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第2607日目 〈横溝正史『びっくり箱殺人事件』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 かつて平井呈一はアーサー・マッケンの佳編『生活の断片』を最初に読んだとき、なんだか勝手が違うと感じて部屋の隅に抛ったが或るとき改めてページを繰ってみたら「こんなすごい作品があったのか!?」と驚嘆、評価を一八〇度転じて握玩の一作となった旨、著作集の解説で披瀝している。
 わたくしもちかごろこのような経験を持った。横溝正史『びっくり箱殺人事件』がそれである。最初は「かったるいもの読んだぁ」と、疲労の吐息まじりに本を閉じたのだが、このたび改めて感想の筆を執るに及んで再読してみたら当初の感慨は吹き飛んで、あとには「異色ながら愛すべき佳編」てふ思いが強く残ったことである。
 大衆芸能の地口を思わせる地の文を魅力に思うのみならず、一筋縄ではとうていゆかぬ登場人物の駄弁雄弁ぶりに以前は辟易したが、いまでは両手を挙げて歓迎だ。
 どうして最初はダメで次は良かったのか、その転換するきっかけはなんだったか──これはもう話は単純で、最初はいままで読んできた金田一耕助物とは著しく異なる勝手にとまどい、次はそれに馴れたからに過ぎない。いちどは最後まで読んでしまっているから、物語の全体が把握できていたという安心感も手伝っていたことだろう。
 殊程然様に本作は、おそらく横溝正史の全著作中でも異色の一作なのではないか。たしかにそれまで読んだ作品でもたびたび、くすり、と思わず吹き出してしまう描写はあったが、それはあくまでシリアスなストーリーのなかに練りこまれた隠し味、或いは一時的な緊張緩和の施策に等しい。
 『びっくり箱殺人事件』が異色なのはプロット、トリック、アリバイ、小道具、動機など<本格ミステリ>の結構を整えているに加えて、この「くすり、とさせられる箇所」を作品全体に広げた結果、<本格>と<ユーモア>が絶妙なバランスで調和した点にある。
 これを奇跡の所産というと、一笑に付されるだろうか。その<ユーモア>が全体を彩っているのが本作に<コージーミステリ>の衣をかぶせている要因だろう、と書けば、もはや失笑レヴェルだろうか……?
 『びっくり箱殺人事件』なる作品あるがゆえに、おそらくその作者を<ユーモア>とか<コージーミステリ>という方面から捉えているのだろうが、わたくしは元より英国産ミステリのファンだからこうしたコージーミステリは大歓迎なのだが、まさか横溝正史の小説を読みすすめてゆく過程でその種の作品に出合えるなんて思いもよらなかったよ。
 本作には幾つもの要チェックな箇所が登場するけれど、ときどき作者が顔を出して物語の進行を促す、その筆捌きもその一つといえるだろう。たとえば、──
 「だが、こんなふうに書いていると、いつまでたってもこの小説は終わらんというオソレがある。なにしろ幽谷先生をはじめとして、駄弁家ぞろいの一党のことだから、いつ何時誰がまたよけいな口出しをして、いよいよますますこの小説を、長からしめる結果にならぬとも限らぬので、暫くかれら一党をことごとく黙殺して」(P76)云々
──など作品全体を損なう結果になりかねぬ、作者という全知全能の神が作品に介入する技術も、ストーリーテラー横溝の手に掛かれば斯様に物語の流れを妨げることなく作中へ埋めこむことができるイコール物語に没入している読者をふと現実に戻してしまう愚を犯さずに済む、というお手本といえるだろう。
 なにしろ『びっくり箱殺人事件』には一筋縄ではいかないような人物が勢揃いし、それぞれ機あらばその場の主役をかっさらうぐらいの勢いで喋り、動いてくれるのだ。とすると、神なる作者による介入は物語を破綻なく滞りなく運行するための、「冴えたやり方」であったか。
 ところで横溝正史は登場人物を指して、こんなふうにやや呆れ顔で、しかし愛情たっぷりに書いている、──
 「まことに春風駘蕩たるものである。幽谷先生の楽屋に集まった怪物団諸公の話しぶりを聞いていると、今宵ここで殺人事件があったなどとはとても思えない。常日頃、こういう世界に馴れている恭子さんだったが、このときばかりは呆れかえってしばらく言葉も出なかった」(P121)
 ああ、この登場人物の自由闊達ぶり、かれらのかもすのどかな空気! 良質のミステリに欠くべからざる余裕と稚気に満ちみちた本作にあって、それは潤滑剤であると同時にトリック解明の鍵でもある。
 安楽椅子へ坐ってコーヒーとドーナツを口にしながら読むにうってつけな、横溝正史版<コージーミステリ>『びっくり箱殺人事件』と出合えた幸福に、感謝。そうして感想文書きという目的があったとはいえ再読の機会が与えられたことにも、感謝。その一方で本作に金田一耕助が登場するはおろか名前だに出されぬ理由も、なんとなく理解できる──、ひとこと、そぐわないよね。
 『びっくり箱殺人事件』を読むにいちばんオススメなのは、読書のためのみの時間がたっぷり取れる日、なにものにも邪魔されないけれど適度に生活音のある環境に身を置くことだ。読書の酩酊を味わうに申し分ない環境を作り出すのは至難の業かもしれないけれど、実現すればそれは贅沢で豊潤な読書経験をもたらしてくれるに相違ない。
 ──自分の反省と経験を踏まえて、上述の如く意見具申させていただく。ちなみにわたくしが読み直したのは、京浜急行本線〜都営浅草線〜京成本線に揺られる約3時間強の遠出に於いてであった。◆
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第2606日目 〈横溝正史「堕ちたる天女」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 トラックの荷台から落ちた石膏像のなかから美女の死体が! 淋しい場所にある謎めくアトリエでは妖しき犯罪がうごめいている! ……まるで乱歩だ、『地獄の道化師』だ……。そんな連想の働くのもやむない横溝正史「堕ちたる天女」が、本日の感想文の俎上に上せられた作品である。
 交通量の多い交差点での荷物の落下事故から、本編は幕を開ける。果たしてその荷物はトラックの借り主たる彫刻家が造った石膏像で、その女像の芯となっていたのは浅草のストリップ劇場のトップスター、リリー木下だった。彼女は筋金入りのレズビアンと評判で、愛する相手もある身だったがちかごろは異性によろめき、かつての愛人とはすっかりご無沙汰であるという。捜査に乗り出した等々力警部にくっついて金田一耕助もかかわってくるが、やがて事件は同性愛者の愛苦を背景にした保険金絡みのそれに変貌してゆくのだった……。
 寡聞にしてわたくしは横溝正史に同性愛者を主要登場人物に据えた作品のあることを知らない。が、すくなくともこれまで読んできた20数編のなかに斯様な人物は見当たらなかったと記憶する。むろん、古今東西、文学に現れたる同性愛は男女問わず多くあり続けて、いまもやや趣を変えて生み出されているが、たとえば近代文学に目を向ければ未だ知られざる山崎俊夫がいるし、横溝と同じミステリ作家では江戸川乱歩という先達があった。
 ただ、やはり時代を感じさせるのは、犯人として終始疑われてなかなか網に掛からぬ杉浦陽太郎がホモになった経緯だ。戦時中、杉浦は戦地で上官や朋輩の慰み者にされ、結果、復員して後も男相手にしか性愛の情欲の抱けぬ心身となってしまった。こうした戦場での異常体験は帰還兵が多く報告乃至証言を残しているが、作中ではこのような性癖を「ソドミア」と呼んでいる。いまは死語だがかつては蔑みと差別の言葉であったのだ。
 今日のようにその性癖が江湖に知られ、国によっては同性婚さえ認められるようになった時代であれば、リリー木下も杉浦陽太郎も救われたことであったろうに、と21世紀の世界の寛容を顧みて思うのである。
 ──杉浦のこうした性癖を更に哀しくさせているのは、真犯人によって巧みにそれを利用され、濡れ衣を着せられた挙げ句、殺されて人目につくこと稀な所へ棄てられたことだろう。同性愛が世間の理解を得られぬ、蛇蝎の如く厭われていたような時代、その性癖を知られることはおそらくいま以上に悲劇的かつ絶望的、見えない檻に囚われて一切の希望も自由も失われたに等しいことだったかも知れない。
 同性愛という要素をかりに取り払ったとしても杉浦と真犯人の力関係を思うとき、嗚呼、組織てふ透明の檻に囲まれて唯々諾々と日々を過ごす一人であるゆえにわたくしはそれを、訴えるに訴えられぬ類のパワー・ハラスメントに置き換えてしまうのだ。そうして瞳が潤み、憤りのようなものが腹の底で生まれるのを禁じ得ぬのである……。
 長口舌を揮うたが、なにも杉浦に限ったことではない、第一の被害者であるリリー木下も同じで彼女もまた愛を信じた相手に裏切られて殺されたのである。永い春がもたらしたマンネリな関係に刺激を与えてみましょうよ、なんて愛人の提案が、まさか自分を死に至らしめる周到かつ狡猾な罠だったとは知る由もなく。男装した相手を新たな恋人と周囲に吹聴して、これまで経験したことがないような日々の終わりに待つのが自分の殺人計画であるとは、露とも知らず、彼女は愛に生き、愛に殺された。
 然り、真犯人は共謀して哀しき同性愛者を脅し、騙し、欲望成就のマリオネットとしか扱わなかった卑劣漢である。かれらはリリー木下を殺して彼女に掛けられていた保険金をせしめ、口封じに杉浦のみならず2人の女性までも毒牙に掛けてその命を奪った。過去に犯した保険金殺人だけでは満足できないお金に飢えたかれらは、戦争を挟んで此度もまた同じような殺人事件を計画して実行した。その非道ぶり、その冷酷残忍なる様、作中結びの一章にて金田一耕助が、「鬼畜も三舎を避ける」(P357)と評し、終いには「ぼく……ぼく……こんな凶悪な犯罪のカップル、見たことがない。あいつらは悪事を享楽しているんです。気持ちが悪い。吐きそうです」(P357)とまで言い捨てるのだ。こんな名探偵、珍しい。
 かれらの失敗はそこに金田一耕助がいたこと、それに尽きよう。金田一あったればこそ戦前に岡山県であったお宮入りした保険金殺人とのつながりが見え、一挙に2つの事件が落着するに至ったわけだから。これがどういうことかといえば、本作に於いて東の等々力警部と西の磯川警部が初共演し、がっちり握手を交わすのである。
 同性愛を物語の核に持ってきたこと、扱う事件が21世紀の今日も折節報道される保険金殺人であることのみならず、金田一がそんな仮借ない台詞を吐いたという一事だけでも「堕ちたる天女」は、これからも読み継がれてゆくに足る佳編と結論してよいだろう。
 初出は『面白倶楽部』(光文社)昭和29/1954年6月号。◆
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第2605日目 〈横溝正史「貸しボート十三号」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 以前はミステリ小説を読みながら「犯人当て」に挑んだものだった。それが最高潮に達していたのはちょうど1年前だが、ちかごろはそんな意欲もまるでなく、物語に心をゆだねるだけでじゅうぶんと思うている。
 探偵がトリックやアリバイ崩しに能弁垂らすのを傾聴し、犯人を指摘する件りに「ほう」と多少の驚きを表明し、大団円を迎えた物語に満足を覚えて本を閉じる……この間の気持ちをかんたんに述べるなら、「そのうち探偵が真相に気附いて犯人を名指しし、トリックやらなにやらについて解説してくれるンだろうな」と……或る意味、ミステリの読者としていちばん理想的かついちばんお呼びでない読者であるやもしれぬ。
 その代わり、というのでは勿論ないが、この頃ずっと読み耽っている横溝正史については「探偵小説の醍醐味を味わう」というより作中に描かれた時代風俗や地理に興味を惹かれることがたびたびで。たとえば此度の「貸しボート十三号」も然りで、隅田川にまつわる幾つかの関心に囚われて、作品の感想等とそれらを同居させるのに頭を悩ませていたのだが、もうこうなっては開き直って今回は、作品よりもそちらの話題に終始させていただこう。えっへん。
 ──というておきながらさっそく私事になるのだが、現在わたくしは本作と非常に縁ある土地へ仕事に来ている。そのビルからはちょうど首都高速都心環状線を見おろすことができる。関東大震災で甚大な被害を被った東京市の復興──そのシンボルとして立案されたプランの1つが「震災復興橋梁」である。大正期という時代性を反映してか、そのデザインや様式は今日でも新しさを感じさせるが、残念ながら今日では姿を消した橋梁が多く、往年を偲ぶのは難しい。戦災復興と高度経済成長を承けて河川が埋め立てられ、同時に空襲による被災を免れた橋梁も撤去・解体が行われたからである。
 が、幸いなことに21世紀のいまも往年の姿を留める橋梁は現存している。そのうちの1つがビルから見おろす都心環状線に掛かる采女橋や万年橋だ。かつて築地一帯には堀割が縦横に走ってそこに水の流れがあったこと、時が経て<再開発>の名の下に埋め立てられて道路に変貌したこと、それらを知る端緒が横溝正史の「貸しボート十三号」だったのだ。
 なお本作は、これもいまは姿を消した汐留川の貸しボート場からそこまで舵を漕いできたアベックが、浜離宮恩賜公園の沖合で漂うボートの上に生首が半分切られた男女の死体を発見する場面から始まる。このボートが所轄の築地書へ曳航されるルートを、すこしばかり省略されていると雖も既述されているので、ここにそれを書き写しておきたい。曰く件のボートは浜離宮恩賜公園沖から隅田川水域に入るとすぐに築地川東支川へ折れ、現在の築地市場内にあった海幸橋をくぐり、そのまま遡上して市場橋、北門橋、采女橋を頭上に見あげ、築地川奔流にぶつかると右手に舳先を向けて万年橋、祝橋の下を通って川縁の築地書に曳航された。
 今日、本作で描かれた東京の景観は殆ど失われてしまった。「貸しボート十三号」が執筆されたのは折しもモータリゼーションの黎明期、古き都の面影が駆逐されてゆくのは避けられぬ時代を迎えつつあったのだ。
 未来へ前進するには過去を埋葬する行為が、どうしても伴ってしまう。だがしかし……と、そんなディレムマを抱えながら、横溝正史がこの短編を発表した昔と同じ雄姿を構える2径アーチ石造り橋梁の采女橋や万年橋にたたずみ、眼下の都心環状線を見おろして途切れることなく行き交う車の列を、或いはふと視線をあげた先にあるビル群の向こうに見える東京スカイツリーを眺めていると、時代遅れのノスタルジーに苦笑しつつも豊かになるのと引き替えになくしてしまった<なにか>に心がチクリ、と痛むのである。
 そうしてそんな思いを心の隅で弄びながら、いまの自分が最も親しみと愛着を感じる東銀座・築地界隈の様子を横溝正史が書き留めてくれたことに感謝し、金田一耕助と等々力警部がこの地を振り出しにして捜査に東奔西走した事件のあったことを忘れられずにいるのだ。◆

 追記
 咨、紙幅が限られているとは話題を絞らざるを得ぬことを意味する。つまり書き足りないことがまだまだあるのだ、この「貸しボート十三号」には。ライスカレーが無性に食べたくなったことや珍しく青春小説の趣を兼ね備えた作品であること、或いは浜離宮恩賜公園と東京湾を隔てる2つの水門の話や事件現場から死体発見地点までのルートの疑問、エトセトラエトセトラ……あれやこれやと……。
 でも、これは別稿として後日、好き勝手お喋りさせていただくこう。では、ちゃお!□
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第2604日目 〈横溝正史「湖泥」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 五木寛之の『古寺巡礼・奈良編』を読む手が止まった。「唐招提寺」の章、その一節にふと去来するものを感じたのだ。その節に曰く、「(敗戦後、大陸から引き揚げてくると)こんどは「引揚者」という肩書きがついた。一転して、祖国の人たちから「引揚者」として差別されるような立場になったのである」(P111)と。
 この思いがはたして、五木寛之の感受性がもたらしたものか、当時の内地民の多くが抱いていたものか、知る由もないけれど、そのときわたくしの手を止めたのは刹那の間、数日前に読んだ横溝正史「湖泥」の犯人が五木と同じく引揚者で、かつ落ち着いた先で虐げられる存在だったからだ。
 虐げられていた、とは、ここでは迫害や村八分を意味するのでない。いみじくも金田一耕助がかれを評したように<インヴィジブル・マン>、即ち<見えて見えざる人>として、虐げられていた、というのである。体はたしかにそこにあるのに、コミュニティの一員と見なされていない。なにか事が起こらぬ限り、誰もかれの存在を気に留めないし、その動向に注意を払わない。現実に体験したら地獄だけれど、殊探偵小説に於いては、犯人役の人物に願ったり叶ったりの立場であろう。
 犯人はその立場を巧みに利用した。村人からは無能白痴と思われていたようだけれど、とんでもない。実に周到、狡猾で、自分を<見えて見えざる人>扱いした村人への復讐を果たしてゆく。が、その犯行の根っこには病で苦しむ妻を見殺しにした村人たちへの怨みつらみがあった。
 満州から引き揚げて村へ漂着したとき、かれの妻は梅毒に冒されていた。村人からは忌避され、医者からは診察を拒まれた。やがて妻は逝った。その恨み忘れ難く、時経るに従いますます憎しみは募る。いつの日か……、と思い思いしていたところに同じ引き揚げ者で、いまは村長夫人となった女の不義を知るとそれを利用して、積年の恨みを晴らさんと手を血に染めた。旧習と因縁に魂を囚われた閉鎖的な共同体に、図らずも紛れこんでしまった<異類>による復讐劇がこの「湖泥」なのだ。
 その背景を思うてぞっとさせられるのは村人の、犯人への接し方だろう。村八分ならまだマシだ。しかしながら村人は、あたかもかれを生殺しとするかの如く接してきた。すれ違えば声は掛けるし、事件があった際も証人として遇し、隣村の祭りで会えば酒を飲むような間柄なのだ。にもかかわらず──<引揚者である=土着民ではない>ことからたぶん、村人は自分でもそれと意識しないまま、犯人を引揚者として差別していたんじゃないのかな……。

