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第2616日目 〈横溝正史「不死蝶」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 事の起こりはこうだった、──
 金田一耕助ははやる気持ちを抑えて信州へ向かう列車のなかにいた。ふだんは断る身元調査を今回に限って承けたのは、東京の事務所に舞いこんだ脅迫状に俄然闘志を奮い立たせられたからだった。と同時に目的地である信州射水が鍾乳洞で知られた土地だったせいもある。然り、このとき金田一の脳裏に浮かんだのは、『八つ墓村』の事件であった。元を正せば今回の依頼も『八つ墓村』事件を知る警察関係者の仲介があった由。
 さてその射水の町には来日中のブラジルのコーヒー王の養女、鮎川マリが母親と使用人を伴って滞在していた。金田一をこの地へ招いたのは町の素封家矢部家の当主、杢衛である。かれ曰く、鮎川マリの母、君枝は23年前にこの町で起こった殺人事件(現場はやっぱり鍾乳洞!)の最重要容疑者で事件直後に姿を消して消息不明な玉造朋子に相違ない云々。玉造家は矢部家と並ぶ町の素封家で、今日なお栄えている名家。
 かつて矢部家の男と玉造家の女が相思相愛の仲になった。が、如何せん『ロメオとジュリエット』を地で行くような両家のいがみ合いは、かれらの恋愛を到底許さなかった。ゆえにかれらは人目を避けてもっぱら鍾乳洞にて逢い引きを重ねるようになるが(ああ、これも『八つ墓村』ですね)、遂に現場を押さえられてしまった。洞内の<底無し>といわれる井戸の傍らですったもんだが演じられた挙げ句に殺人が勃発。その日を境に玉造朋子は失踪して行方は杳として知られなかったのであった。
 そうして<時>は流れて現在。鮎川マリが町の有力者たちを招いてパーティーを催していた晩、鍾乳洞のなかの件の井戸のそばで再び人が殺された。被害者は金田一の依頼人であった矢部杢衛。帰郷する気でいたかれだったが、矢部家の人々から引き留められて杢衛老人の事件の捜査を依頼されたことで、射水の町に留まることにした。
 しかしながら当然、事件はこれで終わらない。惨劇はなおも繰り返されたのだった。
 誰が凶行に手を染めているのか、動機はなにか。鮎川君枝と玉造朋子は果たして、町民の囁き交わすように同一人物なのか。やがて金田一耕助は呆然とするような事実に辿り着き、真犯人と対峙して痛烈な一言を浴びせるのだった、──
 ──タネを明かせば、人々の予感は当たっていた。やはりかの人物は23年前の失踪者と同一人だったのだ。身も蓋もないことをいうてしまえば、ミステリ小説には素直に騙される=探偵と一緒に犯人捜しに参加しないことを信条としている(……んんん、ん?)わたくしでさえ、このみずぼらしい一人二役のトリックを見破れてしまいましたよ、もう! はじめの1/4程度の箇所、具体的にいえば上述のパーティーの場面ですな。なんだかね、「さぁ皆さん、ここでトリックをばらしちゃいますよ、必然的に犯人の見当もついちゃいますよ」と作者に予告されているみたいな描き方でね……。いやはやまったくもう。
 トリックは割れて、犯人の目星もついた。となれば関心の矛先は否応なく、<いつ暴露されるのか>、<それまで如何に欺くか(欺こうと悪あがきするか)>に向けられる。さりながらもはや既にトリックは割れて犯人の目星もついており、この先とんでもないドンデン返しがない限り胸に兆した確信が木っ端微塵に砕かれることはないだろう──となれば、必死になって真相をひた隠してその場を取り繕おうと懸命な犯人サイドの行動が哀れを通り越して滑稽でしかなくなってくるのも、致し方ないところであるまいか。もうバレバレっすよ、マリさんと先生……。
 「不死蝶」は鮎川家がオールスター・キャストで臨んだ公演の記録である。お粗末で穴だらけの台本、詰めの甘いトリックと漏水気味なアリバイ工作、アドリブの効かない、そのくせ演技過剰な役者たち。話が進めば進むだけ虚しさと退屈さがこちらの心身を蝕んでゆくこの田舎芝居を、わたくしは金田一探偵や射水の人々の後ろから見物してどうにも欠伸を抑えることができなかった。
 世評がどうあれ、わたくしは「不死蝶」を出来の良い作品とは思わない。控えめにいうても「下の上」だ。
 が!
 しかし、である。
 本作の真のクライマックス──事件解決からしばらく経って季節が変わり、そろそろ鮎川マリ一行がブラジルへ帰国しようという頃、東京で金田一がマリに対峙して事件の真相をゆっくり紐解いてゆく件りだけは読んでいる間中、心の底からぞくぞくさせられたな。興奮と驚愕の釣瓶打ちでね……まさしくだったんだ。  加えてマリの、合理的かつ即物的な考え方と行動に珍しく憤りを抑えられずにいた金田一がくだす、冷徹にして激越な鉄槌がとっても印象に深いのである。21世紀の今日とは価値観が異なろうけれど、外国人のザッハリッヒなところと日本人の情感がぶつかり合った、短くも鮮やかなこの場面がなかったらば、おそらくわたくしは「不死蝶」てふ作品を顧みることはなかっただろう……。  ──ところで。今回読書に用いたのは昭和50(1975)年4月初版、同51(1976)年8月9版の角川文庫だが、本文用紙がいつもの酸性紙(?)ではなく、ツルツルピカピカ光沢ばっちりな上質紙(? コーティング紙?)になっている。やはり昭和51年8月7版の『鬼火』も用紙については同じである。これで話が済めば問題ないのだが、困ったことに同じ時期に印刷された角川文庫でも本文用紙が光沢紙なものと酸性紙なもの両方が混じっているのだ。数年前に日本を襲ったオイル・ショックの影響なのか。それぞれで印刷会社が異なるためなのか。もしそうならば、折しも到来した<横溝ブーム>により複数の印刷会社を稼働させて増刷に増刷を重ねた結果なのだろうか。  まぁ特に不満というべきはないんだけど、そうね、あえて挙げれば本全体が重いことと、用紙に光が反射して目が痛くなることか。おまけにシャープペンや鉛筆で読了日或いはメモを残しづらいことも、挙げておこう。  刊行当時の世界情勢や国内消費、流行など種々の背景がこの文庫1冊に詰まっているかと思うと、偶然古書店で手にして購ったものであるにもかかわらず、にわかに時代の証言者の輝きを放ち始めるのだから、ふしぎだ。こういう点を切り口にして、出版史・印刷史の深い森に分け入ってゆくことができるんだな、きっと。もしかするとこのあたりを説明している本が、紀田順一郎や他の人にあるかもしれない。ちょっと書庫にこもって探してこよう、っと。◆
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第2615日目 〈横溝正史「蜃気楼島の情熱」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「蜃気楼島の情熱」は資産目当ての殺人としてはその残酷さ、冷血ぶりの際だった一品として、記憶から消し去りがたき読後感を残す短編だ。
 1度ならず2度までも、妻を殺された男がいる。単に「死んだ」というなら青ひげ公だが、その死について青ひげ公の容疑はいつだって限りなく黒に近い灰色だ。が、件の男は正真正銘、他者に愛する妻を殺されたのだった。はじめはアメリカで、つぎは瀬戸内の沖の小島、通称<蜃気楼島>にて。
 男の名前は志賀泰三。アメリカで財を成して帰国するとかの島を買うて、統一感のまるでない邸を建てた。落成からしばらく後、志賀は滞米中に知己の仲となった久保銀三を招く。その久保は友人、金田一耕助を誘って志賀の招きに応じた。久保銀三と金田一耕助、『本陣殺人事件』以来のランデヴーである(くすくす)。
 物語はこの久保と金田一がランチで蜃気楼島へ向かう場面で幕を開ける。そうして予想通りその晩、志賀の細君、静子(妊娠中)が独り休んでいる寝室で殺された。死因は絞殺、果たして何人が彼女を──卑しい身の上から島の女王と称される地位にまで出世した彼女を手に掛けたのか? 疑いの目はその日、志賀家の客になっていた樋上四郎へ向けられた。樋上はアメリカ時代に志賀の前妻を殺した犯人である。が、樋上は頑迷に己の犯行を否定した。しかも犯行時刻と思しき時間、自分は30分程寝室にいたが静子はどこへいったものか、そこにはおらず、結局会えずに自室へ戻ったのだ、と主張してやまぬ。斯くして金田一耕助は捜査に乗り出し、邪悪としかいいようのない犯罪の全貌へ迫ってゆく──。
 果たして真相は醜悪にして唾棄されるべきそれであった。有り体にいえば、志賀泰三の財産に目がくらんだ親戚、村松一家による家族ぐるみの犯行だったのだ。静子夫人が凶刃に倒れたのは志賀の許へ輿入れした彼女への嫉妬と、相続人となる初子の懐妊が招いた危機感から。
 村松家の人間たちが張りめぐらした、周到にして狡猾な罠が志賀を否応なく犯人に仕立てあげ、自分たちはかれが失墜した後その財産を分捕るために、真綿で包むが如くじわじわと、だが確実に、追い詰めてゆく。
 ゆえに故村松滋の葬儀の席上にてその父、恒は志賀にそれとなく仄めかした──静子夫人と滋が不義の関係を結んでいたことを。夫人のお腹の子が滋の胤である可能性の示唆と、静子夫人の死が志賀の犯行と参列者に思いこませるお膳立ても、併せて忘れずに。
 おまけに村松家の女どもは揃いも揃って性悪である。利己心に長けて、他人の神経を逆撫ですることにかけては天下一品、他の金田一作品を見廻しても、金銀財宝に目がくらんで容赦なく親族を陥れることに躊躇いも良心の呵責も感じさせない連衆は、なかなかいなかった。
 作中にてはっきりと描写されないものの、金田一にとって思い出すだけでも胸くその悪くなる──一片の思念すら覚えることのできぬ犯人だったのではないか。曰く、──
 「この事件の動機はなかなか複雑だと思うんです。成功者にたいする羨望、看護婦から島の女王に出世した婦人にたいする嫉妬、そういうもやもやとした感情が、……爆発したんですね。ですけれど、ぼくはやはりこれを貪欲の犯罪だと思いますよ」(P288-89)
 そんな犯罪計画と実行のダークぶりに思わずこちらも気持ちが暗くなるが、じつは、本作にはそれをわずかかもしれないが軽減させる要素がある。それが、蜃気楼島を中心に据えた秋の夕暮れの光景だ。就中志賀の情熱の結晶たる館を浮かびあがらせる、宵闇迫る黄昏刻の描写である。そうしてそれは、いびつな夢の終わりを予感させもして──。
 『悪魔の手鞠唄』では雨に煙る須磨の、薄墨で輪郭をぼかした描写が印象的だった。「蜃気楼島の情熱」でも夕暮れ、殊<秋の夕暮>てふ物寂しさと終末を予感させる、或る意味で日本人の(DNAに組みこまれた)情緒に訴えかける最強クラスの描写が効果的に、要所要所で折りこまれているのだ。
 黄昏刻の、逢魔が時の、静かに表情を移してゆく空の色、風の気配、海の色の深まりといった島を巡る情景の一々が、わずかな描写で読者の心を囚えて、折口信夫いうところの<ほう、とした想い>を抱かせるのだ。
 この、秋の夕暮れが作品全体を支配するわけだが、志賀夫妻の行く末までも暗示していることは、敢えてわたくしなどが指摘するまでもないだろう。
 ──登場人物の相関関係、犯人の邪悪さ狡猾さ、情景描写の深まり具合、財産家の哀しみと名探偵の憤り、幕切れでそっと示される一縷の希望。そんな様々な因子が響き合い、絡み合い、調和して読者の心へ訴えかけてくる小さな交響曲……わたくしはこの「蜃気楼島の情熱」をそんな風に捉えて鍾愛している。◆

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第2614日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『赤毛のレドメイン家』を読んでいるとその悠然とした情景描写、細かな心理描写、微に入り細を穿つ人物描写に陶然となる。黄金時代本格ミステリの名作を読んでいる、というよりも、19世紀から20世紀初頭に書かれて親近してきたイギリス文学のメインストリームへ接しているような、そんな既視感に襲われることもしばしばあった。
 イーデン・フィルボッツ(1862〜1960)は生前トマス・ハーディと人気を二分した田園小説の大家で、1927年には20巻から成る全集が刊行されるぐらいの文壇の重鎮であった。そんな人物がミステリの筆を執った。日本風にいえば還暦すこし前からミステリ小説を刊行しているとのことだが、仄聞するところでは若い頃より推理や怪奇の味わいのある作品を発表していた由。『赤毛のレドメイン家』は1922年、フィルボッツ60歳の作品である。
 もともとイギリスという国は純文学作家でも生涯に何作かのミステリや怪奇小説を書くような伝統があって、しかもそれがジャンルのマスターピースになっていることが多いから、フィルボッツが公然と本格ミステリ小説を還暦間際に刊行して、以後も秀作を発表し続けたことになんら不思議はない。というよりも、イギリス文学そのものがミステリ小説のスタイルをまとっていることが多いのだから、フィルボッツのような経歴の作家がミステリ市場に顔を出すのも当然といえば当然であろう。
 『赤毛のレドメイン家』の舞台は前半がイギリス・ダートムア、後半はイタリア・コモ湖。フィルボッツの筆はダートムアを描いてドイルの『バスカヴィル家の犬』とはまた違った陰鬱寂々の光景を読者の心胆を寒からしめ、コモ湖一帯を描いて前半とは打って変わった草木一本に至るまで太陽に照らし出された楽園のような光景を現出させる。
 ダークネスなダートムアを背景に展開するのは美しき未亡人を巡るロンドン警視庁の警部とイタリア人男性の恋の鞘当て、シャイニーなコモ湖ほとりの明媚な場所で着実に遂行されてゆくのは残忍な犯人と名探偵の頭脳戦。言葉を費やし筆を尽くして舞台となる地が描かれているからこそ、登場人物も血が通い肉を備えた生身の人物となり得るのだ。
 同時代に書かれたミステリ小説を見渡しても(もちろん、翻訳されているもののなかで、という前提になってしまうのだが)、『赤毛のレドメイン家』ぐらい人物と心理、或いは情景の描写が細かくされている作品はないように思う。このような点がおそらく現代の読者に敬遠されて、鈍重・退屈・冗長などと拒まれているのかもしれない。
 が、小説は常に時代の風潮を反映する。『赤毛のレドメイン家』が発表された1920年代イギリス文学のトレンドはジョイスやエリオットに代表されるモダニズムであったけれど、ディケンズやサッカレーが活躍したヴィクトリア朝の文学様式がいっせいになりを潜めたわけでは当然、ない。時代の旗手的役割は他へ譲ったと雖も、まだまだ往時の作家はじゅうぶん健筆を揮っていた。
 フィルボッツの場合はたまたま田園小説よりもミステリで、殊日本では知られるようになったから、かれが現役であった時代の小説のスタイルや特徴など背景にじゅうぶんな注意を払う作業を怠った連衆が、己の一知半解を棚にあげて槍玉に挙げているだけのように思えるのだ。ジャンル小説一辺倒の読者が陥りやすい弊害といえようか。
 『赤毛のレドメイン家』の場合、情景描写と人物描写に力が注がれていたけれど、『闇からの声』(1925)になると犯人の心理描写に重点が置かれていることから、フィルボッツはこれまでの田園小説では描くことが難しかった人物を創造することに関心を向けた様子である。
 『赤毛のレドメイン家』の犯人もなかなか狡猾で残忍・無情な悪党であったけれど、『闇からの声』の犯人はそれを上回る存在として登場する。が、いずれも人物描写/キャラクター造形の確かさがあるからどれだけ卑劣なことをやってのけても、抗いがたい強い魅力を備えた人物として、探偵役よりも深い印象を残すのだった。
 ──イギリスのミステリ作家のなかでキャラクター造形がうまいのは誰か、と問われたらアガサ・クリスティの名はいっとう最初にあげられるだろう。そのクリスティにはデビュー前のちょっと知られた逸話がある。小説家を志していた少女の時分、隣の家に住んでいたずうっと年上の、文壇の長老格であった人物に創作のアドヴァイスを請うた。その後、彼女は夢を実現させて1920年に『スタイルズ荘の怪事件』でデビュー、以来半世紀になんなんとするキャリアの第一歩を踏み出した。が、流行作家になってもデビュー前に受けた恩情を忘れることはなかったようだ。彼女は『エンド・ハウスの怪事件』(1932)を件の大先輩にささげて感謝を表している。その先輩作家こそ、『赤毛のレドメイン家』の作者イーデン・フィルボッツであった。◆

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第2613日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 ここ1.5ヶ月ほど昨年末からゆるゆる続けてきた横溝正史読書マラソンを中断し、<この際だから海外ミステリの古典を──買い溜めしている分だけでも──読んじゃおうプロジェクト>パート1に取り組んでいる。
 そうして8月15日、終戦記念日のあたりからは都合3冊目となるイーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』(宇野利泰・訳 創元推理文庫)を読み始め、作業はいまも鋭意進行中だ。間もなく1週間になろうとしているけれど、今日でようやく半分ぐらいを消化。満を持して名探偵登場の第11章がいまである。
 じつは名探偵登場までのつなぎ役でしかないと判明するに至った前半パートでの捜査担当、ふしぎにも「探偵」と訳語のあてられているロンドン警視庁のマーク・ブレンドン警部は、読者からすれば愚鈍の人である。とんだヘマをしでかしてそれに気がついていない/気がつこうとしていない、優秀な警官であると説明されても、なんだかなぁ……とその能力に疑心暗鬼な思いを抱かざるを得ない人。自分の思いこみを後生大事にするのはいいが、それを絶対的なものとして捜査の第一歩から誤った方向へ突き進んでゆくのは、危険である。被害者側からすれば、トンデモ警官でしかない。
 おーい、そっちじゃないよ、君の行くべき道は。目の前の人物が自分に見せる媚態や言葉を、あまり真に受けちゃあ駄目だよ。そんな風に忠告したい場面は、多々ある。
 でも、警官としての能力はさておき(=あまり評価していない)、被害者遺族なかでも未亡人となった女性に寄せるブレンドン警部の気持ちは、頷けるところが多いのです。恋愛と職務を天秤にかけたり、相手の心変わりが必ずしも本心からではないと自分を納得させようと努めるあたりね。一歩を踏み出すべきところで踏み出す勇気のないスコットランド・ヤードのミスター・マーク・ブレンドンが、そんなときたまらなく自分に似ていて好きになっちまうのですよ。なんだかこの恋(……?)の顛末もそっくりで──いやいや、それはともかく。もっともおいらの場合、その感情は<恋>ではなく<蔑み>/<憎しみ>/<恨み>でしたが、まぁそれはどうでもいい。思い出すたび心の荒れ狂う過去あっての、幸福で満ち足りた現在なのだから。
 おそらくミステリに於いて「恋は盲目」の実例を1人挙げよ、なんて設問があったら即座に名前の挙がる筆頭候補でありましょう。そのくせこの人、終盤になるとそれをちょっぴり否定してみせたり、あげくに苦い経験を味わってイギリスへ帰郷するのですから……盲目がもたらした癒えぬ悔恨ここに極まれり、という感が致します。
 ──この感想の第一稿を綴っている8月後半、『赤毛のレドメイン家』はいよいよ舞台をイギリス・ダートムア(バスカヴィル家!)からイタリア・コモ湖へ移し、名探偵ピーター・ガンズ氏が読者の前に姿を現そうという章へさしかかった。物語はようやっといちばん大きな転換点を迎える。そうして清書しているいま9月半ば、再び物語は大きな転換点を通過してガンズ氏がイギリス帰郷の車中にて謎解きをしてみせている。
 もはや疑いもなく来週中に読み終われること必至だ。為、はじめの予定通りに読了の感想は9月終わりか10月初めにはお披露目できそうである。ちょっと安堵。第一稿では〆の言葉、「どうか読者諸兄よ、期待しないで……否、期待していてほしい……かな。うん」という不安を抱かせる終わり方であったが、明るいニュースをお届けできてとってもうれしい。さて、では途中途中で記していたメモを動員して、そろそろ読了の感想を認める準備を始めようか……。その前になんだかお腹減ったな。◆

