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第2662日目 〈はじまりは、アレックス。〉 [日々の思い・独り言]

 毎度お馴染み、みくらさんさんかが傲岸不遜にも読者諸兄へ、ちかごろのわたくしが経済や投資、金融の本をよく読んでいる理由について語る時間のはじまりだ。……上から目線の文章って、書いていて疲れるね。
 では、気を取り直して。
 マイケル・J・フォックスがTVドラマ『ファミリー・タイズ』(「全米熱中TV」!!)で演じたアレックス・P・キートン。『BTTF』時代からかれのファンをやっている方には周知の事実だが、マイケルの出世作となった作品であり、また配偶者トレイシー・ポランとのロマンスが生まれたドラマでもある。
 日本では第3-4シーズンのみの放送であったそうだが、これがもう粒選りのエピソードがずらり、揃ったシーズンで、当時放送されていたアメリカ・ドラマのなかでも2番目にベタ惚れした作品である(1番は、『特攻野郎! Aチーム』だ。これは不動だ)。
 アレックスはお金が大好き。が、そこにカツオのようながめつさと卑しさと浅はかさは、ない。金持ち父さんではないが、かれはお金を循環させ、お金に働かせることの意味と、富の力とそれが持つ様々な良い面と悪い面を、理解していた人物であったように思う。
 想像でしかないし、顰蹙を買うやもしれぬが、アレックスはもしかするとビジネスの世界で大いに活躍、成功して、もしかするとドナルド・トランプのような成功して富を築き、各方面へ影響力と求心力を備えた人物になっていたって、ゆめ可笑しくはなかっただろう(どうでもよい話だが、わたくしは大統領としてはともかく、ビジネスマンとしてのトランプを大いに尊敬する)。
 お金が大好きなアレックス、お金に愛されるアレックス──かれはハイスクール時代から経済やビジネスの本を愛読し、将来のヴィジョンを組み立て、遂にはこんなことまで口走り始めるのだ、曰く、「夜になるとお金が僕に囁くんだ、いいぞ、アレックス、もっと仲間を集めろ、って」と。
 まぁ、かれも10代の少年、ドラマのなかでいろいろ問題行動/発言はあったが、お金やビジネスについてきちんと自分なりの意見や考えを持つアレックスは、当時のわたくしにとって憧れの存在だった。
 いまは若干風潮が変わってきているようだけれど、わたくしが10代の頃はまだお金の話はするものではない、それをするのはちょっと汚くないか、なんて空気が残っていたからなぁ……バブル景気の真っ只中にあった時代だったせいかもしれないが、あの頃はなにをやっても相応以上のお金が稼げたし、それを運用するのも銀行に預けるだけでとんでもない利子が付いたりして、両手団扇だったしね。つまり、特に資産運用なんてしなくても、稼げて貯められる時代だったのだ。ゆえに、お金の話をするのはチト貧乏くさい側面もあったのだ。
 また脱線した、軌道修正。
 まぁ、そんなわけで当時の日本にあってアレックス・キートンはひときわ目立つ存在だったのだ。すくなくともわたくしの目には、とても異質で新鮮で、なにがしかの啓示を与えてくれる人物と映ったのである。ゆえに、というか、影響されやすい、というか、大学へ進学したら経済学部か商学部、或いは法学部に学んで、就職先は金融機関か証券会社、総合商社か、或いは無難に公務員……なんて考えていた。
 が、その夢はあえなく潰えた。在学中にバブルは弾け、就職シーンは低迷どころか暗黒時代を迎え、わたくしの卒業する頃がもっともその影響が深刻になったのである。事実、わたくしは明日から新年度、という日に内定取消の電話をもらった……! 公務員という未来がずうっと具体的に自分の前に立ち現れたのは、バブル崩壊という背景あってのことだ(このあたりはアレックスと関係ない話ですな)。
 その時分からなんとなく、自分の未来が思い描いていたものとは違ってきたなぁ、という実感がある。結果的にわたくしは進学先で文学、しかも<日本古典文学>なんてものを専攻し、カビ臭い学問にウツツを抜かして、アレックスの影を知らず追い出すことに成功してしまっていたね。これは、顧みる必要もなくわたくしの人生が悪い方向へねじ曲がる、一種のターニング・ポイントであった。
 グウタラグウタラして毎日を過ごし、ただ好きな学問と創作に明け暮れて、未来への投資も蓄財も二の次三の次、いつしかアレックスの影も実業への情熱もわたくしのなかからは消えてしまっていた。それから干支は、なんと2度も巡って現在に至る。
 それまで志しては挫折してを繰り返し、泥沼というか負のスパイラルにみごと落ちこみ抜けられず(ロバート・キヨサキいうところの<ラットレース>より、はるかにタチが悪い!!!)、そんな己に怒り、恥じ、侮蔑し、行く末の望みも抱けぬままだったが、じつは昨年あたりから転機が訪れているのだ。それを実感しているいまだからこそ、書けるエッセイが本稿である、とは流石に尊大の親玉じみているだろうか。
 ──転機とはなにか? 自宅敷地内に建つアパートの建て替えである。ここまで2019/07/20 13:00
 昨年の早春、地元の不動産屋さんに入居者募集や管理等々の件で挨拶に伺ったり、建設会社や各下請け会社の人たちと顔合わせ、打ち合わせを重ねたり、とこれまで自分が施主・オーナーという立場になったことで、これまで直接タッチしたことのなかった分野の方々と接することが多くなった。そのなかで最も重要な位置を占め、建物引き渡し後も長くお付き合いすることになるのが、金融機関のご担当者様であるのはいうまでもない。
 この時分から──8月の終わり頃かな──ようやく、<アパートのオーナー>という<経営者>である自覚が生まれ、また、不動産投資家たらんてふ志も生まれた。「カボチャの馬車」に端を発するスルガ銀行の不正融資の一件ゆえに投資家となる道に暗雲が立ちこめ、けっして予定通りに事は運んでいない。実業に関してはそんな次第で険しい道を歩いているが、いちど抱いた志を棄てることはけっして、断じて、ない。家族のため、自分のため、未来のため、社会のため、である。
 その代わり、というてはなんだが業者や金融機関と折衝してゆく過程で、どれだけ自分が無知であったか、思い知らされもした。不動産会社で営業をやっていたことはいちおうの下地になっているけれど、実務面ではまるで違う分野の人たちとの付き合いだから、わからぬことだらけなのだ。
 それゆえ、すくなくとも今年いっぱいは勉強の時間と割り切り、不動産投資や投資信託、またお金にまつわる本を読みまくり、証券会社や金融機関に持つ幾つかの口座の役割について思いを巡らせ、<資産運用>を真剣に考え、研究し、幾許かの貯金を元手に株やその他の投資を始めたのである。
 いまも傍らには『会社四季報 2019年3集夏』と株式投資、信託銀行について書かれた本、またFPと証券外務員2種のテキストがある(絶対合格しなくっちゃ!)。ああ、『ファミリー・タイズ』の影響が残っている年齢にこれらの本を侍らせ、読み耽っていたならば、わたくしはもう少し上向きの人生を歩んでいるはずなのに。同年代の人々と変わらぬ家庭を持ち、会社にあっても相応の肩書きを持ち、また収入を得ていたことであろうに。
 それとはまるで異なる現在の自分に憤りを感じている。せめて救いなのは、昨年からわたしの身の回りで起こった変化が結果的に失くしてしまったアレックスへの憧れを呼び起こし、芋蔓式に湧きあがって高じたお金への関心・執心からもっと給料の良い部署へ異動願いを出してそれが叶い、やっとわたくしはかつて胸のなかに抱いた金融機関に身を置くことができた。様々な知識をいま、研修を受けながら身に付けているのが、わたくしの現在(just now)である。ずいぶんと遠回りをしてしまった……。
 持病が悪化して研修中にもかかわらず1週間近く欠勤してしまったのが無念だが、事情はこれからかならず好転する。すくなくとも3年はここに齧りついて、自分のチームが抱える業務は勿論金融機関の知識と、対応の経験を積み、資格を取り、揉まれてゆこう。もう逃げることも、諦めることもできないのだ。それにね、願ったとおりに事態は流転して変化して、幸にあふれた未来が目の前に広がることを、わたくしは知っている。マーフィー理論? うん、そうかも。
 それに併せて、というわけではないけれど、つい先日、これから3年間で実行する、実現する、と決めた諸々をリスト化した。B/S作成の為、いろいろと洗い出していた副産物なのだが、負債が純資産を大きく上回っていたのには、狼狽させられたな。斯くなる上は、と強い決意を固めて財政健全化を目的に、件のリストを書き綴ったわけである。そのうちの2/3はかならず実現させるぞ。
 ……アレックスはドラマが終わったあと、どのような人生を歩み、いまどんな生活をしているのだろう。サブプライムローンやリーマン・ショックの煽りを受けて、どうか貧窮した生活を送っている、なんてことになっていませんように。
 わたくしは、前に進む。そう誓う。◆

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第2661日目 〈令和元年夏(2019/07/21)、参議院選挙の結果を承けての綴り事。〉 [日々の思い・独り言]

 日付の変わる時刻に本ブログを書いております。
 昨日の参議院選挙、だいたい趨勢は決したようであります。憲法改正に前向きな改憲勢力は残念ながら、必要な85議席を下回ることはほぼ確定の様子。立憲民主党は議席を増やすだろうとは思うたが、まさか倍増するとは。
 安倍首相の総裁4選の話もちらほら出ているようですが、わたくしは賛成です。政権の結果を出すためにも、安倍内閣にはもう1任期は最低でも務めてもらわなくては。改革を止める事態に陥ってはならない。改憲にも増税にも否を唱える者ではない。否を唱える理由も、ない。

 ……今回に参議院選挙は、前回に比べて投票率が下がったようでしたね。期日前投票も投票日たる昨日も、一票を投じる人の数が減ったのは、正直、意外でした。
 あれだけ様々な形で、場面で「投票へ行こう」メッセージが全世代へ向けて放たれたのに、投票所へ足を運ばず一票を投じることもせず、出された結果について不平不満を漏らす衆が増産されたことに、強い危惧と深い懸念を覚えます。
 未来を考える選挙に参加しなかった分際で、政治について云々し、景気や増税、改憲について揶揄罵倒するなんて、ねじが外れていませんかね?
 国民として為すべき事を為すことを放棄した連衆のことは放っておいて、さて、──

 わが神奈川県の結果は、このようになりました。
 ○自由民主党:島村大
  現 58歳 当選1回 元日本歯科医師連盟理事長 自民党厚生労働部会副部会長
 ○立憲民主党:牧山ひろえ
  現 54歳 当選2回 米国ニューヨーク州弁護士 立憲民主党神奈川県連副代表
 ○公明党:佐々木さやか
  現 38歳 当選1回 自民党推薦 弁護士 公明党学生局長
 ○日本維新の会:松沢成史
  現 61歳 当選1回 元神奈川県知事 元希望の党代表
 4議席のうち3議席、島村さん、牧山さん、佐々木さんは早々に当確だったが、残る1議席がどうなるか、手に汗握って(ん?)ずっとNHKの選挙番組を観ていました。で、こういうときに限って、なかなか当確の情報が出て来ないのね。元神奈川県知事だった松沢さんなのか、何年振りかで共産党が議席を得ることに期待がかかっていた浅賀さんなのか……。
 結果は上記の通り、松沢さんに軍配が挙がった。ただ、ずっと得票数は浅賀さんより松沢さんの方が上回っていたのに、松沢さんの名前が出て来ないことが頭のなかに「?」が飛び交っていたのですよね。
 まぁそれはともかく、神奈川県は全議席が現役で埋まった。安定していると言えばその通りだが、如何に新人が食いこむことが難しいかを目の当たりにさせられた気分であります。当選された4氏には、投票してくれた人々の期待を裏切らない活躍を希望します。◆

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第2660日目 〈太宰治『お伽草紙』読書がはかどらないのは、活字が小さいせいかなぁ?〉 [日々の思い・独り言]

 【前回の太宰治】
 「新釈諸国噺」の読書が進まぬことに悄然としたわたくしは、顧みて自分が西鶴始め浮世草子の類に愛着等がまるでないためだ、と判断。ひとまずの溜飲をさげた。が、前稿を間もなく書き終える、という段に至って別の原因に思いあたる──。

 「新釈諸国噺」に限らず文庫『お伽草紙』を読み進められないのは、どうしてだろう? ずっと考えていた。するうち、はた、と思い当たる節があるのに気附き、妙に納得させられたことである。
 既読の文庫と較べてこの『お伽草紙』、活字のフォントが小さいよね。それが原因?
 これをどこで購うたか、もはや記憶にない。後の理由から、古書店/新古書店であろうと思われるが裏附けできる証拠は、残念ながら一つもない。
 が、過去に読んでいまは書架にて一時的ながら眠りを貪る新潮文庫版太宰治作品集は、いずれも活字のフォントが大きなタイプであったように記憶する(従来の面倒臭がりが遺憾なく発揮されているゆえ、実際の確認はできていないが……)。すくなくとも活字の大きさがネックとなって読み倦ね、読書行為そのもの敬遠には結び付かなかったことだけは、はっきりしている。
 そこで思い立ったのが本書と、活字が大きかった『晩年』のフォントサイズを比較してみることだった。調べてみましょう、モナミ。
 ──『お伽草紙』は30ポイント、けっして小さいとはいえないサイズだ。10年ちょっと前までは、これが定番だった。一方、『晩年』は35ポイントである。──わずか5ポイントの違いは読書へ如何様に影響を及ぼすか?
 あくまで個人の見解であることを、先にお断りしておく、──
 いまでも30ポイントで活字が組まれた文庫を、わたくしは普段からなんの抵抗も支障もなく読んでいる。寝しなの、仰向けになっての読書には向かないからそのときだけは避ける、という程度。いまはちょっと中断している横溝正史の読書も、こちらはわたくしがまだ小さい頃に刊行された文庫だから活字は30ポイントよりも小さく感じるが、それでも読書の中断に影響を及ぼすものではなかった。
 が、同じ30ポイント或いはそれ以下のサイズであっても、35ポイントであっても、読みやすさ・読みにくさという点では一つの共通項が見出せる。即ち、改行の頻度である。小さな活字であっても改行が適宜されていれば、文章を追ってゆくのにいったいなんの支障があろう?
 が、『お伽草紙』は活字が小さいことに加えて、改行もそう多くはないのだ。句読点の少なさに音をあげる向きもあるようだが、そんなこと、すくなくともわたくしには無縁の悩み。改行云々が決定的要因ではないけれど、それによって読書スピードが総体的に落ち、目の疲れを及ぼし集中力の低下を招き、次第に件の本を手にする機会が遠のいてゆく、という流れは容易に想像できるし、これまでも何度か経験してきたことだ。
 目の疲れということに関していえば、次第に乾いてきて目がかすむ、という類のそれではなく、むしろ視力の低下(老化、ともいう)に帰せられる話題である。ここ1年間で、急激に視力の低下を実感しているのだが、加えてピントが合わなくなってきていることも同じように。コレハ由々シキ事態ナノデスヨ、兄弟。
 視力検査のあと眼鏡を作り直せば解決する問題なのかもしれない。自覚していながら、自らの怠惰ゆえになかなか行き付けの眼鏡屋さんへ足を向けないのだから、なかなかこの男、始末に負えないね。
 ちかごろは本気でハズキ・ルーペの購入を考えている(1.6倍か1.8倍を)のだが、果たしてそれが抜本的な解決をもたらすか、といえば、おそらく答えは「否」と思われる。普段から掛けている眼鏡で、まずは案件の解決を目指すべきであろう。自室でのみならば構わないけれど、カフェや電車のなかで眼鏡の上からハズキ・ルーペを着けるのも手間だし、正直なところ、ちょっと恥ずかしい。そも、持ち歩くことがどこまで想定されて作られているか、わからないしね。
 まぁ、ハズキ・ルーペの話題はともかく、プロジェクト達成の意味も含めて「新釈諸国噺」は勿論、『お伽草紙』を飛ばすことなくだれることなく、物語を翫味しつつ読了したい。それはわたくしの、2019年中盤の切なる願い。感受性は鈍ってしまったが、太宰治の作物をもっともっと愉しみたい。その一念からの、願いなのだ。
 そこでわたくしは(或る意味で滅法クダラナイ)、一つの実験を試みることにした。即ち、──
 他と同じく35ポイントの、改版された新潮文庫版『お伽草紙』を本屋さんで買ってきた。明日から太宰はこちらで読んでみる。果たして浮世草子を苦手とする性向が祟って読み倦ねていた面、けっして否定できぬ「新釈諸国噺」を明日から毎日、わたくしは読んでゆくことができるかどうか。
 事情ありまるで読めぬ日もあろうし、1日に1編しか読めぬ日だってあるだろう。それでも、30ポイントの文庫時代とは違い、心理的にも身体的にも負担なく読み進めてゆくことができれば、もうそれを慶事といわずしてなんといおうか? その暁には、諸君喝采せよ峠は乗り越え目の前に広がるは希望に満ちた沃野である、とわたくしは叫ぼう。
 できれば今月中に35ポイントの文庫で『お伽草紙』が読み終え、今月下旬か来月へさしかかる頃には、次に読む本として用意してある『二十世紀旗手』を通勤カバンに忍ばせられるといいな。
 そんな期待を抱きながら、明日から実験に臨む。結果はかならず、かならずご報告します。
 それじゃあ皆さま、おやすみなさい。