 「湖泥」は、およそ多くの人が金田一耕助の探偵譚に抱くイメージをずらり揃えた作品だ。都会から離れた地方の僻村を舞台とし、そこには旧習と因縁に魂を囚われた人々が生活し、村を代表する2つの旧家がいがみあっており、それが高じて陰惨な連続殺人が勃発する、という、そんなイメージ──。
 が、短編という性格上こちらの方がより濃密に、それらの要素が凝縮されていて読み応えがある。地方物では一頭地を抜く仕上がりを誇る一方で、田舎で起こる犯罪について磯川警部と金田一耕助、それぞれの台詞がとても印象に残る短編。蛇足を承知で、最後にそれを引けば、──
 「(田舎は)何代も何代もおなじ場所に定着しているから、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまもなおヴィヴィッドに生きている。いや、当人同士は忘れようとしても、周囲のもんが忘れさせないんですな。話題の少ない田舎では、ちょっとした事件でも、伝説としてながく語りつがれる」(P6 / 磯川警部)
 「(都会よりも田舎の方が、或る種の犯罪の危険性をずっと多く内蔵している、という警部の発言を承けて)……実際、そのとおりなんですよ。しかし、それはあくまで内蔵しているだけであって、ある種の刺激がなければ、こんどのような陰惨な事件となって爆発しなかったろうと思うんです。では、その刺激とはなにか……やはり都会人の狡知ですね。(中略)だからぼくのいいたいのは、農村へ都会のかすがはいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね」(P107-8/ 金田一耕助)◆
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第2603日目 〈メタボは敵だ! ──文章の長ったらしいことについての短な反省。〉 [日々の思い・独り言]

 読者諸兄皆さまへ、謹んで申しあげたい。
 公開の数日後、第2602日目を読んでみてわれながら「ちと長くなりすぎたわい(テヘペロ)」と深く、真摯に反省すること頻りである。
 ゆえ以後はかつてのように──聖書読書ブログであった当時のように……「え?」とかいうな──、400字詰め原稿用紙4〜5枚程度を目処とした分量で、すくなくとも読書感想文に関しては綴ってゆくことにした。
 原点回帰? まぁ言葉が立派に過ぎるけど、うん、そ、そんなところだ……ね。
 既に続く第2604日目はダイエットにダイエットを重ねて、それでも未だ肉付きの良すぎる部分なきしにもあらずだけれど、上述の分量に留めることができた(安堵!)。
 然り、書けばいい、というものではない。メタボは「敵」である。◆
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第2602日目 〈横溝正史「トランプ台上の首」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 きっと、と思うのである。CSにて古谷一行の<名探偵・金田一耕助シリーズ>全32作が放送されなければ、そうしてそれを録画・視聴していなければ、「トランプ台上の首」なる作品が横溝正史にあるのを知るのはもっとずっと先のことであったろう。加えて視聴前に「黒猫亭事件」を読んでいなければ、ドラマ『トランプ台上の首』を観て引っ繰り返ることもなかったであろう。
 余計なことをいわせていただければ『トランプ台上の首』は同名短編の映像化ではない。<名探偵・金田一耕助シリーズ>の第28作『トランプ台上の首』は実質「黒猫亭事件」のドラマ化である。どこにも「トランプ台上の首」の要素がない、とまではいわないが……まぁ正直なところ、この短編と「黒猫亭事件」を合わせて1本の映像作品に仕立てる必要はあったのかな、と小首を傾げ続けているのだ。ドラマはドラマで面白かったんだけれどね。
 それでは気を取り直して、──
 岡本綺堂が小説や随筆で江戸の風俗を活写し、永井荷風がやはり小説や随筆で浅草や東京の景観を録したと同じように、横溝正史も東京を舞台にした探偵小説で街並みや風俗を描いて戦後復興期の様子を今日に伝えている。
 「トランプ台上の首」に限った話ではない。やがて感想をお披露目するであろう「貸しボート13号」に於いてわれらは東銀座周辺の首都高速湾岸線がかつて築地川の本流であり、湾岸線に今日も掛かる采女橋から築地市場方面へ向かう道路はその支流で、各所に掛けられていた橋の名残が交差点の名称に留められているなど、横溝正史の小説を読まずしてどうして調べたりする気になったであろうか。探偵小説は時代を映し出す鏡でもあるのだ。それはおそらくジャンル小説ならではの特徴だろうが、それは後日の話題とし、いまは「トランプ台上の首」に戻ろう。
 ──「トランプ台上の首」を読み始めるやわれらは、あたかもタイムスリップしたかのような思いに陥る。それが錯覚であるとわかると今度は戦後間もない隅田川上にかつて水上総菜売りなる商売があったことに「ほう」とし、多くの常連顧客とそこそこの儲けがあることに「へえ」と感心させられることだろう。
 勿論この商売、横溝正史の創作ではなく江戸時代からあった商売の末裔というてよく、敗戦の痛手から立ち直って高度経済成長期に突入した頃まで隅田川にいた水上生活者相手の物売り稼業で、宇野の場合、水上生活者のみならず川縁に住む人たちにまで顧客を持っていた。
 この宇野宇之助、当初は当たり前の総菜を積んで売り歩いて(?)いたが、事件現場となったマンションの女性たちから「今風の物も売らなきゃ駄目よ」、「もっと身だしなみに気を遣わなくちゃ駄目よ」と教育されて以後、扱う総菜はひじきに油揚げ、里芋の煮ころがしやうずら豆の甘辛煮といった昔ながらのものに加えてオムレツやトンカツ、コロッケなど洋風のおかずが加わり、装いも印半纏に捻り鉢巻きから清潔な割烹着にコック帽、と小洒落たものへ変貌した。ちなみに船も和船からモーターボートに代わった……。
 戦後復興期の職業事情という切り口から「トランプ台上の首」を読んでみると、またちょっと違った楽しみ方ができるかも知れない。
 昭和30年代、既に夫婦共働きの世帯が普通になってきており、食事の支度もままならぬぐらいに忙しい日々を送っているというのは即ち、日本が高度経済成長期に突入しており神武景気が一段落して間もなく岩戸景気を迎えんとしていた時代の物語であることを、われらに伝えてくれる。また、件のマンションに住む独身女性のなかにはいわゆる<二号さん>がちらほら見受けられて、しかも稼ぎが相応に良いことに触れて昭和32/1957年4月に施工された売春防止法(作中では「売春取締法」)の適用の難しさを指摘していたりもする(いずれもP178)。
 ちなみに最初の被害者(と目される)女性はストリッパーを生業とし、そのパトロンは表向き自動車のブローカーだが実際はヘロインなど麻薬の密輸を専らとする人物(P207-8,247,288)であった……。
 第一の被害者の殺害現場となった今戸河岸(隅田川縁で今戸神社を擁し、現在は台東区リバーサイドスポーツセンターがあり、桜橋水上バス乗り場がある、桜橋で対岸と結ばれている。ここをすこしく下流へ行くと、東京大空襲戦災犠牲者追悼碑や言問橋、東武線浅草駅がある)にあるガレージの地下室だが、そこの「コンクリートの壁が、せんだっての地震のとき、一間ほどくずれおちた」ために犯人は自ら補修を買って出て壁から「床まできれいに塗りなおした」(P303)と金田一耕助は指摘した(一間は約1.82メートル)。
 この地震とは、小説内時間から推測すると昭和32/1957年11月10日未明に発生した伊豆諸島は新島近海の群発地震をいうていると考えられる。新島の南沖約5キロの地点を震央とする、震源の深さ13キロ、マグニチュード6.2の地震であった。数日前から活動は活発であったがこの日、遂にそれは頂点に達して、近くの式根島では未明の本震の際、全半壊した家屋が合計4棟、石垣が崩れたり亀裂が走ったりなどの被害が50箇所近い場所で生じた由。また、崖崩れも2箇所で報告されている。なお、千葉県勝浦町では震度3、隅田川河口付近を含む東京は震度2の揺れが観測されたという。
 さて。この震度2、じっとしている状態であれば人体でもじゅうぶん認められるものだが、では果たしてその程度の揺れでガレージの壁が一間ばかしとはいえ崩れたりするものだろうか。元不動産屋のみくらさんさんかは、少しく小首を傾げつつこの点を考えてみた。
 東京大空襲の際、隅田川一帯は一面が焼け野原になって建物などなにも残らなかったような印象をどうしても抱くのだが、実際は一部の建築物は被害の程度は別にして焼夷弾の雨を逃れて焼け残ったようである。写真で確認できるのは東武線浅草駅の入る松屋や雷門前の仲見世などであるが、もしかすると殺害現場となった建物もこうした空襲を免れた建築物の1つであったのかもしれない。
 とはいえ空襲に伴う火災こそ避けられてもその衝撃と無関係でいられたとは思えない。爆弾破裂の衝撃を吸収し続けた結果、コンクリートが脆くなってかの地震に於いて一部が剥落したということもあり得よう。幾ら戦後の復興期の建築物とて震度2程度の微震でコンクリート建築の一部が剥落するなどとは思えないのだ。杜撰で手抜きな工事、資材の強度を下げるような工事を行っていなければ……もっとも、これは今日でもよくある話であるが……。
 旧耐震基準を含む建築基準法が制定されたのは昭和25/1950年で、このときに構造基準も規定された。ちなみに今日の基準で旧耐震基準時代に建てられた木造建築の評点は倒壊する可能性が高いことを示す0.7をずっと下回る0.50、倒壊可能性は高いということだ。これをコンクリート建築にそのまま適用することは勿論できないけれど、すこし大きな揺れで相応の被害が出ることはほぼ間違いないというてよいだろう。
 ──横溝正史の東京物は岡山物に較べて幾分評判が悪いけれど、見方を変えればそれらの多くが職業小説、地理(地誌)小説、風俗小説の側面を持つ。そんな要素を汲みあげて読む愉しみもあるということを、申しあげたかった。
 もっとも、こんなことをいえるのはおそらく日常的に東京のど真ん中へ通勤して、かつては大嫌いだった東京という街に親しみを持つようになり、その歴史、その変貌、その雑多ぶりに面白みを感じるようになったからだろう。その流れで講談・落語に浸り、池波正太郎や久生十蘭を筆頭とする時代小説を漁り読むようになって初めて、そこで描かれた町の遺構、行楽の名残がいまもあって、それらのすぐそばを普段から歩いていることに気附かされた。21世紀の東京と近世期の江戸は薄い膜一枚を隔てて隣り合っていたのだ。
 ……と、浜離宮までを含む銀座界隈で昼間を過ごすわたくしは、横溝正史の東京物をそんな風に読んで愉しんでいる。それゆえに正直、さして面白いと感じられない「びっくり箱殺人事件」もどうにか読み進められているわけで。
 それにしても、と物語本編についてなにも触れていないことに今更ながら気が付いて、顔を青くしながら述懐するのである。犯人に狙撃されながらも九死に一生を得た金田一耕助のことや、被害者と加害者が双子だったってことまだこの時代には通用していたトリックなのかと慨嘆したりしたことをね。でもそれらについて、本稿で筆を費やすつもりはありません。もう他の誰彼がきちんと書いていらっしゃいますからね。わが輩の出る幕では、ない。◆
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第2601日目 〈横溝正史「鴉」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 磯川警部も人が悪い。どこぞへ金田一耕助を湯治に誘うときは、そこが未解決事件の現場であることが専らで、あわよくばかれの推理を頼りに落着を見たい、と企んでいるフシが見え隠れしている。──とは流石に言葉が過ぎるか。しかしねぇ、『悪魔の手毬唄』という動かしがたい前例があり、いままた短編「鴉」という事件に出喰わしてしまった以上、そう邪推してしまうのも無理からぬところではあるまいか。そうして、嗚呼、2度あることは3度あるという……。
 その「鴉」の粗筋はこうだ、──
 昭和21年11月、新婚間もない蓮池貞之助が家人の眼前から姿を消した。3年後に戻ってくる、という書き置きを残して。実際それから3年後にかれは戻ってきたが、再び家人の前から、今度は決して戻らぬと残して、行方をくらませてしまった。この失踪事件は果たして真実か、狂言か、金田一耕助は考える。その土地で神様の使いとされる鴉がなぜ、おこもり堂で死骸となり、床に血を滴らせていたのか、金田一耕助は考える。貞之助を取り囲む人々の証言と状況証拠から金田一耕助が明らかにして見せた2回にわたる失踪劇、その全容とは──?
 ちらり、とお話ししてしまえば、この人間消失は或る人物によるすり替わりなのだが、その動機はいとも単純にして邪である。
 他人が計画した謀り事を自分の企みの実現に利用し、願望成就ならずと知るや破綻をもたらした人物を殺めんと動くも自滅して果てる、真犯人なんて呼称も勿体ないぐらいの小悪党──期待を裏切らぬ末路を辿る件の輩にわずかの憐愍すらも抱かないけれど(自業自得とか因果応報というよりも、この人物の場合はただの「バカ」である)、翻って他の登場人物にはというと貞之助の妻、珠生に殊の外同情を覚えるのである。
 幕切れ近くで珠生の口から夫の失踪にまつわる話を聞くことができるのだが、そのきっかけはあまりに痛ましいことだった。愛が誠であったがゆえに妻は悲しみ、夫は苦しみ、そんな葛藤にお構いなく<家>の重圧がのしかかってきてかれらは更に追いこまれてゆく。
 近代文学は古来の旧習と舶来の新風のぶつかり合い、せめぎ合いをテーマの1つとした。島崎藤村を見よ、田山花袋を見よ、有島武郎を見よ、永井荷風を見よ。就中<家>を巡る作品については藤村の独断場の感があるけれど、もう少し時間を下ってジャンルも変えてみると横溝正史も地方物で繰り返しこのテーマを追求してきた一人だ。『犬神家の一族』、『八つ墓村』、『本陣殺人事件』など「犬も歩けば棒にあたる」式に該当する作品は長短編問わずに多くあるだろう。
 「鴉」もむろんその例に洩れず、貞之助・珠生夫婦は<家>がもたらす因習のやはり犠牲者というてよい。
 ただここに一言急いで添えておかねばならぬことは、そも失踪計画が立案された背景には珠生が生まれながらに「女であって、女ではない」ゆえに「夫婦のかたらいのできぬ体」(P171)だった、という事情のあったことだ。これが夫婦生活へ影を落とし、<家>の存続/継承問題に発展してゆくあたりがつながってゆくわけである。この「女であって」云々が今日でいう性同一性障害を指すのか、半陰陽の意味なのか、作者はそれ以上なにも触れていないので判然としない部分もあるのだが……。
 荒寂とした空気が重く垂れこめる下で生きる人々を描いた本作は、その読後感のもの侘しさも手伝って一際、心に深く刻みつけられた佳品であった。読後、巻を閉じて思わず天を仰いで「咨」と嘆息させられてしまう探偵小説なぞ、古今東西そう滅多にあるものではない……でしょう?
 ……さて、次は磯川警部、どんな未解決事件に金田一耕助を巧みに巻きこむつもりか。今後の読書がますます楽しみ。あのときちゃんと捜査していれば未解決事件になんかならなかったんですよ、なんて小気味よい皮肉が金田一耕助の口からまた聞けるのかな。くすくす。◆
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第2600日目 〈横溝正史「幽霊座」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 ──巻を閉じてぼんやりしながら、絵になる場面の目立つ一編であったなぁ、と述懐するのである。横溝正史の短編「幽霊座」を読んでまず胸中に去来した思いはそれだった。梨園を舞台にしたせいもあろうか。
 たとえば金田一耕助が平土間の椅子にうなだれて坐り、そこへ窓から射しこんだ光があたっているシーン。たとえば音爺いと金田一耕助が奈落の底で話し合っている最中、爺の袂から犬塚信乃のブロマイドがはらりと落ちる、そうしてそれを拾いあげるシーン。たとえば歌舞伎狂言『鯉つかみ』の上演中、水船に設けた鉄管から奈落へ抜けてきた滝窓志賀之助/鯉の精役の役者が早着替えするシーン。たとえばその『鯉つかみ』を上演する舞台上の役者たちの所作、その裏方たちの動き回る様子。いずれもほんのわずかの描写でしかなく、或いは地の文でわずかに説明乃至は描写されるに過ぎぬものだが、やたらとそれらが一枚一枚の映像となって鮮烈な印象を与えてくるのだ。
 ちと話が先走りすぎたようだ。簡単に粗筋を、ここで述べておこう。
 稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日をかれの命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助/鯉の精はかれの遺児、雷蔵が担当するはずだったが上演直前に倒れたせいで鶴之助の異母弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助と紫紅を中心とする因果な人間関係を暴くことになるのだが──。
 嗚呼、なぜ粗筋の紹介がこうも下手なのか。ホント、嫌になっちゃうね。まぁ、そんな徒し事はさておき。
 華やかに映る梨園の裏に蠢く人間関係、権謀術数、不協和音がもたらす種々の事件を描いた人といえば、真っ先に戸板康二や小泉喜美子が思い浮かぶ(栗本薫にはそうした小説があるのかしら。『変化道成寺』っていう新作歌舞伎の脚本を書き下ろしているのは知っているけれど)けれど、横溝正史が広義のショービジネスの世界を事件現場に持ってきたのは「幽霊座」以外にどれだけあるのかしら。インターネットで調べればすぐわかるだろうけれど、実際に読んでいない以上はその情報も信憑性が薄いから、ここでは殆どなかったのではないか、といわせてもらう。
 戸板康二も小泉喜美子も梨園を題材に幾つもの小説を書いた。さりながら陰惨さ、背筋の凍るような禍々しさという点では流石に横溝の本作へ軍配が挙げられよう。横溝の他作品でも陰惨で禍々しい事件はお目に掛かれるが、どうしたものか小説の舞台を梨園に据えただけでその要素は一際と濃くなり、それが読み手に働きかける効き目も倍増するのである。魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿の如き梨園に生きる人々であればそのような行動も納得できる、と妙に納得させられてしまう<なにか>が、事件の発端となった出来事に寒々しくも妙に生々しい根拠を与えてしまうのである。池の畔に立って、溺れる幼児を冷徹な眼差しで見つめるあの男の様子……そのあとの行動と併せて思えば、心胆寒からしむるとはまさにこのことか、と嘆息せざるをえない。歌舞伎役者(あ……)ならではの立ち姿の美しさが更にその思いを強く、深くして。
 もしこの作品に呆れてしまう箇所があるとすれば、それは犯人たち(2度目の、あ……)の報連相怠慢に関してであろう。きっとかれらがもう少し密に、頻に連絡を取り合っていればこの犯罪も杜撰な結果に終わることはなかったっだろうに。結局は血に飢えた鬼女/醜女の暴走が事件を発覚させたも同然だものね。きっと彼女にドニゼッティがルチアのために書いたような狂乱の音楽は相応しくない。
 なお「幽霊座」で重要な役回りを務める歌舞伎狂言『鯉つかみ』、元は尾上家の演し物で、初演は宝暦6/1756年4月に市村座(江戸)にて初代尾上菊五郎が滝窓志賀之助を演じた『梅若菜二葉曽我(うめわかなふたばそが)』であったというが、別に元文4/1739年7月、同じ市村座で二代目市川海老蔵が演じた『累解脱蓮葉(かさねげだつのはちすば)』を初演とする説もある。
 最近では昨平成29/2017年11月の歌舞伎座顔見せ公演、幕開きの演目として上演された。滝窓志賀之助/鯉の精を演じたのは七代目市川染五郎(高麗屋)。七代目として最後の舞台であった(翌平成30年1月の壽初春大歌舞伎にて十代目松本幸四郎を襲名披露)。
 本音をいえば、歌舞伎を題材にした探偵小説として読むのみならず、これをきっかけに歌舞伎に興味を持って恐る恐る歌舞伎座や新橋演舞場に出掛けて、その魅力、その魔力、その底知れぬ面白さに目覚めてどっぷりはまってくれる人が出てきたら嬉しいな、と思うておるのであります。探偵小説も面白いけれど、歌舞伎も面白いよ。◆
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第2599日目 〈横溝正史とミルンとウッドハウス。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の佳編「蝙蝠と蛞蝓」を読んでふと思うたのは、横溝正史が『新青年』誌の編集にかかわり、1年半の間編集長を務めていた時代のあったことである。
 編集に参加したのが大正14/1925年から、編集長の地位に在ったのが昭和02/1927年03月号から翌昭和03/1928年09月号までということから、わたくしみくらさんさんかは推理という名の妄想を膨らませてゆく……愛してやまぬ作家の1人、P.G.ウッドハウスの作品が戦前から翻訳されており、その主舞台が他ならぬ『新青年』誌であったことを思い合わせながら。
 実は探偵小説専門誌ではなく総合娯楽雑誌であった『新青年』は、当時のモダニズムの流れを反映してちょうど横溝が編集参画する頃から、その手の作品を積極的に掲載するようになっていた。同時に誌面へはユーモア小説の類もちらほら顔を見せ始め、その一翼をウッドハウス作品は担っていた(ウオドハウス或いはウォードハウスなどと表記された)。
 それはちょうど横溝が編集に携わった時期の話である。ウッドハウス作品が紙面へ掲載されるに際してどの程度まで横溝がかかわったか不明だけれど、すくなくとも印刷所に回る前の段階で目を通したり、評判や感想など耳にする機会はあったのではないか。
 目を通す機会あったらばその過程で、おそらく鍾愛の一作であるA.A.ミルンの傑作探偵小説『赤い館の秘密』を想起させる春風駘蕩の作風に加えて、上質のユーモアと筋運びの巧みさ、文章の精妙さやそこから滲む作者の教養の豊かさに気が付いたことであろう。因みに横溝正史とミルン『赤い館の秘密』の出会いは大正15/昭和01/1926年、博文館(『新青年』発行元)入社のため上京する以前の神戸時代であった由。
 勿論横溝正史がウッドハウスに直接間接の別なく影響を受けていたか、確認する術はない。随筆集のどこを引っ繰り返してもウッドハウスの名前は見当たらなかった。横溝がミルンを好んだのは「退屈でありながら異様な魅力に満ちている点」(「私の推理小説雑感」より)であり、すべてが結末の謎解きにつながってゆくがゆえに登場人物の一挙一動、一言半句も見落とすことのできない緊張感にあった。
 翻ってわれらがウッドハウスは如何か? その作品は広義のミステリでこそあれ、ミルン始め<ミステリの黄金時代>に足跡を残した作家たちとはひと味もふた味も違う、かれらが描こうとした現実とはいささか乖離した、若干ねじの緩んだ世界を舞台にした作物であった。ウッドハウスのミステリに於ける最高傑作というてよい「ストリキニーネ・イン・ザ・スープ」(『マリナー氏の冒険譚』所収 文藝春秋)はその好例だ。勿論、悪い意味で申しあげているのではない。前面に押し出されてくるのは謎解きではなく笑劇なのだ、ウッドハウスの場合は。
 ウッドハウスもミルンと同じくミステリ小説への愛にあふれていたとはいえ、ミルンと決定的に異なったのはミルンが「現実の人たちについて探偵小説」(『赤い館の秘密』序文より)を書こうとしていたのに対し、ウッドハウスは自身のシリーズ・キャラクターとほぼ変わらぬ<ちょっと珍妙な人たち>がすったもんだする種類のミステリ小説であったのだ。つまり、ウッドハウスはちょっと浮世離れした人たちを自身のミステリ小説でも描いたのである。
 おそらく横溝がウッドハウスではなくミルンの小説を好んだ理由の一端は、こうした登場人物の描き方に由来するのだろう。『赤い館の秘密』に登場する素人探偵、アンソニー・ギリンガムが金田一耕助のモデルになったことを考え合わせると、個人的にはじゅうぶん納得できる話なのだ……。
 まだまだわたくしの横溝正史読書マラソンは始まったばかりである。「蝙蝠と蛞蝓」のようなユーモア漂う作品が他にあるのか、幸いなことにまったく知らない(全作品を読んだ方、ネタばらしのコメントは寄せないで!)。さりながらマラソンの第一コーナーを回ったあたりで、これまでとちょっと毛色の異なる愛すべき掌編に出会えたことは、きっと今後の弾みとなり励みとなるに違いない、と自分は勝手にそう思うている。◆