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第2612日目 〈ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 サスペンス小説の傑作、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』をようやく読了。台風12号による濡れからの回復を待ってのこの日となった。
 「ようやく」には2つの意味がこめられている。1つは通勤電車(もっぱら帰り)のなかを始めとする日々の細切れになった時間での読書ゆえ、どうしても読み終えるまで日にちがかかってしまったこと。もう1つは題名も著訳者も表紙カバーも粗筋も乱歩の挿話も昔から知っていたにもかかわらず読む機会を作ろうとしなかったため、人生の折り返し点をとうに過ぎたいまになって読んだのだ、ということ。
 ──妻殺しの濡れ衣を着せられた男、スコット・ヘンダースン。かれには妻が殺害された時刻の完璧なアリバイがあった。が、無実を証明できる女の存在を認める者は誰もいない。いえ、あなたはお一人でしたよ。万策尽きたスコットは親友ジョン・ロンバートに<幻の女>探しを依頼、斯くしてロンバートは女の手掛かりを求めてニューヨークの街を彷徨い歩く。探索行の果てにやがてあきらかとなった衝撃の事実とは──?
 スリルを盛りあげサスペンスをあおるには、センスがいる。そのセンスとやらを如何なる方法で料理するか。ここがシェフたる作者の腕の見せ所だけれど、アイリッシュはそれを章見出しでやってのけた。あっさりと、あざやかに。「死刑執行前 ◌◌日」……今日ではさして目新しくもないやり方だが、発表当時としては結構斬新だったろう。1942年の作品なのだ、この『幻の女』は!
 冒頭の有名な一文からして多くの作家へ影響を影響を与えた作品だけにプロットのみならずシチュエーション、犯人、トリックやアリバイなど、読み手によってはデジャ・ヴを覚えるかもしれないが、やはり時の流れに耐えて今日なお読まれる名作である。後続の作品群ではあまりお目にかかれぬ風格と破壊力を備えている。乱歩の評言はそれから70年以上を経たいまもなお、じゅうぶん通用するものであろう。いや、それにしても終盤であかされた<幻の女>の正体と、スコットと別れたあとの顛末には、ぎょっ、とさせられたよ。ちょっと薄ら寒くなったね。
 この古典的名作を今日巷にあふれる有象無象のミステリ小説を読みちらした目で読むと、センチメンタル過多な雰囲気に抵抗を感じ、省略を利かせた文章にしばし憶測を重ね、たまに冗長と映る描写に退屈を覚えたりもして、残りのページを指の腹でぱらぱら目繰って道通しの感を深めることたびたびであった。
 が、その一方で、経年劣化こそ否めぬものの時の波へ抗って常に版を重ねて読み継がれてきた要因に、上であげた点のあることも本当のところなのだ。ドライでありながら非情に徹しきれぬ甘くて優しい空気感が全編に垂れこめ、冗長な描写と思うたのは端役に至るまでその場限りの紙人形となるのを避けんがためのテクニックであり、物語に深みと制裁を加えるスパイスであった。
 省略の利いた文体とはハメットやチャンドラーのようなハードボイルド小説でお馴染みだけれど、アイリッシュのこの作品についてはちょっと事情が違うようだ。簡単にいえばハメットたちの文章が意識して作られたものであるのに対し、アイリッシュのそれは意識することなくふとした拍子に体のなかから自然と湧き出た文章に思えるのだ。
 新訳版の訳者、黒原俊行は一例として、妻の死体が運び出されるのをスコット・ヘンダースンが見つめる場面を挙げるが、件の文章テクニックに呑まれてうっかり読み流したことに気附き、急いで立ち止まって「この場面で起こっている(行われている)けれど描かれていないことはなにか」と考えこむ羽目に陥ることしばしばなのである。
 わたくしの印象ではこの現象、2人以上の人物が同じ場面に出ていて、皆等しくそれぞれの役をこなしている箇所にて顕著なようで、ここから転じて、もしかするとこのあたりにアイリッシュの弱点があるのではないか──多くの登場人物が一堂に会したときの各々の書き分けに苦手意識を持っていたのではあるまいか、アガサ・クリスティやスティーヴン・キングと違って、と邪推してしまうのだった。さりながらこの文体がサスペンス小説でも効果的なのは第12章、若い女がバーテンを追いつめてゆく、殆どこの2人だけで進められてゆく一連の場面を読むと納得なのである。
 1つの結婚生活の終わりから始まる犯罪──夫婦のどちらに原因があろうとも、激情に駆られて家を飛び出すや行きずりの女と夜の一時を過ごしたり、相手の誠意を弄んで嘲笑するなどわざわざ恨みを買って自分の命を危うくしたり、一方通行な愛情で相手を縛って夢想の計画の主要登場人物に仕立てたり、なんていう愚は犯したくないものであります。

 『幻の女』はハヤカワ・ミステリ文庫から3種のヴァージョンが、これまでに出ている。初めは1979年8月に稲葉明雄・訳で。次は1994年初夏(?)、改版を機に稲葉が訳文へ手を入れたヴァージョン。そうして2015年12月の、前述の黒原による新訳版だ。本邦初訳は最初の文庫化に先立つこと四半世紀以上も前の1950年、『宝石』5月号に一挙訳載された黒沼健・訳。
 黒沼訳はその後ハヤカワ・ポケット・ミステリ、通称ポケミスに収められたが(第183番 1967年10月)、早川書房は1972年9月から刊行開始した≪世界ミステリ全集≫の第4巻収録分から稲葉明雄・訳に差し替えて、1979年のハヤカワ・ミステリ文庫を経て2015年の黒原・新訳版へ至る。
 この機会だから、有名すぎる冒頭の一文を3人の翻訳者がどのように日本語へ置き換えたか、以下に引いて鑑賞してみよう。
 「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といったところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた」(黒沼健)
 「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・旧版)
 「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・改版、黒原俊行)
 稲葉改版の訳と黒原訳が同じなのは、黒原俊行がさんざん検討を重ねた結果、これ以外にないと判断して稲葉の遺族に了解を取った上での結果であることは、新訳版の訳者解説にある通りだ。新訳版からこの部分を引用する際は「稲葉訳」であることを明記してほしい、とは黒原の言だが、本稿ではそれでもあえて上のように処理させていただいた。ご寛恕を願いたい。
 今回わたくしが読書に用いたのは旧版だが、冒頭のみに限ればこの版を断然支援する。冒頭のみ、というのは如何せん翻訳が昭和40年代なかばであるため、今日では固有名詞はもちろん会話や叙述の一部に時流にそぐわない部分が目立ってしまい、読書の流れを刹那途絶えさせることが一度ならずあったからだ。まぁ仕方ない。これから『幻の女』を読む人は新訳版がやっぱり良いのかな。新刊書店で買えるしね。
 顧みて思うのはこの手の小説は細切れに読むものじゃぁないな。自身に則していえば、せめて帰りのみでなく行きの通勤電車のなかでじっくり読み耽ることができていたなら、と溜め息交じりに後悔している。◆

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第2611日目 〈A.Aミルン『赤い館の秘密』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 作者アラン・アレクザンダー・ミルンは初めてのミステリ小説『赤い館の秘密』を、ミステリ小説好きの父親を喜ばせんがために執筆した。父ジョンは私立学校の経営者であったが、標準的英国人らしくミステリ小説を日々の慰みのようにして、好んで読んでいたようだ。
 ジェームズ・ヒルトンのチップス先生も間借りする部屋へ置いた書棚のいちばん下の段に、廉価版のミステリ小説をぎっしり詰めこんでおり、ちょっとした隙間時間に好んで読んだという。おそらくはミルンの父君も同じように仕事と家庭の狭間の、独りに帰れる時間に読書へ没頭していたのだろう。
 『赤い館の秘密』の「献呈」に曰く、「長年お世話になったお返しに、せめてぼくにできることは、その推理小説をお父さんのために一作書くことでした。そして出来上がったのが、この作品です」(P9)と。
 父親を意識して書いたミステリ小説といえば、連城三紀彦が即座に思い出されるけれど、あちらがミステリの極北を目指してひたすら深化・純化していったのに反してミルンの方は、……
 『赤い館の秘密』はプロットもストーリーもキャラクターもトリックも、いずれを取り挙げても至極単純である。集英社文庫版に一文を寄せた赤川次郎は、犯人もトリックもすぐに見破れた、と述べているが、然り、犯人には最初から疑惑の目が向けられており、状況証拠や証言の数々から読者は早い段階で「たぶん/きっと、○○を殺害したのは○○だろう」と推理できる。
 トリックについても、睡魔等に惑わされて読み流したり、ちょっと退屈になってきたから読み流しちゃえ、なんて不届きな行為に走りさえしなければ、見破るのは容易だ。探偵やその相棒と共に行動して同じものを見、同じことを聞き、立ち止まってそれまでの収穫について検討を加え推理を巡らせ論理を組み立てるならば、かならずや疑惑が確信に変わり、事実であることが証明される瞬間の法悦を味わえることだろう。おためごかしの発言ではない。告白すればわたくしだって物語が半分ばかり進んだところで、犯人こいつだろう、動機はこれだろう、トリックはこんな風だろう、とわかってしまったのだ。
 斯様にミステリ小説としてはフンドシのゆるい『赤い館の秘密』だが、それが江湖の読者を意識して書かれた作品ではなく、専ら父親への想いが長編ミステリ小説を書くという意欲に先行して結実した作品であるのを思うと、黄金時代の傑作名作に比してやや見劣りがしてしまうのも宜なるかな、というところだろう。われらは本作を読むとき、そこに家族へ注ぐミルンのたっぷりな愛情を感じ取る必要があるのかもしれない。
 『赤い館の秘密』は上質のミステリである。が、それは謎解きの醍醐味やトリックのあざやかさ、緻密なプロットなどを取り挙げての惹句ではなく、本作に漂うユーモアや清潔さ、からっとした明るい雰囲気といった点を指してのものだ。英国人の心をくすぐるカントリーハウス物というところも、点を高くしている要素のひとつだろう。そのシンプルさ、そのひねりのなさ、その読みやすさが『赤い館の秘密』の魅力である。
 『赤い館の秘密』以後のミルンに、ミステリ小説を書き続けてゆく意欲/願望があったのか、或いは(如何なる理由にせよ)『赤い館の秘密』1作だけのつもりだったか、そのあたりは定かでない。しかしながらたった1作、しかもそのジャンルへのデビュー作でミステリ史に残るのみならずエポックメイキング的役割──素人探偵の創造、カントリーハウス物の原点、ユーモアミステリ/コージーミステリの見本、etc, etc──を果たした作品は、そう多くない。
 『赤い館の秘密』はそんな意味でも歴史と記憶に残るべき作品なのだが、もし本作に不幸があるとすれば作品それ自体にまつわることでなく、あの『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、という触れ込みで名を留めた可能性が多分にあることだ。果たして誰がそれを全面否定できようか? 『赤い館の秘密』を紹介する際いったいどれだけの人が、『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、と触れてまわったことか。疑われるならば、さぁどうぞ、グーグル先生へお訊ねになるがよい。
 どんな心づもりであったにせよ、このあとミルンは『四日間の不思議』というこれまた楽しい長編ミステリ小説を物し、幾つかの短編を残した。戯曲で腕を鳴らしたミルンのことだから、こちらの方面でもミステリ作品を書いて上演されれば斯界の評判も上々だったようである。これらのうち何作かは幸いなことに、日本語になっているので大型書店や公共図書館で手にすることが可能だ。
 ミステリの諸要素に瑕疵が目につく作品だけれど、却ってシンプルで読みやすいのも事実。まったく深刻さの影もない、ひたすらのんびりとした、<春風駘蕩>としか形容のない蕩けるような時間の流れる、綿菓子のように甘い口当たりの『赤い館の秘密』。海外ミステリ小説の入門にはぴったりな1作、このジャンルに読み疲れたときの口直しにオススメな1作である。つまり、素人にも玄人にも。◆

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第2610日目 〈スタバの裏呪文メニュー、「ちゃんみおスペシャル」に懸想する。〉 [日々の思い・独り言]

