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第1739日目 〈シラ書第21章:〈罪を避けよ〉&〈知恵ある人と愚か者〉withそろそろ読書に本腰を入れよう:村上春樹『象の消滅』に触れて。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第21章です。

 シラ21:1-10〈罪を避けよ〉
 あなたは罪人である。二度と罪を犯すな。過去の罪については赦しを乞え。
 あなたは罪を避けねばならぬ。往古、人間の堕落の原因を作った蛇を避けるのと同じように、あなたは罪を避けて生きなさい。うかつに近附く者に罪は噛みつき、命を奪う。
 貧しく、主を畏れる人の口から出た願いは主の耳に届き、すみやかに裁定が下される。が、罪を犯してそれへ浸かる者についてはその限りではない。
 「あらゆる不法は、両刃の剣のようなもの、/その傷は、いやすすべがない。」(シラ21:3)
 「罪人の歩む道は、平坦な石畳であるが、/その行き着く先は、陰府の淵である。」(シラ21:10)

 シラ21:11-28〈知恵ある人と愚か者〉
 律法を守る人は我欲を制し、主への畏れは即ち知恵に至る道である。
 知恵ある人の知識は、泉や井戸と同じでこんこんと湧き出でて枯れることがない。身を持するに堅い人は知恵ある人の言葉を聞くとこれを称賛、更に言葉を言い添える。集会に於いてはそうした人の言葉こそが求められ、会衆はかれの言葉を頭でなく、心のなかでじっくりと噛みしめるのだ。
 が、愚か者はそうではない。
 「愚か者にとって知恵は、/崩れた家のように役立たず、/聡明でない者の知識は。/筋道の通らない話のようにずさんである。」(シラ21:18)
 愚か者は口を大きく開けて、手足をばたばたさせて体を揺すり、あたり構わず笑い転げる。しかし、知恵ある人は笑っても物静かに微笑むばかりだ。
 愚か者は常識も礼儀もなく、他人の家にずかずか上がりこんだり、扉へ聞き耳を立てたりする。しかし、知恵ある人は他人の家に行っても戸口の前で立って待っている。ましてや聞き耳を立てるなど。
 分別ある人は言葉を吟味し、知恵ある人の口は心にある。

 わたくしも罪人である。ただ一度、過ちを犯した。赦しと救いをひたすら願い、祈った。わたくしは赦されたのか? ただ一度の過ちでさえ、こうも取り憑いて離れぬゴーストなのだから、何度も、幾つもの罪を犯した者が赦されるには、どれだけの時間と後ろめたさが課せられるのであろう。──そんな風に思うてしまう、シラ21。
 が、その一方でシラ21:1は心の重荷を幾らかなりとも減らしてくれる、一抹の希望の光をもたらす文言と思うのだ。曰く、「子よ、お前は罪を犯した。二度と繰り返すな。/過去の罪については、赦しをこいねがえ」と。



 感想のお披露目を先延ばしにしている『女のいない男たち』を読了したあと、いまわたくしは村上春樹の短編選集『象の消滅』(新潮社)を読んでいる。これはアメリカの雑誌、『The New Yorker』や『Playboy』などに掲載された短編に加えて、どの雑誌にも掲載されていない短編を選りすぐって編纂されたものだ。これの日本語版が、いま読んでいる『象の消滅』。
 読み始めてもう2週間ぐらいになる。が、いっこう読書は進んでいない。未だに「眠り」を読んでいる。これは、最初から5編目に置かれた作品だ。14日を費やしてたったの160ページ程度。わたくしはこれまでなにをしていたのか。行き帰りの電車のなかで、読む日もあった、読まない日もあった。が、数字で示された現実を突き付けられると、ずいぶんと怠惰な読書生活だなぁ、と思わざるを得ない。反省すべきだ。
 短編選集だから、当然のことながら既に読んだ作品が本書には収められている。これが自分の好みで編纂した短編選集であれば、実に愉しく読めるのだろうけれど、海彼の辣腕編集者ゲイリー・フィスケットジョンの好みが濃厚に押し出されたものであることも手伝って、読書に今一つのめり込めていないわけだ。
 ……言い訳? 勿論である。が、そもわたくしは編者の好みが色濃く出た短編選集というものが苦手だ。その人の嗜好を知るにはじゅうぶんだろうけれど、それの押し売り行為は嫌だな、と思う。北村薫と宮部みゆきが編んだ岡本綺堂『半七捕物帳』のセレクション、或いは宮部みゆきや縄田一男他が編んだ松本清張のセレクションなど、目次を一瞥して嗟嘆の溜め息を漏らしたものだった。やはり作家の短編集はオリジナル版で読みたい。旧態依然とした考えかも知れぬが、わたくしはそれが好みだ。その作家を好きな人が編纂したものであっても、正直食指は動かない。そこになんらかの新味が見られるなら、もちろん話は別だけれど……。たとえば<怪談小品>という視点で泉鏡花や内田百閒、宮沢賢治の作品群を選び直した東雅夫のセレクションなどが、その好例である。
 では、どうしてわたくしはこのような村上春樹の短編選集を架蔵していたのか。実をいえば、読書マラソンを始める以前、著者の短編集については読む気も殆どなく、かといって短編をまったく読まないというのも問題があるか、と省みて、<はじめての文学>シリーズに入る自選作品集と、『象の消滅』とそのあとにやはりアメリカで出版された『めくらやなぎと眠る女』だけは買っていたのだ。自選短編集は読書マラソンを始める前に読んだが、どうにも、ぴん、とこなかった。これに収められた「沈黙」は印象深かったが、「鏡」は非道かった──。アメリカで出された短編選集は、作品は読まず、編者と著者の前書きは読んだ覚えもあるけれど、肝心の作品はまったくで。
 しかし、月日は巡り来る。長編のすべてを今年の春に読了し、(オリジナルの)短編集すべてを今月の最初に読了した。次はノンフィクションか紀行に移ろう、と考え書架に目をやれば、どうにも無視できぬ主張の激しい色合いの背表紙が目に飛びこんできた。いうまでもなく、『象の消滅』と『めくらやなぎと眠る女』である。内心で溜め息をついたことを、とてもよく覚えている。そうして、わたくしは短編選集を片附けてしまわねば後味が悪い、と判断し、これの消化を優先した。そうして今日に至り、まだ全体の1/3ぐらいしか読めていない。なんてこったい。
 が、編者の好みと自分の好みの相性がどうあれ、一部の短編については再読の機会を与えられた。本書所収のなかでわたくしの好むものは殆どないけれど、でも「眠り」とこのしばらくあとに置かれる「TVピープル」、そうして「沈黙」は、わたくしの好きな短編だ。まったく好みでない作品が並ぶわけではないこの短編選集。では、そろそろ本腰を入れて読書を始めよう。読書の秋だし? うむ、それはまったく関係ない。◆

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第1738日目 〈シラ書第20章:〈語るにも黙るにも時をわきまえよ〉、〈人生には予期せぬことがある〉他withこの状況、果たして是なるか非なるか?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第20章です。

 シラ20:1-8〈語るにも黙るにも時をわきまえよ〉
 喋りが過ぎて憎まれてしまう人がいる。逆に、黙っているだけで知恵ある人と目される人がいる。
 が、しかし、何一つ語るべきことがないから、場にふさわしい会話ができぬから、黙っているより他ない者も、なかにはいる。
 まさしく時と場をわきまえて、敢えてなにも語らず黙っている人もいる──知恵ある人は機を見てふさわしい頃に口を開き、周囲の耳目を集めるような発言をするものだ。
 何人も知れ。口の盛んな者は忌み嫌われ、他人の話を奪う者は嫌われる、ということを。

 シラ20:9-17〈人生には予期せぬことがある〉
 出来事とは、常に貨幣の表と裏だ。不幸な目に遭いながら幸せを摑む人がいる。自分が贈った以上の良い贈り物をもらうこともある。身分の卑しかった、取るに足らぬ存在でしかなかった者が、思いがけず頭角を現すこともある。そうして、良かれ、と思うてしたこと、幸運と思うていたことが、却って裏目に出て人生のつまづきとなり、わが身を堕とすこともある。
 嗚呼、人間は人生を知ることはできない。

 シラ20:18-20〈時をわきまえぬ話〉
 うっかり口を滑らせてしまうことがある。不注意による行為だ。
 が、悪人にとってそれは常のこと。連衆は場をわきまえず、時をわきまえず、のべつ幕なしに口を開いて喋りまくり、他人に疎んじられ、警戒され、恨まれる。
 斯くして悪人はすみやかに没落してゆく。

 シラ20:21-23〈世間体〉
 世間体を取り繕おうと思うな。それが原因で身を滅ぼすこともあるのだから。
 「貧しさゆえに、罪を犯さないで済む人もいる。/仕事を終えて休むとき、/彼は良心に責められることはなにもない。」(シラ20:21)

 シラ20:24-26〈うそ〉
 嘘。人間にとって最も醜い汚点。
 嘘。嘘つきの汚名は生涯取り憑いて離れない。
 嘘。最後には人間を破滅させるもの。

 シラ20:27-32〈知恵の適切な利用〉
 主に対して敬虔な知恵ある人は、ちょっとしたことがきっかけになって出世する。
 己の知恵を隠すよりも、己の愚かさを隠すことの方がよほどましだ。

 昨日同様、いちばん馴れ親しんだシラの章、否、聖書読書のそもそもの始まりというてよい章。相応に愛着あるところでもあったので、ノートも容易かと高を括っていたら、そうでもなかった。難渋というのではなく、己の語彙不足によるところが専らであるが。
 嘘は汚点。破滅のきっかけ。その汚名を濯ぐことはできぬ。これなど自分を氷の剣で貫くが如き力のある文言だった。時と場をわきまえて口を開け。饒舌になるな。わが身を省みて行いを改めさせるに十分な諫めの言葉である。
 そうして本日唯一の引用箇所──なにを隠そう、わがモットーの一つだ。これと最初に遭遇しなかったら、聖書を机の上に備えておくことはなかったろう。つまり、2008年のあの日、心を静めるためとて聖書へ手を伸ばして巻を開くことも、本ブログの開設と継続もなかったかもしれない、ということだ。──最愛の死者への捧げ物!
 偶然とは運命なり。そは偉大なり。



 ヒューストン、再びこちらで問題が発生した。本日お披露目予定のエッセイが長くなりすぎたので、独立したものとせざるを得なくなったのだ。Twitterで呟いたものに加筆して900字ぐらいの文章に仕立て直せばいいか、と簡単に考えて、実際の執筆は後日に回していたのが裏目に出たようである。
 今月出版された大森望・牧眞司編『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)の感想を書こうとしたのだ。そうして昨日、ようやっと重い腰をあげていつものスターバックスに午前中から籠もって、件の本を傍らにモレスキンを開いてブルーブラックのペンを走らせていた。芋づる式によみがえってくる記憶、当時の光景、感情。必要最小限の部分だけ拾いあげて、感想文を拵えてゆく。
 そうしたら400字詰め原稿用紙約4枚強の分量のものができあがった。が、これでじゅうぶんではない。最後の2段落がまだきちんとした体を保っていないからね。いずれにせよ、本日のエッセイとして披露できないことは確定済みである。斯くして本日予定していた本の感想も、過日のコッパードや村上春樹の本と同じ運命をたどったのだった。
 ──「シラ書」が終わったあとのエッセイ週間の原稿だけがどんどん溜まってゆく。果たしてこの状況、是か非か。◆

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第1737日目 〈シラ書第18章2/2&第19章:〈自制せよ〉、〈無駄口を叩くな〉他with床抜けまであとどれぐらい?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第18章2/2と第19章です。

 シラ18:30-19:3〈自制せよ〉
 欲望に負けるな。情欲を制御しろ。快楽に溺れるな。借金してまで愉しみに耽るな。それは愚か者のすることだ。
 酒癖の悪い労働者が億万長者になることはない。小さなことを大切にしない者は、必ずわが身を持ち崩してゆく。
 「酒と女は、聡明な人の思慮を奪い、/娼婦に溺れる者は、/ますます向こう見ずな人間となる。」(シラ19:2)こうした輩が手にするのは腐敗と蛆虫。心を自制できぬ者は必ずわが身を破滅させる。

 シラ19:4-12〈無駄口を叩くな〉
 心浅はかにして愚かなるは、よくよく相手を吟味することなく信じる者、罪を犯して悪を愉しむ者ども。
 口を慎む者は平穏に暮らし、無駄口を厭う人は心の負担が軽い。
 「友人について、また敵について、何も語るな。/罪とならない限り、人の秘密を明かすな。」(シラ19:8)
 他人について聞いた事柄は、自分の腹のなかに収めておけ。だいじょうぶ、それがあなたを苦しめることはない。が、愚か者は違う。かれはひどく苦しむ。他人の秘密を耳したら、たとい噂であっても誰彼に話さずにはいられなくなるから。

 シラ19:13-19〈うわさは問いただせ〉
 友人や隣人が噂の渦中にあるようなら、相手のところへ行って真相を問い質すことだ。噂は、根も葉もない、根拠なきものかもしれない。相手は実際のところ、噂になるようなことは何一つしていないかもしれない。だからあなたは噂など信じず、真相を知るまではまともに取り合わぬことだ。

 シラ19:20-30〈知恵とずる賢さ〉
 すべての知恵は主を畏れることにあり、それには律法の実践が伴う。
 勘違いするな、悪に長けることは知恵ではない。罪ある人の言葉に従うのは愚行だ。巧妙なるずる賢さ、もはやそれは違法行為である。
 闇に潜んで好機を窺う者に気をつけよ。
 未知の人でも顔を合わせて少しの間、話をしたり、或いは相手の振る舞いを見ていれば、目の前の人物がどのような属性の持ち主か、わかってくる。
 
 「理解する力では劣っていても、主を畏れる人は、/思慮に富んでいながら律法を犯す者にまさる。」(シラ19:24)

 聖書をこうして読み始める前から折に触れて、就中「シラ書」を読んで琴線に触れることたびたび、書きこみなどしてきた。〈前夜〉あたりで述べた記憶もあるけれど、今日は再びここに書く。なぜなら、今日読んだところがそのほぼ最初の箇所だからだ。
 欲望に引きずられるな。享楽に耽るな。借金してまで愉しみを求めるな。酒と女に溺れるな。口を慎め。噂に耳を貸すな。むやみと誰かについて話すな。
 ──むかしのわたくしにとってはすべてが痛い。大げさでもなんでもなく、わたくしはここを読んで遅まきながら悔い改める機会を得た。勿論、一朝一夕でそれが果たされたわけではないが。そうして現在、悔い改めの行いが完成されたわけでも当然、ない。それは生涯をかけて実施されてゆかねばならぬことだ。
 友人について敵について、なにも語るな、シラ19:8はいう。敵についてはともかく、友人について「なにも語るな」は、友なる人の風評については「なにも語るな」ということだろう。悪い話というのはふしぎなことに、本人にまで伝わる或いは本人が察知するのは思いの外速やかだ。本人の憎しみや恨みは強く、尾を引く。友情に亀裂が生じるのは時間の問題だ。実はそのことについては「シラ書」第22章で語られる──まるで相互補完のような形で。
 悪評については堅く口を閉ざし、言うべきこと、伝えねばならぬことは、本人へきちんと話す(言葉と表現を選んで)。その人についての良き事柄は、直接伝えることもあれば、本人のいないところで話題にして称讃することもある。それがわたくしのやり方だ。自分のいないところで自分が良き話題のタネになっている。すこぶる気持ち良いではないか。