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第2598日目 〈横溝正史「蝙蝠と蛞蝓」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 心が塞いでいるときに読むユーモア小説程、効用の両極端なものはない。より落ちこませる場合もあれば、わずかなりとも晴れやかにさせる場合もある。これは探偵小説も同じで(いや、ジャンルに限らずなのだろうけれど)、爽快な気分にさせてくれることもあれば、登場人物の誰彼に感情移入し過ぎてやるせない気分になったり……。
 「蝙蝠と蛞蝓」を読了した際、二の次あたりに倩思うたのが、そんなことであった。本作の場合、どちらへ針が振り切れるかといえば、探偵小説に於ける前者となる。成る程、そうかい、爽快な……。
 が、今回感じた「爽快」とはたとえば名探偵の快刀乱麻を断つような推理に陶然とし、想定外の真相に思わず唸って膝を叩いちまう類のことではない。「爽快」の根っこにあるのはユーモア、否、「滑稽」だ。読書の愉悦に浸っている間は始終くすくすさせられてしまうような……。本作を一言で括るなら<笑劇>か(ルビを振るなら、コメディよりファルスの方がしっくりするかな)。
 角川文庫旧版にして27ページの短編を一息に読み終えて巻を閉じたとき、まず胸中に飛来したのは上述のような分析めいた思いの数々では当然なく(当たり前だ)、いやぁ実に愉快な小説を読んじまったぜ! てふ一種の幸福を噛みしめたのである。まぁちょっと心が塞いでやさぐれたくなることのあった数日だったものでね。閑話休題、ハイホー。
 でも正直なところ、横溝正史にこうした作風の1編があるとは知らなんだ。本編は金田一耕助と同じアパートに住む男のモノローグで進められる。かれは金田一耕助とアパートの裏手に住む誰だかの妾が大嫌いだった。悶々と過ごしていた或る日、突如警察が踏みこんできて逮捕された。アパートの裏手に住む妾が殺されたのだ。語り手が疑われたのは、件の妾を殺して金田一に濡れ衣着せる犯罪小説を、腹立ち紛れに書いていたからだ。身に覚えのない殺人事件で警察へ拘留・尋問中のかれの前に颯爽と(?)金田一耕助が現れて……、──さて、事件の真相と真犯人は?──という筋を持つ。
 語り手は裏に住む妾を「蛞蝓」と呼び、金田一耕助をその風貌、その行動、その印象から「蝙蝠」と蔑んで、2人を徹底的に嫌い抜く。その嫌いぶりが「よくもまぁそこまで……」と呆れ顔で讃えたくなるぐらい筋金入りなのである。
 これまでも金田一耕助の能力に疑問を持ったり、その存在に良くない印象を抱いた人物は多くいた。が、斯くも罵倒し、揶揄し、嘲笑し、警戒し、終いには毒気を抜かれた人物とお目に掛かったことはない。むろん未読の作品群のなかにはいるのかもしれないが、わたくしは横溝正史読書マラソンの第一コーナーをようやく回ったばかりの新参者だ。
 まぁね、昼は部屋に寝転がって死体や殺人現場の写真が載った本を読み、夜ともなればいずこともなく出掛け、加えて例の、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭に襟が茶色くなったしわくちゃな羽織袴となれば、そりゃあ素性を知らなければ警戒して然るべきだわな。いつもは人懐っこい笑顔とくたびれた風采で相手の懐にするりと入りこんでゆく金田一だが、その登場作には必ず1人2人は金田一をどうにも胡散臭い人物に見、煙たがる人物が現れる。かれらの視点で金田一耕助を活写すればこうもなるか、という格好のサンプル、その一例を「蝙蝠と蛞蝓」は提供しているといえないだろうか。
 ぼかぁこの短編、お気に入りだなぁ。好きだなぁ。
 旧版の文庫解説(中島河太郎)には未記載なので書誌データを記しておくと、本作は探偵小説誌『ロック』(筑波書林)誌昭和22/1947年9月号が初出。書籍初収録は未詳だが、春陽文庫『横溝正史長編全集 第14巻 死神の矢』(昭和50/1975年6月)であるようだ。その後、角川文庫旧版に同ラインナップで収録され、今日では改版された『人面瘡 金田一耕助事件ファイル6』(角川文庫 平成8/1996年9月)や『毒の矢』(春陽文庫 平成9/1997年5月)他で読むことが可能。横溝正史が執筆した金田一耕助ものとしては『本陣殺人事件』(昭和21/1946年)、『獄門島』(昭和22/1947年)に次いで3作目、即ち現実に於いても作中時間に於いても最初期の金田一の活躍が描かれた1編である。
 なお作中時間に於いては「蝙蝠と蛞蝓」、金田一耕助が復員して『獄門島』事件を解決した翌年、昭和22年初夏の出来事であろう由(研究サイト「金田一耕助博物館」内コンテンツ「金田一耕助事件簿編さん室」[http://www.yokomizo.to/chronicle/index.htm]に拠る。記して感謝申しあげます)。◆

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第2597日目 〈横溝正史「死神の矢」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 長編「死神の矢」は、娘の結婚相手を候補者3人から選ぶにあたって奇異な方法をその父親(職業:大学教授)が、知己の仲である金田一耕助に開陳する場面から始まる。舞台は神奈川県の片瀬海岸、そのすぐ近くに建つ館。奇異なる方法とは、海上に浮かべた的を浜辺から矢で射て見事命中させた者に娘を与える、というもの。婿候補は3人が3人ともイヤァな感じの連衆で、でもそのなかの1人が矢を的に中てて晴れて婚約者となったのだ。この出来事が発端となって候補者たちは次々に、自分たちが用いた矢で心臓を射貫かれて殺されてゆく。やがて捜査線上にボクサー崩れの男が容疑者として浮上するが、さて果たして真犯人は──? すべての殺人計画が遂行された後、ゆくりなくも明らかにされる連続殺人事件の真相とは……。
 読んでいてどうしても気になってしまうのは登場人物たち、就中大学教授の父親と3人の婿候補、2人のバレエ研修生の女性の口調である。ぞろっぺえというか演技が過ぎるというか、育ちの悪さが滲み出ているというか、どうしても馴染めぬものを感じてしまうのだけれど、横溝正史が本作を執筆した昭和30年代とは現実に斯様な話し言葉が一般的であったのだろうか。
 かれらとは「育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ」(SMAP「セロリ」)が、記録に残らぬ近過去の風俗を知る一助と捉えれば重宝するか。どうしても登場人物の口調が気になるけれど最後まで読み通すのを諦められぬ向きは、「小説は風俗描写から廃れてゆく」てふ三島由紀夫の言など無視して、たとえば現代日本人の喋り方に脳内変換すればよい。
 そういえば辻真先がかつて赤川次郎を論じたエッセイのなかで、ユーモアとは余裕である旨述べていたのを覚えている。「死神の矢」を読んでいて図らずもそれを思い出した箇所のあったことを、この際だから書き留めておきたい。最初の殺人の第一発見者がそれを金田一耕助以下その場に居合わせた人々に伝える場面だ。申しあげます、○○さんはお食事に参ることができないと思います。どうして? 紛失していた矢が見附かったのです。どこで? ○○さんの胸に刺さっていました。ああ、なんてこったい! ……このやり取りがわたくしをしてジーヴスとバーティのすっとぼけたやり取りを想起させ、それに触発されて辻の持論を思い出したのである。
 勿論第一発見者は気が動転していたからあんなピントのずれた会話になってしまったのだ、といえばその通りなのだが、英国ユーモア・ミステリの雄、コージー・ミステリのお手本というてもよいA.A.ミルンの傑作『赤い館の謎』を横溝正史が愛してやまなかったことを念頭に置けば(ついでにいえば金田一耕助のイメージは『赤い館の謎』の主人公、アンソニー・ギリンガムであった)、最初の殺人事件の第一報を伝えるこの場面を執筆するにあたって著者は、或る種のオマージュをそこに託したと想像を逞しうすることだって可能だ。更に想像を膨らませてあり得る可能性を探索すれば、……いや、これは後日の話題に譲ろう。
 金田一耕助は開巻1ページ目から読者の前に姿を現して、知己の大学教授と婿選びの方法を聞かされて新ユリシーズの挿話を思い出したりしている。つまりかれは最初から事件に巻きこまれるべくしてそこへ招かれていたのだ。
 が、例によって例の如く自分の周囲で進められてゆく殺人劇を未然に防いだり、犯行前の犯人を挙げることはしない。最早読者にはお馴染みのパターンで、或る意味に於いて安全運転を遵守する名探偵である。そのくせ人目に立つぐらいうろうろして証拠を掻き集めているのだから、クライマックスにて婿となる男が金田一の能力を疑う台詞を吐いても読者は苦笑いせざるを得ないのだ。
 然様、まるで金田一耕助という男は名探偵というより連続殺人の見届け役である。真犯人のやむにやまれぬ想いを忖度し、その計画が完遂されるまで犯人検挙に手を貸さない、とでも決めているかの如く──。むろん。真犯人の犯行動機にじゅうぶん情状酌量の余地があると判断された場合のお話だ。1つ1つの事件を点検してゆけばそんなことはないのだろうが、一読者としてはそんな印象を拭えないのである。◆

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第2596日目 〈横溝正史『迷宮の扉』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 横溝正史が執筆したジュブナイル小説はいわゆる<ヨコミゾ・ブーム>を承けて角川文庫に編入された。その際同じ作家の山村正夫によってリライトされたが、①文体を「ですます」調から「である」調に変更、②差別用語/表現等を書き換え、③章見出しの追加、④一部作品に於いて探偵役を由利先生から金田一耕助に変更、以上を大きな柱としている由。
 その後ジュブナイル小説群は角川スニーカー文庫に移籍して現在は全点絶版。うち幾つかの作品は21世紀になってポプラ・ポケット文庫で文体を「ですます」調に戻して復活したが、こちらもいまは版元品切れ状態となっている。しかしながら角川文庫のリライト版は今日でもKindleにて電子書籍版が購入可能だ。
 『悪魔の降誕祭』に続けて読んだ本書『迷宮の扉』は、そんなジュブナイル小説の角川文庫リライト版の1冊である。
 一巻の殆どを占める表題作は、遺産相続を巡る骨肉の争いに巻きこまれた金田一耕助の活躍を描く。
 粗筋を架蔵文庫の裏表紙から転記すると、──金田一耕助の行く所、必ず事件あり。三浦半島巡りを楽しんでいた金田一は、突然、嵐に遭い、竜神館という屋敷へ逃げこんだ。だがその直後、一発の銃声と共に誰かが土間に倒れこんできた。うつぶせになった男の背中の左肺部のあたりから血が噴き出していた。殺された男は、毎年この屋敷の主、東海林日奈児少年の誕生日に、カードを届け、ケーキを切りに来る黒づくめの男だった。不審に思った金田一が尚も聞き込もうとしたが、日奈児の後見人降矢木は、なぜか言葉を濁した……。/莫大な遺産をめぐる人々の葛藤をテーマに、完璧なトリックと緻密な構成で描く傑作本格推理──以上。
 んんん、なにやらわたくしのまとめた粗筋の方が良さそうな気がするが、長いから今回は割愛しておこう(←負け惜しみ)。
 その遺言状の内容や相続(予定)人を擁する家族間の相克など、かの『犬神家の一族』をわたくしは思い出してしまうのだが、こちらはそれよりもずっと軽量級。良くも悪くもこぢんまりとまとまっているのだけれど、それが却って幸いしたか、横溝正史の小説技法がぎゅっと詰まった一級品のエンタメ小説に仕上がっているのだ。かれのストーリーテラーぶり、ページターナーぶりは大人向けのミステリよりもこちら、ジュブナイル小説の方でより堪能できるというてよいだろう。
 本書は他に「片耳の男」と「動かぬ時計」という短編2作を併収する。どちらも毎年の贈り物が物語の中心となる点で共通するが、むろん内容にまったくつながりはない。前者は犯罪物、後者はファンタジーである。いい添えれば両作いずれもシリーズ・キャラクターの登場しない、ノン・シリーズ短編。読み切り短編であるのも手伝って2作には一切の夾雑物なし、寄り道なし、幕が開いたらあとはもうただひたすら結末へ向けて突っ走ってゆくのみ。言葉を選べば、勢いに満ちた作品である。
 某新古書店でなにを思うことなく購入した1冊だけれど、斯様な小説をこの度読めたことがとてもうれしい。横溝正史にこうしたジュブナイル小説があるってことを、不勉強な身ゆえについこの間まで知らなかったもの……。
 ──未読どころか本さえ手にしていないけれど、横溝のジュブナイル小説には<怪獣男爵>なる悪漢が登場するシリーズがある、と仄聞する。『迷宮の扉』でこのジャンルの愉しさを知ってしまった以上、遅かれ早かれそちらへも食指を伸ばすことだろうね。と思うてオークション・サイトを覗いてみると、やれやれ、バラで殆どの作品が出品されているではないか……! 大人向け作品と並行して、ゆっくり愉しみながら読んでゆこう。◆