 【近日公開】
 ──あれ、読むスピードと物語への没入度、これまでとぜんぜん違くね?◆

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第2659日目 〈太宰治『お伽草紙』を読んでいるのですが……。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろ趣味の読書がまったくはかどらない。哀しく、嘆かわしいことである。『晩年』から再読書を始めた太宰治の未読本、2冊目の『お伽草紙』でさっそくつまずく事態に陥ってしまったのだ。通勤カバンの肥やしになって、もうどれぐらい経つ? つらつら考えているうち、太宰作品へののめりこみ具合が以前程でなくなっているのに気が付いて、唖然呆然、愕然悄然。
 どうしてだろう?
 誤解を承知でいえば、<面白さ>や<夢中になれる><その文学を渇望する>という意味で、わたくしのなかで太宰文学は「賞味期限が過ぎた」のかもしれない。「鉄は熱いうちに打て」てふ諺、どうやら読書に於いてもいえることらしいね、ワトスン。
 太宰文学の、殊初期作品が持つロマンティシズム、ニヒリズム、ナルシズムは、<読者を選ぶ>というより、<読者の感性と年齢>をより選ぶようだ。読者の年齢が若ければその分、太宰文学の感染力は力を増す。世界を死滅させた、かの”キャプテン・トリップ”も裸足で逃げ出すぐらい、極めて強力かつ自覚症状なき流行性感冒。ちなみにそれの潜伏期間は人によってばらつきが見られるけれど、若いうちに読んだ人程一生の付き合いになる可能性は高いという。
 が、これを逆手に取れば年経り人生を積み重ね、髪に白いものが混ざり始めた年代が改めて手に取るのは、チトきつい部分がある、ということではないか。
 太宰治の文学が大人の鑑賞に堪えぬ、というのでは勿論ない。ただ、甘ったるさが鼻につき、必要以上に感傷的になってしまうのだ。赤面して、むず痒くなってしまうのだ。過ぎ去り時代の傷をごそごそと撫でられたり、記憶の底で澱のように沈殿して眠りについていたような思い出を浮かびあがらせ向き合わされる気恥ずかしさと悔恨……。読み手と作品の一体化ではなく、或る程度の乖離はあっても仕方ないというのが、中年もしくは初老の年齢に差しかかった者が太宰治を読む態度なのかもしれないな、と思うているのだ。
 太宰再読、その嚆矢を担ったのは『晩年』である、と先に書いた。何編かを除けば概ね惰性で読むのが常だったと雖も、たとえば「ロマネスク」など3編に○印を付け得たのはせめてもの幸いか。それは一読、二読して愉しく、惚れてしまった作品の証──。残念ながら「道化の華」は事情あって読み止したまま、終わりまでページを繰ることかなわず、それっきりになってしまったのだが。そのうちに読もう(この態度がいけない。「いつ読むの? いまでしょ」、それは済まぬが、できそうにないな)。
 いまは2冊目、『お伽草紙』である。こちらは『晩年』以上に読書に気が乗らず、青息吐息で一編を読み終えるのも珍しくない。通勤カバンの肥やしになりつつあることは既に述べた通りだが、ここに至ってもう一つ、別の読書を怠ける理由めいたものが生まれたことに、顔を顰めて頭を抱えて、嗟嘆している。
 「新釈諸国噺」で現在、足踏み状態なのだ。井原西鶴の浮世草子の群れから太宰が何編かピックアップして、かれなりの味付けを施した、或る意味で短編小説の面白さが堪能できるはずの作品にもかかわらず、わたくしの心はいっこうこれを愉しまず、活字を追う目は虚ろでページを繰る手は鈍り、物語は感情にわずかの動きも与えない……。気に喰わない。読む時間がなかなか取れない、とか、仕事が忙しくってねぇ、なんてよくある理由は、ここでは二番手に過ぎぬ。では──?
 包み隠さず、正直に、ミもフタもないことを申しあげる。
 「凡例」や奥野健男の解説へ触れたときから、「新釈諸国噺」を読むことに幾許かの危惧を抱いていた。なぜなら、学生時代からこの方、浮世草子を始めとする西鶴の小説とは相性が悪いからだ。
 総じてわたくしは、西鶴や八文字屋本に代表される浮世草子が好きではない。一個の物語として鑑賞したとき、読み応えをまるで感じないのだ。そもそも雑に書かれたものが多いよね。岩波書店や新潮社、小学館の古典文学の叢書に含まれる作品は当然として、図書館から借りたりしたものでそれなりの数の浮世草子を読み漁ったけれど、心を動かされるぐらいにインパクトのある作品には、ついぞお目に掛かることができなかった。
 ──偉そうなことを、と、また知らぬところで揶揄されそうな発言をしたが、実際わたくしは20代の結構な時間を費やしてそれらを読んだのだから、なにも後ろめたさを感じることも恥じ入ることもなく、堂々と斯く申しあげる。
 勿論、読み得たものは近世期を通じて出版されたものの一部でしかない。氷山の一角なのだ、翻刻されている作品は。が、この或る意味で馬鹿げた読書を行うことで、メジャー、セミ・メジャー、マイナーな作品と玉石混淆ながら、浮世草子とは相性の悪いことが確認できただけでも収穫といえよう。当然の如く例外的な作品はあったけれど、それとて両手の指を折って足りるぐらいの数だ。やはり近世期に書かれた小説、ジャンルでいえば、読本が好きだ。
 例外ありと雖も西鶴が苦手な事実は、動かせない。それゆえと思うているのだ、「新釈諸国噺」を読みあぐねているのは。言い訳? そうさ。まぁそれはともかく、いまのわたくしが『お伽草紙』を開くとき、惰性で「新釈諸国噺」へ目を通しているのも事実なのである。もはや読むのは義務で、その行為は惰性に等しい。
 <新潮文庫版太宰治作品集・全冊全作品読破プロジェクト>第2弾なんてものを掲げていなければ、疾うにこの1冊は部屋の隅に抛って次の本に取り掛かっていたところだろう。かつて平井呈一がマッケン「A Fragments of Life」で従来のマッケン作品と違う肌合いを感じて読むのをやめ、これを収録した『』を放りやってしばらく忘却していたのと同じように。
 が、この世には義務にかられての読書もあるのだ。義務、という言葉が的を射ていないのは承知している。どういい換えればよいか……そうだ、<一つの目標を達成するため読むべきなかに必ず存在する、どうにも気分が乗らないけれど機械的に読み進めるより他ない本>といおう。顧みれば、クリスティにもドストエフスキーにも、そういう本はあった。赤川次郎にも源氏鶏太にも、横溝正史にもラヴクラフトにも、なによりスティーヴン・キングにさえ、そういう本があった。太宰にもあって、なんの不思議はない。
 いまは砂を噛むような読書に耐え、それが終わったあと目の前に開ける、読み終えた者だけが見ることのできる風景を目にするその瞬間を頼みにして、「新釈諸国噺」をゆるゆると読み進めよう。

 【次回予告】
 ……ああ、でももしかすると読み倦ねているのは、この文庫だけ活字が小さいせいかなぁ……。◆

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第2658日目 〈ときめきを感じない本なら捨てられるの? 否。そんなこと、あるわけがない。〉 [日々の思い・独り言]

 本を処分して、まったく割に合わぬ買取金額に憤然としつつも納得し、すこしだけ広くなった(と錯覚される)書棚と部屋を眺めながら、つらつらと考えた。処分できる本とできない本を分かつ基準は、なにか?
 片づけ術のオーソリティとして、いまや世界的に知られる存在となった石原麻里子が提唱するのは、<ときめきを感じるか、否か>である。成る程な、と思う一方で、いやちょっと待ってくれ、と声を荒げてしまうのだ。洋服や生活用品については、それで或る程度までは割り切れる部分もあろう。
 が、本はどうか? 彼女の架蔵する本がどこにでも転がっているような、或いは処分しても某新古書店を覗けば棚差しされているような、そんな程度の本ばかりなら、斯様に無責任かつ乱暴な発言も許されようけれど、……蔵書家の立場に立って<片づけ術>を提唱できるような人材は、この世界には存在しないのであろうか。嗚呼! もっとも、そんな人がいてもけっして参考にならぬ意見ばかりが飛び出すような予感しかしないけれど、ね。
 ときめきを覚えなくても手許に置いておきたい本というものが、一定程度以上の蔵書を抱える人には絶対にあるに相違ない。わたくしにも、ある。辞書辞典、地図に始まり各種レファレンス類。のみならず、過去にわたくしのなかを通って血肉となり、いまはもう退役していると雖も書架にあって暗に存在を感じさせる本というのが、確かにある。
 そのなかには思い出やときめきとはまるで異なる次元の執着や情念がこびりついた本も、存在しているのだ。中学生の時分から買い集めて耽読し、火事をくぐり抜けて手許に残った幻想文学というジャンルの書籍は、まさしく思い出と共に執着や情念が塗りこまれた本なのである。日本の古典文学に関しては最近、再び自分のなかで燃えあがってきたジャンルなので、いまはここから除外しておく。
 けっきょく、処分できる本と処分できない本の間に、線引きできるようなものはなに一つとしてないのだ。ゆえに本の処分や片付けは、あらゆる片付けや収納についての指南書やアドバイザーが避けて通るのだろう。ブックオフに売りなさい? 倉庫に預けなさい? ヤフオクやメルカリを利用しましょう? 阿呆か。そんなことで済むなら、蔵書家は誰も苦労しない。
 厄介かつ哀しい作業だよね、本の処分って。CDのほうがまだ割り切れる(個人の意見です)。
 でも、いつまで生きていられるか、わからない。人生は有限である。本はあの世に持ってゆけないのだ。残された者に苦労をさせてはならない。──為、いまのうちから断腸の思いを退けて鬼神と化して、「これも捨てる! あれも持ってゆけ!」とばかりに震える手で快刀を振るうよりないのだろうなぁ。
 紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)に記された、著者の想いが近頃よくわかるようになってきた。日本を代表する知識人がこれまで蓄蔵した数々の蔵書、災害等を避けるために中国地方へ書庫附き戸建を購入して移住したにもかかわらず、寄る年波に抗うこと能わずシニア向けマンションへ入居するため、蔵書の過半を(殆どすべて、という方が正解なのか……)処分する顛末など、涙なくして読めるものではない。
 いつか自分にもその日が訪れるやもしれぬ。そう考えたら、尻の下がむずむずしてきて、一刻も早く視界に入る多くの本を処分したくてならなくなる……のだが、自分にそんな勇断をくだして決行するなんてことが、果たしてできるのだろうか。そう思うと決意はたちまち萎えてゆく……。
 子供の頃から親しんだ本を処分できる日の訪れよりも、架蔵する本をしまう書庫と捨てられない本の避難所を兼ねて、家族で住まう新しい家を建てることの方が、よっぽど現実的なんだけれどな。◆

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第2657日目2/2 〈京都アニメーションの事件。〉 [日々の思い・独り言]

 なぜ? どうして? そんな疑問が朝からずっと、頭のなかをぐるぐる回っています。
 ちょうどスカパー!でリピート放送されて録り溜めした『けいおん!!』を観ていたこともあり、今回の事件がなおさら心に痛く突き刺さります……。いったいどうして、このようなことが?
 『涼宮ハルヒの憂鬱』、『氷菓』、『響け! ユーフォニアム』、『日常』、『中二病でも恋がしたい!』、その他たくさんの素晴らしい作品がわれらの心を、時にあたたかく、時に慰撫し、また時に涙流させることもありました。この会社が製作する作品には、いつどんなときでも<優しさ>が満ちあふれていたのです。
 新作アニメの製作発表の際、製作会社に「京都アニメーション」の名前があるだけで、われらは安心してその作品へ期待を寄せることができました。クオリティと内容の良さは、保証されたも同然でしたから。
 世にたくさんの魅力的な作品を送り出してきた京都アニメーションと、そこで働いてわれらにたくさんの幸せをもたらしてくれたスタッフの方々を、けさ凶事が襲った。憤りよりも先に、冒頭の疑問が脳裏を駆けめぐり続けました。
 月並みな言葉ではありますが、亡くなられた方々のご冥福をお祈り致します。負傷されて医療機関に搬送、治療を受けている方々のご快復をお祈り致します。どうかこれ以上の死傷者が出ませんように。
 火災によって失われた資産の数々、その損壊の程度も心配ですが、一日も早く、犯人の口から真相が語られますように。◆

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第2657日目1/2 〈DELLのノートPCを購入したよ。〉 [日々の思い・独り言]

 いつの間にやら、Windowsマシンを買っていたのです。それから数ヶ月後には、遂に、というかようやくというか、一太郎の最新ヴァージョンも。……けっしてMacから乗り換えた(出戻った)わけではありません。Macから離れることは、ない。
 <WindowsとMacの両刀遣い>になったそもそもの理由は、そうならざるを得ない理由が生まれたからだ。購入したのは昨年夏のこと、ほぼ1年前ですね(あの頃の仕事はとっても楽しかった。環境にも上司・同僚にも、体調にも、本当に恵まれていた。戻れるものなら、ホント、戻りたいですわ)。
 当時、どちらかというと事務作業がメイン業務になっていたわたくしは、毎日の日報や週一の週報、各種データ集計、既存資料の修正と新規資料の作成、或いはそれらにまつわる付帯業務に明け暮れており(懐かしい!)、ちょっとは頼られる存在になっていた(自画自賛)。
 その過程でExcelを使用する場面が非常に多くなったのだが、実はわたくしはこれまでの仕事でExcelを頻繁に使って作業する場面に遭遇したことがなかった。精々が既存資料の小さな修正や指定箇所へのデータ入力程度。
 また、当時自宅に在っても表計算ソフトが使いこなせたら便利だ、という場面が多くなっていた。MacでもNumbersという表計算ソフトを使えば資料は作れるが、どうにもこいつ、意固地でなかなか使い勝手がよろしくない。やはりこの種の作業はMicrosoftの方が一段上だなぁ、そう認めざるを得なかった。
 加えていえば、新しいパソコンを買えるぐらいの貯金も、通常の貯金とはまた別に貯まってきた……。
 もっとぶっちゃけたことをいってしまえば、やはりWindowsマシンはあるに越したことはないよ! だって便利だもん!!
 ――そんな風に種々の要素が絡まり合った夏の初め頃から、家電量販店の店先をうろつき、店頭のカタログを収集し、雑誌を舐めるように読み、また各種Webサイトを巡回して、物色を始めたのである。
 その際、課した条件は3つ。①ノートPCであること、②Office搭載であること、③ディスプレイ・サイズが17インチであること、以上。
 お察しいただけるだろうか、これらのなかでいちばん、というか唯一無二のネックが③であることに。作業時の可視領域は広いに越したことはない。視力の良くない者に小さなサイズのディスプレイは、あまりに酷じゃ。却って目を悪くするばかり。そも購入の検討を始めた当初から、ワープロソフトに一太郎を採用することは決定事項。ディスプレイは可能な限り大きなサイズを、とは必然的要求だったのだ。
 では、なぜ17インチなのか? んんん、難しい質問だ。Macへ乗り換えるまで使用していたWindowsマシンは15インチで、特に不便は感じなかったはずなのに、どうして?
 答えは至極単純である――持ち歩くことはないし(そちらはMacBookAirに任せておけばよい)、基本的に自宅で使うマシンゆえディスプレイのサイズは可能な限り大きくしたい(iMacのディスプレイが27インチなことも影響しているだろう)、それがために多少は重くなっても仕方ない/目をつぶろう、という次第。勿論、大きなディスプレイという一点を以て外付けディスプレイを考えたことは、一度もない。
 そうしてわたくしのパソコン探しが始まり……様々な経緯を経て、DELLの或るマシンに候補を絞った。あとは実見と操作性の確認だ。が、どこの量販店を回っても17インチのノートPCって在庫してないのね。某店の人曰く、需要がない、と。じゃぁ、直販店に行けばあるんじゃないかしら、と考えて即行動に起こしたけれど、結果は空振り。おいおい……。
 いちばん外寸の近いDELL製品で大きさや操作性を確認もしくは想定し、同社の通販サイトにてカスタマイズ、購入したのはその晩のことだ。大きさってさ、新聞紙を同じサイズに折ってみても、結局のところその商品が届いて所定の位置に置いてみないことには、実感できないものだからね。
 斯くして。
 晩夏の頃に件のノートPCは届いた。Excelとショートカットキーを勉強して、とにかく体が覚えるまで徹底的に練習した。その課程で作られ、<old>フォルダへ放りこんだファイルは数知れず。
 ああ、ショートカットキーについては、こういう経緯があったんです。当時の直属上司が基本的にマウスは使わない、キーボードの操作だけで殆どすべての作業を完了させる人だった。自分は隣に坐っていたこともあって、ショートカットのことを(Excelも併せて)教えてもらったりしているうちに自分も可能な限りマウスを使わずにパソコンを操作するようになっていたのだ。DELLのノートPCが来てからというもの、Webサイトをうろうろしては、各種アプリケーションに於けるショートカットを紹介した記事を閲覧、時にブックマークしている。いやぁ、この上司はわたくしにとって<師匠>と呼んでいい存在だった。あすこの事業所には他にもそういう人があと2人、いた。件の上司が退職した直後にわたくしも健康上の理由で退職したのも、もしかしたら偶然ではなかったかもしれない。
 まぁ、それはともかく。
 前述のように年度の替わる時分に一太郎の最新ヴァージョン、即ち一太郎2019プレミアムパックを購入、インストールして、ようやっとあるべき環境にすることができた。正直なところ、未だWindowsの使用頻度はMacに比べて低いため、一太郎の操作も不慣れな場面が相当ある。が、元々使っていたソフトなのだから、戸惑いなどはまったくない。ただ、以前に比べて「できること」が格段に多くなっているので、そちらの慣熟には今しばらくの時間が必要になりそうだ。
 ちなみに本ブログに関していえば、昨日お披露目の第2656日目と本日の第2657日目が一太郎で執筆した、何年ぶりかの原稿となった。感慨深いのである……。
 MacとWindows、或いはPagesと一太郎、双方の使い分けを如何にしてゆくか、が今後も課題として残るが、まぁ押っつけ解決していることでしょう。
 それにしても、どうしてWindowsはしばらく使っていると、筐体があんなに熱くなるのか。肌の接している部分がかゆくなったりして、困るのだよ。このあたりの対策も必要だなぁ。でも、大げさなことはしたくないんだよねぇ。やれやれ。◆(一)