 Twitterかなにかで拾ったものだが、「床抜けに必要な本の冊数」の一覧を見て、思わず、植草甚一ではないが、唸ってしまった。たとえば、6畳の部屋の床一面に本を平積みしたとき、文庫なら11,186冊で、ハードカバーの単行本なら3,721冊で床は抜ける、という。6畳の部屋は平米に換算すれば約9.90平米、その積載重量は1782㎏。
 思わず腕を組んで、空を仰いで溜め息をついてしまいたいような数字だ。そうしてわが部屋を見廻してみる。部屋は8畳ゆえに上の数字よりもう少しだけ余裕があるけれど、大差はない。改めて部屋を見廻す。今度は溜め息も出ない。苦笑いしかできない。臨界点まであと数歩、という状況を目の当たりにした者に、わが身を嘲笑する以外のなにができるというのか? 呵々すれば良いのさ? うん、そうかもね。
 日々増殖してゆく本、本、本、ついでに雑誌。こいつら、わたくしの留守中や就寝中に繁殖しているのではないか──『パラノーマル・アクテビティ』のようにヴィデオ・カメラをセットした方がいいのかな……。それはともかく、増えてゆく勢いに処分が(まったく)追いつかない。そこそこ体力のある、蔵書整理専任のメイドやお手伝いさんを募集したい気分だ。
 知り合いの、読書家の女の子に件の「床抜けに必要な本の冊数」の一覧をメールで送ったことがある。返信に曰く、わたしの蔵書は300冊くらいなのでいまのところ大丈夫そうですぅ、と。羨ましい限りだ。でも、それぐらいの量でまったく問題ないんだよな、きっと。たぶん。うん、そうなんだろう。わたくしの部屋に収まる蔵書(なんていう程大したものではないけれど)もそれぐらいに減らしたいものだ。勿論、作家単位で所蔵しているもの、ジャンルで所蔵しているものは別だ。
 ここで思い出すのは、山村修が『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫)で紹介している高橋たか子のエピソードだ。彼女はフランスの修道院にいた頃、「旧約・新約聖書を初めとする『霊的著作』(すべてフランス語)のみを並べた」(P121)のだそうだ。その数、50冊にも満たぬ。しかし、高橋は「これでよし、とした。これだけでも生涯かけて読んでいける中身だった」(同)という。
 これが理想の景観。本を整理して処分するものを段ボール箱に詰めるたび、この高橋たか子のエピソードを思い出す。少しでも自分の脳裏にある理想の部屋イコール本が自己主張していない部屋へ近附けられるようにしよう、と思うてみる。が、それはなかなか難しい作業で、生きている間に実現させられるかもわからない状態だ。
 溜め息しか出ない。その溜め息は、絶望の溜め息だ。苦悶の溜め息だ。諦めの溜め息だ。南方熊楠のように「討ち死にじゃぁ!」と叫びながら、ゴミ回収車に自分の手で投げこめることができたなら、それはそれで潔いのだが……。
 でも、こんなことを書いている傍ら、欲しい本がまたぞろ幾つも出てきているのだから、理想は理想、現実は現実、と割り切ってこれまで通りに過ごすしかないのかな、と笑っているわたくし。チャーリー・ブラウンの名言を引いて、本稿を終わる。曰く、グッド・グリーフ、と。◆

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第1736日目 〈シラ書第18章1/2:〈神の偉大さと慈しみ〉、〈事前に準備せよ〉他withiOS8にアップグレードした方、充電問題にどのように対処されていますか?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第18章1/2です。

 シラ18:1-14〈神の偉大さと慈しみ〉
 森羅万象、命あるすべてのもの、皆、主の御旨に従う。主こそ力を持ってすべてを治める存在。
 何人と雖も主のくすしき御業を窮め尽くすことはできない。窮め尽くせたというのは人間の自惚れ、実は端緒に付いたばかりなのだ。主のふしぎな御業を窮め尽くすことができるなどと思うなかれ。主は偉大なり。
 「人間とは何物か、その存在意義はなにか。/その行う善、その行う悪とはなにか。」(シラ18:8)
 主の知る永遠という<時>に較べれば人間の寿命なぞ極めてわずかなものでしかない。それゆえに主は、人々について忍耐し、憐れみを注ぐのだ。主は、人間がたどる惨めな末路を知っている。それがため主は、人々について豊かな贖いを与えてくれるのだ。
 「主は、彼らをいさめ、鍛え、教えて、/羊飼いのように、羊の群れを連れ戻される。/主は、教訓を受け入れる者に、/また、主の裁きを熱心に待ち望む者に、/慈しみを施される。」(シラ18:13-14)

 シラ18:15-18〈施しをするときは〉
 子よ、誰かに援助の手を差し伸べるときは、相手を傷附けぬようにせよ。
 施しを行うときは、相手を侮辱するような言葉を口にするな。
 「朝露は、熱風の季節に安らぎを与えてくれる。/言葉の露は施しよりも効き目がある。/親切な言葉は、高価な贈り物にまさるではないか。/情け深い人は、両方とも備えている。」(シラ18:16-17)
 が、しかし、──愚か者は施しを受けても感謝の言葉を述べたりせず、却って小言ばかり口にする。また、恩着せがましい人が行うこれ見よがしの施しに目を輝かせる人は、一人もいない。誰も感謝することがない。

 シラ18:19-29〈事前に準備せよ〉
 発言するときはよく考えてからにしろ。それについて思いをめぐらせ検討し、発言する段になったら言葉を吟味し、簡潔に雄弁にさわやかに語れ。
 病気になる前に養生しろ。体調管理に万全を期せ。心と体を蝕むような習慣を断ち切り、それに背を向けていよ。誘惑に屈しない強い意志を持て。
 罪を犯したなら改心の態度を示せ。
 「誓願を立てる前に、よく準備せよ。/主を試す者になってはいけない。」(シラ18:23)
 今を生きよ。しかし現況に甘んじるな。富めるときは貧しいときを思い、豊穣のときは飢饉のときを思え。<時>は主の御前ですみやかに移りゆくのだから。
 知恵ある人はすべてについて用心深い。罪がはびこるときは過ちを犯さぬよう注意を払う。聡明な人は知恵を見出し、既に知恵を見出した先人へ敬意を払う。言葉巧みな人も知恵を示す。その場その場にふさわしい格言が、かれの口からあふれ出す。

 「唯一の主に信頼することは、死んだ心と死者に執着することにまさる。」(シラ18:29)
 (みくらさんさんか付記;わたくしは主に依り頼む者ではない。為、死んだ心と死者に執着しても、特に問題ありませんよね?)

 たぶん、主にとって己の被造物たる人間の生涯など、瞬きしている間に過ぎ去ってゆく程度の時間でしかないのだろう。まあ、主なる神が有限の命の持ち主だなんて考えぬものな。
 でもそれゆえにこそ、神は人間のしでかすさまざまな馬鹿げた出来事に目をつむってくれるときがあるのだろう。存分な憐れみを注ぐことも、尋常ならざる怒りを降すこともできるのだろう。シラ18:1-14〈神の偉大さと慈しみ〉はむしろ、神の寛容さを謳う箇所に思える。
 ちょっと対象が散漫になる〈事前に準備せよ〉からは、発言にまつわる箇所と体調管理にまつわる箇所をピックアップ。ノートの筆が少々走ったことをお詫びしておく。この数節はよく読み返してわが身へ言い聞かせるべき文言が並ぶ。以て心へ刻め。
 余談ながら。
 所詮人間は主のくすしき御業について知り、窮めることなどできない、という。ここを読んで、ふと、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの「霧のなかのふしぎの館」や「蕃神」といった短編を想起した。本章の一文一文を読んでゆく過程で、すっかり忘れていたこれらの短編の読後感や印象、作品イメージがよみがえり、ぴったりと重なったのである。──わたくし個人としてはけっしてゆえなき突飛な連想とは思えぬのだが、さて、如何なものであろうか? これらの作品を読んだことがない方は国書刊行会版全集にて、是非。



 本来の予定であれば、今日は夏休みに入る前に読了していた村上春樹『女のいない男たち』の感想を、ここに書くつもりでした。が、メモに毛の生えた程度のものを考えて筆を執ったら、じゅうぶん1日のエッセイとして独立させるに足る分量に。よって今日はその感想のお披露目を先送りすることにしました。
 かといって、特に他の話題も用意していないので、今日のところはこれまでとするが、iPhoneユーザーとしてこれだけはいうておきたい。
 ──先日、iPhoneのOSがiOS8にアップグレードされました。わたくしも眠い目をこすりながらアップデートを行った者ですが、途端に充電の減りが激しくなったのはどういうわけだろう。午後にはバッテリが半分程度になることしばしばで、会社のロッカー内にて日頃持ち歩いている充電器を接続、夜までのバッテリを(なんとか)確保しているのだが、これは実に困った話である。パソコンのように、iPhoneもOSのダウングレードは行えないのだろうか。
 同じようにiOS8にアップグレードした方、充電問題にどのように対処されていますか?◆

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第1735日目 〈シラ書第17章:〈人間の創造と賜物の賦与〉、〈神の裁き〉&〈主に立ち帰れ〉withコッパード『郵便局と蛇』再刊を契機に、ミドルトンとエイクマンの文庫化を希望する。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第17章です。

 シラ17:1-14〈人間の創造と賜物の賦与〉
 人間は主により土から造られ、土に帰る。その短い有限の生のなか、かれらは全地に住まう生物を治める権能を与えられた。かれらは主により、主の持つ5つの能力を使うことを許された。即ち、思考と言葉、見聞きする能力、そうして想像力である。そこへ主が、6番目の能力として知性を、7番目の能力として解釈する理性を、かれらへ与えた。
 人間は主によって、主を畏れる気持ちを心へ植え付けられた。主の御業がどれだけ偉大であるかを語り、そのふしぎなることを代々伝えてゆくためである。そうしてかれら人間は、主により知識を授けられた。また、命をもたらす律法を受け継ぐこととなった。主を畏れることなく、何の規範もないままでは無益に死ぬばかりであるのを悟るように、という主の思いからである。
 ──主は人間と、永遠の契約を結び、自分の裁きを示す。人間は、主の大いなる栄光を見、主の厳かな声を聞く。

 シラ17:15-24〈神の裁き〉
 まず、主の目に人間の歩みはすべて露であり、その目を逃れることはできないことを知れ。そうして、すべての善、すべての罪も主の目にはっきり映っていることも。
 が、主は自分が創造したものを見捨てたりしない。殊イスラエルは主の長子として鍛えられ、ふんだんに愛を注がれる対象であった。戒めのため、敵の手にイスラエルを渡すことはあっても滅ぼしはしなかった。主の目は絶えることなく、イスラエルの上に注がれている。
 主は自分の創造物を大切に慈しむ。自分の息子、娘が過ちを犯したなら、悔い改める機会と心を与えてくれる。主は、「悔い改める者には、立ち帰る道を開き、/耐える力を失った者を励まされる。」(シラ17:24)

 シラ17:25-32〈主に立ち帰れ〉
 主の憐れみと、立ち帰る者への贖いはげに偉大なり。
 諸人よ、──
 「主に立ち帰り、罪から離れよ。/御前で祈り、罪を犯す機会を遠ざけよ。/いと高き方に立ち戻り、不正に背を向けよ。/〔主御自身が、お前を闇から救いの光に/導いてくださるから。〕」(シラ17:25-26)

 主が人間に与えた5つの能力とはなにか。シラ17:6に従うなら、それは判断力であり、舌と耳と目であり、よく考えるための心である。が、正直なところ、これではよくわからぬ。そこで考えた末、本ブログではこの部分をやや敷衍して、思考する能力と言語を操る能力(天地創造はまず主の言葉ありきで始まった!)、曇りなき眼で物事を観察する能力、すべての声ある者の物言いに等しく耳を傾ける能力、公正な判断を導くための想像力である、とする。神の権能と人間の職能を摺り合わせてゆけば、自ずとこのあたりで決着するであろう。
 なお、ちかごろ折りにつけ参照することのあるフランシスコ会訳ではこの箇所に註釈を付けて、「権威、力、想像力、恐怖心、統治権を指しているのであろう」(P1759 註1)という。ふむふむ成る程、と思えども、あまり納得のゆかぬ註釈でもある。
 わたくしは本章のそこかしこに、人生を健やかに生きるための知恵が塗りこめられている、と読む。神により分け与えられたものに従い、これを頼りとして生き、悪しき思いに囚われることなく正しく人生を歩め。いつのときでも主を畏れ、罪や不正に心が搦め捕られそうになったら主へ立ち帰るようにせよ。──本章はそれを、全32節を費やして滔々と語る。知恵とはつまり、神を知り、己を知り、世界(社会)を知り、そこから正しく生きるための術を身につける手段だ。
 或る意味に於いて「シラ書」前半のクライマックスを形成する章、というてもよいかも知れぬ。少なくとも、読みドコロの詰まった章ではある。
 それにしてもシラ17:26にある、お前を闇から救いの光に導いてくれる、というのは、実に救いに満ちた言葉ですね。そう思いませんか?
 本章と相通じるところとして、わたくしは第21章〈罪を避けよ〉という箇所を挙げたく思います。
 ──斯様にして読み直すことができただけでも、本ブログの更新を勇を持って中断した甲斐があった、というものであります。そう、中断のきっかけはこの第17章のノートが思うように書くこと叶わなかったのが原因の一つなのでした……。



 かつて国書刊行会の《魔法の本棚》シリーズで出ていたA.E.コッパードの短編集『郵便局と蛇』が、ちくま文庫から再刊されました。発売日に購入してありますが、どうやらこれの読書は諸般の事情により(呵々)年末年始の休みに持ち越しとなる様子です。
 このことについては後日、単独のエッセイとして述べるつもりでいますのでこれ以上のことは書きません。いま、コッパードの短編集に絡んでいうことがあるとすれば、前世紀末、同じ《魔法の本棚》シリーズから出ていたリチャード・ミドルトンとロバート・エイクマンの短編集も文庫化してほしいな、というささやかかつ烈しい希望。
 ミドルトンはその静寂ゆえ、エイクマンはその不気味さゆえに、わたくしはこの2人の作家を愛読するのです。この2人の創作はまったく以て真似することも分析して範とすることもできません。正直なところ、コッパードよりもミドルトン、ウェイクフィールドよりもエイクマンの方に愛が優りますね、わたくしの場合(但し、2014年9月現在)。えへ。
 国書刊行会といえば、そういえばわたくしが高校生の頃、《ドラキュラ叢書》なるものがありました。ここにも埋もれた良作が幾つもあるので、うち幾つかでいいから文庫として陽の目を見てほしいな、とも思います。◆

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第1732日目 〈シラ書第16章:〈子供は多い方がよいとはかぎらない〉、〈罪人に対する神の怒り〉with短編集の感想は今週末にお披露目しますよ、という意思表示もしくは予告。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第16章です。

 シラ16:1-4〈子供は多い方がよいとはかぎらない〉
 どれだけ子宝に恵まれようとも、馬鹿や無能、親不孝者、主を畏れる心なき子供ばかりならいない方がマシだ。1人の信仰ある子は1,000人の凡子に優る。

 シラ16:5-16〈罪人に対する神の怒り〉
 かつて主は、その力を誇って叛逆した巨人たち、即ちネフィリムに容赦なき怒りを降した。それゆえもあり、全地は洪水に見舞われた。
 かつて主は、ロトの住む町とその住民を忌み嫌い、天から硫黄の火を降らせてこれを滅ぼし、その災厄を今日に至るまで語り継がせた。
 「憐れみと怒りは、ともに主のものであり、/贖う力、怒りを浴びせる力を/主は持っておられる。」(シラ16:11)
 主の憐れみは深く、主の咎めは厳しい。人は主により、各々の業によって裁かれる。罪人が群れ集う場所には焼き尽くす炎があがる。反逆の民の間に、神の怒りが燃えさかる。
 その代わり、施しの機会は主により用意され、人は皆各々の業に応じて報いを見出す。

 シラ16:17-23〈確かな主の働き〉
 主の道について思いを巡らす者はいない。
 主の業は、その多くが隠されている。

 シラ16:24-30〈創造の道〉
 主は初めの創造に於いて被造物のすべてに領分を定めた。それらは定めに背くことなく、互いの領域を侵すことなく働き続ける。

 ネフィリムとはなにか? 「創世記」第6章第4節に出る巨人たちがネフィリムと呼ばれていた。曰く、──
 「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちの所に入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。/主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創6:4-5)
 また、このネフィリムはわれらが「シラ書」に入る前まで読んでいた書物「知恵の書」第14章第6節にも見られる(「その昔、高慢な巨人たちが滅びたとき、/世の希望であったあの人は木の舟で難を逃れ」云々)。
 ネフィリムによってのみばかりであるまいが、主は自ら創造した人が、地上に悪を蔓延させていることを憂うて、40日40夜雨を降らせ続けて全地に洪水をもたらし、生きとし生けるものを滅ぼしたのであった。方舟で彷徨う義人ノアとその家族、つがいにして集めさせた動物を除いて。
 ネフィリムの名は、ノアの物語の導入として記憶されるようだ。「民数記」第13章第31-33節に於いて、カナン侵攻に反対する者たちが敵アナク人はネフィリムのような巨人だ、と言い立てたのは別として。しかしこれとて、如何にネフィリムが体躯大きく力の強い存在として語り継がれてきたかを示す挿話である。
 本章は、読んでいて非常に徒労、語るに価値なしと思わせられること多々ある章であった。息抜き回であろうか、とさえ疑ってしまう程だ。特に〈確かな主の働き〉は何度読み返してもさっぱり訳がわからぬ。聖書の言葉のすべてが価値あるものではない。それを如実に示す一章といえるだろう。