 ◌初出
 「迷宮の扉」:『高校進学』昭和33/1958年01~12月号
 「片耳の男」:『少女の友』昭和14/1939年09月号(初出時題名「七人の天女」)
 「動かぬ時計」:『少年画報』昭和02/1927年07月号
 初出誌については「TomePage」内「横溝正史小説リスト」並びに横溝正史研究サイト「横溝正史エンサイクロペディア:横溝正史ジュヴナイル作品 -リスト補遺暫定版-」を参考とさせていただいた。記して感謝申しあげます。
 殊後者はわたくし自身横溝作品を読み進めてゆくにあたり他サイトと併せて常に恩恵を被っているサイトである。□

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第2595日目 〈横溝正史「霧の山荘」を読みました。或いは、「Pホテル」とは本当に「軽井沢プリンスホテル」のことなのか?〉 [日々の思い・独り言]

 小説家は自分のよく知る土地を舞台にする。横溝正史とて例外ではない。むしろ横溝はよく知った土地を事件発生の舞台に、積極的に採用し続けた作家として最右翼に連なる人物ではないか。岡山県然り、世田谷周辺然り。そうして此度は信州を……。
 中編「霧の山荘」の舞台は戦後別荘を構えた軽井沢である。横溝正史と信州地方のつながりは古く、昭和8年の大喀血により転地療養を余儀なくされた頃に遡れる。富士見高原や上諏訪などを転々としていたことが、かれとこの地方の馴れ初めとなり、創作の上では短編「鬼火」や長編『犬神家の一族』といった憎悪劇に結実し、実生活に於いては戦後、軽井沢へ別荘を構えるに至ったが、「霧の山荘」はまさしくその軽井沢、就中別荘のある中山道(や北陸新幹線、しなの鉄道線)を跨いで広がる南原という地を舞台に据えた。
 もっと絞りこめば本作の舞台となる別荘地は中山道の南側一帯で、晴山ゴルフ場や軽井沢ゴルフ倶楽部を擁す地域。作中の記述に従えば、6万坪の敷地に40軒ばかしの別荘が建つのみの、「K高原でもちょっと別天地になって」(P222)いる場所だ。ちなみにこの界隈、現在では企業や大学の寮や保養所といった施設が集まるが、なお周囲に古くから所有されている別荘も散見される。
 さて、わたくしことみくらさんさんかはワクワクしながらこの中編を読んでいる最中、ふと疑問に思うたのだ。金田一耕助が事件の依頼を受ける前から滞在するホテルについて、である。
 金田一が泊まる「Pホテル」は軽井沢プリンスホテルであろう、というのが横溝ファン、金田一ファンの間では通説らしい。それに疑いを持つ向きはないようだ。
 プリンスホテルとは西武資本のホテル・チェーンだが、「霧の山荘」が『講談倶楽部』に発表された昭和33/1958年当時、西武資本のホテルがその名称に「プリンスホテル」と冠していたのは高輪と赤坂のみであった。
 軽井沢プリンスホテルの前身は昭和25/1950年開業の晴山ホテルといい、軽井沢プリンスホテルが開業するのは昭和48/1973年。両者が経営統合を果たすのは更に下って昭和52/1977年のことだ。その際晴山ホテルは軽井沢プリンスホテル晴山館へ改称された(現在は「軽井沢プリンスホテル ウェスト」として営業中)。
 従って本作の発表当時は「軽井沢プリンスホテル」なる名称のホテル、この地に存在しないはずなのだが、──
 されど「Pホテル」は執筆当初からの称であった。初出誌を披見する機会こそなかったものの、改稿前の原型作品を集めた『金田一耕助の新冒険』(光文社文庫)には「霧の別荘」という、「霧の山荘」のオリジナル・ヴァージョンが入っている。『講談倶楽部』昭和33年11月号初出のそれには既に金田一の滞在先として、「Pホテル」の名称がたしかに明記されており。
 となると、「Pホテル」とはやはり現在の軽井沢プリンスホテルを指すのか、それとも他に斯く記されるホテルが軽井沢には他に存在したのか。わたくしにはその点こそが本作に於ける最大級の<ミステリ>である。よって不肖わたくしも探偵に身をやつして調査し、近日中にその結果報告を別途一稿を草して読者諸兄にご報告する予定だ。それがたとい無残な結果になろうとも、……。
 ……ああ、「霧の山荘」でしたね。忘れていました(おい)。では以下、簡単に(おい!)。

 深い霧の底にへばりついたような別荘地の一角で、金田一耕助は途方に暮れていた。30年前の未解決事件について相談したいから、と招待されたサイレント時代のスター女優、紅葉照子の山荘に赴こうとしていた途中の迷子である。やがて到着した依頼人の別荘でかれは、案内役のアロハ・シャツと共に紅葉照子の刺殺体を発見する。すわ、とばかりに別荘の管理人の許へ走って戻った金田一は目を疑った。別荘のなかにあった依頼人の死体も怪我で動けなくなっていたアロハ・シャツの男の姿もそこにはなく、殺害現場となった別荘は小綺麗にされているばかりか依頼人の妹と名乗る老婦人が住んでおり。そうして翌日、別々の場所で紅葉照子とアロハ・シャツの男の死体が発見される。
 ……金田一耕助は考える、どうして紅葉照子の死体は別荘内から屋外へと移動されただけでなく着物を脱がされていたのか、紅葉照子の本当の殺害現場はどこなのか、どうしてアロハ・シャツの男まで殺されなくてはならなかったのか、30年前に紅葉照子の身辺であったという未解決事件とはなんなのか、そうして勿論、真犯人は誰か、殺害の動機と手段は、単独犯なのか共謀者があるのか……金田一耕助は例によって例の如く、スズメの巣のようなもじゃもじゃ頭を引っ掻き回しながら、等々力警部や地元警察と共に事件の真相にゆっくりと迫ってゆく。徐々に判明してゆく事件の顛末や如何に──。
 ネタバレという程のことではあるまいから書いてしまうと、金田一が目撃した紅葉照子の死体があった別荘と彼女の実妹が住んでいた別荘は別々の建物である。そのあたりは正直なところ、読んでいれば薄々察しのつく話だ。事実が判明しても、ああやっぱりね、と頷くのが関の山。むしろ問題となるのは、どうして他人の別荘で紅葉照子は殺されていなくてはならなかったのか、という点だ。
 じつはこれこそが犯人の動機や殺害方法につながる<謎>であり、同時に金田一を巻きこむきっかけとなった30年前の未解決事件の真実を探る<突破口>でもあるのだ。TBS系列で放送された本作の長編ドラマ(いわゆる2時間ドラマですな)ではこの未解決事件をクローズアップしているが、原作ではほんの添え物程度でしかないことに「霧の山荘」を読み終えた方は或る種の拍子抜けを覚えるかもしれない。
 要するにこの事件、紅葉照子の芝居っ気と茶目っ気、加えて悪戯心が引き金となって起こったのだが、子供のような彼女の虚栄心へ巧みに働きかけた犯人の才智が警察は勿論、金田一耕助の推理も狂わせてしまったのだ。
 されど悪事はかならず露見する。捜査の過程で金田一は小さな綻びを幾つか見出す。そうして或る推論の下に罠を仕掛ける。というよりも、敢えて置きっ放しにして置いた<餌>に犯人が喰らいつくのを待つ。
 当然犯人はその<餌>に引っ掛かり、見事御用となるのだが、思わずぞくりとする場面がそのあとに待っている。自白のあと共謀者のヘマを詰って詰ってまるで反省の色もなく、あたかも自分が法に触れる事件を引き起こしたとはつゆ思うていない素振りだ。21世紀の今日でもお馴染みな場面だろうが、なんだかやるせない思いに暗くなることである。と同時に本作に於いていちばん気に入っている場面であることも、備忘のように書き留めておこう。
 もし可能であるならば本作を読み終えた方は、前述した短編集に収録される原型短編や古谷一行主演の同題ドラマを鑑賞されては如何でしょう。有意義かは別にして、なにか思うところある時間は過ごせると思います。◆

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第2594日目 〈横溝正史「女怪」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 いやぁ、このタイミングで読むべきではなかったかもしれない、と猛烈な反省を自らに強いたのが、一昨日昨日と読んでいた横溝正史「女怪」であります。
 例によって金田一耕助シリーズの一編ですが、こいつが他と較べてちょっと異色なのはこの名探偵が想いを寄せた女性が渦中の人となる、その点に於いてであります。金田一が懸想した女性はシリーズ全作を通じて僅かに2人、1人は『獄門島』の鬼頭早苗、もう1人が本作の持田虹子であります。
 どちらについても(当然)想いが報われることはありませんでしたが、それでも敢えて類推を試みれば金田一の心により深く、かつ癒やし難い思い出を残したのは、この持田虹子の方であったでしょう。
 虹子からの依頼によって彼女の身の回りに起こっている事件を捜査する金田一。その過程でかれは、これまで知ることなしに過ごしてきた現実──即ち虹子の来し方と否応なく向き合い、そこへ塗りこめられた彼女の「かなしみ」と「るさんちまん」に気附かされ、閉ざされた闇のなかから浮かびあがった真相を他ならぬ虹子本人へ報告せねばならぬ立場に置かれる。
 おそらく金田一としても、できるならば伝えずにおきたい、かりに伝えるとしても虚偽の報告を提出したい、と願うたことでしょうが、しかし金田一耕助の職業は「探偵」、白日の下に明らかとなった事実を報告する義務が課されているのでした。断腸の思いで真相を報告した金田一は折り返し届いた虹子からの手紙によって、すべてに終止符が打たれたのを知るわけですが、その際かれを襲ったであろう喪失感と後悔の思いは如何ばかりであったろう! 泉鏡花の「夜行巡査」の如く、私情に従うことままならぬ立場の者は職務と割り切る他ないとすれば、余りに惨めであります……。
 さて。冒頭にて「このタイミングで……」と呻いたのは、恋する相手の将来/幸せを願うと一歩引いて見守ることを選んでしまう金田一耕助に、事件が解決したあと人前から姿を消して放浪の旅に流離う金田一耕助に、嗚呼と嘆息してわが身になぞらえてしまうたがゆえのことでした。まぁ一言でまとめれば、生傷に塩を塗られたのみならず刃物で容赦なく抉られたような気分なのであります。ぶるぶる。
 読後にちょっと調べて知ったのですが、──いまはどうだかわからないけれど──以前はこの「女怪」という短編、どうにも評価の芳しくない作品だったようであります。というのも金田一耕助があろう事か恋をして、挙げ句に傷心旅行に出てしまう点を、どうにもお気に召さぬ愛読者たちが存在していたらしい。
 金田一耕助を女性の手から守る会、なんて組織があったとも仄聞しますので「女怪」の評価がよろしくないことも納得ですが、なんだかこうした点に、金田一耕助がシーンの最前線で活躍する現役の名探偵であった時代、どれだけの人々がかれの探偵譚に熱を上げ、それを求め、また人気を博していた、その一端を知るようでわたくしは興味深くかつ面白く思うのです。『ストランド』誌で連載されていた時分のシャーロック・ホームズ譚とそうした点ではじゅうぶん比較対象の研究材料になると思うのですが、もうこのような研究はされているのでしょうか。
 とまれ、『獄門島』と「女怪」というシリーズ初期の2作に於いて金田一耕助からは以後<恋愛>の要素は省かれましたが、その他の点で人間味をどんどん増してゆきながら、舞いこんだ数々の事件にかかわってゆき、名探偵として江湖にあまねく知られる存在となってゆくのでした。結果的に生涯独身を貫いた様子の名探偵・金田一耕助ですが、シリーズ終盤にあたる、たとえば『悪霊島』や最後の事件『病院坂の首縊りの家』の時期にもう1人ぐらい、かれに烈しい恋心を抱かせるような女性があっても良かったのではないかな、或いは鬼頭早苗とひょんなことから再会するなんてエピソードがあっても良かったのではないかな、なんて勝手な物思いから妄想が膨らみもするのですが……二次創作の領域に踏みこむことになるこの話題、袋小路に迷いこむ前に切りあげるとしましょう。
 金田一耕助の思いがけぬ姿が露わとなった「女怪」、短編のなかでは「百日紅の下にて」と同じぐらい重要な位置を占める作品ではないでしょうか。◆

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第2593日目 〈横溝正史「悪魔の降誕祭」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 どうしても出勤前に済まさねばならぬ用事のために1時間半近く家を出て途中下車、どうにかそれを片附けて再び通勤電車の乗客となった或る平日のこと。結果として40分以上も早く会社最寄り駅へ到着したのをこれ幸いとばかりに、近隣のオフィスビルに入るスターバックスに駆けこんでコーヒー飲みつつ、鞄から取り出して開いたのは読みさしの横溝正史である。短編集『悪魔の降誕祭』(角川文庫)。同題短編がちょうどクライマックスに差し掛かるところで電車から降りたので、続きが気になって気になって仕方なかったのだ。
 「悪魔の降誕祭」はもしかすると中編というた方がいいのかもしれない。が、海外の現代小説の分量に馴染んでしまった身にこの作品を中編といわれても違和感があるばかりなので、多々異見はあると承知しがらも短編とわたくしは称して譲るつもりはない。
 おっと、話が脱線したようだ。軌道に戻そう。
 読みさした箇所はまさしく真犯人が金田一耕助の策に嵌まって服毒自殺を果たした箇所であった……即ちこの名探偵による全貌と真相のお披露目はまだされていないという、そんな場面。宙ぶらりんな、もやもやした気分を抱きながら続きを読みたいがためだけに立ち寄ったスタバにて、改めて真犯人が金田一の策に陥れられたあたりから読み始め、そのまま最後の一行最後の一文字まで一気呵成に、一心不乱に読み進んだ。
 歪な情念が生んだ世にも醜悪な連続殺人の物語に翻弄されながら、興奮のまま巻を閉じたわたくしの耳に谺するのは、真犯人が口走った断末魔の捨て台詞。お前如きに捕まるものか! 怖気だつその台詞はしかしながら、極めて計算高く残忍狡猾な真犯人には打ってつけの、これ以上相応しいものはない去り際の一言といえよう。お前なんかに捕まってたまるか!
 金田一耕助シリーズに毒を呷って自殺する真犯人は幾人も登場する(クリスティ作品同様、横溝作品に於いても服毒自殺或いは毒薬を用いた殺人は相当数を占めるらしい)。『犬神家の一族』、『悪魔の手鞠唄』がすぐ思い浮かぶ例だけれど、いずれにしても真犯人が自らの進退の幕引きをするとき、毒を呷りはしても取り乱したり醜態を曝したりするのが専らであった。皆一様に、静かに、厳かに、或る種の誇りさえ抱きつつ退場していったのだ。
 翻って本作の場合は如何か。「悪魔の降誕祭」の真犯人はその系譜に列なることを作者自ら禁じたかのような、救いようのない悪党ぶりを最後に発揮して死んでいった。およそ小説を読んでいて犯罪者の自殺に快哉を叫んだりはこれまで一度もなかったわたくしだが、殊本作に於いては記憶する限り唯一の例外となったことを事の序にご報告しておこう。内なる醜悪に顔を歪めた邪念の権化──「悪魔の降誕祭」の真犯人を一言でいい表すなら、およそそんな感じか。
 そうして事件は幕を降ろし、あとは金田一耕助による真相のお披露目を残すのみとなるが、かの捨て台詞によってのみこの作品は記憶されるのでない。むしろ警察を前にした金田一が真相説明する場面の言葉の端々に塗りこめられた、真犯人への情け容赦なき批判の口吻にこそわたくしはこの一編の真骨頂を見出す。金田一にとってこの「悪魔の降誕祭」事件がどれだけ忌まわしく汚らわしく同情の余地を残さぬ事件であったか、容易に想像できようというものだ。
 真犯人があの場で毒を呷って自殺するってことをあンた本当に考えなかったのかね、と呆れ顔に問う警察に金田一がなにも答えず、おそらくにこにこしながら、或いは昏い眼を彷徨わせながら、ただ沈黙を守っている点は、誠に心胆寒からしむる。或る意味でこの件りこそが本作にていちばん背筋を寒くさせられるところだ。多言は費やさぬ。どうか読者諸兄よ、これを契機に本屋へ走り、「悪魔の降誕祭」をじっくり読み耽って同じように驚嘆かつ厳かな戦慄を味わっていただけぬだろうか……。
 未来のことを確約することはできないが、たとえば1年後にでもマイ・ベスト横溝作品を選ぶようなことがあったなら、きっと「悪魔の降誕祭」はその候補に名乗りをあげ、リストの一角を占めるに相違ない。すくなくとも本稿の第二稿を書いている現時点では好きな短編ベスト5に入っているのである。まぁしばらくはここから追い出されることはないでしょうな。◆

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第2592日目 〈改訂版と差し替えました。〉 [日々の思い・独り言]

 皆様、1ヶ月ぶりのご無沙汰です。
 前回第2591日目の原稿を、すこしばかり改訂を加えたヴァージョンに差し替えております。
 宜しければ読者諸兄にはご閲読願いたく、改めてお知らせさせていただきました。
 なお、本日から「マカバイ記 一」を再び読み始めました。◆

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第2591日目 〈おお、みくらさんさんか、おまえは狂っている、愛がおまえを狂わせている。〉暫定決定稿 [日々の思い・独り言]