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第2656日目 〈鮎川哲也「達也が嗤う」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 この春のはじめより暮れの頃、さはりごとありてふる里のなほおくつ方へ蟄居して過ごしたる男あり。其間手持ち無沙汰なりとてわずかのお金を握りしめ古書肆を巡り、推理小説ばかりあれやこれやと漁りて、帰りては早々に高床の万年床へ転がり、深更または明け方まで読み耽りて無聊を慰めて過ごしける。
 さて。
 この蟄居の間、と或る短編ミステリに「あっ!」と叫び、腰を抜かしてしまった。『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー』第3巻所収の鮎川哲也「薔薇荘殺人事件」てふ、犯人当て小説の古典といわれる作品だ。
 正直なところ、<読者への挑戦状>を付した小説に好い読後感は持っていなかった。「薔薇荘殺人事件」を読むのも躊躇したのだが、それでも一抹の期待を胸に読み始めたのは、おそらく綾辻と有栖川のトークの熱さに打たれたせいもあったろう。
 斯くして作者からの挑戦を承けて謎解きに取り組まんと、紙とシャープペンを用意して問題編を読み返す。だまされないぞ、ちゃんと読んで考えれば正解できるんだ、と自分にいい聞かせながら。
 手掛かりはすべて、文中に落としこまれている。ミステリは<騙しの文学>だが、それゆえ、殊三人称の記述にアンフェアな描写があっては駄目なのだ。「薔薇荘殺人事件」は三人称の小説、ルールは厳格に守られなくてはなるまい。犯人当て小説ならば、尚更だ。
 成績は惨敗だったが、「薔薇荘殺人事件」は犯人当て小説としてのみならず勿論、一編の短編ミステリとしても秀逸な切れ味と驚きを味わえる作品で、何度読んでも抜群に面白い。が、人口への膾炙という点で江湖に知られる作者の犯人当て小説は、むしろ「達也が嗤う」であるらしい。というわけで、——
 お待たせ致しました、読者諸兄よ、本題に入ろう。鮎川哲也「達也が嗤う」です。
 今日、いちばん手っ取り早く「達也が嗤う」を読むとしたら……『翳ある墓標』(光文社文庫)か『下り"はつかり" 鮎川哲也短編傑作集2』(創元推理文庫)のどちらかだろうか。されど絶版ながら実は作者には『ヴィーナスの心臓』(集英社文庫)てふ、犯人当て小説ばかりを集めた短編集がある。こちらは読者がゲームに参加しやすいように(どこまで意図されてかは不明だが)、テキストが問題編と解答編に分かれているのが特徴。幸運にも古本屋の棚で『ヴィーナスの心臓』を偶然見附けて蔵書にすることができたので、このたびの読書にはこれを用い、また本稿に於いても引用等で採用する。
 小さな声で告白すると、「達也が嗤う」は今回がようやく初読。
 粗筋はといえば、——
 舞台は元箱根のホテル、緑風荘。語り手の浦和は病気療養中の義兄を見舞いに、ここを訪れた。義兄は浦和に、保険金はお前には渡さぬことにした、という。緑風荘には先客として、かれらの他に6人の男女がいた。元陸軍中将とその妻、ジャーナリストを自称する男、アメリカ帰りの女、肥った独身男と卑しい前歴の女(緑風荘にて急遽婚約したが、かれらが結ばれることはなかった)。
 自称ジャーナリストは以前、卑しい前歴の女と出会ったときのことを皆の前で吹聴、これを厭味たっぷりに当てこする(「背に腹は変えられない」)。そうして2日目、浦和の義兄が死ぬ。自殺か他殺か? 目星も立たぬうちに、今度は自称ジャーナリストが殺される。そばにあったのは、宿泊客の私物のヴァニティケース。騒然とするなか、犯人と目されていた人物の死が告げられる——。
 以上、問題編。解決編の粗筋なんて、書けないよ。
 今回も冴えた働きは期待できぬながらも灰色の脳細胞を叱咤しつつ動かして、まずは疑いの心持て問題編の、一人称の文章を熟読。気になる箇所を洗い出して点検し、続いて伏線やミスディレクションと思しき点を紙に書き出す。斯様にして検討を重ねながら自分の推理を微調整して、1つの自殺と2つの殺人について思いを巡らせる。1つ1つの可能性を排除しつつ論理的に推理を構築してゆけば、<誰が、なぜ、どのようにして>犯行を遂行したか、白日の下に明らかとなるはずなのだ。
 ……お陰様で犯人と動機は正解できた。が、本文中に犯人が埋めこんだ数々のフェイクには、まるで気附けなかった。解決編のあとで問題編を読み返し、そうして初めて「そういうことか……」と嘆息した次第。あすこにあったあの文章はこういう意味だったのか、とか、指示代名詞がはっきりしていないのはそういう理由からだったのか、とかね。「画竜点睛を欠く」とは、まさしくこのことですね。
 そういえば解決編にて鮎川哲也は犯人に、こんなことをいわせている。曰く、「私はただの一度もアンフェアな書き方をしていない」(P213)と。また、「率直に云わせて頂くならばあなたのアタマが悪いのであり、私を責めるのは見当違いと云うべきである」(同)とも。
 本来の文脈から切り離しての引用になったが、いわんとするところはこうだ。即ち、<事件解決のための手掛かり、登場人物にまつわる幾つものフェイクを見破るための手掛かりは、すべて提示してあります。それにかかわることで嘘は一つも書いていません。ちゃんと読んで理詰めで考えれば、犯人は指摘できます。間違えたからといって作者を責めるのは、あなたの失態でしかありません。騙されたあなたが悪いんです>、——。
 いやはやまったく、その通り。悪あがきめいた抗弁の台詞も、八つ当たりの言葉も出てこない。「ンダ、ンダ」と頷くより他はない。あるのは世界が変転してまるで違う世界の光景を読者の眼の前に出現させたことに対する驚きと、威風堂々たる騙しのテクニックの妙に対する称讃、そうしてそれらがもたらす得もいわれぬ感動だ。
 偉そうなことをいえる者ではないのだが、もしこれから「達也が嗤う」を読まれる方があって、自分も謎解きに挑戦しようとされるなら、一つだけ忠告(?)——「"木を見て森を見ず"なんて愚を犯すことなかれ。すべてを疑い、すべてを指摘せよ」
 ——わたくしは先に、本作を『ヴィーナスの心臓』で読んだ、とお話しした。わざわざ断ったのは理由があって、それは「達也が嗤う」の成立事情に由来する。そのことについて、簡単に述べておきたい。
 本作が世に出た初めは昭和31(1956)年7月、日本探偵小説クラブの例会にて朗読された。まず問題編を黒部龍二が朗読し、そのあと30分で例会出席者たちが頭をひねって犯人を誰何、そうしていよいよ解答編が朗読される、という流れだが、勿論それだけで済む話では、ない。会場での朗読にあたっては作者いうところの<立体演出>がなされるなど趣向と茶目っ気と稚気を凝らしたものとなったようである。
 説明下手で申し訳ないところだが、往事の和気藹々とした様子や正解が発表されたあとの侃々諤々の光景など、想像するにとても愉しくなってくるのは、果たしてわたくしだけであろうか。これを鮎川哲也が仕掛けた<本気の遊び>といわずして、他になんというのか、なんて気分にもなってくるのだ。
 『ヴィーナスの心臓』所収の「達也が嗤う」のテキストは、<問題編+解答編>だけで構成されており、昭和31年10月の『宝石』誌が初出。
 が、実は本作には異版と呼ぶべきものが、別に存在している。こちらこそが、いわば世界初演時の姿に近いヴァージョンなのだ。そうしてなんとも嬉しいことに、われらはそれを、綾辻行人編『贈る物語 Mystery 九つの迷宮』(光文社文庫)で読むことが可能だ。個人的にはテキストだけのヴァージョンの方がずっと純粋で好きだが、『贈る物語』所収の「達也が嗤う」ではテキストの一部改訂の他、序文や挑戦状、あとがきなどが付されているなど一編のミステリ小説を取り巻く世界をまるごと堪能できることもあり、「こちらも是非、機会あればお手にとってご一読ください」とお願いする。両方のヴァージョンを読みくらべると、作者が聴取者・読者へ向けてどれだけ<本気の遊び>を挑んできたか、想像できるのではないでしょうか。
 ——鮎川哲也の小説の面白さは、徹底した論理と巧みな文章に支えられた、水も漏らさぬ緻密な構成と、真相解明に重要な示唆を堂々と読者の目の前にぶら下げることも辞さぬ稚気にある。「達也が嗤う」はそうした点が端的に表れた好例だろう。それゆえにこそ本編は、この分野のマスターピースとして長く愛読され、また最高峰を占め続けてきたのではないだろうか。◆(一)

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第2655日目 〈聖書ブログいったん中断と、小説の勉強のため書写など始めたよ、というお話。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろブログをまったく更新できておりません。読者諸兄にはまことに申し訳ない次第であります。
 この春、ちょっと母が大腸ガンと診断されて検査や入院・手術を行っており、入院前と入院中は勿論、退院後もいろいろとやらなくてはいけないことが山積みで、そちらを片附けてゆくことを最優先していました。
 また、わたくし自身も再度の突発性難聴(今回は深刻)を患い現在も治療通院中であるのに加えて、肺に小さな黒い奴、いわゆるガンってものが見附かってしまい、……加えて会社の方でもいろいろあり、正直なところ、ブログに向かう気持ちを奮い立たせることが、まったくできなかった。
 そろそろ……と思うのだけれど、いまは「マカバイ記 一」再読を進めてゆくのは負担に思うばかりなのだ。モチベーションの消失、といえば聞こえはいいが、要はやる気がすっかり失せただけのこと。
 が、われながら性質が悪いな、と思うのはここから先で、まだ「マカバイ記 一」と「エズラ記(ラテン語)」には未練がたっぷり残っているのですよ。中途半端に放り出すような気もして、なんだかお尻がむずむずして落ち着かないのだ。
 ──そこでみくらさんさんかは、考えた。
 いったん旧約聖書続編の件の2書は再度、読書等を放棄して来たるべき時をじっと待とう、と。
 それまでの間、ではブログの更新は棚上げとするのか? 否、である。これまでもそうであったように、読書の感想や日常雑記、そんなことを不定期ながらお披露目してゆこう、と企んでいる。
 どうぞご寛恕願いたく──。

 今日はこんなことをお話ししよう。
 数年前に下書き状態で放ってあった、おまけに未完な長編小説がある。そのうちの1つはとりあえず、切りのいいところまで下書きができているので、こちらの第一稿を仕上げるべく時間を見附けて(毎日とはさすがに行かないが)、しこしこがりがり書き綴っている。
 その過程で、もっと文章が上手くなりたいな、小説が上手くなりたいな、と切実に望むようになった。今回は特にその願望が強い。では、どうしたらいいかしらん、と小首を傾げてみたところ、昔ながらの上達法の実践に行き着いた。即ち、書き写し、である。
 誰の文章でもよいわけでは、勿論ない。
 文章が優れ、物語に潤いやふくらみがあり、小説技巧に長けていること。鍾愛する作家でも、これまで縁のなかった作家でも、構わない。とにかく書き写して得るところ多い作家であるのは、譲れぬ条件。
 そうして選び出したのが、向田邦子と安岡章太郎、南木佳士だ。この人たちの短編小説を原稿用紙に、意識しながら書き写してゆく。それを、始めた。
 まずは向田邦子の短編「花の名前」(『思い出トランプ』所収)、これを1時間という制限時間内で集中して、一枡一枡埋めてゆく。初日の今日(昨日ですか)は6枚目、正確には5.5枚目まで、「ご主人にお世話になっているものです」と名乗る女性からの電話を受けた場面まで。
 こちらが終わったあとは、直木賞受賞作の他2作を書写。そうしてから安岡章太郎の短編を『海辺の光景』と『質屋の女房』から数作、南木佳士は好きな短編をどれか1,2作と長編『阿弥陀堂だより』を書き写して、勉強しようと思うておる。
 他にも、弾みがついたら久生十蘭や太宰治(この人の場合は専ら文章のリズム、かな)、村上春樹、カーヴァーやカポーティ、キングやディック、ヘミングウェイも同様に書き写して、小説技巧や物語の構成など分析(?)してみたいですね。まぁ、早々に挫折する可能性だってなきにしもあらずですが……。
 と、ここまで書いて気が付いた、というか、思い出した。なんてことはない、わたくしはこれまで足掛け8年に渡り、と或る書物の文章を適宜抜粋して書き写してきたではないか。
 そう、聖書です。
 引用という形で、飽きることなく、時には無力に圧し潰されながら、ずっと聖書の言葉をわたくしは書き続けていたんですよね。すっかり自分の行為を忘れておりましたよ。この機械に改めて、聖書の言葉へ虚心に触れてみたいと思います。
 わたくしの架蔵する聖書は、とても少ない。新共同訳が2冊、縦組み引照附きと、もう1冊が<聖書読書ノート>ブログで使っていたもの。半壊とまではいかないけれど、割れはあちこちで生じている、書きこみと下線だらけの満身創痍な1冊であります。
 書架へ目をやれば他に、フランシスコ会訳(旧新約聖書合冊と新約聖書)と新改訳2017、現時点で最新の翻訳である日本聖書協会訳(旧約聖書続編附き)の、合計7冊が、架蔵されてある。岩波文庫の文語訳と個人役は、除いてあります。
 それぞれの翻訳でどのように違いがあるか、そんなことも確かめてみたいので、やはり聖書の、任意の書物任意の場面から書き写し作業はやってみたいですよ。もっとも、向田邦子や安岡章太郎などに於ける書き写しとは大きく性格を異にすること請け合いですけれど……。
 書き写しの作業って、退屈じゃぁありませんか? そう訊かれたら、こう答えましょう……いいえ、愉しくて、わくわくしますよ、と。
 この漢字をこの人は開くんだ、この人は動詞を開くのがクセなのかな、ここで改行するのか、まずは状況だけ短いセンテンスで提示したあと矢継ぎ早にじっくり簡素に説明してゆくのがこの人のスタイルなのかな、……なんていろいろ考えることも沢山ありますから。
 すくなくとも、退屈とは無縁の作業である、と申しあげておきましょう。

 学生時代、或いは就職浪人の時分、図書館から借り出した『後撰和歌集』や私家集、上田秋成の『藤簍冊子』など気慰めに書き写していたことなど、思い出しておりますよ。あの頃のわたくしにもう少し辛抱する執着心があれば、望んでいた職業に就くことだってできていたでしょうに。哀れなるべし、哀れなるべし。
 またしても、話が逸れてしまいました。わたくしのいけないクセです。慎みましょう。
 向田邦子の短編をいま、書き写しています。進捗状況など、本ブログやTwitterなどで折に触れてご報告するつもりです。目に留まったら、お読みいただけると嬉しいです。◆
自註:令和元年初めのブログ用原稿

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第2616日目 〈横溝正史「不死蝶」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 事の起こりはこうだった、──
 金田一耕助ははやる気持ちを抑えて信州へ向かう列車のなかにいた。ふだんは断る身元調査を今回に限って承けたのは、東京の事務所に舞いこんだ脅迫状に俄然闘志を奮い立たせられたからだった。と同時に目的地である信州射水が鍾乳洞で知られた土地だったせいもある。然り、このとき金田一の脳裏に浮かんだのは、『八つ墓村』の事件であった。元を正せば今回の依頼も『八つ墓村』事件を知る警察関係者の仲介があった由。
 さてその射水の町には来日中のブラジルのコーヒー王の養女、鮎川マリが母親と使用人を伴って滞在していた。金田一をこの地へ招いたのは町の素封家矢部家の当主、杢衛である。かれ曰く、鮎川マリの母、君枝は23年前にこの町で起こった殺人事件(現場はやっぱり鍾乳洞!)の最重要容疑者で事件直後に姿を消して消息不明な玉造朋子に相違ない云々。玉造家は矢部家と並ぶ町の素封家で、今日なお栄えている名家。
 かつて矢部家の男と玉造家の女が相思相愛の仲になった。が、如何せん『ロメオとジュリエット』を地で行くような両家のいがみ合いは、かれらの恋愛を到底許さなかった。ゆえにかれらは人目を避けてもっぱら鍾乳洞にて逢い引きを重ねるようになるが(ああ、これも『八つ墓村』ですね)、遂に現場を押さえられてしまった。洞内の<底無し>といわれる井戸の傍らですったもんだが演じられた挙げ句に殺人が勃発。その日を境に玉造朋子は失踪して行方は杳として知られなかったのであった。
 そうして<時>は流れて現在。鮎川マリが町の有力者たちを招いてパーティーを催していた晩、鍾乳洞のなかの件の井戸のそばで再び人が殺された。被害者は金田一の依頼人であった矢部杢衛。帰郷する気でいたかれだったが、矢部家の人々から引き留められて杢衛老人の事件の捜査を依頼されたことで、射水の町に留まることにした。
 しかしながら当然、事件はこれで終わらない。惨劇はなおも繰り返されたのだった。
 誰が凶行に手を染めているのか、動機はなにか。鮎川君枝と玉造朋子は果たして、町民の囁き交わすように同一人物なのか。やがて金田一耕助は呆然とするような事実に辿り着き、真犯人と対峙して痛烈な一言を浴びせるのだった、──
 ──タネを明かせば、人々の予感は当たっていた。やはりかの人物は23年前の失踪者と同一人だったのだ。身も蓋もないことをいうてしまえば、ミステリ小説には素直に騙される=探偵と一緒に犯人捜しに参加しないことを信条としている(……んんん、ん?)わたくしでさえ、このみずぼらしい一人二役のトリックを見破れてしまいましたよ、もう! はじめの1/4程度の箇所、具体的にいえば上述のパーティーの場面ですな。なんだかね、「さぁ皆さん、ここでトリックをばらしちゃいますよ、必然的に犯人の見当もついちゃいますよ」と作者に予告されているみたいな描き方でね……。いやはやまったくもう。
 トリックは割れて、犯人の目星もついた。となれば関心の矛先は否応なく、<いつ暴露されるのか>、<それまで如何に欺くか(欺こうと悪あがきするか)>に向けられる。さりながらもはや既にトリックは割れて犯人の目星もついており、この先とんでもないドンデン返しがない限り胸に兆した確信が木っ端微塵に砕かれることはないだろう──となれば、必死になって真相をひた隠してその場を取り繕おうと懸命な犯人サイドの行動が哀れを通り越して滑稽でしかなくなってくるのも、致し方ないところであるまいか。もうバレバレっすよ、マリさんと先生……。
 「不死蝶」は鮎川家がオールスター・キャストで臨んだ公演の記録である。お粗末で穴だらけの台本、詰めの甘いトリックと漏水気味なアリバイ工作、アドリブの効かない、そのくせ演技過剰な役者たち。話が進めば進むだけ虚しさと退屈さがこちらの心身を蝕んでゆくこの田舎芝居を、わたくしは金田一探偵や射水の人々の後ろから見物してどうにも欠伸を抑えることができなかった。
 世評がどうあれ、わたくしは「不死蝶」を出来の良い作品とは思わない。控えめにいうても「下の上」だ。
 が!
 しかし、である。
 本作の真のクライマックス──事件解決からしばらく経って季節が変わり、そろそろ鮎川マリ一行がブラジルへ帰国しようという頃、東京で金田一がマリに対峙して事件の真相をゆっくり紐解いてゆく件りだけは読んでいる間中、心の底からぞくぞくさせられたな。興奮と驚愕の釣瓶打ちでね……まさしくだったんだ。  加えてマリの、合理的かつ即物的な考え方と行動に珍しく憤りを抑えられずにいた金田一がくだす、冷徹にして激越な鉄槌がとっても印象に深いのである。21世紀の今日とは価値観が異なろうけれど、外国人のザッハリッヒなところと日本人の情感がぶつかり合った、短くも鮮やかなこの場面がなかったらば、おそらくわたくしは「不死蝶」てふ作品を顧みることはなかっただろう……。  ──ところで。今回読書に用いたのは昭和50(1975)年4月初版、同51(1976)年8月9版の角川文庫だが、本文用紙がいつもの酸性紙(?)ではなく、ツルツルピカピカ光沢ばっちりな上質紙(? コーティング紙?)になっている。やはり昭和51年8月7版の『鬼火』も用紙については同じである。これで話が済めば問題ないのだが、困ったことに同じ時期に印刷された角川文庫でも本文用紙が光沢紙なものと酸性紙なもの両方が混じっているのだ。数年前に日本を襲ったオイル・ショックの影響なのか。それぞれで印刷会社が異なるためなのか。もしそうならば、折しも到来した<横溝ブーム>により複数の印刷会社を稼働させて増刷に増刷を重ねた結果なのだろうか。  まぁ特に不満というべきはないんだけど、そうね、あえて挙げれば本全体が重いことと、用紙に光が反射して目が痛くなることか。おまけにシャープペンや鉛筆で読了日或いはメモを残しづらいことも、挙げておこう。  刊行当時の世界情勢や国内消費、流行など種々の背景がこの文庫1冊に詰まっているかと思うと、偶然古書店で手にして購ったものであるにもかかわらず、にわかに時代の証言者の輝きを放ち始めるのだから、ふしぎだ。こういう点を切り口にして、出版史・印刷史の深い森に分け入ってゆくことができるんだな、きっと。もしかするとこのあたりを説明している本が、紀田順一郎や他の人にあるかもしれない。ちょっと書庫にこもって探してこよう、っと。◆