 えーっと。実は村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)の感想をお披露目しようと思い、下書きをモレスキンに書き綴ってみたのですが、なかなか意に満つものに仕上げられずうんうん唸り、四苦八苦し、おまけにいまいるカフェも、今日に限って通常より早く閉店ということで腰を上げざるを得ず……。
 要するに今日は感想文を書きあげるのを断念して、そろそろ家に帰ろう、というのであります。ちょっとお腹がすいたから、途中でラーメンでも食べてね。まぁラーメンは冗談だけれど、感想文は明日以後も機を見て筆を執り、可能な限り今週末にはお披露目できる状態にしたいな、と思うております。あ、ということは、それまで単行本をリュックのなかに忍ばせておかなくてはならないのか。
 勿論、『スプートニクの恋人』のときのように、読了から半年近く経ってようやく感想が書けた、ということもあり得ましょう。『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』のように未だに感想の一文字さえ書けていない作品のようになってしまうかもしれない。
 『女のいない男たち』の感想がどちらに転ぶかわかりませんが、種を蒔かないことには、先に進むべきものも進まない。今回のように途中で放棄したに等しい原稿であっても、なにも書かれていないよりは遥かにマシであります。このことについて、ヒルティが『幸福論』のなかでいうております、まずは取り掛かれ、と。けだし真実であると思いませんか?
 それにしても今回のこのエッセイ。エッセイというよりは予告になっていますね。えへ。◆

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第1731日目 〈シラ書第15章:〈知恵の働き〉&〈人間の意思〉withドラちゃんに会ってきたよ!;映画『STAND BY ME ドラえもん』を観ました。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第15章です。

 シラ15:1-10〈知恵の働き〉
 主を畏れる人は知恵を行い、律法に精通する人は知恵を悟る。それが主を知る初めであり、主の御旨へ至る方法なのだから、当然だ。
 知恵はそれを求める人を優しく迎え入れる。英知のパン、知恵の水を、かれに与える。かれは知恵に支えられて揺らぐことがなく、知恵に身を任せて恥をかくこともない。
 「知恵は、周りの者たちよりも彼を優れた者とし、/集会で語るとき、適切な言葉を与えてくれる。/彼は楽しみを味わい、喜びの冠を受け、/その名声はいつまでも続く。」(シラ15:5-6)
 愚か者、罪人は知恵と無縁だ。主もまた自らを疎む者に知恵がどのようなものか教えることも、与えることもない。不敬虔な者、不信仰な者は、主と無縁であるのみならず、知恵とも無縁な者である。

 シラ15:11-20〈人間の意思〉
 主を信じたことも、畏れたこともない者に限って、何事かあるたび主のせいにしたがる。言語道断だ。どのように醜悪な面を曝して、そのようなことをいうのか。厚顔無恥とはこのことだ。たわ言もいい加減にしろ。
 主は、すべての忌まわしいことを嫌う。世にあふれるすべての忌まわしきこと、それは主を畏れる人にふさわしくない。
 「主が初めに人間を作られたとき、/自分で判断する力をお与えになった。/その意思さえあれば、お前は掟を守り、/しかも快く忠実にそれを行うことができる。」(シラ15:14-15)
 人間よ、いまあなたの/お前の意思が試される。主がいま目の前に水と火を置いた。さあ、欲しい方を手にするがよい。「人間の前には、生と死が置かれている。/望んで選んだ道が彼に与えられる。」(シラ15:17)
 主の示す知恵は豊穣である。主は自分を畏れる人すべてを見、かれらの行いのすべてを知る。知恵ある人々の上に主の眼差しが注がれている。
 翻って、主は一度として人間に、不信仰であれ、とは命じていない。そうするように求めてもいない。そうして、罪を犯すこと、罪を赦すことも、ない。来し方行く末変わらざりけり。

 久しぶりに主に即して知恵について語る章を読んだ気分のすることである。これまで読んできた<知恵>にまつわる事柄(なにも「シラ書」に限ったことではなく)の語り直し、というてよいかもしれぬ。が、そうはいいながらも、語られる内容の烈しさは相変わらずだ。
 人間には、意思がある。今日ならば「自由意思」というところかもしれぬが、果たしてヘレニズム化してゆくユダヤ人社会に生きる人々について、斯様な表現がふさわしいものか、わかりかねる部分があるけれど。
 ──人間の前には常に選択肢が選べるようになっている。そうしてそれを、自分の与えられた意思で摑み取ることができる。主は、人間を試す。「創世記」の頃からのお約束である。意思の在り処を見定めるために、主は人間を試す。それは或る意味に於いて命を賭すに等しい行為だ。
 とはいえ、今日を生きるわれらはそこまで真剣に目の前の選択肢について思い、考えを巡らすであろうか。人生を左右しかねないケースであっても、本気で、どちらを/どれを手を伸ばして摑み取るべきかさんざん迷って、挙げ句に他人に下駄を預ける真似をしていないか。そうでなくても、損得勘定でばかり選択肢を選んでいないか。打算やまわりの言葉に振り回されていないか。
 それを判断するための手段が、知恵である。知恵なき者は落伍せよ。知恵ある者は良き人生を歩め。



 「どうだった?」ならまだわかる。それに優って「泣いた?」という質問が多いのは、おそらくこの映画の前評判のなせる技だ。鑑賞者皆、号泣必至。映画『STAND BY ME ドラえもん』はそんな惹句で公開前から語られてきた。そのせいで、「泣いた?」なる質問が他意なく口にされるのだろうが、それが続くとこちらとしてはだんだん引け目を感じてしまうのだ──号泣するまでには至らなかったからね。
 が、それは泣かなかったことを意味するものではない。涙腺が崩壊することはなかったけれど、胸がじんわりとして、ほろり、となって、目尻に大きめの露が溜まってしまうことは、あった。でもこれはむしろ、感動しての涙というよりも、思い出を刺激されての涙、追憶の涙というべきだろう。まさしく、なにもかも皆懐かしい、というがふさわしい涙。
 CGになったドラえもんは、原作やアニメよりもずっとチャーミング。そうしてキュート。仮想現実なんて言葉では括れない圧倒的リアリティを持った「かれ」が、そこにいる。のび太や静香ちゃん、ジャイアンやスネ夫、パパとママ、先生や出来杉が、そうしてジャイ子が、アニメではお目に掛かることがかなわぬぐらい肉感的で、活き活きとした表情を見せている。CGとミニチュアで作られた背景美術にしても、「え、実写じゃないの?」と思わず目を疑ってしまうこと間違いなしの緻密さ。殊、初めてタケコプターを使って空を飛ぶのび太が体験する夜の町の凄まじさ! 一つ一つの場面に<愛>があふれている映画とは、この映画のことをいう。
 それにしてもドラちゃんはやっぱりかわいいですね。すぐそこにいて、手を伸ばせば触れそうな生々しさ。ひょい、と隣を向いたらそこにいて、美味しそうにどら焼きを頬張っているような親しみやすさ。その丸い頭をハグしたら、じわじわとこちらの心をやわらかくしてくれそうな、あたたかさ。映画のなかのドラえもんは、生きている。いつスクリーンの向こうから秘密道具を使ってこちら側にやって来てもおかしくない。映画のなかのドラちゃんは生きている。
 ドラえもんはわれらが物心ついた頃から、さも当たり前のようにそこにいる。かれはのび太たちだけでなく、われら全員の記憶のなかに住む、すこしふしぎなロボット。ドラえもんたちのいない世界はどれだけ味気なくて、息苦しいことだろう。そんな世界、想像したくない。◆

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第1729日目 〈シラ書第14章:幸いな人〉、〈生きているうちに富を活用せよ〉他withただいまスタバでWi-Fi中。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第14章です。

 シラ14:1-2〈幸いな人〉
 口を滑らせたりしない人、良心にやましいところのない人、希望を失うことのない人。こういう人たちが、幸いな人、と呼ばれる。

 シラ14:3-10〈欲深い人〉
 金勘定にうるさい人に富はふさわしくない。物惜しみする人に金銭は役に立たない。生活を苦しくしてまでお金を貯めこむ人は愚かだ、他の人のために蓄財しているに等しい。こうした人たちは自分の財産を楽しむことなどないであろう。
 「自分のことで物惜しみする人ほど/痛ましい者はない。/それこそはあなたの報いである。」(シラ14:6)
 欲深い者が善行を施すな。本性を暴露するだけだ。蓄財に耽る者は困っている人から目を背ける。他人のために自分が蓄えてきたものを使うのが嫌だから。
 貪欲な者は分相応ということを知らない。もっともっと、と欲しがり滅びる。蓄財に耽る者はパンを惜しみ、貧相な食事しかテーブルに並べられない。

 シラ14:11-19〈生きているうちに富を活用せよ〉
 身の丈に合ったお金の使い方を心得よ。主のためにはふさわしい献げ物をせよ。
 いつしか人生は終わり、死があなたを迎える。生きている間は友人に親切であれ。能う限り手を差し伸べて、富を用いて援助せよ。それは富める者の義務である。
 「与えよ、受けよ、心を楽しませよ。/陰府で楽しみをどうして求めえようか。」(シラ14:16)
 生きとし生けるものは遅かれ早かれ皆死に迎え入れられる。汝死すべし、汝死を忘るゝなかれ。血と肉である人間も、一つの世代が終われば次が興る。すべての業は朽ち果てる。人間はこれまで営々と行ってきた数々の業と共に消える。すべては消えゆく。

 「一日だけの幸せでもそれを逃すな。/良い楽しみの機会を見過ごすな。」(シラ14:14)

 シラ14:20-27〈知恵を持つことの幸い〉
 知恵のあとをたどって隣人となれ。
 子供を知恵の庇護下に置いて守れ。知恵の木陰で暑さをしのぎ、かれはその輝きに包まれてそこに宿る。

 専ら富について語られる章である。蓄財するのは構わないが、その活用には常に潔く、福を惜しむことなく分け与えるようにせよ。わたくしは本多博士に倣って楽しみながら貯金した。初めのうちは馴れぬことゆえ生活が──というより趣味代が──苦しくなったり、意志薄弱なものだから少し貯まったものへ手を出して後悔したこともある。が、或る程度の金額に達するとだんだん楽になってきた。お給料が上がったとか、そういうことではない。コツがわかったのだ。
 貯金が増えるとどうなるかといえば、「富を活用する」方法を知る。要するに使うべきときに使う、ということ。慈善事業であれ復興支援であれ、それが或る一定の金額まで貯金できた者が世界へ果たすべき役割である、と思う。勿論、見境なく羽振り良くなれ、というのではない。それはただの阿呆だ。まさしく、「自分を痛めつけて、/だれかに楽をさせようというのか」(シラ14:5)である。
 本章の趣旨からは外れるかもしれぬが、自分の生活を第一としてお金を貯めるに精出し、余裕が生まれたら他者のため善行を施せ、というのがわたくしの思うところである。
 先日からたびたび名を出す本多博士は名を本多静六、19世紀後半から20世紀なかばまでを生きた林学博士だ。いまは専ら蓄財の先達として名を知られる。渡部昇一の著書でわたくしはこの人の名を知り、断片的な知識ながら給与の1/4を天引きして蓄財し、10年ほど前に復刊された著書『私の財産告白』でその精髄を知った。また同時期に『私の生活流儀』と『人生計画の立て方』も、復刊された。これらについては改めて機会を設けて感想や紹介の筆を執るとしよう。
 ──そうして最後に一言。陰府でどうして楽しみを求められるというのか。著者イエススは理解できない。が、わたくしにはわかる。嗚呼、求めて得られる楽しみがあるのを知らぬ人は哀しい。わたくしは陰府での愉しみ、悦びを願う。それは<法悦>と呼ばれるものに他ならない。



 どうしていまのいままで使わなかったのか。テザリング初体験からこの方、ずっとiPhoneをルーター代わりに作業してきたのだが、いまになってようやく、原稿書きの主たる根城であるスターバックスが提供するWi-Fi、即ち、at_STARBUCKS_Wi2に昨日登録して、今日から使い始めているのだ。iPhoneにして間もない時分、某スタバ店舗で登録しようとしたが接続されず、そのまま放っていたというのを覚えているけれど、真相は単に面倒くさかった、というだけの様子である。
 しかし、実に快適である。テザリング初体験のときは頗る付きで感動した。今度はそれ程の感動が、ない。まぁ、Wi-Fiというものに馴染んでしまい、あって当たり前のものとして生活に溶けこんだからだろう。でもその快適さ、手軽さは、テザリングでは経験できない類のものだ。USBケーブルでつなぐ手間も、念のためiPhoneの画面を見て「インターネット接続中」なるメッセージが出ているか確かめる手間とも無縁だ。ぱかっ、とMacBookAirを開けば、もう店内のWi-Fiにつながっている。これを快適といわずになんという。
 だんだんと小説やエッセイを書く環境が変化してゆく。そのための投資はちょっと見過ごすことのできない金額だけれど、投資がじゅうぶんに作品という形で還元される。快適に、支障なく、存分に、それが利用されるのであれば、投資は無駄ではない。
 ちょっと恥ずかしいことを書いているが、これまでアナログな環境で生息していたわたくしにとって、今年になってからのツールの変化、それに伴う環境の変化には、「アメージング!」としか言い様がないのだ。その最新のものが、at_STARBUCKS_Wi2なのである。iMacの購入がすべての発端。あすこからすべてが始まった。Macは生活を楽しく変える。いまのわたくしなら、どうにかMacユーザーを名乗る最低限の資格がある……とは、やはりおこがましい台詞であろうか?
 最後に余談だが、現在MacBookAirのバッテリー残量は5%である。100%にフル充電したのは約2週間前のことだ。あれから今日まで、ほぼ毎日立ち上げていたけれど、平均1.5時間程度の利用なら、バッテリーの持ちはこれが普通なのだろうか。スタバにいるが電源席を確保できているわけではないので、みくらさんさんか、断腸の思いで今日の筆を擱く。◆

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第1728日目 〈シラ書第13章:〈金持ちとのつきあい〉、〈権力者とのつきあい〉他withもう嘘はつかない;ドラえもんに会いに行く。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第13章です。

 シラ13:1-8〈金持ちとのつきあい〉
 自分よりも財産のある者と交わるな。富める者と貧なる者はたがいに相容れぬ関係。
 「金持ちは不正を働きながら、しかも、脅迫する。/貧乏な人は不正を受けながら、/しかも、わびなければならない。」(シラ13:3)
 金持ちは自分の都合、自分の勝手であなたとの付き合いを変える。あなたが昇り調子のときには揉み手をして近附いて来、あなたが窮すればただちに掌を返す。あなたに財産と呼べるものがあるときは善人面で近附いて来、あなたがそれを失うとたちまち離れてゆく。金持ちはあなたを嘲笑し、離れたあとは道ですれ違っても知らぬ振りをする。
 「用心せよ。だまされることのないように。/自分の愚かさで落ちぶれることがないように。」(シラ13:8)

 シラ13:9-14〈権力者とのつきあい〉
 自分より力がある者からの誘いも一旦断れ。ゆかしく思われて、次も誘われることだろう。
 その付き合いについては、常に自制せよ。深入りするな、忘れられない程度に距離を保て。対等に話せるなどと思いあがるな。多くの言葉をかけられたからとて有頂天になるな。
 話が弾んでいるとき、あなたは試されている。相手は微笑みの下であなたを冷徹に見ている。あなたは自分の秘密を守り、喋りすぎないように努めよ。注意深くなれ。用心せよ。
 「これらのことを聞いたら、眠りから目を覚ませ。」(シラ13:14)