 「Starbucks Rewardsᵀᴹをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 現在お持ちのGold StarがReward eTicketと交換可能な150Starsに達しました。
 (中略)はじめてのカスタマイズを試したり、気になるFoodを楽しむなど、自分のぴったりの楽しみ方を見つけてみませんか?」
──こんなメールを受信したそのときであった、わたくしの野望がむくり、と頭を上げてほくそ笑んだのは。
 というのも……
 さる土曜日、台風12号が関東地方に最接近して「危ないから急用の人以外はぜったい外に出ないでねっ! 約束!!」と注意勧告が出されているのもわかっていながら、横浜一円に降雨はなく、空を見あげても雨雲がないどころか雲の切れ間から陽光すら射しこんでいたのを眺めて「平気だべ」と内心首肯、されど念のためと折り畳み傘が入っているのを確かめた。目指すは紅葉坂、だって本の返却日がその日までだったんだもん。
 赤い電車に乗って最寄り駅まで辿り着いた改札を出たわたくしの目に映ったのは、とんでもない土砂降り雨。弾丸と砲弾が飛び交い轟音炸裂、阿鼻叫喚の交差する戦場を目の当たりにした気分だった──と後日、わたくしは回想した──。
 凄まじかったのは雨音だけでは勿論、ない。道路に雨粒が叩きつけられたときに生まれるかの水煙、それは高さ人のくるぶし程度までしかないものの行く手をさえぎり前進を躊躇わせるにじゅうぶんな障壁──白く濁った壁というに他なかった。勇を鼓して歩道を歩く人はみな一様にたたらを踏み、荒れ狂う風に手にした傘を翻弄されてずぶ濡れに等しい姿となってなかなかな光景が駅改札前、庇の下で一歩踏み出すを恐れる人たちの前に広がっていたのだった。
 が、進むよりなかった。図書館へ行かねば、わたくしはならない。既に本ブログではお馴染みとなったかもしれぬ文句が、さぁ出番だ、とばかりにわが脳裏に響いて執拗に谺した……進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。
 雨が小降りになった瞬間を狙ってわたくしは傘を広げて街へ出た……それがきっかけであったかのように躊躇っていた人々も、それに続いた……数メートル歩いてふと顧みた駅の改札(その庇部分も含めて)、ああもしかすると古の都にあったという羅生門はこんな具合の建物だったのかもしれないな、となんて想起させられたのである。黒光りする駅改札の庇の陰から短い白髪をさかさまにして老婆がこちらを覗きこむ姿が見えそうな……そうしてわたくしの行方は、「誰も知らない」のだ。別に餓死をまぬがれんと引剥をしたわけじゃないけれどさ。
 さて、前置きはここまでだ。途中経過を省略して上述の野望まで話をすっ飛ばそう。ワープ!
 場所は変わって馬車道のスターバックス、わが籠もり場である。その窓際の丸テーブル席で気配を殺して坐り、濡れそぼった服を人目を避けて乾かしながら(脱いだわけじゃないよ!?)、雨粒が路地の向こう側のビルの壁を叩いて煙を上げる様を観察しつつ、リュックのなかが浸水して文庫本やモレスキンの手帳が水を吸っているのに悄然としているときだった。かのメールを受信して野望がむくり、と頭を上げて、にまり、とほくそ笑んだのは。
 と、ここで話は数日前に遡る(おい)。
 「面白いですよ」と同僚から奨められて、たまたまCSにてリピート放送中なのを発見した『日常』というアニメ。すっかりハマって会社から帰った深更、ビール片手に視聴するのが愉しみの一つとなった。
 『日常』とはあらいけいゐち原作のシュールな日常系ギャグマンガ、全10巻(KADOKAWA)。アニメ版は2011年4月から同年9月まで独立系UHF局にて放送された(全24話。別に全12話へ再編集された『日常 Eテレ版』もあり)。詳細についてはGoogle先生にお任せしよう。けっして責任放棄ではない。
 第2期第18話「日常の72」で主人公(の1人)長野原みおが相生祐子(ゆっこ)に誘われて、リニューアルオープンした「大工カフェ」へ寄り道する。そこはかつて街角の喫茶店「純喫茶 大工屋」であった。十字路の角に立地するゆえときどき登場人物たちが信号待ちをしている場面に映っている。
 この大工カフェは第16話「日常の64」に於いてゆっこがオーダーに苦しみ、店員とのやり取りに一々動揺、出されたドリンクを前に消沈して(「ちっちゃ……/ちょー苦げぇ……」)玉砕した、彼女にとっては因縁の場所。エスプレッソのショット、ドッピオを頼む流れは『日常』全体を通して(原作・アニメ共に)上位へ食いこむ爆笑回だ。そうなんだよね、とカフェでエスプレッソ初オーダーしたときの苦い体験を持つ身にはゆっこ挫折の回、同時に笑うに笑えぬものでもあったのだ。古傷が疼くどころではない、疼くそこへ超高濃度の塩をぐりぐり塗られている気分……。
 回は流れて第18話「日常の72」、ゆっこは親友を大工カフェに誘った。リヴェンジにして先輩風吹かせる好機だった──きっと彼女もオーダーに眼を回して四苦八苦するだろう、そうしたら自分が助け船を出してあわよくば尊敬の眼差しを承けよう、なんて目論みもあったろう。
 が、物事には常に想定外の因子が存在する。それを人は番狂わせとも、予想の右斜め上を行くともいう。絵的にいえば、あまりのびっくりに顎が外れることも往々にしてあり得るわけだ。
 その時は来た、みおがカウンターの前に立ち、店員を前にオーダーをするその時の訪れが。後ろに並ぶゆっこは早くもクスクス笑いをこらえられない様子だ。
 が、ゆっこの目論みも空しく、みおはためらうことなくつかえることなく、手慣れた風で、呪文ドリンクをオーダーした。曰く、「ホワイトチョコレートモカフラペチーノのグランデで。あっ、あとキャラメルソース、ヘーゼルナッツシロップ、チョコレートチップエキストラホイップの、エスプレッソショット一杯で」と。
 わたくしがゆっこだったらば、その瞬間プロコフィエフのバレエ曲《ロメオとジュリエット》から〈モンタギュー家とキャピトル家〉の勇ましい音楽が脳裏に再生されたことだろうなぁ、演奏はきっとクラウディオ・アバド=ベルリン・フィルで。
 みおのオーダーで察しのついた読者諸兄も居られようが大工カフェ、オーダーとメニューのモデルはあきらかにスターバックスである。
 スターバックスと来ればわたくし、みくらさんさんかだ。とはいえ恥ずかしげなく「ヘビーユーザーです」と胸を張れたのはいまや昔、本ブログが<聖書読書ブログ>として機能していた時分のこと。いや、ただほぼ毎日通っていたから斯く自称していただけなんですけれど、ね。聖書を読む場所原稿を書く場所を求めて流離い、彷徨して辿り着く先はいつだって海あるふるさとの街、もしくは異動して多摩川を越えるようになって以後は帝都のあちこちに点在するスターバックスだったのだ。坐るところがなくてたまに、更なる流離いを重ねて別の店に腰落ち着かせたこともあったけれど、それはまぁしょうがない。
 そのときかならず呑んでいたのはドリップコーヒー、ホットのトール、マグカップで、そこから浮気したのは片手の指を折って足りる程度しかない。それゆえもあろう、長野原みお嬢が立て板に水の如く呪文オーダーしたようなカスタマイズメニューのできる人に一種、憧れに似たような想いを抱いていたのは。が、それはあくまで<憧れ>に過ぎず実行に移すだけの理由はまったく持てずにいたのだった。
 そんなわけで、残念ながらみおちゃんオーダーの呪文ドリンクを賞味したことは、いちどもない。いつの日か……と思えどそんな日が来ることはない、と心の片隅で理解していた。決められたレールから外れて生きる、その勇気も決断力もなにもないのだ。あるとすれば不安と、外れることを否むために準備された詭辯だけ。
 でも、遅かれ早かれ自分でオーダーする瞬間の訪れが、実現の兆しが、唐突に、かの台風12号の猛威に負けず(いや、事実上負けたに等しいけれど、ここはまぁ言葉の綾という奴だ)到着した懐かしき馬車道はスターバックスの窓外を臨む丸テーブル席に在った夕刻、訪れたのだった。どこに? わたくしのスマホに、メールソフトに。それが、──
 「Starbucks Rewardsᵀᴹをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 現在お持ちのGold StarがReward eTicketと交換可能な150Starsに達しました。
 (中略)はじめてのカスタマイズを試したり、気になるFoodを楽しむなど、自分のぴったりの楽しみ方を見つけてみませんか?」
 (斯くしてお話はここでようやく振り出しに戻る)
 ここで特に重要なのは、「はじめてのカスタマイズを試したり」云々という件。読んだ途端に思いついたのが、ご想像の通りで誤りはない、そう、みおちゃんが頼んだかの呪文メニューを試むことだったのだ。
 聞くところによればJR秋葉原駅に併設される、幾つかのアニメやライトノベルなどに登場する駅ビル内のスタバ──スターバックスコーヒー アトレ秋葉原1店(JR総武線各駅停車千葉方面ホームを窓越しに眺められるカウンター席が、わたくしのお気に入りだ!)ではかつて上記のオーダーが、<ちゃんみおスペシャル>と称して用意されていた由。
 噂の域を出ないけれど、客が「ホワイトチョコレートモカフラペチーノのグランデで。あっあと追加でキャラメルソースヘーゼルナッツシロップチョコレートチップエキストラホイップのエスプレッソショット一杯で」と噛まないように、されど間違わずに注文できたという達成感と共にいい終わるや、「ちゃんみお、入りまーす」と簡略化されたオーダーが入るのだそうだ。がんばって最後までいえた喜びも達成感も、すべてをぶっ潰す無上な一言といえよう。
 これも噂でしかないが、オーダーの際舌を噛みそうな呪文はすっ飛ばして、単に「ちゃんみおスペシャルください」といえばちゃんと通じて、数分後にはカウンター横の赤いランプの下から「ほらよ」とばかりに渡される……らしい。また、透明カップには可愛らしいイラストと一緒に、「ちゃんみおスペシャル」の文字が躍っていたと聞く。
 なんともうらやましく、ほほえましい光景ではないか。そんな現場に遭遇したら、たといちかごろちとやさぐれ気味なわたくしでも目尻をさげて、頬をゆるめて見入ってしまうよ。
 でも「ちゃんみおスペシャル」の価格は約700円、総カロリー数は約600キロカロリー──価格はともかくカロリーについてはなかなか覚悟のいるドリンクだね(経年ゆえにいまはもう「ちゃんみおスペシャル」なる通り名も、すぐには通用しなくなっているようだ)。オーダー直前、レジの前で糖尿病とかメタボとか、そんな気掛かりな言葉と心のなかで戦う人もあると思うのだが……あ、おいらもか。◆

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第2609日目 〈更新できなくてごめんなさい、の挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 先日の火曜日は更新を怠ってしまい、申し訳ありませんでした。業務の引き継ぎが集中して疲労困憊、またその後も仕事が多忙を極めたのを良いことに、お詫びの原稿を書くことすら先延ばしにしてしまっていました。
 本日は「ごめんなさい」というだけに留めます。
 けれど来週火曜日──7日になるのかな──以後はこれまでと同じように週一のペースで更新してゆきますので、どうぞよろしくお願いいたします。既に向こう2ヶ月分の原稿は用意できております。あとは予約更新さえちゃんと設定していれば問題なくお披露目もかなうことでしょう。
 事前予告になりますが、次回のエッセイは長いです。400字詰め原稿用紙に換算して約9.5枚ぐらい……。内容は、まぁいつも通りです(横溝正史の感想文に戻るのは今月末か来月下旬かしら?)。
 本当は08月03日(金)に更新できたら良かったんだけれど……それがなんの日かすぐに思い当たる方はそんなにいないだろうな。まぁ太陽の如き人の生誕日である、とだけ、小声でお伝えしておきましょう。
 それでは今日はこの辺で。ちゃお!◆

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第2608日目 〈中弛みして息切れしているいま、為すべきことは果たしてなにか?〉 [日々の思い・独り言]

 ……横溝正史の感想文だと思った? 残念、今日はそうではない。期待を裏切り申し訳ないが。
 既に書いた記憶もあるがもう一度。わたくしは昨年末からずっと横溝正史ばかり読み耽ってきた。飽きることなく退屈すること(ほぼ)なく次から次へと、1冊が終わるや翌日から新たな1冊に乗り換えて、息つく間もなく、胸をワクワクドキドキさせながら、金田一耕助の活躍に心躍らせてきた……のだが。
 包み隠さずいってしまうと、この2ヶ月弱というもの息切れがしてきて、困っている。「困っている」というても、横溝作品の読書断念を指すのではない(※1)。中弛みしているのを承知のまま読書を続けてゆく危険を感知し、その打開策にあれこれ頭を悩ませているうち、酸素欠乏に陥ってしまうた、という次第。いやはやなんとも。
 なんとなくでもお察しいただけるとうれしいのだが、まだ金田一耕助物のみながら横溝ワールドにどっぷりハマったわたくし、みくらさんさんかは由利先生物はもちろんノンシリーズ作品、人形佐七に代表される一連の<捕物帖>諸作まで、たとい何年を費やそうと生ある限り読んでゆきたいのだ。
 ──そのために、
 質問)中弛みして息切れしているいま、為すべきことはなにか?
 解答)リフレッシュあるのみ!
 身もふたもないQ&Aだろうか。が、これ以上の真理が果たしてあるだろうか……?
 では横溝正史から一旦離れて息抜き/息継ぎに読むのは、なにが良いだろう。酷暑に白旗を掲揚して活動停止を訴える灰色の脳細胞をなだめ、おだてて、息抜き読書に取り挙げる作品の条件を検討し、条件を満たす作品の選別を行った……腕組みして天を仰ぎ、うむむ、と眉間へ皺を寄せ。
 家にいるときも、散歩に出ているときも、電車のなかにいるときも、会社で仕事をしているときも、ビールを飲んでいるときも……健やかなる我はわずかな時間もむだにすることなく考えに耽ったのだ。あらおかしいね、お暇な御仁ね、まじめが聞いて呆れらぁ、オッペケペッポーペッポッポー。
 やがて整えられた条件は本当にささいなもので、──
 1:数日、精々が7日程度で読了できること
 2:ミステリ小説であること
 3:深刻な内容でなく、読書の愉悦を味わえること
 4:どんなに面白かろうと深追いはしないで済むこと
 【4】については説明が必要か。要するに、過去の反省を踏まえたのだ。本道は誰かといえばもちろん横溝正史である、今回はあくまで息抜き/中休みに過ぎぬ。然り、浮気はいけない。わたくしだって学習する、ただ継続的実行が伴わないだけの話。呵々。……ゆえに【4】を加えた次第。
 では次に、作品の選定。やはり頭をぐるんぐるんさせながら候補を思い浮かべては棄却して、を繰り返しているうち消去法に頼らざるを得なくなり、ついに勇断をくだして「これ!」と決めた作品は、──
 A.A.ミルン『赤い館の秘密』
 架蔵している集英社文庫で、翻訳は柴田都志子。<乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10>の1冊だ。創元推理文庫版に手を出さなかったのは、架蔵していないことと訳文が好みでないこと、この2点に起因する。結果として、集英社文庫版を(ずいぶんと前のことだが)購入しておいて良かったな、と思うている。それは即ち処分しないで良かったな、と同義だ。
 そうして横溝正史は短編集『花園の悪魔』(角川文庫)読了を以てまず最初の一区切りとし、いまは上述した『赤い館の秘密』をゆっくり読み進めている……
 といえればよいのだが、もうミルンは5日ほど前に読み終えており、いまはすっかり横溝に戻っている──わけがない。1冊ばかしで息抜きになろうはずもない。
 ミルンに続く作品は流石にちと悩んだが、やや趣を異にする作品を読みたいな、と思うていたので、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワミステリ/旧訳)をチョイス。昨日の通勤電車のなかで読み始めた。
 そのうち、横溝では『花園の悪魔』と『不死蝶』の感想を認め(前者は作品単位でなく1冊まとめての感想となろう)、或いはミルン書くコージーミステリの感想を綴るけれど、それらが本ブログにてお披露目される日の訪れを読者諸兄にはどうぞお待ちいただきたい。
 アディオス、サンキー・サイ。◆

※1 じつは角川文庫で刊行された全点のうち1/3程度を読了しているのに気づいたわたくしは、クリスティや太宰という中断の前例があるのをすっかり忘れて、横溝正史作品を可能な限り読破するという無謀な企みを抱いてしまったのだ。□

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第2607日目 〈横溝正史『びっくり箱殺人事件』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 かつて平井呈一はアーサー・マッケンの佳編『生活の断片』を最初に読んだとき、なんだか勝手が違うと感じて部屋の隅に抛ったが或るとき改めてページを繰ってみたら「こんなすごい作品があったのか!?」と驚嘆、評価を一八〇度転じて握玩の一作となった旨、著作集の解説で披瀝している。
 わたくしもちかごろこのような経験を持った。横溝正史『びっくり箱殺人事件』がそれである。最初は「かったるいもの読んだぁ」と、疲労の吐息まじりに本を閉じたのだが、このたび改めて感想の筆を執るに及んで再読してみたら当初の感慨は吹き飛んで、あとには「異色ながら愛すべき佳編」てふ思いが強く残ったことである。
 大衆芸能の地口を思わせる地の文を魅力に思うのみならず、一筋縄ではとうていゆかぬ登場人物の駄弁雄弁ぶりに以前は辟易したが、いまでは両手を挙げて歓迎だ。
 どうして最初はダメで次は良かったのか、その転換するきっかけはなんだったか──これはもう話は単純で、最初はいままで読んできた金田一耕助物とは著しく異なる勝手にとまどい、次はそれに馴れたからに過ぎない。いちどは最後まで読んでしまっているから、物語の全体が把握できていたという安心感も手伝っていたことだろう。
 殊程然様に本作は、おそらく横溝正史の全著作中でも異色の一作なのではないか。たしかにそれまで読んだ作品でもたびたび、くすり、と思わず吹き出してしまう描写はあったが、それはあくまでシリアスなストーリーのなかに練りこまれた隠し味、或いは一時的な緊張緩和の施策に等しい。
 『びっくり箱殺人事件』が異色なのはプロット、トリック、アリバイ、小道具、動機など<本格ミステリ>の結構を整えているに加えて、この「くすり、とさせられる箇所」を作品全体に広げた結果、<本格>と<ユーモア>が絶妙なバランスで調和した点にある。
 これを奇跡の所産というと、一笑に付されるだろうか。その<ユーモア>が全体を彩っているのが本作に<コージーミステリ>の衣をかぶせている要因だろう、と書けば、もはや失笑レヴェルだろうか……?
 『びっくり箱殺人事件』なる作品あるがゆえに、おそらくその作者を<ユーモア>とか<コージーミステリ>という方面から捉えているのだろうが、わたくしは元より英国産ミステリのファンだからこうしたコージーミステリは大歓迎なのだが、まさか横溝正史の小説を読みすすめてゆく過程でその種の作品に出合えるなんて思いもよらなかったよ。
 本作には幾つもの要チェックな箇所が登場するけれど、ときどき作者が顔を出して物語の進行を促す、その筆捌きもその一つといえるだろう。たとえば、──
 「だが、こんなふうに書いていると、いつまでたってもこの小説は終わらんというオソレがある。なにしろ幽谷先生をはじめとして、駄弁家ぞろいの一党のことだから、いつ何時誰がまたよけいな口出しをして、いよいよますますこの小説を、長からしめる結果にならぬとも限らぬので、暫くかれら一党をことごとく黙殺して」(P76)云々
──など作品全体を損なう結果になりかねぬ、作者という全知全能の神が作品に介入する技術も、ストーリーテラー横溝の手に掛かれば斯様に物語の流れを妨げることなく作中へ埋めこむことができるイコール物語に没入している読者をふと現実に戻してしまう愚を犯さずに済む、というお手本といえるだろう。
 なにしろ『びっくり箱殺人事件』には一筋縄ではいかないような人物が勢揃いし、それぞれ機あらばその場の主役をかっさらうぐらいの勢いで喋り、動いてくれるのだ。とすると、神なる作者による介入は物語を破綻なく滞りなく運行するための、「冴えたやり方」であったか。
 ところで横溝正史は登場人物を指して、こんなふうにやや呆れ顔で、しかし愛情たっぷりに書いている、──
 「まことに春風駘蕩たるものである。幽谷先生の楽屋に集まった怪物団諸公の話しぶりを聞いていると、今宵ここで殺人事件があったなどとはとても思えない。常日頃、こういう世界に馴れている恭子さんだったが、このときばかりは呆れかえってしばらく言葉も出なかった」(P121)
 ああ、この登場人物の自由闊達ぶり、かれらのかもすのどかな空気! 良質のミステリに欠くべからざる余裕と稚気に満ちみちた本作にあって、それは潤滑剤であると同時にトリック解明の鍵でもある。
 安楽椅子へ坐ってコーヒーとドーナツを口にしながら読むにうってつけな、横溝正史版<コージーミステリ>『びっくり箱殺人事件』と出合えた幸福に、感謝。そうして感想文書きという目的があったとはいえ再読の機会が与えられたことにも、感謝。その一方で本作に金田一耕助が登場するはおろか名前だに出されぬ理由も、なんとなく理解できる──、ひとこと、そぐわないよね。
 『びっくり箱殺人事件』を読むにいちばんオススメなのは、読書のためのみの時間がたっぷり取れる日、なにものにも邪魔されないけれど適度に生活音のある環境に身を置くことだ。読書の酩酊を味わうに申し分ない環境を作り出すのは至難の業かもしれないけれど、実現すればそれは贅沢で豊潤な読書経験をもたらしてくれるに相違ない。
 ──自分の反省と経験を踏まえて、上述の如く意見具申させていただく。ちなみにわたくしが読み直したのは、京浜急行本線〜都営浅草線〜京成本線に揺られる約3時間強の遠出に於いてであった。◆