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第2615日目 〈横溝正史「蜃気楼島の情熱」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「蜃気楼島の情熱」は資産目当ての殺人としてはその残酷さ、冷血ぶりの際だった一品として、記憶から消し去りがたき読後感を残す短編だ。
 1度ならず2度までも、妻を殺された男がいる。単に「死んだ」というなら青ひげ公だが、その死について青ひげ公の容疑はいつだって限りなく黒に近い灰色だ。が、件の男は正真正銘、他者に愛する妻を殺されたのだった。はじめはアメリカで、つぎは瀬戸内の沖の小島、通称<蜃気楼島>にて。
 男の名前は志賀泰三。アメリカで財を成して帰国するとかの島を買うて、統一感のまるでない邸を建てた。落成からしばらく後、志賀は滞米中に知己の仲となった久保銀三を招く。その久保は友人、金田一耕助を誘って志賀の招きに応じた。久保銀三と金田一耕助、『本陣殺人事件』以来のランデヴーである(くすくす)。
 物語はこの久保と金田一がランチで蜃気楼島へ向かう場面で幕を開ける。そうして予想通りその晩、志賀の細君、静子(妊娠中)が独り休んでいる寝室で殺された。死因は絞殺、果たして何人が彼女を──卑しい身の上から島の女王と称される地位にまで出世した彼女を手に掛けたのか? 疑いの目はその日、志賀家の客になっていた樋上四郎へ向けられた。樋上はアメリカ時代に志賀の前妻を殺した犯人である。が、樋上は頑迷に己の犯行を否定した。しかも犯行時刻と思しき時間、自分は30分程寝室にいたが静子はどこへいったものか、そこにはおらず、結局会えずに自室へ戻ったのだ、と主張してやまぬ。斯くして金田一耕助は捜査に乗り出し、邪悪としかいいようのない犯罪の全貌へ迫ってゆく──。
 果たして真相は醜悪にして唾棄されるべきそれであった。有り体にいえば、志賀泰三の財産に目がくらんだ親戚、村松一家による家族ぐるみの犯行だったのだ。静子夫人が凶刃に倒れたのは志賀の許へ輿入れした彼女への嫉妬と、相続人となる初子の懐妊が招いた危機感から。
 村松家の人間たちが張りめぐらした、周到にして狡猾な罠が志賀を否応なく犯人に仕立てあげ、自分たちはかれが失墜した後その財産を分捕るために、真綿で包むが如くじわじわと、だが確実に、追い詰めてゆく。
 ゆえに故村松滋の葬儀の席上にてその父、恒は志賀にそれとなく仄めかした──静子夫人と滋が不義の関係を結んでいたことを。夫人のお腹の子が滋の胤である可能性の示唆と、静子夫人の死が志賀の犯行と参列者に思いこませるお膳立ても、併せて忘れずに。
 おまけに村松家の女どもは揃いも揃って性悪である。利己心に長けて、他人の神経を逆撫ですることにかけては天下一品、他の金田一作品を見廻しても、金銀財宝に目がくらんで容赦なく親族を陥れることに躊躇いも良心の呵責も感じさせない連衆は、なかなかいなかった。
 作中にてはっきりと描写されないものの、金田一にとって思い出すだけでも胸くその悪くなる──一片の思念すら覚えることのできぬ犯人だったのではないか。曰く、──
 「この事件の動機はなかなか複雑だと思うんです。成功者にたいする羨望、看護婦から島の女王に出世した婦人にたいする嫉妬、そういうもやもやとした感情が、……爆発したんですね。ですけれど、ぼくはやはりこれを貪欲の犯罪だと思いますよ」(P288-89)
 そんな犯罪計画と実行のダークぶりに思わずこちらも気持ちが暗くなるが、じつは、本作にはそれをわずかかもしれないが軽減させる要素がある。それが、蜃気楼島を中心に据えた秋の夕暮れの光景だ。就中志賀の情熱の結晶たる館を浮かびあがらせる、宵闇迫る黄昏刻の描写である。そうしてそれは、いびつな夢の終わりを予感させもして──。
 『悪魔の手鞠唄』では雨に煙る須磨の、薄墨で輪郭をぼかした描写が印象的だった。「蜃気楼島の情熱」でも夕暮れ、殊<秋の夕暮>てふ物寂しさと終末を予感させる、或る意味で日本人の(DNAに組みこまれた)情緒に訴えかける最強クラスの描写が効果的に、要所要所で折りこまれているのだ。
 黄昏刻の、逢魔が時の、静かに表情を移してゆく空の色、風の気配、海の色の深まりといった島を巡る情景の一々が、わずかな描写で読者の心を囚えて、折口信夫いうところの<ほう、とした想い>を抱かせるのだ。
 この、秋の夕暮れが作品全体を支配するわけだが、志賀夫妻の行く末までも暗示していることは、敢えてわたくしなどが指摘するまでもないだろう。
 ──登場人物の相関関係、犯人の邪悪さ狡猾さ、情景描写の深まり具合、財産家の哀しみと名探偵の憤り、幕切れでそっと示される一縷の希望。そんな様々な因子が響き合い、絡み合い、調和して読者の心へ訴えかけてくる小さな交響曲……わたくしはこの「蜃気楼島の情熱」をそんな風に捉えて鍾愛している。◆

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第2614日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『赤毛のレドメイン家』を読んでいるとその悠然とした情景描写、細かな心理描写、微に入り細を穿つ人物描写に陶然となる。黄金時代本格ミステリの名作を読んでいる、というよりも、19世紀から20世紀初頭に書かれて親近してきたイギリス文学のメインストリームへ接しているような、そんな既視感に襲われることもしばしばあった。
 イーデン・フィルボッツ(1862〜1960)は生前トマス・ハーディと人気を二分した田園小説の大家で、1927年には20巻から成る全集が刊行されるぐらいの文壇の重鎮であった。そんな人物がミステリの筆を執った。日本風にいえば還暦すこし前からミステリ小説を刊行しているとのことだが、仄聞するところでは若い頃より推理や怪奇の味わいのある作品を発表していた由。『赤毛のレドメイン家』は1922年、フィルボッツ60歳の作品である。
 もともとイギリスという国は純文学作家でも生涯に何作かのミステリや怪奇小説を書くような伝統があって、しかもそれがジャンルのマスターピースになっていることが多いから、フィルボッツが公然と本格ミステリ小説を還暦間際に刊行して、以後も秀作を発表し続けたことになんら不思議はない。というよりも、イギリス文学そのものがミステリ小説のスタイルをまとっていることが多いのだから、フィルボッツのような経歴の作家がミステリ市場に顔を出すのも当然といえば当然であろう。
 『赤毛のレドメイン家』の舞台は前半がイギリス・ダートムア、後半はイタリア・コモ湖。フィルボッツの筆はダートムアを描いてドイルの『バスカヴィル家の犬』とはまた違った陰鬱寂々の光景を読者の心胆を寒からしめ、コモ湖一帯を描いて前半とは打って変わった草木一本に至るまで太陽に照らし出された楽園のような光景を現出させる。
 ダークネスなダートムアを背景に展開するのは美しき未亡人を巡るロンドン警視庁の警部とイタリア人男性の恋の鞘当て、シャイニーなコモ湖ほとりの明媚な場所で着実に遂行されてゆくのは残忍な犯人と名探偵の頭脳戦。言葉を費やし筆を尽くして舞台となる地が描かれているからこそ、登場人物も血が通い肉を備えた生身の人物となり得るのだ。
 同時代に書かれたミステリ小説を見渡しても(もちろん、翻訳されているもののなかで、という前提になってしまうのだが)、『赤毛のレドメイン家』ぐらい人物と心理、或いは情景の描写が細かくされている作品はないように思う。このような点がおそらく現代の読者に敬遠されて、鈍重・退屈・冗長などと拒まれているのかもしれない。
 が、小説は常に時代の風潮を反映する。『赤毛のレドメイン家』が発表された1920年代イギリス文学のトレンドはジョイスやエリオットに代表されるモダニズムであったけれど、ディケンズやサッカレーが活躍したヴィクトリア朝の文学様式がいっせいになりを潜めたわけでは当然、ない。時代の旗手的役割は他へ譲ったと雖も、まだまだ往時の作家はじゅうぶん健筆を揮っていた。
 フィルボッツの場合はたまたま田園小説よりもミステリで、殊日本では知られるようになったから、かれが現役であった時代の小説のスタイルや特徴など背景にじゅうぶんな注意を払う作業を怠った連衆が、己の一知半解を棚にあげて槍玉に挙げているだけのように思えるのだ。ジャンル小説一辺倒の読者が陥りやすい弊害といえようか。
 『赤毛のレドメイン家』の場合、情景描写と人物描写に力が注がれていたけれど、『闇からの声』(1925)になると犯人の心理描写に重点が置かれていることから、フィルボッツはこれまでの田園小説では描くことが難しかった人物を創造することに関心を向けた様子である。
 『赤毛のレドメイン家』の犯人もなかなか狡猾で残忍・無情な悪党であったけれど、『闇からの声』の犯人はそれを上回る存在として登場する。が、いずれも人物描写/キャラクター造形の確かさがあるからどれだけ卑劣なことをやってのけても、抗いがたい強い魅力を備えた人物として、探偵役よりも深い印象を残すのだった。
 ──イギリスのミステリ作家のなかでキャラクター造形がうまいのは誰か、と問われたらアガサ・クリスティの名はいっとう最初にあげられるだろう。そのクリスティにはデビュー前のちょっと知られた逸話がある。小説家を志していた少女の時分、隣の家に住んでいたずうっと年上の、文壇の長老格であった人物に創作のアドヴァイスを請うた。その後、彼女は夢を実現させて1920年に『スタイルズ荘の怪事件』でデビュー、以来半世紀になんなんとするキャリアの第一歩を踏み出した。が、流行作家になってもデビュー前に受けた恩情を忘れることはなかったようだ。彼女は『エンド・ハウスの怪事件』(1932)を件の大先輩にささげて感謝を表している。その先輩作家こそ、『赤毛のレドメイン家』の作者イーデン・フィルボッツであった。◆

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第2613日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 ここ1.5ヶ月ほど昨年末からゆるゆる続けてきた横溝正史読書マラソンを中断し、<この際だから海外ミステリの古典を──買い溜めしている分だけでも──読んじゃおうプロジェクト>パート1に取り組んでいる。
 そうして8月15日、終戦記念日のあたりからは都合3冊目となるイーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』(宇野利泰・訳 創元推理文庫)を読み始め、作業はいまも鋭意進行中だ。間もなく1週間になろうとしているけれど、今日でようやく半分ぐらいを消化。満を持して名探偵登場の第11章がいまである。
 じつは名探偵登場までのつなぎ役でしかないと判明するに至った前半パートでの捜査担当、ふしぎにも「探偵」と訳語のあてられているロンドン警視庁のマーク・ブレンドン警部は、読者からすれば愚鈍の人である。とんだヘマをしでかしてそれに気がついていない/気がつこうとしていない、優秀な警官であると説明されても、なんだかなぁ……とその能力に疑心暗鬼な思いを抱かざるを得ない人。自分の思いこみを後生大事にするのはいいが、それを絶対的なものとして捜査の第一歩から誤った方向へ突き進んでゆくのは、危険である。被害者側からすれば、トンデモ警官でしかない。
 おーい、そっちじゃないよ、君の行くべき道は。目の前の人物が自分に見せる媚態や言葉を、あまり真に受けちゃあ駄目だよ。そんな風に忠告したい場面は、多々ある。
 でも、警官としての能力はさておき(=あまり評価していない)、被害者遺族なかでも未亡人となった女性に寄せるブレンドン警部の気持ちは、頷けるところが多いのです。恋愛と職務を天秤にかけたり、相手の心変わりが必ずしも本心からではないと自分を納得させようと努めるあたりね。一歩を踏み出すべきところで踏み出す勇気のないスコットランド・ヤードのミスター・マーク・ブレンドンが、そんなときたまらなく自分に似ていて好きになっちまうのですよ。なんだかこの恋(……?)の顛末もそっくりで──いやいや、それはともかく。もっともおいらの場合、その感情は<恋>ではなく<蔑み>/<憎しみ>/<恨み>でしたが、まぁそれはどうでもいい。思い出すたび心の荒れ狂う過去あっての、幸福で満ち足りた現在なのだから。
 おそらくミステリに於いて「恋は盲目」の実例を1人挙げよ、なんて設問があったら即座に名前の挙がる筆頭候補でありましょう。そのくせこの人、終盤になるとそれをちょっぴり否定してみせたり、あげくに苦い経験を味わってイギリスへ帰郷するのですから……盲目がもたらした癒えぬ悔恨ここに極まれり、という感が致します。
 ──この感想の第一稿を綴っている8月後半、『赤毛のレドメイン家』はいよいよ舞台をイギリス・ダートムア(バスカヴィル家!)からイタリア・コモ湖へ移し、名探偵ピーター・ガンズ氏が読者の前に姿を現そうという章へさしかかった。物語はようやっといちばん大きな転換点を迎える。そうして清書しているいま9月半ば、再び物語は大きな転換点を通過してガンズ氏がイギリス帰郷の車中にて謎解きをしてみせている。
 もはや疑いもなく来週中に読み終われること必至だ。為、はじめの予定通りに読了の感想は9月終わりか10月初めにはお披露目できそうである。ちょっと安堵。第一稿では〆の言葉、「どうか読者諸兄よ、期待しないで……否、期待していてほしい……かな。うん」という不安を抱かせる終わり方であったが、明るいニュースをお届けできてとってもうれしい。さて、では途中途中で記していたメモを動員して、そろそろ読了の感想を認める準備を始めようか……。その前になんだかお腹減ったな。◆

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第2612日目 〈ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 サスペンス小説の傑作、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』をようやく読了。台風12号による濡れからの回復を待ってのこの日となった。
 「ようやく」には2つの意味がこめられている。1つは通勤電車(もっぱら帰り)のなかを始めとする日々の細切れになった時間での読書ゆえ、どうしても読み終えるまで日にちがかかってしまったこと。もう1つは題名も著訳者も表紙カバーも粗筋も乱歩の挿話も昔から知っていたにもかかわらず読む機会を作ろうとしなかったため、人生の折り返し点をとうに過ぎたいまになって読んだのだ、ということ。
 ──妻殺しの濡れ衣を着せられた男、スコット・ヘンダースン。かれには妻が殺害された時刻の完璧なアリバイがあった。が、無実を証明できる女の存在を認める者は誰もいない。いえ、あなたはお一人でしたよ。万策尽きたスコットは親友ジョン・ロンバートに<幻の女>探しを依頼、斯くしてロンバートは女の手掛かりを求めてニューヨークの街を彷徨い歩く。探索行の果てにやがてあきらかとなった衝撃の事実とは──?
 スリルを盛りあげサスペンスをあおるには、センスがいる。そのセンスとやらを如何なる方法で料理するか。ここがシェフたる作者の腕の見せ所だけれど、アイリッシュはそれを章見出しでやってのけた。あっさりと、あざやかに。「死刑執行前 ◌◌日」……今日ではさして目新しくもないやり方だが、発表当時としては結構斬新だったろう。1942年の作品なのだ、この『幻の女』は!
 冒頭の有名な一文からして多くの作家へ影響を影響を与えた作品だけにプロットのみならずシチュエーション、犯人、トリックやアリバイなど、読み手によってはデジャ・ヴを覚えるかもしれないが、やはり時の流れに耐えて今日なお読まれる名作である。後続の作品群ではあまりお目にかかれぬ風格と破壊力を備えている。乱歩の評言はそれから70年以上を経たいまもなお、じゅうぶん通用するものであろう。いや、それにしても終盤であかされた<幻の女>の正体と、スコットと別れたあとの顛末には、ぎょっ、とさせられたよ。ちょっと薄ら寒くなったね。
 この古典的名作を今日巷にあふれる有象無象のミステリ小説を読みちらした目で読むと、センチメンタル過多な雰囲気に抵抗を感じ、省略を利かせた文章にしばし憶測を重ね、たまに冗長と映る描写に退屈を覚えたりもして、残りのページを指の腹でぱらぱら目繰って道通しの感を深めることたびたびであった。
 が、その一方で、経年劣化こそ否めぬものの時の波へ抗って常に版を重ねて読み継がれてきた要因に、上であげた点のあることも本当のところなのだ。ドライでありながら非情に徹しきれぬ甘くて優しい空気感が全編に垂れこめ、冗長な描写と思うたのは端役に至るまでその場限りの紙人形となるのを避けんがためのテクニックであり、物語に深みと制裁を加えるスパイスであった。
 省略の利いた文体とはハメットやチャンドラーのようなハードボイルド小説でお馴染みだけれど、アイリッシュのこの作品についてはちょっと事情が違うようだ。簡単にいえばハメットたちの文章が意識して作られたものであるのに対し、アイリッシュのそれは意識することなくふとした拍子に体のなかから自然と湧き出た文章に思えるのだ。
 新訳版の訳者、黒原俊行は一例として、妻の死体が運び出されるのをスコット・ヘンダースンが見つめる場面を挙げるが、件の文章テクニックに呑まれてうっかり読み流したことに気附き、急いで立ち止まって「この場面で起こっている(行われている)けれど描かれていないことはなにか」と考えこむ羽目に陥ることしばしばなのである。
 わたくしの印象ではこの現象、2人以上の人物が同じ場面に出ていて、皆等しくそれぞれの役をこなしている箇所にて顕著なようで、ここから転じて、もしかするとこのあたりにアイリッシュの弱点があるのではないか──多くの登場人物が一堂に会したときの各々の書き分けに苦手意識を持っていたのではあるまいか、アガサ・クリスティやスティーヴン・キングと違って、と邪推してしまうのだった。さりながらこの文体がサスペンス小説でも効果的なのは第12章、若い女がバーテンを追いつめてゆく、殆どこの2人だけで進められてゆく一連の場面を読むと納得なのである。
 1つの結婚生活の終わりから始まる犯罪──夫婦のどちらに原因があろうとも、激情に駆られて家を飛び出すや行きずりの女と夜の一時を過ごしたり、相手の誠意を弄んで嘲笑するなどわざわざ恨みを買って自分の命を危うくしたり、一方通行な愛情で相手を縛って夢想の計画の主要登場人物に仕立てたり、なんていう愚は犯したくないものであります。

 『幻の女』はハヤカワ・ミステリ文庫から3種のヴァージョンが、これまでに出ている。初めは1979年8月に稲葉明雄・訳で。次は1994年初夏(?)、改版を機に稲葉が訳文へ手を入れたヴァージョン。そうして2015年12月の、前述の黒原による新訳版だ。本邦初訳は最初の文庫化に先立つこと四半世紀以上も前の1950年、『宝石』5月号に一挙訳載された黒沼健・訳。
 黒沼訳はその後ハヤカワ・ポケット・ミステリ、通称ポケミスに収められたが(第183番 1967年10月)、早川書房は1972年9月から刊行開始した≪世界ミステリ全集≫の第4巻収録分から稲葉明雄・訳に差し替えて、1979年のハヤカワ・ミステリ文庫を経て2015年の黒原・新訳版へ至る。
 この機会だから、有名すぎる冒頭の一文を3人の翻訳者がどのように日本語へ置き換えたか、以下に引いて鑑賞してみよう。
 「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といったところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた」(黒沼健)
 「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・旧版)
 「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(稲葉明雄・改版、黒原俊行)
 稲葉改版の訳と黒原訳が同じなのは、黒原俊行がさんざん検討を重ねた結果、これ以外にないと判断して稲葉の遺族に了解を取った上での結果であることは、新訳版の訳者解説にある通りだ。新訳版からこの部分を引用する際は「稲葉訳」であることを明記してほしい、とは黒原の言だが、本稿ではそれでもあえて上のように処理させていただいた。ご寛恕を願いたい。
 今回わたくしが読書に用いたのは旧版だが、冒頭のみに限ればこの版を断然支援する。冒頭のみ、というのは如何せん翻訳が昭和40年代なかばであるため、今日では固有名詞はもちろん会話や叙述の一部に時流にそぐわない部分が目立ってしまい、読書の流れを刹那途絶えさせることが一度ならずあったからだ。まぁ仕方ない。これから『幻の女』を読む人は新訳版がやっぱり良いのかな。新刊書店で買えるしね。
 顧みて思うのはこの手の小説は細切れに読むものじゃぁないな。自身に則していえば、せめて帰りのみでなく行きの通勤電車のなかでじっくり読み耽ることができていたなら、と溜め息交じりに後悔している。◆