 風邪を引いて会社を休まなくてならなくなった5日間(註:インフルエンザでなければインチキエンザでもない)、熱に浮かされること度々で体温計で測ってみれば38.2度を平均値としていっこう下がる気配もなく、どうにか辛い体に鞭打ち病院へ行けば「悪質な風邪」と診断されて取り敢えずは流行性感冒でも花粉症発症でもなく胸を撫でおろしたはいいけれど、そうしたら自身の勤怠が不安になって(=給料が下がる)不調を訴える体を動かして出勤を夢想するも実は単なるバイオ・テロ行為に過ぎないと気附かされては諦めざるを得ず、己の管理怠慢から実現した休暇を満喫するより他になく、床に伏しつつ調子の良い一刻を狙って読み止しの探偵小説を繙き、名探偵氏の目にもあざやかな推理と肝を潰すような真相に仰天したのが悪かったのか、再び熱は急上昇を始めて、「病人に探偵小説は禁物じゃ」とぼやいて嗟嘆して後、おとなしく病人に戻ることにした、皆様たいへんお久しぶりな本ブログの管理人(?)、みくらさんさんかであります。
 リハビリも兼ねてワン・センテンスの文章で始めてみたが、さてさて、上手くいったかどうか。<情>と<技>が幸福な一致を見せればこの種の文章、或る意味物書きにとって最強の武器になろうけれど、しくじったら目も当てられない惨劇をもたらすという点で両刃の剣であることは否めない。誠、文章道は険しく厳しくされど愉悦に満ち満ちていることよ。
 ああ、熱にうなされて1週間会社を休んだ、という話だったね。ほう、いまはどうか、と訊ねてくれるのか、わが友、モナミよ。
 そうじゃな、いまは……すっかり平熱となり、まだ怠い体を引きずりながらもどうにかぶじに自宅と会社を往復するだけの、無味乾燥と雖も凪いだ海のように静穏な毎日に戻っている。まぁ本調子でないのが祟ったせいか、いろいろあったけれど、ぼくはだいじょうぶさ、と嘯いて、まだまだ放談は続きいつ本題に入れるか、正直なところわたくしの知ったことではない──なんてね(おい)。
 さて。
 本ブログの更新がしばし滞っていた間もわたくしは文章を書くことをサボっていたわけでは、ない。本格的な再開を視野に入れて原稿を書き溜める努力はしてきた。たとえば日常の記憶を留める上記第一部の如き文章や、或いはレビューの類の筆を執っていた。それらのうち或るものは投稿されてお披露目されるのを待つだけとなり、或るものはお披露目に値せずと判断して仕舞いこみ、或るものは幾度となく筆を執ったが結局まとめられずに放り投げてしまっている。
 じつは最後のパターンがいちばん厄介なのである。未練がましく筆を執っては投げ出すを繰り返し、完成に向けて取り組むことも諦めて仕舞いこむこともできないままいたずらに日ばかりが過ぎてゆき……。しかもそれらの過半がミステリ小説の書評というか感想文なのだから、始末の悪さについてはちょっとどころの騒ぎではない。
 読み終えてから時間が経つと、断片的な感想や原稿の下書きめいたものがあっても、それを基にして第一稿を仕上げることに難儀を感じてしまうのだね。まぁね、読了から何ヶ月も経っていたらそうなるのも無理ない話なのだが……それでもわたくしは、瑕疵だらけであっても第一稿を仕上げるために足掻きたいのである。然様、内浦に住まうみかん色の髪の毛を生やした女の子のごとく、やれるところまで足掻いてみたいのだ。
 もう好い加減、固有名詞を出してしまうと上記に該当する筆頭は綾辻行人『霧越邸殺人事件』完全改訂版(角川文庫)である。出版された全判型を買い求めてしまう程に大好きな作品なのだが、もしかするとこの「大好き」って想いが筆を鈍らせているのかもしれない。大好きな作品なのだからこそ、ちゃんとしたものを書かなくてはならない、てふ気負いが、却って手枷足枷となってしまっているのだろう。咨、みくらさんさんか、おまえは狂っている、愛の大きさがおまえを狂わせているのだ。
 やはり時間の経過が仇なしているのは最早否定のしようがない。「鉄は熱いうちに打て」──この諺、けっして伊達や酔狂から出た言葉ではないことを、いまこそ実感するね。sigh.
 とはいえ、それは事実のほんの一部を指摘したに過ぎぬ。本ブログにてお披露目してきた幾つもの書評(っぽいもの)は読了してそれ程時間が経っていないうちに第一稿を書きあげてしまったものばかりだ。でも、世にあふれるすべての書評や読書感想文の類がすべて、読後間を置かず一気呵成に、すくなくとも第一稿となる文章が書かれたわけではあるまい。そんなこと、あり得ようはずがない。
 いまは本ブログが本格的な再稼働を始めたときに備えて、往時のように本ブログでお披露目するに値する感想文を書きあげようと、幾つかの小説を棚から引っ張り出してきて悪戦苦闘しているところだ。かつてはすらすらなんの苦労も作為もなく書けていたのが、しばらく満足なものを書いていないといつしか腕は鈍り、筆もなまくらになるのだ──いまのわたくし程それを痛烈に感じ、技能の再習得に脂汗垂らして身をやつしている者もあるまい。
 時間の流れのなかで想いは確実に薄れてゆく。が、それは言い訳であり、詭弁である。技術を習得しなくてはならない。いまはそう真摯に思うている。
 最後に本ブログでお披露目した書評らしきものは、綾辻行人『奇面館の殺人』と中沢健『初恋芸人』であった。以後、どれだけの本を読んで、その半分強について感想を認めたく願い、そうして儚くも夢は散り玉砕の憂き目に遭っただろう。
 横溝正史の金田一耕助シリーズ、連城三紀彦の<花葬>シリーズ、泡坂妻夫や米澤穂信、仁木悦子や小泉喜美子、再びの江戸川乱歩と綾辻行人、ドストエフスキーや太宰治……読書の歓びをわたくしは可能な限り許される限り書き残しておきたいのだ。ライトノベルも含めれば、感想を書き残しておきたい、と切望して止まぬ作品はこれから先も有象無象に増えてゆく筈。どうかそれまで閑職でも構わぬ、定職と定収入に恵まれ、かつ生き存えていられますように……。
 ああ、たくさん本を読みたい!!!◆

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第2590日目 〈『ラブライブ!』舞台となった街への想い。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ脇目も振らずに読書し、小説を書き、専ら特定のアニメを観るのに耽っているのは、現在の自分を取り巻く人間関係の何割かに或る種の不満を抱いているからだ。かてて加えてようやく忘却し果せた一年前の亡霊の残滓とこれから付き合ってゆかねばならぬことに嗟嘆する日々が始まるのを知ったからだ。
 古巣へ再び還るまでぜったい会社を辞めない、と誓っているので夜逃げのように姿をくらますつもりはまるでないのだが、前途へ暗雲が立ちこめ、常に黄色信号が点る事態となったのは間違いなさそうである。警戒せよ、敵は身内にあり。言動に留意して、殺られる前に殺れ。
 要するに毎日毎日鬱勃としたものを感じ、9時から5時までタイムカードで切り取られる以外の時間はひたすら逃避に費やしているのだ。こうなる前から営々と行ってきた読書と創作に一層身を入れ、或る作品を契機に再燃したアニメ鑑賞に拍車が掛かっているのは、そうした所以であった。
 「或る作品」が『ラブライブ!』だということは、これまでにも本ブログにて何度か告白しているので改めてここで表明するまでもないか。その『ラブライブ!』の続編として昨夏放送された『ラブライブ!サンシャイン!!』の第二期が、来月10月から始まるのをわたくしは首を長くして待ちくたびれている次第。それに先立って『ラブライブ!』絡みの文章をもしかすると今回を含めて3週程お披露目することになるかもしれない──むろん、結果を知るのが神のみであることは読者諸兄であればとっくにご承知であろう。
 質の高い楽曲とPVを入口に『ラブライブ!』へのめりこんだのだが、と同時に作品が舞台に選んだ土地がわたくしに馴染みある場所であったことも、実は大きな要因だった。たとえば、──
 『ラブライブ!』(『ラブライブ!サンシャイン!!』に対して「無印」とも)の舞台は、神田 - 御茶ノ水 - 秋葉原のトライアングル地帯であった。かつては世界に名だたる電気街、世紀が変わって後は世界に名を馳せるオタクの聖地、その昔は青果市場が鎮座坐す秋葉原は作中でもよく描かれてお馴染みであるが、かつてそこに駿河台・神保町を加えたペンタゴン地帯はわたくしが学生時代──10代後半から20代前半を過ごして<庭>とさえ公言したことのある、魔都東京で殆ど唯一「ここに住みたいな」と望んでやまなかった一帯なのだった。
 21世紀になって秋葉原近郊──神田須田町あたりは大規模な区画整理と再開発のてこ入れが為された場所だけれど、変貌前後を知る者の目にはそのリアリティとデフォルメの絶妙な融合が感動的に映り、自分が足繁く通った場所、どこかへ行く際に前を通ったことがあるその場所、まだ自分が幼かったころ祖母に連れられて暖簾をくぐった記憶がたしかにある(池波正太郎のご贔屓だった)老舗の甘味処「竹むら」など、アニメ絵になって眼前に提示されたら、それをきっかけに『ラブライブ!』へすっかりのめりこんで抜け出せなくなるのは、もはや必然といえよう。聖地巡礼というわけではないが、神保町で古本を漁るついでにちょっとあちこち懐かしさ半分で散歩してみようかな、と思うてみたり。そうか、もう万世橋のところに交通博物館はないんだよなぁ……。
 そうしてもう一つの『ラブライブ!』、即ち『ラブライブ!サンシャイン!!』だが、こちらも舞台となった土地がきっかけで関心を持ったが、今度の場合は前作の比では正直、ない。向こうが或る意味で<青春が詰まった街>と恥ずかしげもなく述べるなら、こちらは<子供の頃に暮らしていた街>、<第二の故郷>である。序にいえば、定年退職後の人生を過ごすと定めた街でもある。
 『ラブライブ!サンシャイン!!』の舞台は西伊豆の要諦、静岡県沼津市内浦町である。御用邸よりもまだ南、半島の海岸線が南下を一旦やめて西方向へ向きを変えるその場所に静かに広がる漁港の街。綺麗な海岸線に経って北西へ目を向ければ淡島とその向こうに千本松原、愛鷹連峰と富士山を眺められる明媚な街だ。「昔住んだ街」とは語弊があるか、実際にわたくしが住んでいたのは沼津市中で、この内浦には何度か連れて来てもらったことがあるだけなのだから。が、それでもここが沼津市の一角を占める場所であることに変わりはなく、生活面では車がないと不便を感じる場面がしばしばあると雖も市中よりずっと暮らしやすいことは実際訪れてみれば実感できることだ。
 わたくしが住んでいたのは内浦から見れば駿河湾を挟んだ反対側──富士山を見晴るかす方向の海縁の住宅地だったが、夜浜辺に出ると対岸の内浦の光が霞んで見えたものだった。寄せては返す波の音を聞きながら眺める対岸の灯は──海の上に漂う薄い霧の向こうで瞬いている灯はなにやら、そう、ひどく想像と感傷をかき立てられるそれであったよ。もうちょっと成長していればそこにギャツビーのような想いを滲ませることもできたかもね。えへ。
 ちかごろ『ラブライブ!サンシャイン!!』を某動画サイトで毎日一話ずつ観進めて、はやくもそれが三周目となってようやく個々のキャラクター絡みの見方になったり、μ’sの精神をAqoursが継承するまでの流れとかメンバー間の葛藤とか、そんなところに(先達の導きもあって)着目して観るようになっているけれど、最初は専ら自分のなかに未だ生々しく息づいている沼津の、内浦の、伊豆半島の光景に惹かれて、と同時にそこで過ごした子供時代の思い出をなぞるようにして、Aqoursの物語を追いかけていった。
 もちろんそれの主舞台は内浦で、自分はそこに根を下ろして生活していたわけでないから、いちばん感傷をかき立てられるのはたとえば、AqoursのPVを作るのに渡辺“ヨーソロー”曜ちゃんが案内してまわる沼津駅南口の外観やリコー通りの入口であったり、学校での初ライブのチラシを配る北口の光景であったり、或いは津島“ヨハネ”善子が国木田“ずらまる”花丸を避けて画面を横切るだけの怪しい人となり果てていたマルサン書店の内観であったり(もっともわたくしが沼津市民であった頃は仲見世通りのなかではなく、スルガ銀行の横、現在は広大な駐車場になっている場所にあった2階建ての頼れる書店であった)、或いはAqours加入に誘われたヨハネが逃げ回る一連の場面はさりげなく沼津の観光名所巡りになっていたり、と様々なのだが、それでもこの作品が沼津市の中心と対岸の漁港を舞台としていなかったら、幾ら『ラブライブ!』と雖もこうした文章を綴ることはなかったろう。鑑賞するわたくしの胸中に懐かしさと驚きと感激が綯い交ぜになっていたことを、ああ、読者諸兄よ、ご理解いただけようか?
 いまはすっかり聖地化して行政や漁協がこの作品をバックアップしているそうである。駅前にはカフェができ、漁協の案内所はAqoursの紹介所と化し、主人公である高海“普通怪獣ちかちー”千歌が住まう旅館はおろか曜ちゃんの自宅位置にある喫茶店までもが繁盛してやまぬという。昨年はどうだったのだろう、7月末の恒例狩野川の花火祭り(住んでいたマンションのベランダからよく見えたなぁ)にはバスツアーが開催されると共に、Aqoursメンバー(勿論“中の人”たちである)も沼津市役所の道路向こうにある香陵広場でのステージ・イヴェントに登場、アニメエンディングテーマ「ユメ語るよりユメ歌おう」のカップリング曲「サンシャインぴっかぴか音頭」が計4回披露されたそうだ。
 一方で高海千歌の実家が営む旅館のモデルとなった宿の、某旅行サイトに寄せられた常連と思しき方からの苦情も散見されたりする。これはいけないよ。聖地巡礼は遊びではない。消化されるべきイヴェントでもない。あくまで地域振興の手段である。訪れるファンは皆礼儀を忘れないようにしよう。騒ぐ輩に天罰あれ。
 嗚呼、友よ。生涯の友、ワトスン。そろそろわたくしは旅に出ようと思うのだ。いまならわたくしはかの地を訪れることができる。昨年は十把一絡げに同類の輪で括られるのがなんとなく厭で足を向けられなかったのだけれど、いまはもはや<恥は掻き捨て>である。<同じ阿呆なら何とやら>である。即ち、3年ぶりに沼津の地を踏もうと思うのだ。もはやラブライバーと思われても、すくなくとも表面上は平然と取り繕っていられる鉄面皮ゆえに、斯く思われてもなんとも感じぬ。それは同時にここ数年で頻繁になって来ている<隠遁の地>を探し歩く旅でもある。
 それがたまたま内浦とかあの辺りなだけなんだからね! ──か、勘違いしないでよね。わたくしはけっして動揺していない。ほら、君、見たまえ、キーボードを打つ手だって、震えたりしていないではないか。わたくしはラヴクラフトの小説の語り手ではないのだ。
 『ラブライブ・サンシャイン!』に関していえばわたくしの場合、聖地巡礼は子供時代を過ごした懐かしい土地を再訪することである。◆

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第2589日目 〈中沢健『初恋芸人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 BS未加入だと観たい番組を観られず、地上波で流れる予告CMや番組紹介の記事に接する度刹那の憤慨を催すことがある。まあ、その憤慨も一時期よりは鎮まるようになったけれどね。これについてはNHK-BSがクラシック番組を殆どまったく流さなくなったことが大きい。ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートだって、ここ数年は生中継していないんじゃない?
 たいていの番組ならさっさと忘却できるようになったけれど、昨春にBSプレミアムで放送されたこのドラマだけは観たかった──それが松井玲奈主演の『初恋芸人』。……にもかかわらず、特にこちらからアクションを起こして万難尽くして観る手段を講じたわけではない。CSで放送されたら観ればいいや。そうさっさと諦めたことのだ。斯くして時は流れて昨秋へ至り、──
 昨秋? 然様。神保町の一角に店舗を構える老舗新刊書店の文庫売り場の平台に、かのドラマの原作本が平台に積まれていた。半年前の刊行物ゆえ特に新刊として扱われていたわけでも、企画コーナーの一冊だったわけでもない。どうしてあの時期に平積みされていたのか皆目不明だけれど、ドラマ放送時の帯が巻かれたその文庫を見掛けた途端迷わず摑んでレジへ運んだね。
 ……というわけで、中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)を読みました。
 怪獣・特撮ネタがウリの芸人、佐藤賢治(勿論無名)はライヴ後の打ち上げの席で自分のコントを「面白い」といってくれた市川理沙に一目惚れした。そのあと市川嬢からのメールをきっかけとして友達付き合いが始まる。想う気持ちはどんどん大きくなり、交際を熱望するまでになったが、やがて初恋は思いもよらぬ形でピリオドが打たれる──。
 市川嬢の無自覚な台詞とスキンシップが主人公を惑わせたのだ。現実でも男女問わず存在するよね、他人との距離の取り方が下手で誤解を与えてしまう人。佐藤も悩んだが、市川嬢も悩んだのだ。それもあって彼女は、より大きな安心を与えてくれる年上の男性、主人公の先輩芸人と将来を共にするのを選んだのだった。
 読み始めた当初は、単に女性との交際経験がまるでない芸人の報われない初恋を描いただけのお話、と思うていた。事実、第一章を読んでいる最中はそのあまりの初々しさ、あまりの微笑ましさに口許が終始緩みっぱなしで、これを読んでいた頃の通勤電車の車中では緩む口許を隠すアイテムとしてマスクが必需品であった程である。
 その裏返しかしら。詭弁を弄して気持ちを伝えることを先延ばしにし続ける主人公の、その意気地なさと決断力の欠如にひたすら腹が立ち、これでは市川嬢と両想いになったとしてもすぐに別れるわ、と妙に納得させられたのは。一方で市川嬢は欺瞞だ計算だと罵られても仕方ない言動で主人公を翻弄して、挙げ句に最終章の語り手役をかっさらい、美辞麗句で自分の気持ちと選択を正当化する。最終的に二人は、それもエゴと欺瞞ゆえにもはや修正の効かない未来を自らの手で作り出したのだ。この二人、恋人になったり夫婦になったりしないで正解かもしれぬ。
 とはいえ、物語が進むにつれてページを繰る指が重くなってきたのも事実。読了後はずっしりと沈みこんでしまうた。咨、老いらくの恋の只中へある者にこの小説は重くて、苦い。傷口に塗りこまれる塩分濃度ときたら、婚約者の死後四半世紀の間に唯一度、初めて自分から告白して待たされ振られた時分に読んでいた有川浩『図書館戦争』シリーズよりもはるかに濃く……。
 初恋を描いたお話としてはよくある顛末で、筋運びもテンプレート通りなのにもかかわらず、読み終わってみればこちらの心を容赦なく抉ってくるビター・スウィートな小説だった。いやぁ、恋は苦いね!◆
2017年04月29日 23時40分