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第2606日目 〈横溝正史「堕ちたる天女」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 トラックの荷台から落ちた石膏像のなかから美女の死体が! 淋しい場所にある謎めくアトリエでは妖しき犯罪がうごめいている! ……まるで乱歩だ、『地獄の道化師』だ……。そんな連想の働くのもやむない横溝正史「堕ちたる天女」が、本日の感想文の俎上に上せられた作品である。
 交通量の多い交差点での荷物の落下事故から、本編は幕を開ける。果たしてその荷物はトラックの借り主たる彫刻家が造った石膏像で、その女像の芯となっていたのは浅草のストリップ劇場のトップスター、リリー木下だった。彼女は筋金入りのレズビアンと評判で、愛する相手もある身だったがちかごろは異性によろめき、かつての愛人とはすっかりご無沙汰であるという。捜査に乗り出した等々力警部にくっついて金田一耕助もかかわってくるが、やがて事件は同性愛者の愛苦を背景にした保険金絡みのそれに変貌してゆくのだった……。
 寡聞にしてわたくしは横溝正史に同性愛者を主要登場人物に据えた作品のあることを知らない。が、すくなくともこれまで読んできた20数編のなかに斯様な人物は見当たらなかったと記憶する。むろん、古今東西、文学に現れたる同性愛は男女問わず多くあり続けて、いまもやや趣を変えて生み出されているが、たとえば近代文学に目を向ければ未だ知られざる山崎俊夫がいるし、横溝と同じミステリ作家では江戸川乱歩という先達があった。
 ただ、やはり時代を感じさせるのは、犯人として終始疑われてなかなか網に掛からぬ杉浦陽太郎がホモになった経緯だ。戦時中、杉浦は戦地で上官や朋輩の慰み者にされ、結果、復員して後も男相手にしか性愛の情欲の抱けぬ心身となってしまった。こうした戦場での異常体験は帰還兵が多く報告乃至証言を残しているが、作中ではこのような性癖を「ソドミア」と呼んでいる。いまは死語だがかつては蔑みと差別の言葉であったのだ。
 今日のようにその性癖が江湖に知られ、国によっては同性婚さえ認められるようになった時代であれば、リリー木下も杉浦陽太郎も救われたことであったろうに、と21世紀の世界の寛容を顧みて思うのである。
 ──杉浦のこうした性癖を更に哀しくさせているのは、真犯人によって巧みにそれを利用され、濡れ衣を着せられた挙げ句、殺されて人目につくこと稀な所へ棄てられたことだろう。同性愛が世間の理解を得られぬ、蛇蝎の如く厭われていたような時代、その性癖を知られることはおそらくいま以上に悲劇的かつ絶望的、見えない檻に囚われて一切の希望も自由も失われたに等しいことだったかも知れない。
 同性愛という要素をかりに取り払ったとしても杉浦と真犯人の力関係を思うとき、嗚呼、組織てふ透明の檻に囲まれて唯々諾々と日々を過ごす一人であるゆえにわたくしはそれを、訴えるに訴えられぬ類のパワー・ハラスメントに置き換えてしまうのだ。そうして瞳が潤み、憤りのようなものが腹の底で生まれるのを禁じ得ぬのである……。
 長口舌を揮うたが、なにも杉浦に限ったことではない、第一の被害者であるリリー木下も同じで彼女もまた愛を信じた相手に裏切られて殺されたのである。永い春がもたらしたマンネリな関係に刺激を与えてみましょうよ、なんて愛人の提案が、まさか自分を死に至らしめる周到かつ狡猾な罠だったとは知る由もなく。男装した相手を新たな恋人と周囲に吹聴して、これまで経験したことがないような日々の終わりに待つのが自分の殺人計画であるとは、露とも知らず、彼女は愛に生き、愛に殺された。
 然り、真犯人は共謀して哀しき同性愛者を脅し、騙し、欲望成就のマリオネットとしか扱わなかった卑劣漢である。かれらはリリー木下を殺して彼女に掛けられていた保険金をせしめ、口封じに杉浦のみならず2人の女性までも毒牙に掛けてその命を奪った。過去に犯した保険金殺人だけでは満足できないお金に飢えたかれらは、戦争を挟んで此度もまた同じような殺人事件を計画して実行した。その非道ぶり、その冷酷残忍なる様、作中結びの一章にて金田一耕助が、「鬼畜も三舎を避ける」(P357)と評し、終いには「ぼく……ぼく……こんな凶悪な犯罪のカップル、見たことがない。あいつらは悪事を享楽しているんです。気持ちが悪い。吐きそうです」(P357)とまで言い捨てるのだ。こんな名探偵、珍しい。
 かれらの失敗はそこに金田一耕助がいたこと、それに尽きよう。金田一あったればこそ戦前に岡山県であったお宮入りした保険金殺人とのつながりが見え、一挙に2つの事件が落着するに至ったわけだから。これがどういうことかといえば、本作に於いて東の等々力警部と西の磯川警部が初共演し、がっちり握手を交わすのである。
 同性愛を物語の核に持ってきたこと、扱う事件が21世紀の今日も折節報道される保険金殺人であることのみならず、金田一がそんな仮借ない台詞を吐いたという一事だけでも「堕ちたる天女」は、これからも読み継がれてゆくに足る佳編と結論してよいだろう。
 初出は『面白倶楽部』(光文社)昭和29/1954年6月号。◆

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第2605日目 〈横溝正史「貸しボート十三号」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 以前はミステリ小説を読みながら「犯人当て」に挑んだものだった。それが最高潮に達していたのはちょうど1年前だが、ちかごろはそんな意欲もまるでなく、物語に心をゆだねるだけでじゅうぶんと思うている。
 探偵がトリックやアリバイ崩しに能弁垂らすのを傾聴し、犯人を指摘する件りに「ほう」と多少の驚きを表明し、大団円を迎えた物語に満足を覚えて本を閉じる……この間の気持ちをかんたんに述べるなら、「そのうち探偵が真相に気附いて犯人を名指しし、トリックやらなにやらについて解説してくれるンだろうな」と……或る意味、ミステリの読者としていちばん理想的かついちばんお呼びでない読者であるやもしれぬ。
 その代わり、というのでは勿論ないが、この頃ずっと読み耽っている横溝正史については「探偵小説の醍醐味を味わう」というより作中に描かれた時代風俗や地理に興味を惹かれることがたびたびで。たとえば此度の「貸しボート十三号」も然りで、隅田川にまつわる幾つかの関心に囚われて、作品の感想等とそれらを同居させるのに頭を悩ませていたのだが、もうこうなっては開き直って今回は、作品よりもそちらの話題に終始させていただこう。えっへん。
 ──というておきながらさっそく私事になるのだが、現在わたくしは本作と非常に縁ある土地へ仕事に来ている。そのビルからはちょうど首都高速都心環状線を見おろすことができる。関東大震災で甚大な被害を被った東京市の復興──そのシンボルとして立案されたプランの1つが「震災復興橋梁」である。大正期という時代性を反映してか、そのデザインや様式は今日でも新しさを感じさせるが、残念ながら今日では姿を消した橋梁が多く、往年を偲ぶのは難しい。戦災復興と高度経済成長を承けて河川が埋め立てられ、同時に空襲による被災を免れた橋梁も撤去・解体が行われたからである。
 が、幸いなことに21世紀のいまも往年の姿を留める橋梁は現存している。そのうちの1つがビルから見おろす都心環状線に掛かる采女橋や万年橋だ。かつて築地一帯には堀割が縦横に走ってそこに水の流れがあったこと、時が経て<再開発>の名の下に埋め立てられて道路に変貌したこと、それらを知る端緒が横溝正史の「貸しボート十三号」だったのだ。
 なお本作は、これもいまは姿を消した汐留川の貸しボート場からそこまで舵を漕いできたアベックが、浜離宮恩賜公園の沖合で漂うボートの上に生首が半分切られた男女の死体を発見する場面から始まる。このボートが所轄の築地書へ曳航されるルートを、すこしばかり省略されていると雖も既述されているので、ここにそれを書き写しておきたい。曰く件のボートは浜離宮恩賜公園沖から隅田川水域に入るとすぐに築地川東支川へ折れ、現在の築地市場内にあった海幸橋をくぐり、そのまま遡上して市場橋、北門橋、采女橋を頭上に見あげ、築地川奔流にぶつかると右手に舳先を向けて万年橋、祝橋の下を通って川縁の築地書に曳航された。
 今日、本作で描かれた東京の景観は殆ど失われてしまった。「貸しボート十三号」が執筆されたのは折しもモータリゼーションの黎明期、古き都の面影が駆逐されてゆくのは避けられぬ時代を迎えつつあったのだ。
 未来へ前進するには過去を埋葬する行為が、どうしても伴ってしまう。だがしかし……と、そんなディレムマを抱えながら、横溝正史がこの短編を発表した昔と同じ雄姿を構える2径アーチ石造り橋梁の采女橋や万年橋にたたずみ、眼下の都心環状線を見おろして途切れることなく行き交う車の列を、或いはふと視線をあげた先にあるビル群の向こうに見える東京スカイツリーを眺めていると、時代遅れのノスタルジーに苦笑しつつも豊かになるのと引き替えになくしてしまった<なにか>に心がチクリ、と痛むのである。
 そうしてそんな思いを心の隅で弄びながら、いまの自分が最も親しみと愛着を感じる東銀座・築地界隈の様子を横溝正史が書き留めてくれたことに感謝し、金田一耕助と等々力警部がこの地を振り出しにして捜査に東奔西走した事件のあったことを忘れられずにいるのだ。◆

 追記
 咨、紙幅が限られているとは話題を絞らざるを得ぬことを意味する。つまり書き足りないことがまだまだあるのだ、この「貸しボート十三号」には。ライスカレーが無性に食べたくなったことや珍しく青春小説の趣を兼ね備えた作品であること、或いは浜離宮恩賜公園と東京湾を隔てる2つの水門の話や事件現場から死体発見地点までのルートの疑問、エトセトラエトセトラ……あれやこれやと……。
 でも、これは別稿として後日、好き勝手お喋りさせていただくこう。では、ちゃお!□

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第2604日目 〈横溝正史「湖泥」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 五木寛之の『古寺巡礼・奈良編』を読む手が止まった。「唐招提寺」の章、その一節にふと去来するものを感じたのだ。その節に曰く、「(敗戦後、大陸から引き揚げてくると)こんどは「引揚者」という肩書きがついた。一転して、祖国の人たちから「引揚者」として差別されるような立場になったのである」(P111)と。
 この思いがはたして、五木寛之の感受性がもたらしたものか、当時の内地民の多くが抱いていたものか、知る由もないけれど、そのときわたくしの手を止めたのは刹那の間、数日前に読んだ横溝正史「湖泥」の犯人が五木と同じく引揚者で、かつ落ち着いた先で虐げられる存在だったからだ。
 虐げられていた、とは、ここでは迫害や村八分を意味するのでない。いみじくも金田一耕助がかれを評したように<インヴィジブル・マン>、即ち<見えて見えざる人>として、虐げられていた、というのである。体はたしかにそこにあるのに、コミュニティの一員と見なされていない。なにか事が起こらぬ限り、誰もかれの存在を気に留めないし、その動向に注意を払わない。現実に体験したら地獄だけれど、殊探偵小説に於いては、犯人役の人物に願ったり叶ったりの立場であろう。
 犯人はその立場を巧みに利用した。村人からは無能白痴と思われていたようだけれど、とんでもない。実に周到、狡猾で、自分を<見えて見えざる人>扱いした村人への復讐を果たしてゆく。が、その犯行の根っこには病で苦しむ妻を見殺しにした村人たちへの怨みつらみがあった。
 満州から引き揚げて村へ漂着したとき、かれの妻は梅毒に冒されていた。村人からは忌避され、医者からは診察を拒まれた。やがて妻は逝った。その恨み忘れ難く、時経るに従いますます憎しみは募る。いつの日か……、と思い思いしていたところに同じ引き揚げ者で、いまは村長夫人となった女の不義を知るとそれを利用して、積年の恨みを晴らさんと手を血に染めた。旧習と因縁に魂を囚われた閉鎖的な共同体に、図らずも紛れこんでしまった<異類>による復讐劇がこの「湖泥」なのだ。
 その背景を思うてぞっとさせられるのは村人の、犯人への接し方だろう。村八分ならまだマシだ。しかしながら村人は、あたかもかれを生殺しとするかの如く接してきた。すれ違えば声は掛けるし、事件があった際も証人として遇し、隣村の祭りで会えば酒を飲むような間柄なのだ。にもかかわらず──<引揚者である=土着民ではない>ことからたぶん、村人は自分でもそれと意識しないまま、犯人を引揚者として差別していたんじゃないのかな……。

 「湖泥」は、およそ多くの人が金田一耕助の探偵譚に抱くイメージをずらり揃えた作品だ。都会から離れた地方の僻村を舞台とし、そこには旧習と因縁に魂を囚われた人々が生活し、村を代表する2つの旧家がいがみあっており、それが高じて陰惨な連続殺人が勃発する、という、そんなイメージ──。
 が、短編という性格上こちらの方がより濃密に、それらの要素が凝縮されていて読み応えがある。地方物では一頭地を抜く仕上がりを誇る一方で、田舎で起こる犯罪について磯川警部と金田一耕助、それぞれの台詞がとても印象に残る短編。蛇足を承知で、最後にそれを引けば、──
 「(田舎は)何代も何代もおなじ場所に定着しているから、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまもなおヴィヴィッドに生きている。いや、当人同士は忘れようとしても、周囲のもんが忘れさせないんですな。話題の少ない田舎では、ちょっとした事件でも、伝説としてながく語りつがれる」(P6 / 磯川警部)
 「(都会よりも田舎の方が、或る種の犯罪の危険性をずっと多く内蔵している、という警部の発言を承けて)……実際、そのとおりなんですよ。しかし、それはあくまで内蔵しているだけであって、ある種の刺激がなければ、こんどのような陰惨な事件となって爆発しなかったろうと思うんです。では、その刺激とはなにか……やはり都会人の狡知ですね。(中略)だからぼくのいいたいのは、農村へ都会のかすがはいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね」(P107-8/ 金田一耕助)◆

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第2603日目 〈メタボは敵だ! ──文章の長ったらしいことについての短な反省。〉 [日々の思い・独り言]

 読者諸兄皆さまへ、謹んで申しあげたい。
 公開の数日後、第2602日目を読んでみてわれながら「ちと長くなりすぎたわい(テヘペロ)」と深く、真摯に反省すること頻りである。
 ゆえ以後はかつてのように──聖書読書ブログであった当時のように……「え?」とかいうな──、400字詰め原稿用紙4〜5枚程度を目処とした分量で、すくなくとも読書感想文に関しては綴ってゆくことにした。
 原点回帰? まぁ言葉が立派に過ぎるけど、うん、そ、そんなところだ……ね。
 既に続く第2604日目はダイエットにダイエットを重ねて、それでも未だ肉付きの良すぎる部分なきしにもあらずだけれど、上述の分量に留めることができた(安堵!)。
 然り、書けばいい、というものではない。メタボは「敵」である。◆

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第2602日目 〈横溝正史「トランプ台上の首」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 きっと、と思うのである。CSにて古谷一行の<名探偵・金田一耕助シリーズ>全32作が放送されなければ、そうしてそれを録画・視聴していなければ、「トランプ台上の首」なる作品が横溝正史にあるのを知るのはもっとずっと先のことであったろう。加えて視聴前に「黒猫亭事件」を読んでいなければ、ドラマ『トランプ台上の首』を観て引っ繰り返ることもなかったであろう。
 余計なことをいわせていただければ『トランプ台上の首』は同名短編の映像化ではない。<名探偵・金田一耕助シリーズ>の第28作『トランプ台上の首』は実質「黒猫亭事件」のドラマ化である。どこにも「トランプ台上の首」の要素がない、とまではいわないが……まぁ正直なところ、この短編と「黒猫亭事件」を合わせて1本の映像作品に仕立てる必要はあったのかな、と小首を傾げ続けているのだ。ドラマはドラマで面白かったんだけれどね。
 それでは気を取り直して、──
 岡本綺堂が小説や随筆で江戸の風俗を活写し、永井荷風がやはり小説や随筆で浅草や東京の景観を録したと同じように、横溝正史も東京を舞台にした探偵小説で街並みや風俗を描いて戦後復興期の様子を今日に伝えている。
 「トランプ台上の首」に限った話ではない。やがて感想をお披露目するであろう「貸しボート13号」に於いてわれらは東銀座周辺の首都高速湾岸線がかつて築地川の本流であり、湾岸線に今日も掛かる采女橋から築地市場方面へ向かう道路はその支流で、各所に掛けられていた橋の名残が交差点の名称に留められているなど、横溝正史の小説を読まずしてどうして調べたりする気になったであろうか。探偵小説は時代を映し出す鏡でもあるのだ。それはおそらくジャンル小説ならではの特徴だろうが、それは後日の話題とし、いまは「トランプ台上の首」に戻ろう。
 ──「トランプ台上の首」を読み始めるやわれらは、あたかもタイムスリップしたかのような思いに陥る。それが錯覚であるとわかると今度は戦後間もない隅田川上にかつて水上総菜売りなる商売があったことに「ほう」とし、多くの常連顧客とそこそこの儲けがあることに「へえ」と感心させられることだろう。
 勿論この商売、横溝正史の創作ではなく江戸時代からあった商売の末裔というてよく、敗戦の痛手から立ち直って高度経済成長期に突入した頃まで隅田川にいた水上生活者相手の物売り稼業で、宇野の場合、水上生活者のみならず川縁に住む人たちにまで顧客を持っていた。
 この宇野宇之助、当初は当たり前の総菜を積んで売り歩いて(?)いたが、事件現場となったマンションの女性たちから「今風の物も売らなきゃ駄目よ」、「もっと身だしなみに気を遣わなくちゃ駄目よ」と教育されて以後、扱う総菜はひじきに油揚げ、里芋の煮ころがしやうずら豆の甘辛煮といった昔ながらのものに加えてオムレツやトンカツ、コロッケなど洋風のおかずが加わり、装いも印半纏に捻り鉢巻きから清潔な割烹着にコック帽、と小洒落たものへ変貌した。ちなみに船も和船からモーターボートに代わった……。
 戦後復興期の職業事情という切り口から「トランプ台上の首」を読んでみると、またちょっと違った楽しみ方ができるかも知れない。
 昭和30年代、既に夫婦共働きの世帯が普通になってきており、食事の支度もままならぬぐらいに忙しい日々を送っているというのは即ち、日本が高度経済成長期に突入しており神武景気が一段落して間もなく岩戸景気を迎えんとしていた時代の物語であることを、われらに伝えてくれる。また、件のマンションに住む独身女性のなかにはいわゆる<二号さん>がちらほら見受けられて、しかも稼ぎが相応に良いことに触れて昭和32/1957年4月に施工された売春防止法(作中では「売春取締法」)の適用の難しさを指摘していたりもする(いずれもP178)。
 ちなみに最初の被害者(と目される)女性はストリッパーを生業とし、そのパトロンは表向き自動車のブローカーだが実際はヘロインなど麻薬の密輸を専らとする人物(P207-8,247,288)であった……。
 第一の被害者の殺害現場となった今戸河岸(隅田川縁で今戸神社を擁し、現在は台東区リバーサイドスポーツセンターがあり、桜橋水上バス乗り場がある、桜橋で対岸と結ばれている。ここをすこしく下流へ行くと、東京大空襲戦災犠牲者追悼碑や言問橋、東武線浅草駅がある)にあるガレージの地下室だが、そこの「コンクリートの壁が、せんだっての地震のとき、一間ほどくずれおちた」ために犯人は自ら補修を買って出て壁から「床まできれいに塗りなおした」(P303)と金田一耕助は指摘した(一間は約1.82メートル)。
 この地震とは、小説内時間から推測すると昭和32/1957年11月10日未明に発生した伊豆諸島は新島近海の群発地震をいうていると考えられる。新島の南沖約5キロの地点を震央とする、震源の深さ13キロ、マグニチュード6.2の地震であった。数日前から活動は活発であったがこの日、遂にそれは頂点に達して、近くの式根島では未明の本震の際、全半壊した家屋が合計4棟、石垣が崩れたり亀裂が走ったりなどの被害が50箇所近い場所で生じた由。また、崖崩れも2箇所で報告されている。なお、千葉県勝浦町では震度3、隅田川河口付近を含む東京は震度2の揺れが観測されたという。
 さて。この震度2、じっとしている状態であれば人体でもじゅうぶん認められるものだが、では果たしてその程度の揺れでガレージの壁が一間ばかしとはいえ崩れたりするものだろうか。元不動産屋のみくらさんさんかは、少しく小首を傾げつつこの点を考えてみた。
 東京大空襲の際、隅田川一帯は一面が焼け野原になって建物などなにも残らなかったような印象をどうしても抱くのだが、実際は一部の建築物は被害の程度は別にして焼夷弾の雨を逃れて焼け残ったようである。写真で確認できるのは東武線浅草駅の入る松屋や雷門前の仲見世などであるが、もしかすると殺害現場となった建物もこうした空襲を免れた建築物の1つであったのかもしれない。
 とはいえ空襲に伴う火災こそ避けられてもその衝撃と無関係でいられたとは思えない。爆弾破裂の衝撃を吸収し続けた結果、コンクリートが脆くなってかの地震に於いて一部が剥落したということもあり得よう。幾ら戦後の復興期の建築物とて震度2程度の微震でコンクリート建築の一部が剥落するなどとは思えないのだ。杜撰で手抜きな工事、資材の強度を下げるような工事を行っていなければ……もっとも、これは今日でもよくある話であるが……。
 旧耐震基準を含む建築基準法が制定されたのは昭和25/1950年で、このときに構造基準も規定された。ちなみに今日の基準で旧耐震基準時代に建てられた木造建築の評点は倒壊する可能性が高いことを示す0.7をずっと下回る0.50、倒壊可能性は高いということだ。これをコンクリート建築にそのまま適用することは勿論できないけれど、すこし大きな揺れで相応の被害が出ることはほぼ間違いないというてよいだろう。
 ──横溝正史の東京物は岡山物に較べて幾分評判が悪いけれど、見方を変えればそれらの多くが職業小説、地理(地誌)小説、風俗小説の側面を持つ。そんな要素を汲みあげて読む愉しみもあるということを、申しあげたかった。
 もっとも、こんなことをいえるのはおそらく日常的に東京のど真ん中へ通勤して、かつては大嫌いだった東京という街に親しみを持つようになり、その歴史、その変貌、その雑多ぶりに面白みを感じるようになったからだろう。その流れで講談・落語に浸り、池波正太郎や久生十蘭を筆頭とする時代小説を漁り読むようになって初めて、そこで描かれた町の遺構、行楽の名残がいまもあって、それらのすぐそばを普段から歩いていることに気附かされた。21世紀の東京と近世期の江戸は薄い膜一枚を隔てて隣り合っていたのだ。
 ……と、浜離宮までを含む銀座界隈で昼間を過ごすわたくしは、横溝正史の東京物をそんな風に読んで愉しんでいる。それゆえに正直、さして面白いと感じられない「びっくり箱殺人事件」もどうにか読み進められているわけで。
 それにしても、と物語本編についてなにも触れていないことに今更ながら気が付いて、顔を青くしながら述懐するのである。犯人に狙撃されながらも九死に一生を得た金田一耕助のことや、被害者と加害者が双子だったってことまだこの時代には通用していたトリックなのかと慨嘆したりしたことをね。でもそれらについて、本稿で筆を費やすつもりはありません。もう他の誰彼がきちんと書いていらっしゃいますからね。わが輩の出る幕では、ない。◆