 シラ13:15-24〈金持ちと貧しい人〉
 双方の交わりの本質は、およそ水と油の関係に似ている。人間は自分と近しい者を愛す。価値観や経済力、境遇や知性の似た者と和を結ぶ。
 狼と子羊が共存できぬように、富める者と貧なる者も共存できない。高慢な人が謙遜を厭うのと同様、金持ちにとって貧しい人は忌々しい以外の何物でもないのだ。
 金持ちはそれゆえに他人から祭りあげられ、貧者はそれゆえに非難されたり突き倒される。
 心に留めておくと良い、「富は、罪に汚れていなければ、善である」(シラ13:24)ということを。

 シラ13:25-26〈人の顔つき〉
 顔は履歴書、内面を映す鏡。

 「それにしても、格言作りは、骨が折れる。」(シラ13:26)

 書店に行けば人間関係にまつわる書物があふれている。職場の悩ましい人間関係について改善を促し、或いはそれに煩わされずに済む方法を示唆する書物が山積みだ。朝の勉強会などを活用して人脈を築くことを提案する書物が棚に刺さっている。
 でも、われらはいまそれらに優る人間関係についての書物を読んでいる。「シラ書」とは人生訓を語るのみならず、如何に人間関係を潤滑に運んでゆくかを示した古典中の古典である。すべての読者にここで語られる内容のすべてがあてはまるはずもないけれど、虚心に読んでいれば膝を打つ箇所が必ずあるはずだ。何気なく読み過ごしたのに、妙に心に引っ掛かっていつまでも離れようとしない言葉があるはずだ。わたくしは「シラ書」に幾つもそのような言葉を見る。
 特にシラ13:9-14〈権力者とのつきあい〉にあるような権力者=上司/管理者との付き合いなど、まさしく膝を打つ文言のオンパレードであった。わたくしはつい数日前に契約更改の面談を済ませ、種々の煩雑な問題を解決したところであり、また前後して上司と飲む機会もあったわけだが、嗚呼それより前に「シラ書」のこの章を読んでいたかったよ、と天を仰ぎたい気持ちになった。なにかしでかしたわけでは、勿論、ない。自分にブレーキをかける準備だけは怠るな、ということである。
 ──読書していると、思わずのけぞってしまう衝撃的な一言に出会うことがある。それをいっちゃあお終いでしょう、と返したくなる一言がある。本章の最後、なんとも唐突に現れた「格言作りは骨が折れる」てふのがまさしくそれ。開いた口が塞がらない、とはこんな言葉に遭遇したときの物言いかもしれぬ。いずれにせよ、良くも悪くも唖然とさせられること必至だ。
 著者イエススの、あまりにストレートな真情吐露である。なにゆえにこの人はこのタイミングでこの台詞をここに綴ったのだろう。正直すぎるのも考え物であります。おまけに、いったい後の世の読者の誰も、殊に翻訳者である孫はこの台詞のあることに疑問を抱いたりしなかったのだろうか。著名なる書物であるゆえにたとい斯様な文言であっても手を入れることに躊躇いがあったか、翻訳者たる孫であれ? 或いは、ちょっとこのあたりで息抜きしてくださいよ、読者の皆さん、とでも? 呵々。
 真の理由はともかく、この拍子抜けな台詞を2,000年以上の永きにわたって「シラ書」に留めてきた信徒たちのユーモア・センスに感服だ。およそ聖書に書かれるあらゆる文言のうち、これ程失笑と苦笑を誘うものはないであろう。



 今週の金曜日は、仕事帰りに映画『STAND BY ME ドラえもん 3D CG』を観に行く。
 これまでも予定を立てては流れる結果となってしまったが、今度こそ本気で、毅然とした態度で実行するのだ。もう嘘はつかない。その日、本ブログがお休みをいただく予定であることを、遠回しに言っている。えへ。
 そういえば、ドラちゃんは98年後の今日(昨日ですか)、マツシバロボット工場で産声をあげる(当時の体色は黄色)。ハッピーバースデー、ドラえもん! はやく君に会いたいよ!!◆

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第1727日目 〈シラ書第12章:〈相手をわきまえよ〉&〈友と敵について〉with今日のエッセイはお休みです。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第12章です。

 シラ12:1-7〈相手をわきまえよ〉
 施しは相手をわきまえてからにせよ。信仰深い人にのみ善き業を行え。あなたはかれに感謝され、また、報いも得られよう。かれから報いを受けずとも主があなたに報いる。
 悪事に耽る者、慈悲の心を持たぬ者、不信仰な人。これらに善行を施すなかれ。「不信仰な者には食べ物を拒み、何も与えるな。/さもないと、彼はそれで力を得て、/お前に立ち向かってくるだろう。/不信仰な者に施すあらゆる善い業は、/二倍の悪となってお前に返ってくるだろう。」(シラ12:5)
 主もまた罪人を憎み、不信仰な者を監視している。報復の瞬間が訪れるその日まで。

 シラ12:8-18〈友と敵について〉
 「幸福なときには、真の友を見分けられない。/不幸なときには、誰が敵かはっきりする。/人が幸福なときには、敵はねたみ、/不幸なときには、友でさえ離れてゆく。」(シラ12:8-9)
 友を装って近附いてくる敵がいる。斯様な輩を信用するな。奴の抱く悪意は、かんたんにあなたを悪へ染めあげる。そうしてあなたの心を、またたく間に蝕む。
 友と称す敵を警戒せよ。あなたの傍らにかれを侍らせるな。奴はあなたの地位を奪うだろう。警戒せよ、心に留めよ。そのときになって私の言葉を思い出しても、もう遅い。後悔だけがあなたに残る。同情する者はない。
 「敵は、口先では甘いことを言っても、/心ではお前を穴に陥れようとたくらんでいる。」(シラ12:16)
 敵の振る舞いを信じるな。奴の心は血に飢え、裏切りを謀っている。

 善行を施すなら信仰深い人をのみ対象とせよ。罪人や不信仰な人にはどのような援助もするな。施しをするなら相手をわきまえろ。著者イエススはそういう。もしくはその孫が、そういう。
 成る程、と思う。それもそうだな、と納得する。
 が、首肯できぬのもまさにその点だ。ユダヤ教はどうだか知らぬが、キリスト教には博愛と平等というイメージがある。ここでのイエススの主張とはずいぶんと異なるイメージである。ここにはギリシア的思想も反映しているのかもしれぬが、それにしてもこの針の振り切れっぷりはどうだろう。まさしく右から左。主への信仰の有無による差別化から博愛と平等に基づく慈善へ。或る意味で呆れ果てるよりない変身ぶりといえよう。敗戦直後の学校教育も真っ青である。
 ここで想起するのは、神の子イエスの存在である。東京は立川市でただいまヴァカンス満喫中のイエスではなく、ゴルゴダの丘で磔刑に処されて3日後には復活を果たした方の──本物の──イエスである(まぁ、同一人物といえば同一人物だが)。かれは生前、弟子を引き連れ各地でセミナーを開き、父なる神の愛と御業を説いて回った、という。それらの行状は4つの福音書や、或いは弟子たちの布教について語った「使徒言行録」や各地へ宛てた手紙などで知られる。そうしてそれらは新約聖書へ集約された。
 イエスの慈悲と慈愛、奇蹟を語る新約聖書が読み継がれてゆき、血となり肉となり、社会の基盤を形成し、思想を生んで、西欧に於ける福祉体制が成り立った。われらがキリスト教に対してイメージする平等と博愛に基づく慈善行為は、斯様な歴史と体制によって築きあげられたといえよう。
 ゆえにキリスト教お得意の慈善事業はあくまで新約聖書に基づくものであり、続編(外典)を含めた旧約聖書の内容、思想をいったん切り捨てた上で成立するものだ、と考えることもできよう。ならば、本章に於ける施しについて相反する印象を抱くのも宜なるかな、というところか。ふむ。
 ……〈友と敵について〉は、おそらく思い当たるフシのある者が多いはずだ。Your own worst enemy.それは誰か? 友と信じた人である。仲間と信じた人である。
 われらは、古くからの友人に優る友はない、という文言を数日前に読んだことがあった。本稿を書いていて、ふと、ああ、あれはこういうことであったか、と得心する。仮面をかぶった者に心を許して、身辺へ侍らせるな。薄情の人と友の契りを結ぶなかれ。根拠もなく容易く他人を信用するなかれ。警告;敵は身内にあり。さいわいとわが国には「飼い犬に手を噛まれる」ということわざが、ある。それを聖書に求めた場合、本日読んだ〈友と敵について〉という箇所になる。
 実生活に於いてなによりもこの警告が適用されやすいのは、やはり職場であろう。詳らかに述べることはしない。同じ立場にあった者がいつの間にやら昇進し、管理者側になっているのを見たとき、みにくい嫉妬を抱いて振る舞う者がいる。昇進した者にとってかれは変わらぬ仲間であるかもしれぬ。
 が、かれにとって昇進した者は変わらず仲間なのだろうか? 否。羨望と嫉妬の対象である。うわべは勿論、仲間であることを装うだろうけれど。かれがそれを発憤材料にして自分も、いま以上にがんばって晴れて昇進、管理者側に立てばそれで満足だろうし、良き影響が生まれるかもしれぬ。と同時に、嫉妬に狂う可能性だって否定はできない。
 いまここでは、職場の同僚、自分よりあとに出世してきた者がいちばんの敵となり得る、とだけ指摘しておく。嫉妬と野心は、時により尋常でない事態を引き起こすからだ。
 わたくしはかつて、それを目撃した。巻きこまれて苦しんだ。──自戒をこめて、今日これを書く。◆

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第1726日目 〈シラ書第11章:〈軽率な判断をするな〉、〈多くの事に手を出すな〉&〈他人を家に入れるな〉with「シラ書」読書ノートはわが小さな考えのプロパガンダ?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第11章です。

 シラ11:1-9〈軽率な判断をするな〉
 身分の低い人にとって知恵は立身出世の手立てとなる。
 外見や衣服、地位や肩書きによって他人を判断するな。
 「よく調べないうちに、とがめてはならない。/まず、じっくり考え、その後に叱れ。/よく聞かないうちに答えてはならない。」(シラ11:7-8)

 シラ11:10-28〈多くの事に手を出すな〉
 あれもこれも、と手を出して、なにも物にすることのできない者がいる。これはよくない。いろんなことに手を伸ばしたがゆえ、かれは非道い目に遭うことだろう。
 「苦労し、難儀し、懸命に事を運ぼうとしても、/その人はかえってますます遅れてしまうものだ。/のろまで、助けを必要とし、/何もできず、貧しさにあえいでいる人もいる。しかし、主は、彼に目を注いで恵みを与え、/惨めな状態から引き上げ、/高めてくださった。/そこで多くの人々は彼を見て非常に驚いた。」(シラ11:11-13)
 善と悪、生と死、貧困と富を、主は与える。知恵と悟り、律法の知識、愛と善行の道を、主は与える。主の賜物は主を畏れる人、信仰の篤い人と共にあり、主の御心は斯様な人々を成功に導く。ゆえに罪ある人、強欲な人の成功を羨むな。そんなもの、所詮は砂上の楼閣だ。やがて崩れ去る。
 あなたは自分と結ばれた契約を心に留めてまじめに働き、自分の務めを果たして生きてゆけ。そのさなか、かりに疑問に思うたとしても口にしてはならぬ、自分はなんの役に立っているのか、今後なにかの役に立つことがあるのだろうか、と。或いは、自分はじゅうぶんに満ち足りている、今後どのような災難がわが身に降りかかるというのか、と。あなたは自分と結ばれた契約を心に留めてまじめに働き、自分の務めを果たして生きてゆけ。
 ──人は、幸福なときには不幸を忘れる。人は、不幸なときには幸福を思い出さない。そういうものだ。「不幸に遭うと、すべての楽しみを忘れるが、人の行いの評価は、その最期に明らかになる。」(シラ11:27)
 誰についても、まだその人が存命の間は相手に対して、あなたはしあわせだ、などというな。人の本当の姿は、その子どもたちの生き方によって知られることになるのだから。

 シラ11:29-34〈他人を家に入れるな〉
 誰彼構わず他人を家に招き入れるな。悪賢い者、高慢な者がそのなかに混じって、多くの悪を企んだり、あなたを罠にかけようとしているかもしれないから。
 招き入れた他人のなかには、罪人が混じっているかもしれぬ。かれは小さな火種をたちまち大きくして、あなたを窮地に陥れる。謂われなき批判の矢、謂われなき非難の矢が世間から、あなたへ射放たれるように画策するだろう。罪人は、流血の謀り事を胸に隠している。
 他人を同居させるな。あなたの家は憂鬱と不平の帳に包まれる。

 本章では〈多くの事に手を出すな〉というところに、いちばんの共感を抱きます。就中「シラ書」11:20、「契約をしっかり守り、それに心を向け、/自分の務めを果たしながら年老いてゆけ。」
 わたくしもこの二行を心にしっかりと留めて刻み、この価値あるかわからぬ人生が終わる日まで生きてゆこう、と思います。もっとも、その日は案外と早く訪れそうでもありますが。



 わたくしは、「シラ書」の読書ノートを書きながら、自分の考えを吐露している、と非難を浴びるかもしれない。むろん、まったく関係ないことを紛れこませているわけでなく、当該部分を読んで、こうも表現できよう、こういう捉え方、こういう解釈も可能だろう、その延長線上にはこんなケースもあり得よう、ということを提示しているに過ぎぬ。そこに時折、自分がこれまで営んできた人生の澱のようなものが滲み出てしまうのは、或る意味で仕方ない話かもしれない。
 生きている間に書いてみたいものは、たくさんある。そのうちの一つが人生訓だ。ヒルティやハマトン、チェスターフィールド、『論語』や『徒然草』、本田博士の著作など読み耽った影響だろう。不惑を過ぎて数年、ようやく自分が書けるもの、書けそうにないものが朧ろ気にわかってきた。人生訓はさしずめ後者の様子で、しかも、お前がどの面さげてそれをいうのか、と心ない人には後ろ指をさされても頭を垂れるより他ない経験もたくさんしてきた。
 が、それゆえにこそ語るべきこと、語ることのできる事柄がたくさんある。それらが「シラ書」を呼んでいると、まるでベン・シラの言葉に触発されるようにして、ふと意識に上ってき、そうして形になる。たいてい絶妙なタイミングで、いま述べたようなわが小さな考えが生まれるものだから、斯様に「シラ書」読書ノートに目立つことなく紛れこませ、かつ埋めこめられるのだ。
 わたくしは読書ノートを良いことに、自分の考えをそこへ吐露してきた。プロパガンダ、と揶揄されても文句はいえない。しかし果たしてこれが悪用といえようか? これを濫用といえようか? 否。「シラ書」はわたくしの考えに最も近しい性質と内容の、聖書のなかにある書物だ。そこへ自分の考えをもノートに滑りこませた。それも理由あってのことなのは、冒頭で述べたとおりである。読者諸兄よ、寛大な心で接し給へ。◆

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第1725日目 〈シラ書書第10章:〈統治者について〉、〈尊敬に値する者〉他with竹宮ゆゆこの新作が新潮文庫nexより登場!〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書書第10章です。

 シラ書10:1-5〈統治者について〉
 知恵のある統治者は民を教育して立派な社会を築く。聡明な統治者が行う政治は秩序ある社会を生む。こうした統治者に仕えるならば、役人も市民も自ずと為政者に倣う。一方で、愚鈍で知恵なき統治者は民を滅ぼすばかりである。
 この世の主権は主の御手にあり。「主は、時に応じて、ふさわしい人物を起こされる。」(シラ10:4)人の誉れは主の御手にあり。立法者(法学者)に栄誉を授けるのは主である。