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第2588日目 〈夏過ぎて、秋は来にけり、よかったな。──無沙汰の挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 ただいま! 夏の間は不定期な更新になって相済まなかった。可能な限り暑い夏は働きたくない、という程にこの季節を疎んじ厭うがゆえ、たとい例年に較べて涼しく過ごすことが出来たと雖も季節が忌まわしき<夏>であることに変わりはなく、為に暑かろうが涼しかろう(寒かろう)が夏であることに変わりはないじゃん、と開き直って過ごしていたら、肝心のブログ更新も週一から二週に一度となり、挙げ句にもはや三週間も停滞しているとなっては弁解の仕様もない。詭弁を弄する準備はあるが、それをやると向こう三ヶ月毎日更新する羽目になるのでそれはやらない(本気にしないよう、読者諸兄にはお願い申しあげる次第)。
 さて。そう小林完吾風に曰おう。ただ、元日本テレビ・アナウンサー小林完吾を知る人がどれだけ本ブログをお読みくださっているか見当が付かないけれど、それはまぁそれとして、話を先に進めよう。GoAhead.
 お休みというかサボっているというか、表現はともかくみくらさんさんかが皆様の前から姿を消していた間、肝心要のわたくし──みくらさんさんかを演じるわたくしの身の上には、まぁいろいろありましたね。たとえば? お話しできる範囲でいえば勤務先が変わり、就業時間が変わった。トータルで見ればお給料はわずかに上がったもののその代償か、通勤場所がこれまでより微妙に遠くなり、従って満員電車に揺られる時間も延びてしまい、もう毎日がわちゃわちゃしております。メリットがあるとすれば昨年のこの時期にも同じことをいうた覚えがあるのだけれど、一日平均の読書ペースが上がり、一冊を読了する日数が短縮されたことでしょうかね。勿論本のジャンルや分量、活字のフォント、ページのレイアウト、諸々加味することになるので一概に「短くなった」とは申せないのですが、均せばそんな具合であります。
 もっとも、そんな状況であったも原稿は書き、ブログ更新にこれまで勤めてきたわけですから上記がまさに言い訳の範疇を出ないことはじゅうぶん承知している。とはいえその間仕事を離れたところで、常なら本ブログのための原稿をしこしこ書き綴っているべき会社外の時間はなにをしていたのかと訊ねられても、わたくしは正解をお伝えすることができない。疚しいことでも後ろめたいことでも公言を憚られる類のものでもないことはご理解いただきたいのだけれど、単にわたくしはその間自分が行っていた作業について口を開いてご説明申しあげる勇気を持たないのだ。持たない、というよりも、敢えてご説明する必要性をまるで感じないだけの話。もっとも、この間に行っていた内緒事はもしかすると、遠からず本ブログにてお披露目できるかもしれない。──が、そのような事態にならないことをわたくしは切に祈っている。お披露目できるということはある意味で箸にも棒にも引っ掛からなかった、という意味なのだから。嗚呼!!
 ところで久しぶりの休日に海ある故郷の或る喫茶店にてコーヒーを飲みながらこの文章を、Mac Book Air相手に弾丸の如くキーボードに指を走らせて綴っているのだが(1179語。ここまで約十五分)、本ブログの今後の、あまり信頼できない展望についてお知らせしておきたい。
 更新頻度が週に一度となるか、あるいは二週に一度か、状況によって流動的になるのは否めないとしても、取り敢えず一ヶ月に最低二回は更新することを約束しよう。胸を張ってわたくしは諸兄に公約する。それが何ヶ月続くかわたくしにもその実さっぱりなのだが(おい)、お披露目するエッセイがどのようなものか、それは概ね決定している。というても3ヶ月近く前に決定稿が仕上がっている小説2冊の感想と、第一稿のまま筐底に秘した『ラブライブ!サンシャイン!!』に関する文章(休日の朝、まだ覚めやらぬまま綴ったものでね)が、その待機リストにあがっている。その他にも執筆予定として以前に予告していた綾辻行人『霧越邸殺人事件』と『深泥丘奇談』全3巻(いずれも角川文庫)、歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)の感想、マレイ・ペライア奏でるバッハ作品への種々の想い、YouTubeで観たサイモン・ラトル=ロンドン響及び超豪華ゲストによるヴァンゲリス作曲/映画『炎のランナー』メインテーマと、チェリビダッケ=ミュンヘン・フィルによるラヴェル《ボレロ》の感想、お馴染みな日常雑記・心象吐露エトセトラエトセトラ、盛りだくさんというもおこがましい平常運転の内容をお届けする予定だ。
 そういうたかて、現時点でどれだけ仕込みが済んでいても結局は<絵に描いた餅>に過ぎないので、これ以上の贅言は慎むことにするが、こんな具合にこれからも更新・お披露目してゆきますよ、というわが身への諫めも兼ねた予告編であることをどうぞ、読者諸兄にはご了承願いたいのだ。
 年度が替わる頃には毎日更新に戻ることができればいいな。久しぶりに読者諸兄の前に姿を現したみくらさんさんかはそんな春風駘蕩なことをお気楽に述べた後、即ちいまこの瞬間、筆を擱いてふらふら駅前の大衆酒場へ遊びに行ってまいります。ビバ!◆

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第2587日目 〈子守唄はワーグナー。その夜見た夢は、……〉 [日々の思い・独り言]

 昨日までは《トリスタンとイゾルデ》を就眠の音楽にしていた。今日は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第一幕、明日はその第二幕……。
 都合三夜、《トリスタン》が子守唄だったわけだが、おお友よ教えてほしい、この間に見た夢のいずれもがもの哀しいそれであったのは偶然と済ませてよいのか否か、を。
 こんな夢だった、──
 一夜めは濡れ縁に坐って背中を丸め、しとどに泣く母を見た。その原因はわたくしだ。母を欺き、放蕩に耽り、遂に彼女の知るところとなっては気も狂わんばかりに喚いてわたくしを詰り、刹那の後には頭を振って泣き明かし。顧みればわたくしは母を悲しませてばかりの人生を過ごしてきた。本来なら孫の顔を見せ、抱かせ、悠々自適とまではいわぬまでも気苦労のない暮らしをさせてあげていられる年齢なのに。家族を作るでもなく、そのために行動するわけでもないわたくしは罪人だ。──そのあと、母の姿は見えなくなって、わたくしは夢から覚めて泣いていた。
 二夜めはYさんを見た。通路を挟んだ両側に小上がりのある居酒屋。顔と名前が一致しない勤め先の人がたくさんいるなか、テーブルを同じうしたYさんが既に退職しているのをゆくりなくも本人から知らされた。もうとっくだよぉ。まわりが賑やかななか、ふと、そのあとで気まずさと焦燥と、心のなかで膨らんでくる或る種の禁忌を覚えた。物理的にはとても近くにいるのに実際はいちばん遠くに……。それからYさんは消えて、わたくしは夢から覚めて空しくなった。
 三夜めは雨のなかをAさんと歩いていた。学校みたいに平べったい建物を出て、門からすこし歩いたところの二股路で他の同僚と別れ、駅に向かう。田舎だ、そこは。樹木から枝が大きく張りだして覆う下の道を、無言で歩いた。小高い山の斜面に作られた道らしかった。右手には麓の街が広がっている。唐突にAさんが口を開いた、戻ってこないでね? 当たり前だ、と即答した。今更、あの不正と策謀と縁故で腐敗した<お友達部署>へ、はたして誰が戻ろうとするのか。罪人の仲間入りはごめんだ。雨はしとしと降り続ける。そのあと夢から覚めて、縁切りして思い出から葬った過去を想うて、万歳三唱したわたくし。
 ──作曲家と愛人の不義の結晶はわたくしの深層意識に働きかけて、顔を背けていた出来事を垣間見せ、もの哀しい思いと悔恨の思いを寝覚めの心に残していった。
 音楽はそのときの心にどのような影響を及ぼすか。いっときそんなことを考えてみもしたが、日々の諸事にかまけているうち忘れてしまった。もしこれらの夢を《トリスタンとイゾルデ》が見させたのなら、ならば《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は失脚と獲得、諦念と礼讃の夢をわたくしに見させるのだろうか──否、そんな単純な話ではよもやあるまい。
 子守唄はワーグナー作曲。いまは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、つぎは《ローエングリン》、《パルジファル》……。さて、わたくしはその夜、どんな夢を見る?◆

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第2586日目 〈かれらが遺してくれたもの──小諸の町を想う。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしは初めて訪れるずっと以前から、小諸の街並みや小諸を取り巻く自然を、見て知っていた。

 二十歳の夏のこと。家族四人で軽井沢にある祖父の別荘にて数日を過ごした後、車で西へ下った。どうして小諸へ行くことになったか、まったく覚えていない。想像するに、なにかの拍子に島崎藤村の話題になり、ゆかりの街が近くにあるから行ってみようか、という流れでなかったか。きっかけはともかく、われらは一夏の家族旅行の〆括りに、信州小諸へ立ち寄ったのだった。
 そう、島崎藤村はこの街に教師として赴任していたことがあった。小諸時代の作物に随筆『千曲川のスケッチ』と詩集『落梅集』がある。『落梅集』は名作「千曲川旅情の歌」、就中「小諸なる古城のほとり」を収めることで知られよう。
 『千曲川のスケッチ』には小諸城址からの景観が、こんな風に綴られている──
 「私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える」
 くたびれた文庫本を久しぶりに書架から出して開き、この一文に出くわしたとき、或る光景を思い出した。初めて訪れたその夏の日よりもずっと以前に見た覚えのある、小諸の街の光景だった。ここで話は冒頭にリンクする。

 小諸に縁ある著名人は、なにも島崎藤村に限らぬ。人によって選ぶ人物は変わるだろう。失礼ながら異郷者たるわたくしには、小諸といえばこの人物しか思い当たらない。マンガ家、小山田いく(1956.6-2016.3)である。
 小諸に生まれ、小諸に育ち、小諸の土に帰った人、小山田いく。氏のマンガの、すくなくとも初期の短編、長編は故郷小諸を舞台にすることが多かった。描きやすく、馴染み深く、愛着ある土地だったからだろう。早過ぎる晩年には小諸市のオリジナル壁紙や「こもろすみれ姫」のデザインを手掛けるなどして、生まれ故郷に貢献されていた様子である。
 長きにわたってシーンの最前線で活動するに氏の作風はちょっと地味だった。しかし、優しさとぬくもりと慈しみにあふれた画風とストーリーには、数はすくなくとも熱心なファンがずっと付いていた。
 氏の亡きあと有志のファンによって「民宿 懐古苑」と「小諸宿 本陣主屋」の二ヶ所をメイン会場にした追悼展が開かれて、連日盛況であったと風の噂に聞く。仕事の関係で足を運ぶことは出来なかったが、無理してでも出掛けるべきだった、と今更ながら後悔している。

 『すくらっぷブック』を読み始めたのは小学校高学年だが、そのあと灰色の十代後半を過ごすことになり、小山田作品すべてを押し入れの奥に突っこんで読まないようにしてしまった。現実に打ちのめされたからだ。その封印期間は高校を卒業して進学するまで続く。押し入れから引っ張り出して再び読み耽るようになるのは、進学先で折口信夫の民俗学に遭遇したためである。
 折口信夫の学問に触れて民俗学へ興味を抱き、自分の住まう土地の伝承や祭事、地方の伝統芸能を調べたり、取材と称して小旅行に出たことが、しばしばあった。そのルーツはどこにあるか、つらつら考えて──みるまでもなかった。兄から借りた『週刊少年チャンピオン』に連載されていた『すくらっぷブック』へ辿り着くより他にないではないか。
 封印を解除したあとで読む小山田作品、殊『すくらっぷブック』は単なる青春グラフィティの枠を大きく越えて、民俗学への関心をかき立てるテキストのようになっていた。信州或いは雪国という馴染みなき地の習俗や地勢などについて知るきっかけを作った作品へと、変貌していたのである。
 たとえば、南国の宮崎生まれで北国に憧れていた他校の転校生を誘って雪の高峰高原へ遊びに来た、第92話「雪ぼっこ」。
 その転校生はかまくらを作って内部の温かさに驚き、かつ喜び、ラスト小諸の街へ帰るときは農家の伜が編んだ藁頭巾をかぶって高峰高原を降りてゆく。
 雪が日常的に降る地方では傘を差すことがあまりないこと、転校生のかぶる藁編みの笠を藁頭巾とか藁帽子などと呼ぶこと、雪のたくさん降った年は豊作と言い伝えられていること、それらを知ったのはこの第92話に於いてである。
 或いは第30話「虎落笛」。浅間山から風の吹き下ろす所には葦簀を作らないと雪が吹き溜まって、出入り口の開閉を妨げてしまう。太平洋岸でしか暮らしたことのない者には、頭では理解できてもまるで実感のない生活の知恵だ。
 同じエピソードでは、葦簀の隙間を通った風が立てる笛の音の如きを虎落笛と呼ぶことも紹介される。この虎落笛が冬の季語であることは、亡き婚約者が遺した歳時記で知った。

 二十歳の夏の日、家族で小諸懐古園へ行った。懐古園には藤村の詩碑がある。刻まれるのは、むろん「小諸なる古城のほとり」である。「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/……」
 が、正直なところ、この詩碑が園内のどこにあったか、記憶は定かでない。インターネットで懐古園の園内図を見てみたり、グーグル・マップやグーグル・ストリートビューを使って仮想散策してみたけれど、なにかが違うように思えて仕方ない。殆どすべての位置関係が、記憶のなかの園内とは微妙に異なっている気がしてしまうのだ。四半世紀も経てば誰の身にも自ずと生じる、記憶の書き換え現象ゆえの違和感だろう。
 そんなわけで詩碑については十中八九、わたくしの記憶違いなのだが、仮想散策をした結果、記憶と現実の間に違うところのない場所が、一つだけあった。懐古園西端の展望台である。
 あの夏、わたくしはここに立って、眼下に千曲川が流れる光景を目にした。グーグル・マップの千曲川は両岸がずいぶんと開けて樹木も少なく、痩せた川に見える。以前は川の色も濃く、両岸は深い緑で覆われていたように思うのだが……。そんな風にパソコンのモニタ画面とにらめっこしながら展望台からの記憶を整理、点検していると、再び『すくらっぷブック』の一コマが脳裏に甦ってくる。
 時は三月、或る日の宵刻。中学を卒業したばかりの主人公、柏木晴(晴ボン)以下クラスの生徒を前に、担任であった正木先生がこの展望台にて最後のホームルームを行う。千曲川の流れを指差して、正木先生はいう──
 「よくここでスケッチしたもんだが…おもしろい川だよ/スケッチする時の気分で絵がガラッと変わっちまう/鏡だな あの水面は……心を映す鏡ってやつだ!」
 残念ながらわたくしは、千曲川を前にしたときの気分、感情、抱えているもの次第で幾らにでも姿面容を変えてゆく水面の表情を観察することのないまま、あの夏、そこから去った。一ヶ所に何時間も腰を据えるのは、家族が一緒の旅行者には出来ない芸当なのだ。
 さりながら、あの悠然とも泰然とも形容できる千曲川の流れを思い出すたび、正木先生の台詞に共鳴する自分がいる。人生は移ろいやすく、消えやすい。『方丈記』を持ち出すまでもなく、行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、なのだ。
 千曲川は人生を映し出す鏡に似ている。異郷者なのに、こんな知ったような発言はおかしいだろうか。でも、小諸を訪れる前からそんな刷り込みがされていたのだ。それが『すくらっぷブック』というマンガの一コマ、台詞に基づくものであることは、もはや改めて申しあげるまでもない。

 『すくらっぷブック』を読み返すたび、描かれる街並みは当時の様子に比較的忠実であった、という、どこかで聞いた文言を思い出す。あれから四半世紀。小山田いくが愛した小諸の街は、いまどれだけ往時の面影を留めているのか。
 主人公の親友、イチノと理美がしばしの別れを前にファーストキスを交わした、小諸駅の「貨物置き場の横をとおるとき 一瞬死角に」なる「だれにも見えない」場所はいまでもあるのだろうか。カメラ屋の娘みっちゃんの自宅兼店舗は改装されることなく、作品のなかで描かれたままに残っているのだろうか。
 或いは──四コマ漫画誌に発表された短編、「約束」で印象的に描かれた千曲川対岸の久保や山浦から眺めた小諸の街並みは、いまも同じように見えるのだろうか。
 この短編では、バーのマスターが客に対岸の久保や山浦に行ってみてはどうか、と勧める場面がある。「小諸は浅間山の麓の街ですから 対岸から眺めると平衡感をなくすようで ちょっと気持ちいいですよ」と。
 このあとに前述の見開き絵が登場するのだが、その折に女性が呟く台詞、「ふ…と からだが揺らいで 心が別世界に転がり込む」、傾くような感覚を味わうためにだけでも、いつの日かわたくしは小諸を再訪しよう、と固く誓った。勿論、あれから何年も経ついまでもその誓いは果たされていない。呵々。
 浅間山麓の街、小諸は傾斜の街である。東北旅行からの帰り、電車の窓外に広がる明かりを見た晴ボンの台詞──「浅間山へ向かってせりあがる光のつらなりは ボクたちの街の光だ/ただいま ボクの街」(第66話「暁着3時31分」)と、藤村が『千曲川のスケッチ』で記した「一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ」、そうして「約束」に於ける台詞と見開き絵。この三つは見事なまでの調和を見せてわたくしのなかにあり続けている。

 あの二十歳の夏の日以来、わたくしは小諸を訪れていない。
 ここへ一緒に来た父も祖父も、もうこの世の人ではない。
 学生だったわたくしは社会人になり、不惑の年齢を超えて未だ迷い続けている。◆
                    
 追記:『千曲川のスケッチ』と「小諸なる古城のほとり」は新潮文庫から、『すくらっぷブック』と「約束」(『きまぐれ乗車券』所収)は『小山田いく選集』から、引用した。□

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第2585日目 〈気にするな、キミたちはなにも悪くない。〉 [日々の思い・独り言]