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第2611日目 〈A.Aミルン『赤い館の秘密』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 作者アラン・アレクザンダー・ミルンは初めてのミステリ小説『赤い館の秘密』を、ミステリ小説好きの父親を喜ばせんがために執筆した。父ジョンは私立学校の経営者であったが、標準的英国人らしくミステリ小説を日々の慰みのようにして、好んで読んでいたようだ。
 ジェームズ・ヒルトンのチップス先生も間借りする部屋へ置いた書棚のいちばん下の段に、廉価版のミステリ小説をぎっしり詰めこんでおり、ちょっとした隙間時間に好んで読んだという。おそらくはミルンの父君も同じように仕事と家庭の狭間の、独りに帰れる時間に読書へ没頭していたのだろう。
 『赤い館の秘密』の「献呈」に曰く、「長年お世話になったお返しに、せめてぼくにできることは、その推理小説をお父さんのために一作書くことでした。そして出来上がったのが、この作品です」(P9)と。
 父親を意識して書いたミステリ小説といえば、連城三紀彦が即座に思い出されるけれど、あちらがミステリの極北を目指してひたすら深化・純化していったのに反してミルンの方は、……
 『赤い館の秘密』はプロットもストーリーもキャラクターもトリックも、いずれを取り挙げても至極単純である。集英社文庫版に一文を寄せた赤川次郎は、犯人もトリックもすぐに見破れた、と述べているが、然り、犯人には最初から疑惑の目が向けられており、状況証拠や証言の数々から読者は早い段階で「たぶん/きっと、○○を殺害したのは○○だろう」と推理できる。
 トリックについても、睡魔等に惑わされて読み流したり、ちょっと退屈になってきたから読み流しちゃえ、なんて不届きな行為に走りさえしなければ、見破るのは容易だ。探偵やその相棒と共に行動して同じものを見、同じことを聞き、立ち止まってそれまでの収穫について検討を加え推理を巡らせ論理を組み立てるならば、かならずや疑惑が確信に変わり、事実であることが証明される瞬間の法悦を味わえることだろう。おためごかしの発言ではない。告白すればわたくしだって物語が半分ばかり進んだところで、犯人こいつだろう、動機はこれだろう、トリックはこんな風だろう、とわかってしまったのだ。
 斯様にミステリ小説としてはフンドシのゆるい『赤い館の秘密』だが、それが江湖の読者を意識して書かれた作品ではなく、専ら父親への想いが長編ミステリ小説を書くという意欲に先行して結実した作品であるのを思うと、黄金時代の傑作名作に比してやや見劣りがしてしまうのも宜なるかな、というところだろう。われらは本作を読むとき、そこに家族へ注ぐミルンのたっぷりな愛情を感じ取る必要があるのかもしれない。
 『赤い館の秘密』は上質のミステリである。が、それは謎解きの醍醐味やトリックのあざやかさ、緻密なプロットなどを取り挙げての惹句ではなく、本作に漂うユーモアや清潔さ、からっとした明るい雰囲気といった点を指してのものだ。英国人の心をくすぐるカントリーハウス物というところも、点を高くしている要素のひとつだろう。そのシンプルさ、そのひねりのなさ、その読みやすさが『赤い館の秘密』の魅力である。
 『赤い館の秘密』以後のミルンに、ミステリ小説を書き続けてゆく意欲/願望があったのか、或いは(如何なる理由にせよ)『赤い館の秘密』1作だけのつもりだったか、そのあたりは定かでない。しかしながらたった1作、しかもそのジャンルへのデビュー作でミステリ史に残るのみならずエポックメイキング的役割──素人探偵の創造、カントリーハウス物の原点、ユーモアミステリ/コージーミステリの見本、etc, etc──を果たした作品は、そう多くない。
 『赤い館の秘密』はそんな意味でも歴史と記憶に残るべき作品なのだが、もし本作に不幸があるとすれば作品それ自体にまつわることでなく、あの『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、という触れ込みで名を留めた可能性が多分にあることだ。果たして誰がそれを全面否定できようか? 『赤い館の秘密』を紹介する際いったいどれだけの人が、『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、と触れてまわったことか。疑われるならば、さぁどうぞ、グーグル先生へお訊ねになるがよい。
 どんな心づもりであったにせよ、このあとミルンは『四日間の不思議』というこれまた楽しい長編ミステリ小説を物し、幾つかの短編を残した。戯曲で腕を鳴らしたミルンのことだから、こちらの方面でもミステリ作品を書いて上演されれば斯界の評判も上々だったようである。これらのうち何作かは幸いなことに、日本語になっているので大型書店や公共図書館で手にすることが可能だ。
 ミステリの諸要素に瑕疵が目につく作品だけれど、却ってシンプルで読みやすいのも事実。まったく深刻さの影もない、ひたすらのんびりとした、<春風駘蕩>としか形容のない蕩けるような時間の流れる、綿菓子のように甘い口当たりの『赤い館の秘密』。海外ミステリ小説の入門にはぴったりな1作、このジャンルに読み疲れたときの口直しにオススメな1作である。つまり、素人にも玄人にも。◆

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第2610日目 〈スタバの裏呪文メニュー、「ちゃんみおスペシャル」に懸想する。〉 [日々の思い・独り言]

 「Starbucks Rewardsᵀᴹをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 現在お持ちのGold StarがReward eTicketと交換可能な150Starsに達しました。
 (中略)はじめてのカスタマイズを試したり、気になるFoodを楽しむなど、自分のぴったりの楽しみ方を見つけてみませんか?」
──こんなメールを受信したそのときであった、わたくしの野望がむくり、と頭を上げてほくそ笑んだのは。
 というのも……
 さる土曜日、台風12号が関東地方に最接近して「危ないから急用の人以外はぜったい外に出ないでねっ! 約束!!」と注意勧告が出されているのもわかっていながら、横浜一円に降雨はなく、空を見あげても雨雲がないどころか雲の切れ間から陽光すら射しこんでいたのを眺めて「平気だべ」と内心首肯、されど念のためと折り畳み傘が入っているのを確かめた。目指すは紅葉坂、だって本の返却日がその日までだったんだもん。
 赤い電車に乗って最寄り駅まで辿り着いた改札を出たわたくしの目に映ったのは、とんでもない土砂降り雨。弾丸と砲弾が飛び交い轟音炸裂、阿鼻叫喚の交差する戦場を目の当たりにした気分だった──と後日、わたくしは回想した──。
 凄まじかったのは雨音だけでは勿論、ない。道路に雨粒が叩きつけられたときに生まれるかの水煙、それは高さ人のくるぶし程度までしかないものの行く手をさえぎり前進を躊躇わせるにじゅうぶんな障壁──白く濁った壁というに他なかった。勇を鼓して歩道を歩く人はみな一様にたたらを踏み、荒れ狂う風に手にした傘を翻弄されてずぶ濡れに等しい姿となってなかなかな光景が駅改札前、庇の下で一歩踏み出すを恐れる人たちの前に広がっていたのだった。
 が、進むよりなかった。図書館へ行かねば、わたくしはならない。既に本ブログではお馴染みとなったかもしれぬ文句が、さぁ出番だ、とばかりにわが脳裏に響いて執拗に谺した……進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。
 雨が小降りになった瞬間を狙ってわたくしは傘を広げて街へ出た……それがきっかけであったかのように躊躇っていた人々も、それに続いた……数メートル歩いてふと顧みた駅の改札(その庇部分も含めて)、ああもしかすると古の都にあったという羅生門はこんな具合の建物だったのかもしれないな、となんて想起させられたのである。黒光りする駅改札の庇の陰から短い白髪をさかさまにして老婆がこちらを覗きこむ姿が見えそうな……そうしてわたくしの行方は、「誰も知らない」のだ。別に餓死をまぬがれんと引剥をしたわけじゃないけれどさ。
 さて、前置きはここまでだ。途中経過を省略して上述の野望まで話をすっ飛ばそう。ワープ!
 場所は変わって馬車道のスターバックス、わが籠もり場である。その窓際の丸テーブル席で気配を殺して坐り、濡れそぼった服を人目を避けて乾かしながら(脱いだわけじゃないよ!?)、雨粒が路地の向こう側のビルの壁を叩いて煙を上げる様を観察しつつ、リュックのなかが浸水して文庫本やモレスキンの手帳が水を吸っているのに悄然としているときだった。かのメールを受信して野望がむくり、と頭を上げて、にまり、とほくそ笑んだのは。
 と、ここで話は数日前に遡る(おい)。
 「面白いですよ」と同僚から奨められて、たまたまCSにてリピート放送中なのを発見した『日常』というアニメ。すっかりハマって会社から帰った深更、ビール片手に視聴するのが愉しみの一つとなった。
 『日常』とはあらいけいゐち原作のシュールな日常系ギャグマンガ、全10巻(KADOKAWA)。アニメ版は2011年4月から同年9月まで独立系UHF局にて放送された(全24話。別に全12話へ再編集された『日常 Eテレ版』もあり)。詳細についてはGoogle先生にお任せしよう。けっして責任放棄ではない。
 第2期第18話「日常の72」で主人公(の1人)長野原みおが相生祐子(ゆっこ)に誘われて、リニューアルオープンした「大工カフェ」へ寄り道する。そこはかつて街角の喫茶店「純喫茶 大工屋」であった。十字路の角に立地するゆえときどき登場人物たちが信号待ちをしている場面に映っている。
 この大工カフェは第16話「日常の64」に於いてゆっこがオーダーに苦しみ、店員とのやり取りに一々動揺、出されたドリンクを前に消沈して(「ちっちゃ……/ちょー苦げぇ……」)玉砕した、彼女にとっては因縁の場所。エスプレッソのショット、ドッピオを頼む流れは『日常』全体を通して(原作・アニメ共に)上位へ食いこむ爆笑回だ。そうなんだよね、とカフェでエスプレッソ初オーダーしたときの苦い体験を持つ身にはゆっこ挫折の回、同時に笑うに笑えぬものでもあったのだ。古傷が疼くどころではない、疼くそこへ超高濃度の塩をぐりぐり塗られている気分……。
 回は流れて第18話「日常の72」、ゆっこは親友を大工カフェに誘った。リヴェンジにして先輩風吹かせる好機だった──きっと彼女もオーダーに眼を回して四苦八苦するだろう、そうしたら自分が助け船を出してあわよくば尊敬の眼差しを承けよう、なんて目論みもあったろう。
 が、物事には常に想定外の因子が存在する。それを人は番狂わせとも、予想の右斜め上を行くともいう。絵的にいえば、あまりのびっくりに顎が外れることも往々にしてあり得るわけだ。
 その時は来た、みおがカウンターの前に立ち、店員を前にオーダーをするその時の訪れが。後ろに並ぶゆっこは早くもクスクス笑いをこらえられない様子だ。
 が、ゆっこの目論みも空しく、みおはためらうことなくつかえることなく、手慣れた風で、呪文ドリンクをオーダーした。曰く、「ホワイトチョコレートモカフラペチーノのグランデで。あっ、あとキャラメルソース、ヘーゼルナッツシロップ、チョコレートチップエキストラホイップの、エスプレッソショット一杯で」と。
 わたくしがゆっこだったらば、その瞬間プロコフィエフのバレエ曲《ロメオとジュリエット》から〈モンタギュー家とキャピトル家〉の勇ましい音楽が脳裏に再生されたことだろうなぁ、演奏はきっとクラウディオ・アバド=ベルリン・フィルで。
 みおのオーダーで察しのついた読者諸兄も居られようが大工カフェ、オーダーとメニューのモデルはあきらかにスターバックスである。
 スターバックスと来ればわたくし、みくらさんさんかだ。とはいえ恥ずかしげなく「ヘビーユーザーです」と胸を張れたのはいまや昔、本ブログが<聖書読書ブログ>として機能していた時分のこと。いや、ただほぼ毎日通っていたから斯く自称していただけなんですけれど、ね。聖書を読む場所原稿を書く場所を求めて流離い、彷徨して辿り着く先はいつだって海あるふるさとの街、もしくは異動して多摩川を越えるようになって以後は帝都のあちこちに点在するスターバックスだったのだ。坐るところがなくてたまに、更なる流離いを重ねて別の店に腰落ち着かせたこともあったけれど、それはまぁしょうがない。
 そのときかならず呑んでいたのはドリップコーヒー、ホットのトール、マグカップで、そこから浮気したのは片手の指を折って足りる程度しかない。それゆえもあろう、長野原みお嬢が立て板に水の如く呪文オーダーしたようなカスタマイズメニューのできる人に一種、憧れに似たような想いを抱いていたのは。が、それはあくまで<憧れ>に過ぎず実行に移すだけの理由はまったく持てずにいたのだった。
 そんなわけで、残念ながらみおちゃんオーダーの呪文ドリンクを賞味したことは、いちどもない。いつの日か……と思えどそんな日が来ることはない、と心の片隅で理解していた。決められたレールから外れて生きる、その勇気も決断力もなにもないのだ。あるとすれば不安と、外れることを否むために準備された詭辯だけ。
 でも、遅かれ早かれ自分でオーダーする瞬間の訪れが、実現の兆しが、唐突に、かの台風12号の猛威に負けず(いや、事実上負けたに等しいけれど、ここはまぁ言葉の綾という奴だ)到着した懐かしき馬車道はスターバックスの窓外を臨む丸テーブル席に在った夕刻、訪れたのだった。どこに? わたくしのスマホに、メールソフトに。それが、──
 「Starbucks Rewardsᵀᴹをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 現在お持ちのGold StarがReward eTicketと交換可能な150Starsに達しました。
 (中略)はじめてのカスタマイズを試したり、気になるFoodを楽しむなど、自分のぴったりの楽しみ方を見つけてみませんか?」
 (斯くしてお話はここでようやく振り出しに戻る)
 ここで特に重要なのは、「はじめてのカスタマイズを試したり」云々という件。読んだ途端に思いついたのが、ご想像の通りで誤りはない、そう、みおちゃんが頼んだかの呪文メニューを試むことだったのだ。
 聞くところによればJR秋葉原駅に併設される、幾つかのアニメやライトノベルなどに登場する駅ビル内のスタバ──スターバックスコーヒー アトレ秋葉原1店(JR総武線各駅停車千葉方面ホームを窓越しに眺められるカウンター席が、わたくしのお気に入りだ!)ではかつて上記のオーダーが、<ちゃんみおスペシャル>と称して用意されていた由。
 噂の域を出ないけれど、客が「ホワイトチョコレートモカフラペチーノのグランデで。あっあと追加でキャラメルソースヘーゼルナッツシロップチョコレートチップエキストラホイップのエスプレッソショット一杯で」と噛まないように、されど間違わずに注文できたという達成感と共にいい終わるや、「ちゃんみお、入りまーす」と簡略化されたオーダーが入るのだそうだ。がんばって最後までいえた喜びも達成感も、すべてをぶっ潰す無上な一言といえよう。
 これも噂でしかないが、オーダーの際舌を噛みそうな呪文はすっ飛ばして、単に「ちゃんみおスペシャルください」といえばちゃんと通じて、数分後にはカウンター横の赤いランプの下から「ほらよ」とばかりに渡される……らしい。また、透明カップには可愛らしいイラストと一緒に、「ちゃんみおスペシャル」の文字が躍っていたと聞く。
 なんともうらやましく、ほほえましい光景ではないか。そんな現場に遭遇したら、たといちかごろちとやさぐれ気味なわたくしでも目尻をさげて、頬をゆるめて見入ってしまうよ。
 でも「ちゃんみおスペシャル」の価格は約700円、総カロリー数は約600キロカロリー──価格はともかくカロリーについてはなかなか覚悟のいるドリンクだね(経年ゆえにいまはもう「ちゃんみおスペシャル」なる通り名も、すぐには通用しなくなっているようだ)。オーダー直前、レジの前で糖尿病とかメタボとか、そんな気掛かりな言葉と心のなかで戦う人もあると思うのだが……あ、おいらもか。◆

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第2609日目 〈更新できなくてごめんなさい、の挨拶。〉 [日々の思い・独り言]

 先日の火曜日は更新を怠ってしまい、申し訳ありませんでした。業務の引き継ぎが集中して疲労困憊、またその後も仕事が多忙を極めたのを良いことに、お詫びの原稿を書くことすら先延ばしにしてしまっていました。
 本日は「ごめんなさい」というだけに留めます。
 けれど来週火曜日──7日になるのかな──以後はこれまでと同じように週一のペースで更新してゆきますので、どうぞよろしくお願いいたします。既に向こう2ヶ月分の原稿は用意できております。あとは予約更新さえちゃんと設定していれば問題なくお披露目もかなうことでしょう。
 事前予告になりますが、次回のエッセイは長いです。400字詰め原稿用紙に換算して約9.5枚ぐらい……。内容は、まぁいつも通りです(横溝正史の感想文に戻るのは今月末か来月下旬かしら?)。
 本当は08月03日(金)に更新できたら良かったんだけれど……それがなんの日かすぐに思い当たる方はそんなにいないだろうな。まぁ太陽の如き人の生誕日である、とだけ、小声でお伝えしておきましょう。
 それでは今日はこの辺で。ちゃお!◆

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第2608日目 〈中弛みして息切れしているいま、為すべきことは果たしてなにか?〉 [日々の思い・独り言]

 ……横溝正史の感想文だと思った? 残念、今日はそうではない。期待を裏切り申し訳ないが。
 既に書いた記憶もあるがもう一度。わたくしは昨年末からずっと横溝正史ばかり読み耽ってきた。飽きることなく退屈すること(ほぼ)なく次から次へと、1冊が終わるや翌日から新たな1冊に乗り換えて、息つく間もなく、胸をワクワクドキドキさせながら、金田一耕助の活躍に心躍らせてきた……のだが。
 包み隠さずいってしまうと、この2ヶ月弱というもの息切れがしてきて、困っている。「困っている」というても、横溝作品の読書断念を指すのではない(※1)。中弛みしているのを承知のまま読書を続けてゆく危険を感知し、その打開策にあれこれ頭を悩ませているうち、酸素欠乏に陥ってしまうた、という次第。いやはやなんとも。
 なんとなくでもお察しいただけるとうれしいのだが、まだ金田一耕助物のみながら横溝ワールドにどっぷりハマったわたくし、みくらさんさんかは由利先生物はもちろんノンシリーズ作品、人形佐七に代表される一連の<捕物帖>諸作まで、たとい何年を費やそうと生ある限り読んでゆきたいのだ。
 ──そのために、
 質問)中弛みして息切れしているいま、為すべきことはなにか?
 解答)リフレッシュあるのみ!
 身もふたもないQ&Aだろうか。が、これ以上の真理が果たしてあるだろうか……?
 では横溝正史から一旦離れて息抜き/息継ぎに読むのは、なにが良いだろう。酷暑に白旗を掲揚して活動停止を訴える灰色の脳細胞をなだめ、おだてて、息抜き読書に取り挙げる作品の条件を検討し、条件を満たす作品の選別を行った……腕組みして天を仰ぎ、うむむ、と眉間へ皺を寄せ。
 家にいるときも、散歩に出ているときも、電車のなかにいるときも、会社で仕事をしているときも、ビールを飲んでいるときも……健やかなる我はわずかな時間もむだにすることなく考えに耽ったのだ。あらおかしいね、お暇な御仁ね、まじめが聞いて呆れらぁ、オッペケペッポーペッポッポー。
 やがて整えられた条件は本当にささいなもので、──
 1:数日、精々が7日程度で読了できること
 2:ミステリ小説であること
 3:深刻な内容でなく、読書の愉悦を味わえること
 4:どんなに面白かろうと深追いはしないで済むこと
 【4】については説明が必要か。要するに、過去の反省を踏まえたのだ。本道は誰かといえばもちろん横溝正史である、今回はあくまで息抜き/中休みに過ぎぬ。然り、浮気はいけない。わたくしだって学習する、ただ継続的実行が伴わないだけの話。呵々。……ゆえに【4】を加えた次第。
 では次に、作品の選定。やはり頭をぐるんぐるんさせながら候補を思い浮かべては棄却して、を繰り返しているうち消去法に頼らざるを得なくなり、ついに勇断をくだして「これ!」と決めた作品は、──
 A.A.ミルン『赤い館の秘密』
 架蔵している集英社文庫で、翻訳は柴田都志子。<乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10>の1冊だ。創元推理文庫版に手を出さなかったのは、架蔵していないことと訳文が好みでないこと、この2点に起因する。結果として、集英社文庫版を(ずいぶんと前のことだが)購入しておいて良かったな、と思うている。それは即ち処分しないで良かったな、と同義だ。
 そうして横溝正史は短編集『花園の悪魔』(角川文庫)読了を以てまず最初の一区切りとし、いまは上述した『赤い館の秘密』をゆっくり読み進めている……
 といえればよいのだが、もうミルンは5日ほど前に読み終えており、いまはすっかり横溝に戻っている──わけがない。1冊ばかしで息抜きになろうはずもない。
 ミルンに続く作品は流石にちと悩んだが、やや趣を異にする作品を読みたいな、と思うていたので、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワミステリ/旧訳)をチョイス。昨日の通勤電車のなかで読み始めた。
 そのうち、横溝では『花園の悪魔』と『不死蝶』の感想を認め(前者は作品単位でなく1冊まとめての感想となろう)、或いはミルン書くコージーミステリの感想を綴るけれど、それらが本ブログにてお披露目される日の訪れを読者諸兄にはどうぞお待ちいただきたい。
 アディオス、サンキー・サイ。◆