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第2601日目 〈横溝正史「鴉」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 磯川警部も人が悪い。どこぞへ金田一耕助を湯治に誘うときは、そこが未解決事件の現場であることが専らで、あわよくばかれの推理を頼りに落着を見たい、と企んでいるフシが見え隠れしている。──とは流石に言葉が過ぎるか。しかしねぇ、『悪魔の手毬唄』という動かしがたい前例があり、いままた短編「鴉」という事件に出喰わしてしまった以上、そう邪推してしまうのも無理からぬところではあるまいか。そうして、嗚呼、2度あることは3度あるという……。
 その「鴉」の粗筋はこうだ、──
 昭和21年11月、新婚間もない蓮池貞之助が家人の眼前から姿を消した。3年後に戻ってくる、という書き置きを残して。実際それから3年後にかれは戻ってきたが、再び家人の前から、今度は決して戻らぬと残して、行方をくらませてしまった。この失踪事件は果たして真実か、狂言か、金田一耕助は考える。その土地で神様の使いとされる鴉がなぜ、おこもり堂で死骸となり、床に血を滴らせていたのか、金田一耕助は考える。貞之助を取り囲む人々の証言と状況証拠から金田一耕助が明らかにして見せた2回にわたる失踪劇、その全容とは──?
 ちらり、とお話ししてしまえば、この人間消失は或る人物によるすり替わりなのだが、その動機はいとも単純にして邪である。
 他人が計画した謀り事を自分の企みの実現に利用し、願望成就ならずと知るや破綻をもたらした人物を殺めんと動くも自滅して果てる、真犯人なんて呼称も勿体ないぐらいの小悪党──期待を裏切らぬ末路を辿る件の輩にわずかの憐愍すらも抱かないけれど(自業自得とか因果応報というよりも、この人物の場合はただの「バカ」である)、翻って他の登場人物にはというと貞之助の妻、珠生に殊の外同情を覚えるのである。
 幕切れ近くで珠生の口から夫の失踪にまつわる話を聞くことができるのだが、そのきっかけはあまりに痛ましいことだった。愛が誠であったがゆえに妻は悲しみ、夫は苦しみ、そんな葛藤にお構いなく<家>の重圧がのしかかってきてかれらは更に追いこまれてゆく。
 近代文学は古来の旧習と舶来の新風のぶつかり合い、せめぎ合いをテーマの1つとした。島崎藤村を見よ、田山花袋を見よ、有島武郎を見よ、永井荷風を見よ。就中<家>を巡る作品については藤村の独断場の感があるけれど、もう少し時間を下ってジャンルも変えてみると横溝正史も地方物で繰り返しこのテーマを追求してきた一人だ。『犬神家の一族』、『八つ墓村』、『本陣殺人事件』など「犬も歩けば棒にあたる」式に該当する作品は長短編問わずに多くあるだろう。
 「鴉」もむろんその例に洩れず、貞之助・珠生夫婦は<家>がもたらす因習のやはり犠牲者というてよい。
 ただここに一言急いで添えておかねばならぬことは、そも失踪計画が立案された背景には珠生が生まれながらに「女であって、女ではない」ゆえに「夫婦のかたらいのできぬ体」(P171)だった、という事情のあったことだ。これが夫婦生活へ影を落とし、<家>の存続/継承問題に発展してゆくあたりがつながってゆくわけである。この「女であって」云々が今日でいう性同一性障害を指すのか、半陰陽の意味なのか、作者はそれ以上なにも触れていないので判然としない部分もあるのだが……。
 荒寂とした空気が重く垂れこめる下で生きる人々を描いた本作は、その読後感のもの侘しさも手伝って一際、心に深く刻みつけられた佳品であった。読後、巻を閉じて思わず天を仰いで「咨」と嘆息させられてしまう探偵小説なぞ、古今東西そう滅多にあるものではない……でしょう?
 ……さて、次は磯川警部、どんな未解決事件に金田一耕助を巧みに巻きこむつもりか。今後の読書がますます楽しみ。あのときちゃんと捜査していれば未解決事件になんかならなかったんですよ、なんて小気味よい皮肉が金田一耕助の口からまた聞けるのかな。くすくす。◆

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第2600日目 〈横溝正史「幽霊座」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 ──巻を閉じてぼんやりしながら、絵になる場面の目立つ一編であったなぁ、と述懐するのである。横溝正史の短編「幽霊座」を読んでまず胸中に去来した思いはそれだった。梨園を舞台にしたせいもあろうか。
 たとえば金田一耕助が平土間の椅子にうなだれて坐り、そこへ窓から射しこんだ光があたっているシーン。たとえば音爺いと金田一耕助が奈落の底で話し合っている最中、爺の袂から犬塚信乃のブロマイドがはらりと落ちる、そうしてそれを拾いあげるシーン。たとえば歌舞伎狂言『鯉つかみ』の上演中、水船に設けた鉄管から奈落へ抜けてきた滝窓志賀之助/鯉の精役の役者が早着替えするシーン。たとえばその『鯉つかみ』を上演する舞台上の役者たちの所作、その裏方たちの動き回る様子。いずれもほんのわずかの描写でしかなく、或いは地の文でわずかに説明乃至は描写されるに過ぎぬものだが、やたらとそれらが一枚一枚の映像となって鮮烈な印象を与えてくるのだ。
 ちと話が先走りすぎたようだ。簡単に粗筋を、ここで述べておこう。
 稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日をかれの命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助/鯉の精はかれの遺児、雷蔵が担当するはずだったが上演直前に倒れたせいで鶴之助の異母弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助と紫紅を中心とする因果な人間関係を暴くことになるのだが──。
 嗚呼、なぜ粗筋の紹介がこうも下手なのか。ホント、嫌になっちゃうね。まぁ、そんな徒し事はさておき。
 華やかに映る梨園の裏に蠢く人間関係、権謀術数、不協和音がもたらす種々の事件を描いた人といえば、真っ先に戸板康二や小泉喜美子が思い浮かぶ(栗本薫にはそうした小説があるのかしら。『変化道成寺』っていう新作歌舞伎の脚本を書き下ろしているのは知っているけれど)けれど、横溝正史が広義のショービジネスの世界を事件現場に持ってきたのは「幽霊座」以外にどれだけあるのかしら。インターネットで調べればすぐわかるだろうけれど、実際に読んでいない以上はその情報も信憑性が薄いから、ここでは殆どなかったのではないか、といわせてもらう。
 戸板康二も小泉喜美子も梨園を題材に幾つもの小説を書いた。さりながら陰惨さ、背筋の凍るような禍々しさという点では流石に横溝の本作へ軍配が挙げられよう。横溝の他作品でも陰惨で禍々しい事件はお目に掛かれるが、どうしたものか小説の舞台を梨園に据えただけでその要素は一際と濃くなり、それが読み手に働きかける効き目も倍増するのである。魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿の如き梨園に生きる人々であればそのような行動も納得できる、と妙に納得させられてしまう<なにか>が、事件の発端となった出来事に寒々しくも妙に生々しい根拠を与えてしまうのである。池の畔に立って、溺れる幼児を冷徹な眼差しで見つめるあの男の様子……そのあとの行動と併せて思えば、心胆寒からしむるとはまさにこのことか、と嘆息せざるをえない。歌舞伎役者(あ……)ならではの立ち姿の美しさが更にその思いを強く、深くして。
 もしこの作品に呆れてしまう箇所があるとすれば、それは犯人たち(2度目の、あ……)の報連相怠慢に関してであろう。きっとかれらがもう少し密に、頻に連絡を取り合っていればこの犯罪も杜撰な結果に終わることはなかったっだろうに。結局は血に飢えた鬼女/醜女の暴走が事件を発覚させたも同然だものね。きっと彼女にドニゼッティがルチアのために書いたような狂乱の音楽は相応しくない。
 なお「幽霊座」で重要な役回りを務める歌舞伎狂言『鯉つかみ』、元は尾上家の演し物で、初演は宝暦6/1756年4月に市村座(江戸)にて初代尾上菊五郎が滝窓志賀之助を演じた『梅若菜二葉曽我(うめわかなふたばそが)』であったというが、別に元文4/1739年7月、同じ市村座で二代目市川海老蔵が演じた『累解脱蓮葉(かさねげだつのはちすば)』を初演とする説もある。
 最近では昨平成29/2017年11月の歌舞伎座顔見せ公演、幕開きの演目として上演された。滝窓志賀之助/鯉の精を演じたのは七代目市川染五郎(高麗屋)。七代目として最後の舞台であった(翌平成30年1月の壽初春大歌舞伎にて十代目松本幸四郎を襲名披露)。
 本音をいえば、歌舞伎を題材にした探偵小説として読むのみならず、これをきっかけに歌舞伎に興味を持って恐る恐る歌舞伎座や新橋演舞場に出掛けて、その魅力、その魔力、その底知れぬ面白さに目覚めてどっぷりはまってくれる人が出てきたら嬉しいな、と思うておるのであります。探偵小説も面白いけれど、歌舞伎も面白いよ。◆

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第2599日目 〈横溝正史とミルンとウッドハウス。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の佳編「蝙蝠と蛞蝓」を読んでふと思うたのは、横溝正史が『新青年』誌の編集にかかわり、1年半の間編集長を務めていた時代のあったことである。
 編集に参加したのが大正14/1925年から、編集長の地位に在ったのが昭和02/1927年03月号から翌昭和03/1928年09月号までということから、わたくしみくらさんさんかは推理という名の妄想を膨らませてゆく……愛してやまぬ作家の1人、P.G.ウッドハウスの作品が戦前から翻訳されており、その主舞台が他ならぬ『新青年』誌であったことを思い合わせながら。
 実は探偵小説専門誌ではなく総合娯楽雑誌であった『新青年』は、当時のモダニズムの流れを反映してちょうど横溝が編集参画する頃から、その手の作品を積極的に掲載するようになっていた。同時に誌面へはユーモア小説の類もちらほら顔を見せ始め、その一翼をウッドハウス作品は担っていた(ウオドハウス或いはウォードハウスなどと表記された)。
 それはちょうど横溝が編集に携わった時期の話である。ウッドハウス作品が紙面へ掲載されるに際してどの程度まで横溝がかかわったか不明だけれど、すくなくとも印刷所に回る前の段階で目を通したり、評判や感想など耳にする機会はあったのではないか。
 目を通す機会あったらばその過程で、おそらく鍾愛の一作であるA.A.ミルンの傑作探偵小説『赤い館の秘密』を想起させる春風駘蕩の作風に加えて、上質のユーモアと筋運びの巧みさ、文章の精妙さやそこから滲む作者の教養の豊かさに気が付いたことであろう。因みに横溝正史とミルン『赤い館の秘密』の出会いは大正15/昭和01/1926年、博文館(『新青年』発行元)入社のため上京する以前の神戸時代であった由。
 勿論横溝正史がウッドハウスに直接間接の別なく影響を受けていたか、確認する術はない。随筆集のどこを引っ繰り返してもウッドハウスの名前は見当たらなかった。横溝がミルンを好んだのは「退屈でありながら異様な魅力に満ちている点」(「私の推理小説雑感」より)であり、すべてが結末の謎解きにつながってゆくがゆえに登場人物の一挙一動、一言半句も見落とすことのできない緊張感にあった。
 翻ってわれらがウッドハウスは如何か? その作品は広義のミステリでこそあれ、ミルン始め<ミステリの黄金時代>に足跡を残した作家たちとはひと味もふた味も違う、かれらが描こうとした現実とはいささか乖離した、若干ねじの緩んだ世界を舞台にした作物であった。ウッドハウスのミステリに於ける最高傑作というてよい「ストリキニーネ・イン・ザ・スープ」(『マリナー氏の冒険譚』所収 文藝春秋)はその好例だ。勿論、悪い意味で申しあげているのではない。前面に押し出されてくるのは謎解きではなく笑劇なのだ、ウッドハウスの場合は。
 ウッドハウスもミルンと同じくミステリ小説への愛にあふれていたとはいえ、ミルンと決定的に異なったのはミルンが「現実の人たちについて探偵小説」(『赤い館の秘密』序文より)を書こうとしていたのに対し、ウッドハウスは自身のシリーズ・キャラクターとほぼ変わらぬ<ちょっと珍妙な人たち>がすったもんだする種類のミステリ小説であったのだ。つまり、ウッドハウスはちょっと浮世離れした人たちを自身のミステリ小説でも描いたのである。
 おそらく横溝がウッドハウスではなくミルンの小説を好んだ理由の一端は、こうした登場人物の描き方に由来するのだろう。『赤い館の秘密』に登場する素人探偵、アンソニー・ギリンガムが金田一耕助のモデルになったことを考え合わせると、個人的にはじゅうぶん納得できる話なのだ……。
 まだまだわたくしの横溝正史読書マラソンは始まったばかりである。「蝙蝠と蛞蝓」のようなユーモア漂う作品が他にあるのか、幸いなことにまったく知らない(全作品を読んだ方、ネタばらしのコメントは寄せないで!)。さりながらマラソンの第一コーナーを回ったあたりで、これまでとちょっと毛色の異なる愛すべき掌編に出会えたことは、きっと今後の弾みとなり励みとなるに違いない、と自分は勝手にそう思うている。◆