 相も変わらず朝の首都圏の通勤電車は遅延しまくりだ。曰く、人身事故のため。曰く、急病人の発生/救護を行い。曰く、車内トラブルがあり。曰く、◌◌駅のホームにて異常を知らせる非常ボタンが押されたため。曰く、◌◌駅のホームから人が転落したとの情報があり。曰く、踏切内に車両が閉じこめられたとのことで。エトセトラ、エトセトラ。
 そうして今朝は、線路内に人が立ち入ったとのことで……。当初は全線で運転見合わせ、じきに運転再開したものの大幅にダイヤ乱れが生じており、解消までに数時間を費やす模様。京浜東北線の話である。
 京浜東北線といえば埼京線や小田急線と並ぶ、首都圏の通勤電車に於ける人為的遅延率の上位ベスト・スリー(ん、これはワーストというべきか?)に挙がる路線なのだが──個人的な感想です──、それでも利用客が減らないのは企業密集地帯を通っているから。勿論渋谷、新宿、池袋は外れるけれど、品川や東京、田端で乗り換えれば済む話。
 ところで今日の運転見合わせ→遅延の原因が、線路内へ人が立ち入ったことによるのは既に述べた。最寄り駅のホームでアナウンスを聞いたときは「またか」ぐらいにしか思うていなかったのだけれど、よくよく聞けば場所は浜松町と新橋の間とのこと。え、あすこって高架になっていなかったっけ? どうやれば立ち入れるんだ?
 続報によれば痴漢扱いされた会社員が、華麗なフォームを決めてみせたかはともかく線路内に飛びおりて、命の危険を察した被捕食動物の如くの勢いで逃亡中の由。更なる情報によれば、駅員が本気走りして追いかけたが見失った、仕方ないので運転再開しますが但し徐行運転となります、お急ぎのところ電車遅れまして大変申し訳ございません云々。──車掌氏がなかばキレ気味にそうアナウンスしていたのが印象的じゃった。
 しかしねえ。痴漢扱いされたからって線路に飛びおりて逃げるのはやめてほしいな。数ヶ月ばかり前だったか、板橋の方で同様の報道がされてから今日までに何度となく模倣犯が出没した。真似するな、といいたい。危ないよ。他の電車に接触して怪我したり、それが原因で轢死したらどうすんだ。貴方や貴方のご遺族には何億てふべらぼうな賠償金を払ってゆく能力があるのか。そうしてご家族/ご遺族の被る諸々の迷惑について想像してみるがよい。貴方は卑劣だ。
 もし貴方が潔白で冤罪だというならば、その場で一歩も退かずに異議申し立てをしよう。相手の間違いを正そう。それでも相手が納得せず、あくまで潔白である貴方を痴漢と断定・糾弾するならば、もはや長期戦は避けられまい。相手の言い分が事実ならば、貴方のDNAや上皮組織、(部分であれ全部であれ)指紋が相手の衣服に付着しているはずだ。かならず痕跡は残る。鑑定してもらえ。否、相手がどれだけ喚こうが鑑定させなくてはならない。そうして結果を突き付けて謝罪させるべきだ。
 が、もしも貴方が相手の告発通りの行為を行っていたのなら……素直に白旗を揚げる他ない。変にごねたり、言い訳をしないのが賢明である。貴方や貴方のご家族には冷たい物言いかもしれないが、自分の犯した罪は償うべきだ。それが法治国家の民の義務。むろん、それは法の下した範囲内、モラルを弁えた市民の良識の範囲内での贖罪である。フィクションでお馴染みの、相手の増長や脅迫、強請、たかりに付き合う必要はない、ということだ。
 利用客、鉄道会社の職員、電車の乗務員は毎日毎日、電車の遅延や運転見合わせの連絡に敏感になっている。それらが発生するたび、利用客は憤慨し要らぬ客同士の諍いが発生し、職員は状況把握と振替輸送の手配に東奔西走、乗務員は二転三転するリアル・タイム(ほぼ)の情報と利用客からの突き上げに胃を痛くする。朝の通勤電車は人の心をすり減らす。現代人のストレスの原因の一つ、って絶対これだよなぁ。
 でも利用客の(おそらく、たぶん、きっと)すべては心の片隅でわかっている。今日のような人為的運転見合わせ/遅延の場合、鉄道会社の職員や電車の乗務員にはなんの咎もないことを(自然災害の場合は尚更だ)。当事者以外は誰も彼も被害者だ、と『CSI』シリーズで誰かがいってた。だいじょうぶ、気にするな、キミたちはなにも悪くない。Don’t worry be my happy.◆

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第2584日目 〈ひとまず水はいらない、喉の渇きは収まった;綾辻行人読書マラソンは一旦終わります。〉 [日々の思い・独り言]

 性格ゆえか、そのジャンル、その作家へコミットしてしまうと他を顧みること甚だ珍で、豊穣の実りを享受する一方で幾分かの飽きも生じる。目下のところ、そのような作家がいるかといえば本ブログでもはやお馴染みとなった綾辻行人が該当するが、流石に惰性で読書している部分があるのは否めぬ状況に相成ってきた。
 特定の作家へコミットするとはいっても、一度に全作品を読み倒すことは稀である。必ずというてよい程中断を挟むのがわたくしの場合は、常。その中断がどれだけの期間となるかはともかく、干からびて飢えたる喉も臨界を越えれば水の摂取を拒むのだ。
 夢中になって読み耽り、瞬く間(まぁ、そういうことにしておこうぜ)に消化した<館>シリーズ以後は機械的に本を手に取りページを繰り……殊更感慨など表明するまでもない漠とした気持ちのまま消化してゆき、現在に至っている(※1)。
 為、綾辻行人も次に読む『深泥丘奇談・続々』(角川書店)と『霧越邸殺人事件』完全改訂版(角川文庫)でこの読書マラソンは一旦打ち止め、作家コミット型読書の慣習となりつつある中断期を挟んだ後にその読書を再開したい。即ちこれは、第一期完了と第二期開始の予告なのだ。
 実は第二期で読む作品は秘かに買い集めて準備だけは万端である──然る後に提起される問題点は、その一;再開はいつか? その二;本当に再開されるのか? に尽きるわけで……まぁ、善処する気持ちでいる。購うた本を読まずして古本屋へ処分したくないものね(※2)。
 ──なに、質問がある、とな。承ろう。ほう、お前がこの文章を書いた理由を知りたい、と。成る程。この世には知らぬ方が幸せだ、ということもあるのだが、まぁ今回は特別にお答えしよう(偉そうだよねぇ、何様かしら)。
 『奇面館の殺人』のあとで読んだ作品には個々の感想文を書くだけの、思い入れも情熱も持てなかった──これが答えだ。従って次に本ブログでお披露目されるのは『どんどん橋、落ちた』ではない。具体的にどの作品の感想文を書くか決まっているわけでも、ない。ただ、『深泥丘奇談』全三冊の感想文は書く。もっとも各冊ではなく全体のそれになるけれど、当該作について書きたいことが幾つかあるので、ね。
 綾辻行人読書感想文の本ブログへの掲載は、『深泥丘奇談』或いは『霧越邸殺人事件』を以て第一期の完了宣言を行う。但し、来週の今日それがお披露目されることはない。なぜならば、まだ『深泥丘奇談・続』を半分ぐらいしか読んでいないからだ。八月中にお披露目できれば万々歳である。声高に、胸を張って曰う程でもないけれど、まずはそのようにご報告しておきます。◆

※1
<館>シリーズ後に読んだのは、『どんどん橋、落ちた』新装改訂版(講談社文庫)と『フリークス』(光文社文庫)、『眼球綺譚』、『深泥丘奇談』(いずれも角川文庫)。そうして現在は『深泥丘奇談・続』(同)、並行して『人間じゃない 綾辻行人未収録作品集』(講談社)である。

※2
来たる第二期の準備に購うたのは、<囁き>シリーズ(講談社文庫)と『Another』シリーズ、『最後の記憶』(いずれも角川文庫)である。……あれ、これだけだっけ?□

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第2583日目 〈綾辻行人『奇面館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『奇面館の殺人』を満足の溜め息と共に読了した。鹿谷門美が活躍する<館>シリーズに接するのは久しぶりである。『十角館の殺人』から順に、間を置かずに読んできたわたくしがそうなのだから、リアル・タイムでシリーズを追ってきた人は尚更だろう。まぁ、前回かれが探偵役を務めて動いたのが6作目『黒猫館の殺人』で、本作との間にあるのがあの『暗黒館の殺人』と『びっくり館の殺人』だからね。感慨はどちらの立場であっても、深い。というわけで読者よ、喝采せよ、探偵・鹿谷門美の帰還である。
 『暗黒館の殺人』がミステリ要素薄めで専ら幻妖の世界へ軸足を置き、『びっくり館の殺人』がミステリとはいえど軽量級だったのに対し、『奇面館の殺人』は王道中の王道、待望の本格ミステリである。前2作に肩透かしを喰らわされてインターネット上で怨嗟を綴ったガチのミステリ・ファンもこちらが刊行されたことで溜飲をさげた向きが多いのではないか。
 シリーズ第9の館、奇面館はなんと東京都にある。具体的なことは書かれていないが都下のどこか──おそらくは日野市から更に奥の方と思しい山中。そこは例に洩れず人里離れた場所で、10年に1度の割合で大雪に見舞われ周囲から孤立するという、殺人事件にはお誂え向きの環境だ。然様、作中で奇面館は孤立する──10年に1度の大雪のために。お約束の「吹雪の山荘」である。事実上の密閉空間である館の、更なる密室で事件は起きた。むろん、完全無比の密室などあり得ない。秘密の抜け道? 秘密の隠し戸? 勿論ありますとも! 密室殺人が解決されるためにそれらは欠くべからざるアイテムなのだから。しかも舞台は奇面館、即ち中村青司の館なのだから、なにをか況んや、である。
 雪で閉ざされた山荘、曰くありげな正体主(館主)と一癖も二癖もありそうな招待客の面々、密室での殺人事件。斯くして探偵は立ちあがり、丹念に手掛かりを集め、容疑者のアリバイと言動を検め、クライマックスで一同が介したところで「犯人はあなたです」と指さす。考えてみればこの王道パターンも、<館>シリーズではずいぶんとご無沙汰だ(『迷路館の殺人』以来か?)。そうした意味で本作は原点回帰を果たした作物といえるかもしれない。
 さりながらシチュエーションに限っていえば、『奇面館の殺人』はこれまでのどれにもまして<異様>である。館の主人の意向で招待客は皆、意趣を凝らされた仮面をかぶらされるのだ。しかも仮面は頭部をすっかり覆うもので、後頭部のあたりで鍵が掛けられる仕様である。おまけに本文では誰彼を指すとき人名ではなく、仮面の名称でされるものだから紛らわしいことこの上ない。『奇面館の殺人』には所謂登場人物一覧がないので、面倒とは思うが混乱してしまいそうなら自身で一覧を作るのをお奨めする(もっともクライマックスではそんな努力を空しうさせかねない事態に見舞われるだろうけれど、おそらくはそのせいもあって『奇面館の殺人』には登場人物一覧が付されていないのかもしれない)。
 『奇面館の殺人』のキモは、ホストの影山逸史が<もう一人の自分>を探す目的で同年同月日生まれの人物を招待していることだ。それに加えて、かつ運命のいたずらか、皆が皆似たり寄ったりの背格好なところにある。そうした人々が、デザインは異なると雖も仮面をかぶって滞在中は過ごすことを義務附けられ、殺人事件の発生後はそれが犯人の画策で外せなくなってしまうと、もはやその仮面の下にあるのが誰の顔なのか、互いに疑心暗鬼を募らせるのも当然だろう。
 正直なところ、都度都度前の方を読み返し、気掛かりな点を検める労を惜しまなければ、真犯人を当てるのはそう難しいことじゃあ、ない。だいじょうぶ、わたくしでさえわかったのだ。が、鹿谷によって犯人が特定されて、その動機が犯人の口から告白されたあとに明らかとなる──もしあなたが登場人物一覧を作っていたら、それを反故にしてしまうような──記述には、参った。さすがにこんな仕掛けが用意されていることまでは見抜けなかった。降参である。そこまで徹底していたんですね、影山さん。思わずそう独りごちてしまったよ。たしかに、このあたりは『十角館の殺人』などシリーズ初期作品を彷彿とさせるかもしれないね。
 手掛かりはすべて提示された。それは物理的なものであり、また、台詞に、叙述に埋めこまれてもいる。一々を検めながら謎解きに耽る愉しみを、わたくしはようやっとこの作品で経験できた。いやぁ、詰めが甘かったとはいえ、犯人が当たるってうれしいね!◆

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第2582日目 〈綾辻行人『びっくり館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『暗黒館の殺人』を読了した翌日から『びっくり館の殺人』を読む。それはちょっと苦痛を伴うものであった。物語の軽さ、密度の薄さにとまどい、それに折り合いを付けられないまま巻を閉じるに至ったからである。
 作者は機会ある毎に『びっくり館の殺人』はシリーズ番外編にあらず、正統なる第8作なり、の考えを発信してきた。にもかかわらず、本作を否定する向きは多いようで、それはおそらく本作の出自に大きく由来するのだろう。
 『びっくり館の殺人』の親本はお馴染み講談社ノベルスではなく、<新本格ミステリ>の産みの親、名伯楽・宇山日出臣が企画した《講談社ミステリーランド》叢書の1冊として刊行された。作者が「初めて『少年少女向け』を念頭に置きながら」(『奇面館の殺人』下P329)執筆した作品である。
 が、対象年齢がどうあれ綾辻行人は手を抜かない。甘い言葉でお茶を濁したり、勧善懲悪メデタシメデタシで終わる展開になどしたりしない。手加減なし。それが証拠に作中で2度起こる殺人事件の真相や動機、どこか常軌を逸したびっくり館住民の言動、かれらのファミリー・ヒストリー、阪神・淡路大震災とのリンクなど、結構グイグイ攻めてくるタフネスかつダークネスな作品となっているのだよ、この『びっくり館の殺人』は。
 良くも悪くも本作は、(見ようによっては『暗黒館の殺人』以上に)読者の評価が大きく分かれる。道尾秀介のようにシリーズ屈指の傑作と評価する人もいれば、手応えのなさと殊ラストの不明瞭さに本を抛り投げ、知る言葉を動員して罵倒を尽くす人もいる。わたくし? さあ、どちらでしょうね。本稿をお読みいただけば、おわかりでは?
 兵庫県A**市六花町にある古屋敷龍平氏の邸宅、通称「びっくり館」は1964年、中村青司によって設計されたシリーズ第8の館。判明している限りでここは中村青司が、まっさらな状態から設計図面を引いた最初の館となる。施主の古屋敷龍平氏はかれを「信頼をおいていた古い友人に紹介され」(P204)たそうだが、この旧友とはいったい誰だろう? 候補に挙げられるのは浦登征順か神代教授なのだが……。
 『びっくり館の殺人』は2005年6月、語り手の永沢三知也が子供時代を過ごしたA**市を訪れる場面から始まり、自身第一発見者となる殺人事件が発生した1994年8月末から12月にかけての出来事を回顧する、いわば額縁小説の体を取る。シリーズの時系列でいえば『びっくり館の殺人』は次作『奇面館の殺人』の翌年のお話だ。鹿谷門美が三知也相手に口にした「不気味な仮面をモティーフにした館」(P138)とは奇面館を指す。時系列に於いて『びっくり館の殺人』はシリーズ最新の事件を扱っているのだ。備忘を兼ねてここに記す。
 本作で作者はこれまで以上の遊び心を発揮して、読者を楽しませてくれている。たとえば、登場人物に中井英夫『虚無への供物』やポオ「黒猫」を読ませてみたり、昭和29年の洞爺丸沈没事件に関係者を遭遇させていたり、或いは映画『エクソシスト』や『オーメン』を連想させる数々の描写があったり、と。若年の読者が将来なにかの拍子にそれを思い出して、観たり読んだりするきっかけとなれば、と願うてのことである由。
 作者の思いを恣意的に受け取れば、若き中村青司が施主の養女を気にかけており、館の竣工時にサティのピアノ曲のレコードをびっくり箱仕立ての建築模型と一緒に贈った、という昔語りも『暗黒館の殺人』を未読の人へのプレゼンテーションと見ることだって可能だろう。養女の名は、古屋敷美音……「みお」、である。
 『びっくり館の殺人』の要諦を担うのは、やはり古屋敷梨里香(龍平氏の孫)だろう。弟俊生の口から、腹話術人形リリカの口から、亡き梨里香についての幾つかの証言。曰く、ときどき瞳がいろいろな色に変化した。曰く、怖い顔をして不気味な呪いの言葉めいたことを呟いていた。曰く、まわりの人を自分の意のままに操っている。そうして梨里香は母、美音から「悪魔の子」と呼ばれていた……。ちなみに梨里香の誕生日は、嗚呼! 6月6日なのである。
 『びっくり館の殺人』は日にちを置いて読み返すと作中に仕掛けられた怖さが、じわり、じわり、と読み手のなかに染みこんできて、思い出すたび悶々とした気持ちにさせられる類のお話。そうして気になり始めるとそう簡単に心のなかからこれが消えることはなく、いつの間にやら再び本書を手に取って読み耽る羽目になるお話。そんな不思議なポジションを占める作品なのだ、『びっくり館の殺人』は。◆

 追記
 講談社ノベルス版巻末には、道尾秀介を相手にしたネタバレ満載の袋綴じ対談が収録されている。なかなか示唆に富む内容にもなっているので、こちらも是非お手許にどうぞ。□

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第2581日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉3/3 [日々の思い・独り言]