※1 じつは角川文庫で刊行された全点のうち1/3程度を読了しているのに気づいたわたくしは、クリスティや太宰という中断の前例があるのをすっかり忘れて、横溝正史作品を可能な限り読破するという無謀な企みを抱いてしまったのだ。□

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第2607日目 〈横溝正史『びっくり箱殺人事件』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 かつて平井呈一はアーサー・マッケンの佳編『生活の断片』を最初に読んだとき、なんだか勝手が違うと感じて部屋の隅に抛ったが或るとき改めてページを繰ってみたら「こんなすごい作品があったのか!?」と驚嘆、評価を一八〇度転じて握玩の一作となった旨、著作集の解説で披瀝している。
 わたくしもちかごろこのような経験を持った。横溝正史『びっくり箱殺人事件』がそれである。最初は「かったるいもの読んだぁ」と、疲労の吐息まじりに本を閉じたのだが、このたび改めて感想の筆を執るに及んで再読してみたら当初の感慨は吹き飛んで、あとには「異色ながら愛すべき佳編」てふ思いが強く残ったことである。
 大衆芸能の地口を思わせる地の文を魅力に思うのみならず、一筋縄ではとうていゆかぬ登場人物の駄弁雄弁ぶりに以前は辟易したが、いまでは両手を挙げて歓迎だ。
 どうして最初はダメで次は良かったのか、その転換するきっかけはなんだったか──これはもう話は単純で、最初はいままで読んできた金田一耕助物とは著しく異なる勝手にとまどい、次はそれに馴れたからに過ぎない。いちどは最後まで読んでしまっているから、物語の全体が把握できていたという安心感も手伝っていたことだろう。
 殊程然様に本作は、おそらく横溝正史の全著作中でも異色の一作なのではないか。たしかにそれまで読んだ作品でもたびたび、くすり、と思わず吹き出してしまう描写はあったが、それはあくまでシリアスなストーリーのなかに練りこまれた隠し味、或いは一時的な緊張緩和の施策に等しい。
 『びっくり箱殺人事件』が異色なのはプロット、トリック、アリバイ、小道具、動機など<本格ミステリ>の結構を整えているに加えて、この「くすり、とさせられる箇所」を作品全体に広げた結果、<本格>と<ユーモア>が絶妙なバランスで調和した点にある。
 これを奇跡の所産というと、一笑に付されるだろうか。その<ユーモア>が全体を彩っているのが本作に<コージーミステリ>の衣をかぶせている要因だろう、と書けば、もはや失笑レヴェルだろうか……?
 『びっくり箱殺人事件』なる作品あるがゆえに、おそらくその作者を<ユーモア>とか<コージーミステリ>という方面から捉えているのだろうが、わたくしは元より英国産ミステリのファンだからこうしたコージーミステリは大歓迎なのだが、まさか横溝正史の小説を読みすすめてゆく過程でその種の作品に出合えるなんて思いもよらなかったよ。
 本作には幾つもの要チェックな箇所が登場するけれど、ときどき作者が顔を出して物語の進行を促す、その筆捌きもその一つといえるだろう。たとえば、──
 「だが、こんなふうに書いていると、いつまでたってもこの小説は終わらんというオソレがある。なにしろ幽谷先生をはじめとして、駄弁家ぞろいの一党のことだから、いつ何時誰がまたよけいな口出しをして、いよいよますますこの小説を、長からしめる結果にならぬとも限らぬので、暫くかれら一党をことごとく黙殺して」(P76)云々
──など作品全体を損なう結果になりかねぬ、作者という全知全能の神が作品に介入する技術も、ストーリーテラー横溝の手に掛かれば斯様に物語の流れを妨げることなく作中へ埋めこむことができるイコール物語に没入している読者をふと現実に戻してしまう愚を犯さずに済む、というお手本といえるだろう。
 なにしろ『びっくり箱殺人事件』には一筋縄ではいかないような人物が勢揃いし、それぞれ機あらばその場の主役をかっさらうぐらいの勢いで喋り、動いてくれるのだ。とすると、神なる作者による介入は物語を破綻なく滞りなく運行するための、「冴えたやり方」であったか。
 ところで横溝正史は登場人物を指して、こんなふうにやや呆れ顔で、しかし愛情たっぷりに書いている、──
 「まことに春風駘蕩たるものである。幽谷先生の楽屋に集まった怪物団諸公の話しぶりを聞いていると、今宵ここで殺人事件があったなどとはとても思えない。常日頃、こういう世界に馴れている恭子さんだったが、このときばかりは呆れかえってしばらく言葉も出なかった」(P121)
 ああ、この登場人物の自由闊達ぶり、かれらのかもすのどかな空気! 良質のミステリに欠くべからざる余裕と稚気に満ちみちた本作にあって、それは潤滑剤であると同時にトリック解明の鍵でもある。
 安楽椅子へ坐ってコーヒーとドーナツを口にしながら読むにうってつけな、横溝正史版<コージーミステリ>『びっくり箱殺人事件』と出合えた幸福に、感謝。そうして感想文書きという目的があったとはいえ再読の機会が与えられたことにも、感謝。その一方で本作に金田一耕助が登場するはおろか名前だに出されぬ理由も、なんとなく理解できる──、ひとこと、そぐわないよね。
 『びっくり箱殺人事件』を読むにいちばんオススメなのは、読書のためのみの時間がたっぷり取れる日、なにものにも邪魔されないけれど適度に生活音のある環境に身を置くことだ。読書の酩酊を味わうに申し分ない環境を作り出すのは至難の業かもしれないけれど、実現すればそれは贅沢で豊潤な読書経験をもたらしてくれるに相違ない。
 ──自分の反省と経験を踏まえて、上述の如く意見具申させていただく。ちなみにわたくしが読み直したのは、京浜急行本線〜都営浅草線〜京成本線に揺られる約3時間強の遠出に於いてであった。◆

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第2606日目 〈横溝正史「堕ちたる天女」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 トラックの荷台から落ちた石膏像のなかから美女の死体が! 淋しい場所にある謎めくアトリエでは妖しき犯罪がうごめいている! ……まるで乱歩だ、『地獄の道化師』だ……。そんな連想の働くのもやむない横溝正史「堕ちたる天女」が、本日の感想文の俎上に上せられた作品である。
 交通量の多い交差点での荷物の落下事故から、本編は幕を開ける。果たしてその荷物はトラックの借り主たる彫刻家が造った石膏像で、その女像の芯となっていたのは浅草のストリップ劇場のトップスター、リリー木下だった。彼女は筋金入りのレズビアンと評判で、愛する相手もある身だったがちかごろは異性によろめき、かつての愛人とはすっかりご無沙汰であるという。捜査に乗り出した等々力警部にくっついて金田一耕助もかかわってくるが、やがて事件は同性愛者の愛苦を背景にした保険金絡みのそれに変貌してゆくのだった……。
 寡聞にしてわたくしは横溝正史に同性愛者を主要登場人物に据えた作品のあることを知らない。が、すくなくともこれまで読んできた20数編のなかに斯様な人物は見当たらなかったと記憶する。むろん、古今東西、文学に現れたる同性愛は男女問わず多くあり続けて、いまもやや趣を変えて生み出されているが、たとえば近代文学に目を向ければ未だ知られざる山崎俊夫がいるし、横溝と同じミステリ作家では江戸川乱歩という先達があった。
 ただ、やはり時代を感じさせるのは、犯人として終始疑われてなかなか網に掛からぬ杉浦陽太郎がホモになった経緯だ。戦時中、杉浦は戦地で上官や朋輩の慰み者にされ、結果、復員して後も男相手にしか性愛の情欲の抱けぬ心身となってしまった。こうした戦場での異常体験は帰還兵が多く報告乃至証言を残しているが、作中ではこのような性癖を「ソドミア」と呼んでいる。いまは死語だがかつては蔑みと差別の言葉であったのだ。
 今日のようにその性癖が江湖に知られ、国によっては同性婚さえ認められるようになった時代であれば、リリー木下も杉浦陽太郎も救われたことであったろうに、と21世紀の世界の寛容を顧みて思うのである。
 ──杉浦のこうした性癖を更に哀しくさせているのは、真犯人によって巧みにそれを利用され、濡れ衣を着せられた挙げ句、殺されて人目につくこと稀な所へ棄てられたことだろう。同性愛が世間の理解を得られぬ、蛇蝎の如く厭われていたような時代、その性癖を知られることはおそらくいま以上に悲劇的かつ絶望的、見えない檻に囚われて一切の希望も自由も失われたに等しいことだったかも知れない。
 同性愛という要素をかりに取り払ったとしても杉浦と真犯人の力関係を思うとき、嗚呼、組織てふ透明の檻に囲まれて唯々諾々と日々を過ごす一人であるゆえにわたくしはそれを、訴えるに訴えられぬ類のパワー・ハラスメントに置き換えてしまうのだ。そうして瞳が潤み、憤りのようなものが腹の底で生まれるのを禁じ得ぬのである……。
 長口舌を揮うたが、なにも杉浦に限ったことではない、第一の被害者であるリリー木下も同じで彼女もまた愛を信じた相手に裏切られて殺されたのである。永い春がもたらしたマンネリな関係に刺激を与えてみましょうよ、なんて愛人の提案が、まさか自分を死に至らしめる周到かつ狡猾な罠だったとは知る由もなく。男装した相手を新たな恋人と周囲に吹聴して、これまで経験したことがないような日々の終わりに待つのが自分の殺人計画であるとは、露とも知らず、彼女は愛に生き、愛に殺された。
 然り、真犯人は共謀して哀しき同性愛者を脅し、騙し、欲望成就のマリオネットとしか扱わなかった卑劣漢である。かれらはリリー木下を殺して彼女に掛けられていた保険金をせしめ、口封じに杉浦のみならず2人の女性までも毒牙に掛けてその命を奪った。過去に犯した保険金殺人だけでは満足できないお金に飢えたかれらは、戦争を挟んで此度もまた同じような殺人事件を計画して実行した。その非道ぶり、その冷酷残忍なる様、作中結びの一章にて金田一耕助が、「鬼畜も三舎を避ける」(P357)と評し、終いには「ぼく……ぼく……こんな凶悪な犯罪のカップル、見たことがない。あいつらは悪事を享楽しているんです。気持ちが悪い。吐きそうです」(P357)とまで言い捨てるのだ。こんな名探偵、珍しい。
 かれらの失敗はそこに金田一耕助がいたこと、それに尽きよう。金田一あったればこそ戦前に岡山県であったお宮入りした保険金殺人とのつながりが見え、一挙に2つの事件が落着するに至ったわけだから。これがどういうことかといえば、本作に於いて東の等々力警部と西の磯川警部が初共演し、がっちり握手を交わすのである。
 同性愛を物語の核に持ってきたこと、扱う事件が21世紀の今日も折節報道される保険金殺人であることのみならず、金田一がそんな仮借ない台詞を吐いたという一事だけでも「堕ちたる天女」は、これからも読み継がれてゆくに足る佳編と結論してよいだろう。
 初出は『面白倶楽部』(光文社)昭和29/1954年6月号。◆

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第2605日目 〈横溝正史「貸しボート十三号」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 以前はミステリ小説を読みながら「犯人当て」に挑んだものだった。それが最高潮に達していたのはちょうど1年前だが、ちかごろはそんな意欲もまるでなく、物語に心をゆだねるだけでじゅうぶんと思うている。
 探偵がトリックやアリバイ崩しに能弁垂らすのを傾聴し、犯人を指摘する件りに「ほう」と多少の驚きを表明し、大団円を迎えた物語に満足を覚えて本を閉じる……この間の気持ちをかんたんに述べるなら、「そのうち探偵が真相に気附いて犯人を名指しし、トリックやらなにやらについて解説してくれるンだろうな」と……或る意味、ミステリの読者としていちばん理想的かついちばんお呼びでない読者であるやもしれぬ。
 その代わり、というのでは勿論ないが、この頃ずっと読み耽っている横溝正史については「探偵小説の醍醐味を味わう」というより作中に描かれた時代風俗や地理に興味を惹かれることがたびたびで。たとえば此度の「貸しボート十三号」も然りで、隅田川にまつわる幾つかの関心に囚われて、作品の感想等とそれらを同居させるのに頭を悩ませていたのだが、もうこうなっては開き直って今回は、作品よりもそちらの話題に終始させていただこう。えっへん。
 ──というておきながらさっそく私事になるのだが、現在わたくしは本作と非常に縁ある土地へ仕事に来ている。そのビルからはちょうど首都高速都心環状線を見おろすことができる。関東大震災で甚大な被害を被った東京市の復興──そのシンボルとして立案されたプランの1つが「震災復興橋梁」である。大正期という時代性を反映してか、そのデザインや様式は今日でも新しさを感じさせるが、残念ながら今日では姿を消した橋梁が多く、往年を偲ぶのは難しい。戦災復興と高度経済成長を承けて河川が埋め立てられ、同時に空襲による被災を免れた橋梁も撤去・解体が行われたからである。
 が、幸いなことに21世紀のいまも往年の姿を留める橋梁は現存している。そのうちの1つがビルから見おろす都心環状線に掛かる采女橋や万年橋だ。かつて築地一帯には堀割が縦横に走ってそこに水の流れがあったこと、時が経て<再開発>の名の下に埋め立てられて道路に変貌したこと、それらを知る端緒が横溝正史の「貸しボート十三号」だったのだ。
 なお本作は、これもいまは姿を消した汐留川の貸しボート場からそこまで舵を漕いできたアベックが、浜離宮恩賜公園の沖合で漂うボートの上に生首が半分切られた男女の死体を発見する場面から始まる。このボートが所轄の築地書へ曳航されるルートを、すこしばかり省略されていると雖も既述されているので、ここにそれを書き写しておきたい。曰く件のボートは浜離宮恩賜公園沖から隅田川水域に入るとすぐに築地川東支川へ折れ、現在の築地市場内にあった海幸橋をくぐり、そのまま遡上して市場橋、北門橋、采女橋を頭上に見あげ、築地川奔流にぶつかると右手に舳先を向けて万年橋、祝橋の下を通って川縁の築地書に曳航された。
 今日、本作で描かれた東京の景観は殆ど失われてしまった。「貸しボート十三号」が執筆されたのは折しもモータリゼーションの黎明期、古き都の面影が駆逐されてゆくのは避けられぬ時代を迎えつつあったのだ。
 未来へ前進するには過去を埋葬する行為が、どうしても伴ってしまう。だがしかし……と、そんなディレムマを抱えながら、横溝正史がこの短編を発表した昔と同じ雄姿を構える2径アーチ石造り橋梁の采女橋や万年橋にたたずみ、眼下の都心環状線を見おろして途切れることなく行き交う車の列を、或いはふと視線をあげた先にあるビル群の向こうに見える東京スカイツリーを眺めていると、時代遅れのノスタルジーに苦笑しつつも豊かになるのと引き替えになくしてしまった<なにか>に心がチクリ、と痛むのである。
 そうしてそんな思いを心の隅で弄びながら、いまの自分が最も親しみと愛着を感じる東銀座・築地界隈の様子を横溝正史が書き留めてくれたことに感謝し、金田一耕助と等々力警部がこの地を振り出しにして捜査に東奔西走した事件のあったことを忘れられずにいるのだ。◆

 追記
 咨、紙幅が限られているとは話題を絞らざるを得ぬことを意味する。つまり書き足りないことがまだまだあるのだ、この「貸しボート十三号」には。ライスカレーが無性に食べたくなったことや珍しく青春小説の趣を兼ね備えた作品であること、或いは浜離宮恩賜公園と東京湾を隔てる2つの水門の話や事件現場から死体発見地点までのルートの疑問、エトセトラエトセトラ……あれやこれやと……。
 でも、これは別稿として後日、好き勝手お喋りさせていただくこう。では、ちゃお!□

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第2604日目 〈横溝正史「湖泥」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 五木寛之の『古寺巡礼・奈良編』を読む手が止まった。「唐招提寺」の章、その一節にふと去来するものを感じたのだ。その節に曰く、「(敗戦後、大陸から引き揚げてくると)こんどは「引揚者」という肩書きがついた。一転して、祖国の人たちから「引揚者」として差別されるような立場になったのである」(P111)と。
 この思いがはたして、五木寛之の感受性がもたらしたものか、当時の内地民の多くが抱いていたものか、知る由もないけれど、そのときわたくしの手を止めたのは刹那の間、数日前に読んだ横溝正史「湖泥」の犯人が五木と同じく引揚者で、かつ落ち着いた先で虐げられる存在だったからだ。
 虐げられていた、とは、ここでは迫害や村八分を意味するのでない。いみじくも金田一耕助がかれを評したように<インヴィジブル・マン>、即ち<見えて見えざる人>として、虐げられていた、というのである。体はたしかにそこにあるのに、コミュニティの一員と見なされていない。なにか事が起こらぬ限り、誰もかれの存在を気に留めないし、その動向に注意を払わない。現実に体験したら地獄だけれど、殊探偵小説に於いては、犯人役の人物に願ったり叶ったりの立場であろう。
 犯人はその立場を巧みに利用した。村人からは無能白痴と思われていたようだけれど、とんでもない。実に周到、狡猾で、自分を<見えて見えざる人>扱いした村人への復讐を果たしてゆく。が、その犯行の根っこには病で苦しむ妻を見殺しにした村人たちへの怨みつらみがあった。
 満州から引き揚げて村へ漂着したとき、かれの妻は梅毒に冒されていた。村人からは忌避され、医者からは診察を拒まれた。やがて妻は逝った。その恨み忘れ難く、時経るに従いますます憎しみは募る。いつの日か……、と思い思いしていたところに同じ引き揚げ者で、いまは村長夫人となった女の不義を知るとそれを利用して、積年の恨みを晴らさんと手を血に染めた。旧習と因縁に魂を囚われた閉鎖的な共同体に、図らずも紛れこんでしまった<異類>による復讐劇がこの「湖泥」なのだ。
 その背景を思うてぞっとさせられるのは村人の、犯人への接し方だろう。村八分ならまだマシだ。しかしながら村人は、あたかもかれを生殺しとするかの如く接してきた。すれ違えば声は掛けるし、事件があった際も証人として遇し、隣村の祭りで会えば酒を飲むような間柄なのだ。にもかかわらず──<引揚者である=土着民ではない>ことからたぶん、村人は自分でもそれと意識しないまま、犯人を引揚者として差別していたんじゃないのかな……。