 シラ10:6-1〈高慢について〉
 隣人の仕打ちに憤りを抱くな。他人へ横柄に振る舞うな。高慢と不正は非難の的になる。
 高慢の始まりは主から離れることだ。人の心が主を畏れ、敬うのをやめたときがその始まり。
 「高慢の初めは、罪である。/高慢であり続ける者は、/忌まわしい悪事を雨のように降らす。」(シラ10:13)──そうしてかれらは恐ろしい災厄に見舞われ、全地から根こそぎ滅ぼされる。否、のみならず、かれらが存在した事実さえ世人の記憶から消し去られたのである。
 嗚呼、人は高慢であってはならぬ。女の腹から出た者は誰であれ、激しい憤りを抱いてはならぬのである。

 シラ10:19-25〈尊敬に値する者〉
 尊敬に値するのは、主を畏れる人である。尊敬に値しないのは、掟を破る者である。
 仲間内なら決定権を握る人が敬われ、主の前に於いては主を畏れる人が尊ばれる。
 貧しくとも聡明な人を蔑むな。罪人を誉め讃えるな。
 権力者や社会的地位の高い人は相応の栄誉を受けるが、主を畏れる人へ寄せられる誉れはそれ以上のものである。
 かりに、自由な身分にある市民が知恵ある奴隷に奉仕するところを良識ある人が目撃しても、その行為を当然のことと思い、咎めることはしないだろう。知恵は主を知る初め、主を畏れるなら奴隷はその身分にかかわらず尊敬されることもあるだろう。

 シラ10:26-31〈謙遜と誇り〉
 仕事をするとき理屈をこねるな。困っているとき見栄を張るな。働いてすべてに満ち足りている人の方が、理屈をこねたり見栄を張る人よりずっと優っている。
 「子よ、慎み深く、自らに誇りを持ち、/自分を、あるがままに、正しく評価せよ。/自分自身を汚す者を、/誰が正しい人と認めてくれるだろうか。/自分自身を軽んじる者を、/誰が重んじてくれるだろうか。」(シラ10:28-29)
 貧しい人は知識によって、金持ちはその富によって尊ばれる。知識のある貧しい人が富を得たらば、どれ程尊ばれることだろうか。軽蔑されてばかりの金持ちが貧乏になったら、いったいどれだけ軽蔑されることだろう。

 煩雑になるのを避けるため、ノートへ落としこむのを省いた箇所がある。シラ10:8-11がそれだ。自分で読書する、学習する意欲と能力と行動力のある方は書店に出掛け、新共同訳・続編附きを立ち読みするなり購入するなりしていただきたいが、それはさておいても一点だけ付記しておく。
 シラ10:9「土くれや灰にすぎぬ身で、なぜ思い上がるのか。/だからわたしは、彼のはらわたを、/生きているときに、つかみ出してやった。」
 これは明らかに誰か、歴史上の人物を話題にのぼしているように読める。勿論それが誰なのか定かでないけれど、一説では(これまでさんざん本ブログにもご登場いただき、いまや最初の数文字を入力するだけで予測変換のトップに来る)アンティオコス4世エピファネス、一説では前204年に疾病により崩御したというエジプト王プトレマイオス4世フィロパトルである云々。プトレマイオス4世はシリア・パレスティナの覇権をめぐってアンティオコス3世と戦闘を繰り広げた人。
 引用文のなかの「彼」が2人のうちどちらかなのか、或いはまた違う人物なのか定かでない。この部分を著者イエススが書いたのかどうかも不明だ。ただ、いずれにせよいえるのは、こうした歴史上の誰彼であれ高慢になって主への畏れをなくした(もしくは、当初より持ち合わせなかった)人は、それに似つかわしい結末が用意されているのだ、ということであろう。



 新潮文庫の新レーベル<新潮文庫nex>が今月より刊行開始。文庫の創刊100年を記念してのもので、「『キャラクター』と『物語』『文学』の融合を」(新潮社HPより http://shinchobunko-nex.jp/blog/2014/08/02.html)目指す由。
 でもまあ実はそんなことはどうでも構わなくて、わたくしがこれを話題にするのは偏に竹宮ゆゆこの新作が読めるからに他ならない。まさかこの人の新作が、殊もあろうに新潮文庫で読めるとは!
 竹宮ゆゆこの新作のタイトルは『知らない映画のサントラを聴く』。むろん、映画音楽のガイドではない。本作の惹句は「これは恋か、贖罪か。圧倒的恋愛小説」という。楽しみである。明日、仕事帰りはカフェにて原稿を書く前に書店へ寄ってさっそく一冊、購うとしよう。
 『ゴールデン・タイム』完結から今日まで、ずいぶんと待たされてしまった(若竹七海程ではないが)。HMの短編集を読み終わったら、ちょっとこちらへ寄り道しよう。うん、決定事項。◆

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第1724日目 〈シラ書第9章:〈女性について〉&〈人間関係〉with書けなくなって困ったこと?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第9章です。

 シラ9:1-9〈女性について〉
 妻を愛するなら猜疑心を捨てよ。焼きもちは妻にあなたを攻撃させる材料となる。
 妻以外の女に心を移すな。自堕落な女にかかわるな。場末の女と親しくなるな。彼女らはあなたを罪に染めるだろう。
 初心を装う田舎娘を見るな、それと喋るな。あなたの一挙一動、発言のすべては、あなたを罪人へ仕立てあげる材料にされる。その取り巻き衆に気を許すな、心を許すな。彼女らのことは放り棄て、その影に悩まされるな。案ずるな、やがて大きな力が田舎娘と取り巻き衆の上に臨み、怒りの裁きが降るから。
 娼婦に溺れて財産を失うな。眉目秀麗な女からは目をそらせ。美しい人妻に惚れるな。手練れな女、美しい女は身を滅ぼす。性悪、鮪女、醜女、がさつ者に捕まって身を持ち崩す男はそうはいない。
 「結婚した女とは同席するな。/また、彼女と酒を酌み交わして、楽しむな。/心が彼女に奪われ、/愛欲にたぎる血で身を滅ぼさないとも限らない。」(シラ9:9)

 シラ9:10-18〈人間関係〉
 新しい友人よりも古い友人をこそ大切にせよ。昔からの友人との付き合いは古酒のように濃密で味わい深い。
 罪人や信仰なき人の成功を羨むな。それは所詮一時的なもの、到底祝福されるものではない。邪知暴虐な権力者からは努めて距離を置け。そうすれば死の恐怖におののくことはない。あなたは自分が、常に壁の上を歩いて敵から狙われている身と知れ。
 口を慎め。口数多き者は嫌われる。軽口の者は恨まれる。
 隣人を見極め、知恵ある人を相談相手とせよ。語り合うなら聡明な人、話題は専ら主の律法についてとせよ。食事を共にするなら正しい人を相手とせよ。
 「職人はその作品によって称讃され、/知恵ある為政者は、/その言葉によって称讃される。」(シラ9:17)

 読むに慎重、書くに慎重とならざるを得ない章であった。私情、私憤を抑えながら、ようやく公にできる原稿が書けた。
 くだくだしい感想は控えて、疑問点を一つだけ。
 ヘブライ語やギリシア語でどのような単語が用いられているか知らぬが、第4節「歌い手」は英語の聖書ではそのまま「singer」となっている。女性の歌手というのは古代に於いては卑しい職業の一つであったため、ここでは斯く説かれているのだろう。新共同訳では、「女の歌い手となじみになるな。/彼女の手中に陥らないともかぎらない」という。フランシスコ会訳では、「女の歌い手となれなれしくするな。/彼女の手管にはまるかもしれないのだから」という。
 たしかにヘブライ語でもギリシア語でも、ここは「(女性の)歌手」という意味の単語なのだろう。が、「歌手」なる訳語だとどうしてもステレオ・タイプの画一的なイメージが強くて、本節には相応しくない。ここにはもう少しふくらみのある単語を選んでみた方が良い。たとえば本稿では「場末の女」としてみた。歌い手というところにこだわるなら、「芸妓」とするのがより似つかわしい。
 一個の文芸作品として聖書を読んでいると、訳語の平板な点に嘆息することがしばしばある。が、生活のさまざまな場面に溶けこんだ教典として読んだときは、黙読しても音読しても、見ても聞いても話しても、すぐ理解できる言葉でなくてはなるまい。異なる性質の板挟みに悩む日本語訳ならではの葛藤といえるやもしれぬ。



 日々、400字詰め原稿用紙4枚分を目処に文章を書いて、本ブログに掲載しています。1600字程度のものでも書き終わる頃には疲れ切っています。もうなにもしたくない。残りの時間はだらだらと、ぐうたらして過ごすだけにする。そう堅く誓って、実際その通りになっています。
 が、こうした短いとも長いともいいがたい分量の原稿でも、3日分をまとめて書いてパソコンで清書すると、心理的にも体力的にもきついものがある。次に原稿に向かう気持ちを奮い立たせるのに難儀するのですね。エッセイを或る程度の文字数にするためには、相応の時間をかけて寝かせておくか、或いは一発勝負で決定稿をあげるぐらいの気合いで挑むか、のいずれかです。
 が、幸いとエッセイの原稿が書けなくなって本格的に困った、という覚えはありません。井戸の水を毎日汲んでいれば涸れることはない、より豊かな水量になったり質の良い水が供されるようになる、となにかの本で読んだことがあります。毎日なにか書いていれば、自ずと新稿の準備がされてゆくのと同じでありましょう。
 でも、毎日パソコンのキーボードを叩いている割には、ブラインド・タッチを習得できないのは、なぜなのでしょうね?◆

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第1721日目 〈シラ書第8章:〈良識ある行為〉withみくらさんさんか、ガス欠気味。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第8章です。

 シラ8:1-19〈良識ある行為〉
 権力者と争うな。裕福な者と喧嘩するな。口数の多い者と争うな。粗野な者をからかうな。私イエススはあなたに伝える。連衆はあなたにとって益とならざる者だからだ。
 あなたが真摯に罪から離れて誠実な人、正しい人となることを望んで行動するなら、かれらに近附いたり、或いは咎めたりしてはならない。かれらはたしかに罪と罰の人。が、忘れてはならぬ、「わたしたちは皆、/罰に値する者」(シラ8:5)なのだ、ということを。
 年寄りを侮蔑するな、軽んじるな。他人の死を喜ぶな。いずれも誰しもが行き着くところ。
 先人は知恵の泉;「知恵ある人の話をなおざりにせず、/その格言に心を留めよ。/そうすれば、そこから教訓を学び、/王に仕えるすべを身につけることができる。/老人たちの話を聞き逃すな。/彼らも、その先祖たちから学んだのだ。/そうすれば、そこから知識を学び、/必要なときに答えることができる。」(シラ8:8-9)
 罪人と雖もその内に情欲の灰を持つ。これを焚き付けて火を熾してはならない。傲慢な人の挑発に乗るな。自分より上の者にお金を貸すな。むやみに誰彼の保証人になるな。裁判官相手に訴訟を起こすな。浅薄で無計画な人と旅をするな。気の短い者と行動を共にするな。馬鹿に相談するな、他人の前で内緒話をするな。私イエススはあなたへ伝える。これらはいずれもあなた自身を危うくする。
 そうしてもう一つ、──
 「相手構わず、人に心を打ち明けるな。/また、相手構わず、人から恩を受けるな。」(シラ8:19)
──相手がどんな人間か、見極めて行動せよ。

 「シラ書」読書ノートになって2週間に入る。本章は今日まででいちばん筆に迷い、言葉に迷い、文章に悩んだ。が、不完全燃焼の感は否めぬが、どうにか困難を克服した気分ではいる。
 良識ある行為ということで、こういうことをしなさい、能う限りこのような施しを行いなさい、という言葉が、具体例を挙げて並ぶと思いきや、さにあらず。むしろ、こういうことをしてはいけません、ということがメインとなる。正道から外れる行いからはことごとく、努めて離れているようにせよ。
 ──ミもフタもない助言だが、そのストレートさ、そのシンプルさゆえに訴えかける力、大なり、と思うのだ。これに近しい言葉を『論語』に求めれば、「君子危うきに近寄らず」ということになろうか。……ふむ。
 イエススが本章に記した教えの数々を今日のわれらが固守しようとすると、とても生きにくい状況を生み出す結果となるかもしれない。まあ、そのあたりは臨機応変に、柔軟に、ということになるが、でも生きるにあたってすなおに耳を傾け、拠り所とするには良い言葉。
 2,000年以上昔の中東で書かれた書物のなかの言葉が、時空を超えたいまの世のわれらに直接的にも響く。──すばらしいことではないか。



 これまでの反動か、今日はひいこらいいながらようやくこの分量。溜め息ついちゃうね。
 エッセイの材料が見附からないので(ネタはあるが殆ど未成熟なのだ)、今月と来月購入予定の本。
 8月29日;荒俣宏編纂『怪奇文学大山脈──西洋近代名作選』第2巻 <20世紀革新篇>(東京創元社)
 9月18日;牧眞司、大森望『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)
 ……これだけである。がっくりと頭を垂らしたい気分だ。ちかごろ減少の一途を辿っている図書購入費。なんだか淋しいなぁ。その分が貯金に回っているのは健全かもしれないけれど。
 でも、やはりなんだかやりきれぬものを感じます。えへ。◆

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第1720日目 〈シラ書第7章:〈悪を行うな〉、〈友人と家族〉with村上春樹訳サリンジャー『フラニーとズーイ』(新潮文庫)を読みましたが、……〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第7章です。

 シラ7:1-17〈悪を行うな〉
 悪事に手を染めるな。あなたが悪を行わぬなら、悪があなたを襲うことはない。努めて不正とは距離を置け。不正の方からあなたを避けるようになる。
 身分不相応の地位を求めるな。虚勢を張るな、誇示するな。正義を執行できぬなら裁判官を志すな。権力者の顔色を伺っていては、公正な裁きなどできようはずがない。誰に対しても過ちを犯すな、面目を失うな。
 「過ちを二度繰り返すな。/一度の過ちでさえ、罰を免れないからだ。」(シラ7:8)
 心痛めた人を嘲笑するな。兄弟や友人に偽り事を謀るな。おお、あなたよ、「どんな偽りも口にしてはならない。/うそが身につくと、ろくなことにはならない。」(シラ7:13)──魂にこれを刻め!
 労働を厭うな。悪党や罪人の仲間になるな、かれらの悪事に手を貸すな。加担したなら、あなたには神の裁きがすみやかに行われるだろう。心に留めておけ。
 あなたは徹底して謙遜であれ。畏れを知らぬ者には火と蛆の刑罰が降る。

 シラ7:18-28〈友人と家族〉
 どんなことがあろうとも、お金のために大切な友人を裏切るようなことがあってはならない。
 「賢く良い女をめとる機会を逃すな。/彼女のもたらす喜びは、黄金にまさる。」(シラ7:19)
 あなたの下で働く誠実な召使いや尽くしてくれる雇い人を冷遇するな。賢い召使いを心から愛し、その自由を奪うようなことをするな。
 子供がいるならかれらをよく教育し、厳しく躾けて礼節を覚えさせよ。もし子供が娘なら、悪い虫が付かないよう注意しろ。大切に育てるのは当たり前だが、甘やかしたり、過保護になってはいけない。そうして然るべき時に堅実で誠実な男へ嫁がせよ。そこで親としての仕事は終わる。
 心にかなう妻は大切にせよ。気に入らぬ妻には心を許すな。
 「心を尽くして父を敬い、/また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。/両親のお陰で今のお前があることを銘記せよ。/お前は両親にどんな恩返しができるのか。」(シラ7:27-28)

 シラ7:29-31〈祭司に対する尊敬〉
 祭司を敬い、規定の献げ物を納めよ。

 シラ7:32-36〈貧しい人と悲しむ人〉
 貧しい人がいれば行って手を差し伸べよ。あなたは祝福されるだろう。
 「生きとし生けるもの、すべてに恵みを施せ。/また、死者にも思いやりを示せ。」(シラ7:33)
 あなたよ、泣く人と共に泣き、悲しむ人と共に悲しめ。かれらの悲しみをわがことのように悲しみ、かれらの苦しみや痛みをわがこととして思え。病人を見舞うのをためらうな。そうしてあなたは愛されるようになる。
 「何事をなすにも、/お前の人生の終わりを心に留めよ。/そうすれば、決して罪を犯すことはない。」(シラ7:36)

