ、むろん琴線に触れた作品はある。今回はそれについて集中的にお話ししよう。「新釈諸国話」の終わりから2番目に位置する「遊興戒」である。
 西鶴没後の出版物の1つである『西鶴置土産』の1編を語り直した「遊興戒」はタイトル通り、<色遊びを戒める>お話だ。
 むかし、色遊びに打ち興じた仲間の1人を、遠く江戸の町に見附けた京都の道楽坊主たちが、かれのいまの生活と、かつては蝶よ花よを謳われてかれが身請けした名妓の果ての姿を目の当たりにして、つくづくもうこれからは遊びはやめて精々真面目に生きよう、と誓い合う、というが骨子。
 これを読んで、いやぁ、すっかりむかしの自分を見させられましたよ。独り身でふらふら遊んでいた頃はね、わたくしもまぁ一寸いろいろありましたから。身請けしたいぐらい恋い焦がれた夜の蝶がおりましたからね。
 かつての名妓を嫁に迎えて夜の営みを重ね重ねて子供もこさえ、したが一緒に生活するとなるとさまざま支障が生じて夢も理想もすべてが狂い、いまは生活も貧窮し、それでいてまだ女房への愛情はむかしのままだ、と──いったいなにが幸せか、考えさせられるのだ。無情に人の生活の上を流れる時間の残酷さについても、嗚呼と嗟嘆したくなる。時間と現実は女から色香を奪い、男から風流を奪い、その日暮らしに身をやつすが決まり事だから。
 かの夜の蝶は本を読むのが好きで、家事に長け、あの世界へ身を置く割に経済観念はしっかりしていて、うむ、可愛らしくてもう逢うたび抱きしめたくなるぐらいの名花だったのだ。とはいえ、あのまま客と蝶という関係を清算して恋人となり夫婦となり、家庭を持っていたらいったいどうなっていたか。遠からずわたくしは、「遊興戒」で名妓を身請けした風流人、利佐の如くになっていたかもしれない。
 いや、いろいろ考えさせられる短編でありましたよ。
 ──次は悩んだ末、『晩年』以前の習作を集めた『地図 初期作品集』を読みます。◆

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