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第2598日目 〈横溝正史「蝙蝠と蛞蝓」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 心が塞いでいるときに読むユーモア小説程、効用の両極端なものはない。より落ちこませる場合もあれば、わずかなりとも晴れやかにさせる場合もある。これは探偵小説も同じで(いや、ジャンルに限らずなのだろうけれど)、爽快な気分にさせてくれることもあれば、登場人物の誰彼に感情移入し過ぎてやるせない気分になったり……。
 「蝙蝠と蛞蝓」を読了した際、二の次あたりに倩思うたのが、そんなことであった。本作の場合、どちらへ針が振り切れるかといえば、探偵小説に於ける前者となる。成る程、そうかい、爽快な……。
 が、今回感じた「爽快」とはたとえば名探偵の快刀乱麻を断つような推理に陶然とし、想定外の真相に思わず唸って膝を叩いちまう類のことではない。「爽快」の根っこにあるのはユーモア、否、「滑稽」だ。読書の愉悦に浸っている間は始終くすくすさせられてしまうような……。本作を一言で括るなら<笑劇>か(ルビを振るなら、コメディよりファルスの方がしっくりするかな)。
 角川文庫旧版にして27ページの短編を一息に読み終えて巻を閉じたとき、まず胸中に飛来したのは上述のような分析めいた思いの数々では当然なく(当たり前だ)、いやぁ実に愉快な小説を読んじまったぜ! てふ一種の幸福を噛みしめたのである。まぁちょっと心が塞いでやさぐれたくなることのあった数日だったものでね。閑話休題、ハイホー。
 でも正直なところ、横溝正史にこうした作風の1編があるとは知らなんだ。本編は金田一耕助と同じアパートに住む男のモノローグで進められる。かれは金田一耕助とアパートの裏手に住む誰だかの妾が大嫌いだった。悶々と過ごしていた或る日、突如警察が踏みこんできて逮捕された。アパートの裏手に住む妾が殺されたのだ。語り手が疑われたのは、件の妾を殺して金田一に濡れ衣着せる犯罪小説を、腹立ち紛れに書いていたからだ。身に覚えのない殺人事件で警察へ拘留・尋問中のかれの前に颯爽と(?)金田一耕助が現れて……、──さて、事件の真相と真犯人は?──という筋を持つ。
 語り手は裏に住む妾を「蛞蝓」と呼び、金田一耕助をその風貌、その行動、その印象から「蝙蝠」と蔑んで、2人を徹底的に嫌い抜く。その嫌いぶりが「よくもまぁそこまで……」と呆れ顔で讃えたくなるぐらい筋金入りなのである。
 これまでも金田一耕助の能力に疑問を持ったり、その存在に良くない印象を抱いた人物は多くいた。が、斯くも罵倒し、揶揄し、嘲笑し、警戒し、終いには毒気を抜かれた人物とお目に掛かったことはない。むろん未読の作品群のなかにはいるのかもしれないが、わたくしは横溝正史読書マラソンの第一コーナーをようやく回ったばかりの新参者だ。
 まぁね、昼は部屋に寝転がって死体や殺人現場の写真が載った本を読み、夜ともなればいずこともなく出掛け、加えて例の、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭に襟が茶色くなったしわくちゃな羽織袴となれば、そりゃあ素性を知らなければ警戒して然るべきだわな。いつもは人懐っこい笑顔とくたびれた風采で相手の懐にするりと入りこんでゆく金田一だが、その登場作には必ず1人2人は金田一をどうにも胡散臭い人物に見、煙たがる人物が現れる。かれらの視点で金田一耕助を活写すればこうもなるか、という格好のサンプル、その一例を「蝙蝠と蛞蝓」は提供しているといえないだろうか。
 ぼかぁこの短編、お気に入りだなぁ。好きだなぁ。
 旧版の文庫解説(中島河太郎)には未記載なので書誌データを記しておくと、本作は探偵小説誌『ロック』(筑波書林)誌昭和22/1947年9月号が初出。書籍初収録は未詳だが、春陽文庫『横溝正史長編全集 第14巻 死神の矢』(昭和50/1975年6月)であるようだ。その後、角川文庫旧版に同ラインナップで収録され、今日では改版された『人面瘡 金田一耕助事件ファイル6』(角川文庫 平成8/1996年9月)や『毒の矢』(春陽文庫 平成9/1997年5月)他で読むことが可能。横溝正史が執筆した金田一耕助ものとしては『本陣殺人事件』(昭和21/1946年)、『獄門島』(昭和22/1947年)に次いで3作目、即ち現実に於いても作中時間に於いても最初期の金田一の活躍が描かれた1編である。
 なお作中時間に於いては「蝙蝠と蛞蝓」、金田一耕助が復員して『獄門島』事件を解決した翌年、昭和22年初夏の出来事であろう由(研究サイト「金田一耕助博物館」内コンテンツ「金田一耕助事件簿編さん室」[http://www.yokomizo.to/chronicle/index.htm]に拠る。記して感謝申しあげます)。◆

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第2597日目 〈横溝正史「死神の矢」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 長編「死神の矢」は、娘の結婚相手を候補者3人から選ぶにあたって奇異な方法をその父親(職業:大学教授)が、知己の仲である金田一耕助に開陳する場面から始まる。舞台は神奈川県の片瀬海岸、そのすぐ近くに建つ館。奇異なる方法とは、海上に浮かべた的を浜辺から矢で射て見事命中させた者に娘を与える、というもの。婿候補は3人が3人ともイヤァな感じの連衆で、でもそのなかの1人が矢を的に中てて晴れて婚約者となったのだ。この出来事が発端となって候補者たちは次々に、自分たちが用いた矢で心臓を射貫かれて殺されてゆく。やがて捜査線上にボクサー崩れの男が容疑者として浮上するが、さて果たして真犯人は──? すべての殺人計画が遂行された後、ゆくりなくも明らかにされる連続殺人事件の真相とは……。
 読んでいてどうしても気になってしまうのは登場人物たち、就中大学教授の父親と3人の婿候補、2人のバレエ研修生の女性の口調である。ぞろっぺえというか演技が過ぎるというか、育ちの悪さが滲み出ているというか、どうしても馴染めぬものを感じてしまうのだけれど、横溝正史が本作を執筆した昭和30年代とは現実に斯様な話し言葉が一般的であったのだろうか。
 かれらとは「育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ」(SMAP「セロリ」)が、記録に残らぬ近過去の風俗を知る一助と捉えれば重宝するか。どうしても登場人物の口調が気になるけれど最後まで読み通すのを諦められぬ向きは、「小説は風俗描写から廃れてゆく」てふ三島由紀夫の言など無視して、たとえば現代日本人の喋り方に脳内変換すればよい。
 そういえば辻真先がかつて赤川次郎を論じたエッセイのなかで、ユーモアとは余裕である旨述べていたのを覚えている。「死神の矢」を読んでいて図らずもそれを思い出した箇所のあったことを、この際だから書き留めておきたい。最初の殺人の第一発見者がそれを金田一耕助以下その場に居合わせた人々に伝える場面だ。申しあげます、○○さんはお食事に参ることができないと思います。どうして? 紛失していた矢が見附かったのです。どこで? ○○さんの胸に刺さっていました。ああ、なんてこったい! ……このやり取りがわたくしをしてジーヴスとバーティのすっとぼけたやり取りを想起させ、それに触発されて辻の持論を思い出したのである。
 勿論第一発見者は気が動転していたからあんなピントのずれた会話になってしまったのだ、といえばその通りなのだが、英国ユーモア・ミステリの雄、コージー・ミステリのお手本というてもよいA.A.ミルンの傑作『赤い館の謎』を横溝正史が愛してやまなかったことを念頭に置けば(ついでにいえば金田一耕助のイメージは『赤い館の謎』の主人公、アンソニー・ギリンガムであった)、最初の殺人事件の第一報を伝えるこの場面を執筆するにあたって著者は、或る種のオマージュをそこに託したと想像を逞しうすることだって可能だ。更に想像を膨らませてあり得る可能性を探索すれば、……いや、これは後日の話題に譲ろう。
 金田一耕助は開巻1ページ目から読者の前に姿を現して、知己の大学教授と婿選びの方法を聞かされて新ユリシーズの挿話を思い出したりしている。つまりかれは最初から事件に巻きこまれるべくしてそこへ招かれていたのだ。
 が、例によって例の如く自分の周囲で進められてゆく殺人劇を未然に防いだり、犯行前の犯人を挙げることはしない。最早読者にはお馴染みのパターンで、或る意味に於いて安全運転を遵守する名探偵である。そのくせ人目に立つぐらいうろうろして証拠を掻き集めているのだから、クライマックスにて婿となる男が金田一の能力を疑う台詞を吐いても読者は苦笑いせざるを得ないのだ。
 然様、まるで金田一耕助という男は名探偵というより連続殺人の見届け役である。真犯人のやむにやまれぬ想いを忖度し、その計画が完遂されるまで犯人検挙に手を貸さない、とでも決めているかの如く──。むろん。真犯人の犯行動機にじゅうぶん情状酌量の余地があると判断された場合のお話だ。1つ1つの事件を点検してゆけばそんなことはないのだろうが、一読者としてはそんな印象を拭えないのである。◆

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第2596日目 〈横溝正史『迷宮の扉』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 横溝正史が執筆したジュブナイル小説はいわゆる<ヨコミゾ・ブーム>を承けて角川文庫に編入された。その際同じ作家の山村正夫によってリライトされたが、①文体を「ですます」調から「である」調に変更、②差別用語/表現等を書き換え、③章見出しの追加、④一部作品に於いて探偵役を由利先生から金田一耕助に変更、以上を大きな柱としている由。
 その後ジュブナイル小説群は角川スニーカー文庫に移籍して現在は全点絶版。うち幾つかの作品は21世紀になってポプラ・ポケット文庫で文体を「ですます」調に戻して復活したが、こちらもいまは版元品切れ状態となっている。しかしながら角川文庫のリライト版は今日でもKindleにて電子書籍版が購入可能だ。
 『悪魔の降誕祭』に続けて読んだ本書『迷宮の扉』は、そんなジュブナイル小説の角川文庫リライト版の1冊である。
 一巻の殆どを占める表題作は、遺産相続を巡る骨肉の争いに巻きこまれた金田一耕助の活躍を描く。
 粗筋を架蔵文庫の裏表紙から転記すると、──金田一耕助の行く所、必ず事件あり。三浦半島巡りを楽しんでいた金田一は、突然、嵐に遭い、竜神館という屋敷へ逃げこんだ。だがその直後、一発の銃声と共に誰かが土間に倒れこんできた。うつぶせになった男の背中の左肺部のあたりから血が噴き出していた。殺された男は、毎年この屋敷の主、東海林日奈児少年の誕生日に、カードを届け、ケーキを切りに来る黒づくめの男だった。不審に思った金田一が尚も聞き込もうとしたが、日奈児の後見人降矢木は、なぜか言葉を濁した……。/莫大な遺産をめぐる人々の葛藤をテーマに、完璧なトリックと緻密な構成で描く傑作本格推理──以上。
 んんん、なにやらわたくしのまとめた粗筋の方が良さそうな気がするが、長いから今回は割愛しておこう(←負け惜しみ)。
 その遺言状の内容や相続(予定)人を擁する家族間の相克など、かの『犬神家の一族』をわたくしは思い出してしまうのだが、こちらはそれよりもずっと軽量級。良くも悪くもこぢんまりとまとまっているのだけれど、それが却って幸いしたか、横溝正史の小説技法がぎゅっと詰まった一級品のエンタメ小説に仕上がっているのだ。かれのストーリーテラーぶり、ページターナーぶりは大人向けのミステリよりもこちら、ジュブナイル小説の方でより堪能できるというてよいだろう。
 本書は他に「片耳の男」と「動かぬ時計」という短編2作を併収する。どちらも毎年の贈り物が物語の中心となる点で共通するが、むろん内容にまったくつながりはない。前者は犯罪物、後者はファンタジーである。いい添えれば両作いずれもシリーズ・キャラクターの登場しない、ノン・シリーズ短編。読み切り短編であるのも手伝って2作には一切の夾雑物なし、寄り道なし、幕が開いたらあとはもうただひたすら結末へ向けて突っ走ってゆくのみ。言葉を選べば、勢いに満ちた作品である。
 某新古書店でなにを思うことなく購入した1冊だけれど、斯様な小説をこの度読めたことがとてもうれしい。横溝正史にこうしたジュブナイル小説があるってことを、不勉強な身ゆえについこの間まで知らなかったもの……。
 ──未読どころか本さえ手にしていないけれど、横溝のジュブナイル小説には<怪獣男爵>なる悪漢が登場するシリーズがある、と仄聞する。『迷宮の扉』でこのジャンルの愉しさを知ってしまった以上、遅かれ早かれそちらへも食指を伸ばすことだろうね。と思うてオークション・サイトを覗いてみると、やれやれ、バラで殆どの作品が出品されているではないか……! 大人向け作品と並行して、ゆっくり愉しみながら読んでゆこう。◆

 ◌初出
 「迷宮の扉」:『高校進学』昭和33/1958年01~12月号
 「片耳の男」:『少女の友』昭和14/1939年09月号(初出時題名「七人の天女」)
 「動かぬ時計」:『少年画報』昭和02/1927年07月号
 初出誌については「TomePage」内「横溝正史小説リスト」並びに横溝正史研究サイト「横溝正史エンサイクロペディア:横溝正史ジュヴナイル作品 -リスト補遺暫定版-」を参考とさせていただいた。記して感謝申しあげます。
 殊後者はわたくし自身横溝作品を読み進めてゆくにあたり他サイトと併せて常に恩恵を被っているサイトである。□

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第2595日目 〈横溝正史「霧の山荘」を読みました。或いは、「Pホテル」とは本当に「軽井沢プリンスホテル」のことなのか?〉 [日々の思い・独り言]

 小説家は自分のよく知る土地を舞台にする。横溝正史とて例外ではない。むしろ横溝はよく知った土地を事件発生の舞台に、積極的に採用し続けた作家として最右翼に連なる人物ではないか。岡山県然り、世田谷周辺然り。そうして此度は信州を……。
 中編「霧の山荘」の舞台は戦後別荘を構えた軽井沢である。横溝正史と信州地方のつながりは古く、昭和8年の大喀血により転地療養を余儀なくされた頃に遡れる。富士見高原や上諏訪などを転々としていたことが、かれとこの地方の馴れ初めとなり、創作の上では短編「鬼火」や長編『犬神家の一族』といった憎悪劇に結実し、実生活に於いては戦後、軽井沢へ別荘を構えるに至ったが、「霧の山荘」はまさしくその軽井沢、就中別荘のある中山道(や北陸新幹線、しなの鉄道線)を跨いで広がる南原という地を舞台に据えた。
 もっと絞りこめば本作の舞台となる別荘地は中山道の南側一帯で、晴山ゴルフ場や軽井沢ゴルフ倶楽部を擁す地域。作中の記述に従えば、6万坪の敷地に40軒ばかしの別荘が建つのみの、「K高原でもちょっと別天地になって」(P222)いる場所だ。ちなみにこの界隈、現在では企業や大学の寮や保養所といった施設が集まるが、なお周囲に古くから所有されている別荘も散見される。
 さて、わたくしことみくらさんさんかはワクワクしながらこの中編を読んでいる最中、ふと疑問に思うたのだ。金田一耕助が事件の依頼を受ける前から滞在するホテルについて、である。
 金田一が泊まる「Pホテル」は軽井沢プリンスホテルであろう、というのが横溝ファン、金田一ファンの間では通説らしい。それに疑いを持つ向きはないようだ。
 プリンスホテルとは西武資本のホテル・チェーンだが、「霧の山荘」が『講談倶楽部』に発表された昭和33/1958年当時、西武資本のホテルがその名称に「プリンスホテル」と冠していたのは高輪と赤坂のみであった。
 軽井沢プリンスホテルの前身は昭和25/1950年開業の晴山ホテルといい、軽井沢プリンスホテルが開業するのは昭和48/1973年。両者が経営統合を果たすのは更に下って昭和52/1977年のことだ。その際晴山ホテルは軽井沢プリンスホテル晴山館へ改称された(現在は「軽井沢プリンスホテル ウェスト」として営業中)。
 従って本作の発表当時は「軽井沢プリンスホテル」なる名称のホテル、この地に存在しないはずなのだが、──
 されど「Pホテル」は執筆当初からの称であった。初出誌を披見する機会こそなかったものの、改稿前の原型作品を集めた『金田一耕助の新冒険』(光文社文庫)には「霧の別荘」という、「霧の山荘」のオリジナル・ヴァージョンが入っている。『講談倶楽部』昭和33年11月号初出のそれには既に金田一の滞在先として、「Pホテル」の名称がたしかに明記されており。
 となると、「Pホテル」とはやはり現在の軽井沢プリンスホテルを指すのか、それとも他に斯く記されるホテルが軽井沢には他に存在したのか。わたくしにはその点こそが本作に於ける最大級の<ミステリ>である。よって不肖わたくしも探偵に身をやつして調査し、近日中にその結果報告を別途一稿を草して読者諸兄にご報告する予定だ。それがたとい無残な結果になろうとも、……。
 ……ああ、「霧の山荘」でしたね。忘れていました(おい)。では以下、簡単に(おい!)。

 深い霧の底にへばりついたような別荘地の一角で、金田一耕助は途方に暮れていた。30年前の未解決事件について相談したいから、と招待されたサイレント時代のスター女優、紅葉照子の山荘に赴こうとしていた途中の迷子である。やがて到着した依頼人の別荘でかれは、案内役のアロハ・シャツと共に紅葉照子の刺殺体を発見する。すわ、とばかりに別荘の管理人の許へ走って戻った金田一は目を疑った。別荘のなかにあった依頼人の死体も怪我で動けなくなっていたアロハ・シャツの男の姿もそこにはなく、殺害現場となった別荘は小綺麗にされているばかりか依頼人の妹と名乗る老婦人が住んでおり。そうして翌日、別々の場所で紅葉照子とアロハ・シャツの男の死体が発見される。
 ……金田一耕助は考える、どうして紅葉照子の死体は別荘内から屋外へと移動されただけでなく着物を脱がされていたのか、紅葉照子の本当の殺害現場はどこなのか、どうしてアロハ・シャツの男まで殺されなくてはならなかったのか、30年前に紅葉照子の身辺であったという未解決事件とはなんなのか、そうして勿論、真犯人は誰か、殺害の動機と手段は、単独犯なのか共謀者があるのか……金田一耕助は例によって例の如く、スズメの巣のようなもじゃもじゃ頭を引っ掻き回しながら、等々力警部や地元警察と共に事件の真相にゆっくりと迫ってゆく。徐々に判明してゆく事件の顛末や如何に──。
 ネタバレという程のことではあるまいから書いてしまうと、金田一が目撃した紅葉照子の死体があった別荘と彼女の実妹が住んでいた別荘は別々の建物である。そのあたりは正直なところ、読んでいれば薄々察しのつく話だ。事実が判明しても、ああやっぱりね、と頷くのが関の山。むしろ問題となるのは、どうして他人の別荘で紅葉照子は殺されていなくてはならなかったのか、という点だ。
 じつはこれこそが犯人の動機や殺害方法につながる<謎>であり、同時に金田一を巻きこむきっかけとなった30年前の未解決事件の真実を探る<突破口>でもあるのだ。TBS系列で放送された本作の長編ドラマ(いわゆる2時間ドラマですな)ではこの未解決事件をクローズアップしているが、原作ではほんの添え物程度でしかないことに「霧の山荘」を読み終えた方は或る種の拍子抜けを覚えるかもしれない。
 要するにこの事件、紅葉照子の芝居っ気と茶目っ気、加えて悪戯心が引き金となって起こったのだが、子供のような彼女の虚栄心へ巧みに働きかけた犯人の才智が警察は勿論、金田一耕助の推理も狂わせてしまったのだ。
 されど悪事はかならず露見する。捜査の過程で金田一は小さな綻びを幾つか見出す。そうして或る推論の下に罠を仕掛ける。というよりも、敢えて置きっ放しにして置いた<餌>に犯人が喰らいつくのを待つ。
 当然犯人はその<餌>に引っ掛かり、見事御用となるのだが、思わずぞくりとする場面がそのあとに待っている。自白のあと共謀者のヘマを詰って詰ってまるで反省の色もなく、あたかも自分が法に触れる事件を引き起こしたとはつゆ思うていない素振りだ。21世紀の今日でもお馴染みな場面だろうが、なんだかやるせない思いに暗くなることである。と同時に本作に於いていちばん気に入っている場面であることも、備忘のように書き留めておこう。
 もし可能であるならば本作を読み終えた方は、前述した短編集に収録される原型短編や古谷一行主演の同題ドラマを鑑賞されては如何でしょう。有意義かは別にして、なにか思うところある時間は過ごせると思います。◆