 嗚呼、と思うのだ。祭司への言及を除けば、自分を反省させるにじゅうぶんな言葉が並ぶ。「シラ書」を人生論、人生訓と呼ぶならば、本章は斯く称すにふさわしい章といえるだろう。読んで誰しも首肯するのではないか。よくわかる、という人は多くあるはずだ。それ程に本章は生活と密に結び付いている。
 ちなみにわたくしに心へ響いたのは〈友人と家族〉にて引用した2つの文章であった。──わたくしは、賢く気立ての良い少女を永遠に失った。すくなくとも、切れば血の出る肉体に魂が縛られているこの世に於いては。引用文に即していえば、喜びのもたらされることなき存在となったわけだ。まぁ、今後誰かを妻とすることはあるまいと諦念しておるし、或る意味で末期症状を呈しているのは自覚している。
 もう1つ、両親についてのところだが、……ここについてどんな付け加えるべき、言い添えるべき言葉があるだろう? あるとすれば、こんなこと、──
 親のあるうちにかれらへ恭順し、感謝の気持ちを、言葉と行いを以て現せ。どれだけ猛々しく振る舞っても、どれだけ名を高めたとしても、どれだけ人から慕われる者になったとしても、あなたはあなたの親の子であることに変わりはないのだ。
 わたくしは生前の父に殆ど孝行できなかったことを悔いている。嫁の顔を見せ、孫を抱かせられなかったことを悔やんでいる。いまの仕事に就いたこと、お陰で忙しく過ごせていることなど話せなかったことを残念に思うている。
 両親を蔑ろにして侮蔑する者に禍いあれ。



 村上春樹訳サリンジャー『フラニーとズーイ』(新潮文庫)を読みましたが、話題にする程の読後感は得られませんでした。つくづく自分がサリンジャーの文学と肌が合わぬことを、時間をかけて実感させてくれたのが精々の収穫といえようか。ゆえに訳者と原著者の間にある乖離という点について思いを馳せることも出来ないでいる。
 考えてみれば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)のときも、同じ感慨に襲われたんだっけ……。正直なところ、わたくしはサリンジャーの文学が年代や世代を超えて支持されるものとは、どうしても思えぬのですよ。あのイノセンスを、中高年になっても痛い程よくわかるなんて、どうかしているのじゃぁないかしら。それぐらいの年代になったらむしろ、サリンジャーの文学にはノスタルジーと痛ましさぐらいしか感じられなくなるのではないかな。感受性の停滞とか硬化とかいうのではなく、斯様に読み方が変化していなければならないのでは?
 わたくしぐらいの世代から下の人々は、サリンジャーを読むことなど殆どなくなった世代でもある。極少数の能動的読書家の卵が背伸びして『ライ麦畑でつかまえて』(白水社)を手にする。これをすり切れる程開いてページを繰ったり、まるでホールデンを自分の分身のように感じて日夜寝食を忘れて読み耽ったり、そのなかに生きたといえる経験を持つ者が、わたくしと同じ世代、或いはわたくしより下の世代に、果たしてどれだけいただろう。10代の頃に握玩の書物とし得た者こそが、中高年になって再読してもノスタルジーや痛ましさとは無縁の読後感を持つことが出来る数少ない、しあわせなサリンジャー読者であるのかもしれない、と思う。
 わたくしは……たぶん今後もサリンジャーのよき読者ではあり得ぬだろう。<好き>と<愛する>ことは次元も質も異なる要素らしい。うぅん、難しいね。◆

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第1719日目 〈シラ書第6章2/2:〈誠実な友〉、〈知恵に近づけ〉with秋を肌で感じる一方で、──〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第6章2/2です。

 シラ6:5-17〈誠実な友〉
 聞いて耳に快い声は友人を増やす。聞いて心を気持ち良くさせる話し方は、気持ち良い返事を相手に促す。出会う人、出会う人と親しみのこもった挨拶を交わせ。それはとても良いことだ。が、1,000人と親しく声を交わしたとしても、相談相手に選ぶのはそのうちの1人に限れ。
 友を真剣に欲するならば、まずかれを試せ。相手を知らぬうちから相手を信頼するな。「都合のよいときだけ友となり、/苦難のときには、離れてしまう者がいる。/また、心変わりして敵となる友もいて、/争いでお前が吐いた悪口を暴露する。」(シラ6:8-9)
 食事のときだけ友だちヅラをする不埒者がいる。あなたの羽振りが良いときだけ寄ってくる不届き者がいる。そんな連衆は、ひとたびあなたが落ちぶれるやたちまち離れ、かつては友だちのように振る舞っていたことすら忘れた風をする。そんな連衆はあなたにとって敵でしかない。
 あなたは良き友、誠実な友を持て。かれはあなたの一生の宝となる。
 「誠実な友は、堅固な避難所。/その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。/誠実な友は、何ものにも代え難く、/そのすばらしい値打ちは計り難い。」(シラ6:14-15)

 シラ6:18-37〈知恵に近づけ〉
 子よ、若い頃から教訓を受け入れ、老年となるまでに知恵を見出すよう努めて心掛けよ。知恵というのは農作物と同じで、収穫までになかなか苦労するけれど、それを経験して勤勉に努めたならば、やがて豊かな実りを手にして味わうことだろう。
 一方、教訓を受け入れぬ者にとって知恵は、忌むべきものでしかない。愚か者にとって知恵は、ただの重荷でしかない。
 知恵は目で見て手で触れる代物に非ず。子よ、私イエススの意見を聞け。私の忠告を拒むな。
 「心を尽くして知恵に近づき、/力を尽くして知恵の道を歩み続けよ。/足跡を追って、知恵を探せ。/そうすれば、知恵が見つかるだろう。/しっかりつかんだら、それを手放すな。/ついには、知恵に憩いを見いだし、/知恵は、お前にとって、喜びに変わるだろう。」(シラ6:26-28)
 教訓に喜んで耳を傾ければ多くを学ぶ。真摯に耳を傾ければ知恵ある者となることができるのだ。或いは、長老たちの集まりのなかに入ってそこへ立ち、汲めども尽きぬ泉の如きかれらの知恵を頼れ。(殊、われらが先祖の神にまつわることにはよく耳を傾けよ)
 もし洞察に富んだ人、思慮深き人と会ったら、朝早い時刻からでもその人のところへ通い、教訓に耳を傾け、知恵を得よ。
 「常に、主の命令を心に留め、/主の掟に専念せよ。/主御自身が、お前の心を強め、/お前の切望する知恵を与えてくださる。」(シラ6:37)

 ここ──〈知恵に近づけ〉に至って、わたくしは聖書のなかで繰り返し語られる<知恵>というものがどういうものか、朧ろ気にわかったような気がする。それはきっと健全な人生、健全な人格を築いてゆくための必需品なのだろう。主を知る、というのが当時にあっては第一義であったろうけれど、今日に於いてそれを説くならば、健全な人生を送り、健全な人格を形成する、という意味合いとなるのではないか。要するに世界の理を知り、道徳を知り、法を知る、ということだ。この「知る」というのは2つあって、勉強によって知るのと経験によって知ることである。
 常に知恵を求めて探し、摑んだそれを喜びとせよ。その歌い出さんばかりの歓喜にあふれているのが、上で引用もしたシラ6:26-28だ。
 ところで、前半の〈誠実な友〉を読んで、上田秋成「菊花の契」を想起するのはわたくしのみであろうか。これは心の浅薄な人とは友情を結ぶなかれ、と訴える一編である。
 万が一、「菊花の約」を読んだことがないならば、今日を契機にぜひ。過日、本ブログにて取り挙げた『雨月物語』所収の作品である。図書館で岩波書店の日本古典文学大系や中央公論社の『上田秋成全集』(未完!)を借りてくるのもよいが、校注の行き届いた前者であっても古典に不慣れな人には難儀かもしれない。ならば文庫はどうか。現在も新刊書店の棚にあって入手し易いのは、講談社学術文庫と石川淳によるちくま文庫の現代語訳か。しかし『雨月物語』を読むならいちばんのオススメは、原文と現代語訳が揃い、要を得た註釈と解説を備えた鵜月洋が訳注を担当した角川文庫だろう。
 なんだか〈誠実な友〉について話すつもりが妙な具合に脱線しちまったが、わたくしの誘いの言葉に踊らされて「シラ書」を読み、『雨月物語』「菊花の約」を併せ読まれた方は、きっとこの脱線に納得し、諒としてくださるはずだ、と思うのだ。
 まあ、〈誠実な友〉については読者諸兄、さまざま感じるところがあるだろうから、まずは虚心坦懐に読書していただくのが宜しいか、と。



 クーラーなしでも過ごせる日が続くようになりましたね。明け方の風の泠、庭でそぞろに鳴く虫の声、もはや秋であります。勿論、これから反動のように暑い日が続くことがあるのかもしれませんが。
 この秋めく日の訪れが安定すること甚だ少ない大気の影響であるのは承知しています。関東では、涼しくなったね、天気予報だと雨の日が続くようだね、とノンキにいうていても、西日本では広島市の土砂災害があったり、近畿から中国地方にかけての一帯にある自治体からしばしば天候不順に伴う警報など出されているのですから、この秋めいた気配を喜ぶ気にはあまりなれないというのが本音。
 それではあってもわたくしはこんな時季になると、『古今和歌集』に収められる和歌を口ずさんでしまうのです。これは仕方のないこと。和歌とは即ち、──
 <秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のをとにぞ驚かれぬる>
──詠み人は、藤原敏行。◆

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第1718日目 〈シラ書第5章&第6章1/2:〈高慢になるな〉、〈誠実と自制〉with映画ソフト、レンタルで済ませる?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第5章と第6章1/2です。

 シラ5:1-8〈高慢になるな〉
 財産家よ、資産家よ。その貯え、その所有するものに頼るなかれ。それあるゆえに万事を思いのままにできる、驕るなかれ。その財産、その資産によって得た地位ゆえに、何人も自分を支配することはできぬ、と思うなかれ。お前はかならず主に復讐される者となる。
 罪を犯したがなんの罪も咎めもないぞ。どうせ贖われるのだから罪を重ねてゆこう。主の憐れみは豊かだから、どれだけ罪を犯して重ねたところで最後はきっと赦されるに決まっている。
 ──否!
 罪を犯しても罰せられないのは、主がじっと耐え忍び、我慢しているからだ。罪を重ねるな。主の赦しなどない。主が持つは憐れみのみに非ず、主は怒りを併せ持つ。主の激しい怒りは罪人たちに必ず降る。
 汝、すみやかに主へ立ち返れ。一日たりとも引き延ばしてはならぬ。主の怒りは或るとき突然訪れて、裁きによってお前のみを滅ぼすからだ。
 「本能と自分の力に引きずられ、/欲望のままに生きてはいけない。」(シラ5:2)

 シラ5:9-6:4〈誠実と自制〉
 あなたへ話しかける人、訊ねる人あれば、その言葉へ即座に、きちんと耳を傾けよ。答えるときは時間をかけて、じっくりと考えることだ。誰に相談する必要もなくあなたのなかではっきりした見解があるならば、その旨相手に伝えて答えるがよい。自分に確とした見解がなく、或いは誰かに相談したりする必要あれば、そのときは口に手を当てて発言を控えることだ。
 「名誉、不名誉も言葉しだい。/舌は身を滅ぼすもととなる」(シラ5:13)
 陰口を叩く者になるな。舌で他人を陥れるな。二枚舌の者になるな。あなたには辱めと、激しい非難が浴びせられるだろう。大事にも小事にも細心の注意を払え。
 偏見や噂で相手を見下し、かれに対して傲慢な態度を取るようなことがあってはならない。あなたはかならず報いを受ける。「友となるべきときに、裏切って敵となるな。/悪評が立ち、恥とそしりを受けるからだ。」(シラ6:1)
 「激情は、これを抱く者を滅ぼし、/敵の物笑いの種とする。」(シラ6:4)

 時折、「シラ書」は人生論の古典と呼ぶべきではないか、と思うことがある。これまでわたくしは判で押したように、或いは馬鹿の一つ覚えのように本書は知恵文学に属する教訓書である、というてきた。その考えにいまも変わりはないけれど、やや軌道修正もしたいのである。たとえば本章など読んでいると、チェスターフィールドやダイアー、ヒルティやハマトンのような滋味深い言葉に彩られ、経験に裏打ちされた教えに満ちた人生論を、昔日の栄光も去ったエルサレムの陋屋でイエススは書いていたのだな、と想像してしまう。
 迷えるユダヤ人に宛てて、神の知恵を知り、それを糧に人生を良く生きよ、というメッセージを、わたくしは感じてならぬのである。
 財産は生きるために必要なものだ。が、一定の限度を超えるとそれは、身を滅ぼしかねない危険な代物となる。それはいつの時代にあっても人を狂わせ、鈍感にさせる。かれらは欲望のままに生き、なんらかのアクシデントに遭遇しない限り、己を悔い改めたりしない。結局はなにも改悛しないまま没することだってある。楽しく生きるのも財産を持つのも程度の問題なのだ。
 財産は持ち主の死後も人を狂わせる。人の死後に持ちあがる問題でいちばん揉めるのは財産分与だ。本田博士に倣って堅実に蓄財しても、それを継ぐ人が駄目では仕方ない。そうなれば、なまじ財産など残さぬが賢明である。
 〈誠実と自制〉は……自分の仕事を顧みて、しっかりと胸に刻んでおこう、と思うた。思いこみや朧ろ気な記憶で、或いはよく聞きもしないで二つ返事で回答も解答もしてはならぬ。責任ある立場なら、他人の人生に携わる業務なら、尚更だ。今一度、思いを新たにしよう。
 そうでなくてもこの部分は、社会生活を営む者なら誰しも肝に銘じておくべきところだろう。経験によって得たとしても、殊第5章第10~13節(自分の見解には確信を抱き、/発言には一貫性を持たせよ。/人の言葉には、速やかに耳を傾け、/答えるときは、ゆっくり時間をかけよ。/はっきりした見解があれば、隣人に答えよ。/さもなければ、口に手を当てて何も言うな。/名誉、不名誉も言葉しだい、/舌は身を滅ぼすもととなる。 )に触れて自覚していただきたいのである。



 何度もレンタルしてくる映画ソフトはいっそのこと、購入して自分の所有物にしてしまうべきかもしれない。本と同じだ。
 しかし、本と異なって買うに迷って諦めるケースが多いのはどうしてだろう。映画ソフトを買っても頻繁に観返すわけでもないし、もしかしたら買った途端に観なくなってしまう可能性もあるものね。
 わたくしはただの映画好きでしかなく、重度のシネフィルではない。また映画に携わる仕事に就いているわけでもない。ならばソフトとして所有する必要もないかな。購入を迷っているものはあるけれど……言葉を失うぐらいショッキングなアニメでね、うん、劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』3作なのだけれど。これは本気で購入を迷っている。
 それを除けば、CS等で放送される好きな映画、好きそうな映画などをDVD-Rに焼いてたまに観返すぐらいが関の山であるわたくしは、おいそれと映画ソフトを買いこむ必然性などまったくないのだ、というお話。◆

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第1717日目 〈シラ書第3章2/2&第4章:〈貧者への施し〉、〈知恵の試練〉&〈正しく行動せよ〉with眠られぬ夜に「グスコーブドリの伝記」を聴く。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第3章2/2と第4章です。

 シラ3:30-4:10〈貧者への施し〉
 仮に、あなたがなんらかの罪を背負っていたとする。それを償いたければ、貧者、弱者への施しに励め。
 あなたは、貧しい人の生活を脅かしてはならない。物乞いをじらすな。飢えた人、途方に暮れた人には手を差し伸べて、その境遇から助けあげよ。
 孤児には父のように接し、その母には夫がするように手助けせよ。
 「好意に報いることは、自分の将来のためになる。/困難に陥ったときに、支えが与えられる。」(シラ3:31)
 「お前を呪う口実を彼に与えるな。/その人が恨みを込めてお前を激しく呪えば、/造り主は、彼の願いを聞き入れられるから。」(シラ4:5-6)
 「貧しい人の訴えに耳を傾け、穏やかに、そして柔和に、答えるがよい。」(シラ4:8)