 「湖泥」は、およそ多くの人が金田一耕助の探偵譚に抱くイメージをずらり揃えた作品だ。都会から離れた地方の僻村を舞台とし、そこには旧習と因縁に魂を囚われた人々が生活し、村を代表する2つの旧家がいがみあっており、それが高じて陰惨な連続殺人が勃発する、という、そんなイメージ──。
 が、短編という性格上こちらの方がより濃密に、それらの要素が凝縮されていて読み応えがある。地方物では一頭地を抜く仕上がりを誇る一方で、田舎で起こる犯罪について磯川警部と金田一耕助、それぞれの台詞がとても印象に残る短編。蛇足を承知で、最後にそれを引けば、──
 「(田舎は)何代も何代もおなじ場所に定着しているから、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまもなおヴィヴィッドに生きている。いや、当人同士は忘れようとしても、周囲のもんが忘れさせないんですな。話題の少ない田舎では、ちょっとした事件でも、伝説としてながく語りつがれる」(P6 / 磯川警部)
 「(都会よりも田舎の方が、或る種の犯罪の危険性をずっと多く内蔵している、という警部の発言を承けて)……実際、そのとおりなんですよ。しかし、それはあくまで内蔵しているだけであって、ある種の刺激がなければ、こんどのような陰惨な事件となって爆発しなかったろうと思うんです。では、その刺激とはなにか……やはり都会人の狡知ですね。(中略)だからぼくのいいたいのは、農村へ都会のかすがはいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね」(P107-8/ 金田一耕助)◆

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第2603日目 〈メタボは敵だ! ──文章の長ったらしいことについての短な反省。〉 [日々の思い・独り言]

 読者諸兄皆さまへ、謹んで申しあげたい。
 公開の数日後、第2602日目を読んでみてわれながら「ちと長くなりすぎたわい(テヘペロ)」と深く、真摯に反省すること頻りである。
 ゆえ以後はかつてのように──聖書読書ブログであった当時のように……「え?」とかいうな──、400字詰め原稿用紙4〜5枚程度を目処とした分量で、すくなくとも読書感想文に関しては綴ってゆくことにした。
 原点回帰? まぁ言葉が立派に過ぎるけど、うん、そ、そんなところだ……ね。
 既に続く第2604日目はダイエットにダイエットを重ねて、それでも未だ肉付きの良すぎる部分なきしにもあらずだけれど、上述の分量に留めることができた(安堵!)。
 然り、書けばいい、というものではない。メタボは「敵」である。◆

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第2602日目 〈横溝正史「トランプ台上の首」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 きっと、と思うのである。CSにて古谷一行の<名探偵・金田一耕助シリーズ>全32作が放送されなければ、そうしてそれを録画・視聴していなければ、「トランプ台上の首」なる作品が横溝正史にあるのを知るのはもっとずっと先のことであったろう。加えて視聴前に「黒猫亭事件」を読んでいなければ、ドラマ『トランプ台上の首』を観て引っ繰り返ることもなかったであろう。
 余計なことをいわせていただければ『トランプ台上の首』は同名短編の映像化ではない。<名探偵・金田一耕助シリーズ>の第28作『トランプ台上の首』は実質「黒猫亭事件」のドラマ化である。どこにも「トランプ台上の首」の要素がない、とまではいわないが……まぁ正直なところ、この短編と「黒猫亭事件」を合わせて1本の映像作品に仕立てる必要はあったのかな、と小首を傾げ続けているのだ。ドラマはドラマで面白かったんだけれどね。
 それでは気を取り直して、──
 岡本綺堂が小説や随筆で江戸の風俗を活写し、永井荷風がやはり小説や随筆で浅草や東京の景観を録したと同じように、横溝正史も東京を舞台にした探偵小説で街並みや風俗を描いて戦後復興期の様子を今日に伝えている。
 「トランプ台上の首」に限った話ではない。やがて感想をお披露目するであろう「貸しボート13号」に於いてわれらは東銀座周辺の首都高速湾岸線がかつて築地川の本流であり、湾岸線に今日も掛かる采女橋から築地市場方面へ向かう道路はその支流で、各所に掛けられていた橋の名残が交差点の名称に留められているなど、横溝正史の小説を読まずしてどうして調べたりする気になったであろうか。探偵小説は時代を映し出す鏡でもあるのだ。それはおそらくジャンル小説ならではの特徴だろうが、それは後日の話題とし、いまは「トランプ台上の首」に戻ろう。
 ──「トランプ台上の首」を読み始めるやわれらは、あたかもタイムスリップしたかのような思いに陥る。それが錯覚であるとわかると今度は戦後間もない隅田川上にかつて水上総菜売りなる商売があったことに「ほう」とし、多くの常連顧客とそこそこの儲けがあることに「へえ」と感心させられることだろう。
 勿論この商売、横溝正史の創作ではなく江戸時代からあった商売の末裔というてよく、敗戦の痛手から立ち直って高度経済成長期に突入した頃まで隅田川にいた水上生活者相手の物売り稼業で、宇野の場合、水上生活者のみならず川縁に住む人たちにまで顧客を持っていた。
 この宇野宇之助、当初は当たり前の総菜を積んで売り歩いて(?)いたが、事件現場となったマンションの女性たちから「今風の物も売らなきゃ駄目よ」、「もっと身だしなみに気を遣わなくちゃ駄目よ」と教育されて以後、扱う総菜はひじきに油揚げ、里芋の煮ころがしやうずら豆の甘辛煮といった昔ながらのものに加えてオムレツやトンカツ、コロッケなど洋風のおかずが加わり、装いも印半纏に捻り鉢巻きから清潔な割烹着にコック帽、と小洒落たものへ変貌した。ちなみに船も和船からモーターボートに代わった……。
 戦後復興期の職業事情という切り口から「トランプ台上の首」を読んでみると、またちょっと違った楽しみ方ができるかも知れない。
 昭和30年代、既に夫婦共働きの世帯が普通になってきており、食事の支度もままならぬぐらいに忙しい日々を送っているというのは即ち、日本が高度経済成長期に突入しており神武景気が一段落して間もなく岩戸景気を迎えんとしていた時代の物語であることを、われらに伝えてくれる。また、件のマンションに住む独身女性のなかにはいわゆる<二号さん>がちらほら見受けられて、しかも稼ぎが相応に良いことに触れて昭和32/1957年4月に施工された売春防止法(作中では「売春取締法」)の適用の難しさを指摘していたりもする(いずれもP178)。
 ちなみに最初の被害者(と目される)女性はストリッパーを生業とし、そのパトロンは表向き自動車のブローカーだが実際はヘロインなど麻薬の密輸を専らとする人物(P207-8,247,288)であった……。
 第一の被害者の殺害現場となった今戸河岸(隅田川縁で今戸神社を擁し、現在は台東区リバーサイドスポーツセンターがあり、桜橋水上バス乗り場がある、桜橋で対岸と結ばれている。ここをすこしく下流へ行くと、東京大空襲戦災犠牲者追悼碑や言問橋、東武線浅草駅がある)にあるガレージの地下室だが、そこの「コンクリートの壁が、せんだっての地震のとき、一間ほどくずれおちた」ために犯人は自ら補修を買って出て壁から「床まできれいに塗りなおした」(P303)と金田一耕助は指摘した(一間は約1.82メートル)。
 この地震とは、小説内時間から推測すると昭和32/1957年11月10日未明に発生した伊豆諸島は新島近海の群発地震をいうていると考えられる。新島の南沖約5キロの地点を震央とする、震源の深さ13キロ、マグニチュード6.2の地震であった。数日前から活動は活発であったがこの日、遂にそれは頂点に達して、近くの式根島では未明の本震の際、全半壊した家屋が合計4棟、石垣が崩れたり亀裂が走ったりなどの被害が50箇所近い場所で生じた由。また、崖崩れも2箇所で報告されている。なお、千葉県勝浦町では震度3、隅田川河口付近を含む東京は震度2の揺れが観測されたという。
 さて。この震度2、じっとしている状態であれば人体でもじゅうぶん認められるものだが、では果たしてその程度の揺れでガレージの壁が一間ばかしとはいえ崩れたりするものだろうか。元不動産屋のみくらさんさんかは、少しく小首を傾げつつこの点を考えてみた。
 東京大空襲の際、隅田川一帯は一面が焼け野原になって建物などなにも残らなかったような印象をどうしても抱くのだが、実際は一部の建築物は被害の程度は別にして焼夷弾の雨を逃れて焼け残ったようである。写真で確認できるのは東武線浅草駅の入る松屋や雷門前の仲見世などであるが、もしかすると殺害現場となった建物もこうした空襲を免れた建築物の1つであったのかもしれない。
 とはいえ空襲に伴う火災こそ避けられてもその衝撃と無関係でいられたとは思えない。爆弾破裂の衝撃を吸収し続けた結果、コンクリートが脆くなってかの地震に於いて一部が剥落したということもあり得よう。幾ら戦後の復興期の建築物とて震度2程度の微震でコンクリート建築の一部が剥落するなどとは思えないのだ。杜撰で手抜きな工事、資材の強度を下げるような工事を行っていなければ……もっとも、これは今日でもよくある話であるが……。
 旧耐震基準を含む建築基準法が制定されたのは昭和25/1950年で、このときに構造基準も規定された。ちなみに今日の基準で旧耐震基準時代に建てられた木造建築の評点は倒壊する可能性が高いことを示す0.7をずっと下回る0.50、倒壊可能性は高いということだ。これをコンクリート建築にそのまま適用することは勿論できないけれど、すこし大きな揺れで相応の被害が出ることはほぼ間違いないというてよいだろう。
 ──横溝正史の東京物は岡山物に較べて幾分評判が悪いけれど、見方を変えればそれらの多くが職業小説、地理(地誌)小説、風俗小説の側面を持つ。そんな要素を汲みあげて読む愉しみもあるということを、申しあげたかった。
 もっとも、こんなことをいえるのはおそらく日常的に東京のど真ん中へ通勤して、かつては大嫌いだった東京という街に親しみを持つようになり、その歴史、その変貌、その雑多ぶりに面白みを感じるようになったからだろう。その流れで講談・落語に浸り、池波正太郎や久生十蘭を筆頭とする時代小説を漁り読むようになって初めて、そこで描かれた町の遺構、行楽の名残がいまもあって、それらのすぐそばを普段から歩いていることに気附かされた。21世紀の東京と近世期の江戸は薄い膜一枚を隔てて隣り合っていたのだ。
 ……と、浜離宮までを含む銀座界隈で昼間を過ごすわたくしは、横溝正史の東京物をそんな風に読んで愉しんでいる。それゆえに正直、さして面白いと感じられない「びっくり箱殺人事件」もどうにか読み進められているわけで。
 それにしても、と物語本編についてなにも触れていないことに今更ながら気が付いて、顔を青くしながら述懐するのである。犯人に狙撃されながらも九死に一生を得た金田一耕助のことや、被害者と加害者が双子だったってことまだこの時代には通用していたトリックなのかと慨嘆したりしたことをね。でもそれらについて、本稿で筆を費やすつもりはありません。もう他の誰彼がきちんと書いていらっしゃいますからね。わが輩の出る幕では、ない。◆

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第2601日目 〈横溝正史「鴉」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 磯川警部も人が悪い。どこぞへ金田一耕助を湯治に誘うときは、そこが未解決事件の現場であることが専らで、あわよくばかれの推理を頼りに落着を見たい、と企んでいるフシが見え隠れしている。──とは流石に言葉が過ぎるか。しかしねぇ、『悪魔の手毬唄』という動かしがたい前例があり、いままた短編「鴉」という事件に出喰わしてしまった以上、そう邪推してしまうのも無理からぬところではあるまいか。そうして、嗚呼、2度あることは3度あるという……。
 その「鴉」の粗筋はこうだ、──
 昭和21年11月、新婚間もない蓮池貞之助が家人の眼前から姿を消した。3年後に戻ってくる、という書き置きを残して。実際それから3年後にかれは戻ってきたが、再び家人の前から、今度は決して戻らぬと残して、行方をくらませてしまった。この失踪事件は果たして真実か、狂言か、金田一耕助は考える。その土地で神様の使いとされる鴉がなぜ、おこもり堂で死骸となり、床に血を滴らせていたのか、金田一耕助は考える。貞之助を取り囲む人々の証言と状況証拠から金田一耕助が明らかにして見せた2回にわたる失踪劇、その全容とは──?
 ちらり、とお話ししてしまえば、この人間消失は或る人物によるすり替わりなのだが、その動機はいとも単純にして邪である。
 他人が計画した謀り事を自分の企みの実現に利用し、願望成就ならずと知るや破綻をもたらした人物を殺めんと動くも自滅して果てる、真犯人なんて呼称も勿体ないぐらいの小悪党──期待を裏切らぬ末路を辿る件の輩にわずかの憐愍すらも抱かないけれど(自業自得とか因果応報というよりも、この人物の場合はただの「バカ」である)、翻って他の登場人物にはというと貞之助の妻、珠生に殊の外同情を覚えるのである。
 幕切れ近くで珠生の口から夫の失踪にまつわる話を聞くことができるのだが、そのきっかけはあまりに痛ましいことだった。愛が誠であったがゆえに妻は悲しみ、夫は苦しみ、そんな葛藤にお構いなく<家>の重圧がのしかかってきてかれらは更に追いこまれてゆく。
 近代文学は古来の旧習と舶来の新風のぶつかり合い、せめぎ合いをテーマの1つとした。島崎藤村を見よ、田山花袋を見よ、有島武郎を見よ、永井荷風を見よ。就中<家>を巡る作品については藤村の独断場の感があるけれど、もう少し時間を下ってジャンルも変えてみると横溝正史も地方物で繰り返しこのテーマを追求してきた一人だ。『犬神家の一族』、『八つ墓村』、『本陣殺人事件』など「犬も歩けば棒にあたる」式に該当する作品は長短編問わずに多くあるだろう。
 「鴉」もむろんその例に洩れず、貞之助・珠生夫婦は<家>がもたらす因習のやはり犠牲者というてよい。
 ただここに一言急いで添えておかねばならぬことは、そも失踪計画が立案された背景には珠生が生まれながらに「女であって、女ではない」ゆえに「夫婦のかたらいのできぬ体」(P171)だった、という事情のあったことだ。これが夫婦生活へ影を落とし、<家>の存続/継承問題に発展してゆくあたりがつながってゆくわけである。この「女であって」云々が今日でいう性同一性障害を指すのか、半陰陽の意味なのか、作者はそれ以上なにも触れていないので判然としない部分もあるのだが……。
 荒寂とした空気が重く垂れこめる下で生きる人々を描いた本作は、その読後感のもの侘しさも手伝って一際、心に深く刻みつけられた佳品であった。読後、巻を閉じて思わず天を仰いで「咨」と嘆息させられてしまう探偵小説なぞ、古今東西そう滅多にあるものではない……でしょう?
 ……さて、次は磯川警部、どんな未解決事件に金田一耕助を巧みに巻きこむつもりか。今後の読書がますます楽しみ。あのときちゃんと捜査していれば未解決事件になんかならなかったんですよ、なんて小気味よい皮肉が金田一耕助の口からまた聞けるのかな。くすくす。◆

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第2600日目 〈横溝正史「幽霊座」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 ──巻を閉じてぼんやりしながら、絵になる場面の目立つ一編であったなぁ、と述懐するのである。横溝正史の短編「幽霊座」を読んでまず胸中に去来した思いはそれだった。梨園を舞台にしたせいもあろうか。
 たとえば金田一耕助が平土間の椅子にうなだれて坐り、そこへ窓から射しこんだ光があたっているシーン。たとえば音爺いと金田一耕助が奈落の底で話し合っている最中、爺の袂から犬塚信乃のブロマイドがはらりと落ちる、そうしてそれを拾いあげるシーン。たとえば歌舞伎狂言『鯉つかみ』の上演中、水船に設けた鉄管から奈落へ抜けてきた滝窓志賀之助/鯉の精役の役者が早着替えするシーン。たとえばその『鯉つかみ』を上演する舞台上の役者たちの所作、その裏方たちの動き回る様子。いずれもほんのわずかの描写でしかなく、或いは地の文でわずかに説明乃至は描写されるに過ぎぬものだが、やたらとそれらが一枚一枚の映像となって鮮烈な印象を与えてくるのだ。
 ちと話が先走りすぎたようだ。簡単に粗筋を、ここで述べておこう。
 稲妻座は歌舞伎興行を独占する会社から秋波を送られている小さな劇場である。いまから17年前、夏芝居の演目であった『鯉つかみ』上演中、一人の役者が失踪した。名を佐野川鶴之助という。いつしか稲妻座では鶴之助失踪の日をかれの命日とするようになり、昭和27年夏、その追善興行として再び『鯉つかみ』が上演される。かつて鶴之助が演じた滝窓志賀之助/鯉の精はかれの遺児、雷蔵が担当するはずだったが上演直前に倒れたせいで鶴之助の異母弟、紫紅が演じた。ところがその紫紅が水船から鉄管を通って奈落へ落ちてきたときに死亡する。検視の結果、紫紅は毒殺されたことが判明。鶴之助のみならず戦前から稲妻座の古参連中と懇意にしていた金田一耕助はその場に居合わせたことから、例によって例の如く事件の渦中に巻きこまれてゆく。やがて金田一耕助の推理は鶴之助と紫紅を中心とする因果な人間関係を暴くことになるのだが──。
 嗚呼、なぜ粗筋の紹介がこうも下手なのか。ホント、嫌になっちゃうね。まぁ、そんな徒し事はさておき。
 華やかに映る梨園の裏に蠢く人間関係、権謀術数、不協和音がもたらす種々の事件を描いた人といえば、真っ先に戸板康二や小泉喜美子が思い浮かぶ(栗本薫にはそうした小説があるのかしら。『変化道成寺』っていう新作歌舞伎の脚本を書き下ろしているのは知っているけれど)けれど、横溝正史が広義のショービジネスの世界を事件現場に持ってきたのは「幽霊座」以外にどれだけあるのかしら。インターネットで調べればすぐわかるだろうけれど、実際に読んでいない以上はその情報も信憑性が薄いから、ここでは殆どなかったのではないか、といわせてもらう。
 戸板康二も小泉喜美子も梨園を題材に幾つもの小説を書いた。さりながら陰惨さ、背筋の凍るような禍々しさという点では流石に横溝の本作へ軍配が挙げられよう。横溝の他作品でも陰惨で禍々しい事件はお目に掛かれるが、どうしたものか小説の舞台を梨園に据えただけでその要素は一際と濃くなり、それが読み手に働きかける効き目も倍増するのである。魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿の如き梨園に生きる人々であればそのような行動も納得できる、と妙に納得させられてしまう<なにか>が、事件の発端となった出来事に寒々しくも妙に生々しい根拠を与えてしまうのである。池の畔に立って、溺れる幼児を冷徹な眼差しで見つめるあの男の様子……そのあとの行動と併せて思えば、心胆寒からしむるとはまさにこのことか、と嘆息せざるをえない。歌舞伎役者(あ……)ならではの立ち姿の美しさが更にその思いを強く、深くして。
 もしこの作品に呆れてしまう箇所があるとすれば、それは犯人たち(2度目の、あ……)の報連相怠慢に関してであろう。きっとかれらがもう少し密に、頻に連絡を取り合っていればこの犯罪も杜撰な結果に終わることはなかったっだろうに。結局は血に飢えた鬼女/醜女の暴走が事件を発覚させたも同然だものね。きっと彼女にドニゼッティがルチアのために書いたような狂乱の音楽は相応しくない。
 なお「幽霊座」で重要な役回りを務める歌舞伎狂言『鯉つかみ』、元は尾上家の演し物で、初演は宝暦6/1756年4月に市村座(江戸)にて初代尾上菊五郎が滝窓志賀之助を演じた『梅若菜二葉曽我(うめわかなふたばそが)』であったというが、別に元文4/1739年7月、同じ市村座で二代目市川海老蔵が演じた『累解脱蓮葉(かさねげだつのはちすば)』を初演とする説もある。
 最近では昨平成29/2017年11月の歌舞伎座顔見せ公演、幕開きの演目として上演された。滝窓志賀之助/鯉の精を演じたのは七代目市川染五郎(高麗屋)。七代目として最後の舞台であった(翌平成30年1月の壽初春大歌舞伎にて十代目松本幸四郎を襲名披露)。
 本音をいえば、歌舞伎を題材にした探偵小説として読むのみならず、これをきっかけに歌舞伎に興味を持って恐る恐る歌舞伎座や新橋演舞場に出掛けて、その魅力、その魔力、その底知れぬ面白さに目覚めてどっぷりはまってくれる人が出てきたら嬉しいな、と思うておるのであります。探偵小説も面白いけれど、歌舞伎も面白いよ。◆