 『暗黒館の殺人』と『十角館の殺人』の相関は以上を以て区切りとし、ここから先は駆け足で『水車館の殺人』から『黒猫館の殺人』までシリーズ諸作の要素が『暗黒館の殺人』に反映した箇所について述べてゆく。ちょっと長めの備忘と思うていただいても構わない。
 暗黒館には昭和18(1943)年、<幻視の画家>藤沼一成が訪れて仮称「時の罠」を描き、おそらくは同じ時期に「緋の祝祭」と「兆し」と題する絵画を贈った(第3巻P484-87、第4巻P229-32)。作品クライマックスの火災を免れて残った作品は1970年代中葉、画家の息子紀一に請われて所蔵先を暗黒館から岡山の水車館に移している(第4巻P377、『水車館の殺人』P79-80)。
 今度は戦後、昭和25(1950)年10月に探偵小説作家・宮垣杳太郎(※)が、父を通して知己であった浦登征順を訪ねて、暗黒館へ来た。このとき宮垣は処女作『瞑想する詩人の家』(初版?)に署名して、贈っている。馴染みある旧姓時代の征順の名を為書にして(第2巻P401-03、第4巻P338-41)。宮垣杳太郎は丹後半島・迷路館の主人である。
 火事で焼失した暗黒館・北館の再建にあたって、浦登柳士郎は懇意にしていた古峨精計社社長(当時)、古峨倫典へ1階サロンの壁に埋めこむからくり時計を特注した。その時計は、午前の正時には<赤の円舞曲>を、午後の正時には<黒の円舞曲>を、それぞれ奏でるよう設定されている。この2曲は若かりし頃の浦登美惟が作曲したもの(第1巻P528-33)。古峨倫典は鎌倉・時計館の初代館主である。
 『黒猫館の殺人』のモティーフ、<アリス>は美鳥と美魚姉妹の飼い猫チェシャの名に明かだが、鏡合わせという点を考慮するならなによりも美しきシャム双子の彼女たちの格好を指摘できようし、併せて彼女たちの私室の造作、家具調度(書架の本を含む)までもその範疇に入れられるだろう。
 また『暗黒館の殺人』第2巻「解説」で佳多山大地が、本作と『人形館の殺人』の相関について<封印された記憶>を指摘している(P453)が、これは蓋し卓見と思うた。まったく気附かなかったなぁ。
 ──斯様に『暗黒館の殺人』は新装なったあとの先行6作を統合する役割をも担った。これを旺盛なるファン・サービス(=一見さんには敷居が高い)と取るか、作者の自己満足とひねた見方をするか(事実、こうした見方はある)。或いは、これまで断片的に提示されていたシリーズの構成要素に有機的つながりを持たせた腐心の成果と評価するか。読み終えた者の読解力と省察力によって印象は異なろう。即ち、これまでの読書履歴(量と質)と読書姿勢が問われることにもなる。
 統合云々は置いておくとしても、時系列でいえばこれが出発点となったことを併せて考えれば、その後中村青司が手掛けて江南孝明&鹿谷門美がかかわってゆくことになる館、そのそれぞれの施主が如何なルートで中村青司を知り、自邸の設計を依頼したのかも自ずと明らかであろう。未だ姿を現さぬ第10の館についても、それは同じであるまいか。
 なお、余談ながら旧文庫版「あとがき」で作者は中村青司に触れて、(『十角館の殺人』では死亡としたけれど)その実いまは生死不明ってことにしようか……、と嘆息していることを紹介しておきたい(P348)。

 筆を擱く前に老婆心じみた忠言を。ゆめ読み急ぐなかれ。机にかじりついて一語一語を精読する必要はないけれど、活字の表面にただ視線を滑らせるのではなく、一行一行を丁寧に読み、時には前の方へ戻って鏤められた伏線や描写を検めるなどしながらゆっくりと、それこそ狐こと山村修の井上究一郎訳プルースト『失われた時を求めて』に寄せた書評の一節ではないけれど、ゆっくりと、時間を失いながら読んでゆくべきなのだ。
 文庫版『暗黒館の殺人』全4巻に読み応えある解説を寄せた佳多山大地の表現を援用すれば、作品のなかに降り積もった長き時間を辿るように読者もまた腰を据えて時間を失ってゆく法悦へ身も心も浸かればよい。物語はそれに見合った読み方を読者へ求める。その意を汲んだ読者ならば、『暗黒館の殺人』を長すぎるとか読みにくいなどというだけの、的外れで己の読解力の浅さを露呈するような意見を無自覚にインターネット上へあげる愚は、けっして犯さないだろう。◆


 ※「宮垣杳太郎」の表記は『迷路館の殺人』と『暗黒館の殺人』で混在している。
 旧文庫版・新装改訂版『迷路館の殺人』と講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』では「葉太郎」、文庫版『暗黒館の殺人』では「杳太郎」となっているのだ。
 それぞれ初刊の刊行年月を挙げると、『迷路館の殺人』旧文庫版は1992年5月、新装改訂版は2009年11月、講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』は2004年9月、文庫版『暗黒館の殺人』は2007年10-11月である。
 文庫版『暗黒館の殺人』と、そのあとで新装改訂版が出された『迷路館の殺人』で表記が異なる理由については不明だが、本稿に於いては文庫版『暗黒館の殺人』に従って「宮垣杳太郎」で統一した。現時点で流通する各版でこの点が解消されているのか、調査は行っていない。
 序に申せば『奇面館の殺人』では「宮垣杳太郎」と表記されている(上巻P355)。□

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第2580日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉2/3 [日々の思い・独り言]

 ここで一つ提案、『暗黒館の殺人』を読み終えたらば改めて『十角館の殺人』を読んでみよう。というのも『暗黒館の殺人』はシリーズ最重要人物の語られざる物語であり、或る意味で本作がシリーズ出発点となっているからだ。『十角館の殺人』は新装改訂版を用うべし。
 九州は大分県、S半島J崎の沖合約5キロの海上に浮かぶ、角島。そこに建つ洋館(青屋敷)で或る建築家が殺された。中村青司。享年46。1985年9月20日未明のこと。犯人は行方不明の庭師と目されたが、その死にまつわる諸々に疑念を抱いた人物が2人──当時まだ大学生であった江南孝明と鹿谷門美を名乗る前の島田潔である。かれら素人探偵は事件で唯一死体の発見されていない庭師、その未亡人を大分県の安心院に訪ねる。その折彼女が洩らした台詞──青司は子供が好きでなかったのではないか、てふ一言が、角島の事件に新たな光を投げかけた。
 結果、2人が辿り着いたのは、急性アルコール中毒で急死した青司の娘千織は中村青司の妻とかれの弟の間にできた不義密通の結晶であったこと、角島での殺人・放火事件も庭師の犯行ではなく中村青司が使用人と妻を殺害してその後自らも焼身自殺を遂げ、同時に青屋敷も全焼したのだ、という図式に変わったことである。──1985年9月にあった事件のおさらいをした。
 以下、『暗黒館の殺人』を踏まえたお話になる。中村青司が娘を好きになれなかったのは、彼女が実子ではないだろうという推測から逃れられなかったことに加えて、もし彼女が実子だったらかつて浦登邸で口にした<ダリアの肉>、玄児の輸血によって胎内に取り込む結果となった<ダリアの血>ゆえに、千織も<不死の血>……それは呪縛かもしれない……が体内に流れる存在なのかもしれない、と恐れを抱いたからでなかったか。幸いに(?)娘は事故死だったので<復活>は免れたものの、却ってそれが中村青司のなかでなにかのスイッチが入るきっかけとなり、件の凶行へ駆り立てたのかもしれない。
 が、それはダリアの呪縛を己の死を以て絶とうとしたからだ、とはどうしても思えない。自殺した者は生者にあらず死者にあらず、この世に在って惑い続ける存在となるゆえに──中村青司も暗黒館で知っていたはずの、<ダリアの肉>を食した者の逃れられぬ定め──。
 そこで注目されるべきは、中村青司が死の直前に弟へ掛けてきた電話での台詞だ。曰く、自分たちはいよいよ新しい段階を目指す。曰く、大いなる闇の祝福が云々。なんの予備知識も与えられていない第三者にはチンプンカンプンな内容だけれど、『暗黒館の殺人』のあとで『十角館の殺人』を読み返すなら否応なくこの台詞にぴん、と来る。即ち、<ダリアの宴>の結果を意識した台詞──遺言──頌(オード)なのだ。なお、この箇所は新装改訂版の刊行に伴い加筆された。
 ところで、なぜ中村青司は自邸の離れとして、よりにもよって十角形の建物を建てたのか。角島の屋敷と十角館、湖の小島の暗黒館と十角塔。思うにかれは、浦登家の人々を、就中浦登玄児のためのモニュメントとして建築したのだろう。再建にかかわった暗黒館の各館を<惑いの檻>を中心に交差する廊下(十角塔から見おろすと、十字架を模した形になる)でつないだのと同じ想いから。……『十角館の殺人』の初稿タイトルはそういえば、『追悼の島』でしたね。
 『暗黒館の殺人』の「中也」が語り手を務めるメイン・パートが終わった瞬間から、中村青司と<館>シリーズの物語が新しく始まる。となると、最大級の疑問が脳裏をかすめて、やがてじわじわと侵食して中心に居坐るようになる──即ち、果たしてかれ中村青司は本当に死亡したのか? 暗黒館の中庭の<惑いの檻>で他の者同様未だかれも惑い続けてこの地上にいるのだろうか? ……生きることも死ぬこともできず……なんとなればかれも<ダリアの宴>に列なり、<ダリアの肉>を食した者であり、玄児経由で<不死の血>を体内に取りこんだ「仲間」なのだから。玄児がいみじくもこぼしたように、──「いったんは去っても、君はここに帰ってくる。俺には分かる。今は否定し、拒否しようとしていても、いずれはすべてを受け入れ、帰ってくる」(第3巻 P154)──ついでに触れれば、作者は『水車館の殺人』旧文庫版の「あとがき」でぼやいている。曰く、いっそ中村青司を生死不明にしてしまおうか云々、と。
 もう一つ。『十角館の殺人』にて中村青司が妻の左手を切り落としたのは、ダリアや玄児の左手首にあった傷、<聖痕>を意識したか、それとつながるなんらかの事情ありきの行為だったのかもしれない。……と、これはただ、ふと思うたまでのこと。□

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第2579日目 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読みました。〉1/3 [日々の思い・独り言]

 この感想を書くにあたってどうしてもカバンへ入れて持ち運ぶ必要があるため、古本屋で講談社ノベルス版『暗黒館の殺人』上下巻を買ってきた。それから折につけノベルス版であれ文庫版であれ読み返してみて、やはり『暗黒館の殺人』を傑作だと信じて疑わぬ思いに揺らぎはなかった。
 ──いつかやってみたかった、浅倉久志による『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック)「訳者あとがき」の一節の模倣で本稿を始めたのは、他でもない、これまでに読んできた綾辻行人の諸作のうちでこれ程、「傑作」という呼称を問答無用で冠すに相応しいものが(すくなくともわたくしには)見当たらないからである。
 5月いっぱいを費やして物語の世界に沈潜していた時間は、とても幸福だった。現実ではいろいろあったけれど、物語のなかへ潜りこんでいる時間はしあわせだった。物語の世界に足を踏み入れて種々諸々の意味で幸福と悦楽を実感したことは、2017年に於けるわたくしの読書体験でもおよそ最たるものとなるだろう……。
 幸福だった、という理由の一つはこういうことでもある──こちらが抱く、犯人はこの人だろうか、こんなトリックではないか、などと考えても、それらがことごとく、見事に外れてゆくことで尚更、一語一行、一文、行間を丹念に読み、或いは前の方を読み返して検討するのだけれど、やはり凡百の頭では真相を見出し、そこへ辿り着くのは難しく、そうしてそれは二度、三度と繰り返され。
 こんなわけだから、文庫版第4巻の中葉あたりから徐々に、いい方を変えればそこそこ露骨に全体像が窺えてきたときは、新緑の気持ち良い時節だというのに、思わず薄ら寒くなり、肌に粟粒が浮かんできたよ。同時に、興奮と驚愕のつるべ打ちに脳みそは沸騰して体は火照り続け、昂ぶるばかりの心を鎮めるため途中で敢えて読みささねばならなかったこともしばしばで。
 文庫版「あとがき」にて作者自ら曰うこの件り──「(この『暗黒館の殺人』は)何と凄まじくも僕好みの傑作であることか」には惑うことなく首肯したわたくしなのだけれども、実はこの作品、インターネット上では賛否両論、いや、悪罵の方が目立つ印象のある作品でもあった。
 たしかにミステリ小説として読むならば、明快な真相究明と結末を求めるならば、最後まで読んだあとで「ふざけんな!」と怒り心頭に発して本を床なり壁なりに叩きつけたことだろうが、21世紀になって以後、ハイブリッドというかジャンル・ミックスされた作風、内容の小説がとみに顕在化してきたことを併せて考えればわたくしは『暗黒館の殺人』を謎解き小説として読むことはどうしてもできないし、またそう読むべきでもないだろうなぁ、と考える。
 『暗黒館の殺人』に頻出する<謎>の多くは誰彼によって真相が暴かれないまま──というよりも、そんな如何にも人智の枠内での解決や説明を拒絶する/寄せ付けない類の、人間が踏みこむべきでない領域に属する類の<謎>であるゆえに、最後の最後まで、それこそ読了して巻を閉じたあとまで一種、異様な空気のなかへ在り続けるのだ。物語の幕切れでいみじくも江南孝明が述懐するように、そこは僕たちが──人間が近附いてはならない場所であるゆえに。
 むろん、ミステリの体裁を採っていながらミステリでもオカルトでもなく……てふ中途半端ぶりを指して「駄作」と評したい向きの気持ちもわからないでもないが、受け取るばかりで思考を停止させた読み方も果たしてどうなのか、と考えさせられますな。
 『暗黒館の殺人』を傑作たらしめている要因の一つは、自在に分裂して個々の登場人物のなかに入りこんだり、時間を行ったり来たりすることのできる<視点>の導入にある。マルチ・キャラクターによるマルチ・プロットという方法を採り難い(『暗黒館の殺人』の)物語構造である以上、澱みなく、滞りなく、語られるべきことが語らしめられるためには<視点>の採用と活用が不可避であった。
 この<視点>を採用した長編小説の書き手には、たとえばチャールズ・ディケンズやスティーヴン・キングがいるけれど(ウィリアム・サッカレーもいたか)、そこそこ長くて、そこそこ入り組んだ物語を破綻なく語るためには、時としてこのように全能とさえいうてよいカメラの存在が不可欠になる。もし<視点>という突破口を見出すことができなかったら『暗黒館の殺人』は<館>シリーズ屈指の失敗作となっていたのではないか。もっとも、この<視点>の採用ゆえに「読みにくい」という声もあるのだろうけれど、それ程のものであろうか?□

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第2578日目 〈綾辻行人『黒猫館の殺人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 “黒猫館”といえばわたくしの世代には悶々とした感情を抱かれる方もおられよう。人里離れた場所に建つ妖しの洋館。そこで営まれる背徳と淫靡の生活。いまにして思えば、人生初のメイドさん萌え……。わたくしが書きたい物語の或る方向に於ける目標は、この、戦前の雪深い山中に建つ洋館を舞台とする物語にあったのだ。それはいまも変わることなくあり続けており──
 ──さて、マクラはここまでにして、綾辻行人『黒猫館の殺人』である。
 宿泊していたホテルの火災によって記憶をなくした老人、鮎田冬馬から一冊の手記をあずかった江南孝明と鹿谷門美。それを読んで自分の正体と書かれた内容が事実なのか、回答を導き出して自分に教えてほしい──鮎田は2人にそう依頼した。手記には、鮎田老人が雪深く人里離れた地に建つ洋館<黒猫館>の管理人として独り住まわっていること、館のオーナーの息子とそのバンド仲間が滞在することになったいきさつとかれらの無軌道な言動、かれらが現地で若い独り旅の女性をナンパしたこと、その夜館の大広間でかれらがドラッグに耽り誰かが女性を殺害してしまったこと、その後館の地下で白骨死体が発見されかつ1人が後に命を落としたこと、が記されていた。
 『黒猫館の殺人』を読むにあたって自身も推理合戦に参加したい、という向きは、新装改訂版の帯に特筆された「全編に張り巡らされた伏線の妙」を常に念頭に置きながら、けっして読み急ぐことなく都度都度立ち止まりながらページを繰ってゆくことをお奨めする。
 作者が仕掛けたトリックはまさに空前絶後、なんとスケールのでかい大技であることか……と嗟嘆せざるを得ない類のものだ。『人形館の殺人』程ではないものの、読者の賛否がこれまたはっきり分かれる作品であろう。本作がオマージュをささげるのがエラリー・クイーンの中編「神の灯」だけれど、スケールでは『黒猫館の殺人』の方がはるかに凌駕する。凌駕したからなんなのだ、といわれても困るけれど、判明した途端に椅子からずり落ち、或いはのけ反って天を仰ぐこと必至。そうして、設計士・中村青司と依頼主・天羽辰也の常識外れな企てにツッコミの一つも入れたくなってしまうのだ。
 鮎田老人が鹿谷たちへ託した手記(奇数章で語られる)は犯人当てミステリの<問題編>で、偶数章での鹿谷門美&江南孝明の行動は真相解明の調査と推理である。読者よ、奇数章で語られる事柄に疑問を抱け。読者よ、偶数章で判明してゆく事実と手記の齟齬に気附いて真相を看破せよ。そうして読者よ、<回答編>に相当する「エピローグ」を充足の溜め息と共に読み終えたまへ。
 真相解明の手掛かりはなにか、ですと? それは言わぬが花だ。ミステリ小説の書評や感想を書くのは難しい。ストーリーとトリックについてどこまで語っても構わないか。ネタバレにつながることは一切書かない方がいいのか、それとも細心の注意を払いさえすればぎりぎりのところまで筆を進めてよいのか。これらの点に自分なりの折り合いをつけられない限り、真相解明の手掛かりは? と訊かれても返す言葉はなにもない。
 あるとすれば……そうね、中村青司が恩師神代教授に依頼主を評して曰うた「あれはどじすんですね」(P152)と、むかし依頼主が神代教授に己のことを述懐した際の台詞、「私は鏡の世界の住人だ」(P238)、かなぁ。嗚呼、わたくしはもう口を閉ざすべきだ。作者のこの言葉──「ある程度の読者が八十パーセントまでは見抜けるかもしれないが、問題は残りの二十パーセントにこそありますぞ」(P417)を紹介した上で。
 感想の筆を擱く前に、「ミステリ小説の読者あるある」に第8章で遭遇して、思わず、これって自分のことだ、と深く深く首肯させられた一節のあったことをお伝えしておきたい。黒猫館で発生した密室殺人の現場調査での江南による、あまりに正直過ぎる述懐。曰く、「時刻表を使ったアリバイトリックと同じで、まあどうにかしたんだろうな、という気分になってしまって、種明かしをされても『ふーん』としか思えないのである」(P321)と。身に覚えのある読者も多くおられることだろう。もしかするとこの一節、骨の髄からのミステリ小説作家、綾辻行人からの苦言なのかもしれないね。
 ──ところで、千街昌之の解説を読んで、いったいどれだけの人が前作『時計館の殺人』を読み返しただろう。たしかに『黒猫館の殺人』の真相そうしてトリックの背景と成立のための前提条件は既に『時計館の殺人』に埋めこまれていた。それは<回答編>「エピローグ」につながってゆく事柄でもあった……。
 もう一つ、ついでに。第4章;神代教授が「自分の影響か知らないが」と前置きした上で、若き中村青司はイタリアの建築家、ジュリアン・ニコロディに関心を持っていたと話す(P139)。むろん、『暗黒館の殺人』でかの館の建築に影響を与えた異郷の建築家として名が出る人物である。こちらの感想はまだお披露目していないから、これ以上は書くのを控えよう。まぁ、<館>シリーズを順番に読んでこそ得られる愉しみの一つを『黒猫館の殺人』も備えているのだ、と申しておきましょう。◆

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