 シラ4:11-19〈知恵の試練〉
 知恵を愛することは命を愛すること。知恵に聞き従う者は、諸国民を正しく裁く。知恵に心を向ける人は、生涯をやすらかに暮らす。
 朝まだ早い時間に起床して知恵を求める人は、心が喜びに満たされ、充実した生活になるのを実感する。
 「知恵は、最初、お前を険しい道に連れて行き、/恐れの気持を抱かせて、おじけさせる。/知恵の試練は、お前を激しく苦しめる。/知恵は、お前を信頼するまで、/数々の要求を突きつけて、お前を試みる。/だがすぐに、知恵は再びお前のもとに来て、/お前を喜ばせ、その真意を明らかに示す。/しかし、お前が道をそれるなら、/知恵はお前を見捨て、/お前が破滅していくにまかせる。」(シラ4:17-19)

 シラ4:20-31〈正しく行動せよ〉
 あなたは、<時>を正しく見極めて行動し、発言するようにせよ。それは結果的に、あらゆる悪から自分を守る手立てとなる。
 いたずらに自分を恥じるなかれ。恥というてもいろいろだ。罪をもたらす恥じらいもあれば、名誉と尊敬に値する恥じらいもある。だから、いたずらに自分を恥じて身の破滅を招くことなかれ。
 あなたは、必要なときに発言するのをためらってはならない。真理に逆らい、背くようなことを発言してはならない;自分の無知を恥じよ。愚か者や馬鹿の言いなりになったり、操られたり、使いっ走りになったりするな。
 権威ある者に頭を低くしてへりくだることがあるとしても、権力者にへつらったり追従したりするな。また、真理のためには命を賭して戦え。そのときは主なる神が共に戦ってくれる。
 私イエススはこれらの言葉を読者へ与う、即ち、──
 「自分の気持ちを裏切ってまで、他人にこびるな。」(シラ4:22)
 「罪を告白することを恥じるな。/川の流れを無理にせき止めてはならない。」(シラ4:26)
 「軽はずみな口を利くな。」(シラ4:29)
 「仕事を怠けたり、投げやりにしたりするな」(シラ4:29)
 「家の中で獅子のようにふるまうな。」(シラ4:30)
──など。

 早朝に起きて知恵を求める人は喜びに満たされる──それは古今を通じて、いわれ続けてきたことだ。修道院の生活を書いた本などを読むと、一般の生活者なら特に理由ない限り、まだ床のなかに在るだろう時刻には既に起きて祈りをささげ、あたりを清め、聖書や神学書を静かに読む人々の姿が描かれている。
 勿論、そうした生活の根拠、発端となったのが本章の当該部分である、と指摘して主張するつもりはない。しかし、いまも昔も何事によらず、早朝の活動を良しとし、徳とする点に変わるところはないのだ。ただ、早朝活動が健康にも知力にも良いのだ、とわかってはいても、なかなかそれを実行できぬままずるずると、いままでと同じ生活を繰り返してしまうのが多勢なのだけれど……。
 働いていると、正しく行動し、発言するタイミングに迷うときがある。状況ゆえにそうせざるを得なかったのだ、と弁解したり、偽ったり、自分行いを正当化してみせたりね。本章20-31〈正しく行動せよ〉に書かれたことは、たしかに文句の付けようぐらいに正しい。異論はない。が、反論はある。それは理想でしかない、と。
 われらは社会を統べる者に非ず。「シラ書」が述べることを胸のなかで忘れぬよう大切にしながらも、日々の生活に於いて多少はフシを曲げ、理想が現実に歩調を合わせるようにしてもらわねばならぬ。そういえば、夏目漱石もいうておりますな。ホラあの有名な書き出しだ。曰く、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。」(『草枕』)
 まったく関係ない話で恐縮だが、孤児とその母に対する施しについての文言に触れて、わたくしは英国の大学教授で小説家、M.R.ジェイムズを思い出した。夫に先立たれた未亡人とその息子への手助けと交流──。



 いつの曜日であったか忘れてしまったが、いっこう寝附けず困ってしまっていた。時刻はどんどん朝をめがけて経ってゆく。時計の針の進む音が暗い部屋に響く。時折外の道路を行く車の音がする。おまけに蝉が夜半に合唱し。
 このまま眠られず出勤の時を迎えたらどうしよう。そんな不安が胸をよぎる。なに、前例に倣えば少しは眠ることができるさ。そんな楽観が不安を打ち消す。いずれにせよ問題は一つ。その時の訪れまで、なにをして気を紛らわせようか──。
 そうしてわたくしは枕許のiPodを取り、イヤフォンを耳に入れ、宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」を聴く。いったい何度目だ。
 しかしながら顧みれば、折々意識が途切れてはまた戻ることが何度かあった。ブドリの両親が森の奥へ消え、妹ネリがさらわれた場面の次は、火山の噴火によっててぐす工場が放棄される場面。赤髭の主人がオリザ畑へ石油を流して隣の畑の主と一緒に笑う場面の次は、ブドリとペンネン老技師がサンムトリ火山の頂近くの小屋で話す場面。序に申し添えれば、第7章と第8章の記憶は、これまでと同じく完全に欠けている。
 それは、わたくしにとって希望だった。記憶がない、ということは、その間は眠っていた、ということだ。そのクセ、完全に記憶を欠いた2つの章を聴き直したのだから呆れてしまう。
 わたくしは宮沢賢治を読んだことが殆どない。「銀河鉄道の夜」と「風の又三郎」だけだ。「グスコーブドリの伝記」に初めて触れたのは、2012年に上映された杉井ギサブロー監督のアニメ映画である。それに拠れば、ブドリは妹と再会することはない。懐かしの人々(?)の消息が語られることも、ない。まあ、それがますむらひろしのコミカライズに基づくゆえ、登場人物が猫になっているのはともかくとして。
 だいたいおわかりだろうか? 第7,8章を聴き直してのわたくしの驚きが。アニメの印象しかない「グスコーブドリの伝記」。結構、悲しみの伴うものだった。ところが原作では──ブドリは暴行事件がきっかけで妹ネリと再会し、訪ねていって赤髭の主人と再会も果たす。森の奥に消えた両親のことも語られる。良かった、と思うたものである。ブドリの人生は映画のように、悲痛なまでの自己犠牲に邁進してゆくばかりのものではなかった。これでようやっと原作を読める。
 ──そんな風に思うたが最後、わたくしはすっぽりと眠りに落ちた。幸福じゃ。眠られぬ夜よ、さようなら。◆

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第1716日目 〈シラ書第3章1/2:〈両親に対する義務〉、〈謙遜〉&〈心のかたくなな者〉withぼそり、と一言。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第3章1/2です。

 シラ3:1-16〈両親に対する義務〉
 子は父の戒めを守ってよく生きよ。そうすれば、やすらかに時を過ごすことができる。「言葉と行いをもって、父を尊敬せよ。/そうすれば、父から祝福を受ける。」(シラ3:8)
 このことを知れ。主は子に対する権威を父に与え、子は母に従う義務を課した。「父を敬う者は、長寿に恵まれ、/主に従う者は、母を安心させる。」(シラ3:6)主は、両親への心遣いを覚えていてくれる。子が苦しみ、悩んだとき、主はそれを思い出して不安を取り除いてくれる。
 「父の名誉を傷つけてまで、/自分の栄誉を求めるな。/父の不名誉は、お前の栄誉とはならない。/父親を敬うこと、これこそ人間の栄誉なのだ。/母親を侮ること、それは子供にとって恥である。/子よ、年老いた父親の面倒を見よ。/生きている間、彼を悲しませてはならない。/たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、/思いやりの気持を持て。/自分が活力にあふれているからといって、/彼を軽蔑してはならない。」(シラ3:10-13)

 「父を見捨てる者は、神を冒瀆する者、同じく/母を怒らせる者は、主に呪われている者。」(シラ3:16)

 シラ3:17-25〈謙遜〉
 子よ、なにをするにも柔和であれ。そうすれば、憐れみをかける人、施しをする人よりも愛される。
 子よ、勤勉に努めて偉くなったら、心掛けなくてはならないことがある。それは偉くなればなる程、自らへりくだるようにすることだ。それを忘れず実践していれば、主はあなたを喜んで受け入れてくれるだろう。
 主なる神の奥義は柔和な人に現れ、示されることを、汝、知れ。
 子よ、人智の及ばぬ領域にゆめ踏みこむことなかれ。あなたへ示されたこと、定められたことを熟慮せよ。あなたに示されていないこと、定められていないことを知る必要はない。驕り、高ぶった者が身の程もわきまえずに禁じられた領域を侵犯したことで道を誤り、判断をゆがめてしまったことも、ある。
 知識がなかったら、知ったかぶりをするな。

 シラ3:26-30〈心のかたくなな者〉
 何事にも柔和ならざる心かたくなな輩は、晩年になるに従ってとても苦しみ、重荷を背負って悩むことになる。
 危険を好む者はそれゆえに身を滅ぼし、罪人なる者は更正することなく罪に罪を重ねてゆく。高慢な者が己の所業によってわが身へ招いた災難は最悪で、如何ともしようがない。かれの心には悪の根が深く巣喰っている。
 一方で、何事にも柔和である人のうち、たとえば「賢者の心は、格言を思い巡らし、/知者の耳は、格言を熱心に聴く」(シラ3:29)のである。

 もはやダイジェスト、エッセンシャル・オブであることを諦めて殆ど引き写しである。能う限り自分の言葉、自分の表現に置き換えたつもりだが、却って己の無の無才を知るばかりとなった、只此の一筋てふにつなげられゝば良いのだが。まあそれはともかく、このノートを認めている間はとても心が落ち着き、やすらかな気持ちになれた。筆も、走ることも滞ることもなく。なにやら写経しているみたいな思い……。
本章は、いまの自分の心に響いてきた。というよりも、自分が、いま・ここにある幸せに感謝した。両親なくして子はあり得ぬ。父への尊敬、母への愛情。親は子のために生きるが、子も親のために生きるのだ。両親、或いは片親が生きている限り、自分のゆえに嘆かせ、悔やませ、涙させることがあってはならないのだ。
 ──自分はいったい両親のために、母親のために、なにをしてきただろう。そうして、なにができるだろう。みまかって後も親を悲しませないようにするには、自分を正し、自分を律し、自分を高めてゆくよりない。
 それを今度はわが身の振り方に思いを巡らせてみると、いったいどんな一面が見えてくるだろうか、というのが、次の<謙遜>に書いてある。
 ここでは主という存在が上にあるけれど、そのまま会社での振る舞いに置き換えて考えてみることができるだろう。但し注意しなくてはならないのは、「へりくだる」ことは「へつらう」ことではない、ということだ。欠勤や遅刻などせず真面目に勤めあげ、実直に仕事をしていれば昇進することもあるだろう(双方が合意するならば)。それが実は落とし穴で、人によっては転落のきっかけとなる。偉くなったら、上の者には勿論、同じ職場で働く人たちに対して、自分の方からへりくだり、けっして地位ゆえに増長したり、傲慢になったり、勘違いしたりしないようにせねばならぬ。
 ──わたくしはそんな風に専ら読めてならなかった。もしかすると、現在の自分について、上役の巡らす思惑を(その一端ながら)察しているせいかもしれぬ。
 旧約聖書続編、第二正典とされる書物のうち、「シラ書」は往古より読まれてきたものである、という。即ちそれは、世代を重ねて読まれ続けて思想形成に貢献してきた、と言い換えてよい。ならば本章などは、今日のヨーロッパ、否、欧米諸国に於ける福祉政策のほぼ出発点にあるもの、というて構わないかも。



 今日は、ちょっと書き疲れました。いまTSUTAYAにいるのですが、これの筆を擱いたら映画のDVDを借りて、帰ろう。◆

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第1715日目 〈シラ書第2章:〈神への信頼〉、〈主を畏れる人たちよ〉他with8月20日のラヴクラフト聖誕祭に行けなかった者の無念と野望〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第2章です。

 シラ2:1-6〈神への信頼〉
 人々よ、主に仕え、僕となるのを望むなら、試練と向き合う準備をせよ。心を強くして試練に耐え忍び、艱難辛苦に遭っても取り乱すな。すべての試練に立ち向かって克服したらば、その者は豊かな晩年を迎えて過ごすことができるだろう。
 いついかなるときでも主に依り頼め。病気のときも貧乏なときも主に依り頼め。主の前の道をまっすぐ進み、主に望みを置け。
 「身にふりかかる艱難は、すべて甘受せよ。/たとえ屈辱を受けても、我慢せよ。」(シラ書2:4)

 シラ2:7-11〈主を畏れる人たちよ〉
 主を畏れる人々へ、私イエススは伝えたい。
 主の憐れみを待ち望め。けっして道を踏み外すな。悪習に染まるな。主を信頼せよ、必ずあなたは報われるから。
 顧みよ、これまでの歴史に於いて主を信頼した者、畏敬の心を持ち続けた者、依り頼んで呼び求めた者が、果たして主に欺かれ、裏切られ、見捨てられ、無視されたことがあっただろうか。──否! 主はわれらの罪を赦し、困難に見舞われたとき助けてくれる方。
 「主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、/すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。」(シラ2:9)

 シラ2:12-14〈禍い〉
 働き者で心すなおな者、二股をかけたりしない者は幸いである。そうでない者は禍いだ。
 信念なき者に主の守りはない。忍耐なき者よ、主の裁きが行われるとき、お前はどうするのか?

 シラ2:15-18〈主を畏れる人〉
 主を畏れるということは、主の掟に背かず生きることだ。主の喜びを心掛け、常に備えをしていることだ。
 主を愛するということは、正しく主の道を歩いて行くことだ。律法を喜んで守り、主の前に自らへり下ることだ。
 かれらはいう、──
 「わたしたちは、自分を、人の手にではなく、/主の御手にゆだねます。/主の憐れみは、/その尊厳と同じく、偉大なのですから。」(シラ2:18)

 自分が読んで捉えたところをノートしてみたら、本文よりも分量が多めのものとなった。まあ、これも一つの宿命だろう。
 著者イエスス(乃至は孫)のメッセージは明確である。主を畏れ、愛する人には健やかで祝福される人生が用意されている。欺いたり、信念や忍耐を欠く者には禍いに満ちた人生が待ち構えている。それはおそらく裁きが降る時にあきらかとなろう。著者/訳者が「シラ書」に託したメッセージは揺らぐことがない。
 ちょっとここで2つの文言について註釈を。いずれもフランシスコ会訳を読んでいて目に触れた傍注に触れて、なるほど、と得心したところである。
 シラ2:2「災難のときにも、取り乱すな。」人生のさまざまな場面、状況に置ける<災難>というばかりではない。シラ2:12「二またをかける罪人は、禍いだ。」誰彼に対して、神なる主に対して、二心ある者を戒めての言葉ではない。
 本書が書かれた/翻訳された時代を思い返そう。既にギリシアが小アジアを経てシリア・パレスティナへ、或いは地中海の対岸の国エジプトへ進出、覇権を築いて版図を広げ、各地でギリシア主義化、ヘレニズム化を推し進めていた。エルサレムやアレキサンドリアも例外ではない。残留ユダヤ人(こうした言葉があるのか知らぬが)や離散ユダヤ人は父祖以来のユダヤ教とヘレニズムの間で揺れた。マカ一1:11-14を参照されよ。そこには律法に背く者、異邦人(ギリシア人)の慣習を採用する者が現れ、かつエルサレムを汚すことまでされている。
 これはユダヤ教を信じる者には災難であり、ユダヤ教とヘレニズムの間で揺れるのは二股をかけるも同然だ。フランシスコ会訳では二股は、「文字どおりには『二つの道を行く』で、神に近づいても、完全には世を捨てきれない者を指す」(P1731)という。うむ、道理だ。