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第2599日目 〈横溝正史とミルンとウッドハウス。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の佳編「蝙蝠と蛞蝓」を読んでふと思うたのは、横溝正史が『新青年』誌の編集にかかわり、1年半の間編集長を務めていた時代のあったことである。
 編集に参加したのが大正14/1925年から、編集長の地位に在ったのが昭和02/1927年03月号から翌昭和03/1928年09月号までということから、わたくしみくらさんさんかは推理という名の妄想を膨らませてゆく……愛してやまぬ作家の1人、P.G.ウッドハウスの作品が戦前から翻訳されており、その主舞台が他ならぬ『新青年』誌であったことを思い合わせながら。
 実は探偵小説専門誌ではなく総合娯楽雑誌であった『新青年』は、当時のモダニズムの流れを反映してちょうど横溝が編集参画する頃から、その手の作品を積極的に掲載するようになっていた。同時に誌面へはユーモア小説の類もちらほら顔を見せ始め、その一翼をウッドハウス作品は担っていた(ウオドハウス或いはウォードハウスなどと表記された)。
 それはちょうど横溝が編集に携わった時期の話である。ウッドハウス作品が紙面へ掲載されるに際してどの程度まで横溝がかかわったか不明だけれど、すくなくとも印刷所に回る前の段階で目を通したり、評判や感想など耳にする機会はあったのではないか。
 目を通す機会あったらばその過程で、おそらく鍾愛の一作であるA.A.ミルンの傑作探偵小説『赤い館の秘密』を想起させる春風駘蕩の作風に加えて、上質のユーモアと筋運びの巧みさ、文章の精妙さやそこから滲む作者の教養の豊かさに気が付いたことであろう。因みに横溝正史とミルン『赤い館の秘密』の出会いは大正15/昭和01/1926年、博文館(『新青年』発行元)入社のため上京する以前の神戸時代であった由。
 勿論横溝正史がウッドハウスに直接間接の別なく影響を受けていたか、確認する術はない。随筆集のどこを引っ繰り返してもウッドハウスの名前は見当たらなかった。横溝がミルンを好んだのは「退屈でありながら異様な魅力に満ちている点」(「私の推理小説雑感」より)であり、すべてが結末の謎解きにつながってゆくがゆえに登場人物の一挙一動、一言半句も見落とすことのできない緊張感にあった。
 翻ってわれらがウッドハウスは如何か? その作品は広義のミステリでこそあれ、ミルン始め<ミステリの黄金時代>に足跡を残した作家たちとはひと味もふた味も違う、かれらが描こうとした現実とはいささか乖離した、若干ねじの緩んだ世界を舞台にした作物であった。ウッドハウスのミステリに於ける最高傑作というてよい「ストリキニーネ・イン・ザ・スープ」(『マリナー氏の冒険譚』所収 文藝春秋)はその好例だ。勿論、悪い意味で申しあげているのではない。前面に押し出されてくるのは謎解きではなく笑劇なのだ、ウッドハウスの場合は。
 ウッドハウスもミルンと同じくミステリ小説への愛にあふれていたとはいえ、ミルンと決定的に異なったのはミルンが「現実の人たちについて探偵小説」(『赤い館の秘密』序文より)を書こうとしていたのに対し、ウッドハウスは自身のシリーズ・キャラクターとほぼ変わらぬ<ちょっと珍妙な人たち>がすったもんだする種類のミステリ小説であったのだ。つまり、ウッドハウスはちょっと浮世離れした人たちを自身のミステリ小説でも描いたのである。
 おそらく横溝がウッドハウスではなくミルンの小説を好んだ理由の一端は、こうした登場人物の描き方に由来するのだろう。『赤い館の秘密』に登場する素人探偵、アンソニー・ギリンガムが金田一耕助のモデルになったことを考え合わせると、個人的にはじゅうぶん納得できる話なのだ……。
 まだまだわたくしの横溝正史読書マラソンは始まったばかりである。「蝙蝠と蛞蝓」のようなユーモア漂う作品が他にあるのか、幸いなことにまったく知らない(全作品を読んだ方、ネタばらしのコメントは寄せないで!)。さりながらマラソンの第一コーナーを回ったあたりで、これまでとちょっと毛色の異なる愛すべき掌編に出会えたことは、きっと今後の弾みとなり励みとなるに違いない、と自分は勝手にそう思うている。◆

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第2598日目 〈横溝正史「蝙蝠と蛞蝓」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 心が塞いでいるときに読むユーモア小説程、効用の両極端なものはない。より落ちこませる場合もあれば、わずかなりとも晴れやかにさせる場合もある。これは探偵小説も同じで(いや、ジャンルに限らずなのだろうけれど)、爽快な気分にさせてくれることもあれば、登場人物の誰彼に感情移入し過ぎてやるせない気分になったり……。
 「蝙蝠と蛞蝓」を読了した際、二の次あたりに倩思うたのが、そんなことであった。本作の場合、どちらへ針が振り切れるかといえば、探偵小説に於ける前者となる。成る程、そうかい、爽快な……。
 が、今回感じた「爽快」とはたとえば名探偵の快刀乱麻を断つような推理に陶然とし、想定外の真相に思わず唸って膝を叩いちまう類のことではない。「爽快」の根っこにあるのはユーモア、否、「滑稽」だ。読書の愉悦に浸っている間は始終くすくすさせられてしまうような……。本作を一言で括るなら<笑劇>か(ルビを振るなら、コメディよりファルスの方がしっくりするかな)。
 角川文庫旧版にして27ページの短編を一息に読み終えて巻を閉じたとき、まず胸中に飛来したのは上述のような分析めいた思いの数々では当然なく(当たり前だ)、いやぁ実に愉快な小説を読んじまったぜ! てふ一種の幸福を噛みしめたのである。まぁちょっと心が塞いでやさぐれたくなることのあった数日だったものでね。閑話休題、ハイホー。
 でも正直なところ、横溝正史にこうした作風の1編があるとは知らなんだ。本編は金田一耕助と同じアパートに住む男のモノローグで進められる。かれは金田一耕助とアパートの裏手に住む誰だかの妾が大嫌いだった。悶々と過ごしていた或る日、突如警察が踏みこんできて逮捕された。アパートの裏手に住む妾が殺されたのだ。語り手が疑われたのは、件の妾を殺して金田一に濡れ衣着せる犯罪小説を、腹立ち紛れに書いていたからだ。身に覚えのない殺人事件で警察へ拘留・尋問中のかれの前に颯爽と(?)金田一耕助が現れて……、──さて、事件の真相と真犯人は?──という筋を持つ。
 語り手は裏に住む妾を「蛞蝓」と呼び、金田一耕助をその風貌、その行動、その印象から「蝙蝠」と蔑んで、2人を徹底的に嫌い抜く。その嫌いぶりが「よくもまぁそこまで……」と呆れ顔で讃えたくなるぐらい筋金入りなのである。
 これまでも金田一耕助の能力に疑問を持ったり、その存在に良くない印象を抱いた人物は多くいた。が、斯くも罵倒し、揶揄し、嘲笑し、警戒し、終いには毒気を抜かれた人物とお目に掛かったことはない。むろん未読の作品群のなかにはいるのかもしれないが、わたくしは横溝正史読書マラソンの第一コーナーをようやく回ったばかりの新参者だ。
 まぁね、昼は部屋に寝転がって死体や殺人現場の写真が載った本を読み、夜ともなればいずこともなく出掛け、加えて例の、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭に襟が茶色くなったしわくちゃな羽織袴となれば、そりゃあ素性を知らなければ警戒して然るべきだわな。いつもは人懐っこい笑顔とくたびれた風采で相手の懐にするりと入りこんでゆく金田一だが、その登場作には必ず1人2人は金田一をどうにも胡散臭い人物に見、煙たがる人物が現れる。かれらの視点で金田一耕助を活写すればこうもなるか、という格好のサンプル、その一例を「蝙蝠と蛞蝓」は提供しているといえないだろうか。
 ぼかぁこの短編、お気に入りだなぁ。好きだなぁ。
 旧版の文庫解説(中島河太郎)には未記載なので書誌データを記しておくと、本作は探偵小説誌『ロック』(筑波書林)誌昭和22/1947年9月号が初出。書籍初収録は未詳だが、春陽文庫『横溝正史長編全集 第14巻 死神の矢』(昭和50/1975年6月)であるようだ。その後、角川文庫旧版に同ラインナップで収録され、今日では改版された『人面瘡 金田一耕助事件ファイル6』(角川文庫 平成8/1996年9月)や『毒の矢』(春陽文庫 平成9/1997年5月)他で読むことが可能。横溝正史が執筆した金田一耕助ものとしては『本陣殺人事件』(昭和21/1946年)、『獄門島』(昭和22/1947年)に次いで3作目、即ち現実に於いても作中時間に於いても最初期の金田一の活躍が描かれた1編である。
 なお作中時間に於いては「蝙蝠と蛞蝓」、金田一耕助が復員して『獄門島』事件を解決した翌年、昭和22年初夏の出来事であろう由(研究サイト「金田一耕助博物館」内コンテンツ「金田一耕助事件簿編さん室」[http://www.yokomizo.to/chronicle/index.htm]に拠る。記して感謝申しあげます)。◆

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第2597日目 〈横溝正史「死神の矢」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 長編「死神の矢」は、娘の結婚相手を候補者3人から選ぶにあたって奇異な方法をその父親(職業:大学教授)が、知己の仲である金田一耕助に開陳する場面から始まる。舞台は神奈川県の片瀬海岸、そのすぐ近くに建つ館。奇異なる方法とは、海上に浮かべた的を浜辺から矢で射て見事命中させた者に娘を与える、というもの。婿候補は3人が3人ともイヤァな感じの連衆で、でもそのなかの1人が矢を的に中てて晴れて婚約者となったのだ。この出来事が発端となって候補者たちは次々に、自分たちが用いた矢で心臓を射貫かれて殺されてゆく。やがて捜査線上にボクサー崩れの男が容疑者として浮上するが、さて果たして真犯人は──? すべての殺人計画が遂行された後、ゆくりなくも明らかにされる連続殺人事件の真相とは……。
 読んでいてどうしても気になってしまうのは登場人物たち、就中大学教授の父親と3人の婿候補、2人のバレエ研修生の女性の口調である。ぞろっぺえというか演技が過ぎるというか、育ちの悪さが滲み出ているというか、どうしても馴染めぬものを感じてしまうのだけれど、横溝正史が本作を執筆した昭和30年代とは現実に斯様な話し言葉が一般的であったのだろうか。
 かれらとは「育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ」(SMAP「セロリ」)が、記録に残らぬ近過去の風俗を知る一助と捉えれば重宝するか。どうしても登場人物の口調が気になるけれど最後まで読み通すのを諦められぬ向きは、「小説は風俗描写から廃れてゆく」てふ三島由紀夫の言など無視して、たとえば現代日本人の喋り方に脳内変換すればよい。
 そういえば辻真先がかつて赤川次郎を論じたエッセイのなかで、ユーモアとは余裕である旨述べていたのを覚えている。「死神の矢」を読んでいて図らずもそれを思い出した箇所のあったことを、この際だから書き留めておきたい。最初の殺人の第一発見者がそれを金田一耕助以下その場に居合わせた人々に伝える場面だ。申しあげます、○○さんはお食事に参ることができないと思います。どうして? 紛失していた矢が見附かったのです。どこで? ○○さんの胸に刺さっていました。ああ、なんてこったい! ……このやり取りがわたくしをしてジーヴスとバーティのすっとぼけたやり取りを想起させ、それに触発されて辻の持論を思い出したのである。
 勿論第一発見者は気が動転していたからあんなピントのずれた会話になってしまったのだ、といえばその通りなのだが、英国ユーモア・ミステリの雄、コージー・ミステリのお手本というてもよいA.A.ミルンの傑作『赤い館の謎』を横溝正史が愛してやまなかったことを念頭に置けば(ついでにいえば金田一耕助のイメージは『赤い館の謎』の主人公、アンソニー・ギリンガムであった)、最初の殺人事件の第一報を伝えるこの場面を執筆するにあたって著者は、或る種のオマージュをそこに託したと想像を逞しうすることだって可能だ。更に想像を膨らませてあり得る可能性を探索すれば、……いや、これは後日の話題に譲ろう。
 金田一耕助は開巻1ページ目から読者の前に姿を現して、知己の大学教授と婿選びの方法を聞かされて新ユリシーズの挿話を思い出したりしている。つまりかれは最初から事件に巻きこまれるべくしてそこへ招かれていたのだ。
 が、例によって例の如く自分の周囲で進められてゆく殺人劇を未然に防いだり、犯行前の犯人を挙げることはしない。最早読者にはお馴染みのパターンで、或る意味に於いて安全運転を遵守する名探偵である。そのくせ人目に立つぐらいうろうろして証拠を掻き集めているのだから、クライマックスにて婿となる男が金田一の能力を疑う台詞を吐いても読者は苦笑いせざるを得ないのだ。
 然様、まるで金田一耕助という男は名探偵というより連続殺人の見届け役である。真犯人のやむにやまれぬ想いを忖度し、その計画が完遂されるまで犯人検挙に手を貸さない、とでも決めているかの如く──。むろん。真犯人の犯行動機にじゅうぶん情状酌量の余地があると判断された場合のお話だ。1つ1つの事件を点検してゆけばそんなことはないのだろうが、一読者としてはそんな印象を拭えないのである。◆

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第2596日目 〈横溝正史『迷宮の扉』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 横溝正史が執筆したジュブナイル小説はいわゆる<ヨコミゾ・ブーム>を承けて角川文庫に編入された。その際同じ作家の山村正夫によってリライトされたが、①文体を「ですます」調から「である」調に変更、②差別用語/表現等を書き換え、③章見出しの追加、④一部作品に於いて探偵役を由利先生から金田一耕助に変更、以上を大きな柱としている由。
 その後ジュブナイル小説群は角川スニーカー文庫に移籍して現在は全点絶版。うち幾つかの作品は21世紀になってポプラ・ポケット文庫で文体を「ですます」調に戻して復活したが、こちらもいまは版元品切れ状態となっている。しかしながら角川文庫のリライト版は今日でもKindleにて電子書籍版が購入可能だ。
 『悪魔の降誕祭』に続けて読んだ本書『迷宮の扉』は、そんなジュブナイル小説の角川文庫リライト版の1冊である。
 一巻の殆どを占める表題作は、遺産相続を巡る骨肉の争いに巻きこまれた金田一耕助の活躍を描く。
 粗筋を架蔵文庫の裏表紙から転記すると、──金田一耕助の行く所、必ず事件あり。三浦半島巡りを楽しんでいた金田一は、突然、嵐に遭い、竜神館という屋敷へ逃げこんだ。だがその直後、一発の銃声と共に誰かが土間に倒れこんできた。うつぶせになった男の背中の左肺部のあたりから血が噴き出していた。殺された男は、毎年この屋敷の主、東海林日奈児少年の誕生日に、カードを届け、ケーキを切りに来る黒づくめの男だった。不審に思った金田一が尚も聞き込もうとしたが、日奈児の後見人降矢木は、なぜか言葉を濁した……。/莫大な遺産をめぐる人々の葛藤をテーマに、完璧なトリックと緻密な構成で描く傑作本格推理──以上。
 んんん、なにやらわたくしのまとめた粗筋の方が良さそうな気がするが、長いから今回は割愛しておこう(←負け惜しみ)。
 その遺言状の内容や相続(予定)人を擁する家族間の相克など、かの『犬神家の一族』をわたくしは思い出してしまうのだが、こちらはそれよりもずっと軽量級。良くも悪くもこぢんまりとまとまっているのだけれど、それが却って幸いしたか、横溝正史の小説技法がぎゅっと詰まった一級品のエンタメ小説に仕上がっているのだ。かれのストーリーテラーぶり、ページターナーぶりは大人向けのミステリよりもこちら、ジュブナイル小説の方でより堪能できるというてよいだろう。
 本書は他に「片耳の男」と「動かぬ時計」という短編2作を併収する。どちらも毎年の贈り物が物語の中心となる点で共通するが、むろん内容にまったくつながりはない。前者は犯罪物、後者はファンタジーである。いい添えれば両作いずれもシリーズ・キャラクターの登場しない、ノン・シリーズ短編。読み切り短編であるのも手伝って2作には一切の夾雑物なし、寄り道なし、幕が開いたらあとはもうただひたすら結末へ向けて突っ走ってゆくのみ。言葉を選べば、勢いに満ちた作品である。
 某新古書店でなにを思うことなく購入した1冊だけれど、斯様な小説をこの度読めたことがとてもうれしい。横溝正史にこうしたジュブナイル小説があるってことを、不勉強な身ゆえについこの間まで知らなかったもの……。
 ──未読どころか本さえ手にしていないけれど、横溝のジュブナイル小説には<怪獣男爵>なる悪漢が登場するシリーズがある、と仄聞する。『迷宮の扉』でこのジャンルの愉しさを知ってしまった以上、遅かれ早かれそちらへも食指を伸ばすことだろうね。と思うてオークション・サイトを覗いてみると、やれやれ、バラで殆どの作品が出品されているではないか……! 大人向け作品と並行して、ゆっくり愉しみながら読んでゆこう。◆

 ◌初出
 「迷宮の扉」:『高校進学』昭和33/1958年01~12月号
 「片耳の男」:『少女の友』昭和14/1939年09月号(初出時題名「七人の天女」)
 「動かぬ時計」:『少年画報』昭和02/1927年07月号
 初出誌については「TomePage」内「横溝正史小説リスト」並びに横溝正史研究サイト「横溝正史エンサイクロペディア:横溝正史ジュヴナイル作品 -リスト補遺暫定版-」を参考とさせていただいた。記して感謝申しあげます。
 殊後者はわたくし自身横溝作品を読み進めてゆくにあたり他サイトと併せて常に恩恵を被っているサイトである。□

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