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第2594日目 〈横溝正史「女怪」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 いやぁ、このタイミングで読むべきではなかったかもしれない、と猛烈な反省を自らに強いたのが、一昨日昨日と読んでいた横溝正史「女怪」であります。
 例によって金田一耕助シリーズの一編ですが、こいつが他と較べてちょっと異色なのはこの名探偵が想いを寄せた女性が渦中の人となる、その点に於いてであります。金田一が懸想した女性はシリーズ全作を通じて僅かに2人、1人は『獄門島』の鬼頭早苗、もう1人が本作の持田虹子であります。
 どちらについても(当然)想いが報われることはありませんでしたが、それでも敢えて類推を試みれば金田一の心により深く、かつ癒やし難い思い出を残したのは、この持田虹子の方であったでしょう。
 虹子からの依頼によって彼女の身の回りに起こっている事件を捜査する金田一。その過程でかれは、これまで知ることなしに過ごしてきた現実──即ち虹子の来し方と否応なく向き合い、そこへ塗りこめられた彼女の「かなしみ」と「るさんちまん」に気附かされ、閉ざされた闇のなかから浮かびあがった真相を他ならぬ虹子本人へ報告せねばならぬ立場に置かれる。
 おそらく金田一としても、できるならば伝えずにおきたい、かりに伝えるとしても虚偽の報告を提出したい、と願うたことでしょうが、しかし金田一耕助の職業は「探偵」、白日の下に明らかとなった事実を報告する義務が課されているのでした。断腸の思いで真相を報告した金田一は折り返し届いた虹子からの手紙によって、すべてに終止符が打たれたのを知るわけですが、その際かれを襲ったであろう喪失感と後悔の思いは如何ばかりであったろう! 泉鏡花の「夜行巡査」の如く、私情に従うことままならぬ立場の者は職務と割り切る他ないとすれば、余りに惨めであります……。
 さて。冒頭にて「このタイミングで……」と呻いたのは、恋する相手の将来/幸せを願うと一歩引いて見守ることを選んでしまう金田一耕助に、事件が解決したあと人前から姿を消して放浪の旅に流離う金田一耕助に、嗚呼と嘆息してわが身になぞらえてしまうたがゆえのことでした。まぁ一言でまとめれば、生傷に塩を塗られたのみならず刃物で容赦なく抉られたような気分なのであります。ぶるぶる。
 読後にちょっと調べて知ったのですが、──いまはどうだかわからないけれど──以前はこの「女怪」という短編、どうにも評価の芳しくない作品だったようであります。というのも金田一耕助があろう事か恋をして、挙げ句に傷心旅行に出てしまう点を、どうにもお気に召さぬ愛読者たちが存在していたらしい。
 金田一耕助を女性の手から守る会、なんて組織があったとも仄聞しますので「女怪」の評価がよろしくないことも納得ですが、なんだかこうした点に、金田一耕助がシーンの最前線で活躍する現役の名探偵であった時代、どれだけの人々がかれの探偵譚に熱を上げ、それを求め、また人気を博していた、その一端を知るようでわたくしは興味深くかつ面白く思うのです。『ストランド』誌で連載されていた時分のシャーロック・ホームズ譚とそうした点ではじゅうぶん比較対象の研究材料になると思うのですが、もうこのような研究はされているのでしょうか。
 とまれ、『獄門島』と「女怪」というシリーズ初期の2作に於いて金田一耕助からは以後<恋愛>の要素は省かれましたが、その他の点で人間味をどんどん増してゆきながら、舞いこんだ数々の事件にかかわってゆき、名探偵として江湖にあまねく知られる存在となってゆくのでした。結果的に生涯独身を貫いた様子の名探偵・金田一耕助ですが、シリーズ終盤にあたる、たとえば『悪霊島』や最後の事件『病院坂の首縊りの家』の時期にもう1人ぐらい、かれに烈しい恋心を抱かせるような女性があっても良かったのではないかな、或いは鬼頭早苗とひょんなことから再会するなんてエピソードがあっても良かったのではないかな、なんて勝手な物思いから妄想が膨らみもするのですが……二次創作の領域に踏みこむことになるこの話題、袋小路に迷いこむ前に切りあげるとしましょう。
 金田一耕助の思いがけぬ姿が露わとなった「女怪」、短編のなかでは「百日紅の下にて」と同じぐらい重要な位置を占める作品ではないでしょうか。◆

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第2593日目 〈横溝正史「悪魔の降誕祭」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 どうしても出勤前に済まさねばならぬ用事のために1時間半近く家を出て途中下車、どうにかそれを片附けて再び通勤電車の乗客となった或る平日のこと。結果として40分以上も早く会社最寄り駅へ到着したのをこれ幸いとばかりに、近隣のオフィスビルに入るスターバックスに駆けこんでコーヒー飲みつつ、鞄から取り出して開いたのは読みさしの横溝正史である。短編集『悪魔の降誕祭』(角川文庫)。同題短編がちょうどクライマックスに差し掛かるところで電車から降りたので、続きが気になって気になって仕方なかったのだ。
 「悪魔の降誕祭」はもしかすると中編というた方がいいのかもしれない。が、海外の現代小説の分量に馴染んでしまった身にこの作品を中編といわれても違和感があるばかりなので、多々異見はあると承知しがらも短編とわたくしは称して譲るつもりはない。
 おっと、話が脱線したようだ。軌道に戻そう。
 読みさした箇所はまさしく真犯人が金田一耕助の策に嵌まって服毒自殺を果たした箇所であった……即ちこの名探偵による全貌と真相のお披露目はまだされていないという、そんな場面。宙ぶらりんな、もやもやした気分を抱きながら続きを読みたいがためだけに立ち寄ったスタバにて、改めて真犯人が金田一の策に陥れられたあたりから読み始め、そのまま最後の一行最後の一文字まで一気呵成に、一心不乱に読み進んだ。
 歪な情念が生んだ世にも醜悪な連続殺人の物語に翻弄されながら、興奮のまま巻を閉じたわたくしの耳に谺するのは、真犯人が口走った断末魔の捨て台詞。お前如きに捕まるものか! 怖気だつその台詞はしかしながら、極めて計算高く残忍狡猾な真犯人には打ってつけの、これ以上相応しいものはない去り際の一言といえよう。お前なんかに捕まってたまるか!
 金田一耕助シリーズに毒を呷って自殺する真犯人は幾人も登場する(クリスティ作品同様、横溝作品に於いても服毒自殺或いは毒薬を用いた殺人は相当数を占めるらしい)。『犬神家の一族』、『悪魔の手鞠唄』がすぐ思い浮かぶ例だけれど、いずれにしても真犯人が自らの進退の幕引きをするとき、毒を呷りはしても取り乱したり醜態を曝したりするのが専らであった。皆一様に、静かに、厳かに、或る種の誇りさえ抱きつつ退場していったのだ。
 翻って本作の場合は如何か。「悪魔の降誕祭」の真犯人はその系譜に列なることを作者自ら禁じたかのような、救いようのない悪党ぶりを最後に発揮して死んでいった。およそ小説を読んでいて犯罪者の自殺に快哉を叫んだりはこれまで一度もなかったわたくしだが、殊本作に於いては記憶する限り唯一の例外となったことを事の序にご報告しておこう。内なる醜悪に顔を歪めた邪念の権化──「悪魔の降誕祭」の真犯人を一言でいい表すなら、およそそんな感じか。
 そうして事件は幕を降ろし、あとは金田一耕助による真相のお披露目を残すのみとなるが、かの捨て台詞によってのみこの作品は記憶されるのでない。むしろ警察を前にした金田一が真相説明する場面の言葉の端々に塗りこめられた、真犯人への情け容赦なき批判の口吻にこそわたくしはこの一編の真骨頂を見出す。金田一にとってこの「悪魔の降誕祭」事件がどれだけ忌まわしく汚らわしく同情の余地を残さぬ事件であったか、容易に想像できようというものだ。
 真犯人があの場で毒を呷って自殺するってことをあンた本当に考えなかったのかね、と呆れ顔に問う警察に金田一がなにも答えず、おそらくにこにこしながら、或いは昏い眼を彷徨わせながら、ただ沈黙を守っている点は、誠に心胆寒からしむる。或る意味でこの件りこそが本作にていちばん背筋を寒くさせられるところだ。多言は費やさぬ。どうか読者諸兄よ、これを契機に本屋へ走り、「悪魔の降誕祭」をじっくり読み耽って同じように驚嘆かつ厳かな戦慄を味わっていただけぬだろうか……。
 未来のことを確約することはできないが、たとえば1年後にでもマイ・ベスト横溝作品を選ぶようなことがあったなら、きっと「悪魔の降誕祭」はその候補に名乗りをあげ、リストの一角を占めるに相違ない。すくなくとも本稿の第二稿を書いている現時点では好きな短編ベスト5に入っているのである。まぁしばらくはここから追い出されることはないでしょうな。◆

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第2592日目 〈改訂版と差し替えました。〉 [日々の思い・独り言]

 皆様、1ヶ月ぶりのご無沙汰です。
 前回第2591日目の原稿を、すこしばかり改訂を加えたヴァージョンに差し替えております。
 宜しければ読者諸兄にはご閲読願いたく、改めてお知らせさせていただきました。
 なお、本日から「マカバイ記 一」を再び読み始めました。◆

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第2591日目 〈おお、みくらさんさんか、おまえは狂っている、愛がおまえを狂わせている。〉暫定決定稿 [日々の思い・独り言]

 風邪を引いて会社を休まなくてならなくなった5日間(註:インフルエンザでなければインチキエンザでもない)、熱に浮かされること度々で体温計で測ってみれば38.2度を平均値としていっこう下がる気配もなく、どうにか辛い体に鞭打ち病院へ行けば「悪質な風邪」と診断されて取り敢えずは流行性感冒でも花粉症発症でもなく胸を撫でおろしたはいいけれど、そうしたら自身の勤怠が不安になって(=給料が下がる)不調を訴える体を動かして出勤を夢想するも実は単なるバイオ・テロ行為に過ぎないと気附かされては諦めざるを得ず、己の管理怠慢から実現した休暇を満喫するより他になく、床に伏しつつ調子の良い一刻を狙って読み止しの探偵小説を繙き、名探偵氏の目にもあざやかな推理と肝を潰すような真相に仰天したのが悪かったのか、再び熱は急上昇を始めて、「病人に探偵小説は禁物じゃ」とぼやいて嗟嘆して後、おとなしく病人に戻ることにした、皆様たいへんお久しぶりな本ブログの管理人(?)、みくらさんさんかであります。
 リハビリも兼ねてワン・センテンスの文章で始めてみたが、さてさて、上手くいったかどうか。<情>と<技>が幸福な一致を見せればこの種の文章、或る意味物書きにとって最強の武器になろうけれど、しくじったら目も当てられない惨劇をもたらすという点で両刃の剣であることは否めない。誠、文章道は険しく厳しくされど愉悦に満ち満ちていることよ。
 ああ、熱にうなされて1週間会社を休んだ、という話だったね。ほう、いまはどうか、と訊ねてくれるのか、わが友、モナミよ。
 そうじゃな、いまは……すっかり平熱となり、まだ怠い体を引きずりながらもどうにかぶじに自宅と会社を往復するだけの、無味乾燥と雖も凪いだ海のように静穏な毎日に戻っている。まぁ本調子でないのが祟ったせいか、いろいろあったけれど、ぼくはだいじょうぶさ、と嘯いて、まだまだ放談は続きいつ本題に入れるか、正直なところわたくしの知ったことではない──なんてね(おい)。
 さて。
 本ブログの更新がしばし滞っていた間もわたくしは文章を書くことをサボっていたわけでは、ない。本格的な再開を視野に入れて原稿を書き溜める努力はしてきた。たとえば日常の記憶を留める上記第一部の如き文章や、或いはレビューの類の筆を執っていた。それらのうち或るものは投稿されてお披露目されるのを待つだけとなり、或るものはお披露目に値せずと判断して仕舞いこみ、或るものは幾度となく筆を執ったが結局まとめられずに放り投げてしまっている。
 じつは最後のパターンがいちばん厄介なのである。未練がましく筆を執っては投げ出すを繰り返し、完成に向けて取り組むことも諦めて仕舞いこむこともできないままいたずらに日ばかりが過ぎてゆき……。しかもそれらの過半がミステリ小説の書評というか感想文なのだから、始末の悪さについてはちょっとどころの騒ぎではない。
 読み終えてから時間が経つと、断片的な感想や原稿の下書きめいたものがあっても、それを基にして第一稿を仕上げることに難儀を感じてしまうのだね。まぁね、読了から何ヶ月も経っていたらそうなるのも無理ない話なのだが……それでもわたくしは、瑕疵だらけであっても第一稿を仕上げるために足掻きたいのである。然様、内浦に住まうみかん色の髪の毛を生やした女の子のごとく、やれるところまで足掻いてみたいのだ。
 もう好い加減、固有名詞を出してしまうと上記に該当する筆頭は綾辻行人『霧越邸殺人事件』完全改訂版(角川文庫)である。出版された全判型を買い求めてしまう程に大好きな作品なのだが、もしかするとこの「大好き」って想いが筆を鈍らせているのかもしれない。大好きな作品なのだからこそ、ちゃんとしたものを書かなくてはならない、てふ気負いが、却って手枷足枷となってしまっているのだろう。咨、みくらさんさんか、おまえは狂っている、愛の大きさがおまえを狂わせているのだ。
 やはり時間の経過が仇なしているのは最早否定のしようがない。「鉄は熱いうちに打て」──この諺、けっして伊達や酔狂から出た言葉ではないことを、いまこそ実感するね。sigh.
 とはいえ、それは事実のほんの一部を指摘したに過ぎぬ。本ブログにてお披露目してきた幾つもの書評(っぽいもの)は読了してそれ程時間が経っていないうちに第一稿を書きあげてしまったものばかりだ。でも、世にあふれるすべての書評や読書感想文の類がすべて、読後間を置かず一気呵成に、すくなくとも第一稿となる文章が書かれたわけではあるまい。そんなこと、あり得ようはずがない。
 いまは本ブログが本格的な再稼働を始めたときに備えて、往時のように本ブログでお披露目するに値する感想文を書きあげようと、幾つかの小説を棚から引っ張り出してきて悪戦苦闘しているところだ。かつてはすらすらなんの苦労も作為もなく書けていたのが、しばらく満足なものを書いていないといつしか腕は鈍り、筆もなまくらになるのだ──いまのわたくし程それを痛烈に感じ、技能の再習得に脂汗垂らして身をやつしている者もあるまい。
 時間の流れのなかで想いは確実に薄れてゆく。が、それは言い訳であり、詭弁である。技術を習得しなくてはならない。いまはそう真摯に思うている。
 最後に本ブログでお披露目した書評らしきものは、綾辻行人『奇面館の殺人』と中沢健『初恋芸人』であった。以後、どれだけの本を読んで、その半分強について感想を認めたく願い、そうして儚くも夢は散り玉砕の憂き目に遭っただろう。
 横溝正史の金田一耕助シリーズ、連城三紀彦の<花葬>シリーズ、泡坂妻夫や米澤穂信、仁木悦子や小泉喜美子、再びの江戸川乱歩と綾辻行人、ドストエフスキーや太宰治……読書の歓びをわたくしは可能な限り許される限り書き残しておきたいのだ。ライトノベルも含めれば、感想を書き残しておきたい、と切望して止まぬ作品はこれから先も有象無象に増えてゆく筈。どうかそれまで閑職でも構わぬ、定職と定収入に恵まれ、かつ生き存えていられますように……。
 ああ、たくさん本を読みたい!!!◆