 昨日(一昨日ですか)は敬愛するH.P.ラヴクラフトが生まれた日でした。1890年8月20日──124年前の米国ロード・アイランド州プロヴィデンスにて。それに合わせてわが国でもここ数年、クトゥルー神話研究家の森瀬繚とゲーム・クリエイターの朱鷺田祐介が中心になり、HPL聖誕祭を開催。今年は東京の阿佐ヶ谷で行われた由。
 敬愛すると雖も、ちょうど両氏がクトゥルー神話の本を出した頃からわたくしは徐々にラヴクラフトから遠ざかっていったので、最近の神話事情にはすっかり疎くなってしまっている。実は聖誕祭のこともあまりよく知っていなかった。この催しがあると知って、正直、行きたくてたまらなかった。しかし会社を休むことなどできようはずもなく、泣く泣く諦め、いまは主催者や参加者のブログやTwitterなど拾い読みして、無念をなだめているところである。
 今年の夏はどこへも遊びに行かなかった。オタクの祭典にも行けなかった。時間は早く過ぎてゆく。森瀬が訳したHPLの未訳作品、或いはヘンリー・S・ホワイトヘッドの短編「ボゾン」など読んでみたかったのだが……。来年は祭典にも聖誕祭にも参加するぞ。
 HPLの未訳著作はまだまだある。わたくしがそれらの日本語訳に接する機会は殆どなくなってしまった。しかし、アーカム・ハウスの書簡選集全5巻の全訳者になるのは自分である、と根拠なき自負と野望を露わにし、青春時代に執筆を志してその後棚上げ、埃をかぶったままな『H.P.ラヴクラフトについての小さなエッセイ集』の完成、出版を夢見ていることだけは変わらないのである。
 熱情は薄れることなく未だわたくしの胸のなかで燻っている。誰か、わたくしにチャンスをくれぬものか。◆

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第1714日目 〈シラ書第1章:〈知恵の賛歌〉、〈誠実と柔和〉他with昨日の夜、がんばってしまったせいかな。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第1章です。

 シラ1:1-10〈知恵の賛歌〉
 知恵は主と共にあり、それは永遠である。知恵は他のなによりも前から存在した。悟る力もまた同様である。知恵の泉は神の言葉に等しく、知恵の歩みは永遠の掟。
 知恵あるものは主ただ一人。主が知恵を造り、価値あるものとし、自身が創造した生きとし生けるものすべての上に知恵を注いだ。すべての人々へ分に応じて知恵を分け与え、主を愛する者へ惜しみなく分け与えたのだった。
 「主を愛することこそ、輝かしい知恵。/主は、御自分を示すために、知恵を分け与え、/こうして彼らは主を見るようになる。」(シラ1:10)

 シラ1:11-21〈主を畏れること〉
 主を畏れることこそ知恵の初め。
 主を愛する者には、かれらが母の体内にいるとき既に知恵が与えられている。知恵は人々の間に揺らぐことなき基を築き、人々は何世代にもわたってそれに信頼を置く。
 主を畏れることは知恵の根源であり、罪を遠ざけ退けることだ。
 「主を畏れることは、心を楽しませ、/喜びと、幸福と、長寿をもたらす。/〔主を畏れることは、主からの賜り物、/それによって愛の道を歩むことができる。〕主を畏れる人は、幸せな晩年を送り、/臨終の日にも、主から幸福を受ける。」(シラ1:12-13)

 シラ1:22-24〈自制〉
 理由なき衝動、故なき憤りは弁解の余地なきもの。それは時として身の破滅をも招くだろう。
 主を畏れる人よ、自制せよ。
 「辛抱強い人は、時が来るまで堪え忍ぶ。」(シラ1:23)
 「彼は語るべき時が来るまで、口を慎む。」(シラ1:24)
 耐えがたきを耐えたあとは、気分が晴れてさわやかな気分を味わうことだろう。語るべき時に口を開く者は、世人からその思慮深さを讃えられ、世間に広めて伝わってゆくことだろう。

 シラ1:25-30〈誠実と柔和〉
 知恵を切望するなら主に二心持つなかれ。敬神の想いなき罪人は知恵と縁なき衆生。
 知恵を望むなら主の掟を守り、主を畏れよ。主は誠実と柔和を喜ぶ。二心あって主に近附くことなかれ。
 「人々の前で己を偽るな。/お前の口を慎むがよい。/高ぶった思いを抱くな。/さもないと、つまずいて恥をかく。/主はお前の正体を明らかにし、/会堂の中で面目を失わせる。/なぜなら、お前は畏れを持たずに主に近づき、/心は偽りに満ちていたのだから。」(シラ1:29-30)

 非キリスト者にとって<知恵>の概念、その求めるところは曖昧である。ちょっと油断すると、それまでの受け止め方が見当違いのように感じてしまうときがあるかもしれない。
 わたくしの捉えるところでは、知恵とは即ち指針であり、道標である。神なる主を知り、畏れ敬い、その前を正しく歩いて行くための。理性的道徳的な人となり、主の目にかなう正しいことを行うための。健全で心豊か、嘘偽りない人生を営んでゆくための。
 少なくともわたくしは、それを踏まえた上で「シラ書」を読む。「シラ書」を読んで感じたこと、考えたこと、思うたことを、自分の言葉で伝えてゆく。わたくしは斯く切望する。
 「シラ書」は教訓書というより格言集という方が良い。「箴言」や「コヘレトの言葉」で示された知恵がさらに熟成された教えの言葉を、本書では味わうことができる。わたくしが聖書通読以前より殊の外「シラ書」に親しめたのは、その熟成ぶりに現代に近いものを覚えたせいかもしれない。



 きのうわたくしは、柄にもなく発憤して本書序言と第1章のノートを書いた(第1章は〈誠実と柔和〉以外)。それできょうは感想を含めた残りをすばやく済ませ、第2章のノートを書いてしまおう、と張り切っていた。
 ……が、それは夢に終わった。ノートはさして迷うことなく悩むことなく書けたのだけれど、さっき皆様が読んできた(と期待する)上の感想は、何度か書き直してようやく形になった。ここに至るまで少々の時間を費やし、労働を拒む灰色の脳細胞を叱咤して鞭打った。そうしてわたくしは……力尽きた。
 もうきょうは第2章へ手を着ける体力も頭脳もない。精根尽きた。張り切りが過ぎた反動か、いまはけっこう落ちこんでいる。せめて1日分ぐらいは先行して在庫を用意しておき、気持ちに余裕を持たせたかったのだが、どうやらこれまで通りのペースで進んでゆくことになりそうである。
 「呵々」というべきか、「嗚呼」というべきか。判断しかねながら筆を擱くわたくし。◆

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第1713日目 〈シラ書序言:〈序言〉with無理はしない。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書序言です。

 シラ序:1-36〈序言〉
 私は、プトレマイオス8世の御代第38年にエジプトへ来た(前132年)。この地で私は、イスラエルの主の御業と御旨、御言葉を記した多くの書物に触れて、感動した。
 そこで思い起こすのは私の祖父である。かれの名はイエスス、シラ・エレアザルの子だ。祖父はかつてエルサレムに住んでいて、律法や預言書、その他の書物をあまねく渉猟、広範に読書していた。然る後、自分でも知恵と教訓についての書物を著したい、と志し、筆を執って一巻を認めた。
 エジプトに来てイスラエルの主の御言葉、御旨と御業を記した書物に触れた私は、祖父の著作をヘブライ語からギリシア語へ、この地にいてもはやギリシア語しか解さぬ同胞ユダヤ人のためにも、翻訳しようと思い立った。そうしてそれを、チームを組んで実行した。しばしば徹夜し、あらゆる知恵を動員して、作業に励んだ。
 が、或る言語を他の言語へ翻訳しようとすると、どうしても弊害が付きまとう。「というのは、元来ヘブライ語で書かれているものを他の言語に翻訳すると、それは同じ意味合いを持たなくなってしまうからだ。」(シラ1:21-22)
 私たちは能う限り努力した。ヘブライ語の文章、内容を瑕疵なくギリシア語へ移し替えられたかどうか、心許ない限りである。そうした点についてはお許し願いたい。
 シラの子イエススの知恵と教訓の書物をここに読者へ供す。

 一読して唸り、二読して暗澹となる文言が並ぶ。あらゆる意味合いで翻訳を行う者にとって、これは耳に痛いものとなるのではないか。翻訳という行為に宿命的に付きまとう悩みを、よもや聖書を読んでいて突き付けられるとは!
 外国語で書かれた著作を翻訳するとき、原意から離れることなく他言語へ移し替えることは困難を伴う。翻訳にあたって圧縮したり省いたり、補ったりすることもある。図らずも原文を読み誤って本来の意味から外れてしまうケースもあろう。文章に塗りこまれた著者の本音や暗喩、或いは仕掛けられた文章の罠──ダブル・ミーニング、告発など──を見逃してしまうケースもあるのではないか。翻訳された文書を読んでそこに不適当と思われる訳語があっても、或る意味でそれは避けがたき事故である。誤訳と無縁の翻訳などあり得ない。むろん、そんなものがない方が良いのは当たり前の話ではあるのだが。
 或る言語を他へ移し替える際の困難と悩みを、「序言」は端的ながら能弁に語り訴える。「序言」は最古とまではいわぬまでも、それに近い時代に書かれた翻訳論の祖型である、とはいえそうである。
 孫(名前不詳)がエジプトへ来たのは前132年。「マカバイ記」で読んだプトレマイオス朝がエジプトを支配しており、前132年当時その王位に在ったのはプトレマイオス・フェスコン、即ちプトレマイオス8世であった。記憶の片隅にこの名前のある方がいるやもしれぬ。われらはかれの名を、「マカバイ記」の読書中に知ったはずである。
 プトレマイオス8世はセレコウス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスによって捕虜となったが、共和政ローマの介入により復帰。前145年の対シリア戦で兄プトレマイオス6世が亡き人となるや、その妻クレオパトラ2世を迎えて后とし、兄の子で自分の甥プトレマイオス7世を殺害、プトレマイオス8世として即位した。イエススの孫がエジプトへ来た第38年、即ち前132年はプトレマイオス8世が、兄とクレオパトラ2世の娘クレオパトラ3世を妻とした年である。
 プトレマイオス8世の御代は断続的で、前171-163、145-131、127-116年であった。かれは自分の意に添わぬアレキサンドリアの知識人を憎んで追放、もしくは粛正の目に遭わせた。相次ぐ重税や戦争、クレオパトラ母娘を妻としたことなどにより臣民の信頼、支持は薄く、暴動が起こったこともあるという。ちなみに「フェスコン」とは「太鼓腹」の意味。



 無理はしない。エッセイを書けないときは書けない日なのだ、と了解して、聖書読書ノートを進めてゆく方が精神衛生的にも良いのだろう。
 アクセス数は、ぐっ、と減ってしまうかもしれぬが、それのために形相を変えてすっかりネタを使い果たしたノートを繰ってむりやり一編のエッセイに仕立てる方が、却って悪影響を後々に及ぼすだろう。
 そんなわけで、これからエッセイのない日があるかもしれぬが、それはそれとして大目に見ていただきたい、と切に願うのである。◆

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第1712日目 〈「シラ書〔集会の書〕」前夜〉 [シラ書〔集会の書〕]

 お待たせしました。数日遅れで旧約聖書続編の読書ノートを再開、今回は「シラ書[集会の書]」を読みます。
 のっけから私事で恐縮ですが、或る出来事がきっかけで聖書を購入したものの本腰を入れて読み出すまでの1,2年の間、この新共同訳聖書は書架の飾りと化していました。それでも折に触れて、なにかの拍子に手にして開き、漫然と目を通し、気に入った箇所などあればページの隅を折ったり、そこに鉛筆で印を付けたりしました。その頃巻を開いて黙読し、なんらかの痕跡を残すこと最多だったのは、今回読む「シラ書」なのでありました。
 どうして旧新約聖書でなかったか。顧みて倩思うに当時の自分にとっては聖書のなかで「シラ書」がいちばん敷居が低く、馴染みやすい書物だったからではなかったか。物語や映画で描かれること多い律法中の諸エピソードや新約聖書で描かれるイエスの行状は殆ど端から無視でした。「シラ書」と同じような性質を持つ「箴言」や「コヘレトの言葉」にはどういうわけか積ん読の手が伸びなかった。重たい不可侵のヴェールが「箴言」、「コヘレトの言葉」を始め、たいていの書物とわたくしを隔てている。そんな風に思うた。こうしたなかで「シラ書」に馴染んだのは、その後の聖書読書を始めるにあたって幸い事であったかもしれません。
 「シラ書」は「ベン・シラの知恵」などとも呼ばれます。ベン・シラとはシラの子、という意味。本書は旧約聖書、旧約聖書続編(第二正典)のうちで唯一、著者を特定することができるものであります。預言書はたしかにかれらの言行録というべきものですが、その書物へ名前を冠せられた預言者が実際に著者であったかどうか、根拠となるものが脆弱であることが多いため、預言者各人を個々の書物の著者と断じるのは軽挙妄動に等しいと思うのであります。
 本書の著者は、かつてエルサレムに住んでいたシラ・エレアザルの子イエススである(シラ50:27)。後に「シラ書」と呼ばれることになるイエススの原著はヘブライ語で書かれていた。時代は下って於エジプト、エウエルゲテス王(プトレマイオス8世)の御代第38年(前132年)にかの国へ移り住んだその孫がエジプト、就中アレキサンドリアに住む離散ユダヤ人のため祖父の著書をギリシア語に翻訳したのであった。孫が翻訳に際して使用したテキストは、祖父自筆の完本ではなかった、とされます。19世紀から20世紀にかけて発見されたヘブライ語による「シラ書」写本と、ギリシア語写本の間には相違が見られるといいますが、具体例を挙げてのことになるとわたくしの手に余るため、向学心ある読者諸兄がおられたらばぜひ両者を付き合わせて異同を調べたり、写本の系統を明らかにすることで埋もれた事実に光を当てていただきたく願います。
 イエススが本書の筆を執り、擱いたのは前2世紀のこと。本書中で大祭司シモンの描写が殊に生彩を放っている点から前190年頃、幅を取ってもその前後10年のうちには成立していたのではないか、と考えられる(ジークフリート・ヘルマン『聖書ガイドブック』P188、フランシスコ会訳聖書P1724など)。ここで成立時期の根拠として挙げる大祭司シモンはオニアス2世の子シモン2世と仮定。シモン2世が大祭司職に在ったのは前225-195年にかけての頃だった。そこを出発点としての「シラ書」成立時期の推定であります。
 本書の内容は、明日から読んでゆく過程で自ずとわかりましょうからここでは省きます。が、一言でいってしまえば日常生活と人生の諸事諸場面に於ける指針であり、もう少しいえば、「格言による知恵、律法と道徳にもとづく原則、創造の認識、聖書の歴史がその中で結び合わされ」(S.ヘルマンP192)たものであります。
 知恵は神に帰するもの。知恵とは具体的にいえば<律法>であり、生活に即した場合は<道徳>である。漫然とした態度ではあっても「シラ書」を読んでいると、そう感じるのであります。こうしたことについては明日からの約2ヶ月弱を通して、改めて考えてみたく思います。
 なお、曾野綾子の小説に本書をモティーフとしたものがあります。『アレキサンドリア』という作品です。文藝春秋社、文春文庫より。「シラ書」の著者シラ・エレアザルの子イエススの孫がヘブライ語からギリシア語に翻訳する場面を前景に、現代の家族が直面する諸事を後景にした作品で、前景と後景は「シラ書」にある内容を底に置いている、という点で共通しています。本ブログの読者諸兄のうち興味を持たれた方がいたら読んでみてください。
 旧約聖書の「箴言」、「コヘレトの書」と並んで「シラ書」は、「『知恵』の類型に従う最大の作品」とジークフリート・ヘルマンは述べる(『聖書ガイドブック』P191-2)。規模と内容と質の3点に於いて、「シラ書」は旧約聖書の知恵文学に肩を並べる存在というてよいでしょう。読書と執筆と清書/入力の3点に於いても、「シラ書」はこれまでの書物と較べて理解力と読解力、精神力と体力を要求するものとなるように思います。
 途中で息切れして放り出したりしないよう、1日1日の原稿を端然と書いてゆく。
 「口を開く前に、よく考えよ。/病気になる前に、養生せよ。/裁きが来る前に、自らを省みよ。/そうすれば、主が訪れるとき、お前は贖いを得る。/病気になる前に、自らへりくだれ。/罪を犯したときは、改心の態度を示せ。
 誓願は、必ず、期限内に果たせ。/それを果たすことを、死ぬときまで延ばすな。/誓願を立てる前に、よく準備せよ。/主を試す者になってはいけない。」(シラ18:19-23)
 それでは明日から1日1章の原則で「シラ書〔集会の書〕」を読んでゆきましょう。◆

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