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第2590日目 〈『ラブライブ!』舞台となった街への想い。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ脇目も振らずに読書し、小説を書き、専ら特定のアニメを観るのに耽っているのは、現在の自分を取り巻く人間関係の何割かに或る種の不満を抱いているからだ。かてて加えてようやく忘却し果せた一年前の亡霊の残滓とこれから付き合ってゆかねばならぬことに嗟嘆する日々が始まるのを知ったからだ。
 古巣へ再び還るまでぜったい会社を辞めない、と誓っているので夜逃げのように姿をくらますつもりはまるでないのだが、前途へ暗雲が立ちこめ、常に黄色信号が点る事態となったのは間違いなさそうである。警戒せよ、敵は身内にあり。言動に留意して、殺られる前に殺れ。
 要するに毎日毎日鬱勃としたものを感じ、9時から5時までタイムカードで切り取られる以外の時間はひたすら逃避に費やしているのだ。こうなる前から営々と行ってきた読書と創作に一層身を入れ、或る作品を契機に再燃したアニメ鑑賞に拍車が掛かっているのは、そうした所以であった。
 「或る作品」が『ラブライブ!』だということは、これまでにも本ブログにて何度か告白しているので改めてここで表明するまでもないか。その『ラブライブ!』の続編として昨夏放送された『ラブライブ!サンシャイン!!』の第二期が、来月10月から始まるのをわたくしは首を長くして待ちくたびれている次第。それに先立って『ラブライブ!』絡みの文章をもしかすると今回を含めて3週程お披露目することになるかもしれない──むろん、結果を知るのが神のみであることは読者諸兄であればとっくにご承知であろう。
 質の高い楽曲とPVを入口に『ラブライブ!』へのめりこんだのだが、と同時に作品が舞台に選んだ土地がわたくしに馴染みある場所であったことも、実は大きな要因だった。たとえば、──
 『ラブライブ!』(『ラブライブ!サンシャイン!!』に対して「無印」とも)の舞台は、神田 - 御茶ノ水 - 秋葉原のトライアングル地帯であった。かつては世界に名だたる電気街、世紀が変わって後は世界に名を馳せるオタクの聖地、その昔は青果市場が鎮座坐す秋葉原は作中でもよく描かれてお馴染みであるが、かつてそこに駿河台・神保町を加えたペンタゴン地帯はわたくしが学生時代──10代後半から20代前半を過ごして<庭>とさえ公言したことのある、魔都東京で殆ど唯一「ここに住みたいな」と望んでやまなかった一帯なのだった。
 21世紀になって秋葉原近郊──神田須田町あたりは大規模な区画整理と再開発のてこ入れが為された場所だけれど、変貌前後を知る者の目にはそのリアリティとデフォルメの絶妙な融合が感動的に映り、自分が足繁く通った場所、どこかへ行く際に前を通ったことがあるその場所、まだ自分が幼かったころ祖母に連れられて暖簾をくぐった記憶がたしかにある(池波正太郎のご贔屓だった)老舗の甘味処「竹むら」など、アニメ絵になって眼前に提示されたら、それをきっかけに『ラブライブ!』へすっかりのめりこんで抜け出せなくなるのは、もはや必然といえよう。聖地巡礼というわけではないが、神保町で古本を漁るついでにちょっとあちこち懐かしさ半分で散歩してみようかな、と思うてみたり。そうか、もう万世橋のところに交通博物館はないんだよなぁ……。
 そうしてもう一つの『ラブライブ!』、即ち『ラブライブ!サンシャイン!!』だが、こちらも舞台となった土地がきっかけで関心を持ったが、今度の場合は前作の比では正直、ない。向こうが或る意味で<青春が詰まった街>と恥ずかしげもなく述べるなら、こちらは<子供の頃に暮らしていた街>、<第二の故郷>である。序にいえば、定年退職後の人生を過ごすと定めた街でもある。
 『ラブライブ!サンシャイン!!』の舞台は西伊豆の要諦、静岡県沼津市内浦町である。御用邸よりもまだ南、半島の海岸線が南下を一旦やめて西方向へ向きを変えるその場所に静かに広がる漁港の街。綺麗な海岸線に経って北西へ目を向ければ淡島とその向こうに千本松原、愛鷹連峰と富士山を眺められる明媚な街だ。「昔住んだ街」とは語弊があるか、実際にわたくしが住んでいたのは沼津市中で、この内浦には何度か連れて来てもらったことがあるだけなのだから。が、それでもここが沼津市の一角を占める場所であることに変わりはなく、生活面では車がないと不便を感じる場面がしばしばあると雖も市中よりずっと暮らしやすいことは実際訪れてみれば実感できることだ。
 わたくしが住んでいたのは内浦から見れば駿河湾を挟んだ反対側──富士山を見晴るかす方向の海縁の住宅地だったが、夜浜辺に出ると対岸の内浦の光が霞んで見えたものだった。寄せては返す波の音を聞きながら眺める対岸の灯は──海の上に漂う薄い霧の向こうで瞬いている灯はなにやら、そう、ひどく想像と感傷をかき立てられるそれであったよ。もうちょっと成長していればそこにギャツビーのような想いを滲ませることもできたかもね。えへ。
 ちかごろ『ラブライブ!サンシャイン!!』を某動画サイトで毎日一話ずつ観進めて、はやくもそれが三周目となってようやく個々のキャラクター絡みの見方になったり、μ’sの精神をAqoursが継承するまでの流れとかメンバー間の葛藤とか、そんなところに(先達の導きもあって)着目して観るようになっているけれど、最初は専ら自分のなかに未だ生々しく息づいている沼津の、内浦の、伊豆半島の光景に惹かれて、と同時にそこで過ごした子供時代の思い出をなぞるようにして、Aqoursの物語を追いかけていった。
 もちろんそれの主舞台は内浦で、自分はそこに根を下ろして生活していたわけでないから、いちばん感傷をかき立てられるのはたとえば、AqoursのPVを作るのに渡辺“ヨーソロー”曜ちゃんが案内してまわる沼津駅南口の外観やリコー通りの入口であったり、学校での初ライブのチラシを配る北口の光景であったり、或いは津島“ヨハネ”善子が国木田“ずらまる”花丸を避けて画面を横切るだけの怪しい人となり果てていたマルサン書店の内観であったり(もっともわたくしが沼津市民であった頃は仲見世通りのなかではなく、スルガ銀行の横、現在は広大な駐車場になっている場所にあった2階建ての頼れる書店であった)、或いはAqours加入に誘われたヨハネが逃げ回る一連の場面はさりげなく沼津の観光名所巡りになっていたり、と様々なのだが、それでもこの作品が沼津市の中心と対岸の漁港を舞台としていなかったら、幾ら『ラブライブ!』と雖もこうした文章を綴ることはなかったろう。鑑賞するわたくしの胸中に懐かしさと驚きと感激が綯い交ぜになっていたことを、ああ、読者諸兄よ、ご理解いただけようか?
 いまはすっかり聖地化して行政や漁協がこの作品をバックアップしているそうである。駅前にはカフェができ、漁協の案内所はAqoursの紹介所と化し、主人公である高海“普通怪獣ちかちー”千歌が住まう旅館はおろか曜ちゃんの自宅位置にある喫茶店までもが繁盛してやまぬという。昨年はどうだったのだろう、7月末の恒例狩野川の花火祭り(住んでいたマンションのベランダからよく見えたなぁ)にはバスツアーが開催されると共に、Aqoursメンバー(勿論“中の人”たちである)も沼津市役所の道路向こうにある香陵広場でのステージ・イヴェントに登場、アニメエンディングテーマ「ユメ語るよりユメ歌おう」のカップリング曲「サンシャインぴっかぴか音頭」が計4回披露されたそうだ。
 一方で高海千歌の実家が営む旅館のモデルとなった宿の、某旅行サイトに寄せられた常連と思しき方からの苦情も散見されたりする。これはいけないよ。聖地巡礼は遊びではない。消化されるべきイヴェントでもない。あくまで地域振興の手段である。訪れるファンは皆礼儀を忘れないようにしよう。騒ぐ輩に天罰あれ。
 嗚呼、友よ。生涯の友、ワトスン。そろそろわたくしは旅に出ようと思うのだ。いまならわたくしはかの地を訪れることができる。昨年は十把一絡げに同類の輪で括られるのがなんとなく厭で足を向けられなかったのだけれど、いまはもはや<恥は掻き捨て>である。<同じ阿呆なら何とやら>である。即ち、3年ぶりに沼津の地を踏もうと思うのだ。もはやラブライバーと思われても、すくなくとも表面上は平然と取り繕っていられる鉄面皮ゆえに、斯く思われてもなんとも感じぬ。それは同時にここ数年で頻繁になって来ている<隠遁の地>を探し歩く旅でもある。
 それがたまたま内浦とかあの辺りなだけなんだからね! ──か、勘違いしないでよね。わたくしはけっして動揺していない。ほら、君、見たまえ、キーボードを打つ手だって、震えたりしていないではないか。わたくしはラヴクラフトの小説の語り手ではないのだ。
 『ラブライブ・サンシャイン!』に関していえばわたくしの場合、聖地巡礼は子供時代を過ごした懐かしい土地を再訪することである。◆

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第2589日目 〈中沢健『初恋芸人』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 BS未加入だと観たい番組を観られず、地上波で流れる予告CMや番組紹介の記事に接する度刹那の憤慨を催すことがある。まあ、その憤慨も一時期よりは鎮まるようになったけれどね。これについてはNHK-BSがクラシック番組を殆どまったく流さなくなったことが大きい。ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートだって、ここ数年は生中継していないんじゃない?
 たいていの番組ならさっさと忘却できるようになったけれど、昨春にBSプレミアムで放送されたこのドラマだけは観たかった──それが松井玲奈主演の『初恋芸人』。……にもかかわらず、特にこちらからアクションを起こして万難尽くして観る手段を講じたわけではない。CSで放送されたら観ればいいや。そうさっさと諦めたことのだ。斯くして時は流れて昨秋へ至り、──
 昨秋? 然様。神保町の一角に店舗を構える老舗新刊書店の文庫売り場の平台に、かのドラマの原作本が平台に積まれていた。半年前の刊行物ゆえ特に新刊として扱われていたわけでも、企画コーナーの一冊だったわけでもない。どうしてあの時期に平積みされていたのか皆目不明だけれど、ドラマ放送時の帯が巻かれたその文庫を見掛けた途端迷わず摑んでレジへ運んだね。
 ……というわけで、中沢健『初恋芸人』(ガガガ文庫)を読みました。
 怪獣・特撮ネタがウリの芸人、佐藤賢治(勿論無名)はライヴ後の打ち上げの席で自分のコントを「面白い」といってくれた市川理沙に一目惚れした。そのあと市川嬢からのメールをきっかけとして友達付き合いが始まる。想う気持ちはどんどん大きくなり、交際を熱望するまでになったが、やがて初恋は思いもよらぬ形でピリオドが打たれる──。
 市川嬢の無自覚な台詞とスキンシップが主人公を惑わせたのだ。現実でも男女問わず存在するよね、他人との距離の取り方が下手で誤解を与えてしまう人。佐藤も悩んだが、市川嬢も悩んだのだ。それもあって彼女は、より大きな安心を与えてくれる年上の男性、主人公の先輩芸人と将来を共にするのを選んだのだった。
 読み始めた当初は、単に女性との交際経験がまるでない芸人の報われない初恋を描いただけのお話、と思うていた。事実、第一章を読んでいる最中はそのあまりの初々しさ、あまりの微笑ましさに口許が終始緩みっぱなしで、これを読んでいた頃の通勤電車の車中では緩む口許を隠すアイテムとしてマスクが必需品であった程である。
 その裏返しかしら。詭弁を弄して気持ちを伝えることを先延ばしにし続ける主人公の、その意気地なさと決断力の欠如にひたすら腹が立ち、これでは市川嬢と両想いになったとしてもすぐに別れるわ、と妙に納得させられたのは。一方で市川嬢は欺瞞だ計算だと罵られても仕方ない言動で主人公を翻弄して、挙げ句に最終章の語り手役をかっさらい、美辞麗句で自分の気持ちと選択を正当化する。最終的に二人は、それもエゴと欺瞞ゆえにもはや修正の効かない未来を自らの手で作り出したのだ。この二人、恋人になったり夫婦になったりしないで正解かもしれぬ。
 とはいえ、物語が進むにつれてページを繰る指が重くなってきたのも事実。読了後はずっしりと沈みこんでしまうた。咨、老いらくの恋の只中へある者にこの小説は重くて、苦い。傷口に塗りこまれる塩分濃度ときたら、婚約者の死後四半世紀の間に唯一度、初めて自分から告白して待たされ振られた時分に読んでいた有川浩『図書館戦争』シリーズよりもはるかに濃く……。
 初恋を描いたお話としてはよくある顛末で、筋運びもテンプレート通りなのにもかかわらず、読み終わってみればこちらの心を容赦なく抉ってくるビター・スウィートな小説だった。いやぁ、恋は苦いね!◆
2017年04月29日 23時40分



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第2588日目 〈夏過ぎて、秋は来にけり、よかったな。──無沙汰の挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 ただいま! 夏の間は不定期な更新になって相済まなかった。可能な限り暑い夏は働きたくない、という程にこの季節を疎んじ厭うがゆえ、たとい例年に較べて涼しく過ごすことが出来たと雖も季節が忌まわしき<夏>であることに変わりはなく、為に暑かろうが涼しかろう(寒かろう)が夏であることに変わりはないじゃん、と開き直って過ごしていたら、肝心のブログ更新も週一から二週に一度となり、挙げ句にもはや三週間も停滞しているとなっては弁解の仕様もない。詭弁を弄する準備はあるが、それをやると向こう三ヶ月毎日更新する羽目になるのでそれはやらない(本気にしないよう、読者諸兄にはお願い申しあげる次第)。
 さて。そう小林完吾風に曰おう。ただ、元日本テレビ・アナウンサー小林完吾を知る人がどれだけ本ブログをお読みくださっているか見当が付かないけれど、それはまぁそれとして、話を先に進めよう。GoAhead.
 お休みというかサボっているというか、表現はともかくみくらさんさんかが皆様の前から姿を消していた間、肝心要のわたくし──みくらさんさんかを演じるわたくしの身の上には、まぁいろいろありましたね。たとえば? お話しできる範囲でいえば勤務先が変わり、就業時間が変わった。トータルで見ればお給料はわずかに上がったもののその代償か、通勤場所がこれまでより微妙に遠くなり、従って満員電車に揺られる時間も延びてしまい、もう毎日がわちゃわちゃしております。メリットがあるとすれば昨年のこの時期にも同じことをいうた覚えがあるのだけれど、一日平均の読書ペースが上がり、一冊を読了する日数が短縮されたことでしょうかね。勿論本のジャンルや分量、活字のフォント、ページのレイアウト、諸々加味することになるので一概に「短くなった」とは申せないのですが、均せばそんな具合であります。
 もっとも、そんな状況であったも原稿は書き、ブログ更新にこれまで勤めてきたわけですから上記がまさに言い訳の範疇を出ないことはじゅうぶん承知している。とはいえその間仕事を離れたところで、常なら本ブログのための原稿をしこしこ書き綴っているべき会社外の時間はなにをしていたのかと訊ねられても、わたくしは正解をお伝えすることができない。疚しいことでも後ろめたいことでも公言を憚られる類のものでもないことはご理解いただきたいのだけれど、単にわたくしはその間自分が行っていた作業について口を開いてご説明申しあげる勇気を持たないのだ。持たない、というよりも、敢えてご説明する必要性をまるで感じないだけの話。もっとも、この間に行っていた内緒事はもしかすると、遠からず本ブログにてお披露目できるかもしれない。──が、そのような事態にならないことをわたくしは切に祈っている。お披露目できるということはある意味で箸にも棒にも引っ掛からなかった、という意味なのだから。嗚呼!!
 ところで久しぶりの休日に海ある故郷の或る喫茶店にてコーヒーを飲みながらこの文章を、Mac Book Air相手に弾丸の如くキーボードに指を走らせて綴っているのだが(1179語。ここまで約十五分)、本ブログの今後の、あまり信頼できない展望についてお知らせしておきたい。
 更新頻度が週に一度となるか、あるいは二週に一度か、状況によって流動的になるのは否めないとしても、取り敢えず一ヶ月に最低二回は更新することを約束しよう。胸を張ってわたくしは諸兄に公約する。それが何ヶ月続くかわたくしにもその実さっぱりなのだが(おい)、お披露目するエッセイがどのようなものか、それは概ね決定している。というても3ヶ月近く前に決定稿が仕上がっている小説2冊の感想と、第一稿のまま筐底に秘した『ラブライブ!サンシャイン!!』に関する文章(休日の朝、まだ覚めやらぬまま綴ったものでね)が、その待機リストにあがっている。その他にも執筆予定として以前に予告していた綾辻行人『霧越邸殺人事件』と『深泥丘奇談』全3巻(いずれも角川文庫)、歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)の感想、マレイ・ペライア奏でるバッハ作品への種々の想い、YouTubeで観たサイモン・ラトル=ロンドン響及び超豪華ゲストによるヴァンゲリス作曲/映画『炎のランナー』メインテーマと、チェリビダッケ=ミュンヘン・フィルによるラヴェル《ボレロ》の感想、お馴染みな日常雑記・心象吐露エトセトラエトセトラ、盛りだくさんというもおこがましい平常運転の内容をお届けする予定だ。
 そういうたかて、現時点でどれだけ仕込みが済んでいても結局は<絵に描いた餅>に過ぎないので、これ以上の贅言は慎むことにするが、こんな具合にこれからも更新・お披露目してゆきますよ、というわが身への諫めも兼ねた予告編であることをどうぞ、読者諸兄にはご了承願いたいのだ。
 年度が替わる頃には毎日更新に戻ることができればいいな。久しぶりに読者諸兄の前に姿を現したみくらさんさんかはそんな春風駘蕩なことをお気楽に述べた後、即ちいまこの瞬間、筆を擱いてふらふら駅前の大衆酒場へ遊びに行ってまいります。ビバ!◆

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第2587日目 〈子守唄はワーグナー。その夜見た夢は、……〉 [日々の思い・独り言]

 昨日までは《トリスタンとイゾルデ》を就眠の音楽にしていた。今日は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第一幕、明日はその第二幕……。
 都合三夜、《トリスタン》が子守唄だったわけだが、おお友よ教えてほしい、この間に見た夢のいずれもがもの哀しいそれであったのは偶然と済ませてよいのか否か、を。
 こんな夢だった、──
 一夜めは濡れ縁に坐って背中を丸め、しとどに泣く母を見た。その原因はわたくしだ。母を欺き、放蕩に耽り、遂に彼女の知るところとなっては気も狂わんばかりに喚いてわたくしを詰り、刹那の後には頭を振って泣き明かし。顧みればわたくしは母を悲しませてばかりの人生を過ごしてきた。本来なら孫の顔を見せ、抱かせ、悠々自適とまではいわぬまでも気苦労のない暮らしをさせてあげていられる年齢なのに。家族を作るでもなく、そのために行動するわけでもないわたくしは罪人だ。──そのあと、母の姿は見えなくなって、わたくしは夢から覚めて泣いていた。
 二夜めはYさんを見た。通路を挟んだ両側に小上がりのある居酒屋。顔と名前が一致しない勤め先の人がたくさんいるなか、テーブルを同じうしたYさんが既に退職しているのをゆくりなくも本人から知らされた。もうとっくだよぉ。まわりが賑やかななか、ふと、そのあとで気まずさと焦燥と、心のなかで膨らんでくる或る種の禁忌を覚えた。物理的にはとても近くにいるのに実際はいちばん遠くに……。それからYさんは消えて、わたくしは夢から覚めて空しくなった。
 三夜めは雨のなかをAさんと歩いていた。学校みたいに平べったい建物を出て、門からすこし歩いたところの二股路で他の同僚と別れ、駅に向かう。田舎だ、そこは。樹木から枝が大きく張りだして覆う下の道を、無言で歩いた。小高い山の斜面に作られた道らしかった。右手には麓の街が広がっている。唐突にAさんが口を開いた、戻ってこないでね? 当たり前だ、と即答した。今更、あの不正と策謀と縁故で腐敗した<お友達部署>へ、はたして誰が戻ろうとするのか。罪人の仲間入りはごめんだ。雨はしとしと降り続ける。そのあと夢から覚めて、縁切りして思い出から葬った過去を想うて、万歳三唱したわたくし。
 ──作曲家と愛人の不義の結晶はわたくしの深層意識に働きかけて、顔を背けていた出来事を垣間見せ、もの哀しい思いと悔恨の思いを寝覚めの心に残していった。
 音楽はそのときの心にどのような影響を及ぼすか。いっときそんなことを考えてみもしたが、日々の諸事にかまけているうち忘れてしまった。もしこれらの夢を《トリスタンとイゾルデ》が見させたのなら、ならば《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は失脚と獲得、諦念と礼讃の夢をわたくしに見させるのだろうか──否、そんな単純な話ではよもやあるまい。
 子守唄はワーグナー作曲。いまは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、つぎは《ローエングリン》、《パルジファル》……。さて、わたくしはその夜、どんな夢を見る?◆

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